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傷だらけの天使

1 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)22時52分46秒
今、私の背中を流れたのは、なんだったんだろう?

暑いから流れたただの汗?
それとも、恐怖心からこぼれだして来た冷や汗?
2 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)22時53分58秒
クーラーぐらい効かせておいてよ。
部屋に入ったときはそう思ったものだが、今はそんな事微塵も思わない。
ダラダラ流れる汗も、普段ほど鬱陶しくはなかった。

「ハハ、カオリー…早く書きなよ。
 早く書いてさー、なっちに見せてよー」

ただ、自分の背後の存在が気になる。
振り向けない。
振り向いたら、理性をなくした壊れかけの天使が堕ちてしまいそうだから。
飯田圭織は意を決して、青い色鉛筆に手を伸ばした。

背後では、理性をなくした安倍なつみが、魂を浄化するには少々味気ない菜きり包丁を腹に押し当てていた。
3 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)22時54分37秒
────
この、暑いくせに妙に寒々しい部屋に飯田が招かれたのは、三十分ほど前である。
質素、という印象のあった部屋は予想通り質素で、飯田の記憶にあった安倍の部屋と寸分の違いもなかった。
もちろん、まだこの部屋はただ暑苦しかっただけだ。

「いやーわざわざ悪かったねカオリ。
 ちょっとカオリにしか頼めないお願いがあってさ」

涼しげなガラスの湯飲みを手に、安倍は現れた。
額にはしっとりと汗が浮かんでいる。

「それはいいんだけどさー、この部屋暑いよ」

豪快に足を崩して、飯田は不満を口にした。
安倍は心底楽しそうに笑いながら、茶器を並べ始める。

「何それ?」
「んー?冷茶。
 買ってきたんだよ、なっちも飲むの初めてなんだけど」

それの毒味に呼んだの?と嫌そうな顔をする飯田を見て、まだ安倍は笑い出した。

4 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)22時55分24秒
作法どおりなのか、安倍がもっともらしい行動をしながら淹れた冷茶を啜ってみると、心地よい冷たさが口の中に広がる。
思わず、

「おいしー」

と声に出していた。

「だべ?やっぱり正解だったよ。
 結構高かったんだよね、これ」

殊更満足そうに、安倍は冷茶を流し込んでいる。
コクリコクリと鳴る喉が、少し色っぽい。
なっちも大人になったな、と、飯田は同い年のクセにおかしなことを考えてしまった。

「あ、そんでさ。
 カオリにお願いなんだけど」

八分ほど飲み終えた湯飲みをテーブルに置き、ゴソゴソとタンスを漁りだす安倍。
何をしているのかな、と思った飯田が覗き込もうと腰を上げた瞬間、安倍が振り向いた。

その手には、スケッチブックと色鉛筆、そして菜きり包丁。

「絵、描いて欲しいんだ。
 青い薔薇の」

先ほどと同じ、心底楽しそうな笑顔で、安倍は自分の腹に菜きり包丁の先端を向けた。

5 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)22時56分43秒
「ハハ、カオリ。
 意味わかるよね?
 なっちの言ってる意味」
「…誕生日プレゼントでしょ?」

ほんの少し、先ほどとは色合いの違う微笑を浮かべながら、安倍は飯田の目を見る。
飯田はその視線をしっかりと受け止めたまま、次に自分のすべき行動について考えをめぐらせていた。

「そうそう、去年さ、なっちは青薔薇が欲しいって言ったのにさ。
 カオリくれないんだもん」
「だって、そんなのなかったじゃんか」

今度は少し寂しげな表情へと、仮面を付け替えた安倍。
その表情の変化に戸惑う飯田。

「いや、どっかにあるさ。
 なっち聞いた事あるもん。
 でもさ、もう遅いんだよね。
 だから、青い薔薇の絵を描いて欲しいのさ」
「…何言ってるのかわかんないよ!
 大体その包丁はなんなのさ?」

激昂した飯田が安倍に向かって歩を進めようとした瞬間、安倍が一直線に包丁を腹に突き刺す仕草をした。
はっと息を呑み飯田が立ち止まると、安倍は今までで一番力のない笑みを携えた。

