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39 森においで。

1 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時06分23秒
39 森においで。
2 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時08分30秒
「じゃあ夜が来たら紺野を攫いに行くよ」

本当に久しぶりに彼の夢を見た。
精神的や肉体的に疲労しきっている時に彼の夢を見る。だから、モーニングに入ったばかりの頃は、よく彼の夢を見ていた。
最近はほとんど見なくなっていたのだが、このところ忙しかったせいだろうか、彼が夢の中に出てきた。
3 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時09分25秒
彼の声を聞くと、どこか本当に遠い所に連れて行かれるような気になる。
彼の声は甘くゆっくりとした落ち着きに満ちている。
あたかも何も心配しなくて良いんだよ。僕に任せて君はついてくればいいんだと語りかけているようだ。

彼がわたしを連れて行ってくれる場所はどこだろうか。
彼が支配する甘美な王国だろうか?
一切の不安も苦しみも悲しみも憎しみも嫉妬も無い王国。
人間の持つ全ての煩悩から解き放された場所。
まるで、お母さんのお腹の中にいるような安らぎと暖かさに満ちた原初の暗闇。

全てを彼に任せてしまいたいという誘惑がわたしを包む。
タナトス。
4 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時10分44秒
眠りは仮初めの死である。
夢はもう一つの現実。
ネイティブアメリカンは太古の昔から、そう信じてきた。
眠っている人は魂が別の世界を彷徨っているのだと。

「じゃあ夜が来たら紺野を攫いに行くよ」
彼の言葉がわたしの心に巣くう。

とは言っても彼は夢の世界だけの人間ではない。
現実の人間だ。

彼とわたしが会ったのは、たった1回だけれども、わたしは彼の事を一生忘れないと思う。たぶん誰でもそうだ。
彼の事を一度知ったら絶対に忘れることなど不可能だと思う。
5 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時12分04秒
わたしが、まだ小学校に入る前の時期だった。
その頃、わたし達の一家は東京の郊外の町で身を隠すように暮らしていた。父親が最初の飲食店の経営に失敗して、夜逃げ同然で逃げてきたのだ。その後、程なくして父親のバーテンダーとしての腕を惜しむ人が現れて、その人の好意と援助で札幌に二番目のお店を開くことが出来たのだけれども、東京での半年は幼心にも辛い体験だった。

昼も夜もカーテンを閉め切っているために暗い六畳ほどのアパートの一室に、両親とわたしと赤ん坊の妹の四人がじっと息を潜めて生活する毎日だ。

父親は借金取りの追求を恐れて、家に閉じこもった切りだった。
それでは生活が成り立たないので、母親が勤めに出ていた。そういう場合の例に漏れず、夜の仕事だ。
必然的に常に父と母の間には諍いが絶えなかった。時には流血を伴う事すらあった。決まって明け方に両親の険のこもった罵声を、布団の中で目をギュッとつぶって聞いていた。
早く終われ。早く終われと念じつつ。
6 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時13分46秒
父親は半分はアル中だったのかも知れない。もともと酒が好きだからこそバーテンダーという職業を選んだのだろうし、こういう状況では酒に溺れるのは、ある意味必然だ。朝から安い焼酎の1,5リットルのボトルを抱えて、チビチビ飲んでいた。絡み酒で無かったことは幸いだったが、昔は身なりもきちんとしていた父親が無精ヒゲも剃らずに、一日中ずっと座った目をして酒を飲んでいる姿は、決して好ましい物ではなかった。

母親は日中はずっと頭まで布団をかぶって寝ており、夕方になると、子供心ながらに怖さを覚えるほどのキツい化粧をして働きに出ていった。そうして、朝になるとお酒の匂いを身にまとって帰ってくる。その繰り返しの毎日だ。

今なら幼児虐待と言われるに違いない扱いも受けた。
ほんの少し、母親の枕元で騒いだだけで痣ができるほど殴られたり、手の甲に火のついたタバコを押しつけられたりした。タバコの跡は、まだ手の甲にうっすらとソバカスほどの淡さで残っている。その跡を見ると何だか悲しい気分になる。行き場のない悲しみだ。誰が悪いという事ではないのだろう。
「時代」が悪かったとしか言いようがない。

今なら、そう言える。
7 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時14分56秒
母親も犠牲者なのだろうし、家族を守るために夜逃げという選択を選ばざるを得なかった父親が悪かったわけでもない。

しかし当時の幼かった自分にとって、両親の行為は理解ができなかったし、恐怖の対象でしかなかった。
いつしか、両親から逃れるようにアパートの近所の森で時間を潰すことを覚えた。

いつも一人だった。

アパートの周りに同年代の子がいなかったわけじゃあ無い。
誰かと「友達」になると、遅かれ早かれ絶対にいつかは互いの家に遊びに行くという状況になる。それだけは何としても避けたかっただけだ。

