510を待ちながら…
- 1 名前:510を待ちながら… 投稿日:2005/08/16(火) 00:30
- 510を待ちながら…
- 2 名前:510を待ちながら… 投稿日:2005/08/16(火) 00:52
- 紺野あさ美は壁に背中をあずけて、空を見上げた。空には薄く刷毛で刷いたような白く薄い筋がついている。この空は東京へとつながっている。北海道へとつながっている。かつての自分の住処。かつての自分の故郷。
でっかい空なんか見上げたってちっとも安心なんかしやしない。
紺野は息を整えつつ目をつぶった。空を見上げても安心なんか、しない。見上げても、ただ哀しいだけだ。その哀しさが今の紺野を動かしていた。空はこんなに青いのに風はこんなに優しいのに。イソガナキャマニアワン間に合わん間に合わん。紺野はM9を抱き締めた。先ほどまでこれをもっていた人間は、紺野の足元に倒れていた。地雷を踏んだのだ。勢いよく爆発するならまだ救われたものを。紺野は溜息を吐いて、M9を持つ手で左肩口に仕舞われたナイフの鞘に触れた。曹長殿が中途半端に生き残るものだから、とどめは紺野が刺さざるを得なかったのだ。上陸したときには5人いた分隊は1人減り、2人減り、ついには紺野だけになってしまった。
♪
- 3 名前:510を待ちながら… 投稿日:2005/08/16(火) 01:38
- 小千谷が壊滅したのは確か2005年の初冬のことだった。その年の秋に、北朝鮮が日本による経済制裁を国際法上の違反であるとして、日本に宣戦布告。中国ロシア韓国も北朝鮮に同調した。米国だけは日本に味方したが、EU諸国、中東、アジア、オセアニア諸国は静観を決め込んだ。俗に言う『極東戦争』である。
戦域は日本海[東海]を挟んで島根から新潟までおよび金策から興南まで拡大した。当初は十二海里線を絶対防衛線として日本は舞鶴・敦賀・佐世保の三都市がミサイル攻撃を受け壊滅に近い被害を受けたにも係わらず、専守に徹した。しかし、超小型潜水艇による数度の大規模侵攻により石川県大島や島根県の島嶼群が占領され、国際法廷上「歴史上の固有の領土を回復した」という先方の主張が認められ、国境線が塗りかえられるに及んで、日本政府は超法規的措置として朝鮮半島に限ってのみ大半の戦力が自衛隊から成る『国防義勇軍』を組織、半島へ派兵することに決めた。
『国防義勇軍』が国際法上における人道を貫いたのは当初だけだった。市民に偽装した北の兵隊が義勇軍を襲うのも常態化していた。当初、「虐げられ洗脳された可愛そうな北朝鮮国民も、ついでに助けるといい」などという能天気な日本国内の世論も、いつしか「朝鮮人は皆敵」「決して分かり合えぬ」「まぁみんな殺しておけばいいんじゃないの」といったものに塗り替えられていた。
もっとも緊張が高まる日本海岸に比べ、太平洋岸の日本人たちの戦争感は無責任でいい加減で極端なものだった。
そして義勇兵たちは、最前線へと上陸作戦を余儀なくされ、過酷な戦闘を切り抜けながらも銃後の日本国民でさえ味方でないという状況に陥っていた。防衛庁と内閣総理大臣と二つの頭を持ってしまった義勇軍へ出される指示は混乱し、困難で、理想主義的で、楽観的で、緊縮財政的で、すなわち矛盾していた。
紺野がいたのは、そういう最前線のうちのひとつだった。かなりの数の分隊が投入されたはずだが、紺野の持っていた無線連絡に応答する部隊はもう無い。紺野は上官の素晴らしく素敵なM9を入手した代わりに無線機を捨てた。
- 4 名前:510を待ちながら… 投稿日:2005/08/16(火) 03:27
- ミサイルが落ちた日、紺野は松江のライブ会場に向かっていた。一足先に家族が滞在し、ライブがはねたら合流して一緒に温泉を巡って出雲大社を詣でる約束になっていた。
街を焼く炎は、国道9号線上のバスの中からも見えた。道路は安来で封鎖され、紺野が家族全員の死を確認したのは翌々日のNHKニュースでだった。高温で砕け散った遺骨の欠片が市職員から紺野の元に届けられたのはそれから数週間後のことで、家族全員の分を併せてもやるせないほどに軽かった。その日の晩、紺野は義勇兵に志願した。事務所との契約はまだ残っていたし、途中で破棄すると莫大な違約金を取られることも知っていたが、気にしなかった。お金のことなんか、生きて帰ってきてから心配することだ。戦死者に支給されるはずの見舞金は雀の涙ほどで、保険会社も戦争は例外事項にあたるとして支払いを拒否した。自分のものは何もないかと思うと、いっそせいせいした。