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深い海に咲く花
- 1 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月30日(火)21時00分32秒
「深い海に咲く花」
- 2 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時01分24秒
- 「本日やっと入荷いたしました。
数に限りがありますので、お一人様一輪限りでお願いいたします。」
かりかりと日差しが降り注ぐ雑踏の中。元気のいい店員の声が響く。
そうかあれからもう一年も経つんだ。
声のするほうにふと目をやると、そこはどこにでもある街の花屋。しかし、
こうした光景を、近頃よく見かけるようになった。
花なんてわざわざ買う人も少なかったのだが、今年の初めにある品種が
生まれたことで、今はにわかに花ブームだ。
青いバラ。赤紫や紫ではなく、青色特有の深く、そして、鮮やかな色彩を纏う
その花は、人々を魅了してやまない。
春風のような涼やかさと、秋の夕暮れのような温かみを併せ持つその花は、
この季節の太陽の下で、一段と輝きを増す。
- 3 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時02分00秒
- 「あの、一つください。」
不思議な花だ。
最初は少し気になるだけ、なのにそのうち目が離せなくなって、気が付くとこうして
傍においておきたくなる。
そう、それはまるで……
今日と同じように暑かったあの季節を想いながら、花をそっと顔に近づける。
すると、そこには、たっぷりと幸福を含んだ香りと共に、彼女との日々がよみがえる。
- 4 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時02分37秒
- 「やたー!アイスだ。」
「しっー。大きい声出すとまた前みたいに見つかって取り上げられるよ。」
バニラ、チョコ、ストロベリー。遊園地みたいに色とりどりのアイスクリーム。
確かに豪華といえば豪華だが、二十歳を過ぎた大人が声を上げて喜ぶものではない。
そう、ここが病院でなければ。
「じゃあねぇ、なっちはバニラ。」
「んじゃ、私抹茶ね。」
「えー、それ四つ目に食べようと思ってたのに。」
「四つって、あんた一体いくつ食べる気なのよ。
運動もしてないんだから、そんなに甘いもの食べてたら、戻ってきた時の
ダイエット辛いぞ。」
- 5 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時03分26秒
- なっちが入院したのは、今年に入ってからだった。
原因不明の微熱と頭痛、腹痛、その他全身の痛み。最初は風邪かと思われたが、
結局原因の分からぬままこうして梅雨が明けた。
そして、その間になっちの体はどんどんくたびれていった。
みんなの前でこそ普通に振舞おうとしているが、最近では歩くのも辛いらしい。
だから、もう近頃は見舞いに若いメンバーを連れて行くのはやめた。見舞いが
終わったあとに、なっちのことで嗚咽する辻や加護はもう見たくない。
「ところで、この前頼んでた物も持ってきてくれた?」
「ああ、でもどうするのこんなの、それにこれ急いで揃えたから小学生が
使うようなのだよ。」
「ううん。これで十分。」
そう言って、私が持ってきた色鉛筆や画用紙を満足そうに手に取るなっち。しかし、
私はその手の中の色とりどりの鉛筆よりも、血管が透けてぞくりとするくらい
美しいなっちの指に目を奪われる。
- 6 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時04分00秒
- 「で、一体何描くの?」
「花を描くの。」
「花?」
「そう、蒼いバラ。
夢を見たんだ。深い深い海のそこをなっちが一人で歩いてるの、そしたらね、
なぁーにもない所、砂だけの海の底にポツンて一輪だけバラが咲いてるの。
それがとっても綺麗なんだ。その海の藍色と、見上げる空の色を
足したみたいでね。」
ああ、この目だ。
私は、楽しいことや嬉しいことを話すときのこのなっちの目が大好きだ。
子供のようにきらきらして、ちょっと熱っぽい。これが見たいがために私は
彼女のそばにいるんじゃないだろうかと時々思うほどだ。
「そうなんだ。じゃあ、絵が完成したら私に一番に見せてね。」
「もちろんだよ。」
満面の笑みで応えたなっち。
しかし、この約束はすぐに破られた。
- 7 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時04分42秒
- 「ちがう、そこはもっと明るい色!」
「えぇー、さっきと言ってること違うじゃん。」
静かな病室に、なっちの声が響く。
