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54 鈍い月

1 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時01分15秒
54 鈍い月
2 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時03分25秒
「じゃあ夜が来たら紺野を攫いに行くよ」
3 名前:54 投稿日:2003年09月23日(火)00時04分50秒
その言葉を聞いてから、あさ美は数え切れないほどの夜と、幾つもの歳月を重ねた。
太陽が沈んで月が出る頃になると、決まって思い出すこの言葉を、
今日は珍しく太陽が残るこの時間に思い出した。
髪もゆったりと後ろで束ね、化粧もうまくなった今の自分が、
こんな子供のような約束を心の拠り所にしている。
あさ美にはそれがおかしくて、薬指に通した銀色の指輪を見ながら、くすくすと笑った。

いつのまにか、辺りは西日に照らし出される。
オレンジに染まる街並みと、銀色の指輪。
車のエンジン音が響き渡って、あさ美はようやく顔を上げた。
いつのまにか、向かいの信号が青に変わっている。

ぞろぞろと流れ出す人並みに紛れて、あさ美もあわてて歩き出した。
ぎゅうぎゅうに詰まった買い物袋を吊るした左腕が悲鳴を上げる。
どうしてこんなに買ってしまったんだと後悔しかけるが、
今日はあの人が早く帰って来る日だったと今更ながらに思い出した。

しかし、家まではまだかなりの距離がある。
タクシーでも呼ぼうかなと考えたとき、あさ美の左腕から重さが消えた。
「久しぶりだね、あさ美ちゃん」
白いビニール袋を右腕に下げた少女が、くしゃりと微笑む。
あさ美はそれを見て、何かを思い返すように、ゆっくりと瞼を閉じた。
4 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時06分25秒
***
5 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時10分56秒
「でもそれってさぁ、勝手だよー」
麻琴は珍しく両目を吊り上げ、勢いよく話し出す。
朝も早いこの時間には、あさ美と麻琴以外の姿はまだなかった。
さらに言葉を続けようとした麻琴は、あさ美が俯いたままであるのに気付き、
慌てて笑みをつくって見せた。
「親が勝手に作ったお見合いなんて、断っちゃえばいいじゃん」
へへ、と笑いながら言った言葉にも、あさ美は俯いたままだった。

外では慌しい声が途切れることなく聞こえているのに、
楽屋の中はまるで正反対の静けさに包まれている。
時計の針の音が、今日はやけに耳についた。
我慢できなくなった小川が壁にかけられている時計に目をやったとき、あさ美がようやく顔を上げた。
そして、困ったように微笑んだ。
6 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時14分59秒
「あさ美、ちゃん…?」
小川の顔が不安そうに歪む。
「結構ね、かっこよかったかも」
ふっくらとしたほっぺを染めて、あさ美は言葉を紡ぐ。
「仕事はまだ始めたばかりらしいんだけど、将来有望らしいんだ。それにね――」
麻琴は再び時計を見上げた。九時半。もうすぐみんなが集まり出す頃だろう。
「親が、早く戻ってきて欲しいって言うんだぁ。
 ほら、私もいつ卒業ってことになるかわからないでしょ?
 だったら、早いうちにって……」

あさ美はささやかだけど、確かに微笑んでいた。
でも、麻琴にはその全てが嘘臭く映った。
あさ美の言葉も、あさ美の笑顔も全て。
(嘘をつく相手があたしじゃなきゃよかった)
麻琴はぼんやりとそう思う。しかし、まだ諦めきれない自分がいることにも気付いていた。
7 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時17分55秒
「あさ美ちゃんはどうなの?」
あさ美は相変わらず曖昧な笑顔を浮かべ、近くにあった鞄から小さな箱を取り出した。
それは麻琴もよく見たことのある箱で、中身がなんであるのかもすぐにわかった。
「これ、この間もらったんだ。実はもう何回か会ってて」
だから、指輪を出した一瞬に見せた、曇った表情にもすぐに気付くことが出来た。

「もし、そうなったとしたら……あさ美ちゃんはその人の家に行くの?」
それに気付かないふりをして、あさ美に声を掛ける。
「うん。もうちょっとで、紺野あさ美、ともサヨナラかぁ……」
あさ美も、気付かれていないふりをして、麻琴に言葉を返す。

