取るべき距離としての名前
- 1 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:02
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取るべき距離としての名前
- 2 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:03
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いつまでこんなことをくり返すんだろう、と思う。
「だろう」だなんて他人事みたいに。こういった類の逃げを、私はよく、打つ。
分かってる。その姿勢がいけないんだって。
だからこんなところにいるんだって。
だからこんなことをしてるんだって、分かってる。
考える端から理解の言葉は嘘になって、やっぱり、何も分かってなんていないん
だと、こっちは実感をもって分かる。
私は馬鹿だ。馬鹿で間抜けで、大馬鹿野郎だ。
- 3 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:03
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外来品の「カバン」というやつを、私は割合、気に入っていた。
そもそもは母親がどこからか手に入れてきて、明日からはこれに勉強道具をつめ
て学校へ行くのだと指示したものだ。
彼女がそれを素晴しいと感じているのは一目で察することができたし、私も何だ
かワクワクした。
もしかしたら、彼女がそんな様子であったから、かもしれない。
私は母親が大好きだった。
そのことがカバンの評価を引き上げたのか、それとも単に私の趣味に合ったから
なのかは、もう判断がつかない。
ただ、私はたしかに、カバンを気に入っていた。
- 4 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:04
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今それは、街の一番大きな屋敷の倉庫にある。
埃にまみれているだろうが、それを払い、日光の下で見ればきっと、新品同様の
光を湛えるだろう。
結局、私はそれを、一日しか使っていない。
そこが私の生家だった。
欲しいと望めば、大抵のものは手に入る。
だけど、私なんかが想像できる世界は、そう広くない。
羽の生えたような空想はよくしたけれど、それがどこにも無いってことは、多分
知っていた。
物質的に恵まれていても、心の底からの満足を得ることは、許されなかった。
だから大抵、私は「欲しい」という言葉を、異物か何かのように飲み込んだ。
- 5 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:04
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必死になって勉強をしたのも、それがあったからだった。
「欲しい」を口にすることにためらいを覚えなかったのも、そんな時だけだ。
ちっぽけなくせに非常に強いプライドを保つために、苦しいことの理由を他人に
押しつけるために、必死になって本にかじりつく。
ワルイノハワタシジャナイ。
ワタシハナニモワルイコトヲシテイナイノニ、ソレナノニミンナガワタシヲ―――
その馬鹿げたおまじないは、それなりに効果があった。
少なくともしばらくの間、それは私の心の支えになった。
人から距離を取ることを、心の中に「孤高」とよく似た形で収めていた。
「孤独」が胸をかすめることを、きっと、ずっと、怖がっていた。
- 6 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:05
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客観的に見て、その才があったのだと思う。
勉学にのめり込む才。身につける才。応用する才。
私は陰口を叩かれても気づかないふりをして、それ以外には興味のない素振り
を続けた。
都合がよかったのは、物事は知れば知るほど世間から離れていくことだった。
文法や公式は井戸端会議と仲良くない。
没頭すれば、余計なものを心から締め出すことができた。
それが何か、とても快いことに感じて、同時に時々、苦しかった。
余計を排除し、心を尖らしていくうちに、街へ出て教師に教えを乞う生活も終わ
りを告げた。
知識的に彼を追い越し、教わることはなくなった。
「余計」の一部に、彼もなったのだと判断した。
- 7 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:05
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それからも独学で勉強を続けた。
「もう先生に教わることはないです」
そう言った私に、「僕では駄目だったね」と悲しそうに笑った彼のことは、不思
議に思い出すことが多い。
彼が教鞭を振るうそれは、とても効率の悪い時間の使い方だった。
雑談が多くて、その度に集中が途切れた。
だけど彼は、その姿勢を崩すことがなくて、夢中で教室の外のことを話すのだ。
耳を塞ぎたい衝動に駆られることがよくあった。
どちらかといえば、それは、井戸端会議と仲の良い方の話だった。
だけど、新しい教師は無駄なことを話さない。本に口はないのだ。
取り寄せた洋書を自分で翻訳しながら、これでいいんだ、と言い聞かせた。
触れたことのない知識は、湧き水を思わせるような新鮮さで私に快感を与えてく
れたし、その頃になると、学ぶのとは別の喜びが生まれた。
それは現実的ではなかったけど、それがどこか、私らしいとも感じていた。
- 8 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:06
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何が引き金になったのか、と問われると、私は答えに窮してしまう。
散々言葉をこねくり回した挙句、「風が強くて、冷たかったからだ」と、色々な
ことを学んだ者とは思えない内容を返すのだ。
左から右へ、流れるようにページが、独りでに進んだ。
夕暮れ時だった。
風は当然、私の額も通り過ぎていたので、そうなるのは想像がついた。
思考が遮られてしまうのが嫌で、目の前にあるセンテンスを終えるまでは、その
自然のイタズラを無視しようと決めた。
だから、パタパタと鳴るその音に私が顔を上げたのは、比重を崩した本が、机か
らゆっくりと落ちていく時になった。