外は、35度を越える猛暑だが、真っ白なこの部屋だけは別世界で、まるで
この間なっちが話してくれた海の底のようだった。
画材を手渡した次の日、なっちの体は動かなくなった。
首から上はかろうじて動くものの、あの細く美しい指先は、今はもう
ぴくりともしない。
「でね、葉っぱももっと綺麗な色。」
「そんな、“綺麗な色”じゃわからないよ。もっとこう具体的に。」
「綺麗な色は、綺麗な色!」
絵の代筆なんて聞いたことがないが、私はその理由が今痛いほど良くわかる。
心の中のイメージを、そのまま正確に伝えるなんて、それはどだい無理な話なのだ。
だから、絵はきっとなっちの思い通りには完成しないだろう。
しかし、それでもいい。おそらくもう残りわずかであろう時間を、私は
彼女と共有したい、ただそれだけだ。
- 8 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時05分22秒
- 「そう、その色だよ。」
少しばかりそんなことを考えて、手がおろそかになっていたその時、なっちが叫んだ。
久々に聞く大声に驚いて手元を見ると、何度も何度も重ね塗りして
ずいぶん濃い青色の花びらが出来上がっていた。
「えぇ!なっちこれほとんど紺色だよ。なっちが最初に言ってたのと違うくない?」
「いいんだよ。凄い綺麗。なっちこれが好き。」
なっちに押し切られるように、もう一度その色を見つめる。
太陽が昇る前の空の色。それよりも深く、重い藍色がそこにはあった。
少々腑に落ちなかったが、なっちの満足した顔と絵描きとしてこだわり、
天秤にかけるまでもなく、その時の私は、なっちの言うとおりに
他の花びらの上にも更に色を重ねていった。
- 9 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時06分01秒
- そして、それから数日が過ぎた。
絵は予想通りなかなか完成していなかったが、私にとってそれよりも大きな出来事が
起こり始めていた。
なっちの目がこのところほとんど見えなくなったのだ。
最初に異変に気付いたのは、絵を描いている時だった。あれほど頻繁に
ダメ出しをしていたなっちが、「う〜ん、いいっしょ。」とか、適当な感想を
言い始めたのだ。
もしかしてと思いながらも、それを確かめられなかった。今になって思えば、
もっと早く確かめるべきだったかもしれない。
そして、それがはっきりしたのは、絵が出来上がる前の日だった。
- 10 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時06分39秒
- 「なっち、葉っぱの色これでいい?」
いつもとまったく変わらぬトーンで訊く。心の中で十字を切りながら。
お願い、どうか私の馬鹿な思い過ごしでありますように。
「う〜ん。そんなもんかな。」
しかし、願いは届かなかった。
「うん。わかったOK。」そう言いながら、私は指差した“花びら”から指先を
離すことができない。深い海の底のような色をした花びらは、私の視界の中でも
どんどんその色をぼやかし、ついには私にもその色が見えなくなった。
「どうしたの?泣いてる?」
「泣いてないよ。」
「……ごめんね。なっちがもっと早く言うことだったね。」
無力だった。
言葉も願いも、そして、想いさえもあの時の空間では何の力も持たず、
ただ涙と呼吸する音だけが、かろうじて私たちの存在を繋ぎとめていた。
- 11 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時07分16秒
- その日は、どうやって部屋まで帰ったのかまったく覚えていない。
ただ覚えているのは、ひどく床が冷かったことと、あの花の色だけ。
「綺麗……」
なっちのために描いていたはずの絵を、気が付くといつまでも一人で
眺めている自分がいた。
薄暗い部屋の中で、その花だけがカラーだった。
運命に逆らうことができず、ただ起こり続ける悲劇を見つめるだけの自分を、
花は優しく癒してくれるような気がした。
たくさんの見えない刃で傷ついた心を、そこにはないはずの花の香りが
そっと包んでくれる。
「ごめんね、なっち。」
ふと本棚の写真立に目がいく。
そこには、出会ってからの私たちの思い出の切れ端が、所狭しと飾られている。
そして、彼女はどの場面でも私の大好きな笑顔を浮かべて、みんなに囲まれていた。
それは、季節が変わっても、時間が流れても変わらずに。
- 12 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時07分54秒
- 違う。
突如、何かが私の心の中ではじけて、消えた。
もう一度写真を食い入るように見つめると、微かだった違和感が実体を現しはじめる。
いつからだろう、あの笑顔を見なくなったのは?
