35 口笛吹きはかく語りき
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/01(金) 21:50
- 35 口笛吹きはかく語りき
- 2 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 21:51
- それはわたしがまだ小学生のときでした。
秋がうっすらと始まりかけた、肌寒い午後四時すぎ。
わたしは何らかの理由でこっぴどく叱られた挙句、ベランダへと出されてしまっていました。
今となってはどうしてそんなことになったのか、思い出すのは非常に困難になってしまっています。
とてもいけないことをしたようにも思えれば、おかあさんの虫のいどころが悪かっただけのようでもあり、反省に至ってもしていたのかそうでなかったのか、どちらにも感じられる有様なのです。
とにかく記憶が曖昧なものですから、後から適当な情報を誰かにでっち上げられたとして、それが本物なのかの判断がつかないのです。
- 3 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 21:52
- 一軒家のわたしの家は、周辺の家屋と隣接していました。
正面には二人暮しのお年寄りが住んでいて、隣は大人だけの家族。
反対隣はわたしと少し年の離れたおねえさんがいる家です。
幸いにも近所付き合いは良好で、誰もが出くわしたときには笑顔で挨拶を交し合う関係でした。
それが買い物帰りの出来事であれば、わたしに思わず顔がほころんでしまうような、とっておきの物をくれることもありました。
それだけにわたしはどの家の人も大好きでしたし、ベランダ越しに顔を合わせることは、普段なら楽しみでさえあったのです。
しかしそのような偶然の対面は、その時のわたしにとって、もっとも避けなくてはならない事態でもありました。
ベランダに出されているというだけでどんな顔をすればいいのか分からないのに、それ以上に見られたくない事情があったのです。
小学生心にも恥はかきたくありません。
つまり問題というのは、わたしが頬から顎下に向かって、無様にもポロポロと涙をこぼしていたことでした。
- 4 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 21:53
- 内側から鍵をかけられて、さらにはカーテンを引かれていました。
子供の小さな世界です。
親というものは絶大で、占める割り合いはほとんどと言っても過言ではありません。
その存在は温もりであると同時に、法律であり、神なのです。
天罰のさなかにあるわたしにはそう感じられました。
そんな絶対の拠りどころに閉め出され、コンタクトを取ることすら拒否されてしまったのです。
恐怖は口に表せる程度のものではありません。
やがてどうにか嗚咽が治まると、次に訪れたのは静かな悲しみです。
世界にたった一人取り残されたように思えてきたのでした。
それは不思議な感情です。人の気配はあちこちからするのですから。
それも夕食の匂い、ともる灯り、テレビのキャラクターの声など、わたしの生活に密着しているものばかりです。
それなのに、と言うより、それだけに、なのでしょう。
今までの自分と現在の自分とが、切り離されてしまったように感じたのでした。
身近にあったものがとても遠くに行ってしまって、二度とそこには戻れないのではないか。
そんな感情が心を支配していったのです。
- 5 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 21:54
- 何かが違ってしまったのだ、と呼吸が乱れました。
自分の中に大きな変化の波が押し寄せてきて、それにとまどい、持て余しているのだと自覚したのです。
それ以外のことは何も分かりません。
とにかく不安で、マイナスのイメージだけが次々と頭をかすめていきました。
どうすればいいのか、何を行動に移すべきなのか、没頭できる目先の作業をわたしは求めていました。
思考回路が脇道へと逸れに逸れ、出したとりあえずの結論は、声を出してみよう、といったものでした。
そこまで考えていたのかは定かではありません。それでも多分、きっと。
わたしは自分を確かめたくなっていたのでしょう。
その頃になると、世界に自分一人だけという考えはなくなっていました。
それどころか、自分がいるのかがあやしく思えてきたのです。
長い間ベランダの片隅に佇んでいた影響か、置かれている室外機や植物。
それらと変わらないような心地に陥ってしまったのでした。
わたしは現実感を取り戻すべく、ためしに、あー、と声を出してみました。
これは大きな声でなくても構いません。
いっこうに構わないのですが、限度というものも、またあります。
久し振りに声帯を振るわせたせいか、妙にいがらっぽくて、
想像していたよりもずっと弱々しい声量になってしまいました。
何事もなかったかのように空気に溶け、全ては収まるべきところにストンと落ち着きます。
