03 夏の背中

1 名前:03 夏の背中 投稿日:2004/04/18(日) 22:06
03 夏の背中
2 名前:03 夏の背中 投稿日:2004/04/18(日) 22:26
 不思議な雰囲気だった。私と同い年の子供がいる人のコンサートなんて。
 観客の層は私たちのそれとはまるで違う。
 少し年齢層が高くて、かなり女性が多い。
(勉強になるから見とけって)
 無責任そうな事務所のスタッフの言葉が蘇る。とてもそうなるとは思えない。
 吐いた溜息が重なった。
 隣を見ると事務所で幾度か見た顔だった。確か、今度ソロデビューする人だ。
「コンニチワ」
 声を掛けると、彼女はびっくりしたようにあたしを見て、それから少しホッとした様子を見せた。よかった。誰アナタ?みたいな顔されたらどうしようかと思った。
「ども」
 お辞儀なのかなんなのかわからない、中途半端な会釈。戸惑ってるのか嬉しいのかよくわからない、中途半端な曖昧な笑顔。
 すっきりした体系に高すぎない身長なのに誰から見ても明らかな猫背で、もったいない、っていうのが彼女の第一印象だった。

   ◇

 コンサートは意外なことにものすごく良くて、コンサートが終わったあと、あたしたち二人はものすごく盛り上がった。
 エンターティナーな演出(そんなの、うちの事務所がやってくれるわけない)は言うに及ばず、ファンのリアクションを誘うさまざまなサービス、あたしたちでも知ってる耳になじんだ有名なヒットソング……なんだろう、見て得したと思えるような内容のコンサートだった。
 あたしたち二人は、どうやったらそんなふうにできるんだろうとか、どこは絶対に真似しようとか、そんなことばかり話し合った。
 そのときあたしたちは二人ともまだ、ソロコンサートをやったことがなくって、それは他人が聞いたら笑っちゃうような、ただの夢物語だったのかもしれなかったけれども。
 あたしたちは真剣だった。

