4 8.21
- 1 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:43
- 4 8.21
- 2 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:44
- 冷房がガンガンにきいた室内だというのに、
3人はティーシャツがしぼれるほど汗をかいていた。
中でも最年少のみうなは、異様なほど大量の汗をかいている。
汗をかけばノドがかわき、あびるように水を飲む。
そして動けば汗をかき、悪循環になっていた。
それはまるで、彼女のスランプを代弁しているようだった。
「あかんな。休憩入れよ」
思うように体が動かず、気持ちだけがあせってしまう。
すると体が硬直してしまい、ぎこちない動きになるのだ。
みうなはそんなことを、もう3日も続けていた。
稲葉が音楽を止めさせると、みうなは座りこんでしまう。
窓の外では、呼吸が苦しくなるほどの暑さもやわらぎ、
ちょうど太陽が西に見える丹沢の山に落ちてゆくところだった。
「どないしたんや。みうならしくないで。ほんま」
あさみやまいよりも、ダンスの力があるみうな。
だが、彼女は今、生まれてはじめての大スランプだった。
マネージャーが弁当を持ってきても、みうなは箸がすすまない。
彼女のスランプの原因は、この猛暑にある。
この夏は、近年まれにみる暑さが続いていた。
早い話が、みうなは暑さにやられてしまったのである。
そんな状態では、いくら才能があっても緩慢な動きになってしまう。
みうなから笑顔が消え、しだいに無口になってゆく。
これがいい状態ではないことを、稲葉がいちばんよく感じていた。
- 3 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:45
- 「あと3日しかないんやで。何とか形にせえへんとな」
3日後の8月21日。モーニング娘。のツアーがはじまる。
カン娘。はゲストとして、美勇伝といっしょに出演することになっていた。
多忙な夏まゆみにかわり、カン娘。は稲葉が面倒をみている。
夏の代役である稲葉は、何とか無事に初日を迎えなくてはいけなかった。
「すいません。稲葉さん」
みうなはもう限界だ。これ以上の練習は体に毒である。
さっきから水ばかり飲むみうなの腕を、横にいたあさみがおさえた。
いつもは笑いがたえないカン娘。たちだが、今日ばかりはそれどころではない。
みうなの動きが2人にも影響してしまい、ボロボロになっていた。
「今日はもう、終わりにしよ」
今のみうなに必要なのは、納得できるまで練習することではなく、
疲れた体と心を休ませるための時間だった。
だが、そんな悠長なことを言っていられる状態ではないことを、
いちばん痛切に感じているのは、ほかでもないみうなである。
あれだけ明るかったみうなが、悲しそうな視線を稲葉におくった。
「稲葉さん、あの―――」
みうなの言いたいことはわかる。だが、ここでムリをしてはいけない。
それでなくとも体が弱っているのだから、高熱をだしたりすれば、
3日後のツアー初日に間に合わなくなるばかりか、
今後のスケジュールをキャンセルしなくてはならなくなる。
それだけは、何があっても避けなくてはいけなかった。
- 4 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:45
- 「あんたに必要なんは休養やで。歯がゆいやろうけどな」
窓の外では、夕焼けに染まった大都会が、もの悲しげな色になっていた。
それは、今日という一日をリセットし、明日へそなえるために必要なもの。
それと同じように、稲葉は頭の中で、明日へ向けて切りかえをしていた。
みうなほどの猛者なら、体調さえもどれば、すぐにマスターしてしまうだろう。
「でも―――」
「ええから、今日はもうグッスリ寝るんや。休むことも仕事やで」
こんな状況の中、稲葉はあえて笑顔をつくった。
今のみうなを休ませるには、自分が余裕をみせないといけない。
これまで、出演と裏方を同時にこなしてきた彼女は、
そういった部分のフォローが得意だった。
涙ぐむみうなの頭を、あさみとまいが撫でる。
すでに、オリメンがひとりもいないカントリー娘。
この3人は、すべて補充されたメンバーだった。
モー娘。のように、先輩たちが遺したステータスもない。
「―――はい」
断腸の思い。今のみうなは、それほど悔しいだろう。
ダンスには自信をもっていただけに、それはひとしおである。
そんなみうなの気持ちが痛いほどよくわかるだけに、
