53 キンセンカ
- 1 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:28
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53 キンセンカ
- 2 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:29
- 朝、目が覚めると何故か胃がしくしくと痛んだ。しかし、胃が痛む原因となるものに
心当たりがなく、私はベッドの上でしきりに首を捻った。今にして思うとそれは何かを
予感させるものだったのかもしれない。
- 3 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:31
- * * *
「後藤さん、暇そうだねぇ」
声をかけられ、ステンレス製のシンクにもたれていた背をゆっくりと離した。
「いやぁ、ほんと暇ですねぇ」
私の正直な返答を聞いて店長は苦笑いを浮かべる。私はそのままフロアを見渡した。
片手で十分といった数の人の頭がここから見える。
最近のフランチャイズの喫茶店にしては珍しい、BGMがクラシックだけというこの店
はあまり客の入りが良くない。商店街の中にあるビルの二階にあり、そして、昼夜構わ
ず照明が押さえ気味なので少し陰気な感じがする。若者の客は滅多に来ず、常に静まり
返り、仕事をサボりに来た中年のサラリーマンくらいしか来ない。
「いらっしゃいませ。何名様ですか」
入り口の方から数十分ぶりに聞こえたこの声を耳にして、曇り気味だった店長の表情
がようやく晴れた。最近では一日にこの言葉を聞く回数が日に日に減っている。
洗い場担当の私の仕事は本当に暇だった。料理をするわけでもないし、客が増えない
限り、汚れた食器も回ってこない。濃度の高い業務用洗剤で手が荒れることもない。ラ
ンチタイムだけがそれなりに忙しいかな、といった感じだ。
「ねぇねぇ、今日新しいバイトが入るっていう話聞いた?」
注文を聞いて戻って来た梨華ちゃんが話しかけてきた。今、フロアには彼女ともう一
人しかウェイトレスがいない。50席以上あるのに、それで十分足りるのだからこの店は
終わっている。そろそろ違うバイトを探した方がいいのかもしれない。
- 4 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:32
- 「知らないけど、新しい子なんて入れて給料払えるの?」
あまり売上が良さそうとは思えないこの状態で、人を増やしてどうするのだろう。梨
華ちゃんも同じことを思っていたようで、
「それがさぁ、店長の親戚の子ですっごい可愛いらしいの。で、店長は男の子の客が増
えるかもって期待してるんだって」
「何それ」
私は首を傾げた。可愛い子目当てで来る客なんているのだろうか。梨華ちゃんだって
十分可愛いけど、入りたての頃と今とでは客の数に変化はない。
それより、店長らしくない考えだな、と思った。ここは硬派を売りにしているような
店だというのに。それくらい切羽詰ってるとも考えられるけれど。
その後、梨華ちゃんと二人でくだらない話をしていると、裏口で人の気配がした。軋
むドアの音に反応して振り向いて見ると、ひょっこりと可愛い子が顔を出した。
「こんにちは。今日からここで働くことになった松浦亜弥って言います」
にっこりと笑った彼女の髪には黄色い菊のような小さい花が飾られてある。それを見
て、私は何となくこの子が嫌いだと思った。
- 5 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:34
- * * *
それから一ヶ月が経つと、店長の思惑通りこの店は繁盛し始めた。たった一人の少女
を求めて若い男性が毎日通う。狭い世界ではあるけれど、彼女は確かにアイドルになった。
「凄いよねぇ、あの子」
表向きには感心しているように聞こえる言葉だけど、梨華ちゃんは面白くなさそうだ
った。ライバル視しているのが見え見えだ。
「それだけ馬鹿が多いってことじゃないの」
シンクの中に溜まっているグラスへ視線を落として、私がどうでもよさそうに言うと、
