正しさの初期起動
1 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/04/06(日) 18:39
宮崎金澤+α
ochi sage進行です
2 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:40

3 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:41
リハーサルスタジオを抜け出し、連れて行かれた先はひとけのない廊下の端。
わざわざこんな場所にまで来てする話が、明るいものだとは到底思えなかった。

非常階段へと続く扉を朋子は背にする。向かい合うようにして立つ由加は
真面目な顔をしている。背後で、風が鳴る音が聞こえた。天気が悪いのかも
しれなかった。春の天気は気まぐれだ。

真正面から目を合わせるのは躊躇われた。顔を俯かせると灰色の床が見え、
その無愛想な色合いが気分を暗澹とさせる。朋子からは声を発しなかった。
それを判っているのか、一息、間を置くようにしてから由加が言う。

「話、わかるよね?」
「……ごめん」

諭すように言われ、更に顔を俯かせた。
リハーサルで動き回るとき。少し由加の腕に触れるだけでも、ぎこちなくなる。
不自然なのは判っていた。びくりと身体が震えて、今は見咎められることはなくても
そのうちに不審に思われても仕方がないだろうと思う。
4 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:42
「そんな顔しないの」

ぺし、と平手が頭に落とされる。目だけを上げれば、困ったような顔があった。
由加に視線を向けられると、嬉しいのに、どういう表情をすればいいのか判らなくなる。

「ごめん。……ほんと、優しくしないで」

自然に振る舞えていないことを謝るべきだった。
なのに口から出たのは違う言葉で、ひたすらに自己中心的だった。

由加が関わると、どう動くのが普通に見えるのかと考えてしまう。
そうなると、ぎこちなくなるのも仕方がない。最近ではひどくなる一方だった。
5 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:42
自覚してから、厄介に思っている。
抑えきれない感情に、振り回されている。

ふとした瞬間に好きだと伝えてしまって。
嬉しいけど、と返されてから。

由加のことを、より強く意識してしまっている。
優しくされるのは、嬉しくて、つらかった。

「……もっと好きになっちゃうから。優しくしないで」

厄介に思っているのは、由加の方だろう。それは判っていた。
けれど、すぐに切り替えられるほど浅い思いでもなかった。

扉を一枚隔てて、風が吹く。うっすらと聞こえる雨音に、心が乱される。
俯く朋子に嫌気がさしたのか、由加が息をつく。
6 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:43
「わかった」

穏やかなのに強い声に、恐る恐る顔を上げた。薄暗く湿った廊下では
蛍光灯がちらついている。由加は笑っているのに、目だけが落ち着いていた。

「まだ話、あるから。後でいいかな?」

わずかに与えられた休憩時間では足りないらしかった。
有無を言わさない口調でリハーサルの後に落ち合う約束をさせられる。

戻ろう、と踵を返した由加の横に並ぶと、慣れさせるためか軽く肩を叩かれた。
リラックス、とおどけて話しかけられ、それに笑みを返そうと努力する。
合格点には到らなかったのか、由加は溜息をついて朋子の肩を指で小突いた。

レッスンシューズが湿った床と擦れ合って音を鳴らす。
重い扉を押し開けると、熱い空気に意識を引き戻された。

「どこ行ってたの」

あかりがすぐに由加にじゃれついて、その無邪気さに、朋子はいつも羨望を覚える。
7 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:43

8 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:44
「どうしよっか」

隣を歩く由加が言う。歩道の脇に植えられた街路樹は春らしく緑の葉をつけている。
メンバーそれぞれが家路につき、二人だけが逸れた。あてどもなく歩き始めて、
まだ、行き先は決まっていない。

「話って、なに?」

どこかに落ち着いてから尋ねるべきだろうとは思った。急くような朋子の問いに、
由加は苦笑いをこぼす。雨上がりの路地では黒いアスファルトが輝いて見え、
反射した日光が刺さるように眩しかった。

小石がひとつ、転がってくる。
由加がそれを蹴飛ばし、目を細めて笑う。

その表情が好きだった。
どうすれば笑ってもらえるのかを、いつも考えていた。

以前ほど素直でいられなくなったのは、自分のせいだと判っている。
単純に、笑ってもらえるのが嬉しかった頃が懐かしく思える。

気持ちを伝えてしまったことを後悔していた。
時間を巻き戻したいと、非現実的なことを願ってしまうほどには、後悔している。

なんの話があるのかという朋子の問いかけに、由加はなかなか答えなかった。
話題はひとつしかないと思う。そろそろ仕事に支障が出そうなのも自覚していた。

もっと自然に振る舞え、という話の続きだろうと身構えていた。
だから、次に投げられた言葉に息が詰まった。
9 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:45
「ともは、私のことが好きなんだよね?」

改めて確認されたのは初めてで、驚きで呼吸が苦しくなる。
朋子の思いが変わっていないことを、由加は重々承知しているはずだった。
そうでもなければ、腕が触れた程度のことで身体がびくつくこともない。

詰まった呼吸を吐き出した。何度尋ねられても、しばらくは答えが変わることは
ないだろうと朋子は思う。それくらいには、気持ちは根付いていた。

「……好きだよ」

ひどく切実な声が出る。言葉にすれば、呆れるほどに実感できた。
口に出してみれば諦めにも似た感情が湧いて、どうしようもないな、と思った。

まだ陽は高い。二人の影が歩道に落ちる。学校帰りなのか、小学生がランドセルを
揺らして横を駆け抜けて行く。風は弱まったものの吹いていて、髪が流されていく。

朋子の答えを聞いた由加は、空を見上げるように首を傾けた。
10 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:45
「じゃ、付き合おっか」
「へ?」

間抜けな声が出て、足も止まる。先を行きそうになった由加も歩みを止めて、
朋子を振り返った。不思議そうに由加はぱちりと瞬きをする。

好きだと伝えたとき。嬉しいけど、と由加は返した。
けど、の後に続けられそうになった言葉は、聞きたくなくて押しとどめた。

過去は覆らない。
揺らぎのない返答に諦めの感情を抱いたことは、忘れられなかった。
今も気持ちの整理をつけている最中で、思い出すたびに胸は苦しくなる。

あれからいくらか時は過ぎた。けれど、由加の気持ちが変わったとは思えなかった。
その程度のことは態度で判る。あくまでも仕事が円滑にいくようにと笑いかけて
くれているくらいのことは、痛いくらいに判っていた。

だから、首を縦に振ることは出来ない。由加が言う関係はずっと
欲しているものだったけれど、申し出を受けるわけにはいかなかった。
11 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:46
「……嫌だよ」
「なんで? 好きなんでしょ?」

朋子の返答に、由加はきょとんと首を傾げる。その顔を見据えて、
噛みしめるように言葉を続ける。

「だって、由加ちゃんは、私のこと好きじゃないでしょ」

揺るぎのない事実だろうと朋子は思った。由加がなにを考えて提案しているのかが
判らなかった。困惑を覚えて、それを隠さずに由加を見つめる。

朋子の視線を受けて、由加はくすくすと笑いを漏らした。いかにも可笑しい、と
いった顔をして、笑顔のままで由加は言う。
12 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:47
「両思いじゃないと付き合えないとか、今どき純情だね」

続けられた言葉に、朋子は顔を顰めた。らしくない、と思った。
由加がこんな台詞を思いつくだろうか。誰かが脚本を考えているのかと、
疑いたくすらなった。

いずれにせよ、言わせてしまったのは自分の責任だと朋子は思う。
どう反駁しようかと唇を舐めると、それを制するように由加は言う。

「どうする? 明日には気が変わってるかもしれないけど、私」

卑怯にも飄々と言ってのけた由加は、愉しげに朋子を見る。
……もしかして、付き合えばぎこちなさが薄れるとでも思っているのだろうか。

意図があるとすればそれくらいしか思い当たらなかった。けれど、そんなことのために
時間や気力を使わせるわけにはいかない。好かれていないのに関係を結びたいとも
思わない。それに、嫌だと言った手前、頷くわけにはいかなかった。

そんな朋子の気持ちを読んだのか、いかにも軽く、由加は言う。
13 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:47
「とりあえず、付き合おうよ。嫌になったら別れたらいいんだからさ」

由加があまりにも明るく晴れ晴れと言うから、付き合う、というのがひどく簡単な
ことに思えて、拒む言葉が喉に詰まった。それでも、自尊心というものがある。
軽々しく誘いに乗るようなことは、したくなかった。

「なんで、とか訊いてもいい?」
「付き合ってもいいかな、と思ったから」
「いや、由加ちゃん、女の子と付き合うのとか無理な人でしょ」
「自分の可能性を狭めるの、よくないと思うんだよね」

肩をすくめて由加は言った。人を好きになれる可能性が二倍になる、と続け、
それがいかに正論かと説くように朋子を見つめる。

与えられた二者択一を、反芻した。そのうちひとつはかつて望んだことで、
今でも望んでいることだった。夢であれば、どちらを選ぶか迷わないだろう。

そして夢であっても現実であっても、魅力的な提案だというのには変わりがない。
意図なんて知ったことかと、投げやりな気分にもなった。
14 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:48
由加が欲しかった。それが叶うのならと、一瞬でも思ってしまったら後戻りが
できなくなった。嫌になるほど胸が詰まって、朋子は思い知らされる。

「……私は、由加ちゃんが好きだよ」

これほどまでに切実な声が出るなんて、想像したこともなかった。
由加がくしゃりと笑って、その表情を好きだと思った。

それはもう、どうしようもないほどに。
自分だけのものにしたいと思ってしまうほどに、好きだった。

「それはオーケーってことでいいのかな?」

ゆっくりと朋子は首を縦に振る。
由加は肯定のサインを受け取り、手を差し出した。

「それじゃ、よろしくね」

差し出された手は握手を求めているのか、繋ぐことを求めているのか。
判らないままに朋子がその手を取ると、由加は屈託なく笑った。
15 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:48

   ▼
16 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:49



「最近、由加が遊んでくれへん」

パイプ椅子に猫背で座ってあかりが言う。その視線の先では、
ちょうど由加がカメラを向けられていた。

撮影スタジオは広い。
ピピッとデジカメが立てるシャッター音は聞こえるけれど、
あかりの愚痴は由加には届かない。

「由加ちゃん以外とも遊んだら?」

朋子は何気なさを装って言う。喉が乾いた。ペットボトルの水をストローで
吸って気を紛らわせていると、あかりが不満げな顔のままでさらに背を丸める。

「じゃ、とも遊んで」
「ヤダよ。うえむーの面倒見るの大変だもん」

むう、とあかりはむくれてしまう。見かけによらず子供じみている、というか、
幼子に近いあかりの世話を出来るのは、由加ぐらいだろうと朋子は思った。
17 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:50
「ともは、いつも誰と遊んでるん?」
「誰って……。一人とか、高校の友達とか」

そもそもあんまり出歩かないし、と続ける。ふうん、とあかりも息だけで返す。
なぜ由加があかりと遊ぶ時間が減ったのか、本当は知っている。
黙っていることを、悪いな、とは思う。それでも伝えるわけにはいかなかった。

あくまでも内緒だと、それは二人の約束だったし、共通の意志だった。
今日はどうするのだろう。朋子は思う。撮影が何時に終わるのかも判らない。
だから、考えるのも後でいい。それでも、由加がなにを選ぶのか、気になった。
18 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:50
一人で過ごす、朋子と過ごす、あかりと過ごす。
他にも、選択肢は無数にある。どれを選ぶかは由加の自由だ。

それでも、自分を選んで欲しいと思うのは、強欲だろうか。

由加が撮影を終え、周囲に頭を下げながら戻ってくる。
入れ替わりに呼ばれたあかりが立ち上がった。
さっきまで不満げな顔をしていたのに、あかりは笑ったり澄ましたり、
カメラの前では表情豊かだ。

撮影したばかりの画像を、スタッフがノートパソコンで確認している。
由加もそれを後ろから覗き込んでいた。ディスプレイでは、由加の姿が
次々と切り替わる。朋子も椅子ごとにじり寄って、それを見る。
19 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:51
「さっき、うえむーが」
「うん?」

邪魔にならないように、ディスプレイに向いたままで良い、と目配せする。
由加はすぐに朋子から顔を逸らして、パソコンの画面に目を向けた。

「あーりーが?」
「由加が最近遊んでくれへん、だってさ」
「だって、遊んでないもん」

事も無げに由加は告げ、朋子は少し責任を感じる。
けれど、あかりに時間を使えとは言いたくなかった。
20 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:51
「今日、何時に終わるかな」

由加が言う。朋子は掛けられている時計を見上げた。
春になり、昼が長くなった。とはいえ、そろそろ日は落ちていそうな時刻だった。

「何時だろうね」
「撮影、あと二人?」
「それと、全員の」

遅くなりそうだね、と由加が言い、朋子は頷く。

本日の選択は直帰コース。
暗に告げられ、朋子は胸をなで下ろす。

自分を選んで欲しいと思う。
けれど、誰を選ぶか、という場面になるのを、心の底では恐れている。
21 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:52
「ともは明日、予定ある?」

由加が見ているパソコンのディプレイでは、次々と画像が選択されていく。
白い背景に写るものは、ぱっと見ただけでは朋子には違いが判らない。
スタッフはそこから条件に合うものを選別していく。

「買い物行こうと思ってたけど。べつに、いつでもいいやつ」

予定はあるけれど変更するには差し支えない、ということを言外に含めた。
由加が訊くからには、誘いをかけられるかもしれないと期待してしまう。

尋ね返して、こちらから誘ってもよかった。そうしないのは、怖いからだった。

「じゃ、仕事早く終わったらさ。一緒に行こうよ」
「うん」

由加はあかりを選ばなかった。そのほかを選ばなかった。喜んで
いいのかは、判らない。

それでも安堵するのだから、利己的としか言いようがなかった。
22 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:52

   ▼
 
23 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:53
約束があるときに限って、だ。

仕事が長引いている。そのほとんどは待ち時間だった。
けれど、外に出ることが許されるほど自由ではなかった。

スタジオの楽屋で、朋子と佳林だけが待っている。他の三人の撮影が
終わったところで機材にトラブルが生じて、それが解決されるまでは
二人は身動きがとれなかった。

先に解散になった三人は、とうに楽屋を出て行っている。由加だけが
気遣わしげにしていたけれど、いてもやることはない。

待機の知らせに内心でがっかりしていると、「待ってようか?」と由加に
こっそりと耳打ちされた。静かに首を横に振って、それが一時間ほど前。
24 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:54
「暇だね」
「そうだね」

佳林が言って、朋子は頷く。佳林は携帯電話をいじるのにも飽きたらしく、
テーブルに突っ伏してぶらぶらと足を揺らしている。

朋子も頬杖をついた。黙っていると、時計の秒針が動く音すら聞こえてくる。

「ともは、高校楽しかった?」
「ん?」

急に話しかけられ、佳林に顔を向ける。目が合って、真っ直ぐに見つめられる。
朋子は天井を見上げて、しばし考え込んだ。

楽しかったか、と尋ねられれば、即答するのは意外に難しかった。特に最後の
一年間は、グループの活動が本格的に始まった時期と重なっていたから、
苦労した思い出の方が多い。

それでも、総合すれば楽しかったはずだった。
25 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:54
「まあ、楽しかったかな」

試験勉強は中学の頃より一生懸命にならなければいけなかったし、
マラソン大会なんかは、はっきり言って参加したくもなかった。
最後の一年間は何度も辞めようと思った。

それでも、楽しかったと言っていいのだろうか。

「佳林は学校、べつに楽しくなかったけど」
「あー、まあ、佳林ちゃんは最初から忙しかっただろうし」
「うん」

学校と芸能活動の両立。その点では佳林は小学生の頃から
苦労していたのだろうなと思う。学校が負担になっても仕方がない。

朋子は自分の答えを反芻する。
楽しかったと、思い込みたいだけなのかもしれなかった。
そうでもないと苦労した意味が感じられなくなる。苦労に意味があったのだと、
思いたいだけなのかもしれなかった。
26 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:55
「高校は楽しくなるんじゃない? 
 中学より、行く回数が少ない分、楽だろうしさ」
「そうだねえ」
「周りも、同じような環境の子が多いだろうし」

話している間にも時計の針は進んでいく。携帯電話で時刻を確認した。
外は夕暮れを過ぎた頃だろう。窓にはブラインドが下ろされている。
ここからは、外が見えない。

「でも、勉強は難しくなっちゃいそう」

特に意味のない会話だった。「わかるとこは教えてあげるよ」と朋子が言えば、
佳林は嬉しそうに頷く。頭を撫でてやりたくなったけれど、セットした髪が
乱れてはいけないから我慢した。

新しい環境が不安なのだろうなと思う。
環境も関係も、突然に変わってしまうのは、怖い。

心配なことを誰かに話せるのは、羨ましかった。
27 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:56
それから更に三十分ほど待って、撮影は再開された。待機していた時間に
比して仕事はあっけなく終わってしまう。それに憤りはしないものの、
溜息はつきたくなった。

やっと終わったから帰るよ、と特に意味のないメールを由加に送る。
連絡事項以外でメールや電話をするのには未だに慣れない。それでも確実に
頻度は増していて、由加にとっては負担ではないかといつも気がかりだった。

ぴょこぴょこと楽しそうに跳ねる佳林とスタジオを出る。と、ポケットの中で
携帯電話が震えた。引っ張り出すと、由加からメールが届いていた。

メールを開く。
予定では、佳林と駅に向かうはずだった。それを変更するだけの理由が
出来て、朋子は足を止める。
28 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:56
「用事できちゃった。佳林ちゃん、一人で帰れる?」
「帰れるよ。もう高校生なんだけど」

怒ったふりをする佳林の肩を叩く。とたんに佳林も笑顔になって、手を振る。
朋子も軽く手を上げて、言う。

「気をつけて」
「はーい。ありがと」

また明日、とどちらともなく言って、別れた。佳林の後ろ姿が雑踏に
紛れるまで見送って、どうしたものかと携帯電話を見つめる。
とはいえ、選択肢はひとつしかない。
29 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:56

30 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:57
由加が待つカフェはスタジオのすぐ近くだった。

「先に帰ってよかったのに」

対面に腰掛けて言うと、由加はにこりと笑う。

「することあったし。待ってようかなって」

買い物は行けなくなっちゃったけどね、と由加は残念そうに言う。
店はそれなりに賑わっている。二人を気に留める人はいなさそうだった。

大学生のお友達同士にでも見えるのだろうなと朋子は思う。
現に、由加はテーブルに英語の参考書を載せている。勉強をしに来た大学生。
まさに、そういう風情だった。

「由加ちゃんは、えらいね」
「ん?」

黙って本を指さす。ああ、と由加はそれを片付けた。
海外でもライブをしてみたいです、なんてインタビューで答えることは
あっても、具体的に考えたことはなかった。
31 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:58
「英語勉強しようとか、考えもしなかった」
「うーん、まあ、鈍っちゃいそうで。ほら、下の子たちにも教えられるし」
「じゃあ、英語は任せた」
「えー。それはずるいよ」

この会話にもたいした意味はない。それなのに、佳林と話しているときよりも
声音は自然と甘く優しくなってしまう。由加は変わらない。良くも悪くも、
付き合い始める前と同じだった。

連絡が頻繁になって、一緒に出かける回数が増えただけのことだった。
付き合うとはどういうことなのか。中学生が悩みそうな命題に朋子は直面している。
とはいえ、大人もこの問題には悩むのかもしれない。

それくらいに、人それぞれなのかもしれなかった。
32 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:58
「あー、なんかさ」
「うん?」

朋子は言い淀む。一通り雑談が落ち着いて、そろそろ帰ろうかというときだった。
由加はきょとんとして、目だけで言葉の続きを促す。

「待ってたりしなくて、いいからね」

仕事が早く終わったら一緒に出かけよう、とは約束していた。だから由加は
待ってくれていたのかもしれなかった。夜も更けるから、ゆっくりと買い物に
行けるほどの時間はなくなると由加も判っていただろう。

「帰りたいときは帰るよ。今日はたまたま、そういう気分だっただけ」
「……ならいいけど」
「あ、待たれるの嫌だった?」

む、と言葉に詰まった。嬉しくなかったと言えば嘘になる。もちろん帰りが
遅くなってしまうのは感心しないし、心配にもなる。

それに、嬉しいと言ってしまえば、由加はきっと気にする。またこういう機会が
あれば待とうかと、思わせてしまうかもしれなかった。
33 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:59
「嫌では、ないけど」

朋子が曖昧に答えると、由加は声を出さずに笑う。想定通りの答えだったのかも
しれなくて、それが少し悔しかった。思わず表情が渋くなった朋子とは対照的に、
由加は楽しそうに言う。

「ともは私のこと、大好きだもんね?」
「……またそういうこと言って。からかわないでよ」
「だって本当のことでしょ?」
「そうだけど」

否定せずに濁して、目を逸らした。面白がられていると思う。由加はこういった
やりとりを好んでいるのか、時々繰り返された。その度に朋子は否定もできずに、
思い知らされる。一方的に好意を寄せているのだということは、判っていた。

「そろそろ帰ろっか」

由加が先に腰を上げる。由加は切り上げるタイミングを外したことがない。
これ以上に会話を続けたとしたら、朋子も訊いてしまうかもしれなかった。

好いてくれているのかと、尋ねるのは簡単なはずだった。
それをしないのは、やはり、怖いからだった。
34 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 18:59

   ▼
 
35 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 19:00
今日は別の仕事だから会えなくて寂しいよ。

書いて、消した。こんなものを送れるわけがなかった。
36 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 19:00

37 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 19:01
タクシーでの移動中だった。朋子の隣では紗友希が静かに寝息を立てている。
今日はまだ由加とメールを交わしていなかった。なにか送ろうとは思うものの、
話題が見つからない。

今からラジオの収録で緊張する。移動中で暇だ。隣では紗友希が眠っている。

どんなことでも話題には出来るのに、迷ってしまう。書いた後でも送るべきかと
悩んでしまう。書き直しているうちに投げやりになって送信して、後から悔いる
ことも度々だった。

会えなくても、由加はきっと寂しがってはいないだろう。最近は一緒にいる時間が
長すぎるのではと感じていた。朋子にとってではなく、由加にとって、だ。

付き合い始めた状況からして、由加にとってこの関係は負担でしかないだろうと
朋子は思う。付き合おうと提案してきた由加の真意は未だにはっきりとは判らない。
ただ、あの日から徐々に朋子のぎこちなさが薄れていったのは事実だった。

目的は果たされているのかもしれない。仕事に支障がでないように慣らされることは
もう充分に出来ているのかもしれない。

間違っているのは判っている。好きなのは自分だけだということも、
由加はどうとも思っていないであろうことも、判っている。

それでも、「別れよう」の一言を言う勇気は出なかった。
38 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 19:01

   ▼
 
39 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 19:02
「そういえばさ。なんで私のこと好きなの?」
「……それ、いま訊く?」

エスカレーターは緩やかに上がっていく。地下鉄を降り、地上へと向かっている。
由加が朋子の二段上から話しかけてきて、それはいいのだけれど内容が問題だった。

小声ではあるものの、オープンな環境で話題にするには躊躇われる。
由加は気にしていないのか、じっと朋子の回答を待っているようだった。

「……答えるの、後でいい?」
「いいけど。ぜったいに教えてくれる?」
「うん、教えるから」

由加がごねるのは珍しかった。子供じみているのが可笑しくて朋子が笑いを
漏らすと、不服そうに由加は言う。

「気になる」
「って、今更?」

由加が頷き、エスカレーターから降りる。朋子もそれに続いた。仕事が早めに
終わったから今日こそ買い物に行こう、と誘われ、二人だけで出かけている。

由加はあかりとも時々は遊んでいるようだった。そうでもしないと、あかりが拗ねる。
だから朋子はなにも言わないし、言う資格があるとも思っていなかった。
40 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 19:02
「いつ教えてくれるの」
「ええ。もっとさ、個室的なところで」
「ふーん」

いつもなら並んで歩くのに、由加が一歩先を行く。それに追いつきながら、
朋子は言い訳する口調になる。

「だって聞かれたらまずくない?」
「まずいかな?」
「まずいと思うけど」

地上に出ると、平日の昼間だというのに人が溢れかえっている。先を歩く由加の
腕を掴むと、驚いたように振り返られる。朋子から触れることはずっと避けていたから、
その反応は仕方がないと思った。掴んだ腕はすぐに離す。由加はそれに抵抗しない。

「機嫌悪い?」
「悪くないよ」

朋子が尋ねると、由加は首を横に振る。そう言われれば為す術もなかった。
周囲がざわめいている方が、誰かの気に留まることもないのかもしれなかった。
喧噪が響く。由加は黙っている。仕方なく、朋子は口を開く。
41 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 19:03
「あー、理由ね……」

なぜ好きなのか。いざ訊かれると難しかった。言葉にすれば陳腐で
ありきたりな台詞になりそうで、朋子は言い淀む。

由加は隣を歩いている。声の大きさを調整するために朋子は咳払いをして、
思いつく限りのことを一息に言う。

「……意外と大人だし、優しいし、周りの子のことよく見てるし、えーとね、
 頑張り屋さんだし、一緒にいて癒やされるし、あと意外としっかりしてるし、
 でもちょっと抜けててそこもかわいいし。あ、笑ってるときめっちゃかわいい」

由加が目を丸くしているのには構わず、畳みかけた。

「でも、そんなんじゃなくって」

言って、続ける言葉が判らなくなる。しばらく待っても言葉は出てこなかった。
情けない思いで由加を見る。なんともいえない顔をして、由加は言う。

「……意外って言い過ぎ。普通に大人だし。しっかりしてるし」
「……はい」

好きな理由に駄目出しをされる日が来るとは、思ってもみなかった。
今までに出したどんなNGよりも堪える。落ち込んでいると、袖を引かれた。
42 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 19:04
「でも、嬉しいかも」

由加が笑顔で言う。その表情を好きだと思った。上手く伝えられないのが
もどかしくて、ただ、「好きだよ」と小さく零す。

「そんなに好きかあ。かわいいねえ、ともは」
「……由加ちゃんの方がかわいいし」

なにを言っているんだろう。
額に手を当て、落ち着くようにと自分に言い聞かせる。そんな朋子が
可笑しかったのか、由加は笑いを堪えるように息を漏らした。

「……真面目に言ってるんだからね」
「わかってるよ」

はっきりとしたきっかけがあったわけではなかった。気が付いたら好きになっていて、
黙っていなければいけないのも判っていて、弾みで伝えてしまったことを後悔していて。

「由加ちゃんは」

それこそ、弾みで。訊いてはいけないと思う。知ればきっと傷つくから。
43 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 19:05
言葉を濁した朋子に由加は笑いかける。いつの間にか目的としていたビルに
着いていて、二人の前で自動ドアが開く。そうだ、となにかを思いついたように
由加は声を上げた。

「誕生日プレゼント、なにが欲しい?」
「……すっごい先じゃない?」
「七月なんてすぐだよ」

四月生まれの由加に誕生日のプレゼントを渡してから、それほど時は経っていない。
怪訝な顔をする朋子には構わず、由加はなにやら思案顔になる。

「私がこっそり選ぶのと、ともが欲しいのをあげるの。どっちがいい?」
「えー、うーん。どっちがいいかな」

話題が逸れたことにほっとした。由加はタイミングを外さない。
朋子もそれに乗じて、言いかけた言葉をなかったことにした。

「誕生日かあ」

プレゼントと言われても、いまひとつ思い浮かばない。七月というのは、遠く思えた。
由加は朋子の返事を待っている。またエスカレーターに差しかかって、由加が二段先に乗る。
44 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 19:05
「ちょっと考えてもいい?」
「うん。許す」

段差のせいで、僅かに見下ろされる。許す、などと大仰なことを言われて顔を
顰めると、由加は楽しそうに笑った。朋子といるときの由加は、時々わがままな
子供のようになる。笑い続ける由加に、朋子は口を尖らせた。

「なにそれ」
「あ、怒った?」
「……怒らないよ。それくらいで」

エスカレーターが上階に到着する。続けて上のフロアを目指し、由加がまた
二段先に乗る。周囲には人がいなかった。だからなのか、声を抑えずに由加が言う。

「そうだよね。私のこと大好きだもんね?」
「……知ってること訊かないでよ」

段差をひとつ昇って近づいた。すっかり手のひらの上で転がされている。一方的に
弱みを握られているのだから仕方がなくて、それに、意外と悪い気はしなかった。
45 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 19:07
「七月」

朋子が小さく言うと、由加は首を傾げた。七月の朋子の誕生日まで、この関係は
続いているのだろうか。考えても、そのときにならないと判らないことだった。

間違っているのは判っている。
好きなのは朋子だけで、由加が同じ感情を持っていないことは判っている。

それでも選ばれたいと、一緒にいたいと思ってしまう。
由加といるときの朋子はわがままな子供同然だった。甘えられる限り甘えて、
先のことはなにも考えていない。

また、由加が二段先を行く。それを追いかけて袖を引く。不思議そうにする由加に
なにかを言いたくて、それがなにかが判らなくなる。迷った末に口から出たのは、
縋るような言葉だった。

「……好きでいてもいい?」
「どうぞ、ご自由に」

切実な朋子の問いに、由加は屈託なく笑う。赦しましょう、と言われた気がした。
間違っているのは判っている。けれど、関係を始めることを提案したのは由加だった。

だから仕方がないのだと。拒めるわけがないのだと、朋子は自分を正当化している。
間違っているのは判っている。なのに、関係を始めることを選んだのは朋子だった。

よほど情けない顔をしていたのか、由加が朋子の頭を撫でる。そこに含まれているのは
愛情なのか憐憫なのか、他のものなのかは判らない。

袖を引いて、つまんだ。手を握る勇気はでない。それに気付いたのか由加が笑う。
触れないままに時は流れる。由加は朋子の過ちを咎めない。そこから生まれるものは。

罪悪感、だ。






46 名前:イントロダクション 投稿日:2014/04/06(日) 19:08

47 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/04/06(日) 19:09
>>3-45
イントロダクション
48 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/04/06(日) 19:09
スマートフォン、LINEという字面が苦手で、携帯電話、メールと書いております。
違和感ある方は読み替えていただけたら幸いです。
49 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/04/08(火) 22:49
イントロダクションでかなり興味惹かれました。
宮崎金澤のご両名の行く末がどうなるのかにわくわくしつつ更新お待ちしております。
50 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:01
 
51 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:02

借りてきた映画のDVDは、それほど難解なストーリーではなかった。登場人物も
多くなく、展開もありきたりで、テレビ画面ではお約束の出来事が起きている。

朋子はちらりと目を横に向ける。由加は集中しているのかいないのか、
表情からは読み取れない。無言のままに、朋子も正面に目を向け直す。

仕事の始まりが遅いときや、終わりが早いときに、由加の部屋で映画を観る。
このシチュエーションはもう幾度か経験していた。並んでベッドを背にして
座るのにも慣れくらいには、朋子は由加の部屋に上がり込んでいる。

はじめに、部屋に来ないかと誘われたときは複雑な気分になった。
断るべきかとも思ったけれど頷いてしまって、ずるずると今日に到っている。

もちろん、健全にDVDを観る以外のことはなにも起こっていない。いつも外で
遊ぶというのも疲れるし、人目も気になる。だから、家に招かれただけだった。

期待がなかったといえば嘘になる。けれど、由加が関係の変化や進展を
望んでいるとは思えなかったから、朋子はよこしまな気持ちをなかったことにした。
52 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:02
春の気候は読みにくい。今日も、四月も後半だというのに冷えていて、
朋子の隣で由加がぶるりと身震いした。それを横目に、朋子は尋ねる。

「寒いの?」

問いかけに、由加は答えない。「なにか着なよ」朋子が言っても、動かない。
視線はテレビに向けられたままだった。集中しているのかもしれなかったけれど、
聞こえていないわけもない。

ゆったりした邦画に、朋子は少し飽きてきた。断りも入れずに停止ボタンを押すと、
画面はすぐに地上波の番組に切り替わる。
53 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:03
「なんで消すの」
「なにか上から着なさい。風邪引いてからじゃ遅いよ」

リモコンで横っ腹をつつけば、億劫そうに由加は立ち上がる。
やれやれ、と思っていると、頭の上からなにかを落とされた。それを手で退ける。
顔を顰めてみせても、由加は意に介した風もなく元の位置へと腰を下ろす。

薄手の布団が二人の膝に掛けられた。由加はそれを肩まで引き上げる。
どこか甘い香りが漂って、由加が近寄ってくると更に強まった気がした。

「再生」

朋子が持ったままのリモコンを由加は指す。逆らわずに、三角印のボタンを押し込む。
ゆったりとしているなりに、物語はクライマックスに差しかかっている。

朋子は映画に意識を集中しようとした。由加もじっとして動かなかった。
先程までよりも、二人の距離は近い。寒いからだろうなと朋子は思った。
54 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:03
 
55 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:04
映画はラストシーンから、エンドロールに移る。黒地をバックにして出演者やスタッフ、
監督の名前がクレジットされる。それも終わるとメニュー画面が表示された。

