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A Blue Rose
- 1 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)12時56分46秒
- メンバーたちは病院の待合室の椅子に座り込んでいた。
誰も話し出そうとしない。
重苦しい雰囲気が流れる。
「なっち……」
飯田はため息をついた。
その日血を吐いた安倍は、結核病棟と呼ばれる、隔離病棟に収容されていた。
彼女たちの面会の希望は、病院側にも、安倍自身にも拒否された。
そして、彼女たち自身も恐怖に怯えることとなった。
結核症。
それは、数十年前までは死の病だった。
しかし、世界の医師、研究者の努力によってそれは治る病となった。
だが、今もなお年間4万人の新規患者が登録される、
日本最大の伝染病であることに、変わりはない。
「オイラも感染してるのかな……」
矢口は左腕に施行されたツベルクリン注射の跡を見つめる。
他のメンバーたちも、それをさすりながら、恐怖に怯えた目をしていた。
「それより、他の芸能人とか、スタッフにも感染してたら一大事だよ……」
保田はそう言って肩を落とした。
不安と恐怖に包まれた深夜の待合室。
非常出口を示す緑のランプだけが、彼女たちを照らしていた。
- 2 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)12時57分32秒
- ◇
2日後、ツベルクリン検査の確認が行われる。
3人の名前が、看護婦から読み上げられた。
飯田、矢口、紺野。
他のメンバーたちは、自分の名前が呼ばれなかったことに安堵の表情を見せながらも、
名前が呼ばれたメンバーがいることに大きな衝撃を受けた。
3人は赤くはれ上がった左腕の注射の跡を押さえながら、
不安と緊張の中で、ゆっくりと診察室の扉を開く。
ツンと、クレゾールの匂いが鼻をつく。
灰色の机には数冊のカルテ。
そして、一人の初老の医師が、シャーカステンにかかった数枚の
胸のレントゲンを眺めていた。
それを心配そうな面持ちで眺めながら、3人は診察椅子に座る。
医師はゆっくりと振り返ると、レントゲンフィルムをかざしながら、
「残念ながら、皆さんは結核に感染してます」
と、静かに、しかし強い緊張感を持ってそう言った。
- 3 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)12時58分09秒
- 「な、治るんですか?」
矢口は早口で医師に尋ねる。
「治ります。ただ、治療には長期間かかります。とりあえず入院して検査しましょう」
そう言って、医師は現在の彼女たちの病状説明を続けた。
「カオリ、どうしたの」
話を聞いているそぶりもなく、視線を宙に彷徨わせる飯田に気づいた矢口は、
彼女の腕をつつく。すると飯田ははっとした表情をして、
「入院したら、なっちにはあえるんですか?」
と、尋ねた。
医師は突拍子も無い質問に、驚いた表情をしてから、
会えないことはないです、と答えた。
それを聞いて、飯田は初めて嬉しそうな表情を見せた。
結核の治療について、医師からさらに詳しい説明がなされた後、3人は診察室を出る。
そのドアの向こうには心配そうな顔をしたメンバーたちが、
帰ることもせずに集まっていた。
- 4 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)12時59分10秒
- 「いいらさん、いいらさん!」
辻が飯田に飛びつく。
「死んじゃうのれすか?死んじゃうのれすか?嫌れす……、嫌れすよぉ……」
小さな体を子犬のように震わせて、飯田の胸の中で嗚咽を上げる。
「大丈夫だから」
飯田は、しゃがみこんで微笑みながらその涙を拭いた。
しかし、不安な気持ちを抑えることができない辻は、爪を噛み始める。
それに気づいた紺野は、
「辻さん、大丈夫ですよ。治りますから」
と、飯田の腕のなかにいる辻に笑いかけた。
「紺野ちゃん……。そうれすよね、大丈夫れすよね。
みんなも、安倍さんも治るんれすよね」
辻はくるりと振り返り、メンバーたちの方を見た。
「なっち……、なっちの病状は?」
