Two Destinies
- 1 名前:あおてん 投稿日:2012/02/05(日) 14:17
- やすみよで1998年〜のお話を。
当時の時代背景や初期娘。に詳しくないですが、愛をもって頑張ります。
- 2 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:20
- 1歩1歩、雪の上を踏みしめるように歩く。
東京とは桁違いの身を切るような寒さだ。
やっぱり北海道の空気は澄み渡ってるよね。
こののどかな風景を眺める度、
冷え切った新鮮な空気を肺に取り込む度、懐かしさを覚えていた。
けど最近になって、これこそが私の日常なんだと理解できるようになった。
ここが私の故郷なんだって。
元々、ここでの生活の方が長かったもんね。
私が生を受けてから約20年近く過ごした土地。
やっぱり慣れ親しんだこの場所で生きるのが私には合ってるんだろうな。
- 3 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:20
- でも…
何かがひっかかる。
まるで胸に棘が刺さっているような。
私には東京に残して来てしまった数多くのものがある。
挫折してそのままになってしまった夢。
同じ時間を過ごした仲間。
伝えられなかった想い。
そして…
保田さんの事…
「保田さん…泣いてた」
私が札幌支社に移る事を伝えた時、保田さんは悲しそうな顔をしてくれた。
大きな瞳に、今にも零れそうな涙を湛えて。
それだけが、私の心の支えだった。
- 4 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:21
- チラチラと舞う雪を手に受けて、私は白い息を吐く。
「解雇されないだけありがたい事なのにね」
現状に不満を抱いているわけじゃない。
抱いちゃいけない。
現実は理想通りにはならないものなんだ。
諦めなくちゃいけない事だってたくさんある。
世の中には生活の為にやりたくもない仕事をこなして一生懸命生きてる人達がいる。
そういう人達が大多数なんだ。
一瞬でも、憧れた世界の片鱗に触れる事ができた。
それだけで私は充分恵まれているじゃないか。
東京での日々は、私には身に過ぎた幸せだったんだ。
分かってる。分かってるよ。でも。
ここにいても、私は一生なりたい自分になれないんじゃないかって不安になる。
東京にいた時は、ここまで大きな不安が押し寄せて来る事はなかったのに。
- 5 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:22
- 「もどりたいな」
戻る?
東京に?
もう東京には私の居場所はないのに。
いっそ時間を巻き戻せればいいと思う。
デビューが決まったあの当時に?
違う。
戻りたいのは、もっともっと昔。
もしも、戻れるのならば、そう…あの時に。
- 6 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:24
- 私には、夢があった。
二度と叶わない夢が。
未だにもしもの可能性を考えてしまう時がある。
あの時。
私にもっと知識と経験と実力があったら、何かが変わっていたのかもしれないって。
この記憶を持ったまま…人生をやり直す事ができたら…
今よりもずっと選択肢が増えていたはずだ。
そして充実した人生を送れただろう。
こんな非現実な事を考える私は甘ったれだ。
自分自身がよく分かってる。
でも、今は空想の世界に浸りたかった。
- 7 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:25
- 「あれ」
気が付いたら私はいつもの散歩コースとは違う道に入っていた。
目の前には、薄暗い雑木林が広がっている。
「こんな場所あったんだ」
あまり深く入ったら戻って来られなくなりそうだ。
いくら好奇心の強い私でも、普段なら絶対に立ち入らない。
でも、私は吸い寄せられるように林の隙間に飛び込んだ。
多分、この時の私はやぶれかぶれになっていたんだと思う。
- 8 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:26
- そこは別世界だった。
周りを取り囲む枯れ木は冬化粧をして神秘的な雰囲気を醸し出している。
薄暗い分、僅かに差し込む光に反射する雪が、眩しくて。
とても清浄なものに見えた。
「キレー…」
この雪みたいに、真っ白な状態から。
最初からやり直せたらいいのに。
私は年月を感じさせる木の幹に手を置いて目を閉じた。
やり直したい。
この運命を変えたい。
一度だけでもいいから。
戻りたい。
- 9 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:26
- 風向きが変わった気がした。
ゆっくりと目を開けると…
「…え?」
世界は変わり果てていた。
一面白に染めていた雪は綺麗さっぱり姿を消していた。
さっきまで白に覆われていたはずの木々は、その面影もなく幹肌を露わにしている。
「ウソ…」
雪が一瞬にして溶けるなんてありえない。
でも雪が積もっていた痕跡も見当たらない。
私は信じられずにもう一度木の幹に触れてみる。
確かな感触がそこにある。
幻じゃない。
- 10 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:27
- よく見ると、枝の先には膨らんだ蕾が見え隠れしていた。
冬枯れた枝じゃなく、命を感じさせるような。
「桜の蕾…!?」
そんなバカな。
今は2月だ。
本州の開花宣言もまだまだ先だっていうのに。
ましてや北海道の桜はそれよりも遅れて開花する。
夢を見ているのかと思って、私は自分の頬を両手で叩いてみる。
パンと小気味のいい音が響き、痛みが広がった。
どうやら夢じゃないみたいだ。
信じ難い事だけど。
異常気象?
でもそれだと一瞬にして雪が消えた事はどう説明する?
「…っ」
私は気味が悪くなって元来た道を引き返した。
- 11 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:28
- 「!?」
しかし、おかしな現象は林を出ても続いていた。
雪は止み、アスファルトを覆っていた積雪までもが姿を消していたのだ。
「ど、どうなってんの」
怖い。
今何が起こっているのか理解できない。
私はこの異常な事態を受け入れられず、一目散に駆け出した。
早くここから離れるんだ。
とにかく、我が家へ。
安全な家に帰らないと。
私はなるべく周囲の景色を視界に入れないようにしながら、やっとの思いで家まで帰り着いた。
- 12 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:29
- 「た、ただいま」
「絵梨香、どこさ行ってたべ」
耳に届いたのは聴き慣れた父の声。
さっきまでの恐怖が幾分和らいだ気がする。
「ちょっと散歩に…」
そう言って顔を上げた瞬間、新たな違和感に気付いた。
お父さん、ちょっと若返った?
気のせいかな。
そんな事を思っていると、お父さんが不可解な言葉を投げかけて来た。
「一次審査の合格通知が来たべ」
……。
「は?一次審査?」
一次審査って?
何の事だかさっぱり分からない。
「嬉しくないのかい?絵梨香の大好きなモーニング娘。だべ」
「??」
何を言ってるんだろう。
わけがわからなかったけれど、私はとりあえずその封書を受け取り確認する。
- 13 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:30
- 「モーニング娘。一次追加オーディション…?」
これ、私が遥か昔に受けたオーディションだ。
確か、私が13歳の時。
つまり14年ほど前の事だ。
結構いいとこまで行ってたんだけど、結局ダメだったんだよね。
そんな昔の封書を何で今引っ張り出して来たんだろう。
「二次審査はしあさっての4月13日だとさ」
二次審査というのも気になった。
けれど、それよりも聞き捨てならない言葉があった。
- 14 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:32
- 4月13日…
4月!?
聞き間違いじゃなければ、お父さんは4月と言った。
しかも、しあさってと。
つまり、今日は4月10日だとでも言うの!?
「何言ってんの、お父さん。今は2月じゃん」
今は2012年の2月。
お父さん、ボケるのは早いよ、と言おうとして、私は口を噤んだ。
「おまえ…」
お父さんは私を信じられないものを見るかのような目で見ていた。
「寝ぼけてるべか。カレンダー見てみれ」
え?私が間違ってるって言うの?
どう考えてもおかしいのはお父さんでしょ。
そう思いながらも私はお父さんの言葉に従いカレンダーに目を向ける。
「!?」
その瞬間、ありえない数字が目に飛び込んで来た。
1998年…4月…
- 15 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:33
- 何度瞬きして凝視してみても、カレンダーにはその数字が印刷されていた。
「ほれ、今日は4月10日だべ」
お父さんは今度は新聞を持って来て日付を指さす。
そんな…まさか…
お父さんがこんな手の込んだウソをつくなんて思えない。
演技でもない。
お父さんは今日が1998年の4月10日だと信じて疑っていない。
そして今私の目にも、確かに1998年4月10日という文字がはっきり映っている。
「ねえ、お父さん。今年平成何年だったっけ」
震える声で尋ねる。
「平成10年…どうしたんだべ」
「な、なんでもない!ありがとう!」
私はいてもたってもいられず自分の部屋に駆け込んだ。
- 16 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:34
- そんな事。ありえない。そんな事…そんな事が!
何かの間違いだ。
その思いも一瞬で打ち砕かれる。
私の部屋の内装も、数時間前とはがらりと変わっていた。
どこか懐かしさを覚える情景。
あの時の私の部屋。
時代を感じさせるCDラジカセ。
1998年発行と記された雑誌。
そして、そして…
ハンガーに吊るされた制服。
誰の?と聞くまでもない。
当時の私が毎日袖を通していた制服だ。
- 17 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:36
- まるで、14年前に連れ戻されたみたいだ。
「まさかとは思うけど…」
ここまで来れば、この可能性を考えざるを得ない。
「…時間が巻き戻ってる?」
もしかして…私があの時、戻りたいって…人生をやり直したいって思ったから?
確かに、願った。
強く、強く。
私の願い…
それは心のどこかで諦めきれなかった夢の成就。
モーニング娘。のメンバーになる事。
あの人と…同期になる事。
保田さんと、運命を共にする事。
私は手鏡を取り出しておそるおそる自分の顔を覗き込む。
そこには、あどけない顔をした私がいた。
13歳の、三好絵梨香が。
- 18 名前:第1話 いざない 投稿日:2012/02/05(日) 14:36
- 第1話 いざない
了
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/02/06(月) 14:56
- 気長に続き待ちます
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/02/06(月) 17:26
- 話題作キタコレ
期待してます
- 21 名前:第2話 二度目の恋 投稿日:2012/02/07(火) 01:01
- 「…夢じゃ、なかったんだ…」
呆然と独り言を呟きながら、昨日の出来事を思い返す。
あれから、私は早々に自分のベッドに潜り込んだ。
眠って目覚めれば、何もかもが元に戻っているというオチが待ってるかもしれない。
そう思ったから。
しかし目を覚ましても、私は13歳の体のままで。
部屋の内装も相変わらず14年前と全く同じものだった。
郵便受けまで新聞を取りに行って日付をチェックしてみると、1998年4月11日との記載が。
つまり、世界は正確に時を刻んでいる。
テレビを点けてみても、当時の懐かしい番組がちゃんと放送されていた。
そこでようやく、私は本当に1998年に戻って来たんだと実感できたのだった。
- 22 名前:第2話 二度目の恋 投稿日:2012/02/07(火) 01:03
- ...
「お腹すいたぁ」
「ねーたん、まだー」
そして当然の事ながら、2012年では成人していた弟達も、わんぱくなちびっこの姿に戻っていた。
待ち切れないのか、朝食を作っている私の背中に二人まとめて飛びかかって来る。
「もうちょっと待って」
ああ、どうしよう。
めちゃめちゃ可愛い。
「こらこら、ちゃんと座るべ」
そんな弟達をやんわりと叱る父と兄。
このやりとり、懐かしいなあ。
当時は私が家事担当だったんだよね。
2012年の世界だと、兄が結婚してたり、弟が県外の大学に進学してたりと
バラバラになっちゃってるから。
不可解な事だらけだけど、この時ばかりは今の状況を楽しもうと思えた。
- 23 名前:第2話 二度目の恋 投稿日:2012/02/07(火) 01:05
-
「うーーーん」
賑やかな朝食の後、私はリビングのソファーにどっかりと座り、難しい顔をしていた。
本当は、少しでも13歳当時の感覚を取り戻そうと、学校に行こうと思っていた。
せっかく中学生に戻ったんだから、クラスメイトに会ってバカ話をして情報収集して。
そこから1998年について復習するつもりだった。
そのはずだったのに。
制服を手に取ったところで、今日は第二土曜で学校も休みだという事にやっと気がついた。
- 24 名前:第2話 二度目の恋 投稿日:2012/02/07(火) 01:06
- その時には既に、私以外の家族は全員出かけてしまったから話相手もいなかった。
なので考える時間が嫌でもできたのだ。
一人になると考えてしまう。
どうしてこんな事になったのかと。
私がもう一度娘。のメンバーになるチャンスが欲しいと強く願ったから?
そんな簡単な事で、今みたいな奇跡が起こるなんて到底思えないけど。
ただ確定してるのは、2012年から、一瞬にして過去へと飛ばされたという事。
おそらく、2012年2月までの記憶を持ったままの状態で、
1998年の世界にいるのは私一人だけだと思う。
私以外の人間は、この世界を何の疑いも無く当然のように受け入れているからだ。
- 25 名前:第2話 二度目の恋 投稿日:2012/02/07(火) 01:07
- 27歳の私がそのまま1998年へとタイムスリップしたと言うならまだ分かりやすかった。
しかし、今の私の体は13歳当時のものだ。
なぜ?
まあ、肉体年齢も27歳だったら、娘。のオーディションを受ける資格もなくなっちゃうからちょうど良かったんだけど。
やっぱり気になる点が目立つ。
27歳の私の精神はここにある…じゃあ27歳の私の体はどこへ行ったんだろう。
まさか2012年の世界でヌケガラ状態になっちゃってたり?
いや、タイムスリップした際、遡る歳月の分、体だけは若返ったとか。
待てよ。
じゃあ2012年の世界から私の存在が消える事になるんじゃ…。
思考の糸がぐちゃぐちゃにこんがらがる。
「あーーもうやめやめ」
脳がオーバーヒートしそうだったので、私は気分転換に今日の新聞でも読む事にした。
- 26 名前:第2話 二度目の恋 投稿日:2012/02/07(火) 01:09
- ...
新聞によれば、今年、つまり1998年の北海道は春が早いらしい。
本来、札幌の桜は5月が見頃なんだけど、今年は例年より三週間ほど開花予想が早い。
「なるほど、どうりで」
私は一人納得していた。
だからあの桜の木は蕾が色付いてたんだ。
昨日、雪が一瞬にして溶けてしまったんだとばかり思って本当に驚いたんだよね。
そして、2月なのに桜の蕾が綻びかけているのだと勘違いをした。
あの瞬間にはもう、1998年の4月にタイムスリップしていた…。
つまり、桜の蕾が春の訪れを知らせても何もおかしい事はなかった。
おかしいのは…そう、タイムスリップした私自身だよ。
- 27 名前:第2話 二度目の恋 投稿日:2012/02/07(火) 01:10
- 「!ってまた考えてる」
私は知らず知らずのうちに、またタイムスリップに関する
考察を始めてしまっていたようだ。
考えても分からない事を考えたって仕方ない。
このままじゃ深みにはまってしまう。
もっと時間を有意義に使うべきだ。
私は、運命を変える為にきっと今ここにいるんだから。
「よし!」
私は自分に気合いを入れるようにして立ち上がった。
明後日に向けての準備をしておかなければ。
少しでも最善の状態でオーディションに挑めるように。
その為に、やっておかなければならない事があった。
- 28 名前:第2話 二度目の恋 投稿日:2012/02/07(火) 01:11
- ...
「こんなもんかな」
私はハサミを置いて短くなった髪を一束つまんだ。
久しぶりのショートヘア。
まとわりついていたしがらみから解放されたような爽快感に包まれる。
同時に、なんだか気持ちが引き締まるような。
切って正解だったかも。
この時代の美容師さんに任せるより、自分でやった方がいいんじゃないかって思って
バッサリいったんだけど、上手い具合にレイヤーも入れられた感じがする。
髪型ひとつで、こんなにも気分が変わるものなんだ。
- 29 名前:第2話 二度目の恋 投稿日:2012/02/07(火) 01:12
- オーディションは明後日。
まだ二次審査なのに、胸が高鳴っている。
オーディション会場に行けば、保田さん達がいる。
また、保田さんに会える。
もう一度、あのオーディションを受けられるんだよね。
心機一転で、最初から始める事ができる。
きっと今なら、今の自分なら、当時見過ごしていた様々な事に気付けると思う。
- 30 名前:第2話 二度目の恋 投稿日:2012/02/07(火) 01:13
- 「保田さん、待ってて下さいね」
この世界の保田さんは、まだ私を知らない。
ちょっと寂しいけど、それでもいい。
私はもう一度保田さんを好きになるから。
必ず、あなたを見つけます。
私は決意を胸に、キャリーバッグに荷物を詰め込む準備を始めた。
- 31 名前:第2話 二度目の恋 投稿日:2012/02/07(火) 01:14
- 第2話 二度目の恋
了
- 32 名前:あおてん 投稿日:2012/02/07(火) 01:17
- 皆様ありがとうございます
>>19
更新できない時は間があくかもしれませんが、気長に待っていただけたら嬉しいです。
>>20
ご期待に添えるよう私なりに力を尽くします
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/02/07(火) 17:42
- 良スレ発見
展開が楽しみです
- 34 名前:みおん 投稿日:2012/02/07(火) 19:42
- やすみよには長編が合いますね
楽しみに待ってます
- 35 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:26
- 「すごい人だな」
オーディション会場は若い女の子達で溢れ返っていた。
大半は10代の子だろう。
もちろん、付き添いとして傍に控えている母親らしき人の姿も見える。
ああ、だんだん思い出して来た。
確かにこんな感じだった。
当時の私もこの中に混じってオーディションを受けたんだよね。
あの時は初めてのオーディションだったし、きっと相当緊張してたんだと思う。
そう、ちょうど目の前にいる子みたいに。
- 36 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:27
- 黒髪におかっぱヘアのいかにも気の弱そうな女の子は、俯いて小刻みに震えていた。
うわ、ガッチガチじゃん。
そりゃ緊張しない方がおかしいんだけど。
数々のオーディションを受け続けて来た私でも、今緊張している。
だからこの子の気持ちは痛いほど分かる。
でも、最初からそんなにあがってたら真の実力発揮できないよ。
- 37 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:28
- 「ねえ大丈夫?」
私は見かねてつい声をかけていた。
「え?」
びくっとその子の肩が強張る。
そんなにおびえなくてもいいのに。
「いや、すごく緊張してるみたいだから」
おそるおそるその子が顔を上げる。
ゆっくりと私と目を合わせたその子の顔は…
昔テレビで何度も見た事のある顔だった。
- 38 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:30
- 「いち…!?」
市井さん、と呼びそうになるのを慌てて堪えた。
間違いない。
市井紗耶香さんだ。
こうして生の市井さんと対面するなんて初めてだ。
そう考えると感動を覚えてしまう。
確か市井さんて実際は私よりも年上だったような。
しまった、私タメ語だった。
10代の頃は1 歳差でも大きい。
それが学生ともなるとなおの事。
私は一度わざとらしく咳払いしてから、今更でも敬語を使う事にした。
「私、三好絵梨香です。お名前うかがってもよろしいですか?」
当然彼女の名前は知っているんだけど、名乗ってもらえないと私は市井さんって呼ぶ事もできない。
今この時点で彼女の名前を知っているなんてバレたら、不自然極まりないからだ。
- 39 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:31
- 「い、市井です。市井紗耶香…中学3年です」
市井さんはどもりながらも、ご丁寧に学年まで教えてくれた。
「市井さんですね。私の事は絵梨香でいいですよ。
あと、私の方が年下なんで敬語使わなくていいです」
「分かった。じゃあ、絵梨香ちゃんって呼ぶよ」
あ、やっと笑ってくれた。
その笑顔は、プッチモニで活躍していた頃の強気な彼女とはかけ離れた、
儚さを感じさせるものだった。
これはこれで何だかキュンと来る。
- 40 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:33
- 「市井さんは笑った方がずっと可愛いんですから、そうやって笑ってて下さい」
「な、何言ってるの」
市井さんは少し顔を赤くして照れている。
照れる表情も可愛らしい。
この分だと、もう大丈夫そうだ。
彼女の体から、さっきまでのこわばりが抜けていた。
「じゃ、私そろそろ行きますね」
「うん、ありがとう絵梨香ちゃん。じゃあね」
私は笑顔で市井さんに手を振り、その場を後にした。
緊張に負けて、ベストの状態で勝負できない事ほど悔しいものはないもんね。
さっきの市井さんを見たら、過去の自分の姿と重なって見えて、ほっとけなかった。
私も、頑張らないと。
そんな事を考えながら会場内をうろついていた時だった。
- 41 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:33
- 「ねえ、君かっこいいね」
どこかから声が聞こえて来た。
「え?」
もしかして私に言ってる?
違ってたら赤っ恥だけど。
思わず左右を見回す私に再び呼びかける誰か。
「ここだよ!ここ」
思ったより下の方から響いて来る声は、なんだか聞き覚えがあるような。
その声に誘導されるまま、視線を下へと持っていくと…
- 42 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:35
- やっぱり。
若かりし頃の矢口さんが、興味深々といった感じで私を見上げている。
「なんかモーニング娘。っぽくないよね。
あっ!ごめん、悪い意味じゃないよ。
かっこいいからアイドル目指してますって感じにも見えないなって思って」
相
変わらずストレートな物言いをする人だ。
でも、娘。っぽくないと言われても嬉しかった。
矢口さんなりに褒めてくれているって伝わったから。
確かに、私はかっこよく見られたくて思い切って髪を切った。
美勇伝がデビューした頃、私はボーイッシュ担当でショートヘアだった。
当時は割と評判良かったし、最近でもショートの方がいい、一番私らしいって意見を
聞いた。
だから、ショートヘアが一番自分らしさを伝えられるなら、って、
私はこの髪型に賭けてみる事にしたんだ。
それにショートカットは、近道って意味もある。
今まで随分回り道をしてしまったけど、今度はこの最短ルートを辿って夢を掴んでみたい…
そんな願いも込めていた。
- 43 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:36
- 「でも君絶対受かるよ、保証する」
「ありがとうございます。私は三好絵梨香っていいます」
「やば、声もかっこいい。私矢口真里。絵梨香って呼んでいい?」
「はい、矢口さん」
「真里でいいよお」
「いえ、でも…」
矢口さんも本当は年上だし。
それに矢口さんは矢口さんって呼び方が定着してるんだよなあ。
「じゃあ、最終審査で会った時にはちゃんと下の名前で呼んでね」
「あはは、分かりました。頑張ります」
矢口さん、自分が最終審査まで行くって信じて疑ってない。
実際、最後まで勝ち進み、見事二期メンバーとして合格したから、その自信は間違っていないけど。
- 44 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:37
- あの時の私も、最終選考までは残れたんだよね。
無事に受かって、また会えたらいいんだけど。
そう、私にはまだ会いたい人がいる。
あと一人残ってる。
それも一番大事な人が。
絶対、絶対この会場の中にいるはずなんだ。
私はゆっくりと会場内を見渡した。
早く、会いに行かなくちゃ。
あの人がいなくちゃ、何も始まらない。
- 45 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:38
- 「どうしたのキョロキョロして。あ、おしっこ?」
「全然違います」
空気読んで下さい矢口さん。
せっかく人がシリアスになってる時に。
でも、矢口さんが気さくに声をかけてくれたおかげで、私は一人きりじゃないんだって安心できた。
当時の私は自分が受かる事だけで精一杯で、周りなんて見えてなかったんだよね。
でも、今は違う。
市井さんや矢口さんと言葉を交わして、こんなに温かい気持ちになれている。
- 46 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:39
- 17歳のあの人は、どんな風に私を見つめてくれるんだろう。
どんな風に、私を呼んでくれるんだろう。
会場内一杯に収容された人々の中から、彼女の姿を探す。
!いた!!
メッシュにカラコンにスーツ姿。
確か保田さんって昔はギャル系だったんだっけ。
この中でもメッシュまで入れている子はほとんどいないからすぐに分かった。
間違いない。
「ん?誰か探してるの?…うわあ、ギャルギャルな姉ちゃんだ。
もしかして知り合い?」
矢口さんが私の視線の先にいる人物を認識して、眉をひそめる。
確かに外見だけなら怖そうな人に見えるもんね。
でも、私は知ってるから。
彼女がどれほど優しくて温かいのか。
「知り合いとは違いますけど…すみません、ちょっと私行ってきますね」
私は呆気にとられる矢口さんに断ってから、彼女の元へ急ぐ。
- 47 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:40
- やっと、見つけた。
保田さん!