 そんなことを思い出していた。
3 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/18(日) 23:19
 細い鎖骨が目の前で踊っていた。
 汗が、つぶつぶになって浮き上がってる。
 何度か打ち付けるように身体をゆすられると、腰の下の異物感が大きくなった。
 トイレットペーパーの芯をねじ込まれたような気持ち悪さ。
 映画とかビデオとかではベッドの上で理性的なのは男のほうで、女はいつでも喘がされるだけで。
 どちらかというと実際は逆みたいだった。
 彼は、切ない声で喘いで、細い声であたしの名前を何度も呼んだ。
 あたしは息を乱すことさえできずに戸惑っていた。
 まるで犯されているのは彼のほうみたいだ。
 大きな溜息をつかれてぐったりと凭れかかられたので、終わったことを知った。肉付きのよくない身体があたしの上から退いたとき、とてもほっとした。
 はじめてのセックスは想像していたより痛くはなかったけど、想像していたより気持ちよくもなかった。むしろ、退屈で、とてもつまらなかった。これなら、二人で映画でも見たり、ピクニックに行ったりするほうがよっぽどマシだ。
 もしここにいる彼が、さっき思い出した彼女だったら、少しは楽しめただろうか? 
 彼女の鎖骨を、声を、髪を思い出す。
 うん、悪くない。多少はマシな時間を過ごせるかもしれない。
「うっわ、グロ…」
 引き抜いた避妊具にびっしりと着いたあたしの血を見て、彼が怯んだように呟くのが聞こえた。それは、実際その通りだったので、あたしの気持ちをますます沈ませた。
 要らないと思ったけど、こんなものでしかないのだったらとっといても良かったのかもしれない。
4 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/19(月) 02:49
 シャワーを浴びて、痕跡を洗い流す。腰の下がひりひりして気持ち悪い。
 髪を拭きながら部屋に戻ると、彼はベッドに突っ伏して寝息を立てていた。
 あたしは彼を起こさないように、脱ぎ散らかした下着や衣服を手にとって身に着ける。気持ち悪い。今日こうなるってわかっていたら、新しいのを持ってきたのに。
「バイバイ…」
 手を振って扉を閉めた。腕時計の時間は午前2時半。これから家に帰って、少し眠るぐらいの時間はありそうだ。少し小走りになってエレベータホールに向かうと、皮製の靴が見えた。薄い明かりの中に一人の男の人が、背中を壁に預けてぺたんと床に座り込んでいる。膝のところがやや抜けた皮のズボンが見えたところで足を止めた。
「……」
 似合わない眼鏡をかけて髪形を変えているけど、顔を見られるのはやばい。あたしは慌ててUターンする。たしか手前に階段があったはず。
 数歩引き返したところで、ぐいっと肩をつかまれた。心臓がはねた。気付かれた? それとも?
「なんですか?」
「……」
 肩越しに振りると、ぐいっと目の前に黒光りするものを見せ付けられた。真っ黒で、玩具みたいなピストルだ。男は無言であたしを後ろから押した。
「な……っ」
 両手を乱暴に捕まれて、後ろに回され、手首に何かを掛けられる。手錠?
「ちょっ、何を」
「黙ってろ。撃つぞ」
「そんな玩具」
「玩具かどうか」
 男は手錠をぐいっと引っ張った。あたしは後ろにひっぱられて悲鳴を上げる。筋肉は変な方向に伸びる。痛めてないといいけど。あたしが出てきた部屋まで戻ると男はもう一度言った。
「玩具かどうか、見てろ」
 ベッドにうつぶせになった彼の頭に羽毛の枕を押し当てる。鈍い音が二発。羽毛が部屋じゅうに散った。
 本物だった。
 男は獲物でも見せる猫のように誇らしげに羽毛の枕を目の高さに掲げてみせた。ぶわぶわと舞う羽毛の向こうで、血が散っていた。
「来い」
 男はまた乱暴に手錠を引いた。
5 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/19(月) 03:11
 この人はあたしのことを知ってる。確信だった。
 背後から私をぐいぐいと引っ張る男を、振り返って観察する。狭い背中だった。肩が細い。さっき寝たコも華奢だったけど。このコはもっと華奢だった。だけど身長は少し高い。綺麗な卵型の頭蓋骨、無地のTシャツ、くたびれた皮ズボン。
 どこにでもいそうな人だった。
「あなた、あたしのファン?」
 声を掛けると、ちらりとだけ振り返って、嘲笑うかのように鼻を鳴らした。
「泣かないんだな」
「なんで?」
 反射的に応えると、男はクラッカーを向けられたような顔をした。それから、唇を笑うかのように歪めた。
「そういう手前勝手なとこ、変わってないのな」
 ああ、そうか。殺された彼のことを言っているのか。みっともなくあたしの上で喘いで、比喩でなく逝ってしまった彼。嫌いじゃなかったけど、好きでもなかった。メールを交換して、適当に遊んで、やりたいっていうからやらせてあげた。それだけだった。最初は面白い人だと思ったけど、なんだかだんだん熱に浮かされた人のようにおかしくなっていくのに、うんざりとさせられた。最初はまともに取り合わなかったんだけど、なんであたし、やってもいいかなって気になったんだっけ?

 思い出せなかった。
6 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/19(月) 03:32
 ブティックホテルを出て、小さな玩具みたいな車に乗せられた。椅子の背もたれを、手と背中の間にくぐらされて、座らされ、シートベルトをかけられる。これでは一人では絶対に脱出不可能だ。普通のシートと違って、へんなふうに細くて妙に身体にフィットするシートだった。
 自動車にはよく乗るけど、大概はシールドが貼られた後部座席で、助手席に座ることは滅多にない。前のほうから流れていく夜の町の景色が新鮮だった。
 男はダッシュボードの上にピストルを置くと(手がとどかない! 悔しい!)、機嫌よさそうに口笛を吹き始めた。小学校の音楽の授業で習ったような、妙に懐かしい曲ばかりだ。
「これからどうする気?」
 男はちらりとあたしに視線を走らせたが、また前方に視線を戻した。口笛を吹くのは、やめなかった。
「あたし、明日仕事あるんだけど」
 不機嫌に続けるあたし。
「どこ行く気?」
 とりあわない口笛。
「その曲、なに?」
「家路」
 それからまた、続く口笛。途切れ途切れで途中で気まぐれに変わっていくいい加減な音楽を聞いているうちに、あたしはとろとろと眠りの世界に誘われていった。
7 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/19(月) 03:33
   ◇

