夢の中
1 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/14(金) 23:07
CPものの短編をいくつか。
更新は不定期になりますが、よろしくお願いします。
2 名前:ねがいごと 投稿日:2006/07/14(金) 23:08
――負けた人が勝った方の言うコト聞くんだからね?

悪戯っぽく笑う深い黒の瞳がディスプレイの向うに見えるようで。
きっとそこに映ったのは、小さく声を立てて緩んだ自分の口許だった。




帽子を目深に被ったまま、顔を上げる。

暗闇と明るい光の渦を滲ませながら切り取っていく電車の窓に映っているのは、
得意げに自分を見てくる瞳でも、嬉しそうに顔を覗かせる八重歯でもなく、
口紅も引いていない自分の口許。

ガラスにぼんやりと輪郭を描いたその形の良い唇を引き結んで、
村田はこつん、と帽子ごとその窓に頭を預けた。

3 名前:ねがいごと 投稿日:2006/07/14(金) 23:09


―――よくそんなに話すことあるよねぇ。

不思議そうな表情で、けれど半ば感心したように。
パソコンを買ってからの自分と彼女とが、頻繁にチャットで話していることを聞いた斉藤が言ったのは、
たぶん、とても普通の感想だったんだろう。

仕事で、リハーサルで。一日のほとんどを一緒にいた、その日の夜も。
一緒に出かけた次の日、別々の仕事をして帰ってきた夜も。
そう言われて、何話してるんだっけ? って、二人して顔を見合わせたくらい、
ディスプレイを埋めるのは、他愛もない話。

今夜だって、それは変わらなくて。
フットサルの練習帰りの彼女と、ラジオの収録帰りの自分と。
別々の予定が続いてたせいで、二人で話すのは、ほんの少しだけ、久しぶりだったかも知れない。
メールのやり取りくらいはしていたけれど。

――今日梨華ちゃんがさー…
――お昼食べたパスタ屋さんが…

いつも通りの、何でもないやり取り。
今日もパスタのトマトを石川にあげたのか聞いたら、少しだけ、返事の間が空いたっけ、
と、帽子に隠れた目許が、小さく弧を描く。



部屋の中に流れる音楽に紛れるキーボードを打つ音が、時間を刻んでいって。
――ゲームしようよ。
さして珍しくもないそんなこと。言い出したのは、どちらだったか。

4 名前:ねがいごと 投稿日:2006/07/14(金) 23:10

電車のアナウンスが聞き慣れた駅名を告げて、頭を預けていたドアが開く。
まばらな人影と一緒にホームに降りると、発車のベルと、それが終電であるアナウンス。

行過ぎる電車の音を背中に聞きながら、村田はホームの向うに並ぶ街灯の白い光を見上げた。
夜に紛れた、何度か訪れたことのある町並み。

自分の家から、ここまで。
電車に揺られたのは、ほんの少しの時間。
仕事の帰りに寄ることや、ここからどこかへ遊びに行くことが殆どだから。
そんな言い訳にもならないことを理由に。その距離を、知らないつもりでいたのかもしれない。

5 名前:ねがいごと 投稿日:2006/07/14(金) 23:10

――賭けしようよ

何回かゲームをして、引き分けた頃。不意に。

――賭け?どんな?
――つぎ勝ったら負けた人に何でも命令できるとか
――いいねぇー
――村っち、あんまり変なこと言わないでよー?
――武士に情けは無用!
――意味わかんないから!

くだらない言い合いの後に再開した、決勝戦。
――私の勝ちー
負けず嫌いの彼女は、そう言いながら、ディスプレイの前でどんな表情をしていたんだろう。
――えー
――えーじゃなーい。やくそくー


笑ってるんだと、思ってた。得意げに、嬉しそうに。
何にしようかな、なんて、悪戯っぽく瞳を輝かせて。


6 名前:ねがいごと 投稿日:2006/07/14(金) 23:11

眠りについた住宅街の上に、僅かに星を散らせた夜が息を潜める。
エレベーターの扉が開いて見えたその風景の中に、村田の口許から零れた細い息が融けた。

ドアの前で、小さく息を吸い込む。
一瞬伏せた瞼が持ち上がると、ドアから顔を覗かせた深い黒の円らな瞳と目が合った。
大きな瞳がさらに大きく、円くなる。

「…村っち?」
「こんばん、は?」
「や、訊かれても」

それもそうか。ひとり言のように呟いた声を攫って、中へと促された背中で閉まるドアが音を立てる。
見上げてくる黒い瞳は、何か言いたげで。そして何故か少し、不機嫌そうに引き結ばれた唇。
えぇと、と傾げた首に答えるように向けられた小さな背中が、すたすたと部屋の中へと入っていく。

「――電話くれたら、迎えに行ったのに」
「こんな時間に女の子一人で歩かせるわけには」
「村っちだって女の子じゃん」
「ちゃんと駅からタクシーで来ましたよ?」
「そうじゃなくて…! だって、もう終電の時間」

リビングに入ると、困ったように見上げてくる瞳が、不機嫌そうな背中越しの声に代わる。
ほんの一週間近くだけれど、久しぶりに会う彼女に。
こんな表情をさせたかったわけじゃない。困らせたかった、わけじゃない。

「あー…うん、終電だった」
「だった、て……帰れないじゃん、ばかっ」
「な、ば…、…そぉだけどっ」

言いかけた村田の視界に、彼女の部屋が映る。眉を顰めたままの彼女の肩越し。
いつも通りに置かれたソファとテーブル。

「――――…」

7 名前:ねがいごと 投稿日:2006/07/14(金) 23:11


――ディスプレイの向うで、得意げに笑っているはずの。
彼女が告げた、『願いごと』。
こんな時に口にするには、少し、似つかわしくなくて。
俄かには信じられなくて、けれど。



「…村っち?」

次の言葉を接ぐことなく薄く開いた唇に気付いて、途惑いを隠せないままの声音が、名前を呼ぶ。
彼女を途惑わせていることで、もどかしげに歪んでいた村田の眉がゆっくりと解けて。
やんわりと細められたその瞳を見つけた薄紅色の唇が、引き結んでいた力を弱めた。

「――でも、えぇと。…帰らなくて、いいん、だよね?」
「……今日来るなんて言わなかった」
「だって、約束したじゃない」

ふと、長い睫毛が一瞬だけ伏せられる。
さっきまで不機嫌そうに強い力で見据えてきた瞳が、頼りなげに揺れた気が、した。

「言うコト聞く、って?」
「じゃなくて」


『――いつ、から?』
『え?』
『いつから、聞けばいい?』
『……今から、ずっと、かな』
『わかった』

彼女の表情を手繰りたくて、携帯電話を手にして。
何度かのコールの後、繋がった電話の向うで、彼女は冗談だとは言わなかった。

テレビもDVDも音楽もついてないままの部屋の中。
テーブルの上に置かれた、ラインの途切れた携帯電話。
そのすぐ下には、彼女がよくDVDを見る時に抱えてるクッションが落ちている。

電話を切ってから。彼女はどんな表情で、その瞳に何を映していただろう。


8 名前:ねがいごと 投稿日:2006/07/14(金) 23:11

「わかった、って言ったでしょぉ?」

―――嬉しかったんだ。
ディスプレイ越しの、どんなにか他愛ないやり取りでも。時間を忘れるくらい。
彼女と時間を重ねていられることが、とても、幸せで。

「言ったけど、だって」
「柴田くん」

だけど。
幸せに思えば思うほど。大事に思えば思うほど。
…怖くなって。

どのくらい、彼女を必要としていいのかとか。
どのくらい、彼女を独占していいのかとか。
抑えきれなくなって、解らなくなりそうで。

ささやかで、とても大切な時間を壊したくなくて。
――だから、その幸せで、ごまかしてた。


9 名前:ねがいごと 投稿日:2006/07/14(金) 23:12
「だって、村っ…」

力なく揺れる手に、そのカタチを確かめるように、村田の骨ばった細い指が触れる。
弾かれたように顔を上げた柴田の瞳が、憶測ではなく確かにぐらついて。
ぎこちなく笑う村田のエクボを映し出した。

力なく触れただけの指先の下で、柴田の手がびくりと振れる。
瞬きもできないままの瞳の黒に映し出される薄茶色の髪が、今にも触れそうな距離でやわらかな香りを放って。けれど。
抱き寄せられはせずに。触れているのは、そっと添えられた指先だけ。
柴田の耳のすぐ傍から、竦めた肩の上に、震えた吐息が落ちた。

「村っち…?」

村田の耳の後ろを撫でる少し掠れた声が、それでも確かに、自分の名前を辿って。
途惑っているのを隠したがる強気な瞳に、今、映っているものの名前を知る。

触れるだけだった指先が手のひらを包み込む。
捕えて放さないような、その実、縋りつくような強さで。

「…いいん、だよね?」

10 名前:ねがいごと 投稿日:2006/07/14(金) 23:13

――ほんの少しの距離を。たった一言を。
ずっと、ごまかしてた。

少し離れた場所で。交わすたくさんの言葉が。
たまらなく、幸せで。

だけど、同じくらい。
君に、逢いたかった。


「――ずっと柴田くんのそばにいて、いいんでしょう?」

包まれた手の熱に、揺られて。
とてもよく似た二つの瞳の色が、けれど融けることなく、違いの色に重なる。
真っ直ぐに見上げる黒と、どこか不安げに微笑う黒と。

融けない色のカタチを探って。
ゆっくり伸びた手が細い腕を捉える。触れそうで触れなかった、髪のやわらかな香りに。
触れて。振れた背中に、捉えられた腕が応えた。

細い腕の思いがけない強さを知って。
黒の瞳を覆った瞼と。耳のそばにある淡い唇が、微かに震えた。

「…二回も言わせないでよ。ばか…」








“――そばにいて”


11 名前:ねがいごと 投稿日:2006/07/14(金) 23:13

END.
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/14(金) 23:14

 
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/14(金) 23:16
こんな感じで書いていきたいと思います。基本も応用も甘め。

お目汚し、失礼しました。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/15(土) 08:59
すごく良かったです。
次回更新楽しみに待ってます。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/07/16(日) 21:10
このカプ大好きです。
楽しみに待ってます。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/30(月) 19:21

一日早いですが、斉藤さんの誕生日に向けて。

17 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:22

「Trick or Treat?」

別に英語が苦手だからとか、そういうんじゃなくて。

そんな単語を、こんな日常で自分に向けられて、しかも仕事の前に聞くとは思ってなかったから。
頭上から降ってきた声に視線を上げた自分の表情は、きっとすごく怪訝そうだったに違いないのに。

「とりっくおあとりーと?」

声の持ち主は、にこにこと口許にエクボを浮かべたまま、ひらがなみたいな発音でくり返した。
いつもどおりの舌足らずな口調が、発音の怪しさに拍車をかける。

「どうしたのよ、急に」
「どっち?」

頬杖をついていた手を外すと、机の上のストップウォッチとラジオの進行表が目に入る。
進行表に記された日付は、10月30日。

「ねぇ、それって明日なんじゃないの?」
「んもぉ、選ばないならイタズラしちゃうよぉー?」
「人の話聞いてないでしょ、アンタ」

言葉とは裏腹に焦れた様子など微塵も見せないのんびりした口調で、
なのに小さく唇を尖らせて、拗ねる振りをする彼女に苦笑いが零れる。
明日には同い年になるとはいえ、とても年上には見えない、と思う。
18 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:23

「てかさー、村っちゃんのイタズラって何するかわかんないから、なんかヤなんだけど」
「あら。期待にお応えしちゃう?」
「待ってなに、イタズラ決定なわけ?」
「選ばなきゃそぉなるよぉ」
「やーだ、ちょっと待って、ホントやなんだけど! なに、お菓子あげればいいんだっけ?」

楽しそうな村田の笑顔にくるりと背を向けて、隣の空いた椅子の上に置いた自分のバッグを引き寄せる。
いつも持ち歩いているチョコレートが確かまだ、あったはず。

「お菓子ねー」

メイク道具のポーチやら財布やらが邪魔をして、なかなかチョコまで辿り着かない。
休憩時間に入って、メイクを直して戻ってきた時、そういえばちゃんと仕舞わなかったっけ。

「――…いーち、にー…」
「なんのカウントよ、もー」

急ぐ必要なんてないはずなのに、あるはずのものが見つからない上にカウントまでされると、なんだか焦って。
背中の声に抗議の声で応えながら、バッグの中をわたわたと探る。