稲葉は何としてでも、ツアー初日に彼女の笑顔を見たかった。
- 5 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:46
- 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
- 6 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:46
- 暦の上では秋になっていても、まだ焼けつくような日差しが続いていた。
さわやかな涼しさを持つ空気は、10時くらいになるとどこかに消えてしまう。
それにかわって、体内の水分を奪うような、嫌悪感のある暑さがやってくる。
ダンススタジオの冷房は、省エネ対策など無視し、20度にまで下げられ、
少しでも彼女たちの体に負担をかけないように設定されていた。
「おはようございます」
少しだけ早くやってきて、自主的に体を動かしていたカン娘。の3人が、
関西人特有のノリで周囲を笑わせながらやってきた稲葉にあいさつした。
あさみよりも、少し背が高いだけの小柄な稲葉だったが、
周囲に気を配ることはもちろん、誰よりも元気にしている。
こうして周囲のテンションをあげてゆくのが、彼女は自分の仕事だと思っていた。
「おお、体を動かしとったか。腰を振りすぎたらあかんで」
稲葉は加藤茶を思わせる腰の振り方をして、みんなの爆笑を誘った。
こうしてリラックスさせ、最高のパフォーマンスを導きだす方法を、
彼女はメロン記念日の面倒をみながら学んでいたのである。
メロン記念日の4人よりも、さらに若いカン娘。を指導するには、
こうした遊びが必要であることは、彼女が痛切に感じていたことだった。
(汗? )
あさみとまいのティーシャツは濡れていないというのに、
みうなはすでに、かなりの汗をかいていた。
これがどういった意味であるか、稲葉にはすぐに理解できた。
まだ体調がもどっていないのか。それとも―――
- 7 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:47
- 「みうな。昨夜はちゃんと寝たんやろな? 」
みうなの目が泳いでいる。まちがいない。
彼女は昨夜、何とかしたいあまり、遅くまで自室で練習していたのだ。
だが、どうしても、その成果があらわれているようには見えない。
それどころか、昨日にもまして、体調が悪そうだった。
「すいません。自分で練習を―――」
「アホ! 」
乾いた音がひびき、みうなは左の頬をおさえて倒れる。
驚いたあさみが稲葉に抱きつき、まいは身を挺してみうなを守った。
いつもは温厚な稲葉が、ここまで怒るとは、いったい誰が予想しただろう。
マネージャーをはじめ、男性スタッフまでもが、稲葉の迫力に呑まれていた。
「休むのも仕事言うたやろ! このアホが! 」
「やめて! あっちゃん、お願い。やめて! 」
泣きながらしがみつくあさみに、稲葉はどうしようか迷った。
だが、このままではいけない。みうなは仕事を理解していない。
ここは本気で叱らないといけない。稲葉はそう思っていた。
「練習は夕方からや! ええか? しっかりせえ! みうな! 」
これほど怒った稲葉を、あさみですら、これまで見たことがない。
時間がないのをあざ笑うかのように、壁にかけられた時計が秒針をきざむ。
稲葉は泣きじゃくるあさみの頭を撫でると、無言でスタジオを出ていった。
- 8 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:48
- 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
- 9 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:48
- あれでよかったのか。みうなには厳しくしすぎたのではないか。
稲葉はあれから、昼食もとらないで自問自答していた。
カン娘。のマネージャーから、「顔だけは殴るな」と苦情が入る。
たしかにそうだ。まさか、頬に手形のある顔でステージには立てない。
小柄で力も弱い稲葉であっても、やはりアイドルの顔を殴るのはよくなかった。
「さすがのあっちゃんでも、今回はまいったわな」
稲葉は喫茶店のテーブルにヒジをつき、頭をかかえてしまった。
彼女と対面して座るマネージャーは、関係者に電話して指示を仰ぐものの、
全権を稲葉に任せるということで話は終わってしまった。
となりの席では、若いカップルが別れ話をしている。
