10 深海の山嶺
- 1 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/25(日) 23:57
- 10 深海の山嶺
- 2 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:39
- ◇
――2015年、夏
凍てついた闇の向こう。
小さな灯りがぼんやりと隊列を為して静かに流れる。
まるで精霊流しのように。
足を踏み出すたびにガリッ、と雪氷を削る音に
かろうじて自分が8千メートルもの高度を登坂している事実を確認する。
まだ最終キャンプを出発してから数十分しか経っていないというのに、
すでに意識は朦朧として呼吸が荒くなっている。
私は酸素ボンベの残量を気にしながら、吸気量を一定に保つよう努めた。
こんなところで引き返すわけにはいかない。
ここまで到達するのに10年の月日を費やしている。
そして、これがおそらく最後のチャンス…
最近、とみに衰えつつある体力を考えれば、
この機会を逃して再び8千メートル級の高峰を制すチャンスがあるとは思えなかった。
「麻琴……」
酸素マスクを口にくわえたままではまともに聞こえるはずはなかったが、
また、まともに聞こえる必要もなかった。
混濁した意識が一瞬、澄み通るついでに10年前の残像が視界をちらりと掠めた。
白い突風。傾く世界――
ピッケルを左手に持ち替え、右手を胸に当てた。
ゴアテックスの防寒着と幾重にも着込んだウールの下着の間に挟んだ小さな容器の形を手
袋のまま確認する。
この10年の間、ひとときも忘れることのなかったその名前。
8千メートル上の薄い空気を通じて伝えるその名のわずかな振動がここまで心を震わせる
とは…
- 3 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:39
- 遅れそうになる私を気遣って時折後ろを振り返るシェルパに向かって手を振った。
大丈夫。まだ行ける。
いや、行かなければ。
あの場所へ。
そして――
私は首を横に振った。
まだ、早い。
感慨に浸るのは。
ここは地上であって、地上でない。
森林限界をはるかに超えた生命を否定する宇宙への入り口。
地上の三分の一の酸素と倍以上の紫外線照射量。
気を抜いたら一瞬にして命を落としかねない危険な場所なのだから。
そして私の命は――
隊列を包む光がまぶしさを増した。
気が付けば、次第に薄明が夜の硬い闇を溶かすようにじわじわと広がっていた。
遠くに見える高峰ローツェの南壁が薄いピンク色から鮮やかなオレンジに染め上げられよ
うとしていた。
音はない。
だが、なにかざわめきのようなものを体内に感じた。
山の端から徐々に顔を覗かせる太陽が放つまばゆい光の放射が壮大なファンファーレを奏
でる。
明るく暖かい陽光の存在は冷気の厳しさを緩和すると同時に雪壁の地盤の緩みをもまた招
くことを意味する。
活動できる時間はいよいよ限られた。
- 4 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:39
- 私はもう一度胸に手を当てて、その存在を確かめた。
突然、ギュッ、と掴んで投げ捨てたい衝動に駆られる。
そんなことができたらこの10年間、これほど苦しむことはなかっただろうけれど。
私は離れ始めたシェルパの背中を追ってゆっくりと足を踏み出した。
先行する隊員によってしっかりと踏みしめられた雪道にアイゼンが食い込む。
ザクッ、と沈み込む音に生きていることを実感した。
それを感謝していいのか、それとも怨むべきなのかもうじき明らかになるのだろう。
誰かが私の名を呼ぶ声が聞こえた。
ハッとして顔を上げるとはるか前方に隊列のうごめく姿が見えた。
シェルパがわざわざ酸素ボンベのマウスピース外して手を振っている。
私もまた右手を振り返した。
腕を掲げて左右に大きく振るたびに手袋の先が途中で折れてパタパタと揺れる。
右手はおやゆび以外、すべて第一関節から先が失われていた。
指先を失ってもいまだ残るその感触。
彼女に触れた最後の記憶が指先でうずいて私を急きたてる。