気分を害したのか、梨華ちゃんはむっとしてフロアに戻っていってしまった。もっと話
に乗ってもらえると思っていたのかもしれない。代わりに張本人がやってきた。
「ねぇ、まっつー。今、満席?」
「うん。忙しいよ」
厨房にいるとフロア全体が見れない。活気があるのは何となく判るのだけど、平日の
昼過ぎで満席になるのは一ヶ月前なら有り得ないことだった。
「ほんとにまっつー様々だねぇ」
「その変なあだ名変えてくれないかなぁ」
まっつーはため息まじりで呟く。エスプレッソの機械の扱いも今では慣れたもので、
カップが満タンになるまでに手早くソーサーやスプーンをセットしている。
「別にいいじゃん。皆はあややって可愛いあだ名で呼んでくれてるんだし」
客の一人がまっつーの名前を聞き出し、勝手につけたあだ名を広めてしまっていた。
彼女自身はそのあだ名が結構気に入っているようで、注文を取りに行く時にあだ名で呼
ばれてもにこにこしている。飲み屋じゃないんだから、とボヤく梨華ちゃんの気持ちも
少し理解出来る。
- 6 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:35
- 「まっつーはどんな店でも人気者になりそうだね」
「ちょっとした魔法を使っただけだよ」
「魔法?」
「そう。私、魔法が使えるんだ」
頭がおかしい子なのかな、と思ったけれど口にはしなかった。けれど、それが顔に出
ていたようで、まっつーはくすりと笑って髪を指差した。そこには初日から飾られてい
る花がある。
「簡単なことだよ。こうやって目立つことしておけば、自然と人の目を引くでしょ。制
服は皆一緒なんだからさ」
まっつーはそう言って、出来上がったエスプレッソをトレイに乗せて去っていった。
「なるほど……」
思わず納得してしまった。梨華ちゃん達と一緒の制服姿のままでは目立てないから、
自ら目印をつけたというわけだ。自分が可愛いことをきちんと理解しているし、自分の
見せ方もよく判っている。
「ごっちん、手が止まってるよ」
汚れたグラスを載せたトレイを器用に三つ持って戻って来た梨華ちゃんが目ざとく注
意してきた。その胸には黄色い花があった。まっつーが髪につけてた花と一緒だ。
「可愛いよね、これ。頂戴って言ったら胸に挿してくれたの」
私の視線に気付いた梨華ちゃんは嬉しそうに微笑む。現金な人だ。
それにしても、たった今、自慢そうにその花について喋っていたというのに、手放す
のを躊躇ったりはしなかったのだろうか。一体、どういう気持ちの変化なのだろう。自
信家の考えることはよく判らない。
ふと、髪じゃなくて胸につけさせた意味があるのだろうか、と私は首を捻った。
- 7 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:36
- * * *
「ねぇ、付き合ってる人とかいるの?」
ちょっとした間が出来た時に、裏に引っ込んでいた梨華ちゃんはまっつーを捕まえて
興味津々といった面持ちでこう尋ねた。
「今はいないよ」
「えー、なんでなんで? ちょっと意外なんだけど。てっきり、とっかえひっかえやっ
てるのかと思ってた」
結構酷いことを口にして梨華ちゃんが派手に驚くと、まっつーは困ったように苦笑い
を浮かべて、グラスを磨き始めた。少しでもサボろうとする梨華ちゃんとは大違いだ。
「前好きだった人が忘れられないっていうか……。まぁ、片思いだったんだけどね」
「でも、告白したらOKもらえるんじゃないの? 振る人がいるとは思えないもん」
「うーん、もう遠くに行っちゃったから。だから、しばらくはいいかなって」
「あー、遠距離かぁ。それは辛いなぁ」
予想に反して一途だったりするのか、などと思いながら、二人が喋っている間、私は
黙々と皿を洗っていた。他人の恋愛話に興味はないし、こういう会話は苦手だ。
「サイクルの早いごっちんとは正反対だね」
「へー、結構浮気性なんだ、ごっちんって」
まっつーは意外そうな顔をして、ちらちらと私を見た。
「浮気性って言うのじゃなくて、長続きしないだけっていつも言い訳してるけど」
梨華ちゃんはわざとらしく、肩をすくめた。わざわざ言い返すのも面倒だったので、
私は深々とため息をついて、黙々と皿を洗い続ける。
