58 ワニの話
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:45
-
58 ワニの話
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:47
-
窓の外は真っ暗だ。ただその暗闇がぐねぐねと唸りながらガラスを揺らしている。
しっかり防音されているためどこか遠くでいながら耳の奥で感じるような嵐の気配
が聞こえていた。右手でカーテンを押さえ空いた手で冷たく結露したガラスに絶え
間なく降り注ぐ雨粒を感じる。もう何時間も降り続き、予報では明日いっぱい天候
は回復しないという話だ。気象予報士は川の増水に注意してくださいと言っていた。
雨が降る、川が溢れる。最近そう話が直結することはなくなった。川どころか用水
路すら溢れない。治水ってやつが進んだのだろうか。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:48
-
と思っていたらあたしの地元は酷い目にあった。これが忘れたころにってやつなん
だと知った。川は増水し堤防まで決壊した。あたしは実家に帰れなかったのでテレ
ビで見るだけだったけど、もうどこが川でどこが住宅地なのかも分からない有様だ
った。用水路? そんなのはもう問題にすらなっていない。
でもこうして雨がざあざあと――ざあざあという音で降っているのか確かめていな
いけれど――降っていると、特に台風が来てるときなど、あたしは用水路が溢れる
ことを思ってしまう。どこかで詰まったのか、流れ去るよりも降り注ぐ量が多いか
して用水路が溢れる。T字路のマンホールがむせるように雨水を吐き出すのだが、
道路すべてが水没しているため、出た分だけまた飲まされている。用水路の方で溢
れた分は家の庭へ、門を越えて進入してきて辺りを水浸していった。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:49
-
あたしはカーテンを開け磨りガラスになっていない上半分のところまで背伸びして
外の様子をうかがったが、室内の明かりが反射してしまって何も見えず、家族みん
なが天気予報を見ている隙を狙って少しだけ戸を開けた。瞬間、突風が雨と一緒に
吹き込んだ。その強さにびっくりした。お父さんに怒られながら戸を閉めたあたし
は怖いのと楽しいのが入り混じった興奮で、タオルで拭いてくれているお母さんに
尋ねる。こんまま雨降りよったら家浮んでまうのほれとも沈むん?
お母さんは心配しないでいいから早く寝なさいと言ってあたしを安心させようとし
たが、何年かして知ったところこの日の台風は結構危険なものだったようだ。むし
ろ心配していたのは天気予報を見ていたお母さんたちだったろう。それとお母さん
はもちろんこんな綺麗な言葉で話したはずがなくて訛っていたはずなのだけど、今
も訛ったままのお母さんの言葉で当てはめてみても、どこかしっくりこない。もっ
とぐちゃぐちゃなと言ったら怒られるけど、もっと凸凹な、踏んでしまったおまん
じゅうみたいな言葉で言っていたような気がし、あたしはそれを聞いたので何の心
配もなく布団に入ったのだ。そういう言い方だった。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:50
-
翌日はお母さんの予言どおり、雲一つない快晴だった。何とか低気圧に変わったの
か進路を変更したのか知らないが――案外魔法使いがシャラララランとスティック
を振ったのかも――道路はすでに乾いていて、用水路も底の方にちょっと水がある
だけのいつものそれだった。お隣の山本さんちの前のT字路でマンホールがキラキ
ラと輝いていた。ん? この小さい時のことを思い出しながら首をかしげる。あた
しはあの碌に目も開けられない雨風の一瞬の隙間から、暗い外の様子をどうやって
知ることが出来たのだろう。
そう、多分昼間の内に既に道路は水没していたのだ。あたしはキティちゃんの長靴
を履き、マンホールから沸き上がる水を飛び越えて遊んだ。陽子ちゃんが通りかか
って――やっぱり長靴だったが、ピンクの可愛らしいものだったのですごく羨まし
く、新しい靴を買ってもらえるときにそれをねだったのだけど、長靴なんか一つあ
ればいいと買ってもらえなかったのを覚えている――水が吹き出てくる穴に指を指
しこんで喜んでいた。だがそのうち抜けなくなり、彼女は苦労して引き抜いた赤い
指を泣きながら見つめて帰っていった。あたしは飛び越える専門だったので無事だ
った。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:51