わたしは声を出し続ける気力も萎えてしまって、かと言って大声を出す元気もなく、肩を落としました。
- 6 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 21:56
- うなだれから立ち直ったのは、突然のひらめきによりました。
にわかにとてもすばらしいアイデアが、巡らしているでもない頭に浮かんだのです。
初めからこうするべきだったと、自分のマヌケさ加減に笑いも込み上げてきました。
口笛です。口をすぼめて息を吐くことで音を出す、あの行為です。
わたしはさっそく、変わりゆく世界に向けて、口笛を吹いてみることにしました。
メロディーは即興で、決めていたのはただ一つ。
気分が明るくなるような、楽しい感じにしようということでした。
かすれた音で唇の乾きに気づき、舌先で湿らせました。
感触を取り戻すために何度か適当な音を鳴らし、最終調整の咳払いをすると、ようやく本格的に取り込むことにします。
数秒後、緊張を溶かすように口から流れ出たのは、思惑から少し外れた、どこか寂し気なニュアンスを含んだものでした。
しかし、今度は落胆しません。
無理のない安定感が備わっていて、穏やかで丸みのある旋律でもあったからです。
- 7 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 21:56
- ボンヤリと空を見つめながら、わたしは考えていました。
今まで見ていた景色はきっと見せかけだったのだろう、と。
もっと現実の世界というのは悲しみに満ちていて、こんなふうな状況にいつ追い込まれるとも知れないものなのでしょう。
それならば、希望など持ってはいけないのかもしれません。
思いながら、時間の感覚が狂っていなければ数分間。
近くにありながら遠くへ行ってしまった生活音や、それを縫うように乗るたどたどしい自分の口笛に耳をすませていました。
―――もう一つの音が響いてきたのは、そんな途方に暮れているときだったんです。
- 8 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 21:57
- ゴツゴツとした音が、わたしの頭の後ろ側、家の方からしました。
わたしはおかあさんが許してくれたんだと、期待と共に振り返ります。
けれど、そうではないみたいでした。カーテンの向こう側に動きは見られないようです。
音は頭上を通り、雨よけである半透明の白濁色の上に、影を伴って現れました。
ハンドスプリングの要領。
信じられないことですが、落下したら大怪我をしてしまうような高さの中、彼女は雨伝いに手をつき、
さらにひねりも加えて、そのままの勢いでベランダへと飛び込んできました。
背から薄い陽に照らされ、腕をくの字に曲げた空中姿勢は、
文句のつけようもないくらいに華麗です。着地もすべるようでした。
しかしそんな場面でしたので、わたしが彼女を天使というよりは悪魔だと感じたのは、無理もないことだったと思います。
- 9 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 21:58
- 彼女はスタスタと、対角線上にいるわたしの元へと歩いてきました。
「……呼んだ?」
聞き間違いだと思いました。どうしてわたしが悪魔を呼ぶのでしょう。
口に出そうとして、結局言葉が出ませんでした。
そんなわたしの様子を見て、彼女は続けます。
「目ぇ赤いね、泣いてたんだ?それにそんなふうに口をパクパクさせてると、おぼれた人みたいだからやめたほうがいいと思う」
急に襲った不思議な感覚に、わたしはとまどいました。風景が突如として滲んだのでした。
何が起こったのかも分からずにいると、ブレた彼女の腕がわたしの頬へと伸びてきて、もう片方の手で頭をなでられました。
「ああ、ゴメン、そういう意味じゃないんだよぉ。そうじゃなくて、ええっと、なんて言えばいいのかな」
そこでようやく、わたしは気がつきました。
グラスに水を張ったような心理状態だったわたしは、彼女の出現の驚きによって、再び泣き出していたのでした。
それ以上の他意はありません。ほんの一押しで水面張力は崩れ去る運命にあったのです。
それなのに彼女は、自分の言葉にわたしが傷ついたと勘違いしたようでした。
「ああ、そうだ、ごとぉもよくサカナ顔って言われるんだよね。ほら、海つながり」
ごとぉ。後藤というのが彼女の名前なんでしょうか。
確かに彼女はどことなく魚に似ていて、それ以上の外見的特長を挙げるとすると、美しい人でした。
その二つが仲良く共存するとは、ついさっきまでの自分は知りませんでした。
目が少し離れているというのに、それはそこになければいけないのです。
- 10 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 21:59
- 「ちょっと……似てる、かも」
「ぶはっ!気にしてるんだからさ、少しは否定してよ」