指先とともに失われた未来が眠るその場所へ。
私は今、たしかに向かおうとしていた。
- 5 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:40
- ◇
――2004年、春
「だからさあ、朝からマウンテンだって!」
「なによ、そのマウンテンって?中澤さんも呆れてたじゃない」
「ええっ、だって説明すんのめんどいもん。あさみちゃん、かしこいから代わりに説明し
てよ」
「だから、どういう意味なのよ?」
もともと要領を得ないことでは定評のある麻琴との会話でもこれはすこぶる難易度の高い
部類に入るだろう。
つまり、まったく、わけがわからなかった。
「えっとね、だからさ、朝起きてピカッ、とひらめいたわけ。こうなんていうの?インス
ピレーション、ってやつ?」
「だから、そのインスピレーションの内容を早く教えてよ」
麻琴との会話はいつもそうだ。
前置きが長いせいで本題に入るころには当人でさえ、一体、何を話そうとしていたのか忘
れてしまっていることも少なくない。
それでいて、あの愛ちゃんとはツーと言えばカー。
以心伝心、といったところがある。
口で言う前になんとなくわかってしまうような。
だからこの三人で話していると、気が付けばなんだか私だけが理解の遅いアホの子のよう
な立場に陥っていて
二人から哀れみの視線を投げかけられるという屈辱に甘んじなければならないこともしば
しば。
そんなとき、私は少しだけ愛ちゃんがうらやましく思える。
- 6 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:40
- 「山だよ、山!覚えてる?富士山のこと?」
「そりゃあねえ。麻琴が死にかけたときだもん、よぉく覚えてるよ」
そうだ。あのとき、私はテレビに映っていることさえ忘れて麻琴の名前を叫んでいた。
無事に麻琴と里沙ちゃんの二人がスタジオまでたどり着いたとき、どれだけホッとしたこ
とか。
「悔しいよね、頂上までのぼれなくってさ。で、考えたの」
鼻の穴を膨らませて陶々と語る麻琴はいかにも得意顔だ。
「最近、うちらもさ、なんていうの?下り調子っていうか、あんまりテレビに出る機会が
ないじゃん?」
「うん」
「そこでマウンテンですよ!」
膨らんだ鼻の穴が間近に迫ってきて私は思わず笑ってしまった。
「マウンテンってなによぅ」
「だからさあ、雪辱だよ。リベンジですよ、リベンジ」
私はまだ麻琴が何を言わんとしているのかわからなかった。
雪辱を果たすために富士山に登ろうというのか。
いくら暇になったからといって、のんびり登山を楽しむような時間があるとは思えないが。
「ん?ああ、違うってぇ」
麻琴は私の怪訝そうな顔に少しいらだった様子で身振り手振りを交えながら説明しようと
する。
こんなとき、愛ちゃんならわかってしまうのだろうと思うとこの場にいない彼女の存在が
疎ましく思える。
「わかってないなあ、あさみちゃんは。危機感足りないんじゃないの?」
他の誰に言われても麻琴にだけは言われたくないという台詞を吐かれて、私は言葉を失っ
た。
「だからさ、うちらで何か企画しないと向こうさんは動いてくれないわけですよ。そこで
だ!」
麻琴は得意げに続けた。
「うちらのリベンジ企画ってことで、富士登山を日テレに持ち込むわけですよ」
「24時間TVのパーソナリティだったら、もう他の人に決まってるよ」
- 7 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:40
- あの年を最後に日テレからは疎遠になった。
2002年に『モーたいへんでした』が終わり、2004年には私たちの番組ではないけれど、
それでも出演をとても楽しみにしていた『FUN』がスポンサーの都合で打ち切りになった。
日テレは私たちにとって、たまに深夜番組で出演する程度のなじみの薄い存在になってい
た。
「バッカだなあ、あさみちゃんは。今から準備したってあたしたちが山登れないよぉ。来
年、来年ですよ来年」
「へえ……」
私は素直に感心した。
麻琴にバカと呼ばれてむっとしたことなど忘れて。
だが、ある一点が気になった。