-
家の外の世界はそんな感じだ。いつものままそこにあった。でも門を入り車を停め
るスペースを越えるとうちの庭は水浸しで、昨日やはり台風が来たのだということ
を教えてくれた。それとワニがいた。
ワニは刈るのを怠ったせいで足の長くなった芝生が水草みたいにゆらゆらする間で
じっとしていた。と言ってもそれはほんの子供で10センチ程度しかなかったと思
う。よく見るトカゲとほとんど同じ大きさで、色はそれよりも褐色がかっていた。
肌の凹凸も心持ち大きかったと思う。それと一番違ったのは頭で、トカゲが(口の
ほうで少し長い)菱形なのに対して長方形、箱型だった。初めビニール製のオモチ
ャかなと――あたしかて普通日本の、動物園も近くにない田舎の家にワニがおるな
んて考えんで――思ったら、薄く開いた目がこちらを向いた。光は後ろから射して
いたのだが、暗い目はきらりと光った。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:52
-
どのくらいの間あたしはワニを見ていたのだろう? もう覚えていない。間が飛ん
でワニが去っていく姿を思い出す。ワニは前触れもなく、だが唐突という感じもな
しに悠然と振り返ると、芝の水草が流れのため左右に分かれた間を泳いで消えた。
上半身(上半身?)はそのまま前足も脇の側でたたんでほとんど動かさず、腰から
下で全部一まとめにくいっくいっと、右、左、右、左と動かして――その後を半テ
ンポ遅れた尻尾が緩やかに、みぎぃひだりぃみぎぃひだりぃと追う――泳いでいた。
ワニが水草の込み入った辺りに姿を消した瞬間あたしは、あっ捕まえとけばよかっ
たと――あたしんちにワニ出よったんやから!――思ったのだが、もう遅かった。
いや、その時探していればまた見つかったのかもしれないけど、あたしはそうしな
かった。何となくこれは、このワニは消えるものだと思っていたのかもしれない。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:52
-
それから雨の強い日には時々ワニのことを思い出した。用水路がまた溢れその水で
庭が水浸しになればワニが帰ってくるような気がしていた。だがワニを見たことは
誰にも言っていない。友達にも家族にも。笑われるのは分かっていたから。家の庭
にワニがいるなんてありえないと言われるのはよく分かっていた。あたしだってや
はりそう思うから。あれはただのトカゲだったのだとも考えた。肌の感じは水と光
の反射のせいかもしれないし、頭の形だって今どんなのだったかしっかりとは思い
出せない。そんなことよりもあたしは昔からハ虫類なんて大嫌いだから、トカゲが
どんな姿なのかもよく知らなかった。ただやっぱりあれはワニだったと思う。そし
てあたしはワニが鳴くのを聞いた。見つけたときも泳ぎ去る時も口を閉じたままだ
ったが、きっとその間の時にワニが鳴いたのだ。きゅうと鳴いたのか、ぐわぁなの
かは分からない。あたしは覚えてない。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:53
-
こうして外で降る強い雨を思うとつい心が弾んでしまう。ここは実家ではないし、
コンサートで来て初めて泊まるホテルの十二階なのだけど、ガラスの外でワニがく
いっくいっと泳いでやって来るような気がする。そうだ、あれから十年くらいたっ
ている。あたしが見るのはトカゲ似の小さいままのか、それとも映画で見るみたい
な、アマゾン川で小舟に喰らいついて転覆させ乗っていた人を泥の中に引きずり込
んでしまうような大物だろうか? 答えは後者だった。それもかなりの巨体。引き
ずり込む必要なんてなく、その場でパクリといけそうな勢いだった。と言ってもそ
れを見たのは遠いあたしの実家でもなければ十二階の窓の外でも、ましてアマゾン
川でもなくて、翌日のすっかり晴れ渡った朝――やっぱり晴れた、シャラララン――
会場入りする前に河川敷の堤防を何人かで散歩した時だった。
多分東京ではヨシズミが川の増水について注意していたのだろうけど、ここではあ
のつまらないうんちくも、安藤さんのテキトーな相槌も見られない。まあ、こちら
でも代わりの誰かが注意していたとは思うけど、て言うか言ってたわ。ともかくち
ょっとぶらついてみようという誰かの提案であたしたちは堤防の上を散歩した。す
ると下へと降りる階段とそこからほど近く道らしきものがあり、何気なくその川淵
へと進む先を眺めたあたしは声を漏らした。あ。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:54
-
「うん? どした高橋」
