44 月は落ち、誰が笑う

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 19:46
44 月は落ち、誰が笑う
2 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:48



その倉庫は緊張に包まれていた。
時折、壁からびゅうっと風の音が飛びこんできて、それが静寂を掻き乱す。天井に空いた穴からは月光が落ちて、乾いたコンクリートを明るく照らしていた。
熱くも寒くもないちょうどいい温度の秋の風はやたら生温く感じられる。海近くなので、やたら空気が塩っ辛かった。
とある港の3番倉庫。
どうやら貨物倉庫らしいが、倉庫の中は隅にコンテナが積み上がられているだけで、あとは広々と空間が広がっていた。
しかし、その老朽は激しく、壁や天井はボロボロに綻んでいて、今にも崩れそうだった。
保田は普段は猫背な背中をピッと伸ばして、目の前の少女と対峙していた。
艶やかな黒い髪、いつも潤んでいるように見える大きな目、ぺちゃんとした鼻、ぷくっと膨らんだ頬。
幼い、あどけない顔立ちだった。
まだ15くらいだろう、しかし保田は少女に年齢を聞いたことがないので少女の本当の年齢は知らなかった。
二人は4メートルほどの距離を取っていた。
保田と少女はお互いの間合いを図っていた。
「久しぶりだね、紺野」
保田は乾燥で貼りつきそうな喉から声を絞った。その声は掠れていた。
「ええ」
少女は平然として答えた。
その声はか細かったが、保田はそれが元々の少女の声質であることを知っている。
また、沈黙が下りてきた。
コンクリートに反射した月光は二人の周りを囲むように乱れていた。
また風が吹いて壁が揺れた。
保田の傍らにはひとつのジェラルミンケースが置かれていた。
色はシルバーで形にも変哲のない、比較的スタンダートなジェラルミンケースだ。
二人が対峙している理由はこのジェラルミンケースにあった。
3 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:48
「じゃ、話を始めようか」
保田はじっと少女の瞳を見つめながら切り出した。少女は俯いて、じっと漆黒の瞳を伏せていた。
「アンタの取り分は200万、アタシは300。出来れば年功序列ってことで、これで手打って欲しいんだけどさ」
保田は少女に笑いかけた。そして、チラッとジェラルミンケースに目を落とした。
ケースの中身は現金だった。
合わせて500万円、紙幣番号もバラバラの現金である。
保田と少女は共謀して、数件の強盗殺人を犯していた。500万はその代償として得た現金だった。つまり、殺人を犯して奪った現金である。
テレビなどでも連続強盗殺人事件として大きく報道されている事件だった。しかし、警察は保田や少女はおろか、犯人が複数であることすら掴めていなかった。
それは偏に計画の緻密さにあった。
「その前に言いたいことがあるんです」
少女は唐突に切り返した。
「え?」
保田はパッと顔を上げた。少女の表情は強張っていた。
「なに?」
保田が促す。話の内容が深いものだろうことは予想できる。
少しの沈黙をおいて、少女は、
「私と、自首、しませんか?」
芯の通った声で言い放った。
保田はじっと少女を見つめた。そして、俯くと息を吐いて、出っ張った自分の頬骨を撫でた。
4 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:49


保田が紺野あさ美という少女に出会ったのは1ヶ月ほど前のことだった。
保田が行き付けのクラブでいつものように飲んでいたところへ声を掛けられたのが発端だった。
紺野の第一印象は真面目そうな中学生というものだった。
真っ黒な髪、制服姿でこんなクラブで来る中学生に興味を持ったので、保田はカクテルを奢ってやった。
紺野はチビチビと舐めながら、保田に話を切り出してきた。
紺野の話はまったく予想外のものだった。
それは犯罪計画だった。
驚くほど緻密で、完全犯罪を遂行するための偽装工作もきちんと詰めた、絶対に足が付かない完全な強盗殺人計画だった。
「アンタが、考えたの?」
保田はその計画に驚嘆しながら尋ねた。こんな年端もいかない少女がこれほど緻密な計画を考えたのだろうか。
「ええ」
答えて、紺野は計画の詰めを詳しく話した。
どうやら紺野がこの計画を考えたのは間違いないようだった。
保田は紺野の誘いに乗った。
そして、計画通りに強盗殺人を実行して、今に至るのだ。
5 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:49