そんな耳のわく話であっても、今の稲葉にはかまっていられない。
天井につるされたBOSEスピーカーから流れる有線放送は、
皮肉にもカン娘。の「シャイニング愛しき貴方」だった。
「ん? 」
稲葉の携帯が鳴った。サブ画面には「まい」と表示されている。
昨年のシャッフルユニット「AIR7」では、いっしょにやった。
モー娘。の飯田ほどではないにしろ、彼女もまた変人ぎみなところがある。
ちょっと理解されにくい彼女だったが、稲葉は気に入っていた。
「おお、どや? ―――ほんま? ならええわ」
まいの話によると、あさみが説得し、何とかみうなを寝かせたらしい。
マネージャーの吸うタバコの煙が、垂直に天井へ向かうのを、
稲葉はながめながら、ひと安心してため息をついた。
だがそれは、やっと準備のメドがついたというだけにすぎない。
- 10 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:49
- 「世話のかかる子やな」
稲葉は電話を切ると、少しだけ嬉しくなってアイスティーのおかわりをした。
明後日の今ごろは、すでにステージが始まっているだろう。
それを考えると、彼女の胃がキリキリと痛みだしてくる。
予定でいけば、明日は動きの確認くらいで終わらせるはずだった。
そのくらいのペースでいかないと、紺野や藤本とは当日になって合わせるのだから、
ほんとうに間に合わなくなってしまう。
「なあ、夕方からのスケジュールなんやけど」
稲葉は困った顔のマネージャーに話しかける。
緊急事態であるのはわかっているが、たった数時間寝たところで、
みうなの体調が完全にもどるとは、どう考えても思えなかった。
それならば、練習をやめて、みうなが元気になることをした方がいい。
時間がないことは事実だが、明日にかけるという手も残されていた。
「練習はせえへん。ええか? 明日にかけるんや」
これにはマネジャーも、ジンジャーエールをこぼすほど驚いた。
それはそうだろう。こんな状態で練習をしないというのは前代未聞。
たった1日で結果をだすというのは、あの夏まゆみですら不可能だろう。
だが、稲葉はみうなの才能にかけたのである。
もちろん、それは苦渋の選択だったのだが。
- 11 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:49
- 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
- 12 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:50
- ついに、ツアー初日の8月21日がやってきた。
会場は座間ハーモニーホールという小さな小屋である。
まっ先に会場入りしたカン娘。と稲葉は、
ごまかしのきかないステージであることを痛感した。
「みうな。もう1回だけやろうや」
多忙なモー娘。が到着する前に、もう1回だけ3人で合わせてみる。
稲葉はモー娘。が使う予定のいちばん大きな楽屋を使い、
最終調整として、カン娘。の3人に練習させてみた。
外ではもう、うだるような暑さになっているだろう。
「ええで! これまでで最高や」
稲葉はおだててみるが、みうなは不安を隠しきれない。
昨日はみうなの体調こそもどったが、けっして満足できる状態ではなかった。
それでも、今後を考えると、これで満足しなければいけないのかもしれない。
どうしても、みうながつっかえる場所があり、それさえ何とかなればいいのだが。
これまでは、稲葉のカウントを合図に、みうなはペースをつかめた。
しかし、ステージに出るとなると、とてもではないが、稲葉の声など聞えない。
「稲葉さん、不安です。どうすればいいのか―――」
あれだけダンスには自信を持っていたみうなが、
不安とプレッシャーから泣きだしてしまった。
そんな緊迫した雰囲気をよそに、時間だけは刻々とすぎてゆく。
こうなったら、稲葉が飛び入りし、みうなのサポートをするか。
それはそれで、会場のファンも喜ぶにちがいない。
だが、そんな勝手なことをやったら、稲葉のクビが飛ぶ。
- 13 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:50
- 「安心せえ。何とかしたる。このあっちゃんが、なんとかしたるさかい」
稲葉は打ち合わせ中のステージマネージャーとミキサーのところへ行った。
みうなのヘッドセットだけ、ステージ横の稲葉の声を入れてもらえばいい。
その声を合図に、みうなは踊るだけでいいのだ。