吉澤はすぐ後ろを歩いていた高橋を振り向いた。彼女がぼんやりと立ち止まってい
るので吉澤も足を止めた。二人は集団の一番後ろで騒ぎもせず歩いていたため、前
を行く矢口たちは気付いてなかった。朝から爆笑している。たえず右へ左へスウィ
ングする歩き方で、いつまでたっても遠ざからない。吉澤はちらっと確認し、さて
返事のない高橋を再度見やるがいなかった。キョロキョロと視線を廻らす。彼女は
かなり後退していているだろう川岸に立っていた。と言ってもそこらじゅうで水が
溜まっているので、どこまでが川かは判別しかねる。
高橋はすっかり葦が倒れ出来たスペースで心持ち前屈みで立っていた。
「おい、どーしたよいきなり」
吉澤が近づきながら声をかける。同時に足元でびしゃんという音がたった。
「うっわ、水浸しじゃんこの辺っ」
濡れるのを嫌い爪先立ちのジャンプに切り替える。だがそれは余計に水を蹴り上げ
ることになった。高橋の側へたどり着いた時には胸のところまですっかりびちょび
ちょになっていた。
「あーあ、ひでぇ。ぐっしょり来てるよ。まったく高橋がこんなとこに降りるから
‥‥ってお前靴沈んでるますよ完全に、水に、いやくるぶしまで」
だが高橋は理解したというよりはただ音に反応したという感じに自分の足元を、あ
あほんまやと見ただけだった。また前方の水面へと目を向ける。
「あれ? えっと、いいの? 靴‥‥」
返事はなかった。しばらくの間二人は黙って突っ立っていた。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:54
-
吉澤は濁った水が転がるように流れていく川面を見、時々思い出して濡れた服をパ
タパタとはたいた。はたから見て濡れているのが分かってしまうか確かめようと胸
の生地をつまみ顎を引く。自然足が片方少し下がった。じゃぷ。息を吐いた。もう
何でもいいや、吉澤は力なく呟くともう片方も同じところに揃える。おんなじおん
なじ。
なっ、そして吹っ切れた笑顔で高橋を見た。それでも彼女はまだぼんやりと1メー
トルほど先の泥水を眺めている。
「たーか橋、高橋さん? あの、あれそこ、どおしたのさ、なんかいる?」
手を二三度叩きこちらを向いたのを確かめてから、噛み砕くようにゆっくりと尋ね
た。
「なんか?」
高橋は頭をちょっと傾ける。
「いや、ずっとその辺見てるじゃん」
「その辺て言うか‥‥」
「あん?」
「ワニ」
「は?」
「ワニ見てるんですけど」
「ワニ?」
「見えません?」
「どこに?」
「そこに」
「何が?」
「ワニ」
「ワニ?」
「見えません?」
「何がだって?」
「ワニ」
「ワニ?」
「見えません?」
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:55
-
ちょ、ちょっとタイムね、吉澤は相手に向かって手を上げる。高橋は気にする様子
もなく、またワニを見るのに戻った。彼女の視線の先で巨大なワニがじっとしてい
る。尻尾の先は川の中に消えてしまっていて体長がどのくらいか正確には分からな
いが、少なくとも3メートルは下らなそうだ。褐色の皮膚は整然と縦横に区切られ
鱗状で堅そうだったが、背の辺りではごつごつと隆起してそのまま骨のようだった。
足は短い上に体を浮かそうとはしていなかったので、低いところにある口は水に沈
んでいたが、ワニは別に気にした様子もない。それどころか時々下顎を微かに揺ら
せて尖った牙を覗かせた。顎を揺らせた理由は分からなかった。何か食べているの
か痒いのか水を飲みたかったからなのか、表情らしいものは浮かんでこない。暗い
二つの目はずっと高橋の方を向いていたが、よく光るのに関わらずどこかぼんやり
としていて、焦点が合っていないように見える。それと頭の形はトカゲとなんら変
わらない菱形だった。
「‥‥ワニいるんだね?」
吉澤は聞いた。
「はい、そこに」
高橋は答えながら指差す。するとワニが前足にぐっと力を込め、大きな口を反動を
つけるためか下に下げたので、おわっと慌てて腕を引いた。吉澤がここで一緒に立
ってから初めてする動きらしい動きだった。ワニはまた先ほどまでの姿勢に戻った。
白い牙の覗く口はすっかり水に沈んだ。ただ一度下へ動かしたために鼻も濡れ、そ
こから小さな泡がポコポコと出ていた。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:56
-
吉澤はひとしきり頭をかく。ワニねえ、ワニ。
「いるね、ワニ」
そして言った。すると思いのほか高橋が笑顔で振り返り、
「いますよねえ、すごいですよねえ」
と応じる。その生き生きとした顔をじっと見ながら、
「でかいね、でかいよねワニ」