声に出してはまだ呼べないから、心の中で精一杯叫ぶ。
私の想いが通じたかのように、彼女の瞳が私の姿をとらえた。
外見が派手でも、本質は変わってない。
私には分かる。
目の前にいるのは、まぎれもない、17歳の保田さんだった。
- 48 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:41
- 第3話 再会
了
- 49 名前:第3話 再会 投稿日:2012/02/08(水) 23:46
- 改行間違えた…
>>33
ありがとうございます!行き当たりばったりなスレですが今後もよろしくお願いします。
>>34
みおんさんいつもお世話になってます!頑張ります。
- 50 名前:あおてん 投稿日:2012/02/08(水) 23:47
- 49の名前欄はあおてんでorz
- 51 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/02/09(木) 15:22
- 展開の盛り上げ方がうまいなあ
- 52 名前:第4話 幸せの一歩 投稿日:2012/02/09(木) 23:07
-
会いたいと何度も思っていた。
札幌にいた頃も、ずっと保田さんの事を考えていた。
本当に、また会えたんだ。
思わず込み上げて来そうになる涙を堪え、一度唇をぐっと噛む。
そして次の瞬間、意を決して保田さんに接近して行った。
「こんにちは、ちょっとお話しませんか?」
「えっ?わ、私?」
保田さんは大きな目を見開いて私をまじまじと見つめている。
その探るような目を見て、やっぱり今の保田さんは私の事を知らないんだなと再確認する。
顔を合わせる度に、「みーよ!」って満面の笑みで
私を呼んでくれた保田さんは、ここにはいないんだ。
当たり前なんだけど…寂しいな。
それでも、何でもない風に装って、言葉を続けた。
- 53 名前:第4話 幸せの一歩 投稿日:2012/02/09(木) 23:08
- 「誰かと話してると緊張が和らぐんで。良かったら話し相手になって欲しいんです」
本当は誰かじゃなくて、保田さんじゃないとダメなんだけど。
そんな私の気持ちに保田さんは応えてくれた。
「う、うん。私でいいなら」
そしてさっきよりも幾分肩の力を抜いて、笑顔で私に向き直ってくれる。
彼女の笑顔を見て思った。
私の事を知らなくても、今目の前にいる保田さんは、やっぱり保田さんなんだって。
「私、三好絵梨香です」
「保田圭です」
お互い、簡単な挨拶を済ませ、しばらく取り留めのない話を続ける。
「えーと、絵梨香ちゃん」
「絵梨香でいいですよ」
「じゃあ…絵梨香」
保田さんに下の名前で呼ばれた記憶がなかったから、なんだか不思議な感じ。
みーよって呼ばれるのも好きだったけど、こっちも凄く嬉しい。
- 54 名前:第4話 幸せの一歩 投稿日:2012/02/09(木) 23:10
- 「あの…あのさ」
「はい?」
ふと気が付くと、保田さんが下を向いてモジモジしていた。
「絵梨香は…私が怖くないの?」
「え?」
思いもよらなかった言葉に私はつい聞き返してしまった。
「いや、電車でも誰も私の隣に座ってくれないくらいだったから。
こうして声をかけて来てくれるなんて想像もしてなくて」
「全然怖くないですよ。保田さんとお話してたらほっとします」
確かに、黒髪が主流の時代に茶髪にカラコンって、当時の人達の感じた威圧感は相当のものだっただろうな。
何も知らない当時の私が保田さんに会っていたら、縮み上がっていたかもしれないけれど。
でも、私は当時の私であって私ではない。
今の私だからこそ、こうして保田さんと出会う事ができたんだ。
- 55 名前:第4話 幸せの一歩 投稿日:2012/02/09(木) 23:11
- 「もう一つ聞いてもいい?」
「どうぞ」
「こんなにたくさん人がいるのに、どうして私に声かけてくれたの?」
保田さんの問いに、私は真顔でこう言い放っていた。
「…一目惚れって言ったらどうします?」
「へ!?」
その瞬間、保田さんの頬が赤に染まる。
ここまで素直な反応をしてくれるとは思わなかった。
ある意味、一目惚れというのは本当。
保田さんにとってはこの日が、私と初めて出会った日という事になる。
私にとっても、17歳の保田さんに会うのは初めてで。
彼女を見つけた瞬間、目が離せなかった。
そして、言葉を交わして、実感した。
私はこの人に会う為に、一緒に同じ夢を叶えたいが為に、時を超えたんだと。
- 56 名前:第4話 幸せの一歩 投稿日:2012/02/09(木) 23:12
- この人が好きだ。
はっきりと言える。
三好絵梨香は、目の前の17歳の保田さんに、今こうして惹かれているんだって。
多分私は、どの時代の保田さんと出会っても、きっと好きになるんだと思う。
保田さんが保田さんである限り。
でも、さすがにまだそれを言うのは早い。
だから、今はあえて否定しておく。
本当の気持ちを伝えるのは、追い続けていた夢を一緒に掴んでからだ。
- 57 名前:第4話 幸せの一歩 投稿日:2012/02/09(木) 23:12
- 「ふふっ…なんてね。冗談ですよ。ただ、頼りがいのありそうなお姉さんだなって思ったんで」
「な…なんだ、もう、びっくりした」
保田さんは暑いのかスーツの襟元を掴みパタパタと風を送り込んでいる。
正直見た目は17歳にはとても見えない。
でも今の保田さんは反応が年相応に初々しくて、頬が緩む。
私…この人の成長を近くで見守っていきたい。
保田さんと一緒に同じ時を重ねたい。
その為には、絶対にオーディションに受からなくちゃ。
保田さんの隣で、私はそう固く決心した。
- 58 名前:第4話 幸せの一歩 投稿日:2012/02/09(木) 23:13
- 「三好絵梨香、13歳です。特技はテニス、趣味は粗大ゴミの解体です。
モーニング娘。のメンバーになったら、革命を起こすくらいの勢いで頑張ります!」
「あっはっはっは、解体やて。男の子みたいやな」
つんくさん、和田さんをはじめとした数人の審査員の前で私は自己PRする。
私の発言につんくさんがいちいちウケてくれているおかげで、幾分リラックスして臨む事ができた。
当時は緊張のあまり、頑張りますぐらいしか言えなかった記憶がある。
そりゃ審査員の人の印象に残らないよね。
ひたすら真面目にいった方がいいんじゃないかと思っていた時もあったけど、むしろ
こういう時は強気でいくべきなんじゃないかと私は考えた。
とにかく、覚えてもらわなければ何も始まらないもんね。
- 59 名前:第4話 幸せの一歩 投稿日:2012/02/09(木) 23:14
- 「ええなあ、こういう爽やかなボーイッシュ系って娘。にはおらんし」
お。
意外と好感触?
受かるって決まったわけじゃないから油断は禁物だけど。
それでも、あの頃の状況とは少しずつ変わって来ている。
おそらく、良い方向へと向かっている。
今の私なら、きっと大丈夫だ。
どこまで行けるか分からないけど、最後まで自分を信じよう。
大事なのは、全力を尽くす事だから。
- 60 名前:第4話 幸せの一歩 投稿日:2012/02/09(木) 23:18
- ...
「ねーたんおかえりー」
我が家に帰り着くなり、弟達が私に飛びかかって来る。
「ただいま、いい子にしてた?」
「うん!」
話を聞く分には、私に代わって祖母と兄が家事や弟の面倒を見てくれていたようだ。
「ねーたんうれしそう」
弟達は私を不思議そうに見上げている。
弟達の前ではしゃっきりしないといけないと思っていても、こればっかりはどうにもならない。
帰りの飛行機の中でもニヤケ顔を抑えるのに必死だった。
「うん、大事な人に会えたからね」
- 61 名前:第4話 幸せの一歩 投稿日:2012/02/09(木) 23:19
- 保田さんって、凄い人だよね。
最初は、保田さんと今まで築いて来た思い出がなかった事になっていたのが寂しかった。
でも、保田さんと言葉を交わすと、そんな思いはどこかへ吹き飛んでしまった。
少しの間一緒にいただけなのに、未だにこんなに幸せな気持ちにさせてくれるなんて。
電話番号を聞くのを忘れてしまってたけど、またすぐに会えるはず。
一から始めるんだ。
きっとこれが保田さんと踏み出す幸せの一歩だ。
焦らなくてもいい。
彼女は今確かに、この世界に存在してくれているんだから。
- 62 名前:第4話 幸せの一歩 投稿日:2012/02/09(木) 23:20
- 第4話 幸せの一歩
了
- 63 名前:あおてん 投稿日:2012/02/09(木) 23:24
- >>51
ありがとうございます。
構成等全く考えてない状態でスタートしましたがどうにか頑張ります。
- 64 名前:みおん 投稿日:2012/02/09(木) 23:28
- 頑張ってますね
このあとがとても楽しみです
- 65 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/02/11(土) 19:46
- やすみよでこんな話も書けるんだなあ
参考になります
- 66 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:44
-
私は都内のスタジオにいた。
今日、最終審査がここで行われる事になっている。
そう、私は二次審査も無事クリアする事ができた。
その点に関しては、史実通りだ。
問題はここからなんだよね。
当時の私はこの最終審査で落選している。
苦い記憶が蘇って来る。
本当に、運命を変える事ができるのかな。
それは…今日の私次第だよね。
これからの自分がどう動くかによって、全てが決まる。
- 67 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:46
- 「落ち着け…」
ゆっくり深呼吸しながら周りを見回す。
保田さん達はどこにいるんだろう。
「絵梨香!」
そんな事を思っていると、保田さんの方から先に私の元へ来てくれた。
今日はスーツじゃなくて女の子らしいワンピース姿。
そして下ろしていたロングヘアはアップにしていて、
先日とのギャップに思わずドキッとしてしまう。
「絵梨香なら絶対受かってるはずだって思ってた」
そう言って嬉しそうに私に笑いかけてくれる。
「私の事、覚えててくれたんですね」
「当たり前だよ。忘れるわけない」
私を、三好絵梨香だと認識してくれている。
保田さんにとって今の私はまったくの見知らぬ人じゃない。
それだけで幸せな気持ちになれる。
- 68 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:47
- 「ねー?だから言ったっしょ、絵梨香は絶対受かるって」
あれ?この声は。
直後に、保田さんの背中からひょっこりと顔を出す人が。
「矢口さん!」
「こら、真里って呼んでって約束だったじゃん」
そうだった。
二次審査に受かったら、下の名前で呼んでって言われてたんだ。
「ま、真里…さん」
しかし長年の習慣のせいで、呼び捨てで呼ぶ事はできなかった。
「うーん、ま、いいか」
それでも一応矢口さんは妥協してくれたようだ。
良かった。
元々は先輩だった人なんだから、いきなり呼び捨てなんてハードルが高いもんね。
- 69 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:48
- 「矢口から絵梨香の名前が出た時はびっくりしたよ」
保田さんの言葉に、私は目を丸くする。
「いつの間に知り合ったんですか?」
「二次の時席が隣同士になったんだよね」
「そうそう、圭ちゃんって老けたカッコしてたから怖かったんだけど、話してみたらこんな感じだし、すっかり打ち解けちゃった」
「誰が老けてるって、誰が」
なるほど。
指定の席に着かされた時に二人は出会ったんだ。
私が保田さんと会話して別れた後の話だ。
それにしても…
私の知らない間にここまで仲良くなってただなんて。
ちょっと、妬けるな。
- 70 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:51
-
「あ、あのぉー…」
その時、蚊の鳴くような声が背中に投げかけられた。
ゆっくりと振り向くと、そこにはおかっぱの彼女がいた。
「市井さん」
私と目が合うと、ほっとしたような表情を見せてくれる。
「良かった。ずっとお礼言いたかったんだ」
「お礼?」
「二次審査の時、私の緊張ほぐしてくれたから。
もし絵梨香ちゃんが声をかけてくれなかったら、私ここにいなかったかもしれないもん。
だから、ありがとう」
「そんな…」
そんな事はない。
当時の私は、市井さんはもちろん他の人ともほとんど接触していなかったと言っていい。
にも拘らず、市井さんは見事二期メンバーに選ばれた。
たとえ当時の市井さんが緊張で100%の実力を出せていなかったとしても、
最後まで勝ち抜いたという事実がある。
それは市井さんには元から実力があったって事なんだろう。
私の存在は関係ないと思う。
「ふふ、どういたしまして」
でも、今は市井さんの気持ちを素直に受け取っておきたいと思った。
市井さんっていじらしいな。
テレビで見ていた時に思い描いていた強気なイメージとは少し違う。
- 71 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:52
- 突然、私達の様子を見守っていた保田さんと矢口さんが、
すごい勢いで食いついて来た。
「絵梨香の知り合い?私にも紹介してよ」
「ねえねえどこから来たの?」
「えっ?あ、千葉です」
「私と同じだ!よろしくね」
保田さんは同郷の子が見つかって嬉しいのだろう。
満面の笑みで市井さんの手を取っている。
そんな光景を見て、僅かばかりの疎外感を感じてしまった。
元々は、保田さんと矢口さん、市井さんの三人がこうして笑い合っているのが、本来あるべき姿なんだ。
その輪の中に、私が入り込んでもいいんだろうか。
そんな資格あるのかな。
私は摂理に反する存在なのに。
- 72 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:53
- 黙って俯いていた時、名前を呼ばれた。
「絵梨香」
「は、はい」
顔を上げると、保田さんは優しく微笑みかけてくれる。
まるで、ずっと前から保田さんと知り合いだったかのような、そんな錯覚に陥る。
不思議だよね。
たったそれだけで、保田さんは私の不安を拭ってくれるんだもん。
「今日のオーディション、頑張ろうね」
「…はい!」
私は力強く頷いた。
この日こそが、一世一代の勝負の日だ。
今は運命だとか宿命だとか考えない。
できる限りの事をしよう。
今日で、保田さん達と言葉を交わすのが最後にならないように。
- 73 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:53
- ...
私は飛行機の中で放心状態だった。
さっきから脱力した体をシートに預けっぱなしだ。
「はぁ、終わった」
やれるだけの事は、全てやった。
精一杯心を込めて歌ったつもりだ。
まるで、自分の魂を削っているんじゃないかって思うくらい。
あとは結果を待つのみ。
手応えは感じてはいる。
あの時とは状況が全く違っていた。
でも、今までの経験上、油断できない。
- 74 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:54
- もしも落選してしまったら、私はどうすればいいんだろう。
運命を変えられなかったとしたら。
これから5年後まで、オーディションを受ける度、いい線まで行っては落選する…
また同じ事を繰り返すのだろうか。
せっかく三人と電話番号を交換し合えたのに。
過去の私は、このオーディションに落選してから、ハロプロに受かるまで
5年もかけて何度も挑戦したんだよね。
そう、気が遠くなるくらい。
- 75 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:55
- 「あ…」
その時、何かがひらめいた。
そうだ。
もしも落選してしまったら、もう一度二次審査前に戻ればいいんじゃないだろうか。
たとえ最終的に運命が変えられなくても、自分が納得いくまで挑戦すればいい。
そうすれば今度こそ完全に諦めがつく。
でも…どうやって?
あの時、私はよく分からない場所に入り込んで、過去を変えられたらって願って…。
そして、一瞬のうちに1998年へタイムスリップしていた。
やっぱり、タイムスリップしたのはあの場所が関係しているんだろうか。
現時点ではまだ分からない。
とりあえず、もしもの時の為に確かめてみる必要があるかもしれない。
北海道に帰ってから、一度あの場所を調べてみよう。
私は目の前に新たな希望の光が差し込んで来たように感じた。
- 76 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:56
- ...
今日は最終選考の合否が知らされる日。
私は再びこの場所にやって来た。
時はまだ早朝で、ここまで来るのに人っ子一人遭遇しなかった。
一人になりたかったから、ちょうど良かったんだけど。
「あ、ちょっとだけ咲いてる」
私は薄桃色に色付いた桜の木を見上げた。
満開ではないけれど、こうして眺めているだけで、桜は私の不安を和らげてくれる。
合否が分かるまでの間、家でじっと待つのが辛かったという事もある。
当時の落選した時の記憶が蘇って来て怖いのだ。
でも別に逃げているわけじゃない。
いくらなんでも、最後まで見届けずに2012年に帰るなんて、そんな脱走兵みたいな事をするつもりはない。
本当にこの場所がタイムスリップと何らかの関係があるのかどうか、確かめたかった。
そして待つ時間の短縮の為、ちょっと一時間後の世界にタイムスリップしようかと考えたのだ。
って誰に言い訳してるんだろう私。
- 77 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:57
- ただ、試してみたいという気持ちがあった。
どのような事がきっかけで時を超えたのか知りたかった。
私はゆっくり息を吐いて、目を閉じる。
そして例の桜の木の幹に手を当てた。
あの時と全く同じように。
「…」
ただ静寂がこの場を支配する。
「……」
ゆっくりと目を開けてみる。
- 78 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/11(土) 23:58
- 「あれ?」
目の前の光景は、さっきと全く変わらない。
つまり…
「なーんにも起こんないじゃん」
一気に脱力した。
やっぱり、あれはたった一度しか起きない奇跡だったんだろうか。
試しに、数時間前にもタイムスリップしようともしてみた。
しかし、何度やっても結果は同じだった。
「じゃあ、もし落選しても、もうやり直す事はできないんだ…」
過去にも未来にも行けない。
そうすると、2012年にも戻れない?
- 79 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/12(日) 00:00
- 「…覚悟、決めるか」
分かった事がある。
結果がどうであれ、私はこれからこの世界で生きていかなければならないんだって事。
「自分で決めたんだもんね」
私は2012 年の世界より、こっちの世界を選んだんだ。
他の誰でもない自分自身の意思で。
ただ、完全に全てを無かった事にできるわけじゃない。
2012年の私、保田さん…世界はどうなっているんだろう。
気にならないわけがない。
でも、今は目の前の現実を見据えないといけない。
たとえまた同じ運命をたどる事になっても、最後まで戦うんだ。
おとなしく結果を待とう。
そして目をそらさずに、運命の時を迎え入れる覚悟をしなければ。
私はもう一度だけ桜を見上げてから、自宅へと戻る事にした。
- 80 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/12(日) 00:02
- やはり家に戻って日付を確認しても、変化は起こっていなかった。
それから数時間、睡魔と闘いながら知らせの電話を待った。
昨夜から不安でろくに眠れなかったのだ。
うつらうつらと舟を漕ぎ始めた時、けたたましい電話の音に呼び起こされた。
「っもしもし!」
反射的に受話器を取り、姿勢を正す。
誰からの電話かと気にする余裕すらなかった。
『もしもし、三好さんのお宅でしょうか―』
その電話は、ASAYANのスタッフと名乗る男性からだった。
男性は私が三好絵梨香本人だと分かると、不可解な言葉を口にした。
『おめでとうございます』
「え…?」
首をかしげている間に、新たに言葉が継がれる。
『―…、―…』
最初、何を言っているのか分からなかった。
その人の言葉を、すぐには脳が受けつけなかったようだ。
でも、はっきりと聞こえた単語があった。
- 81 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/12(日) 00:03
- 合格。
聞き間違いじゃない。
確かに今そう言った。
「本当…ですか?私、本当に…」
受話器を握る手が汗ばみ、かたかたと震える。
「はい、はい…ありがとうございます…必ず、伺います」
今後の予定について説明を受け、最後に意思確認を終えると、電話は切れた。
その瞬間、私の目からとめどなく涙が溢れて来た。
どうしよう。
震えも止まらない。
- 82 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/12(日) 00:04
- 私を…選んでくれた…
「これ、夢じゃ、ない、よね…」
18歳の時に、ハロプロオーディションにやっとの思いで合格した。
当時の私は、神様はやっぱり見ていてくれてるんだと思った。
でも、今ほど神様に感謝した事はなかった。
私は、大きな川の流れを変える事ができた。
そして、もう一つの運命を手に入れたんだ。
保田さん達と、同じステージに立てる。
また、あの夢の続きが見れる。
私は決意した。
たとえこの先どんな事があっても、今の時代を生きていくと。
- 83 名前:第5話 いつか見た夢 投稿日:2012/02/12(日) 00:05
- 第5話 いつか見た夢
了
- 84 名前:あおてん 投稿日:2012/02/12(日) 00:11
- タイムスリップネタがこんなに難しいものだったとはorz
>>64
いつもありがとうございます!
正直、これからどういう話にすべきかかなり悩んでますw
>>65
こんな話でも参考になると言っていただけて光栄です。
- 85 名前:みおん 投稿日:2012/02/12(日) 01:14
- 更新遅くなっても読みに来るので、じっくり考えて書いてください。
- 86 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:46
- ...
4月20日
都内某所。
私と保田さん、矢口さん、市井さんは
芸能人として生きていく為の心構えを和田さんに教わっていた。
同時にその様子をASAYANスタッフが撮影している。
ハロプロオーディションに受かった時とはまるで状況が違う。
ASAYANは娘。ファンに限らず多くの人達が見ている人気番組。
つまりその時とは桁違いの数の視聴者の目に晒される事になる。
私は、モーニング娘。という大きな船に乗った。
もう引き返せないところまで来たんだと分かった上で。
これからが本当の戦いなんだ。
それをようやく実感した。
- 87 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:47
- 「要するに明日から芸能人だ」
一通り説明が終わり、和田さんは真正面から私達の顔を覗き込んで来た。
「あいつらとやってける自信あるか?一応説明はしたけど納得してない奴らが大半だからな。
衝突は避けられないぞ」
安倍さん、飯田さん、中澤さんとは、元の世界で一応面識がある。
でもあまり接点がなかったから、どんな人かはよく分からないんだよね。
これから、一緒に仕事する事になるのか。
当時私が憧れて背中を追いかけ続けていた人達と仕事仲間になる。
それはとても素敵な事だ。
だけど、上手くやっていける自信があるかと聞かれれば…
正直返答に困ってしまう。
「それに抗議の電話や中傷の手紙も殺到してる。
必ずしもお前達は歓迎されているってわけでもないんだ。
それでも頑張れるか?」
保田さん達は、戸惑ったようにそれぞれ顔を見合わせている。
抗議の電話云々なんて今まで全く聞かされていなかったもんね。
- 88 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:50
- 私は一つ深呼吸をして、真っ直ぐ和田さんの目を見つめ返した。
「大丈夫です。それに何かあったら私が守ってみせますから」
口にしてから気付いた。
いくら中身は大人でも、今の私はこの中で最年少という事になってるんだ。
13歳の子供でしかないのに、何言ってるんだろうと、自分で恥ずかしくなる。
でも、さっきの言葉は本心だった。
できる範囲で、守りたい。
保田さん達の役に立ちたい。
「…そりゃ頼もしいな」
意外な事に、和田さんは笑い飛ばすような事はせず、真顔でそう返して来た。
心の中では呆れていたのかもしれない。
世の中をなめている子供だと。
その時の私は理解していなかった。
どれほど自分の認識が甘かったかを。
これから起こる出来事は、生半可な覚悟では到底耐えられるものではないという事を。
- 89 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:50
- ...
明日、初めて一期メンバーの5人と対面する。
その翌日からは、レコーディング、ダンスレッスンの予定が組み込まれている。
合格が決まった直後にも拘らずスケジュールはカツカツだ。
よって当分の間は都内で過ごす。
新メンバーの私達4人は、指定のホテルにしばらく滞在する事となった。
- 90 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:51
- 「とりあえず部屋を二つとってある。で、部屋割についてだが、保田と市井が」
「あの…私明かりがないと怖くてダメなんです。眠れないんです…」
和田さんの言葉を遮るように、おずおずと市井さんが手を挙げる。
「だから、その、明るくても寝られる人じゃないと…」
市井さんって怖がりなんだ。
可愛いな。
となると、私と市井さん、保田さんと矢口さんの組み合わせか、
私と保田さん、市井さんと矢口さんの組み合わせどちらかに絞られる。
どうにかして保田さんと一緒になりたいけど、今それを口にしたら怪しまれるかもしれない。
どうしようかと考えていると、
「実は、私は逆に真っ暗じゃないと眠れないんですよ」
と保田さんが便乗した。
- 91 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:52
- …。
という事は。
「なんだ、千葉組でセットにしてたのに。しょうがないな、変えるか」
これはチャンスだ。
千載一遇のチャンス…っていうのは大げさだろうけど、めったにないチャンス。
言うのは今しかない。
「じゃあ、私が保田さんと一緒の部屋になってもいいですか?」
「ん?お前も明るいと眠れないのか?」
和田さんの問いに私は大きく首を縦に振った。
本当は明るくても全然平気なんだけどね。
「矢口さんと保田さんさえ良かったら、ですけど」
「私は紗耶香と一緒でいいよ。確かに暗いの怖いし」
さすが矢口さん!
私は心から矢口さんに感謝した。
- 92 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:53
- 「じゃあ私と絵梨香が同室なんだね。よろしく」
保田さんは私の小さなウソに気付きもせず、眩しい笑顔を向けてくれた。
年齢が近い保田さんと矢口さん、私と市井さんという組み合わせが最適なのかもしれない。
それでも、このチャンスを見過ごすなんてできなかった。
私はその場で小躍りしたい衝動を必死で抑えたのだった。
- 93 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:54
- ...
「どうしたの絵梨香?もっとこっちおいでよ」
「は、はい」
保田さんはベッドの端に寄り、私が入れるスペースを作って手招きする。
これ以上ない魅惑的なシチュエーションに理性が飛びそうになる。
この部屋はシングルベッドが二つ備え付けられている。
でも、保田さんはせっかくだから一緒に寝ようと誘って来たのだ。
そんな保田さんの誘いを断るなんてできるはずもなく…
「失礼します」
私はそろそろとシーツの中に入る。
すると、保田さんの手がふわっと頭に降りて来た。
- 94 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:55
- 「えっ…」
「絵梨香って、北海道出身なんだよね。…遠いよね」
そう言いながら、保田さんは私の短くなった髪の毛を指でかき混ぜる。
いきなりどうしたんだろう。
「は、はあ…そうですね、遠いです」
顔が熱くなるのを感じる。
私、今保田さんの一番近くにいるんだ。
「家族の人と離れて、寂しいでしょ?」
「……。はい」
そっか。
保田さんは私がホームシックにならないように、こうしてくれているんだ。
保田さんにとって私は、4つも年下の子供でしかないから。
完全に子供扱いされている。
だけど、保田さんの心遣いが嬉しかった。
それに、家族と離れる事になって、寂しいのは本当だから。
- 95 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:55
- お父さんは、まさか私が受かるなんて夢にも思ってなかったみたいで、ひどく動揺してた。
本当は、私を芸能界にやりたくないって気持ちもあったみたいだ。
そりゃそうだよね。
13歳の女の子を得体のしれない世界に送り込むなんて抵抗があるに違いない。
でも、私が本気だという事を伝えると、最後には折れてくれた。
ごめんね、お父さん。
家事もおばあちゃんやお兄ちゃんにまかせっきりになっちゃう。
小さい弟達も北海道に残して来てしまう。
それでも、私には何があっても運命を共にしたい人がいるから。
保田さんと、一緒にいたい。
- 96 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:57
- 陽だまりのような匂いがする保田さんの胸に頭を預けながら、私は彼女としばらくおしゃべりを楽しんだ。
「絵梨香は、どうして歌手になろうって思ったの?」
「SPEEDに憧れてたんです。あ、今も好きですけど。
私と年がそんな変わらないのに、人を圧倒するパフォーマンスができるなんて尊敬します」
「あの子達本当に凄いもんね。私も安室ちゃんに憧れてるんだよね。
だから真似してメッシュ入れちゃったりしたんだけど」
なるほど、当時みんな安室ちゃんに憧れてて社会現象になってたもんね。
「でも、モーニング娘。のオーディションを選んだのは、安倍なつみちゃんが決め手だったな。
あの子見た時、天使って本当にいるんだって思ったもん」
て、天使!
