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異聞・青薔薇

1 名前:H21 投稿日:2002年07月28日(日)13時01分55秒



飯田と肌を合わせるのはこれで最後にしようと、初めから安倍は決めていた。



2 名前:H21 投稿日:2002年07月28日(日)13時30分52秒
密着した身体が離れた隙間に、涼しげな風が滑り込んだ。薄暗い病室に、締め
切っていたカーテンが揺れた。じっとりと濡れた肌、甘い汗の香りを安倍は胸
いっぱいに吸い込んだ。

その瞬間だった。ようやく安倍は自分の死を受け入れる覚悟が出来た。

「なっち、タバコ吸う?」
「うん」

ライターの炎が、飯田の肉感的な身体を赤く浮かび上がらせた。彼女はタバコ
をひとふかしし、安倍の唇に持っていった。

まだ身体の芯に、ちろちろと余韻の熱が残っている。安倍は、飯田をじっと見
ていた。目が合うと、飯田は首を傾けて笑った。その笑顔がとても無邪気で、
だから、するりと言葉が口をついた。

「なっちさあ、もうすぐ死んじゃうんだ」
3 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時31分50秒
圭織の表情が、笑顔のまま凍り付いた。

「……悪い冗談、やめなよ」

なぜだか分からない。今はただ、飯田の動揺が心地いい。

「なっちもそう思ったんだけど、なんかホントみたい。お医者さんに、そう言
われちゃったよ」

圭織は、じっ、と安倍を凝視していた。安倍は照れて、へへっ、と笑った。圭
織は、安倍から顔をそむけた。そして、独り言のように言葉を吐き出した。

「なんかの間違い、だよね? うん。間違い。あれだ、あれ。えーと、診察ミ
ス」
「……だったら良かったんたけどね」

安倍はベッドから降り、ヒップハングのGパンをはき上半身はハダカのまま窓
際まで歩いた。
4 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時32分35秒

(私がいなくなったら、圭織は別の人と寝るんだろうな)
(別の人と)
(別の人と)

「もう、手遅れだってさ」

口元に張り付いた笑みは、偽りのものだ。今ほど、時間を残酷に感じたことは
無かった。

「だって、なっちいつもと変わんないじゃん。どっか痛そうな訳でもないし。
今だって――」

そこまで叫んで、飯田は言葉を止めた。飯田の目から、涙があふれていた。顔
を歪ませて、飯田は泣いていた。安倍は、飯田が愛おしくてたまらなくなった。
その頭を抱きかかえるように両手を回した。

「リンパ節と腎臓に転移してるんだってさ……っていってもなっちにはよくわ
からないんだけど。 見つかるのが早ければ何とかなったかもしんない、って
先生は言ってた。忙しくて病院なんか行ってるヒマなかったですよーって言っ
たら渋い顔してたけどさ」
5 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時33分31秒

結核。
発病イコール死、という時代はとうの昔に過ぎ去り、予防注射や薬の発達など
で日本ではほぼ絶滅されたかのように捉えられていた伝染性の病気。

初期症状は咳、痰、微熱など風邪と混同しやすく、治療が遅れる場合があり、
今回の安倍はまさにその典型だった。


嘘だよ、嘘に決まってるよ、圭織は信じないよ、とつぶやきながら、飯田は安
倍の唇を求めた。安倍は、身体を引いて、飯田を拒否した。

「ゴメンね。だから、いつから発病したのか分かんないんだ。圭織、今すぐ検
査してもらってきて。これ、うつるから」

「イヤだ!」

飯田は、安倍を強引にベッドに押し倒した。両手を押さえつけて、強く唇を吸
った。そうすることで、信じていないことを証明することで、すべてが嘘にな
る、とでも考えているかのように。
6 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時34分24秒
くっ、と飯田は低く呻いて身体をあげた。唇の端が切れていた。安倍が噛みつ
いたのだ。飯田は、唇を歪めて笑った。

