31 さくら
- 1 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:41
- 31 さくら
- 2 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:42
- 1
ソメイヨシノの新芽が膨らみ始める頃、私は一人の少女を押し付けられた。
そこそこ美人ではあるが、老け顔で地味な感じのする少女で、名前は美海という。
会社では美海を育てたいと言うが、失敗すれば私はリストラされるに違いない。
これまで、脇目も振らず、一生懸命に働いて来た私にとって、それは驚きであり、
失望であり、いつの間にか会社への憎悪へと変わって行った。
「へださん。今日はダンスレッスンだら?」
美海は静岡県出身。いくら注意しても、私を『へだすずおと』と言う。
伊豆半島の北西部にある戸田村から来てるのだろうが、私は『とだ』だ。
それに『りんね』は、両親からつけて貰った大切な名前である。
美海は人の名前を憶えるのが苦手で、未だに社長の名前すら言えなかった。
「あたしは『へだ』じゃない。『すずおと』でもないからね」
私はプリメーラを運転しながら、後部座席の美海を睨んだ。
美海の屈託ない笑顔は、私の神経を逆撫でして行く。
気に入らない。私には美海も会社も、みんな気に入らなかった。
ダンスレッスンやヴォイストレーニングなんて、私には関係ない。
私は好きで美海のマネージャーになったわけじゃない。
「ごめんなさい。すずねさん」
最初は馬鹿にされてるのかと思った。
でも、この子は不器用で、正直過ぎる性格をしてる。
だから、甘さというか、『素』で間違えているのだろう。
こんな子が渡って行ける程、芸能界は甘い世界じゃない。
- 3 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:42
- 「あたしは・・・・・・もういいや。すずねでいいよ」
面倒臭い。こんな将来性の無い子に、何て呼ばれようと構わない。
それより、早い内に潰してあげた方が、この子のためにもなる。
人の名前を憶えられないのは、この世界じゃ致命的な事だった。
会社では美海のために、ワンルームマンションを用意したりしている。
私が彼女を潰せば、会社は大きな損失を蒙る事になるだろう。
「すずねさん。おらぁ、ダンスには自信あるら」
自信があろうと無かろうと、この子は私に潰される運命。
それが私の、会社に対する復讐なのだから。
それにしても、この方言、何とかならないかな。
物凄く馬鹿っぽくて、聞くとイライラして来る。
私も北海道出身だから、あまり人の事を言えた義理じゃないが。
「ちょっと黙っててよ。運転に集中出来ないじゃん」
美海の両親は死んでしまって、静岡県には年老いた祖母がいるだけ。
つまり、彼女にとって芸能界で頼りになるのは私だけなのだ。
私に押し付けられたのが不幸だったと諦めなよ。私は本気で美海を潰す。
「おらぁ・・・・・・何でもない。ごめんなさい」
少しだけ悲しそうな顔で、美海は窓の外に眼をやる。
もう、日中の東京で、コートを着ている人はいない。
流行に敏感な若い女性達は、もう春らしい服装になっていた。
だが、美海に春はやって来ない。私が潰すのだから。
- 4 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:43
- 2
すっかりと若葉になった頃、美海は私の虐めに耐えながらも、着実に成長していた。
相変わらず人の名前を憶えようとせず、私の事は『すずね』のままである。
だが、もう少しで美海は潰れるだろう。その証拠に、彼女は神経性胃炎を患っていた。
こんな事を会社が知ったら、きっと休養するように言って来るだろう。
だからこそ、私は美海が胃炎である事を握り潰していた。
「な、何ですって?」
私はダンスレッスンの最中、会社から掛かって来た電話の内容に仰天した。
ガラスの向こうの美海に表情を悟られないように、私は背中を向けて電話を続ける。
話によると、昨年暮れのオーディションで選ばれた松浦亜弥のデビュー曲で、
事もあろうか、美海にコーラスをさせるというのだ。
「美海なんかに任せても無理ですよ」
私は反対したが、会社ではすでに決定事項なんだそうだ。
場合によっては、新曲のキャンペーンに同行なんて事にもなるかもしれない。
そんな事態になったら、私の力だけでは美海を潰せなくなってしまう。
こうなったらグズグズしていられない。一刻も早く美海を潰さなくては。
「チッ!」
私は電話を切ると、傍にあったパイプ椅子を蹴っ飛ばした。
気に入らない。あんな子が芸能界に出て行くなんて。
これまで、美海のチャンスを潰す機会は幾らでもあったのに、
私はいったい何をしていたんだろう。と自己嫌悪してみた。