「自首?」
しばらくの間を置いて、保田は訊き返した。
「…私、もう、嫌なんです」
紺野は顔を歪ませて苦しそうに吐き出す。
「人を殺すのが?」
吐き捨てるように尋ねると、紺野はふるふると首を横に振った。
「私の作った計画で、保田さんが人を殺すのが嫌なんです…」
保田は猫のような瞳をまん丸に見開いた。
紺野はじっとただ俯いていた。
「…それ、どういう意味?」
穏やかに目を細め、静かな口調で保田は尋ねた。
「…言葉通りの意味です」
か細い声は震えていなかった。やけに静かな倉庫に凛と余韻を残して響いた。
「…自首、か」
保田はそっと噛み締めるように呟いた。
周りで跳ねる月光に目を瞬いてから、少し目を瞑った。
そして、
「…わかった。自首しよ」
歯切れ良い保田の声が言った。
紺野は大きく潤んだ目をさらに見開いて、
「ほ、本当ですかっ?」
と、確認するように尋ねてくる。
その表情は純粋そのもので、少し眩しいほどだった。
「…ああ」
保田は端的に答えた。
どこか遠くでサイレンの音がループしていた。ぐるぐると頭の中を回る。
保田が紺野を見やると、
「実は、もう警察、呼んであるんです」
と、紺野は少し儚そうに笑った。
保田は軽く笑い返して、
「…そっか」
ただそう答えるだけだった。
6 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:51
「まだ時間あるかな」
保田が唐突に尋ねた。
「え…えーと」
紺野は慌てたように腕時計を確認して、
「まだ、時間あります、けど…?」
と、不思議そうに問い返した。
びゅうっと風が吹き込んだ。仲秋の風は生温く保田の体を撫でた。
保田は静かに息を吐いた。
「アタシさ、やっぱアンタのこと、好きみたいなんだわ」
億劫そうに切り出した保田の声が沈黙を裂いた。
「え、えっ?」
紺野はただ丸く、目を見開いて、最大限の驚きを表現していた。
保田は軽く笑ってやって、
「ま、そういうこと。アンタはアタシのものってことで」
紺野の漆黒の黒い髪を優しく撫でた。
「…ハイ」
紺野は肯定とも否定とも取れない返事を返して保田に背を向けた。華奢な背中は頼りなかった。
紺野は上を見上げていた。
天井から降る月明かりを浴びていた。
黄金の光がスポットライトのように紺野を照らしだし、紺野はまるで天使のようだった。
7 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:52
保田はそっとダウンジャケットのポケットに手を入れた。ベレッタM950の冷たい感触をゆっくりと手に馴染ませる。
そして、緊張を体中に漲らせてタイミングを図る。
まるで時が止まったようだった。息が止まりそうだった。
月光を浴びる紺野は美しかった。
そして――ジリッと紺野の足が擦れた。
それが合図だった。
保田は体を躍らせた。
ポケットからベレッタを引き摺り出す。
そして、跳んだ。
一瞬の内に間合いを詰めた。
しかし、ベレッタの銃身の先に紺野の頭はなく、空間が広がっていた。
思考が追いつくより早く、耳の奥で鈍い音がした。
そしてコメカミに固く冷たい感触があった。
保田の頭に紺野のコルトマークWが押し当てられていた。
「保田さん、悪あがきは止めましょうよ」
聞いたことのない、紺野の冷たい声が降ってきた。
保田はするりとベレッタを落として、ゆっくりと両手を挙げた。
落ちる月光はやけにぼんやりと瞬いていた。
その眩しさに少し目を細めながら、保田は背筋を伸ばした。
8 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:52
「…警察が検挙率を上げるにはどうすればいいと思いますか?」
まるで海のように静かな声で紺野が尋ねた。保田はなにも答えなかった。
「犯罪者を作って、それを捕まえればいいんですよ」
いともあっさりと言い放つ紺野の声は潔かった。
「犯罪者を作り、犯罪を起こすように誘導するのが私の役目なんです」
カチッと耳元で撃鉄を引く音がした。
「全て計算ずくだったんですよ。私があなたに声を掛けたのも、あの計画通りの犯罪も。いくら殺しても捕まらないのは当たり前なんです。警察も私たちに犯罪を起こしてもらわないと困るんですからね。でも、もうそろそろ潮時です。極悪犯になったあなたは逮捕されないといけませんね」
薄い紺野の笑い声が小さくこだました。
遠くで聞こえていたサイレンのループは少しずつ近くなってくる。
「アンタは警察の検挙率を上げるためにアタシに犯罪をさせた。つまり、アンタは警察の人間ってこと?」
「ええ」
いともあっさりと紺野は即答した。保田はふう、と息を吐いてみせた。
「なるほど」
「それとあと一つ」
紺野が保田を遮った。保田は黙って先を促した。
「事件が大きければ大きいほど、報道は大きくなります。大きい事件を解決することで、警察の活躍は大きく取り上げられます」
「つまり、警察のイメージアップに繋がるってことか」
保田が紺野の言葉を継いだ。
「ええ、そうですね」
紺野はあっさりと肯定して、さらに銃身を押しつけてきた。
9 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:53
「…なんで、そんなこと話すの?アタシに」
紺野は黙った。紺野が保田に真相を話すメリットはないはずである。
「さあ…なんででしょうね…。強いていえばあなたは、保田さんは私を好きって言ってくれた。だからですよ」
ひどく優しい語調だった。
「私は、あなたを騙していたんです」
紺野の言葉が自嘲に曇った。
「…でも、アタシは紺野を愛してる」
その言葉が合図だった。
パシュッと空気が抜けるような音と共に紺野のバランスが崩れた。
保田はベレッタを拾うと体を捻った。
仰向けに倒れた紺野の腹に跨って、彼女の額にベレッタの銃身を思いきり突きつけた。
紺野の右足からは鮮やかな赤が溢れるように流れ出していた。
「残念だったね」
保田は口端を上げて紺野を見下ろした。紺野は無表情だった。
「天才的な犯罪計画を作る中学生がクラブで声を掛けてくるなんて、そんな不自然なシチュエーション、疑わないほどアタシは夢見る少女じゃないの」
静かに紺野の手からコルトが落ちた。保田はベレッタの撃鉄を引いた。
「アタシの知り合いに銃マニアがいてね。そいつ、元自衛隊の狙撃班で訓練してたヤツでさ。狙った獲物は外さない、ってヤツ?」
冗談めかして言うと、紺野は泣き出しそうな表情になった。その表情は恋人に裏切られた女のように切なくもあり、親に置いていかれる子供のように純粋に傷付いた顔だった。
「紺野、大好き」
保田は口元を歪めてそっと紺野の唇を奪った。
「じゃあね」
保田は動けない紺野から降りて、ジェラルミンケースを持ち上げると、倉庫を後にした。
やたらと愉快で、保田は声を上げて笑った。
10 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:53