「でも麻琴が富士山に登るだけじゃインパクト薄いんじゃない?」
「えっ?そうかなあ…そう?そう、思う?」
麻琴は急に不安に駆られたようで自信なさげに「そうかなあ?」と繰り返す。
と、これまた急に何かひらめいたらしく表情を輝かせて「あっ!」と言う。
「なに?」
「じゃあ、愛ちゃんといっしょならどうかな?」
「ええっ?なんで?」
「だっていちおうモーニングの顔っぽいし、愛ちゃん人気あるから」
麻琴はいやになるほど単純で企まない性格だった。
そんなことを目の前で言われた私の胸がキュッ、と絞めつけられたように痛んだことなど
想像さえできないだろう。
だが、私は傷ついて。そして愛ちゃんに対しては含むところがあった。
- 8 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:41
- 「んん…難しいと思うよ。もっとスゴいこと考えとかないと」
「ええっ、そうかなあ。んんっ、どうしよう」
麻琴は疑うことなく、真剣に考えている。
私は自分で騙すようなことを言っておきながら、その嘘がまた麻琴を傷つけるだろうこと
を思うと胸が苦しかった。
だから麻琴のため、というよりはむしろ自分がこれ以上罪悪感に苛まれないように話題を
切り替えた。
「でも、もしOKが出たとして、誰に引率してもらうの?メンバーだけじゃ無理だよね、も
ちろん?」
「うん、それね。そんなこともあろうかと思って野口さんとはずっとメールで連絡を取っ
ていたのだ、えっへん!」
麻琴はいかにも自慢げに胸を張って答えた。
というか初耳だった。
やはり、悔しかったのだろうか。
今ののほほんとした外見からはもはや想像すらできないが、麻琴にはもともと負けず嫌い
で自信家な面を持ちあわせていた。
そんなところもまた愛ちゃんに似ている。
勝手にそんなことを考えておきながらまたも愛ちゃんを疎んじる自分の偏狭さ加減がいや
だった。
「とにかく野口さんに相談してみよう。うん」
「そうだね。それがいいよ」
勝手に納得してしまった麻琴に私も軽々しく相槌を打った。
もちろん、そんな冗談みたいなことを本気で実行するとは思っていなかったから。
- 9 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:41
- ◆
だが、麻琴は本気だった。
麻琴の気まぐれだと私が一方的に思い込んでいた登山のアイデアは、
実は以前から周到に計画されていたものであることもわかった。
そもそも24時間TVで富士登山に失敗した直後から麻琴はすぐに雪辱を果たすべく、
その機会をうかがっていたらしいことも知らされた。
「知らされた」というのは、それを直接、麻琴から聞いたわけでなく、
野口健さんとの打ちあわせの際にそう告げられたからだ。
アルピニスト野口健、違いのわかる男。
2年前、麻琴や里沙ちゃんの富士登山を先導してくれた山のスペシャリストだ。
私は事の意外さと、同期でありながら胸に秘めて教えてくれなかった麻琴の水臭さを責め
たい気持ちで一杯になった。
一方で、愛ちゃんはそのことを知っているのかが気になってしかたがない。
だが、野口さんの口から告げられた内容はそれだけに止まらなかった。
むしろ、そんな些細なことなど、どうでもよくなるほどに驚くべき内容が伝えられた。
「小川さんと紺野さんにはエヴェレストに登ってもらいます」
驚くのと同時に、自分がどんな表情をしているのか気になった。
おそらくカメラが回っている、という事実に気付いたせいだろう。
麻琴の富士登山雪辱プロジェクトは、いつのまにか文字どおりの世界最高峰、
エヴェレストを登るという無謀極まりない計画へと変貌を遂げていた。
そして、さらに悪いことに。
麻琴のパートナーとして、私が世界の頂上に登ることで話が動き始めていた。
- 10 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:41
- ◇
――2005年、夏
「ねえ、聞いていい?」
「うん?いいよぉ。なに?」
テントの中とはいえ氷点下の気温とあってしゃべるたびに吐く息が白く固まる。
野口隊は珍しく晴天の続く幸運に恵まれてベースキャンプから順調に高度を上げ、