ところが、ミキサーからの返事は、まったくつれないものだった。
「いきなり言われてもムリだっての! 」
「そこを何とか―――」
「しつこいんだよ! 」
ミキサーに怒鳴られ、稲葉は驚いて逃げだした。
たよりのミキサーに断られてしまった以上、
ここはどうやってみうなに合図をおくるか。
聴覚的な合図ができないのなら、視覚にうったえればいいのだが、
稲葉には具体的な方法がうかんでこなかった。
「どうしよ。えらい約束してもうたわ」
稲葉はみうなの不安を解消するため、自信のない約束をした。
夏まゆみの代行をするほどの人物から保障されたのだから、
みうなもいくらか気が楽になってきたらしく、たまに笑顔もこぼれる。
それとは逆に、アテのない空手形をきってしまった稲葉は、
頭をかかえてステージにやってきた。
- 14 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:51
- 「―――あかん。何も思いつかへんわ」
稲葉は客席に飛びおり、中央のイスに座ってステージをながめてみる。
あと数時間で、この客席が満員になるのだろう。
満員の観客が、モー娘。美勇伝、そしてカン娘。そしてみうなを待っている。
不安を抱えてステージに出ることが、どれだけ苦しいことか、
稲葉は誰よりもわかっているつもりだった。
「どうすりゃええんよ。泣きたくなるわ。ほんまに―――」
客席の天井を見上げると、シーリングライトが見えた。
このライトは、ステージを正面から照らす花形のライトである。
シーリングの左右にはフロントライトがあり、こちらは立体的に照らすためのもの。
この世界に入る前は、そんなことも知らなかった稲葉。
みうなも昨年の春までは、ふつうの高校生だったのだ。
「せめて、みうなが見える場所で、うちが踊れればええんやけど」
薄暗い客席は、稲葉とみうなの不安を呼びこむように、不気味な静寂を湛えていた。
それはまるで、客のブーイングを増幅するかのような、悪意のある静けさである。
もうじき、夏まゆみがモー娘。を率いてやってくるだろう。
夏まゆみの怒鳴り声を想像し、身震いしながら楽屋に向かう稲葉だった。
- 15 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:51
- 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
- 16 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:52
- 「藤本、スウィングが雑になってるよ。紺野はいい感じだね」
夏まゆみは、初めて合わせたにしては、まあまあの感触に目を細めた。
藤本と紺野にも余裕がある。いくらか不満はあっても、観客は満足するだろう。
その余裕が苦しい練習を克服した成果なのは、稲葉がいちばんよくわかっていた。
夏まゆみはみうなの不安げな表情が気になったが、あえて尋ねようとはしなかった。
「稲葉、何であんたが踊ってるの? 」
背後で踊っている稲葉が、彼女は何となく気になった。
痛いところを指摘された稲葉は、とっさにいいわけを考える。
まさか、みうなは完全におぼえてはいない。などとは口が裂けても言えない。
とりあえず笑ってごまかしながら、稲葉はいつでも逃げられる位置にいた。
「い、いや、うち、踊るの好きやしね」
カン娘。のリハが終わると、次は問題の多い美勇伝である。
夏まゆみの表情がきびしくなり、稲葉はコソコソと楽屋に向かった。
楽屋ブースの廊下では、元気なモー娘。たちがさわいでいた。
辻加護といった元気印がいなくなっても、モー娘。はパワフルである。
稲葉はカン娘。3人の後を追って楽屋に入ろうとしたが、
運悪くモー娘。のメンバーに発見されてしまった。
「わーい! あっちゃんみっけー! 」
矢口が抱きついてくる。矢口はハロプロ創成期からいっしょの仲間だ。
なつかれるのは嫌いではない稲葉だったが、今はそれどころではない。
矢口をひき離そうとしたら、こんどは飯田にバックをとられてしまった。
- 17 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:54
- 「こ、こら。あかん、あかんて。カオリ、人のブラジャーはずすんやない」
すかさず田中が走ってきて、ネコのぬいぐるみでいたずらした。
ハロコンの楽屋ブースでは、いつもこんな調子だった。
温厚な稲葉や保田は、ほかのメンバーのおもちゃになっている。
精神年齢のひくい安倍は、辻加護やキッズといっしょにいたずらしていた。