- 5 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:43
- 「お疲れ様でした」
どうやって美海を潰そうか思案していると、もうダンスレッスンが終わってしまった。
今日はもう終わりの予定だったが、例のレコーディングの打ち合わせがあるため、
美海を会社まで連れて行かなくてはいけない。今日は定時で帰れると思っていたのに。
私は美海を後部座席に乗せ、プリメーラで会社へ向かっていた。
「す、すずねさん。これ、何だか判るらか?」
美海は少しだけ怯えたような笑顔で、運転する私に訊ねて来た。
私がバックミラーで見ると、両手を胸の前で祈るように組む仕草。
そういえば、私が中高生だった頃、似たような事が流行した。
確か「大好き」だったか「愛してる」の意味だった気がする。
最初は女の子から好きな男の子への合図だったが、
じきに女の子同士でも友情を確認する合図として浸透したんだった。
「知らない」
「これって『大好き』って意味なんらよ」
良かった。私の頃と変わっていない。
でも、美海は静岡県。私は北海道出身だ。
きっと、このサインは全国的に浸透したんだろう。
「運転中に話し掛けるなって言ったでしょう?」
「ご、ごめんなさい」
美海は一瞬だけ怯えた顔になったが、すぐに笑顔となった。
私には、この愛くるしい笑顔が気に入らない。
見ると腹が立つから、私はミラーをあさっての方向に向けた。
- 6 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:44
- 3
私の思惑とは裏腹に、美海は会社の中で愛されて行った。
素直で決して人の悪口は言わないし、あの愛くるしい笑顔である。
おまけに破竹の勢いで成長しているのだから、当たり前といえば当たり前。
思えば美海に罪は無いのだが、私の復讐に利用させて貰わないといけない。
「ん?」
会社の廊下の突き当たりで、美海は亜弥と談笑している。
同い年という事もあって、この二人は実に仲が良かった。
それはそうと、早く美海を潰さないといけない。
私は考えた挙句、そろそろ実力行使に出る事にした。
「あっ!」
自販機の紅茶を飲みながら亜弥と話していた美海に、
私は死角の後ろからわざとぶつかってやった。
熱い紅茶が胸にかかり、美海は悲鳴を上げている。
そんな美海に、私は冷たい言葉を吐いてやった。
「どこに眼をつけてんのよ! 気をつけなさい!」
「す、すずねさん! ごめんなさい」
驚いた亜弥が、美海の赤くなった胸をハンカチで押さえた。
これで、ちょっとは堪えただろう。早く辞めないかな。
でも、何だろう。ちょっと胸が痛くなる。
- 7 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:44
- 4
プリメーラで美海のマンションまで送って行く。
まだデビュー前なんだから、地下鉄ででも帰らせればいいのに。
しかも、私は美海がオートロックのドアに入るまで確認しなければならない。
確かに過保護くらいにしておかないと、最近の若い子はすぐに男に走った。
「明日はレコーディングだからね。九時に迎えに来るから、遅れるんじゃないよ」
「は、はい。すずねさん」
もう、日付けが変わる時刻であるせいか、マンションのロビーには誰もいない。
オレンジ色に近い上品な光が、無数にある郵便受箱を照らしていた。
私がクルマに戻ろうとすると、美海は黙ったまま、ドアの前に立っている。
この子は何を考えてるんだ? これじゃ私が帰れないじゃないか。
「早く中に入りなさい」
「すずねさん!」
いつに無く、美海は訴えるような声で言った。
あの笑顔だったが、眼には涙を貯めている。
何が言いたいんだ? この子は。
「おらの事、嫌いらか? ねえ、おらの事、嫌いなんらか?」
「な、何を言ってるの?」
いきなり美海が迫って来た。私は本能的に一歩後退する。
好きとか嫌いで考えた事なんて無い。この子は道具にすぎないから。
美海の唇が震え、涙が頬を伝って行った。
- 8 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:45
- 「うるさい!」
私は何だか怖くなって、気が付いたら美海を突き飛ばしてた。
後ろに転んだ美海は、郵便受箱に後頭部を打ち、頭を押さえて蹲る。
それほど強く打ったわけではないが、指の間から血が流れて来た。
美海の顔が苦悶の表情に変わる。私は何て事をしてしまったんだろう。
「お、お前なんか・・・・・・お前なんか大嫌い!」
怖くなった私は、プリメーラに飛び乗ると、急発進させてその場を離れた。
そうだ。嫌いにならないと。そうじゃないと、罪の意識が強くなる。
私は美海が嫌い。そう思う事で、私が楽になれる。それがいい。
美海なんか、どうなったっていいんだ。私には関係ない。私には・・・・・・。
