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狼なんか怖くない

1 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)13時58分21秒

卒業までのカウントダウンはもう始まっている。
2 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)13時59分39秒
「お疲れ様でしたー」
「ちゃんと寝てね。最近の後藤って、ちょっと疲れた顔になってるから」
マネージャーに言われて私はへらっと愛想笑いを浮かべつつも
睡眠時間を減らすような仕事させているのは誰なんだ、と思った。
急いで会社に戻らなくてはいけない、というマネージャーが
タクシーに乗るのを見届けて私も別のタクシーに乗ろうとした瞬間
誰かに声をかけられた。
振り向いてみると知らない女の人が後ろに立っていた。

「ちょっと、道を教えて欲しいんですけど…」
女の人は申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
ここはドラマの撮影所の前。
普段から人通りが少ないこんな場所に一般人がいるというのはちょっとおかしい。
それに私の顔を見ても全くリアクションしないというのも変だ。
しかし、その時の私は何も考えてはいなかった。
愛想の良い対応をしつつ、わかりやすいように裏手の人気のない所へ行き
「この道を…」と説明をしようとしたら、丁度いいタイミングで勢いよく車が
私達の目の前に横付けされた。
3 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時01分33秒
何が起こってるんだろう、と私がぼんやりと思っている間に
手を掴まれ、車の中へ無理やり引きずり込まれてしまった。

そして、車の中でアイマスクをつけられ
両腕に手錠らしきものをつけられた感触がした。
そこでようやくヤバイと思った。
でも、それは後の祭り。
車はあっという間に発進していた。
シートベルトまでされてしまったので身動きが取れない。
私はこんな状態なのに某番組みたいにヘッドフォンはしないんだ、などと
間の抜けた事を考えていた。
そして、ドラマの撮影で疲れていたからか
暗い視界が眠気を誘い、そのまま意識が飛んでいった。


……誰かの声がする。
いや、声っていうより、テレビの音だ。
でも、視界は真っ暗。

「おい…、まだ寝てんの?もう朝だぞー」
誰の声だろう。
道を訊いてきた女の人の声じゃない。
というか、相手の声が変だ。
ゆさゆさと身体を揺さぶられて
瞼を開くと狼のマスクをつけた人が目の前にいた。

童話の赤頭巾ちゃんとかに出てきそうな
怖いような、可愛いような、そんな感じのマスク。
4 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時02分21秒
「あ、やっと起きた」
狼のマスクをつけている相手はホッとした声を出した。
ふと視線をずらすと手に缶を持っているのが見えた。
ヘリウムガスを吸って声を変えてるからおかしく聞こえてたのか。

「後藤真希さん。こんちは」
「……アンタ、誰?」
「正義の味方だよ」
「……はぁ?」
「最近、お疲れっぽいから休んでもらおうと思ってね」
私は狼…と向かい合ったままの状態で後ろに下がった。
でも、後ろは壁で身動きが取れない。
「脅えないでよ」
狼は肩をすくめた。

何考えてるんだろう。
普通、脅えるに決まってるじゃん。
もしかして、この人ヤバイファンかな…。
それかTVのドッキリ企画?
いや、今頃そんなもの撮らないか。
前にそれらしいものはあったし。
って事は、マジ?

狼は喋る度にわざわざヘリウムを吸っている。
声が高過ぎて男か女か区別がつかない。
見た感じ、小柄な人だけど。

「…何が目的なの?お金?
言っとくけど、うちそんなに金ないよ。家建てちゃったし」
「お金なんていらないよ。今日一日ここにいてくれたらいいんだ。
仕事の件は会社にも電話してあるし」
「はぁ?電話って何?」
5 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時03分44秒
学校を休むとかっていうレベルじゃないんだし。
大体、あの事務所が納得するわけがない。

