01 lost in translation

1 名前:01_lost_in_translation_ 投稿日:2004/04/16(金) 01:35
01 lost in translation
2 名前:01_lost_in_translation_ 投稿日:2004/04/16(金) 02:04
◆1◇ピアノ・ピラニア◆

 天井には剥き出しの配線。
 真っ黒に走る鉄骨。
 鉄骨の後ろにふらふらする影。
 ぎらぎらと太陽のような白色ライト。
 くるくるまわる赤い警告ランプ。
 銃口のようなカメラ。
 Gショック。
 ポケットいっぱいに膨らんだベスト。
 丸まってポケットに突っ込まれたぼろぼろの進行表。

「リハ、いきまーす」
「はい、オケの音ちょうだい」
「3、2、1…」

 それから、水音。

「キュー」

 どこからともなく聞こえてくる、水が動くかすかな音。
 泡。それから波。
 この空間のどこかに潜んでいる生き物の気配。
 隣ですぅっと息を吸い込む気配。
 インストゥルメンタル。
 始まる音楽。
 蠢く生物。

「……」
3 名前:01_lost_in_translation_ 投稿日:2004/04/16(金) 02:36
 リノリウム貼りの床の上、ライトで飛ばされた綺麗なセットを取り囲むように、真っ黒な蛇が幾条も蠢いている。
 ここは海の底。どろりと鈍く揺れる空気は海の水。冷たい床は海の岩。天井のライトは海のてっぺん。

「やばいってこれ。ハレーションきた。もういっぺんいっといたほうがよくね?」
「そっちだめだって。起こすっつってるじゃん。言ったろ俺」
「半分落とせば? ばかだな」

 遠くで私たちを指差しながら早口に喋ってる大人たちはピラニア。服がオレンジ。言葉は泡。どこか遠くの国の言葉。アメリカよりもずっと遠い国の言葉。

 ぽんと背中を叩かれる。三つ年上の先輩は、ほかのひとと違って人間の形をしている。

 ライトかえて、もういっかいやるんだって。あとちょっとだから。

 ぱくぱくと音を出さずに口の動きだけで、言葉が伝わる。ほっとした。そうか、私、大人ばかりの場所で、すごく不安だったんだ。ぐにゃりと視界が涙で歪む。さっきせっかくメイクしてもらったばかりなのに、やばい。
 年上の先輩は、泣き始めた私を見ても驚かずに、馴れたふうに私の頬に柔らかいハンカチをあてた。

 こうすると化粧、崩れないから。

 目尻と鼻と。こすらないようにやさしくトントンと叩いて、それから私の手の中にハンカチを握らせた。

 そっち予備。あたしまだつかってないほうだから、あげる。
4 名前:01_lost_in_translation_ 投稿日:2004/04/16(金) 03:35
◆2◇フォルテ・ホエール◆

「どーし、て。こいびとにな、れないの」

 二つ年下の彼女の声は海を連れてくる。打ち寄せる波。返す波。潮騒。ひたひたと靴底に触れる水の感触。水蛇。ピラニア。
 スタジオが音楽の海で溢れる。ここは海の底。深い深い海の底。溺れないのが不思議。

「じゃ どぅしてくちづけをしたの」「あのよる」

 ワタシノコエハキコエマスカ。
 ワタシノウタハトドキマスカ。

「いつものなかまといっしょに」「どらいぶしたり」「にぎやかなままがよかった」

 わからない情景。わからない感情。しらない経験。ありえない気持ち。歌のなかで私が行方不明になる。ダンスの途中で年上の先輩が軽く肩を叩いて私をここに引き戻すのだけど。でもまた、すぐ、私がいなくなる。