「くそっ!」
信号に捉まった私は、ハンドルをピシャリと叩き、そのままクルマをUターンさせた。
美海なんか嫌いだ。嫌いだけど、怪我をさせてしまった。だから戻るだけ。
自分にそう言い聞かせ、私はマンションの前にクルマを急停車させた。
まだ、それ程時間は経っていないから、まだ美海はロビーにいるかもしれない。
「美海!」
私がロビーに駆け込むと、すでに彼女の姿は無かった。
あの子が頭を打った郵便受箱の下には、数滴の血痕がある。
私は合鍵でオートロックを開け、美海の部屋へと向かった。
彼女の部屋のドアノブには、痛々しい血が付いている。
とにかく、私はドアを空け、中に入って行った。
- 9 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:45
- 「いるの?」
部屋は真っ暗だった。
私は手探りで、壁にあるスイッチを押した。
蛍光灯が点くと、美海は部屋の中にポツンと座っている。
彼女は私の顔を見ると、例の笑顔になったのだが、
その直後、堰を切ったように号泣し始めた。
「全く、世話のかかる子なんだから。いい迷惑よ!」
私は文句を言いながら、美海の頭の傷を消毒して手当てした。
これで、いくらか罪の意識というか、気持ちが楽になる。
この子に何の罪があるのだろうか。という考えを、私は必死になって払拭していた。
手当てがが終わると、美海はなぜか、私の手を握って来る。
それは、まだ柔らかく、本当に少女の手だった。
「すずねさん。気に入らない事があるんらったら、おらを殴っていいんらよ」
そんな! この子は何て事を言うんだろう。
苦しい。胸が、胸が苦しくて・・・・・・痛くなった。
自分の意思とは無関係に、ポロポロと涙が出て来る。
私は・・・・・・私は美海なんて嫌いだ。こんな子・・・・・・。
「そんな馬鹿な事・・・・・・言うんじゃないわよ!」
駄目だ。苦しくて仕方ない。
私は逃げるように、美海の部屋から飛び出した。
あんな子、大嫌い。大嫌い・・・・・・大嫌い。
- 10 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:46
- 5
とても疲れているというのに、私は一睡もする事が出来なかった。
美海の言った言葉が、私の心に鋭利な刃物となって突き刺さっている。
まるで気管支炎のように胸が痛み、それは胃炎のように切なかった。
私が九時数分前、マンション前に停車すると、美海が駆け寄って来る。
わざとポニーテールにして、後頭部の傷を隠していた。
「おはようございますら。すずねさん」
「・・・・・・」
美海はいつもの笑顔だったが、眼が腫れ上がり、酷く充血していた。
恐らく、昨夜は私と同様に、一睡も出来なかったのだろう。
しかも、眼が腫れているという事は、泣き明かした証拠だった。
平静を装う美海がいじらしく、私まで涙が零れそうになる。
対向車のフロントガラスに反射した太陽が、容赦無く私達を照らす。
一睡もしていない私と美海にとって、それは頭痛がする程辛い。
「その方言、何とかならないの?」
「な、訛ってるらか?」
自分が使う方言など、あまり気が付かないものだ。
私はプリメーラを運転しながら、上京したばかりの自分を思い出す。
北海道に方言が無いなんてのは嘘っぱちだった。
『田舎者』というレッテルを貼られ、散々虐められた。
だからこそ、私は標準語の特訓をしたんだった。
発音、単語、文法等、TVやラジオのアナウンサーを研究し、
少しでも田舎臭さを消そうと、あの当時は必死だった気がする。
人前では絶対、自然体になれない。それが私なのだ。
- 11 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:46
- 「自分で気が付かないの? 馬鹿みたい」
私は美海を罵ったが、それは自分に対するものだった。
『素朴』な子だと思われたかったし、それを自ら演出した事もある。
自分の価値を少しでも高くしようとした結果が、
なぜか男に媚を売る女になってしまった。
私はそんな自分が大嫌いだった。
「ごめんなさい。すずねさん」
どうして私に謝るのだろう。どうして私に萎縮するのだろう。
私は特別な存在では無いし、美海に媚られる理由も無い。
確かに私の方が年上だが、それは人格より優先すべきものじゃない。
何だろう。この気持ち悪いくらいの違和感は。
「あ、あんたね! あたしを懐柔しようたって、そうは行かないよ」
本心じゃない。私は何でこんな事を言ったんだろう。
もっと素直に、美海へ問い掛ければ済む事だというのに。
私は自分が嫌になって、ハンドルを叩いた。
「お、おらぁ、そ、そんなつもりで・・・・・・」
「あんたなんか・・・・・・あんたなんか・・・・・・」
何でそんなに素直なの? 何でそんなに無垢なの?