明日はいよいよ最終アタックをかける予定となっていた。
「愛ちゃんはなんで断ったの?」
「えっ?ああ、山登りとか好きじゃない、って」
「スポンサーさんは愛ちゃんか石川さん、藤本さん。
この三人のうち誰かが登らないなら番組から降りるはずだった、って聞いたけど」
麻琴はしばらく押し黙ったまま私をじっと見つめ返した。
「……知ってたの?」
「野口さんに聞いたよ」
「おしゃべりなんだから」
それっきり、また口をつぐんでしゃべろうとしない麻琴と二人きりでこの狭い空間にいる
ことに私は息苦しさを感じた。
だが、これだけははっきりさせておかなければならない。
やがて麻琴はあきらめたように弛緩した表情で「嘘」とつぶやいた。
「本当は愛ちゃんも登るって張り切ってた。だけど…スケジュールが合わなかったんだよ」
「スケジュールは…合うわけないよ。石川さんも藤本さんも社長は出したがらなかったし、
もちろん愛ちゃんだって。こんなこと言いたくないけど…」
「あさみちゃん、やめなよ…」
目が訴えている。
私だってこれ以上、自分を卑下したくはない。
だが、私たちの行く先々で聞こえてきた声は幻聴でも何でもなく紛れも無い事実だった。
- 11 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:42
-
『えっ、モームス来てんの?すげえ…っていうか、あれ誰?知らない』
『なんだよ加護ちゃんじゃねえのかよ』
『あの人モームスなんだって…あんな太っている人いたっけ?違うんじゃない?ゴマキも
いないしさ』
娘。の名前はたしかに偉大だ。
ただ、その名声に見合うメンバーはごく一部に限られているというだけの話。
「私たちに人気ないことなんてわかってる。
ただ、愛ちゃんが隊に加わらなかったのになんでスポンサーが降りなかったか、それが不
思議なだけ」
麻琴は私から目を背け、泣きそうな顔で訴えた。
「野口さんは『モー娘。は環境省とタイアップしたミュージカルもやってるし、エコイメ
ージいいですよ』ってアピールしたら、小口のスポンサーがいっぱい集まった、って言っ
てたもん」
「登山隊の費用はね。でも日テレが放送する番組のスポンサーはまた別だよ。金額も桁が
違うもん」
私たちのもたらす環境イメージと野口さんが目指すエヴェレスト浄化運動の利害は一致し
ていた。
そのため登山隊の費やす数億円の費用は比較的、容易に集まったという。
だが、番組として放映するためのスポンサーとなれば話は別だ。
娘。では数字が取れない、というイメージ数々の拭い去れない悪夢とともに今や固定観念
として放送業界に定着している。
娘。が富士山に登る、というだけではもはや何のインパクトも与えないことは麻琴も薄々
感づいていたのだろう。
- 12 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:42
- そこに野口さんの思惑が絡んだ。
ただエヴェレストに登る、というだけであれば、そのための環境はすでに整っていた。
だが、麻琴の目的はただ登ることにあるのではない。
モーニング娘。としてまだまだ世間が注目せざるを得ないような番組に出演するために必
死で考え抜いた結論に違いない。
それだけに私ははっきりさせておきたかった。
「わかんないよ。それにそんなに不人気、不人気言わなくたっていいじゃん!」
麻琴は故意に意地悪く尋ねる私の態度を不審がることなく、単純に気を悪くして口を尖ら
せている。
私はホッ、と胸を撫で下ろした。
よかった。麻琴は気付いていない。
「ごめん……それより、いよいよ明日だね」
「えっ?あ、うん…何だか信じられない。野口さんでさえ何回も失敗したのに。そもそも
この高度まで上がれるとは私も思ってなかったし」
「すごい強運だ、ってみんなに言われる。この強運が明日も続いてくれればいいんだけど」
「大丈夫だよ。あれだけ訓練したんだし、8千メートルも初めてじゃないし」
「でもチョーオユウはそんなに難しい山じゃなかったから…」
- 13 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:42