保田がはっと気づいた表情をする。
しかしいまだその質問に答えられる人間はいなかった。
メンバーたちは、もう一つの心配事──それが一番の問題なのだが、
安倍の病状がどの程度のものであるかは、まだ誰も知らなかった。
- 5 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)12時59分51秒
- ◇
翌日、予定通り3人は入院となった。
主治医から、今後の治療方針についての説明を受ける。
そして、ひととおりの検査と説明が終わり、服薬指導が終わると、
彼女たちのすることはなくなった。
飯田はずっと気になっていたことを確かめに、
矢口、紺野に、安倍の病室へ行こうと提案した。
安倍のいる個室の扉を開ける。
その瞬間、ふわりと病室のカーテンが揺れる。
「カオリ……」
飯田の姿に少し驚いた安倍は、申し訳なさそうな顔をする。
「移しちゃったんだね……、ごめんね、ごめんね……」
白いマスクをして、青白くやせ細ったその姿は、
数日前とは違って、明らかに病人のそれであった。
「ううん、なっちが悪いんじゃないよ。
それにね、結局感染したのはウチら3人だけみたいだったし、
他の芸能人もスタッフも大丈夫だったみたいだよ」
「そう、よかった。本当にごめんね……」
少しだけ安堵の表情を見せながらも、何度も謝り続ける安倍。
その姿を黙って見つめていた紺野が口を開く。
- 6 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時00分38秒
- 「結核は治りますから。安倍さんも一緒に頑張りましょう」
そのとき安倍は一瞬、表情を曇らせる。
しかし、それを払いのけるように笑顔を作った。
だだ、視線はベッドの上に注がれ、彼女たちの方を決して見ることはなかった。
「そうだね」
静かに安倍は呟いた。
その答えを聞いて、矢口と紺野は笑顔を見せる。
しかし、飯田は決して視線を合わそうとしない安倍の姿が気になった。
「なっち、なんか隠し事してない?」
「どうしたの、カオリ」
矢口が不思議な顔をする。
「だって、なんかそんなきがしてさ」
飯田は視線を合わそうとしない安倍の顔をじっと見つめる。
しばらくして、安倍は3人の目をしっかりと見つめると、
「カオリの目はごまかせないか……」
と、笑った。
「先生がね、若いのに腎臓とかにも菌がいるほどの結核になるのはおかしいっていうんだ。
それで、検査したらね……」
安倍はそのままの笑顔を保ったまま、話し始めた。
- 7 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時01分13秒
- 飯田はその言葉に一瞬戸惑い、そして何を言っていいのかわからないまま、
もう一度、まじまじと彼女の顔を見つめる。
そこには、何かを諦めた悲しい笑顔。
血色の無くなった顔色が、その笑顔をさらに際立たせる。
悪性リンパ腫。
免疫を担当する細胞から発生する若年者にもみられる悪性腫瘍。
進行すると、免疫担当細胞の腫瘍化によって、免疫不全引き起こす、
そして、重症感染症を合併した場合は、治療に難渋することが多い。
ただならぬ雰囲気を察した矢口と紺野は
「……嘘」
と、呟いて唖然とした表情をする。
安倍も重症とはいえ、治るものだと思っていた。
そして私たちにいつもの笑顔を見せてくれるものだと思っていた。
「そんなの、カオリは信じないよ」
飯田は今度は自ら視線をそらし、ぎこちない笑顔を浮かべながら
花瓶にいけてあるピンクのバラを整える。
安倍はそんな姿を少し寂しげに見つめていた。
- 8 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時01分48秒
- 安倍の脳裏にこれまでの二人の記憶が甦った。
オーディションで出会ったこと、一つ屋根の下で暮らしたこと、
喧嘩したこと、慰めあったこと。
互いを許せない時期もあったけれど、
それがあったからこそ現在の二人があるわけだった。
最も近くにいて、同じ時間を共有して、同じ感情を体験し続けた唯一の仲間。
最も憎み、最も愛した大切な仲間。
そして安倍は矢口と紺野を見る。
愛するモーニング娘。の仲間たち。かわいい後輩たち。