あえて「友達」を作らないと意識していたか、いなかったかは、もう覚えていないけれども父親が昼間に家で酒を飲んでいるという家庭が正常なものでは無いという意識は強くあったのだと思う。
8 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時16分03秒
森はわたしに危害を加えなかった。
丸や細長い楕円の木の実。不思議な色のキノコ。色んな形をした黄色や赤の木の葉。ビロードのような手触りの緑色の苔。しめった匂い。木々の間から降り注ぐ木漏れ日。

ここにいる限りは心安らぐ時間がある。
わたしは出来るだけ森の中にいるようにした。
森は下ろしたての羽布団のように、暖かく心地よくわたしを包んでくれていた。

ある日のことだ、いつものように夢中になって、森の奥へ奥へと入り込んでいったわたしに声をかけてくる者がいた。

「やあ、お嬢ちゃん一人で森に遊びにきたのかい?」
それが彼の第一声だった。
「あなたは誰?」
わたしは尋ねる。
「僕かい。僕はこの森の主さ。この森のことなら何だって知っている。」
どこから、どう見ても森の主とは思えない風体だった。
ごく普通の人間に見える。
9 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時17分35秒
「嘘だぁ。」
わたしは彼の言葉を否定する。
幼い心にも、いくらかの警戒心はあるらしい。すぐには彼の言葉を信じる気にはなれなかった。
「嘘じゃないよ。証拠を見せるよ。よく見てて、ほらっ。」
彼はパーの形に手のひらを見せて何も無いことを示してから、手を握り親指と人差し指を擦り合わせるような仕草をする。
彼の手の中からはなびらが湧き出てきた。
今から思えば単純な手品だ。しかし、その時のわたしは手もなく騙されてしまった。本当に魔法を使ったように思えた。
ぎこちない手つきだったのだが、子供の目から見れば、それは本物の魔法だったのだ。

その後も、耳の穴から紐につながれた万国旗を出したり、杖が花束に変わったりする「魔法」を、その森の主は次々と披露した。

「わあっ。主さん。すごいっ。」
わたしの頬は驚きと喜びで、恐らくはバラ色に輝いていただろう。
「もっと。もっと。」
とせがむ。
先ほどの警戒心は何処へ行ったのか、わたしは彼の手を握って強く揺さぶったりもした。
10 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時18分57秒
「ごめんね。もう魔力が無くなちゃった。今日は、もう魔法が使えないよ。」
主さんは人の良さそうな笑顔を浮かべて謝る。
たぶん仕込んでおいた手品のタネが切れてしまったのだろう。だが、そんな裏の事情を分かるはずも無いわたしは本気で心の底からガッカリした。

「あ〜あ。お仕舞いなのね。」
一人前のレディーぶったセリフと一緒に、偶然にそこにあった木の切り株に腰を下ろした。
森の主さんは、まるで王女様に仕えるナイトのようにわたしの前に座り込んで、切り株の王座に座っているわたしを見上げていた。
彼の顔を見下ろすようにして、わたしと彼はしばらくの間、見つめ合っていた。

「君はどうして一人で森に来たの?」
主さんが口を切る。

しばらく沈黙の時間が流れた。わたしはどう答えて良いものか迷っていた。迷ったからといって、子供の頭では気の利いた返答が浮かぶ訳もなく、結局は馬鹿正直に本当の事を言うしかなかった。
主さんは小首を傾げたままで、辛抱強くわたしの言葉を待っている。

「・・・お友達がいないから。」
言った後で、なんだか恥ずかしくてモジモジしていた。
主さんのほうを見ることが出来ずに、微妙に視線をずらして緑の木々の上を飛び交う、小鳥を目で追ったりしていた。
11 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時20分21秒
「お友達がいないのかぁ。」
低いけれども確かな意志のこもった声で、主さんは呟いた。
「僕が君の最初のお友達になってあげるよ。」

「本当?」
わたしは主さんを真っ正面に見つめて、問い返した。
主さんは無言でうなずく。

この不思議な安らぎに満ちている森の主さんとお友達になれたんだ。
もう一人で遊ばなくてもいいんだ。
そういう喜ばしい思いが心に満ちてきたのを感じていた。

そうだ。主さんにわたしの宝物をあげよう。
宝物と言っても、駄菓子屋の店先に並べて置いてあるプラスチックの指輪だ。安っぽい金色のメッキと毒々しい赤の偽物ルビー。
でも、わたしにとっては数十カラットのダイヤの指輪にも匹敵する宝物だった。
ポケットの奥に大事にしまってある宝物。
でも、この宝物を主さんにあげる。
そう決心した。
12 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時21分34秒
「ねえ、主さん。手を出して。いいものをあげる。」
主さんは不思議そうな顔をした。

「こうやって、頂戴の形を作ってみて。」
わたしは両手の平を上にして合わせて、お椀のような形を作って見せた。
「ねっ。こうしてみて。」
主さんは、そんなわたしを見て何故か悲しそうな顔をした。