意外と保田さんってポエマーだな。
- 97 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:58
- 「絵梨香はあの5人の中で誰が一番好き?」
「えっ」
予想もしていなかった質問に声がひっくり返ってしまう。
「わ、私は誰が一番とかはないですね…」
「そっか」
確かに私はモーニング娘。が好きだ。
私もその輪の中に入りたくて、
娘。になりたい一心で何度もオーディションを受け続けて…
何度落ちても諦めきれなかった。
だけど、私が今モーニング娘。にこだわっている一番の理由…
それはあなたなんですよ、保田さん。
そんな事、言えないけど。
「そろそろ寝ようか。明日は5時起きだよ。
しっかり寝てすっきりした顔でモーニング娘。の皆さんに会わないと」
「私達ももうモーニング娘。ですよ」
「ふふ、そうだね」
保田さんは笑いながら、もう一度私の頭を優しく撫でてくれた。
- 98 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 01:59
- 電気を消して数分もしないうちに、保田さんは規則正しい寝息を立て始めた。
「こんな無防備に寝ちゃって…」
そっと保田さんの頬を指先でつついてみる。
柔らかくて弾力がある肌。
月明かりを頼りに目を凝らすと、ぼんやりと保田さんの寝顔が浮かび上がる。
寝顔はやっぱり幼くて、彼女は17歳の少女なんだなって実感する。
それを眺めていると、邪な感情に支配される。
本当は、好きな人の寝顔を見たら和むところなのに。
「…」
やばい。
「キスしたい…」
キスして、脱がせて隠れている部分も全部見たい。
だけど、そんな事できるわけがない。
だからせめて…。
- 99 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 02:00
- 「ちょっとだけなら」
私は保田さんの手を握って、指先を自分の唇に持っていく。
そしてほんの一瞬、指先に触れるだけのキスをした。
「んっ」
「…!」
ぴくっと保田さんの指先が動いたのを感じ、私は慌てて手を離す。
おそるおそる保田さんの様子を窺うと、相変わらず熟睡しているようだった。
ほっと安堵の息を吐く。
「これも、ある意味戦いだ…」
そう、自分の欲望との。
まさに蛇の生殺し状態だ。
私はほんの少しだけ、保田さんと同室になった事を後悔してしまったのだった。
- 100 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 02:01
- ...
4月21 日
ジャケット撮影の日。
初代モーニング娘。の人達と対面する日だ。
石黒さんと福田さんとは初対面する事になるんだよね。
今から手に汗をかいてしまっている。
特に、保田さん、市井さん、矢口さんにとってはおそらく初めて間近で見る芸能人。
緊張は私の比ではないはずだ。
特に市井さんは神経質に何度も自分の髪を直していた。
「おはようございます」
5人の姿が見えた時、私達は腰をほぼ直角に曲げて頭を下げた。
うわあ、視線が痛い。
顔を伏せていても分かる。
今、10個の目が一斉に私達の方へ向いている。
保田さん達は当時、こんな凍った空気の中で仕事をしていたのか。
- 101 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 02:02
- 「この4人が、モーニング娘。の新メンバーです。ほら、自己紹介して」
和田さんに促され、私達は次々と簡単な自己紹介を済ませる。
カメラがいなくなると、今まで無言だった石黒さんが、一歩前へと出る。
「13歳?ふーん、明日香と同じか」
そして鋭い目で私達を睨みつけて来る。
「言っとくけどあんたらと馴れ合うつもりなんてないから」
「え…」
いきなり随分なご挨拶だ。
保田さんと矢口さんと市井さんが入った時も、こんな風だったんだろうか。
だとすれば、相当肩身が狭い思いをしただろうな。
- 102 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 02:03
- 確かこの世界の石黒さんは19歳、中澤さんは24歳だっけ。
私の中身は27歳なんだから、石黒さんは年下とも言えるんだけど。
って、それ言うなら全員私より年下だよ。
なのにこの迫力は何なんだろう。
特に石黒さんや中澤さんから揺らめき立つ色気や貫禄を感じ、腰が引けてしまう。
「うちらの足は引っ張らないでよね。子供だからって、できませんじゃ通用しないよ?
ちゃんと合わせてもらわないと」
…石黒さん、やけに私につっかかって来るな。
一応私が最年少だから?
この人、年下嫌いそうだもんなと勝手に一人で納得する。
- 103 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 02:04
- 「黙ってないで何か言ったら?」
「ちょっと、彩っぺ」
牽制の意味を込めているのか、中澤さんが石黒さんを軽く肘で小突いた。
でもそれは私達に味方して言ってくれてるわけじゃない。
中澤さんだって、私達を見る目はひどく冷たい。
やっぱり、私達が入って来る事に納得できていないんだろうな。
それもそうだ。
2012年の世界ではメンバーを追加加入させるシステムは珍しくないけど、この時代ではそんな例はほとんどなかっただろう、
初代メンバー原理主義になっても仕方ないとは思う。
でも、ここで負けちゃダメだ。
- 104 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 02:05
- 「ご忠告ありがとうございます。先輩」
先輩という部分をあえて強調して、私はにっこりと笑顔を作る。
オリメンの人達がいくら拒絶しようと、私達が後輩になるというのはもう変えようのない事実なんだ。
私の言葉に、石黒さんは不快そうに顔を歪めた。
かわいくないヤツって思った事だろう。
「これから撮影なんだからそのへんにしとけ」
見ていられなくなったのか、和田さんが私達の間に割って入って来た。
「お前らは先輩達のメイクが終わるまでそこで待機な」
そしてそう言い残し、5人を引き連れて行こうとする。
去り際に、石黒さんが和田さんに小声で何か耳打ちしているのが見えた。
「ホントにあの子らとこれからやってかなきゃならないんですか?」
あの、聞こえてるんですけど。
もしかしたら、私達に聞こえるように言っていたのかもしれない。
- 105 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 02:06
- 扉が閉まり静寂が訪れた瞬間、私は思わずため息をついた。
「…おっかないの」
ある意味熱烈な歓迎だった。
決して良い意味じゃないけど。
「絵梨香、災難だったね。大丈夫だった?」
私の肩にそっと手を添えてくれる保田さん。
本当はどさくさにまぎれて、怖かったーって
抱きついて甘えようかとも思ったけど、ぐっと我慢した。
私が守るってはっきり宣言しちゃったもんね。
そうでなくても、正確には私が一番年上なんだから、何があってもしゃんとしないと。
「超怖い。そりゃいきなり和気藹々とできるわけないって思ってたけどさぁ」
と矢口さん。
市井さんは…
- 106 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 02:07
- 「!」
瞳が湖のように潤んでいる。
まずい。
「うっ…ひっく」
予想通り、市井さんが泣き出してしまった。
初期の市井さんってホント女の子なんだなぁ。
「な、泣かないでください」
今度は私が市井さんの肩を抱いて宥めすかす。
「大丈夫ですよ、怖い事なんてありませんから」
「絵梨香ちゃあん」
何が大丈夫だと言うんだろう。
いい大人の私でさえ肝が冷えてるのに。
市井さん、保田さん、矢口さんが感じている不安や恐れはきっと相当のものだ。
彼女達の不安を取り除いてあげたい。
でも、どうすればいいんだろう。
一期と二期の溝は海よりも深い気がした。
こりゃ、前途多難だな。
私は今後の事を思うと胃が痛くなるのを感じた。
- 107 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 02:08
- ...
「すごい空間だった…」
「私生きた心地がしなかったよ」
「そうですね、全く同意見です」
二期メンバーの4人は、保田さんと私の部屋でこれからの事について話し合っていた。
「絶対4人浮くよね…どうしよう」
美勇伝の時だって、あそこまで緊迫した空気じゃなかったはずだ。
ジャケット撮影で、私達は彼女達の肩に手を置くように指示された。
それでも、いくら仕事とはいえ指先一本触れる事さえ躊躇ってしまうほど、
彼女達はあからさまに嫌悪感を露わにしているように見えた。
まるで、毛を逆立てた猫のような。
尖った硝子のような。
まさに一触即発って言葉がしっくり来るような。
- 108 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 02:10
- これからも石黒さん達とは顔を合わせる事となる。
明日はレコーディングだ。
また今日のような針のむしろ状態なんだろうか。
…。
待てよ。
私の記憶が正しければ、二期メンバーに真っ先に
好意的な態度を示していた人物がいた。
あれはいつだっただろうか。
元いた世界の話だけど、彼女は、
年齢が近い二期メンバーが入ってくれた時は嬉しかった…
そのような発言をしていたように思う。
その人物とは…
- 109 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 02:12
- 福田明日香。
私と同い年で、確か誕生日も割と近かった。
一見とっつきにくそうに見えるけど、多分福田さんは優しい人だ。
誠心誠意を持って素直に接すれば、きっと心を開いてくれるはず。
私と福田さんで、一期と二期のかすがいになれるかもしれない。
明日早速彼女と接触してみよう。
結果的に何も変わらなかったとしても、私自身、彼女に興味があった。
私は、無意識のうちに小さく拳を握っていた。
- 110 名前:第6話 招かれざる娘たち 投稿日:2012/02/14(火) 02:12
- 第6話 招かれざる娘たち
了
- 111 名前:あおてん 投稿日:2012/02/14(火) 02:14
- 話数を意識したタイトルをつけるのを断念orz
>>85
ありがとうございます!
更新は不定期になると思いますが書ける時に書きます。
- 112 名前:みおん 投稿日:2012/02/14(火) 02:28
- こんな時間に更新が!
市井ちゃんが可愛すぎるんですけど……。
こういう関係のやすみよいいですね。
- 113 名前:あおてん 投稿日:2012/02/14(火) 13:23
- 訂正アリ
>>90の「となると、私と市井さん、保田さんと矢口さんの組み合わせか、
私と保田さん、市井さんと矢口さんの組み合わせどちらかに絞られる。」
を>>91の冒頭に入れて下さい
>>112
ありがとうございます。
ASAYANの映像見ましたが、ジャケット撮影の直前で市井ちゃんは本当に号泣してましたねw
- 114 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/02/14(火) 17:23
- やすみよも楽しみですがこれからの人間関係も楽しみです
- 115 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:01
- ...
For you
I want you
Wow wow wow wow
「ストーップ!」
コントロールルームからつんくさんの指摘が飛ぶ。
「4人ともバラバラや。もうちょい息合わせて」
「すみません…」
- 116 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:03
- 二期メンバーの初めてのレコーディングは難航していた。
正確に言えば、初めてなのは私以外の三人。
私はレコーディングに関しては、美勇伝時代に既に経験済みだ。
そして今回レコーディングする曲「サマーナイトタウン」は
元いた世界でCDが擦り切れそうなほど聴いていた。
カラオケでも今まで何度も歌ったりした曲。
だから、その経験を今回活かせるんじゃないかと思っていた。
完全にマスターしたつもりでいた。
…甘かった。
メインパートは歌い慣れていても、さすがにコーラスパートを歌った記憶はない。
コーラスパートはメインを引き立たせる、なくてはならない存在だ。
私達はそんな大役を担っている。
だからこそ、その役割をきっちりこなさなければいけないのに。
つんくさんの首を縦に振らせるような出来には到達していないようだ。
- 117 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:05
- 「ちょっと休憩するで。次くらいにはオッケーって言わせて」
つんくさんの一声で、私達はぞろぞろとブースを退出する。
一期の人達は既に今日の分のレコーディングを終えたばかり。
そして今は私達のコーラスパートのレコーディングの途中だ。
ゆっくりと、一期メンバーの歌声を思い出す。
「やっぱいい声だったな」
待ち時間に、先輩5人の生歌を聴く機会があった。
その時、否応なく実感した。
やっぱり一期と二期は現時点では実力の差がある。
そしてその差は今日明日では縮める事はできないと。
やっぱり、あの5人は選ばれるべくして選ばれた人達ばかりなんだと。
特に福田さんや石黒さんの歌声はパワフルで、鳥肌が立ってしまったくらいだ。
石黒さんはバンド経験もあるらしいしね。
それに比べて、私はまだ人を感動させられるような歌を歌えるわけじゃない。
悔しいけど、完敗だよ。
これから経験を積んで差を埋められたらいいんだけど。
- 118 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:06
- 「絵梨香ー、飲み物買いに行かない?」
「あ…すみません、私ちょっと用があるんで」
矢口さん達の誘いを断って、私はある場所を目指していた。
そっと一期メンバーの先輩達がいるスペースの様子を窺う。
中澤さん、石黒さん、飯田さん、安倍さんが固まってソファーに座っているのが見えたけど、
そこに彼女の姿はなかった。
となると…
私は彼女を探し出すべく、ゆっくりとスタジオの中を徘徊し始めた。
- 119 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:07
- 「あ…見つけた」
コントロールルームに隣接したロビーの椅子の上。
そこに、彼女は雑誌を片手に一人で座っていた。
うわあ。
中学生にしてロキノン読んでるよ。
渋いな。
13歳なのに、その姿がすごくサマになっている。
私に気付いた彼女が、すっと雑誌から視線を外した。
そして円らな瞳が私の方に向けられる。
「三好さん…だよね?」
- 120 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:08
- 「は、はい。三好絵梨香です」
いきなり名前を呼ばれてドキッとする。
「あ、すみません、福田さん。邪魔しちゃって」
「いいよ、別に邪魔じゃないから」
そう言って福田さんは隣の椅子をぽんぽんと叩く。
え…。
座れって事かな。
私は促されるまま福田さんの隣の椅子に腰かけた。
「…」
でも、福田さんは積極的に話しかけて来るような事はしない。
沈黙が苦じゃないタイプの人なんだろうな。
その沈黙を破るのは気がひけたけど、私はあえて自分から話題を振った。
- 121 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:09
- 「…バンドに興味あるんですか?」
ロキノンを愛読してるって事はそういう事だよね。
それに90年代はバンドブームだったし。
「うん…まあ一応。楽器もマスターしたいし」
楽器か。
志高いなあ。
そんな事を思いながら、私は気がつけば矢継ぎ早に質問していた。
それでも、福田さんは嫌な顔をせず答えてくれる。
「どういうグループが好きなんですか?」
「うーん…割とたくさんあるけど。最近はスピッツを聴いてるかな」
また懐かしいものを。
あ、この時代では波に乗ってるグループか。
「スピッツかー。『遥か』っていい曲だよね」
「…『遥か?』」
福田さんの頭にハテナマークが浮かんでいるのを見てやっと思い出した。
し、しまった。
まだ『遥か』は現時点ではリリースされてないんだっけ。
- 122 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:10
- 「えっあ、いや、ごめんなさい!間違えた、何でもないです何でも!」
パニックになる私とは対照的に、福田さんは落ち着き払った笑みを浮かべている。
13歳なのに、どうしてそこまでどっしりしてるんだろう。
「
ふっ、そんな緊張しなくてもいいよ。三好さんって私と同い年でしょ。
タメ語で話そうよ」
「でも…」
「明日香って呼んでよ。皆そう呼んでるから」
皆って一期の人達の事だよね。
二期の私が気安く呼ぶのは抵抗があった。けど。
ここで踏み出さなければ何も始まらないよね。
勝手なイメージだけど、この人は変に気を使ったら逆に遠ざかって行っちゃいそうな気がする。
だから…
「分かった、明日香」
勇気を出して、早速呼び捨てにしてみる事にした。
- 123 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:12
- 「ありがとう。絵梨香」
福田さん…いや、明日香は満足そうに頷いてくれる。
良かった、この選択は間違ってなかったようだ。
「実は私、絵梨香と話してみたかったんだよね。
同い年ってのもあるけど…昨日の件で俄然興味湧いたから」
「昨日?」
「グロさんにきっつい事言われてたでしょ。
でも、全然動じないで一人だけ堂々と受け答えしてたよね。
そういうとこ、すごいカッコ良かったから」
「そ…そう、かな」
グロさんって…石黒さん?
いやいや、動じてなかったわけじゃないよ。
心の中では震え上がってた。
でも、どんな事がきっかけだろうと、私に興味を持ってくれたのが嬉しい。
- 124 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:13
- 「正直、私は5人だった頃は1人でいる方が気楽だって思ってた。
でも追加メンバーが入って来るって分かった時、嬉しいって思ったよ」
あ…笑った。
「特に、絵梨香となら仲良くなれそう」
テレビで彼女を見ていた当時、いつもポーカーフェイスで冷めた女の子…
私はそんな印象を受けていた。
でも、そうじゃないんだね。
彼女の柔らかい笑顔に、胸が温かくなる。
もっと話したい。
そう思った時だった。
- 125 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:14
- 「三好、こんなところにいたのか。そろそろレコーディング再開するぞ」
戻って来ない私を探していたのだろう。
和田さんがロビーまで私を呼びに来てくれた。
「あ、すみません。今行きます」
和田さんに促され、私は名残惜しかったけれどブースに戻る事にした。
「頑張って。絵梨香」
「うん…ありがとう」
たった一言だけだけど、去り際にかけてくれたその言葉が、何より心強かった。
- 126 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:16
- ...
「疲れたー」
どうにか今日の分のレコーディングを終え、二期メンバーは重圧から解放された喜びからか、
体を伸ばしたり、ジュースを飲んだりと気ままに自由な時を過ごしていた。
そんな私達を、中澤さんがじっと見ている。
一体どうしたんだろう。
「あんたら、ちょっと」
目が合うと、中澤さんが険しい表情のままつかつかとこちらへ近付いて来た。
これは…もしかしなくてもお説教?
ああ、今ここでダースベイダーのテーマを流したらぴったりハマりそうだな、とちょっとズレた事を思ってしまった。
「ここじゃなんやから」
そう言って中澤さんは私達をどこかへ連れ出そうとする。
これは、怖い上級生に体育館裏に呼び出されるシチュエーションにそっくりだ。
嫌な予感。
- 127 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:17
- 数分後、私達4人はスタジオの廊下にやって来ていた。
そして…
「あんたら危機感が無さ過ぎるんやないの?」
開口一番にお叱りを受けてしまった。
「つんくさんも困ってたやろ。それやのにヘラヘラしてる場合やないやろ」
それは、仰る通りです中澤さん。
今日の歌の出来が良かったら中澤さんもこんな事言わないだろうし。
「そうそう、あんた」
そう言って中澤さんは今度は私をキッとねめつける。
「は、はい」
「明日香と何話してたん?」
あっちゃー。見られてたんだ。
いや、やましい事なんて何もないんだけど。
- 128 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:18
- 「明日香の件だけやない。スタッフにも、うちらの事誇張して告げ口したりとか、
ある事ない事吹き込んでたんちゃうよな」
「ちょっと、その言い方は…」
何か言いたげな矢口さんを抑えて、私はきっぱり否定する。
「そんな…とんでもないです。福田さんと音楽の話をしてました」
中澤さんの訝しげな表情から推測するに、どうやら先輩達の悪口を言っていたと勘違いされたようだ。
そりゃ、スパイまがいの事をしていると言われれば否定はできないけど。
でも、やっぱりまだ信用されていないんだと思うと、少し悲しかった。
- 129 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:19
- 「そ、ならええけど」
一応は納得してくれたようだ。
「はよ帰って今日の反省会でもしぃ」
これで全て用が済んだのか、中澤さんはふいと踵を返す。
「きょ、今日はありがとうございました…」
「お疲れ様でした」
中澤さんは私達の言葉も無視し、そのまますたすたと立ち去って行った。
石黒さんも怖いけど、中澤さんも威圧感が半端ない。
私達4人は、中澤さんの足音が聞こえなくなるまで、頭を上げる事ができなかった。
- 130 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:20
- ...
「なんなのあのババァ!感じ悪い!」
「ば、ババアって…真里さん」
「絵梨香はもっと怒っていいんだって!
あいつら絵梨香の事目の敵にしてるっぽいじゃん」
今夜も、二期メンバー全員が私と保田さんの部屋に集合していた。
ただ昨夜と違うのは、中澤さんに対しての愚痴を言い合っている点。
それにしても、24歳でババアって…。
私だって中身は27なんですけど。
- 131 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:21
- 「あームシャクシャする」
矢口さんは転がっていた枕を引っ掴んで、壁に思いっ切り投げつけた。
「ま、真里さん」
「皆もやろうよ。これ中澤だと思って。スカッとするよ」
そう言って矢口さんは枕を拾い、再度壁にぶつける。
「中澤ー!」
矢口さん以外の三人はその様子を唖然として見ていた。
しかし、何を思ったか市井さんが突然誘われるように、矢口さんの元へ近寄っていく。
そして…
「く、くそばばー!」
い、市井さん!?
最初は戸惑っていた市井さんも、矢口さんに続いて新たに枕を手に取り、掛け声とともに放る。
市井さん、目が据わってる。
あんなに気弱で泣き虫な市井さんが。
- 132 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:22
- 「っ…あの三十路!」
保田さんまで!!
ていうか、年齢ネタは何気に私までグサッとくる…。
「ほら、絵梨香もやろうよ!」
「や、あの…」
なんか、このまま見守るだけで終われるような雰囲気じゃないな。
ああ…中澤さん、ごめんなさい。
「バ…バカヤロー!」
私は心の中で中澤さんに詫びながら、手当たり次第枕を放り投げ始めた。
- 133 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:24
- 二期メンバーで枕投げ合戦に突入するのに、時間はかからなかった。
明日もまた彼女達と仕事だ。
また一悶着あるかもしれないけど、きっと近いうちに分かり合えるはず。
一期メンバーも、私達も、モーニング娘。を愛している事に変わりはないのだ。
今はお互い戸惑ってるだけで、きっといつかは。
明日香と言葉を交わせた事で、私はより強くそう信じる事ができるようになっていた。
- 134 名前:第7話 明日への絆 投稿日:2012/02/16(木) 02:24
- 第7話 明日への絆
了
- 135 名前:あおてん 投稿日:2012/02/16(木) 02:27
- >>114
ありがとうございます。
福田さん石黒さんをよく知らないんですがイメージを崩さないよう努力します。
- 136 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/02/16(木) 02:46
- 決して交わることのなかった二人が交わりましたね
これからどうなるんだろう…
- 137 名前:第7話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:35
- ...
「よし、オッケー!おつかれさん」
今日はレコーディング最終日。
コントロールルームから掛けられたつんくさんの声に、私達から安堵のため息が漏れた。
その言葉をずっと待っていた。
レコーディング中は橋本さんにこき下ろされたりしたけど、それも今思えば、
この瞬間の達成感を際立たせる為のスパイスだったように感じる。
- 138 名前:第7話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:36
- 「おまえら、迎えに行ってやって」
つんくさんが一期メンバーの人達にそう指示を出すと、
ぞろぞろと彼女達が私達のところへやって来た。
こうして5人と間近で視線を交わすのは初めてかもしれない。
そういえば、初めて顔合わせした日も握手すらしなかったもんね、私達。
「よう頑張ったな」
意外にも、中澤さんが保田さんの頭を撫でてあげている。
飯田さん、安倍さんはそれぞれ市井さん、矢口さんを。
一方で、石黒さんは少し離れたところで我関せず状態。
それでも私達の事をちらちらと見ていた。
やっぱり、なんだかんだ言って気になるんだろうな。
- 139 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:37
- 明日香は…
彼女は前に出る事はせず、後ろの方から私達を見守っていた。
私の視線に気が付くと、明日香は静かに頷いて見せてくれる。
明日香は私をかっこいいって言ってくれたけど、明日香の方がよっぽど大人でかっこいいよね。
この子と、もっと仲良くなりたいな。
確かに元の世界にいた時から彼女には興味があった。
だって、あの憧れのモーニング娘。のメインボーカルだった人だから。
そして正直、最初は明日香を一期と二期の隔たりをなくす為に
利用しようという思いも全くなかったわけじゃない。
でも、そんな理由は抜きにして、今は純粋に彼女と話をしてみたいと思うようになっていた。
近々、明日香と二期メンバーとプライベートで話す機会の場を設けたいな。
きっと、保田さん達も、明日香を好きになるはず。
そんな事を考えながら、私と明日香はしばし視線を交わし合っていた。
- 140 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:39
- ...
ダンスレッスン初日。
私達は今日から「サマーナイトタウン」の振り付けを
夏先生に教わる事になっている。
モーニング娘。の振り付け師といえば夏先生だもんね。
私も美勇伝時代に夏先生にお世話になった事がある。
あの頃は夏先生がスパルタ教育過ぎて、唯ちゃんと一緒にひいひい言ってたな。
それで梨華ちゃんに根性が無いって怒られて…ふふっ。
当時の懐かしさに浸っていた私だったけれど、目の前の光景にそんな気分は霧散した。
皆ピチピチのTシャツを着用しているから、胸が強調されているのだ。
今はこうしてストレッチをしているから、余計に目につく。
ドキッとするのは本当だけど、目がいってしまうのは別の理由もあった。
- 141 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:40
-
彼女達の胸をもう一度見て、ため息をひとつ。
当たり前なんだけど、13歳の体になってから、ちょっと胸がしぼんじゃったんだよね。
同時に、身長も縮んで現時点では保田さんと変わらないくらい。
「はあ」
私は自分の胸に手を当ててうなだれた。
この体が成長するのはいつになる事やら。
でもやっぱり今は胸より身長が大事。
保田さんの身長は追い越したいんだよな。
何より、保田さんに頼りなさそうに見られるのはやだし。
「…これからなるべく魚食べるか」
私は誰にも聞こえないほど小さな声で一人そう決意した。
- 142 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:41
-
「さ、皆集まって。始めるよ」
ストレッチが終わると、夏先生に招集され、9人が部屋の中央に2列に並ぶ。
もちろん私達二期メンバーはコーラスパートなので後列の方だ。
ほどなくしてダンスミュージックが流れる。
まずは体を慣らす為の簡単なリズムレッスン。
この音楽に合わせて、自由にリズムを取っていいとの事だ。
- 143 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:42
- 「あれ?」
私は踊り始めてから即座に違和感に気付いた。
今までの私とは明らかに違う。
体が軽い。
やっぱり13歳に戻ったからだろうか。
まるで鳥になって自由に空を舞っているような感覚。
多分体が若返ったせいだけじゃない。
今この瞬間、まさに元にいた世界の経験を活かせているからだ。
若さと長年積み重ねた経験が相乗効果となって表れたようだ。
- 144 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:42
- ふと我に返ると、メンバーが目を丸くして私の事を見ていた。
しまった。
あまりに楽しくて、完全に周りが見えてなかった。
その時、ぱちぱちと拍手する音がレッスンルームに響いた。
「すごーいすごーい、君じょうずー」
拍手の音を生み出していたのは飯田さんだった。
彼女はニコニコと笑いながら私の元へやって来る。
私が知っている飯田さんは妖艶で、近寄りがたいオーラを持っている人。
でも私の目の前にいるこの飯田さんは、まさに少女だった。
天真爛漫という言葉がぴったり合う。
相変わらずの長身だったけど、そのおかげで威圧感は感じなかった。
- 145 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:44
- 「ぜーったい昔からダンスやってたんでしょ?キレがあるもん」
「い、いやちょっとかじっただけです。SPEEDに憧れてて、よくダンス真似してたんで」
元いた世界でレッスンを受けていただなんて話せるわけがなく、
私は慌ててそれらしい理由を並べ立てる。
「SPEED?ぐうぜーん。圭織もオーディションで歌ったんだよ。
あのね、3度目のロックボーカリストオーディションでね…」
飯田さんは身振り手振りを交え一気にまくし立てて来る。
知ってますよ。
私はずっとASAYAN見てましたから。
- 146 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:44
- 「いいかげんにしなよ圭織!」
その時、そんな飯田さんを鋭く一喝する声が。
声の主は石黒さん。
「なによー彩っぺ、そんな怒る事ないじゃん」
飯田さんは口をへの字にして言い返していた。
涙目になっているのは気のせいだろうか。
ごめんなさい、飯田さん。
私のせいで飯田さんまでとばっちり受けてしまって。
- 147 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:45
- 「ちょっと、あんた」
石黒さんは飯田さんの体を押しやって、一気に距離を詰めて来た。
「は、はい」
眉間に皺が寄っている。
完全に機嫌を損ねているようだ。
「後列のくせに前列のうちらより目立とうとするつもり?」
「そ、そんなつもりは…」
もう、何なのこの人。
怖すぎる。
足を引っ張りたくなくて、少しでも追いつけるように張り切っていたのに。
どうもそれは逆効果だったみたい。
結果的に変に目立ってしまったところが、石黒さんの癇に障ったようだ。
- 148 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:46
- 「自分の立場分かってんの?