私には判ってた。美海を嫌う事で、私は現実から逃げてたんだ。
会社に復讐するなんてのは、自分が惨めにならないための逃げ。
私は何の罪も無い彼女を、自分勝手に虐めただけだった。
- 12 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:47
- 「おらぁ、すずねさんに憧れてるんら。カッコよくて、強くて、大人で」
美海は例の笑顔に、涙を浮かべながら話し始めた。
静岡の田舎出身の彼女が、都会風の大人に憧れる気持ちは判る。
しかし、どうして私なんだろう。私は美海を虐めて来たのに。
年明けに作ったばかりだというのに、眼鏡をかけていても視界がぼやける。
気が付くと、私の頬に伝って行くものがあった。
「すずねさんみたいな大人になりたい。おらぁ、そう思ったんらよ」
頬を伝う熱いものは、私の腿に落ちて行く。それも、次から次へと。
もう、前を走っているクルマの車種さえ、私には判らなかった。
『危ない。運転を中止しないと』そんな声が頭の片隅に聞える。
でも、私の手はハンドルから生えたように、くっ付いて離れなかった。
「すずねさんは、お姉さんみたいで・・・・・・おらぁ、一人っ子なんらよ」
そんな事、とっくに判ってる。私はあんたのマネージャーなんだよ。
小さな頃に両親と死に別れ、親類の家を転々として来た美海。
厄介者として冷遇され、差別され、そして虐待されていた。
いつの間にか、年老いた祖母の家に転がり込み、自立の道を模索してた。
「おらぁ・・・・・・おらぁ、すずねさんが大好きなんら」
「お前なんで大嫌いだ! 馬鹿! 馬鹿! この馬鹿!」
私は急停車すると、泣きながら美海を殴った。
そして、彼女を抱き締め、まるで子供のように号泣した。
私は美海が思っているようなカッコいい女なんかじゃない。
弱くて、意気地がなくて、自分勝手で・・・・・・。
- 13 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:47
- 6
美海のデビューは、松浦亜弥のコーラスだった。
プロデューサーからの注意を譜面に書き込み、
彼女はとても熱心で、しかも明るく仕事をこなす。
もっと声に特徴があれば、コーラスなんて勿体無かった。
「OK! お疲れ様! 」
強面のプロデューサーからOKが出ると、
美海は満面の笑顔で私に抱き付いて来た。
たかがコーラス。されどコーラス。
何か私まで嬉しくなって、一緒にはしゃいでしまった。
「オホン! 調子に乗るんじゃないの」
口では厳しい事を言ってみるが、美海の笑顔に負けてしまう。
一仕事終えて廊下で煙草を吸う強面のプロデューサーも、
美海の笑顔につられて、ついつい笑顔になってしまった。
私は美海の口に喉飴を放り込み、会社に報告の電話を入れる。
当たり前の報告だったが、私には嬉しい報告だった。
「いい感じだな。今度はファルセットを勉強してみろ」
滅多に人を誉めない強面プロデューサーが、美海を絶賛していた。
ファルセットが使えるようになると、声の幅が出るので強力な武器になる。
美海は不器用な子だったが、これからどんどん伸びて行くに違いない。
アイドルでもいいが、もっと歌唱力がつけば、演歌やロックにも挑戦出来そうだ。
声に特徴が無いのを逆手に取って、コーラスユニットを組んでもいい。
- 14 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:48
- 「何度もNG出しやがって! 昼飯でも食うからついて来い」
駄目だ。私には、美海のように素直な言葉を吐けない。
マネージャーなんて安月給だから、昼食はファミレスのランチ。
それでも美海は、嬉しそうにニコニコしている。
こんな無垢な子を虐めてたのかと思うと、私は自分が嫌になって来た。
「すずねさん。おらぁ、とっても嬉しいんらよ」
「何で?」
さすがに昼食時ともなると、こんな店でも混雑して来る。
私達は少し待たされてから、テーブルに案内された。
ランチを二つオーダーして、私達は他愛も無い話をしていた。