停止ボタンを押しても、由加は文句を言わなかった。昼間のバラエティ番組が映り、
内容を把握することもなくテレビの電源を落とす。
朋子があくびを我慢していると、由加は伸びをして、言う。

「ちょっと途中、眠かったね」
「次はアクションとかにしよっか」

返しつつ、由加が好みそうなものはどれだろうかと、朋子は考える。
自分は観たことがあっても構わない。あまり血しぶきが飛ぶようなものは良くない。
見た目の印象そのままに、由加はその手の映像が苦手だからだ。
56 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:05
喜んでもらいたいと思う以上に、嫌な思いをさせたくなかった。
だから朋子は距離を詰めない。メンバーなら、友達ならどこまでが
許されるラインかをいつも意識している。

由加も線引きを飛び越えない。ほどよい距離感を掴みつつあるのか、
無理をしているようには感じられない。もちろん内心は判らないから、
注意深く、朋子はラインを読んでいる。

由加が布団をベッドに戻し、朋子はDVDをケースに仕舞う。

これから一緒に昼食をとって、仕事に向かう予定だった。
健康的に過ぎる様式美を、朋子はそれなりに気に入っている。
57 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:05
 
58 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:06
平日の昼間、事務所へと向かう電車は空いていた。

地下鉄の窓からはたいした景色が見えない。車内も代わり映えのしない中吊り広告が
揺れているくらいで、見るべきものはない。日常的な風景というものは、そうそう変化は
しなかった。

シートに並んで腰掛けるときに、僅かに距離を取るのもいつものことだった。
由加が気付いているのかは判らない。けれど、二人の隙間は埋められることも、
ひらかれることもなかった。

「……一緒に行くの、まずくないかな?」

朋子が言うと、由加は苦笑する。午前中から会っていたことをメンバーに
知られたいとは思わない。二人の仲を勘ぐられてしまうのを、朋子は恐れていた。
59 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:06
「意識しすぎ。みんなそこまで考えてないって」
「だって、うえむーがいつもうるさいから」
「じゃ、今度はあーりーも誘う?」

由加はたくらむような笑みで言う。提案を、反射的に嫌だと思った。あかりのことを
嫌いなわけではない。ただ、由加とあかりが仲良くしているところは見たくなかった。

けれど、もっと嫌なことがある。心が狭いと思われたくなかった。由加の前では
格好をつけてばかりで、それを崩したくなかった。だから、返事はひとつしかない。
60 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:07
「いいよ。うえむーも誘おうよ」
「冗談だよ」

由加が今度は困ったように笑って、朋子の眉間を指先でつつく。無意識に皺を
寄せていたことに気付いた。朋子は追い払うように手を振って、由加の指を遠ざける。

独占欲が湧いて、抑えられない。表には出さないようにと思っても、
時々は失敗する。自己嫌悪に苛まれて、軽く溜息が漏れた。

「冗談だからね?」

由加が繰り返すから、朋子も頷いた。困らせたくはなかったから、改めて自戒する。
独占欲などというものを持ってはいけないと、朋子は自分に言い聞かせる。
61 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:07
「由加ちゃんが誘いたいと思うときは、誘っていいからね」
「まーた。強がっちゃって。二人がいいくせに」
「……そんなこと、ない」

弱く言い返して、俯いた。「気にしなくていいのに」由加が笑って言った。
由加を縛ってはいけないと思う。そんな権利はない。付き合っているといっても、
形ばかりで実際のところは友達となんら変わりはない。

気兼ねする部分が多いあたり、友達以下の関係かもしれなかった。部屋で遊ぶのも
食事をするのも仕事に行くのも、一緒にいていいのかと躊躇うことばかりだった。
縛ってはいけない。それを判っているから、朋子は言う。
62 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:08
「……由加ちゃんは、私のものじゃないから」
「そうなの?」
「そうだよ」

とぼけたように返す由加に、朋子が言い切ったところで電車はホームに滑り込む。
アナウンスされているのは事務所の最寄り駅だった。降車しても人はまばらで、
乗り込む客も少なかった。

地下のコンコースはひんやりとしていて、二人分の足音がよく響く。
由加が、朋子の顔を覗き込むようにして言った。
63 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:08
「ともは、私のもの?」

由加は試すような顔はしていない。ただ疑問に思って尋ねているようだった。
朋子は顔を背けて目を逸らす。望まれている回答はどういうものかと考えた。

由加のものだと、言ってもよかった。心はとうに奪われているし、由加が
望むならどんなことでも手助けしたかった。けれど、そう伝えたところで、
由加にとっては重荷にしかならないだろうと思う。だから、朋子は曖昧に返す。

「どうだろ」

声は小さくなった。「そっか」由加は言って、それ以上は追求されなかった。
地下道では蛍光灯が煌々と輝いている。影が幾重にもできて、後から追いかけてくる。
64 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:09
優しいから、情けをかけて付き合ってくれている。
真面目だから、仕事が上手く回るようにと付き合ってくれている。

この脆い関係の主導権は由加が握っている。
なにかきっかけがあればすぐに終わってしまうと、朋子は思っている。
65 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:09
 
66 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:10
待機場所として与えられた部屋は、物が少なく殺風景だった。あかりはドアが
開く音に気付いたのか、テーブルに肘をついて雑誌を読んでいた姿勢から、
すぐに由加と朋子に視線を向ける。

「一緒だったの?」
「お昼ご飯、一緒したから」

あかりの問いに、由加が答える。本当のことをすべては言っていないだけで、
嘘はついていなかった。素知らぬ顔で朋子は荷物をテーブルに置く。

さっそく、あかりは由加を手招きして、膝枕をしろとごねている。朋子はそれを
見ないように目を逸らした。早く、紗友希と佳林にも来て欲しかった。一人で
気を紛らわすには、部屋は狭すぎる。

「やっぱ由加はいい匂い〜」

目を逸らしても、声は聞こえてくる。あかりの素直さが羨ましかった。由加に
同じことを言う勇気は朋子にはない。ばれないように、こっそりと溜息をついた。
67 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:10
 
68 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:10
「とも。かわってよ」

無造作に置かれた雑誌を読んでいたら、由加に声を掛けられた。部屋についてから、
それなりに時間は経っていた。朋子は、わざと苦々しい顔をして由加を見る。
あかりは由加の膝を枕にしながら、器用に携帯電話をいじっている。

「嫌です」
「お願い」

なんでもない言葉でも、由加に言われると弱かった。渋々ながらに立ち上がって、
由加と席をかわる。あかりとしてはどちらでもいいようで、すぐに頭を預けてきた。
69 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:11
由加は部屋から出て行く。あかりは動く様子がない。今度は、あからさまに
溜息をついてみせた。膝の上のあかりは朋子に視線を向けて、言う。

「いい匂い」

どきりとした。けれど、「そうかな?」と軽く流す。
朋子の返事を気にも留めていないのか、あかりは携帯電話に目を向け直す。

ぼんやりしているように見えて、あかりは鋭い。まさか匂いだけで由加の部屋に
行っていたことがばれるとは思えなかった。なのに、内心では動揺してしまう。
意識しすぎだと、由加に言われたことを思い出す。まったくその通りだった。
70 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:11
 
   ▼
 
71 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:12
「由加ちゃんは?」

さあ、と紗友希が言う。楽屋にはいないし、ケータリングの近くにもいなかった。
なにか用事があるというわけでもなかったけれど、姿が目に入らないのは気になった。

朋子は腕を組んで、考える。
他のアイドルグループとも一緒になってのイベントだった。衣装に着替えて、あとは
本番を待つだけだった。まだ時間には余裕がある。慌てて探す必要はない。
72 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:12
判っているのに、落ち着かない。楽屋を抜け出して廊下を歩き、由加がいないかと
視線を巡らせる。朋子は自分に呆れた。子供ではないのだから、好きにさせておけばいい。

どこでなにをしようが由加の自由で、朋子が把握しておく必要はない。
ただ、今日はいつもとはリハーサルの勝手が違って変更点が多かった。だから二人で
確認しておきたいのだと、誰にともなく言い訳を考えて、朋子は色々と書き込んだ用紙を
持って歩いている。

すれ違うスタッフや主演者と会釈を交わしながら、ついにセットの裏側にまで
来てしまった。薄暗がりの奥に目を向けて、朋子は溜息をついた。
73 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:13
「由加ちゃん」

呼びかけつつ歩み寄る。びくりとして、由加は振り返る。よくこんなところを
見つけたなと思った。人が来そうにもなく、静かなスペースだった。

「びっくりしたぁ」
「なにしてんの?」

思わず、ぶっきらぼうな口調になった。「ちょっと確認」へらりと笑って、由加も
朋子が持っているのと同じようなプリントを振る。

「こんなとこでしなくてもいいでしょ」
「静かな方が集中できるから」

そう言われればとりつく島もない。苛ついていた自分に、朋子は嫌気がさす。
由加が持つプリントは、赤でたくさんの書き込みがされている。場位置だけでなく、
MCも大きく変更になったからリーダーである由加は憶えることが多いのだろう。
74 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:14
「探してくれてたの?」

笑って言う由加は、半ば呆れているようだった。またやってしまった、と
朋子は思う。由加がどこでなにをしていても、目が届く範囲にいなくても、
放っておけばいい。

付き合うというのは、四六時中、一緒にいるという契約ではない。
由加がどこで誰となにをしていても、朋子が咎めることはできない。
75 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:14
「……進行、大丈夫かなと思って」

手にした紙を裏返しに掲げる。
由加を信用していないわけではなくて、役に立ちたいだけだった。

「そうだね。今日はちょっと不安かも」

由加は言って、紙面に目を落とす。向かいに立って、朋子も覗き込む。
メモの内容は朋子とほとんど同じだった。違うのは場位置に関するものだけだ。

ほわほわしているリーダーと、しっかりしているサブリーダー。
周囲にはそう思われているようだった。由加が会場名を言い間違ったら朋子が
訂正するし、MCもとりまとめる。だから、そう思われるのは仕方がない。

我ながら、やりすぎだと思う。メモの中身が同じなのは当然だった。
リーダーが担当する部分も朋子は書き留めている。実際に使う場面は、まだなかった。
76 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:15
「いつもごめんね」

由加が言う。ぶつぶつと台詞を確認しながら、手は衣装の裾をいじっている。
邪魔をしてしまった、と朋子は思う。

「いや、こっちこそ。先に戻ってるね」

居場所も判ったことだし、もし時間までに帰ってこなければ迎えにくればいい。
ぺらぺらとプリントを持った手を振り、踵を返しかけると手首を掴まれた。

「待って。それ、なに書いてるの?」
「え、いや、字汚いから」

由加が急に真面目な顔をして言う。見られてはいけないと思って、咄嗟に手を引いた。
本番までの時間は限られている。けれど由加は諦めてくれる様子もなくて、
どうすべきかと朋子は焦る。

ただでさえ邪魔をしてしまっているのに、これ以上の迷惑はかけられない。
観念するしかなかった。由加はおっとりしているように見えて、実はかなり強情だ。
「わかったから」朋子が言って紙を受け渡すと、由加はそれをじっと見つめる。
77 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:16
「……なんでこんなに書いてるの?」
「べつに、ついでだよ」
「私のところも憶えてるの?」

答えずに、プリントを奪い取る。由加は驚いたような顔をしている。
押しつけがましいことはしたくなかった。だから知られたくなかったのに。
信用していないと思われたくもなかった。だから、隠していたのに。

朋子はふて腐れて地面を蹴る。悪戯がばれたときのような気分だった。
いたたまれない気持ちでいると、由加が慈しむような声で言う。
78 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:16
「いつもありがと」
「……なんもしてないし」
「はいはい、わかってますよ」

ちょいちょいと手招きされて、朋子は訝しむ。動かずにいたら由加ががばりと
抱きついてきて、さすがに動揺した。周囲には誰もいない。受け止めたものの、
どうしたらいいのか判らなかった。

「ちょっと、由加ちゃん」
「ともがいてくれてよかった」

その言葉に、顔が熱くなった。あくまでも仕事上でのことでだと思って、
それ以上の意味に取ってしまいそうになって、すぐになにも考えられなくなる。
79 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:17
恐る恐る、細い腰に腕を回した。いい匂いがすると思った。由加が身体を離すのを
名残惜しいと思ってしまった。顔に出ていたのか、由加がくすくすと笑って、言う。

「時間なくなっちゃう」

目を逸らして、朋子は頷いた。片手で自分の首筋に触れると、やたらと熱を
持っていた。馬鹿みたいに動揺してしまっていた。本当に、馬鹿だと朋子は思う。

「……今日、なんかミスしたら由加ちゃんのせいだからね」
「えー? なんで?」
「びっくりさせるから」

恨めしく思って見ると、由加は楽しそうに顔をほころばせる。
80 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:18
「ともはほんっとに私のこと好きなんだね」
「……うっさいな」
「ちゃんと言って?」

顔を背けたのに、覗き込まれて強引に目を合わせられた。暗がりの中でも、
きっと赤くなっているのはばれている。せめてもの抵抗で、視線だけは外した。

「……好きだよ。これでいい?」
「なんか、てきとーだなあ」

まあいいや、と由加は息をつく。言わせておいて文句をつけるのだから、由加も
相当に自分勝手だと朋子は思う。けれど、勝手に好きになってしまった身としては、
文句のつけようもない。熱が冷めないままの朋子を前に、優しい顔をして由加は言う。
81 名前:デイパス 投稿日:2014/04/19(土) 18:19
「行こうか」

本番まで、あとどれくらいの時間があるのだろうか。楽屋に戻らなければいけない。
まだ確認したいこともあったし、喉も渇いているのに、朋子は動けなかった。
不思議そうな顔をして、由加はきょとんと首を傾げる。溜息まじりに、朋子は言う。

「……先に戻ってて。落ち着いたら行くから」
「うん。わかった。ともが私のこと大好きっていうのも、よーくわかった」
「さっさと行ってくんないかな」
「ひどーい」

朋子が手で追い払う仕草をすると、由加はわざとらしく頬を膨らませる。
悔しいから構わずにいると、「早くきてね」と由加はくすくす笑って言い残して、
一足先にセットの裏から抜け出す。それを見送って、朋子はしゃがみ込んだ。

「ほんと、ミスしたらどうしよ……」

頭を抱える。からかわれているのは判っているのに、嬉しいと思ってしまうのだから
手に負えなかった。早く戻らなければと、判っているのに腰はなかなか上がらなかった。

はあ、と溜息をつく。
いてくれてよかった、だなんて。

「こっちの台詞だよ」
82 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/04/19(土) 18:20
>>51-81
デイパス
83 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/04/19(土) 18:21
>>3-45
イントロダクション
>>51-81
デイパス
84 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/04/19(土) 18:22
>>49
レスありがとうございます。
関心を持ってもらえたのなら、イントロはバイセコー大成功!
まったりとした進行になりそうですが、今後も読んでいただけたら嬉しいです。
85 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/04/19(土) 23:35
なんか、内面的な関係が、よし(金澤)ごま(宮崎)のよしごまっぽいですね。続きが楽しみです!
86 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/04/21(月) 22:28
好きな人の前での金澤さんがかわいいくてたまりません。
ごちそうさまです作者さま(土下座)

87 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:15

88 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:16
早足でマンションのエントランスに入った。
乾いたコンクリートの床に、濡れた足跡が残る。がらんとした空間は照明も
灯っているのに薄暗かった。ガラスドアの向こうで雨脚が強まるのを見ながら、
朋子は口を開く。

「雨って予報だったっけ」
「違ったと思う」

由加も首を捻った。まだ夕暮れというには早い時間だというのに、空は黒い雲に
覆われている。今朝の天気予報では晴れのち曇りと報じていたのに、とんだ見当外れだ。
89 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:17
今日はそう早く仕事が終わったわけではなかった。けれど、当初の予定通りに朋子は
由加の部屋に出向いている。途中でDVDを借りに寄るのも慣れたもので、いつも行く
店の陳列にも詳しくなってしまった。

天気への恨み言を連ねながら、二人で一緒にエレベーターに乗り込む。足止めされる
こともなく指定の階について、流れるような動作で由加は部屋の鍵を開ける。

「ちょっと待ってて」

玄関に入ったところで、朋子は由加に押しとどめられた。待て、と言われたら動くわけ
にもいかない。所在なく指で髪をつまむと、少しだけ湿り気を帯びていた。

すぐに由加がタオルを手に戻ってきて、一枚を朋子に投げて寄越す。さほど必要とは
思っていなかったけれど、厚意には感謝して受け取った。
90 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:17
由加はもう一枚の手元に残していたタオルで髪を拭いながら、さっさと奥に
行ってしまう。徐々にお客さん扱いもされなくなり、今では勝手知ったる他人の家、
とでも言えそうなほどだった。朋子も一通り水気を払えたところで、タオルをたたむ。

「おじゃましまーす」

いちおうの挨拶はして、由加の後を追いかける。部屋に入ると由加はテレビの
電源を入れて待っていた。画面の中ではワイドショーが無責任に芸能界の噂を
垂れ流している。

「着替える?」

何気なく由加が尋ねる。「そんな濡れてないよ」朋子は思ったままのことを言って、
いつものように上着をハンガーに掛ける。そうしているうちに腰を落ち着けていた
由加が立ち上がり、ぽんと朋子の頭に手をのせた。
91 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:18
「うーん、どうかな」

朋子がなにか答える前に由加は二人分の部屋着を用意する。そのうちのひとつを
渡された。ここまでされては断るのも申し訳ないと思って、朋子はぺこりと頭を下げる。

「かたじけない」

古めかしい言い回しが可笑しかったのか、くすりと由加が笑う。雨が窓ガラスを
打つ音にその笑声は紛れて、なかったもののようになる。もったいない、と思っても、
取り返すことはできなかった。
92 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:18

93 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:18
それぞれ着替えてDVDを観た。エンドロールが流れる頃に、朋子はちらりと時計に目を遣る。
映画の尺から逆算していたのと、違わない時刻になっていた。普段よりも遅くなっているのは
判っていたから、朋子は早々に立ち上がる。

カーテンの隙間から外を見遣ると、相変わらず雨が降っていた。その強さは明らかに
増している。暗さも時間の経過と共に深まっていて、はっきりと夜の帳が降りている。

「ねー、由加ちゃん」
「ん?」
「傘、貸してくれない?」

天気予報を信じていたせいで、傘を持って家を出てこなかった。弱まる様子のない
雨の中で帰路に着くのは、さすがに抵抗がある。窓に向けていた目を由加に向けた。
ぺたりと座ったままでテレビのチャンネルをいじっていた由加は、事も無げに言う。
94 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:19
「泊まったら?」
「っ、え!?」

由加の言葉に、あからさまに動揺がまざった声が出た。部屋に上がること以上に、
泊まるということには特別な意味を感じてしまう。

不意を突かれたせいで、過剰な反応をしてしまった。それが恥ずかしいのと誤解を
招きそうなのが怖くて、朋子は狼狽する。きょとんとしていた由加も、その様子の
意味を察したのか慌てて言う。

「変な意味じゃないからね!?」

あわあわと落ち着かない由加を見ていると、朋子としてもきまりが悪い。下心とでも
いうのか、知られたくなかったものを表に出してしまって、居たたまれない気持ちになった。
落ち込みつつも、朋子以上に狼狽える由加に、言い聞かせるようにゆっくりと伝える。

「……大丈夫、変な意味には取ってないから」

混乱しているのか恥じらっているのか、由加は頬を赤くしていた。
笑ってはいけないと思いつつ、じたばたしている由加の様子が可笑しくて、
朋子は吹き出してしまう。
95 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:20
「でも、そういうことは考えて言おうね」

やましい気持ちを抱えながらも、ついからかうような口調になった。由加は唇を
引き結んで黙ってしまって、さすがに悪かったなと朋子も反省する。

「いや、ごめん。なんていうか」

言い訳にもならない言葉を重ねて、朋子は乱暴に頭を掻く。気まずい空気は
誤魔化せそうにもなかった。話を逸らすように朋子はふたたび懇願する。

「……えっと、傘、貸してもらえないでしょうか」

由加から向けられる視線が痛かった。呆れているのか軽蔑しているのか、
どうとでも取ることが出来て、いっそう堪りかねる。
96 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:21
「貸さない」

ぷい、と顔を背けて由加が言う。機嫌を損ねてしまったのは明らかで、滅多にないことに
朋子は焦りを覚えた。どうすれば場を取りなせるかと考えていると、由加がぼそりと言う。

「うえむーに、今日は用事があるから遊べないって言ったから。
 傘貸したら返してもらう時に、ともといたってばれるから、困る」

ぽつぽつと言葉を切りながら、由加は朋子に目を向ける。言い返そうにも、
朋子は弱い立場にいた。断りづらい。最善が判らず口を開けずにいると、
由加は拗ねたように俯く。

「泊まればいいじゃん」

引くに引けない、といったところなのか、由加も主張を曲げない。どちらが蒔いた
種なのか曖昧なまま朋子も追い込まれて、上手くまわらない頭で答える。
97 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:21
「変なことしないから、ってわざわざ言うのもやらしいんだけど……」

おずおずと言うと、由加は頷いて立ち上がる。朋子の肩を拳で殴って、そのまま
ぐしゃぐしゃと髪も乱す。朋子がされるがままに身を任せていると、由加ははっきりと
怒気に満ちた声で言う。

「すけべ。えろ。ばか」
「ごめんってば。……ってか由加ちゃんもわかるってことはさぁ」
「なに?」
「……なんでもございません」

抵抗せずに朋子がうなだれると、由加も気が治まったのか手を離した。そろりと
由加の顔を窺うと、今度は慈愛に満ちた手つきで髪を撫でられる。
98 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:22
「ほんと、やらしいんだから」

言葉では責め立てられたけれど、うらはらに手つきは優しかった。仕方がないなとでも
言いたげだったから、朋子は身を縮こまらせる。また肩を殴られるのも甘んじて受け入れて、
その頃には由加も笑っていたから、朋子もほっとした。

どうにか気詰まりな空気を取り払えたことに、朋子は安堵する。
けれど正念場を迎えるのは今からだと思うと、また居たたまれない気持ちになった。
99 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:22
 
100 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:23
「ヤバイ。極楽浄土が見える」
「おおげさだなあ」

ごちそうさまでした、と朋子は両手を合わせる。由加は満更でもない顔をして、
食器を片付ける。それを手伝っていると、由加が楽しそうに言う。

「そんなおいしいおいしいって言ってもらえると、作り甲斐があるねえ」
「だってほんとにすっごいおいしかった」

思わず熱弁してしまう。泊まり。手料理。なかなか体験できるシチュエーションではない。
少なくとも、二人にとってはきっかけなしには起こらないことだと朋子は思う。
浮かれる気持ちを抑えられずに、手伝うのも鼻歌交じりになる。
101 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:24
「なにー? ご機嫌だね」
「へっへっへー」
「顔、にやけてますけど」

言われて、慌てて表情をつくった。けれど、先程までの醜態をさらした後では
取り繕っても無意味に違いない。急に真面目ぶった朋子に、由加は苦笑気味だった。

「先にお風呂行っておいで」
「えー。片付け手伝う」
「気にしなくていいから」

頬を膨らませたけれど、家主に従わないわけにもいかない。渋々と朋子は由加から
離れた。

由加の家に泊まる旨はすでに家族にも連絡していた。あっさりと了承されたのは
日頃の行いが良いからなのか、通話を代わった由加が信用されているのか。
判らなかったけれど、心の内では素直に喜んでしまっていた。

にやけないようにと、必死に抑える。
上手にできている自信はなかったけれど、どうにかしようと頬を叩いた。
102 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:24
 
103 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:25
そもそも、ホテルで同室になることは今までにもあった。だから、今夜も
気負わずにいればいいのだと朋子は思う。

シャワーを浴びている由加を待っている。一人でいる方が落ち着かなかった。
目的もなく携帯電話でインターネットを見て、時間を潰す。

雑念が湧きそうになった。単純に寝泊まりするだけだと、自分に言い聞かせる。
リラックスする方法でも調べようか、と思っていた矢先に由加が戻ってきて、
朋子はちらりと目線を上げる。

「なにしてるの?」
「んー、べつに」

朋子が答える。尋ねた由加も、たいした興味はなさそうだった。朋子は携帯電話から
手を離す。まだ時計の針は天辺を回っていない。眠るには早いとも言えるけれど、
由加が早寝なのも知っていた。

会話は続かず、沈黙が生まれた。なにか言うべきかと朋子が考えを巡らせていると、
向き合うように由加がちょこんと座る。

顔に手を伸ばされて、目を眇めた。手のひらでぺたぺたと頬を触られる。指先が
頬を引っ掻き、すぐにそこを撫でる。されるがままにしていると、由加が口を開いた。
104 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:26
「前にさ。ジュースで彼女にするなら、私か佳林ちゃんて言ってたじゃん」

脈絡なく始まった話に、朋子は眇めた目をさらに細くする。あくまでも雑談の
流れでの発言だった。由加が憶えていたことは不思議ではなかったけれど、
今その話題を持ち出す意図は掴めない。

雲行きがあやしくなりそうだと思った。話がどういった方向へ行くのか見当は
つかなかったけれど、無視するわけにもいかない。

「……そんなことも言いましたね」

朋子が応じると、うん、と由加も頷きを返す。その表情からは感情が窺えなかった。
その会話をしていた頃は、朋子の発言が半ば本気であることを誰も知らないはずだった。

例え話だと、冗談だと、誰もが信じていたはずだった。
けれど由加はもう知っていて、だからこそ出せる問いを投げられた。
105 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:26
「なんで佳林ちゃんじゃだめだったの?」

佳林を選べばよかったのにと。思われていたとしても、受け入れるしかない。
それが自然な感情だろうとも思った。朋子の好意は由加にとっては厄介ごとで
しかないと、判っていたはずなのに忘れかけていた。
どう返すべきか迷って朋子が黙っていると、慌てたように由加は言う。

「あ、いや、私だったのが嫌って意味ではなくてね?」

考えを読まれたわけではないだろうけれど、由加は朋子の懸念を否定した。
そういう優しさと機転が好きだった。真面目でしっかりしていて、他にも好きな
理由はいくつもあった。これほどまでに好きだと思える相手は、一人しかいなかった。

由加のことも、紗友希も佳林もあかりもかわいいと思う。けれど、好きだと
思う境界線はどこにあるのだろうか。見た目だけの問題ではないと、そこは
はっきりと判っていた。

ただ、自分でも判らないことを伝えるのはできそうもない。
言葉にできるのは、判りやすい根拠だけだった。
106 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:27
「かわいいとは思うけど。どちらかというと、年上が好きだし」
「えっ、嘘」
「……どこに驚いてるの?」
「ちっちゃい子が好きなのかと」
「失敬な」

目を瞬かせる由加の頭を小突く。年上だから、という理由だけではなかった。
年下だから受け付けないというわけでもなかった。言葉で表現できるのは
取るに足らないことばかりだ。

「っていうか、一人だけ名前挙げるのも、なんかガチっぽいから」
「おー。いろいろ気を遣ってるんだねえ」

感心したように由加は頷く。けれど、由加に好意を伝えてしまった時点で、
それまでの気遣いは台無しだった。些細なことにばかり気を取られて、
肝心なところで詰めが甘かった。

浮かれていたら、また間違う。
判っていたはずなのに、忘れかけていた。
107 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:28
「そうかあ」

ふむ、と考え込むように由加は言い、またぺたぺたと朋子の頬を触る。一度
輪郭をなぞってから、手は離された。引っ込められた手を目で追いかけたけれど、
なにかを言う気にはなれなかった。

なぜ好きなのかと、尋ねられたことを思い出した。朋子からしても納得のいく
回答を出せなかったから、由加が腑に落ちていなかったとしても仕方がない。

なぜ好きなのかと、朋子も知りたかった。なぜ由加なのかと、考えたことは一度や
二度ではなかった。関わりが少ない相手ならよかったのにと、思わずにはいられなかった。

毎日のように会えるのが、嬉しかったし苦しかった。気持ちを伝えてはいけないと
判っていたのに、思いが募った。矛盾を孕んだ感情を持て余して、ふとした瞬間に
取り返しのつかないことを言ってしまった。

好きだと伝えたのは間違っていたと、今でもそう思っている。
108 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:29
「あと、疑問」

由加が真面目な顔をして人差し指を立てる。由加の質問には答える義務がある、と
朋子は思った。不誠実なりに誠実でありたいと、歪んだことを思う。

「最近、好きって言わなくなったね」

予想外の台詞を投げかけられた。初めのうちは呆れるほどに口にしていた言葉も、
近頃はあまり言わなくなっていた。それは意図的な行動で、利己的な理由だった。

「え、いや。あんまり言い過ぎるのもよくないかなって」
「なんで?」
「軽くなる、というか」

朋子はさらりと本心で返した。本当のことをすべては言っていないだけで、
嘘ではなかった。わざわざ指摘されるとは思っていなかったから、嘘を
考える余裕もなかった。

朋子の答えに、由加はつまらなそうな顔をする。離されていた手が、また朋子の
頬に当てられた。真っ直ぐに瞳を見つめられて、息をのむ。
109 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:30
「言ってよ」

視線を外すのを許さないとでも言うかのように、由加は朋子に触れている。
由加の希望を叶えるのは簡単だった。胸が詰まるのさえ気にしなければ
声を出すだけの単純なことだった。

逃げたかったけれど、それが許されるわけもない。目は伏せたけれど、
逆らう気は初めからなかった。由加が望むなら、何度でも言うしかなかった。

「……好きだよ」

口にするたびに、思い知らされる。だから言いたくないのに。
言わないのは、本当は自分のためなのに。

「由加ちゃんが好き」

軽くなるどころか、言葉にするほど重くなる。だから言いたくないのに。
苦しくなるのが嫌だから、言わないでいるのに。
110 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:31
うまく呼吸ができなくなる。息継ぎをするように空気を吸った。由加はなにも
言わない。まだ満足していないのなら、どれだけ苦しくても言うしかなかった。

「……一番好きだし。由加ちゃんだけが好き」

徐々に声は小さくなった。それでも由加には届いたようだった。頬に添えられていた
手が離され、髪を撫でられる。朋子が目を上げると、由加は微笑んだ。

「よくできました」

ぽんぽんと頭を叩かれ、それ以上に言葉を求められることはなかった。
由加は立ち上がって、明るく言う。
111 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:31
「では、ともの私への愛も確認できたので。そろそろ寝ましょうか」
「……一緒に寝るの?」
「うん。布団、ないから」

部屋にあるのはシングルベッドがひとつだけだった。半ば予想していたとはいえ、
戸惑った。迷いを隠しきれずに目は泳ぐ。腰が重くて、立ち上がりたくなかった。

変なことはしない、とは言った。けれど、それがなにを指しているのか、
二人は確認していない。由加がどこまで考えているのか、朋子には判らない。

床で寝る、と言ったら却下された。由加は主張を譲りそうにもなくて、
朋子は手詰まりになる。信用してくれている、と思えば嬉しかった。
けれど、由加の内心を思うと素直に従っていいのかと不安になった。
112 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:34
「……恐くないの?」

あれほどに好きだと言わせておいて、由加はどうも思わないのだろうか。
泊まるということに過剰に反応する朋子を見て、由加はなにも感じないのだろうか。

朋子の動揺の意味を由加は理解していた。それでも由加は引き留めた。口約束は
したけれど、それは簡単に破ることができる。それは由加も判っているはずだった。
ふう、と由加は溜息をつき、朋子の手を掴む。引っ張り上げながら、由加は言う。

「ともは約束破るような子じゃないと思ってるよ」

ほら、とベッドに上がるよう促される。もうなにも言うことはなかった。
触れあわないようにするのは無理なくらいの広さだった。二人で並べば距離は
限りなくゼロに近くて、離れることもできない。

おやすみと互いに言葉を交わした後で、リモコンで照明が落とされる。朋子は
静かに目を閉じた。想像していたよりも寝心地は良くて、すぐに眠れそうだと思った。

そして、なにより。
想像していたよりも理性的でいられたことに、安心した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
113 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:34
 
114 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:35
>>88-112
ストレンジ-
115 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:35
>>3-45
イントロダクション
>>51-81
デイパス
>>88-112
ストレンジ-
116 名前:ストレンジ- 投稿日:2014/04/30(水) 21:36
一回分が予定より長くなりそうなので、一旦更新します。
それに伴いサブタイトルもはんぶんこ。

レスありがとうございます。

>>85
ぽいですか? 内面的な関係はよくわかりませんが、私の中では、吉澤さんも金澤さんも
女子高の王子様的なイメージがあります。後藤さんと宮崎さんとなると、「んあ」のかわりに
「しょーん」等がありますね。……冗談はさておき、続きも読んでいただけていたら嬉しいです。

>>86
実際のところ、暴君な金澤さんですが宮崎さんには(比較的)優しい印象があります。
うーん、でも、そんなに明るいお話でもない感じなので。どうか頭を上げてくださいな。
何はともあれ、楽しんでいただけているのでしたら作者としても嬉しいです。
117 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/04/30(水) 22:59
金澤さんに感情移入しちゃって、更新の度に胸が苦しくなります。
宮崎さんは何を考えてるんだろう。
118 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:33