後列の勝手な行動で私達のモーニング娘。引っかき回されると困るんだけど」
やっぱり石黒さんは、まだモーニング娘。は5人だと思っているようだ。
そりゃ、一期の人達はCDを手売りして苦労してデビューしてるから、
あっさりとデビューできた私達とは一緒にされたくないのかもしれない。
でも…そこまで全否定されるとつらいな。
その時、ふと明日香と初めて交わした言葉を思い出した。
明日香は私に言ってくれた。
石黒さんの前でも動じずにいたところがかっこ良かったって。
そんな私を見て、明日香は興味を持ってくれた。
だったら、怯んじゃいけない。
- 149 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:47
- 「すみません、以後気をつけます。
私も、モーニング娘。をより良いものにしたいって思ってますから」
「口だけなら何とでも言えるけど。
正直今のあんた達はうちらにとって邪魔にしかならないんだから。
そこんとこ理解しといて」
石黒さんは忌々しそうに舌打ちをしながら、元の立ち位置に戻った。
やっぱり怖かった…。
まだ石黒さんにきつい事言われるのは慣れないな。
- 150 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:48
- 「そろそろレッスン再開するよ」
タイミング良く、夏先生が戻って来た。
さっきまでと場の雰囲気が変わっている事に夏先生も敏感に察したようだ。
戸惑いが顔に表れている。
「夏先生、始めて下さい」
それでも、中澤さんの促す声に、夏先生はスイッチを切り替えたようだ。
「新人だろうとビシバシいくからね」
ああ、これはスパルタ指導が始まるな。
私はどこか夏先生の言葉を他人事のように受け止めていた。
- 151 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:49
- ...
それからは散々だった。
「ぜんっぜんダメ!ダンスになってない」
「市井お前、邪魔になるだけならそこで見てろ!」
私達二期メンバーは「サマーナイトタウン」の振り付け指導を受けている最中。
傍から見れば、正直夏先生の指導は一方的に罵声を浴びせているように感じるかもしれない。
私の場合は、これは愛の鞭だと分かってるから、まだすんなりと受け入れられる。
でも免疫のない保田さん達に、いきなりこの洗礼はきついだろうな。
しかも一期メンバーの先輩達が見ている前で、だなんて。
- 152 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:49
- 特に市井さんはさっきから集中攻撃を受けて涙目になっている。
弱々しさを感じる背中。
なんだかそれがしおれた花を連想させて見てるこっちまで胸が痛んだ。
「が、頑張りますから…続けさせて下さい」
市井さんは息を切らせながら懸命に夏先生に訴えかけている。
そんな彼女を見ると頑張らなくていいよって言ってしまいそうになる。
それを口にしたら袋叩きに遭うだろうけど。
- 153 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:50
- 夏先生も、これ以上続けても何も生み出さないと判断したのだろう。
こめかみを押さえ、ため息を吐きながら私達を追い出そうとする。
「今日はもう解散。帰ってさっさと休め」
二期メンバーは暗い表情、そして重い足取りでこの場を去る事にした。
その時、石黒さんと目が合ってしまった。
反射的に身構える。
また何か言われるんじゃないかと思ったからだ。
頼むから今日はもう勘弁して下さい。
特に市井さんの心ゲージは0なんだから。
いや、既にマイナスになってるかもしれないんだから。
- 154 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:51
- 「…あれ?」
予想に反して、石黒さんはあっさりと私の前を素通りして行った。
さすがに疲れていたのか、今日はこれ以上何か言う気にはならなかったらしい。
「着替えましょうか」
私は正直ほっとしながら市井さんの肩を叩き、帰る支度を始めた。
- 155 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:52
- ホテルに帰ってからも、市井さん、保田さん、矢口さんの3人は意気消沈していた。
こういう時、私が励まさないといけないのに、掛けるべき言葉が見当たらない。
今日、保田さんがぽつりと言った事。
それが私の中でいつまでもくすぶっていた。
“絵梨香はすごいよ。SPEEDみたいになりたいって言葉通り、デビューが決まる前からちゃんと努力してたんだね。
それに比べて、私なんて…安室ちゃんに憧れてるって言っておいて、全然踊れもしないんだよ。
かっこ悪いよね…”
私のせいで、石黒さんから反感を買ってしまった。
それと同時に保田さん達を落ち込ませる事になってしまった。
全部私のせい。
そんな私が何か言っても、余計雰囲気を暗くさせてしまうかもしれない。
その可能性を考えると、アクションを起こす事ができない。
- 156 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:53
- 室内をうろうろしていると、携帯に着信が入った。
二期オーディションに合格してから、お父さんが持たせてくれたものだ。
お父さんからかな、と思って画面を覗くと、そこには予想もしない人物の名前が表示されていた。
明日香…!?
「も…もしもし」
私は思わず背筋を伸ばして電話に出ていた。
『もしもし?私。明日香』
初めての明日香からの電話。
緊張しないわけがない。
そう、さっきまで緊張していた。
でも少し低めの声を聴いた瞬間、なんだかほっとした。
何故だかはわからない。
明日香の声には多分、不思議な力があるんだろうな。
- 157 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:55
- 「ど、どうしたの?」
『今からホテル遊びに行ってもいい?』
一体どうしたんだろう。
確かに、先日隙を見て、明日香に携帯の番号と、滞在しているホテル先の住所を記した
メモを手渡してはいた。
でも、まさかこんなに早く遊びに来てくれるとは思わなかった。
「うん、いいよ。ちょうどどうやって時間潰せばいいか分からなくなってたとこだったんだ」
『よかった。1時間くらいで着くと思うから』
「うん、分かった。待ってるね」
- 158 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:56
- 通話を終えると、私は3人にコンビニ行ってきますとだけ伝えて、
大急ぎでお菓子と飲み物を調達しに行く事にした。
目当ての物を手に入れてロビーで待っていると、
1時間もしないうちに明日香が現れた。
「ごめんねーいきなり」
「ううん、嬉しいよ。ホテルにいても特にする事はないし」
「…また皆落ち込んでるの?」
明日香の言わんとしている事がすぐ理解できた。
レコーディングをしていた頃から、ほぼ毎日二期メンバーは怒られてばかりいる。
その度皆しょげてしまうものだから、ここ数日はバカ騒ぎできるような明るい雰囲気ではなかった。
「うん、まあ…」
もしかして、明日香はそれを気にかけてわざわざ様子を見に来てくれたんだろうか。
明日香は聡い子だから、きっとそうなんだと思う。
- 159 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:57
- 「狭いところだけど、入って入って」
「お邪魔します」
私は3人がいる部屋のドアを開け、明日香を先に入らせる。
相変わらず、そこには重い空気が立ちこめていた。
「あ、絵梨香おかえ…り」
「こんにちは」
思いがけない来客に3人の目が点になる。
「福田さん?!」
「あれ、絵梨香言ってなかったの?」
「うん」
だってサプライズを提供した方が、いい気分転換になると思ったから。
それにこういう時は、大人数でお菓子でも食べてワイワイやるのが一番だよね。
- 160 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:58
- 私は買って来たお菓子をテーブルの上に並べた。
「あっカントリーマアム!」
それを見て明日香が無邪気に笑う。
へえ、こういう顔もするんだ。
クールなイメージを抱いていた分、新しい発見をする度嬉しくなる。
私は明日香達をなかば強引にその周りに座らせ、人数分のジュースをコップに注ぐ。
「まーまー、一杯」
「あ、ありがと」
保田さん、市井さん、矢口さんはまだ状況を把握できていない様子だ。
まだ固まったまま明日香をまじまじと見つめている。
一方で、明日香は真っ先にお菓子の袋の封を破り、カントリーマアムをかじる。
「うんまっ」
「あはは、そりゃ良かった」
マイペースなところに関してはイメージ通りだな、と少しおかしかった。
「ほら、皆食べましょう」
そんな明日香の様子に皆和んだようで、各々が飲み物やお菓子に手を伸ばし始めた。
- 161 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/19(日) 23:59
- ...
何杯目かのジュースのおかわりをする頃には、
完全に明日香と私達の間には信頼関係が芽生えていた。
私以外の3人も、同じように彼女の事を“明日香”と呼ぶようになっていた。
明日香になら言っても問題ない、信用に値すると思い始めたのだろう。
さっきから主に矢口さんが、石黒さん達に関する愚痴をこぼしていた。
明日香はそれにふんふんと頷いている。
「明日香はどう思う?あの女が今日絵梨香に言った事私許せない!」
「うん、そう思うのも無理もないよ。
私もあの二人に怒られたら、なんでそんな事言われなきゃいけないのって思う時もあるから」
明日香でも怒られる事なんてあるんだ。
明日香はしっかりしてるから、大人達とも上手くやっていけそうな気がするのに。
- 162 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:00
- 「でも、あれでも落ち着いて来た方なんだよ。
最初は、つんくさんから追加メンバーの話を聞かされた時、
“入って来たら絶対に辞めさせてやる!”って暴れてた」
こ、怖っ。
穏やかじゃない話に、さすがに私の顔も引きつる。
「でも最近はちょっとは考え方が変わって来たって感じがするんだよね。
今日だって、グロさんの発言を後で裕ちゃんが嗜めてたから」
「え…そうなんだ…」
中澤さんが…。
だから帰り際には何も言って来なかったのかな。
- 163 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:00
- 「グロさんの事、あんまり嫌わないであげてね。
グロさんだって、本当は絵梨香達が憎くてしょうがなくてあんなにつらく当たってるわけじゃないと思うんだ」
「それは…私もそう思う」
レコーディング最終日、離れたところで私達を見る石黒さんの目に、憎悪の色はなかった。
むしろ、あれは私達を見守っていたのかもしれない。
多分、不器用な人なんじゃないかな。
そう思うと、あんなに怖いと思った石黒さんがなんだか可愛く思えて来た。
ほんの少し、だけど。
- 164 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:01
- ...
「そろそろ帰らないと」
明日香は腕時計を見ながらゆっくりと立ち上がる。
もうこんな時間か。
そうだよね、あんまり遅くなると家族の人もきっと心配する。
楽しい時間はあっと言う間だ。
「また遊びに来てもいい?」
「もちろんだよ」
私達が大きく頷くと、明日香は嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
- 165 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:02
- 私は明日香を見送る為にホテルの入り口までついていく。
空はすっかり闇色に染まっている。
「ここでいいよ」
そう言う明日香に、私は自分の上着をかけてあげた。
「これ着て帰って」
「え、いいよ、今日暑いし」
「そんな薄着だと襲われちゃうかもしれないじゃん」
明日香は一瞬驚いたような顔をした。
そして次の瞬間には何か言いたげに私をじっと見つめて来る。
- 166 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:03
- 「ん?何?」
「私をこんな女の子みたいに扱う人いなかったから、びっくりした。
絵梨香って女の子にすっごい甘いキザな男の子みたいだよ」
「明日香は女の子でしょ?もちろん私も」
そりゃ確かに私達二人はファッションといい髪型といい少年ちっくだけど、どちらも女の子である事には変わりない。
「それに普通女の子には優しくするもんでしょ?」
「そういう事言ってる時点で…まあ、せっかくの厚意は素直に受け取っとくよ」
そう言いながら明日香は私の上着を羽織る。
ただ、明日香には私の服は丈が長かったのか、袖や裾をだぼつかせている。
うわ、可愛い。
「じゃ、また明日ね。あと…ありがと。色々話せて嬉しかった」
手…じゃなくて袖口をひらひら振りながら、明日香は背を向けて歩き出す。
それの後ろ姿を見ると、胸が温かくなった。
- 167 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:05
- 「お礼を言うのはこっちだよ…」
だんだん小さくなる明日香の背中に向かって、私は一人呟いた。
明日香のおかげで、普段の私達に戻る事ができた。
もしも明日香がいなかったら、今日の事を明日も引き摺っていたかもしれない。
本当、感謝しなきゃ。
「うっ寒」
明日香の姿が見えなくなってもしばらく同じ場所に立っていたけれど、
いい加減体が冷えて来たので、私は保田さん達が待っている部屋へ戻る事にした。
- 168 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:06
- ...
保田さんと2人で1つのベッドに入り、明日香の事を話していた。
寝る前に今日起こった出来事を話し合うのが、近頃は日課になりつつある。
こんな風に保田さんの一番近くで、
共通の事を語り合える日が来るなんて、思いもしなかった。
- 169 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:07
- 「絵梨香と明日香があんなに仲良くなってたなんて知らなかったよ」
仲良くなったっていっても、ほんの数日前の事ですけどね。
「あの子ってクールそうに見えてたけど、すごく話しやすくていい子だよね」
保田さんは心底嬉しそうに笑いながら、私の頭を撫でてくれる。
やっぱり、二期メンバーとだけ固まっているのも不安だったんだろうな。
「初めて明日香と話した時相当勇気いったでしょ?
一期生に自分から話しかけるなんて私はできなかったもん。
絵梨香が勇気を出してくれたおかげで、私達も明日香と話せた。
明日香がいい子だって分かった。ありがとう」
「そんな…私はただ図々しいだけですよ」
- 170 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:08
- だって、私は知っていたから。
明日香が加入当時の二期メンバーに好意的だったという事実を。
だから強引にいく事ができた。
その事実を知らなかったら、私はきっと何もできなかった。
もしも…過去の何も知らない私が、もしも二期メンバーとしてあの時合格していたら…
多分やっていく事はできなかったかもしれない。
随分と遠回りして来たけど、大人としての年齢を経てから
この時代にタイムスリップしたのは、幸運だったと言える。
- 171 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:09
- 「ふふ…絵梨香だったら娘。だけじゃなくて、他の芸能人の友達たくさん作れそうだね」
それは保田さんでしょう、と危うく言いそうになり、慌てて口を押さえる。
いけない、いけない。
2012年にいた頃の感覚がまだ完全には抜け切っていない。
元の時代の保田さんは社交的な人で、数え切れないほどの多くの人と交流を深めていた。
だから、私は自分から積極的に保田さんに近づけなかったんだよね。
私なんて、保田さんにとってはその他大勢なんじゃないかって…思い知るのが怖かったから。
でも、この保田さんがこうして心を開いているのは、
現段階では私達同期メンバーと、明日香ぐらいじゃないだろうか。
それが嬉しいだなんて思ってしまう私は、間違ってるかもしれない。
でも、許されるなら、少しでも保田さんには私を見ていて欲しかった。
- 172 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:10
- 「保田さん…」
「ねえ、そろそろその保田さんっていうのやめない?」
「え?」
「だって同期じゃない。下の名前で呼んで欲しいな」
確かにこれから一緒に何年もやっていくのに、ずっと保田さんのままもまずいかな。
「そうですね…」
- 173 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:11
- 私は顎に手を当てて考え込む。
うーん。
何て呼べばいいんだろう。
圭ちゃん?
普通だな。
じゃあ圭姉ちゃん?
いやいや、それだと一生私を妹のような存在としてしか見てくれないかもしれない。
奇をてらって圭様?
さすがにびっくりしちゃうか。
呼び捨てにするわけにいかないし…ていうかできない。
無難に圭さんにしようかな。
まだこの世界の圭さんとは知り合って半月程度しか経ってないし、
あんまり馴れ馴れしくするのも考えものだ。
- 174 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:12
- 「じゃあ、圭さんって呼んでいいですか?」
そう言って保田さんの方へ視線を戻すと…
保田さんは瞼を閉じて寝入っている様子だった。
「なんだよもう…」
私はがっくりと脱力した。
お約束過ぎる。
試しに、保田さん…いや、圭さんの長い髪を指に巻きつけて遊んでみたけれど、
起きる気配はなかった。
本当、圭さんって寝つきいいよね。
話の途中で寝てしまうところも可愛い。
それだけ安心してくれてるんだよね。
私との時間に。
「おやすみなさい、圭さん」
- 175 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:12
- 私は指先で圭さんの唇をなぞる。
今はそれだけで精一杯。
でも、充分満たされていた。
もうすぐ春が終わる。
これから「サマーナイトタウン」のプロモーションに向けてどんどん忙しくなるんだろうな。
そして本当の夏がやって来る。
私達は、この世界はどうなっていくのかな。
1998年の夏は、様々な意味で熱くなりそうな予感がした。
- 176 名前:第8話 夏隣 投稿日:2012/02/20(月) 00:13
- 第8話 夏隣
了
- 177 名前:みおん 投稿日:2012/02/20(月) 00:16
- 北海道といえば魚がおいしいからみーよも色々食べるのかなw
みーよが紳士wいや淑女w
関係の変化が面白いですね
- 178 名前:あおてん 投稿日:2012/02/20(月) 00:17
- 137、138が第7話になってますが第8話です
>>136
ありがとうございます!
当時に詳しくないので四苦八苦してますが古参の人も楽しめるように努めます。
- 179 名前:あおてん 投稿日:2012/02/20(月) 00:21
- >>177
いつもありがとうございます!
みーよは変態という名の紳士or淑女だよ!
- 180 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/02/23(木) 20:13
- 某所で話題になってるので来ました。
面白そうな設定なので楽しみです。
- 181 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:10
- 「サマーナイトタウン」PVの撮影場所に選ばれたのは、沖縄だった。
光沢を放ちながら揺れるマリンブルーの海面は、青空と融合するようで、
眺めているだけで心が洗われる。
仕事とはいえ圭さん達とこの場所に来られたのが嬉しい。
私はPV監督に指示された通りに海辺に佇み、曲に合わせて歌を口ずさむ。
二期メンバーが担当しているダンスも、数日間の夏先生の厳しい
レッスンのおかげで無事習得できた。
PVが完成すれば、「サマーナイトタウン」の販促イベントが待っている。
夏が来る頃には、一期と二期は本当のモーニング娘。になれるんだろうか。
そんな事を考えながら、私はPV撮影に臨んだ。
- 182 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:11
- ...
何度か休憩を交えながら一定のシーンまで撮り終えると、辺りは薄暗くなっていた。
「あれ?明日香は?」
いつの間にか、明日香の姿が忽然と消えていた。
周囲にいたスタッフさんに、彼女の居場所を訊いてみる。
話によると、明日香は散歩して来ると言って、ふらりとどこかへ行ってしまったらしい。
私は圭さん達に先にホテルに帰っていて欲しいと伝え、明日香を探しに行く事にした。
- 183 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:12
- しばらく辺りを歩いているうちに、ふと目に付いたのが
ごつごつとした形の岩が連なる岩場だった。
私はその鋭い岩肌に服を引っ掛けないように気をつけながら、岩場の奥へと足を踏み入れる。
たどたどしい足取りで進んで行くと、見覚えのある後ろ姿が目に飛び込んできた。
でも、その後ろ姿は明日香のものではなかった。
今、私が最も絡みづらいと思っている人。
「…石黒さん…」
- 184 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:13
- どうして一人でこんなところにいるんだろう。
思い切って声を掛けようか。
無視される可能性の方が高いけど。
逡巡していると、直後に石黒さんが携帯を片手に、
誰かと話をしている声が聞こえて来た。
「どうして?私毎日こうして電話してるじゃん!何が不満なの!?」
ただならぬ様子に、私の足はその場で止まってしまう。
「彩は芸能人だから、って…何なのそれ?
私が芸能人になったからって何が変わるっていうの?」
石黒さんの声は怒りに満ちたものじゃない。
弱々しくて、語尾が震えている。
- 185 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:14
- 「やめてよ!そんな、別れたいなんて…」
その決定的な言葉で確信した。
薄々分かってはいたけれど、石黒さんは、恋人と話してるんだ。
それも、今別れ話を切り出されている。
「待ってよっ待っ…」
石黒さんの制止の声もむなしく、電話を切られてしまったようだ。
彼女は耳から携帯を離して、しばらくの間呆然とそれを見つめていた。
- 186 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:15
- 見てはいけないものを見てしまった。
ダメだ。
とてもじゃないけど声を掛けられる雰囲気じゃない。
今石黒さんと顔を合わせて平然といられる自信がない。
そっとしておいてあげないと。
私が踵を返そうとした時だった。
じゃり。
砂を踏みしめた音が、思ったよりも大きく響いてしまう。
それは白く細やかな砂浜を歩いていた時のように、
控えめで小気味の良い音ではなかった。
- 187 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:15
- 「!」
石黒さんがはっとしたようにこちらを振り返る。
その瞬間、心臓が止まったような気がした。
終わった。
もう、石黒さんと仲良くするなんて絶対できそうにない。
だって、他でもない自分がそのわずかな可能性も潰してしまった。
こんなところを見てしまった私に、石黒さんが心を開いてくれるわけがないじゃないか。
この重い空気をどうにかしようと思っていても、声が出ない。
足も動かない。
息が…できない。
そんな私の金縛りを解いたのは、石黒さんの意外な一言だった。
- 188 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:17
- 「つっ立ってないないでこっち来れば?」
「え…?」
おそるおそる石黒さんの顔を見ると、彼女は拍子抜けするほどに平然としていた。
てっきり八つ当たりされるか、このまま立ち去られるかと思ったのに。
「は、はい」
一体どういう風の吹き回しだろう。
そうは思っても、いつまでもこのままではいられないので、
私はこわごわと彼女の元へと向かった。
- 189 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:17
- 石黒さんの側に寄っても、彼女と私の視線が交わる事はなかった。
ただ、石黒さんは黙って眼前に広がる暗い海を眺めている。
あんまり夜の潮風に当たるのは良くないと思うんだけどな。
でも、私も何も言わず、彼女と同じ風景を見つめる。
どのくらいそうしていただろう。
何故だかわからないけど、だんだんと心が落ち着いていく自分がいた。
波の音が、私達のわだかまりを遠くまでさらって行ってくれるような気がした。
- 190 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:18
- その時、石黒さんがようやく口を開いた。
「さっきの、聞いてたんでしょ?」
「はい…すみません」
反射的に謝ってしまったけど、石黒さんは特に責めている様子もなかった。
「これから話す事はひとり言だから。
あんたは別に気にしなくてもいい」
「?」
石黒さんの言わんとしている事が理解できず首をかしげてしまう。
そんな私に構わず、彼女は言葉を続ける。
- 191 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:19
- 「さっきの電話の相手は、私の彼女。
違うな、私の彼女だった子、か」
彼女…
その言葉を聞いた瞬間、あれだけ気になっていた波の音が消えた。
「
短大時代に知り合って、すぐに仲良くなった。
地元でバンドやってた頃も応援してくれてて、娘。のデビューが決まった時、凄く喜んでくれた」
衝撃的な石黒さんの告白に驚いたわけじゃない。
私は既に彼女の話に魅了されていたのだ。
「…でも本当は、違ったのかもね。あの子、きっと内心では複雑だったんだよ。
彩は芸能界に入って変わった。彩が遠い存在に感じるようになったって、
さっき言われちゃった」
石黒さんは潮風になびく髪をそっと押さえながら、相変わらず遠くを見ている。
その横顔が、とても綺麗だと思ってしまった。
- 192 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:20
- 「あの子は、芸能人と一般人の壁も感じてたみたい。
でもそれだけじゃない。北海道と東京って遠いもんね。
飛行機じゃ1時間程度の距離だけど。
離れていると、どうしても心が揺らいじゃって、相手を信じられなくなっちゃうのかもね。
寂しさに負けちゃうんだと思う」
その言葉を聞いて、胸の奥が鈍く痛んだ。
無意識のうちに、あの人の姿を思い浮かべてしまっていた。
保田さん…。
そう、この世界の“圭さん”ではなく、2012年にいる“保田さん”の姿を。
- 193 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:20
- いつも私をみーよと呼んで、優しく接してくれた。
私と離れる事を悲しんでくれた。
涙を浮かべてくれた。
けれど、そんな保田さんに私は何も伝える事ができなかった。
保田さんを東京に残し、全てから目を背けるように故郷に逃げ帰った。
北海道にいた頃、私はそれを随分と悔いたものだった。
保田さんのメモリを呼び出し、何度も電話をかけようとした。
でも、その勇気すらなかった。
何もできないくせに、後悔するだけの日々を送っていた。
- 194 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:21
- 2012年の世界は今どうなっているんだろう。
もしも消滅していなかったとしたら、保田さんはまだ私を覚えていてくれているのかな?
北海道にいるはずの2012年の私に、会いたいと思っていてくれているんだろうか。
東京で、再会する時を待っていてくれている?