「…さーん、はい。―――ひとみん」
「あ、あったあった。ね、これでい…――」

振り向くと同時に、名前を呼ばれた。
差し出した斉藤の手のひらの上には、やっと見つけ出したチョコレート。

――これでいいんだよね?
言いかけた言葉は、やわらかく笑いながら見下ろしてくる瞳に、攫われたような気がした。

19 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:24


「両手」

本当は。
すぐ近くに差し出されていた彼女の手と、緩やかな口許が紡いだ声に遮られたのだけれど。

「…は?」
「両手出して」
「何でよ」
「いーからいーから」

視線より少し高い位置に差し出されたままの、細長い指。
そのまた少し高い位置で、村田がほわりと微笑う。

首を傾げながら、片手に乗っていたチョコレートはそのままに。
骨ばったその手がしてるみたいに両手を揃えて差し出した、次の瞬間。

揃えられていた村田の両手がゆっくり、解けていって。


20 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:25

「――村っちゃん?」

ばらばらと手の上に降ってきた、オレンジ色。
手の中から零れたオレンジ色の欠片が、机の上で小さく音を立てる。

「あげる」

手の中のオレンジ色の山と。机に零れたオレンジ色の小さなアメ玉。
見下ろしてくる、嬉しそうな彼女の瞳。

「…え?」
「お菓子」

たくさんのオレンジの包装紙に紛れて、緑や黄色やピンクのアメ玉と。
カボチャの描かれた小さな袋は、クッキーだろうか。

「や、それはわかるんだけど」
「あ、これはもらうよぉ?」

すっと伸びてきた指先が、さっき差し出したチョコレートをお菓子の海の中から器用に救い出
――せるはずもなく、数個の包みが机の上に落ちる。
追いかけるように机の上にそっと置いたオレンジ色で、進行表の白が染まった。

「――逆じゃない?」
「んー? なにが?」
「何で村っちゃんからお菓子もらうのよ」
「まぁまぁ、細かいことは気にしない」
「細かくないっつの」


21 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:25

そぉかなぁ。とぼけた表情で首を傾げられて、何だか力が抜ける。
かさ、と、机に置いた爪の先にオレンジ色の小さな音が触れた。

「…まぁ、ねぇ。あれですよ」
「なに」

緩く口の端をカーブさせたまま。表情は変わらないまんま。
不意に。なのに、まるで当たり前みたいに。
―――ぽん、て。

「疲れてる時には甘いものかなぁ、と思いまして」

頭上に落ちてきた手のひらの重みと、静かな声。
小さなこどもをあやすみたいに。ぽんぽん、て。頭を撫でられる。

別に疲れてないけど。
そう、言い返せなかったのは。
いつもは不器用に持て余し気味の骨ばった細長い指が、あんまりやわらかく髪を揺らすから。

泣きたく、なって。

22 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:26


「…むら」

――気付かれたのかな、って思った。

「んー?」

ここしばらくの、いつもどおりの自分、が。
ほんの少しだけ、違ったこと。


23 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:26


――今頃に、なって。
あの人の夢を見るなんて、思わなかった。

もう、その温もりなんて覚えてないのに。
今は触れられないその体温が、隣にあった時間を覚えている自分を、思い出して。

たった一度使ったきりの灰皿を、部屋のどこに仕舞いこんだか、覚えてるのに。
忘れたつもりで。どんな風にひとりの夜を過ごしていたか、思い出せなくなって。


24 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:27

――いつもどおりに笑っているはず、の自分を。
彼女は気付いているんだろうと、思った。


「あ、返品は受け付けておりません」

元気ないね、なんて、きっと口にはせずに。
どうかした? なんて、訊いたりもせずに。それでも。

「…しないけど」

いつからだか、いつもそう。
こんな風に、何気なく。さっきみたいな思いも寄らない行動に紛れさせて。
普段は年上には思えない彼女の。

「お。よーしよし、いい子ですにぇー」
「ちょっ、髪! むら!」

けして上手いとは言い切れない物真似と、わしゃわしゃと髪をかき乱してくる両手と。

「あら失礼」
「もー…」

細く伸びるその腕の向こうには。ふざけた口調で話すその口許には。
変わらず、小さなエクボ。

ぐしゃぐしゃと乱された髪を整えながら、小さく息を吐く。
…ほんの一瞬だけ、視界に入ったオレンジ色が。

「――むら」
「ん?」

微かに滲んで見えた気がしたのは、教えないでおくことにした。

25 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:27

「ありがと」
「どぉいたしましてー。――あ、こっちもありがとぉ」

やっぱりほわりと笑って。
村田が手にしたチョコレートを摘んでみせると、その手の向うに、ドアの開く音がした。
聞き慣れたふたつの笑い声を、ふたつの視線が迎える。

「おかえぃー」
「ただいまー――…て、どしたの? これ」
「なになに」

ペットボトルの入ったコンビニの袋を提げたまま。
机の上に広がるオレンジ色の山に気付いた柴田と大谷がひょい、と村田の隣に顔を覗かせる。
オレンジ色の包装紙。紛れた黒は、猫を描く。

「――ハロウィン?」
「おぉ、正解。柴田くん、1ポイント」
「何のポイントなの、それ」
「へー、こんなのあるんだ。スタッフさんから?」
「あ、うぅん。村っちゃん…」
「村っち?」

苦笑する柴田と、その隣で机の上からオレンジを一つ摘み上げた大谷の視線が重なって、村田を見上げる。

26 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:28

「ん? うん、そぉ」
「『Trick or Treat!』ってーの? なに、村っちに言えばいいの?」
「言えばいいってゆーか、この人」
「私が言うんですよ、大谷くん」
「…は?」
「――てかさ、明日じゃないの? ハロウィン」

怪訝そうに訊き返す声と何故だかどこか得意げな声が交わるのと同時に、
それより少し低い位置で小さく首を傾げた声が、二人の視線の間を割った。
――すとん、と村田の視線が落ちて。そんなに大きくもなかった柴田の声に向けられる。

「そぉなんだけど。明日はひとみんの誕生日だからねぇ」
「う、ん? それはそう…だけど」
「一緒にするのは嫌だなぁと思って」
「そっか。そー……えー?」
「さては自分がやりたくなっただけでしょ、あーた」

腑に落ちないと眉間に皺を寄せた柴田の横に、大谷の呆れ顔が並ぶ。
ズバリ言い当てたと言わんばかりの声には、否定も肯定も重ならなくて。
見上げた斉藤の目線の先で、その声に応えたのは口許のエクボ。

27 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:29

「――んじゃあ、柴田くんは」
「え?」
「Trick or Treat?」
「……ねぇ、これでいたずらの方選ぶ人、いない気がするんだけど」
「――…あぁっ!」
「や、フツー気付くから」
「ぅー…」
「まぁ、村っちがくれる方だってわかってるからねぇ」
「ねぇ」
「―――あ」

困ったように眉根を寄せて、大谷と柴田のからかうような口調を聞いた村田の表情が、ふと解ける。
勝ち誇ったように見上げてくる柴田の目をじっと見返したその目許が緩く、和らいで。

「じゃあ、柴田くんにはイタズラで」

にっこりと音がしそうなくらいに微笑んで、みせた。
得意げな笑顔を凍らせて、一瞬言葉を失くした柴田の視線が村田から外れて、宙を泳ぐ。

「――あー…遠慮しとく、うん」
「なんでー?」
「何でって。…なんか、やだ。――っていうか、何で私だけ」
「えー? だめぇ?」
「だめっていうか、やだ」
「あー、ねぇ。村っちゃんのイタズラって何するかわかんなくてやじゃない?」

ぎこちなく言葉を紡ぐ柴田の強張った頬に薄らと差した朱に、斉藤の声が重なって。
柴田と村田の視線が一瞬見交わされる。
小さな苦笑いと変わらない笑顔が二つ並んで、斉藤へと落ちた。

28 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:29

そんなことないですよぉ。間延びした口調を、ドアの開く音が遮る。
顔を覗かせた番組のディレクターに呼ばれて、苦笑いを残して、柴田の背中がドア向うに消えていく。

その背中を見送って、顔を上げて。
斉藤の視線が、同じように背中を見送った村田の瞳を見つける。

やんわりと、三日月のカタチに細められた瞳。
すぐに隣の大谷に、その視線は移されてしまったのだけれど。
――その瞳の持つやわらかな温度に、一瞬目を奪われた気が、した。


ころん、と。大谷の手がオレンジを元の場所にそっと置くのが視界の端に見える。
どうやら、次のターゲットは大谷らしい。
二人してぎゃいぎゃい言い合いながら、村田の荷物が置いてある机の向かい側へと移動していくのを眺めて、斉藤はオレンジ色を一つ、指先で摘んだ。

29 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:30

机を挟んだ向かい側には、村田と大谷のじゃれ合い。いつもどおりの。
お手、とか、おかわり、とか。村田の声が、二人分の笑い声に紛れる。
村田家のペットの犬谷くんは、芸をすればお菓子をもらえるらしい。

…ハロウィン関係ないじゃん。
零れた苦笑と一緒に、手元に視線が落ちる。
お気に入りのネイルの先に、黒猫の絵と、可愛らしいおばけの絵。


一つ取ったところだけ小さく白く空いた、オレンジに染まった番組の進行表。
10月30日。
番組の冒頭には、普段より長いリスナーからのメールの時間。
お祝いメールたくさん来てるよ、と、スタッフさんが教えてくれた。

自分以外の3人だけ、その内の少しを読んで、番組で読むメールを選んで。
瞳ちゃんはまだ読んじゃダメー。自分のことみたいに嬉しそうに、そう言ったのは柴田だった。
早く読みたいとコドモみたいに駄々をこねた自分を、楽しみは後に取っといた方がいいっしょー? そう宥めたのは大谷だった。

30 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:31


25回目の、誕生日。

――どれだけ、時間を重ねても。

時折疼く、小さな傷痕。変えられないもの。
変えなくちゃいけない、変わらないもの。



「――村っちー、もー、あーたねぇ」
「えー? 大谷くんだってさー…――」

不意に一際大きな大谷の笑い声が部屋の中に響いて、顔を上げる。
同じように笑っていた村田が、斉藤を見つけて。そうして。

向けられたのは、やっぱりほわりと微笑う目許と、口許の小さなエクボ。



――どれだけ、時間が経っても。

みんなのくだらないやりとりも笑い声も。
頼りがいがあるんだかないんだかよく分からない一番年上の彼女も。
普段はふざけてばかりで目が離せないのに、時々大人びた顔を見せる、今日まで同い年の彼女も。
しっかりしているように見えて、どこか幼さの残る真っ直ぐな気性の末っ子の彼女も。

いつもどおり。変わらなくて。
だから。変わらないでいて欲しいと、願うもの。

31 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:32

――一瞬だけ向けられたエクボに応えるように、斉藤の唇がゆっくりなだらかに弧を描いて。
斉藤の手の中のオレンジ色の包装紙が、くるりと解ける。

解ける微かな音は、ぱたぱたと戻ってきた柴田の声に紛れた。

後を追うようにドアの隙間から聞こえた、ブースへの移動を促すスタッフの声。
他の3人がばたばたと移動の準備をしているのを見ながら、斉藤は小さく息を吸う。

「――じゃあ、今日も頑張っていきますか」
「はーい」
「ほーい」
「お、やる気だねぇ、ひとみん」
「あんたたちねぇ…」

少し騒がしいくらいの部屋の中に、静かに、けれどはっきりと響いた声に。
思い思いにばらばらの返事が応えて、斉藤はそっと苦笑いを零した。


32 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:32


――オレンジ色にくるまれていたのは、ひと口サイズのチョコレート。


24歳、最後の夜。

ほんの少しの、胸の痛みも。いつもどおりの風景も。
口の中で、甘いいたずらと一緒にじんわりと融けていって。


25歳の最後の夜も。
その先も、ずっとずっと。
こんな風に、この場所で。笑っていたいと。
笑っていられる自分でいようと、そう思った。


33 名前:Sweet Trick 投稿日:2006/10/30(月) 19:33

END.