 靴紐はほどけていた。
 長い道を歩いていた。長い時間歩いていた。夜だった。背が高い電燈がぽつん、ぽつんと浮かび上がっていた。後方に影が長く伸びていた。短くなった。前に回り込んだ。前方にまた長く伸びた。闇に飲まれて消えた。後方からまた影が回り込んだ。
 少し前を歩く少年の手は冷たく、かすかに汗ばんでいた。
 森を切り裂いて開かれた道路の両側で、緑がざわめいていた。
 台風が通り過ぎたばかりの道路は、清掃済のシールが貼れそうなぐらい清潔だった。
 電燈にまとわりついていた蛾が突然落ち、再びぱたぱたと羽音を立てて上昇する。
 なにかが足元をくすぐった。
 少年は口笛を吹いた。
 ――口笛吹いて、遠い国のおとぎ話、グリーンスリーブス、主は冷たい土の下に、草競馬、ペルシア交響曲、マーチングマーチ、春、家路、大地賛歌、風になりたい――
 学校で習った曲ばかりだった。
 あたしは言い出せずにただ、黙り込んで歩いていた。
 靴紐がほどけていた。

   ◇
8 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/19(月) 03:57
 夢を見ていた。子供の頃の夢だ。あたしはまだ小さくて、泣いていた。何が原因かはわからないけど、家出しようと思っていた。そうじゃない。違う。家出した。誰かが横にいた。ずっと口笛を吹いていた。彼だっただろうか? 記憶の中のメロディと、彼の口笛は一致しているような気がした。

   ◇

「えーなにそれ、ねぇちょっとたん、ちょっとそれどういうこと?」
「いやさ、だって重くない?」
「重いってどういう意味?」
「いろんな意味で」
「えー、そうかあ?」
「守ってても重いだけだしさ、さっさと捨てたくなんない?」
「えー、全然ならないけどなあ」
「うん、まぁ、そうだね。亜弥ちゃんはそうかもね」
「それどういう意味よ」
「自分を大事にしてるっていうかさ。なにが大事か知ってるっていうか」
「え、だって、たんだって大事でしょ、自分」
「うん、大事。自分が一番。だからさ、大事にしてあげてよね」
「それって一生あたしに処女でいろとかそういう」
「あっはっは、それいい。うん、一生守り通してね。結婚とかしても」
「無理それぜったい無理」
「アイドルが無理とか言うなよー。ファンが泣くぞ」
「てかあたし早く子供欲しいもん。絶対やるから電撃結婚。驚くなよ」
「あはは。楽しみにしてる」

   ◇

 また夢。いい加減腕の筋が痛くなってきた。まぶたを開けると太陽しか見えない。口笛は止まっていた。
9 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/19(月) 04:17
 運転席を見ると、誰もいなかった。
「……」
 身をよじって、座席から抜け出そうとする。まずシートベルトが外せない。頑張って足を上げて、筋肉が釣りそうになりながら、スイッチをヒールで押そうと四苦八苦する。
「なにやってんの、オマエ」
 咥え煙草で、踵を踏んだ靴をだらしなく引きずりながら、男が座席に戻ってきた。
「ヨガを、ちょっと。健康のために。どこ行ってたん?」
「ションベン。おまえもしたい?」
 頭をぶんぶんと上下に振って肯定した。逃げるチャンスだ。
「そこでしな。俺は構わないから」
「あたしは構いますけど?」
 男は煙草を車の外に投げ捨てる(投げ捨て反対! あれめちゃめちゃ危険だし! ていうか燃えるし!)と、乱暴に運転席に座って、エンジンをふかした。
「なあっ」
 いきなりの加速にシートに背中が押し付けられて悲鳴をあげた。
「声でけー」
 男はくつくつと笑って、右手でハンドルを軽く握ったまま、あたしの顎に左手をかけた。ぐいっと横を向かされる。そのうち絶対鞭打ちになるね、あたし。
 それから乱暴に口付けられた。無理やり唇を割られて舌を入れられる。少し苦くて、煙草の味がした。煙草を吸う人のキスはみんな同じ味なのかもしれない。あたしはぐっと、歯を食いしばった。ざりっと何かをかんだ。血の味がした。どんと肩口を突き飛ばされた。かすかに血がにじんだ唇を、男はぐいと手の甲で拭った。
「……っ。乱暴な女……」
「あなたよりマシです」
「……」
 男は肩を震わせて、無言で笑っているようだった。
10 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/19(月) 04:28
   ◇