ハイライトの紫煙がユラユラと天井に立ち昇る。
部屋の空気は目に見えるほど、歪んで淀んでいた。部屋の灯りはついていないが、窓から差し込む眩しい陽射しで十分だった。
とある雑居ビルの一室。
それなりの広さを確保するために壁をぶち抜いているが、それでも十分に手狭だった。
その部屋が保田探偵事務所の事務所だった。
しかし、探偵事務所とは名ばかりで、金が入るのなら何にでも迎合し、どんな依頼でも引き受ける何でも屋だった。
保田はどっしりした皮製の椅子に座っていた。背中に降る窓からの陽射しは柔らかかった。
もちろん、事務所の人間は保田一人である。依頼の交渉、実行、経営からすべて保田がやっていた。たまに人手が必要な時は知り合いに頼む程度である。
ふとポケットの中の携帯電話が安っぽい音を立てた。
保田は火種を薄っぺらい灰皿に押しつけて消すと、携帯電話を取り出して通話ボタンを押した。
「ハイ、もしもし?」
耳に押しつけて言うと、
「あ、もしもし?圭ちゃん?」
やたら間延びした声がのんびりと響いた。
保田を圭ちゃん、などと呼ぶ人間は一人しか心当たりはなかった。
「後藤、どうかしたの?」
尋ねると、
「あ、いや、別にい」
となんともすっ呆けた声が返ってきた。
保田は苦笑しながら、
「今日、焼肉奢ってやるよ」
「マジでえっ?」
電話越しの声が一気に弾んだ。
「ああ、今回はサンキューな」
「へへん、ごとーにとっちゃゼンゼン楽勝だったからさ」
後藤の声はどこか誇らしげだった。
後藤は元自衛隊、狙撃班で訓練をしていた。そして、あの時、紺野の右足を撃った保田の協力者も後藤だった。
後藤が自衛隊を辞めた理由は訓練がしんどい、というなんとも簡潔で単純な理由である。
なかなか掴みどころがなく、焼肉を奢るだけで今回の件に協力してくれた不思議な人物だった。
保田にしてみれば後藤はとんでもない安請負だが、後藤にすれば焼肉が十分な報酬だという。
「あ、そうだ。一応、気をつけてね。紺野、だっけ?」
「ああ、大丈夫。んじゃあ、また連絡するわ」
「ん、じゃあねー」
のんびりした声を残して電話は切れた。保田はポケットに携帯を押し込んで、ゆっくりと椅子の背に凭れた。
11 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:54
コンコンとノックの音が響いた。
「どうぞー」
保田はのんびりと声を響かせた。
ガチャッと事務所のドアが開く。
現れたのは20歳そこそこの女性だった。黒い黒髪が整った印象の顔立ちにピッタリ合っている。体の線は頼りないほど細い。
「どうも」
女性は保田の前まで来ると頭を下げた。やたら頭に響くような高い声だった。
「ああ、石川さん。どうも」
保田は座ったまま会釈した。
この体の細い女性が今回の依頼者だった。
石川は保田と同じ手口で紺野に嵌められたのだ。紺野に導かれるまま窃盗を重ねた末に捕まって、実刑判決を受けた。
石川がこの保田探偵事務所を訪れたのは2ヶ月ほど前のことだった。
紺野に嵌められた石川は釈放されてから紺野への復讐を誓ったという。紺野に屈辱を与えたい、というのが石川の依頼だった。そして、紺野の手口を全て教えてくれた。
全ては計画だった。
保田は計算であのクラブへ行き、紺野に声を掛けられるのを待って、紺野の計画に乗る振りをした。そして、そのまま紺野の思惑通りに動き、そして最後の最後で紺野を貶めた。
これが石川が依頼した計画だった。
「で、300万は振りこんでくれました?」
保田が煙草のパッケージを取り出しながら尋ねた。
「ええ。どうもありがとうございました」
石川は深く頭を下げた。長い髪が揺れて、部屋の淀みの中に清潔そうなシャンプーの香りが漂った。
保田はなんとなく取り出したパッケージをポケットに押しこんだ。
12 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:54
「では、これで依頼は完了です」
石川の依頼の成功報酬は300万円、ジェラルミンケースの500万円と合わせると、800万円。
保田は笑いが止まらなかった。
ガチッ。
額で固い感触がした。
保田の体が一気に強張る。
ゆっくりと視線を上げると、片手で手馴れた風に握っている銃を保田の額に押しつけている石川の姿があった。
コルトマークW。
紺野の銃だった。
「アンタ、まさか…」
保田は呆然として石川を見上げた。
「ごめんなさい、保田さん」
石川はまったく機械的な口調で言った。
ガチャっとドアが開く。
現れたのは松葉杖をついた紺野だった。黒いスーツを着ていた。
紺野はドア際の壁に松葉杖を立てかけると、よろよろと覚束ない足取りで二人の方に近付いてきた。
「保田さん、愛してます」
紺野は愛しそうに言うと、保田の唇にキスをした。
保田はただ立ち尽くしていた。
「ハッ…」
やがて思い出したようにそう吐き捨てると、両手を差し出した。
保田の手に石川が取り出した手錠が掛けられる。
そして、のそっと現れた大柄の捜査員たちに保田は連行されていった。
部屋を出る時、保田は紺野を振り返った。
紺野はじっと保田を見ていた。
保田は声を上げて笑った。
13 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:55