紺野は八戸の自衛隊施設で教練を積み、銃火器の扱いを覚え、車輛の運転技術を取得し、体術を習った。さらに無線免許を取得して、通信兵として対馬を拠点とする第七旅団の普通科連隊に配属された。半島への上陸作戦が始まったのは、紺野の配属直後のことである。米兵が供与するヘリコプターに乗り込み、友軍の援護を受けつつパラシュートで降下する。事前のブリーフィングでは、作戦の上で一番危険なのはここだとされた。降下して拠点を確保し、基地を作るのが紺野たちの連隊に与えられた任務だった。それはもう過去系だった。予想外の伏兵に大打撃を喰らい、怯んだ首脳部は即時撤退命令を出した。最前線で分断された紺野たちにとって、それは援軍なきなかでの自力脱出を意味した。事実上、部隊は見捨てられたのだった。
♪
- 5 名前:510を待ちながら… 投稿日:2005/08/16(火) 03:57
- (戦争が起こっていたのを知ってたのに、まぁ大丈夫だよねって、コンサートもやるしそのついでに温泉でも行こうよって、そう言ったのは、あたしだ)
太平洋岸の住民と日本海岸の住民の意識の差は歴然としたものだった。国道というにはやや貧弱な9号線沿いには、黄色と黒の遮断機らしきものが一定間隔で設置されていた。スタッフが運転手に訊ねると、警報が出たときに迂闊に車輛が被災地に入らないようにするのだという。太平洋岸にはそんなものはひとつもない。
道路にはところどころで義勇軍をねぎらう垂れ幕や看板がかかっていたが人の気配はなく、大半はもう疎開したか、地上では暮らしてないとのことだった。
(だから、これは現実を知らなかったあたしへの罰なんだ)
紺野はM9の銃把を握り締めた。2.8kgの重量は、紺野の鍛えあげられた両腕をしてさえずしっとひびく。1分間に1,000発連射できるのは頼もしいが、それを支えるほどの弾薬の持ち合わせもない。これを持ち歩くのは現実的だろうか? 紺野の頭に疑念がよぎる。元は空挺部隊の指揮官向けに誂えられた銃だが、めぐりめぐって最前線にやってきたのだ。指揮官用だけはあってさすがに持ちやすく手にはなじむ。
まだ紺野は人を殺したことはない。
だがどうやらそれも時間の問題のようだった。それに、それだけの技術もある。
トラップだらけのホーンテッドマンションのようなこの場所で仲間たちは次々に生命を落としていった。紺野が生き残ったのは、行動のテンポが人より1テンポほど遅いだけで先に他の人間がトラップにかかっていったからに他ならない。これを運と呼んでも構うまい。
紺野は、まだ死にたくはなかった。
(死ぬにしても、ただでは死なない。少しでも多くの人を巻き添えにしなくては)
そしてそういうことを考える自分に嫌気がさす。死んでいく人間にも家族がいて友人がいて恋人がいて子供がいる。そのなかには自分のように家族全員を失ってしまう者もいるだろう。その人間はどうするだろうか。自分と同じように戦場へ身を投じるだろう。これでは、いつまで経っても、あるいは全員を殺さない限り、報復は終わらない。そして……
考え過ぎだ。紺野は思考をそこでやめて、また空を見上げた。
♪
- 6 名前:510を待ちながら… 投稿日:2005/08/21(日) 20:04
- 「さゆさぁ、先刻ちょっと間違ってなかった?」
舞台袖で道重さゆみが弾む息を整えようと身体をくの字に曲げて、膝に手をあてていると、ふいに声を掛けられた。田中れいなだ。
「さっき?」
とぼけたわけではない。間違いや細かいミスが多すぎて、それでも何とかなるものだから特に気にしてないだけだ。道重は田中のように1つのミスをずっとひきずってくよくよするマゾヒスティックな性癖はなかった。
「色ジレんときさぁ、最初んとこで」
「あぁ…、見てたの?」
「見えたの」
律儀に苛々したように言い直す田中に、道重は溜息を吐いた。最初のフォーメーションからVの字を作った後、さらに一列に並ぶそこで、道重はしばしば自分の行くべき方向を見失った。ひとつには頭を振りすぎて方向感覚が薄れてしまうというのもあったし、ひとつには時間が無さ過ぎるせいもあった。周囲の人の動きを把握してから動くのでは遅過ぎて間に合わない。だがいつもそこで道重は自分が行くべきなのは右だったのか左だったのかを見失う。自分の相方のパートにいた人間がいなくなりフォーメーションが変わってからは尚更。