 少年は一度も振り向くことはなかった。
 覚えているのは潔く青々と借り上げられたさっぱりしたうなじ。細い首。薄い肩。身長よりもやや長目の腕。汗ばんだてのひら。だぶっとした半ズボン。膝のところだけ不恰好に突き出た細く長い脚。ほどけた靴紐。
「どこまで行くん?」
「どこまでも」
 あたしたちの頭上には月。
「いつ終わるん?」
「いつかは」
 月とあたしたちの間には葉っぱ。
「絶対?」
「絶対」
 それから一面の闇。
 覚えているのはうなじ。少年は一度も振り向くことはなかった。

   ◇

「ねぇ、あたしたち、会ったことあるよね?」
「昔な」
「一緒に家出をした?」
「家出っていうか、カケオチ?」
「嘘」
「オマエが言った。カケオチって」
「嘘だー」
「子供だったからな」
「いつだった?」
「十年ぐらい前になるんじゃねえ?」
「震災前だっけ?」
「直後ぐらい」
「覚えてない」
「そう言うと思ってた」
 男はまた口笛を吹き始めた。間違えまくりの桃色片思いだった。
11 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/19(月) 22:59
 日が昇る。もう朝の7時ぐらいだろうか? 低い位置にある太陽があたしの視界を直撃する。眩しさに目を瞬いて、あたしは、横を向いた。最初は窓の外の流れ行く景色を眺めて、首が疲れてきたので逆を向いた。
 改めて、特徴の無い顔だと思った。
 男はあたしの視線なんかお構いなしで、相変わらず下手な口笛を吹き続けていた。松浦亜弥メドレー。たまにハロプロ。ところによりspeed。歌手冥利に尽きて涙出そう。
「あなた、誰?」
 呟いたあたしの言葉に、男は初めて反応らしい反応をした。つまり、あたしのほうを見たってことだけど。運転中に。
「俺?」
「うん、そう。あたしとあなたってどういう関係?」
 言葉を続けたら、男は溜息を吐いた。それから、
「強いて言うなら無関係」
 とだけ、素っ気なく言って、また前を向いた。
 車はさっきから海沿いを走っていた。
 口笛が、止んだ。

   ◇

 9歳のあたしにとって、阪神大震災はけっこうショッキングな出来事だった。開通したばかりのJRで姫路から大阪まで通り抜ける約80分の間の半分は、壊れた町のすぐそばを通った。どれがまっすぐなのか混乱してしまう歪んだビルと、どこから見ても明らかにおかしなビル。焼け野が原と、落ちた看板、抜けた屋根、建物に押しつぶされた自動車、両側から道に建物が倒れ込んですっかりふさがれた二車線道路。応急手当で崩れてもたれあうビルが壊れないように補強された剥き出しの鉄骨。川の脇の小さな小さな公園に並ぶ青いテント。ドラム缶。それから、

 明かりひとつない山道。
 ハンドライト。
 へたくそな口笛。 

   ◇
12 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/19(月) 23:26
「あのときさ、セーラームーン吹いてくれなったよね? あたしねだったのに」
「知らないものは吹けないからな」

   ◇

「迷子?」
「違うもん」
「親は?」
「アオキにいる」
「アオキ? どこそれ」
「フェリー乗り場のとこ」
「ああ、オオギ」
「アオキ」
「青木って書いてオオギって読むんだよ。どこ行くんだよ」
「帰る」
「どこに?」
「姫路」
「ここから?」
「うん」
「ひとりで?」
「うん…」
「この道、阪急までずっと街燈全部壊れてるけど」
「……」
「青木からどうすんの? JR? 金、あんの?」
「……」
「泣くなよ」
「泣いてないもん」
 口笛。それからずっとあたしの顔も見ずに口笛を吹いていた。

   ◇
13 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/20(火) 03:20
 太陽があたしを焦がす。頭がぼうっとして、記憶の断片が切れ切れに浮かび上がる。あたしの記憶は主に音が中心で、風景は音のあとについてくる。言葉、リズム、息遣い。確かにそんな会話をした。だけどそれが何だっていうんだろう? 今となっては、あたしにとって何の意味もないことだった。彼にとってはどうなんだろう? ホテルまであたしを付け回して、人まで殺したってことは、なにか彼にとってあたしは特別な意味があるのかもしれない。
 でも、それもどうでもいいことだ。
 そんな人は沢山いる。あたしはアイドルで、誘うような可愛らしい歌を歌って、きわどい格好で、男のコらに媚びを売ってお金を稼ぐ。夢を売る仕事だって、そう事務所の人は言うけど、本質的には風俗嬢とそう変わらないことを、あたしは知っている。例えばインターネットに氾濫するアイコラとか、掲示板に書き込まれる卑猥な言葉で思い知らされた。あたしが売ってるのは夢でも歌でもない、もっと何か別のものだ。
 誰かにとってあたしが特別な意味を持つのは当たり前のことだ。
 それがあたしの仕事なんだから。