119 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:34
 
   ▼
 
120 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:34
リハーサルスタジオでは、窓にカーテンが引かれている。
外は春だというのに夏のような陽気で、室内も熱気に満ちていた。

身体が柔らかくなったと言ってはしゃいでいる由加を微笑ましく思って、
すぐに嫌になる。あかりが隣でストレッチを始めたのを見て、朋子は目を逸らした。

由加とあかりは仲が良い。
二人で話したり出かけたり、空き時間にじゃれ合っているのは日常だった。
単に、由加が面倒を見ているだけ、とも言える。それでも、関わりが多いという
ことには変わりがなかった。

羨ましく思う。
同じように出来ないことは判っている。等しく扱ってもらえないことも判っている。
あの甘え方を真似することは出来ないし、したくもなかった。

あかりがはしゃいで由加にのしかかる。
見ない方がいいと判っているのに、気になってしまう。
121 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:35
平静を装っていると、佳林がぱたぱたと駆け寄ってくる。ぶつかるように片腕に
抱きつかれた。受けとめて視線を向けると、子犬みたいに跳ねながら佳林が言う。

「とも、一緒にストレッチしよ」
「えー? どうしよっかな」
「なんだよお」

佳林は頬を膨らませる。あざといくらいの仕草に笑いがこみ上げた。膨れた頬を
人差し指で突けば空気が抜けて、拗ねたように唇を尖らせる。

冗談だよと佳林に告げて、誘われるままに柔軟運動を始める。由加の方は見ない。
楽しげな声が聞こえてきて、耳を塞ぐかわりに佳林と話す。

話の内容も把握しないままに、ただ気を紛らわせるために佳林の声を聞く。
白々しい相槌しか打てないのに時間は流れる。

こんな思いをするくらいなら、別々の仕事の方がましだとも考えた。
溜息をつかないように我慢する。雑念を佳林に気付かれないように、努力した。
122 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:35

123 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:36
午後からも同じ場所で別のレッスンだった。
昼休憩は長めに設定されている。弁当を食べても時間は余るから、それぞれが
自由に過ごすことになる。

朋子はだらしなく床に座り込んでいる。隣では紗友希がバッグから飲み物を
取り出している。汗が首筋を流れるのをタオルで押さえながら、朋子は言う。

「今日も由加ちゃん、困ってるね」
「ん? 顔?」
「うん」

声の届かない距離に由加はいた。振り付けと場位置を確認したばかりだったからか、
ペンを握って熱心にメモを見直している。

由加は普段から困ったような顔に見えがちだ。真剣な表情をしていても、その合間に
素の表情が見え隠れする。ダンスレッスンやリハーサルでは顕著だった。

今日もまた、不安げな顔をしている。心配事などない方がいいことは朋子も判っている。
けれど、憂うような表情も好きだなんて思ってしまうのだから、手に負えなかった。
朋子がぼんやりと考えていると、紗友希は言う。
124 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:37
「守ってあげたい系だよね」
「確かに。高木さんはジャングルでも生きていけそうだけど」
「おい。猿って言うな」
「言ってないし」

軽口をたたき合う。紗友希となら遠慮なく話せるし、気軽に肩を叩いたりも出来る。
甘いやり取りではないにしても、触ることに抵抗を覚えない。試しに紗友希の頬を
つねっても、それで手首を掴まれても、大きく感情が動くことはない。

同様に、紗友希が誰かと騒いでいても気にならない。
ただし、由加以外が相手なら、という条件はついた。

嫉妬心。
認めたくないけれど、その感情を持っていることをもう否定はできなかった。
125 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:37
自然にスタジオを抜け出す方法はないだろうか、と朋子は思う。
少し離れるくらいなら容易だけれど、数十分も席を外すのは難しい。

難しい、というのは正確ではなかった。不自然さを許容さえすれば、
実行することは造作ない。そして朋子にとっては、同じ空間で由加とあかりが
じゃれ合っているのを見続ける方が、難度が高かった。

「ちょっと外の空気、吸ってくる」
「ん? いってらー」

朋子が腰を上げると、紗友希はひらひらと手を振る。ついていく、と言われなかった
ことに安心した。一人になりたかった。苛つきを悟られないようにするのは、疲れる。
長く抜けることになるだろうから、由加にも声をかけてから出ようと思った。

あかりが由加に、僅かな隙間もなくしがみついている。そこに歩み寄って、事務的に
話しかければいいだけのはずだった。

それなのに、近寄って、思わず二人を引き剥がしていた。

あかりがきょとんとして朋子を見上げる。
自分がしたことに気が付いた。まずいと思ったときには遅かった。
乱れた心を抑えながら、取りなすように朋子は言う。
126 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:38
「……あんまりくっついたら、由加ちゃんが困るでしょ」
「いいやん。少しくらい」

惚けていたあかりが、朋子の台詞を受けて不平を言う。その頭を叩いて、
「ちょっと抜けるね」と由加に向けて言う。動揺で、心臓が大きく脈打っていた。

早くその場を去りたかった。ドアを開けて廊下に出る。
どこに行けばいいか判らないままに、人が来なさそうな方へと足を進める。

慣れているはずだった。
由加があかりと手を繋いでいても、見たくないだけで見ることはできた。
抱きついていても同じだった。いつもなら静観できていたのに、急に頭に血が上った。
127 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:39
歩き続けて、廊下は行き止まりになる。非常階段へと続く扉は、ドアノブに覆いが
してある。外に出ることは出来ずに、朋子はその場にしゃがみ込んだ。またいつか
同じ失敗をするに違いないと思った。抑える方法を知りたかった。重い溜息が漏れる。

だから優しくしないで欲しいと言ったのに。
もっと好きになるからやめてくれと言ったのに。

そう伝えたのは、この場所だった。思い出すまでもなかった。
あの日に付き合おうと言われて、関係が始まって、今も続いている。

間違っているのは判っている。終わらせなければと思っている。
そうしたくないから困っている。本当に困っているのは誰なのかも判っている。
128 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:39
「こら。だめでしょ」

足音の後に聞こえた声に、顔を上げられない。由加が目の前にしゃがみ込むのが、
見なくても判った。肩を手で叩かれて、優しい言葉をかけられる。

おずおずと頭を上げた。由加が困ったような顔で、朋子の髪を撫でる。
追いかけて来てくれたことは、嬉しいのと同じくらいに悲しかった。

「だから、優しくしないでって言ったのに」

口から出たのは、由加を責めるような言葉だった。こんなはずではなかったと、
こうも情けない姿を晒すことになったのは由加のせいだと、朋子は思った。
129 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:40
由加が朋子の腕を取って立ち上がる。引きずられるように朋子も腰を上げる。
近かった距離が、由加によって埋められる。抱き寄せられれば為す術もなくて、
朋子は黙って流れに従う。

「ほら、あーりーと一緒」

ぽんぽんと背中を叩く手が優しかった。優しくするなと言っているのに。
振っておいて付き合って優しくして、だからもっと好きになってしまうのに。

「……一緒じゃ、嫌だ」

腕に力を込めて抱きしめる。由加が身を竦ませるのが判った。
触れられなくてもいいと思っていた。そのはずなのに、もう構わないと思った。
嫌なら突き放されるだろう。それで傷ついてもいい。もう構わないと思った。
130 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:41
腕の中で身体を強ばらせておいて、なぜ付き合い続けるのかと問いたかった。
ずっと朋子からは手を出さなかった。近くにいても、出来るだけ触れないようにと
気をつけていた。

ひとつの部屋にいても、同じベッドで眠っても、なにもしないし出来ない。
由加はきっと安心していた。朋子の臆する気持ちを判っていて、安全な場所に
しかいなかった。茶化すように触れてきた。

好きだからこそなにも出来ないのだと、きっと悟られていた。

均衡を崩してしまった。
怯えた顔をしているだろうと思うと、目を合わせたくなかった。

顔を俯かせて、身体を離す。離したくないと、思ってしまうのは間違っている。
間違ってはいないのに、許されない。こちらから働きかけるのは許されないことだと、
判ってしまった。由加の顔は見ないままに、小さな声で朋子は言う。
131 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:41
「……ごめん。先に戻ってて。すぐに行くから」

躊躇うような間があった。待ってる、と言い残して、由加が歩いて行くのが判った。
足音が完全に聞こえなくなってから、朋子はもう一度しゃがみ込む。

好きじゃないと、好きではないと、胸の中で唱える。
そんな見え透いた嘘では自分を騙せない。すぐに行くというのも嘘だった。

嫌いになれればいいのに。嫌いだと言ってくれればいいのに。
優しくされるから勘違いしたくなる。縋りたくなる。好きになる。

のろのろと腰を上げた。結んでいた髪を解いて、溜息をつく。
もう一度抱きしめたいなんて、思ってしまうのは、間違っている。
132 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:42
 
   ▼
 
133 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:42
事務所のビルの最上階で、朋子は窓を開ける。思っていたよりも風が強くて、
顔を顰めた。仕方なく窓を閉める。夕暮れ時の風景はなんの変哲もなかった。

組んだ両手を窓枠にのせて、ぼんやりと外を眺める。
リハーサルスタジオでのやり取り以来、朋子は迷っていた。
どう由加に接するべきかを悩んでいる。それで、今日はついに誘いを断ってしまった。

「付き合うって、なんなの……」

溜息交じりに呟く。由加が笑ってくれるだけで、一緒にいられるだけで嬉しかった頃が
懐かしかった。一度は絶望したのに、そこから妙なことになったせいで欲が出た。

額を窓ガラスに押しつける。ひんやりとした冷たさが心地良かった。
帰らなければ、と思った。いつまでもここにいるわけにはいかない。
134 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:43
「なにしてんの?」

自分が声をかけられたのだと、気付くのに時間がかかった。朋子は顔を上げる。
よっ、と軽い挨拶をして、紗友希が隣にやって来る。今日は別々のレッスンだったけれど、
紗友希の方も仕事は終わったらしかった。

「なんだ、高木さんか……」
「なんだとはなんだ」

紗友希が朋子の肩を叩く。誰かと話したい気分ではなかった。
朋子が応じずにいると、紗友希は首を傾げる。
135 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:43
「なに? なんか悩み?」
「んー」

ちらりと紗友希に目線を向けて、すぐに窓の外へと向ける。抱えているものは、
悩み、と言えなくもない。ただ、打ち明けられるようなものではなかった。

由加と付き合っている。朋子が一方的に好意を寄せているだけで、形ばかりの
関係を結んでいる。判っていたことなのに、徐々に不満が募っている。

からかうように触れてくるくせに、こちらから距離を詰めれば身を竦ませる。
柔らかさも甘い香りも、手中に収めたかった。だから思わず腕に力を込めた。

結果として、想像通りの反応を返されただけだった。
それなのに精神的に打撃を受けているのだと、教えられるわけもない。
136 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:44
「言いたくないならいいけどね」
「……ありがと」
「うわ。素直すぎて気持ち悪い」
「うるせー」

紗友希の頭を小突く。大げさに仰け反られて、笑いが漏れる。心配してもらえる
ことには感謝した。けれど相談するわけにはいかないから、申し訳なく思った。

それ以上、問いただされることはなかった。
紗友希が窓枠から手を離して、言う。

「帰ろうよ」
「んー。もうちょっとしてから帰る。ありがと」
「やっぱり今日のとも、素直すぎて気持ちわるっ」

殴ろうとしたら逃げられて、そのまま手を振る。窓の外では夕闇が迫っている。
「なんかあったらいつでも言ってよ」紗友希が言い、朋子も頷く。
実際に言ったらどうなるかは、考えたくもなかった。
137 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:44

   ▼
 
138 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:45
「由加ちゃん」

意を決して、朋子は由加に呼びかける。楽屋には二人きりで、誰かがやって来る
気配もなかった。雑誌に目を落としていた由加が顔を上げる。深呼吸をして、息を
落ち着けた。きょとんとする由加に、朋子は言う。

「こないだ。ごめん。あの」
「え? どれ?」
「……一緒じゃ嫌だ、とか言ったの」
「ああ、それ?」

そんなことか、と由加の顔に書いてある気がした。ぱたりと雑誌が閉じられて、
由加が朋子の隣の席へと移動する。向かい合うように座った由加を、情けない
思いで見つめる。叱られるだろうかと考えていたら、額を強めに叩かれた。
139 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:45
「あーりーは仕方ないでしょ。わかるよね?」
「……うん」
「なんなら、おんぶしよっか?」
「いや、そういうのはいいです……」

あかりの甘え方は、高校生とは思えない。背中にくっついてくるだけならまだしも、
おぶることまでせがむ。そして、由加がその相手をしている。

あかりを放っておくわけにもいかない。仕方がないのだと、判っていた。
朋子が恐縮していると、短く嘆息して由加が言う。

「一緒にしてないつもりだけど」
「……私と、うえむー?」
「うん」
「でもさ」

続けようとした言葉を、慌てて引き留めた。「でも、なに?」由加が言う。
あかりがぴたりと密着したところで、由加は顔色ひとつ変えない。
朋子はそれを何度も見ていて、知っている。

けれど、朋子が相手では違うと。
言ったら、由加に嘘をつかせることになると思った。
140 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:46
「ちゃんと言って。誰か来ちゃうよ?」

急かすように由加が言う。朋子としても、他の誰かに聞かせたい話ではなかった。
身を竦ませた由加が本物だと判っている。取り繕わない本当の姿だと判っている。

言わない方がいいと思った。由加に手首を掴まれて、真っ直ぐに見つめられる。
早く言うようにと目で促された。躊躇った後に、朋子は口を開く。

「……怖がってるでしょ。私のこと」

不満を言えるような立場ではないのに、拗ねたような声が出た。
そのことに自分で驚いた。けれど、慌てたところでやり直せるわけもない。

由加は肯定しないだろうと朋子は思う。目を逸らされて、僅かに心が痛む。
そんな資格はないと判っている。それでも落胆を覚える。気が落ちる。
迷ったように一拍置いてから、由加は口を開く。

「……この前は、ちょっと驚いただけ」
「……ほんとに?」
「だって、ともからああいうこと、あんまりされたことなかったし」

外されていた視線が戻される。その瞳は揺れているように見えた。
返事は判っていた。由加は優しい。そんなことは判っていた。

朋子は罪悪感を抱く。言わせてしまったも同然だった。
複雑な表情になった朋子を見てか、由加は苦笑する。
141 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:47
「もう一回する?」
「え?」
「ぎゅーってしていいよ?」

ほら、と由加が両手を広げた。

心の準備が出来ていれば大丈夫なのだろうか。
朋子が傷つかないように振る舞えるから、いいのだろうか。

逡巡して、手を伸ばしかける。許可された行動を、起こそうとする。
そうしたいと願っていたのに、いざとなると勇気が出なかった。
腕を上げて背中に回すだけのことなのに、とてつもなく大儀なことに思えた。
142 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:47
「……やめとく」
「なんで?」
「誰か来たら困るし」

朋子の言葉を聞いて、由加は両手を下ろす。冷静になってみると、楽屋でするような
ことではないと思った。誰かに見られたら、どう申し開きをすればいいのかも判らない。

ドアが開かれる音がして、朋子は安堵する。たとえあかりが由加に抱きついたとしても、
目を逸らすだけで済んだ。もっと静穏な気持ちでいられたらいいのにと思った。

一緒では嫌だと思った。一緒にはしていないと由加は言った。このままずっと
付き合っていたいと思うのと同じくらいに、今のままでは嫌だと思ってしまった。

もう、一方的では、嫌だと思った。
143 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:48

   ▼
 
144 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:48
地下鉄の駅を出ると、平日だというのに相変わらずの人出だった。太陽が眩しく、
アスファルトの照り返しも強くて朋子は目を細める。

「なんか、夏みたいだね」
「だね」

由加も片手で庇を作るようにして、言う。暦の上ではまだ春のはずだったけれど、
昼間の雰囲気でいえば夏に近かった。からりと晴れた日は尚更だった。

他愛もないことを話しながら歩く。たとえ落ち込むようなことがあったとしても、
やはり一緒にいられるのが嬉しいと思うのは変わらなかった。
誘ってもらえた日は、特別扱いをされているようで嬉しかった。
145 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:49
人混みを抜けて、ファッションビルに辿り着く。はじめにエスカレーターで
上へ上へと向かうのは、二人でいるときの習慣のようになっていた。

今日も由加が二段先に乗っていた。僅かに見上げながら、朋子は躊躇いを覚える。
言おうと思っていたことがあった。言えば終わってしまうかもしれなかったけれど、
由加がそれを選ぶなら逆らえないことだった。

会話の切れ目のたびに、迷う。その様子を不審に思ったのか、由加が首を傾げる。
そうするうちにも最上階に近づく。朋子は言うタイミングを逃し続けている。

リハーサルスタジオの廊下の端で言ったことを、思い出す。
あかりと一緒では嫌だと、伝えた言葉はやはり本心だった。
146 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:49
由加に、特別扱いして欲しかった。他の誰とも違う立場にいたかった。
付き合っているのだから、叶っているのかもしれなかった。けれど、これは違うと、
朋子は判っていた。形だけの関係でも良いと思えていたのは、過去のことだった。

「由加ちゃん」
「なに?」

思い切って朋子が名前を呼ぶと、由加は微笑む。二人はエスカレーターの左端に
寄って、上へ上へと運ばれていく。言葉が詰まる。周囲に人はいなかった。

「誕生日プレゼント。欲しいもの、あるんだけど」
「うん」

四月の平日、今日と同じように一緒に出かけた日があった。そのときに由加は
七月なんてすぐだと言った。誕生日プレゼントはどうしようかと、朋子に訊いてきた。
147 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:50
欲しがってはいけないと判っていた。今のままで満足していれば、しばらくは平和に
付き合っていけるだろうと思っていた。それでも特別が欲しかった。

由加が段差の分だけ朋子を見下ろす。口に出せば、なかったことには出来ない。
それでもいいのかと、もう一度自分に問いかける。由加は優しい顔をしている。
きっと困らせる。判っていたけれど、朋子は言う。

「……好きって、言ってほしい」

朋子が何度も口にした言葉だった。由加に伝えたことだった。
声に出すだけの単純なことなのに、手に入らなくても仕方のない言葉だった。

由加は困ったように笑う。嫌だと言われても、構わなかった。
言葉がもらえなかったところで、マイナスになるわけではない。
ゼロのまま、前進も後退もしないだけだ。

あとひとつフロアを上がれば最上階だった。思案するような間の後に、由加が言う。
148 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:51
「考えてもいいかな。まだ、日にちあるし」
「……もちろん」

由加の台詞に、朋子は頷いて返す。
感情の込められていない言葉が欲しいわけではなかった。ただ言ってくれればいいと、
そう思っているわけではなかった。朋子の望みを、由加はおそらく理解している。
重くなりかけた空気を払うように、由加が明るく言う。

「ともは私のこと、どう思う?」

最上階に辿り着いた。
由加が先にエスカレーターを降りる。それに着いていきながら、朋子は頭を掻く。
求められている答えは想像がついたから、逆らわずに口を開いた。
149 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:52
「好きですけど」
「うん。知ってた」
「……なんでそんな何回も訊くの?」
「大事なことだから」

横に並ぶと、由加が片手をひょいと差し出す。その手を叩き落として、軽く睨み付けた。
そうすれば由加は楽しげに笑う。その顔が好きだと思った。からかわれているのだとしても、
笑ってもらえるのは嬉しかった。

撮影でなら手も繋げるし、身体を寄せられる。
けれど、誰の目もないところでそうするには後ろ暗い。

一方的に感情を押しつけている自覚はある。
だから、後ろめたい気持ちに駆られて罪悪感も募る。

好きでいるのは自由だと、由加は言った。
それは同時に、好きにならないのも自由だということだった。

好きだと、告げてはいけない気持ちを伝えてしまった。
由加は応えなかった。諦めようと思った。付き合おうと言われた。

間違っているのは判っている。
求めてはいけないのは判っている。

それでも。
好きになってほしいと望むのは。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
150 名前:-アトラクタ 投稿日:2014/05/10(土) 20:52

151 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/05/10(土) 20:53
>>119-149
-アトラクタ
152 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/05/10(土) 20:53
>>3-45
イントロダクション
>>51-81
デイパス
>>88-112 >>119-149
ストレンジアトラクタ
153 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/05/10(土) 20:54
>>117
レスありがとうございます。とても励みになります。
そろそろなにを書いてもネタバレになっちゃいそうでアレですが……。
この更新も見ていただけていたら嬉しいです。
154 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/05/10(土) 20:55


さてさて、このお話もここらで中盤です。
(予定より長くなっているので、全然中盤ではない可能性も高いですが……)

つきましては、当スレの閲覧により生じたいかなる損害に関しても作者は責任を
負いかねますので、了承していただける方のみ読み進めてください。とか言って。
155 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/05/11(日) 02:16
ゆかにゃんが何を考えているのか…かなともと共に翻弄されています。
更新楽しみに待ってます。
156 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/05/11(日) 20:42
いつも読み応えある更新ありがとうございます。
中盤戦もワクワク楽しみに更新お待ちしております。
高木さんいい奴。
157 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:07
 
158 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:07
道中でアイスを買った。
五月も後半となると昼が長くなる。日陰を求めて、遠回りにはなるけれど公園に入った。

園内は走りまわる子供たちで騒がしい。木陰のベンチに腰掛けている子らも、
携帯ゲーム機で対戦でもしているのか歓声をあげている。

コンビニのビニール袋を指に引っかけて、朋子は公園を突っ切る。
足元は土からアスファルトに変わった。木々の影から出ると途端に日差しが
眩しくなり、思わず目を細める。ここからは目的地に直行することにした。

もう着くよ、と由加にメールを送る。今日は別々の場所で仕事だったけれど、
解散になる時刻は近かった。それを知って、無性に会いたくなった。

毎日と言っていいほど顔を合わせているし、明日になればメンバー全員が集うことも
判っていた。明朝まで残りは二十四時間もないことも判っていた。
都合が悪ければ断られるだろう。そう考えて由加に連絡を取ったのが、数時間前。

会いたいと言ったら、いいよと返された。素直に欲求を伝えたことが今になって
むずがゆく感じられて、その思いを追い払うように朋子は頭を振る。

マンションの前に辿り着いたところで、気を落ち着けるように深呼吸をした。
オートロックを解除してもらい、エレベーターで上階へ向かう。階数が移ろうと、
むずがゆさの代わりに僅かに緊張がやって来る。
159 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:08
玄関のインターホンを押すと、チェーンが外される音の後にドアが開かれた。
由加はにこりと微笑んで朋子を出迎える。いつも通りの表情に、ほっとした。

「いらっしゃい」
「お邪魔します。これ、お土産」

手にしたビニール袋を掲げて、渡す。中にはカップアイスが二つ入っている。
色々と考えて選んだものだったけれど、気に入ってもらえるかは不安だった。
朋子の懸念をよそに、袋を覗き込んだ由加は目を輝かせて言う。

「わー! 嬉しい! ね、ね、食べていい?」
「好きな方選んでいいよ」

由加がアイスに目がないことを知っていて買っては来た。予想通りではあったものの、
自分の来訪よりも土産を喜んでいるようにしか見えないのには、苦笑と溜息が入りまじる。
160 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:08
けれど、足取りも軽く部屋に向かう由加を見れば些細なことは気にならなくなった。
好きなものを目の前にすれば嬉しいに決まっている。その単純な理屈は、由加にも
朋子にも当てはまっていた。

先を行った由加を追いかける。朋子を待っていたのかアイスには手がつけられていない。
行儀良く座った由加があまりに嬉々としていて、思わず笑みがこぼれた。
ひとつを指しながら、確認するように由加が訊く。

「こっちもらっていい?」
「いいよ」

朋子は頷きを返す。ローテーブルを挟んで向かいに座った。スプーンを手にした
由加はいつになく楽しげだ。こうも嬉しそうにされると、やはり些末なことは
気にも留まらない。

いただきまーす、と由加が明るく言う。それを合図にするように、それぞれが
カップアイスの蓋を外す。頬を緩める由加を前にして、スプーンを片手に
何気なく朋子は言う。

「ほんと好きだね」
「うん、好き」

由加の返事は単純なものだった。軽々と口にされた言葉は朋子が欲しいもの
だったけれど、今の台詞は自分に向けられた感情ではないと判っていた。

喜んでくれているのだからこれでいいのだと思う反面、複雑な気持ちにもなる。
顔に出てしまっていたのか、由加も表情を曇らせた。それに気付いて焦りを覚える。
空気を重くしたいわけではなかったから、誤魔化すように朋子は明るく言う。
161 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:08
「由加ちゃんにあんまりアイス与えたらいけないんだった」
「いやいや、そんな野良猫に餌を与えないでくださいみたいな」
「食べ過ぎでしょ、明らかに」

気を逸らすような台詞に由加も乗ってくる。わざわざ朋子が買ってくるまでもなく、
冷凍庫にはアイスが常備されているはずだった。それぐらいの知識はあった。

わざわざ買ってくるなんて、不要な気遣いだとは判っている。なのに、新商品が
出ていないかとコンビニで確かめたり、手土産にしようかと考えたりする。

それはひとえに由加が笑ってくれたら嬉しいからだ。同じものを楽しみたいからだ。
感情を共有したかった。由加がなにを好きでどう好きなのかを分かち合いたかった。
真の意味では無理だと判っている。ただ、なぞりたいだけだった。

もう余計なことを言うまいと黙々とアイスを口に運んでいると、視線を感じた。
目を向けると、由加がこちらにスプーンを差し出している。朋子が小さく
眉を上げると、それには構わずに由加は言う。
162 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:09
「一口食べる?」

スプーンの上にはアイスが一口分のせられていた。由加が意図するところは簡単に
察せられ、苦い顔で朋子は答える。

「……いらないです」
「そう言わずに。ほら、あーん」
「いやいやいや」
「溶けちゃうよ?」

朋子が拒むと、由加は不満げな顔をした。後ずさりしたくなるのをぐっと堪える。
ほら、と由加が視線だけで促した。時間が経つほどに恥ずかしさが増していくのに、
由加は諦めてくれる様子もない。仕方なく、朋子は覚悟を決める。

目の前に差し出されたスプーンをおずおずと口に含み、すぐに距離を取る。甘みが
舌の上に広がったようには感じられたけれど、どんな味なのかはよく判らなかった。

「とも、顔真っ赤」

愉しむような口調で言う由加を恨めしく思う。朋子は目を逸らして手の甲で口許を拭った。
冷たいものを食べたはずなのに顔は熱くなり、脈拍は早くなる。朋子の動揺をよそに、
由加は平然として言う。
163 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:09
「そっちもちょうだい」
「……どうぞ」
「普通にもらっていいの?」

答えずに、テーブル上のアイスを由加に向けて手で押し出す。わざとらしく唇を
尖らせて由加はそれを受け取った。ぱたぱたと手で顔を仰ぎながら朋子は言う。

「ごめん、これ以上は無理」
「えー?」

またしても、わざとらしく非難するような声で返される。由加は肩を竦めて、大した
感慨もなさそうにアイスを口に運んでいる。ようやく熱が冷めてきたところで、
朋子は文句をつける。

「からかわないでってば」
「あ、こっちもおいしい」
「由加ちゃん、聞いてる?」
「聞いてなーい」

一口食べて、アイスが返される。「聞こえてるでしょ」朋子がふて腐れて言うと、
由加はくすりと息を漏らす。朋子が軽く睨み付けても、由加は悦に入ったように
笑うだけだった。
164 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:09
 
165 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:10
イベントで撮影された映像を観ることにした。楽しむためではなく復習するためで、
淡々と流しながらメモを取り、時には停止させて場位置や振り付けを確認する。

朋子も一緒になって観ているものの、急に会いたいと言った手前、主導権は由加にある。
なにか見逃したのか、朋子の意見も聞かずに早戻しボタンを押しながら由加が言う。

「この曲のときさ、私のダンスどう思う?」
「え? あー、えっとね、かわいい」

とつぜん尋ねられて朋子は本音をこぼす。ふたたび映像が再生され始める以外の
反応がなく、不思議に思って隣に視線を遣ると、冷ややかな目を向けられた。
その理由が判らず朋子は硬直する。それを見て、由加はひとつ溜息を落とす。

「……真面目に訊いてるんだけどな」
「えっ、いや、真面目に答えたつもりなんだけど」
「はいはい」

あしらうような相槌を打って、由加は目をテレビに向け直す。画面では先輩グループの
楽曲をカバーしたときのステージが映っている。由加の視線はそちらに固定されている。
居心地の悪さを感じつつ、取りなすように朋子は言う。
166 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:11
「かわいいって大事だと思うよ?」
「ともに訊いても、由加ちゃんなら全部かわいい、とか言うでしょ」
「……あー、そうだね」

端から見れば自信過剰な由加の台詞に、朋子は幾度か頷く。図星をつかれているの
だから否定する理由がなかった。実際にそう思っているのだから仕方ない。
けれど、ふざけていると扱われるのは心外だったから口を尖らせて朋子は言う。

「本気で言ってるんだけど」
「うん、どうもありがとう」

慣れたように由加は応対する。朋子はそれがつまらない。気持ちを言葉にしたところで、
届いていないように感じられた。仏頂面をしてみせても、由加は気に留めた様子もない。

そうしている間にも、イベントは最後の曲に差しかかる。無事に終幕を迎えたところで、
ぷつりと映像は途切れた。言葉もなく、由加はDVDをデッキから取り出す。

顔色を窺うようにして見ると、気付いたのか由加は微苦笑を浮かべる。テレビの電源も
落とされ、二人が話さなければ音の一つも立たない。

由加はDVDをケースに仕舞い、朋子の手を取り立ち上がらせる。黙って従うと、時計を
指して由加が言う。
167 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:11
「遅くなっちゃうから、今日はここまで」
「……うん。ごめんね、急に」
「それはいいんだけどね」

荷物をまとめて玄関に向かうと、由加はとことこと朋子の後をついて来る。そこまで
見送ってくれるのはいつものことだから気に掛けない。けれど、朋子の隣で由加も
靴を履き出したところで疑問に思った。その表情を見てか、由加が言う。

「駅まで送る」
「え、いいよ」
「いいじゃん」

朋子が断っても由加は聞く耳も持たない。ぐいぐいと背中を押され、追い出される
ようにして外に出る。鍵を閉める由加を見て、考えながら朋子は言う。
168 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:11
「じゃあ、駅からここまで私が送る」
「そしたら意味ないでしょ」

振り返って、由加は苦笑する。立ち止まったままの朋子を置いて由加は先に
歩いて行く。仕方なく追いかけると、由加はエレベーターを呼び出しながら言う。

「散歩したい気分なの」

納得いかないものの、そう言われれば為す術もなかった。マンションから出ると、
あれほど眩しかった太陽は沈んでいて、快晴だった空は薄く夕闇に満ちている。

車道沿いの歩道はゆったりと幅が広い。街灯や店先の看板、自動販売機の明かり、
行き交う車のヘッドライトで、日が暮れようとも深い闇に包まれることはない。

由加は隣でのんきに天を仰いでいる。まだ明るさは残っているのだから、
上を向いたところでなにかが見えるとも思えない。

由加がなにを好きか、朋子も多少は知っている。今までにインタビューで
答えたようなものならば、大抵は把握しているつもりだった。

嬉しそうにしているならそれでいい。そう思いつつも、居ないように扱われるのも
つまらない。存在を忘れ去られないようにと、朋子は由加に話しかける。
169 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:11
「由加ちゃん、星とか宇宙とか好きだよねえ」
「うん、好き」

由加は屈託なく言ってのけ、今度は気まずさも感じさせない。だから朋子も
受け流す。ありふれた言葉を口にされる度に揺らいでいては際限がないと思った。

「なにか見える?」
「うーん、今はあんまり」

朋子の問いに答え、上方を向いたままで由加は星座の話を始める。
それを遮る理由もないから、朋子は静かに聴き入った。

夜空に瞬く星はとても遠くにあるということ。
その光が地球に辿り着くまでには並外れた時間がかかるということ。

三つの明るい星からなる夏の大三角は、七月頃からよく見えるそうだ。
そのうちの一つの輝きは、数千年をかけて地球に届いているのだという。

見えているのに、とても遠い。
明るさが変化する星なのに、目で見るだけではその移り変わりは判らないらしい。
170 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:12
相変わらず空を見上げている由加の横顔に、そっと視線を向ける。
近くにいるのに遠いようにも感じられるし、目を向けただけでは心の機微は判らない。

星までの距離の測定方法を由加は説明する。
徐々に難しい話になり、聞いただけではよく判らない。

知ったところで使う場面もないだろうと朋子は思った。それよりも、二人の間の
隔たりを測る手段を教えて欲しかった。

近くにいるのに遠く感じるのは、きっと勘違いではない。けれど口には出せなくて、
かわりに朋子は感嘆の息を漏らす。

「いろいろ知ってるね」
「うん。好きだし」

朋子の言葉に、由加は薄く笑顔を浮かべる。
また遊ばれているなと思った。好きという言葉を朋子が欲しているのを知っていて、
由加は焦らすようなことをする。愉快げな由加とは対照的に、朋子の表情は渋くなる。
張り合っても仕方ないことだ。それは判っていたけれど、言わずにはいられなかった。
171 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:12
「羨ましい」
「ん?」

