31 パルコの英雄
- 1 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:01
- 31 パルコの英雄
- 2 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:02
- 「ここに大きな字で書いてね」
白い指がアルバムの裏表紙、真っ赤な紅葉の隣をさした。
あたしの手形。まだ小さな。
それでも大きく見せたくて、5本の指をめいっぱいに広げて押したやつだ。
5歳、違う、6歳か。これはたぶん、卒園を控えた冬の終わり。
石油ストーブの匂いがして、あたたかくなった木の床に、あたしはぺたんと腰を下ろしていた。
「ひとみちゃん、どう?」
このとき確か迷わなかった、ような気がするのに。
「書けたかな?」
どうしてだろう、思い出せない。
花屋。幼稚園の先生。ケーキ屋か、おもちゃ屋か、動物のお医者さん。
どれかだったような気もするけれど、どれでもなかった気が、すごくする。
「書けたら先生に見せてね」
もう書けるよ、すぐ見せられるよ、少し待って。
言いたかったけど声は出ないし、マジックを走らせることもできなかった。
ひよこ色したエプロンはすぐに別の誰かのところへ遠ざかる。
かん高い声で誰か笑う。幼いはしゃぎ声。
ようガキどもめ。ちょっと静かにしてくれよ。もう少しで思い出せるのに。
将来の夢は、なんですか。
答えはきっと、とても簡単な何かだったはずなんだ。
- 3 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:04
-
体育会系だからか、目覚めはいいほうだ。
「あれ。あたし、これ二度寝?」
目を開けたら1秒で人と会話ができる。
「うん、寝てたよ」
「いっくら寝ても眠いの、最近」
ぐしぐし目元をこすったら、メイク作業も佳境に入ったらしいごっちんの横顔が鮮明になった。横から見ると面白いほど睫毛が長い。マッチが何本乗るんだろう、試してみたくなる。試してみたくなるけど、それはやめておいて、自分の短い髪に手櫛を通してみた。
「寝癖やばい?」
鳥の巣とまでいかなくても、サリーちゃんのパパみたいなことになってそうだ。
「んーん、そうでもない。時計売り場ってさ、A館だっけ」
寝癖を見てくれもしないで、ごっちんは横顔のまま言う。
「あたしの、壊れたっぽいんだよねぇ」
「だからいっぱいしとけって言ったじゃん」
あたしは見せびらかすように自分の左腕をかざした。
国産メーカーの堅牢な安物が5本ほど巻きついて、やや壮観。
「やだよ、かっこわるい。新しいの探すから、よしこ、つきあって」
人をけなした直後に頼みごとをして悪びれないのが後藤真希という人である。
ちなみにあたしのあだ名を「よしこ」にしたのも彼女だ。「吉澤ひとみ」が「よしこ」になる、このセンス。そんなところも魅力的かなと思って高校1年生から始めた友情は現在、5年物へと熟成が進みつつある。
「いいけど腹減ったよ」
「あとで地下にも寄るからさ、なんか作ったげるから、ね」
「んー……じゃ、行く」
バカにされても頼まれてやるこのスタンスも5年物。いまさら不満はない。
- 4 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:04
- 「んがっ」
目の前を行くごっちんが、北欧からお越しのサイドテーブルに膝をぶつける。
転びそうになる腕を引っ張り上げながら、なんだかちょっと軽くなったなと思った。
「もうさー、サイドテーブルとかいらないよね、5個も6個もさー」
そのサイドテーブルそれぞれに化粧品だの漫画だのペットボトルだの、いちおうの法則に沿って乗せ散らかしているのはごっちんその人なのだが、あたしは、まったくだねと頷いた。
実際、ベッドなんか4つも5つもあって邪魔くさかったし、鏡もわらわら並んでいてうっとうしかった。
家具売り場である以上、しかたないけど。
時計売り場はB館だ。
我々が暮らす渋谷ロフトからシブヤ西武B館へは、連絡通路を使えば建物を出ることなく移動できる。本来ならば。今、通路は崩れ落ちているので、外からまわらなくちゃならない。