すると、美海が徐に、私の顔を見ながら言った。
「・・・・・・初めてすずねさんの笑顔を見れたから」
そうか。これまで、私は美海の前で笑顔すら見せなかったんだ。
希望と不安を胸に、芸能界に飛び込んで来た美海。
唯一の味方であるべき私が、事もあろうか敵になってしまった。
美海はどれだけ寂しかっただろう。どれだけ怖かっただろう。
そう思うと、ちょっと口惜しいけど、また涙が出て来た。
「馬鹿な事、言うんじゃないの」
食事が運ばれて来て、私達はハンバーグを食べた。
決して美味ではなかったが、とても満ち足りた気分になる。
すると、美海が手を滑らし、コーヒーをテーブルの上にぶちまけた。
全く、世話の掛かる子なんだから・・・・・・。
- 15 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:48
- 7
新緑が木陰を提供し、刺すような日光から私達を守ってくれる季節になると、
いよいよ美海の本格デビューが近付いて来た気配がする。
会社では彼女を、どんなスタイルで売り出すか、毎日のように会議が行われていた。
「暑いわねえ。体力が落ちる季節だから、充分に気を付けるのよ」
屋外では連日のように真夏日を記録しているというのに、
会社やスタジオでは、二十五度以下の過度な冷房が入っている。
しっかり食べて、こまめに水分を補給しないと、瞬く間に体調を崩してしまう。
タレントの健康管理は、マネージャーとの二人三脚だ。
「すずねさん。何で助手席に乗っちゃいけないんら?」
「日焼けするからよ」
道交法によると、運転席と助手席側の窓は、
七十パーセント以上の可視光率じゃないと違反になってしまう。
助手席の窓にUVカットのフィルムこそ貼っていたが、
やはりスモークガラスである後部座席の方が安全だ。
「あたしはちょっと黒い方が健康的でいいと思うけどね」
私が付け足すと、美海は例の笑顔で、胸の前で手を組んでみせる。
以前、話をした『大好き』という合図だった。
それをミラーで見ていた私は、思わず微笑んでしまう。
その仕草が、あまりにも可愛かったからだ。
ところが、美海の右目が、ちょっとおかしいと感じる。
もしかすると、疲れが溜まってるのかもしれない。
- 16 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:49
- 「美海、疲れが溜まってたりしない?」
「平気らよ。若いから」
屈託の無い顔で笑う美海に、私も釣られてしまった。
何だか、もう会社への復讐なんて、どうでもよくなってる。
いつの間にか、私は美海を育てる事に、生き甲斐を感じていた。
ここに来て、美海の成長も足踏み段階になっている。
いわばメモリオーバーといった状態で、少し待てば解決するだろう。
しかし、ここまで成長したんだから、いつデビューしてもおかしくない。
「それならいいんだけど」
ミラーで美海を見ると、さっきの違和感は消えていた。
可愛さあまって憎さ百倍という諺があるが、私にとって美海はその逆である。
いくら彼女を嫌おうと思っていても、結局は嫌う事など出来なかった。
そればかりか、私にとって彼女は、とても愛しい存在になっていた。
だから、少しの違和感も、物凄く気になってしまうのかもしれない。
「最近、物覚えが悪くなったんらよ。女優さんの名前が、どうしても出て来ないんら」
「美海は以前から、物覚えが悪いじゃないのよ」
美海は人の名前を覚えるのが苦手で、未だに私を『すずね』と呼んでいる。
四六時中、美海と接してるためか、最近じゃ自分の本名が判らなくなって来た。
思わず『トダスズネ』と、ふり仮名を書きそうになった事もある。
「アハハハハ・・・・・・そうらね」
私はこれまで、これほど人に慕われた事があっただろうか。
美海は私を必要としてくれてる。とにかく、それが嬉しかった。
- 17 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:49
- 8
紅葉というセンチメンタルな季節が訪れると、美海を売り出す方針が決まった。