「裏情報をマスコミに流されたくなかったら
今日一日は後藤を休みにしろって脅したら納得してくれたよ。
よっぽど後ろめたい事があるんだろうね」
「……」
「さっきからワイドショーを見てたけど何にもやってないし」
言われた通り、テレビを見てみると
どうでもいい話題ばかり垂れ流しているようだ。

「お腹空いたでしょ?今、作ってたんだ」
狼はそう言って台所へ行ってしまった。
そういえば、手錠がない。
必要ないと思ったのかな。

今のうちにこっそり抜け出そうかと思ったけれど
玄関のドアに内側からダイヤル式の鍵がつけられているのが見える。
これでは、簡単には逃げられない。
っていうか、勝手にそんな事したら管理人さんに怒られるんじゃないかなぁ。

部屋の中を見渡すと普通の1LDKという感じだった。
一つだけドアを見つけたから二部屋あるのかもしれないけど。

そういや、昨日何もされてないだろうなぁ…。
見た所、何も変化はないようだけど…。

途方に暮れてぼんやり窓の外の曇り空を眺めていると
お腹がぐぅ、と鳴った。
6 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時04分27秒
最近、あんまり食欲なかったっていうのに
こういう時にどうして鳴るかな。
緊張感に欠ける〜…。

しばらくして、テーブルに呼ばれて行ってみると料理が完成していた。
家庭料理が並んでいる。
自炊が出来る人らしい。
「あ、豚肉はダメだっけ?」
「…毒は入ってないよね?」
恐る恐る席につきながら訊くと狼は「失礼な」とぼやいた。
料理の臭いに反応してさっきからずっとお腹は鳴りっぱなし。
こうなったら、いざという時の為に体力はつけておかないと。
そう思う事にした。

「どう?美味しくない?」
意外な事に料理は美味しい。
というか、正面の席に座ってこちらを見ている狼の方が気になる。
「食べないの?」
「このマスクしてたら食べられないからね」
「除けたらいいじゃん」
「それじゃ、マスクの意味がなくなるから」
首を振る狼を見ながら私は首を傾げた。
今日一日、何も食べないでいるつもりなのかな。

「あのさ…、これって誘拐なんだよね?」
「そうとも言うかもね」
他にどういう言い方があるって言うんだろ。
それに、さっきからどうも馴れ馴れしいなぁ。
7 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時05分16秒
「今日は雑誌の取材とライブのリハがあるのに。
卒業前の大事な時期に仕事潰しちゃって信用なくしちゃったらどうすんの。
責任取ってくれるわけ?」
私が少し不機嫌そうに呟くと狼は「何とかなるでしょ」といい加減な返答をくれた。
本当になんていい加減な…。

ご飯を食べ終えてベッドに戻った。
欠伸が何度も出そうになる。
緊張感が全くないっていうのじゃなくて
それだけ今の私は疲れてるんだって事。

「ここで、ちゃんと休んでってね」
欠伸を噛み殺しているのを見たのか、狼は楽しそうに言う。
っていうか、素直に休めるわけないじゃん。
「今日一日ここで大人しくしてたらちゃんと帰してくれるの?」
「うん。他のメンバーに迷惑かけるのも悪いしね」
本当に迷惑かけたくないんなら私をこんなとこに引き止めないで欲しいんだけど。

そういや、正義の味方だって言ってたけどどういう意味なんだろう。
でも、その事について訊くのは止めておこう。
下手に煽るはマズイ。
このまま寝るのもいいけど、やっぱりちょっと怖い気がする。
昨日は疲れてて寝ちゃったけど今日は一日中起きておこう。
8 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時06分39秒
「あ、そうだ。卒業間近の今の心境とかを聞かせてよ」
「はぁ?聞いてどうすんの?」
「別にどうもしないよ」
「…ネットとかに流すんでしょ?」
「この部屋にパソコンなんてないよ。
それにマスコミとかにリークしたって嬉しくないし」
狼は肩をすくめた。
「…ま、別にどうでもいいけどさ」