呟きを受けて、由加は朋子に視線を移す。いつもは躊躇いもなく由加にじゃれつく
あかりに羨望を抱いて、今日はまた別のものにやっかみを覚えている。
馬鹿馬鹿しいと思いつつも、朋子は言う。

「由加ちゃんに好きって言ってもらえるのが」

薄暗がりの中でも街灯のそばを通ればそれなりに明るい。照明の下で、由加は
くすくすと笑いながら言う。

「星座に嫉妬してるの?」
「……そうかもね」
「変なの」

そう返して、由加はまた可笑しげに息を漏らす。やはり、対抗しようとしても
もどかしい思いになるだけだった。判っているのに言うのだから、滑稽でしかない。

由加はまた夜空に視線を向ける。人の往来もそれなりにあるのに気もそぞろだ。
ふわふわした様子の由加に朋子が呆れていると、不思議そうに尋ねられた。
172 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:12
「ともはあんまり興味ないの?」
「あー、そうだねえ」

朋子が曖昧に返事をする合間にも、由加は地上に注意を向けない。送る、と言われた
ものの、この風情だと由加の帰り道の方が気に掛かる。

正面から自転車がやって来る。気付いていないのか由加は空を見上げたままで、
思わず朋子は彼女の腕を取って引き寄せた。

ぶつかることもなくすれ違って、安心した。しかし、さすがに注意すべきかと思った。
眉間に皺を寄せて由加を見ると、そのまま腕を組まれた。朋子の顔色を窺うように、
由加が訊く。
173 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:13
「だめ?」
「……いいけどさ」

振り払うのもおかしいだろう。それに、安全のためにはこうしていた方がいい。
触れている部分から意識を逸らすために、朋子は叱るように言う。

「上ばっかり見てたら危ないでしょ」
「ともが一緒だからいいの」
「よくないから」

口を尖らせた由加が前を向くかわりに朋子は空を見上げる。星とも人工衛星とも
つかない光が目に入って、由加には区別がつくのだろうかと思った。
尋ねてみてもよかったけれど、そうはせずに朋子は呟く。
174 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:13
「ちょっと勉強してみようかな」

楽しそうに話す由加を見るのが好きだった。
彼女の声で語られるだけでどんなことにでも心を惹かれた。

だからアイスの新商品も調べるし、星座にも興味が湧く。最近では関心を持つのは
由加が好むものばかりで、朋子は自分のことながら呆れ果てていた。
ぼんやりとそう考えていると、横を歩く由加が笑いを漏らす。怪訝に思って、朋子は訊く。

「……なに笑ってんの?」
「ともが、私の好きなものについてどんどん詳しくなっていくなあって」
「……それは、まあ」

由加の指摘はまさにその通りで、朋子は言葉を濁すしかなかった。

由加のことを理解したかった。感情を共有したかった。
それを伝えたところでどうにもならないことは判っている。
だからいつも一方的にしか行動できない。
175 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:13
「ともはなにが好きなの?」

軽い調子で由加が問う。
話の流れでいえば、趣味だとか興味のあるものを訊かれているのだろうと思った。
車の排気音がうるさい。静かになるまでの間を使って朋子は答えを探した。
どうせ言わされるのだろうと考えて、真っ先に思い浮かんだものを口にする。

「一番は由加ちゃんだけど」
「おお、直球」
「……知ってて訊いてるくせに」

愉しげに笑う由加を、朋子は苦々しい顔で軽く睨み付ける。由加が望みそうな回答で
先回りしただけなのに、結局は悔しい思いをさせられる。
朋子の反応が可笑しかったのか、由加はにんまりとして言う。
176 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:14
「今日、積極的だね」
「なにが?」
「会いたいって言ったりとか」

会えなくて寂しいとか。何度も思ったことはあるのに今までは口に出さずにいた。
迷惑ではないだろうかと心配だった。なにより、断られるのが怖かった。

だから今日は、突然の連絡に応えてもらえて嬉しかった。
好きな人を目の前にして、気持ちが踊らないわけがない。

これ以上に羽目を外していけない。
そう思いつつも、朋子は言葉を止められない。
177 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:15
「……だって、会いたいし、好きだし」
「なにか変なものでも食べた? 超素直」

朋子の台詞に由加は目を瞬かせる。ひねくれた性格をしている自覚はあるけれど、
ここまで意外そうにされるとは思っていなかった。顔を顰めつつ、朋子は訊く。

「……普段さ、そこまで素直じゃないように見える?」
「見える。愛情表現すっごい下手だなって感じする」

朋子の問いに、由加は頷いて返す。腑に落ちない思いを抱えていると、
考えるような間の後に由加がぼそりと言う。

「だから時々ストレートに言うんだと思う。ゼロか百か、みたいな」

由加の言葉に、朋子はなにも返せなかった。

全か無か。白か黒か。
偏った思考をしていることに、自分でも気づけていなかった。
由加が言うのならば、そういう傾向はあるのだろうと朋子は思う。

溜息をつきたくなった。
一番近くにいるはずなのに、自分のことは見えにくい。
178 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:16
歩き続けて、ついに駅舎が目に入った。二人での散歩は終わりに近づいていく。
わずかな時間が経つだけでも夜は次第に更けていく。

駅前に到ると途端に明るさが増した。帰宅する人や部活帰りの学生、ほかにも
多くの人々が歩き、立ち止まり、影をつくる。

組まれた腕を意識する。緊張したのは初めのうちだけで、慣れてしまえばなんともない。
このまま落ち着いた関係でいたいとも思う。けれど本当は別のものを望んでいる。

会ってもらえて嬉しかった。
期待に応えてもらえることを、当たり前と扱ってはいけないと思った。

周囲は騒がしさに満ちている。朋子は由加の名前を呼ぶ。
由加は首を傾げて、視線だけで続きを促す。二人の関係を確認するために、
ゆっくりと朋子は口を開く。
179 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:16
「また、会いたいとか、言うかもしれないけど。……嫌だったら言ってね」
「わかってるよ」

苦笑して由加は答えた。
嫌になったら別れればいいと、初めに言ったのは由加だった。

自然に組まれていた腕は、また自然に解かれる。名残惜しさを感じたけれど、
散歩を長引かせるわけにはいかない。

人混みの中で、解いた腕がまた触れる。
ここから二人の帰り道は真逆なのだから、もう組めない。
歩みが遅くなるのは人の流れに上手く乗れないせいで、別れを惜しむためではない。

改札の近くまで一緒に歩いた。朋子はくるりと身体を反転させ、由加に向き直る。
また明日会えるだから、寂しいだなんて思わないはずだった。由加が笑っているから、
朋子も笑顔で言うしかなかった。
180 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:16
「送ってくれてありがと」
「うん。それじゃ、気をつけて」
「由加ちゃんもね。また明日」

ばいばい、と由加が小さく手を振る。同じように返して、朋子は改札を抜ける。
数歩進んだところで振り返った。行き交う人々に紛れたのか、由加の姿は見えなかった。

……なにを期待していたのだろう。
すぐに帰ってくれた方が安心できるのに。

立ち止まりかけた足を進めてホームに向かう。
もう溜息も出なかった。判りきったことを繰り返しただけだから。

好きだと言ったところで、同じ言葉が返されることはない。
会いたいと言ったところで、同じ言葉が返されることはない。

それでよかったはずなのに。
それだけで満足していたはずなのに。

初めから判っている。
間違っているのは判っている。
望んではいけないのは判っている。

それでも何度も繰り返す。

もう一度振り返っても、由加の姿は見えなかった。









181 名前:パッチワーク 投稿日:2014/05/28(水) 22:17
 
182 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/05/28(水) 22:18
>>158-180
パッチワーク(前編)
183 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/05/28(水) 22:18
>>3-45
イントロダクション
>>51-81
デイパス
>>88-112 >>119-149
ストレンジアトラクタ
>>158-180
パッチワーク(前編)
184 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/05/28(水) 22:19
本来は次の更新分と合わせてひとかたまりなのですが、
前後編にしても読む分には問題ないと思われますので一旦更新。
なぜなら長くなるからです……。

レスありがとうございます。

>>155
宮崎さんはアイス大好きっ子なので、きっとそのことを……。
冗談です冗談です! この更新も読んでいただけていたら嬉しいです。

>>156
いつも読んでくださってありがとうございます。
実際にも金澤高木は仲良いいしカワイイですね。
そろそろ後半かなという感じですが、また読んでいただけていたら嬉しいです。
185 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/05/29(木) 02:39
毎日更新を楽しみにチェックしています。
急かしているわけではないんです。そう聞こえたらすみません。
本当に好きな作品です。

二人の間に漂う緊張感が生々しく伝わってきて、読み進める度にドキドキしてしまいます。
これからも更新、楽しみに待ってます!

186 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:18

187 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:18
 
   ▼
 
188 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:18
両思いじゃなくても付き合えるってさ。

それって、どこまでできるの?
189 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:19

190 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:19
イベントを前にして、全員で自主練習をすることになった。
講師がつくわけでもなくメンバー同士で合わせて修正する。それこそ指先の向きすらも
揃えようと意気込んで、もう幾度も繰り返していた。

レッスン室を使う許可は事前に取ってあった。集合時間まではまだ余裕があったけれど、
下心としか言いようがない理由で朋子は早めにやって来ていた。

部屋に入る前に、ドアに嵌め込まれているガラス窓から室内を覗き見る。
ひとつ息をついてドアノブを握る。鍵は掛かっていない。もう一度呼吸を整えて、
扉を押し開く。

一人で座り込んでいた由加が顔を上げ、イヤホンを外す。
予想通りだと思いつつ、それを気取られないように朋子は片手をあげる。

「おはよう」
「おはよ。早いね」
「由加ちゃんこそ」

定型的なやり取りの後、会話はすぐに打ち切られる。自主練の前の自主練の邪魔を
したかったわけではないから、朋子も食い下がらない。
191 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:20
由加から少し距離を置いたところに朋子も陣取る。音楽プレイヤーを取り出し、
今日の課題曲を聴き直す。由加がどれほど前から来ていたのか、全員が揃うのは
いつなのか、判らないままに時間の経過を待つ。

目では歌詞カードを追いつつも、早起きしたせいか眠気が襲ってくる。逆らえずに
うとうととしていると、肩をつつかれた。はっとして顔を上げるといつの間にか
由加が向かいに座っていて、その手は朋子のイヤホンを勝手に耳から抜き去る。

「おはよう」
「……おはよう」

手で目を擦り、寝起きのぼんやりした頭で状況を考える。部屋には二人だけで、まだ
集合時間には達していないのだろうと思った。あくびを堪えつつ、朋子は尋ねる。

「どしたの?」
「んー、休憩しようと思って」

起こしに来る必要があるのか、と問いかけてやめた。由加は朋子に対しては無遠慮だ。
相手をしろということなのだろうと察して、一人で納得する。
192 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:20
なにか話すことがあるのかと思った。
けれど由加から積極的に行動するわけでもなく、しばらく見つめ合う。

試してみたいことがあった。いまは他のメンバーはいなくて二人きりで、
挑むにはいい機会だろうと思った。実験するほどのことではないと感じつつも、
できるだけ軽い調子になるようにして朋子は口を開く。

「手、繋いで」

由加に向けて、ひょいと右手をあげて見せる。言葉もなくその手を取られ、
握ったままで上下に揺らされる。朋子の言動の意味がよく判らなかったのか、
由加は微苦笑を浮かべて言う。

「これじゃ握手だね」

軽く握られていた手は離されて、指を絡めるように繋ぎ直される。朋子がぎゅっと
力を入れてみると、同じようにやり返された。「痛いよ」由加に言われて、解放する。

「どうしたの?」
「んー、べつに」

朋子は答えて、壁に掛けられた時計を見る。そろそろ他のメンバーも来るだろうと
思った。はっきりとしない朋子の応答に、由加は重ねて問う。
193 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:20
「手、繋ぎたかったの?」
「……うーん。そうだけど、そうじゃない」

どこまでしていいのか確認したくて、とは言えない。

ずっと気になっていた。
一般的に、付き合うという関係には相応の行動があるだろうと思っていた。
それがどこまで許されるのか考えるだけでは判らなくて、実際に試してみたくなった。

ドアが開かれる音がして、二人の注意はそちらに向いた。そのせいか、不思議そうに
していた由加もそれ以上は追求してこなかった。
194 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:21

195 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:21
自主練習とはいえ、だらけた雰囲気にはならない。他の仕事もあるのだから時間には
制約がある。全員で集まれる機会となればさらに限られてくる。

見本となる映像で振り付けを確認する。ポータブルDVDプレイヤーを全員で一緒に
観るのは無理があるけれど、時間に制限がある以上そうも言ってられない。

相変わらずあかりは由加にべったりだ。「暑いよ」由加が鬱陶しがっても離れずに、
目は真剣に画面に向けられているのだから、強く文句を言いようもない。

朋子の背中にはのしかかるようにして佳林がくっついている。こちらも非難はしにくい。
べたべたと甘えているあかりを羨ましがっているのだろうとも思えるから、尚更だった。

先輩グループの楽曲をカバーするのは、持ち歌の練習をするのとは勝手が違う。原曲と
人数が違えば歌のパート割も変えなければならないし、ダンスのフォーメーションも
別のものになる。

稽古を付けてもらったところで、すぐに身につくわけではない。だから自主練習を
行っているのだけれど、それでも完璧というところまでは辿り着ける気がしなかった。

完全とはいえないまでも万全の体制でイベントには臨みたかった。
その考えはメンバー全員共通のものだろうと朋子は思う。
196 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:21

197 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:21
目標にしていたところまでを終えて、練習はお開きになった。
汗でTシャツは重くなり、ぱたぱたと胸元を仰いで苦し紛れに涼を取る。

レッスン室の鍵を返却するのとマネージャーに用事があると言って、由加だけが
ロッカールームへとは逆方向に廊下を行く。毎回レッスン室の使用許可は由加が
取ってきているし、鍵の受け取りと返却もほとんどが彼女の役目だった。
だから今日もいつも通りで、おかしなところは微塵もないはずだった。

朋子は一度振り返る。
なんとなく、としか言いようがない漠然としたものだったけれど、気になることが
あった。ささやかな態度や雰囲気から感じられるものは、ときに実情を明察する。

あ、と小さく言って、なにかを思い出したという風情を装って朋子は立ち止まる。
目を向けてきた三人にひらひらと手を振って、朋子は言う。

「忘れ物してきた。先に帰ってて」

お疲れさま、と挨拶を交わして朋子は踵を返す。
特に観察眼が優れているわけではない。ただいつも見ているものに変化があれば、
それこそ、なんとなく察せられる。

早く来るのなら、遅く帰るというのも道理に沿っている。
198 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:21
レッスン室の前に着く。ガラス窓から中を確認することはしなかった。ドアノブを
捻って押すと簡単に扉は開いて、予感は当たったのだろうなと朋子は思った。

鍵を返しに行ったのではなかったのかと、訊くのも野暮に違いない。朋子の視線の先で
由加は決まり悪そうな笑顔を浮かべる。部屋では先程まで練習していた曲が流されていて、
あまりに想像通りの光景に朋子は短く嘆息する。

「まだ練習するの?」
「えー、うーん。もうちょっとだけ」

するなとは、言えないし、言わない。
疲れてないのかと問うのも無粋なことだろう。

グループ結成以前に、由加以外のメンバーは研修生を経ている。歌もダンスも下地が
違うのは当然な上に、由加は未だに苦手意識があるらしかった。

実際に憶えが遅いのは仕方ない。研修期間が長かった佳林や紗友希のようには
いかないのは朋子も同じだった。
199 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:22
朋子がなにも言わずにいると、由加はへらりと笑って音楽を止める。

「ともは帰らないの?」
「あー、忘れ物。……取りに来たんだけど」

返した台詞は白々しく響いた。レッスン室に朋子の私物がないことは、さっと視線を
巡らせるだけでも判る。「そっか」由加は軽く言って、見え透いた嘘には気付かない
ふりをしているのか、それ以上の反応はしない。

戻っては来たものの、朋子は居たたまれない思いになる。
一緒に練習しようと言ってもいいのだろうか。一人でやりたいから回りくどい手を
使って他のメンバーを帰したのかと思うと、そう言うことには迷いが生まれる。けれど
いたずらに時間を経過させるわけにもいかないから、逡巡した後に朋子は尋ねる。

「……いない方がいい?」

これでは嫌とは言えないだろうとすぐに気付いて、撤回しようと慌てる。
おろおろしている朋子を見てか、由加は苦笑して言う。
200 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:22
「心配して来てくれたんでしょ?」

由加の言葉に、朋子は首を縦に振れない。メンバーとして気を掛けているとか、そう
綺麗なものではない自覚はあった。ただの一方的な欲でしかないことは判っている。

「……違う。そんなんじゃない」

一緒にいたいと。頼って欲しいと。
そう思うのは由加に対してだけで、もし他のメンバーが居残っていたとしても、
きっと自分は関心を持たないだろうと朋子は思う。

ずる賢く立ち回ってでも自分の欲を満たしたい。
そう考えている朋子を由加は知っているのだろうか。

「素直じゃないねえ」

肩を竦めて言う由加に、朋子は曖昧な笑みを返した。
201 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:22

202 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:23
どれだけ練習したところで不安がすべて取り払われることはない。憶えてしまえば
それで終わりというわけでもなく、完成度を高めようと思うと時間がいくらあっても
足りない。
一通り振り付けを確認したところで朋子は音楽を止め、息を切らしている由加に言う。

「休憩しよ」

黙って頷いて、由加は従う。壁を背にして二人で座り込み、汗を拭って水分を取る。
ちらりと横目で由加を見遣ると、休めと言っているのに歌詞カードを眺めていた。
その目は自信なさげで弱々しくて、どうしたものかと考えながら朋子は言葉をかける。

「由加ちゃん。大丈夫だって」

返事はなかった。そのかわりなのか由加は朋子の側に倒れ込んできて、肩に頭を
預けるようにしてだらりと力を抜く。
突然に縮められた距離に戸惑いながら朋子が支えていると、ぼそぼそと由加は呟く。
203 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:23
「……私、憶えるの遅いし、みんなみたいに上手にできないし」

全然大丈夫じゃない、と由加は続ける。「できるって」朋子も元気づけようと
優しく言う。くたりと上半身を預けられたままでは視線を合わせることもできずに、
もどかしい思いになる。

「ともは誰が好きなの?」

唐突な由加の問いに、びくりと身体が跳ねる。朋子の動揺をよそに由加はずりずりと
擦り寄ってくる。歌詞カードが床に落ちる。遮る間もなく首に腕を回されて、朋子は
焦りを隠せずに狼狽える。

「ちょ、由加ちゃん、鍵掛けてないし誰か来たらヤバイって」
「これくらい平気でしょ」

無責任に由加は言って、さらに腕に力を込める。あまりの脈絡のなさに、朋子は
混乱して言葉も出ない。ただ心臓だけが存在を主張するように早鐘を打って、
それと一緒に汗が滲む。
204 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:23
「誰が好きなの?」
「知ってるでしょ由加ちゃんだって。ごめん離して」
「やだよ」
「汗かいてるから!」
「私もだし」

気を抜くと押し倒されそうで必死になって身体を支える。抱きかかえるような半端な
姿勢に落ち着いて由加の背中に腕を回しても、じりじりと焦燥するのは治まらない。

「ちょっと……なにいきなり」
「……こうしてたいの」

駄目だと言えるわけもなかった。黙りこんだ由加を抱えながら、朋子は気を静めようと
努力する。速まった鼓動はなかなか落ち着かない。
誰か来たらどうするのかと心配していたことも吹き飛んで、冷静さが戻ってくるのを
ひたすらに待った。
205 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:23
深呼吸を繰り返して、頭を冷やす。相変わらず由加は無言で離れない。宥めるように
背中を叩いてやれるくらいの余裕を取り戻し、彼女の行動の理由を朋子は考える。

判らないなりに記憶を辿り、ひとつ違和感を覚えた。

好きかと尋ねられるのは珍しいことではない。
ただ、普段はもっと有無を言わせない口調だ。

それに対して、今日はいつになく弱気な物言いだった。
由加を好きなのかと尋ねるのと、誰を好きなのかと問うのでは、
答えは一緒でもまったく別物だ。

思い至って、溜息。

難しいことではない。
失った自信を取り戻すための、ただの代償。

由加自身が気付いているのかは判らない。
どちらにせよ朋子が取る行動はひとつだから、関係のないことだった。
206 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:24
「……由加ちゃんが好きだよ」

ぎゅっと腕に力を込める。そうするほどに苦しくて愛しくて、理由も理屈も
どうでもよくなる。首元に顔を埋める。抵抗されない。ただ熱い呼気と一緒に
朋子は言葉を漏らす。

「……あー、もう。好き」

由加が笑ったのか、その息が耳にかかる。せっかく落ち着いた呼吸がまた
乱れそうになる。汗ばんだ肌同士が触れて気持ちが昂ぶる。
すぐそばで、由加の声が聞こえる。

「素直だね」

頷くと更に距離が近くなった。
首筋に噛み付きたいと思った。どこまでできるか試したかった。
けれど、まだ早い。そうするに適切な時が来るのかは判らないにしても、
今はまだその時ではない。

かわりに、首筋にそっと唇を付ける。
肌ではなく髪に触れて、気付かれたかどうかは判らない。

その行為は、ぞくりとするほど。

背徳的で情欲的で、一方的だった。
207 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:24
「ともは誰が好きなの?」
「……由加ちゃんだよ」

何度目か判らない返事をする。由加はそれに応えない。
背中を叩いて、身体を離すようにと促す。この姿勢を続けたままでは危ないと思った。
回された腕が緩まった隙に、肩を押して距離を取る。すっかり汗だくになってしまって、
着替えておけばよかったと後悔した。

離れてしまえば、いつものように笑われるのかと思っていた。けれど予想に反して
由加は目を伏せていて、朋子は首を傾げる。

「どうしたの?」
「……だって」

由加は言葉を途切れさせる。部屋はしんと静まりかえり、手持ちぶさたで髪を
撫でてやる。幾度か触れるのを繰り返していると、由加は低く小さな声で呟く。

「ともはちっちゃい子好きだし。ちっちゃい子好きだし」
「……二回も言う? え、佳林ちゃんのこと言ってるの?」

違う、と言って由加は首を横に振る。いつも以上に判りにくい態度に、朋子は
困惑してしまう。きっと違わないのだろうとは思ったけれど、本人が否定する
のならば、わざわざ蒸し返すこともない。
208 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:25
「研修生の子も、その辺の子も」
「……いや、そんな危ない人みたいに言わないでよ」

由加が重ねて言って、朋子は眉間に皺を寄せる。確かに小さな子はかわいいけれど、
それとこれとは話が別だ。研修生も同期のようなものだから親しく接しているだけ
なのに、穿った見方をされるのは心外でしかない。

似たやり取りは過去にも経験しているのに、やけにこだわるなと思った。
この話題を長引かせたくはない。だから、もう一度念を押すように朋子は言う。

「由加ちゃんだけだから」

強く言い切ると、ようやく由加は顔を上げる。二人でいるときの由加が自信なさげに
しているのは珍しかった。普段とは逆の立場で、薄く笑って朋子は言う。

「首輪でもつけとく?」
「……いいかもね」

軽い提案に、冗談とも本気ともつかない声で由加は返す。

首輪は支配と服従の記号。
二人の関係には似合っているのかもしれなかった。
209 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:25
「好きだよ」

支配されても屈辱は感じない。手のひらの上で転がされても構わない。
手が届かないよりは、ずっといいから。

好きだと繰り返すと、いつも通りに微笑んだ由加に頭を撫でられる。
髪をぐしゃぐしゃと乱してくるのは、褒めているつもりなのだろうか。

「牙の抜けたオオカミさん」

由加は愉しそうに言って、朋子の頭を二度叩く。そのまま髪を整えてくれる手つきが
心地良くて、思わず目を細める。
飼い主に撫でられる狼はこんな気持ちなのだろうかと、馬鹿馬鹿しいことを思った。

「……牙がなくても、噛めるよ」

試しに朋子が言っても、由加はただ笑うだけだった。
210 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:27
 
 
 
壁一面の鏡には二人しか映っていない。
レッスン室の鍵は掛けられていない。

鏡越しに由加の背中を見つめる。
鍵を掛ければ防音の密室になる。

どこまでできる? 

どこまででも。

互いに計算尽くで利用し合って。
心の隙間を埋めるかわりに距離を埋めて。

所有欲も愛のひとつ?

そんなのは嘘だ。

だって由加は、好きとは言わない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
211 名前:パッチワーク 投稿日:2014/06/02(月) 22:27

212 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/02(月) 22:28
>>187-210
パッチワーク(後編)
213 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/02(月) 22:28
>>3-45
イントロダクション
>>51-81
デイパス
>>88-112 >>119-149
ストレンジアトラクタ
>>158-180 >>187-210
パッチワーク
214 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/02(月) 22:29
レスありがとうございます。

>>185
毎日見てもらえて嬉しいです。それと、こまやかなお気遣いに感謝します。
感想をいただけたことにも飛び上がるほど喜んでおります。
完結したときにも好きな作品と言ってもらえるかは不安ですが、
こちらこそ、これからも読んでいただけたら嬉しいです。
215 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/04(水) 06:46
パッチワーク後編お待ちしておりました。
どうなっちゃうのよ二人とドキドキが止まりません。
朝から一気に目が覚めました更新ありがとうございます。
最初から読み返して改めて文章を味わいたいと思います。
216 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:24
 
217 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:25
隣で由加はうとうとと船を漕いでいる。テレビ画面ではリハーサルの様子を撮った
映像が流れている。けれど、どう考えても由加は観ていない。

朋子はそれを横目に、起こすべきかと迷っていた。復習をしておかないと次のレッスンの
ときに困るだろうとも思うし、疲れているのだろうから寝かせてやりたいとも思う。

肩に寄りかかられて、さらに葛藤する。寝顔を見ていたいとか、まったく由加の利益
にはならないことを考える。どれもこれも詰め込みすぎなスケジュールが悪いと、
八つ当たり気味に朋子は思った。

よく言えば、充実している。
けれど、初の単独ライブツアーを前にしてのリハーサルの開始がこうも遅いのは
どうなのかとも思う。しかし、文句を言ったところでどうにもならない。
218 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:26
すっかり慣れてしまった由加の部屋で、二人はベッドを背にして座っている。
抱えてベッドに移せるだろうかと朋子は考えた。由加が起きている状態ならできる
かもしれないけれど、眠っている人間を持ち上げるのはそれ以上に力が必要だ。

視線を正面に向け直す。画面上で映像は一度途切れ、すぐに次の曲が始まった。
観ていたところでまったく頭には入らず、朋子はひとつ溜息を落とす。

目だけを上げて時計を見る。今日は仕事の都合上、全員が揃わないからという理由で
早めに解散になった。とはいえ、そろそろ外は暗くなっていそうな時刻だ。

「由加ちゃん。起きて」

寄りかかられている肩を跳ね上げる。本格的に寝入っているのか反応はない。
すやすやと眠っている様子を前にして決意は揺らいだ。けれど心を鬼にして朋子は
由加の肩を叩く。

「起きて。寝るならベッドで寝なよ」
「……ん」

由加が漏らしたのは声とも息ともつかないもので、目を覚ましているのかも判らない。
なにか、ぞくりとした感覚が身体全体を這う。手のひらで由加の頬を覆う。起きて
欲しいのか起きて欲しくないのか、朋子は自分でも判らなくなる。

じっと見つめても瞼は上がらない。小さく声を掛けてもそれは変わらない。
こちらからの行動をどこまで受け入れてもらえるか、試したくなった。
219 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:26
けれど、眠っている由加相手には試せない。
受諾と拒絶のどちらの意思を持っているか判らないから。

肩を揺らすと、ぐずりだした。よほど疲弊しているのか目を閉じたままで不機嫌そうな
顔をする。頬に当てている手は公正ではない。眠っている由加に触れるのは不正だ。
手のひらで頭を撫でても、彼女の表情は変わらない。

「ほら、起きなさい」

強く言うと、さらに不機嫌そうに眉根が寄せられた。肩を掴んで揺さぶると嫌がるように
手を払われる。行き場を失った手をどこへやろうかと考えていると、身じろがれた。

「……うるさい」

由加は低く言って、朋子の首に腕を回す。またかと思いつつ受け入れて、仕方なく
背中に腕を回す。人の体温を直に感じる機会はそうそうない。たとえ服越しにでも
あってもそうで、ある程度大人になってしまえば尚更だった。
220 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:27
パーソナルスペースというものがある。他人に近づかれて不快に感じる空間というのは
人それぞれで、相手によってもその距離は変わる。

今の二人は近接している。朋子にとっては快い。由加がどう感じているかは判らない
けれど、彼女から近づいてきたのだから嫌なわけではないのだろう。

「起きてよ」

由加は応えない。試されているのだろうかと朋子は思った。テレビから流れている
音楽だけがこの部屋の雰囲気と合っていない。由加から来たのだからと、朋子は
彼女の身体を抱きすくめる。ん、と由加がまた声か息か判らない音を発する。

心臓がいくつあっても足りないと思った。痛がられないように気をつけながらも、
ぎゅっと二人の間の空間を埋める。由加の部屋で、彼女の身体がすぐそばにあって、
近づきたいと思ってしまうのは間違いなのだろうか。

フェアではない。眠っている相手に試してはいけない。
無防備な由加の首筋に唇を付ける。髪に触れて、気付かれたのかどうかは判らない。
頭がぼうっとしてきて、なにも考えずにそのままの姿勢でいる。
221 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:27
「……とも」

眠たげな由加の声は甘くて、耳に入るだけで妙な気分になった。返事をせずにいると
身じろぎされる。離せということかと思って距離を取ると、首に回されていた腕が
解かれて背中に移される。

「……布団で寝ないと、疲れ取れないよ?」

まともな台詞を吐きながら、内心では別のことを考えていた。正面から抱えるかたちに
姿勢を正して、ぽんぽんと背中を叩いてやる。反応は鈍いままで、途方に暮れながらも
朋子は由加の耳元で言う。

「由加ちゃん。おーい。赤ちゃん」
「……赤ちゃんじゃないし」
「ほら、もう起きてるんでしょ」
「……もう少し」

由加が拗ねたような声を出して、その息が首筋にかかる。
無理にでも起こそうと思っていたのに、すっかり気が変わってしまった。

見上げると、天井は真っ白で汚れのひとつもない。それに比べて自分は後ろ暗い
ところばかりで、思わず溜息が漏れた。

もはやリハーサルの確認どころではない。再生を停止させようかと思ったけれど、
リモコンが見当たらずに諦めた。
幾度も聴いたアップテンポな曲は、やはりこの部屋の雰囲気には似合わない。
222 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:28
一定のリズムで背中を打った。よこしまなことを考えないように、子供をあやして
いるのだと意識を改める。一頃、恐いだの恐くないだの言っていたのが馬鹿らしく
思えた。むしろ、もう少し恐がってくれるくらいで丁度よい気すらする。

「甘えん坊だねえ」

朋子が言うと、由加は頷いたようだった。背骨のあたりを撫でてやる。服越しにでも
平らでないことはうっすらと判った。我知らず吐く息が熱くなる。

「……だって、ともしか甘える人いないんだもん」

そう言って近づいてくる。受けとめると呼吸が苦しくなる。
周りは年下ばかりで、一人暮らしだから家族にも会えない。考えてみると、由加が
甘えられる相手はそうそういないのかもしれなかった。
223 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:30
そんな理由を出されてしまうと弱い。
離れろとは言いにくいし、朋子も積極的にそうしたくはない。

近づきすぎてはいけないと思っていたのに、もうそんなことは忘れてしまった。
徐々に抑えが効かなくなってきていることを自覚する。線引きをしていたつもりが、
ラインは消えかかって見えづらくなっていた。
由加が他愛なく接してくるからだと、責任を押しつけるように朋子は思う。

あからさまではなかっただけで、今までも由加なりに甘えていたのだろうか。
その立場にいられることは嬉しかった。理由がなんであれ近くに置いてもらえる。
親愛の情を持たれていることは、いつだって感じていた。

「……さみしいの?」

割り切ってしまえばいい。好きになってもらおうとしなければ、こうやって一緒に
いられる。今のままでは満たされなくても、もっと進展を望んでいても、そんな
考えはないものとして扱えばいい。それができれば良かったのに。

朋子の問いかけに由加は応えなかった。しばらくすれば場違いな音楽も止まるはずで、
部屋はきっと無音になる。帰らなければと思った。
224 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:30
 
   ▼
 
225 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:30
事務所の応接室は控え室にもなる。隅に置かれた観葉植物が部屋を彩り、中央には
黒い革張りのソファが二脚、向かい合わせに配されている。

