月は闇を拒絶する

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:07

月は闇を拒絶する

2 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:09


泣いたのは、産声をあげた一度きりだった。
可愛げのない子だと言われて育ってきた。

ものごころがついたときから、そうだった。
理解を超える生き物である梨沙子は、常に遠ざけられ、
時には存在そのものを無視されてきた。

触らぬ神に祟りなし。
美しい顔立ちは、畏怖の対象となった。
誰もが無言で自身のおどろおどろしい闇を梨沙子に投げつける。
実の両親でさえ、梨沙子を腫れ物に触れるような扱いしかできなかった。

そんな周囲を知ってか知らずか、梨沙子は自分の柔らかい世界を守ろうと、
硬く小さく閉じこもる。笑わない、感情のない、薄気味悪い子だった。

 亜弥ちゃんの妹なのに、なんでだろうね──

3 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:09

梨沙子が守りたい世界は、本人ですらわからない。
ただひとつ決定的なのは、その世界は他の誰にも理解できない、
いや、存在すら認められないような神秘性を帯びた特殊なものである、
ということだけだ。

本能的に自分以外の全てを拒絶する梨沙子は、わけもわからずに守り続けている。

姉の亜弥だけは違った。
「梨沙子ちゃん、本当に綺麗な顔してるよね」
両親に気を使ってか一定の距離を保ちながらも、梨沙子に愛を傾けていた。
決まって亜弥は自分の頬を撫で、梨沙子の頬を撫でる。なめらかな指先が頬に吸いつく。
「梨沙子ちゃんとあたしの肌の質感、そっくり」
亜弥の言葉は届かない。梨沙子は闇をまとった暗い瞳で亜弥を見つめる。
「好きよ、梨沙子ちゃんから伝わる空気。ひんやりして、心地いい」
理解者ではなかったが、理解しようとする唯一の人間だった。

4 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:09



ある日、亜弥が両親の反対を無視して髪を短く切りそろえた。
両親に反対するのは初めてのことだった。
それと時を同じくして、身なりのいい老夫婦が家に出入りするようになった。

梨沙子は階段の影に隠れ、無表情の上に小さく笑みをはりつけている亜弥を見ていた。
はい、そう思います、そうですね、しか言わない。
いつもの明るい輝きはどこにも感じられなかった。
しかし、それは梨沙子しか気付かなかった。

茶を入れ替えようと席を立ち、キッチンに向かった母親が、
じっとリビングの様子を窺っている梨沙子に気付いた。
母親は何も言わずに梨沙子を抱え上げ、部屋まで運んだ。そして、ベッドに座らせ言った。
「今、大事な話をしてるの。遅くまでかかっちゃうと思うから、梨沙子ちゃんは先に寝てなさい」

梨沙子は何も言わない。がらんどうの瞳で、何も訴えず、母親の瞳の向こうを覗くだけだ。
母親は今日はもう寝なさいと部屋の電気を消して階段を降りていった。

月の光が、梨沙子の部屋半分に青白く侵食している。
うすく切り分けられた光と闇の狭間で、梨沙子は藍色の空を見ていた。

5 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:10



亜弥が梨沙子の部屋に来る頻度が多くなり、部屋にいる時間が長くなった。
二、三日に一度だったのが毎日になり、
三十分から一時間ほどの時間がどちらかが眠るまで、になった。梨沙子が先に眠った場合、たいてい亜弥は朝までそばにいる。

一方的に亜弥が話すだけだった。
梨沙子は、それを身じろぎひとつせずに聞く。

亜弥は山に住む木こりの女の子、美貴の話を好んでよくした。
今日は邪険に扱われなかった、とか、
明日は新しい歌を聞かせようかな、とか、
自然な笑顔を見せてくれるようになった、とか、
自分の行く時間にさりげなく待っていてくれるようになった、とか、
本当に楽しそうに話す。

風が強い晩、亜弥は梨沙子が寝る間際にポツリと言った。
「あたしね、結婚することになりそうなんだ」
亜弥の抱える闇を取り除いてあげたいと思った。

6 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:10



木椅子に腰掛け、梨沙子は開かないドアを見続けている。亜弥を待っている。

家族で夕食を取っているとき、父親が当たり前の顔をして言った。
お前だけじゃ決められないだろうから、父さんが返事だしといてやったぞ。
母親が安心したように言った。亜弥ちゃん、照れ屋だから自分じゃ言えないと思っていたの。