卒業ライブまであと二日。
ライブは三日間あるから卒業まであと五日間。
特番の撮りも終わってるし、メンバーと一緒に出るレギュラーの仕事も終わってる。
今はドラマの撮影と週末にあるライブのリハで忙しいだけ。

娘。としての三年間は本当にあっという間だった。

デビューした時からずっとソロでやりたいと思ってたし。
逆にやっとかぁ、って感じ。
だから、特番とかやって一応卒業をするんだなぁ、という自覚はあるんだけど
何故だかあまり淋しいという気持ちが湧いてこない。
一応、泣いたりもしたけど私は哀しくなくても涙が出せる特技みたいなものがある。
それに、仲がいいメンバーは限られていたし
同じ芸能界にはいるのだからいつでも会える。
ただ、会う回数が減るだけ。
だから、あまり哀しく感じないんだと思う。
9 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時07分38秒
そんな事を狼に話したら首を傾げられてしまった。

「淋しくないっていうのは変だね。その程度のものなの?」
「…別に永遠の別れじゃないから。
何回か同じような事は経験してるし」
「…ふーん」
狼はゆっくりと頷いた。

今まで私は残される側だった。
最初は妙な違和感があるだけで。
でも、時間が経つほど心にポッカリ大きな穴が開いて。
喪失感みたいなものを感じて
こんなにも大きな存在だったんだなぁって、時には凄く哀しくて落ち込んだ。
徐々に回数を重ねるごとに慣れていったけど。

でも、今回は私が残していく側。
正直、まだよくわからない。

「ま〜、あと一人の方が気楽っていうのもあるかな。
ただ、喋りが得意じゃないからそれは心配だけど」
「気楽…、ねぇ」
「そうだよ。失望した?夢が崩れたりでもした?」
「…それはないね。そうだと思ってたから」
アッサリ肯定されるのもちょっと嫌だなぁ。

「まぁ、全員仲良しって事はないんだろうけど。
三年も一緒に活動して離れるとなると名残惜しくなったりしない?」
「う〜ん。あんまし深く考えてないからわかんない」
私の答えを聞いて狼はため息をついた。
10 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時08分35秒
「ちゃんと考えてみたらいいのに。
やっぱり急に周りから人がいなくなったら淋しいものだよ」
「そういう経験した事あるの?」
「…まーね」
見かけの狼らしくない発言だ。

意外と小心者なのかな。
っていうか、なんでこんな事をこんな怪しい人に話してるんだろう。
適当な事を言って済ませようと思ってたのに。

この人、誰かと雰囲気が被るんだよなぁ〜…。
誰だったっけ。

「…まぁ、そんな事はどうでもいいや。
ちょっと仮眠取ってくるから適当にしてて」
「えぇっ!?」
立ち上がった狼を見上げながら私が叫ぶと狼は片手で頭を軽く撫でた。
「ちょっと、ヘリウムの吸い過ぎでクラクラするんだ。
あと、昨日寝てないからね」
そう言いながら、鍵のついた部屋に入っていった。
鍵がかかる音を聞いて気が抜けた。
誘拐してきたわりにいい加減だなぁ。

部屋の中を徘徊してもやっぱり簡単には外に出られない状態になっていた。
玄関は鍵がかかっているし
ベランダに出てみても五階くらいの高さがある。
そういえば、私のバッグはどこへ行ったんだろう。
携帯さえあればなぁ…。
11 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時09分24秒
この部屋には電話がない。
家具もあまりないって事は引越しして間もないのかも。
こうなったら私も寝よう。
どうする事も出来ないし、する事ないし。
仕事してる時は休みなんて極僅かでのんびり寝られる事なんて滅多にない。
卒業しても仕事の量が一気に減るわけでもないし。
最近、睡眠不足だったし、いい機会だ。
物音がしたらさすがの私も起きるだろう。
今まで襲われなかったからってずっと大丈夫だとは言えないからなぁ…。

