41 Invisible touch
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:41
- Invisible touch
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:41
- 晴れていた。歴史上の誰もが知っている空と全く同じように、深く、沈み
込んでいってしまいそうな青が、一面に拡がっている。
午後の日差しは強く、乾いた空気を通して容赦なく肌を灼いた。
旧市街のメトロを出る。街はどこもかしこも人で溢れ、充満した熱気は
辺りに沈殿してじわじわとまとわりついてきた。
「日付は間違いない?」
日陰になったオープンカフェに二人は陣取っていた。揃って軽装で、淡い原色
のTシャツと短パンは周囲に違和感なく溶け込んでいる。
スチール製の簡素なテーブルと椅子が、ほとんど隙間なく並べられており、
わずかなスペースにも人が溢れ、誰もが酔っぱらい、でたらめに動き回って
いるように見えた。
「間違いない……ですね」
一人が小型の計器をチェックしながら言う。声をかけられた女性──松浦亜弥は、
サングラス越しに注意深く周囲を観察しながら、ぐったりとした表情で
ぐらぐらしたテーブルにもたれ掛かっている紺野あさ美を一瞥すると、
あまり冷えていないアイスティーの香りを嗅ぎながら唇をなめた。
「じゃあ美貴もここのどこかにいるのは確実なの?」
「ええ、……藤本さんが松浦さんと同じくらい強運なら、ですが」
紺野が言う。表情は乗り気ではない。想像以上の人口密度に、参ってしまって
いる様子だった。
「強運?」
「運が悪かったら、近接空間の海の中で連結不能になってます」
「それって、死んでるってこと?」
「いえ。ただ、移相時にトラブルがあれば、重い精神障害を負う可能性は
あります」
環境に合わないのか、計器が不穏な動きを始めた。紺野は慌ててそれを閉じると、
優美なデザインのシリコン製ケースに押し込んだ。
松浦は腕時計を見る。小さな歯車の回っているアナログなそれは、やや古風
すぎたかもしれない、と思う。
時刻は二時をまわったばかりだった。日付は七月の六日。
歴史の教科書にも載っている。激動の引き金を引いた日付の一つ前。
教会へ続く通りに設置された舞台で演奏が始まった。ドラムとベースの増幅された
残響音が、喚声の塊と一緒になって流れ出してきている。
派手なフレーズが決まるたびに、酔っぱらいたちが盛り上がっている。人の流れが
加速して、いっそう空気が薄くなったような気がする。
「ジャズとか聴きます?」
紺野が言った。慣れない気候に大分参っている様子だった。
「聴かないなあ」
松浦は言うとアイスティーを一口含んだ。
「松浦さんって、普段どんなの聴いてるんですか?」
「うーん……自分の曲」
趣味で歌を作っているということは紺野も知っていた。実際に聴いたことは
なかったが。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:42
- 二人はまだ若い。この時代の今現在には、どこかの暖かなベビーベッドで、
すやすやと安らかな寝息を立てていることだろう。
お馴染みの疑問。同じ人間が複数存在することが可能なのか? しかし、
最新の近接空間理論の解析するところによれば、不連続に無数の実体は
存在している。シネマトグラフィが意識を持ったとしても本人と関係ない
のと、似たようなものだ。重要なのは、あくまで連続性が保証されているか
どうか、そのための、記述としては極シンプルな方程式を発見することだ。
若いことには二つ理由がある。ひとつは、圧倒的な人材不足だった。
二人の育った時代は、かつてのように、一般教養含めて余裕のある教育を
行っていられる状況ではなくなっていた。可能性のある人材は、早々に
専門職へ投入され、現場にて特化されたトレーニングを施された。
しかしそれによる弊害も当然多く現れた。大局的な視点を持ち得ないため、
時に彼らは目的を見誤ってしまう。統率が取れている場合はいいが、個々の
能力が高いため、一度バランスが崩れるとそれが大きな障害となってしまう。
二人がこうして、馴染みのない時代へ送り込まれているのも、やはりそれが
原因であった。