パンをちぎりながら、梨沙子は亜弥を見た。
一瞬、驚いた顔をして、泣きそうになって諦め顔になり、笑みを作って固まった。
両親は僅かな間の亜弥の微細な変化に気付かなかった。
静かに微笑む亜弥に、満足気な表情を浮かべていた。

食後の紅茶を飲まずに、亜弥は席を立った。
「お父さん、ありがとう。あたしの代わりに返事してくれて」
それだけ言って自室へ引き上げていく亜弥の背中を、父親がうろたえたように見送る。
勝手に返事をしたのはまずかっただろうか、そんな顔で母親に言葉を求める。
「大丈夫よ。一緒に考え抜いた結論じゃないの。突然のことに戸惑っているだけよ」
父親が安心したのを確認すると、両手でカップを持ち紅茶にうつる自分の顔を見ていた梨沙子に聞く。
「嬉しいわよね、梨沙子ちゃんも。亜弥ちゃんが幸せになってくれたら」
尋ねるというよりも、同意を促すような調子だった。
梨沙子は暗い色彩に揺れる自分と見つめあっている。
沈黙はイエス。家族全員が、亜弥の結婚を祝福している。

紅茶を飲み終えた梨沙子は、自室へは戻らず亜弥の部屋を覗いてみた。
亜弥はいない。窓が開け放たれていた。
梨沙子が窓を閉めて部屋を出ると、母親が階段をあがってくるところだった。
「亜弥ちゃんの様子は? もう眠っちゃった?」
梨沙子は何も言わない。まっすぐに見下ろすだけだ。
母親は、もう眠っちゃてるわよね、そうひとりごちるとそのまま下へ降りていった。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:11

木椅子に腰掛け、梨沙子は開かないドアを見続けている。亜弥は帰ってこない。

階段の軋む音に、首を落としかけていた梨沙子が顔を上げた。
足音が部屋の前で止まると、少しの間があってドアが開いた。

感情の抜け落ちたような表情をしていた亜弥が立っていた。
梨沙子と目が合うなり顔を暗くさせてすりよった。
「とんでもないこと言っちゃった」
言葉の端々に強い後悔が滲み出ていた。
「……かきまぜたかった」
きれぎれの声で言い、梨沙子に抱きついた。
呼吸のたびに上下する梨沙子の薄い腹に頬を寄せ、安堵に瞼を閉じる。
亜弥の体から、粘ついた緑の匂いがしている。

8 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:11



それから五日後、梨沙子は母親に淡い黄色のドレスを着せられていた。
母親は右肩につける赤いアネモネの位置に神経質なまでに気を使い、
それから髪にブラシを通した。

梨沙子の身なりが整うと母親は少し離れて俯瞰し、息を飲んで凍りついた。
あまりにも美しかったからだ。
着飾った梨沙子には自然と気品が漂い、複雑怪奇な色香がたちのぼっていた。
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:12


レストランの床は磨き抜かれていて茶褐色の艶がある。
丸テーブルには清潔で白いクロスがかけられ、
その上で揺らめく蝋燭の炎が繊細な濃淡を作り上げている。

亜弥と結婚相手の母親に挟まれた梨沙子は、
唇の隙間にながすようにしてカボチャのポタージュを口に運んでいる。
音を立てない飲み方に、結婚相手の母親が感嘆の声をあげた。

結婚相手の男はとりたてて特徴のない、優しさだけが特徴のような男だった。
亜弥の両親の手前を慮ってか長い髪を撫でつけてはいるが、
時間の経過でウェイブがほつれたように浮き上がってきている。

パンをちぎってポタージュの最後の一滴まで味わおうとしている梨沙子を見、柔和な微笑を浮かべて言った。
「梨沙子ちゃん、おかわりするかい?」
男は梨沙子の返答も聞かずに目配せと小さな手の動きだけでウェイターを呼び寄せ、注文した。
落ち着きなく水を飲んでいた亜弥の父親が、その洗練された動作を絶賛した。
父親の着る濃緑のジャケットは肘のあたりがテラテラ光っていて、
娘二人に比べてみすぼらしく見える。男は口元をゆがめて笑みの形を作ると頭を下げた。そして、目を細めて亜弥を向いた。
「亜弥さん、今日のドレス、似合ってます」
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:12