「何月なんだっけ、今」
ごっちんは出入口の前で白いコートのボタンをひとつ掛け、空を見上げた。
もう3ヶ月、変わらない曇天だ。雪が降っているようにも見える。見えるだけで、実際にはこの冬、東京に本物の雪は一度も降っていないけれど。
「どうだっけね」
3月だ。知っているけれど答えなかった。
暦が春になっても世界はあいかわらずだ。気温も上がらないし、朝も昼も薄暗い。
「『ムシゴヤシが午後の胞子を飛ばしている』」
だから、あたしもあいかわらずのギャグを、笑えないけどやっておく。
「飛ばしているねぇ、盛大に」
「『くっ、少し肺に入った……』」
「まぁ吸い込んでるしね、ふつーに」
古いアニメの物真似を、あたしはいまだによくやる。
ビルより高いキノコが白い胞子を大量に吐くとき、これ以上ぴったりなネタもないからだ。
- 5 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:05
-
巨大産業文明が崩壊してから1000年
錆とセラミック片におおわれた荒れた大地に
くさった海…腐海(ふかい)と呼ばれる
有毒の瘴気を発する菌類の森がひろがり
衰退した人間の生存をおびやかしていた―――――
- 6 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:06
- なんてことはないけども、どうやらニッポンがぶっつぶれて、じき3ヶ月になる。
新聞ならテレビ欄とスポーツ欄、テレビならお笑い番組とスポーツ中継しか見てこなかったあたしやごっちんは爆発にいたる経緯を知らない。
テロか戦争か実験の失敗か火星人の侵略か。
ともかく1月の半ばに永田町だか赤坂見附のあたりで大きな爆発があった。
爆発の衝撃そのものでたくさん人が死に、それに対応する間もなく、爆心地からじわじわと人が倒れていった。
ウイルスかガスか超小型の火星人か。
ともかく音もなく動物の心臓を止めてしまう何かが、文字通り爆発的に広がった。
あたしはそれを当初、渋谷の特大ビジョンに流れるニュース速報で読んだけれど、じきにそれは文字情報でなく、目の前の映像情報になった。
永田町で爆発だって怖いねえ電車止まるんじゃない帰ろうかまあいいか、なんて話してた矢先、一緒に買い物を楽しんでいた友達2人は小さくうなって死んでしまった。助けを求めようにも、みんな死んでいたり、ちょうど死ぬところだった。
みんな無口になり、自分の悲鳴だけが渋谷の街にこだました。
ウイルスやガスがたまたま効かなかったのか、火星人に好かれているのか、生き残った理由はいまだ、わからない。理由は、というか、理由も、だ。
本当なら爆発やその後の人死にについてテレビかラジオか誰かえらい人があたしに何かを教えてくれるはずだったが、テレビ局もラジオ放送局もえらい人も瞬く間に死んでしまったらしく、直接、自分の目に見えることしか今は知れない。
あたしがそして知っていることは、人間や交通網やメディアやこれまで動いてきたいろいろなものが止まったこと。
それが東京だけの話なのか、列島規模なのか、はたまた世界規模なのか、今のところは情報が入ってこない。どうもニッポンつぶれたらしいな、という感触だけが、かなり立体的だ。
- 7 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:07
-
「お昼、なに食べようかねぇ」
のんびりと、ごっちんが言う。
爆発から数時間後、HMVあたりで見つけたときは、さすがに半狂乱だったけれど、その後のごっちんはとても落ち着いている。もともと怖いものの少ない人だったけど、4ヶ月ほど前から、その傾向は加速してるみたいだ。
高校卒業後、ごっちんはフリーターになり、あたしは大学生になった。付き合いは高校時代に比べればやや薄くなったけど、洋服の趣味が合うものだから、約束したでもないのに渋谷のショップでばったり、なんてことがよくあった。爆発の日もそう。珍しくない。ただ、極端に少ない人類の生き残り同士として出会ったのは、もちろんその日が初めてだった。