「あぁのぉきぃすぅでぇ」「かぁ、わぁ、あった」

 からっぽの私の頭上をかすめて、まっしろい畝が飛ぶ。

「ア・ナ・タ・ヲ・マ・ッ・ス・グ・ミ・レナイ」

 彼女の声が音階を作る。防壁を作る。海のなかに四角い透明な城が組みあがる。私たちを守る透明で完璧な盾。間一髪で真っ黒なヒレが城にあたる。私達の頭上に彼の場所。空とぶ音クジラはピラニアを蹴散らして、私の頭上に君臨する。
5 名前:01_lost_in_translation_ 投稿日:2004/04/16(金) 04:01
「ア・ナ・タ・ガ ・ コ ・ ワイ」

 年下の彼女が声をひっくりかえすと、クジラもゆっくりとお腹のうねりを横の倒していく。黒光りする身体があらわれて、また真っ白いお腹を晒す。一回転すると、クジラは少し縮んだようだった。

「あの夜に、ねぇ、もどーして」
「クチヅケノマエニ、モドシテ」

 クジラは年下の彼女のパートが来るたびに一回転して縮むのを繰り返す。先輩のパートでも私のパートでも反応せずに悠々と泳ぐくせに、なぜか。
 あの銃口カメラがクジラを捕まえられればいいのに。

「ソ・ノ・ム・ネ・デ・ネエ・・・ササ・エテ」

 彼女が最後のパートを歌いきるころには、天井いっぱいだった音クジラは、すっかり縮みきっていて、私の掌のなかにいた。
6 名前:01_lost_in_translation_ 投稿日:2004/04/16(金) 04:23
◆3◇アディクテッド・トゥ・イート◆

 初めての歌収録が終わった。
 潮騒が聞こえたと思ったのに、たしかにここに海がいたのに、もうどこにもなかった。

「はい、おつかれー」

 先輩に冷たいポカリ缶を押し当てられ、うひゃと声を上げてしまう。先輩は、面白そうに笑って、私の手の中にポカリ缶を落とした。手のなかでクジラが少し元気よく騒ぎ立てた。

「あいりは?」
「楽屋でぐったり」
「あー…、すごい頑張ってたから」
「だねー」

 先輩は自分のぶんのポカリ缶を開けて、ごくっと喉を鳴らして一気に飲んだ。それから不思議そうに私を見た。

「飲まないの?」
「あ、はい。飲みます」

 私も慌てて缶を開ける。熱くなった掌に冷たさが心地良い。クジラを気にしながら、ゆっくりと口をつけた。ちょっと甘すぎるけどおいしい。

「どうだった、初収録?」
「も、すっごい緊張した」
「歌えてたよ。ちゃんと声出てた」
「そんなこと…」
7 名前:01_lost_in_translation_ 投稿日:2004/04/16(金) 04:33
 先輩はポケットからがさっとラムネみたいな青い色のお菓子を取り出して無造作に口のなかに放り込むと、ばりばりと噛み砕いた。

「それ、なんですか? お菓子?」

 私が不思議そうに尋ねると、先輩は困ったような顔をした。

「あー…、次、ちょっと話すじゃん? 司会の人と」
「うん」
「緊張するよね?」
「うん、まぁ…」
「で、ちょっと。なんというか、気休めっていうか」
「気休め?」
「友達がくれたんだけど。これ食べると気持ちが落ち着くっていうか」
「え。田中さんでも緊張したりするんですか」
「もう、しょっちゅう。少し食べてみる?」
「あ、どうも」

 先輩は苦笑いして、ラムネを少し分けてくれた。ラムネは特別なのじゃない、普通のラムネで、どうしてこれを食べると落ち着くのか、わからない。
 でも、ラムネを食べ終わって、ふと気付くとクジラがどこかに消えていた。

 海の匂いはもう、どこにも残ってなかった。
8 名前:01_lost_in_translation_ 投稿日:2004/04/16(金) 04:38
  ラ
9 名前:01_lost_in_translation_ 投稿日:2004/04/16(金) 04:38
 ム
10 名前:01_lost_in_translation_ 投稿日:2004/04/16(金) 04:38

Converted by dat2html.pl 0.1