仕事の件は諦めよう。
会社に連絡したらしいから不可抗力って事で許してくれるでしょ。
というか、怒られても困る。
私が悪いわけじゃないんだし。

まぁ、無事に帰る事が出来ればの話だけど…。


気がついたら部屋が暗くなっていた。
窓の外も星空が広がっている。
でも、狼の姿はなかった。
もしかして外に出ちゃったのかな。
狼がいた部屋のドアは玄関にあったやつと同じダイヤル式の鍵がかかっている。
玄関を見てみると鍵はなくなっていた。
ラッキー。
これで出られる…と思ったら。
ドアノブを回してもビクともしない。
どうやら、外から鍵をつけているらしい…。

結局、出られないって事か。
12 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時10分01秒
諦めてベッドに戻ると着替えが乗っていた。
そういや、お風呂に入ってなかったなぁ。
トイレも…と思ったら無性に行きたくなった。
狼は部屋の中にいないようだし、入ってこよう。

お風呂はユニットバスになっていた。
内側から鍵もかけられる。
シャンプーとか見ても男性か女性か区別がつかない。
一体、あの人は何者なんだろう。

お風呂から出ると丁度、狼が戻って来た。
「どこ行ってたの?」
「外でご飯食べてきた。後藤のは海老ばかり入っているコレ」
そう言って狼は寿司折を見せた。
紐を摘んでブラブラと揺らしている。
よっぱらいのおっさんみたい。
っていうか…。
「海老好きってよく知ってるね」
「だって、有名じゃん。それにファンだからね」
楽しそうに狼は肩を揺らした。
そういえば、今着てるパジャマもサイズがピッタリだった。

知らない人に自分の事をよく知られてるっていうのは
ある意味、ちょっと気持ち悪いなぁ…。
芸能人ってそういうものなのかもしれないけど。
13 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時10分53秒
時間はいつの間にか夜中になっていた。
でも、狼は眠ろうとしない。
部屋を暗くしてビデオを見ていた。
マスクしててちゃんと画面が見えているのかはわからないけど。

「寝なくていいの?」
少しだけ距離をあけてぼんやりとテレビを見ていた私は
声をかけてきた狼の方へ視線を動かした。
テレビからの光で狼の顔がチラチラと光って見えて、ちょっと気味が悪い。

「そっちこそ、寝なくていいの?」
「んー、あと数時間だしね」
私と一緒にいられる時間の事か。
そんな事、思うくらいなら途中で寝たり、外に出たりしなければいいのに。
本当に変な人だ。
何を考えているのかサッパリわからない。
でも、眠るわけにもいかないしなぁ。
自分の身体は自分で守らなくちゃ。

「ねぇ?本当は何が目的なの?」
思い切って訊いてみる事にした。
「何が?」
「だって、無理やりこんなとこに連れて来たのに
何も意味がないっていうのは変じゃない?
もしかして、後藤の知ってる人なんじゃないの?」
熱狂的な危ないファンなら何かしそうなものなのにって、ずっと思ってた。
でも、この人からは何かしようという雰囲気を感じない。
何かがおかしい。
14 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時11分42秒
「なんでそう思うのさ?」
「なんとなく。それか知ってる人に頼まれたとか」
「何の為に?」
「…わかんないけど」
わからないから訊いているのに
本当の事を話す気は全くないらしい。

最後まで正体を明かすつもりがないわけだ。
無理やりマスクを脱がしたらどうなるかなぁ。
いや、それは逆にこっちの身が危険か…。
ちょっと、そういう勝負には出られないな。
いくら今は大人しくても何が起きるかわかんないし。

「ただ、一緒に話がしたかっただけ。
それでいいじゃん。気晴らしにもなったでしょ?」
…それはどうかな。
「朝になったらちゃんと帰してやるんだし。
他のメンバーが心配すると困るしね」
「……それはあんましないと思うけど」
「どうして?」
ようやく狼がこちらに向いた。
どうも、意識的に視線を逸らしてたような気がする。
マスクしてるから意味ないんだけど。