席に着いてから、亜弥は一度も話していない。
顔をあげ、男の目を見て、はにかんでまた俯いた。
梨沙子はスプーンを置き、男の目をじっと見据えている。
「ごめんなさいね、この子、照れ屋なもので」
亜弥の母親は恐縮した風に男の機嫌を伺い、亜弥の腕をつつく。
「ほら、あなたもなにか言いなさい」
「いえ、お義母さん。いいんですよ。亜弥さんがいてくれるだけで、
僕は明るく暖かな気持ちになれる。僕にとって、太陽のような存在です」
鷹揚に構え、俯いたままの亜弥を見ながら言った。

そして、亜弥がちらと顔をあげた際に表情を確認するとグラスに口をつけ、唇を湿らせて梨沙子に言う。
「亜弥さんが太陽なら、梨沙子ちゃんは月かな? 不思議な色を帯びて、美しい」
梨沙子は反応を示さず、向こうからやってくる皿を腕に並べたウェイターを眺めている。男は、こういうことを言ってもわかんないかな、先ほどと全く同じ柔和な微笑を浮かべ、
ひとり納得したように頷いた。亜弥の母親が取り繕うようにして笑い声を重ねる。

亜弥は、そっと梨沙子の手を探し、握った。
月は遠い太陽の光を受けて存在している。少しでも近付けば、瞬く間に消えてしまう。

11 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:12



表向きは穏やかな日々が続いた。
もうすぐこの家を出なければならないからと、亜弥はほとんど外出しなかった。
浮かれる両親は、婚前にありがちな感傷だろうと楽観的に捉えていた。

亜弥が梨沙子の腹に頬を寄せている。
あの風の晩以来、憑かれたように亜弥は梨沙子に縋る。
救いを請うように自らの罪を懺悔する。
美貴を傷つけてしまったこと、断りきれずに結婚が成立しかけていること、
優等生になりすまして楽に生きてきたこと、一人では何ひとつ決められない自分自身、
判然としない美貴への気持ち……

上目遣いで梨沙子を見つめる亜弥の瞳は白い。病的なまでの透明度だ。
「太陽なんだって、あたし」
自涜的な忍び笑いをして、梨沙子の腰を抱いた腕に力をこめる。
「そういえば、そうかな。眩しいだけで、いつも決まった動きをしてるもんね」
鼻先を梨沙子の股間に沈め、潜りこもうとする。
鬱屈した思考の連環に錯乱し、軽い退行を起こしている。
太陽、とやや高めの声でくりかえす。
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:13

梨沙子が亜弥の頬を掴んで自分を向かせる。ぎこちなく喉を震わせて言った。
「あやちゃんは、わたしの、おねえちゃん」
亜弥はたじろぎ、狼狽し、それから羞恥に俯いた。

梨沙子が申し訳なさそうに亜弥の髪を撫でる。
「ありがとう」
照れくさそうに亜弥が言った。
髪を撫で下ろされる感触が気持ちいいのか、安らいだように目を閉じている。

13 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:13



階下から、たくさんと足音と、たくさんのひそめ声が聞こえてくる。
ふらりと出て行ったきり戻らない亜弥の安否を気遣った両親が、人を集めたのだ。
結婚相手の両親の呼びかけもあり、かなりの人数が亜弥の捜索に当たった。
時間が経つに連れ、騒動は意味もなく大きくなっていった。

梨沙子はベッドに寝転がり、窓枠に半分欠けている十日余の月を眺めている。
静かに射す月光に、梨沙子の顔が仄白く浮かび上がる。
上空では風が流れているようだ。
色味の薄い雲がうねるように形を変えていく。
やがて分厚い雲が月を覆い、闇が濃くなった。
梨沙子の顔は明るく輝いたままだ。
むくりと起き上がり、階段を降りる。
ざわめく大人たちの隙間を抜けて外に出た。
亜弥の母親が家を出て行く梨沙子に気付き、
呼び戻そうとしたが亜弥の結婚相手に話しかけられ時機を逸した。