生き残りは何も美少女限定というわけでもないらしく、これまでにサラリーマン、ショップ店員、バス運転手、チワワなどと遭遇した。はじめはみんなで一緒に暮らすのがいいかとも思ったが、サラリーマンがある晩、生き残りの使命として子孫がどうだこうだと言い出して、ごっちんにのしかかったので、彼らとは別に暮らすことにした。情報も物資も、調達力が貧弱なのはみんな同じで、集まったところで何もできやしないということにも、気づき始めた頃だった。
「んがっ」
前を行くごっちんが再び転びかける。キノコに足をとられた彼女の肘を引っ張りながら、やっぱり軽くなったかな、と思った。
人があふれかえっていた渋谷は今、青白いキノコがあふれかえっている。シイタケに似たやつ、エリンギふうのやつ、マイタケみたいなのもある。小さいのは小指より小さく、大きいのは109より大きい。養分にことかかないので、よく育つらしい。
死体の山よりはキノコの森のほうが、あたしには気楽な眺めだが、道はだいぶ歩きにくくなった。爆発前、どう見ても無駄だった道路工事は今こそ必要だと思うが、それを手掛ける人は、もちろんいない。
- 8 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:08
-
「これどう。似合うかな」
止まったエスカレータをひいひい言いながら登って、たどりついたB館8Fで、ごっちんはウブロの腕時計を左腕にはめた。深紅のフェイスがぎらりと光って、ちょっと人を落ち着かない気分にさせる、美しい時計だ。
「うん、いいと思う」
ちなみにお値段、40万円と少々なり。いまや関係ないけど。
「もう2、3本つけときなよ」
生きものに限らず、血の通わない物も爆発からこっち、どうも壊れやすくなっていて、だからあたしは1本が壊れても時間がわかるように、5本ほど腕時計をしている。たとえば今、現在時刻は11:57だと3本が主張しており、1本は11:55だと言っている。きっと今は11時57分だ。もう1本、05:13を示しているやつは、はずしてカウンター裏のゴミ箱に入れることにする。
「かっこわるいから、いやです」
ごっちんは淡々と言いながら、比べるつもりなのか、同じ腕時計の色違いを手に取る。フェイスは寒い国の海みたいな青色だ。
「誰も見ないんだからいいじゃん」
なんの気なしにつぶやいてしまって、1秒で猛烈に後悔した。
2秒ほど沈黙があった。
「そんなことないよ」
ごっちんはただ、やんわりと否定して、青いほうをコートのポケットに入れた。
「予備?」
「ううん、あげようと思って」
彼女はこれから、恋人と待ち合わせがある。
- 9 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:08
-
あたしたちが毎日なにをしているかというと、あたしは埼玉への道を、ごっちんは江戸川区への道を探している。
あたしはもとは彩の国の住人なのだ。ごっちんは江戸の下町の住人。
今はただし、2人とも大都会繁華街どまんなか、ロフトの家具売り場の住人になっている。交通機関が完全に麻痺している上に、キノコがたいがいの道を塞いでいるため、あたしたちは渋谷から脱け出せないでいた。
もっとも、ごっちんは渋谷を24時間あけたくはないと言っている。
いわく、「13時45分に待ち合わせしてたんだ、パルコパート3の前で」。爆発の日、シネクイントで恋人と映画を見るはずだったという。
だから、ごっちんは毎日、13時45分ちょっと前にパルコパート3へ通っている。恋人は、まだ来ない。
恋人べったりだったごっちんとしては本当は一日じゅう、パルコにいたいに違いないけど、家族思いでもある彼女は、いつも2、3時間待ったら、パルコ前を後にする。このところ愛車にしてるべスパでキノコをよけよけ、キノコの介入しない江戸川区行きルートを探ったり、デパートなんかから暮らしに必要なものを集めたりしている。あたしがしていることと、だいたい一緒だ。
夜にはロフトへ戻って、カセット・コンロの鍋などつつきつつ情報交換をして(地図に×をつけるだけの作業だ)、熱くしたタオルで体を拭いたら二人で眠る。
- 10 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:09