- 8 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:37
- 別にいい加減な気持ちで付き合ったりしているわけではなくて、本気になれないだけ
だ。私は昔から本気で誰かのことを好きになったりしたことがない。自分自身のことす
ら、どうでもいいと思ってしまう時がある。
きっと、私は人として重要な何かが欠けているのだろう。
「でもね、ごっちんの場合はしょうがないんだよ。前に付き合ってた人が事故で亡くな
ったから。やっぱ、そういうのがあると、しばらく引きずっちゃうよね」
こっちが黙っているのをいいことに、さっきから余計なことばかり、ぺらぺらと喋っ
てくれる。無神経というのはこういう人にぴったりな言葉だと思う。
顔を上げて梨華ちゃんを軽く睨みつけても気付いてくれない。口で言わないと判らな
いだなんて可哀想な人だ。そう思って、口を開こうとした瞬間、
「そういう話は他人が気安く喋るべきじゃないと思うよ」
「え?」
言われた梨華ちゃんはきょとんとしている。私も少し驚いて手を止めた。
「しかも、本人目の前にしてデリカシーなさ過ぎるんじゃないの」
そう言って、まっつーは磨き続けていたグラスを掲げ、満足したように一度頷くと、
梨華ちゃんに押し付けた。固まってしまっている梨華ちゃんに向かって、まっつーは無
邪気な笑みを浮かべている。
まっつーが磨いた曇り一つないグラスをぼんやりと見つめて、潔癖症なのかな、と私
は思った。
- 9 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:39
- * * *
昼過ぎの休憩は十五分で、裏口にある薄汚い階段の踊り場でまかないを食べる。今は
もういない先輩達が残していった雑誌があちこちに鎮座していて、雑然とした場所だ。
誰も片付けようとはしない。
その日も漫画を読みながらカレーを食べていた。うちの店にはカレーやパスタ類くら
いしか主食となるものがないので毎日食べていると飽きるのだけど、タダだから文句は
言えない。
「いないと思ったら、先に休憩入ってたんだ?」
パスタの皿と飲み物を持ってやって来たまっつーはふわりと笑った。この笑顔が抜群
の客寄せパワーを発揮しているのだろうけれど、私は苦手だった。
特に私の方から話すこともないので、隣にまっつーが座っても素知らぬ顔をして漫画
の続きを読むことにしたのだけど、横からの視線がどうも気になる。パスタに手をつけ
ようとはせずに、彼女はじっと私を見つめている。かなり居心地が悪い。
「……早く食べないと冷めるよ?」
ため息をついて目を合わせると、まっつーはぱっと花が咲いたように笑った。この子
は笑顔の種類も豊富だ。ただ時折、こうして二人きりになったりすると表では出さない
表情を見せる時がある。多分、気の所為だとは思うのだけど。
- 10 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:40
- 「ごっちんって料理はしないの?」
「ここではしないよ。だって、作る人いるから」
私は洗い場専門で、厨房の担当は他にいる。
「でも、石川さんが言ってたよ。ごっちんって凄い料理上手なんだって」
「まぁ、家では作るけど」
相変わらず、余計なことを喋ってくれる。一度きちんと文句を言っておくべきかもし
れない。私がスプーンをくわえた口を歪ませていると、まっつーは躊躇いがちに口を開
いた。
「ねぇ……。私、料理下手だから教えてくれないかなぁ?」
「え?」
「この年で料理が出来ないっていうのもねぇ。ママに頼むの恥ずかしくって。ダメ?」
ママねぇ、と少し呆れている間に、まっつーは勝手に話を進めていく。気が乗らない
ので本当は断りたかったけれど、あまりにも押しが強く、最後には捻じ伏せられてしま
った。
「今度の金曜はどう? ごっちん、シフト入ってなかったよね? 私も入ってないし」
そう言って、まっつーは目を細めて笑った。そういえば、私達のシフトは似通ってい
る。あえて私と合わせているのだろうかと疑いたくなるほどに。
結局、まっつーは話が終わるまで一口もパスタを食べなかった。
- 11 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:41