加えて、まだ実験段階である、近空理論を応用した時間旅行は制約が多く、
若い人間でしか肉体が耐えることが出来ないということもあった。
それが、二番目の理由だ。二人がこの任務に適任であるとは、さすがに誰も
考えてはいなかったが、かといってそれ以上にマシな手だてなども見つけ
ようがないというのが、現状だった。
それに、二人には同僚の犯した暴走を、自分たちで収集しなければならない
という責任感のような感情もあった。……少なくとも、松浦には。
「移動しましょうか?」
スウィングする残響音を聞き流しながら、紺野が言う。
松浦はサングラスを外すと、
「動くっていっても、どうするのよ?」
「量子軌道の残像を逆算すれば、大体の現在位置はつかめますが」
「なるほど。さすが」
紺野の言葉に、松浦は思案げに頷いた。
「でも、実際見つけて、それからどうしよう」
「そんなの松浦さんが決めて下さいよ。わたしあの人のことよく知らないし」
そう言うと、通りかかった給仕にレモネードを注文していた。給仕は驚くべき
バランス感覚で数十人分のオーダーを運びながら、群衆の中を潜り抜けていた。
紺野のフランス語はひどいものだった。
「もし行動を起こそうとすれば、……その時は実力行使」
「うちらが引き留めておくっていうほうが平和的ですけどね。リミットは藤本さんの
ほうが先にくるはずですから」
「出来ればね……」
いずれにせよ、二人に与えられた任務は「現状維持」であることは確かなのだ。
今後それが変わってくる可能性もあったが、現時点では、まずは予測不能な
因子を歴史上の一点に落としていくことは防がなくてはならない。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:42
-
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
モン・ロワイアル公園の高台からは、市街の様子を一望に見下ろすことが出来る。
観光客の集団があちこちに見られたが、フェスティバルへ熱気が集中しているのか、
ここには落ち着いた雰囲気が漂っていた。夕暮れの柔らかい日差しが、木々を
通して差し込んで来ている。緑から吐き出される空気は、冷たくて心地よい湿り気
を帯びていた。
日系人の少女が、楽しげにはしゃぎまわっている。空港で現地のエージェント
の身分を示して同行している女性が、一緒になって走り回っている。
楽しげな少女の様子を、初老の夫婦が愛おしげに見守っていた。氷河のような
透き通った白髪をいただいた男性は、彫りが深くブルーの瞳をしている。
彼の血を引いている少女も、陶磁器のような白く美しい肌を持つ、可憐な
容姿を自然に完成させている。
両親から離れ、曾父母のもとに引き取られていた少女だったが、三人は完璧な
家族といっても全く違和感はなかった。
まだ幼い少女へ夫婦は無償の愛を送り、少女は屈託することなくそれを
全身で受け取っていた。肖像画のモデルとしても申し分のない、理想的な
家族像のトライアングルを描いていた。
女性は少女と一緒になって遊びながら、時折杖をついた老人の方へ油断のならない
視線を送り続けていた。これまでのところ、彼らがターバンを巻いた髭面の男に
付け狙われているという様子は見られない……。ひどくステレオタイプなイメージ
に、女性は自分でも呆れてしまう。
女性──藤本美貴は、完全に過去の空気と溶け込んで、自然な振る舞いは
周囲の誰にも疑わせる好きを見せていない。
「ほら、すっごい綺麗な景色」
少女の脇へ手を差し込むと、夕日へ向かって持ち上げてみせる。曇りのない
笑顔。数年も経てば、すでに藤本の身長は追い越しているはずだ。
人の気配を感じた。木陰のフェンスにもたれ掛かって、見慣れた顔の二人が
作り物っぽい笑顔で手を振っている。
藤本は眉を顰めると、聞こえないくらいの音で軽く舌打ちをした。少女が
不思議そうな表情で見下ろしている。
「ちょっと待っててね」
そう言うと、少女を下ろして早足で二人へ向かった。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:42
-
「よっ」
にやにや笑いながら、松浦はひらひらと手を振った。紺野はいつもの白衣のままで、
疲れた表情でポケットに手を突っ込んでいる。