苦しいとき、悲しいときを支えあった仲間たち。
これからも、ずっとそんな仲間たちと一緒にいられると思っていた。
震える手でバラの触りつづける飯田。
悲壮な表情でうつむく矢口と紺野。
──でも、私の病気治らない。
「『A Blue Rose』って言葉知ってる?英語で不可能なことっていう意味なんだ。
昔の園芸家はね、それを作り出そうとして出来なかったんだ。
なっちの病気もね、それと同じなんだ。医学が進歩した今でも、
治らない病気があるんだよ」
- 9 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時02分22秒
- 安倍はそう言ってもう一度笑った。
そこには、諦めてもらうことで、
愛する仲間たちへの苦悩を少しでも減らしたいという、
安倍の優しさがあった。
でも、その瞳は潤んでいて、必死に涙をこらえている様子だった。
3人はそれ以上は何もいえなかった。
重苦しい空気が流れていく。白い病室に、ピンク色をしたバラの花だけが、
その存在を誇示していた。
ただ、飯田はバラの花を触りながら、じっと考えていた。
A Blue Rose。青いバラ──
古来からの園芸家の夢。
安倍は不可能という意味だと言っていた。
しかし、本当に存在しないのだろうか。
今は21世紀。もうすでに存在しているのではないだろうか。
そして、安倍の病気の治療法も存在しないと言っていた。
もし、青いバラが人間の力で完成されているのなら、
安倍の治療法も、存在するのではないだろうか、そう考えていた。
- 10 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時02分55秒
- 沈黙に耐え切れなくなったのか、安倍は紺野に手招きをする。
「ほら、紺野、前髪がくしゃくしゃだよ。だめだよ、アイドルなんだから」
そう言って、ベッドのそばで髪を整える安倍。
それを紺野は涙目になりながら、黙って受けていた。
教えることは教えてあげたかった。
しかし、もうそれが出来ない今、安倍が同郷の後輩である紺野に
してやれることはこれしかなかった。
もちろんその想いは、紺野に充分伝わっていた。
それを悲しげな表情で見つめる矢口。
「なっち……」
「なに悲しい顔してるんだべ?アイドルは悲しくても、笑顔を作らなきゃいけないんだよ」
そう言って、精一杯の作り笑いをしてみせた。
「なっち、カオリ、青いバラを絶対見つけるから。そうしたらなっちの病気は絶対治るから!」
突然、飯田が叫ぶ。
- 11 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時04分14秒
- 「え?」
矢口は飯田の言っている意味がわからない様子だった。
それを気にとめる様子も無く
「なっち、カオリは青いバラを頑張って探してみる。だから、なっちも諦めちゃだめだよ」
と、飯田は続けた。
安倍は飯田の言いたいことが分かった。
それは長年一緒に歩んできた仲間だからこそだった。
「ありがと、カオリ。そうだね、青いバラが見つかるぐらいなら、私の病気も治るよね。
カオリが見つけてくれるまで、諦めないで頑張るよ」
「約束だよ、絶対諦めないで治そうね」
「分かった。青いバラ、楽しみにしてる」
そう言って、作り笑いではない、いつもの笑顔を見せた。
そして、安倍の苦しくて、辛い治療が始まった。
- 12 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時05分01秒
- ◇
3人は排菌していないことが判明し、退院となる。
自宅療養をする彼女たちの中で、
飯田はただ一人、青いバラを探した。
睡眠時間さえも削りながら、持てる時間の全てを使ってそれを探す。
だが、手がかりどころかデマの情報さえも耳に入らず、
いたずらに失望だけが積み重なっていった。
やがて目の下はくぼみ、肌のハリは失われ、
負と絶望のオーラが飯田を包みはじめた。
それは安倍とは違った意味であまりに痛々しいものであった。
ある日、同じく自宅療養中の矢口が飯田の元を訪れた。
その変わり果てた飯田の姿に、彼女は衝撃を受ける。
「カオリ、いい加減自分の身体も大事にしなよ。薬もちゃんと飲んでるのかよ?
