08 香熱

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 20:42
08 香熱
2 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:50
結婚が決まった。それに伴って現在勤務している高校の保健医の
仕事を退職することにした。
嫌いな仕事ではなかったが、それよりも家庭を持ち夫を支え子を授かり、
これからの人生を全て家庭に捧げようと思った。
これはもう大分前からの夢でもあり、アタシ自身が中学にあがった頃に
親が転勤族になってしまって各地を転々として、何かと寂しい思いを
繰り返してきたから、自分の子供には似たような思いをさせたくないのだ。



退職日は三学期の終業式の日。

3 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:50

4 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:51
二月のある日、二時間目の授業中。
保健室の机に向かい書き物をしていたら、数メートル離れたところにある
二台のベッドのうち、一台の周囲を覆っている白いカーテンが、
視界の片隅で揺れたのに気付いた。
休み時間に発熱を訴えた女生徒が居て、とりあえず横になりたいと言うので
寝かせておいたのだ。彼女が起きたのだろう。

シーツの擦れる音がしたあと上履きが床を叩く音が聞こえ、やがて
彼女がカーテンの向こうから姿を現した。
右手では火照った顔を仰ぎ、左手ではシャツのボタンをかけ直しながら、
何となく気だるそうにこちらにゆるゆると歩み寄ってくる。

「……飯田せんせぇ」
「もう一回測る?高橋」
「…ぁい」

まだ少し寝惚けているのかそれとも熱のせいか、聞き方を誤れば
高橋のその声はひどく甘ったるくて、女子高生にしては艶があった。

アタシは急に、ただ白衣を着ているだけの自分が『先生』と呼ばれるのは
おかしいな、と思った。
それぞれの生徒の担任に比べれば、圧倒的に関わりが薄いというのに。
5 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:51
薬品の名称が印字されているペン立てからデジタル体温計を取り出し、
ケースから出して彼女に手渡した。
熱を測るために、ついさっきかけ直したばかりのボタンをまた外すことに
なったので、高橋が一度吐いた溜め息はきっと、億劫だ、と言う意味だと思う。

アタシが高橋について知っていることといえば、
二年D組の生徒で、
中二の時に福井から親の転勤でここ北海道に引っ越してきたこと。
そのせいか独特の訛りと方言がなかなか抜けないこと。
越してきてから原因不明の発熱を頻繁に起こすようになったこと。
それでも一年の時から決して休まず、律儀に登校してきては、
保健室のドアを叩くこと。
成績は決して悪くないらしい。
主に具合の悪い時の高橋しか知らないが、担任の話によると、
調子のいい時の彼女は早口で福井弁を喋ったりするので、
たまに何を言っているのかわからなかったりするそうだ。
まあ保健医の立場から言うと、頻繁に訪れるのでちょっとした
問題児と言った認識だった。



「あーし、また転校するんやって」

熱を測っている間、茶色い合成皮に覆われた長椅子に座り、
両足をぶらつかせていた彼女が唐突にそんなことを言った。
思わず書き物をしていた手を止めて顔を上げる。
高橋はアタシの後ろの窓の外へ視線を飛ばしていた。今日は雪の日だった。
6 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:52
「そうなんだ。今度はどこ引っ越すの?」
「鹿児島」
「…それはまた極端だね。いつ?」
「終業式の前には引っ越すんやって。
 ほんっと、北から南って、人の気も知らんで………
 先生はずっとここに住んどるんか?」
「何年か離れてたけど小さい頃から住んでたから戻ってきたよ。
 やっぱり地元が一番だ」

もうお分かりかと思うが、アタシは高橋に十代の頃の自分を重ねて見ている。
『中学生の時から親が転勤族になった』という共通のキーワードがあるからだ。
だが、敢えてその事実を彼女に話したことは一度も無い。
こういう職に就いていると、生徒にとって与えていい情報と悪い情報
というのがあり、特に最近の生徒はメンタル面が極端に弱いので、
この手のことを話して同じ境遇だったアタシに不満をぶつけてくるまでは
いいのだが、やがてそれ以上のことを、つまりは保健医に親の代わりを
求めるようになってしまうと、本人とっても大変よろしくない。