「昔みたいじゃん。初めてした時も、なっちに噛みつかれたんだよね。昔は、
私たちずっと憎み合ってたよね」

飯田が、獰猛な獣のように、安倍に襲いかかる。はいたばかりのジーンズは膝
までずり下ろされ、口にはタオルがおしこまれた。乳首をきつく噛まれ、安倍
は悲鳴をあげたが、くぐもった声にしかならなかった。安倍は、自分の中に種
火のように残っていた劣情が再び燃え上がるのを感じていた。

激しく求められる時、安倍は必要とされることで存在を肯定されているように
思う。誰かに求められている間は、世の中に存在していい、と宣言されたよう
に感じる。

誰からも求められなくなった時、安倍、という存在は世界から否定されてしま
うのだ。

だから、飯田から与えられる苦痛も快楽も憎しみも愛情も、すべて等価だった。
安倍という存在の肯定だった。
7 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時34分58秒

「血を吐いた時はさ、さすがにびっくりしたよ。確かに痛かったけど、こんな
ことになるなんて、思いもしなかったよ」

飯田の愛撫は、壊れ物を扱うような、優しいそれに変わっていた。飯田は泣き
ながら、行為を続けていた。

「なんで、痛かったら、つらかったら、私に言ってくれなかったのさ」

「もう、痛くないんだ。モルヒネ打って貰ってるしね。隠してたのは……どう
してだろうね」

飯田は再び嗚咽し始めた。泣きながら、飽くことなく安倍の身体をむさぼった。
それはつまり、飯田もこの事態を受け入れなければならない、と理解したから
に他ならなかった。
8 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時35分55秒

安倍は、時折切なげに吐息を漏らしながら、話を続けた。

「裕ちゃんがこんなこと言ってた。この世の中に、不要なモノなんて一つもな
いって」

「そうだよ。だから、世界中にあるものはみんな大事なんだよ」

「……ってことはさ、不要なモノは、どうなっちゃうんだろう」

「?」

「私みたいに、死んじゃうんじゃないかな」

「なっち!」

飯田は安倍を強く抱きしめた。そして、圭織はなっちが必要だよ、なっちがい
ないと、圭織は悲しくて淋しくて生きていけないよ、と感情的に叫んだ。
9 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時36分48秒

「怖かったんだ。私が死んでも、モーニング娘。は続いていくだろうし、圭織
だって――」

(どんなに悲しい出来事があっても、時間が解決してくれる。時間は無情なんだ。
今、圭織が感じている衝撃も悲しみも本物。それは分かる。だけど、時間はす
べてを押し流して行く。いずれは圭織の中のなっちの存在も、透明になって消
えてしまう)

そして、すべての人に忘れ去られた時、安倍なつみ、という存在は、本当の意
味で消滅してしまうのだろう。

「私は、世界に必要とされていない。だから、死んじゃう、って認めるのが怖
かったんだよ。だから、言えなかった。言えないよ。言える訳ないじゃん!」

「……ねえ、なっち。大丈夫だよ。頑張って治そう? 圭織、ずっとなっちの
側にいるよ。完治しても、もう激しい運動とか出来なくてモーニング娘。には
いられない、っていうんだったら、圭織もモーニング娘。辞める。やって出来
ないことなんてないよ。不可能なんてないよ。いつだって、私たちは、不可能
を可能にしてきたじゃん」
10 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時37分30秒

必要以上の延命治療は、すでに辞退していた。安倍は、もう余命がいくばくも
ないことを医者から知らされていた。

だけど。

飯田を恨むのは筋違いだ、って分かる。だけど、安倍は、自分の存在をどこか
に刻み付けておきたかった。

愛情でも憎しみでも足りない。もっと、与えられた当人が苦しむような感情。

(私は今、とても残酷なことを、自分勝手な理由でやろうとしている)