-
「よっちゃん、ちょっと痩せた?」
ごっちんがデートにうつつを抜かす間も、あたしはマジメに道を探索している。が、ごくたまには息を抜くことだってある。今日は茹でソーセージとパンのランチの後、ごっちんと分かれてアヤのところへ遊びに来ていた。
「あたし? そうでもないと思うけど。アヤこそ痩せたんじゃん?」
ソファに寝転がったアヤは、ポータブルCDプレーヤーにつながるヘッドホンをはずしながら、ああそうかもね、とあっさり頷いた。
アヤはあたしやごっちんと同じくらいの年恰好で、あたしたちよりひとまわり小さい背恰好だ。ついでに胸もひとまわり、と言うと烈火のごとく怒られるので言わない。
「うちらの中になんか特殊な因子があったとして、それはウイルスかなんかが効かないやつではないと思うよ。たぶん効きが遅くなるとかじゃん。最近み、あたし、調子悪いもん。近いうち死ぬと思うんだよね」
言いにくいことをずばずば言うのがアヤの身上だが、今日はまた一段と、ずばずばずばだ。平時は敵をたくさん作ったろうなと思う。あたしなら面白いから味方になるけど。
「今日って外どう? 雪すごい?」
雪とは胞子のことだ。本物は最近降らない。
アヤが居室にしているこの東急ハンズの4Aフロアには窓がないので、あたしが来るとアヤはいつもお出かけ前のお天気チェックにあたしを使う。
「胞子はそうでもないけど今日、寒いよ。本物の雪が降りそう」
「うえ。雪はどうせ降らないだろうけど寒いのはうざいね。今日はうちにいよっと」
アヤは渋谷から離れる気がない。出かけるのはだから、単に生活用品を探すか気晴らしするかのためだ。
本人は話したがらないけど、どうも渋谷にはデートで来ていたみたいだ。
だけど、爆発から数日後、あたしたちと出会ったときにはアヤはもう一人だった。
- 11 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:10
- 「ごっちんは今日もパルコ?」
「うん、忠犬ハチ公」
渋谷に引っかけた軽いギャグのつもりだったけど、アヤは笑わなかった。
「健気だねぇ」
褒め言葉を悲しそうに口にする。
目つきと口は悪いアヤだけど、人はたぶん悪くないのだ。
でもさ、と低く言う。
「よっちゃんが止めてあげたほうがいいんじゃないの」
きっと死んでるんだから、という言葉は飲み込んでくれた。
「そういうのって本当は一番きついと思うから。なんてか、言いにくくても言うほうがさ、助けになるんじゃないかと思うよ」
そういうの、とは十中八九死んだであろう恋人を待ち続けることだろうか。
あたしには恋人がいないから想像のしようもないけれど、死んだものとして諦めるのと、もしかしたらと思いながらずっと待つのとでは、どちらが苦しいのだろう。
どちらも苦しそうだ。
「ごめん、あたしが言うことでもなかった」
返事をしそびれたせいで、アヤに気を遣わせてしまった。気が強いようで(事実、強いのだけれど)、やさしい人なのだ。
「アヤ」
呼ぶと一瞬、ぎくりとしたような顔をした。呼ばれ慣れてないんだろうと思う。
「なに」
「やっぱさぁ、うちらと住まない? ごっちんもアヤのこと大好きだしさ」
「それはいいって言ってるじゃん」
「やっぱダメか」
アヤは、このせっぱつまった世界で、あたしがごっちん以外に信じられる唯一の人間だ。話してみたいことがいろいろあるし、具合が悪くなるなら看病したい。何度か同居を提案しているのだけれど、そのたび断られている。「変な寝言とか言いそうで恥ずかしいし」というのがその理由だ。ちょっと変わってるなとはじめは思ったけれど、最近はなんとなく納得できる。
- 12 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:11
- 「アヤはさ」
アヤの寝言はきっと「アヤ」だろうと思う。
以前、ここに招かれたとき、例によって腕時計を捨てようとして、ゴミ箱の中に運転免許証を見つけた。アヤの顔写真が貼りついた運転免許証の名前は「藤本美貴」。たぶん、フジモトミキと読む。アヤとは読めない。