「わざわざ追ってきたんだ? ご苦労さん」
背後に視線をやりながら藤本が言う。好奇心旺盛な少女は両親のもとへ駆け
寄って行って、三人の方を指さしてはしゃいでいる。
「そっちこそ。よく一人で無事辿り着けたねえ」
松浦は呆れたように言う。機材のメンテナンスも万全でない状態で、誰の助力も
受けずに実験段階の移相を行ういうのは、蛮勇と言うよりも自殺行為に近いもの
だった。
「だって理論的には仮想空間に入るのと変わらないわけでしょ? ね、紺ちゃん」
悪びれた様子もなく、紺野へ話を向ける。紺野は溜息をつくと、
「比較にならないほど膨大な解析がかかりますけどね」
「大丈夫! 現ナマはもう受け取ってるから、リソース使用量くらいいくらでも
払ったげるよ」
「そういう問題じゃないでしょ」
不遜な態度の藤本を、松浦はムッとした表情で睨み付ける。藤本はいまだ口元を
歪めて笑ったままだ。
「あの娘が……菅谷梨沙子? 大人っぽいね」
公園の向こうでこちらを興味深げに窺っている少女を示して、松浦は呟いた。
「そう。この時代はまだ9歳かな? 可愛いよ」
「ああ、やっぱり子供の頃から大きかったんですね」
真顔で言う紺野を、松浦が小突いた。
「なに言ってんの」
「これからなにが起こるかなんてまだなにも知らないんだろうね。当たり前だけど、
普通に子供だもんね」
「で、美貴はその普通の女の子を、殺しにきたわけ?」
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:43
- わざと大きな声で言ってみせる。家族たちは市街地の方へ目を向けていて、こちら
の会話が耳に入った様子はない。
藤本は意味ありげな笑みを浮かべながら、
「へぇ。誰からそんなこと聞いたの? それとも、タイムパトロール亜弥ちゃんの
オリジナル推理?」
「白々しい……。いくら受け取ったのか知らないけどさ」
「でも、うちら研究者として気にならない? 歴史的バタフライ効果みたいなのが、
実際ありえるのかどうかみたいな」
松浦はとりつく島もないと判断したのか、藤本は紺野に向かって言う。
紺野は首を傾げると、
「そ、それはまあ、気になりますが」
「あのねえ……!」
声を荒げて、二人を交互に睨み付けたとき、菅谷たち家族が三人の元へやって
来ていた。
松浦は表情を整えると、軽く会釈をした。
「Whom?」
老人が藤本へ訊いた。藤本は松浦と紺野を示すと、
「現地の友人です。松浦亜弥と紺野あさ美」
「How do you do, sir. Fame is hearing.」
松浦は如才のない英語で言うと、握手を交わした。紺野もぎくしゃくとした
様子で倣った。
藤本はそんな二人を冷笑的な表情で見つめている。細めた目に、感情の光は
見られなかった。
「おねえちゃん」
下からスカートを引っ張られていた。少女の菅谷梨沙子が大きな目を見開いて
真っ直ぐに視線を送ってきている。
「ん? なに?」
笑顔を浮かべると、頭をなでながらしゃがみ込んだ。
「あっちのふたりの人と、ケンカしてるの?」
悪意のない問いかけだった。藤本は一瞬口をつぐむと、困惑気味に言う。
「ううん。どうして?」
「んー……わかんない」
少女はそう言うと、すでに先刻の発言は忘れてしまった様子で、遠景のビル群に
反射する夕日を指さして感嘆の声をあげていた。
「どうやって取り入ったんでしょうね」
菅谷の家族と藤本の様子を見ながら、紺野が小声で耳打ちする。松浦は憮然とした
表情で口を尖らせると、
「あいつだったらどうとだって出来るでしょ。そういう才能だけはあるんだから」
「それにしても……不用心じゃないですか?」
「狙われる人ほど、そういう自覚ないからしょうがないよ」
松浦は苦笑しながら言うと、肩を竦めた。
もし藤本がなにかの動きを起こすとしても、明日の夜、久々に故国へ凱旋している
梨沙子の祖父が、ノートルダム島のカジノで大舞台に立つときまで待たなければ
ならないだろう。
その寸前を見極めて、二人は行動しなければならない。ミスは許されない。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:43
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窓から、夕暮れの太陽を眺めることが出来る。
