32 壁の少女
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/07(土) 22:44
- 32 壁の少女
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/07(土) 22:45
- 彼女はずっとそこに居た。
頼りない記憶を辿ると、凡そ50年。じっとその場所に居て、微笑んでいた。
変わることのない笑み。衰えることのない美しさで。
彼女はある男の物だった。
男の部屋の壁に、50年と言う間一つの言葉すら話さず、じっといたのだ。
彼女の足元には「morning musume。Michishige Sayumi」と書かれていた。
モーニング娘。の道重さゆみ、それは彼女の分身であった。いや、彼女が道重さゆみの分身であるという方が正しい。
しかし道重さゆみはもうこの世にはいない。10数年前に若くして他界した。世間には殆ど知られてはいない。
道重さゆみという人物が死んだとき、彼女の存在は特別なものになった。
ただの、大きな紙の上に写しこまれた写真でしかない。
しかし彼女の持ち主である男にとって、その姿は眩いばかりに輝いていた。
若き日の、美しき日の道重さゆみの姿を今に留めている。しかもその大きさは当時の本人と同等だという。
彼女はいつからか自分の存在に対して強い自負を覚えていた。
自分の謂わば前身である当の道重さゆみは老い、そして亡くなった。
自分の美しさを誰よりも誇らしく、愛していた彼女が一体どんな気持ちだっただろう。しかし自分は老いることはない。
光り輝く16歳のまま、このままどこまでも在り続けるのだ。
彼女の持ち主である男は、ことに彼女を丁寧に扱った。彼女に直射日光が当たるのを阻み、傷がつかないように細心の注意を払った。
彼女にとって男の存在は、自分を少しでも長く、美しく保つ義務を負った者だった。
事実彼のおかげで、50年の月日が流れた今もさゆみは尚美しくそこに居た
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/07(土) 22:46
- 男は50年の間、彼女のその姿に一途に想いを寄せていた。
道重さゆみが他界したとき男はさめざめと泣き、自信が大いに老いたことを知った。
そしてその姿を廻りの人間からは嘲笑され、夫人には呆れられた。
男は何度も彼女を破棄しようと試みたが出来なかった。彼女はただ一心に、自らの美しさを誇るように微笑んでいた。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/07(土) 22:46
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2055年が暮れようとしている時、男はついに病に倒れた。
齢はもう70を越えていた。冬に入り、突然気温が下がったのが男の体調を悪化させた。
家族は男を入院させるよう計らったが、男はそれを頑なに拒絶した。
男には何も無かった。妻子を得、仕事をして定年をした、その人生の中に、男が胸を張って子や孫に語り聞かせられる何事も無かった。
人生がかくも平凡なものであったのかと男は嘆いた。無気力に、平凡に過ごし、そして人生を終えることなど在り得ないと信じていたのに、現実とは思いがけず彼に対して甘く、さながらぬるま湯のようだった。
そしてそれが、今その人生の終幕に差し掛かった男の心を責め苛んだ。
男にとって唯一の、真っ直ぐに続けてきたことといえば、ただ一途に壁に掛かった「道重さゆみ」を愛し続けたことだけだった。
誰にも言えない。誰もが彼を馬鹿にしたし、彼自身も自分がとんだ大馬鹿者だと思った。
しかしそれでも、彼にとってはその事だけが唯一の自分だった。
彼女と離れることは、彼にとってそのまま人生の終幕を意味していた。そんな程度の人生、されとて彼の人生だ。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/07(土) 22:47
- 家族は彼を入院させようと躍起だった。彼は定年を迎えてから殆どを自室で彼女と向き合って過ごした。
家族が部屋に入ろうとすると旋毛を曲げた。その姿は一種の狂気の色を宿していた。
もはや家族にとって彼は必要な存在ではなかった。まして彼の趣味は世間には顔向けできない恥ずかしいものだ。
半ば強制的に彼を部屋から連れ出そうとする家族に、彼は諦めの気持ちで従った。
「わかった、行くよ。入院するとも…。だからあと少し待ってくれ。あと、1日だけ…」
男の懇願に家族は顔を見合わせ少し眉根を寄せる。しかし気が変わりでもしたら事だと、その場は引き下がった。
「わかりました、1日だけですよ、お爺ちゃん。もう入院の手続きは済ましてるんですからね…」
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/07(土) 22:48
- 家族が引き下がると男は彼女に縋った。
今まで殆ど触れもせず、ただ眺めていただけだった。もっとも触れたところで、ただざらざらな紙の質感があるだけだが。
今何年かぶりで触れた彼女は、変わらない美しさながら、やはり黄ばみ、所々に染みが出来ていた。紙自体も変質しており、ひどくぱさついている。
「さゆ…さゆ、とうとうお別れだよ…。さゆ…」
彼が涙を流しながら縋るのを、さゆみは別段気にも留めず、じっと前を見つめ微笑んでいた。
男が泣こうが、縋ろうがさゆみには関係は無かった。ただ自分が美しく在ればそれでよく、自分の世界にとってこの男の存在など、何万人も居る、自分を愛でる存在の一人にすぎない。
「わしはお前と離れたらもう、生きられん気がするよ…。ああ、何て人生だろう。どうしてこんな人間が、こうして70まで生き続けることが出来たろう。酷い時代だ…。本当に…。しかし、わしゃあ、それでもお前が好きだ、さゆぅ…」
夜が更けるまで男はそうしていた。
そしてまた幾度も彼女を破いて、棄ててしまおうと考えたがやはり出来なかった。
「分かってるよ、さゆ…。お前は自分が一番好きだもんなぁ。わしと心中させられたらたまらんだろう。お前は永久に美しいんだよ…」
(そうなの、私は永久に美しいの!)