言葉尻より、温かいのです。彼女はわたしが泣き止んだことでホッとしたようでした。
そんなことで安心してくれる後藤さんが嬉しくて、わたしは笑いました。
「うん、そんな顔のほうが絶対いい。それが言いたかったんだ、ごとぉは。それでその、えぇっと、名前まだ聞いてなかったよね?」
「あ、紺野あさ美です」
「そうそう、こんこん。こんちゃん……こんこんかな、やっぱり」
わたしの意志は尊重されないようでした。後藤さんは自答して、うなずきました。
勝手にあだ名が決まったところで、わたしにもしなければならないことがあります。
どうしていきなり屋根から降りてきたのか。
それを知らなければ、親や近所の人にこの場面を見つかったとき、どう説明していいのか分かりません。
それは後藤さんに失礼だと思いました。
そう思う程度には、わたしは彼女に好感を覚えていました。
- 11 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 21:59
- 「それであの、どうして後藤さんは」
「あれっ、どうしてこんこん、ごとぉの名前知ってんの?前に会った……わけないよね。そうだとしたらごとぉ、覚えてるはずだし」
「ご自分で後藤、って」
「ああ、そっか。ゴジブン。なんか難しい言葉知ってるんだね、こんこんは」
苦笑いを浮かべると、後藤さんはわたしから切り出した会話ということを忘れたようで、さらには自分が初めに口にした疑問も自動処理したようで、話を先に進めてしまいました。
「呼んでくれたのがこんなにかわいい子でよかったよ。もしかして宿題が終わらなくて困ってるとかじゃないよね?
そうだったらこんこん頭よさそうだから、正直ごとぉには荷が重いかもなぁ」
わたしは悩みます。
どれから口にすればいいのか、切り口が多すぎるとかえってどこからも手を出せないものなのです。
なので、そういうときの常套手段。一番最初まで立ち返ることにしました。
「後藤さん、聞いてくれますか?」
「うん、なになに?なんでも言ってくれてオッケーだよ」
「ほんとうに言いにくいんですけど」
「うん」
「あの、呼んでない……です」
さすがに気がひけて、語尾が濁ってしまいました。
それでも後藤さんの耳にはしっかり届いたことがわかりました。
彼女は突然全ての行動を止めたのです。それからキョロキョロと辺りを見渡し始めました。
突然自分が迷子であると気づいたときの、子供のような仕草です。
おもむろに足を運び、自分が降りてきた角へと戻っていきました。
- 12 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:00
- 「あの、後藤さん!?」
わたしが声を上げたとき、彼女は片足を屋根にかけた状態でした。
かなり奮闘しているようでした。さすがに重力には逆らえないのです。
その体勢のまま、口を開きました。
「ゴメン。ごとぉ、間違えちゃったみたい。確かにこんこんのベランダから口笛が聞こえたような気がしたんだ。
急がなくちゃいけないことだから、またいつか会えたら、そのときにちゃんと謝る!」
わたしの中で線がつながりました。この時間に近くで、誰かが口笛を吹く予定があったのです。
それを頼りに後藤さんは屋根伝いに来る約束だったのでしょう。
それならば、誤解の原因を作ったことを謝るべきだと思いました。
「あの、紛らわしいことしてすみませんでした。わたしも口笛をふいてたんです」
後藤さんの巻き戻し作業を続けていた動きが、ピタリと止まりました。
「……口笛、ふいたの?」
「はい」
後藤さんは再びベランダへと降りてきました。今度は足元を確認しながらです。
「そうならそうと早く言ってよ。ごとぉもけっこう大変なんだから」
そう言って、汗をぬぐうフリをします。事実、身体を動かして熱くもなったのでしょう。
羽織っていた白いシャツを脱ぎ、手すりにかけました。
物言い自体は理不尽なものでしたが、戻ってきてくれた喜びのほうが勝ります。
しばらくは一緒にいてくれるのだと、雰囲気がそう語っていました。
- 13 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:00
- すると、後藤さんはやわらかい視線を走らせました。
それはわたしの身体を通り越して、さっきまでのわたしがたたずんでいたところで止まります。
無言のままそこまで歩を進め、一人分のスペースを空けて腰を下ろしました。
立ち尽くしているわたしを見上げると、ポンポンと作った隙間を軽く叩きます。
座れという意味なのでしょう。
わたしはその指示通りに、つがいの文鳥のように後藤さんと並びました。
「よかったら、こんこんがこんなところで泣いてたわけ、話してくれる?」
うなずきました。
長くなるかもしれないと前置きをしたとき、そんなの全然かまわないよ、と言ってくれた後藤さんを見て、全てを正直にさらけ出そうと決めました。
おもに混乱している、外に出されてからの移り変わった感情についてです。