「おっきいですねえ、何メートルくらいあるんやろ?」
「え、あの、何メートルかな? 5メートル?」
「5メートルありますかねえ? や、でもあるかもしれん」
「ありそうじゃん?」
「すごいですねえ」
「すごいねえワニ」
「何食べるんですかねワニ」
「ワニ何食うんだろうねえ。高橋食われちゃうかもよ、そんな近くいると」
「さっき指咬まれるかと思いました」
「そりゃ怖い」
「怖いですねえワニ」
「ワニ怖いねえ」
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:56
-
ワニはほとんど動かなかった。ただモゴモゴ、ポコポコ。そして高橋のことをぼん
やりと見ていた。吉澤に気づいていないのか、そちらはまったく気にしなかった。
じきに切れ目のような鼻から泡が立たなくなる。すっかり水が乾いていた。照りつ
ける日が強い。背も飛び出た部分ではもう光を反射しなくなっていた。陰でまだ残
っている湿り気が水路のように流れている。その黒い水路まで細く消え去り始める
とワニは僅かだが体を揺らすようになった。
「もぞもぞしてますね」
「あ、ああ、してるねえ」
「あたしのこと食べる決心でもしてもたんやろか?」
「そりゃ怖い」
「怖いです」
そう言って彼女は本当に体を震わせた。吉澤はその肩に腕を伸ばす。
「あ、危ないっ」
だが届く前に振り払われた。ワニが初めて視線を動かしていた。鼻からまた泡が出
ていた。
「今狙ってましたよ絶対」
と言いながら、吉澤の手の届かない方へと身を遠ざけた。
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:57
-
吉澤は手を空しく戻しながら、
「危なかった?」
「多分」
「やっぱそのさ、ワニ危ないよ」
「そうですね」
「こっち来な、怖いじゃん。て言うかもうさ」
「‥‥ぅおーい、よっすぃに高橋。何してんだよお前らー」
吉澤が振り返ると、先を行っていたはずの面々がちょうど自分が下へ降りるのに使
った階段のところまで戻ってきていた。高橋は振り返らなかった。
「ああ、矢口さーん」
手を振って吉澤が応じる。
「気が付いたらいないからビビったってのっ。こんな一本道の堤防なんだからさ」
と先頭の矢口が階段に足をかける。だが下の有様が目に入ったのだろう、すぐに立
ち止まった。
「いいからもうっ、戻ってきなよ。なんかあるの?」
「あー、なんか、そうですねえ。まっ、戻ります戻ります」
高橋を見やった。彼女は手に細い葦を一本持っていて、それを前方へと差し出そう
としていた。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:58
-
ワニは近づく物体を眺めている。葦を、そしてその先の人間を見る。いつの間にか
鼻先が水に沈んでいる。泡は泥の中から浮かんできて、水面で弾けた。前足の屈折
が強くなった。遠く5メートルほど先でパシャンと音がたった。先の震える葦が近
づいていく。ワニの目が揺れる。そして光った。
「さ、もう戻ろうっ」
吉澤が乱暴に高橋の体を引いた。あ、彼女は小さく声を漏らし、手にしていた葦が
泥の上に落ちた。他のと紛れもう区別はつかなかった。ワニの鼻がまた姿を現した。
高橋の体をさらに引き寄せる。自分でも近づいた。体がぶつかったところは水が深
くて、二人とも脛まで沈んだ。
「ね、高橋」
優しい声で話しかける。彼女はその量に応じるように穏やかな顔で吉澤を見た。
「みんな待ってるしさ、もう戻ろう」
笑顔には笑顔が返ってきた。それからゆっくり、はいと聞こえた。
「今そっち行きまーすっ」
吉澤は堤防の上へと大きく両手を振る。向こうから早くしろよバカだなんだと文句
がしてくる。どうもすいませーんとすまなそうな様子もなく笑いながら、だが今は
右手だけ振った。空いた手は後ろにやる。細い手首に触れたので、しっかりとつか
んだ。確認するように二度握りなおすとその手を引く。彼女は動かなかった。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:58
-
「高橋?」
吉澤はいつの間にかまた川淵を向いてしまっている目を見ながら尋ねる。
「戻らないの?」
握った手から伝えるように腕を優しく揺すった。
「あ、はい、戻りますけど‥‥」
「けど?」
「あの、今ワニが」
と、突然水の跳ね上がる音がした。高橋の正面に回りこんでその目を覗いていた吉
澤は驚いて振り返る。
ワニは一瞬まるで二本足で立つかのように体を起こすと横へ跳んだ。
「うお、跳びおったっ」
高橋が興奮し叫んでいた。すごい、すごいワニ跳んだ。1メートルかな、いやもっ
とやろか?