- 私たちは高所訓練の仕上げとして今春、中国最高峰のチョー・オユウという山に登頂してい
た。
この辺のスケジュールは70歳にしてエヴェレスト登頂を成し遂げた三浦雄一郎さんの計
画を参考にしている。
「大丈夫。とにかく、最後まで登り切るために今は体力を温存しとこう、ね?」
私は麻琴に告げるとシュラフに潜り込んで酸素ボンベを口にくわえた。
そうしなければ寝ている間にも体力を奪われる。
「うん。おやすみ、あさみちゃん」
そう言ってがさごそと寝袋に体を押し込み体を横たえる音を聞きながら、私は目を開けて
テントの丸い天蓋に貼りついた霜が簡易ランプのオレンジ色の光を反射して煌く様を見つ
めていた。
目が冴えて眠れない。
それは麻琴も同じことだろう。
それでも今は少しでも体を休めておく必要がある。
私は耳を澄ました。
麻琴の寝息以外、聞こえてくる音はない。
野口さんのテントと繋がった無線機もさきほど明日の出発予定を確認する連絡が入って以
降、静まったままだ。
外には風の吹く気配さえない。
私たちは本当に運がよいのかもしれないと思った。
- 14 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:43
- ◆
白いはずだった。
だがゴーグルを通した視界に色は感じられない。
こうして雪面に伏せているのでなければ、上と下もわからないような状況だった。
突然、吹き上げた突風に飛ばされて気が付けば、隊の他の人たちとは完全にはぐれてしま
ったようだった。
繋がれたザイルのおかげで辛うじて麻琴が側にいることだけはわかる。
だが、その姿を確認することも今は適わない。
登頂は成功した。
だが、わずか3畳程度の山頂で満面の笑みに包まれた隊員の表情が曇るまで、さして時間
はかからなかった。
突如として正面に臨むローツェの北壁を巻き込むようにして現れた白雲に野口隊は騒然と
なった。
山頂に到達した喜びを爆発させる前に、隊員は白雲がブリザードとなってエヴェレストに
達することを恐れなければならなかった。
そして、恐れたとおり、野口隊はブリザードに巻き込まれた。
登坂上の難所、ヒラリー・ステップを過ぎたあたりで突然、沸きあがった白雲に視界を奪
われると後は続いて襲いかかる突風に煽られてあるものは吹き飛ばされ、そしてある者は
その場に伏せた。
私と麻琴は一度はその場に倒れ込んで凌いだものの、やがて吹き上げる突風に体ごと持ち
上げられ、どこへともなく放り出された。
酸素ボンベを消失していることに気付いたのは、息苦しくて呼吸もままならない状態が続
いてしばらく経ってからだった。
何度も雪面を転がり、氷壁に叩きつけられた拍子に背中から外れてしまったのだろう。
私は麻琴が無事なのか気になった。
- 15 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:43
- ザイルは適度に緩んではいるが切れた様子はない。
辿っていけば、麻琴に会えるだろう。
私は雪の上を這いながら、ザイルを手繰って少しずつ移動した。
相変わらず視界は利かない。
どころか風はさらに勢いを増して私の行く手を阻む。
突然、手繰っていたザイルがピンと張って、体がグッと引きずられた。
ズズズッ、とザイルに引かれながら、私は麻琴がどこかのクレバスに落ちかけているので
はないかと思った。
そう気付くと幸いにも右手から離さなかったピッケルと靴のアイゼンでこれ以上滑落
していくことを止めようと躍起になって踏ん張った。
それでもずるずると引きずられてはゆくが幾分、ペースは緩やかになった。
とにかく転がされてはダメだ。
私は這いつくばって、ザイルに引かれる方向と反対側に上体を向け、ピッケルで雪面を捕
らえようと努めた。
ガッ、という音とともに右手がピッケルに引っ張られ体がピンと張った。
伸びきった体を支える右肩に激痛が走る。
すかさず足で雪面を捕らえた。
アイゼンが雪面に食い込んだのが感触でわかる。
止まった。
だが動けない。
- 16 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:43