知ってもらいたいと思いましたし、嘘や偽り、飾りを混ぜるのは後藤さんに対して不誠実であると考えたのです。
その間中ずっと頭をなでていてくれた後藤さんに、わたしはできるだけ事細やかに、丁寧に話を展開しました。
- 14 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:01
- 「そっか、いろいろ大変なんだね、こんこんも」
全てを聞き終えたとき、後藤さんがまず口にしたのはそんな言葉でした。
口にすると同時に立ち上がり、ベランダの手すり手前で立ち止まって、大きく伸びをしました。
その瞬間、元気をなくしていた太陽が、最後の力を振り絞るように世界の色を変えました。
それはオレンジ色というよりも、金色に見えました。
色褪せていた日常を、後藤さんが金色に塗りつぶしてくれたようでした。
そんなふうに思えました。
「ねぇ、こんこん?」後藤さんは振り返ります。ふにゃりとした笑顔でした。「ごとぉは経験上、いろんな子供たちの悩みを聞いてるんだけどさ」
「経験上?」
「うん。普段は口笛をふいて暮らしてるんだ」
わたしは何が何だかわからない、といったような表情を浮かべたのでしょう。
後藤さんは手招きをして、わたしを自分の側まで呼びました。
そして、もう一度頭をなでてくれてから、空を指差しました。
「ごとぉはあそこで生活してるんだぁ」
「空の上、ですか?」
後藤さんは大げさに笑いました。違う違う。ちゃんと指の先になにがあるのか見てよ。
言われた通りにそれをなぞると、確かに指は空とは角度が違うようでした。
- 15 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:02
- 「屋根?」
「うん、そう、大正解。こんこんはやっぱり頭がいいんだね」
手の温もりがまた、頭に触れます。
だけど、陽の光に邪魔をされて、後藤さんがどんな顔でいるのかを、見ることができませんでした。
「ときどき“屋根の上の口笛吹き”なんて呼ばれたりもするんだけどね」後藤さんは一呼吸置いて、言います。「そんなたいしたもんじゃない」
「そんなこと……」
「ううん、自分をダメだって言ってるわけじゃないんだ。ただね、ごとぉが作った口笛のメロディーが、いつからか聞こえるようになったの。それをたどってみると、そこには絶対に困っている子供が、一人でいる」
「絶対に、子供なんですか?」
「そう、なぜか一人でね」
わたしが押し黙っていると、後藤さんは話を続けました。
「子供って、ほんと、いろんなことで悩んでるんだなぁって思った。迷子になったり、宿題が終わらなかったり、大人になったら小さく見えちゃうようなことでも、絶望って呼んでもいいくらいに苦悩するんだから」
わたしは顔が赤くなるのを感じました。
うつむいて顔を背けていると、後藤さんの手が伸びてきて、ほっぺたをつまんで上を向かされました。
やはりあったのは笑顔でした。
- 16 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:05
- 「それだけのことなんだよ。知ってるから真剣に話を聞いてあげられる。つまり、ごとぉはなにもしてないってこと」
それで充分なんだ、と感じました。そして、口にしました。
「それで充分なんじゃないかと思います」
「ありがと、こんこんはやさしいね。きっと……もうわかってるよね?」
わたしはうなずきました。これから後藤さんの言うことが、何となく想像がついたのです。
それは内容ではなく、温度。
どんな色をしているかがわかった気がしたので、わたしはうなずきました。
「こんこんのいう“世界”ってものは、これからも姿を変えるかもしれない。だけど、それを楽しんでほしいってこと。ワクワクしながら生きてほしいんだぁ」
後藤さんの存在自体がそれを証明していました。
知らないことはたくさんある。それでも、その中にはきっと、こういったものも含まれているのでしょう。
わたしは壊れたおもちゃのように何度もうなずき、涙が出そうになるのをガマンしなくてはいけませんでした。
暗くなっていく町並みも、誰かの鳴らす自転車のベルの音も、何ももう、わたしを悲しくはさせません。
たった一つのことを除いて。
- 17 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:06
- 「こんこんの力にもなれたみたいだし、そろそろ行かないと」
「もう行っちゃうん、ですか?」
「うん、ごとぉもずっと、こうしてこんこんとしゃべってたいんだけどね、そろそろ次の子のところに行かないと」
何の音も聞こえませんでした。
ただ後藤さんにだけ、自分を呼ぶ、心の痛みから生まれる旋律が届いたのでしょう。
彼女は一つの方向を見据え、口を結んでいました。
「また、会えますよね?」
わたしが口にすると、後藤さんはわたしが泣き出したときのような、困惑に似た笑みを浮かべます。