それに、正直な話仕事とプライベートは完全に別物にしたいので、
アタシが高橋や他の生徒のことを意識するのは学校の中でだけだ。
そうでもしなければ、今頃はストレスやら何やらで、とうにこの仕事から
足を洗っている。
もっとも、後一ヶ月ほどで退職するのだが。

「実はアタシもね、今度の終業式で退職するんだよ」

だから、もうこういう情報は与えても大丈夫だろう。
7 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:52
それを聞いた高橋は、熱で火照った顔のまま明らかにびっくりした
表情になってアタシを凝視した。
特に両目は、今にも顔からポロリと零れ落ちてしまうんじゃないかと
いう程見開かれていた。

「どうしてですかっ?」
「結婚すんの」
「うっそぉ?!」

今度はこちらの方が驚かされてしまう。
二年近く保健医として面倒を見ているが、こんなに大きな声を出す
高橋は初めてだった。
アタシは、興奮したせいでまた熱が上がってしまうんじゃないか、
と内心焦ったが、平静を装って続きを話した。

「嘘じゃない。寿退社。ん?退社じゃないな。退職」
「ほぇ〜………」

未だに信じられないという様子だったが、後に続いたおめでとうございます
という彼女の言葉に、アタシは何も言わず笑みを返した。
8 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:53

9 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:53
三月に入り、また高橋が発熱を訴えて保健室を訪れた。
校内を巡回して戻ってきたら既に椅子に座って待っていて、
熱のせいで暑いのか右手でパタパタと顔を仰いていて、アタシが
ドアを開けた音に振り返る。
この時彼女は少し妙な反応をしていて、仰いでいた右手を瞬時に
ぎゅっと握り締めていた。

「もう測った?」
「…七度八分でした」
「そう。寝ていく?」
「や、あの!」
「…何、また大きな声出して」
「あ、スイマセン、あの…」
「どうしたのさ」

訊ねながらドアを閉めて高橋の方に近付く。
傍に来て初めて、耳まで真っ赤になっていることがわかった。
…七度九分でここまでになるだろうか?

「えぇと、あの」
「高橋、あんたもう一回測り直した方がいいんじゃない?」
「………」
10 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:54
椅子に座ったまま俯いてしまった彼女の正面に立ち、
屈み込んで顔を覗き込もうとした時、
高橋はそのアタシの顔の前に自分の右手を翳した。

いきなり目の前に現れたきめの細かい手の平は、やがて
ゆっくりと左右に振られる。



その時、



顔全体にひんやりとした外気を感じた。
外気はやがてとても懐かしい匂いを鼻先に与えた。
自分自身忘れかけていたが、これは、

小学校の卒業式。その帰り道で感じた空気だ。

憶えている。あれは午後三時ごろで、空には雲ひとつ無くて、
卒業証書の入った筒を片手に最後の通学路を歩いた。
長い冬から解き放たれようとしている独特の日差しの匂いを嗅いだ。
歩道の雪は溶けかけていて、一歩踏み出すたびにパシャパシャと
水気を含んだ音を立てた。
振り返れば自分の足跡はシャーベット状の雪をくり抜いて、
黒いアスファルトが自分の靴のサイズでくっきりはっきり見えていた。
11 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:54
卒業式の後で散々涙を流した後の頬には、春の近い空気も
冷たく感じたが、決して寒いわけではなくて、毎朝洗顔を
終えた直後の爽快感に似たような感覚だった。

頭の中では、直前に別れてもう会うことも無いかもしれない
友達の姿が思い浮かんで、泣き止んだばかりだというのにまた
目頭が熱くなる。
今歩いているこの通学路も、明日にはただの道になってしまう。

ああ、
靴の中に雪解け水が染み込んできた。
早く帰らなくてはいけない。

でも帰りたくない…



「先生」

高橋のその声で我に返った。
頬が熱い。目が霞んで良く見えない。
…アタシは泣いているのか?