いや、笑顔そのものではなく、あの笑顔があった空間はどこへ行ったのだろう、
そして、今私たちはどこにいるのだろう。
現実だと思っていた深い夢が、覚めていくような感覚。
それに伴って、心を引っかくとげの正体が、見え隠れし始める。
彼女にあって今ここにないもの。
本棚から離れて、おそるおそる振り返ると答えがそこにあった。
おぞましい闇の藍。
さっきまであんなに美しいと思っていた花は、まやかしだった。
闇は、時に甘美な香りで人を惑わし、知らぬ間に心の隙間に根を張る。
- 13 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時08分24秒
- そう、なっちが美しいと言ったその藍は、死神がその醜い姿を隠すために用意した
偽りの美しさ。
私たちはいつの間にか、大切なものを見失い、代わりにひどく口当たりのいい
絶望にすがっていた。
気付いたときには、もう体が動いていた。
もう二度と過ちを起こさぬよう、闇の上に光を、希望を重ねる。
なっちとの出会い、なっちの笑顔、そして、なっちへの想いを込めて。
しかし、一度闇に魅了された罪は、重い。
消えない絶望に何度も心がくじけそうになる。しかし、もう時間は残されていない。
涙を振り払い、最後の一筆を入れた時、私の瞳は再び熱いもので満たされた。
- 14 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時10分06秒
- 外に出ると、もう真夜中ではなかった。
すでに東の空は薄明るく、時間がもうほとんどないことを私は知った。
そして、その予感は的中した。
静寂が支配するなっちの病室。
部屋に入った瞬間、私はそれを直感で悟った。
「……間に合わなかったね。」
見せることができなかった花に、私の涙が滲んでいく。
しかし、花はその涙をすべて受け止めてくれるようだった。
それは、さっきまでの偽りの優しさではなく、夏の大地のようにおおらかに、
そして、時に厳しく。
- 15 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時10分54秒
- まだほんのりと温かみの残るなっちのほほにそっと触れ、彼女にも良く見えるように
傍らの窓に絵を立てかける。
「綺麗でしょ、なっち。
前よりもずっと。」
柔らかな朝日に包まれて、花は更に輝く。
しかし、込められた思いはついに届くことなく、蒼いバラは、彼女のそばで
ただ寂しく咲き誇っていた。
「なっち、これがきっとなっちが見た本当のバラなんだよ……」
悔しさ、悲しさ、きっとどんな言葉もこの感情を表すことはできなかっただろう。
日が昇ってもいつまで経ってもこの部屋だけは、冷え切ったままで、私の時間も
再びその歩みを止めようとしていた。
- 16 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時11分29秒
- 「……なっち?」
しかし、想いはほんの少し遅れて届いていた。
朝日の中で、蒼いバラに込めた私のすべてが、なっちの上に降り注ぐ。
「夢を見たの。深い深い海の底でね……圭織?」
「知ってるよ。蒼いバラでしょ。」
抱きしめたなっちの体から、温かさと一緒にバラの香りが伝わってきた。その香りは
ただ甘く優しいだけじゃないけど、決して手放せない、そんな大切な香りだった。
- 17 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時12分16秒
- そして、その時と同じ香りを持つ花が、このバラ。
「あっ、いらっしゃい圭織。」
あれからのなっちの回復は、劇的とはいかなかったけれど、少しずつ、
しかし、確実に進んでいた。そして、最近は芸能人でなければ大部屋に移れるほどにまでなっている。
「今日は外暑いよ。」
「そっか、ずっとここにいると夏って実感がないなあ。」
「そう思って、今日は季節感あふれるお土産だよ。」
「なに?アイス?」
「ううん、はずれ。答えは……」
- 18 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時14分19秒
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- 19 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時14分52秒
- 藍いバラと蒼いバラ。
この世界には、決して咲くことがない花。
あなたが、それを見るのは永遠の淵でしょうか、
それとも希望の中でしょうか。
- 20 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時15分24秒
- おしまい。
- 21 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時16分45秒
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- 22 名前:深い海に咲く花 投稿日:2002年07月30日(火)21時17分17秒
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