とりあえず、アイドルとしてデビューさせ、柔軟な対応をして行くというもの。
数週間後にデビューシングルのレコーディングを控え、私達は武者震いをしていた。
「夜になると、ちょっと寒くなって来たね」
私と美海は、スーパーマーケットで鍋物の買い物をしていた。
今晩、美海のマンションで、前祝をしようという話になったから。
初物の白菜は高かったけど、やっぱり鍋には欠かせない食材だ。
葱と鮭、練物、昆布、糸こんにゃく、私用の日本酒が少々。
「すずねさん。今日は泊まって行くんだら?」
「うん。そのつもりだけど」
このところ、オフ前日には美海のマンションに泊まる。
そして、二人で洗濯や掃除をして、休日が過ぎて行く。
私の時間も必要だったが、とにかく美海の世話をしていたかった。
ほとんど一緒にいるせいか、最近では私と美海が似て来たと言われる。
そういえば、彼女にメイクを教えたのも私だし、髪型も一緒。
それはまるで、飼い主が犬に似て来るという定説のようだった。
あれ? 犬が飼い主に似るんだったか? まあ、どちらでもいい。
「すずねさん。北海道の訛りって、どんなのがあるんら?」
「そうだねえ。有名なのは『〜だべさ』『〜っしょ』『〜でないかい?』かな?」
美海のマンションまで歩いて向かう途中、そんな話をしてると、
彼女は腹を抱えて笑い出した。美海に笑われる筋合いじゃないけど。
- 18 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:50
- 「何で笑うのよ」
「だって、すずねさんの発音、本格的だったらぁ」
発音だったか。それはちょうど、アメリカ人が日本語の会話の中で、
英語の単語を発音をするみたいなものなのだろう。
日本語の表記は『マイケルジャクソン』なのだが、
英語だと『メウコジェイクス』としか聞えない。
「美海、あたしの前じゃいいけど、そろそろ標準語に慣れないとね」
「そうなんらけど、つい出ちゃうんらよ」
慣れ親しんだ言語を変えるというのは、一朝一夕に出来るものでは無い。
美海の場合、出身が関東近隣の地域だから、まだ救われる部分があった。
私のように、発音から勉強し直さなくてもいいからである。
美海は不器用だったが、言葉こそ慣れで解決出来る問題だった。
「美海は土鍋を用意して。あたしは食材を切ったりするから」
「はーい」
マンションに着くと、私達はテキパキと動いて鍋の準備を始めた。
美味しいものを食べたい気持ちと、互いに必要な相手と楽しい時間を過ごす。
それを求めるがこそ、いつになく素早い動きになって行くのだろう。
そのせいか、美海の部屋に入って二十分もしないというのに、
もう、土鍋がグツグツと音をたてていた。
「すずねさん、今日は泊まって行くんだら?」
「えっ?」
美海に変化が現れたのは、この頃からだった。
- 19 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:50
- 9
レコーディングの前日、私は美海のマンションに泊まった。
デビューシングルのレコーディングともなると、緊張で眠れないからだ。
少しでもリラックスさせて、充分に睡眠を摂らせなくてはならない。
ここマネージャーとしての、腕の見せ所だった。
「電気を消すよ」
「・・・・・・すずねさん。一緒の布団に入りたいらよ」
不安なんだろう。何だかんだいっても、美海はまだ子供なのだ。
出来れば一緒の布団で寝てやりたいが、この季節は朝方に冷える。
小さな布団だけでは、二人をカバーする事が出来なかった。
「駄目。布団から出ると風邪ひいちゃうでしょう?」
「だってぇ」
「あ、こら。無理矢理入って来るんじゃないよ。・・・・・・もう!」
美海は私の布団に入って来て、しっかりと抱き付いた。
私が頬を膨らませると、美海は例の笑顔で「えへへ」と笑う。
この顔をされると、何でも許せちゃうから私の負けだった。
「甘えん坊なんだから。・・・・・・って胸を触るな! お尻も触るな!」
手足は伸びきっても、美海は子供だった。
私が抱き締めて髪を撫でてやると、途端に欠伸をしてしまう。