二人は町外れの古めかしいホテルに部屋を借りて、しばしの休息を取っていた。
遠方からは未だに続いている喧噪が茫洋としたエコーを伴って、うねるような
カタマリになって漂ってきていた。
波長が伸びた真っ赤な光が目を射る。紺野は薄っぺらいパソコンを弄りながら、
松浦に声をかけた。
「松浦さん、私たちがこれからやろうとしてることって、本当に正しいこと
だと思いますか?」
張り出した窓枠に腰をかけて、中世風の市街地を見下ろしていた松浦は、紺野
の言葉に眉を顰めて振り返った。
「なに言ってんの? 今さら」
「もし、藤本さんが任務を遂行できたとして……。そしたら、歴史が変わる
かもしれないですよね」
「かもしれない、じゃなくて、確実に変わるよ。美貴だってそれが目的で
ここに来てるんだろうし」
一発の銃声が、歴史を大きく変える。サラエボやダラスでそうだったように、
ここモントリオールでの歴史上の一日も、一発の銃声によって歴史上の特異点
として記憶されることになった。
菅谷梨沙子……松浦たちの来た現在では、モントリオール・テロの隠された
真相を追及している調査委員会の代表。そして、国際的なアーティストであり
議員経験者であり、ロビイストであり、民族派のテロリストたちから常に
命を狙われている──いた──人物の、孫娘。
彼が翌日のコンサートでアンコール演奏した可愛らしい小曲は、銃声と混乱
した観衆の悲鳴と共に、今でも歴史的な音源としてリピートされ続けている。
「さっき、松浦さんは、藤本さんが菅谷梨沙子を消すために来たって、そう
いいましたよね」
「うん」
「本当にそうなんでしょうか?」
松浦は屋内の紺野の方へ向きなおると、思慮深げに目を伏せて、しばし考え
込んだ。夕刻の日差しが横顔を照らし、殺風景な部屋の隅へ細長い影を
伸ばしていた。
「だって、他になにかある?」
「もし、彼らにとって厄介者の菅谷さんを秘密裡に消すのが目的だったら、
わざわざこの日付を選ぶでしょうか」
「うーん……」
「ひょっとして、もっと大きな変化を……テロそのものを防ごうという狙い
で送り込まれたんじゃないかって」
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:43
- 紺野がいう可能性も、松浦は考えなかったわけではない。
しかし、それはあまりにも大きな変化を歴史に齎す行為だ。もしテロ事件が
起きなかったとすれば、そこから沸き起こった、反民族主義の統一的な世論
の流れも起こらなかったかもしれないし、新たな戦争と無差別テロの恐怖を
誘発させることになった空爆にも繋がらなかったかもしれない。
「戦争が起こらなかった歴史を選択するために、美貴がここに来たんだと
しても……、それでも、私たちのやることは変わらないよ」
「それは、分かってます」
神妙な面もちで、紺野は頷く。
「歴史の歩んできた道がどんなものでも、特定の価値観の元で改変しては
いけない……。個人的な感情でも、時代的な倫理から来るものでも」
紺野が復唱したのは、基本的な事項であり、真っ先に守らなければならない
極めて初歩的な、研究者たちのルールだった。
あるいは、松浦が藤本の行動を、純粋に利己的なものだと考えたいのは、
感情的な理由で動いてしまうことがより危険で悪質だと分かっているから
かもしれない。
「美貴はそういうタイプじゃないよ……。ちょっと暴走しちゃうことはある
ってのは知ってるけど、そんなことが分からない娘じゃない」
松浦が言うのに、紺野は少し笑った。
「付き合い長いですからね、松浦さんは」
「まあね」
紺野のからかうような口調にも、松浦は真剣な表情で頷いた。
「前に……二人ともまだ子供だった頃に、そういう話したことあるんだ」
「そういう話って?」
「歴史を変えられるかどうかって。変えられるとして、それが許されるのか
どうかっていうこと」
窓から町並みを見下ろす姿勢のまま、松浦は淡々と言葉を連ねた。
「正しいか、間違っているかっていう判断を、特定の個人とか、特定の時代の
人間がしていいのかとかね」
「それは……根本的な疑問ですよね」
紺野が言う。松浦はため息をつくと、
「そんな話を夜中にずっとしてたりね。答えなんて絶対出ないのにね」