中断すると、耐性菌ができて、カオの方が先に死んじゃうよ。
そんなことなっちが望んでないってカオだってわかるでしょ?」
矢口は必死になって、飯田を説得する。
しかし、飯田は、焦点の合わない目線を宙に彷徨わせ、
青いバラをみつけなきゃ、と呟きつづけていた。
- 13 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時05分44秒
- 「本当にそんなんで、なっちの病気がなおるのかよ!」
矢口はイライラしたように、そして自分の無力さをぶつけるように叫んだ。
飯田はそれでも目線を彷徨わせながら、矢口に向かって言った。
「青いバラはね、不可能を可能にしてくれる象徴なんだよ。諦めちゃダメ。
絶対見つけるよ。なっちも諦めないで頑張ってるんだ」
しかし、その瞳は、極度の緊張と不安におびえ、
いまにも精神が崩壊しそうなほど、追い詰められているのが分かった。
矢口はもうそれ以上飯田を責めることができなかった。
そして、小さなため息をついた後、
「分かったよ。でも写真とかの加工技術でさ、青いバラの写真とか作れるんじゃないの?
圭ちゃんなんか詳しそうだしさ、オイラ聞いてみるよ」
と、言った。
その瞬間、はっと、飯田の表情が我に返る。
「それだ!」
呆然とする矢口を尻目に、飯田は叫んだ。
- 14 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時06分59秒
- 慌てて飯田は、ここ最近使ってなかったイーゼルとキャンバスを
引っ張り出して、絵の具をオイルで溶く。
子供騙しだと笑われるかもしれないけれど、
実際に『それ』が存在しないなら、本物と見まがうような絵を描いてやる。
それが飯田の出した答。
決して自分の絵が上手いと思ってるわけじゃない。
だけど、今回ばかりは気合が違う。文字通りの命がけだった。
絶対に助けたい。安倍に青いバラを見せてあげたい。
諦めちゃダメだ。どうみても本物にしか見えない絵を書くんだ。
飯田はキャンバスに正対すると、手にした木炭で荒々しく下書きを始めた。
矢口はその姿を何も言えずに見つめていた。
- 15 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時07分33秒
- ◇
数日後のある日、自宅に見舞いに来た保田に向かって、
矢口はいままでのいきさつを説明した。
「そんなの圭ちゃんの技術を持ってしたら簡単じゃないの?」
「そんなに難しくは無いけどね。でも青いバラって一応あることはあるんだけど」
「マジで?」
保田はカタカタとキーボードを叩くと、ある一つのホームページにたどり着いた。
そこには何種類かの、青っぽいバラの花が並んでいた。
「いや、カオリの台詞が気になって調べてたんだ。
まあ、どれも本当に青いかと言ったらそうではないんだけどね。
それに手に入りにくいらしいし」
少しだけ、保田は諦めたような表情をする。
しかし、矢口は真剣な眼差しで、
そのホームページに記されている一つのバラの花を指差し、
「よし、このバラをゲットしてくるよ」
と言って立ち上がると、
「諦めちゃだめなんだ」
と、驚いた顔をしている保田に向かって微笑んだ。
- 16 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時08分22秒
- ◇
一方、紺野も悩んでいた。
同郷であり、自分をいつでもフォローしてくれた先輩。