その夜男は呻り声を上げて倒れ、救急車で病院に運ばれることとなった。
そして入院の2日目にあっさりと他界した。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/07(土) 22:48
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暫く経った朝、男の娘夫婦と、孫兄妹が男の部屋にやってきた。
「ここがお爺ちゃんの部屋ね?お爺ちゃんってやっぱり…」
「狂ってたのな」
兄妹の物言いに母親が窘める。
「あんた達、言っていいことと悪いことがあるわよ」
「ねえ母さん、このポスターって誰なの?」
「えっと、誰だったかしら…。あなた?」
「確かな、モーニング娘。の道重さゆみだよ」
「モーニング娘。ってあの!?懐かしの映像とかに出てくるオカシナ集団だよね?」
「うん、爺さんはな、それの大ファンだったんだよ」
「でも道重って子は知らないわね。まあ私たちが生まれた頃にはとっくに解散してたんだから仕方ないけれど…」
「まあ、大して人気があったわけでもなかったらしいな。今じゃそんな人知ってる人なんて誰もいないだろうよ」
「お爺ちゃんって変わってたのね」
さゆみの目の前に現れた家族はさゆみを見ながら好き放題言っている。
しかしさゆみにはそんなことは何の関係もない。彼女はただ変わらず、美しく微笑んでいた。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/07(土) 22:49
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「それにしても50年も前のポスターをこんな状態で今でも持ってるなんて凄いな」
「ね、そうだよね。これって売ったら価値あるかな?」
「やー、無いだろ。なんせ大したアイドルじゃなかったみたいだしなぁ」
「じゃあこれどうするの?」
「爺さんの部屋も片付けなきゃならんし、棄てるか。しかしこんなのゴミに出すのは恥ずかしいな。ご近所さんに見られたら事だ」
「破いて棄てればいいんじゃない?」
「そうだな、そうするか」
さゆみはただ黙って話を聞いていた。
家族は結論を出すとさゆみを剥しにかかった。紙が脆くなって四方が破れた。
「もういいや!」
息子がそういって手をかけると、さゆみの腹から肩にかけては真っ二つに裂かれた。
それから妹も参加して、さゆみはどんどん細切れにされていった。
「これ、庭で燃やそうよ」
「そうだな。焼き芋でも作るか」
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/07(土) 22:49
- さゆみは細切れになって持ち出された。何十年かぶりで男の部屋の外に出た。そして家の外に出た。
外は身を切るような寒さ。しかしさゆみの身は既に細切れにされている。
さゆみは微笑みをなくしていた。もはや誰にも笑いかけなかった。さゆみは細切れにされてしまった。もう、16歳の美しいさゆみはそこにはいない。さゆみは絶望のために、笑顔を失った。永遠の美しさは呆気なく失われた。
外に出ると粉雪が舞っていた。
子供たちがはしゃぐ。雪は遠慮がちにはらはらと舞い降りていた。辺りを時々冷たい風が駆け抜けた。
庭の焼却炉にさゆみがくべられた。
「火事にならんように注意しろよ」
「はーい」
さゆみの欠片の上に枯葉が積み上げられる。湿り気を帯びたそれらはさゆみの欠片に染みをつける。
さゆみは息苦しさに喘ぎ、音の無い悲鳴を上げた。
さゆみに火が放たれた。
黒く焼け焦げていく。炎は瞬く間に強くなり、あっという間に、さゆみの肌も、髪も、服も、目も、口も黒い灰に変わっていった。
雪がちらちらと舞い落ちる。舞い上がったさゆみの黒い灰の上に雪が一粒、また一粒落ちる。
さゆみは泣いていた。灰になり、雪と中空を彷徨いながら、さゆみは大泣きに泣いた。
自分の、永遠と思いこんでいた美しさは、あっというまに失われた。そして誰も彼女の美しさを覚えている人はいなかった。
もはや日本中で、彼女の名が呼ばれることはなかった。
子供たちは舞い上がる炎と、ゆらゆらと揺れ惑う雪の結晶に歓声を上げている。
白くなった灰と雪の、心許なく舞い踊る姿は、刹那的で、美しいかった。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/07(土) 22:50
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- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/07(土) 22:50
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- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/07(土) 22:50
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