「でも、藤本さんがあんな行動に出たっていうことは、やっぱり……」
「ね」
松浦は自嘲気味に笑った。
「確かに悩んだってしょうがないことなのかもしれないけど、だからって、
すぐにそんな割り切っちゃうのは絶対間違ってる」
静かな口調だったが、その言葉には怒気が含まれていた。
紺野は未だ釈然としない思いが拭えないでいた。松浦の方を一瞥すると、慎重
に言葉を選びながら呟いた。
「藤本さんには……藤本さんなりの、考えがないわけじゃないと思います」
紺野が言うのに、松浦はなにも返さなかった。日はほとんど姿を隠しており
街路にはあちこちで灯りが灯り始めていたが、喧噪は一晩中静まりそうな
様子はなかった。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:44
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翌朝、石造りの街は濃い霧に覆われて、全体がどこか現実には存在しない国の
風景であるかのように見えた。
ホテルのカフェテラスに出て、松浦は眠気覚ましのコーヒーを飲みながらそんな
果てまで続いていそうな光景を見つめていた。じっとりと重みのある空気は、
街全体に暗い幕を下ろしているようだった。その幕を開くのは、一発の、乾いた
銃声のはずだった……。松浦はカップの中で揺れる液体を見下ろすと、あれこれ
ととっちらかった考えをなんとか一つに溶かし込もうとした。
「おねえちゃん」
突然の日本語に、松浦は驚かされた。目を見開いて振り向くと、菅谷梨沙子が
薄い色調のパジャマ姿で立っていた。
「どうしたの?」
口調が刺々しくなってしまい、松浦は慌てて言葉を飲み込んだ。危険な状況で
あるということなんて、彼女が意識していないのは当然で、仕方のないことだ。
「ちょっと、朝の散歩」
抑揚のない口調で言う梨沙子は、松浦のピリピリした様子などは全く気づいて
いないようで、眠たそうに目を擦っていた。
「そ、そう……早いね」
「うん。なんだか、いやな夢見ちゃって」
そう言うと、松浦の向かいの椅子を引いて腰を下ろした。両肘を円形のテーブル
につけて、顎を支えたまま上目遣いでじっと見つめてくる。
「おねえちゃんも、いやな夢見たの?」
「夢、か」
梨沙子の無邪気な問いかけに、松浦は苦笑した。
これから見ることになる一連の光景が夢であってくれれば、どれだけいいだろう。
「どんな夢?」
「わかんない。忘れちゃったもん。でも、なんだかすごく怖い夢」
伏し目がちになって、思い出すように淡々と呟きながら、時折怯えたように松浦
の方を見てくる。その視線に、松浦はなぜか動悸が高まるのを感じた。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:44
- この子も、なにかを予感して不安になってるのかもしれない……そんな非常識な
考えがアタマをよぎる。
幼い表情に、今の──松浦の来た現在の──菅谷梨沙子を重ねるのは難しかった。
造作には面影は見て取れるものの、辛い体験を重ねて来た現在の彼女の表情には、
深く拭い去れない影が透けて見える。そんな影は、もちろん今目の前で眠たそう
にテーブルにもたれ掛かっている梨沙子には、微塵も見られない。
「わたし、あっちのホテルに泊まってるの」
梨沙子は、霧の向こうに見える巨大な建物を指さした。さほど離れた場所ではなく、
ごく普通のホテルだった。
「そうなんだ」
考えすぎてもキリがない。藤本がどのように行動するか、彼女の立場に自分をおいて
見ればある程度は想像が出来る。少なくとも、もし本当に梨沙子を標的としていると
すれば、決行するチャンスは一度しかないはずだし、その瞬間に賭けるはずだ。
「ねえ、なにか飲んでもいい? 喉乾いちゃった」
テーブルの隅に立っていたメニューリストを見ながら、屈託のない声で松浦へ訊いて
くる。
松浦はなぜか、胸の奥が締め付けられるような痛みを感じた。彼女がこれからの人生
で、経験していく多くのことを、わたしは知っているんだ。そして、それで失われて
しまうものも、今の彼女はたくさん持っている。とても大切なものを。……
「ねえねえ」
「あ、うん、いいよ好きなの頼んで……」