(圭織、圭織。大好きだよ。ホントに大好きだよ。私のこと、忘れないで。だ
から――)

(だから、圭織の心に、一生消えない傷をつけてあげる。私の存在を、刻み付
けてあげる)
11 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時38分12秒

「薔薇」

「え?」

「この世の中に不可能なんてないんだったら、私に青い薔薇を見せて。世界に
存在しない筈の青い薔薇が見れたんだったら、私も頑張る」

「分かった。青い薔薇だね。それをここに持って来れば、なっちは頑張ってく
れるんだよね」

飯田は即答した。
よーし、やるぞー、と飯田は盛り上がり、すぐに持ってくるからね、と部屋を
飛び出して行った。

安倍の命をBETして、飯田を勝ち目のないギャンブルの場に引きずり出す。
負ければ、安倍は死ぬ。その時、飯田は何を思い、何を考えるだろうか。

安倍が飯田に刻む、最後の思い。それは、

それは……

12 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時39分48秒


「あかん。そりゃ不可能、っちゅーもんや」

中澤はバスローブを羽織っただけの姿で、ソファーの縁に座った。両足をテー
ブルに投げ出して寝ころんでいる飯田の髪を撫でた。

飯田は面倒そうに、中澤の腕を払った。圭織はなっちのものだよ、とくわえた
タバコの煙と一緒に言葉を吐いた。バスルームから顔だけ出した矢口が、こら
ーゆうこー、と叫んだ。

「つまり、なっちがやってることはかぐや姫と変わらんのや」

なに食わぬ顔で中澤は言葉を続けた。

「かぐや姫?」

「燕の子安貝、火鼠の皮の衣、竜の首の珠。求婚の相手を断るための無理難題。
青い薔薇、ってのは、不可能と同じ意味やで。この世には存在せえへん」

意外と博識なところを見せた中澤だったが、飯田や矢口にはその凄さは伝わら
なかった。
飯田は、薄々気づいていた。これはなっちから出題された、決して解けない問
題なのだということに。
13 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時40分38秒

でも、と思う。
かぐや姫だって、月からやってくる運命から連れ去ってくれる『奇跡』が欲し
かったんじゃないかって。
なっちも、同じだ。彼女は、自分の病気は既に手遅れの段階まで進行した、と
信じきってしまっている。そんななっちに飯田が奇跡を見せてあげれば、きっ
と病に立ち向かう勇気が沸いてくる筈なのだ。だから、青い薔薇なんだ。青い
薔薇でないと、意味がないんだ。

(この勝負に私が負けたら、なっちが死ぬ)

飯田は、強迫観念にかられていた。

「みたことないれすねえ」
「後藤は見たことないよ」
「千葉には生えてないね」

モーニング娘。のメンバーや、仕事のスタッフに話を聞いても、結果は芳しく
なかった。それらしい情報は一切入手出来なかった。

「はあ、やっぱり自力で探すしかないか……」

大きなため息をついて飯田がつぶやく。
でもどこをどうやって?

残されている時間が長くないことは、昨日の安倍との会話で痛いほど感じてい
る。
なのに飯田にはそれを探す手がかりも方法もつかめずにいた。



14 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時41分16秒

飯田は、時間の許す限りを青い薔薇と安倍のお見舞いに費やした。当然、睡眠
時間なんかは後回しだ。

「なっち、また来たよ」

安倍の入院している病室。あの日から、安倍は飯田に、キスの一つも許してく
れなくなっていた。
構わなかった。飯田は、毎日毎日、仕事帰りに病院に寄り道しては、仕事の話
やメンバーたちの状況を逐一、こと細かく話して聞かせた。安倍が仕事に復帰
した時に、戸惑ったり遅れをとったりしないように。