田中が気まずそうに道重から視線をそらしたことで、道重は知らず知らずのうちに自分が右腕をさすっていたことに気が付いた。右腕。以前、道重が同じパートで間違えかけたとき、必要もないのにこの場所をいなくなってしまった相方が握り締めていた場所。腕を捕まれて驚く道重を振り向きさえもしなかった。つかまれた間は(そんな余計なことをしなくてもすぐ気が付いたし自分でちゃんとフォローできるのに)と思っていた。そう思ってしまったまま、結局歌が終わってからも反省会の間も紺野とこのときの話が出ることもなく、結局お礼も文句も言う機会もないまま、今に至っている。そのことを気にしたこともないのに、田中の気まずそうな様子に後ろめたさを覚えて、道重いは左手を右腕から離した。
「そういえばさ、知っとる? 紺野さんのことだけどさ」
「知らん」
「即答」
「別に仲良かったわけじゃないけぇ」
「そういえばそうだったけど」
「で、何?」
「何が?」
「紺野さんが」
「あぁ…、戦争行っとるとって」
「は? 戦争?」
「戦争」
「どこの」
「北朝…なんか、その、そこらへん」
「ありえまー。紺野さんそなことしちゃぁないよ。それ誰の話?」
「あの、雑誌の」
「雑誌?」
「雑誌」
「どんな?」
「コンビニで売りよぉ、あやしか奴ばってん」
「じゃあ嘘じゃってから」
「でも、写真入やったとよ」
「嘘。嘘嘘嘘。ガセだって絶対」
「嘘、かな」
「嘘じゃん」
「そっか…、嘘か…」
ユニットのMCが終わりスタッフからの合図が目の端に映る。田中が明らかに晴れ晴れとした様子で待機場所に戻る。その背中を見送りながら、道重は溜息を吐いた。何を考えてるのか分からない人だった。親しく喋ったこともない。突っ込んだ話もしたことがない。だけど…
道重は自分がまた右腕をさすっていることに気が付いた。
♪
- 7 名前:510を待ちながら… 投稿日:2005/08/21(日) 21:44
- 「……ゴーヒトマル……、……デ…………ツ…………、ク…………、ゴー……」
無線だった。紺野は音がするほうを見る。屋内から聞こえている。この廃村には相当な数のゲリラ兵が潜伏していた。殲滅したのかさせられたのか、銃声が止んでもう半時間が経過しようとしていた。まさか生き残りが自分だけということは無いだろう。問題は残りが敵なのか味方なのか分からないということだ。壁伝いに建物の周囲をぐるりとめぐり、外れかけた扉から内部に侵入する。日本の伝統的な家屋にも似てるが、ずっと粗末だった。瓦がなく木肌が剥き出しになった屋根。拳大の石をレンガのように積み上げただけの壁に継ぎ足された木材の壁。不揃いでみっちりと閉まらない外開きの扉。錆び切って捩れて壊れた蝶番。この蝶番を動かせば、きっとぎぃぎぃといやな音がするだろう。続く板の間もところどころ抜けて地面が見えている。ひどく埃っぽいその床の上にいくつかの靴の痕があった。自分の靴底と見比べて紺野はほっとする。同じものだ。この中にいるのは、あるいはいたのは、友軍ということになる。しかし紺野は銃を手放さずに歩を進めた。
「……全軍に告ぐ。こちらは第七旅団指令補の青山である。作戦は失敗した。全軍ただちにここを撤退する。出発は本日ゴーヒトマル、イの3集合。緊急避難対勢を取ることを乞う。繰り返す……」
無線だった。日本語だ。紺野は視線を屋内にめぐらせた。無線の音量が大きくなったり小さくなったりする。電波の調子が悪いのかそれとも。
軽い破裂音がして、何かが紺野の耳許をかすめた。耳の先に焼け付くような感覚が走る。とっさに身を翻して耳に手をあてる。ぬめりが手のひらを汚す。血だ。だが、致命傷ではない。出血も激しくはない。紺野は傷の処置と敵の処理のどちらを優先するかを一瞬だけ迷い、後者に決めた。めくら滅法に銃爪に指を押し当て、銃口を部屋の内部に向ける。短い悲鳴が聞こえても構わずに15秒の連射を続けた。ざっと数百発の弾丸が部屋に放たれたことになる。
銃撃を止めて、紺野はポケットからカットバンを出すと手早く傷口にあてた。髪の毛が何本も粘着面の下に巻き込まれたが構う余裕はない。それから改めて室内を見渡す。
「…………………………」
無線機のすぐそばに、軍服を着た人間が二人、倒れていた。その腕がもがくように床の埃を掻き、やがて沈黙した。軍服は、友軍のものだった。紺野は溜息を吐いた。
「……ゴー……」
無線機は完全に壊れていた。ゴーヒトマル。五一〇。それは午後5時10分を意味する。軍隊用語だった。紺野は空を見上げた。時計はない。陽はすでに傾き始めている。今の季節なら午後三時といったところだろうか。あと二時間で集合場所へ向かわねばこの場所に置き去りになる。ゴーヒトマル。急がなきゃ間に合わんDAY…