こんな和気藹々とした雰囲気が好きで、稲葉は30歳だというのに、
ハロプロから離れられずにいたのだった。
「ニャ〜ン」
そういえば、稲葉も田中も、どこかネコっぽいと言われていた。
そんなことが頭の片すみをよぎると、稲葉はあることを思いつく。
彼女は飯田を投げ飛ばし、矢口を放り投げると、
驚いた田中からネコのぬいぐるみを奪いとり、穴があくほど見つめた。
「こ、これや! これしかないで! 」
稲葉はネコのぬいぐるみを抱きしめて、カン娘。の楽屋に飛びこんでいった。
あいかわらず、カン娘。の周囲には、重苦しい空気がただよっている。
そんな空気を吹き飛ばす勢いの稲葉は、みうなにネコのぬいぐるみをわたした。
- 18 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:54
- 「みうな! これやこれ! これで何とかなるで! 」
「これはネコのぬいぐるみですけど―――」
「ええか? 下手側のフロントライトの上に、猫渡りがあるんや」
猫渡りとは、天井近くにあるハシゴを横にしたような通路のことである。
なんと、稲葉はそこで踊り、みうなに見てもらおうというのだ。
彼女はステージ横から合図をおくることしか考えていなかったのだが、
フロントライトの上であれば、ステージからはよく見える。
ただし、これだけ客席に傾斜があるため、フロントライトは高い位置にあり、
さらにその上ということで、少なくとも7メートルの高さがあった。
「危ないよ。猫渡りなんて」
あさみは稲葉に、そんな危険な場所へ登ってほしくなかった。
まかりまちがって転落したら、それこそとり返しがつかない。
『岡田あああああああああーーーーーーー! 』
ステージをモニターしていたテレビから、夏まゆみの怒声が聞えてきた。
これにはカン娘。の3人と稲葉が飛びあがってしまう。
その直後、全員一致で稲葉の意見が受け入れられた。
- 19 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:54
- 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
- 20 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:55
- カン娘。の出番となる直前に、稲葉は危険な猫渡りによじ登った。
いざ登ってみると想像以上の高さに、稲葉は足が震えてしまう。
たしかに、稲葉には夏まゆみがこわいということもあった。
だが、何としてでもみうなに恥をかかせたくない。みうなの笑顔を見てみたい。
そんな思いを胸に、稲葉は危険を省みず、この危険な作業に入ったのだった。
「おお、ここやで。あっちゃんはここにおるしな」
カントリー娘。に紺野と藤本(モーニング娘。)が登場すると、
稲葉は観客といっしょになって大きく手をふった。
観客の誰ひとり、こんな場所に人間がいるとは思っていない。
「シャイニング愛しき貴方」の音楽が始まると、
稲葉はみうなの動きに合わせてステップを踏みだした。
「そうや。ええで、その調子や」
チラチラとみうなの視線を感じ、稲葉はいつもより大きな動作で踊った。
ところが、そこは足場のわるい猫渡りの上である。
稲葉は少しだけ踏みだしたとき、足をすべらせてしまった。
彼女の脳裏に「落下」という言葉がよぎる。
あわてて体をひねり、猫渡りのはじにしがみついた。
「わあああああああーん! 」
いくら助けをよんだところで、これだけ大音量では誰も聞えない。
辻くらい力があれば、何とかよじ登ることもできるだろう。
だが、稲葉はけっして若くはなかったし、力も強い方ではない。
稲葉の握力に限界がせまっていた。
- 21 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:56
- (あれ? 稲葉さんがいない)
さっきまで猫渡りの上に稲葉がいた。
ところが、みうなが客席に視線をうつし、
ターンしてまた見あげると、そこに稲葉の姿はない。
一気に不安となるみうなに、あさみは口だけで「がんばれ」と言った。
(もう、頼りになるのは自分しかいない)
ダンスでは誰よりも自信があるみうなは、しだいに冷静になってゆく。
ダンスが苦手な紺野が言った。「みうなちゃんみたいになりたい」と。
そんな紺野が彼女の横で、目を輝かせながら踊っていた。
歌ではまいや藤本にはかなわない。でも、ダンスは私の方が上。
そんな自信すら忘れていたと思うと、みうなは何だか恥ずかしくなった。