「興味なさそうだもん。
大体、事務所がメンバーにちゃんとした説明してるとも思えないし」
「でも、やっぱり事情を知らなくても突然休まれたら心配はすると思うけどな」
首をコキコキと鳴らしながら狼は呟いた。
15 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時12分54秒
「じゃあ、逆の立場ならどう?心配するでしょ?」
「さぁ?どうだろ…仕事仲間としての心配はするかな」
「……おいおい」
狼は呆れた声を出してため息をついた。

どうしても私にはそんな風にしか思えない。
同世代の集まりだといっても、やっぱり仕事だし。
そういうところは皆シビアだと思う。
少なくとも私は仕事仲間として見てる。

誰か忘れちゃったけど
『卒業するっていうのが嘘みたい』なんて言ってたし。
それだけ実感や、淋しい気持ちがないんだと思う。
今までの私みたいに後になってから実感がするんじゃないかな。
そう思うとあんまし他人の事を心から気にしてるメンバーなんて
いないような気がする。
だって、私がそうだから。

狼がテレビに視線を向けたまま、無言になってしまったので
私は途端にウトウトしてしまう。
あれほど寝たというのに、どうやらまだ眠いらしい。

「…メンバーの有難味ってやつは失ってから気付くものだよ」
どうやら、まだ狼の話は終わっていなかったらしい。
欠伸を噛み殺して私は口を開いた。
「そういうもんかなぁ〜…」
「そういうもんさ。時間も少ない事だし、後藤も早く気付く事だね」
16 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時13分51秒
「何にも知らないくせに」
「失礼な。よく知ってるからこそ、言ってるんだよ」
当てにならない…。
「でもさ、本当にメンバーはちゃんと後藤の事を考えてくれてると思うよ」
「…そうだといいけど」
どうでもよさそうに、むにゃむにゃと私は答えた。
もう限界。
眠い…。
視界がぼやけてきて瞼が落ちそうになった瞬間
狼がまた口を開いた。

「頑張れ。応援してるからさ」

その声を聞いてパチッと瞼を開いた。
ヘリウムの量が少なかったのか、地声っぽくて
優しい声に聞こえた。

少し高い声。
記憶の中の誰かと重なった。
あぁ、そっか…。
そうだったんだ。
だから、励ましてくれてたんだ。

今までメンバーとは上辺だけの付き合いをしてきた気がする。
誰かが卒業する度に深入りするのが怖くなったから。
だから、人に裏切られたりするのを恐れて自分から壁を作っていた。
私は弱いから。

私は一人ぼっち。
今までも。
そして、これからも。
ずっとそう思ってた。

だけど、違ってたんだ。
私の事を想ってくれている人が側にいる。
17 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時15分01秒
ふと何かが手に触れた。
視線をやると私の手に覆い被せるようにして狼の手が重なっていた。
ただ、それだけだった。
狼の顔は素っ気無くテレビに向けたまま。
でも、なんだか安心出来るような心地よさを感じてしまう。
手を握るわけでもなく、重ねているだけなのに。
きっと、この人だからだ。

私は「頑張ってみるよ…」と呟きながら瞼を閉じた。


目が覚めると車の中だった。
後部座席に寝かされていたようだ。
今回はアイマスクや手錠はされずに家に着くとすぐに降ろされた。
ちなみに狼はいなかった。

助手席に乗っていた女の人は狼の友達らしい。
「無理やり連れ出してゴメンね」とだけ言って
すぐに車は走り去ってしまった。
何が何だかわからない。
結局、狼の正体を確認する事も出来なかった。
ただ一つ、わかった事といえばいつの間にか私は服を着替えていたという事だけ。


バタバタしながらレッスン場へ行くとすでにメンバーは揃っていた。
私の顔を見て高橋が思いきり驚いた顔をしていた。
「身体はもう大丈夫なんですか?」
「身体って?」
キョトンとしてしまう。
18 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時16分14秒
「何?大熱出して頭がおかしくなったの?」
やぐっつぁんが笑うと周りのメンバーも一緒になって笑っていた。

はぁ?大熱って何?
誘拐の事は皆知らないの?