紺野の頭の中で音楽が鳴る。壊れたプレイヤーのように同じ箇所を繰り返し繰り返し歌う。急がなきゃ間に合わん… 間に合わん… 間に合わん…
- 8 名前:510を待ちながら… 投稿日:2005/08/21(日) 23:35
- 考えうる退路は2つあった。
ひとつは、見通しの良い野原を横切るルート。このルートを使えば半時間ほどで目的地に到着するだろうが、高台に狙撃兵でもいれば一巻の終わりである。
ひとつは、野原を迂回して隣接する森林を経由して集合地に向かうルート。地理に暗い紺野には、かかる時間も計算しにくい上に、どんな伏兵や罠が仕掛けられているか推測もつかない。しかし野原を横断することに比べればまだしも安全に見える。
何も遮蔽するものがない場所を通り抜けることには抵抗があった。だから紺野は後者を選んだ。紺野は構えていた銃のセーフティを戻して背負い、匍匐前進で森の端まで進み、森に駆け込む。狙撃はまだない。コンパスと携帯用の地図で大まかに位置を確認しつつ進み、適当な場所で木のウロに予備の弾薬や過剰な装備や数日分の糧食を隠した。幹に、上官の血を啜ったナイフで目印を刻む。すでにやや切れ味が鈍くなっていた。早いうちに手入れをしないと、じきに刃こぼれするだろう。
もし万が一、五一〇に間に合わなかった場合、これが紺野の生命線になるだろう。間に合えば、もとより必要もない。
……だってそうすそんなきがするすいそがばまわれというけれど……
人が踏み固めた道を避け、紺野は集合地を目指した。強引にまっすぐに集合地を目指す。人の気配はまったく感じないが、時折背後からパラララッと「タイプライターのような」音がするのを聞いた。紺野が思い出したのは小説バトルロワイアルだった。上官を刺した時もそう言えば「レモンを切るような」音がした。バトルロワイアルを読んだ時も何も思わなかったが、今も特に何も思わない。マンガ版バトルロワイアルでは、混乱のうちに人を殺した人間の顔が怪物じみていた。もしかしたら、自分の顔もすでにそうなっているのかもしれない。紺野の中では自分はまだ「誰も殺したことがない」。だが事実すでに3人の人間を殺している。すべて友軍だった。勿論、そんなことは分かっている。だが紺野は、それは勘定に入れないことに決めた。
- 9 名前:510を待ちながら… 投稿日:2005/08/21(日) 23:51
- そうだこれは緊急避難なのだ。無線もそう言っていたではないか。「緊急避難」なのだから仕方がないのだ。
だが、緊急避難とは何だっただろうか。紺野は、それを思い出すことができなかった。
♪
陽も随分傾いた頃、紺野はようやく集合地に辿り着いた。空が半分は橙色に染まり、半分は群青色に染まっている。闇が次第に領域を広げる中、紺野はふと歩みを止めた。何かが警告を発していた。
……でもあせってはならぬせいしゅん……
小高い崖のへりから、紺野は頭だけを覗かせて集合地を観察した。水平線の向こうに見える島々は祖国だろうか。つい遠くを眺めてしまう視線を海岸沿いにまで引き戻す。群青色の空、群青色の海。集合地には、何もなかった。船も、飛行機も、潜水艦も、それらしきものは何も。
(……罠、か……)
そういえば紺野は緊急避難という言葉を聞いたことがない…
(流暢な日本語だった…… 暗号まで……)
時刻はもう五一〇を過ぎようとしていた。紺野は仰向けになって空を見上げた。目の端には涙が溜まっていた。この国の人を殺したかった。一人でも多くの人を殺したかった。未来永劫のろいたかった。誰一人許されることなく子々孫々まで不幸になればいいと思った。群青色の空はどんどんその領域を広げていく。
(ゴーヒトマル…五一〇ってゴトーとも読めるなぁ…… 後藤さんなら、こんなとこ来るはずもないって思えば、ね…)
……でもあきらめちゃならんせいしゅん……
紺野は袖口で目の端を拭うと、勢いを付けて崖に向かって走り、海に飛び込んだ。
- 10 名前:510を待ちながら… 投稿日:2005/08/21(日) 23:51
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- 11 名前:510を待ちながら… 投稿日:2005/08/21(日) 23:51
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- 12 名前:510を待ちながら… 投稿日:2005/08/21(日) 23:51
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