微妙な時間だけが過ぎて、二人の間に再び沈黙が訪れる。
愛ちゃんならどうするだろう、里沙ちゃんならどうするだろう、
そんなことを必死に考えている麻琴の耳に、かすかな嗚咽が聞こえてきた。
はっと見上げた先には、俯いているあさ美。震えている、彼女の肩。
「一人じゃ、何にも出来ないよ……」
ぽつりと、声が漏れた。
麻琴は傍に寄ってやることも、声を掛けてやることも出来ずに、呆然と立ち尽くす。
8 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時19分53秒
「おはようございます……」
そんな空気を知ってか知らずか、眠そうな声で高橋が楽屋の扉を開ける。
それがまるで合図であったかのように、メンバーたちが次々と楽屋に集まりだした。
未だに動かない麻琴をよそに、あさ美は目元を拭い、高橋たちに笑顔を向ける。
その隙に麻琴を見るが、相変わらず口を半開きにしたまま、ぼんやりと宙を眺めていた。

ようやく最後の一人である安倍の姿が見え、楽屋の中にも少しだけ緊張感が増す。
それでも喧騒の止まない楽屋に、時間です、の声が聞こえる。
ぞろぞろと楽屋を後にするメンバーに紛れて、あさ美も足早に立ち去ろうとすると、
一瞬先に誰かが扉をくぐった。
あさ美は慌ててその場に立ち止まる。その背中に新垣がぶつかった。
扉の向こう側を見ると、麻琴が扉を出てすぐのところで立ち止まっていた。
立ち止まった麻琴につられるように、高橋も不思議そうに後ろをうかがう。
9 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時22分35秒
あさ美は、声を上げそうになって慌ててこらえた。
麻琴がゆっくりと振り返る。
普段の麻琴からは想像の出来ないような、まっすぐに鋭い瞳。
ぼんやりと見つめてくるあさ美に向かい、麻琴ははっきりとした口調で言った。

「じゃあ夜が来たら紺野を攫いに行くよ」

高橋が、新垣が、驚いたように二人に視線を送る。
あさ美はドキドキする胸を押さえながら、こくりと頷いた。
10 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時24分09秒
***
11 名前:54 投稿日:2003年09月23日(火)00時25分34秒
「ま……小川さん」
あさ美は優雅な笑みを浮かべ、麻琴に軽く会釈をする。
麻琴は髪をわしゃわしゃと掻いて、困ったように笑った。
目尻も一緒に下がったのを見て、あさ美は、何も変わってないな、と思った。

「久しぶりだね、北海道から戻ってきてたんだ」
「うん、うちの人が転勤になっちゃって、結局またここだよ」
うちの人。随分と自然に言えるようになったものだ。あさ美はこっそりと自分に感心をした。
そして、彼女の前で言うこの言葉は、ひどく不似合いな響きを持っている、とも思った。
「小川さん、変わってないね」
取り繕うようにそう言いながら、買い物袋に手を伸ばすと、ひょいと上手く交わされる。
「あさ美ちゃんは変わったね。……すごく綺麗になった」
突然そんなことを言われるから、ドキリとする。
一度心臓の音が聞こえてしまうと、それはいつまでも鳴り止まなかった。
あの頃の気持ちが、徐々に鮮やかに思い出された。
12 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時28分36秒
「最近どんな感じ?」
「うーん、まぁまぁ、かな」
幸せだよ、と言ってしまえばよかったのに。
大きめの指輪を右手で弄ぶあさ美に残ったのは、淡い思い出と罪悪感。
貰った当初はちょうどよかった指輪に、時の流れを感じた。

「それにしても、ホントに久しぶりだねー。十年経った?」
「そんなに経ってないよ。もうすぐ八年になるかな」
あさ美はそうはっきりと答えた。
毎日毎日、今夜ももうじき浮かび上がる、月を見ていたのだ。
日はビルの陰に半分姿を隠し、二人の影を長く伸ばした。
辺りを包んでいた赤い光は、少しずつ薄れていった。
もうじき夜が来る。
13 名前:54 投稿日:2003年09月23日(火)00時31分09秒
「ねぇ、あさ美ちゃん、今晩暇?」
「え、暇だけど……」
言ってしまってから、麻琴の持っているビニール袋に気付く。
あさ美は何も見ていないかのように、視線を逸らした。