- 麻琴が私よりも体重がある以上、そして、私よりも重い荷物を運んでいる以上、私の力だ
けで麻琴を引き上げるのは難しいだろう。
私は麻琴が落ちかけているのが垂直に切り立ったクレバスではなく、急峻ではあってもス
ロープ状の壁面であってくれることを願った。
「まことぉーっ!」
私は声を限りに叫んだ。
ごうごうと唸りを上げる突風にかき消されてか、その呼びかけが麻琴に達した様子は感じ
られなかった。
「まことぉーっ!」
もう一度呼びかけてしばらく待ったがやはり返事はない。
なんとか麻琴を引き上げる手段はないか。
妙案は浮かばない。
それよりもピッケルを持つ右手の感覚がなくなりかけているのが気になった。
今はアイゼンがこの体を支えているとはいえ、麻琴が宙吊りになったまま、風に煽られた
りしたら、再び大きな力で引き寄せられるだろう。
そのときに右手が使えなくなることを私は恐れた。
「まことぉーっ!」
心なし風が弱まったように感じた。
願いが強すぎたせいだろうか。
風に混じって私を呼ぶ声が聞こえたような錯覚さえ覚える。
「まことぉーっ!」
耳を澄ませた。
気のせいではない。たしかに聞こえた。
- 17 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:43
- 「あさみちゃーん!」
「まことぉーっ!怪我はないーっ?!」
「―――!!」
麻琴が何か言ったようだが、突風に遮られて聞き取れなかった。
「大丈夫ぅ―っ?!」
耳を澄ませた。
何も聞こえない。
と、突然、ザイルの重みが消えてふわっ、と身体が宙に浮くような感触を覚えた。
私はそれが何を意味するか理解できず、しばし呆然として、尚も四肢に込めた力を解放す
ることができなかった。
ザイルが切れたことを確認するのが怖くて、しばらく手足を動かすことができなかった。
だが、風に巻き上げられて私の下半身を叩いている縄の先にもはや何も繋がっていないの
は明らかだった。
緊張の糸が切れて弛緩した身体を雪面に投げ出すと、急激に眠気が襲ってきた。
眠ってはいけない、と戒める強い心はどこかに消えてしまったようだった。
私は為す術もなく、ただ、そこに這いつくばっていた。
遠のく意識の中で、ザイルがしきりに私の背中を叩くのが煩わしいと思った。
- 18 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:44
- ◇
――2015年、夏
シェルパがそれを指さしている。私は立ち尽くしたまま動けない。
怖かった。
それは遠目から見ても生前の形を何一つ失っていなかった。
かろうじて残った理性が自然の摂理に反したその光景を必死で否定しようとしている。
だが10年ぶりに相見える小川麻琴は、そんな私を聖母の慈愛に満ちた眼差しで見つめてい
た。
何一つ劣化していない。
今すぐにも喋り出しそうなほどその表情は柔らかかった。
不思議だった。
あのとき九死に一生を得た私の身体は凍傷により右手、両足のほとんどの指先を失い、顔
面もまた鼻を欠いておよそ当時の面影を残していない。
一方で、対する麻琴の容貌は10年を経た今も変わることなく、今にも「あさみちゃん」と
呼びかけてきそうな活き活きとした表情をとどめていた。
その白く艶々とした光沢をとどめた肌はまるでガラスか何かでできた人形のように透き通
って輝いている。
「麻琴…」
思わず呼びかけてしまったが、もちろん応答を期待したわけではない。
それほど私には懐かしく、そして、この地獄のような10年をただ、この日のために過ごし
てきたとの思いが必要以上に感傷的な態度に走らせた。
その異形の主に一歩ずつ近づくに連れて私の周囲の時間が少しずつ巻き戻されていくよう
な奇妙な感覚に陥った。
- 19 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:44
- シェルパから聞いていたように、麻琴がナイフを持っていた形跡はどこにも認められなか
った。
私はやはり、という気持ちとともに、言いようのない寂しさを覚えた。
そして結局かなわなかったという敗北感に打ちひしがれながら麻琴の手元を見つめる。