出入り口近くの電灯のスイッチを操作する。うっすらと冷房が効いた室内で照明を
落とすと、頼りになるのは外からの明かりだけになった。

暗い室内を恐る恐る移動し、窓際までたどり着く。窓枠に腕をのせている由加の隣に
朋子も並び、同じようにして空を見上げた。

曇り空ではなにも見えない。朋子は視線を道路に落とす。走る車のヘッドライトや
テールランプで、地上の方がよほど煌めいていた。

連日のリハーサルで憶えるべきことはどんどん増え、身体には疲労感がある。
もうツアーが始まるまで遊んでいる暇はないと、仕事以外で朋子と由加が会うことは
なくなっていた。
226 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:32
部屋はしんと静まりかえっている。物音を立てるのも憚られるほどだったけれど、
黙っていても気詰まりではなかった。

空を見るのは諦めたのか、由加も地上に目を向けている。一定のスピードで流れて
いくように見える車列も、信号で滞る。ブレーキを掛け、アクセルを踏み、明かりは
また動き出す。

朋子は道路を見下ろすのをやめて、横に立つ由加にじっと視線を向ける。徐々に目が
暗闇に慣れ、表情も読み取りやすくなる。窓の外を見たまま、由加は薄く笑った。

「こっち見過ぎ」

朋子はなにも応えずに、そのまま目線を動かさない。しばらくして、根負けしたように
由加が朋子に顔を向けた。じっとその瞳を見据えて、朋子は尋ねる。

「由加ちゃんって、どういう人が好きなの?」

そうだなあ、と由加はぼんやりとした相槌を打つ。合わさっていた視線は外されて、
また地上へと向けられた。朋子はその横顔を見ながら、返事を待つ。

好きになってもらいたい。そう思うなら知って損することはない。
だから尋ねてみたのだけれど、由加は首を捻る。
227 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:33
「わかんない。好きなタイプとかって決めてるものなの?」
「……え、いや決めてるっていうか」

予想外の答えに、朋子も当惑する。わざと有耶無耶にするつもりなのかと
思ったけれど、由加の表情は至って真面目だ。

「インタビューとか適当に答えてるからなあ」

好きなタイプは?というのは定番の質問だ。漠然とありきたりな回答をするのも
つまらないけれど、具体的に答えれば色々と邪推されてそれも面白くない。

「じゃあ今まで好きになった人とかさ」

過去をたどれば、傾向が掴めるかもしれないと思った。朋子の言葉に、由加は困った
ような顔する。そんなに変な質問をしただろうかと考えて、はっとした。
228 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:34
「ごめん。やっぱ聞きたくない」

朋子は慌てて前言を撤回し、それを見てか由加は苦笑を漏らす。
今までの話など聞きたくなかった。知って楽しい気分になるとは到底思えない。

そもそも、好きなタイプを知ったところでどうにかなる話ではない。わずかな
希望にでも縋りたくて訊いたものの、よく考えれば失望する可能性の方が高かった。

困ったように笑っていた由加が、ふと真剣な表情になる。急に空気感が変わり、
ぎくりとして身体が強ばる。
わざとらしい笑顔を浮かべた由加に目を見据えられると、嫌な予感しかしない。

「ともは? 今までどんな人好きになったの?」

朋子も作り笑いを浮かべるけれど、上手くできている自信はない。墓穴を掘って
しまったと思った。こちらの話をしたところで、やはり楽しくなるとは考えにくい。
229 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:35
「え、いや、いないよ?」
「……嘘だ」

由加はしらっとした目で朋子を見る。成就するかどうかは別にしても、他人に好意を
持つことはある。しかし過去は過去だ。

空調が効いているにも関わらず、どっと汗が流れる。疑り深い視線を向けられて
どう切り抜けるかを考えていると、手を握られた。

「ほら、すっごい汗かいてる」
「や、それは急に由加ちゃんが繋いできたから……」

手を離そうとしたら、ぎゅっと力を込められる。二重の意味で汗が流れたけれど、
目は逸らすまいと必死で持ちこたえる。

「どうせちっちゃい子でしょ」
「違うよ」
「ほら、いるんじゃん」
「いないってば……」

ここまで来ると嘘を貫き通すしかない。手を握っているのに甘い雰囲気は微塵もない。
重ねて、年下を好きなわけではないと何度も言っているのに由加はまだ穿った見方をする。

今後、好きなタイプを訊かれることがあれば年上の人だと答えようと朋子は思った。
嘘ではない。現に由加は朋子より年上だ。年齢が決め手になることはないにしても、
要素のひとつとしてはある。

そう考えを巡らせていると、ふと思いついた。じっと目は合わせたまま、由加の
疑いを自分に都合の良いように解釈する。
230 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:36
「……もしかして、年上なこと気にしてるの?」
「ばかじゃないの?」

即答で否定された上に、普段より言葉が荒かった。「そうだよね」朋子は消沈する。
握られた手は汗ばんだままだった。乾く気配もなかったけれど解かれる様子もなく、
それがせめてもの救いだと朋子は思った。

由加の視線は窓の外に向けられる。夜も遅いのに二人して帰らずにいるのは由加が
あかりを待っているからで、朋子はもう事務所にいる必要はない。

「……もう。機嫌直してよ」
「べつに普通ですけど」

またしても、すぐに返答される。「なんで怒ってんの」朋子が言っても、由加は
黙って外を見ている。今の空気のままで、それぞれ帰ってしまうのは嫌だと思った。

名前を呼んでも反応してもらえない。縋るようにもう一度呼びかけても、朋子の声が
聞こえないかのように由加は地上を見つめている。

気を引けるような言葉はひとつしか思いつかなかった。切実な感情はもう数え切れないほど
伝えている。それでも未だに胸が詰まって、口にする度に思い知らされる。
231 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:37
「……由加ちゃんが好きだよ」

どんな過去があったとしても、今好きなのは由加だけなのに。
どんな人が好きなのかと訊かれたら、由加としか答えられないのに。

まだ視線は窓の外に向けられている。なにを見ているのかは判らないけれど、
つまらなそうな顔をしている。
そんな表情をするくらいなら、こちらを見て欲しかった。

「もう一回」

ようやく返された言葉は端的な要求だった。同じようなやり取りを、もう幾度
繰り返したか判らない。
それでも、由加が望むのならば朋子はいつでも願いを叶える。

「……好きだよ。由加ちゃんだけが好き」

握ったままの手を引く。拗ねたような目をした由加がこちらを向いて、なぜそんな
顔をするのだろうと思った。

「由加ちゃん」

名前を呼ぶだけで息が詰まる。更に手を引いて身体を寄せる。
近づくと、ほんの少しの身長差がやけに大きく感じられた。

至近距離で目を見つめる。

部屋は暗く静かで二人きりで、きっと誰の邪魔も入らない。
考えるよりも先に身体が先に動き、自然と顔が近づいた。
232 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:38
ドアがノックされる音で我に返った。慌てたように肩を押されて、朋子は
よろけるように後退する。
カチャリと扉が開かれる音が、やけに大きく響いた。

「なんで電気消してるの?」

照明を点けながら、あかりが不思議そうに言う。部屋が明るくなると、急に汗が
染み出て顔が火照った。なにも言えない朋子のかわりに、由加が答える。

「ちょっと夜景を」
「まだ見る?」
「……帰る」

そう言って、由加は窓際から離れた。窓を挟んで明暗が分かれ、室内から見ると
ガラスは鏡のようになる。朋子は二人から顔を逸らし、外を眺めるふりをした。

「ともは? 帰らんの?」
「……あー、まだ用事あるんだよね」

あかりの問いに、白々しくならないよう答える。振り返り、帰り支度をすませた
二人とお疲れさまといつも通りの挨拶を交わす。朋子は由加を直視できなかった。

部屋に一人になり、しばらく呆然とする。
鼓動が強く打って、また汗が滲む。先ほどまでの雰囲気を思い出す。

あと数秒あれば、唇を合わせられたかもしれなかったのに。
数秒がなくとも、できたかもしれなかったのに。

「……すればよかった」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
233 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/06(金) 20:38
 
234 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/06(金) 20:39
>>217-232
ブラインド(前編)
235 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/06(金) 20:39
>>3-45
イントロダクション
>>51-81
デイパス
>>88-112 >>119-149
ストレンジアトラクタ
>>158-180 >>187-210
パッチワーク
>>217-232
ブラインド(前編)
236 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/06(金) 20:40
レスありがとうございます。

>>215
お待たせいたしました。
これからも目が覚めるような更新をしていけたらよいのですが。
しかし最初から通して読むと文章がブレブレで粗ばかりなのがばれて
しまいますぅ……。でもでも、そう言っていただけるのは嬉しいです。
237 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/07(土) 00:28
あああ……!!!と声に出して言いそうになりました笑
かなとものあの言葉には毎回胸が締め付けられます。
238 名前:名無し飼育さん 投稿日:2014/06/08(日) 06:18
うぁぁあぁー
かなとも頑張れ!と言いたくなる。
次も楽しみにしてます。
239 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:15

240 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:16
仰向けに寝転がり、ぼんやりと天井を眺める。腕に触れるシーツはさらさらと
していて心地良い。ホテルのベッドはいつも清潔で快適だ。

そんなことを、ぼんやりと朋子は思う。いよいよ初の単独ツアーも始まり、地方に
宿泊することも増えてきた。メンバー間で部屋を行き来することは珍しくなく、
今夜も誰かが誰かのところに遊びに行っているだろうと思った。

横になったままで携帯電話を手に取る。ライブ後に反省会をしていたせいもあって、
随分と時間は遅い。また明日にしよう、朋子は思う。

ツアーが始まっても、由加に会える時間は減ったままだった。それは判っていたこと
だから、文句はない。正確に言うと仕事以外で会える時間が減る、ということで、
撮影やリハーサルでは毎日のように顔を合わせていた。

意識してしまっている。暗い応接室での残像が頭から離れず、由加と関わることを
臆している。原因を作ってしまったのは自分なのに、意気地のなさに嫌気が差す。
241 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:17
着信履歴を呼び出した。声が聞きたいと、素直に思う。こんな感情は作り話の中だけ
だと以前は思っていたのに、いざ自分に降りかかると切実な問題だった。

悩むうちに夜は深まる。ぎりぎり非常識ではない時刻だろうかと考えると、誘惑に
勝てなかった。

今日は全員が一人部屋だ。もしかしたら他のメンバーと一緒にいるかもしれないけれど、
その時はその時だと、朋子は思い切って履歴の中から由加を選ぶ。

ベッドに横たわったままで呼び出しのコール音を聞く。静かな部屋にいるせいか、
耳元で鳴る音がやけに大きく感じられた。電話をかけるくらいのことで鼓動が速まる
自分を朋子は不甲斐なく思う。そのすぐ後で、何コール目まで待つかを決めておけば
よかったと後悔した。

四コール目でぷつりと通話が繋がった。もしもし、といつもより少し低い由加の声が
耳に入るだけで高鳴るなんて、もう救いようがない。
242 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:18
「ごめん。寝てた?」
『起きてたよ』

嘘だろうなと思った。ごそごそとシーツが擦れるような音がして、申し訳なく
感じながらも騙されたふりをする。

仕事中に話すのだけでは物足りなかった。しかし、由加が同じように思っているかは
当然ながら知る由もない。

「ねえ」

呼びかけて、どう言葉を続ければいいのかが判らなくなる。電話をかけておいて
黙りこんでいる朋子に、気遣うように由加は言う。

『どうしたの?』

声を聞きたかっただけだと、言おうとしたけれど気恥ずかしさの方が勝った。
少しの間を置いて、沈黙を破るように薄い笑声が聞こえ、由加が可笑しそうに言う。
243 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:18
『会いたい?』

声を聞ければそれでいいと思っていたはずなのに、魅惑的な提案に心が揺れた。
肯定か否定か、どちらかで返そうとすれば、悩むまでもなく答えは決まっている。

「……うん」

会いたい、と小さく付け加える。
携帯電話越しだけよりも、直に声を聞きたかった。

『おいで』

何号室かというのを確認して、通話は終わった。ベッドから身体を起こし、時計を
見る。長居してはいけないと、前もって心に留めておく。

会う場所に、迷うことなく由加の部屋が選ばれたことで改めて力関係を感じる。
相手に対する思いの深さを天秤に掛ければ、その結果は目に見えている。
それが判っていても、応じてもらえるのは嬉しかった。
244 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:19
廊下に出て、誰もいないことに安堵する。秘かに会う、というシチュエーションに
酔いそうになって、平静を保とうと努力する。

部屋の前まで来て、静かにドアをノックした。ロックが外される音の後に、由加が
ひょこりと顔を覗かせる。

ドアが大きく開かれ、招き入れられる。シングルの部屋は大した広さもなく、少し
足を進めるだけですぐにベッドに行き着く。シーツに皺が寄っているのが目に入って、
つい尋ねてしまった。

「寝てたでしょ?」
「起きてたよ。ごろごろしてただけ」

由加が苦笑して答えて、ベッドに腰掛ける。また嘘をつかせてしまったと、すぐに
悔いた。朋子は備え付けのデスクに腰を預け、ベッドからは距離を取る。
立ったままの朋子に、由加は柔らかく話しかける。
245 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:20
「なんか久しぶりだね」

数時間前まで一緒に仕事をしていたのだから、久しぶりだとは言えない。ただこうやって
私的に会うのは久々で、由加もそう感じていたことに朋子は内心で喜んだ。

「忙しかったし」

ちょっと気まずかったし、と口には出さずに思う。あの夜のことを由加がどれほど
意識しているのかは判らなかったけれど、確かめる勇気もなかったし、知ってしまう
のが怖くもあった。

謝るべきかとも初めは思った。しかし、なにが起きたというわけでもない。
葛藤の後に、そのことには触れずにいようと決めていた。

「こっちおいでよ」

由加がぽすぽすとシーツを叩く。逡巡したけれど、隣に座っていいと言われて
いるのだから結局は従ってしまう。
246 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:21
なにか話しかければもっと声を聞くことができるのに、いざ由加を目の前にすると
口が上手く動かなくなる。その様子を見かねてか由加は苦笑して、優しく朋子の
髪を撫でる。たったそれだけのことなのに、気持ちがよくて仕方がなかった。

「ごめんね?」

突然の由加に謝罪に、言葉は返さず小さく首を振る。なにについて謝っているのかは
訊けなかったけれど、あのときのことだろうと、なぜだかすんなりと理解できた。

未遂に終わった行為の、続きをしたいと思う。手が髪に触れるのと唇同士が
触れるのとでは、どうして意味が違うのだろう。

簡単には行動に移せない。すればよかったと、その思いは一方的でしかない。
抵抗されなかったのは雰囲気に流されていただけだろうと思うと、いま同じことを
する意気は湧かなかった。
黙ったままで朋子がそう考えていると、出し抜けに由加が言う。
247 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:22
「かわいい」

頭に触れていた手が離された。由加はにこにこと笑っていて、朋子は唐突な彼女の
言葉にきょとんとしてしまう。

「ともは、なにかしたいけど我慢してるって顔が一番かわいい」

続けられた言葉に、思わず軽く顔を顰める。見透かされていたという羞恥と、
わざわざ伝えてくる意地の悪さが忌々しかった。

「……性格悪いなあ」
「でも好きなんでしょ?」

愉しげに言いながら、由加はぱたぱたと足を動かす。その仕草はまるで子供で、
何度も同じことを尋ねるのも、一見するだけでは無邪気な行動に思える。

「ねー、好き?」
「……好きだけど、意地悪ばっかり言うところはヤダ」
「じゃあ今日はもう言わない」

ベッドに置いていた手に、手を重ねられる。それだけで、身体が熱くなる。
言わないだけで、わざと困らせるようなことをするのはやめてくれないらしかった。
248 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:23
「かわいいね」
「……意地悪」
「えー?」

重ねるだけでは飽き足らないのか、指でも遊んでくる。汗をかいているのが
知れてしまうのが嫌で、朋子は手を引っ込めて逃げる。顔では不満そうにしていた
けれど、由加は追いかけてこなかった。

もう眠いのだろうと思った。触れていた手も温かかったし、表情を見ているだけでも
あくびを誤魔化そうとしているのが判る。

抱き寄せようとして、やめた。そんなことをすれば、きっと続きをしたくなる。
半ば眠っているような相手に不意打ちを仕掛けるのは、褒められたことではない。
249 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:24
「帰るね」

かわりに、ぽんぽんと頭を叩いてやる。由加が小さく頷いたのを見て、朋子は腰を
上げた。辞去しようとドアの方へ向かうと、由加も後をついてくる。

部屋に戻るまで誰にも会いたくないなと思った。鍵を開け、ドアノブを回すのを
躊躇していると背中をつつかれる。朋子が振り返ると、その視線の先で由加が言う。

「一緒に寝る?」
「……寝ないから」

微笑みながら言うのだから、つくづく呆れてしまう。意地悪は言わないのでは
なかったのかと質そうとして、言うだけ無駄だろうと思い直した。

「夜遅くにごめんね」
「ううん」
「おやすみ」

おやすみ、と由加にも同じ言葉を返される。眠りの前の挨拶は、他のものよりなぜか
特別に思える。蜜のように甘い、というのは言い過ぎだろう。それでも、不思議と
快く感じられた。

そう遠くない距離で目を見つめ、片手で軽く抱き寄せた。
抵抗されることもなく由加はすとんと腕の中におさまり、しかし、朋子はすぐに
解放してやる。

近づいても我慢できる。それが判って安心したけれど、自分の行動に気恥ずかしさを
感じて、つい由加から視線を外してしまう。
250 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:26
「自分でしといて、なに照れてんの」
「え、いや……ごめん」
「謝るならしないで」

少し怒ったように由加が言う。「ごめん」また同じ言葉を繰り返した朋子に、
今度はふっと笑いを漏らす。ばつの悪さを感じながら、朋子は言う。

「えっと……。おやすみ」
「さっき言ったでしょ?」

笑いながらも、おやすみなさいと由加は返す。小さく手を振って廊下に出ると、
途端に身体から力が抜けた。そして、誰もいないとはいえ無防備に呟いてしまう。

「あー……もう。……なんでこんなに好きなんだろ」

乱暴に頭を掻いて、だらだらと廊下を歩く。付き合い始めた頃よりも好きだと思う
度合いは増していて、それに比例するように願い求めるものが複雑になっていく。

また明日からの日々を思った。悪ふざけするように触れてくる由加に、いつまで
冷静でいられるか判らなかった。すでに悠々とはしていられないけれど、
それでもまだ、踏みとどまれている。

じたばたとしたところで、願望は消せない。
判っているから、困っている。
251 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:26
 
   ▼
 
252 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:27
控え室としてあてがわれた事務所の会議室には、必要最小限の備品しかない。
テーブル、椅子、ホワイトボードが置かれているくらいで、それらに娯楽性はなく、
必然的に、持ち込んだもので時間を潰すことになる。

朋子は書きものをしていた手を止め、一度大きく伸びをする。ライブ会場やショップで
販売される写真には、様々な文字やイラストが落とし込まれる。それらにはメンバーが
手描きしたものが使われるから、なかなかの数を書かなければならない。

周囲を見渡すと、いつもと変わらない風景だった。違いがあるといえば由加と紗友希が
いないことくらいで、その二人もじきに戻ってくるだろう。

佳林は学校の課題でもしているのか、真面目にレポート用紙と向き合っている。
それに対し、あかりはのんびりと居眠りをしている。提出期限ぎりぎりに泣きついて
きても知らないよと毎回言っているのに、のんきなものだった。
253 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:28
もう一度、両手の指を組んでぐっと伸びをする。書きものにも締切があるから、
早めに終わらせようと思った。

ペンを手に取ると同時に、ノックもなしに勢いよくドアが開かれる。なにごとかと
朋子がそちらを見ると、紗友希が叫ぶように言う。

「とも! 大変だ!」
「え、なにが?」

大声で名前を呼ばれてぎょっとしていると、歩み寄ってきた紗友希に腕を取られた。
その勢いに飲まれて、朋子も腰を上げる。

「鈴木さんがいる!」

そのまま当然のように紗友希は出入り口へと向かう。「いや、ちょっと」朋子は
踏ん張って紗友希の足を止めさせた。

この場合、鈴木さんというのは大先輩の鈴木愛理のことだろうと思った。彼女は
朋子の尊敬する人物で、芸能界に入ったきっかけともなる先輩だ。

けれど、元々がファンとして応援していた人物であるから、どう接するべきかは
未だに迷いがある。
254 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:29
「私はこう、影ながら応援したいわけですが……」
「紗友希も一緒に行ってあげるから!」

なにか使命感でも抱いているのか、紗友希は強引に朋子の腕を引っ張る。朋子も
過去に、事務所で紗友希の尊敬する先輩を見かけた際、早く来れば会えるかもよと
連絡をしたこともある。

だから、お返しのつもりなのかもしれない。ありがたいけれど、行ってもいいのかと
惑ってしまう。それでもずるずると連れて行かれてしまうのだから、本心では顔を
合わせたいと思っているのかもしれなかった。

早足で廊下を進んでいると、由加と行き会った。急ぐ様子の二人に、由加はちょこんと
首を傾げる。

「どうしたの?」
「由加も! 矢島さんいるよ!」

矢島さんとは誰か、確認するまでもない。こちらも由加が尊敬する先輩で、愛理と
同じグループなのだから、一緒にいてもおかしくはなかった。
255 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:30
「えー? でも、行ったら迷惑じゃないかな?」
「遠慮してたらいつまで経っても話せないよ」

うう、と由加は唸るような声を出す。全体でのコンサートがあると、舞美は由加に
話しかけるし、写真を撮ろうとも言う。後輩から先輩には声をかけづらいのを
判っていて、舞美は嫌味なくそういう気遣いをする。
朋子も、愛理に対するのとでは別の意味で、舞美には畏敬の念を抱いていた。

どういう意味であれ、由加が舞美に惹かれるのは無理もないと思う。反面、朋子に
とっては面白くなかった。そして、そう思う度に自分の心の狭さが嫌になった。

結局は二人とも、紗友希に連れられて先輩と話すことが出来た。短い時間では
あったけれど、気後れしつつも、やはり楽しくもあった。
256 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:31
「矢島さんにご飯行こうって誘われちゃったー」

由加が嬉しそうに紗友希に話しているのを、朋子は斜め後ろから見る。春頃から
誘われているもののスケジュールの都合で未だに実現していないらしい約束は、
きっとそのうち果たされるのだろうと朋子は思った。

楽しいお喋りをした後なのに、溜息をつきたくなる。舞美は、優しいという範疇を
超えて、この上ない人格者だと朋子も思う。画面越しに見ていた頃もそう感じて
いたけれど、実際に会ってみてもその印象は変わることはなく、むしろますます
強くなっていた。

嫌でも自分と比べてしまう。勝てる部分があるだろうかと思ってしまう。由加に
言えばおそらく、勝ち負けなどないと言うだろう。けれど、そんなことは怖くて
訊けなかった。

行きよりも帰りの方が足が重くなり、会議室が遠く思えた。こんな思いをするなら
部屋から出なければ良かったと後悔した。
紗友希の厚意を悪くは思わない。ただ、自分自身のことが嫌になるだけだった。
257 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:31
 
258 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:32
そのまま事務所で仕事をして、そう遅くない時間にお開きになった。もう六月な
こともあり、夕方と言える時刻でも、まだ日は沈みもせずに外は明るい。

夏が近づいている。七月には朋子の誕生日がある。よくよく考えてみると、その日
まであと一ヶ月を切っていた。
欲しいと言ったものを由加からもらうことが出来るのか、考えたくないのに、頭から
離れなかった。

帰路につけるという開放感からか、皆が楽しそうに話している。朋子はまだ重い気分を
引きずっていた。切り替えようと鞄を肩にかけ直していると、服の裾を引かれた。
振り返ると由加が悪戯っぽく笑っていて、そのまま前を歩く三人に声をかける。

「私たち用事あるから。ばいばーい」

手を振っている由加に合わせて、朋子もその場にとどまった。約束をしていた覚えは
ないけれど、由加に引き留められるのであれば特に否定する理由もない。
259 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:33
三人の後ろ姿が見えなくなってから、由加と顔を見交わす。むずがゆさを覚えながらも、
朋子は由加に尋ねる。

「えーと、約束はしてなかったよね?」
「うん。でも、いいでしょ?」

予定を入れていたのを忘れていたのならどうしようかと思っていたけれど、それは
杞憂らしかった。朋子がほっとしていると、由加がまた裾を引く。

「途中まで一緒に帰ろう」
「うん」

日が長くなったとはいえ、もう夕刻なのだからゆっくりとはいられない。一緒に帰る
だなんて些細なことなのかもしれなかったけれど、由加に誘ってもらえると嬉しかった。
260 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:34
先に帰ったメンバーと鉢合わせしないようにと、一駅歩くことにした。建物から
出ると、思っていたよりも日差しが眩しかった。

真っ昼間でなければ、まだそれほど暑くはない。梅雨入りはしているらしいけれど、
その気配は薄い。少し湿った空気にも鬱陶しさはなかった。

歩道の街路樹は青々としている。行き交う人もほとんどなく、気兼ねなく由加と
話せた。歩くのも苦ではないし、重かった気持ちも次第に晴れてくる。

「鈴木さんとなに話したの?」

会話の切れ目に、由加が話題を変えた。言われて思い返してみると、大したことは
話していない。緊張もしていたし、先輩相手となるとふざけたことも言えないから、
そうそう盛り上がりもしない。
261 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:35
「特になにってことは話してないよ。頑張ってねとか、そういうの」

当たり障りのない会話に終始していた。ツアーでこの曲を歌うんです、とか、
仕事がらみの話をしただけだった。他になにかあったかと朋子が考えていると、
その顔をじっと見て、由加が言う。

「顔、にやけてるよ」
「えっ、嘘」

思わず頬を押さえた。意識して真面目な表情をつくると、それを見てか由加が笑う。

「隠さなくてもいいのに」

朋子が元から愛理のファンだったというのは、由加も知っている。それ自体は
後ろめたくない。単純に、好きな芸能人という括りの中だから、由加に対する
感情とは別物だ。
262 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:36
「由加ちゃんは、矢島さんとなに話してたの?」

同じことを尋ね返すと、由加は楽しそうに教えてくれる。また、胸が重くなった。
比べても絶望に近い思いをするだけなのに、なぜ自分から話を振ってしまったの
だろうと後悔した。

舞美ならきっと由加を困らせないだろうと、朋子は思う。
少なくとも、ずるいことはしない。間違っていると判りきったことを、そのまま
続けるようなことはしない。それは朋子の想像だったけれど、事実だろうと確信できた。

せめて表情には出さないようにと努力した。本当は嫉妬するのもおこがましいこと
だと思った。比べようもなく違う。今から頑張ったところで、一点の曇りもないような
人間になれる気はしなかった。
朋子の考えを知ってか知らずか、一通り楽しげに話した後で、由加が思いついたように言う。
263 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:37
「ともは、鈴木さんに付き合おうって言われたら付き合う?」

由加が持ち出してきた仮定に、言いようもない不快さを感じた。

「……付き合うわけないでしょ」

思わず声が低くなる。ただの例え話だと判っている。他の人に尋ねられたのなら軽く
流せただろう質問は、由加に言われると残酷なものに感じられた。

これも、当たり障りのない話題なのかもしれなかった。腹を立てる方がおかしいの
かもしれなかった。好きなのは由加だけだと何度も言っているのに、仮の話でも
他の人を出して欲しくなかった。

そうなんだ、と由加は朋子の答えを受け流す。その横顔は大した感慨もなさそうで、
それすらも朋子には非情なものに感じられた。
264 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:38
「……じゃあ、由加ちゃんは矢島さんに言われたら」

これを尋ねるのは、自傷行為に近かった。肯定されても否定されても傷つくだけだと
判っていた。由加は朋子が求める回答を知っている。その上で、由加は言う。

「どうだろ。その時にならないとわからないかな」

本気とも冗談ともつかない口調だった。愉しげに歩く由加の手首をぐっと掴む。
歩みを止めて、由加は戸惑ったような顔をする。

「……本気で言ってる?」

自分から訊いておいて、欲しい答えではなかったから咎める。その行動はどうしよう
もなく醜い。由加も困惑しているのか、なにも言わない。

嘘でもいいから、本気ではないと言って欲しかった。由加は朋子が求める回答を
知っている。惨たらしいと思う。けれど、強制できるようなことではないと判っている。

判っているのに望んで、叶えて欲しいと願ってしまう。その考えはひどく自己中心的で、
残虐だった。欲しいものが手に入らないからと、相手を責めるのは間違っている。

力を入れすぎたのか、由加が痛がる素振りをする。それを見て、正気に返った。
265 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:39
「……あー、やめよう。ありえない話をするのはやめよう」

掴んでいた手を離した。ごめん、と小さく謝ると、由加は困ったような笑みを浮かべる。
こんなことを言う資格はないと判っていたのに、感情を抑えきれなかった。自己嫌悪が
襲ってきて、朋子は下を向いて地面を蹴る。

「鈴木さんがそんなこと言ってくるわけないし。
 矢島さんも言わないし。……たぶん」

言われるかどうかではなく、どう答えるのかが問題だった。けれど朋子はすり替える。
由加の回答を否定することなく話を終わらせるには、こうするしかないと思った。

顔を上げることが出来ずに消沈していると、軽く手を引かれた。視線を向けると、
由加が気まずげに言う。

「ごめん、私、矢島さんのことはほんとそういう風に見てないし……」

謝らなくていいのにと思った。どう見ていようと由加の自由で、朋子が文句を
言っていいようなことではない。そんなことは、判っている。
なにも言葉を返せずにいると、由加はまた口を開く。
266 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:40
「……ちょっと遊びすぎた。ごめん」

いつもの強気な態度ではなく、その声は弱々しかった。

「……いいよ。ごめん、私も変なこと言った」

発端がどちらにあったとしても、悪いのは誰か、決まっている。

「仲直り」

そう言って、手を繋がれる。情けない思いで一杯になり、朋子は素直に喜べなかった。
立ち止まっていたところから、由加に手を引かれて歩き出す。もう駅は目前だった。

手は握ったままでエスカレーターで地下に潜る。他に人がいなかったから、端には
寄らずに並んでステップに立つ。由加が、繋いだ手をぶらぶらと揺らした。
朋子がそちらに注意を向けると、由加は微苦笑を浮かべて言う。
267 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:41
「なんか、恋人同士みたいなことしちゃったね」

今まで、二人の間では喧嘩と言えるような出来事はなかった。けれど、先程までの
やり取りはそれに近くて、内容は友達同士でするようなものではない。

「……付き合ってるじゃん。一応」

はっきりと、恋人だとは言えなかった。これは違うと判っているのに、朋子は手を
振りほどけない。由加から離してくれないと、諦めがつかない。

困らせてはいけないと判っているのに、二人の関係に幕を引けなかった。偽りで
あっても隣にいられる心地よさを、手放したくなかった。

朋子は正面に目を向け直す。地下深くにある駅まで、長いエスカレーターは続く。
届くかどうか、小さな声で由加が言う。

「……まあ、ね」

朋子の弱気な言葉を、由加は否定しない。この関係は仮初めのものではなく強固な
ものだと、きっと由加は思っていない。

そんなことは判っているのに、違うと言って欲しかった。
一応だとか、曖昧なものではないと、笑って否定して欲しかった。

自分でも言えないことを由加に望んではいけないと、判っている。

好きだと言おうとして、口を閉ざした。
同じ言葉が返ってこないことは、判っているから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
268 名前:ブラインド 投稿日:2014/06/15(日) 15:41
 
269 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/15(日) 15:42
>>240-267
ブラインド(後編)
270 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/15(日) 15:42
>>3-45
イントロダクション
>>51-81
デイパス
>>88-112 >>119-149
ストレンジアトラクタ
>>158-180 >>187-210
パッチワーク
>>217-232 >>240-267
ブラインド
271 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/15(日) 15:43
レスありがとうございます。

>>237
きゃーーーー!!!笑 毎回進んでいるのか進んでいないのか、という感じも
ありますが、また読んで頂けていたら嬉しいです。

>>238
金澤さんへのご声援、お待ちしております! 期待にお応えできているかは
わかりませんが、今回も読んで頂けていたら嬉しいです。
272 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/15(日) 19:08
いたい、めっちゃ胸が痛いです。
でも、それが醍醐味なんですよね。
更新されるたび、今回は金澤さんちょっとでも報われるかな?と思いながら読んでます。でも簡単に報われて欲しくない複雑な気持ち。
このお話がどういう結末を迎えるのか気になります。でも、終わって欲しくない。なんか、この作品を読むと相反する感情が生まれます。
273 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/15(日) 21:03
宮崎さんが何を考えているのかを考察しては一人悶々とし心がもんどり打っております。
次回も楽しみにしております。
274 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/16(月) 01:09
物語が進むにつれて、この作品も終わりに近づいているのかと思うとなんだか切ないです。
かなともが幸せになれることを祈っています。

毎回胸が締め付けられますが、今回は本当にきつかったです。
ゆかにゃんはほんと…何を考えているのでしょう。
275 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 21:55
 