34 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/30(月) 19:34

ちょっと早いですが、斉藤さん、お誕生日おめでとうございます。

お付き合いくださった方、ありがとうございます。
お目汚し、失礼いたしました。
35 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/10/30(月) 19:39
遅くなりましたが、レスのお礼を。

>>14 名無飼育さん さま
ありがとうございます。
不定期すぎる更新で申し訳ないです…。またお付き合いいただければ嬉しいです。

>>15 名無飼育さん さま
レスありがとうございます。
前回のカプはまた書くと思いますので、宜しければまたお付き合いください。

36 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/09(木) 22:49
「あぁ、メロンってこんな感じだなぁ」と、つい笑顔になってしまいました。
全体に漂う、優しい空気が大好きです。
村田さんと柴田さんのお話も、また楽しみにしています。
37 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/15(水) 23:50

ガッタスのファンクラブツアーの頃のお話です。



38 名前:おかえりなさい 投稿日:2006/11/15(水) 23:51


――君のことを、考えてた。


39 名前:おかえりなさい 投稿日:2006/11/15(水) 23:51

髪が含んだままの水分が温まった頬に触れて、心地良くて。
ソファに身体を沈めながら、口許に当てたタオルの中に小さく息をつく。

じんわりと足の先まで広がる、熱に溶けた疲れと。
頭のてっぺんまで残る、疲れを覆う充足感。

あっという間に中盤を迎えた、2週間ほどの舞台公演。
関東の演劇団体とのコラボレーションが何たらという小難しいコンセプトはともかくとしても。
新しい舞台と関わるたくさんの人と、与えられた新しい役とにわくわくして、没頭して。

素直に、楽しいと思える。
――そう思って、村田はふと、瞼を下ろす。

――もちろん。楽しい、ばかりでは終わらせられなくて。
毎日、反省することも改善しなきゃいけないこともあって。
中盤を過ぎて、一通りの流れを掴んだがための気の緩みだって出てきかねない。
特に今回は、初めて舞台を踏む後輩たちをサポートする立場でもあるし。

40 名前:おかえりなさい 投稿日:2006/11/15(水) 23:52

そうやって気を引き締めなきゃ、と思えることも全身に広がる充実感に繋がるのだけれど、と。
確認したい箇所があったことを思い出して、長く伸びる睫毛がその身を起こす。


求めたはずの台本は手許にはなくて、目に入ったのは、携帯のサブディスプレイ。
デジタル数字は、明日が近いことを知らせていた。

視線を巡らせるまでもなく、目当てのものがどこにあるのか見当がついて、苦笑を零しながら体を起こす。
ジャケットのポケットに入っていた携帯は、何とかリビングまでやって来れたらしい。


玄関を入ってすぐの床の上に、荷物を置きっぱなしにする癖。
とうに治ったと思ってたのに。
少なくとも最近は、なかったのに。

―――なかった、というか。


少なくなってきた台本の余白の中に、帰り際に稲葉と話したことを思い出して、ペンを滑らせる。
確認して、反芻して。よし、と。

呼吸に紛れるくらいの、小さな声。
やけにはっきり耳に届いて、思いがけなさに顔を上げる。

41 名前:おかえりなさい 投稿日:2006/11/15(水) 23:52

「――……あー…」

そっか、と。誰にとも、自分にとも向けられていない声。
部屋の中が、やけに静かな理由を。上げた視線の先の、白い色に見つけた。

いつからか、コンポのスピーカーからではなく、パソコンから流れてくるのが普通になっていた、室内の音楽。
家に帰ってきてすぐにパソコンの電源を入れるのと同じくらいの、日常の風景。

電源を入れてないここ何日かの間も、今も。
コンポのリモコンに手を伸ばすことは、考えてなかった。


――もう一度、苦笑いが一つ。
部屋の静寂の中に零れたそれを照らすように、ディスプレイが明るくなる。

しばらく忙しいと話してはあるけれど、書きかけのメル友へのメールはどのくらい寝かせてしまったのか。
あんまり遅くなると心配させるかなぁ、なんて。
四川省の記録更新は、いつでストップしてたっけ、なんて。

「―――…え」

ぼんやりと考えてた頭に。新着メールを告げる音が響いて、マウスに触れる指が小さく揺れた。

42 名前:おかえりなさい 投稿日:2006/11/15(水) 23:53

ディスプレイには、パソコンの電源を入れると同時に立ち上がる設定にしてあるメッセンジャーソフトと。
メッセンジャー用に登録してあるメールアドレスへの、メールの受信を知らせる文字。

新着メールは、1件。

マウスをクリックする音がやけに大きく聞こえたのは、たぶん。
それ以外の音が部屋にないから、だけじゃないんだろう。


メールの差出人の名前は、あゆみ。


殆どメッセンジャー専用になっているウェブメールのアドレス。
知っているのは、彼女くらい。
メールする時は携帯を使うから、普段このアドレスにメールをすることは殆どないけれど。

43 名前:おかえりなさい 投稿日:2006/11/15(水) 23:53

差出人の隣に並ぶ件名を見ながら、すとん、と椅子に腰を下ろす。
まだしっとりと柔らかい髪の茶色が、口許に浮かんだエクボの横で揺れた。


件名:おかえりー


いつもは。
別々の仕事を終えて、帰ってきて。お風呂から、帰ってきて。ディスプレイ越しに。
同じ部屋に二人で帰ってきた時に、隣で。
何気なく互いに交わす言葉。


まるであたりまえみたいに思ってたこと。日常の風景になってたこと。
彼女が仕事で日本を離れた日に気がついた。


続いている舞台と、その唯一の休演日にも組まれた仕事。
パソコンを立ち上げる時間と気力がなかったというのも、半分くらいは嘘じゃないけど。
書きかけのメールも、部屋の中に流れない音楽も。
その日からだってことを気付かないフリで、けれど知ってた。

かち、とマウスをクリックする音が小さな苦笑いに紛れる。

44 名前:おかえりなさい 投稿日:2006/11/15(水) 23:54


村っちへ


舞台お疲れさま。
ちゃんとご飯食べてる?
ベリーズの子たちに迷惑かけたりしてない?(笑)

明日帰るね。
おみやげ、楽しみにしてるように!


45 名前:おかえりなさい 投稿日:2006/11/15(水) 23:54

開いたメールは、ごくごく短いもの。
スタッフの誰かからパソコンを借りたのか、ホテルのパソコンなのか。
練習や打ち合わせやイベントで、きっとすごく忙しいはずで、
普段なかなか時間の合わない親友に捕まってもいるだろう彼女の。
他愛のないメール。

―――…迷惑なんてかけてませんよぉ。

楽しそうな表情が浮かんでくるようなからかい口調に、口には出さずに反論する。
――かけてない、はず。たぶん。…うん。

こくりと小さく頷くと、眼鏡越しの視界でまだ乾ききっていない髪先が揺れた。

46 名前:おかえりなさい 投稿日:2006/11/15(水) 23:55


『もー、また乾かさないで出てくるー。髪傷むってば』
髪を覆うタオルに触れる手の温度と。
『村っち、バッグ。すぐ置きっ放しにするー』
背中から追いかけてくる足音。

日常に欠けたピースの輪郭をぼやかすように、触れずにいたパソコンの白い色は。
けれど、その輪郭を際立たせてること。気付かないフリで、本当は知ってた。


だって。

――身体中に広がる心地良い疲れと高揚感と、充実感は。
時間の殆どを、頭の中の殆どを埋めても。
それでも。身体中を、頭の中全部を、満たしてはくれない。


『おかえり』

―――そんな何気ない、何でもない一言が足りなくて。

『ただいま』

あたりまえみたいな、何気ない一言が。たった一言が。
けれどすごくしあわせだ、って、教えてくれるひとのことを。
そんなしあわせなことを、こんな風に。あたりまえみたいにくれるひとのことを。


…彼女のことを、考えてた。



47 名前:おかえりなさい 投稿日:2006/11/15(水) 23:56


ふ、と、息をつくように、村田の口許に笑みが浮かぶ。
画面に映る、いつもどおりの口調。
ずれた時間と遠い距離の向こうで、彼女も笑っていただろうか。


離れて過ごす、他の誰かにとってはきっとほんの少しの、時間が。
全然寂しくないって言ったら嘘になるけれど。
お互いに充実した時間を過ごしていて。

離れていても。
お互いのことを考えながら過ごしてる、って。
彼女が教えてくれたこと。


どんな風にしたら、話したら。
伝えられるのか、分からないけれど。

彼女が帰ってきたら、いつもどおり。あたりまえみたいに。
『おかえり』って。そう言おうと決めて。
ちゃんと髪を乾かそうと、村田はゆっくりと席を立った。


48 名前:おかえりなさい 投稿日:2006/11/15(水) 23:57


END.
49 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/15(水) 23:58

お付き合い下さった方、ありがとうございます。
お目汚し、失礼いたしました。
50 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/11/15(水) 23:58

>>36 名無飼育さん さま
レスありがとうございます。
ご本人たちぽいと思ってもらえるのも、空気感を好んでいただけるのもすごく嬉しいです。
お二人のお話は、これからも書くと思いますので、またお付き合いいただけたら嬉しいです。

51 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/07(水) 00:34
もう書きませんか?
続きが見れたら嬉しいな。
52 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:17


すごく見慣れた光景だったから。
…あ。って。小さく声を洩らした自分の唇に、少しびっくりした。


53 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:17

「柴ちゃーん」

ハローのメンバーやスタッフさんでごった返す廊下の中でも、しっかり通るピンク色の似合いそうな声。

「柴ちゃん柴ちゃん、写真撮ろー」
「わーかった、わかったから、梨華ちゃん」

会うのも久しぶりなんだろう1コ年下の親友からのラブコール。
苦笑を浮かべてみせてから彼女の隣に並んだ柴田くんは、それでも何だか嬉しそうに彼女と言葉を交わす。
普段メンバーと一緒にいる時とは違って、ちょっと年上らしく見える横顔。
だけど、笑うとやっぱり幼くて。かわいいなぁ、って。自然と口許が緩んでしまう。

不意にくるりと振り返った柴田くんの片手には、ご自慢のデジカメ。
他の子とも撮るのか、ちょっと行って来るね、と唇で言って、空いた方の手を小さく振る。
にやけてるだろう口許を隠す暇もないまま、手を振り返して。


―――…あ。って、自分の唇がカタチを描いたのが分かった。


54 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:18

「若人は元気だわ」

楽しそうに言い合いながらぱたぱたと駆けていく二つの背中を見送りながら、隣の大谷くんが呟く。
私も大谷くんも、見送ったのは同じ光景。すごく見慣れた、後ろ姿。なのになぁ…?

「…えぇと…?」
「何よ、村っち。どした?」
「――あー…、うん、ちょっと。ムラタは飲み物を買ってきます」
「はい? いってらっしゃい」

怪訝そうな大谷くんの表情に見送られながら、自動販売機のある方へと足を向ける。
柴田くんたちとは反対の方向。
華奢な手がカメラを持っていない方の手を取って、ごくごく自然に手を繋いだ二人分の後ろ姿は、
もう曲がり角の向うに消えてしまっていたけれど。

別に、珍しい光景じゃない。
あの二人だけじゃなくて、仲のいい子たちが手を繋いでいるのなんて、ハローのメンバーが集まるコンサートの舞台裏ではしょっちゅうだ。

それなのになんで、あ、なんて口にしたんだろう。
なんで、ちょっと寂しくなんかなったんだろう。
どうした私。


うーん、と小さく頭を振って、ふ、と息をつく。
楽屋やメイクルームの並ぶ廊下から少し離れたところに置かれている自動販売機の周りは、
さっきまでの賑やかさに慣れたせいか、やけにひっそりしていた。


55 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:18

―――彼女の好きな薄いピンク色に彩られた指先が捉えた、濃い桜色の指先は。
昨夜、真剣な眼差しの下で染められたものだ。


丹念に塗り終えて指先を眺めた時には、嬉しそうな笑顔が隣で零れて。
あんまり満足そうに笑うから。何だか誇らしそうに笑うから。
誉めて欲しがってる子どもを見てる気分になって、ぽんぽん、て頭を撫でた。

一瞬、きょとんとした表情に見上げられて。
柴田くんの頭を撫でていた私の手は、桜色の咲いたその手に捕まった。
お?って思ってる間に、柴田くんが肩にもたれてくる。
その両手の中には、マニキュアも何もしていない手。

『村っちもする?』
『素の手はお気に召しませんか』
『そうじゃないけど』
両手に包んだ手をじっと眺めて、『…うん。私はきらいじゃない』
柴田くんはそこから視線を外さないまま。
表情はよく見えないけれど、声のトーンがやわらかくて、肩にかかる重みが心地良かった。
『それはそれは』
『うん』

56 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:19

何だか似たようなことを前にも話した気がする。
あの時は確かDVD用のカメラが回っていて、柴田くんはすぐに手を離したけれど。

昨夜は、そのまま。
珍しくなんかないはずなのに、じっと眺めてみたり、ひっくり返してみたり。
手のひらの上を桜色の爪が滑ったり、親指の肌が人差し指の輪郭をなぞったり。
柴田くんはしばらく手を離さなかった。まるで自分のものみたいに。

柴田くんの手が私の手に触れるのなんて、普段からよくあることだけど。
さすがに。指、とか。触られると、正直、変な気分になるのに。…押し倒してしまいたくなる、のに。

さんざん弄って気が済んだんだろう頃に、いつもしてるみたいに、指を絡ませて手を繋ぎながら。
ふと視線を上げて、はにかむように笑った柴田くんが。子どもみたいに無邪気で、どこか安心したような表情で。
すごく嬉しそうだったから。それだけで、十分で。
つられて笑って。そっと、繋いだ手を握り返した。


きゅ、と握ってくる手があったかくて。
自分の肌に桜色の花びらが散ってるみたいで、綺麗だな、って思った。


57 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:20



がこん。派手な音を立てて、ペットボトルのコーラが取り出し口に落ちてきた。
びく、と自分の肩が動いたのは、思いがけない音量のせいだけじゃないんだろう。

取り出し口から取り出したペットボトルが、手のひらの上で冷たい。
――とりあえず、飲んで落ち着こう。うん。

「……お?」

落ち着きたいのに、ペットボトルの蓋に邪魔される。――開かない。
握力が弱いとはいっても、自分では結構力を込めてるつもり、なんだけどなぁ。

2回目も頑張ってみても、…やっぱり開かない。
ここはひとつ、うちのペットに開けてもらおう、と、もと来た道を戻ることにする。


ペットボトルを片手に歩きながら、空いた手のひらを広げてみる。うっすら、赤い。
蓋を開けられないことは、たまにあるけど。
…メンバーと一緒にいる時は、開けてくれるから。