アヤとは彼女の何にあたる人なのか、たとえば姉妹なのか友達なのか恋人なのか漫画の登場人物なのか空想上の生物なのか、彼女はなぜアヤと名乗ったのか、聞いてみたい気はするけれど、いつも今日じゃなくていいかと思い直す。少し怖いのかもしれない。アヤが、もとい、美貴が泣くことが。
「将来の夢とか、なんだった?」
「なに、いきなり」
「やー、今朝ちょっと、そんな夢を見たもんだからさ。卒園アルバムに書けとか言われる夢」
美貴は答えてくれなかった。
「よっちゃんはなんになりたかったの? 男?」
「なんだ、男って。なりたくねえ」
「じゃあ、なに」
「いや、それ忘れちゃってさー」
「なにそれ、どこで笑うの」
ははは、と乾いた笑い声を立ててみる。
本当は思い出していた。美貴がさっき、「助け」云々と口にしてくれたおかげで思い出せたのだ。
でもこの話も、別に今日じゃなくていいかと思った。ずっと先はともかく、明日や明後日くらいは、あたしたちにもまだあるだろうから。
「あのねえ、歌手だよ」
唐突に美貴が言った。
「アヤは、歌手になりたかったんだよね」
いつもなら一人称は「あたし」だ。
美貴は今きっと、大切な人のことを教えてくれたんだと思った。
「いい夢だな、それ。あたしのもちょっと似てるかも」
「思い出したのかよ」
ひるがえってやっぱり今、話すことにしよう。
「あたし、ヒーロー希望だった。救世主ぽいやつ。スーパーサイヤ人とか」
美貴は大笑いした。
- 13 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:11
-
ハンズを出て、あたしは自分の天気予報が当たったことを知った。
見間違いじゃなければ、今ここに、雪が降っている。あとから、あとから。
手にひとつ乗せてみた。冷たい。すぐに消えてしまう。
本物だ。信じられないけど、本物の雪なんだ。
キノコたちは寒さに身をすくめ、胞子を飛ばす元気もないようだ。
混じりけなく、雪だけ、降っていた。
ぐっときた。爆発前なら考えられないことだけど、水のかたまりかけの白いやつがぼたぼた落ちてくるだけのことが、うれしかった。暗い昼、寒い春、約束やぶりのこの世界で、寒いときに雪が降ったことが、バカみたいにうれしくてしょうがなかった。
センター街よ、聞け。
「雪だぁああああーーーッ!」
こんなマヌケなセリフを力いっぱい叫ぶ日が来るとは昔は思わざりけり。
美貴にもきっと聞こえただろう。
迷って結局、ごっちんを迎えに行くことにした。
二人で雪を見たかったし、あの子を止めてやれと美貴に言われたことが、胸にあった。もっとも、そのお節介とも言える使命の感覚は、決してインスタントなものじゃなく、美貴に言われる前から美貴に言われるより強く、あたしの中に存在していたものだ。
美貴はごっちんの恋人が十中八九、死んでいると思っている。
けれど、あたしは知っている。
ごっちんの恋人は、十の十、100パーセント、死んでいる。
- 14 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:12
- ごっちんの恋人は、市井さんという2つ年上の女の人だ。だった、と言うべきか。
あたしがごっちんと知り合ったときには、二人は付き合い始めて3年の年月を重ねていて、「女の子同士なのに」とかいう揶揄やら非難やらを寄せつけないほど、ごく自然に寄り添っていた。
高校1年生の、あれは夏だったか。
ごっちんが教室で友達連中に囲まれて、訊かれた。
「市井先輩の、どんなとこが好き?」
ありふれた質問だと思うが、ごっちんはそれはそれは真剣に考えた。
うなり声ひとつ漏らさず、完全な沈黙状態でじっと中空を睨み、数十秒。
いやなにもそこまで、と誰かが言いかけたとき、突如、回答は示された。
「ウ………いや」
みんなが身を乗り出して、聞き返した。「なに?」
「く、くるぶし!」
以後、くるぶし事件として、仲間うちでは末永く語り継がれたとかいうことじゃ。
ごっちんは顔立ちのよさと生活態度の悪さで何かと噂の的だったけれど、市井さんは勉強も運動もそれなりにこなすマジメな人だった。それでいて、話してみると、意外とぬけたところがあったり、カラオケでは熱唱系だったり、やや漫画オタクだったり、ちょっと下ネタ好きだったり、なかなか八面六臂のお茶目さんっぷりを発揮してくれる。