276 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 21:56
バスを降り、裏口からライブハウスへと入った。メンバーだけでなくスタッフも
ぞろぞろと移動するなか、朋子は紗友希と並んで歩き、前方を行く三人の背中を見る。

あかり、由加、佳林と仲良く横一列になっている。手を繋ぎこそしていないものの、
由加が二人を引率しているように見えるなと朋子は思った。

さほど広くない通路を抜け、楽屋にたどり着く。音響や照明のチェックが済み次第、
リハーサルが行われる手はずだった。レッスン着に着替えて備えていると、由加
だけがマネージャーに呼ばれ、部屋を出て行く。

朋子は椅子に座って、ちらりとその後ろ姿を見送った。すぐに目を逸らし、手元の
台本に向ける。右手でボールペンを握って段取りについて思案していると、横から
肩をつつかれた。
277 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 21:57
「なー、ともー、遊んでー」

そう言って、あかりがぐだぐだと寄りかかってくる。「いま忙しいから後でね」答えると、
あかりはそのままごろりと朋子の膝に頭を預ける。

「邪魔しないでってば」
「なんで。邪魔してないよ」

不服げに言い返されて、朋子は諦めた。相手をする方が手間がかかるから、放って
おくことにする。台本を捲っているうちに由加が戻ってきて、朋子からは離れた場所に
座った。

気付かれないように、朋子はそちらに注意を向ける。佳林が由加になにかを話しかけて、
二人で笑っている。それを、羨ましく思う。
278 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 21:58
羨んだところで、どうにもできない。ペンを回し、今日のケータリングにはなにが
あるだろうかと繋がりのないことを考えた。そうしていても、やはり由加のことが
脳裏にちらつく。

朋子と由加はそもそも親しい間柄ではなかった。仕事の上では良好な関係を結べて
いたと思うけれど、それ以上の親交があったわけではない。

だから、他のメンバーがいるところでは以前と同じように振る舞っている。朋子が
由加に必要以上の関わりを持つことはないし、由加が朋子に甘えてくることもない。

膝に寝転がったあかりが、下からちょっかいを出してくる。それをあしらいながら、
朋子は台本を読む。熱心に取り組んでいるようにみえて、雑念ばかりが湧いてくる。

由加が誰かと遠慮なく接しているのを見る度に、思うことがあった。
きっともう、自分と由加の関係は元に戻せない。

せっかく築いてきた良好な関係は見えないところが壊れて、新たに積み上げている
関係はいつ崩れてもおかしくない。

あかりがまた邪魔立てしてきて、深くなりそうだった思考を妨げた。そのおかげで
意識が現実に戻り、あかりの頭を撫でてやる。そうされた意図が判らなかったのか、
あかりは不思議そうな顔をした。

考えても無駄なのに、考えるのをやめられない。
だから、ループしそうな思考をとめてくれたのがありがたかった。
279 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 21:59
 
280 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:00
築年数の古いライブハウスは、手入れが行き届いているとはいえ独特の薄暗さを
持っている。くすんだ白色の壁には注意事項を書き連ねたコピー用紙が所狭しと
貼られていて、そのせいもあってか圧迫感を覚えた。

リハーサルを終え、食事を摂った。衣装に着替えてメイクを施し、開演までそれほど
時間はない。

朋子は通路を歩き、舞台袖へと向かう。ブログ用の写真でも撮っているのか由加と
佳林がはしゃいでいて、声を掛けるのを躊躇した。とはいえ、私情を抜きにした
用事なのだから仕方ない。

「由加ちゃん。ちょっといい?」
「あ、うん」

朋子が近寄るよりも早く、由加がこちらへ歩いてきた。その前に、佳林にフォローを
入れることも忘れていない。ちょっと行ってくるねと由加が言えば、佳林も素直に頷く。
281 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:00
その場で打ち合わせてもよかったのだけれど、由加に連れられて楽屋まで戻った。
ドアを閉めれば廊下の喧噪からは逃れられる。ぱたぱたと台本を振りながら、朋子は言う。

「こっちまで来なくてもよかったのに」
「そうだけど。ともが、二人になりたいって思ってるかなあって」

由加が悪戯っぽく笑い、対照的に朋子は軽く顔を顰めた。由加が言うような感情を
確かに朋子は持っている。けれど、見抜かれていると思うと毎回の事ながら不甲斐
なさを感じた。

「見られてるって、案外わかるものだよ」

言って、由加は台本に目を落とす。こっそりと見ているつもりでも、そう上手くは
いっていないようだった。情けないけれど、弁解の余地もないし、時間もない。
282 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:01
気を取り直して仕事の話を始めれば、由加も茶々を入れることはしなかった。その
境界ははっきりとしていて、生来真面目な性格なのだろうなと朋子は思う。

由加は真面目で優しくて、それこそ朋子にしか意地悪なことを言わない。知らない
ところではどうなのか判らなかったけれど、他の誰かにそうしているのは想像が
つかなかった。

そういう意味では、自分は特別扱いをされていると朋子は思う。けれど、他の人には
見せない面をさらけ出してくれていると好意的な解釈をすべきなのか、単にからかわ
れているだけなのかは判らなかった。

時計を気にしながら一通り相談し終え、朋子は安堵の息をつく。予想よりも早く
済んだから、慌てる必要もなさそうだった。
283 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:02
「じゃ、そういうことでよろしく」
「はーい」

由加が答えて、台本から目を上げる。舞台袖に戻るために踵を返そうとすると
じっと見つめられ、朋子はたじろぐ。

「……え、なに?」

訊くと、うーん、と由加は小首を傾げた。部屋から出るのを引き留めるように
衣装をつままれて、朋子は仕方なく由加に向き直る。

「なんか最近、距離があるなあと思って」
「どこに?」
「私と、ともに」

由加が自身と朋子を交互に指さす。「ないでしょ」朋子が否定すると、由加は眉間に
皺を寄せた。不満げな顔のままで、由加は言う。

「ある。絶対ある」
「ないよ。ないない」

近づきすぎるのが怖いからだと、朋子は言えない。忙しくて会えないのを利用して、
意識的に距離を置こうとしていた。だから余計に佳林たちが羨ましいのだ。
284 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:03
由加との関係を壊したくない。けれど、今以上の関係になりたい。そうなるためには
リスクが生じる。危険を冒してまで変えたいのか、朋子にはまだ判らなかった。

安寧に過ごすためには頭を冷やす必要がある。朋子はそう思っていたけれど、
黙っていては由加に伝わるはずもなかった。

朋子の返答が気に入らなかったのか、由加は軽く口を尖らせる。朋子はわざとらしく
時計を見上げてみせ、早く話を終わらせようと努めた。

「ないから。もう行こう?」
「……別にいいけどね」

由加がそう言ったことに朋子が安心していると、不意を突かれた。正面から抱きつかれ、
思わず台本を取り落とす。

「ちょっと、由加ちゃん、離して」
「だめなの?」

触れている感覚も、漂ってくる香りも、すべてが朋子の余裕をなくさせる。由加は
朋子の要求に従ってくれそうにもなく、さらにぎゅっと力を込めてくる。

離れて欲しいと言っておいて、朋子は由加の腰に腕を回した。そうすれば、二人の
間の距離は埋まる。けれど、見えない隔たりがなくなったようには思えなかった。
285 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:04
手に入ると思っていた。それは勘違いだった。付き合っても、由加が自分のものに
なったとは感じられなかった。

ヒトはモノではないと、そういった意味ではない。もっと精神的な感覚で、目には
見えないもの。それがどうやったら手に入るのか、朋子は未だに判らずにいる。

身体を離すタイミングを掴めずにいると、由加が首元に顔を埋めてきた。鼓動が
速まり、全身に血液が行き渡る。かかる息が温かくて、呼吸が乱れそうになる。

強く目を閉じて朋子がそれに耐えていると、不意に濡れた感触を落とされた。
思いがけない刺激に身体が跳ねる。そして、なにをされたか一瞬で理解する。
朋子は由加を突き放し、片手で自分の首を押さえた。

「……由加ちゃん、ほんとに」
「あ、グロス落ちちゃったかも」

唇を付ければ、そうなるのも道理だ。朋子からすればそんなことは些事で、突然
与えられた熱の方が問題だった。
286 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:05
「……こういうこと、しないでってば」

なんとか絞り出した声が掠れる。その言葉に、口元を気にしていた様子の由加が
顔を上げ、いかにも不満そうに言う。

「ともはするのに?」

息が詰まって、朋子はなにも言い返せなかった。今までの秘かな行為に気付かれて
いたのを知り、罪悪感を覚える。口を開けないままの朋子を前に、由加はかすかに
笑って言う。

「メイク直してから行くね」

その台詞に、頷いて返す。楽屋から出ても速まった脈は落ち着かない。それはライブ
前だからという理由だけではないのは明らかだった。

壁を背にして、深呼吸を繰り返す。気を落ち着けたいのに、濡れたような感触が蘇る。
触れられた部分を指で拭った。それでも、由加の唇の残滓は消えなかった。
287 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:06
 
288 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:07
ぱちりとスイッチが押され、照明が灯る。ドアを閉めるとすぐさまオートロックが
掛かる音がして、それに紛らわせるように朋子は息をつく。

由加の後に続いて入ったホテルの部屋には、画一的な調度品しかない。その
代わり映えのなさと同じように、今夜を平穏に過ごしたいと朋子は思った。

唇を付けられた部分にはまだ感覚が留まっている。けれど、くじ引きの結果には
逆らえない。動揺が治まらないままの朋子とは対照的に、由加は何事もなかった
かのように落ち着き払っている。

由加にとっては大したことではないのかもしれなかった。想定外の出来事だった
とはいえ、ここまで狼狽えている自分がおかしいのだろうかとも朋子は思う。

憂鬱からか、おのずと歩みが遅くなった。それに気付いたのか、由加が振り返って
言う。

「どうかした?」

変に意識すると動きがぎこちなくなりそうだった。「どうもしないよ」朋子は首を
横に振る。そっか、と軽く返し、由加はさして気に留めた様子もなく足を進めた。

視線を落とし、背中を見ないようにする。一緒にいられるというのに、普段のよう
には喜べない。嘆息が漏れそうになって、そのかわりに朋子は強く目を閉じた。
289 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:08
 
 
由加にシャワーを勧めて、朋子はベッドに寝転ぶ。両手の指を組んで頭の後ろに
回した。見上げる天井にはなんの特徴もなく、気を紛らわせてくれそうにもない。

由加とホテルで同室になるのは今夜が初めてというわけでもなかったし、付き合い
始めて以降にも何度かあった。
いつも、少し話してから寝るくらいで特別なことはなにも起きていない。しかし、
なにも起こさなかった、と表現する方が現実には近いだろうと朋子は思う。

気持ちは昂ぶったままだった。中途半端に与えられた熱が燻っていた。こんな
状態で由加と一緒にいることに危うさを感じはするものの、対応策は見つからない。

寝返りを打って、目を閉じる。ライブ後の疲労からか眠気はすぐにやってきて、
そのまま身を任せたくなった。眠ってしまえば余計なことを考えずにすむのに、
まだ寝入るわけにはいかないのを恨めしく思う。

朋子がうつらうつらしている間に、由加はシャワーを終えたようだった。ドアの
開閉音は耳に留まったけれど、瞼を上げる気にはなれず、また、眠気に襲われる。
290 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:10
「起きて」

横になったままでいると、名前を呼ばれて肩を揺すられた。うっすら目を開けると、
頬に冷えたペットボトルを当てられる。その容器を持った由加の手首を緩く掴んで、
朋子は言う。

「……もう寝る」
「だーめ。お風呂入りなさい」

ぐりぐりと頬を押され、仕方なく身体を起こした。朋子がぐっと伸びをしている間に
由加はさっさと自分のベッドへ向かってしまう。

乱暴に頭を掻いて、半ば眠った状態から意識を取り戻す。ぼんやりしていると由加が
水を飲んでいるのが目に入って、その喉が動くのが見えた。
291 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:11
たったそれだけでも、情欲をそそられる。慌てて目を逸らしたけれど不自然に脈が
打つ。湿り気を残していそうな髪に指を差し入れたいと、自然に思ってしまった。

関係の進展を望むというのは、つまりそういうことだった。けれど、由加に言える
わけもない。気兼ねなく触れられればどれほどいいかと夢想するのはいつものことで、
もはや習慣付いていた。

耐えるようにシーツを握り込むと、暑くもないのに手に汗が滲む。それを、由加には
知られたくなかった。

抱いた気持ちを忘れようと朋子は立ち上がり、入浴の準備をする。
シャワーに入り、熱い湯を浴びる。指で首に触れ、なにも残っていないはずの皮膚を
擦った。留まった熱を一緒に洗い流そうとしても、なかなかそれは消えなかった。
292 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:12
 
 
ざっと髪を乾かして部屋に戻ると、照明が点けられたままの室内は相変わらずなんの
目新しさもない。ベッドの側に目を向けると、由加は俯せてぱたぱたと足を動かしている。
別段変わった光景ではないはずなのに見ていて落ち着かず、朋子は視線を逸らした。

備え付けの冷蔵庫からペットボトルを取り出し、蓋を外す。冷たい水で喉を潤すと
僅かながらも緊張が緩まった。それに安心して、朋子はボトルのキャップを締め
冷蔵庫に戻す。

まったく言葉を交わさずに寝るわけにもいかない。朋子が自分のベッドに腰掛けると、
由加は顔だけでこちらを向いた。もう寝ようかと提案しかけた。けれど、まだ話したい
とも思ってしまい朋子は口ごもる。

俯せていた姿勢から由加が身を起こした。少し寝乱れた衣服と髪に目がいってしまい、
罪悪感に駆られる。下唇を噛んで、気を確かに持とうとした。

朋子がなにも言わずにいるせいか、ベッドの上に座った由加はきょとんとしている。
どちらかが口を開かなければ場は動きそうになかった。それを察したのか、由加が
微笑みを浮かべて言う。
293 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:14
「一緒に寝る?」

溜息が漏れ、頭を抱えたくなった。由加に言われると、冗談だとしても心が乱れて
しまう。それを朋子は恥じていたけれど、自然に湧く感情を抑えるのは難しかった。
せめて内心のぐらつきを悟られないようにと、朋子は低く言う。

「……なに言ってんの、もう」

朋子の返事を意に介してもいないのか、由加が手招きする。動かずにいると、由加は
催促するようにシーツを叩いて朋子を呼ぶ。

一緒に寝ることはしなくとも、その前になにかしら戯れるのは恒例になっていた。
睦まじくいられるのは嬉しかったけれど、苦しくもある。しかし、結局は呼ぶ声に
抗えず、朋子は重い腰を上げた。

隣に座ると由加は満足げに笑声を漏らし、優しく朋子の髪を撫でる。軽く目を閉じて
受けとめると、やはり心地の良さを感じた。

けれど、撫でてくる手つきの柔らかさとは反対に、だんだんと息が詰まってくる。
シーツを握って誤魔化そうとしても、胸が熱くなるのを止められなかった。
ぽんぽんと頭を叩かれ、目を上げる。視線の先で、由加が愉しげな声で言う。
294 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:15
「かわいい」

なにかしたいけど我慢してる顔。きっと自分はそういう表情をしているのだろうと
朋子は思った。

そこまで判っているのに、どうして判ってくれないのだろう。

その気もないのに、触れて欲しくなかった。同じベッドに座るだけで意識してしまう
のに、呼び寄せないで欲しかった。煽るようなことをするのは、やめて欲しかった。

頭に置かれたままの由加の手首を掴む。シーツよりもさらさらとした肌が気持ちよくて、
ずっと触れていたいと思った。

手を引いて由加の身体を抱き寄せる。抵抗されず、それをいいことに腕に力を込めた。
柔らかさを感じ、甘やかな香りに誘われるようにして朋子は由加の首元に顔を埋める。
295 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:16
「……かわいくなくていいよ」

小さく言って、首にはっきりと唇を付ける。腕の中で身体が震えたけれど、それに
構わず同じことを繰り返す。

「ちょっと、とも」

由加が非難するような声を上げ、シャツを強く掴んでくる。それでも腕は緩めない。
「なに?」朋子は由加の耳元で答える。呼気が熱く動悸がする。コップの水が溢れる
ように、衝動に駆られる。

試してみれば、意外に簡単なことだと思った。そのまま強引に口付けると更にきつく
服を引かれ、余計に昂ぶった。ベッドの上に転がるようにして倒れ込み、押さえつける。

見下ろす姿勢になって、じわりと頭の中が痺れる。由加も状況を理解したのか、切迫
したように言う。
296 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:17
「待って、とも」

シーツの上に広がった髪が劣情を煽り立てる。目を合わせると由加の瞳は怖じ気づく
ように揺れていた。情けないほどに呼吸が乱れる。そのせいで、声を出すのに苦労した。

「…………待ってたよ。ずっと」

堪えがたい焦燥を感じて唇に唇を押し当てた。深く口づけようとして上手くいかない
のが歯痒かった。次第に苦しげな声が漏らされて更に気持ちが高揚する。

抵抗が強くなり唇を離すと二人とも息が切れていた。由加が顔を逸らして小さく
咳き込む。シャワーを浴びた後なのにもう汗が滲んで熱は治まりそうにもなかった。

苛立ちに似た思いが胸の中に渦巻く。喉が渇いて声が掠れた。

「わかってたでしょ?」

朋子が抱えている劣情もそれを刺激すればどうなるかも。服は強く掴まれたままで
緩められる気配もない。もう冗談では済まされない。更に進めば取り返しがつかない。

また上体を屈めて覆い被さると由加が身を竦ませる。二人の距離を埋めていき由加の
耳元に口を近づける。その位置で、朋子は熱い息と一緒に言葉を漏らす。
297 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:19
「一緒に寝ようよ」

不思議と嫌とは言われないだろうと思った。自覚はあるはずだと思った。音を立てて
耳に唇を付けると朋子の下で由加の身体が跳ねる。

返事を待った。荒い呼吸音だけが部屋に響く。「……いいよ」微かに震えた声が
聞こえて全身に熱が巡った。もう一度耳に唇を付けるとまた小さく音が鳴った。

服の裾から手を忍ばせるとびくりと身体が揺れる。柔らかい肌に指を滑らせる。
手が汗ばんだ。首に口付けるのを何度も何度も繰り返してそっと舌先を伸ばす。

意地悪をされたから意地悪で返している。けれど発端がどちらにあったとしても
悪いのは誰か決まっている。判っていながら思いのままに触れていく。

吐く息が熱くて喉が焼けそうだった。シャツを捲って素肌を晒させる。逃れようと
捩れる身体を押さえ込む。声とも息ともつかないものが漏らされる。

同じ言葉が返ってこなくても、触れることはできる。

「好きだよ」

返事は待たずに、唇を塞いだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
298 名前:インシテミル-T 投稿日:2014/06/29(日) 22:19
 
299 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/29(日) 22:20
>>276-297
インシテミル-T
300 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/29(日) 22:20
>>3-45
イントロダクション
>>51-81
デイパス
>>88-112 >>119-149
ストレンジアトラクタ
>>158-180 >>187-210
パッチワーク
>>217-232 >>240-267
ブラインド
>>276-297
インシテミル-T
301 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/29(日) 22:25
レスありがとうございます。

>>272
金澤さんが報われるかどうか、そもそも、このお話が結末を迎えるかどうか?
書いてる分もストックがあったりなかったりなので……。ですので、レスを頂けてとても
励みになっております。なにはともあれ、また読んでくださっていたら嬉しいです。

>>273
悶々とされているのが少しでも晴れていけば良いのですが。徐々に終わりに近づいて
いますが、まだお話は続きます。今回も読んでいただけていたら嬉しいです。

>>274
金澤さんが幸せになれるかは、なれる、なれないでいうと確率は半々ですね。
このお話ももう後半です。どういった反応をいただけるかわかりませんが、
今回の更新分も読んでくださっていたら嬉しいです。
302 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/06/30(月) 02:12
どうも、更新確認を日課としている者です。

あああ…
かなともも、そして私も、こうなることを望んでいたはずなのに、なぜかすごく切ないです。
303 名前:名無し飼育さん 投稿日:2014/07/01(火) 07:09
ぐわぁー!
つ、続きが読みたい!笑
ここの宮崎さんは女性として魅力的ですね。
翻弄されるかなともかわいい!
304 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/04(金) 22:24
初めてこのスレ開いて一日で全て読みきりました。
続きが凄く気になります。

はぁ〜、なんという寸止め
305 名前:名無し飼育さん 投稿日:2014/07/04(金) 22:25
初めてこのスレ開いて一日で全て読みきりました。
続きが凄く気になります。

はぁ〜、なんという寸止め
306 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/05(土) 23:09
落としておきますね。
307 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 16:48
 
308 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 16:48
最悪だ。
309 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 16:48
 
310 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 16:49
電車内には冷房が効いている。まだ午前中だというのに、窓から差す光は鋭い。
揺れに身を預けながら、朋子は携帯電話で時刻を確認した。もう集合時間に近い
けれど、目的地まであと一駅というところまで来ている。遅刻はしないだろうと思った。

ホームに降り立つと途端に熱気に包まれ、線路に当たった日光が跳ね返ってくる
ように眩しかった。行き交う人々もほとんどが半袖で、汗を拭う姿が否応なく夏の
訪れを感じさせる。

六月も後半に差しかかっていた。梅雨だというわりには雨が降らず、その代わりか
時折激しいにわか雨に襲われる。今日の予報は一日中晴れだった。
311 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 16:51
早足で改札を抜けると、すぐにメンバーとマネージャーの姿が目に入る。こちらに
気付いたのかあかりがぱたぱたと手を振り、それに朋子も軽く片手を上げて返した。
合流すると、紗友希が冗談めかして言う。

「とも、ギリギリすぎ」
「いいじゃん、間に合ってるんだからさあ」

朋子が言い返すのと同時に、行こうか、とマネージャーが促す。歩き出すと自然に
紗友希と隣り合わせになった。それは普段と変わらぬ距離感で、組み合わせだった。

そのままラジオの収録現場へと向かう。なんの変哲もない日常に見えて、朋子の
心中は穏やかではなかった。

今日は由加が後方を歩いている。特に見られている気はしない。駅舎から出ると
また容赦なく日差しが照りつける。朋子は振り返ることなく、紗友希と話す。

しばらくは由加と二人での仕事はなさそうだった。それは朋子を安心させたけれど、
だからといって状況が好転するわけでもない。

由加の前で、どんな顔をすればいいのか判らなかった。そう思っているのに、仕事の
ときには以前と変わらず笑っていられる自分が怖かった。気まずさも、行きすぎると
感じ方が鈍くなるのを初めて知った。由加も今まで通りに笑っているけれど、そう
出来る理由は朋子と同じかもしれない。しかし、訊けないから判らないままだった。
312 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 16:53
 
ラジオ局に着き、順路を辿ってスタジオに入った。
自分たちのグループ名が冠されたラジオ番組は、全員で収録することも、何人かに
別れて録ることもある。そして、示し合わせたわけではないけれど全員で出演する
ときの座席順は自然と決まっていた。

朋子はいつも由加の隣だ。距離は近いものの、はっきりと顔を合わせなければ
いけない正面よりはいいのかもしれないと思った。

皆がブースに入り椅子に腰掛けると、ガラス越しにディレクターが指示を出す。
朋子がそちらを見るには、由加の側を向かなければいけない。

そっと盗み見ても、数日前の痕跡はなにも残っていなかった。何度も口付けた
首筋もきれいなままだ。強くはしなかったから当然だけれど、痕がなくとも事に
及んだのには変わらない。

ディレクターの指示に頷いて、視線を台本に落とす。余計なことは考えたくないのに、
脳裏から離れなかった。忘れられるわけがなかった。思い出すと、微かに動悸がした。

横から赤鉛筆が転がってきて、それを拾い上げる。至って自然に由加に手渡すと、
ありがとう、とこれもまた至って自然に言葉を返された。

いっそ冷たくしてくれればいいのに、由加はそうしない。気にしないでいいと言って、
朋子に向ける態度は変わらない。それが尚更、いたたまれなかった。

横目で由加を見ると、顎に手を当ててなにやら真剣な表情をしている。気付かれない
うちにと朋子は視線を逸らした。開いたページの端にボールペンを強く押しつけると、
そこに黒い傷跡が残る。上から塗りつぶすと、傷は大きく広がった。
313 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 16:56
 
収録を終えて建物から出る。紗友希と佳林は次の仕事のためにタクシーで去って行く。
マネージャーもそれに同伴しているから、残されたのは三人だけになった。

あかりに暑苦しく纏わり付かれ、朋子は眉をひそめる。ただでさえ太陽が熱く地上を
照らしているのに、こうも近づかれては敵わない。「離れなさい」朋子が言っても、
そ知らぬ顔であかりは口を開く。

「ご飯食べて帰ろ」
「離してくれたら考える」
「仕方ないなー」

ぱっと腕を解放され、「由加もいいでしょ?」あかりが楽しそうに言う。由加は
あかりの誘いに乗った。朋子が一緒に行くのは決定しているらしく、意向を尋ね
られる気配もない。

気が重かったけれど、固辞するのも不自然に思えた。渋々ながらに三人で並んで
歩くと、半ば当然のようにあかりが真ん中になる。二人きりになるわけではないの
だから、あまり構えずにいようと朋子は思った。
314 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 16:57
 
いろいろと検討した末に、結局はファミレスに入った。店内は空調が効いていて、
すっと汗がひく。四人掛けの席に、由加とあかりが隣り合い、その向かいに朋子が
座った。あかりが正面にくるようにと、朋子は慎重に席を選んでいる。

昼食時だからか、店はそれなりに混雑していた。メニューを広げて注文を済ませ、
料理が運ばれてくるのを待つ。あかりがいるおかげか話は弾んだけれど、朋子は
気が気ではなかった。

あの行為の後、由加とまともに話したことはなかった。仕事中に言葉を交わすことは
あれど私的な話を長くできるような機会はなかったし、そうなることを避けていた。

なにを言えばいいのか判らない。何度も何度も謝ったけれど気にしないでいいと
しか返されなかった。なかったことにすればいいとは思うけれど、そうするには
犯してしまった罪が重すぎる。
315 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 16:58
テーブルに置かれた携帯電話が鳴り、あかりがそれを取り上げて顔を顰めた。
「マネージャーさんからだ」通話を受けながら言い、外で話してくると身振りで
示す。店は混雑している。そうするのが当然のことだった。

引き留めるわけにもいかず、後ろ姿を見送る。喉が渇き、コップを傾け水を飲んだ。
けれど、それだけで間が持つはずもないのは明らかだった。

無駄な抵抗と思いつつも、真っ直ぐに由加を見るのを避けるように朋子は目を
伏せる。テーブルに落ちた水滴を数えていると名前を呼ばれ、すぐに反応せず
にいれば、また声を掛けられる。

「こっち向いてよ」

無視するわけにもいかなかった。朋子がおずおずと視線を上げると由加は困った
ように笑っていて、表情そのままの声で言う。

「もういいってば」

なにがもういいのか、由加ははっきり口にしない。周囲に人がいるところで気軽に
持ち出せるような話題でもないし、言いたいようなことでもないのだろう。

テーブルのすぐ横を、器用に皿を持った店員が通り抜けた。由加の顔から目線を
外す。下を向くと、また水滴が目に入った。
316 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 16:59
「……でも。あのとき、無理やり、したから」

よくないよ、と小さく続ける。なにを無理やりしたのか、朋子も明確には表せなかった。
周りでは大勢の客と注文を取る店員とでざわめいている。それに掻き消されそうなくらい
の声しか出せないのが、情けなかった。

「いいんだって。私がともに、そういうことさせちゃったんだし」

薄い笑みは、自嘲しているようにも見えた。由加は焦らすようなことばかりをして
いて、やはりその自覚はあったらしい。由加の言動はいつも朋子の感情をかき立て、
それが一因になったのは否めない。

だからこそ、そこにつけ込んだ。朋子にも自覚はあった。罪悪感を煽ってやれば、
断られないだろうと思った。いいよと言われたとしても、強要されたも同然のものは
合意ではない。それは判っていたのに泣かせてしまったことを、後悔していた。

「……違うよ。由加ちゃんは悪くない」
「だから、もういいって。気にしないで」

これでおしまいとでも言いたげに由加が手を振る。話したところで過去が覆るわけも
ない。許されないことをしたのは判っている。謝るのなら、しなければよかったのだ。

間違ったのは判っているのに心のどこかで許されたくて、だから何度も謝っている。
けれど、由加のためを思えば、きっともう口に出さない方がいい。

あかりが戻ってきて、由加は笑顔で出迎えた。
317 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 17:00
 
   ▼
 
318 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 17:01
ベッドに寝転がり、天井を見上げる。なにも面白いものはないと判っているのに、
ホテルに泊まる度にそうしている気がした。

由加との間に流れる曖昧な空気は変わらないままだ。遊びに行こうと誘うことも、
誘われることもない。それは、忙しいからという単純な理由だけではなくなって
しまった。

由加の言うとおり、気にしていても仕方ない。なかったことに出来ないのは変わら
ないけれど、このままでいいとは朋子も思っていなかった。

どうすべきか、最適解は見えている。もう終わりにすればいい。けれど、朋子は
それを選べない。こうなってまで別解を探している自分を軽蔑し、それでもまだ
足掻いている。そもそも、終わりにしたところで罪が消えるわけではない。ただ、
今よりはましな状況になるだろうと思うだけだった。
319 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 17:02
寝返りを打って目を閉じる。シャワーは浴びたから寝てしまってもよかったけれど、
すんなり眠れる気がせずにだらだらと無為な時間を過ごしている。

幸いにも今夜は全員が一人部屋だ。しかし、たったの五人では組み合わせも限られる。
そのうち由加と一緒の部屋になるだろうと思うと、今から憂鬱な気分になった。

深くなる思考を遮るように、携帯電話が着信を告げる。ディスプレイに表示された
名前を確認して朋子が通話を受けると、耳元で紗友希の声がした。

『もしもーし。なにしてんの?』
「なにもしてないけど」
『今ね、うえむーの部屋に集まってるんだけど。おいでよ』

集まっているということは、きっと由加もいるのだろう。寝そべったままで数秒、
考えた。のけ者にされることなく誘ってもらえたのは嬉しかったけれど、行きたい
とは到底思えなかった。
320 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 17:03
「……行かない。眠いし」
『えー?』
「おやすみなさーい」

非難するような紗友希の声をあしらって、朋子は通話を切る。明日の準備をして
もう眠ってしまおうと思い、だるさの残る身体をのろのろと起こす。

またしても携帯電話が鳴る。紗友希もしつこいなと思って見ると、着信は由加から
だった。伸ばそうとしていた手がぴたりと止まり、通話を受けるのを躊躇する。

悩んでいるうちに留守番電話サービスに繋がったらしく、思わずほっと息をついた。
あかりの部屋からなのか、別のところから掛けているのかは判らない。直前に紗友希と
電話していたのだから無理がある言い訳だけれど、寝ていたことにしようと思った。

ベッドから足を下ろすとまた鳴って、今度は迷わずに無視する。さっき出なかったの
だから、もう何度掛かってきても構う気はなかった。そう思うと楽になり、しばらく
すると携帯電話の振動も途切れ、安堵する。

三回目も、見て見ぬふりをした。電源を切ってしまいたかったけれど、そうすれば
起きていたと教えるのも同然だから出来なかった。

何度も寝返りを打ったせいか、白いシーツには皺が寄っていた。明日の朝に少しは
整えなければと思い、乱暴に頭を掻く。一人でいてもベッドは乱れる。二人だと尚更
だった。それを思い出しかけて、朋子は記憶に蓋をする。
321 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 17:05
四回目と、ノックの音は同時だった。思わず動きが止まる。さすがに観念するしかなく、
朋子は携帯電話を手に取った。『開けて』由加が前置きもなく言い、朋子はそれには
答えずドアを開いた。

「入っていい?」
「……いいけど」

断る理由を見つけられずに、由加を室内に通す。彼女にしては声にも表情にも感情が
見られないのに戸惑った。けれど、それを質せる雰囲気でもなかった。

二人になると部屋が窮屈に感じられ、居心地の悪さを隠せず視線が泳いだ。由加も
シャワーは済ませたのか、髪は乾ききっていないように見えた。それに触れたいと
思うのを抑え、朋子はぎこちなく言う。

「……座ったら?」
「うん」

ベッドに座らせていいものかと思いはしたものの、由加は自分からそこに落ち着いた。
朋子は椅子を引き出して腰を下ろす。由加は僅かに眉根を寄せたけれど、咎められる
ことはなかった。

由加はなにか考え込むようにして黙っている。それを見ても朋子に言えることはなく、
部屋には静寂が満ちる。しばらくの後に、静かな声で由加が言う。
322 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 17:07
「……無理やりだったって、まだ気にしてる?」

訊かれて、朋子はゆっくりと頷いた。それを見てか由加は腰を上げたけれど、帰る
ような風情でもない。続けられた言葉は溜息交じりで、なにか諦めたように聞こえた。

「……気にしないでって言っても、ともは気にするんだろうね」

おいでよ、と手招きされたところで、動く気にはなれなかった。怖じ気づいていると、
歩み寄って来た由加に腕を取られる。「あんまり乱暴したくないから」由加の言葉の
意味を理解できないうちに、強引に立ち上がらせられる。

よろめいていると、力任せに身体を押されてベッドに沈められた。そのまま由加が
上に乗ってくる。身動きが取れない姿勢になって、ようやく状況が掴めた。

「え、ちょっと待って、由加ちゃん、やだよ」

無言のままに肩を押された。体格差はほとんどないから、下になると逃れられない。
そもそも嫌だと言う資格はないことに気付いて、ぞっとした。真剣な顔をした由加が
身を屈める。二人分の体重でスプリングが軋んだ。ぬるく湿った息が耳にかかる。

「これで、なかったことにして」

耳に唇が触れたのか濡れたような音がした。これ以上ないくらいに心臓が強く打つ。
ぎゅっと由加の服を掴む。はっきりと首に唇を付けられ身体が震えた。素肌に這わ
された手に抵抗できない。由加の呼吸も乱れていて言葉と共に吐かれた息が熱い。

「許してあげる」

わざと音を立てるようにして首筋に口付けられる。それを繰り返されて苦しくなる。
息が漏れるのを抑えようとして出来なかった。柔らかい手が丁寧に追い詰めてくる。
小さく声が出る。額に唇が落とされる。続けられた行為は荒さと甘さを含んでいた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
323 名前:インシテミル-U 投稿日:2014/07/06(日) 17:07
 
324 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/06(日) 17:08
>>308-322
インシテミル-U
325 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/06(日) 17:09
>>3-45
イントロダクション
>>51-81
デイパス
>>88-112 >>119-149
ストレンジアトラクタ
>>158-180 >>187-210
パッチワーク
>>217-232 >>240-267
ブラインド
>>276-297
インシテミル-T
>>308-322
インシテミル-U
326 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/06(日) 17:10
レスありがとうございます。

>>302
どうもどうも、毎日ありがとうございます。とても嬉しいです。
結果だけ見れば望み通りでも、そこへ到る道筋も望むものだったか、というと
また別のお話というわけで。今日も更新チェックしてもらえていたら嬉しいです。

>>303
続きました! ここがどうかを置いといても、実際の宮崎さんは超魅力的です。毎日
お味噌汁作って欲しい。金澤さんも暴君キャラが目立ってますが、かなともかわいいよ
かなとも。また読んで頂けていたら嬉しいです。

>>304-305
レスくださる際には、メール欄に半角でsageと入力して頂けると助かります。
そうしないとスレが上に行ってしまいますので……。
さておき、なんとか続きましたので、また読んでもらえていたら嬉しいです!