「なっち、なんだか痩せたね」
「圭織も痩せたよ。もういいよ、青い薔薇のことは忘れてよ」
「イヤだよ。それとこれとは関係ないから」
「関係なくないよ。矢口から聞いたよ。圭織、最近無茶してる、って。なっち
のことも心配だけど、圭織のことも心配だって」
「矢口のヤツ……」
「無理言ってゴメンね。青い薔薇がこの世にないのは必要とされてないからだ
し、やっぱり、なっちも――」
15 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時41分50秒

安倍は、ベッドに背を起こしたまま、俯いてしまった。飯田は、悔しくてぎゅ
っ、と握り拳をつくった。

と、突然、安倍が背を折って、激しくせき込み始めた。シーツを掴み、苦しそ
うに胸をかきむしった。

「なっち、なっち、苦しいの? 今、ナースコールするから、なっち、なっち!」

飯田は安倍の背をさすりながら、看護婦を呼んだ。
16 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時42分31秒


――赤。


17 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時43分08秒

突然、圭織の目に色彩が飛び込んで来た。安倍が、真っ白のシーツに吐血した
のだ。

慌ただしく看護婦と医者が飛び込んできて、安倍に処置を始めた。飯田は、目
を見開いたまま、壁に寄りかかってその光景を眺めていた。

(分かった……分かったよ……)

飯田は、シーツに飛んだ血に魅了されていた。視線が吸い寄せられて離せなか
った。

(あの時、圭織はね――)

すべてが終わった後、飯田は当時のことを懐かしく思い出しながら、メンバー
に語ったことがあった。

(なっちのシーツを見てさ……)


赤い薔薇が咲いたのかと思ったんだ。

18 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時44分38秒



「圭織、まだ諦めへんで青い薔薇探してるんか?」
「ううん。最近は、部屋に籠もって絵を描いてるよ」
「絵?」

ここは、TV局の地下の喫茶店。中澤と保田がコーヒーを前に話をしている。

「実際に存在しないなら、本物と見まごうような絵を描いてやる、って言って」
「ふーん。圭織らしいな」
「もう何枚描いたか分かんないよ。『これじゃまだダメ』とかいいながら何枚も」
19 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時45分17秒

「あのう」
おどおどと会話に割り込んできたのは、新メンバーの、紺野と高橋だった。

中澤と保田が同時に振り返って二人を見た。それだけで、二人は震え上がって
しまった。

「ごめんなさいッ」

反射的に謝る二人。

「なんで謝るんや!?」
「あんたたち、何かしたの!?」

中澤と保田の剣幕に、半泣きになりながら紺野が言った。

「青い薔薇を探してる、って聞いて」

「うん。でも、あんたたちはまだそんな心配する必要はないから。今は、あん
たたち自身が精一杯――」

「私、知ってます」

「レッスンを積んで、って、紺野あんた今、なんて言ったの!!」

保田に胸ぐらを締め上げられ、紺野はついに泣きだした。


20 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時47分17秒

「ふーん。そんな話があったんや」
「はい。現地に行けば、手に入ると思います」
「ホントなら、すぐにでも飛んで行きたいところだけど……仕事、すっぽかし
ちゃおうか」

「そんなことする必要あらへん」

チッチッチッ、というように中澤が顔の前で人差し指を振った。そして、携帯
を取り出し、ボタンを押した。

「仕事してないメンバーもいてるってこと、忘れてへんか。……おう、もしも
し、みっちゃんか?」



安倍の容態が急変した。

急性の髄膜炎を発症したのだ。結核の併発症としては、最悪の類に属するもの
だった。安倍は集中治療室に運び込まれた。
そして、肉親を呼ぶよう、医者は看護婦に指示した。

飯田は、自宅にいた。
即席アトリエは足の踏み場もない状態だった。何百枚、青い薔薇の絵を描いた
ことだろう。でも、どれもなにかが足りなかった。血が通っていなかった。

もう何日も飯田は寝ていない。最後の食事をいつとったのかすら記憶に無い。
そのせいか、すでに、正常な思考も失われかけていた。何のために絵を描いて
いるのかさえ、曖昧になっていた。飯田とキャンパスと青い薔薇、世界にはそ
の三つしか存在しなかった。
21 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時48分00秒