市井さんのくるぶしの素晴らしさを解することはできなかったけれど、あたしはごっちんと親友で、市井さんともいつしか、親友の恋人にとどまらず、友人になっていた。
- 15 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:13
- だから、お葬式には友人として出席した。
爆発の1ヶ月ほど前、街がクリスマスを待っていた頃。
二人はその日、パルコパート3の前で待ち合わせをしていた。映画を見るためだ。
けれど、市井さんは渋谷に出る前に、地元で死んだ。
歩道につっこんできた居眠りトラックにはねられ頭を強く打ち即死。翌日には全国紙に記事が載った。掲載されたスナップ写真の笑顔が、どうしようもなく過去らしいものになっていた。
告別式のごっちんは、こぼれる涙を拭こうともせず、ただし唇をかたく引き結んで声を出さなかった。いっそ不謹慎なんじゃないかと思うほど綺麗な泣き顔を、あたしは忘れてない。たぶん、綺麗だったからだ。
爆発から数日経って、ごっちんが急に「パルコでいちーちゃんが待ってるから行かなくちゃ」と言い出したとき、あたしはなぜだかあまり動揺もせずに、「そうなんだ」と応えてしまっていた。爆発で世界はだいぶ変わったことだし、市井さんがやっぱり死んでなかったことに変わってもいいかと思ったのかもしれない。ごっちんがそう変えたいのなら。
だけど、この頃ときどき、ごっちんも本当は、市井さんが死んだことを忘れていないのじゃないか、と思うときがある。放置されたトラックを見る目が険しいときや、四輪車が通れる道でも車に乗りたがらないときなどだ。そんなとき、ごっちんの唇は少し尖っていて、それはごっちんが強がりを言ったり嘘をついたりするときの形によく似ている。
- 16 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:14
-
スペイン坂を登ってパルコ前に出たとき、雪は粉雪から大雪に変わり始めていた。
ごっちんは雪と同じ色のコートに両手をつっこんで、寒そうに首をすくめて、けれどいとおしそうに、雪を見ていた。いとおしそうに、寒そうに、とても寂しそうに。
「ゆっきゆっきふっれふっれ、よおっちゃんがー」
童謡の替え歌で華麗に登場を決めたら、ごっちんはふんわり笑った。
「じゃーのめーでおーむかーえ、うっれしいなー」
「じゃのめ、ないじゃん、素手じゃん」
文句を言うくせに、ごっちんはあたしの頭の雪を手で払ってくれた。自分はさらさらの髪に雪を飾ったままだ。
「素手ってなんかおかしくね? それ日本語ちがくね?」
「てか、あたしさー、昔、じゃのめってミシンのことだと思ってて、『じゃのめでお迎え』の意味がわかんなかった」
「あたしは文脈で読んだね。文脈で傘だと思った。確かめてないけどね」
「あー、文脈ねー。大事だねー」
ブンミャクブンミャク、とちっとも大事じゃなさそうに繰り返して、ごっちんは両手に息を吹きかける。
いいタイミングだ。
「っと、寒いから帰ろうぜーい」
寒いからだってさ、と内心、自分でがっかりする。意気地なし。
来られない人を待ってはいけないよと、言ってやればいいのに。
「うん、もうちょっとしたら」
困ったようにほら、ごっちんが笑って、それで、なにも言えなくなってしまう。
スカウターで測ったらあたしの戦闘力はきっと3くらいだ。ヒーローになれない。
「よしこ、先に帰ってていいよ。寒いでしょ」
やさしく、むごく、ごっちんが線を引こうとする。
あたしの中の悟空よ、いま立ち上がれ。悟空が無理ならケンシロウ、でダメなら月野うさぎ、でもダメなら誰か、誰でもいい。
- 17 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:15
- そのとき、あたしの心に浮かんだヒーロー像は、弱っちそうな青い子馬だった。
幼稚園の頃によく見てたやつだ。戦闘力はきっと悟空に遠く及ばないけど、勇気を放電するみたいにして友達にプレゼントできる子馬。
目の大きいところは、あたしに似ていないこともない。
「君が帰らないなら、あたしも帰らない」
