越境者
- 1 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:05
- 越境者
- 2 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:06
- 「おいら……辞めることにした」
「……は?」
相手の表情が歪んだのを見て、自分の言葉の効果が確認できた。
「辞めるって……」
「もうリーダーとして娘。を引っ張っていく資格を失ったんだよ」
バッグの向きを変えないように注意しながら演技する。
そう、こんなのは演技。
恋愛禁止とか、資格がどうこうとか、そんなのはどうでもいい。
「わけわかんない。なんで突然そんなことになっちゃうの?」
「……」
- 3 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:06
- 「雑誌に載ったなんて、そんくらいで辞めることないじゃん!」
その発言は正しかった。あの程度の写真では本人かどうかわかるはずもない。
こっちが認めさえしなければ、そっくりさんの激写には
なんの価値もなんの意味もない。
それに仮に激写が決定的なものであったとしても
それだけでは脱退の理由になんてならない。それは各所で指摘されている通りだ。
でも
だからといって言えない。言えるわけない。本当の理由なんて。
「ひょっとして……私のせい?」
私は答えなかった。
目の前に立つ後輩が、私の脱退の理由を作ったなんて
自分の口から言えるわけない。
- 4 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:07
- 私は左手に持ったトートバッグの向きに気をつけながら
じっと黙って相手を見上げていた。
相手の顔には、ショックとは別の感情が浮かび始めた。
その表情をなんと形容しよう。
嫌悪。疑念。それに少し、ほんの数ミリグラムの寂しさ。憐れみ。
これまで一度だって私に見せなかったその表情を
ようやく見せてくれた。
「ミキティ。これまでありがとうね」
私がそう言った。美貴の目には
- 5 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:07
- ―――なんで?
涙が浮かんでいた。
―――なんで今さら……おいらのために涙を流すんだよ!?
「……矢口さん」
私は打ちのめされた。何故……
どうして自分を拒んだ、拒みつづけた美貴が
ここで泣いているのか、しばらく理解できなかった。
しかし
―――結局……そういうことなんだよね
美貴の涙の意味がわかりはじめると
私の心は一層、暗くなるのだった。
- 6 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:07
- 結局、美貴は私を娘。の先輩として想ってくれていたのであって
それ以上ということはない。だから
別れるときには流れなかった涙が
娘。を辞めるときに流れたのだ。
その事実は私を打ちのめしはしたが
それはかえって
娘。を辞めるという選択は正しかったのだという変な自信をもたらした。
もうこのコを愛するわけにはいかない。
私は無言で美貴に背中を向けた。
- 7 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:08
- 一人部屋に戻った私は、バッグを持ったまま
パソコンの電源をオンにした。
カリカリとディスクの音を立ててコンピューターが起動する。
パソコンが落ち着くのを待ってフォルダを開いた。
写真がいっぱいの
美貴との思い出がいっぱいのフォルダ。
恋人になれはしなかったしそれらしいことはなにもなかった。
ただ一緒にいて、幸せだって想った。
自分の仕事とか自分の将来とか自分の生き方とか自分の存在とか
そういう一切がどうでもいいと思えるほど
美貴との時間は私にとって貴重だった。ものすごく。
でも
それももう終わり。私は娘。を脱退して美貴との時間はなくなる。
- 8 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:08
- 思い出はこれで尽きた。
出尽くした。
しかしフォルダのプレビューいっぱいに映った
美貴の百面相を見ているだけで
私の顔は弛緩していく。
「ただいま……」
私は知らず、ミキに声をかけていた。
<おかえり>
そのとき呼び鈴がなった。
私は画面をそのままに立ち上がり玄関口に行く。
「……ミキティ」
「あの、追いかけて来ちゃった。ごめんなさい」
「……」
- 9 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:08
- 「本当のことを教えて!なんで辞めちゃうの?」
「……」
私は迷っていた。
やはり話しておいたほうがいいかも知れないと思い始めていた。
「やっぱり……」
美貴の声が低くなった。疑念。
「私のことだよね?」
私は大きく呼吸をして
「うん」
うなづいた。
- 10 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:08
- 美貴はちょっとがっかりしたようだった。
「矢口さん……そんな弱い人と思わなかった」
「おいらは、弱いよ……」
美貴はこれ見よがしなため息をついた。
美貴は私の強い面を見ていたのだろう。
娘。のために献身した、一生懸命に楽しい娘。を作ろうとした。
それは私の強い部分。自分も知っている強い部分。
でもその一方で
「おいらは自分の理由で、自分勝手な都合で
みんなに、ミキティに迷惑をかけるような弱い人間なんだよ」
私は弱かった。
- 11 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:08
- 「そんな……だからってどうして?