- * * *
金曜日は朝から快晴で、風が少し強かった。ダウンジャケットを羽織っていても寒い。
冷たい向かい風を受けながら、さほど仲良くもない人の為にどうして折角の休みを潰さ
なくてはいけないのだろう、と憂鬱な気分になった。しかも、私の家で料理をすること
になっているのだ。用が済んだら早く帰ってもらいたい。
待ち合わせをした駅は平日だというのに人の往来が激しい。それでも、やっぱりまっ
つーは目立っていた。可愛いからというのもあるけれど、改札口前に立っている彼女が
持っている物が余計に人の目を引いていた。
「どうしたの、それ」
まっつーが抱いているものを指差す。そこにはいつもの花が大量にあった。
「手ぶらで行くのも悪いと思って」
「そんなの別にいいのに。そういえば、それ、何の花なの?」
私が尋ねると、その質問をずっと待っていたと言わんばかりにまっつーの頬が緩んだ。
「これはねぇ、キンセンカって言うんだよ。私のお気に入りの花なんだ。乙女の美しい
姿っていう花言葉なんだって」
「…………へぇ」
満面の笑みを隠すようにして、抱いている花に顔を寄せたまっつーを見て、私は呆け
てしまった。ここまで自分に自信を持てる人間がいるんだ、と変に感心してしまう。
- 12 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:43
- 「あとねー、つける場所によって意味が変わるんだよ」
「つける場所って?」
「髪に飾った場合は暗い悲しみで、胸に飾った場合は嫉妬なんだって」
「…………」
まっつーが梨華ちゃんにつけさせていたことを思い出して、私は顔しかめた。梨華ち
ゃんが自分のことをどう思っているのかを知っていて、わざと胸に挿してあげていたと
いうことか。とんでもない人間だ。
ふと、ある疑問が頭を過ぎったけれど、あえて訊くのも面倒でため息と共に消えてし
まった。
「で、何を教えたらいいの?」
気が重いけれど今日の目的は料理を教えることなのだから、まずは何を作るのかを決
めなくてはいけない。
「えーっとね。エビフライがいいな」
「いきなり、フライものなの? ……まぁ、別にいいけどさ」
こっそり舌打ちをする。よりによって、片付けが大変なものを選ばなくてもいいのに。
面倒臭いという思いがますます広がる。
「じゃあ、行こっか」
そう言うなり、まっつーは私の腕を取って歩き出した。傍から見たら私達は仲の良い
友達にでも見えるのだろうか。何となく、そうでなければいいな、と思った。
- 13 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:44
- * * *
駅の近くにあるスーパーで材料を買って私の家へ戻った。今日は家族が皆出かけてい
て、夕方になるまで戻ってこない。
手土産として貰ったキンセンカをテーブルの上に飾ると、まっつーは満足そうに笑っ
た。窓から入る日差しを浴びている花達は、とても絵になる。
「そういえば、この花、色んな花言葉があるんだよ」
「へー」
「誠実とか変わらぬ愛とかっていう意味とは正反対に、別れの哀しみとか寂しさに耐え
るとかっていう結構淋しい意味もあるらしくて。これって、同じ花なのに変だよね」
テーブルに頬杖をついて、不思議そうにまっつーは花をつつく。その様子を見ながら、
私は首を捻った。
何だろう、この違和感は。どこか変だ。そういえば、買い物に行く前に聞いた話でも
似たようなものを感じた。髪に飾る時の意味が妙に引っかかったのだ。
「そろそろ、始める?」
まっつーに促されて、我に返った。そうだ、早く作って早く帰ってもらわないと。違
和感なんてどうでもいい。
二人で海老の殻取りから始めてみたものの、まっつーは意外と手際がよく、センスが
ないようには見えない。包丁使いも危なっかしい感じなのかと思っていたらそうでもな
かった。
「ほんとに料理下手なの?」
「下手っていうか、殆ど作ったことないんだよね」
私が教えた通り、海老に塩胡椒とパセリのみじん切りをまんべんなくふりかけながら、
まっつーはにっこりと笑った。
- 14 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:45