マジメな声になっちゃったもんだから、ごっちんがこっちを見た。
揺れる瞳なんか見た日には決意が揺れるから、横顔のままでいることにする。
「二人で雪見もいいかもね」
青い子馬の決めゼリフは、どんなだったろう、そう確か。
「ごっちん。雪ってね」
"カケルくん、勇気をあげる"だ。
"ビビビビビ―――"なんちゃって。
「雪は死んだ人の魂だって、ばあちゃんが言ってた。この世界に未練のある人が、雪になって帰ってくるんだってさ」
- 18 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:15
- 雪の降る音だけ、聞こえていた。
赤いポストも黄色い看板も青いキノコも、まとめて白く塗りつぶす、その筆使いの音が、沈黙を守るあたしたちに聞こえていた。
「ごっちん、市井さんは」
「よしこ」
言いかけるあたしを、ごっちんがいつもよりちょっと大きな声でさえぎった。
そして、すぐに小さな声になる。
「そんなら、いちーちゃんは、どの雪かな」
今度は、あたしがごっちんの横顔を見つめる番だった。
「大きいやつかなぁ。やっぱり小さいのがそうかな。もう降っちゃったかな。溶けちゃったかな。あたし」
ごっちんは空を見た。
「いちーちゃんに会えたかな」
震える声を、両腕に包んで抱きしめたいのにな、と思った。
それはできないので、声をかぶせる。
「決まってんじゃん」
目の前の雪を、えいっとつかみとる。もちろん、すぐ溶けた。
「市井さんだもん、ごっちんに触らないわけないって。つか絶対あんなとことかこんなフガッ」
ごっちんの手のひらが迅速にあたしの口を塞いだ。ムチウチになろうかという勢いだ。
ごっちんはあたしを睨んで、それから笑った。
「よしこ、すぐ下ネタ言う」
心外だったけれど、この際いいことにした。
ごっちんが笑っていたからだ。
だけど誇らしかったのは数秒だった。
いつまでも笑いやまないと思ったら、ごっちんはいつからか泣いていた。あっという間に嗚咽は大きくなって、それはまるで小さい迷子の泣き方だった。
ここにいるからみつけてよ。おいていかないで。ここにいる。
力いっぱい、ひきつけをおこしそうに、叫ぶ涙。
雪がそれを包んでやるように、ごっちんに降っている。
本当に、あのやさしいごっちんの恋人に、雪はよく似ている。
- 19 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:16
- 「けっこう本格的に、チョー寒くなってきたね」
しばらくして、ごっちんは鼻声で言った。
同居人が風邪をひいて、あたしにうつしでもしたら迷惑きわまりないので、あたしは白いコートをぎゅううう、と抱いた。やましい意味はない、あたたかくなればいいと思って。
「おー、ぬくい、ぬくい」
やましい意味はないので当たり前だが、ごっちんはとりあえず、いやではなさそうだった。
「『ムシゴヤシが午後の胞子を飛ばしている』」
つぶやいたら、鼻から息を抜くようにして、ごっちんが笑った、少しだけ。
雪はあとからあとから、まだやまない。
なんならこのまま凍りつくのも、アリかナシでいうとアリ、とちょっと思った。
ごっちんはけれど、急に身じろぎをしてポケットをまさぐる。
一瞬だけ手の中を見つめて、それをあたしに差し出した。
「これさ、よしこがしてて」
フェイスの青い、ごっちんとおそろいの腕時計が、あたしの手のひらで、かすかな金属音を立てた。
「ごっちん、でも」
「や、ちが、別にそななか、深い意味はないっていうか。あったら失礼でしょ、二人に」
ごっちんはひどく早口になっていた。
ごっちんの焦ったところを見るのはえらく久しぶりだと思って、あたしはちょっと笑った。本当は、ややもすると涙が出そうだったゆえに、あえて笑ってみることにしたのだ。
あたしはごっちんのことが、やましい意味でずっと、好きだった。
- 20 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:17
-
「スペイン坂スタジオから、生放送でお送りしています」