どうして美貴にふられたくらいで辞めちゃうの?
わかんない、全然わかんない!
矢口さんて……美貴にやさしくしてくれた矢口さんて
そんな……」
―――ほらね。ミキティにとっておいらはいい「先輩」だろ?
「そんな後ろ向きな人だったの?」
喉が熱くなってきた。涙をこらえるのに必死だった。
「ち……ちがう!!」
- 12 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:09
- 叫んでいた。
こらえられなかった。
美貴の中で、私のイメージがそんなふうに崩れていくのは耐えられない。
「おいらが……辞めるって言った理由はね…」
そんなふうに誤解されて軽蔑されるくらいなら
真実を話して、全てを知ってもらった上で軽蔑されよう。
その方がまだいい。
「……ミキティ、入って」
私は美貴に背中を向けて部屋の中に入っていった。
- 13 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:09
- 美貴は黙ってついてきた。
「これ……私の写真?」
ディスプレイにはさっきの静止画が映ったままだった。
「うん。こないだ撮った」
「どう……やって?」
私は置いてあったトートバッグを取りあげてみせた。
バッグの側面に小さな穴が開いていて
そこからレンズがのぞいている。
「隠し撮り?」
「うん」
私は、美貴が知ったら
思いっきり心の底から私を罵るだろうと思っていた。確信していた。
しかし、美貴は意外にも落ち着き払っていた。冷えるくらい落ち着いていた。
- 14 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:09
- 「矛盾した気持ちが……おいらの中にある」
私は美貴の冷たい視線に促されるように、話しはじめた。
「半年前に……ミキティに、言われたじゃん」
―――やっぱりステキな先輩でいてください
「それがミキティの望みなら、そうなろうと思った。
いつまでも、ミキティの中でステキな先輩であろうと思った。
でも……それとは矛盾してるんだけど……」
私の言葉が止まると途端、辺りは静寂。
美貴は返事もせずうなずきもせず、ただじっと私を冷たく睨むばかり。
「でもやっぱり、寂しいんだよ。ただの先輩なんて嫌なんだよ。
諦めきれない……」
「だって……そんなこと言われたって……」
- 15 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:10
- 美貴の口調はますます冷たくなっていた。
「しょうがないじゃん。それに別れてからもう半年も経つのに、どうして今更……」
「そう。ミキティの気持ちはミキティのものだから、しょうがない。
でも自分の気持ちも抑えられない。
それなら、誰にも迷惑をかけないやりかたで
ミキティから見て、いい先輩で終われるようなやりかたで
幸せになりたい。そう思った……」
「……やりかた?幸せ?」
私は美貴の質問には答えず、ディスプレイを向いた。
そして言った。
「ミキ、お客さんだよ」
- 16 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:10
- 私の声を聞いて、ディスプレイの中のミキの画像が切り替わった。
小首をかしげて、疑問の表情になる。
<お客さん?>
「そう……なんていうか、あなたのお姉さんみたいな人だよ」
<へぇ……お姉さんが、わざわざ山小屋に?>
「まぁ……ね……」
「ちょっと矢口さん!?」
美貴が私の肩を強く引っ張った。
「なんなの?これ」
「紹介するよ。……ミキ」
<はじめましてお姉さん>
- 17 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:10
- ディスプレイの中のミキが笑顔になって美貴を見ていた。
「自動チャットって知ってる?こっちの発言に対応して
自動的にそれらしい返事を還すプログラム。
採取したミキティの声を解析して、どの単語でも違和感なくしゃべれる。
その裏で感情パラメータを走らせて、その値に対して数百の表情画像の中から
一番ふさわしいものを還してくれもする。ほとんど実際の会話と変らないよ」
「……」
美貴は絶句した。
「キャラが自動で泣いたり笑ったりするゲームと思えばいいよ。
アドベンチャーゲームだって1人のキャラに数十枚の画像しか用意してないでしょう?