軽く握って、開いて。もう一度、軽く握って、手のひらを広げる。
今日も、素の手。たぶん、赤みはすぐに消えるだろう。


たくさんの笑い声や話し声の音量がだんだん大きくなってきて、手を下ろす。
下ろしながら廊下の角を曲がって、一瞬、足が止まりそうになった。
聞き慣れた、特徴のある笑い声。隣には、普段から特徴のある可愛らしい声。

ペットボトルを持った手のひらが冷たくて、反対の薄い赤に染まった手のひらが、少し熱い。

58 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:20

「―――あ、村っち」

梨華ちゃんと辻ちゃんと並んでる柴田くんと、目が合う。
小さく手を振って、――ちゃんと笑えている、はず。


―――二人が手を繋いだ瞬間に、あ、って思ったこととか。
ちょっと寂しい気分になったこととか。
柴田くんに話したら、何て言うだろう。

ヤキモチとはたぶん、ちょっと違っていて。
今更梨華ちゃんに、って柴田くんは笑うだろうし、自分でも今更、って思う。
…そうじゃ、なくて。


「村っち」
「ぅおっ?」
「そんな驚かなくても」

すぐ近くに柴田くんの声。
さっきまで彼女がいた辺りは、通りがかった年下の子たちが混ざって相変わらず賑やかだ。

59 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:21

「ん」

つい向けた視線を遮るように、やっぱり近くで柴田くんの声。
同時に差し出された、手のひら。

「…ん?」

どうして手を出されたのかわからなくて、首を傾げたら、柴田くんの手が私に向かって伸びてきた。
不意に、手の中から冷たい感触がなくなって。

ぺき、とペットボトルの蓋が開く音と、炭酸の抜ける小気味いい音が。
柴田くんの手の中で弾けた。

60 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:22

「はい」
「…ありがと、ぉ…?」

差し出されたペットボトルを受け取ると、柴田くんが、ふは、っておかしそうに笑う。

「え、な、なに?」
「何でわかったの、ってカオしてる」
「…ぅ。だ、だって」

―――メンバーと一緒にいる時は、…二人でいる時は、柴田くんが、開けてくれるから。
…開けてくれる、けど。だって、今は。

桜色の咲いた指先にちょいちょいって手招きされて、ほんのちょっとだけ身を屈める。


――…柴田くんのその手が、他の誰かの手に触れて、寂しくなったのは。
ヤキモチとかじゃ、なくて。


内緒話でもするみたいに、耳許に顔を近づけてきた柴田くんの手のひらが耳のそばに添えられた。
耳朶に、小さく息がかかって。

「―――…コイビトですから」


たったひとこと、小さな声。
もうすっかり熱も引いて、赤みも消えただろう手を、小さく握る。

61 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:22


君が自分のものみたいに触れて、安心したように笑ってくれるなら。
この手のひとつくらい、君にあげたってかまわなくて。

この手の温度も大きさも指の輪郭も、全部。
君のものだって言えるけれど。

だけど。
君の手は、私のものなのかなぁって、そんな風に思ったら。
自信がなくて、それがちょっと寂しかったんだ。


62 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:23


「ね」

耳許から離した唇の端を上げて。
悪戯がうまくいった子どもみたいに得意げに、だけどどこか照れくさそうに、柴田くんが笑う。

「……う、ん」
「なーにその間ー。違う?」

じ、と見上げられて、慌ててふるふると首を振る。
ちょっと意地悪してみたかっただけなのか、一瞬への字に曲げた唇がすぐにまた綻んで、ほっとする。

「ん。よし」

ぽんぽん、て前髪を撫でる、桜色を身に纏った柴田くんの手。
見上げてくる瞳が、満足そうに細められる。

63 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:24

「柴田ー、ちょっと」
「あ、はーい」

廊下の向うからスタッフさんに呼ばれて、柴田くんが振り返って。
髪から離れた桜色が舞う。

綺麗だな、って思って。
ゆっくりと前髪に手を伸ばす。
やっぱりもう手のひらは赤くはなくて。ペットボトルの中でコーラが揺れる。

あとでね、そう言いながら踵を返した柴田くんから、幼く見える笑顔が零れた。
つられるように笑って、背中を見送りながら。
ほんのちょっとだけなら、自惚れてもいいかな、って思った。


64 名前:手のひらの魔法 投稿日:2007/03/28(水) 22:24

END.

65 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/28(水) 22:25
村田さんと柴田さんでした。

お付き合い下さった方、ありがとうございます。
お目汚し、失礼いたしました。
66 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/28(水) 22:27
>>51 名無飼育さん さま
続きを読みたいと思って下さって、ありがとうございます。
本当に励みになります。
不定期極まりない更新ですが、これからも書かせていただきますので、またお付き合い下されば嬉しいです。
67 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/28(水) 23:15
お待ちしてました!!
相変わらずのほんわかした雰囲気が大好きです。。
68 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/04/16(月) 23:56
やさしくて、胸の奥からあたたかくなるお話し、ありがとうございました。
やんちゃっぽくある柴田さんですが。こうしてきちんと村田さんに特別の
位置を開けているのが、とてもほっこりした気持ちになりました。
69 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/18(水) 21:44
桜の季節に更新に気づけなかった、私が負けなのでしょうね。
色の対比が綺麗だなと、口元を綻ばせてみました。
言葉で結ばない、サクラ色の約束というところでしょうか。
次の彩も楽しみにしております。
70 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/10/07(日) 22:35

大変遅くなりましたが、更新の前に、レスのお礼をさせて頂きます。

>>67 名無飼育さん さま
お待たせしまして申し訳ありません。レスありがとうございます。
そんな雰囲気のお話を書きたいなと思いながら書いてますので嬉しいです。
村柴は、見ていてほのぼのしますね。

>>68 名無し飼育さん さま
こちらこそ、ありがとうございます。
柴田さんの中での村田さんの位置というか距離感は、他の人に対するそれとは違う感じがしますね。
見ていてこっちが恥ずかしくなるくらい。
そんな感じを少しでも表せたらな、と思いますので、これからも精進してまいります。

>>69 名無飼育さん さま
二人が言葉でなく紡いだサクラ色の約束が色褪せることのないよう、
桜の季節が過ぎても、いつの季節でも、目を通していただければそれだけで幸いです。
色の対比は作者の好みになりますが、お気に召して頂けて嬉しい限りです。
読んでいただく方の目に心地良い彩を添えられるよう、次回も頑張ります。



それでは、本日の更新にまいります。
その前に、一つご注意を。
今回のお話は、キッズがメインです。
キッズものが苦手という方は、スルーされることをおすすめします。

大丈夫、という方はお付き合いいただければ幸いです。
矢島さんと梅田さんのお話です。

71 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:38


ちょっと暑いくらいで、いつもと変わらない夏だと思ってた。
春と秋と冬と変わらずに、いつもの夏と変わらずに、隣で彼女が笑ってた。


72 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:38

「えり! えり!」

背中から、いつも通りの元気な声。
なんでか少しトーンは抑えてあったけど、誰の声かなんて、見なくてもわかる。

「…おー、舞美お疲れー」
「お疲れ! ねぇ、えり、この後空いてる?」

名前を呼ばれた瞬間に、肩がびくってしたのは、たぶん急に声をかけられてびっくりしたせい。
顔だけ振り向くと、もうすっかり着替え終わった舞美がにこにこと見上げてきてた。

「んー? この後?」
「うん。ごはん食べに行こ?」

いつもどおりに応えながらゆっくりと視線を手元に戻して。
タオルをバッグにしまおうとして、思わず手を止めた。
いま、何て?

「朝あんまり食べてこなかったからさ、お腹空いちゃって」

思わず体ごと向きを変えたあたしと、さっきと変わらない笑顔の舞美。

「――舞美のあんまり食べてないはけっこう食べてるよね」
「なにそれー、ひどくない? まぁそうだけど」

なんて答えていいか一瞬わからなくなって、からかうみたいになったあたしの言葉に、
ちょっとだけ拗ねてみせて、すぐに舞美は笑顔に戻る。
ぱって花が咲いたみたいなその笑顔に、少し離れたところから元気な笑い声が重なった。
舞美の肩越しに、着替えながらふざけあってる栞菜と愛理。
…あぁ、そっか。

73 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:39
「みんな何食べたいって?」
「ん?」

レッスンであれだけ動いたのに元気だなぁ、って。そりゃお腹も空くよね、って。
当然、他のメンバーも行くんだろうと思って、聞いたのに。
舞美はなぜか一瞬、きょとんとして。

「んー、今日はえりと二人がいいな、とか言って」
「はっ?」

思いがけず大きな声が出て、自分でも少しびっくりする。
別にそんなの、珍しいことじゃないのに。

「そんな驚くとこじゃなくない?」
「あ、うん、そう、そうなんだけど、なんかなんか」
「えり変なの。―――え、だめ? えり、忙しい?」

小さく首を傾げた舞美が顔を覗きこんでくる。
ちょっと寂しそうな、不安げな表情に、心臓が跳ねたのがわかって。

「ううん、だいじょぶ。いいよ」

頭で考えるより先に勝手に口が動いてた。
途端に、舞美の顔がぱって明るくなる。

「ホント? やった、えり大好き!」

舞美の嬉しそうな笑顔がすぐそばにあって。
どくん、て、また。心臓が大きく鳴った。……うわ。

「えり何食べたい?」

なにこれ。

「へっ? ――あ、えっと」

心臓の音、速い。

「――あ!」
「あ?」
「あたしレッスン室に忘れ物しちゃったかも。えりごめん、ちょっと待ってて! 何食べたいか考えててねー?」

くるくると表情を変えて、全部言い終わるか終わらないかの内に舞美の背中がドアの向こうに消える。
そんな急がなくていいよ、って言ったのはたぶん聞こえてない。
74 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:40

「えりかちゃん、お先ー!」
「…あ、おつかれー」

その背中が消えてすぐ、愛理と栞菜が元気に手を振ってるのが見えて、慌てて手を振り返す。
ぶんぶんと二人を見送った手をゆっくり下ろして。
置き去りにされてたタオルとかTシャツとかをバッグに詰め込んで、近くのパイプ椅子に座り込む。

机の上にあるバッグにぽすって頭を預けると、大きく息が零れた。
さっきまでうるさいくらいだった心臓の音が、少しずつ収まってく。



―――いつから、だろ。
二人でご飯を食べに行く。
そんななんでもない約束が、あたしに向けられる舞美の嬉しそうな笑顔が。
なんでもないこと、じゃなくなったのは。

舞美がだれかと一緒にいて楽しそうなのとか、あたしじゃない誰かに向けられた笑顔とか、が。
なんでもないことじゃなくなったのは。

だいたいいつも、舞美の周りには誰かしらいて、その真ん中で舞美はいつだって笑ってて。
それがいつもの光景だったのに。
なのになんか見てたくなくて。

だからいつのまにか、自然と見ないようになって。
なるべく仕事以外で舞美と二人だけにならないようになって。
どのくらい、経ったかな。
どうしたんだろう、あたし。…どうしたら、いいんだろう。


75 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:41

外に出ると、目が痛いくらい空が青くって。
夏の温度に、軽くめまいがした。



「あ! えりえり!」
「え? …ぅ、わっ?」

隣を歩いてたはずの舞美の姿が急に横から消えた、…のと同時。ぐん、て腕を引っ張られた。

「え、ちょ、まい、舞美っ?」

早足で歩いていく舞美の腕の中にしっかりと抱え込まれたあたしの腕。
あたしが力で舞美にかなうはずもなくって、そのまま。

「プリクラとろ? プリクラ」

ずるずる連れてかれたのは、ずらっと並ぶプリクラの機械たちの前。
ゲームセンターの中はがんがん効いてる冷房のせいで寒いくらいなのに、
早足で歩いたせいか、掴まれたままの腕が熱くて。

「えり、えり、ここでいい?」
「…う? あ、うん」

どれがいいとか、頭回んない。
舞美に引っ張られるままカーテンをくぐると、やっと腕が解放された。
ほっとして息をつく隣で舞美が財布を開いてるのが見えて、慌ててあたしも財布を取り出す。
差し出されたお金を受け取りながら、舞美があたしを見上げて、不意にふわって笑った。

76 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:41
「えりとプリクラとるの久しぶり」
「そー、だっけ?」
「そうだよー」

機械の中に硬貨が落ちる。

「なんか、うれしいな」

そう言う舞美の声はホントに嬉しそうで。
見慣れたはずのその横顔は、なんでかすごくきれいに見えた。

「――えりどうする? えりー」

ペンを片手に操作する舞美に呼ばれて、慌ててパネルをのぞき込む。
―――て、…あたし今、舞美に見とれてた?
まさか、ってぶんぶん頭を振ったら、すぐ近くで小さく笑い声がこぼれた。

「何してんのー」
「う、や、なんでもない。――そんなことよりプリクラ!プリクラ撮るよ撮るよ〜!」
「テンション高いよー、えり」

心なしか顔まで熱くって、ごまかすみたいに少し大きな声を上げる。
それがおかしかったのか、あたしの隣で、舞美はやっぱり笑ってた。

77 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:41

余計なことは考えないようにして、プリクラ撮るのに集中して、変顔してみたり、ふざけたりしてたら。
あっという間に、最後の一枚。

「えり、えり」
「ん?」

呼ぶ声と一緒に、舞美の手が伸びてくる。
途端に。心臓がどくって大きく鳴った。
やわらかなせっけんの匂いと。あたしの腰に回された舞美の腕。

舞美は相変わらず隣でにこにこ笑ってる。
舞美の体温と匂いと。こんなにすぐそばにそれがあるのは、やっぱり久しぶりな気がした。

心臓を打つ音が速くて痛いくらいだったけど、
ほとんど力の入ってない舞美の腕を外すのは、今度はきっとあたしの力でもできたけど。
できなくて、したくなくて。

なんでもないふりで、ピースつきのポーズをとってカメラを見た。
瞬間。機械がシャッターを切る。


78 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:42


「――――………え?」

シャッターが切られた瞬間、に。
頬に触れた、あったかくてやわらかい感触。

「えり、行こ?」

らくがき用のスペースに移動する舞美の後にふらふらとついていきながら、思わず頬に手を当てる。
…いま。今の、って。

「どれにしよっか。――あ、これ、えりかわいー」

プリントする写真を選ぶ舞美の手元にあるパネルには、さっき撮った写真が全部並んでる。
その中の一枚は。最後の一枚は。

「えりー? あたし選んじゃうよ?」

さっきの感触は、やっぱり気のせいじゃない。

79 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:42
「えり、どうかした?」
「ど、どうって、舞美…っ」

舞美あたしの頬にキスしたじゃん。
証拠今まさにそこにあるじゃん!