ハッと我に返って、松浦は言った。梨沙子は可愛らしい笑顔を浮かべると、子供らしく
澄んだ明るい声でありがとーと言って、ウェイターを呼んでいた。
腕時計を見る。あと、20時間ほどだった。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:44
-
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「分かる?」
「これだけ人が多いとちょっと……」
PCのディスプレイを覗き込んだまま、紺野は首を振った。
舞台を取り囲むようにして、数万はいるであろう観衆がグルーヴに合わせてカラダを
揺らしていた。松浦と紺野は二階スタンドの最前まで群衆をかき分けながら進むと、
だだっ広い会場の全体を見回した。この中のどこかに、藤本が機会を待って潜伏して
いるのは確実なはずだ。
ステージ上ではハイテンションな演奏が続いている。シンコペートされたリズムが
パーカッションで叩き付けられて、管楽器はうねるようなアドリブのラインを自在に
飛翔させていく。
フェスティバルは最終日だけに、観衆もより狂騒的に熱気を振りまいている。
誰もステージから発散されているエネルギーを受け止めて発散させるのに熱中して
おり、他の誰かがなにをしようとしているかなんて気にかける人間など一人もいない。
松浦は硬貨ほどの大きさの、小さな円形のレンズを右目に装着した。狙撃手用の潜望
レンズ。1キロ先のターゲットを射抜くために開発されたレンズを通せば、離れた
ステージの演奏家たちの皮膚から跳ねる汗まで鮮明に見ることが出来る。
ポケットから細長い短針銃を出す。半透明な強化樹脂で包まれた携帯兵器は、外観は
ただのボールペンと変わるところはない。
射撃には絶対の自信を持っていた。藤本がどこにいようとも、完璧な狙いで彼女の手に
握られた同じものを弾き飛ばすことなど、造作のないことのように思えた。
あとは、藤本がどこに身を潜めているか見定めるだけだ。
どこかで聴いたようなメロディの断片が交錯し、会場の空気を吸い込むようにして
自由に姿を変えていった。熱狂に合わせるようにリズムは音数を増して、集中する
松浦の精神をかき乱すようだった。
ステージにはまだ“彼”は現れていない。見なくても分かる。目を閉じた松浦の脳裏
には、何度も繰り返して見た当日の記録映像が音に合わせて再現されている。この後
一際演奏が盛り上がり、最高潮になったときに現れるのだ。この場を象徴する存在と
して……イコンのように、ちょっとだけの演奏をして、拍手の中笑顔で手を振る。舞台
袖に、可愛らしく着飾った、お人形さんみたいな少女が花束を持って……。
セッションは次第に混迷の度合いを増してゆき、その音は松浦の記憶の中のある光景
を呼び覚ました。漠然とした、感情と一繋がりになった重層的な記憶……。タムの
重い連打はまるで地響きのようで……巨大な、怪物のような戦車が進んでいく音と
重なった。……ベースのうねりは遠くの断続的な爆撃が、……エコーを伴って、大地
を振動させて、……高音の管楽器の悲鳴は、……追い立てられた人々は、そうだ、みな
あんな風に叫んでいたんだ。……幼い私を抱いていた母も。……
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:44
- そのときの映像は曖昧模糊として、とらえ所のないカタマリのようなものだ。……ただ
ずっと、熱に浮かされたみたいな音が……重なり合って、……空間を満たしている。
感情はみなどこかに置き忘れてしまったみたい。……恐怖も、悲しみも。……不必要な
人間性は、みな望んで捨て去ってしまったように、……ピアノの不協和音がなんの表情
も見せない衝撃になって、下半身を撃ち続けているみたいに……。
断続的な金属音が重なっていって、やがて辺り一面を覆い尽くしていく……。高低を
持った何枚ものシンバルが叩かれ……、耳が痛い……あれは、ガラスの砕かれる音だ
……。高層ビルが崩落していくときに、豪雨のように降り注ぐガラスが……、そんな
光景は向こう側の……ただ見ているだけのスペクタクルだとずっと思ってた。向こう側
とこちら側を隔てるガラスがあった……それは一撃で砕かれて、……私たちはずっと、
鋭い刃物の……細かい凶器の霧の中を……、あてもなく逃げまどっている……。