   ◇

 ああそうだ、あたし結構ショックを受けていたんだ。
 処女が重いってつまり、とっくに処女なんか捨てちゃってるってことで。
 年齢とか人懐っこさとか男のコたちに対する態度なんかで、しっかり予想はしていたことだったんだけど、漠然とそうかもしれないって思うのと、確実にそうなんだと分かるのとは、やっぱり雲泥の差があって。
 そんなことに結構ショックを受けている自分も、またショックで。
 彼女が捨てちゃってるんなら自分も捨てちゃったほうがいいのかなって、そう思ったんだった。
 なんだ、そんなことだったのか。馬鹿みたいだ。

   ◇
14 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/20(火) 03:48
 太陽が黄色くぎらぎらした。
「あっつー…」
 あの傾斜角度はそろそろお昼になろうとしている。あたしは短く眠ったり、夢を見たり、起きたり、ぼうっとしたり、また眠ったりというのを繰り返していた。寝汗が身体を皮膜のように覆っている。気持ち悪い。
 今日の仕事はなんだっけ? そらでは思い出せなかった。
 メールのひとつも入れてない。携帯電話も持ってない。最悪の勤務態度。どうかうるさ型の先生たちや古株の芸能人やおえらいさんの機嫌を損ねるようなスケジュールじゃありませんように。なるべくあたりさわりのない仕事でありますように。
 びしゃっと何かが顔にひっかけられた。冷たい水で晒して固く絞ってあるタオルだった。
 頭を振ってタオルをずらして男を見ると、別にあたしには何の関心も持ってないかのように前を向いていた。ずらしたタオルを戻すのに四苦八苦していたら、無骨な手が元に戻してくれる。
「あなた何がしたいの?」
 白地のタオル越しに問うと、かすかに衣擦れの音がして、こちらを向く気配を感じた。
「何も」
「何も?」
「ただ……行きたいだけ」
「どこに?」
「……」
 答えはなかった。太陽は、タオル越しにみてもやはり凶悪だった。

   ◇

「つれてって」
「どこに?」
「どこかに」
「どこかって、どこ?」
「どこでも」
「ここでも?」
「ここ以外なら、どこでも」
「どこまでが、ここ?」
「ここじゃないところなら、どこでも!」
「どこまでも?」
「どこまでも」
「足…、挫いた?」
「うん…」
「……おぶされ」
「…うん!」

   ◇

 このままあたし失踪しちゃったら、もう仕事の心配もしなくていいんだな。そんな投げやりな気分になる。最悪の場合、あのピストルであたしが殺されてもおかしくない。最悪の次に悪いことってなんだろう。写真とかがゴシップ誌に掲載されるとか? もしそんなことになるんなら、死んじゃうほうが楽は楽なのかも。無事に解放されるって選択肢も、ありなのだろうか……?
15 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/21(水) 02:10
   ◇