いろいろ言いたいことはあるのに、上手く言葉になんない。
なんかもう、顔熱いし。

「――って、舞美それ…っ」

不思議そうな顔をして、でも手を止めない舞美がその一枚を選ぶのに、何の迷いもなかった。

「え、だめ?」
「だめっていうか、だめ…―――だめなの、かなぁ?」
「えりに聞いてるのにー」

きょとんと見上げられて、だめとかだめじゃないとか、よくわからなくなってくる。
あたし、なんでこんなにどきどきしてるんだろう。

「やだった?」
「え? …あ、や、」
「えり、やだった?」
「―――……う、うれしかった、けど」
「なら、いいじゃないか」

じっとあたしを見上げてた舞美の頬がふって緩んで、嬉しそうに笑う。「―――あ、えりほら、時間ないよー」

らくがきする時間のカウントと舞美の声に急かされて、慌ててペンを握る。
自分でも何を描いてるのかよくわかんなくて、心臓の音はまだ速いままだった。


80 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:43


プリントされるのを待ちながら、隣に視線を向ける。
それに気付いたのかどうなのか、急に舞美が顔を上げて、目が合う。
ん?って声には出さないで首を傾げたその唇に、自然と目が行って、自分でもどきってしたのがわかった。

「えり何か顔赤くない?」
「え、うそ」
「ほんと。えりだめだよ、やっぱ日焼け止め塗んないと」
「…や、それなんか違う、気がする」
「そっかなー、だってえりせっかく肌白いじゃん?」
「や、そうじゃなくて。―――あーの、ね? 舞美さ」
「ん?」
「さっきさ、さっき、―――…あー…もう! やっぱいい。なんでもない」

まっすぐすぎるくらいまっすぐに目を見上げられて、何も聞けなくなる。
普段だって抱きついたりするし、仕事で写真撮る時だって頬くっつくくらい近付くし。
あたしが気にしすぎなだけで、舞美がそうしたのに、特に意味はないのかもしれない。

「なんだよー。気になるじゃん」
「いいって」
「ほんとにー?」
「うん。いい」
「んー…ならいいけど。―――あ、そうだ、えり」
「はいはい?」
「さっきさ、もしかしてびっくりさせちゃった?」
「…え」
「させたよね? なんか、ごめんねっ?」

舞美の申し訳なさそうな表情の向こうで、プリクラが落ちる小さな音がした。

今もびっくりして動けないでいるあたしの横で、舞美が取り出し口からそれを拾う。
取り出したプリクラを手に振り返った舞美は、嬉しそうに手許を見てから顔を上げた。

81 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:44

「さっきね、これ撮ってた時さ?」
「…うん」
「なんかね、えりの匂いしたのね?」
「なにそれ…」
「だってしたんだもん」

ちょっとだけ恥ずかしそうに、舞美が笑う。
…どうしよう。

「えりがこんな近くにいるの久しぶりだなって思って、そしたらなんか、うれしくて。キスしたくなったの」
「…わけわかんないし」
「わかってよー。あたしもよくわかんないけど」
「もっと意味わかんないし」

顔が熱くて、どうしたらいいかわかんない。
舞美は笑ってるけど、あたしも笑ってたかったけど、なんでだか泣きたくなって。
声が上擦るのを抑えるので精一杯だった。

「それもそっか。―――まぁ、あれだよ、えり」
「どれよ」

ふと言葉を切った舞美の目許がゆっくり細められる。

82 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:45

「―――最近ずっとさ、えり元気なかったじゃん?」
「…まい」
「なのになんか、えりとちゃんと話す時間なくってさ。えりもあたしになにも話してくんないし」

見慣れたはずの笑顔が、やわらかくて。なのにちょっと寂しそうで。
喉がふさがれたみたいに息苦しくて。
そうじゃないんだよ、って言葉ひとつ出てこない。

「近くにいるのに、なんかえりが遠くにいるみたいでさ、なんか寂しくて」
「舞美」
「だから今日さ、一緒にいて、えりが隣にいてね? すっごいうれしかった」

…話す時間がなかったのは、あたしが舞美と二人になるのをそれとなく避けてたからで。
元気なかったのは、舞美のこと考えてたからなんだよ。
だけど舞美に話したくなかったわけじゃなくて、舞美と一緒にいたくなかったわけでもなくて。

「えりが元気ないと心配だし、あたしも寂しいし。何かあったらさ、話してほしいな、とか」

頼りないかもしんないけど、一応これでもリーダーだしさ? って。舞美は少し照れくさそうに笑った。
その笑顔に、胸の奥がぎゅうって締めつけられる。

83 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:45

「―――…最近のは、…ほら、暑かったから、ちょっと夏バテしてただけだよ」

―――…あぁもう。まいった。
あたしはきっとずっと、舞美にはかなわない。

「そっかー…。最近忙しかったしね。だいじょぶ?」
「…ん、もう、だいじょぶ」

本当の理由は言葉には出来なかったけど、それは本当で。
もう、大丈夫。

「よかった。―――よし、じゃあ、たくさんご飯食べなきゃね」
「うん。舞美」
「ん?」
「ありがと」
「やー、あたし結局なにもしてないし」
「んーん。―――…あたしも、舞美が隣にいるの嬉しかったし」
「や、やだもー、なんか照れんね。―――あ、あたしこれ切ってくるね?」

ちょっとごまかすみたいにプリクラを持った手をひらひらさせて、舞美がくるりと背中を向ける。

背中を向ける前に見せた舞美の笑顔は、すごく嬉しそうで。
その笑顔を、抱きしめたいって、思った。


84 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:46


舞美の寂しそうな表情を一瞬だって見たくなくて。
舞美の嬉しそうな顔が嬉しい、とか。
悔しくなるくらいどきどきする、とか。
…ひとりじめしたい、とか。

どうしようもなんか、なくって。


85 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:46
「はい、えり」
「あ、ありがと」
「行こ? ホントにお腹空いちゃった」

舞美と並んで歩きながら、手渡された半分こしたプリクラに視線を落とす。
自然と、口許が緩んでくのがわかった。

変顔してても、ふざけてても。
プリクラの中の舞美は嬉しそうで。その隣にいるあたしは幸せそうな表情してる。
舞美にキスされてる写真だって。



…あぁもう、ほら。
どうしようもなんか、ない。

あたしは舞美が好きだって。隣にいてほしいって。
ただそれだけだってこと。
…ほんとはさ、わかってたんだよ。


86 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:47

じわ、って頬に熱が集まる。
自動ドアをくぐって外に出ると、相変わらずの強い陽射し。
頬が熱いのは夏の暑さのせいにすることにして、一瞬、空を見上げた。

「―――…あ、やっぱこれえりかわいー」

そんなことに気付きもしないんだろう、隣では舞美が同じようにプリクラを眺めてる。
ね? って舞美がなぜだか少し得意げに、あたしを見上げてくる。
ただそれだけの、見慣れた仕草だったけど。それが隣にあるのが嬉しくて。

「――…舞美が一番かわいいよ」

やっぱり頬は熱いままで、少し照れくさかったけど。ホントの気持ち、素直に言えた。
やだもう、って。軽く腕を叩かれる。

舞美が笑ってたからか、夏の陽射しのせいか、わかんないけど。
なんだか眩しくて。あたしはそっと目を細めた。


87 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:48


隣で彼女が笑ってる、いつもと変わらない夏だった。
彼女を抱きしめたいと知った、初めての夏だった。


88 名前:めぐる季節 投稿日:2007/10/07(日) 22:48

END.
89 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/10/07(日) 22:48

矢島さんと梅田さんでした。

お付き合い下さった方、ありがとうございます。
不定期極まりない更新ですが、またお付き合い頂ければ幸いです。
90 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/10/07(日) 22:49

91 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/10/09(火) 01:44
矢島さんが爽やかすぎる…
それが逆に恥ずかしい私はダメな大人でしょうか
やっぱり作者さんのお話好きですよ
92 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/09(日) 03:22
>>91 名無飼育さん さま
レスありがとうございます。
ダメな大人の作者の中の矢島さんは爽やかすぎて、恥ずかしいを通り越して感心するくらいなので、
それが伝わったようで良かった…のかわかりませんが(苦笑)嬉しいです。
そして話を好いてもらえるのが何より嬉しいです。
またお付き合いいただけたら幸いです。


更新します。
短いですが、やじうめをひとつ。
93 名前:10pの領分 投稿日:2007/12/09(日) 03:23


これだけは絶対、誰にも譲れないんだ。


94 名前:10pの領分 投稿日:2007/12/09(日) 03:24


「あ、でもホント、舞ちゃんおっきくなったねー」
「舞美ちゃん、なんかおばさんぽーい」
「なんだとぉー」

抱き上げられてた舞ちゃんの身体が、舞美の身体ごとぐるりと一回転する。
きれいに筋肉のついた細い腕は、丁寧に腕まくりまでしてある。

「あぶないじゃん、おねーちゃぁん」
「そんなこと言う子に育てた覚えはないぞー、いもうとぉ」

舞美の首にしっかりしがみついて、文句を言いながら、だけど楽しそうな舞ちゃんの笑い声。
舞ちゃんのおでこをじぶんのおでこでぐりぐり押しながら、叱るふりで、舞美も笑ってる。


…顔近いよ、って。
思わず尖ってしまった唇をごまかすみたいにペットボトルに口をつける。

別にお姫さまだっこがうらやましいとか、そういうんじゃないけど。
舞ちゃんがだっこされてるのとか、素直にかわいいなって思うけど。

95 名前:10pの領分 投稿日:2007/12/09(日) 03:24

こくん、て喉を通っていく水が冷たい。


舞ちゃんを下ろした腕は、いつのまにかしっかりと栞菜の腕に抱えられてる。
もう片方の腕は、舞ちゃんの肩の上。


にぎやかな声を聞きながら、背中をつけた壁に頭ごと預ける。


小さな身体を包みこむように抱きしめる腕も、「お姉ちゃん」の優しい笑顔も。
年下の子たちの特権だってわかってても、大人げないってわかってても。
舞美のだから。舞美、だから。
いとしくて、だからすこし、さびしくなる。