電話の呼び出し音が鳴り続ける。飯田は、しばらくの間それを電話だと認識で
きなかった。

「圭織、早よ病院来い!」
中澤の泣きそうな声に、飯田は我に返った。

飯田は、まだ未完成の絵と画材を手に、部屋を飛び出した。タクシーをつかまえ
ようと大通りに出る途中、飯田の目の前で一台の車が急ブレーキをかけた。

「平家さん?」
「挨拶は後、早く乗り!」

飯田が乗り込むか乗り込まないかのうちに、再び車は急発進した。

「どうして平家さんがうちの前に?」
「裕ちゃんに頼まれたモノ、圭織に届けに来たんや。って、仕事のないハロプ
ロメンバーがウチや、って失礼な話やで」
22 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時48分46秒

深夜の病院に、二人の足音が響きわたる。
集中治療室の前に、モーニング娘。のメンバーたちが集合していた。みな、沈
痛な表情だった。

「なっちは!? なっちの容態はどうなの!?」

中澤が悔しそうにゆっくりと首を横に振った。

「死んじゃおらん。 けど、意識はもうあらへん。息しとるだけや……うちら
はもう別れは済ましてきた。カオリが最後や、会ってきたり」

「まだだ。まだ終わってないよ!」

飯田は、持っていたキャンバスをソファに立てかけた。メンバーたちは、何が
始まるのかと目を丸くした。

(あの時、なっちの血で描かれた薔薇に、圭織は魅了された)
(圭織の血が青かったら、青い血で薔薇を描いたなら、きっとなっちも納得し
た筈なのに)
23 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時49分30秒

適当に持ってきた画材から、ストリッパーを取り出す。そして、やにわに自分
の手のひらを斬りつける。

「圭織っ! あんた、何するんや!」
「……触るな」

静かな飯田の声に、中澤は足を止めた。

こんこんと溢れてくる血は、赤かった。飯田は落胆した。どうして私の血は青
くないのだろう。

血の滴る手に、ストリッパーを持ち替える。青の顔料を直接乗せ、キャンバス
に叩きつけるように薔薇を描く。

(なっち、待ってて)
(今、青い薔薇をなっちに見せてあげる)
(……だから、だから)

最後まで、飯田は絵を描き続けた。鬼気迫る飯田の迫力に、誰も口を挟めなか
った。飯田の血と青の顔料の混ざり合った薔薇は、この世のものとは思えない、
壮絶な美しさをたたえていた。

だが、安倍が、その絵を見ることは永遠になかった。
24 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時50分17秒



1年後。

飯田は、安倍の墓に来ていた。線香をたいて、手を合わせた。

手のひらの傷は、ことあるごとに目に入る。そのたびに、飯田は安倍のことを
思う。形成外科で処置して貰えば傷跡を完全に消すことも出来るのだけれど、
飯田はそれを拒否した。この傷は、安倍を忘れないためのしるしだ。

(この一年、なっちのことを忘れた日は無かったよ。これからもずっと忘れな
いよ)

飯田が描いた絵は、両親にお願いして安倍の棺に入れて貰った。青い薔薇の絵
は、安倍と一緒に燃えて空へと昇っていった。

風が吹いている。
風は、飯田の前髪と、安倍の墓の側に咲いている花を揺らしている。

間に合わなかったことに対する後悔は当然ある。だけど、と飯田は思うのだ。
なっちは、満足してくれたんじゃないかな、と。みんなが、なっちのために走
り回ってくれた。みんな、なっちを愛していた。飯田の絵もそうだけど、この
花も、その証だ。
25 名前: 投稿日:2002年07月28日(日)13時51分13秒


淡い色をした、青い薔薇――ANGEL FACE。
それは、安倍が望んだ奇跡。


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