でも、その彼女は、もう私の手には届かない。
今の私は、この世界の“圭さん”といる為にここに存在しているから。
- 195 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:22
- 「ズルズル今日まで続いてたけど、本当は、
私があの子を置いて芸能界に入った時点で…もう関係は終わってたんだろうね。
いつ別れが来るのかってずっと怯えてた…
でも、いざこの時を迎えたらほっとした」
そう言う石黒さんの顔はどこかすっきりとしていた。
でも…
ほっとした…
その言葉だけはやけに重く響いてくる。
- 196 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:22
- 「ていうか、こんな話聞いてもあんたは驚かないんだね」
「石黒さんと全く同じ状況ではないですけど…
私も、好きな人を残して遠くまで来ちゃいましたから」
「それって男?」
「女性です。石黒さんみたいに交際してたわけじゃないですけど、本当に大好きでした」
何気ない私の発言に、石黒さんが目を丸くしている。
私は“保田さん”の残像を振り切るように、石黒さんの手を取った。
「そろそろホテルに戻りましょう。体が冷えますよ」
振り払われるかと思ったけど、石黒さんは私に手を引かれるまま後をついて来た。
- 197 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:23
- 「…もう少し、ゆっくり歩いて」
しばらくして、ぽつりと背後から投げかけられた石黒さんの声に、
ようやく私は我に返る。
「すみません」
今度はゆっくりと、砂を踏み固めるように、砂浜の上を歩いて行く。
言われてみれば、石黒さんの足元はどこかふらついているように感じた。
やっぱり、気丈に振舞ってはいるけど、辛いんだろうな。
いや、辛くないはずがない。
でも、私なんかが今の石黒さんの心を軽くするなんてできない事は分かっていた。
だからせめて、石黒さんの冷えた手を温めるようにぎゅっと握りしめた。
- 198 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:24
- たとえどれだけ離れていても、決して揺らがない…
そんな愛を貫く事は、難しい事なのかな。
2012年の私が、“保田さん”ともしも心を通わせる事ができていたとしても…
結局は、石黒さん達のような終わりが待っていたのかな。
そんな栓の無い事を、ホテルに着くまでずっと考えていた。
- 199 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:24
- ...
石黒さんを部屋に送り届けてから自分の部屋に戻ると、明日香と保田さん達がいた。
「あ、絵梨香おそいぞー!」
そうだった。
元はと言えば、私は明日香を探すつもりでいたんだよね。
「明日香、どこ行ってたの?」
「え?一人でちょっと海見てすぐにホテルに戻って来たよ」
「そ、そうだったんだ…」
途中で入れ違いになっちゃったのか。
- 200 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:25
- 「絵梨香こそどこ行ってたのよ。あんまり心配させないでよね」
圭さんが私の手を優しく握る。
彼女の温もりがじわりと冷えた指先に伝わって、何故だか泣きそうになった。
「どうしたの?」
「なんでもないです。ごめんなさい、心配かけて」
そう言って私は圭さんの肩にもたれかかった。
「ふふ、絵梨香ったら甘えんぼ」
圭さんは嬉しそうに笑って私の頭を撫でてくれる。
彼女に妹のようにしか見てもらえなくても、今だけは素直に甘えたかった。
この温もりこそが、私にとっての真実なんだ。
もう、絶対にこの人から離れない。
私は心の中で、そう誓いを立てた。
- 201 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:26
- ...
翌朝、ホテルのロビーで私達はちょっとした撮影会をしていた。
プロのカメラマンはいない。
撮っているのは私達メンバーのみ。
そして使っているカメラもインスタントカメラと、完全なプライベート撮影だ。
初めて一期メンバーと対面し、ジャケット撮影した時からは
考えられないほど、和気藹々とした空間。
「ほら、撮るで」
中澤さんがごく自然に私の腕を引く。
中澤さんや石黒さんはほんの少し優しくなったような気がする。
特に石黒さんは、昨日の一件があってから、私達二期メンバーを見る目が変わったような。
- 202 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:26
- 「あっあの…一緒に撮ってもらえるかな?」
圭さんは緊張した面持ちで安倍さんにツーショットを頼んでいた。
安倍さんは最初こそ二期の私達を怖がっていたけれど、
あまりに低姿勢な保田さんに思わず笑みをこぼしていた。
「そんなに固くならなくてもいいよお。保田さん私より年上っしょ?」
その様子を、私は微笑ましく見ていた。
ほんの少しずつだけど、私達の関係は変わりつつある。
- 203 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:28
- 一通り写真を撮り終えると、石黒さんが私の方に近寄って来た。
そして、私以外には聞こえないほど小さな声で耳打ちする。
「東京戻ったら、携帯変えるつもりでいるんだよね。
彼女との思い出全部消す為に。私、もう後ろ振り向かないからさ」
そっか…石黒さん、引きずらずにもう前を向こうとしてるんだ。
すごいな。
それを、わざわざ私に報告してくれてくれた事が嬉しい。
そう思った次の瞬間、信じられない言葉が私の耳に届いて来た。
「だから、新しい携帯買ったら、絵梨香達の番号も教えてよ」
- 204 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:29
- 「え…っ」
今、初めて私の名前…
ゆっくりと顔を上げた時には、
石黒さんはあっさりと離れ、中澤さん達の元へと戻ってしまっていた。
ただの気まぐれなのかもしれない。
沖縄という地で、開放的になっただけなのかもしれない。
でも、私は素直にこの世界で起こる変化を受け入れたいと思っていた。
- 205 名前:第9話 揺るぎない想い 投稿日:2012/02/23(木) 23:29
- 第9話 揺るぎない想い
了
- 206 名前:あおてん 投稿日:2012/02/23(木) 23:30
- >>180
ありがとうございます。
設定を生かしきれるか不安ですが、見守って下さい!
- 207 名前:あおてん 投稿日:2012/02/24(金) 00:06
- しまった
>>202の4行目は保田さん→圭さんに訂正します
- 208 名前:あおてん 投稿日:2012/02/24(金) 01:08
- 更に間違えた…
>>188
「つっ立ってないでこっち来れば?」です
注意力散漫ですみませんorz
- 209 名前:みおん 投稿日:2012/02/24(金) 20:36
- 更新きてたぁー
- 210 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:34
-
不思議な夢を見た。
27歳の三好絵梨香が、あの桜の木の下で佇んでいる夢。
何か言うでもなく、そこから、微動だにせずじっと私を見ている。
優しい目で。
どこか嬉しそうに。
ただ、それだけ。
でも、その笑顔は強く私の胸を打った。
夢だと分かっていても、惹きつけられた。
目覚めてからも、私はその夢の残滓を惜しんでいた。
- 211 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:39
- ...
私は今ベッドの中にいる。
隣に圭さんはいない。
ここは、ホテルではなく実家で、私の部屋だから。
そう、久し振りに私は地元へと戻って来ていた。
このオフを使い、転校手続きだけでなく、地元で馴染みのある人達とのお別れの挨拶も、
きちんと済ませるつもりだった。
ぼんやりとしていた意識がはっきりとして来ると、私は上半身を起こした。
「もう一回、行ってみるかな」
あの場所へ。
用事に取りかかる前に。
オフが終わり、東京に戻る前に一度見ておきたかった。
- 212 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:39
- ...
私は再びここへやって来た。
全てが始まったこの場所へ。
ちょうど今は、二度目のタイムスリップを試みようとした時と
ほぼ同じ時刻だった。
例の桜は、既に満開のピークを過ぎてしまったんだろう。
少し葉桜が見えている。
それでも、時折はらりと舞い降りる薄桃色の花びらは、幻想的な雰囲気を醸し出している。
私は何気なく幹に手を添えた。
- 213 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:40
- 「もう二度と戻れない世界、か」
私は2012年から、1998年の4月10日にやって来た。
13歳の三好絵梨香の精神は、27歳のこの私の精神に上書きされてしまったんだろう。
同時に、過去の私が1998年から2012年まで辿った軌跡はなかった事になった?
という事は、2012年の世界は消滅したと考えるのが妥当だ。
だから、あの時私はタイムスリップに失敗したんだ。
でも、何故か腑に落ちない。
今朝の夢を引きずっているわけじゃない、けど。
もう一人の私がまだ2012年の世界にいるんじゃないかって、未だにそう思えてならない。
- 214 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:41
- 「…えっ?」
気付けば、景色が変わっていた。
さっきまで私を魅了していた見事な桜は見る影もなかった。
私の手に舞い降りて来たのは、花びらではなくて…
「雪?」
辺りを覆う木々は、うっすらと白い雪をまとっていた。
「もしかして…」
またタイムスリップした?
戻りたいなんて念じた覚えはないのに。
- 215 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:42
- とっさに腕時計を確認してみる。
「あれ?」
私の手首に巻かれている腕時計は、ついさっきまで
身に着けていたデザインの物とは違っていた。
でも、この腕時計には見覚えがある。
元の世界で、私が愛用していたものだ。
そう、27歳の三好絵梨香が着けていた腕時計。
じゃあ、この体は27歳の私?
一度目の時もそうだったけど、身に着けている物が
タイムスリップする前と変わっている。
という事は、肉体が若返ったり成長したりと、
臨機応変に対応しているわけじゃないらしい。
きっと精神だけが移っているんだ。
13歳の私の体は、1998年の世界に置いて来たままなのだろう。
- 216 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:43
- 「まずい…!」
すぐにでも1998年の世界に帰らないと。
最初はそう思っていた。
でも、寸前で思いとどまった。
このまま戻ってもいいの?
私は知らなければいけないんじゃないの?
何が起こっているのか。
「…っまた、戻れるよね?」
そう信じて、私は急いで実家に向かう事にした。
既に懐かしく感じている2012年の世界。
もうそれは私の知っている世界じゃないのかもしれない。
でも、この目で確かめるんだ。
戻るのはそれからだ。
そうじゃないと、私はきっと後悔する。
- 217 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:43
- ...
家に帰り着くと、誰もいなかった。
私は真っ先に自分の部屋を目指し、階段を駆け上がる。
「やっぱり…」
部屋の内装は2012年のものだった。
薄型のPC、iPod、置いてある電化製品も1998年にはない物だ。
「ちょっと、調べてみようか」
当たり前だけど、電気は生きている。
バッテリーが切れているわけでもないようだった。
私は早速PCを起動してみる事にした。
- 218 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:45
- ...
「…ウソ」
モニターに表示されている日付を見て驚愕した。
“2012/3/2”
「3月って…」
確か、2012年の2月10日、私は初めてタイムスリップした。
その証拠に、その時札幌では雪が降っていた。
そしてついさっきタイムスリップをする直前、
1998年の世界では5月1日だった。
タイムスリップという不思議な体験をしてから、毎日欠かさず日付を
チェックしていたから間違いない。
1998年の世界にタイムスリップしてから、私はそこで
ちょうど3週間の時を過ごしている。
4月10日から5月1日にかけて。
つまり、2012年の世界も、同じように時を刻んでいたのだ。
そう、ちょうど3週間分。
- 219 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:45
- この3週間、1998年の世界で…
私は13歳として17歳の圭さんと出会い、
モーニング娘。の新メンバーとして活動していた。
じゃあ、27歳の私は一体どうしていたのだろう?
空白の3週間。
私はその謎を知る為に、自分のブログにアクセスしてみる事にした。
1998年に行って、私はモーニング娘。のメンバーになった。
歴史を変えてしまった。
だから、何かしらこの世界にも影響があるはずなのだ。
- 220 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:46
- ...
2月10日以降も、ブログは更新されていた。
更新頻度は極端に減ってはいたけれど。
確かに三好絵梨香のページに何者かがアクセスして記事を書いていた。
そこには、フットサルの選手として、札幌を拠点にやっていくとの事が。
そして、画面をスクロールすると、覚えのない画像がある。
こちらに向かって笑いかけている女性。
これは誰?
…どこからどう見ても、私だ。
それ以外に答えようがない。
27歳の三好絵梨香。
あなたはモーニング娘。のOGになっているんじゃないの?
どうして地元でそんな事をしているの?
- 221 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:47
- 私はいてもたってもいられず、インターネットである事を調べる始める事にした。
確認せずにはいられなかった。
「ウソ…どうして?」
愕然とした。
「どうして私の名前がないの?」
“モーニング娘。歴代メンバー
二期メンバー
・保田圭
・矢口真里
・市井紗耶香”
- 222 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:48
- 何度検索をかけても、同じ結果しか出て来ない。
膨大な数のサイトを片っ端から開いてみても、三好絵梨香が
モーニング娘。の二期メンバーであるという事実は、どこにも残っていなかった。
「そんな、だって、私は確かに…」
9人でサマーナイトタウンのレコーディングをした。
PVだって沖縄で撮ったばかりだ。
決して交わるはずのなかった市井さん、明日香、石黒さんとも、
あんなにしっかりと言葉を交わした。
圭さんのあどけない寝顔だって、温もりだって…
今も覚えている。
夢なわけがない。
- 223 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:48
- そう思ってはいても、私はしばらくその場を動けないでいた。
時間が経つにつれ、ようやく冷静さが戻って来る。
「この世界には、何も影響は及んでない…」
じゃあ、私がモーニング娘。の二期メンバーとなった
1998年の世界は一体何なんだろう。
もしも、夢じゃないと考えてみるとすれば、あの世界は何?
「あれは、過去じゃない…?」
私は過去にタイムスリップしていたものだとばかり思っていた。
でも、もしかしたら必ずしもそうじゃないのかもしれない。
あの世界は…一体…
- 224 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:49
- 同時に、気になる事がある。
私は生まれてから2012年の2月10日まで、ここでずっと生きて来た。
おぼろげな部分もあるけど、それまでの記憶だってちゃんとある。
そして、この世界で言う2月10日から3月2日までの間、
私はここではない別の世界にいた。
じゃあ、この場所で2012年の2月10日から3月2日まで
暮らしていた27歳の三好絵梨香は、一体何者なのだろうか。
今、27歳の三好絵梨香の体は私のものだ。
でも、空白の3週間、“私”ではないもう一人の“私”が
27歳の三好絵梨香として、ここで暮らしていたのだ。
この部屋は生活感がある。
今は誰もいないけど、人が住んでいる事は間違いない。
- 225 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:50
- 上着のポケットを探ると、携帯が出てきた。
1998年の型のようにアンテナは付いておらず、スライド式の物。
まずはメールをチェックする。
親友ののりちゃん、唯ちゃんからのメールが複数届いていた。
“絵梨香ちゃん札幌での生活はどう?”
“絵梨香ちゃんがいないと寂しいよ”
- 226 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:50
- 「のりちゃん…唯ちゃん」
残して来たのは、“保田さん”だけじゃない。
1998年の世界には、彼女達はいないんだ。
日本のどこかにはいるはずなんだけど、まだ出会えてすらいない。
再び出会える保証もない。
本当に欲しいものを手に入れる為には、代償はつきものだ。
分かってはいるけど、胸がぎゅっとなる。
- 227 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:51
- メールの送信ボックスを確認すると、2月10日以降も、
予想通りのりちゃんや唯ちゃん達にメールの返信をしていた。
もう一人の“私”が。
文末を飾っているのは、私がよく使っていた絵文字や顔文字ばかり。
全くの赤の他人がここまで忠実に再現できると思えない。
そもそも、私の名前を騙る事に何かメリットがあるんだろうか。
考えてみても、そんなものあると思えない。
だとすれば、やっぱり私がもう一人いる…?
再度受信ボックスを開き、過去のメールを遡っていく。
しばらくそれを続けていくと、保護をかけている一通のメールがあった。
何気なく開いてみると、衝撃的な文字が飛び込んで来た。
- 228 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:52
- 「保田さん…」
そう、それは保田さんからのメールだった。
“From:保田さん
久し振りに電話くれて嬉しかったよ。
私もずっと会いたかった。
もしも、また会える時が来たら、みーよに話したい事がある。
ずっと、考えてた事。
いつでも待ってるから、みーよの都合のいい時を教えて欲しいな。”
- 229 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:53
- 「…っ」
私はそのまま携帯をポケットにしまい込んだ。
“私”に宛てられたメールじゃないのに、鼓動が跳ね上がる。
もう一人の私は、保田さんと再び接触を図ろうとしている?
何故今になって?
同一人物のはずなのに、この世界の私の考えている事がよく分からない。
何か…何かないだろうか。
この空白の期間にもう一人の私がいたという確固たる証拠が。
そして、彼女の内面に触れられるものが。
- 230 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:54
- それを見付け出すのにそれほど時間はかからなかった。
いかにも、見て下さいと言わんばかりの場所に
見慣れない日記が置いてあった。
迷わず開いてみる。
それには、1日も休まずその日感じた事が綴られている。
確かに、私の字だった…。
日記は、タイムスリップした日の翌日から始まっていた。
- 231 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:54
- ...
2012年2月11日
昨日の夜妙な夢を見た。
でも、悪くない夢だった。
だから、記念にここに内容を書き留めておこうと思う。
私が1998年にタイムスリップする夢。
しかも、娘。の一次追加オーディションの二次審査前に。
いくらなんでもタイミングが良過ぎてちょっとおかしかった。
戻りたいって思ったからあんな夢を見たのかな。
- 232 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:55
- 2月12日
あの夢の続きを見た。
タイムスリップして混乱している私の様子が手に取るように分かった。
もう一人の絵梨香が感じた事、見た事、聞いた事、全てが。
なんだか怖いほどにリアルだった。
2月13日
連日例の夢を見る。
そのせいで最近眠る事が楽しみになってしまった。
せめて、保田さんに会える場面まで、続けて夢を見られるといいな。
- 233 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:55
- 2月14日
バレンタイン。
特に予定はない。
でも、昨日素敵な夢を見たおかげで、幸せな気分で1日を過ごせると思う。
17歳の保田さんに、オーディション会場で出会う夢だった。
保田さんが初々しくて可愛くて、起きてからもドキドキしてしまっていた。
:
:
- 234 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:56
- 2月20日
13歳の私が、二期メンバーとして選ばれた。
もちろん夢の話だけど。
それでも、本当に嬉しい。
良かったねって言って抱きしめてあげたかった。
私の分まで、夢を叶えて欲しい。
もう一人の絵梨香には、幸せになって欲しい。
ただ、気になる点があった。
絵梨香は、元いた2012年の世界の事をしきりに気にしていた。
そして、あの場所へと赴いて、2012年の世界に戻ろうとしていた。
結局は失敗してしまったけれど。
なんだか、ただの夢で片づけるにはリアル過ぎる気がする。
- 235 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:57
- 2月21日
もしかして、本当にもう一人の絵梨香は98年に
タイムスリップしてしまったのかもしれない。
でも、いくら調べてみても私がモーニング娘。に
在籍していたという記録は出て来ない。
今の私が大した肩書きもない元ハロプロメンバーだという事実は変わらない。
だとすれば、あれはやっぱり単なる夢だ。
でも、なんだか腑に落ちない。
少し、夢という概念や、あの場所について調べてみる必要があるかもしれない。
これから時間がある時はあの場所に通ってみよう。
- 236 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:58
- 2月22日
13歳の絵梨香は早々に試練に直面したようだ。
夢の中でも、上手くはいかないものなんだなあ。
ううん、あれは単なる夢の中の話じゃないのかもしれない。
近頃そう感じている私がいる。
夢を見る時、人間は意識だけが異界に飛ばされているという説があるらしい。
もしかしたら、それに似た状況なのかもしれない。
2月10日に三好絵梨香の精神は、アメーバのように
2つに分裂したのかもしれない。
そしてそのうちの1つが、1998年にいる13歳の三好絵梨香の肉体に憑依し、
元の精神を上書きした…。
考えられなくもない。
13歳の三好絵梨香は、2012年2月10日までの記憶は
私と同等に持っていたのだから。
何がきっかけなのかは分からないけど。
やっぱり、あの場所が無関係だとはもう思えない。
それに桜の木があるあの場所は、聞いた話ではいわくつきの場所らしい。
確かに、あそこは言葉では言い表せないような空気に満ちている場所だ。
だから、何が起こっても不思議じゃないんじゃないかって思えて来た。
- 237 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/24(金) 23:59
- :
:
2月29日
石黒さんとも打ち解け合えたみたいで本当にほっとした。
9人の「サマーナイトタウン」はきっと素敵な作品になるはず。
私も、もう一人の絵梨香のように、石黒さんのように強くなりたい。
私は、絵梨香に全てを委ねていた。
代わりに幸せになって欲しいって思ってた。
でも、私も前を向かないとダメだよね。
この現実で生きていかないと。
幸せになる努力をしないと。
だから、思い切って保田さんに連絡してみようと思う。
今までずっと逃げて来た。
でも、たとえ迷惑がられたって、何も生み出さなくたって、もう怖がったりしない。
背中を押してくれた絵梨香に、心から感謝したい。
- 238 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:00
- :
:
3月1日
例の場所について新たに分かった事がある。
あの桜の木は、“いざないの桜”と呼ばれていたらしい。
昔は神隠しの噂があったり、あの場所へ行った人の性格が突然豹変したりと、
おかしな事ばかり起こったらしい。
だから、異界への入り口だと恐れられ、誰も近寄らなかったと聞く。
異界…
あながち間違いじゃないのかもしれない。
13歳の絵梨香がいるあの世界は、やっぱり過去ではなく異界なんだろうか。
- 239 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:01
- 3月2日
絵梨香に数日間のオフが与えられたようだ。
そのオフを利用して一度帰郷するらしい。
絵梨香の事だ。
もしかしたら2012年がどうなっているのか、
また確かめてみようとしているのかもしれない。
98年の絵梨香は、私のように特殊な夢を見る事はないみたいだ。
だとしたら、気になるのは仕方がないと思う。
私だけが、もう一人の絵梨香について知っているなんて不公平だよね。
とりあえず、私もいざないの桜の木へ行く回数を増やしてみよう。
一日中いるのはさすがに無理だから、
一度目にタイムスリップした時間帯と、二度目に絵梨香がタイムスリップしようとしていた時間帯に
合わせて行ってみるつもりだ。
運が良ければもう一人の絵梨香と接触できるかもしれない。
- 240 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:02
- 「…」
日記はそこで終わっていた。
おそらく3月2日の分は、朝方にこの世界の絵梨香が書いたのだろう。
これは、私だ。
三好絵梨香だ。
疑う余地もない。
ずっと、モーニング娘。になりたかった。
そして、変わらずに保田さんを想い続けていた三好絵梨香。
- 241 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:02
- そういえば、この日記を書いたもう一人の絵梨香の精神はどこに行ってしまったんだろう。
「まさか…」
今、98年の三好絵梨香の肉体に憑依しているのだろうか。
それしか考えられない。
「早く戻らないと!」
もう一人の絵梨香は、2012年の世界で生きていくと決意していた。
彼女は過去に戻りたいなんて願っていない。
この世界で、もう一度“保田さん”に会う事を願っていた。
だったら、私がここにいてはいけない。
もう一人の絵梨香はきっと今困惑している。
私はいざないの桜へと向かってそのまま駆け出した。
- 242 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:03
- 「お願い、私を戻して!」
ありったけの気持ちを込めて、白く染まった木の幹に手を当てる。
そして次の瞬間、ふわりと桜の花びらが私の鼻先をくすぐった。
おそるおそる自分の左手首を見てみると、27歳の三好絵梨香がはめていた物とは違う腕時計が。
時間だけではなく、日付が確認できる物。
タイムスリップしてから、私が新しく買った物だった。
時間は3時間ほど経過していたけれど、5月1日のままだった。
「…戻って、来れた?」
一度失敗してしまった事がウソのように、あっさりと私は98年の5月に戻って来た。
「よ、よかったぁ…」
思わずその場にへたり込みそうになるのを堪えながら、私は我が家へ帰る事にした。
- 243 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:04
- ...
自分の部屋に戻ると、置いてあった本などの位置が
微妙に変わっていた。
おそらく弟の悪戯ではない。
これは、きっと…。
「ん?」
テーブルの上にノートが開いたままの状態で置かれていた。
ノートには何かが書きこまれている。
もう一人の私へ、という文字が目に入った時、確信した。
明らかにこれは私の字…だけど私はこんな事を書いた覚えはない。
ならば、これは2012年の三好絵梨香が書いたんだ。
私は逸る鼓動を抑えながら、文字を追った。
- 244 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:05
- “もう一人の私へ
はじめまして、と言うべきなのかな?
これを書いているのは2012年にいる三好絵梨香だって言ったら、信じてくれるのかな?
信じてくれたら嬉しいけど、無理にとは言わない。
だって私自身、何が起こっているのか完全には把握できていないから。
それはこれを読んでいる絵梨香も同じだと思う。
だから、私が知っている限りの情報をここに記すね。
この3週間、ずっと私は絵梨香の夢を見ていた。
ううん、夢じゃないよね。
信じられないけど、確かに絵梨香はもう一人存在している。
この98年にやって来て、確信したから。
あれはもうひとつの現実だったんだって。
絵梨香がこの世界で、どのような事に心動かされたり、悲しんだりしていたのか…
全部見てたよ。”
- 245 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:06
- 2012年の三好絵梨香が、もう一人の私に宛てたメッセージ。
それは私を気遣う文面から始まっているせいか、長年の親友からの手紙のように感じた。
中盤まで来ると、主にタイムスリップが起こる条件が事細かに説明されていた。
内容は例の日記とほとんど変わらなかったけれど、
私が日記を見なかった場合を想定して書いてくれたんだろう。
あの日記よりも分かりやすく丁寧で、すんなりと頭に入る。
- 246 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:07
- 彼女の仮説によると、異なる時代に行きたい場合、
2012年の三好絵梨香と、私がそれぞれいざないの桜の木の側にいないと
タイムスリップできないらしい。
たとえば、私が2012年の3月3日正午の世界に行く為には、
2012年の三好絵梨香がいざないの桜の木に控えていなければならない。
そして、私は1998年の5月2日の正午に、同じ地点にいなければならない。
そうしてやっとタイムスリップができるのだと言う。
私が1998年5月1日の世界に再び戻って来られたのは、
このメッセージを残したもう一人の絵梨香が、
あの場所でずっと待っていてくれていたからなんだろう。
- 247 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:07
- そして…記憶はないけれど、過去の私は、1998年の4月10日に、
きっとあの場所にいたのだろう。
だから私は、この世界にたどり着き、運命を変えられた。
初めてのタイムスリップは、偶然に偶然が重なったものだったのだ。
まさに、奇跡だった。
- 248 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:08
- ただ、タイムスリップと言うよりは、転移と言った方がいいのかもしれない。
確かに、私は1998年4月10日の時点では
過去にタイムスリップしたと言えたのだろう。
でも、その後二期メンバーとして合格し、歴史を変えてしまった。
本来ありえない世界を作り上げてしまった。
だから、同じ軸にあったはずの世界が、二つに枝分かれして分裂してしまったんじゃないだろうか。
私がモーニング娘。となった世界。
そして、もう一つは私が知っている通りの世界に。
- 249 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:09
- とうとう、彼女からのメッセージが終わりに近づいて来る。
その事に一抹の寂しさを感じている自分がいた。
“私は絵梨香に幸せになって欲しい。この気持ちに偽りはない。
でも、これからはもっと辛い事が待っているかもしれない。
逃げ出したくなる事があるかもしれない。
その時は、遠慮せずに2012年に戻って来ていいから。
ただ、辛くなったら、まずは私の事を思い出して。
私は、いつでも絵梨香を応援しているから。それを忘れないで。
そして絵梨香は、絵梨香だけの「圭さん」を大切にして。”
- 250 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:10
- ...