6 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)22時57分09秒
「なっちさ、病気なんだよ。
 治んないやつさ」
「…」
「だから、最期にせめて見せて欲しいのよ。
 カオリが書いてくれた青い薔薇なら、本物以上に思い出に残るじゃんか」
7 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)22時57分41秒
────
背後に安倍を感じながら、飯田はひたすら筆を走らせた。
花の輪郭から形作り、細部まで細かく丁寧に。
実物を見た事がないから、よく見る赤薔薇の青バージョンという事になるが、だんだんと形を成していくその姿は、本物もきっとこうだろうと思わせるほど、気品と柔らかさに満ちていた。

「なっち…。
 どう、カオリの作品は?」
「…うん、スゴイよ。
 きっと本物もそんな感じなんだろうね」

いつのまにか安倍は落ち着いているものの、震える声でやり取りする二人。
安倍の様子から、死にたくないんだなということが痛いほど伝わり、飯田の視界が歪む。
それでも、歪んだ視界のまま、飯田は腕を休めることなく描き続ける。

「ねぇカオリ」

不意に、安倍が飯田に呼びかけた。
筆を止め、俯く飯田。

「サマエルって知ってる?」

相変わらず揺れる声。

「サマエル?」

不思議な言葉に、思わず飯田は振り向いた。
視線の会った安倍は微笑むと、しっかりしたいつもどおりの声で話し始めた。

「サマエルってさ、堕天使なんだよ」

8 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)22時58分44秒
「死を司る天使の一人でさ。
 冷酷に人の魂を奪い取るんだって」

何故だか少し楽しそうに見える安倍に、飯田はわずかな恐怖を感じた。

「でさ、このサマエルってさ。
 エデンの園に葡萄の木を植えたんだって。
 だけど、この葡萄の所為でアダムがエデンを追放されちゃったんだよ。
 葡萄酒をつくっちゃったんだよね」

何の話かまだ見えない。

「葡萄なんて植えるから、アダムがエデンを追放されちゃったんだ。
 アダムにとっちゃいい迷惑だと思わない?
 もともと無い物だったのにさ、葡萄なんて」

静かに目を閉じ、安倍は首を振った。
その意味はやはり、飯田にはわからなかった。

「なっちはサマエルなんだよ。
 青薔薇なんて存在しないの。
 ないものを作り出して、カオリを困らせただけ」

言い終わると同時に、裁きの雷が安倍の腹に突き刺さった。

9 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)22時59分25秒
「なっち!」

手にしていた鉛筆を放り出し、飯田は倒れこんだ安倍を支える。
目に涙をいっぱい浮かべた安倍は、飯田が支えた瞬間に、口から命の源である葡萄酒を吐き出した。
赤黒い、気味の悪い紫。
血、とは呼びたくなかった。

「カオリぃ…ゴメン。
 なっち嘘ばっかり言ってた…」
「なっち、ダメだよ。
 喋っちゃダメ…」
「カオリの絵、青薔薇さぁ…。
 見えないんだよ…。
 なんかさ、カオリが呼びかけてきた時にはもう、全然見えなかったんだよ…」

安倍の言葉は、すでに飯田の耳に入っていない。
苦しそうに、必死に笑顔を作る安倍を、飯田は強く抱きしめた。
荒い呼吸と葡萄酒が、直接飯田の肌に感じる。

「なっち…」
「ゴメンネ、ホント。
 なっちってホントに自分か…」

ビン底に残った一握りの葡萄酒を吐き出し、安倍の首がカクンと傾いた。
全身を目で覆われた、死を司る堕天使が迎えに来た瞬間だった。

10 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)23時00分28秒
事切れた安倍の死体。
顔に柔らかい布をかぶせられたその死体は、柔らかいベッドに横たわっている。
飯田はその死体にわき目もふらず、ただ一心に絵の完成を目指していた。
六割ほどしか描きあがらなかった青い薔薇。
いつのまにか西の窓からは夕日が差し込んでいたが、飯田の目は青い薔薇以外を認める事はなかった。

「…」

どれほど時間が経ったろうか。
飯田が静かに鉛筆を置いた。
スケッチブックには、見事に咲いた青い薔薇。

「なっち」

声に出し、永遠の別れとなった友の名を呼ぶ。
その顔にのせられた布をはずしてみると、友は美しい顔をしていた。

「お土産」

布の代わりに、先ほど描きあげたばかりの青薔薇が咲いている画用紙をかぶせた。
友と、友が「自分」と表現した堕天使に向けたメッセージを添えて。
11 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)23時01分23秒
「なっちへ。
 早く行きすぎだぞ、もう少しゆっくり走ってほしかった」
「サマエルへ。
 葡萄じゃなくて青薔薇を植えれば、きっと世界は変わってたと思う」

END

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