「じゃあ夜が来たら紺野を攫いに行くよ」

一瞬だけ、沈黙。
紺野。懐かしい響きだな、とあさ美は思った。
「そういう冗談、あんまり好きじゃないかな」
かろうじてあさ美は擦れた声を絞り出す。
こんな冗談しか言うことが出来なかった。
「じゃあ、いこっか」
それに構わず、麻琴が会話を進める。
「どこに?」
「どこがいい?」
あさ美は少しだけ迷う。
頭の中からは、買い物袋はもう消えていた。
「月の見えるところ」
「わかった」
麻琴はだらしなく、だけど優しく笑って、残った左手であさ美の右手を取った。
14 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時34分06秒
遠くからは波の音が聞こえていた。
今日の波は静かだね、と麻琴が言って、あさ美も黙って頷いた。
砂浜へ下りる階段に陣取ると、二人は昔のように仲良く手をつなぎ、
肌寒い秋空の下で肩を寄せ合った。
月影に照らされる水面は美しく揺れ、あさ美はほうっと息を吐いた。
もしかしたら、ずっとこんな夜を夢に見ていたのかもしれない。
本当に夢のような、二人だけの夜。
車のヘッドライトが二人を照らし出し、真っ赤に染まった頬を闇の中に暴く。

「ホントに驚いたんだ」
麻琴がぽつりと喋り出すのを、あさ美は黙ったまま聞いていた。
今日は満月でこそなかったが、雲ひとつない空からは、
眩いばかりに銀色の明かりが、辺り一帯に降り注いだ。
「まさか、こっちに戻ってきてるなんて知らなかったから。
 あたし、あの時のことずっと後悔してて。
 なんで怖がっちゃったんだろうって。なんで攫いに行かなかったんだろうって」
15 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時36分40秒
そこまで言うと、麻琴はがっくりと肩を落とし、ごめん、と言った。
「……ううん」
あさ美が麻琴の肩に傾れかかる。
そんな仕草一つ一つがあの頃の自分とは違っていることはあさ美にもわかっていたが、
麻琴は何も言わずに、あさ美の頭に自分の頭をのせた。

「最近どんな感じ?」
「幸せだよ。うちの人、私を大切にしてくれるから」
「後悔してない?」
「大丈夫、後悔だけはしないって、ずっと誓ってたから」
「今晩大丈夫なの?」
「ホントは駄目。どうしようかなって、今悩んでるの」
そう言ったあさ美は、少しも悩んでいるようには見えず、優しく微笑んでいた。
それを見て、麻琴もにっこりと笑う。
16 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時40分04秒
「じゃあ夜が来たら紺野を攫いに行くよ」
「もう、紺野じゃないよ?」
「もう一度、紺野に戻るんだよ」
麻琴は立ち上がり、あさ美の手を引いた。
麻琴の手から白いビニール袋が離される。
階段を転がっていって、砂浜に落ちる音が聞こえた。
あさ美は振り返らずに、麻琴の手を強く握った。

その瞬間だった。
左手から、銀の光が尾を引くようにして、階段を転がっていった。
それは今宵の月のように鮮やかな光ではなかったが、
あさ美のいつも見ている月の光ととてもよく似ていた。
17 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時44分01秒
「あさ美ちゃん?」
訝しげに麻琴が振り返る。
あさ美は儚げに笑うと、その手を振りほどいた。
「ごめん、私いけないよ」
麻琴は目尻を下げ、悲しそうに空を見上げる。
そこにはきっと、真っ白な月。
「まこっちゃんはあの日、私を攫ってはくれなかったけど――確かに『紺野』を攫ったんだよ。
 だから私は、前に進むことが出来た。……気付くのに、時間が掛かっちゃったけど」

そう言い残すと、あさ美は軽やかに海への階段を駆け下りる。
その姿はまるで、遠い昔に麻琴たちの記憶の中に置き去りにした紺野あさ美の姿そのものだったと、
麻琴には思えた。
そう言えば、最後になってようやくまこっちゃんと呼んでくれたな、と麻琴は思った。
そして何故か、その言葉を聞いて、彼女とはもう交わりえないのだと、漠然と感じた。
18 名前:54 鈍い月 投稿日:2003年09月23日(火)00時48分08秒
麻琴が目を細め、階段に背を向けた頃、あさ美もちょうど階段を下りきったところだった。
銀色の指輪はすぐに見つかった。
高価なものではなかったけど、あさ美の大切な宝物だった。
時間の流れがこの価値を作ってくれたのだと、今ならばわかった。
鈍く輝く銀の光は、日常の温かさそのものだった。

あさ美は指輪を拾い上げ、砂がついたまま薬指にはめる。
見上げると、麻琴の背中は大分小さくなっていた。
その背中を眩いばかりに車のヘッドライトが照らす。
あさ美は砂にまみれた銀の指輪に触れながら、
光の中に消えていく友の後ろ姿を、いつまでもぼんやりと見つめていた。
19 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月23日(火)00時50分07秒
20 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月23日(火)00時51分10秒
21 名前: 投稿日:2003年09月23日(火)00時52分17秒

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