ウチには向けられない表情だから。
ウチの知らない、腕の感触だから。

96 名前:10pの領分 投稿日:2007/12/09(日) 03:25


「――えり?」

隣に立った舞美の、声。
不意に聞こえてびっくりしたのに、いつだってその声はウチの耳に心地いい。

「なんかぼーっとしてる。疲れちゃった?」
「んー、だいじょぶ」
「そ?」

――ウチが知ってるのが、舞美の全部じゃないんだ、なんて。
みんなより、よっぽどコドモみたいな独占欲。

「舞美」
「ん?」

舞美はきっと考えもしないんだろう。
きょとんと見上げてくる瞳は、凛として澄んだ色。

「舞美ー」
「なんだよー、えりー」


ウチは舞美が思ってるよりきっと、自分で思ってるよりずっと、たぶんコドモで。
ウチは舞美が思ってるよりずっと、自分で自覚してるよりきっと、舞美のことが好きなんだ。


ふふって笑ってる舞美の腰に腕を伸ばす。


ウチの名前を呼ぶ声は、いつだってウチだけのもので。
それを腕の中に閉じ込めてしまいたかったのかもしれない。

97 名前:10pの領分 投稿日:2007/12/09(日) 03:25


「舞美ちゃんっ」

触れかけた手を止める。
代わりに舞美の腰にぐるりと回されたのは、舞ちゃんの小さな手。

「おぉ、舞ちゃん、どしたー?」
「宿題教えてー」
「え、あたし?」
「うんっ。えりかちゃんも」
「ウチ?…は、わかんないんじゃないかなぁ」
「小学生のだよぅ」

大丈夫だってー、って笑う舞ちゃんの頭を舞美の手がぽんぽんと撫でる。
飛びつかれてすぐ振り向いた舞美は、ウチの思惑になんて気づいてないんだろう。

にこにこと見上げてくる舞ちゃんの大きな瞳と、それを見下ろす舞美の細められた瞳。

ふと舞美と目が合う。
やわらかな、表情。
…自分でも単純だと思うけど。つられるように、口許が綻ぶのがわかった。

「舞美助けてよー?」
「えー、えりが助けてよー」

自分に向けられてたわけじゃないその表情が。
舞美のだから。舞美、だから。
すこしさびしくて、だけど、いとしかった。


98 名前:10pの領分 投稿日:2007/12/09(日) 03:26

「はい、決まりー」

嬉しそうな声を上げて、舞ちゃんが荷物の置いてある方に向かう。
舞美と並んで、その小さな背中について歩き出す。

ちょん、て舞美の手に呼ばれた気がして、隣に顔を向ける。

「―――…で」
「え?」

舞美にしては珍しく、小さな抑えた声。
なんだろって、一瞬足を止めて、舞美の口許まで、耳の位置を少し下げる。

舞美がくっと顎を上げたのがわかった。

「…あとでちゃんとぎゅってしてよ」

へへっ、て照れくさそうに笑った舞美の姿が、立ち止まったままのウチの隣からするりといなくなる。
そのまま舞ちゃんの隣に立って、手をつないだのが、見えた。

99 名前:10pの領分 投稿日:2007/12/09(日) 03:26


――舞ちゃんの頭の上10cmの、内緒話。
たぶん、他の人には、舞ちゃんにも聞こえないくらいの、小さな声。

舞美のことだから、絶対気づいてないと思ったのに。
その背中を追いかけたウチの視線を、舞美が振り返る。確かめるみたいに、ね?って小さく首を傾げて。

それはほんの一瞬で、すぐに舞美の視線は舞ちゃんの方へと移ったけれど。
その一瞬で、それだけの仕種で、十分で。
自分の頬が緩むのを抑えられないまま、ウチは舞ちゃんの隣に並んでその手を取った。


100 名前:10pの領分 投稿日:2007/12/09(日) 03:27


…きっと、舞美はウチを抱き上げられはしないから。
その舞美の腕の感触をウチは知らなくて、だけど。

抱きしめた時にウチの腕に預けられる重みを、知ってる。
肩にこてんと乗せられる頬の温度も。



覗き込むように見上げてくる瞳の色とか、低いところから聞こえてくる声とか。
今はまだ、舞美よりちょっとだけ背の高いウチの特権。

いつか、どんどん大きくなってる舞ちゃんや愛理が、舞美の背を越しちゃって、
それも独りじめできなくなっちゃう時が来るかもしれない。

舞美の身体を包み込むように抱きしめられるのだって。


だけど。
身体だけじゃなくて、ちゃんと。
身体ごと、ちゃんと舞美を包んであげられるようになりたいから。

この肩に預けられる重みだけは、絶対誰にも譲れないんだ。


101 名前:10pの領分 投稿日:2007/12/09(日) 03:27

END.
102 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/09(日) 03:28
矢島さんと梅田さんでした。

お目汚し、失礼しました。
103 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/09(日) 03:29
 
104 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/10(月) 03:04
作者さんは私を胸キュンさせっぱなしですよ…。
これからも楽しみにしてまね。
105 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/16(日) 18:23
梅さんかわいいいい
106 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/02/22(金) 23:45
更新します。
大変申し訳ないのですが、レスへのお礼は後ほど。

柴田さんのお誕生日ですので、村田さんと柴田さんのお話をひとつ。
とはいえ、誕生日に関係のある話でなく申し訳ないのですが。

※お付き合いくださる方は、先に、メロンさんのラウンジブログ、2/6・7、12の記事を読まれることをオススメします。




107 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:48
 
108 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:49


「忘れ物ない?」
「んー、大丈夫」

背中からの声に応えながら、手許のバッグの口を閉じて立ち上がる。
時間もまだ余裕あるし。時間を確認した時計から視線を移して、次の瞬間、柴田の口許に苦笑が浮かんだ。

――大丈夫じゃなかったかも。
目に付いた自分のコートの袖を手に取って、つい、そう呟きそうになる。
きちんとハンガーにかけられた黒いコートは、ボタンが取れているわけでも、綻びているわけでもないけれど。
手にした袖口と見上げた襟元とが、白く染まっていた。

つい昨日のことだから、覚えているのは当然だけれど、忘れてしまえるなら忘れてしまいたいくらいの恥ずかしさで、自分の頬が赤くなっていくのがわかった。

109 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:49


たぶん、とにかくはしゃいでいたんだろう、と思う。
サッカー日本代表の試合を生で見られることと、店先に並んだたくさんのおいしそうな食べ物と。
さんざん悩んで、チャーシューのたくさんのったラーメンを買って、外では雪が舞うくらいの寒さだったけれど、手にした器とそこから立ち上る湯気があったかかった。
その時までは、無邪気にはしゃいでいられたのに。

コショウをかけようと、その置いている場所へ小走りしたのがいけなかったらしい。
走り出した次の瞬間、つるつるした床に足を取られて、それはもう見事に、派手に。転んだ。
手にしていたラーメンと一緒に。たくさんの人の前で。

110 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:49

コートの袖口と襟元は、その出来事の立派な証拠で。
生地の黒を白く染めるのはそこにかかったスープの脂。

声をかけてくれたおじさん達とか、布巾を差し出してくれたおばさんとか。
そういう人のあったかさを感じられた出来事でもあったのだけれど。

試合を見ている最中はすっかり忘れていられたけれど。思い出すとやっぱり恥ずかしい。
頬を両手でぎゅっと押さえると、手のひらがじんわり熱を持った。

「柴田くん?」
「はーい…」

怪訝そうな声に呼ばれて上の空で返事をしながら、白い袖を軽く揺らす。
昨夜帰ってきてすぐ、衣類用の消臭剤をたっぷりと吹きかけてもらったおかげで、ラーメンの匂いこそだいぶ薄れたけれど。
これを着て一人で電車に乗るのは、なかなか勇気が、いる。

「あゆみー」

――やっぱりまっすぐ自分の部屋に帰ればよかったかなぁ、と柴田は小さく息をつく。
でも、前から泊まるって約束してたし、荷物だって置いていってたし。

「柴っちゃーん?」

夜の方が電車混んでるだろうし、途中から一人になるのは変わらないし。
…それに。

111 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:50

「おーい、ガチャ…あ、いや、柴ちゃ」
「――今何か言った? 村っち」

聞き流せない言葉に思わず振り返る。ほんの少し、怒ったふりを声に乗せながら。
けれど、彼女にそれを気にする様子はなく。

「だって、柴田くんこっち向いてくれないんだもん」
「理由になってないから」

それどころか何だか楽しそうな表情が返ってくる。
本気で怒ってるわけじゃないから、別にいいんだけど。
何となく悔しいのは、自分が負けず嫌いだからだろうか。

「ちょっと考え事してて―――」

言いかけて、彼女の手許に視線を止める。
首を傾げながら見上げると、声には出さずに、ん?と訊かれた。

「村っちももう出かけるの?」
「え?」
「約束、お昼過ぎって言ってなかったっけ。まだ早くない?」
「うん、私はまだ出かけないよ?」
「え、だって」

それ、柴田が指差した村田の手許には、彼女のものと思しきコート。
昨日着ていたものとは違うけれど、今日はそれを着ていくんじゃ、ないんだろうか。

112 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:50

「ん? これは柴田くんの」
「…私?」
「うん。はい」

手渡されたコートを受け取りながら、けれど柴田の傾げた首の角度は戻らない。
自分の、と言われたそれは、だけど確実に、彼女のものだ。

「良かったら、だけどね?」
「うん?」
「これは着ていけないかなぁ、って、だから」

細長い指先が示すのは、ハンガーにかけられたままの黒いコート。
その口許に、けして揶揄ではない柔らかな笑みが浮かんでいるのを見つけて。
柴田は手にしたコートをきゅ、と握った。

上着貸して、ってそう一言言えばよかったのに。
思い出した出来事で頭がいっぱいで、考え付かなかった。
…あぁ、と柴田は小さく息をつく。



――昨日も、そうだったっけ。
転んで、たまらなく恥ずかしくてどうしていいかわからない自分の傍で、彼女は冷静にフォローしてくれて。
すごい経験しちゃったねぇ、なんて、いつもの口調で笑い飛ばしてもくれて。

怪我がなくてよかった、って、本当に安心したように言いながら。
小さい子どもにするみたいに頭を撫でてくれた笑顔が優しくて。

一緒にいたのが、彼女でよかった、って。
一緒にいたいなぁ、って。…帰りたくないなって、思ったんだ。


113 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:50


「――ありがと、村っち」
「どぉいたしましてー。あ、他のが良かったら言って? それが一番柴田くんのに似てたんだけど」
「うぅん、これで大丈夫」
「なら良かった。――この子は、どうする? 連れて帰る?」
「この子、って…。うん、持って帰ってクリーニングかな」

ハンガーに手をかける村田の横顔を見上げながら、柴田は手渡されたコートに袖を通した。

―――ふわり、と身体を覆う感覚。

「…なんか」
「んー?」

コートをたたみながらのんびりと応える声が、襟許をめくってみたり、袖口を引っ張ってみたりする柴田の手の動きに重なる。

114 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:51

「…村っちの匂い、する」
「――…はい?」
「うん、する」
「村田の匂い、ねぇ…」

取り落とされそうになったコートがきちんと紙袋に入って、柴田の荷物のそばに置かれる。
ありがと、と見上げたはずの声が、その向かう先を自分の襟許に見つけて。
その思いがけない近さに、一瞬、息を飲んだ。

「――ちょっ…村っち近い!」
「…よく、わかんないんだけど」
「へ…?」
「村田の匂い?」

身体を起こした村田が小さく首を傾げる。
何か匂いするかなぁ。
不思議そうに自分の二の腕に鼻を寄せる姿は何だか大きな犬みたいで。
ふ、と柴田の口許が解けた。

「…でも、するよ? 村っちの匂い」
「そう、なの?」
「うん」

そっか、とだけ言って、少し照れくさそうに村田の指先が自分の頬をかく。
いつも決まった香水をつけているわけでもない彼女の、昨夜借りたシャンプーのそれとも違う、微かな、けれど確かに彼女の匂い。
―――何だか、と思う。


115 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:51

「――あ、…じゃあ、柴田くんも何か置いていきますか」
「え?」

唐突な提案に、コートのボタンを留めようとしていた手が止まる。
不思議そうに見上げた視線を受け止めた口許は柔らかな曲線を描いていた。

「何かそんな風習とか習慣とか、なかったっけ」
「初めて聞いたけど。昔の話?」
「えぇと、ね――…平安時代くらい?」
「昔過ぎますねぇ、村田さん…」

いつか読んだ本に書いてあったというその話は。
夜を共にして契りを交わした翌朝に、お互いの着物を交換する、というもの、らしい。

「着物かぁ…」
「着物っていうか、下着だったみたいだけど」
「下…――って」

さらりと言われた言葉を反芻しようとして、代わりに先刻の村田の言葉がよみがえる。
柴田くんも何か。
そのほんの一瞬で、全身の熱が頬に集まったのがわかった。

116 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:52

「―――やだ。絶対やだからね?」
「ぜったいって…―――や、あの、あれ、下着なのは昔の話だから!」

柴田の熱が伝染したかのように、一瞬きょとんとした村田の頬まで薄らと染まる。
そういう意味で言ったんじゃないよ、と焦る声をじっと見上げて、柴田は自分の頬を両手でぎゅっと押さえた。
自分が身につけたコートの袖口がその目に映る。

「――…コートと交換、ってことだよね?」
「ぅ、あ、そぉだけど、ちょっと思い出しただけだから、いやだったら」
「…下着はやだけど」
「だっ、だから。それは違うって」

少しだけ声を上擦らせた村田の困り顔が柴田を見る。
その表情は、実は柴田のお気に入りだったりもするのだけれど。
その頬こそまだほんのり赤いままだったから。
それに免じて、それ以上イジワルを言うのはやめてあげることにした。

117 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:52

「――じゃあ、何がいい? 村っちだったら」

予想外の質問だったのか、答えの代わりに、うーん、と声と視線が落ちる。
時間にしたらきっとほんの数秒だけれど、あまりにじっと見つめられたせいで、時間が止まったような気さえした。