「どうかしたのー?」
階段に片足だけかけたままの矢口が大声で尋ねた。吉澤は乱された水面を慌しく探
っていた。先ほどよりも広い範囲で葦が倒されているようにも見えるし、まったく
変わっていないようにも思えた。波紋がそこらじゅうでたちすぎて、中心の見分け
がつかなかった。吉澤はまだ視線を左右に振りながら、
「跳んだねえ」
とただ呟いた。それからふと思いついたかのように2メートルは跳んだでしょ、と
付け足した。
「そうですねえ、行ってそうですね」
高橋は楽しそうに頷いた。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/14(月) 23:59
-
その顔を見、何となく自分も笑顔になっていた吉澤は、左の泥水の方でまだ音がし
ているのに気付いた。泥まみれでよく分からないが、どうやら30cmほどの魚が
びちゃんびちゃんと跳ねていた。せわしく動く口の辺りで泥の玉が生まれては弾け
ている。
「ホントでかいねえ、これ」
吉澤は得心がいったように声をかけた。
「おっきいですねえ、ホント」
魚は苦しさからさらに激しく身をバタつかせる。そのため泥が辺りへ飛び散る。魚
はますます泥にまみれ、今では半分埋まってしまった。どうやらそのまま水に戻る
つもりのようだった。吉澤は面白そうにそれを眺めた。魚の頭はすっかり見えなく
なっていて、ただ溺れた者のように泡がポコポコ途切れず沸いていた。
「息できるのかなあ?」
「ちゃんと鼻は出してるから大丈夫なんじゃないですか?」
「鼻? もう全部泥ん中じゃん」
「そうですか?」
「それにそうだ、肺呼吸じゃないんじゃなかったっけ?」
「はい?」
「肺」
「肺」
「そう、肺」
そして自分たちの左手の方を指差した。
「ああ、もうエラまですっかり水の中だ」
高橋は吉澤の指した方を見、魚を見た。葦の上に上がってしまった魚が今ようやく
水の中へ帰ろうとしていた。
「もう戻れそうですね、あの魚」
そう高橋が言うと吉澤はちょっと驚き、だがすぐに喜んで、
「だ、だろっ? あれ、助かったねえ。あ、もう泳げるみたいだ」
「おっきいですね」
「でかいねえ」
「ワニはあっちですよ」
と彼女は右手を示した。
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/15(火) 00:00
-
「あれ? あの‥‥」
戸惑った表情で吉澤は言いよどんだ。
「戻りましょうか?」
高橋は言う。特に怒った様子も、ガッカリした様子もなかった。
「あ、戻る?」
聞きながら川べりを探した。その時ワニが音もなく身を反転する。そしてまだ荒れ
た水面を、むしろ静めるかのような滑らかな仕草で川へと消えた。その際見えた尻
尾はそれだけで3メートルは優にあった。尻尾の先端まで濁った水中に消えるのを
見届けてから高橋は、ワニも川に帰っちゃいましたからと微笑んだ。
「そっか‥‥」
吉澤が返せたのはそれだけだった。
堤防の上に戻ると二人は矢口たちに怒られた。いきなりいなくなっていたし、全身
ぐっしょり濡れていたからだ。昨日の雨で増水してるから危ないでしょ、そう言わ
れたとき高橋が少し笑った。
「ともかく、もう時間ないから帰るよっ。服も変えないと」
みんな一緒に来た道を帰り始めた。高橋が先頭を歩いた。後ろで矢口がいったいど
うしたのかとさらに吉澤に尋ねていたが気にしなかった。吉澤はいやあ、どうなん
ですかねとか、ちょっと川近くで見たくなったんですよとか曖昧に答えていた。な
んだよそれ、矢口らは納得してないふうだった。
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/15(火) 00:00
-
「あ」
高橋が止まりかける。だが吉澤がすかさず側へと寄ってきて心配そうに見つめたの
で、彼女はううんと軽く首を振ってまた歩いた。ただ微かに先ほどの川原へ耳をす
ませていた。今ワニが鳴いた。
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/15(火) 00:00
-
終りです。
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/15(火) 00:01
-
間に合ってないなこれ。
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/15(火) 00:01
-
残念。
Converted by dat2html.pl v0.2