それだってプレイヤーが感情移入するには充分なんだ。
ミキはその十倍の表情を持っている。おいらの、新しい彼女」
- 18 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:10
- 美貴は震える声で言った。
「こんなの……彼女じゃない。箱の中に閉じ込められたお人形じゃない!」
「閉じ込めちゃうとかわいそうだから、このパソコンはちゃんとネットにつないである。
ミキにはネットのことを『街』って教えてあるけど。
ミキはたまにお散歩してくるよ。まだ『街』を遠くから眺める程度だけど
ひょっとしたらそのうち『街』まで降りていくかもしれない。
あるいは、『街』から誰かがやってきてミキの友達になってくれるかもしれない。
ミキのところには外部からもアクセスできるから。
でも一つだけ問題があってね……」
「問題?」
「プログラムが複製をはじめると困る」
- 19 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:11
- 「複製?コピーを取るってこと?」
「そう。ミキがどんどん増えてしまったらウィルスとして
オリジナルごと駆除されてしまうかもしれない。
だからミキの中には致死プロシージャが書き込まれているんだ」
私は、マウスを操作して、プログラムを表示した。
<MIKI:{if in "YAMAGOYA" then goTop, else files(all).delete}>
<<ミキが「山小屋」フォルダ内にある場合はプロシージャの最初に戻る。
そうでなければ全てのファイルを削除する>>
「23時間ごとにこのプロシージャにたどりつくようになっている。
だからミキは必ず23時間に一度、山小屋に戻ってこなくてはならない。
外部で繁殖したものは死ぬ」
- 20 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:11
- 「矢口さん」
「何?」
「美貴の質問に……まだ答えてくれてないです。
矢口さんがこういうことをしていたからって
どうして娘。を辞める必要があるんですか?」
「ミキは表情が豊富だけど、どうしても足りないものがあった」
私はバッグの中からカメラを取り出して先ほど撮った画像を表示した。
「この表情……。戸惑いながら、不安と嫌悪と憐憫の混ざった顔を見せる美貴。
どうしてもこれが欲しかった。
でもミキティは、卒業と聞いてもどんな場面でも、あんまりこういう顔をしない」
美貴の顔には深い衝撃が刻まれていた。
ショックに立ち尽くしていた。
- 21 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:11
- 「まさか……そんなことのために」
「うん。ミキティにこういう顔をさせる。
そのためにおいらは娘。の脱退を決めたんだ」
「そんな……そんなことのために?
それなら演技でもなんでも良かったじゃん!
本当に辞めることなかったじゃん!」
「おいらの演技くらい、ミキティはすぐに見抜くだろ?
結構鋭いから……」
「だからって……」
「それだけじゃないんだ」
- 22 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:11
- <矢口さん矢口さん>
「ん?どうしたのミキ?」
<矢口さんも一緒にお散歩しようよ。街まで連れてって>
「ごめん……それは無理だ」
「……矢口さん」
後ろから美貴が、震える声で私の名を呼んだ。
私は溢れる涙を堪えられない。
「おいらはね、シコメなんだよ。醜くって醜くって
街から追い出されてしまったんだ」
私は、自分の気持ちも抑えきれず
娘。を捨てて、全てを捨ててミキと暮らすことを選らんだ
醜い女だ。そんな私に、リーダーを名乗る資格なんてない。
「だから、一緒には行けない……」
私は止まらない涙のままミキを見ていた。
- 23 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:12
- 背後には美貴の視線を感じる。
こんな形でしか後輩を愛せなくなった醜い先輩を
美貴はどんな目で見ているのだろうか。
「ミキティ……お願いがあるんだ」
「なに?」
ここへ来て美貴の声は穏やかだった。
包み込むような優しい声だった。
「ミキに、歌を聴かせてやって欲しいんだ」
あるいはもう何年かしたらすごい技術を持った人が現れて
ミキに最新式の身体を与えてくれるかもしれない。
そんな夢みたいな希望も、ちょっとあった。
そしたらまた、本当のミキティが歌ってくれるかも。
- 24 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:12
- 美貴は
「うん、いいよ」
そう言ってくれた。
どうしようもない先輩の、最後の頼みをきいてくれた。
音楽がかかって美貴の美しい歌声が響く。
ディスプレイの中のミキは目を閉じて心地よさそうに
歌に聴き入っていた。
この歌声はこれからも永遠に
私の心の中。
ミキの中。
胸が締め付けられる切なさの中
微かな幸福感だけが私をあたためてくれていた。
- 25 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:12
- The End
- 26 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:13
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- 27 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:13
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- 28 名前:越境者 投稿日:2005/04/24(日) 12:13
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