「・・・・・」
意外なほど長い時間が流れる。
「・・・出来ないよ・・・」
聞こえるか聞こえないかという程の囁きとも溜め息ともつかぬ声がした。
まるで、その声はどこか遠い極寒の北国の梢の間を吹き通る木枯らしのような響きだった。
13 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時22分44秒
主さんの触れてはいけない部分に触れてしまった。
もちろん、当時のわたしはそこまで高等な事を考えたわけでは無いが、自分がやってはいけないことをしてしまったという後悔を強く感じたのは事実だ。

急いでポケットの底から宝物の指輪を探り出して、主さんの手の中に押しつけた。
「これあげる。わたしの宝物。」
ぶっきらぼうに、それだけ言った。

主さんは訝しげに、押しつけられた手の中の物をつまみ出すと、目の高さまで持ってきて
「ああ。これは本当に宝物だ。ありがとう。」
と喜びの表情を浮かべていた。
わたしもホッとした気持ちになる。

「お返ししなくちゃね。」
主さんは、どこにしまってあったのか一個の箱を取り出した。
「これ、お返し。」
14 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時24分43秒
手渡された箱を見ると、ボール紙の前面に張られている透明のプラスチックを通してドレスを着たリカちゃん人形が微笑んでるのが見えた。
デパートのリカちゃん人形売り場の最上段に飾ってある、最高級のパーティードレスを着たリカちゃんだった。
顔にお化粧が施してある特別製品だ。
他の大量生産品とはランクが違う。

「・・・いいの。」
わたしは自分に舞い降りた、思いがけない幸運に少しの恐怖心を抱きつつ問いかけた。

「もちろん。僕と君は、お友達だからね。」
主さんは、わたしの満足げな顔を見て微笑む。
15 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時26分17秒
「そうだ。まだ君の名前を聞いてなかったね。名前は何て言うの?」
「紺野。紺野あさ美。」
「紺野あさ美ちゃんか。僕のお友達にもコンノという女の子がいるよ。あさ美ちゃんと同い年くらいの女の子だよ。きっとあさ美ちゃんと仲良くなれると思うんだ。」
「そうなの?主さんには、コンノというお友達がいるんだ。」
「うん。何人もいるよ。みんな、あさ美ちゃんくらいの女の子。」

主さんからもらったリカちゃん人形をギュッと抱きしめているわたしを見た主さんは
「ねえ、あさ美ちゃん。夜に、またこの森に来れる?」
と訊いた。
「もし来れたら、今度はリカちゃんのファミレスセットを持ってくるから。」
主さんは最近発売されたばかりの、リカちゃんのファミレスごっこが出来るセットを持ってきてくれるという事を口にした。
16 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時27分22秒
もうこの頃には警戒心の欠片もわたしには残っていなかった。
完全に主さんを信用していた。

「来れる。」
わたしは即答する。

「じゃあ夜が来たら紺野を攫いに行くよ」
主さんは今まで見せたことのない、不思議な笑みを浮かべていた。
もしブラックホールをこの目で見ることができたら、こんな印象なのかも知れない。全ての光を吸い込むような絶対の暗黒。
一度でも捕らえた物はすべて引きずり込んで放さない地獄の釜の口。
17 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時28分33秒
「今夜は満月だよ。満月の光に照らされた紺野の真珠色の肌はきっと綺麗だよ。」
どこかしら自分の言葉に陶酔したような調子すら混じっていた。
「紺野。大人になんかなるなよ。大人の女なんて汚いものだよ。薄汚れているんだ。ずっと僕と森の中で暮らそう。この森の中で。ずっとずっと子供のままでいようよ。」
低く囁くように、小川のせせらぎの音のように彼の声が耳に入り込んでくる。
彼に全ての身を任したいような痺れた感覚が全身を包む。

自分でも、その時の感情は上手く表現できない。
わたしの心の底に残っていた一片の良識だったのだろうか。
急に頭から冷水を浴びせかけられたような恐怖心が襲ってきた。
このままじゃ駄目だ。
危ない。
本能の警告シグナルが脳の中を巡る。

わたしは後ろも見ずに全速力で駆けだしていた。
家に辿り着いてみると、靴を片方無くし、リカちゃん人形はどこかに落としていた。惜しいという気持ちは全く湧いてこなかった。
18 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時29分32秒
その日から、わたしは二度とあの森に行っていない。
でもいつまでも、いつまでも、たぶん一生、彼の作り出した
「じゃあ夜が来たら紺野を攫いに行くよ」
という言葉の森からは逃げられないという暗い予感がするのだ。
19 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時31分16秒
【おことわり】
この話はフィクションです。実在の事件、人物とは一切の関係はありません。
20 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時31分48秒
21 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時32分53秒
22 名前:39 森においで。 投稿日:2003年09月18日(木)21時37分04秒
る前に、この話は不快な表現が含まれている可能性があるので注意。

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