全てを読み終え、私は小さく呟いた。
「逃げるなんて…できないよ」
やっと分かった気がする。
私が2012年に執着してしまうのは、逃げ道を作る為じゃない。
二人の今後を見守りたいからだ。
本当は、信じていたんだ。
2012 年の世界で、もう一人の絵梨香と、
“保田さん”が再び巡り会う事を。
2012年の世界は消滅したわけじゃない。
そして、彼女が“保田さん”と新しい関係を築く為に一歩踏み出した。
その事実が、私に勇気をくれる。
- 251 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:11
- 「頑張って、絵梨香…私も、頑張るから」
早く、会いたいな。
私だけの圭さんに。
休み明けが今から待ち遠しい。
二つの世界で、お互いに最愛の人と結ばれる…そんな日が来ますように。
切に願いながら、私はノートをそっと閉じた。
- 252 名前:第10話 帰還 投稿日:2012/02/25(土) 00:11
- 第10話 帰還
了
- 253 名前:あおてん 投稿日:2012/02/25(土) 00:12
- 2012年がうるう年のせいでややこしい事にorz
>>209
更新が不定期ですみません。いつもありがとうございます。
- 254 名前:みおん 投稿日:2012/02/25(土) 00:17
- こんな展開になるとはびっくりです
続きがまた楽しみになりました
- 255 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/26(日) 23:59
- ...
アルバム曲のレコーディングが始まった。
1998年の世界は何事もなく時を刻み続けている。
相変わらず、2012年の絵梨香の近況はよく分からない。
あれから絵梨香と“保田さん”はどうなったんだろう。
地元に帰郷していた頃は、おぼろげに27歳の絵梨香の夢を見た時もあった。
でも、東京に戻って来てからはさっぱりだ。
あれはやっぱり、いざないの桜に近い場所で生活していたからだろうか。
だとすれば、2012年の絵梨香が毎晩のように見る夢は、いざないの桜が見せている?
- 256 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:01
- 2012年の絵梨香は、私が今何をしているのかも、全部夢で知る事ができるんだよね。
多分、この思考さえも夢という媒介を通して読み取ってしまうんだろう。
そう考えると、プライバシーも何もないんだけど。
でも、それが嫌だなんて思わない。
このアルバムが出来上がっても、2012年の世界の人達の耳に届く事はない。
9人が歌い上げる「ファーストタイム」は2012年には存在しない。
だけど、夢を通してなら、この歌をもう一人の絵梨香に届ける事ができる。
本来ありえない奇跡を起こせる。
だから、この世界の全てが2012年の絵梨香に筒抜けでも、構わないと思える。
- 257 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:01
- もう一人の絵梨香は、9人のモーニング娘。の活躍を、きっと楽しみにしてくれている。
私達の夢が叶う事を望んでくれている。
この世界の人々だけでなく、もう一人の絵梨香の心を動かす歌が歌えますように。
私はそう祈りながらブースに入った。
- 258 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:03
- ...
「三好ぃ、ええで。お前飲み込み早いなあ」
コントロールルームから、つんくさんの上機嫌な顔が覗いている。
褒めてくれているんだ。
嬉しいけど、なんだか複雑。
私は本当に、人を惹き付けるが歌えているのだろうかと不安になる。
「ファーストタイム」はリアルタイムで聴いていたから、それなりに歌えるのは当たり前の事。
決して飲み込みが早いわけじゃない。
それは本当の自分の実力じゃない。
だから、つんくさんの言葉を素直に受け入れる事ができなかった。
そこまで私は図太くはない。
- 259 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:05
- 明日香や石黒さん達の伸びやかな歌声を聴いたら、嫌でも自分が未熟だと分かってしまう。
でも、今日の石黒さんはどこか調子が悪そうだった。
私の時とは打って変わって、つんくさんの厳しい指摘が飛ぶ。
「石黒、そんな無茶な歌い方したら喉壊すで。
ここはもっとナチュラルに…」
石黒さんは小さくすみませんと呟きながら、懸命について行こうとしている。
なんだか、ちょっとやつれたような気がするな…。
- 260 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:06
- 「なんか…彩っぺ顔色悪くない?」
ヒソヒソと誰かが囁き合っている声が聞こえる。
どうやらそう感じていたのは私だけじゃないらしく、皆心配しているようだ。
彼女をどうにかして元気づけたいのは、メンバー全員の総意らしい。
偶然にも今日は石黒さんの誕生日。
私達はそんな石黒さんを少しでも元気づける為に、
小さな誕生日パーティーを開く事にしたのだった。
- 261 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:13
- ...
「彩っぺ、20歳の誕生日おめでとー!」
メンバーだけでなくスタッフさんも交え、石黒さんを祝う。
朝から石黒さんはずっと沈んでいたけれど、やっと笑顔を見せてくれた。
その事に心底ほっとした。
沖縄でPVを撮った時以来、やっぱり石黒さんの事が気にかかっていた。
恋人と破局した件がまったくの無関係とは言えないと思う。
あんなところを見てしまったら、どうしても見て見ぬふりはできなかった。
- 262 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:13
- 明日香達とお菓子をつまんでいると、いつの間にか、当の本人がいなくなっていた。
「あれー彩っぺどっか行っちゃったよ?」
「ん?トイレやろ」
「私、ちょっと見てきますね」
率先して石黒さんの様子を見に行こうとする私に、圭さん達は目を丸くしていた。
いくら打ち解け始めたとはいえ、相変わらず私以外の二期メンバーは
石黒さんを怖がっているから。
私も正直まだ石黒さんが少しだけ怖い。
でも、彼女を一人にしておけなかった。
- 263 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:14
- ...
スタジオ内となると行ける場所は限られている。
ロビーで煙草を吸っている石黒さんをすぐに見つける事ができた。
彼女は少し吸っては灰皿に押し付け、新たにまた一本取り出して火をつける。
それを幾度も繰り返している。
さっきのレコーディングの時といい、
まるで自分の喉を痛めつけるような事ばかりしていたような気がした。
そんな姿が痛々しくて…
- 264 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:15
- 「石黒さん」
見かねて私は声をかける。
「絵梨香か…」
石黒さんは特に驚いた様子もなく、灰皿に煙草を押し付け揉み消した。
「今日の主役が急にいなくなるから皆心配してますよ」
「ごめんごめん。ちょっと一服してただけだから」
ウソつき。
でも、吸殻で満杯になった灰皿にはあえて気が付かないフリをする。
原因は…やっぱり別れた彼女のせいなのだろうか。
未練を断ち切っているように見えても、
やっぱりそんなに簡単に思い出にはできないよね。
- 265 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:21
- だけどその事に触れるなんてできない。
私にできる事なんて結局は限られている。
せいぜい、こうして側にいて、自分を痛めつけようとしないように
彼女を見ている事くらい。
そんな私に、意外なほどに優しい声が頭上から投げかけられた。
「ああ、さっきはプレゼントありがとう。
あんたって意外とセンスいいんだね」
私が石黒さんにプレゼントしたのは札幌限定のコスメ。
一応中学生でまだお給料も入ってない私では、高価な物は
買えなかったけど、喜んでくれているみたいだ。
- 266 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:27
- 「まだありますよ」
私は小さく笑い、少しつま先立ちをする。
そして、石黒さんの頬に唇を押し当てた。
「…これも、誕生日プレゼント?」
石黒さんは表情を変えなかった。
そのまま、指先でそろそろと私がキスした箇所に触れる。
「石黒さんがしてもいいって言うなら、誕生日じゃない日でもしますけど。
なんなら唇にでも」
そう言うと、石黒さんはため息をついた。
しまった。
元気づける為にやったけど、逆に怒らせてしまっただろうか。
一瞬そんな事を思ったけれど、それは余計な心配だったようだ。
- 267 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:28
- 「さっきので充分。あの子が嫉妬するだろうし」
「あの子…?」
「言わなくても分かるでしょ。
私も少ししたら行くから、先に戻ってな」
今まで俯きがちだった石黒さんが、今度はしっかりと私の目を見てくれた。
その目は、初めて会った時のような冷たいものじゃなくて、温度を感じさせるもの。
「ほらほら早く」
そう言って笑いながら、彼女はしっしと手で私を追い払う。
それが石黒さんの強がりだって分かってた。
彼女は弱いところを見られたくないんだと思う。
だから、私はあっさりと幕を引く事にした。
石黒さんの気持ちを汲んで。
少しでも早く立ち直ってくれる事を信じて。
- 268 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:30
- ...
再び同期メンバーとのホテル暮らしが始まった。
この部屋で圭さんと暮らし始めたのは4月下旬から。
途中で沖縄でPV撮影したり、一度帰郷したりと間はあいているし、
大して長く過ごしていたわけじゃない。
なのに、なんだかすっかりこの部屋に馴染んでしまっている。
今はここが私の家。
そして、安らげる場所。
こうして寝る前にお茶を飲みながらおしゃべりをする時間も、かけがえのないものだ。
- 269 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:33
- 「絵梨香、石黒さんとも仲良いんだね」
「な…仲いいんですかね」
以前のようなギスギス感はなくなったとは思うけど、
仲がいいかと聞かれれば微妙だと思う。
正直、石黒さんと私の関係は謎だ。
「なんか、ちょっと寂しいなあ。
ちょっと目を離したら、もう絵梨香は別の場所にいて、他の子と楽しそうにしてるから」
そう言う圭さんは、まるで大事な親友を取られて
可愛らしいヤキモチをやく女の子みたいだった。
その様子を見て、石黒さんが今日私に言った事を思い出した。
石黒さんが言ってたあの子って、もしかして圭さんの事だったんだろうか。
- 270 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:43
- 私は抑えられなくなって、圭さんを後ろから抱きしめた。
びっくりされると困るから、できる限り、そっと。
圭さんは身を固くする事もなく、自然に私を受け入れてくれた。
「絵梨香は私が知らないうちにどこかへ行っちゃいそうな気がする。
人間関係に限った事じゃないの。それは歌に関しても言える事」
圭さんは私に応えるように、抱いている腕にそっと自分の手を重ねる。
「今日の絵梨香の歌を聴いて、確信したの。
絵梨香は日に日に成長を遂げてるんだって。
次に目を離したら、絵梨香は私の手に届かないところに行っちゃうって」
私が…手に届かないところへ?
なにをバカな事を…そう笑い飛ばそうとしたのに。
圭さんの表情があまりにも真剣で、私は声を出す事もできなかった。
「私は、このままじゃダメだ。
絵梨香に置いて行かれたくない。
絵梨香と同じ場所に行きたい」
その声の力強さに、一瞬呼吸まで止まる。
「絵梨香に、負けたくない」
- 271 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:44
- 圭さんはずっと私の目標だった。
彼女みたいになりたいって思ってた。
その憧れの存在が、私に負けたくない、なんて。
体が震えた。
元にいた世界では、きっと絶対に聞く事のできなかった言葉。
こんな言葉が出て来るのは、私を同じ場所にいる同志だと認めてくれているから。
私は、もう“保田さん”の後輩じゃない。
蚊帳の外の人間じゃない。
圭さんと同じ、仲間…。
- 272 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:46
- 「置いて行ったりするわけないじゃないですか。
一緒に同じ夢を掴みましょう」
震えを悟られないように、私は彼女に静かに囁く。
口にしてから初めて、ある事を思い出した。
タンポポに落ちた時、“保田さん”と“市井さん”の二人が、
絶対ビッグになろうって約束したというエピソードを。
本当は…元の世界では、その二人だけで交わされていたはずの誓い。
でも、今それは私と圭さんのものに。
- 273 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:49
- 「うん、約束だからね」
圭さんは、そう言って心地良さそうに目を閉じる。
またひとつ、史実を変えてしまう。
この選択が間違っているとしても…
たとえ他の人との、大切な思い出を奪うような形になってしまっても。
私は圭さんの全部が欲しい。
誰かとの約束も思い出も、私のものにしてしまいたい。
こんな事を考える私はズルイって分かってる。
でも、止められない。
私は妹としても、仲間としても、ライバルとしても、
一人の人間としても、この人を愛してる。
まだ、それは言えないけれど。
かわりに私は圭さんの温かい背中に顔を埋め、
声にならない愛の言葉を囁いた。
- 274 名前:第11話 約束 投稿日:2012/02/27(月) 00:50
- 第11話 約束
了
- 275 名前:あおてん 投稿日:2012/02/27(月) 00:52
- 甘いやすみよが欲しい
>>254
自分でもややこしい設定にしてしまったなあとちょっと後悔してますw
- 276 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/02/28(火) 01:58
- みーよの歴史を変えつつも前に進んでく姿が好きです。
- 277 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:37
- ...
「あれ?圭さん食べないんですか?」
圭さんの前には手つかずのままの焼き魚が。
「うん、ちょっと今お腹すいてなくて…。よかったら絵梨香食べてくれる?」
「もー、ダメですよ好き嫌いしたら」
そう言いつつ、私は圭さんの焼き魚を貰い受ける。
やっぱり圭さんって肉料理じゃないと箸が進まないんだろうか。
「後で絶対お腹すきますよ」
「いいよ、絵梨香が食べてるところ見てるだけで和むもん」
圭さんの指が私の頬をぷにっと押す。
それがくすぐったくて、私は思わず首をすくめる。
- 278 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:38
- そんな私達を見て矢口さんが盛大にため息をついた。
「何新婚みたいな事やってんの。早く食べないと間に合わなくなるよ」
「わ、分かってますって」
照れくささをごまかすように、私はご飯をかき込んだ。
今日から「サマーナイトタウン」の販促イベントの為
地方各地を転々とする日々が始まる。
販促イベントの目玉は握手会。
私達二期メンバーは、初めてモーニング娘。のファンの人達と
接する事になる。
今から緊張するな。
「絵梨香ちゃん、私のもちょっと食べる?」
「あ、ありがと…紗耶ちゃん」
市井さん…もとい、紗耶ちゃんはまだ半分も食べていなかった。
目の前の料理を片づけるのを手伝って欲しいみたいだ。
- 279 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:39
- 私は彼女の事を紗耶ちゃんと呼ぶようになっていた。
紗耶ちゃんや真里さんとも、言葉を交わす度親しくなれている。
それを実感できる。
同期と、仲間と食事をするってこんなに素敵な事だったんだな。
手に入らないと思っていたものが、ここにある。
それだけでパワーをもらえる。
私は直後に控えた握手会に向けて、彼女達にパワーを充電してもらう事にした。
- 280 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:41
- ...
「大ファンなんです、これからも応援してます!」
「ありがとうございます。私も今日皆さんに会うのが楽しみで眠れなかったんですよ」
列を作っているファンの人達に、安倍さんが天使のような笑顔を振りまいている。
やっぱり手売りしていた経験もあって、一期メンバーは対応が洗練されている。
- 281 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:42
- 私達はファンの一人一人と固い握手を交わし、しっかりと言葉を交わす。
ファンの皆の熱気は凄まじいものがある。
5月の温暖な気候も手伝って、メンバー全員汗だくになっていた。
力をこめ過ぎたせいで、手の筋が痛い。
でも、ファンの人達の気持ちには誠心誠意で応えたい。
きっとメンバー全員が同じ気持ちだったと思う。
そう、この時までは。
- 282 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:43
- 次の人が二期メンバーの元へやって来るのを見て、
圭さんが満面の笑みで手を伸ばす。
「今日はありがとうございます、応援よろしくおね…」
しかし、圭さんの意思に反して、するりとすり抜けたその手。
「え?」
圭さんの表情が困惑したものへと変わる。
私も訝しげに男性に視線を向けると、彼は嫌悪感を滲ませたような表情をしていた。
それは圭さんに対してだけではなく、二期メンバー全員に
向けられているのだと漠然と理解できた。
どうしてそんな顔で私達を見ているんだろう。
不思議に思った次の瞬間、信じられない言葉が彼の口から発せられた。
- 283 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:44
- 「とっとと辞めろよブス!」
「な…!?」
ここに来ている人達の大半が一期メンバーの
ファンである事は理解していた。
でも、こんな言葉を投げかけられるだなんて想像もしていなかった。
私を始めとした二期メンバーは、言葉の意味を、
すぐには理解できなかった。
無意識のうちに、脳が受け付ける事を拒否していたのかもしれない。
幻聴であって欲しい。
でもその願いは、新たな暴言によってあっさりと打ち砕かれる。
「お前らなんてアイドルじゃねえよ」
忌々しげにそう吐き捨てると、彼は二期メンバー全員との
握手を拒み、立ち去って行った。
- 284 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:44
- どうして?
これほどまでの負の感情をぶつけられる覚えなんて…
「あ」
そういえば…
ひとつ心当たりがあった。
確か、オーディションに合格した翌日、今後の事について説明を受けた時。
和田さんは私達に忠告していた。
モーニング娘。に追加メンバーを加入させる事に対し、
ASAYAN視聴者からの抗議の電話や手紙が殺到してるって…。
こういう事だったのか。
- 285 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:45
- 美勇伝時代、梨華ちゃんの後での握手を拒まれた事はあった。
だからって、ここまで憎しみのこもった目を
向けられた記憶は一度もない。
これが、モーニング娘。の追加メンバーの試練…
芸能人としての洗礼。
真里さんの顔は引きつっているし、圭さんは呆然としている。
紗耶ちゃんにいたっては既に涙目。
でも、皆分かっていた。
いつまでもこのショックを引きずるわけにはいかない。
私達を応援してくれている人だってちゃんと存在しているから。
- 286 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:46
- 「気持ち、切り替えましょう」
私の言葉に、二期メンバーの皆は頷いてくれた。
けれど、本当は怖かった。
次もまた罵声が飛んで来るんじゃないかって怯えていた。
事実、それ以降も二期メンバーとの握手を拒否する人が何人かいた。
やっぱり、娘。の増員に納得できない人はいるよね。
私だって、当時は正直酷いなって思った。
ずっと5人で頑張って来てたのにって。
- 287 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:47
- 一期メンバーとの関係が変わりつつあって、気が緩んでいた。
ファンの心の声に、現実に気づかないでいた。
まだ視聴者の二期メンバーに対するマイナスなイメージは、
払拭できていないようだ。
信用を一から築き上げる事は本当に難しい事なんだ。
それを嫌でも思い知った。
- 288 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:48
- ...
宿泊先のホテルでメンバーは各々に自由な時を過ごしていた。
明日香の励ましのおかげで、真里さんや紗耶ちゃんは少し元気を取り戻した。
石黒さん、中澤さんも気を使ってくれているのが分かった。
ただ、飯田さんと圭さんの姿が見えないのが気にかかる。
メンバーに尋ねてみると、圭さんは飯田さんに部屋に呼ばれていたとの事だった。
- 289 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:48
- 最近圭さんは飯田さんの事を“圭織”と呼ぶようになった。
年も近いし、距離が確実に縮まっている証拠だ。
きっと飯田さんは今頃圭さんの事を慰めているんだろう。
だから、飯田さんに任せていいはず。
そう思ってはいるのに、何だか胸騒ぎがした。
- 290 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:49
- ...
飯田さんの部屋がある廊下をうろついていると、どこからか怒号が飛び交っていた。
やだな。
誰か喧嘩しているんだろうか。
その声が、飯田さんの部屋に近づくにつれて大きくなる。
「まさか…」
私は思わず飯田さんの部屋へと駆け出していた。
そして無礼を承知でノックもせずに私は中へ飛び込んだ。
鍵はかかっていなかった。
- 291 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:50
- ...
「圭織に私の気持ちなんて分かんないんだよ!」
「分かるわけないでしょお!?圭織は圭ちゃんじゃないんだから!」
嫌な予感は的中していた。
飯田さんと圭さんは泣きながら罵り声を上げていた。
二人の顔は真っ赤で、目は血走っている。
女同士の喧嘩もなかなか壮絶だな…
なんて、この場にそぐわない事を考えてしまっていた。
だって、こうも立て続けに衝撃的な出来事に遭遇すると、どうしていいのか分からない。
- 292 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:51
- 「むかつく!!」
「何すんのよ!」
飯田さんと圭さんがお互いの髪の毛を掴み合っている光景が
目に入り、やっと体が動いた。
「ちょっ何やってるんですか!」
私は慌てて二人を引き剥がす。
飯田さんはともかく、ここまで感情的になっている圭さんを初めて見た。
私の知っている彼女は、いつも優しくて負の感情を見せない人だった。
そんなものとはかけ離れている人だと勝手に思っていた。
- 293 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:52
- 「一体何があったんですか?廊下まで聞こえてましたよ」
私がそう尋ねてみても、答えは返って来ない。
思わず飯田さんの方を見ると、彼女が目を見開いて大声を上げた。
「なんでこっち見んのよ、圭織を悪者にするつもり?」
それを聞いた瞬間、圭さんが再び飯田さんに飛びかかろうとする。
「ちょっと!絵梨香に八つ当たりするのやめてよ!」
「圭さん…!」
私はどうにか圭さんの暴走を止めようと、慌てて彼女の手を掴んだ。
- 294 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:53
- その時になって異変に気付いた。
「…圭さん?」
圭さんの体が熱かった。
それも尋常じゃないほど。
ただ単に興奮しているからじゃない。
間違いなく熱がある。
そういえば、圭さんは食事にほとんど手をつけず残していた。
今朝食欲が無かったのは、具合が悪かったから?
どうして気が付かなかったんだろう。
バカだ…私は。
- 295 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:54
- こんなところにいる場合じゃない。
私は圭さんの体を抱きかかえ、くるりとUターンする。
「えっ絵梨香?!」
「なに、何なのお?」
「すみません、ちょっと外させて下さい」
目を白黒している飯田さんに私は断りを入れて、この部屋を後にする。
飯田さんは何も言わなかった。
きっと目の前の状況に思考が追いついていないんだろう。
でも、説明している暇はなかった。
- 296 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:55
- 私は圭さんを落とさないように気をつけながら、一歩一歩前へ進む。
目指すは圭さんの部屋。
「おろしてっおろして!」
「っお願いですから暴れないでください!」
圭さんががむしゃらに手足を振り回す。
立っているのも辛いはずなのに、どこからそんな力が湧いてくるんだろう。
彼女の重力に引っ張られるまま体が前に傾き、
バランスを崩しそうになる。
さすがにこの発育途上の体じゃ、軽々と圭さんを
運ぶ事は難しいみたいだ。
でも、ここで彼女の言葉に従っておろす事はできない。
私は震える自分の腕に喝を入れてなんとしても前へと進んだ。
- 297 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:55
- ...
部屋に戻り、ベッドに圭さんを寝かしつけると、やっと落ち着いてくれた。
「ごめん…みっともないところ見せちゃって。びっくりしたよね」
それでも、圭さんの頬は乾く事はなくて、幾筋も涙が伝っていく。
「泣かないでください」
私が指先で拭おうとしても、涙は止まらない。
今度はティッシュを取ってそれを彼女の目元にあてがう。
- 298 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:56
- 「…圭織にはっきり言われちゃった。自信の無さが顔に表れてるって。
ビクビクするなって。追加メンバーじゃ私が一番年上なんだから、しっかりしろって。
圭織の言う通りなのに…つい、カッと頭に血が上って…私の気持ちも知らないで、って」
そうだったんだ。
きっと飯田さんなりに圭さんを励まそうとしていたんだろう。
ただ、その彼女の言葉は、今の圭さんには受け入れられなかったんだ。
圭さんの気持ちも分かる。
だって、こんな状況下で飄々としていられる人間なんているんだろうか。
17歳の女の子に、あれだけの事があっても堂々としていろって強要するのは酷だと思う。
- 299 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:58
- でも、やっぱり…この世界ではそうでないといけないのかな。
傷付いても、そんな自分に気付かないふりをして、偽りの仮面をつけて。
繊細な人間だと生きていけない世界。
モラルの通用しない世界。
それが芸能界。
でも、この世界に与する人間は、いかにも華やかな
世界の住人のように振舞っている。
悩みなどなくて、全てが順風満帆だと言わんばかりに。
この職種を選んだのは自分なのに、なんだか少しだけ怖くなった。
いつか、皆心をなくした人形のようになってしまうんじゃないかって。
- 300 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 02:59
- ...
「もう、頭がごちゃごちゃして、自分で自分が分からないよ…。
圭織は悪くないのに…私、すごく嫌な人間だよね?
絵梨香も私を嫌いになったでしょ?」
きっと、加入して間もない頃の一期メンバーとの不和や
握手会の件など、色々あってナーバスになっているんだと思う。
きっと、この熱だって精神的な疲労が原因なんだろう。
そんな圭さんを責められるわけがない。
圭さんも、飯田さんもどちらもきっと悪くない。
- 301 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 03:00
- 「大丈夫ですよ。私はこんな事くらいで圭さんを嫌いになったりしません」
確かに驚きはした。
でも嫌悪感なんて微塵もない。
目の前の圭さんも生きてるんだって、実感できたから。
こうして普通の人のように傷付いて泣いたり、怒ったりする。
その事実に、正直安心している自分がいた。
「ほんとに…?」
圭さんは赤い目で私をじっと見つめて来る。
そんな様子が臆病で寂しがりな子ウサギを連想させて、
胸が切なくなった。
- 302 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 03:01
- 「私の前では無理しなくていいんです。私にはよりかかっていいんです。
年上とか、年下とか私達の間にはそんなもの関係ありませんよ。
だって、同期でしょう?」
圭さんの額にそっと触れると、彼女は安心したのかふにゃりと笑う。
「…絵梨香の手、気持ちいい…」
「今は少し眠って下さい。私、ずっとついてますから」
圭さんはゆっくりと頷いて、静かに目を閉じた。
- 303 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 03:01
- 私には、全てを見せて。
自分の心に蓋をしないで欲しい。
ありのままの圭さんでいて欲しい。
どんな汚い感情だっていい。
それすら、愛してみせる。
私は何もできない13歳の子供じゃない。
だから、絶対に守る。
圭さんが圭さんらしくいられるように。
それが今の私の存在意義なんだと、この時、強く実感した。
- 304 名前:第12話 衝突 投稿日:2012/02/29(水) 03:01
- 第12話 衝突
了
- 305 名前:あおてん 投稿日:2012/02/29(水) 03:04
- 私事ですがブログ作りました
>>276
ありがとうございます。
芯の強い魅力的なみーよが書けるようにこれからも頑張ります。
- 306 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/02/29(水) 03:12
- 有名エピソードキター!!