 強い潮の香りと荒れ狂う波の音で目が覚める。また眠っていたらしい。車の両サイドの扉は大胆に開いていて、涼しい風がわたる。緑色のにおいもする。男は、広場の淵で下を見ながら煙草をふかしている。水平線が見えた。
 どこ、ここ。
 わけのわからない場所だった。太陽はもう正午近い場所まで昇りつめていて、今日の仕事に間に合うように帰ろうみたいなことはもう諦めていたけど、もしかしたら明日も明後日もその先も諦めないといけないのかもしれない。
 シートベルトは外されていた。ってことは、男が外してくれたんだろうけど、そのときのあたしは、そんなことさえ気づかなかった。
 背中をシートに押し当てて、身体を上にずらす。繋がれた手の甲がシートの後ろの硬いプラスチックにごつごつとあたる。ヘッドレストまで持ち上げて、身体を前に倒した。へんなふうに伸びていた上腕の筋肉がほっとしたように縮む。長時間無理な体勢をしていたことによるひどい筋肉痛で、身体じゅうが悲鳴を上げた。
 自由の身(両手はまだ不自由だけど)になって、絶望する。
 どこへ逃げよう?
 男の視線はこちらにはない。逃げるなら今しかない。一度ちゃんと座席に座って、車の外を見渡した。雑木林のなか、ぽっかりとここだけ広場のようになっているだけだ。海とは逆の方角に雑木林の途切れ目があって、多分あそこから来たのだろう、砂利道が続いているようだった。距離を目測する。およそ15メートル。無理のある距離じゃない。走ればほんの数秒ってところだ。準備はいい? いち、に、の…
 ヒールが草を踏む。
 身体が車の外に出る。
 あとは…
「動くな」
 見なくてもわかった。銃口がこちらを向いていた。あたしは車の横で直立不動の体制になっていた。
「ゆっくりこっちを向け」
 男の言葉に従う。
 ほら、ね。あたしの予想は正しかった。誰に威張るってわけでもないけど、なんとなく得意になって、でもそんな気分は一瞬で吹っ飛んだ。男は咥え煙草で、両手を小さな拳銃にあてがっていた。
「こっちに来い。ゆっくりでいい」
 草の下の土は湿気を含んでいてぐにゃぐにゃとして気持ちが悪い。ヒールが柔らかな地面に穴を穿つのを感じる。
「ここ、どこ?」
 男の前まで来てとまる。広場の淵の向こうは切り立った崖になっていて、いくつもの大きな岩が海面から突き出ていた。柵もなにもなくて、転がり落ちたらきっと一気にあのごつごつした岩々にぶつかって、海に呑み込まれる。和歌山の千畳敷、福井の東尋坊……景勝地と自殺の名所は紙一重だ。ここもおそらくそうだろう。
「宇宙人のメッカ」
「は?」
「来るんだってよ、ここ。祈ってれば」
 煙草を唇に張り付かせたまま男はつまらなさそうに言った。
「……本気? ていうか、正気?」
 愚問だった。正気の人ならこんなことはしない。男はあたしの問いには答えず、ぺっ煙草を崖下に吐き捨てた。
「腕、痛くねぇ?」
「かなり」
16 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/21(水) 02:50
 男は拳銃をあたしの頭に突きつけたまま、ぐいっとあたしの手を下に下ろさせた。
「腕、広げてろ」
 それから、お尻を鎖の上に乗せるようにさせて、あたしを突き飛ばした。草むらの上に勢いよく転がる。背中に冷たい地面を感じた。それから太ももの下に食い入るように手錠の鎖。手首にはめられた枷が両腕を抜けるほど引っ張って、痛い。
「あとは自分でやれば?」
 成程。あたしは地面にねっころがったまま、膝を曲げて足を上げた。ひゅうっと囃すような短い口笛。
「セクシー」
 うるさい。そのまま鎖は膝の裏側をとおり、足首までいって何なく抜けた。ほぼ半日ぶりに両腕が前にある。ほっとする。ちょっと新鮮な感覚だ。
 手錠の鎖を乱暴に引っ張られて、あたしは無理矢理立たされた。
 男はあたしの髪を掴んで後ろに引っ張った。男の顔と真正面からにらみ合いになる。あたしは目を逸らさない。男も目を逸らさない。それから男は、あたしの手を彼の肩に掛けさせた。まるで、あたしという手錠に捕まったみたいだった。それからまた、乱暴にキスをする。割り入れられた舌に噛み付くと、男は銃身であたしの頭を殴って、銃の存在を思い出させた。男の唇が首を吸い、銃を持った手が背中を撫でる。身を引きたくても、あたしの手錠で繋がれた腕のなかに彼がいるから叶わない。
「や……」
 引いた腰に彼の腰があたる。皮のズボンの下で怒張したそれが、いやな具合に存在を主張する。ここにあるのは熱。あたしにはない熱。
「あいつとはやったんだろ?」
 押し殺した声で男は言った。昼の2時ぐらいから流れてそうな安っぽいドラマみたいな台詞だった。ここで笑ってもいいんだっけ? あいつって、殺された彼のことだろう。バカバカしかった。あんなのただの代わりだった。あたしが本気でしたかったのは彼じゃない。彼じゃなくて……。……。いや、違う。そっちじゃなくて。
「あなたとはしたくない」
 にらみつけるようにして、一語一語区切るようにして言った。うん、そうだ。それだけはちゃんとしとかないといけない。
 男は泣きそうな顔であたしを見返した。下唇を噛んで、悔しそうな顔をして、ガチャガチャと音を立てた。ズボンのベルトを引き抜いて投げつけるように投げ捨てる。それからあたしにぶつかるようにして、草むらに倒れこむ。片膝をあたしの両足の間に入れて蹴るようにして広げた。荒い息遣いが耳障りだった。男はあたしの胸元に顔をうずめて舐めたり噛んだりした。時折、ぽつぽつと冷たいものが当たった。涙だった。彼の後ろから見える空は真っ青にすんでいて、ところどころ薄い雲が筋を作っていた。あたしは男が近づいたことで緩んだ鎖を、ゆっくりと男の前で交差させ、力いっぱい引っ張った。茶色い鳥が高い鳴き声を引っ張って、視界を大きく横切っていった。