やがて、彼女は寝息をたてはじめ、身体の力が抜けて行った。
こうして美海が熟睡すると、私は布団から出て、彼女のベッドで寝る事にした。
- 20 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:51
- どのくらい時間が経ったのだろう。私は美海の唸る声で眼を覚ました。
時計を見ると、まだ朝の四時前で、新聞配達のバイクの音しか聞えない。
何か夢を観て魘されてるのだろうと思い、私は枕元の電気を点けてみた。
「美海、どうしたの? 美海」
「あうううう・・・・・・す、すずねさん。身体が・・・・・・身体が動かない」
「み、美海!」
美海は尋常では無かった。右目は裏返り、夥しい汗をかいている。
いくらか言語障害もあり、左手には力が全く入っていなかった。
これはほぼ確実に、脳に障害が起こったとみていいだろう。
それは脳梗塞かクモ膜下出血の症状と酷似していた。
「しっかり! しっかりするんだよ! 救急車を呼ぶからね!」
通報から三分後、救急車が到着し、美海は近くの救命救急センターに搬送された。
美海は意識もしっかりしてるし、呼吸困難や低体温症も起こしていない。
患部にもよるが、命に別状がある状態ではないだろう。
最初は仰天したが、私が冷静にならないといけなかった。
「病院に着いたよ」
「お、おらぁ、どうなるんら?」
怯えて泣きながら、美海は右手で私の手を握る。
私は心配させないように、笑顔で「大丈夫だから」と言った。
ストレッチャーで処置室に運ばれる美海は、
まるですがるような眼で私を見ていた。
- 21 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:51
- 10
センターに到着して一時間が経過した頃、
私は医師に説明を受けるべく、談話室へ案内された。
清潔な室内には、これといった嫌な臭いなど無く、
医師と対面する机と椅子があるだけ。
私が少し待っていると、若い医師が紙袋を持ってやって来る。
そして、彼は椅子に座るなり、仰天する事実を告げたのだった。
「の、脳腫瘍?」
医師から告げられ、私は気が遠くなるのを懸命に堪える。
今回の脳梗塞は、腫瘍が血管を圧迫して起こったものらしい。
私は美海がそんな状態だとは知らず、無理させてしまったのか。
マンションの入口で美海に怪我させた事が原因なのだろうか。
「これはMRI映像です。三ヶ所に腫瘍が確認出来ました」
美海の頭部断面が、レントゲンの連続写真のようになっていた。
素人の私が見ても判る程、美海の頭部にある腫瘍は大きい。
これだけ大きな物を、果たして除去出来るのだろうか。
「・・・・・・そんな!」
「以前から兆候がありませんでしたか? 記憶が曖昧になるとか、手足が変になったりとか」
そういえば、美海は人の名前を覚えるのが苦手だった。
右目が変な方向を向いてた事もあった。あれは、脳腫瘍のせいだったのか。
なぜ、もっと早く気付いてやれなかったのか。私は後悔で涙が出て来た。
- 22 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:52
- 「そ、それで、手術は?」
「気をしっかり持って下さい。美海さんは、今年一杯くらいしか生きられないでしょう」
そんな馬鹿な! 美海は元気だったよ。数時間前まで。
何で? 何で死んじゃうの? 冗談だよね。
冗談だって言ってよ。そんな事、あっていい筈が無い。
「だ、駄目だよ。そんなの。・・・・・・だって、美海は・・・・・・これからなんだよ」
美海の頭の中で、悪魔が暗躍していた。まるで、私を嘲笑うかのように。
どうすればいいのか判らない。北海道のお婆ちゃんに電話しようかな。
『花とゆめ』に書いてなかったっけ? ケイタイで検索出来ないかな。
どうすればいいの? 美海が死んじゃう。献血しても駄目だったっけ?
「嫌だ! 先生! 美海を・・・・・・美海を助けて! お願い! お願いー!」
私が虐めたから、美海は死んじゃうのかな。
私が嫌いになろうとしたから? 私が意地悪したから?