均衡を揺らしたのは、柴田のコートにすっと伸ばされた細長い指先。
それが器用にコートのボタンをかけていく。

「私だったら」
「うん」

普段はそんなに器用ではない部類に入るんだろう彼女の指先が、滑らかに動く。
すらりと伸びた白く細長い指のしなやかな動きに、目を、奪われる。

118 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:52


「…あゆみ本人がいいなぁ」

ぽつりと、けれどはっきりと落ちてきた答え。
月並みなような思いがけないようなその言葉は、それでも柴田の頬を染めるには十分で。

「…村っちが言うとなんかやらしい」
「なっ」

それをごまかしたくて、からかうような言葉を紡ぎ出すのにも十分で。
やっぱり困った顔をした村田を、その口調とは裏腹に照れくさそうに解けた口許が見上げた。

「…ていうか置いていけないじゃない」
「そぉなんだけど」
「昔だって、朝帰る時だったんでしょ?」
「みたい」

ボタンを留め終えた村田の手は、けれど柴田の身体を包むコートの上に留まったままだ。
柴田の口許から、息をつくようにそっと、笑みが零れる。


119 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:53


―――遠い昔の、その儀式がどんな意味や由来を持つのかなんてわからなくて。
もしかしたら、単なる風習でしかなかったのかもしれないけれど。

こんな、風に。
ただ単純に、好きな人の匂いに包まれていたかったんだろうか。
離れていても、その人を傍に感じていたかったんだろうか。

時間とか、距離とか。恋人たちの隙間を縫うように、電話とかメールは進化をしたのかもしれないけれど。
だけど。


120 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:54

「――柴田くん?」

コートの上の手を柴田の手が取る。
軽く引き寄せると、さして力は込めていないのに、二人の間にあった隙間が埋まった。
身体を包む、彼女の体温と彼女の匂い。

「…柴田くんの匂い」

耳許で聞こえる声と頬をすり寄せてくる感触。くすぐったくて、少し身じろぎする。
大きな犬に飛びつかれているみたいな気分になって、思わず頬が緩んだ。

「ワンちゃんみたい、さっきから」
「わん」
「…かわいくなーい」
「…精進します」
「しなくていいから」

笑う声が柔らかく触れる薄茶色の髪に紛れる。
その香りがふわりと鼻孔をくすぐって、柴田は一瞬だけそっと瞼を伏せた。

121 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:54


――どんなに進化したって、電話やメールじゃ、匂いや体温はわからなくて。
こうして傍にいられる時間が。
服や身体に微かに残る香りが。
ただそれだけのことが、けれどたまらなく恋しいと。そう思うのは、今も昔も、変わらないのかもしれない。


122 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:55

「――村っち」

とん、と軽く細い肩を叩くと、顔を上げた視線が柴田の瞳に触れた。
ほんの少しだけ空いた距離を埋めるように、くっと柴田の顎が上がる。

――そっと触れ合わせて、交換した唇の温度。
やわらかなその熱が、呼吸に刻み込まれてコートの上を滑り降りる。

「…今はこれで我慢してよ」
「あゆみ」

まっすぐに村田を見上げる、強気ともとれる視線と口調と。一緒に零れた照れくさそうな口許の綻び。
つられるように嬉しそうに解けた村田の口許が、うん、と肯いた。

自分の視線をきちんと見返してくる村田の視線。柔らかくて、何となくくすぐったくて。
そろそろ出かけなきゃ、と、柴田はくるりと踵を返した。

123 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:55

 
124 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:55


マンションのエントランスを潜って外に出ると、冷たい風が頬を撫でていく。
思わず肩を竦めると、頬に暖かい感触が触れた。

――風邪ひかないように。そう言って、首に巻かれたマフラー。
ふわり、と。やわらかな匂いが、鼻孔を掠める。


――何だか、と思う。
コートもマフラーも、纏う香りはほんの微かなのに。
何だか彼女に抱き締められているみたいな気が、する。

そう言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
マフラーに埋めた口許からそっと笑みが零れ落ちて。微かな香りの中に溶けた。


125 名前:冬の匂い 投稿日:2008/02/22(金) 23:56

END.
126 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/02/22(金) 23:57
ぎりぎりになってしまいましたが、柴田さん、お誕生日おめでとうございます。


お付き合い下さった方、ありがとうございます。
127 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/02/23(土) 00:06
遅くなりましたが、レスへのお礼を。

>>104 名無飼育さん さま
嬉しいお言葉ありがとうございます。
これからもそう思ってもらえるよう、精進したいと思いますので、
またお付き合いいただけたら嬉しいです。

>>105 名無飼育さん さま
レスありがとうございます。
うめださんはかわいいです。
矢島さんを好きなうめださんは普段にも増してかわいい気がするので、きちんと描けるよう頑張りますので、またお付き合いいただければ幸いです。
128 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/02/23(土) 23:38
柴田さんと村田さんの、温かいお話をありがとうございます
ラーメンのエピソードは思わず笑ってしまったのですが
柴田さんにしてみたら物凄く恥ずかしかったんでしょうね
一緒にいたのが村田さんでよかったと私も思いました
129 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/02/28(木) 17:29
足の裏からかなり強いにんにく臭をさせていた村田なら体臭もきっと(r
( ‐ △‐)<好きな人の香りは落ち着きますからにぇ〜
130 名前:129 投稿日:2008/02/28(木) 17:31
↑村田さんのさんが抜けてしまいましたm(_ _;)m
131 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/04/27(日) 01:38

更新します。
遅ればせながらの「きゅーとでいず」DVDのお話で、やじうめをひとつ。
見ていない方には申し訳ないのですが、興味のある方はお付き合い下さると嬉しいです。

132 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:39


―――ねぇ、あなたに、ちゃんと伝わってるかな?


133 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:41


かくん、と隣で眠る小さな頭が、白く曇った窓ガラスの方へと傾いた。
その拍子に少し肩からずれ落ちた毛布代わりのコートを、そっと掛け直してやる。
バスの中に響くのは、道路の上に溶けた雪をタイヤが踏みしめながら走る音だけだ。

一日かけて行われたDVDの撮影。
思いがけない大雪に見舞われたせいで、大幅な予定変更があったりとばたついたりこそしたけれど、
雪で遊んでいいと言われたのにはメンバー全員、大はしゃぎだった。

関東でも雪が降るのはたまにあるけれど、見渡す限りの雪景色の中で遊ぶなんて経験はほとんどしたことがない。
遊んでいる間中も降り続ける雪なんてお構いなしに、全力で遊んで、かまくらをつくって、笑って。

そのせいなのか、朝早かったからか。
都心へと向うバスの中では、普段ならお喋りやゲームに夢中なのに、ほとんどのメンバーが気持ち良さそうに眠りについていた。

それを気遣ってか、前の方の席に座っているスタッフもマネージャーも言葉少なで、静かだ。
それとも、大人たちも疲れて眠っているんだろうか。

134 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:41

ふと振り返って、ふ、と自然と口許が緩むのがわかる。
自分だけ起きていてもつまらないから、本当は誰か一人くらい起きていて相手して欲しいのだけれど。
最後部座席に並んで眠る中学生組4人も、隣で眠る舞も、ひどく無防備で心地良さそうで。
その寝顔の可愛らしさに、そんな我が儘はあっさり姿を消した。


視線を前へと戻す途中で、その動きが止まる。

狭い通路を挟んで隣の一人がけの座席。
やっぱり同じようにコートを掛けて、眠る横顔が目に入った。

目に入って、何となく。
目を、離せなくなる。

額を流れる、最近切り揃えた前髪。
形のいい眉と、すっきり通った鼻梁。
薄闇の中でもはっきりとわかる、整った顔立ち。

きれいだなぁ、と思う。
見慣れすぎなくらい、見慣れているのに。
見惚れてた、って言ったら、彼女はどんな反応をするだろう。

135 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:42

――そう思ったら、無性に。彼女の声が聞きたくなった。

起きないかな。


願った瞬間。
彼女の髪が揺れて、どきりとした。

けれど、世の中はそんなに都合良くできてはいないらしい。
揺れた髪は、彼女の閉じた瞼を自分とは反対の窓ガラスの方へと向けてしまった。

…えりのばか。
彼女は欠片も悪くないのだけど。
起きろー。
声には出さないから、気付く筈もないのだけど。

ずっと変わらないタイヤが雪の道路を滑る音。
確かめなくても知っている柔らかな髪の上を視線が滑る。

136 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:42

――どうしてだか。
彼女への我が儘はそう簡単には姿を消さない。
もちろん本当に無理やり起こそうとは思わないけれど。

みんなが、彼女が起きるまであとどのくらいだろう。
同じように疲れている筈なのに、気分が高揚しているのか、こんな風に眠れないでいる自分の方が、
他のメンバーよりよっぽど幼いのかもしれない。


細い肩のラインを見遣って、小さく息をつく。
視線を前に戻しかけて、

「―――…昼の続き?」

少し掠れてひそめた声に引き戻されて、まだ重たそうな瞼に捕まる。
心臓が鳴ったのは、びっくりしたからだろうか。

137 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:42

「え、うそ、えり起きてたの?」
「…さっき、起きた」

応える声はまだ少し眠そうだ。「…そしたらなんか舞美がこっち見てんの見えたから」

ん、と指差されたのは窓ガラス。確かにうっすらと自分の陰が映っている。

「眠そう、えり」
「そっかな」
「まだ寝てていいのに」
「舞美は?」

ぐるりと後ろを振り返って、みんなが眠っているのを認めると、えりかの声のトーンがさらに落ちた。

138 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:43

「あたしはもうちょっと起きてるかも」
「んー、じゃあうちももうちょっと起きてる」
「え、」
「ていうか舞美、なんかうちに言おうとしてなかった?」

いいよ、えり。
言いかけた言葉が傾げた首に遮られる。


――起きないかな。
ささやかな彼女への我が儘がなかなか消えないのは。

こんな風に、彼女がいつも。
なんでもないことのように、けれど心得た声で、自分の願いを攫うからだ。

「…なんだっけ」
「なにそれ」

拗ねた口調で、けれどえりかが笑う。
ひそめた声が聞こえるようにとお互いに座席から身を乗り出しているからか、その吐息まで触れそうな、距離で。

139 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:44

「あんまりじっと見てるから、また当ててみてって言うのかと思った」


『私がね、なんにも言わずに、えりにー、テレパシー送るから、何て言ってるか当ててね?』

昼間のDVDの撮影の合間のそんなやりとりは、他愛もない遊びだった。

本当にそんなことができたらすごいけれど。
何も言わずにお互いが解ってることとか、通じ合ってることとか。
もしかしたら、あるのかもしれないけれど。

でも、昼間のそれは確かにほんの遊びだったのだ。


「えー、じゃーあー、当ててみて。とか言って」
「ていうか舞美忘れてたら答わかんなくない?」
「言われたら思い出すかもしれないじゃん」
「なんか勝手なこと言ってるし」

しょうがないなぁ、そう言って、けれどその瞳が柔らかく舞美のそれを捉える。
ついさっきまで閉じられていた瞳は、普段どおりの優しい色。

140 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:45

「――あー、わかった」
「え、なに?」

うんうん、と頷いてみせたえりかの瞳が悪戯っぽい光を帯びる。
外見は大人っぽいのに、こういうところは昔からずっと変わらない。

「『えりの寝顔すっごいかわいい』」
「…言っ、てないからー」

ちょっとだけどきりとして、答える声が上擦る。
当たってなくもないけれど、いざ本人に言われると何だか照れくさい。
「あ、やっぱり?」
はじめから冗談のつもりだったらしい本人は、きっとそんなこと思いもしないんだろう。
んー、と首を傾げるえりかの視線は変わらず舞美を捉えて放さない。
ふっくらとした形の良い唇は、柔らかく弧を描いたままだ。

141 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:45

「…舞美」

名前を呼ぶ声は静かだった。
ただでさえ潜めた声が掠れて、なんだかどきどきする。
小さく指先で手招きされて、耳、と言ったのが唇の動きでわかった。

そっと耳元に手が添えられて、耳朶に温かい息が触れる。
くすぐったくて少し身じろぎした、その瞬間に触れた、小さな声。

「『キスしたい』」
「――…ちがっ…!」
「舞美声おっきい」

思わず大きな声が出て、目の前のえりかがしーっ、と人差し指を唇に当てる。
慌てて口許を手で覆って、後ろの席に目を向ける。幸い、誰も起こさずにすんだらしい。

「もー…」
「だってえりがへんなこと言うから」

口許を押さえたままの手に触れる頬が、熱い。
きっと赤くなってるだろう自分を見ながら、えりかはシートにぽす、と頭を預けた。

142 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:46

「違った?」

小さく聞かれて、大きく頷いてみせる。
別にそれが嫌だとか、そういうんじゃないけれど。
やっぱりまだ頬が熱くて、えりかの呼吸が触れた、耳が、熱い。

「なんだ、残念」

さして残念そうでもなく言って、えりかが静かに笑う。
それからまた、その瞳で舞美の困ったように揺れる瞳を捉える。

「――…ごめん、舞美」
「え?」
「今の、うちが言いたかった」

照れくさそうな、けれど真っ直ぐな声音。
『キスしたい』
掠れて小さかった筈の声が、耳の奥で大きく響いた。

「…えり」

143 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:46

――どうしよう。
どきどきしすぎて、心臓が痛くて。
胸の奥から、熱が溢れてくる。
さっき思ったこととはちがうけれど。でも、だって。

「――…あー…ぅわ、ごめん、やっぱ今のなし。なんかすごい恥ずかしい」

見惚れてた。
他の誰でもないあなたに。
起きて、声を聞かせてほしい、って。思った。
あなたには、つい甘えたくなるのだって。

「思い出したら言ってよ。舞美が言おうとしたこと」

言葉は違うけど、気持ちの部分は、きっとおんなじだよね?