「40度越える熱出して寝込んでたじゃん。
昨日、皆でお見舞いに行ったんだよ」
「風邪かもしれないからって、さすがに部屋の中には入れてもらえなかったけど。
やっぱり気付いてなかったんだ?
お姉さん、何も言ってなかった?」
よっすぃーや梨華ちゃんが含み笑いをして尋ねて来たけど私は困惑していた。
皆、何を言ってるんだろう。
「いや、今日は誰とも会わずに出てきたから…」
一部のメンバーは首を傾げ、他のメンバーはニヤニヤと笑っていた。

家に帰ってからわかったんだけど風邪をひいていたのはユウキだったらしい。
確かに顔は似てるかもしれないけど髪の長さとか全然違うのに
どうして気付かなかったんだろう。
わざわざ、お見舞いに来てくれたというのは嬉しいけど。
会社はというと、家から大熱を出したと電話を貰って
素直に仕事をキャンセルしたとか。
さすがにこの時期に無茶はさせられないと思ったみたい。

でも、不審な電話は何もなかったらしい。
19 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時16分58秒
あんなに変な状態だったというのに
睡眠を沢山取ったせいか、日頃の疲れは取れていた。
普通の人なら眠れなくて疲労困憊しそうだけど。

ライブの初日、リハの前に会場を見物していた。
スタッフが慌しく動き回っているのをぼんやりと眺める。

娘。としての私はここから始まった。
そして、ここで終わる。
そう思うとなんとなく感慨深いかな。

「少しは淋しい?」
振り向いてみると後ろに圭ちゃんがいた。
「センチになるのは似合わないからどうかな?」
私がへらっと笑うと圭ちゃんは苦笑いを浮かべた。
「で、どう?ちょっとは羽根伸ばし出来た?」
「ん〜?何の事?」
何を言っているのかわからず、私はキョトンとしてしまった。

「狼は優しかったでしょ?」
ニヤリと笑う圭ちゃんを見て私はポカンと口を開けた。

「………なんで知ってるの!?」
「私が頼んだからだよ。
後藤に最後の休憩をさせるのに手を貸して欲しいってね。
今日は顔色も良さそうだし、安心した。
最近、疲れ気味だったでしょ?
かなり痩せちゃって心配してたんだ」
「はぁ!?」
私は大声で驚いた。
20 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月19日(木)14時17分54秒
「バレたらヤバイから後藤の家の人にも協力してもらって色々と小細工をしたんだ」
圭ちゃんはニヤニヤと笑った。
「じゃあ、あのわけのわからないお見舞いがどうこう〜ってやつは嘘だったの?」
「あー、あれは本当に行ったよ。
朝一でお母さんから事務所に電話してもらって仕事前に皆でお見舞いに行ったんだ。
寝込んでるのがユウキ君だって知ってるのは一部だけど」
圭ちゃんの説明を聞いてもよくわからない。
一体、どういう事だ?

「んん〜??って事は、後藤じゃないってわかっててお見舞いに行ったって事?」
「だから、一部のメンバーはね。
全員でやろうっていう話もあったんだけど
なるべく、事務所にバレないようにしないといけなかったからさ。
ボロが出ないようにする為にね。
だから、とりあえず、後藤の事をどう思ってるかわからないメンバーには
寝込んでるっていうのを確認してもらう事で
事務所の人間を自然と騙す役をしてもらったってわけ。
演技なんて出来ないだろうからね。
だから、心から心配してたわけ。愛を感じたでしょ?」
圭ちゃんは嬉しそうな顔をしている。
思い通りに事が進んだからだろうな。
21 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月21日(土)10時32分35秒
確かに、そう言われてみれば
メンバーによってリアクションが両極端だったような気がする。
ニヤニヤ笑ってたのが事情を知ってた人で
驚いて心配してたのが何も知らなかった人か。