「スイマセン、泣かすつもりやなかったんですけど…」

右目の下に指先だけで少し触れてみるとやはりアタシは泣いていて、
曇った視界の中で高橋が申し訳なさそうに自分を見上げている。
自慢ではないが、過去を思い出して涙を流すのなんて、多分
十何年ぶりだ。
12 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:54
「今、何したの…?」
「……魔法みたいなもんやろか」
「魔法…?」

ひどくリアリティに欠ける単語が出てきたが、今の自分には
それを否定する余力も無くただただ目を瞬かせる。

漸く輪郭や色がはっきりしてきて、高橋は相変わらず赤い顔を
していることがわかった。

「いつからかはわからないんやけど、熱出た時だけ出せるんです」
「さっきの…空気みたいなやつ?」
「や、一番最初はお粥の匂いやったで」

またしても不思議な返事が返ってきて、理解できなくて苦笑してしまった。
そんな様子を見た彼女は慌てて言葉を続ける。

話を聞けば、いつからか熱が出た時にだけ、過去に印象的だった
香りや匂いを右手から出すことが出来るようになったのだそうだ。
お粥というのは、数年前自宅で両親が不在の時に熱を出して寝込んでいた
彼女が、お母さんの作ったお粥が食べたい、と思いながら火照った
顔を仰いだ時に初めて嗅いだ匂いだそうで、それ以来熱を出した時にだけ
思い浮かべたら右手から自由に出せるようになったという。
どうしてか左手では駄目らしい。
13 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:55
「あーし先生が退職する頃にはもうこの学校には居らんし、
 お世話になったお礼がしたかったんです」
「…大した事してないよ」

仕事だし、という言葉は飲み込んだ。

「ほんなこと無いですよ。一年の時から通ってるのに、
 一度も『帰れ』って言わんかったやないですか」

…それは。
早退しても自宅には誰も居ないと言う事を、実体験から
知っていたからだ。

アタシはやっと気付いた。
高橋に自分と同じ寂しい思いをさせたくなかったのだ、ということに。

「学校辞めるってことは卒業とおんなしかなって思て、
 ほやったら中学校の卒業式ん時の空気の匂い、憶えとったから。
 自分でしか感じたこと無いから、さっき試してみたりして練習したんやけど。
 …思い出してくれました?」

なるほど、
さっき自分の顔を仰いでいたのはそういうことか。
14 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:55
魔法なんて非科学的なものはこの世に存在しない、と、
いつもの自分なら大人らしく冷たく言い放ち、
夢の無い説教をして高橋を傷つけたかもかもしれないが、
あそこまで具体的に眠っていた記憶を引き出されてしまったので、
そのせいでもしかしたら精神も当時の、
今より純粋で素直だった年齢に戻されていたのかもしれない。
だから何よりもまず感嘆の溜息が漏れてしまった。

「はあ………
 何か信じられないけど、びっくりするほどはっきり思い出しちゃったよ」
「香りとか匂いって不思議ですよね。忘れてたことぱあっと
 思い出せるんやもん」
「お陰で生徒にみっともないとこ見せちゃったじゃないか」
「はは、みたいやね。先生泣かしてもたー」
「そうだぞ、この問題児め」

アタシは生徒の前で涙を流したことの照れ臭さもあって、
高橋の額を軽く小突いてやった。
ところが、ほんのちょっと押し付けただけなのに、彼女の頭は
ぐらりと傾いてしまう。そして気付いた。

「ちょっとあんた、七度九分って嘘でしょ!」
「はは、あはははは〜」

ヘラヘラ笑う高橋の本当の体温、デジタル体温計は三十九度四分
という数字をはじき出した。
15 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:56

16 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:56
あっという間に、終業式の朝になった。
退職のための準備やプライベートのゴタゴタに忙殺されているうちに、
お別れの言葉を言う間も無く、いつのまにか高橋は転校してしまっていた。

起き抜けにカーテンを開けたら、あの卒業式の時みたいな
雲ひとつ無い青空がアタシを迎えた。
きっと空気も同じなんだろう。

退職を卒業と言った彼女。確かにそう言ってもいいかも知れないが。
もうあの時みたいに簡単に泣くような子供じゃないし、
何よりあの子の言う『魔法』で先に泣かされてしまったから、
あれは今日流すはずだった涙だったんだと自分に言い聞かせた。

だから今日は絶対に泣かない。

だって、もしまた別れの挨拶で泣いてしまったら。
もうここには居ないとわかっていても、もし居たらあの問題児に
また笑われてしまうって。

……そんなの『先生』悔しいからさ。
17 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:56

18 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:57

19 名前:08 香熱 投稿日:2005/02/01(火) 20:57


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