使い方も上手で楽しめました
- 307 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:24
- ...
うたばん収録。
一体何年振りだろう。
確か、うたばんはハロプロメンバーとして皆で
総出演したのが最初で最後だった。
元の世界の話だけど。
あの時、“保田さん”も一緒だったんだよね。
全く絡みはなかったけど、懐かしい気持ちに支配される。
まさか、再びこうして出演できる日が来るなんて思いもしなかった。
しかも憧れのモーニング娘。としてだなんで。
- 308 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:25
- 「ていうか君ら誰?」
司会の貴さんと中居くんは私達の名前も知らない様子。
娘。自体はこれがうたばん初登場だからだ。
今は探り探りの状態なんだろうな。
ふと、貴さんと目が合ってしまう。
「君、台湾マッサージやってる人に似てるって言われない?」
貴さんがキャスター付きのイスごと移動して、私に声をかける。
- 309 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:26
- 「えっ」
いきなり振られるとは想定外。
そういえばあの時も、貴さんに同じ事言われたな。
当時の私はびっくりして、「面白いです」とか
素人丸出しの受け答えしかできなかった気がする。
今度はもっとしっかり反応しておかないといけない。
- 310 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:26
- 「なんですかそれー、一体どういうマッサージ師ですか、やらしいですよ」
私は貴さんが話を拾いやすいように、わざと大仰に反応して見せた。
貴さんはまさかそういう返し方をされると思って
いなかったのか、驚いた表情をした。
でも次の瞬間には、ニヤリと口の端をつり上げる。
悪い笑みだなあ。
目が“いじりスタート!”と言っている。
- 311 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:27
- 「ん?オジサンは足裏マッサージの方を言ってたんだけどなあ」
「なんだよお前いくつだ。どんなマッサージ想像してんだよ」
中居くんもその様子を敏感に察知して、貴さんに便乗する。
いや、絶対変な意味の方で言ってたよね。
「オジサンが未知のマッサージをおしえてあげよっか?」
「やめて下さいよ、この子13歳ですから!」
その時、絶妙なタイミングで中澤さんが止めに入った。
しまった、調子に乗り過ぎた。
- 312 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:30
- 「おぉう。こえー」
貴さん達は大げさに身を竦ませるそぶりを見せ、
あっさりと引き下がる。
それ以降、私達二期メンバーに話を振って来る事はなかった。
いじってもらっておいしいはずなんだけど、今になってもやもやするのは何でだろう。
元の世界の“保田さん”はどんなにひどい扱いを受けても
笑って済ませてたけど、本当はどんな気持ちでいたんだろう。
全く傷つかなかったわけがないと思うんだけどな。
“保田さん”にとって、うたばんのイメージが世間に
定着した事は、果たして良かったんだろうか。
このままいけば、圭さんも、貴さん達によって
そういうキャラにされるんだよね。
私は、その時が来たら傍観するべきなのかな。
今から考えても仕方がないのに、収録中、私はそんな事ばかり考えていた。
- 313 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:31
- ...
収録後、私は中澤さんに呼びとめられた。
「ちょっと」
さっきの件についてだろう。
中澤さんがちょいちょいと私に向かって手招きをしている。
この状況、まさにサマーナイトタウンのレコーディングの時を思い出すな。
なんだか…随分昔の事のように感じる。
前と違って、今回は私一人だけが呼び出しを受けてるんだけど。
- 314 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:32
- 案の定、中澤さんはさっきの私の発言について
言いたい事があるようだ。
「そりゃ和田さんには全員絶対何か喋れとは言われとったけど、一応アイドルなんやからな。
しかも中学生があんまり下品な発言するのはあかんで。
行き過ぎたらウチもフォローしきれへんわ」
「すみません」
中澤さんの言う事はもっともだ。
それに、先輩をさし置いて一人目立つなんて許されないよね。
- 315 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:33
- 「ま、ウチも下ネタ嫌いやないけどな」
「え?」
優しい声に驚いて顔を上げると、中澤さんは予想に反して笑顔だった。
「いきなりアドリブかますとか驚いたわ。
あんた意外と大物になるかもしれへんな」
飴と鞭の使い分けが上手いなこの人。
本人は意識してやってるわけじゃないんだろうけど。
「さっきはフォローしていただいてありがとうございました」
私が頭を下げると、彼女はそっと手を置いてくれた。
追加メンバーとして初めて会った時に比べると、
随分と険がとれたような気がする。
この分なら、これから充分彼女とやっていける。
そんな予感がした。
- 316 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:34
- ...
そして再び東京を離れ、地方を巡る日々に戻る。
大阪のキャンペーンには、なんと中澤さんと私の二人で行く事になった。
圭さんは飯田さんと一緒。
二人は先日あれだけ派手な喧嘩をしていたばかりだから、
どうしても心配になる。
正直言って飯田さんって根に持ちそうなイメージがあるからなぁ。
それに、圭さんは熱が下がったばかりな事もあって、体調の面も気がかりだ。
- 317 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:35
- “そんな顔しないで、絵梨香。大丈夫だから”
別れ際、圭さんはそう言って笑ってくれたけど…
無理しないで欲しいな。
できる限り、つらい思いはして欲しくない…。
私の頭の中、本当に圭さんでいっぱいなんだな。
そんな自分に思わず苦笑いする。
いけない、気持ちを切り替えよう。
今日はなんといっても中澤さんと一緒なのだ。
きっちり仕事しないと。
- 318 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:36
- ...
「あー、えっと、アメちゃんいる?」
中澤さんは明らかにこの状況に戸惑っているようだ。
それでも何とか私に寄り添おうとしてくれる。
「ありがとうございます」
私は素直に飴玉を受け取り、笑顔を向けた。
中澤さんは少しほっとしたように表情を和らげてくれる。
バスの中に押し込まれて、長時間隣同士で過ごす事になったんだもんね。
そりゃやりにくいよね。
本当は中澤さんは、石黒さんあたりと一緒が良かったんだろうな。
仕事だからどうしようもないとは分かってても、申し訳なくなってしまう。
私は一応戸籍上は13歳。
中澤さんは24歳。
年齢だけを見ると、彼女は立派な大人で、私はお子様。
こんなに年が離れてたら、どう接していいのか分からないんだろう。
- 319 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:38
- ...
「ウチにちゃんとついて来るんやで。はぐれたらあかんで」
歩いて移動する時でさえ、そう言って何度もこちらを振り返って
確認する中澤さんが少しおかしかった。
中澤さんからしてみれば、13歳なんて小学生と変わらないんだろうな。
とても仕事仲間と交わす会話とは思えない。
そりゃ、明日香ほど落ち着いてるわけじゃないけど。
私ももう少ししっかりしたところを見せないといけないな。
中澤さんの後ろをついて行きながら、密かにそう決意した。
- 320 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:39
- ...
今回は以前のように罵声を浴びせられる事もなかった。
さすがに一期メンバーの人がすぐ隣にいる状況で、
そんな事をする気になる人はいないんだろう。
圭さん達も何事もなかっただろうか。
帰りのバスの中で様々な思考を巡らせている私とは対照的に、
中澤さんはうつらうつらと舟を漕いでいた。
さすがに疲れているようだ。
それでも、睡魔を振り切るように頭を振り、目元を軽く揉みほぐしていた。
- 321 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:39
- 「寝ないんですか?」
「いやや、化粧崩れるから。誰が見てるか分からへんやろ」
なかなか強情だな。
私にも寝顔を見られたくないんだろうか。
さすがに、まだ私といて気分を落ち着けてくれるような域には
到達してないか。
確かに、義務教育の私と二人きりだと、責任を感じて
気が気じゃないんだろう。
- 322 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:40
- 「あんたは今のうちに寝とき。思春期って常に眠いもんやろ」
中澤さんは気丈に振舞いつつ、私を尊重しようとする。
一期の皆と同じで芸能界入りしてそれほど
月日が経っているわけじゃないのに、最年長だからと
いつも娘。全体の責任を押し付けられて来たのだろう。
同時に、常にリーダーとしてメンバーにも気を配らないといけない。
きっと精神的負担は私の思っている以上に大きいんだろう。
もし私が24歳の時に同じ事をやれと言われても、
きっとできないと思う。
- 323 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:41
- 「中澤さんこそ、こういう時くらい、休んでいいんですよ」
「楽してるとこ見られたら周囲に示しがつかんやろ」
他人に厳しくて自分にも厳しい人か。
圭さんの時にも思った事だけど、年上だからって全てを背負い込む必要はこれっぽっちもないと思う。
どれほど有能だとしても、完璧な人間はいないのだから。
「普段充分頑張ってるからいいんですよ。
中澤さんが少しくらい肩の力抜いたって、皆ちゃんとついていきますよ。
もちろん私だって」
「そうなん?…うん。そうやな…
ウチ、ちょっと力み過ぎやったわ」
中澤さんは素直に目を閉じて、背もたれに深く体を預けた。
「生意気言ってすみません」
「ええよ…そう言ってくれて、ウチ、ちょっと…楽になった気がするわ…」
そしてしばらくしないうちに、寝息が聞こえ始める。
- 324 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:42
- 「中澤さん?」
どうやら完全に夢の世界へと飛び立っていったようだ。
中澤さんの寝顔、初めて見た。
寝ている時はこんなに優しい表情に戻るんだな。
これが中澤裕子の素顔か…。
なんだか、見ていてほっとする。
「上着、持って来て良かった」
これからも、こういう優しい顔を見られる機会が増えるといいな。
そんな事を思いつつ、私は持っていた上着を中澤さんの体にかけてあげた。
- 325 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:42
- ...
ホテルに戻ると、まず私達二期メンバーは
今日のキャンペーンの事を報告し合った。
話を聞いてみると、気がかりだったファンの人からの
嫌がらせはなかったという。
一期メンバーと衝突する事もなかったらしい。
飯田さんと圭さんの二人も、すっかり仲直りしたみたいだった。
その事は、いくらか私を安堵させた。
だから…完全に油断していた。
- 326 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:44
- ...
「いっけね、うたたねしちゃってた」
私は慌ててベッドから身を起こした。
真里さんと紗耶ちゃんが自分達の部屋に戻った後、
私は先に圭さんにお風呂を譲って、ベッドの上で待っていたのだ。
まさかその間に寝てしまうとは自分でも思わなかった。
私も疲れてたのかな。
- 327 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:44
- 「ごめんなさい、私寝ちゃってて…あれ?」
部屋の中を見渡しても、圭さんの姿はどこにもない。
どうやら、まだ彼女はお風呂から上がってはないようだった。
時計を見ると、あれから随分と時間が経っている事が分かる。
「おっそいなあ」
圭さんの入浴時間が普段より長い。
もしかしたら圭さんもお風呂で寝てる?
それとものぼせて倒れちゃってるのかもしれない。
「様子見に行った方が…」
いやいや、ヨコシマな考えを持っているわけじゃない。
断じてない。
私は自分に言い聞かせながら、ゆっくりと腰を上げた。
- 328 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:45
- 「圭さん?」
バスルームの外から、何度か大きめの声で
呼びかけてみても、反応がない。
聞こえて来るのはただシャワーの水音だけだった。
もしかして、本当に倒れているのかもしれない。
「入りますよ?」
私は意を決して中に入る事にした。
- 329 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:46
- ...
「え…」
圭さんは倒れているわけでも寝ているわけでもなかった。
降り注ぐシャワーの下で、両腕で自分を抱きしめ、うずくまっていた。
「圭さん?どうしたんですか?」
そう言った直後、私ははっと息をのむ。
彼女の肌には、無数の小さな赤い発疹が出ていた。
まさか、これ…アレルギー反応…?
- 330 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:47
- 「圭さん!」
私は自分の服が濡れるのも構わず、圭さんの元へ
駆け寄り、肩を掴む。
「!熱い…」
シャワーのお湯とほとんど変わらないほどの体温。
いや、むしろそれより熱いかもしれない。
どうして?
彼女の熱は先日下がったばかりなのに。
もしかして、また…
- 331 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:49
- 「いや、見ないで…」
圭さんは私から体を背けるようにして、何度も首を左右に振る。
「知られたくなかったのに…絵梨香に知られたくなかったのに…っ」
弱々しい圭さんの涙声が、私の胸を突く。
彼女を守るつもりでいた…なのに。
今の状況は何?
私は一体圭さんの何を知っている?
圭さんが苦しんでいた事にすら気付けなかったのに。
この時ほど、私は自分の無力さを痛感した事はなかった。
- 332 名前:第13話 異変 投稿日:2012/03/02(金) 22:49
- 第13話 異変
了
- 333 名前:あおてん 投稿日:2012/03/02(金) 22:52
- 若干ゆゆみよの回
>>306
ありがとうございます。
古参ファンの人に通用するか心配だったんですが、面白いと
感じていただけて良かったです!
- 334 名前:みおん 投稿日:2012/03/02(金) 22:52
- みーよとヤススが絡むところはやっぱり面白いですね
- 335 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/03/03(土) 19:18
- ついにあの番組に初主演ですねw
みーよの人気が出ちゃったらどうしよう…
- 336 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/05(月) 23:51
- あれから圭さんは、和田さんによってすぐに病院に連れて行かれた。
思っていたとおり、あの湿疹はアレルギー反応によるものだったらしい。
同時に、圭さんは扁桃腺に炎症を起こしていた。
診断は扁桃炎。
扁桃腺が腫れ、高熱を引き出す病。
もう少し遅かったら、切開しなければいけなかったという。
- 337 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/05(月) 23:52
- 元々、圭さんはアレルギー体質で、扁桃腺も腫れやすいという。
きっと心理的ストレスにより症状が悪化したんだろう。
世間からの中傷やプレッシャー、メンバーとの複雑な人間関係。
それに加え、不規則な生活がたたったのだ。
- 338 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/05(月) 23:52
- 圭さんの心も体も随分前から悲鳴を上げていたんだろう。
一度高熱を出した時に、もっと私が気をつけているべきだった。
私は何もできず、ただごめんなさいと謝るしかできなかった。
謝らずにはいられなかった。
だって、仲間なのに。
守ると決めたのに、何一つ力になれていなかったんだから。
圭さんは、“どうして絵梨香が謝るの”と優しく笑うだけだった。
思っていたとおりの反応。
私にとってそれが余計につらかった。
- 339 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/05(月) 23:53
- 圭さんは、ずっと苦しんでいた。
芸能界に入りたてで、右も左も分からない状態で。
家族にも相談する事もできず、たった一人で
背負いこんでいたんだ。
和田さんには「他の誰にも言うな」と口止めされた。
それは、圭さんを他の健康な皆と同等に扱うという事だ。
つまり、どれほど体が辛くても、皆と同じ仕事を
きっちりとこなさなければいけない。
できるならば、休ませてあげて欲しいというのが本音だ。
甘やかすとか、そういう事じゃなくて、
辛い思いをする圭さんを見たくなかった。
それでも、絶対に仕事に穴をあけたくないと言う圭さんを
裏切るわけにはいかず、私は従うしかなかった。
- 340 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/05(月) 23:54
- ...
「そんなに薬飲まない方が…」
「うん、でも飲まないと怖いの」
そう言って処方された大量の抗生物質を手に取り、
一気に喉に流し込む彼女を見てぞっとした。
…副作用がないとも限らないのに。
けれども、薬に頼るほかなかった。
それ以外の方法を探す時間すらなかった。
毎日のように東京と地方を行き来する日々。
そんな環境で、解決策が見つかるわけがない。
私はただ圭さんの体と、彼女の主治医を
信じる事しかできなかった。
役立たずな自分が、たまらなく嫌だった。
- 341 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/05(月) 23:55
- ...
「圭さん…」
移動中の新幹線の中で、圭さんは座席にぐったりともたれていた。
他の人達からすれば、眠っているだけのように見えるんだろう。
でも、よく見ると額には珠のような汗が浮かんでいる。
彼女は眠っているわけじゃなく、じっと目を閉じて
体を苛む苦痛に耐えている。
誰にも悟られないように、たった一人で抑え込もうとしている。
そんな圭さんを見ると、こっちが泣いてしまいそうになった。
- 342 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/05(月) 23:56
- どうして私は何もできないんだろう。
なんて無力なんだろう。
もう一人の絵梨香は言っていた。
“つらい時があれば、私が見守っている事を思い出して欲しい”と。
そして、圭さんを大切にして欲しいと。
「私だって、大切にしたいよ…守りたいよ」
でも、私じゃ、役不足だ。
- 343 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:00
- 元の世界の“保田さん”もきっと、ずっとこの症状に苦しんできたんだろう。
彼女はどうやって乗り越えたんだろう。
できるならば、もう一人の絵梨香に縋りたかった。
助けて欲しかった。
でも、元の世界に戻るなんてできなかった。
今の私は、この世界のめまぐるしい環境の変化に
ついて行くのに精一杯だった。
- 344 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:00
- 思考の迷宮をさまよっていた時、
コツンと何かが私の体に当たった。
「…紙飛行機?」
誰の悪戯だろうと思いつつ手に取ると、
“絵梨香へ”という文字が入っていた。
子供っぽい、癖のある字。
紙飛行機を開くと、それは手紙に早変わりした。
- 345 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:01
-
“ホテル着いたら私の部屋に来て 明日香”
後ろを振り返ると、明日香が意味ありげな表情で
私をじっと見ていた。
一体どうしたんだろう。
明日香だったらこんな回りくどい事しなさそうなのに。
明日香の考えが読めない。
でも、私に大事な用がある事は間違いなさそうだ。
私は明日香に頷いて見せてから、自分のポケットに
それをそっと忍ばせた。
- 346 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:01
- ...
圭さんはホテルの部屋に着いて着替えるなり、
ベッドに倒れ込んで、死んだように眠ってしまった。
そんな彼女を残していくのは気がひけたけど、
明日香との約束がある。
「すぐ戻りますから」
私は起こさないように気をつけながら、そっと部屋を後にした。
- 347 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:02
- ...
明日香のいる部屋を訪れた時、彼女と同室のはずの
二人が見当たらなかった。
「紗耶ちゃんと真里さんは?」
「追い出した」
「お、追い出したって」
目を見開く私に、明日香はこともなげに話を続ける。
「気にしなくていいよ、そこらへん適当にぶらついてるだろうし。
それより座りなよ」
いいのかなあと思いつつも、明日香に促されるまま
私はベッドに腰掛ける。
- 348 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:03
- 「明日香、どうしたの?何かあった?」
そうまでして二人っきりになりたいだなんて、
よっぽど大事な話があるんだろう。
その瞬間、明日香は呆れたようにため息をついた。
「それはこっちのセリフ」
「え…何で?」
「何か悩んでるよね。話聞くくらいの時間はできたけど。
他に誰も邪魔しに来ないだろうし」
強い視線が私を射抜いた。
明日香には、何もかもお見通しなんだ。
それでも、強引に私の中に立ち入ろうとするわけじゃなくて、
ごく自然に寄り添おうとしてくれる。
だから、素直な気持ちが口から零れ出た。
- 349 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:05
- 「悩みっていうような大層なものじゃないよ。ただ自分が情けなくなってた。
どんなに守りたいって思っても、私ができる事なんてないんだって
思い知らされたから」
愛で奇跡が起きるなら…
ただ私という人間が干渉するだけで運命を変えられるなら、
誰も苦労したりしない。
それができたら圭さんの熱だってとっくに下がってる。
私は超能力者でも、医者でも何でもない、ただの子供。
圭さんの苦しみを緩和してあげる事もできない。
「本当に何もできないの?絵梨香が自分でそう思い込んでるだけじゃなくて?」
「…私だってあの人の為に何かしたいって思うよ。
でも今の私には、誰かを守れる知識も強さもない。
結局は、他人からして見れば私はただの子供でしかないし…」
こんな事を13歳の子に言っても仕方ないって分かってる。
でも、誰かに聞いて欲しかったんだろう。
そして、明日香ならきっと真剣に受け止めてくれると思った。
- 350 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:06
- 「その守りたい人が誰かってのは、まあ、あえて聞かないけど」
長い沈黙の後…意味深な事を言う明日香。
きっと、名前を出さなくても明日香には分かっているんだろうな。
「確かに、知識も力も必要な時があるよ。
でも、ただ黙って一緒にいてあげるだけでも、
相手にとっては救われる事だってあるんだよ」
本当に、そうなのかな。
私は圭さんの隣に居て、邪魔にはならないんだろうか。
「そりゃ世の中にはどれほど努力したって、どうにもならない事もいっぱいあるけど」
そう言って、明日香は私に向き直った。
「それでもね。まだ子供だからとか、そういう事を言い訳に使っちゃダメだと思うよ。
そんなんじゃ、守れるものも守れないって」
「!」
- 351 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:07
- 明日香のその言葉で目が覚めた気がした。
確かにそうだ。
私は若さを言い訳にして逃げようとしていた。
いくら肉体は13歳でも、たとえ精神的に未熟で、
明日香の足元にも及ばなくても…
私は圭さんを守るって決めたんだ。
その決意を、曲げるわけにはいかない。
- 352 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:07
- 「うん、そうだね。明日香の言うとおりだ」
本当に明日香って13歳なのかなあ。
いくつも修羅場をかいくぐって来たような貫禄があるというか。
「ありがとう、明日香。明日香がいてくれて良かった」
「何言ってんの」
明日香は大げさに顔をしかめて見せた。
照れているんだろう。
そんな明日香を見て、私は心が温かくなるのを感じていた。
- 353 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:09
- ...
私が圭さんの部屋に戻ると、彼女の閉じられていた目が
すっと開いた。
音を立てないよう気を付けたつもりだったのに。
「ごめんなさい、起こしちゃいましたね」
「ううん、ちょっと前から起きてたよ。寝たらだいぶ楽になった」
圭さんの言う通り、顔色は幾分良くなった気がする。
まだ油断はできないけれど、少しほっとした。
「そうだったんですか。ちょうど良かったです。お土産があるんですよ」
- 354 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:09
- 私は小さなタッパーを見せた。
「さっき明日香から分けてもらったんです。
安倍さん特製の杏仁豆腐ですって。食べられますか?」
「嬉しいな。冷たくてあっさりしたものが食べたいって思ってたの」
圭さんがおやつをもらった子供のように嬉しそうに笑う。
「ふふ、良かったです」
私はスプーンで杏仁豆腐をすくい、圭さんの口元に持っていく。
「えっ…いいよそんな、自分で」
「私にも少しくらい何かさせて下さい」
さっき明日香に励ましてもらったせいか、
いつもより積極的な自分がいた。
私がスプーンを更に近付けると、圭さんは
恥ずかしがりながらも口を開けてくれる。
- 355 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:10
- そのままスプーンをそっと差し込むと、
杏仁豆腐が彼女の口内に消えていく。
「……」
圭さんは無言のまましばらく口を動かしていた。
安倍さんの手作りだから、じっくり味わって食べたいんだろうな。
「おいしいですか?」
「…なっちが作ったものだって思ったら、おいしいよ」
…。
つまり、この杏仁豆腐自体はまずいって事ですか。
それに今少し間があったような。
- 356 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:11
- 「あの、無理に食べなくても…」
「ううん。全部食べる。だから、食べさせて?」
今度は、圭さんの方から口を開けてみせた。
まるで期待するようなその瞳を見ると、顔が熱くなる。
それに、圭さんの…唇、つやつやしてる。
意識しないようにと思っていても、どうしてもドキドキする。
不謹慎だって分かってるけど。
昔の私だったら、抑えられずに絶対キスしちゃってた。
私も忍耐強くなったもんだ。
そんな事を思っているうちに、圭さんはあっという間に杏仁豆腐を完食した。
- 357 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:12
- ...
それから、私と圭さんは夜遅くまで語り合った。
まだ眠くないから話相手になってとせがまれたのだ。
どうやら喉の腫れも引いて痛くないせいか、
喋りたくて仕方ないらしい。
そんな圭さんが、たまらなく可愛い。
- 358 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:14
- 「圭さんは、どうしてそこまで頑張れるんですか?」
私の問いに、圭さんは淀みなく答える。
「だって、小さい頃からの夢が叶ったんだもん。それにね」
「それに?」
「私は歌いたいの。私にとっての歌って聴くものじゃなくて歌うものだから。
何があっても歌ってたい。たとえ、自分の体を痛め付ける事になっても
ステージに立ちたい。それくらい歌が好き」
まだ17歳なのに、圭さんは自分の生きる意味をしっかりと見つけてるんだ。
圭さんが自分の夢を教えてくれた事はあった。
でも、歌に対する並々ならぬ愛を語ってくれるのは、きっと初めてだ。
圭さんはこんなにも熱い想いを秘めているんだと知り、
私はまた彼女に惹かれていく。
- 359 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:15
- 「本当に、圭さんは歌う為に生まれて来たんですね」
「きっと、そうだと思いたいな。願いが叶うなら、10年後も歌っていたい。
…和田さんには、このグループはもって2、3年だろうからそのつもりでって言われてるけど」
確かに、和田さんはそんな事を言ってましたね。
でも、圭さんの願いは叶うんですよ。
私は心の中で圭さんの言葉に答える。
「だから、私は今幸せなの。人間だから、体が辛いとか休みたいって
思ったりもするけどね。でも、それもひっくるめて全部が幸せ。
そう思えるのは、絵梨香がいてくれるからだよ」
「圭さん…」
- 360 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:15
- 曇りのない極上の笑顔。
私は、少しでも圭さんの力になれていたんだ…。
私の好きになった人は、こんなにも強くて、優しい。
人の心の機微を感じ取って、傷つく事が無いように、いつも包み込んでくれる。
そして、知らず知らずのうちに、温もりを分け与えてくれる。
私も、圭さんのようになれるかな。
この人と同じ夢を見たい。
この人の夢を守れる存在になりたい。
その為には、私ももっと強くならないと。
今まで以上に、圭さんの力になれるように。
- 361 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:16
- 数日ぶりによく喋ってくれる圭さんを見て、安心したからだろうか。
次第に眠気が忍び寄って来る。
「それでね、絵梨香…」
あれ…なんだか、圭さんの声が遠く感じる。
圭さんの話を、声を、もっと聞いてたいのに…。
なのに、自分の意思に反して、瞼が下がって来る。
- 362 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:16
- 「…絵梨香?…ふふ、寝ちゃったの?」
上から降って来る優しい声。
髪に圭さんの指が絡む感触。
ああ、今夜は、きっといい夢が見られる。
「…おやすみ、絵梨香。大好きだよ」
私は、その心地良い声を聞きながら、眠りに落ちていった。
- 363 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:17
- 第14話 守りたい人
了
- 364 名前:第14話 守りたい人 投稿日:2012/03/06(火) 00:19
- >>334
ありがとうございます、なんせやすみよ命なんで!