   ◇
17 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/21(水) 03:12
「はい?」
「もしもし?」
「亜弥ちゃん? どったの? 美貴何回もメール入れたけど見てくれてる?」
「ううん。まだ」
「なんかさあもう、事務所の人から何回もメール入ってたよ。すぐ電話したほうがいいと思うよ」
「ん、これからする」
「これさ、亜弥ちゃんの携帯じゃないよね」
「ちょっと忘れちゃって」
「どうしたの? なんか声、普通じゃないし」
「ちょっと……気分悪くて」
「え、大変じゃん。ちゃんと病院行った?」
「まだ」
「じゃあすぐ行きなよ。事務所のほう、美貴から連絡入れとくからさ」
「うん、おねがい」
「全然いいって。医者行ったらちゃんと連絡いれときなよ。すごい心配してた」
「うん……。ねぇ、たん」
「なに」
「ありがとう」
「なーにいってんだい。遠慮すんなって。無理しないでよ。お大事に」

   ◇

 使い終わった携帯は、アンダースローで海に投げ捨てた。持ち主は一歩先に崖の下だ。車の中を探すと、手錠の鍵がって、どうにかこうにか外すことができた。もちろん、これも一緒に海のなかへ。
 ありとあらゆる物を捨てて、残った車はそのままにしておくことにした。放置自動車なんて、珍しくもないだろう。

 宇宙にいきたいって、あたしが言いだしたことだっけ? ここではないどこか、そう、たとえば宇宙にでも行きたいって。
 銭湯にのんびりつかって、そんなことを思い出したけど、それももう、どうでもいいことだ。

   ◇
18 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/21(水) 03:39
「ちょお待って。それなし。それやばいって」
 彼女はがばっとあたしから離れると、顔の前に両手でバッテン印を作った。
「えー、なしじゃないよぉ。みんなやってるって」
 ねだるように近づくと、彼女は顔を真っ赤にして後ずさった。
「やってない。断じてやってないって。普通やんないって」
 握り拳まで作って強く主張する彼女。
 あたしは、とおりがかったあいぼんに水を向けた。
「そっかなー。普通だと思うけどなぁ。ねーえ、あいぼん?」
「なにー?」
「普通するよねー、ベロチュー?」
「するするー」
「ねー。コミニュケーションだよねー?」
「そーそー」
 ミニモニからさくら組へ着替え途中のあいぼんは、あわただしく楽屋をとおりすぎていく。
「……や、ありえないから。まじで」
 多数派で常識に弱い彼女は、あいぼんの言葉に一瞬ぐらついたけど、すぐに自分を取り戻した。しぶとい。
「なんでありえないの?」
「や…、だって…、やばくない?」
「なんで」
「その…、へんな気持ちになるってかさあ…、ちょっともう言わせないでよ」
 一人で言って顔真っ赤にして変なふうに照れて一人突っ込みする彼女。むしろなってください。
「たん、考えすぎー。なにへんな気持ちって」
 軽く笑って、逃げ場をなくしてやる。
 返事に窮して四苦八苦する彼女。もしあたしにアレがあったら、勃っちゃってるかもしれない。

   ◇

 いつかあたしのしたことが、あたしに返ってくるかもしれない。
 でも、今じゃないなら、それでよかった。
 時間はきっとまだ、たっぷりある。
19 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/21(水) 03:40
アナタハ
20 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/21(水) 03:40
ナニモ
21 名前:03_夏の背中 投稿日:2004/04/21(水) 03:40
シラナイ

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