- そこまではまだ良かった。この調子でいけば、昼過ぎには終わると思って胸を撫で下
ろしていたのに、衣をつけている最中にまっつーは突然こんなことを言い出したのだ。
「そういえば、デザートはないの?」
そんなもの用意する予定すらなかった。まっつーは、じっと私の返答を待っている。
「……えーと、アイスとかならあるけど」
冷蔵庫の中に何があったのかを思い出しながら私が答えると、「アイスっていう気分
じゃない」と言って、まっつーは唸りだした。
「私、ケーキが食べたいなぁ」
「今から作るのは面倒だよ」
「わざわざ作らなくてもいいよ。近くにケーキ屋さんない?」
「あるけど」
まさか、買って来いって言うんじゃないだろうな、と思ったら、その通りだった。
「じゃあ、買ってきて」
当たり前のように笑顔で言われた。可愛いからって何でも許されると思ったら大間違
いだ。私は顔をしかめた。
「っていうか、なんで、買い物する時に言わないわけ?」
「しょうがないじゃん。今思いついたんだもん」
むすっとしている私の顔を見ても気にならないらしく、まっつーは笑顔を崩さない。
「どうしても欲しいのなら、まっつーが一人で行けば?」
「でも、私、このあたりの地理判らないし」
一緒に買いに行こうとすらしないので、私の機嫌は悪いままだった。
- 15 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:46
- * * *
ケーキを買って戻ってくると、まっつーはソファに座って手にあるガスライターをカ
チカチと鳴らしながら、コンロを見つめていた。口には煙草がある。
私がぽかんとしていると、まっつーはにっこり笑った。
「ここ、煙草ダメなの?」
「…………いや、そうじゃないけど」
「意外だった?」
「……うん」
煙草を吸うイメージが全くなかったので正直に頷いた。まっつーは手馴れた仕草で
テーブルにある灰皿に灰を落としている。買って来たケーキの箱を目の前に置いても全
然興味を示さない。買って来いと言っておきながら、どういうことだろう。
「今、コンロに火をかけたから。多分、もういい温度になってると思うよ」
「あー、うん」
試しに菜箸の先を入れてみると、いい感じに泡が立った。確かにいい温度だけど、私
は首を捻った。
素人だというわりには温度設定も判っている。何だか、おかしい。彼女に対してずっ
と抱いていた違和感がますます大きくなっていく。
「どうかした?」
まっつーは不思議そうな声を出す。
「何でもないけど……ん?」
システムキッチンに片手をついていた私は眉を寄せた。コンロ周りが濡れている。も
しかして、鍋に油を入れる時にこぼしてしまったのだろうか、と首を捻る。
- 16 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:47
- 「ねぇ、ごっちん。魔法見せてあげよっか」
カチカチという音と共に背中越しに声をかけられて、私が訝しみながら振り返ると、
まっつーは満面の笑みを浮かべて大きく振りかぶっていた。
シュルルというどこかで耳にしたことがある音。
咄嗟に危険を感じた私は、彼女がこちらに向かって手を放つ前に、頭を庇いながらコ
ンロに背を向けて数歩分飛び退いた。
その瞬間、背後で乾いた破裂音が響いた。
「な、何!?」
ぎょっとして素早く振り返ってみると、大きく火が上がっている。鍋だけではなく、
コンロ周辺で大きな火柱が立った。熱を受けながら、目の前で起きている惨状を信じら
れない思いで呆然と見つめる。
「なーんだ。思ったほど、派手じゃないなぁ」
残念そうに呟く声。まっつーは腕を抱いて楽しそうに目を細めていた。色素が薄いそ
の目には炎がめらめらと映し出されている。彼女は顔が強張っている私と目が合うと、
更に目を細めた。
「のんびりしてていいの? あっという間に火が広がるよ?」
私は我に返って駆け出した。
- 17 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:49
- * * *
コンロ周りで大きく広がり始めていた炎を、水に濡らしたシーツを数枚使って何とか