舌打ちをしたと思う。立ち上がって拾わなくてはいけなかった。
何故その程度のことをこんなにも忌々しく感じるのか、自分でも理解できない。
だけど、腹立たしさだけはしっかりあって、手にした本を強めに置いた。
八つ当たりの音は刺々しく響く。それがとても不快だった。
それから、窓の前に立った。
私の部屋は二階の隅で、通りを見下ろす形である。
そこにあった何気ない光景が、風戸を閉めようとする、私の手を止めた。
- 9 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:07
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人々が明日のための準備をして、労をねぎらい合ってる。
道行く人は心から楽しそうに談笑していて、頭上にある誰かの眼差しに晒されて
いることに気づく様子もない。
威勢のいい声が聞こえる。ぶつかり合って、なお、鋭さのある声だ。
いくつもの思惑が、そこには巻き散らかしてあった。
それぞれが絡み合い、姿を変えて、生きていた。
生命の力強さが、そこにはあった。
いつも見ていたもの。だけど、見ないようにしていたもの。
慣れたつもりでいた。平気になったのだと、そう思っていた。
- 10 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:07
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だけど、私は駆け出していた。部屋にはいられない。
唯一大事にしてくれてた両親の顔も浮かばなかった。
階段を踏み外しそうになりながら通り抜け、裸足のままで表へと出た。
何もかも恐ろしかった。
集まってくる視線も、考えないようにしてた未来も、怖くてたまらなかった。
だから私は、それを振り切るように逃げた。
ずっと、知っていた。
みんなが私の顔の醜さを嘲笑っていることを。
そして何より、私は自分がそれを恥じていることを、本当は知っていた。
だから、見慣れないカバンを持ち込んで、美醜を持ち出されて攻撃された時、そ
れに耐えることができなかった。
好きだったのに、気にも留めていないふりをして、使用することをあっさりやめ
てしまった。主張し続けられなかった。
全部、そうだ。
私は笑われるのが怖い。
それを認めるのが、何より怖い。
怖くて、恐ろしくて、恥も外見もなく、私は人がいないところに逃げ込んだ。
- 11 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:08
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もう何年も前の話になる。
あれから一度も、街に降りていない。
だけれど、私は少しも成長できずにいた。
逃げ癖も、自覚してもやめないところなんかも、あの頃のままだ。
私にある、唯一のもの。
学んだ日々の中で芽生えた発想を、形にしようと全力を尽くしていた。
「全力を尽くす」。相変わらずの耳に優しい言葉。
結局のところ、私は孤独に耐えられなくて、同じ轍を踏んでいるのだ。
人工知能を持った、精神的に成長する人型ロボット。それを作っていた。
- 12 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:08
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私はエゴイストで、それでいて大馬鹿野郎だ。
ロボットは、負い目である顔を小さく、ほっそりとした美貌にした。
短い髪も私のようにゴワゴワではなく、サラリと流れる空気感を備えたものだ。
自分でも分かる。
それはきっと、羨望でありながら、小さな償いの意味も持っていた。
私と同じような、孤独なロボットを作り出してしまうこと。
必要に迫られた時、情が移ることなく、停止させることができるだろうか。
できなければ、彼女は私が死ぬまでの時間より随分長く、一人で生き続けなくて
はならないことになる。
それがどんなにつらいことかを知っている自分が、苦しみを味わう存在を生み出
すのだ。
製造を中止すれば、今ならまだ、間に合う。
それでも私は、悲しい命を作り出すことをやめなかった。
- 13 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:08
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口をついたメロディーには、いつもながら苦味が混じっている。
歌をうたうのは、楽しい気分じゃない時が多かった。
これからもそうかもしれない。そうではないかもしれない。
とにかく、それでも、私は思い出したように同じ曲を口ずさむのだろう。
世界の空気をほんの少し、苦く変えながら。
私が作ったものだから、プログラミングが私に甘くなっているに違いない。
だとしたら、意識できるところは、保護者として接するべきだ。
戒めとして、決めた。
自分のことは「博士」と呼ばせよう。
名を捨てることによって、彼女の最低限の自由を守るのだ。
それがすでに、とっくに人の道から外れた場所にあるルールであっても。
- 14 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:09
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二本のつっかえ棒が押し上げた窓には月があった。
三、四日もすれば、丸くなる月だ。
それを見つめながら、思った。
もし、無責任な製造者が、それを思うことが許されるなら。
それを願うことが許されるなら。
どうか、彼女には自分と違った道を歩んでほしい。
誰かに思われ、そして誰かを思う。
そんな不自由が、与えてくれる者が、いつか彼女に訪れるといい。
確保された自由の中で、その不自由さを選ぶ日が、いつか彼女に訪れるといい。
無理とは知りながら、私は月を見上げ続けた。
- 15 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:09
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- 16 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:09
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- 17 名前:取るべき距離としての名前 投稿日:2005/04/25(月) 20:09
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