逃げまどいながら、私はなにを考えていただろう……。意志は死んでいた。感覚だけが
気持ち悪いくらいに研ぎ澄まされていて、感情を削っているみたいだった……。硝煙の
匂いのする空気はそれ自体が敵みたいに……区別もなにもなくて、安全な場所は……
そんな情報ばかり求めていた。……あっちへ行けば、こっちへ戻れば……。そんな風に
して、段々操り人形みたいになっていく感じがした。……大きな物語の中で、ひとつの
パーツに成り下がったみたいな……それはでも、少しだけ心地よかった……慣れてしまう
のは怖かったけど、……私がここにいる、ここで生きている……。
──亜弥ちゃん
聞こえない。耳が痛くて……溶けた鉛を注ぎ込まれたみたいだ……。
──亜弥ちゃん、亜弥ちゃん
うるさい。聞こえないのに、うるさい……。私を呼ぶのは誰なの……。そうだ、轟音の
中ではいつも、唇の動きが……その震えが、鼓膜の代わりだった……。
松浦は顔を上げて、正面を見た。藤本が、真向かいのスタンド席にいた。両手をあげて、
手旗信号みたいな、不可解な動きをしていた。
彼女の表情ははっきりと見えたが、どんな思惑があるのか全く窺い知れなかった。まるで
感情のないロボットみたいな顔をしている……、と松浦は思った。
ステージの演奏は終わっていた。口笛と、歓声と、拍手の音が会場の全体を包み込んでいて、
その中心に彼はいた。にこやかな表情で、この場から、全世界に向けて訴えかけている。
袖に、梨沙子が立っていた。彼女の笑顔を見て、松浦は今朝のことを思い出していた。
あのときと同じ顔をしている。まだ、傷つくことを知らない、純粋な笑顔だ。ちょうど今、
この瞬間までは……。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:45
- ハッとしてもう一度正面の藤本を見やった。相変わらず手ぶらのままで、丸腰なのを示す
みたいに両手をあげて、アリーナの方へ指を振っていた。
無意識に、彼女の指が示す先を追う。人の頭が海のように波打っている場所へ視線を落とす。
目で確認しなくても、分かっていた。位置も、時間も、正確に。忘れようとしたって忘れる
ことは出来ない。それくらい、繰り返し見たものだった。
梨沙子が歩み寄って、花束を渡そうとする。その瞬間だ。無邪気な笑みを浮かべた彼女の、
その目の前で、……
だから、もしそのときの私の行動について訊かれたなら、私はこう答えただろう……。それ
は私の意志じゃなくて、ただ歴史の一つのパーツとして、行動しただけだと。……
周囲の熱狂の中、誰にも気づかれず暗殺の機会を狙っていた人物……今この瞬間、歴史上
から名前を消した人物……は、誰にも気づかれないまま、松浦からの一撃によって倒され
ていた。
何度も繰り返して見た光景は、反復されなかった。梨沙子は何事もなかったように花束を
渡し、老人は愛おしげな笑みを浮かべながら彼女を抱きしめて、……
「……松浦さん?」
紺野は驚愕の表情を浮かべて、大きく見開いた目で松浦を見ている。松浦は構えた右手を
下ろすと、深く息を吐いた。
「藤本さんが……?」
まだ状況がよく飲み込めていないようだった。ただ、紺野もこの瞬間に歴史が書き換え
られたことは理解していた。
松浦はがっくりと肩を落としたままかぶりを振った。会場はそんな二人の様子など構う
ことなく、ステージからの声に喝采を叫んでいる。今起きたこと……というより、起き
なかったことなど、誰一人として気づいてはいない。
「とりあえず、出ましょう」
紺野が言うのに、松浦は力無く頷いた。人並みをかき分けて表へ向かう二人を振り返る
ものは、誰一人としていなかった。背中越しに聞こえてくる喚声は、高まるばかりで
このまま静まることはなさそうだった。
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:45
-
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街はどこもかしこも明るく、夜の到来を忘れているようだった。夜空を見上げても、
地面から浮かび上がった光のせいか、熱気の生んだ霧のせいか、夏らしい星空は
よく見えなかった。やたら広くて、天井の低い部屋の中に取り残されたような気分