そして常に優しく、時には厳しく指導をしてくれた先輩。
ダンスや歌が上手く出来ないとき、諦めずに努力することを教えてくれた先輩。
今、彼女は不治の病で苦しんでいる。
そして自分に教えてくれたように、彼女は諦めずに闘っている。
紺野は悔しかった。自分にはなにもすることができない。
あれだけ世話になって、心から尊敬している彼女を助けることができない。
その無念さが、おとなしい紺野の心に火をつけた。
定期診察を受けたある日、彼女は思わず主治医に噛み付いた。
「だって、悪性リンパ腫には治療法があるんです。結核にも治療法があるんです。
なのに、なんで、なんで、安倍さんはなおらないんですか?」
意志の強い眼差しで、キッと主治医を睨む紺野。
- 17 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時09分02秒
- 主治医は少し驚いた表情をして、
「確かに悪性リンパ腫には、骨髄移植を併用した大量化学療法がそれなりの効果を
あげてます。でも、安倍さんの場合、それをやったら結核のコントロールが
つかなくなります」
と、答えた。
紺野はそれでも必死に食い下がった。中学生ながら、独学で学んだ知識を使って。
主治医はその知識量に驚きながらも、淡々と、かつ冷静に答えていった。
そして、主治医の圧倒的な専門知識の前に、そのうち彼女は反論することができなくなった。
「なにか、なにか方法は……」
悔しさで涙がにじむ。専門職の彼らですら、治療方針に悩んでいるのだ。
自分たちになんとかできるものではないことは分かっていた。
でも、涙が止まらなかった。諦めたくなかった。
「遺伝子治療で、癌を正常化させる技術でも実用化されない限り、
今の段階で、これ以上の方法はないんです」
主治医は無言で涙を流す紺野に向かって、悲しげな表情でそう答えた。
- 18 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時09分40秒
- ◇
「青いバラ?……」
安倍は、しおれかけたピンクのバラを眺める。
朦朧とした意識の中で、彼女は色さえも判別できなくなっていた。
「違う……」
眉間に皺をよせ、必死で頭痛に耐える。
結核性髄膜炎。そう、安倍の病状はきわめて深刻な状態に陥っていた。
諦めないで治療を受ける、そう決心した安倍の希望で、
抗結核薬は増量され、そして脊髄内投与も行われた。
しかし、抵抗力の無くなった彼女にとって、それは気休めにしかならなかった。
「カオリ……、なっち、もう限界だよぉ……」
激しい頭痛のなかで、安倍は目を閉じた。
慌てた様子で主治医は病室に駆け込む。
「安倍さん、分かりますか?」
そう言って、安倍のその美しい顔を容赦なく叩く。
しかし、もう顔をしかめることすらしなかった。
主治医は悔しそうな表情をして、ベッドの柵を叩く。
大きな音が病室に響く。
それでも、安倍は静かに眠ったままだった。
──その数時間後、結核病棟の片隅で、彼女は静かに息を引き取った。
- 19 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時10分14秒
- ◇
「どうだ、これなら文句はないだろう」
そう独り言をつぶやいて、自宅で最後の青の一筆を入れた瞬間、
その電話はやって来た。
飯田は思わず、絵筆を落とす。青い絵の具の染みが床に広がる。
なっちが亡くなった?──
なんで?なんでそんな急に?