覆っていた雲が晴れ、月は煌々と照っている。
亜弥の話から、木こりの女の子のいる場所は見当がついている。
梨沙子は淡々と歩を進めた。速くも遅くもなく、乱れもしない、無駄のないペースだった。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:14

家の前の踏みかためられ岩のように硬くなった土の道を行き、
月明かりに蒼い石畳の坂道をあがり、
未だ灯りの漏れる豪奢な建物の並ぶ繁華街を抜け、
雨が降ると氾濫する大河を渡り、腐葉土の湿る山の中へと足を踏み入れた。

鬱蒼と茂った木々に月が隠される。
風が吹くと草木のざわめきが幾重にも重なり、陰気に響く。
目を閉じ、息を潜めて梨沙子は何かを探る。
目を開け、方向を定めると駆け出した。一直線に走る。
密に重なりあう草や木や蔓や蔦や石や倒木が梨沙子を避けていくようだ。

できあがっていないうえに運動に慣らされていない梨沙子の肉体は息がすぐに上がり、
太股が硬く張り詰める。脹脛は地面を蹴る負荷に耐え切れず痙攣してしまいそうだ。
吸気がカラカラに渇いた喉を刺す。脳の酸素が欠乏し、視界が白く曇る。

柔らかな艶のある歌声が聞こえてきた。
全てを恨んだ呪詛のようにも聞こえるし、
哀愁を帯びた啜り泣きのようにも聞こえる。
気の狂いそうな孤独を宥める自慰のようにも聞こえるし、
誰にも到達できない優しさに辿り着いた愛の歌のようにも聞こえる。
梨沙子の胸中に小さな亀裂が走った。
肩で大きく息をしながら、ゆっくりと速度を緩め、
それが歩行にまで落ちたとき、視界が開けた。
切羽詰ったような、燃え尽きる前の閃光が、あった。
梨沙子には、それがはっきりと見えた。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:14

木こりの女の子、美貴なのだろう。
手足が長いせいか、髪型のせいなのか、梨沙子のいるところからは男の子のように見える。
呼吸を整えながら緩やかな傾斜を登り、梨沙子は目の前に立ちはだかる大きな岩に触れ、
亜弥と美貴を見上げる。歌の余韻がすっと消え、同時に小さな笑い声が聞こえた。
話し声がするが、風に攫われ梨沙子のところまでは届かない。

聞き覚えのある男の舌打ちが聞こえ、梨沙子は振り返る。
「お義母さんに言われてね、もしかしたら梨沙子ちゃんが何か知ってるかもしれない、って」
草木で切ったのか、どころどころに切傷がある顔を歪ませる。
「亜弥さんの心が違うところにあるのは勘付いてたけど、まさかシコメとはね」
乾いた笑いを語尾に紛れ込ませ、目の色を変えた。
嫉妬ではない。
思い通りにならなかったこと、見返りがなかったことに対する
手前勝手な怒りを裏切りと混同させた醜い感情に、目が濁っている。
「何も気付かないほどバカだと思うな」
短く吐き捨てると、岩に手をかけ、足場を探した。
梨沙子は止めようと男の足を掴むが、邪魔するなと思いきり蹴飛ばされる。
ゴロゴロ転がりながら木に背中を打ちつけ、止まった。軽く咳き込みながら断崖を見る。
男が岩の中腹にまで到達している。

終わりの歌が聞こえる。
それぞれの最期を過ごす亜弥と美貴は気付かない。

 梨沙子は、二人の邪魔をさせたくない、と思った。

16 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:15

はっきりとした自我の発露に亀裂が破れ、
守り続けていたもの、抑えつけてきたものが一気に噴出した。
夜より暗い禍々しい帯状の黒が凄まじい速度で伸びていき、
男の足を絡めとり地面に叩きつけると、その絶叫もろとも喰らい尽くし、塵すら残さない。
まだ喰い足りないのか、次は亜弥と美貴を目指す。
制御できない、梨沙子は目を閉じた。

美貴は異質の存在。
黒は躊躇ったように上空を旋回し、機を窺っている。

月は遠い太陽の光を受けて存在している。
少しでも近付けば、瞬く間に消えてしまう。

美貴の歌声の輪郭がぼやけ、透けていく。
泣き濡れた亜弥が、幸福の顔をしている。



17 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:15
 
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:15
 
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/19(火) 23:15
 

Converted by dat2html.pl v0.2