>>306
すみません。ありがとうございます。
327 名前:名無し飼育さん 投稿日:2014/07/06(日) 18:40
更新キテタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!

まさかの展開にドキドキが止まらないです
ゆかにゃんやりおるw
328 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/06(日) 21:19
まさかまさかの展開に、息が止まりました。

わー!!
329 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/06(日) 21:27
宮崎さんすごい…。
これを受けて金澤さんがますます思い悩みそうとか思ったり。
次の更新も楽しみに待ってます。
330 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/07(月) 03:30
あああああああああああ…
私も息が止まりました。
なんと言いますか、もはや魔性通り越して悪魔ですね、ゆかにゃんは。

更新確認は寝る前の大事な儀式です。おやすみなさい。
331 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/08(火) 04:47
ずっと読ませていただいていました。
今回の更新が衝撃的過ぎて初コメントです。
自分もjuice=juiceのメンバーのお話を某サイトに投稿しているのですが、
ここの宮崎さんも金澤さんも魅力的で悔しいくらいです。

次回の更新も楽しみにお待ちしています。
332 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/10(木) 10:03
本日このスレッドに出会って、あまりの素晴らしさに一息で読んでしまいました。
読んでいて本当に胸が痛くなったり息が苦しくなったり、時には声をあげてしまったり(笑)
ここの金澤さんも宮崎さんも非常に魅力的なキャラクターで、引き込まれてしまいます。
二人がこのあとどうなっていくのか気になって仕方がありません。
次の更新も心待ちにしております。
333 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 15:56
 
334 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 15:57
からりと戸を開けてベランダに出る。熱帯夜がやって来るのはまだ先のようで、
風は涼しさを運んでくる。朋子は手すりに両腕を預け、もたれかかった。

目の前に広がる景色は、普段と変わりない。都心ではないせいか、夜になると
虫が鳴き出す。冬の間は黙りこんでいるのに、なぜ夏になると元気になるのか
不思議だったけれど、調べてまで知りたいとも思わなかった。

夜になっても、空は黒く塗りつぶされるわけではない。見上げると薄い雲が
かかっていて、それは淡々と流れていく。星座が浮かんでいるはずの方角に
視線を巡らせても、天気のせいか、星は見えなかった。

手に持った携帯電話を見つめる。まだ日付が変わっていないのを確かめ、
由加は起きているだろうかと考えた。
335 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 15:58
そろそろ潮時だろうと思った。

仕返しをするから帳消しにしてくれと、由加がそう考えたのは理解できた。
けれど、共感はできなかった。

きっと最後の優しさだったのだ。朋子が負い目を感じないようにと、そのために
同じことで返してくれた。

もう終わらせなければと思った。たったの一言で決着がつくのは判っていたのに、
そうは出来ずにいた。判っている。別れようと、朋子から言えばそれで終わりだ。

携帯電話を目の高さにまで上げる。
履歴から由加を選ぶ。なにを言うかは決めていた。

コール音が耳に響く。電話を掛けるのは未だに緊張するけれど、今夜のそれは
いつもとは別物だった。
今日は約束を取り付けるだけなのに、この調子では明日の本番が思いやられた。
336 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:00
『もしもし』

眠たげな声が甘くて、それだけで胸が詰まった。
緊張を悟られないように、何気ない風を装って朋子は言う。

「ごめん。寝てた?」
『起きてたよ』

長く話をするつもりはなかった。だから、早く用件を伝えてしまいたかった。
それなのに言葉が続かずに、由加が先に話し出す。

『とも、夜に電話掛けてくると、いっつもそれ言うね』

そうかもしれないと思った。話し始めの台詞はいつも同じで、癖のようなものだった。
そして、由加がそれを憶えてしまうほどには、夜分の電話を繰り返していた。

「……由加ちゃんも一緒だよ。起きてたよって」
『そうかな?』

いつ、気付いたのかは判らない。もう、思い出せる気もしない。
初めは電話を掛ける度に、指折り数えていた。けれど、いつの間にかそうは
しなくなっていた。用事がなくても声を聞けるのを、当たり前だと思いかけていた。
337 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:03
「明日さ、時間ある? 話したいことあるんだ」

直接会って言うつもりだった。今では駄目なのかと追求されることはなかった。
しばらくの間の後に、由加は予定を確認するように言う。

『明日、仕事なんだっけ……。あ、リハーサルの後なら』
「あー……そのままリハーサル室、残れるかな?」
『うん、大丈夫だと思う』

答える由加の声は、だんだんと柔らかく眠たげになっていく。夜更けに電話を
しているとそうなるのも度々で、時には話しながら寝てしまうこともあった。
けれど、何度そういうことがあったのか、朋子はもう憶えていない。

「じゃあ、明日」

約束は取り付けた。あとは挨拶を交わすだけだ。眠りの前の挨拶を特別に思うのは、
それが親しさの証明のように感じられるからだった。
338 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:04
眠りに落ちるほんの少し前。
その声を聞けるのは、今夜で最後かもしれないと思った。

「……おやすみ」
『うん。おやすみなさい』

躊躇と通話を、同時に断ち切る。緊張が解け、身体から力が抜ける。
たった一言を言うための準備がつらかった。けれど、徹底的に終わらせるためには
必要な手順だった。始まりのきっかけを思い出す。好きにならなければよかった。

空を見上げても、なんの変化もなかった。天体に興味はなかったのに、調べてまで
知りたいと思うようになったのは、由加を好きになってしまったからだ。

好きにならなければ、始まらなかった。だから、好きでなくなれば終わらせられる。
きっと言える。もう好きではないから別れたいと、声に出せれば、それでいい。
339 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:04
 
   ▼
 
340 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:06
「え、由加、帰らへんの?」
「うん。ごめんね」

由加の返事に、あかりは不平がましく顔を顰めた。一緒に帰るつもりだったの
だろうと思うと、申し訳なくもあった。けれど、先約があるのだから仕方ない。

リハーサルを終えて、この後に仕事の予定はなかった。由加はあかりを追い払う
ようにして、部屋から出す。紗友希も佳林も帰って行き、ようやく二人きりになる。

顔が強ばりそうになるのを、タオルで擦って緩めようとする。部屋は静かだった。
由加が出入り口に目を遣る。誰かが入ってくるのは、困ると思った。

「……鍵、掛けた方がいい?」

由加が言って、朋子は頷く。話したいことがあると言っただけなのに、その内容は
知られているかのようだった。

由加がシリンダー錠を回す。その音はやけに大きく響いた。けれど、きっと外には
漏れていない。
今から話すことは、他人に聞かれたいようなものではなかった。
だから、この場所を選んだ。防音の密室は、別れ話に適している。
341 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:08
由加がドアを背にして立ち、朋子はその正面に回る。さらりと軽く告げたいのに、
そう出来る気はしなかった。由加は困ったような顔をして、言う。

「話って、なに?」

じっと目を見ると、それだけで泣きたくなった。息苦しくなって胸を押さえると、
由加が安心させるように微笑む。結局は困らせて気を遣わせて、挙げ句の
果てには傷つけた。したかった行為も、無理やりにしたいわけではなかった。

「ずっと好きだった」

朋子が言うと、由加は少しだけ驚いたような顔をした。今さら告白じみた台詞を
吐いているのが、我ながら滑稽に思えた。それはもう口にしてはいけない言葉で、
嘘をつく前に、もう一度伝えたかった感情だった。

「……だからね、一緒にいられるの、嬉しかった。
 由加ちゃんちで映画観たりするのも、すごく楽しかった」

なにを観たいかと訊いたらホラー以外でと言われた。アイスを買っていくと喜んで
くれて、疲れて眠るのを抱き留めるといい匂いがした。
342 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:09
「待ち合わせして出かけるのとか……、電話したりメールしたり、
 二人で会えるの、そういうの、ぜんぶ楽しかったし、嬉しかった」

声を聞きたいと思うタイミングで電話が掛かってきた。エスカレーターが終わるのを
気付かずに転びかけると、腕を掴まれて怒られた。

「いつ、なんで由加ちゃんのこと好きになったのか、……今でも、よくわかんない。
 理由は色々言えるけどさ。他の人じゃ駄目で。……気付いたら、好きになってた」

初めは仕事のことしか話さなかった。そのうち共通の話題を探すようになった。
由加以外にもかわいい人も優しい人もたくさんいると、知っていた。

「だけど……」

落ちかける視線を上げる。最後まで目を見て言いたかった。由加は無言で続きを
促す。汗を拭うふりで、目元を擦った。
343 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:11
「私は由加ちゃんのこと、好きになんかなりたくなかったよ……」

好きだと言ってしまったことを、後悔している。過去に戻りたいと、今でも思っている。
気持ちを告げずにいれば平穏なままでいられたのにと、悔いている。

「……由加ちゃんじゃなきゃ駄目だったけど、由加ちゃんだったのが嫌で。
 違う人を好きになりたかった。でも、他の人のこと、好きになれなかった」

由加でなければよかったのにと、何度も思った。会いたくて、会いたくなかった。
優しくされたくて、されたくなかった。好きでいるのは、楽しいばかりではなかった。

「由加ちゃんが好きだった。……由加ちゃんだけが、好きだった。……一回も、
 嘘ついてない。初めから、思ったこと言ってただけで、……嘘じゃ、なくって」

何度も伝えた感情は、すべて切実な事実だった。だから、同じ言葉が欲しかった。
そう思わなければよかった。好きになって欲しいなんて、思わなければよかった。

好きだったと、過去のことのように言っているのは、嘘ではない
今も好きだと、それを言っていないだけで、好きだったのは嘘ではない。
344 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:12
目に涙が浮かぶのが情けなかった。

「……ほんとに、好きだったよ」

声を絞り出すと、喉がひどく痛んだ。
これで最後だ。もう二度と好きとは言えない。

好きにならなければ、付き合うことはなかった。
由加の提案に頷いてしまったのは、間違いだったと判っていた。

ずっと判っていたのに一緒にいるだけは満足できなくて好きになってもらいたくて
触ったら痛がらせて泣かせてしまって触られたら気持ちよくて目が覚めたら一人で。

初めから、間違っているのは判っていた。

だから。

間違った関係は、正さなくてはならない。
345 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:12
「……でもね。もう、好きじゃない、から」
346 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:13
「別れたい」
347 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:13
肩に掛けたタオルで顔を覆う。
そうすると、由加の顔は見えなくなった。

「……うん。わかった」

返事だけでは、感情が読めなかった。

「別れよっか」

続けられた言葉に、頷くしかなかった。
348 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:14
「……ずっと、ごめん」

馬鹿みたいに単純なことしか言えなかった。もっと毅然というはずだった台詞も
ぐちゃぐちゃで、最後まで情けない姿しか見せられなかった。

「ともは悪くないよ。……私も、ごめんね」
「由加ちゃんは、悪くないよ……」

声が震えてしまうのが、恥ずかしかった。もう誤魔化しきれなかった。自分の
足元を見て、呼吸を整える。話は終わったのに、由加が立ち去る気配はない。

だから、つい、弾みで。

訊いてしまった。
349 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:17
「……なんで付き合ってくれてたの?」

この期に及んで、なにを訊いているのだろうと思った。
喘鳴のような音がうるさかった。その音に紛れて、由加の声がする。

「……好きでいて欲しかったから」

言葉を返せなかった。
付き合わなくても好きでいたのにと、言いたくても、もう、言えなかった。
タオルで目元を押さえて、拭う。一緒にロッカールームまで帰れるはずもない。

先に行ってくれと言うために、顔を上げた。それを待っていたかのように、
由加は一歩踏み出して、朋子の首に腕を回す。
350 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:18
「ごめんなさい」

言葉と共に唇を塞がれた。理解も抵抗も出来ずに、一瞬で身体が熱くなる。
数秒続けられて声が漏れた。強く瞼を閉じると、目尻が湿った。

「また明日ね」

別れ際の挨拶はいつもと同じだった。さよならではないのがつらかった。
錠が解かれる音がした。ドアが開いて、閉じた。

鍵を掛け直した。こんな姿は誰にも見られたくなかった。立っている気力すら
失って、座り込んだ。手の甲で口元を拭っても、残滓は消えなかった。

由加は優しくない。
今まで出会った誰よりも、残酷だ。

あの夜だって、唇にはしなかったのに。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
351 名前:リアクタンス 投稿日:2014/07/19(土) 16:18
 
352 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/19(土) 16:19
>>334-350
リアクタンス
353 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/19(土) 16:20
>>3-45
イントロダクション
>>51-81
デイパス
>>88-112 >>119-149
ストレンジアトラクタ
>>158-180 >>187-210
パッチワーク
>>217-232 >>240-267
ブラインド
>>276-297
インシテミル-T
>>308-322
インシテミル-U
>>334-350
リアクタンス
354 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/19(土) 16:23
レスありがとうございます。

>>327
キチャイマシター!
今回もドッキドキラブ更新になっていればと思います。

>>328
息をしてくださいお気を確かに!
今回の更新分で止まった呼吸を楽できていたら良いのですが……。

>>329
人間いろいろ考える生き物ですから、悩んだりもするかもです。
宮崎さんの行動は、いわゆる等倍返しってやつです。

>>330
このお話はフィクションですから、致し方ないところです。
現実の宮崎さんは天使です……。尊い……。それでは今夜も、おやすみなさいませ。

>>331
ずっと読んでてもらえて嬉しいです。書いている方に悔しいと言って頂けると、
なんといいますか、「ククク……」と悪役のような笑みを浮かべてしまいそうです。

>>332
一気にありがとうございます。電車の中では読めないスレを目指しています。
……今考えたスローガンですが。お話も、言ってしまえばただの文字列ですが、
そこから色々と感じ取って頂けるのは嬉しいものです。


>>327-332
反応をいただけること、とても励みになっております。
今回の更新分も読んでくださっていたら嬉しいです。
355 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/20(日) 00:23
呼吸再開できたと思ったら、今度は涙が止まりませんよT_T
宮崎さんに聞きたい。ねぇ、本当にそれだけ?変化はしなかったの?

続きが早く読みたいです。
356 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/20(日) 01:00
前回のコメントで悔しいと書いた者ですが、今回はただひたすらに切なかったです。
金澤さんと同じように胸が詰まって、同じようにつらくなりました。
後半の場面では、金澤さんの言葉と心情の一つ一つがひたむき過ぎて、
突き刺さるようだと感じました。
感情移入し過ぎたようで、涙ぐみながら読ませていただきました。

ここまできてしまうと、次回の更新が楽しみですが、怖いです。
357 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/07/20(日) 01:51
>>345を読んだ瞬間、涙が出ました。かなともの、懸命な嘘。
それなのに……どこまでも狡い人ですね、(この作品の)ゆかにゃんは。

今夜はタンポポのラストキッスを聴いて眠ろうと思います。
次回の更新も楽しみにしています。
358 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/12(火) 13:01
続きを待ちつつ読み返してます
禁断症状で一日三食しか食べられません
359 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/17(日) 17:44
 
360 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/17(日) 17:45
もっと近づくようにと言われた。
由加に腕を引かれて身体を寄せると、露出の多い衣装のせいで素肌が触れあう。
カメラに向けて真面目な顔をする。強ばりそうになる表情も、笑ってはいけない
撮影のときには役に立った。

年長三人組の撮影を終え、次は佳林とあかりの出番だった。カメラの前から退いて、
由加と紗友希と共に、朋子は薄暗い待機場所に戻る。

パイプ椅子に腰掛けるとぎしりと音が鳴った。近くではスタッフが撮ったばかりの
画像を確認している。見慣れた光景だった。こうやって三人でいるのも、特段に
変わったことではない。

気を紛らわせようと、朋子はテーブルに並べられたペットボトルを手に取った。
水を口に含み、撮影の様子を眺めていると、横から紗友希に肩をつつかれる。
361 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/17(日) 17:45
「ねー。今日どうする?」
「え? なにが?」
「なんだよやる気ないな。ともから誘ったくせに」

一瞬、思い出せなかった。「映画だよ」紗友希が言う。仕事が終わったら映画を観に
行こうと誘ったのは、確かに朋子だった。

「忘れてたの?」
「忘れてないよ」

笑って誤魔化し、テーブルの上に置いていた荷物を引き寄せる。携帯電話を取り出して
上映時刻を調べた。封切りされたばかりの話題作は評判も上々のようで、どこの館でも
興行しているらしかった。

「由加も行く?」

紗友希が言って、朋子はどきりとする。

「あーりーと行く約束してるから」
「そっか」

由加の言葉に紗友希が軽く返し、話題はすぐに他のものへと移ろった。
362 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/17(日) 17:48
由加とあかりの約束を朋子は知らなかった。それは当然のことだった。
付き合っていた頃なら、雑談の流れで聞いていたかもしれなかった。
けれど、今となっては二人で話す機会は少なく、わざわざ由加が教えてくれる
ようなことでもない。

上映時刻を確認した後も、携帯電話をいじる。仕事が終わってからの段取りをつけ
なければならない。由加と紗友希の声を聞きながら、朋子はそれを先延ばしにする。

また元通りの無難な関係を創ろうと、朋子は思っている。由加がどう思っているかは
判らない。一緒にいることが減ってしまったから、態度や仕草で感じ取るのも難しく
なってしまった。

そっと目を上げ、由加を見る。にこやかに紗友希と話している。由加は誰に対して
でも愛嬌があって、朋子にだけ向けられる笑顔というものは元から存在しなかった。
少なくとも、朋子にはそう感じられた。それが欲しいと、思っていた。

佳林とあかりが戻ってくる。撮影の続きは昼食を摂ってから行われる予定で、
どうにも長丁場になりそうだった。

朋子はあくびをひとつ漏らす。それを見てか由加が笑う。曖昧に笑みを返して、
自然に出来ていただろうかと朋子は不安になる。
363 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/17(日) 17:48
 
364 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/17(日) 17:49
食事をすると身体が温かくなる。けれど、エアコンから吹き出る冷風のせいで、
それもすぐに落ち着いた。

楽屋には全員は揃っていない。個々の撮影へと移り、待ち時間ができた。
いつもなら、退屈しのぎに書きものをしたり、DVDを観たりしている。
しかし、今日はそうする気にはなれなかった。眠気が押し寄せてきたから、という
理由もある。

ショックなことがあったからといって、眠れないわけではなかった。ただ、夢見が
悪い。由加を夢に見ると、起きたときに虚しくなる。以前なら単純に嬉しくなって
いたはずだと、思わずにはいられなかった。

離れたところで、紗友希とあかりが騒いでいる。うるさいなと思った。普段は自分も
参加しているというのに、端から見ていると否定的な感想を抱いてしまう。
きっと、心が荒んでいる。誰かに八つ当たりしないように、気をつけなければと思った。

ブランケットを抱えて、ソファに寝転がる。眠ってしまおうと思った。いずれ由加が
戻ってくる。無難に過ごそうと思ったところで、実際に出来るかは別だ。

時間が解決してくれるとはいうけれど、どれほどの時が必要なのだろう。
考えたところで見当もつかなかった。それに、本当に解決してくれるのだろうかと、
疑いたくもなった。
365 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/17(日) 17:50
ブランケットを身体に掛け、目を閉じる。それだけで眠気は強まった。この際、
寝たふりをしてもいいと思った。そうするうちにこの問題が解消されるのならば、
それがいいと思った。

考えても無駄だ。由加との思い出もこれからのことも、もうなにも希望を持っては
いけない。だから考えたくないのに、どうしてもそれができない。

騒がしさの中で、ドアが開く音がした。
見えはしないけれど、誰が来たのかは直感的に判ってしまう。

「静かにしなさい。寝てるでしょ」
「えー?」

由加の台詞の後に、紗友希とあかりの声が続く。
寝ている、というのはきっと朋子のことだ。起きているよと言う気にはなれない。
撮影の順番が回ってくるまで、こうしていようと思った。
366 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/17(日) 17:51
二人分の足音が、ドアを抜ける。途端に部屋が静かになり、寝たふりを続けるしか
なくなった。紗友希とあかりはおとなしくするより、別の部屋に行くことを選んだ
ようだった。

かたりと、椅子を引く音がする。眠っているはずの朋子を起こさないようにと、
ひそやかに動いているのだろう。そういう由加の優しさが好きで、嫌いだった。
もっと好きになってしまうから、見えないところでまで優しくするのはやめて
欲しかった。

また椅子を動かしたのか、わずかに音が立つ。足音がして、衣擦れが聞こえる。
躊躇うような沈黙の後に、すぐそばで由加の声がする。

「ねえ、寝てるの?」

返事はできなかった。肩の辺りに、緩く手を置かれる。揺り起こすわけでもなく、
ただ添えられていて、その部分が温かくなったように感じる。
367 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/17(日) 17:55
「起きてるんでしょ? 写真撮ってブログに上げちゃうよー」

ふざけたみたいに言って、当てられていた手が外された。シャッター音が響く。
寝ているから静かにしなさいと注意していたのに、今度は由加が騒がしい。

本当は眠っていないと、由加には判っているのだろうか。それとも、眠っていると
思っているからこそ、気安く話しかけられるのだろうか。

「ごめんなさい」

唐突な謝罪の後には、もう触れられることはなかった。
瞼の裏は真っ暗でなにも見えない。けれど、由加が傍らにいる、というのは判った。

なぜ、由加は謝るのだろう。
想像することはできる。ただ、その予想が的中しているかは由加に訊かなければ
判らない。そして、自明ながら、問い質すことは出来ない。

「……ねえ、とも。起きてよ」

がちゃりとドアノブが捻られる。「由加ちゃん?」佳林の声がして、由加がそっと
立ち上がる気配がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
368 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/17(日) 17:56
 
369 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/17(日) 17:57
>>360-367
ワンダロンド(前編)
370 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/17(日) 17:57
>>3-45
イントロダクション
>>51-81
デイパス
>>88-112 >>119-149
ストレンジアトラクタ
>>158-180 >>187-210
パッチワーク
>>217-232 >>240-267
ブラインド
>>276-297
インシテミル-T
>>308-322
インシテミル-U
>>334-350
リアクタンス
>>360-367
ワンダロンド(前編)
371 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/17(日) 18:00
今回はちょっと短めです。

レスありがとうございます。

>>355
(´・ω・)つハンカチ
今までで一番更新の間隔が空いてしまいましたが、
また読んでもらえていたら嬉しいです。

>>356
読んでくださっている方の感情を動かせたのなら、また悪巧みするような笑みを
浮かべたくなります。丁寧に書いてくださってありがとうございます。
今回の更新はゆるめなので、怖がらずに読んでもらえていたら嬉しいです。

>>357
()の部分、気を遣わせてしまって、す、すみません。どうかお構いなく。
ラスキスいいですね。確かにこの回に似合うかもしれません。
今夜も読んでいただけていたら嬉しいです。

>>358
症状が薄れておやつまで食べられるようになっていれば良いのですが。
読み返している、と言っていただけて、はぴはぴはっぴーです。
また今回も見ていてもらえたら嬉しいです。
372 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/17(日) 21:55
更新、お疲れ様です。
ようやく、由加ちゃんの気持ちがわかるんでしょうか(つ_T)
次回も、お待ちしてます。
373 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/18(月) 03:24
更新お疲れ様です!
今夜も読みました。
毎日毎日心待ちにしていたので、更新されていて思わず声が出ちゃうほどびっくりしました。
これから、彼女の本心が暴かれるのでしょうか。楽しみです。

この作品を読むと、純粋にドキドキするんです。
かなともに感情移入してドキドキして、
ゆかにゃんの本心を想像してドキドキして、
この先どんな風に話が進むのだろうとドキドキして。
いつも、ときめきをありがとうございます。

374 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/22(金) 09:26
更新お疲れ様です(^^)
ゆかにゃんの本心が気になって気になって…
二人とも幸せになって欲しいです
375 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/22(金) 20:50
更新お疲れ様です。
怖がらずに読ませていただける内容でほっとしました。
ですが、宮崎さんの本心が掴めないので、前回のような大きな揺さぶりではなくても、
今回も感情を切なく動かされるような更新でした。
宮崎さんの言葉や行動の一つ一つに期待してしまうような、
けれど、期待することが怖いような気持ちになります。

金澤さんに感化されて、自分も宮崎さんに恋をしてしまったように胸が詰まります。
この作品を読んで、宮崎さんをどう書けば魅力を引き出せるのか教えていただけた気持ちです。
自分もゆかともを書いてますが、もっと書きたくなりました。
長文、失礼しました。次回の更新も心待ちにしています。
376 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:51

377 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:52
東の空が白み始めるころ。まだ、ひとけも車通りもほとんどない。公園のベンチに
腰掛け、朋子は撮影の準備が整うのを待っている。

遊具も木々も静まりかえっている。近隣の迷惑にならないようにと、スタッフも
メンバーも低く囁き合うようにざわめいている。

早朝、というよりは、夜明けと表現したかった。
そちらの方が、今の空気には馴染むと朋子は思う。

ゆっくりと、空が明るくなっていくのが判った。
昼間の痛いくらいの日差しとは違い、朝の光はどこか優しい。

なにをするでもなくただ座っていると、人が集まっている中にいた佳林が
こちらを振り向く。それに手を振ると、佳林はとことこと歩み寄ってきて、言う。

「顔がまだ寝てるよ」
「だって眠いし。よく毎朝早く起きれるね」
「慣れてるから」

そう言って佳林は笑い、朋子はあくびを漏らす。佳林は毎朝四時に起きている、と
いうのはよく聞く話だ。
378 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:53
佳林はそのまま朋子の隣に腰を下ろす。互いに寝起きでは会話も弾まない。自然な
沈黙の中で周囲に視線を巡らせると、遊具の影から由加とあかりの姿が見えた。

「……なにやってんだか」

呟きが漏れた。あかりが由加をおんぶしているのは、撮影のためなわけもなく、
単に遊んでるだけに違いなかった。朋子の言葉に佳林もうっすらと笑って、言う。

「仲良しだね」
「だね。ちょっと意味わかんない」
「ともはあんまりべたべたするの好きじゃない?」
「うーん。時と場合と人による」

そうだよね、と佳林は軽く相槌を打つ。眠気のせいか、未だに頭は冴えない。
駆け寄ってきたスタッフに撮影の開始を告げられ、朋子と佳林は立ち上がった。
379 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:54
 
 
白んでいた空が、青く染まる。陽も照ってきた。しばらくすれば人通りも増すの
だろうなと朋子は思う。

全員での撮影となると、どうしても待ち時間が生まれる。ずっと皆でカメラの前に
いるわけではない。

あかりが写真を撮られているのを眺めていた。けれど、すぐにそれにも飽きた。
朋子は辺りを見回し、一点に目を留める。

木陰のベンチに、そっと歩み寄る。じわりと滲む汗は日向にいたせいなのか、
緊張しているからなのか、判らなかった。

「……由加ちゃん」

呼びかけても返事はない。目を閉じた由加は、眠っているように見えた。
ベンチにはあと一人が座れるだけのスペースが空いている。迷った末に、朋子は
そこに腰を落ち着ける。休憩するだけだと、誰にともなく言い訳するように考える。
380 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:54
そっと由加の顔を覗き見た。移動中や待ち時間に眠ってしまうことは珍しくもない
から、その無防備な姿も取り立てて目新しいものではない。

それでも心を動かされるのは、相手が由加だからだ。触れることはできない。
人目があるから、という理由ではない。もっと深淵な問題だった。

疲れて眠る由加を抱き留めたのはいつだっただろう。
数ヶ月も経っていないはずなのに、もう、遠い過去のことに思えた。

視線を、由加から外した。そのタイミングで紗友希が駆け寄って来て、
朋子は思わず顔を顰める。

「静かにして。起きちゃうでしょ」
「ええ? すぐに順番回ってくるよ」
「いいから」

声を潜めて朋子が言うと、つまらなそうに紗友希は言い返す。
381 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:55
「なーんで由加にだけ優しいの?」
「だけってなにさ。全人類に優しいっつーの」
「嘘だぁ」

紗友希は、信用ならないとでも言いたげだった。朋子は手で追い払う仕草をして、
小さな声で弁解するように言う。

「年上だし、リーダーだし。敬ってるの」
「うやまってる、って、どういう意味?」
「えーっと、敬う……尊敬してるとか、大事に思ってる、とか?」
「ふーん」

構ってもらえないのが不満だったのか、紗友希は舌を出して離れていく。
静かになったことに、ほっとした。すぐに撮影の順番が回ってくるというのは
本当だから、そのうちに由加を起こそうと思った。

何気ない風を装って、起こせるだろうか。「由加ちゃん」押し殺した声で名前を
呼ぶ。その音では由加は目を覚まさなかった。
382 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:55

383 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:56
敬う、という単語には、大事にするという意味は含まれていない。そんなことを
携帯電話で調べるうちに、朋子たちを乗せた車は目的地に着いたようだった。

目的地といっても、次の仕事現場の近くだというだけだ。全員での撮影の後から、
由加と二人でのラジオの収録まで、長めの空き時間ができた。だからそれぞれで
時間を潰すようにと、そういった指示だった。

ひとまず、日差しを避けるようにしてショッピングモールに入った。
ここから別行動をとることになるだろうかと、考えながら朋子は言う。

「あー……どうしよっか」
「とりあえず、お昼食べる?」

由加としては、一緒に行動を取るつもりらしかった。店に入るときの気楽さを
思うと、食事は二人での方がいいかもしれない。
朋子がすぐには返事をしないでいると、由加が苦笑気味に言う。
384 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:56
「そんな困った顔しないでよ」
「……由加ちゃんに言われたくないなあ」

由加は朋子の発言を受け流し、食事をどうするかと話題を戻す。フロアの
案内図を前にして、二人で店の当たりをつける。
移動しようかという段になって、由加が小さく言う。

「こういうの、久しぶりだね」

つい最近までは、よく一緒に出かけていた。
それがなくなったのは、付き合っているという関係が解消されたからだった。

「……そうだね」

朋子が言葉を返すと、由加はほんの少し、困ったような顔で笑った。
385 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:57
 
 
食事を終えても、まだ時間に余裕があった。自然とショッピングモールの中を
歩き回る。別行動を取ろうと言い出すタイミングもなかったし、どうしてもそう
したいわけではなかったから、流れには逆らわなかった。

エスカレーターで下の階へと移りながら、朋子は気になっていたことを尋ねる。

「雨、降るの?」

由加の持つ傘を指さした。

「どうかなあ」

由加も確信は持っていないらしく、首を捻った。周囲を見回すと、傘を携えた人は
ぽつぽつといた。撮影のときには眩しいくらいに晴れていたから、今から雨が降る
とは思いづらかった。
386 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:58
「備えあれば憂いなし、って言うでしょ?」