だった。
二人はまた、街を一望できる高台へとやって来ていた。遠景からも、街そのもの
の浮ついた雰囲気は感じ取ることが出来る。
平和だった。少なくとも、目に見える範囲においては……。押し隠されている
暴力を噴出させるきっかけとなった銃声は、もはや響かない。
街灯の下のベンチに、藤本が膝に頬杖をついて座っていた。会場で向かい合った
時と同じように、無表情だったが、視線にはかすかに哀れむような光が灯って
いるように、松浦には見えた。
「もういいでしょ」
松浦が言うのに、藤本はゆっくりと立ち上がった。
「なんの目的だったのか……聞かせて」
藤本は肩を竦めると、苦笑いを浮かべた。
「なにも。私はただ見てるだけ」
「ウソだ!」
「本当だよ。亜弥ちゃんだって知ってるでしょ……私たちはただ見てるだけ
のことしか、許されていないって」
「でも……、確かに、あのとき私に向かって、合図を出してた」
「うん」
藤本は頷いた。紺野は不安げな表情で、対峙した二人を見比べていた。
「でも、亜弥ちゃんは見てるだけじゃなくて、一線を越えたよね」
松浦は否定はしなかった。藤本の言葉に、ただ俯いて自嘲気味に笑っただけ
だった。
「そうか……。はじめから、そうさせるのが目的だったんだ」
「違うってば」
藤本の態度もどこかおかしかった。高ぶる感情を押さえつけているせいで、
妙なテンションになっているように見えた。
「言ったじゃん。見てるだけだって。実際そうだったんだから」
「私は歴史を変えちゃったんだね」
そう言いながら紺野を振り向いた。紺野は神妙な面もちで頷く。
「……はい。すでに、影響は確認されてます……」
「でも、まだ分からないんだ、よく」
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:45
- 松浦の言葉に、藤本は眉をひそめた。
「なにが?」
「なんていうか……“正しさ”みたいなこと」
そうは言っても、松浦は理解していた。自分のした行為が、純潔な……それゆえ
に“正しい”……歴史に、汚点を残してしまったことを。
汚点は人間的な感情とか、そう言ってもいい。私は確かに、あの瞬間歴史的な
事件の渦中にあって、不純なものにかき乱された。美貴のように、それを殺す
ことは、出来なかった。
花束を抱いた梨沙子の笑顔を、テラスで向かい合って、冷たいジュースを飲んで
いる梨沙子の無垢な表情を思い出す。
愛情なのか、憐れみなのか、それは分からない。分かるのはそれが呼び起こした
行為が、致命的な──人間にとってではなく、歴史にとって──裏切りの行為で
あるということだけだった。
その責任を負うべきだということも、松浦は理解している。
「ひょっとして、はじめからこういう結果になるのも計算済みだったのかも
しれないけど」
松浦が呟くのに、紺野も藤本も、なにも言わなかった。
「それでも……、私はやっぱり、人間として行動したって、そう思いたい」
藤本は無表情のまま頷いた。潔白でなくなるというのは、そういうことだと、
彼女も分かっていた。
“正しさ”とはこうして決められていくものだ。
「松浦亜弥は、歴史上における誤った行為……人間的な感情を介在させた行為に
よって、罰則規定に準じ、処刑される」
抑揚のない藤本の言葉は、松浦には機械の声にしか聞こえなかった。
猶予も与えられず、処刑は遂げられる。松浦は倒れ、不純物は取り除かれた。
闇に沈んだ木々たちはただ息を潜めて、銃声を飲み込み、沈黙を吐き出している。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:46
-
END
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:46
- Tonight
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:46
- Tonight
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/02(土) 15:46
- Tonight
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