っていうか、失敗してらどうするつもりだったんだろ…。
事務所にバレてたら、とんでもない状態になってたと思うんだけど…。
今の時期じゃないと絶対に成功しなかったはず。
そこらへんもちゃんと考えてたのかな。

『メンバーはもっと後藤の事を考えてくれてると思うよ』

あの人の言葉が頭の中でグルグル回る。
全部わかってて、こう言ったんだ。
結局、事務所への脅迫電話ってやつも嘘だったって事になる。
ま、これはわかってたけど。

「でもさ〜、無茶苦茶だよ〜。
ユウキをダシにして目晦まししたっていう事はわかったけどさ。
別に後藤が家にいても問題なかったんじゃないの?」
私がボヤくと圭ちゃんは「チッチッチ」と人差し指を振った。
「普通じゃ面白くないもん。
少し早いけど後藤に誕生日プレゼントあげたかったんだよね。
あっと驚くやつを。
ちょっと強引なやり方だったけどね」
圭ちゃんのニヤニヤしている顔を見てたらため息が出た。

…強引過ぎるよ。
22 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月21日(土)10時33分29秒
「っていうか…あんな誘拐みたいな状態で安心して休めるわけないじゃん」
私が少し呆れながら言うと圭ちゃんは鼻で笑った。
「嘘付け。逆に警戒心薄いもんだから心配してたわよ」

う…。
一応、あれでも警戒してたんだってば。

「っていうか、なんであんなマスクつけてまで正体隠してたの?」
「んー、こっちは正体隠せなんて一言も言ってないんだよね。
一緒にいてやって、って言っただけだもん。
向こうが丁度、友達が引越ししたばっかだからそこでやるって言ってきたわけ。
徹底的に正体隠したいとか言ってさ」
「なんで?」
私は首を傾げた。

そういえば、どうして、あそこまでして正体を隠す必要があったんだろう。
普通に連れ出してくれても良かったのに。

「知られない方がアンタの為だと思ったんでしょ。
警戒されたら正体明かすつもりだったらしいけど…。
あ、そうだ。これプレゼントだってさ。
当日、仕事で来られないからって」
そう言って、圭ちゃんは私に何かを握らせた。

手の中にあるもの。
それは、あの人が好んでいるブランドのブレスレットだった。

「誰だか、もうわかってるんでしょ」
この言葉を聞いて私は脱力した。
23 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月21日(土)10時34分40秒
やっぱり、そうだったんだ。

彼女の好きな豚のしょうが焼きが出たり。
私の服のサイズや海老好きを知ってたとか。
あと、口にした言葉の重み。
わかりやすいヒントが沢山あった。

確かにあの場で全ての事情を知ったら
私はどこかへ遊びに行こうと言い出しかねない。
それでは身体を休める事も出来ないからわざと隠してたのか。

っていうか…、ヤラレタ。

事務所の人達まで騙して私に休暇をくれるなんて。
それだけ、今の私が見てられない状態だったのかな。
悔しいけどメンバー愛、確かにちゃんと感じちゃったよ。

『メンバーの有難味ってやつは失ってから気付くものだよ』

失う前にちゃんと気付く事が出来た。
これはメンバーとあの人のおかげ。

泣こうと思って出した涙じゃなくて
自然な涙が出てきた。
それを見て、圭ちゃんがニヤニヤと笑っている。

「あ〜、もう!圭ちゃんの時も何かやってやる!!」
会場に私の叫びが響き渡った。
24 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月21日(土)10時35分19秒
残りの三日間。

大切な時間を私は過ごす。
大切な人達と一緒に。

そして、いつかお礼を言いに行くんだ。
狼のマスクを被ったあの人に。
25 名前:第九回短編バトル 投稿日:2002年09月21日(土)10時35分49秒

−END−

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