数分後、あたしたちは、通りに面したところがガラス張りになっているラジオ放送局の小さなスタジオを占拠して、窓越しに雪見としゃれこんでいた。20歳を過ぎると風の子でもないのだ。
「後藤さん、それにしても雪ですねぇ」
「雪ですねぇ。すごく寒いですねぇ」
「でも綺麗ですよねぇ」
「綺麗ですねぇ。うん、あのー、なんか、すごい綺麗ですよね」
「泣けるほどですか」
「そうですね、なんっか、はは。なんか、ハイ、泣けるほどですね。って、え、吉澤さんもいつのまにやら、涙目ふうな」
「いつのまにやらって。愛のない。もっと見て見て。いやー、そうですね、ちょっと雪が目に入りましたかね」
恐ろしくつまんない放送だ。しかも、その後しばらく沈黙の放送事故。どこにも流れなくてよかった。
- 21 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:18
- DJにはどうやら向いてないことがわかったので、あたしたちはラジオごっこをやめて、そこいらに転がったマジックで壁に落書きを始めた。
手のひらを白い壁にぺたりと押しつけ、その周りを赤い極太マジックできゅっきゅとふちどる。
マジックの手形は、実際の手よりもひとまわり大きくて、ちょっと強そうにも見えた。
あたしはそこに大きく文字を足し、ごっちんがさらに足した。
「えー、それ、いらないのに」
「なんでさ、これだけじゃ意味不明じゃん」
「違うの、これだけで意味が通るんだったの」
「ぶー。久々に漢字とか書いたのに」
ヒーロー、があたしの字。参上、がごっちんの字。いばるほどの漢字じゃない。
ヒーロー参上。
なんちゃって、嘘をつけ、あたしたちに世界は救えない。
よしんば、小さな花びらを大きな海からそっと掬うような、そんなようなことはあったとしても。
- 22 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:18
- 「ねむ」
椅子に座って、死に絶えた放送機器に顎を乗せると、急に力が抜けた。
「よっすぃー、最近よく寝るね」
「そうね」
ごっちんは軽くなったし、あたしは眠くなった。
美貴の言う通り、特殊な抗体だか因子があたしたちの体にあったとして、だけどそれは何も未来永劫の健康を保証するものじゃないんだろう。
「少し寝ていいよ。まだ止まないし」
「うん」
雪を見物していたいけれど、抗いようもなく眠かった。
「ちょっとだけ寝るね」
目を覚まして雪がやんでいたら、少し寂しいなと思う。さんざんいろいろなくしたのに、いまさら雪をなくして寂しがるのは、もしかして滑稽か。
「おやすみ、よしこ」
やさしい声が、あたしを眠りにいざなう。
ごっちんのやつ、きっとあたしを逢瀬の邪魔に思ってやがるに違いない。
だからだと思うけど、他に理由なんか思いつかないけど、あくびの後の涙が、いつもより多めになった。
頬があたたかく濡れる感じがちょっと、ノスタルジックだ。
なにか小粋なことを言ってみようかと思ったけど、結局やめた。
「おやすみ、ごっちん」
愛をこめて、シンプルな挨拶を送るにとどめる。
正直、眠たかった。
- 23 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:19
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よう雪どもめ。せいぜい賑やかにしてくれよ。
どうせ近いうち、すっかり静かになるのなら。
- 24 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:20
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- 25 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:20
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- 26 名前:31 パルコの英雄 投稿日:2006/01/07(土) 19:21
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