(まちがったっていい。あたしはダンスが好き)
曲の後半に入るころには、みうなのキレがもどってきた。
稲葉が心配していた部分も、自然に体が動いてしまう。
表情も初めとはうってかわり、いい顔になってきた。
みうなの動きにキレが出ると、あさみとまいにも伝染し、
全体がよくなってしまうのがカントリー娘。である。
観客の誰もが、あさみ、まい、藤本、紺野そしてみうなに酔った。
(きまった! )
最後のポーズが決まると、みうなは消えゆく照明の中で最高の笑顔を見せた。
まだコンサートの途中だというのに、観客は割れんばかりの拍手を贈る。
あさみとまいの手をにぎり、みうなは嬉し涙を浮かべながらステージを降りていった。
- 22 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:56
- フロントライトの裏で正座をしてうなだれる稲葉は、
ただでさえ小さいのに、よけい小さく見えた。
稲葉は落下する直前、夏まゆみに助けられたのである。
夏まゆみは腕を組んでカン娘。のステージを観ていたが、
それが終わると稲葉をドアの外の通路に連れだした。
「何かコソコソしてると思ったら、そういうことだったのね? 」
夏はようすがおかしいと思い、稲葉のあとをつけてきたらしい。
こんな危険なことをするなど、ぜったいに許されることではなかった。
だが、夏は昭和30年代生まれだけあって、こうした話に弱いのである。
稲葉を叱りとばそうと思ったが、自分が感動してしまった。
「みうなの体調が悪いのは、あたしも知ってた。よくここまでやったよ」
夏はそう言うと、泣きじゃくる稲葉を抱きしめた。
稲葉のことだろうから、きっと苦渋の選択をしたんだろう。
夏は誰よりも、稲葉のことを理解していた。
「こんな危険なこと、次は―――」
「夏先生、すんまへーん! 」
「次は必ず命綱をつけるんだよ」
夏はそう言うと、稲葉の頭を撫でてステージへ降りていった。
稲葉は夏に怒鳴られなかったので安心したが、どうも釈然としない。
(また猫渡りで踊らす気かい! )
- 23 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:57
- 稲葉はカン娘。のステージを途中から観ていない。
だから、どういった状態になったのかも知らなかった。
自分を頼りにしていたみうなは、どんな思いをしたのだろう。
そう思っただけで、彼女は胸が痛くなってきた。
(とりあえず、あやまらんことには―――)
稲葉は重い足どりで、カン娘。の楽屋へと向かう。
スタジオでみうなを殴ってしまった手前もあり、
この失態を何といってあやまればいいのか。
彼女は何度もため息をつき、楽屋のドアに手をかけた。
「み、みうな! すまん! 」
「稲葉さん! 」
ドアを開けると同時に、みうなは涙をうかべて駆けよってくる。
殴られると思って歯を噛みしめた稲葉だったが、みうなは彼女に抱きついた。
どういうことかわからないで、目を白黒させる稲葉を、
あさみとまいは、感謝するような顔で歓迎していた。
「あたしの自信を、とりもどさせてくれたんですね。ありがとうございます」
「あっちゃん、憎いことするんだから」
あさみが稲葉に抱きつくと、まいは3人を強く抱きしめた。
どうやらステージは無事に終わったらしく、稲葉はなぜか感謝されている。
彼女の見ていないところで、みうなが勝手に自信をとりもどしたのだが、
とりあえず結果オーライといったところだろう。
- 24 名前:4 8.21 投稿日:2004/09/25(土) 13:57
- 「あは―――あははは―――ま、まあ、よかったわな。あはははは―――」
「カンチョー! 」
「うっ! 」
ドアを開けっ放しにして3人に抱きつかれ、油断していた稲葉は、
肛門にすさまじい痛みを感じて動けなくなってしまった。
「オイラとカオリを投げとばしやがって。仕返しだよー。あははははは―――」
心臓の鼓動にあわせて、つぎつぎと痛みが背骨を通って脳に伝わる。
稲葉の目にも涙がたまっていたが、それがみうなに対する気持ちなのか、
肛門の痛みにたえられなくなったのかは、本人でもよくわからなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 END 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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