諦めないって言ってたじゃん。
私の絵を見てよ。こんなに上手く描けたんだよ。
絶対本物にしかみえない、なっちも絶対満足してくれるよ。
まだ、乾ききっていないその絵を抱え、彼女は家を飛び出した。
そして、岐阜にいた矢口も保田から電話を受ける。
「なっち……」
矢口は手にしたバラを見つめる。
そして、農家の人に慌ててお礼を言うと、両手一杯のバラの花束を抱え、
名古屋空港へとタクシーを走らせた。
しかし、メンバーたちが安倍の亡骸が運ばれた室蘭にたどり着いたのは、
深夜、彼女の通夜の席上だった。
- 20 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時11分23秒
- ◇
翌日、告別式が行われる。滞りなく式は進み、棺が閉じられる時間となった。
飯田は、自分の書いた絵を眠るように横たわっている安倍のまえへかざす。
「なっち、見てよ。青いバラだよ……」
しかし、安倍はただ安らかな微笑を浮かべたまま、横たわっていた。
飯田は、肩を落としてその絵を棺に納めると、
「なんで……、なんでよ……。早すぎるよ……」
と、そのまま泣き崩れた。
矢口はそんな飯田の肩を抱きながら、
「カオリ……、花で一杯にしてあげようよ」
と、言って持ってきた花束からいくつかを飯田に渡す。
「これは?」
「一応、青いバラなんだよね」
悲しげな表情で矢口は答えた。
薄紫色のバラ、Angel Face──
それは今の人類が作り出すことが出来る、最も青色に近いバラ。
自分の描いた青いバラの絵とはかけ離れた色のバラ。
でもそれが、いま手に入れられる青いバラなんだ。
- 21 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時12分06秒
- ◇
棺は火葬場へ運ばれ、やがて煙突から煙が上がる。
「なっち、ごめんね、ごめんね、カオリが変なこと言ったから、無理させちゃって」
必死に謝りつづける飯田。真っ赤に泣きはらした大きな目には、
生気がなく、疲れ果てていた。それを切なそうに見上げる辻。
紺野はそんな飯田の姿を見て、おもむろに青いカーネーションを彼女に渡す。
飯田は不思議そうな顔でそれを受取った。
みたこともない、真っ青なカーネーション。
それには不思議な魅力があって、彼女は吸い込まれるように見つめていた。
──Moon Dust
それは遺伝子技術によって人類が初めて手にした、青いカーネーション。
紺野はカーネーションもバラと同様、青い色素を作る遺伝子がないため、
交配では青を出すことのできないということ、そして、遺伝子技術で
青いカーネーションが出来たのと同じように、青いバラももうすぐ完成することを
話した。
- 22 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時12分41秒
- 「飯田さんの言ったことは間違いじゃなかったんです。
もうすぐ青いバラはできるんです。そして、安倍さんの病気も同じ技術で、
治る日がくるんです。ただ、まだ時間がかかるんです……」
それは紺野の、自責の念にかられ苦しんでいる先輩への思いやりだった。
そして、その瞬間、紺野の瞳からぽろぽろと、大粒の涙がこぼれる。
恐怖、不安、悔しさ、苦しさ、悲しさ。
病気は、患者自身だけでなく、その周りの人々も苦しめる。
それは古代から現代までかわることなく続く、命あるものの宿命。
でも、こんな想いはもうしたくない。彼女の笑顔をもう一度見てみたい。
そして、彼女と共に過ごした日々をもう一度取り戻したい。
しかし、紺野はその気持ちを口に出すことはしなかった。
「安倍さんは、立派でした。諦めませんでした。私はそれを誇りに思います」
握り締めた拳を小さく震わせて、紺野は言った。
その言葉に飯田は頷くと、泣いている紺野を抱きしめた。
- 23 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)13時15分49秒
- 医学はこの50年で目覚しい進歩をみせた。
しかし、それでも未だ治らない病気がある。
だが、治療法のない病気に苦しみ、悲しんでいる人々がいる限り、
人類は諦めずに、それと闘い続けてきた。
──遺伝子治療。
遺伝子技術によって、さまざまな疾患を治すことのできる、夢の治療法
それは、神から与えられた遺伝子を人間の手で変えてしまう治療法。
神への冒涜。自然への挑戦。
そう言われつづけても、今、沢山の人々がこの研究を続けている。
人類を病気の苦しみや悲しみから解放するために──
「青いバラ。その言葉の意味が変わる日はそこまできてるんです。
そしていつか、もうこんな想いはしなくて済む日がくるんです。
頑張る人たち、努力する人たち、諦めない人たちがいる限り……」
紺野は止まらない涙を拭こうともせず、
別れを惜しむように、天空に舞いつづける煙に向かって呟いた。
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