「――…えり」

自分で言い出したくせに、赤くなった頬。何だかかわいく思えて、自然と頬が緩むのがわかった。
背けようとしたその動きを、腕に手を伸ばして止める。

「思い出した、えり」

144 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:48

振り向いてくれた瞳までは距離が少し遠くて。
体を座席から乗り出そうとすると、それを遮るように、えりかが頭を近づけて来た。

――そんな風に、また。
言葉にしない優しさを、言葉にしなかった欲しがるものを。あなたはくれて。

遊びになんかしなくても伝わっていることは確かにあるのかも、しれない。
でもね。でもね、だけど。
――ねぇ、

「…大好き、えり」

145 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:48

自分の頭の奥にも響いた小さな声の温度が照れくさくて。
えりかの耳元から離れた唇がへへっ、と照れ隠しのように笑みを零す。

少しだけ視線を上げると、さっきよりも赤く染まった頬が見えて。
きっと二人お揃いだろうその温度が、いとしくなる。

えりかの唇が薄く開きかけて、応えるように舞美が小さく首を傾げる。
何か言いかけて、やめて。
閉じられてしまった唇が。けれど綺麗にカーブを描いて、傾げた首との距離をゆっくり詰める。

耳朶に触れた呼吸は、あったかくて。
触れられた耳朶も、同じくらい熱を持ったのが、わかった。

「…うちも」


146 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:49




――ねぇ、大好きだよ。

もしかしたら。
なにも言わなくても、わかっていてくれているのかもしれないけど。

あなたには、ちゃんと伝えたい、ことがある。
伝えずにはいられないことがあるの。


147 名前:なんにも言わずに 投稿日:2008/04/27(日) 01:49

-END-
148 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/04/27(日) 01:51
矢島さんと梅田さんでした。

お目汚し、失礼しました。
149 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/04/27(日) 01:52
遅くなりましたが、レスへのお礼を。

>>128さま
ありがとうございます。
ラーメンの話は私も思わず笑ってしまいました。
本人にしてみたら恥ずかしい話を笑い話にしてしまえるのって、村田さんと柴田さんの、そしてメロンさんのいい関係性だなーと思います。

>>129さま
>足の裏からかなり強いにんにく臭
このエピソードは知らないのですが、この日はラーメンの匂いとおあいこということで。
二人して落ち着いてればいいと思います。
150 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/02(金) 07:50
ここを見てからキッズ食わず嫌いが治りましたw
特に矢島さん視点の話が好きです。

にんにく臭は、時期をはっきりと覚えていないのですが3〜4年前の冬コンか青年館ミュージカルでのMCです。
ひとみんがにんにく注射かにんにくドリンクに嵌まっていてメンバーにも勧めたという流れで、
大谷くんに「足の裏から強烈ににんにく臭がした」とバラされて、村田さんが珍しく動揺してテンパッていたのを覚えています。
151 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/07(月) 17:04
つづきをお待ちしております
152 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/08/02(土) 22:07
自分で言って照れる梅さん可愛い〜
またの更新待ってます
153 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/13(金) 00:24

不定期更新とはいえ、一年近く放置してしまってすみません。


本日の更新は、梅田さんと鈴木さんの、短いお話をひとつ。
アンリアルです。

154 名前:message 投稿日:2009/02/13(金) 00:25


ふわり、とチョコレートの香りがそっと鼻先をくすぐる。
甘いはずのそれがどうしてだか苦くて。閉じ込めるみたいに、そっと封をした。

155 名前:message 投稿日:2009/02/13(金) 00:26

一瞬、見間違いだと思った。
ぎゅっ、と鞄の取っ手を握り締める。
もう時間も遅いせいか、人のいない下駄箱の床の上に、鞄と一緒に持っていた小さな紙袋がかさ、と微かな音を落とした。

「あ、愛理ー」

自分が彼女を見つけたのよりワンテンポ遅れて彼女が自分を見つけて、ひらひらと手を振る。
中等部の昇降口に、高等部の制服で立っていればいやでも目立つ。
ただでさえ目立つ容姿の彼女なら尚更で、それに、自分が彼女を見間違えるわけ、ないのに。

「えりかちゃん」
「良かった、会えて」

嬉しそうに彼女が笑う。
さっきからうるさい心臓の音をごまかすみたいに愛理は笑顔を返した。

「今帰り?」
「あ、うん。今日は委員会長びいちゃって…えりかちゃんは?」
「うん?」
「どうしたの? こんなところで」
「や、舞美がさ、今日中等部と合同練習だって言っててさ」

彼女の口から零れた、自分の幼馴染の名前。
せっかくごまかしたのに、一際大きく胸を叩いた心臓の音は、聞こえない振り、出来なかった。

156 名前:message 投稿日:2009/02/13(金) 00:27

「そろそろ終わる頃だから、一緒に帰ろうと思って来たんだけど」
「うん」
「もしかして愛理に会えるかなって思って、寄ってみた」
「え…」

うちすごくない?タイミングばっちりじゃん、そう言うえりかが何だか得意げな表情を愛理に向ける。
誉めて欲しい子供みたいで。年上なのに、可愛いな、って頬が緩みそうになる。


初めて舞美に高校の友達なんだよって紹介された時は、その大人っぽい外見に気後れしたけれど。
三人で遊ぶうちに、それがどんどんなくなっていったのは、彼女のおかげなんだと思う。
優しくて、見た目からは想像できないくらい、面白くて。

時折見せる幼さを可愛いと思うようになったのは、いつからだろう。

157 名前:message 投稿日:2009/02/13(金) 00:28

「でさ、愛理、これこれ」

じゃーん、と大げさな効果音つきでえりかが鞄の中から取り出したのは、
きれいにラッピングされた小さな袋。
それがぽんと愛理の手の上に乗る。

「あげる」
「え、…え?」
「明日。バレンタインじゃん?」

袋の淡い黄緑色とえりかの瞳とを行ったり来たりする愛理の視線に、可笑しそうにえりかが吹き出す。
その笑顔を見上げながら、鞄を持つ手に知らず、力が籠もったのがわかった。

――知ってるよ、って思ったけれど、言えなかった。
言ったら、泣き出してしまうかもしれないと思った。

「なんと! えりかちゃんの手作りです」
「…あ、りがとう」
「あー、愛理なんか心配してない?」
「え、うぅん、そんなことないよ」
「だいじょぶだって、友達もおいしいって言ってくれてたし、うちこう見えて結構料理できるんだって」
「知ってるよぉ。心配なんてしてないってば。すごいうれしい」

158 名前:message 投稿日:2009/02/13(金) 00:29

ちょっとだけ拗ねて見せているだけだろうえりかに、笑いながら返して、けれど胸が痛む。
嬉しいけれど、少し寂しかった。
…だってきっと、みんなと同じ。

「愛理は?」
「…私?」
「うちに、バレンタイン」

首を傾げたえりかに顔を覗きこまれる。
すぐ近くで茶色の髪が肩から零れて、愛理は小さく息を飲んだ。手が、熱い。

「――なーんて」
「…え?」
「冗談だって。今日会うと思ってなかったでしょ」

えりかはそう言ったけれど、曖昧に笑ってみせることしかできなかった。
だって、今日、会えると思ってなかった。
――…会いたかったけれど、会いたくなかった。

159 名前:message 投稿日:2009/02/13(金) 00:30
「その代わりー、ホワイトデー、楽しみにしてるから」

それまで冗談みたいに、からかうようにえりかが言ったのと同時に、その鞄の中で携帯が鳴った。
ちょっとごめんね、そう言いながら携帯を開いたえりかの表情で、聞かなくても相手が誰だかわかる。

彼女が。
舞美を見る瞳が、特別優しい色をしていることに気がついたのはいつだろう。
そんなことに気がつくぐらい、自分が彼女を見ていることに気がついたのはいつだっただろう。

「舞美、部活終わったって。愛理も一緒に帰ろ?」

たぶんいつもなら。うん、って答えて、ばたばたと走ってくる舞美を待って、三人で一緒に帰った。
他愛もない話をしながら、笑いながら。
だけど今日は。

「あ…えりかちゃん、ごめんね。今日私、図書館寄って帰るから」

今日だけは、できない。

160 名前:message 投稿日:2009/02/13(金) 00:30
「うそ、今から? もう暗くなるよ?」
「今日までに返さなきゃいけない本、あって」
「だったらうちと舞美も一緒に行くよ。愛理一人じゃ危ないじゃん」
「大丈夫だよぉ、小さい子じゃないんだから」

彼女がこんな風に過保護にも思えるくらい優しいのは、自分に妹みたいに接してくれる舞美の影響なんだろう。
心配そうに眉を寄せるえりかに、愛理はいつものように笑って見せる。
言いながら、こんな風に嘘をつかないではいられない自分はまだ子供なんだろうと思った。

「でも」
「本返したらすぐ帰るし、ね」

子供扱いされるのを嫌がっていると思ったのか、えりかは渋々ながらも肯いてくれた。
心配させないように、いつもどおりの笑顔を向けているのは彼女のためなのか自分のためなのか、
よくわからなくなってくる。

「気をつけてね」
「はーい」

さっきと同じように、えりかがひらひらと手を振って見送ってくれる。
ふさがった両手の代わりに顔に貼り付けたままの笑顔で返した愛理の、小さな袋を持つ手が微かに震えた。
161 名前:message 投稿日:2009/02/13(金) 00:31
「―――…えりかちゃん」
「うん?」

鞄を持つ手に、力が入らない。
小さく息を吸って、愛理はえりかを見上げた。
ん?と首を傾げながら、えりかはまっすぐに視線を返してくれる。いつもと変わらない、優しい瞳。

「…ホワイトデー、楽しみにしててね」
「おー。うん。めちゃくちゃ楽しみにしてる」

顔いっぱいに笑うえりかに、ばいばい、と言って背中を向ける。
本当に伝えたかった言葉に、ほんの少し震えてしまった声に、彼女が気付いてなければいいと思った。

162 名前:message 投稿日:2009/02/13(金) 00:31

校舎を出ると冷たい空気が頬を撫でたけれど、握り締めた手が熱くて。
吐き出した息が白く染まるのが見えたけれど、目蓋が熱くて。
愛理は足早に校門をくぐった。

手の上でラッピングのやわらかな素材が風に揺れる。
鞄と一緒に持っていた紙袋も同じ風に触れて小さく音を立てる。

手にした二つの、一日早いバレンタインのチョコレート。
彼女から自分へが、ひとつ。自分から彼女へが、ひとつ。

163 名前:message 投稿日:2009/02/13(金) 00:32

お返し、って。私もあげる、って。
何気なく、友達と交換したみたいに、渡してしまえれば良かった。

普通の金曜日に、会えるはずないって思ってた。…明日は、きっともっと会えない。
渡せるはず、なかったから。―――なかったのに。

何度も何度も、書いては消して。
まるで自分の心の中に仕舞いこむように、包装紙の中に閉じ込めたメッセージカード。


『梅田えりか様』


かわいいラッピングの淡い黄緑色はやわらかくて、なのに胸をしめつける。
自分の好きなその色が視界の中で滲んでしまわないように、
愛理は紙袋を持った方の手をきゅっと握りしめた。


『あなたが好きです』



164 名前:message 投稿日:2009/02/13(金) 00:32

-END-
165 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/13(金) 00:34
梅田さんと鈴木さんでした。

お目汚し、失礼しました。
166 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/13(金) 00:41
だいぶ遅くなりましたが、レスへのお礼を。

>>150 名無飼育さん さま
嬉しいお言葉ありがとうございます。
そして詳しいお話、ありがとうございました。テンパっている村田さんが想像できて楽しいです(笑)

>>151 名無飼育さん さま
ありがとうございます。
お待たせしすぎました。またお付き合いいただけると嬉しいです。

>>152 名無飼育さん さま
梅さんにはヘタレな可愛さがあると思います。
これからもここの梅田さんを可愛がっていただけると嬉しいです。
レスありがとうございました。
167 名前:名無飼育 投稿日:2009/02/14(土) 00:32
やじすずは大好物です!
あぁでも切ない・・・
168 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/02/14(土) 04:15
作者さんのやじうめ好きですよー

でも、うめすずも良かったです

ログ一覧へ


Converted by dat2html.pl v0.2