季節は晩秋に向かっているらしい。
外に出ると、風が少し肌に寒かった。紺野はふるっと身を縮こませた。
「お疲れサマ」
並んで歩く石川がそっと紺野の手を握ってきた。
石川の手はやけに温かかった。
並木道の紅葉はもうほとんど葉を落としている。足元に溜まった赤い葉はまるで絨毯のように辺りのアスファルトを埋めている。
「そういえば、300万、振りこんだんですか?」
スニーカーの底で紅葉を踏みながら紺野が尋ねた。依頼の成功報酬の300万円のことである。
「何言ってるの、払うわけないでしょ」
石川は一笑に伏した。
保田はおそらく死刑を免れないだろう。保田の犯した強盗は13件、その過程で6人も殺しているのだ。
紺野はふと部屋を出る際に自分に振り返った保田の顔を思い出した。あの吸いこまれそうな大きな、保田の瞳を思い出した。
「どうせ死刑になるんだし」
石川はこともなげに吐き出した。
「…そうですよね、アハハッ」
紺野は足元の紅葉を蹴り上げると、声を上げて笑った。


14 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:55

15 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:55

16 名前:44 月は落ち、誰が笑う 投稿日:2004/10/02(土) 19:56


      ――了。

Converted by dat2html.pl v0.2