当時から、ザイルの裂け目については断定的な見解を取る専門家は少なかった。
ただ、ナイフで切ったようにも、あるいは尖った氷壁により生じた裂け目が広がって断線
したようにも見える、とだけ。
だが、私は麻琴の自己犠牲により生還したのだと思いたかった。
そうでもなければ私が失ったものの重さに到底釣り合わないと思ったから。
そして、それを告げた数日後に高橋愛は自ら命を絶った。
麻琴の死。それだけが彼女に死を選ばせたのではないはずだ。
だが、彼女が身体を賭してまでして実現させた麻琴の登山行は何をもたらしたというのか。
番組のスポンサーが急に決まったのは僥倖などではない。
麻琴から番組にスポンサーがつかないと打ち明けられた愛ちゃんが、日テレのプロデュー
サの仲介により身体を差し出したことの見返り以外の何物でもない。
だが、モー娘。メンバーの死という予想外の付加価値を得た番組は数字こそ取れたものの、
決してモーニング娘。のためにプラスとはならなかったし、現に、その責任を問われてか
事務所側も娘。の解散に傾かざるを得なかった。
- 20 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:44
- ソロとして活動する何人かに愛ちゃんは入っていたものの、肌を露出したグラビア以外で
その姿を見ることなく失意のうちにその短い生涯を閉じてしまった。
麻琴が私なんかのために自らを犠牲にしたことがプライドの高い愛ちゃんには耐えられな
かったのだろう。
あるいは、そんなことさえ眼中にはなくて、ただただ、終世の好敵手として認めた相手の
いなくなった虚しさに進むべき道を見失ってしまったのか。
彼女の最後の様子からして、私なんかが二人の間に立ち入る隙間は確かになかったように
も思える。
愛ちゃんが死んで以来、ずっとその思いにとらわれ続けてきた。
そして、できれば確かめたい、と。
昨年になって、エヴェレスト南西壁で美しい少女の亡骸を見かけた、という登山者が現れ
たことを知り、私はいても立ってもいられなくなり、気が付けば再びこの世界最高峰の魔
の山に登る準備を進めていた。
私は麻琴が最後に何を思っていたのか知りたかった。
できれば、私がそう思い込んでいたように、麻琴が私を助けるためにナイフでザイルを切
ったという証拠がほしかった。
その願いは無惨にも打ち砕かれたことになる。
だが、私は氷壁に囲まれた世界に自らの永遠を封じ込めた麻琴を前にして、そのような私
の卑小な願いなど掻き消してしまうほどの静かな感動に包まれつつあった。
麻琴の笑顔、その優しくも穏やかな表情。
死を前にして、そのように平和な表情でいられた麻琴の心境を思えば、たとえ彼女が私の
ためにナイフでザイルを切ろうとしたのでなくとも、彼女が必要と判断したならば、間違
いなく、そうしたであろうことを私に確信させた。
私は上着の胸襟を開けて小さな容器を取り出し、やはり麻琴の首に掛けた。
高橋愛はまことの胸元でキラリ、と静かに光り満足そうに眠りに着いた。
私は傍らに佇んでいたシェルバに礼を述べると降りる旨を告げた。
麻琴に背を向けてゆっくりと足を踏み出す。
青く黒い深海のような空が眼下に広がっていた。
- 21 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:44
-
深海の山嶺 終
- 22 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:45
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- 23 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:45
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- 24 名前:10 深海の山嶺 投稿日:2004/04/26(月) 00:45
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