消火させた。コンロ周りはもちろんのこと、壁のタイルも真っ黒になっている。壁付け
のキッチンだったから、まだ被害が少なく済んだのかもしれない。ボヤという言葉では
済まされるような状態ではなかったけれど、消防車を呼ぶほどでもなさそうだ。ただ、
家族からはこっ酷く叱られるだろう。今はあえて考えないようにする。
部屋の中は嫌な臭いが充満していて家中の窓を開けて換気をすると、外から吹きつけ
てくる風が妙に心地良く感じられた。熱さと冷や汗で全身びしょ濡れになっている。私
は頬を伝う汗を乱暴に拭った。
私が消火作業に追われて右往左往している間、まっつーはソファに座ってその様子を
楽しそうに見物していた。火を消すことを最優先していた為に文句を言う暇がなかった
私は、既に怒りよりも疲労の方が大きくて、傍にあった椅子にぐったりと腰をかけた。
「…………で? どういうことなの?」
「さっきのはお遊び。でも、ごっちんはもう呪いの魔法がかけられてるんだよ」
「はぁ?」
私が素っ頓狂な声を出すと、まっつーは突然けたけたと笑い始めた。何がそんなにお
かしいのだろう。さすがの私もカチンと来て、眉間にしわを寄せた。そもそも、こんな
ことをされる覚えはない。
- 18 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:50
- ふと足元を見てみると、さっきまではなかった、こよりみたいなものが落ちていた。
拾い上げてみると直ぐにその正体が判った。火事の原因はこれだ。花火。魔法だなんて
わけの判らないことを言っておいて、思いきり火がついたものを投げつけてきたのだ。
私は手にあるものをぎゅっと握り潰した。
ひとしきり大笑いした後、満足そうにため息をついたまっつーは険しくなっている私
の顔を見つめると、にやりと笑った。実に嫌な笑みだった。
「あの日ね、ケーキとか買って私の誕生日を一緒に祝ってくれてたんだけど、それを邪
魔するタイミングで電話がかかってきたんだよね」
一体何の話だ、と思って口を開こうとしたけれど、まっつーは表情を変えずに話を続
ける。
「約束があるから行かなくちゃって言って、雨の中慌てて飛び出しちゃったんだけど、
よっぽど早くその場所に行きたかったのかな。慌て過ぎてた所為で、原付で派手に転ん
じゃったらしくてね」
自分の頬がぴくりと動いたのが判った。
「その時にあの人、対向車に轢かれちゃって」
彼女が言っていることの意味が判りかけてきた。私の表情が変わってしまったことに
気付いたのだろう。まっつーはそれまでずっと浮かべていた笑みをすっと引っ込め、無
表情になった。
- 19 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:53
- 「今度は相手の人が会いに行くべきだと思わない? 約束なんだから」
合点がいった瞬間、内にある感情がさぁっと引いていった。そして、凄い偶然だな、
などと私はとぼけた感想を抱いた。いつか、あの人から幼馴染の話を聞いたことがあっ
たかもしれない。でも、興味がなかったから忘れていた。
「だからね、ごっちんがあの人のところに行くまでこの魔法は解けないんだよ」
どうして、まっつーを最初に見た時に苦手だと思ったのか、ようやくその理由が判っ
た。彼女は私に欠けている感情を持っている。それはそれは人並み以上に。私は直感で
そのことに気付いていたのだろう。
「覚悟してね」
初めて見るような冷ややかな笑みを浮かべているまっつーの背後では、相変わらずキ
ンセンカがテーブルの上で気持ちよさそうに日を浴びている。そして、その花を背景に
した彼女は恐ろしいほど可愛く見えた。
やっぱり、大嫌いだと思った。
- 20 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:53
-
END
- 21 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:54
-
- 22 名前:53 キンセンカ 投稿日:2005/02/14(月) 18:54
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