その表情のまま、わたしの側を通り抜けて行きました。
声は、背中から発せられたようでした。
「……でもね、もうごとぉになんか、会わないほうがしあわせなんだよ」
- 18 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:06
- その言葉を残して、彼女は屋根の上へと姿を消しました。
わたしはとても寂しいことを言われたような気がして、しばらくそのまま身動きが取れないでいました。
鈍い衝撃が強すぎて、起こったことが現実だったのかどうなのか、それすら釈然としなくなってきます。
動けずに呆然としていると、声が降ってきました。
「あの、こんこん」見上げると後藤さんが顔だけを覗かせて、申し訳なさそうにしていました。「ゴメン、シャツ取って」
わたしはとても愉快な気持ちになります。
この人は決まる人なのかそうでないのか、わからなくなりました。
なぜかそれは、三十分くらいの付き合いながら、とても後藤さんらしいと感じました。
悲しいだけじゃない。そう思えてくるのです。
涙が出るくらいに笑いながらシャツを手渡すと、ごとうさんはうらめしそうに、なんだよぉ、と口にしました。
そして仕返しをするように、わざと屋根の上で大きな音を立てます。
飛び跳ねている彼女を想像して、わたしの笑い声は一段と高くなります。
やがて現れたときと同じように足音が響き、現れたときとは反対に、それは遠ざかっていきました。
- 19 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:07
- おかあさんの話によると、頃合いを見計らってベランダのドアを開いたとき、わたしは空を見つめていたそうです。
星なんてまだ見えないでしょ?おかあさんはそう尋ねると、わたしは大きく首を横に振って笑いました。
そして、屋根。屋根の上を見てるの。
そう何度も口にしていたそうです。それは嬉しそうに、誰かを見送るように。
- 20 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:07
- それからというもの、わたしは一度も後藤さんを見ていません。
苦しいことがあったときには必ず自問するのですが、答えはいつも同じでした。
今はまだ、彼女を呼ぶときではない。
彼女は今日もまた、どこかで子供の悩みをぬぐっていることでしょう。
そんな忙しい人の手をわずらわせるには、わたしのとまどいはどれも理由として弱いように感じたのです。
弱い。そうとわかれば頑張れます。
わたしはいつでも、自分の力で解決しようと、そう結論づけることができました。
あの頃より少しは大人になったわたしは、伝えられるでしょうか。
後藤さんに出会ったことは不幸なんかじゃなかった、と。
自分の中の常識と世界がズレたとき、どれだけ支えになってくれたか。
失望の先に救いがあるのを知っていることが、どれだけ生きていくのを楽にしてくれたか。
後藤さんに会える日を今でも自分がどれだけ楽しみにしているか、ちゃんと伝えることができるでしょうか。
- 21 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:08
- そしていつか。本当にわたしがダメになったとしたら。
そのときにはきっと、後藤さんは駆けつけてきてくれるでしょう。
彼女はどんな顔をするのか。色々と考えて、一つしかないように思えました。
きっとあのステキな屋根の上の口笛吹きは、幾分の困惑の後、相も変わらず、ふにゃりとした笑顔を向けるのです。
おかしな気分になりました。わたしは打ちひしがれる日を恐れてはいないのですから。
どうしても一人ではその壁を乗り越えられなくなって、自分を見失ってしまいそうになったとき。
そんなときには、わたしはそっと、口笛を吹くでしょう。
あの日と同じようにベランダへ出て、あの日と同じメロディーを、あの日と同じ気持ちを込めて。
- 22 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:09
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END
- 23 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:09
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- 24 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:10
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- 25 名前:口笛吹きはかく語りき 投稿日:2004/10/01(金) 22:10
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