由加は慎重だ。朋子は勢いに任せて行動してしまうことがしばしばだから、
傘ひとつにしても性格の違いが出る。

自分と由加は似ていないと朋子は思う。
だからこそ惹かれてしまうのだろうかと、今更に思った。

夏休みシーズンに入ったからか、平日だというのに人が多い。もう七月も半ばだ。
朋子の誕生日もとうに過ぎ去り、一番に望んだものは手に入らなかった。

洋服を見ようと由加が言い、朋子はそれに頷く。こうやって二人で並んで買い物を
するのは、由加が言ったとおり久しぶりだ。

一緒にいられることを、当たり前だと思いかけていた。
そんな過去の自分を、馬鹿らしく思った。

誕生日おめでとうなんて、月並みな言葉が欲しいわけではなかったのに。
387 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:58
手近な店に入る。由加がワンピースを手にとって悩んでいる様子を、朋子は隣で
見ている。朋子はあまり洋服に興味がないから、買い物となると由加が中心になる。
似たような服を二着、両手で持って由加が言う。

「どっちがいいと思う?」
「うーん……こっちかな」

考えて、朋子は片方を指さす。
由加は頷き、朋子が示したものを陳列に戻す。

「こっちにしよ」
「いや、それなら訊かないでよ」
「ちょっと意見聞きたかっただけだもん」

このやり取りも、何度か経験していた。朋子が選んだ方を由加も気に入ることは
あったけれど、そうでないときもしばしばだった。
388 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 16:59
「まあ、いいんじゃない?」

由加ちゃんならどっち着てもかわいいし、と言いかけて、口をつぐんだ。
不自然に生まれた間に、由加は不思議そうに首を傾げる。笑って取り繕うと、
由加もぱっと笑顔になって言う。

「ともの選んであげる」
「いや、いいよ……。試着するのとか疲れるし」
「もー」

不満げに口を尖らせる由加に、朋子は苦笑で返す。もしかして、これが普通の
メンバー同士の関わり方だろうかと、ふと思う。付き合う前に由加とこうして
出歩くことは、ほとんど、というよりは皆無だったから、よく判らない。

結局はなにも買わずに店を出た。時刻を確かめると、そろそろ次の現場に
向かってもよさそうな頃合いだった。

もう行こうかと朋子が提案し、そうだねと由加も頷いた。
ショッピングモールから抜け出し、なるべく建物や木々の影を選んで歩く。

ラジオ局の場所は把握している。けれど、徒歩で行くことはあまりなかったから、
交差点に出るたびに少し悩んだ。それでも道順を思い出しながら進む。
389 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:00
丁字路に差しかかった。朋子が記憶を手繰っていると、由加は迷いなく先を歩く。
とっさに由加の手首を掴む。驚いたように振り返られ、朋子は慌てて手を離した。

「……道、こっちだよ」
「ああ、ごめん」

由加が行きかけたのとは逆の通りを指さす。一緒に歩くだけで緊張してしまって
いるのを自覚する。溜息をつきかけて、飲み込んだ。

しばらく、無言になった。なにか話そうかとは思ったけれど、言葉が出なかった。
信号で立ち止まる。視線を感じて隣を見ると、由加がじっとこちらを見つめていた。

「どうかした?」
「……ううん。なんでもない」

朋子の問いかけに由加が答えたとき、信号が青になった。
390 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:01
 
 
ラジオの収録を終えた後、一度事務所に戻った。
気が張っていたのか暑さのせいなのか、わずかに疲れを感じた。

明日の予定を確認し、解散になる。このままでは途中まで帰り道が一緒になる。
一緒に帰ることを憂鬱に感じる日が来るとは、思ってもみなかった。

「お疲れさまでした」

挨拶の後に踵を返そうとすると、由加だけがマネージャーに呼ばれた。朋子は
ちらりと由加を見て、「先に帰るね」手を振って言う。

手を振り返す由加に背を向け、逃げるようにして部屋を出た。早足で廊下を行き、
すれ違うスタッフと会釈を交わす。エレベーターに乗り込み、ほっと息をつく。
鏡に自分の姿が写る。ひどい顔をしていると思った。
391 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:02
一階へと降り、外へと繋がる自動ドアをくぐる。ざあっという音と空の暗さで、
天気を知った。夕刻だった。だから、予報とは関係のない俄雨かもしれない。

通りを行く車が雨水を歩道へと跳ね上げる。ビニール傘を差したサラリーマンが
目の前を行き、その後ろを黄色い傘を持った小学生が歩く。

駅はすぐ近くだ。走って行こうかと思った。しかし、わずかな距離とはいえ、
ずぶ濡れになるに違いなかった。

少しの逡巡の合間に、背後のドアが開く。
その気配に振り返ると、由加が傘を掲げて、言う。

「入ってく?」

一本の傘に二人で入るのを想像した。朋子は首を横に振る。

「いや……。すぐに止むと思うから」
「そっか」

朋子の横に由加は立った。傘を広げる様子はなく、上を向いて空を眺めている。
怪訝に思い、朋子は尋ねる。
392 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:03
「由加ちゃん、傘あるんだから帰ったら?」

邪魔だと言いたいわけではなかった。けれど、そう取られてしまいそうな台詞が
口から出てしまった。言い直そうと朋子が口を開きかけると、先に由加が言う。

「さしても濡れちゃうもん」

矛盾している。二人で傘に入ろうと言ったすぐ後なのに、一人で行っても濡れて
しまうと由加は答えた。気付いたけれど、朋子はなにも言わなかった。

ぼうっと空を見上げる。暗い雲が次々と流れ、水滴を落としていく。
けれど、急に降り出した雨はまもなくやむだろう。夕立とは、そういうものだ。

「ねえ」

呼びかけられ、由加の側を向く。迷ったような顔は、いつもの困り顔に似ていた。
朋子が小さく首を傾げて見せると、由加は言う。
393 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:04
「……まだ、私のこと好き?」

目の前の道路を車が走っている。その音で聞こえなかったことにしようかと思った。
もう、本当のことは言えない。だから朋子は同じ台詞を繰り返す。

「……好きじゃないって、言ったでしょ」

ゆっくりと、噛みしめるように嘘をついた。雨が地面を叩く音がうるさく、
同じくらいに鼓動も鳴った。

「本当のこと言って」

その声は、雨風のざわめきに紛れてしまいそうだった。わずかに潤んだような
瞳で真っ直ぐに見つめられ、朋子は観念した。

「……知ってるなら、訊かないでよ」

由加が望むのならば、何度でも言おうと思っていた言葉があった。
ただその言葉を使うことはせず、朋子は遠回しに肯定する。

好きでもない相手の隣に座りたいとは思わない。
それに、名前を呼ぶだけで胸が詰まるわけもない。

ぱたぱたと、水滴が軒先から落ちる音がする。
394 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:05
「……由加ちゃんもさ。好きでいて欲しかったって、どういう意味?」

その目的を達するために、付き合う必要があったのか。今になっても判らなくて、
知りたかった。朋子からも、由加の目をはっきりと見る。けれど、漏らした声は
情けないくらいに弱々しかった。

「……本当のこと言ってよ」

雨脚が強くなる。その音に掻き消されてしまったかと不安になる。
「聞いたらたぶん」由加は言葉を切って、続けた。
395 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:05
「ともは、私のこと嫌いになるよ」

好きになんかなりたくなかった。今でも、そう思っている。
それなのに、好きなままでしかいられなかった。

「……なりたいから、教えてよ」

由加はほんの少しだけ傷ついたような顔をした。その表情はすぐに隠れた。
唐突に雨粒が消える。黒い雲は流れきったのか、陽の光が眩しく地上を照らす。

人々が傘の水気を払う。
むせかえるような、雨上がりの匂いがした。

「……うちで話そっか」

うっすらと微笑んで、由加は静かに言った。
396 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:06

397 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:09
「適当に座ってて。飲み物取ってくる」
「あ、お構いなく……」

つい、他人行儀になってしまう。座っているようにと言われても、どこに腰を
落ち着ければよいのだろう。

結局は、最も慣れ親しんだ場所に座った。ベッドを背にして天井を見上げると、
いつかと同じように真っ白だった。今から映画を観るわけでもないのにテレビに
向いた姿勢でいるのは、おかしいかもしれないなと思った。

戻ってきた由加も苦笑気味だった。けれど、移動するようにと言うわけでもなく、
お茶の入ったコップをテーブルに置く。そのまま朋子の隣に、膝を抱えるように
して座った。しんと静まる部屋の中で、由加はぽつりと言う。

「どこから話せばいいんだろう」

わざわざ家へと誘ったのだから、それなりに長い話になるのだろう。由加は迷った
ように朋子の顔をちらりと見る。そして視線を外し、言った。

「……最初から話すね」

その言葉に、朋子は頷いた。今から、嫌いになれるのだろうか。それはそれで
幸せな結末なのかもしれない。好きでいるのをやめられるなら、きっと楽になる。

深呼吸するように息を吐いて、由加はゆっくりと話し始めた。
398 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:10
「こういうこと言うの、感じ悪いかもしれないけど。好かれてるときってさ、
ああ、あの人、私のこと好きなんだろうなあって、なんとなくわかるでしょ?」

特に感じが悪いとは思わない。そして、その感覚は朋子にも理解できた。
落ち着いた口調は、あらかじめ伝える内容を整理していたからだろうか。

「だから、ともは私のこと好きなのかな? っていうのは思ってた」
「……え、いつから?」
「もう、ずっと前だよ」

そう言って由加は少し笑う。

「でもね、ごめん。結構どうでもよかった。ぐいぐいこられるわけでもないし、
普通に過ごせてたし。なんにも困ることなかったから、気付かないふりしてた」

真剣に悩んでいたことを、どうでもいいと切り捨てられるとは思わなかった。
複雑な気持ちにはなったけれど、遮ることはせずに朋子は由加の声に耳を傾ける。
399 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:11
「そして淡々と日々が過ぎ」

冷静な声だった。息継ぎするように言葉は切られ、躊躇うような時間が置かれた。
由加が身動きして、衣擦れが聞こえる。その音の後に、ゆっくりと言葉は継がれた。

「……いきなり、好きって。とも、けっこう本気な感じで言ってさ、
すぐにはっとした顔して。誤魔化さなきゃって焦ったみたいにして」

その時のことは今でも憶えている。冗談とはとれない声を出した朋子に、
由加は驚いたような顔をした。その後で、すぐに困ったような顔になった。

「そのときに、あ、ほんとに私のこと好きなんだ、ってわかった」

気持ちを自覚したときは、秘やかに好きでいるつもりだった。はっきりと言葉や
態度に出してしまえば、後戻りはできない。だから本当は言うつもりはなかった。

「私も好きだよーって返せばよかったのかもしれないね。
でも、本気だってわかっちゃったから。……流せなくって」

本気だからこそ流せばよかったのかな、と由加は小さく言った。そうしてくれて
いれば、朋子も余計な期待を持つことなく好きでいられたのかもしれない。
400 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:13
「その後ずっと、楽屋とかで笑って遊んでても、たまに悲しそうな顔したり。
撮影でくっつくのとかも、他の子とは違ってすっごい申し訳なさそうにしてて。
勘違いかもしれないし、それを私のせいって思うのは、自意識過剰かもだけど」

それは由加の勘違いでも自意識過剰でもなく、事実だった。ふとした瞬間に
思い出しては悲しくなった。触れたら嫌がられるのではないかと、怖かった。

「早く吹っ切れればいいのになーって思ってた。他人事みたいに。
でも、そんな気配なくって。とも、引きずってるみたいにしてて」

これも事実だ。根付いた感情は容易には消えなかった。
好きなままでしか、いられなかった。

「どんどんひどくなるし。だけど私に出来ることなにもなかった。
近づいたら、とも、もっとつらそうで。でも仕事があれば絶対に会うし、
目を合わせたりとかくっついたりとか、しなきゃいけないとき、あるし」

元気になって欲しかったと、由加は呟く。ここで話は終わりなのだろうかと、一瞬
だけ思った。元気づけるために付き合ったのだと、そういう意図だったのだろうか。

きっと、違う。
好きでいて欲しかったと、その言葉の意味を説明できていない。
401 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:14
「……それでね。うーん、どうしよう? っていろいろ考えた。
忘れるためには近くにいない方がいいんだろうなあって思った。
でも、絶対に無理でしょ。それこそ……辞めでもしない限り」

好きで好きだと言ってしまって好きだから傍にいるのがつらいというのなら。

「それで、ああ、ともが辞めたりしたら困るなって思った」

このグループの強みは朋子がいることだと、かつて由加は言ったらしい。
それを聞いたときは大袈裟だなと思った。唯一無二の存在なんて幻想だ。

「そこまでするかもなんて考えるの、さすがに自意識過剰だったなと思うけど。
でも近くにいなくて済む、簡単な方法だから。簡単ではないけど……単純でしょ」

そこまでさせるだけの影響力が、由加にはある。少なくとも朋子にとってはそうで、
選んだものが違っただけだ。近くにいて支えたいと、そちらを選んだだけだった。
402 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:15
「まだ若いから、ぜんぜんやり直せる。そう思ったら、怖くなった」

芸能界に入らなければ公務員になろうと思っていた。そう話したことがある。
今の立場は運で手に入れたようなものだ。辞めてもきっと生きる術は見つかる。

「今思うと、放っておいても時間が解決してくれてたんだろうね。
ほんと馬鹿だったなと思うけど。そのときは真剣に色々考えてた」

きっと誰にも相談せずに一人で抱え込んでいた。朋子が落ち込んでいたとしても、
由加は気付かないふりをしていればよかった。そうしても、困らないはずだった。

「……前置き長くなったけど」

ここからが本題で、解答編だ。聞きたくないと止めるなら、今が最後のチャンスだ。
けれど朋子は黙って続きを促した。由加の口調は、さながら罪の告白だった。
403 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:15
「だったら、私のこと好きでいればいいって思った。そしたらともは離れないから」

好きだから離れたいと思うのではなく、好きだから近くにいたいと思う。
朋子がそう思うようにと、由加は仕向けた。

「メンバーとして、いて欲しいって、思ってた」

朋子と由加では覚悟が違う。一人で上京して甘える相手もいなくて、グループを
まとめる立場にいて。朋子がいなくてもどうにでもなると、由加は思わなかった。

「だから、付き合おうって言った」

付き合っていたのも、好きでいて欲しかったのも。
繋ぎとめるための手段でしかなかった。

「……こんな理由、知りたくなかったでしょ?」

そんなにも好きな人を追い詰めていたなんて、知りたくなかった。
404 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:16
「ひどいことしてるって、わかってたけど」

由加はひどいことなどしていない。
発端がどちらにあったとしても、悪いのは誰か、決まっている。

「なんで好きでいてくれてるのか、わからなかったから。
好きって言ってもらえると、安心した」

なぜ好きなのか、なぜ他の人では駄目だったのか。由加がそれを訊いた理由が
判った。何度も何度も求められた言葉はなぜ必要だったのか、その理由も。

「ともの趣味はよくわかんないけど、かわいい人なら周りにたくさんいるし、
ほんとは年下がいいのかもとか、そういうこと思って、ずっと自信なかった。
だからいっつも確かめてた。まだ私のこと好きでいてくれてるのかなって」

由加が望んだから、二人で会う度に、必ず言った。本当のことを言っていただけ
だから、朋子は不安になりもしなかった。ただ好きだと思い知らされるだけだった。
405 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:17
まだ好きかと尋ねられた理由が、判った気がした。
きっと、離れないで欲しいと言いたかったのだ。

これでおしまい、と由加は言う。付き合おうと言った理由は、目的は、
ただ朋子を近くに置いていたかったからと、そういうことだった。

色々なことが腑に落ちた。知ってしまえば単純明快だった。朋子も由加に
大事に思われていた。ただ、その理由が違っただけで。

由加は指で目元を拭い、膝を抱えなおす。もう話は終わりなのだろうと思った。
けれど、朋子がなにかを言う前に、由加はぽつりと言葉をこぼす。
406 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:18
「……でもね。最初から、ともと一緒にいるのは楽しかった」

もしかして慰めてくれているのだろうか。そんなものは欲しくなかった。一緒に
出かけたのも、映画を観たのも、二人でいたときのことは思い出したくなかった。

「そうでもないと、さすがに付き合おうとか言えない。……それに、とも、
優しかったし。私のこと考えてくれてるんだなって、すっごくわかった」

由加にだけはいつでも優しく接していた。それは自然とそうなっていただけで、
どれくらいの距離感なら許されるのだろうかと考えるのも、当然のことだった。

「ちょっとしたことで嬉しそうにしたり、しゅんとしたり、かわいかった。
……それにね。会いたいって言われるのとかも、ぜんぜん嫌じゃなくって」

会えると嬉しかった。予定がなくなってしまうと寂しかった。
嫌だと言われたことは一度もなくて、それは由加が優しいからだと思っていた。
407 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:20
躊躇うように由加は口を閉ざす。唇が動きそうになって止まるのが繰り返され、
沈黙が続く。深く息を吸った後に漏らされた言葉は、溜息まじりに聞こえた。

「……途中から。このままでもいいかなあって、思うようになった」

一瞬、意味がとれずに朋子が呆けると、由加は俯いて苦しげな顔になる。
長い逡巡の末に出された声は、なにか諦めているようにも聞こえた。

「好きって言ってもらえるのは……。安心するだけじゃなくて、嬉しかった」

深く吐かれる息は、やはり溜息に似ていた。それは不安を打ち消すためだけの
言葉だった。それなのに、いつからか嬉しく思うようになったと由加は言った。
408 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:20
「……少しは好きになってくれてたの?」
「違うの」

朋子が訊くと、由加はゆるりと首を横に振った。

「……だってよく考えたらさ、ともって私にとってあまりにも都合がいい存在で」

その台詞は予想外のもので、思わずぽかんとしてしまう。しかし、そう言われて
みればそうかもしれないと思った。

「遊びたいときに遊んでくれるし、レッスンの復習も手伝ってくれるし。
アイスも買ってきてくれて。それに甘えさせてくれるの、ともしかいなかった」

行動を振り返ってみれば、由加の言うとおりだった。誘いを断ることもほとんど
なく、由加にだけは優しい朋子はただ便利なだけの人間かもしれなかった。
409 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:21
「それって好きとかじゃなくて、自分に都合がいい人が欲しいだけなのかもって。
……それに、好かれてるから好きになるって、そういうの、なんか違う気がする」

その言い分には、思わず渋い顔になった。両思いでないのなら付き合わないと言った
朋子に、そんな考えは今どき純情だと笑い飛ばしたのは由加だった。

けれど今になって判った。そんなものは付き合い始めるための口実にすぎなかった。
少なくとも、その時はそうだったはずだ。

「始まり方がおかしかったのはわかってた。だから、ちゃんと区切りつけなきゃって
私も思った。……ともが言わなかったら、私から別れようって言ってたと思う」

朋子も由加も、間違っているのは判っていた。それなのに、関係を続けたいと
願ってしまった。正しいかたちにする機会を逃し続けて、すれ違った。
410 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:22
「ひどいことしてたのはわかってる、けど」

悪いのは由加ではない。ひどいことなどひとつもしていない。
一方的に感情を押しつけてしまったことを、あらためて後悔した。

「ともに好きって言ってもらえるのは、嬉しくて。
……言ってもらえないのは、寂しくて」

好きだと言えるのが嬉しかった。けれど、嘘をつき続けなければ
ならなくなった。好きで、好きなままでしかいられないのに。

「私がだめにしたって、わかってる、けど」

すすり泣くような声がした。苦しさを紛らわすような呼吸が聞こえた。
好きな人が目の前で泣いているのに、見ていることしかできなかった。

好きにならなければよかった。好きだと言わなければよかった。
朋子はずっとそう思っていた。けれど、由加は小さな声で願った。
411 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:23
「……これからも、言って欲しいって、思ってる」

口にするだけで息が詰まる言葉がある。由加はそれを何度も求め、その度に
朋子は応えた。どれだけ言っても慣れなくて、いつもいつも切実だった。

それでも何度も言ったのは、好きになってしまったからだ。
412 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:24
「……もう、嫌いになった?」

そんな弱気な訊き方をしなくてもいいのに。
すべてを打ち明けられた今も、嫌いにはなれなかった。

由加が欲しがっている言葉は判っていた。
けれど、先に謝らなければならないことがあった。

「……好きじゃないとか、嘘ついてごめんね」

朋子の台詞の後で、由加はぐすぐすと鼻を鳴らす。涙ながらに続けられた声は、
それでもはっきりと聞き取れた。

「ちゃんと言って」

思わず少し笑ってしまう。けれど、これが二人の関係には似合っている。
これからも、求められるかぎり何度でも言おうと思った。

「大好き」

そっと頭を撫でてやると、首に腕を回される。抱きかかえて落ち着かせるように
背中を叩くと、泣くのを堪えるような吐息を感じた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
413 名前:ワンダロンド 投稿日:2014/08/31(日) 17:24

414 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/31(日) 17:26
>>377-412
ワンダロンド(後編)
415 名前:アウトロ 投稿日:2014/08/31(日) 17:26
 
416 名前:アウトロ 投稿日:2014/08/31(日) 17:28
午前零時を過ぎた。
この時刻ともなると、都内であっても静寂に包まれる。眼下の街には涼やかな風と
ともに夜の帳が下り、いくつもの明かりが灯っている。

マンションのベランダから眺める景色にも、少しずつ慣れてきた。今夜は天候にも
恵まれて過ごしやすい。まさに、天体観測にうってつけの夜だ。

そんなことを朋子が思っていると、背後でからりと戸が鳴る。その音に振り返れば、
視線の先で、由加が不機嫌そうに頬を膨らませていた。

「ずるい。なんで先に外でてるの」
「由加ちゃんだってアイス食べてるじゃん」

つい、呆れ気味に言ってしまう。由加は二本の棒アイスを器用に片手で持っている。
そのうちの一つはまだ封が切られていなくて、おそらく、朋子のためのものだった。

「そんなこという人にはわけてあげない」
「ごめんなさい。欲しいです」

すぐに謝ると、由加は少し笑った。そのまま差し出されたアイスを受け取り、
ビニールの包装を剥がす。色から見るに、桃味なのだろうか。

早々に食べ終わった由加が、ベランダの柵から身を乗り出して上空を見上げる。
アイスを舐めながらも、朋子は片手で由加を引き留める。
417 名前:アウトロ 投稿日:2014/08/31(日) 17:29
「危ないでしょ」
「平気だよ」

由加が笑って空を指さし、仕方なく朋子も同じようにして見上げた。
八月後半の晩、頭の真上に一際明るい星がある。都会であっても、月明かりのない
晴れた夜にはそれを見ることができた。

あと二つ、明るい星を探した。朋子がなかなか見つけられずにいると、由加が指先で
示してくれる。それからその三つの星を線で結ぶと、夏の大三角ができあがった。

夏が終わるまでに一緒に見られたらいいのにと思っていた。だから、それが叶って
嬉しかった。それに、由加の愉快げな横顔を見ると、すっきりと晴れてくれたことに
あらためて感謝したくなる。

「ね、そっちも味見させて」

こちらを向いて、由加が言った。朋子は手にしたアイスを差し出すけれど、受け取ら
れることはなく唐突に手首を掴まれる。由加はそのままアイスを口に含み、朋子が
目を逸らすとすぐに手は離された。

溶けないうちに食べきろうと、朋子も舐める。先程までよりも甘い味に思えるのは、
きっと勘違いだ。けれど、食べ終わって木の棒を噛んでも後味は変わらなかった。

「いやー、好きなものばっかりだ」

朋子の気持ちを知ってか知らずか、空を見上げる由加は楽しそうだ。
甘く冷たいものを食べながら、夜空を眺める。それを喜んでいるのは明らかだ。

けれど、引っかかりを覚えずにはいられない。
好きなものばかりだと、その台詞に込められた意味を朋子は尋ねる。
418 名前:アウトロ 投稿日:2014/08/31(日) 17:30
「ねえ、それ私も入ってる?」
「アイスもう一本食べようかな」
「いやちょっと聞いてよ、ってか食べ過ぎ」
「んー?」

由加は上に向けていた視線を朋子に移す。顔を近づけられたかと思ったら、
そのまま柔らかく唇を合わせられ、逃げる暇もなかった。

唇は触れたときと同じくらいの自然さで離される。名残惜しく思っているのを
気取られたくなくて、朋子は軽く顔を顰めてみせる。

「……外でするなっての」
「あ、嫌だった?」

尋ねているようで、それはただの確認だった。自信ありげな由加の表情に、
朋子は敵う気がしない。ひとつ、息をつく。未だに主導権は握られたままで、
奪える気もしなかった。

「……嫌じゃないよ」

朋子が答えると、由加は満足そうに頷く。
その反応は思った通りで、続けられる台詞も予想がついた。
419 名前:アウトロ 投稿日:2014/08/31(日) 17:32
「そうだよね。ともは私のこと、だいだいだーい好きだもんね?」
「また意地悪ばっかり言う……」

拗ねてみせると、今度はぎゅっと抱きしめられた。アイスの棒がコンクリートに
落ちる音がした。「好き?」耳元で囁かれて、びくりとする。わざとらしく息を
吹きかけられても、わずかな反抗心をもって朋子は言葉では応えなかった。

べたついてしまうだろうかと心配しつつ、首筋に口づけを落とす。何度か
繰り返すと、もうおしまいだとでも言うように背中を叩かれた。

素直に身体を離して、じっと由加の顔を見る。
頬を撫でる風は、日を追うごとに心地よさを増している。秋の訪れがそう遠く
ないのは明白だ。そんな季節なのに、今も尚、朋子の望みは叶えられていない。

「もう誕生日過ぎてるんだけど」
「うん」

知ってるよ、と由加は頷く。朋子が十九歳になってから、そろそろ二ヶ月が
経とうとしている。それなのに、誕生日の恒例行事は、まだ済まされていない。
420 名前:アウトロ 投稿日:2014/08/31(日) 17:33
「プレゼント、欲しいものあるって言ったのに。まだもらってない」

なにか欲しいものがあるかと訊いたのは由加で、朋子はその問いに答えた。
それは買いに行く必要もなく、ただ声に出してくれればいいだけのものだった。

好きだと言ってくれるだけでいい。
それなのに、由加は未だに渡してくれない。

瞳を見つめたまま逸らさずにいると、由加は小首を傾げた。

「欲しいものあげるとは言ってないよ?」
「え、ちょ、ずるい!」
「騒がないの。近所迷惑でしょ」

思わず大声を出してしまうと、黙らせるように唇を塞がれる。今度は小さく声が
漏れたけれど、それを恥ずかしく思う間もなく夢中になってしまう。

深まる手前で距離を取られ、呼吸が楽になる。けれど胸の苦しさは増すばかりで、
それなのにこの行為を悪いものとは思えない。由加がくすくすと笑い、それを不審に
思って見ると、今度は愉しそうな声が聞こえた。
421 名前:アウトロ 投稿日:2014/08/31(日) 17:34
「ともは、物足りないなあって顔してるときがいっちばんかわいい」

……判っているなら、もっとしてくれればいいのに。
意地の悪さにふて腐れていると、宥めるように髪を撫でられた。その手つきの心地
よさに思わずすべてを許しそうになるけれど、たまには思い知らせてやりたかった。

「……由加ちゃんってほんとに」

優しくないし、意地悪だ。
それなのに好きだと思ってしまって、好きなままでしかいられない。

だから、好きになって欲しいと思う。
その願いは叶えられているのか、由加は言葉では教えてくれない。

「私のこと好きだよね」

断じるように朋子が言うと、由加は大人びた笑みを浮かべる。抱き寄せられて
口づけされるのはきっと肯定のサインだけれど、それだけでは満足できなかった。
422 名前:アウトロ 投稿日:2014/08/31(日) 17:35
物足りなさを埋めるように抱きしめる。欲しい言葉をもらえるまでは、離すまいと
決意した。ぎゅっと腕に力を込めると相変わらずいい匂いがして、放したくないと
思った。首元に顔を埋めてそっと噛むと、くすぐったかったのか小さく笑い声がする。

「知らなかったの?」

囁く声は優しかった。
けれど、これほどまでに優しくない人には、今まで出会ったことがない。

首筋につけられる唇が熱く、行動でしか示されない感情が身体に甘く染み渡る。
熱の籠もった吐息と一緒に好きだと囁けば、知ってるよと返された。

由加はどこまでも強情だ。懇願しても、感情を言葉にしてはくれない。
それに腹が立って無理やりに唇を合わせると、逃れようと細い身体が捩られる。
構わずに口づけを深めながら手を握ると、指を絡めるように繋ぎ直された。

熱く苦しげに漏らされる息に昂ぶりながらも、朋子の決心は揺るがない。
好きだと言ってくれないのならば、このまま夜明けまで捕まえていようと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
423 名前:アウトロ 投稿日:2014/08/31(日) 17:36
 
424 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/31(日) 17:37
>>416-422
アウトロ
425 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/31(日) 17:37
>>3-45
イントロダクション
>>51-81
デイパス
>>88-112 >>119-149
ストレンジアトラクタ
>>158-180 >>187-210
パッチワーク
>>217-232 >>240-267
ブラインド
>>276-297
インシテミル-T
>>308-322
インシテミル-U
>>334-350
リアクタンス
>>360-367 >>377-412
ワンダロンド
>>416-422
アウトロ
426 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/31(日) 17:38




以上、完結です。
読んでくださって、ありがとうございました。
427 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/31(日) 17:39
レスありがとうございます。

>>372
大丈夫です! 疲れてないぜ!
宮崎さんの気持ちがわかるかどうか、今回の更新分が答えです。
また読んでもらえていたら嬉しいです。

>>373
お待たせしました! おかげさまで無事に更新でき、完結はしてしまいましたが、
これから先も、あなたにとってのドッキドキラブスレッドでいられたら幸せに思います。
毎日、そして今日もありがとうございました。良い夢を見られますように。

>>374
ありがとうございます! 私は元気です!
宮崎さんの本心も二人が幸せになるかどうかも、
今回の本文中にて、ということで。また読んでくださっていたら嬉しいです。

>>375
感情移入する先を別の人物にすると、また違った読み方ができるかもしれません。
期待って難しいですね。なにも期待せずにいられればいいのに、なかなかできる
ものではなかったりしますし。今回の更新も待っていただけていたら嬉しいです。
428 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/31(日) 17:39
改めまして、ご挨拶。
読んでくださった方、レスくださった方、ありがとうございました。
429 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/31(日) 17:39
 
430 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/31(日) 17:39
 
431 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/31(日) 19:17
コメントさせていただくのは初めてになります。
お話がはじまったところから読ませていただいていたのですが
こんなに更新が待ち遠しいお話は初めてでした。
スレッドを開くのが日課になっていたので
完結してしまったのは少し寂しくもあります。
金澤さんに感情移入してドキドキしたり笑顔になったり
ときには切なくて苦しくて思わず涙したりもしました。

ありがとうございましたとお礼を言うのはこちらの方です。
素敵なお話をありがとうございました。
またスレ主様のお話がどこかで読めたらいいなあ、なんて。
ともあれ、ひとまず脱稿おつかれさまでした。
432 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/08/31(日) 20:53
そうか、こうなるのかぁ。
最後まで、金澤さんとともに由加ちゃんにやられました。
いいお話をありがとうございました!!
433 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/09/01(月) 03:06
こんなにも更新が待ち遠しくて毎日毎日確認するなんて、この作品が初めてです。
こんなにも胸が締め付けられて、気持ちを揺さぶられる作品も、初めてでした。

今は、全てに納得した満足感と、作品が終わってしまった悲しみとが
入り混じった不思議な気持ちです。

やっぱり、ゆかにゃんはいじわるでした。
そして、ゆかにゃんと同じくらいいじわるな作者さんに、
すっかり惚れちゃいました。
またどこかで作者さんの作品に出会いたいと心から思います。

今夜もドッキドキラブな夜を過ごせました。ありがとうございます。
またそんな夜を過ごしたくなったら、ここに来ます。
本当に、お疲れ様でした。
434 名前:名無飼育さん 投稿日:2014/09/02(火) 11:00
素晴らしい作品をありがとうございました。
とってもイジワルで、優しくなくて、でもこんなに魅力的な由加ちゃん。
いつの間にか私もすっかり惚れてしまって、更新を心待ちにしていました。
完結は嬉しくもあり寂しくもあり、ですが……。
また、ここのかわいい朋ちゃんと小悪魔な由加ちゃんに会いにきてしまいそうです。
435 名前:名無し飼育さん 投稿日:2014/09/10(水) 23:29
楽しみにしていた作品が終わってしまって寂しい限りです。
完結してからも何度も読み返しては同じ場所でうるうるしたりドキドキしたりしています。
最後の最後で宮崎さんの本音がこぼれていましたが、出来たら宮崎さん視点の話しも読んでみたいですね。
とにもかくにも、脱稿おめでとうございます。

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