駄目だよ。だったら私を罰してくれればいいんだよ。
美海には何の罪も無いんだから。私が悪かったんだから。
私が・・・・・・私が・・・・・・。
「落ち着いて下さい。あなたは未成年後見人でしょう? しっかりして下さい」
ついに私は気を失い、椅子から転げ落ちてしまった。
- 23 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:52
- 11
すっかりと枯葉が落ちてしまった頃、美海は会社を解雇された。
その翌日、私も会社に辞表を出した。美海を見捨てる会社に未練は無い。
僅かばかりの退職金と、入院保険だけが、美海の命を継続させて行く。
一時は薬が効いて元気になったが、ここに来て彼女の病状は悪化していた。
「すずねさん。桜、咲いてるらか?」
差額ベッド代が払えないから、美海は六人部屋だった。
きっと、死の直前まで、彼女はこの大部屋にいるんだろう。
この無機質な部屋には、若い女性は美海しかいない。
脳疾患の老女達。いわゆる痴呆老人が入院していた。
「まだよ。春にならないとね」
「おらぁ、桜が見たいら」
まだ十一月の下旬だから、ソメイヨシノが咲くのは四ヶ月も先の事だ。
せめて、十八歳の誕生日までは、生きていて欲しい。
その六日後が私の誕生日。出来れば一緒に祝いたい。
でも、それはもう無理みたい。なぜなら、もう美海は長くない。
起きてるより、眠ってる時間の方が多くなって来た。
「それは我儘」
「アハハハハ・・・・・・そうらね」
屈託無く笑う美海を見てると、私は我慢出来なくなって廊下に飛び出した。
なぜ美海が死ななきゃいけないの? なぜ、こんなにいい子を神様は殺すんだ。
出来る事なら、私が代わってやりたい。美海はこれからなのに。
- 24 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:53
- 二週間後、美海は危篤状態になって個室に移された。
室内の暖気で汗をかく窓の外では、クリスマス商戦の真っ只中。
深夜にも関わらず、電飾の光が病室にまで届いていた。
「アハ・・・・・・アハハハハ・・・・・・休んでもいいらか? りんねさん」
美海はふと眼を覚まし、私を見てニッコリと笑った。
医師と看護師が、強心剤と昇圧剤を点滴に注入する。
もう、すぐそこまで死がやって来ていたが、
美海は自分の胸の前で祈るように手を組んだ。
それは、あの『大好き』というサインなのだろう。
「こいつ、ようやく私の名前を呼べたね」
私が彼女の髪を撫でて頷くと、それっきり美海は眼を覚まさなかった。
慌てて心臓マッサージをしようとする医師を、私は阻止して美海に抱き付いた。
もう、誰にも美海を痛めつけて欲しくなかったから。
私は冷たくなって行く美海の頬にキスすると、しばらく彼女の横にいた。
「笑ってるの? 美海」
喜びや怒り、悲しみや楽しみといった世俗的なものから開放された彼女は、
まるで天使のように無垢な笑顔をしていた。
死んでしまった事は残念だが、不思議と悲しみを感じない。
というより、全く実感が無いのだろう。
桜を見せてやりたかったな。
- 25 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:53
- 12
数ヵ月後、私は納骨のために、美海の故郷を訪れた。
新しい仕事も決まり、私は忙しかったが、休日を利用して静岡までやって来た。
斎藤家の墓は荒れていたが、私が掃除すると、それなりにきれいになる。
私は彼女の入った骨壷を収める前に、墓地の周囲に咲くソメイヨシノを眺めた。
「美海、桜だよ。ほら、綺麗でしょう?」
美海の祖母は老齢で、この納骨には参加する事が出来ない。
だから、私一人で納骨する事になったが、それはそれでよかった。
墓石の後ろを抉じ開け、美海が入った骨壷を収める。
線香を焚き、イケナイコトだが手が届くソメイヨシノの枝を折った。
それを墓前に置き、私は手を合わせた。
すると、どういったわけか、手を組んでしまう。
「・・・・・・大好き」
どこからか美海の声が聞えた気がした。
甘えん坊美海。天真爛漫な美海。天使みたいだった美海。
「また、来るからね。いい子にしてるんだぞ」
春の爽やかな風が吹き、薄ピンク色の花びらが美海の墓に降り注ぐ。
その光景が爽快で、私は思わず微笑んでいた。
きっと、ゴールデンウィークには逢いに来れるだろう。
死んでからも世話のかかる子だな。全く。
私は風が花びらを運ぶ中、これからに向かって歩き出した。
- 26 名前:31 さくら 投稿日:2004/09/30(木) 18:53
- 終わり
- 27 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
- このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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