>>335
あれ、みーよが人気だとダメですかw
- 365 名前:あおてん 投稿日:2012/03/06(火) 00:20
- またやってしまった…
>>364はの名前欄はあおてんです
- 366 名前:あおてん 投稿日:2012/03/06(火) 00:34
- 早速某所でみおんさんからの指摘があったのでw
>>342の最後「役不足→力不足」に訂正します。
- 367 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:46
- 「先日伝えた通り、皆さんに転校生を紹介します。さ、三好さん」
複数の視線が一斉に私に集中するのが分かる。
中途半端な時期に、この学校に転校して来るのは私くらいだろうしな。
まさか、制服を着てもう一度中学生をやる日が来るなんて。
「三好絵梨香です。よろしくお願いします」
ペコリとお辞儀をして、顔を上げた瞬間、私はぎょっとした。
皆の私を見る目が妙に熱っぽかったから。
- 368 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:47
-
...
昼休みの前にクラスの皆に紹介した後は帰っていいと
担任の先生に言われたのだけど、
彼女達がそれを許してくれるはずがなかった。
私の周りにはあっという間に人だかりができてしまった。
多分、芸能人が物珍しいだけで、何度か通えば
そのうち飽きられるだろうけど。
- 369 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:48
- 「ねえねえ、三好さんって北海道から来たんでしょ?
今どこに住んでるの?」
「ずっとASAYAN見てたよ。テレビより実物の方が可愛いね」
「CD出たら買うね!今日発売なんだよね」
「モーニング娘。のお姉さん達の中では誰が一番好きなの?」
次から次へとよくまあこんなに質問を思いつくもんだ。
私はある意味感心しながら、一つ一つ彼女達に
答えを返していった。
彼女達とはそれなりに長い付き合いになるだろうから。
- 370 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:49
- ...
「ふう」
私は肩をコキコキ言わせながら校門を出た。
授業を受けたわけじゃないんだけど、さすがにちょっと疲れたな。
あそこまで質問攻めにあった記憶って、そういえばないかもしれない。
そんな時、誰かが私の名前を呼んだ。
「絵梨香」
「え!?」
小さな声だったから、一瞬空耳かと思った。
だけど、その声は確かに私の大好きな人の声。
私は慌てて周囲を見回す。
- 371 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:50
- 「お疲れ様」
「圭さん!?」
視線の先には、校門の影に隠れるように、彼女が立っていた。
どうして圭さんがここに。
「和田さんに無理言って送って来てもらったの」
そう言って圭さんは無邪気に笑って見せた。
圭さんは時々私の想像もつかない事をする。
- 372 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:50
-
「せっかくだし、これから絵梨香と一緒に見に行きたいなと思って」
「な、何をですか?」
圭さんは、決まってるでしょ?と言ってにっこりと笑った。
「今日はサマーナイトタウンの発売日じゃない。
だから、私達のCDが並んでるところを見たいんだよね」
- 373 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:51
- なるほど。
今日は5月27日。
本当は大きな店では昨日から並んでいるだろうけど、
今日である事に意味があるんだろう。
5月27日こそが、私達二期メンバーの正式なデビュー日だから。
私もちゃんと自分の目で確かめてみたいと思ってた。
圭さんが同じ気持ちでいてくれて、私を誘ってくれた事がたまらなく嬉しい。
「はいっ連れて行って下さい!」
私の力強い返事に、圭さんは満足そうに微笑んでくれた。
- 374 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:52
- ...
なんだかこれってデートみたいだ。
まさか、制服で圭さんとデートするなんて
思ってもみなかったけど。
元の世界で、“保田さん”とデートをした記憶が蘇る。
あの時は確か、朝一番に、保田さんからお誘いのメールが来て…
舞台のお稽古前に買い物して、ランチしたんだよね。
たった数時間だけの出来事だったけど、本当に幸せだった。
二人で写真も撮って、「またデートしようね」って言ってくれて…
- 375 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:53
- 「絵梨香?」
「いえ、なんでもないです」
私は保田さんの笑顔を頭の隅に追いやった。
この世界で生きる私が持っていていい記憶ではない。
今それは、もう一人の絵梨香だけのものだ。
私は目の前のこの人を離さないって決めた。
だから…
「ふふっ圭さんとデートできるなんて嬉しいです!」
はしゃいだ声を上げて、私は圭さんの手を握った。
「でっでーと!?」
一方で圭さんは目を丸くしている。
確かに、この時代じゃ女の子同士でデートするって
言葉はあんまり使わないのかもしれない。
「デート…うん、そうだね」
それでも、ゆっくりと頷きながら、すぐに握り返してくれる。
- 376 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:53
- 今はまだ、こうして二人で堂々と歩いても、振り返る人はいない。
芸能人としては喜ぶべき事ではないかもしれないけど、
今だけはそれでいいと思った。
誰にも気付かれたくない。
誰にも邪魔されたくない。
二人だけの時間。
久し振りの…ううん、この世界では、初めての彼女とのデート。
私はCDショップに向かうまでの間、
ずっと圭さんの温もりだけを感じていた。
- 377 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:54
- ...
「なんか…感動するね」
CDショップの陳列棚で、私と圭さんは微動だにせず
お目当ての物を眺めていた。
私達の目の前に並んでいるのは、9人の娘。達の姿が写った、
「サマーナイトタウン」のCD。
8センチシングルがこうしてズラッと並んでいる光景を見るのは、
なんだか不思議な気持ちだ。
今更だけど、ここはやっぱり現代じゃないんだなと実感する。
- 378 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:54
- ジャケットの写真は、やっぱり二期メンバーだけ
顔が引きつっているように思える。
これを撮影した日、私達は追加メンバーとして、
初めて一期メンバーの人達と顔を合わせた。
あれから、一ヶ月以上経ったのだ。
圭さんも何か思うところがあるようで、CDを手に取って、
ただじっとそれを見つめている。
その表情からはどんな事を考えているのかは読み取れない。
だけど、きっと今私と圭さんは同じ気持ちでいると思う。
- 379 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:56
- 「絵梨香…この日の事、忘れないでおこうね」
「はい…絶対忘れません」
忘れるわけがない。
二期メンバーのデビュー日。
そして、初めて私の存在がこの世界の人達に
受け入れてもらえる日。
「もうひとつの、誕生日みたいなものですもん」
「そうだね…来年も、再来年もこの日を
二期メンバーでお祝いできたらいいね」
私は頷いて、繋がったままの圭さんの手をぎゅっと握り直す。
誰ひとり欠ける事なく、モーニング娘。のメンバーとして活動していられたらいい。
そう願い続けた。
- 380 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:57
- ...
6月某日。
この日、メンバー全員が集められた。
オリコンチャートの順位が判明する日。
と言っても、私は結果を知っているんだけど。
確か、記憶が正しければ5位前後だったような…。
曖昧だけど、確実に10位以内には入ってはいたはずだ。
おそらく、この世界でも順位に関しては大きな変動はないと思う。
ゆっくりと、私は下からも文字を追っていく。
- 381 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:58
- 「あれ?」
だけど、あるべき場所にモーニング娘。の名前がない。
おかしいな。
私の記憶違いだろうか。
ううん、そんなはずはない。
「え…」
その名前は、想定外な場所で見つかった。
いや、そんな言葉では片づけられない。
だって、これは…本来ありえない事だ。
- 382 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 01:59
- いや、待って。
落ち着いて、もう一度見てみよう。
下から上、上から下へと何度も視線を移動させる。
そうしている間も、周囲のざわめきが徐々に大きくなっていく。
「ウソ…」
その数字をはっきりと目にした時、私の声は震えていた。
- 383 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:00
-
「よくやったな、お前ら」
和田さんが珍しく笑顔を浮かべ、
私達を褒め称えてくれている理由…
それは…
「1位…」
サマーナイトタウンがオリコン1位…
1位!?
ウソだ。
元にいた世界では、娘。がオリコン1位を初めて獲得した曲は
次曲の「抱いてhold on me」だ。
それが、どうして…。
- 384 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:00
- オリコン表を穴があくほどにじっと見つめる。
それでも順位は変わらない。
飛ぶ鳥を落とす勢いのアーティスト達を押さえて、1位…。
そんな事、あっていいの?
私の知っている歴史と違う…。
元の世界と違うのは、私がこのグループに加入した事。
人数が一人増えた。
ただそれだけのはずなのに、どうして?
- 385 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:01
- 「や、やったああ!」
「よっしゃー!」
周囲から次々と歓喜の声が上がり始める。
でも、私は素直に喜びを表せなかった。
それよりも、別の感情の方が大きかった。
驚愕。
そして一種の恐怖。
- 386 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:01
- その時、隣にいた圭さんの体がぐらっと傾いた。
「!圭さん」
私は慌てて彼女の肩を支える。
「ご、ごめん…びっくりしちゃって…」
どうやら腰が抜けたようだった。
「ねえ、絵梨香、これ夢じゃないよね?」
私は声に出せず、答える代わりにただ何度も
頷くしかできなかった。
この世界は、夢じゃない。
それはもう一人の絵梨香も認めていた。
- 387 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:03
- 怖かった。
今まで、自分は未来を知っているのだという安心感があった。
だからこそ、史実通りに行動すれば、
きっとうまくやっていけると思っていた。
でも、自分の力なんかではどうにもならない事があると知った。
それが今だ。
どんどん自分の知っている歴史とズレが生じて来ている。
このままいけば、いずれ全く私の知らない世界になってしまうだろう。
- 388 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:05
- メンバーは涙を流し、抱き合いながら喜びを分かち合っている。
その中で唯一、明日香だけが落ち着きはらっていた。
「福田、嬉しくないのか?」
「嬉しいですよ、すごく。
でも、オリコン1位が全ての1番じゃないから」
彼女の言葉に、すっと頭が冷える。
その通りだ。
- 389 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:05
- 邦楽界では豊作だらけのこの時代に、
ランクインするだけでも凄い事。
なのに、1位を取れたとなれば、浮かれ切ってしまうのが普通だ。
でも、一度トップに立てたからといって、それが全てじゃない。
今回の事はきっと、私達の本当の実力とは言えない。
名曲を生み出しても、才能があっても、
トップに立てないまま消えていってしまうアーティストだっている。
- 390 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:06
- 目先の事象に振り回されてはダメだ。
心を乱してはダメだ。
ASAYANの宣伝力とリリースのタイミング、
さらに運という要素が加えられて、そうなったのだ。
それに、売上だけが勲章じゃない。
少なくとも、今の自分にとって、
必ずしも誇りとなると言い切れるものではなかった。
- 391 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:07
- 確かに、私達はこれからも上を目指し続けないといけない。
そしてチャート上位に食い込む事を
常に目標としなければいけないだろう。
どれほど綺麗事を言っても、ここは商業主義の世界なのだから。
- 392 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:09
- でも、私には売上よりも大事な事がある。
それを見失わないようにしなければならない。
歴史がまた一つ変わってしまった事は引っかかるけれど、
それを踏まえた上で、ちゃんと地に足を着けないといけない。
恐れちゃいけない。
歴史が変わろうと、これからも私は前を向いて歩かないと。
そして少しでも私達の運命を良い方向へと持って行けるように、
このまま突き進んで行くだけだ。
私は、圭さんの肩を抱いて、強く決意した。
- 393 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:09
- ...
その夜、和田さんが私達をホッケのお店に連れて行ってくれた。
オリコン1位を取ったお祝いらしい。
「いいなー大人は。なっちも飲んでみたいなあ」
さっきから安倍さんは、大人組が手に持っているグラスの
お酒を物欲しそうに眺めている。
「ダメダメ、そういうの私許さないからね」
「彩っぺは変なとこ固いな。裕ちゃんが口移しで飲ませたろか?
飲みたいんやろ?」
飲みたい。
口移しとかは抜きにして、私もものすごく飲みたいです。
- 394 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:10
- その時、中澤さんと目が合う。
彼女は私の気持ちを読み取ったかのように、
にやっと笑いグラスを掲げて見せた。
「ん?あんたも飲むか?」
今なら和田さんも席を外している。
チャンスだ。
思わずごくっと唾を飲み込んだ時、彩さんの決定的な一言が。
「あんた身長伸ばしたいんでしょ?
成長期に酒とかタバコやったら身長止まるよ。いいの?」
そ、それは困る。
せめて圭さんの身長は追い越さないと。
- 395 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:11
- 「…我慢します」
「よーしよし、いい子いい子」
彩さんは私の頭をぐりぐりと撫でた。
ちょっと痛い。
お酒が入っているからか、中澤さんや石黒さんも
今日はやけにフレンドリーだ。
1位を取れたからというのも一因なんだろう。
せっかくだからと、私は抗わずに素直に彩さんに体を預けていた。
まさにその時だった。
- 396 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:12
- 「ちょっと絵梨香、あんた何やってんの!」
お手洗いから戻って来た圭さんが、私の手首を強く掴んだ。
「いっ痛い痛い」
「ちょっと来なさい」
痛がる私にもお構いなしに、圭さんは私を再度お手洗いに連行する。
私は抗う事もできず、そのまま引きずられて行った。
- 397 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:14
- 二人きりになったのを確認すると、圭さんはじろりと私を睨んだ。
「まさか飲酒してたんじゃないでしょうね?
あんなとこ和田さんに見られたら殺されるよ」
「し、してないですって」
そりゃ誘惑に負けそうにはなったけど。
- 398 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:15
- 1998年に来てから私はずっと禁酒している状態。
そして、好きな人が手に届くくらい近くにいるのに、
手を繋いだり軽く抱きしめるのが精一杯。
こっちに来てからというもの、つくづく禁欲的な生活してるな。
私は思わず苦笑いした。
「な、何?」
「いえ。それより顔が赤いですけど」
そう言って、圭さんの頬に手を当ててみる。
「実は圭さんこそこっそり飲んでたんじゃないんですか」
「ち、違う。これは…お酒の匂いにあてられたから」
- 399 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:16
- 彼女は頬から首元にかけて、うっすらと朱に染まっている。
それを見るだけで胸が熱くうずく。
「ふふ、冗談ですよ。熱はないんですよね?」
「心配しないで。そんなしょっちゅう出るわけじゃないから」
本当は、彼女がほぼ毎日のように抗生剤や解熱剤を飲んでいるのを
私は知っている。
扁桃腺が腫れて、またいつ高熱が出るか分からない恐怖。
それでも、周りにはそんな素振りすら見せず、
気丈に振舞っている圭さん。
圭さんを知る度に、どんどん惹かれていく。
- 400 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:17
- 「…絵梨香?」
本当はもっとスマートに抱き寄せたかったのに、
この体じゃしがみつくような形になってしまう。
「圭さん…」
実は私も、アルコールの匂いにあてられて
しまっているのかもしれない。
普段だったら、この衝動をどうにかして抑え込んだのに。
私、アルコールに弱い方じゃなかったと思うんだけどな。
- 401 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:18
- 「あの…私…」
「うん」
あなたが好きなんです。
そのたった一言も、口に出せなかった。
初めて1位を取れた時、私は圭さんに告白するつもりだった。
一緒にビッグになる…その夢が叶った時、
私の本当の気持ちを伝えようと思っていた。
でも、歴史は変わってしまった。
- 402 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:18
- まさか、「サマーナイトタウン」で1位を取るだなんて
夢にも思わなかった。
さすがに、まだ彼女に想いを告げる時期じゃない。
それに、1位を取ったからといって、ビッグになったわけじゃない。
まだ夢を掴んだわけじゃない。
その事に気付いたから。
だから、今は何も言わない。
ただ、こうしているだけでいい。
それだけでいいんだ。
- 403 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:18
- ...
その時、けたたましい声が耳をつんざいた。
「あー!見つけた!」
真里さんだ。
私達は反射的に体を離した。
「矢口…どうしたの?」
圭さんは平静を装っているようで、どこかぎこちなさが残っていた。
かく言う私も、笑顔が引きつっている。
それでも、矢口さんは気が付いていないようだ。
- 404 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:19
- 「どうしたのじゃないよ。今まで何してたんだよー、
中澤達が酔って暴れて大変なんだから」
そう言えば、ベロベロに酔った中澤さんって見た事ないかもしれない。
ちょっと興味あるな。
「ベタベタベタベタ、マジでタチの悪い酔っ払いだよ。
圭ちゃん達も助けてよ」
「分かった分かった、今行くから」
- 405 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:20
- 矢口さんの乱入によって、さっきまでの言葉に表せない雰囲気は
一気にかき消えた。
だけど、これで良かったのかもしれない。
圭さんといられる時間は、まだまだたくさんある。
たとえ想いを秘め続ける事になっても、側にいられるだけで幸せだから。
“保田さん”と離れてから、私はそれを知った。
だから、焦らずに、今はその時間を大切にしようと思った。
- 406 名前:第15話 アニバーサリー 投稿日:2012/03/09(金) 02:21
- 第15話 アニバーサリー
了
- 407 名前:あおてん 投稿日:2012/03/09(金) 02:22
- みーよはセーラーなのかブレザーなのか…
最後の矢口さん→真里さんに訂正して下さいorz
- 408 名前:七誌 投稿日:2012/03/10(土) 02:40
- 些細な異変ですが、気になる異変ですね
この先どうなるのか楽しみです
- 409 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:19
- 「ファーストタイム」のレコーディングもいよいよ終盤。
初めてのアルバムの完成を間近に控えているにもかかわらず、
ここ数日、中澤さんの表情が沈んでいた。
つんくさんや橋本さんに歌を厳しく注意されたわけでもないのに。
その理由を、後々私は知る事になる。
- 410 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:20
- ...
休憩中、適当に雑誌を眺めていると、
圭さんまでもが暗い顔をしてスタジオに戻って来た。
飲み物を買って来ると言っていたはずなのに、手に飲み物の類は持っていない。
それどころじゃなかったようだ。
「ど、どうしたんですか?」
「中澤さんの事、怒らせちゃった」
恐ろしい言葉に、周囲の空気が冷え込んだ気がした。
主に、二期メンバーの周りでだけど。
「えっ…」
「中澤さん、演歌でソロデビューが決まったじゃない?
だから、おめでとうって言ったんだけどね…」
- 411 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:21
- 「はぁ…」
彼女の説明に、私は間抜けな声を漏らしてしまった。
圭さんに限って失礼な振舞いをするわけがないと思っていたけど、
間違ってはいなかったようだ。
メンバーのソロデビューが決まったら、普通は祝福するもの。
一体、怒る理由がどこにあるのだろうか。
中澤さんの怒りの沸点がよく分からない。
- 412 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:22
- 「どうしてそれで怒るんですか?」
「私は小さい頃から演歌をお母さんに習ってたから、
抵抗なんて全くないんだけどさ。中澤さんは演歌が嫌だったみたい」
確かに、圭さんは特殊な例であって、
演歌は本来一般的にはそれほど馴染みがないものだ。
でも、そんなに嫌がる事かな。
ソロデビューが決まったのは、どう考えても喜ばしい事なんじゃないのかな。
- 413 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:22
- とりあえず、このままじゃスタジオの空気は最悪なままだ。
どうにかしないといけない。
「ちょっと、様子見て来ますね」
「あ、やめといた方がいいよ今不機嫌度MAXだから」
「大丈夫ですよ」
私は気が付けば真里さんの忠告も聞かず、
中澤さんの元へ向っていた。
- 414 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:23
- ...
「…」
中澤さんは一人でロビーのイスに座り、じっと虚空を見つめていた。
怖い顔してるなあ。
明らかに、誰も近寄るなというオーラを振りまいている。
「…なんやの」
私の存在に気付いても、彼女は視線を合わそうとしない。
普段よりも一オクターブ低いその声は、
他人を威嚇しているような気がした。
- 415 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:24
- 私、どうしてこんなとこに来ちゃったんだろう。
そっとしておいた方が良かったはずなのに。
それでも、このまま引き下がるわけにいかず、
私は圭さんのフォローをする事にした。
「あの、圭さんも悪気があって言ったわけじゃないんで…」
私の言葉にも、中澤さんはフンと鼻を鳴らすだけ。
とりつくしまがないってこういう事を言うんだろう。
「あ、あと、ソロに選ばれるのって凄い事だと思いますよ。
だって誰もがソロをやれるわけじゃないんですか…」
- 416 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:25
- 「わかっとるわそんな事!」
突然、ドンと鈍い音が周囲の空気を震わせた。
それが中澤さんが拳を壁に打ち付けた音だと分かり、私は内心震えあがる。
「ウチかて…わかっとるんや」
中澤さんの表情はここからじゃ見えない。
今の私には、見ようとする勇気もなかった。
「…すみません」
私はそれ以上この場に留まる事に耐えられなくなり、踵を返した。
私がいても、余計に彼女を嫌な気持ちに
させてしまう事は分かり切っていたから。
- 417 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:27
- ...
「どうだった!?」
真里さん達の問いかけに、私は力なく首を横に振った。
「もー、だから言ったじゃーん。
ああいう時は関わらないのに限るんだって」
真里さんの言う通りだ。
私は結果的に火に油を注ぐ事しかできなかった。
こんな時、彩さんだったらもっと上手く立ち回れるのかな。
石黒さんに関しては、“彩さん”と呼べるくらいの間柄にはなれたけど、
まだ中澤さんとはどうしても距離を感じてしまう。
- 418 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:27
- 「サマーナイトタウン」で1位を取って、
私達は9人でひとつなんだと思った。
世間にもそれが認められたんだと考えていた。
でも、そう思っていたのは私だけだったのかもしれない。
やっぱりこういう時、私達と1期の間には
まだ相容れない何かを感じてしまう。
- 419 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:28
- 彩さんなら何とかしてくれるかもしれないと考え、
思い切って相談してみたんだけど…
「ほっときな」
私の僅かな希望は、その一言によって粉砕されてしまった。
「裕ちゃんだって今色々葛藤してるんだから。
大人の悩みに子供が干渉するんじゃないよ」
子供…
彩さんの言葉に、私はがっくりとうなだれた。
確かに、私は他人から見ればただの13歳の子供でしかないし。
子供に心配されても中澤さんだって鬱陶しいだけだろうな。
私達は素直に彼女の助言に従って、
しばらくは中澤さんと距離を置く事にした。
- 420 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:29
- ...
それから数日たった時だった。
「そういえば、そろそろ中澤さんの誕生日なんじゃない?」
圭さんの言葉に、私、真里さん、紗耶ちゃんが
ハッとしたようにお互いの顔を見合わせた。
中澤さんの誕生日って…6月19日だったよね。
- 421 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:30
- 「プレゼント用意した方がいいよね?」
「えー、中澤、目の前でポイッとかやりそうじゃない?
今すっごいピリピリしてるし」
「さ、さすがに中澤さんもそこまでは…」
真里さん、穿った見方をし過ぎだと思います。
その時、圭さんがすっくと勢い良く立ち上がった。
「な、何だよ圭ちゃん」
「ねえ、ここは二期メンバーで共同でプレゼント贈ろうよ!」
圭さんの提案に、私はすぐに首を縦に振った。
本当にこの人優しいな。
きつく当たられたばかりなのに、もう誕生日を
祝ってあげる事を考えてる。
- 422 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:31
- 「絵梨香ちゃん、石黒さんにプレゼント渡したって言ってたよね。何あげたの?」
「一応、札幌限定のコスメを…」
「コスメかあ。やっぱりそれが一番いいかもね。
食べ物はこの時期ちょっと危ないし好み分かんないし」
「それで中澤の機嫌が直ってくれたらいいんだけどね」と真里さん。
結局プレゼントの第一候補はコスメになったらしい。
そうして、私達は明日レコーディングの後に、
四人で街に行ってプレゼントを物色する事にしたのだった。
- 423 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:32
- ...
「コスメって言ってもなあ。どうしようか」
「あんまり高いのは無理だよねえ」
四人でああだこうだと意見交換をしながら、
コスメコーナーを見て回る。
その時、ふと視線を感じた。
私はその視線の元へと顔を向ける。
そこには、OLさんっぽい二人組が立っていた。
- 424 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:33
- 「あの、もしかして三好絵梨香ちゃん?」
「は、はい、そうです」
私の名前、知っててくれてる!?
一気に鼓動が速くなる。
街で名指しで声を掛けられるなんて、本当に数えるほどしかなかった。
いや、この世界でなら、おそらく初めてだ。
しかも、女の人に声を掛けられるだなんて。
- 425 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:33
- 「うたばん見てファンになったんです、握手してもらえます?」
「あ、ありがとうございます!よろこんで」
信じられない言葉に一瞬自分の耳を疑った。
だけど、私はすぐに両手で彼女の手を握りしめる。
挙動不審に見えていないだろうか。
不安になりながらも、私は彼女達と次々に握手を交わした。
正直、握手会よりも緊張する。
- 426 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:34
- 「今日の事を糧にこれからも頑張りますので、応援よろしくお願いします」
「か、かわいいーっ」
精一杯の笑顔を向けると、二人組のお姉さんは
きゃっきゃと黄色い歓声を上げる。
笑顔ひとつで、こんなにも反応を返して
もらった事があっただろうか。
なんだか、凄く贅沢をしている気分。
「これからも頑張ってね!」
ただ握手に応じただけなのに、彼女達は
何度もお礼を言いながら立ち去って行った。
- 427 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:35
- そういえば、うたばんが先日オンエアされたんだよね。
テレビの影響力って…私が考えていたよりもずっと凄いんだな。
この時代の人達の大半は、主にテレビや雑誌から情報を得てるんだもんね。
もう私の名前を覚えてもらってるだなんて…
未だに信じられない。
- 428 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:36
- 呆然としていると、後ろから真里さんがのしかかって来た。
「うわっ」
「へえー、すっごいじゃん絵梨香。
絵梨香ってお姉さま方に人気があるんだあ」
「いや、たまたまでしょう」
そうは思っていたけれど…
行く先行く先で、何故か私が真っ先に
通りすがりの人に声を掛けられた。
きっと、うたばんで変に悪目立ちしちゃったから
記憶に残ってたんだろうな。
- 429 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:36
- 「絵梨香って二期メンじゃ一番顔覚えられてんじゃないの?
センターになれるかもよ?」
「や、やめて下さいよもう…」
口では否定しつつも、私は喜んでしまっていた。
だって、私の名前を覚えていてくれているという事は、
モーニング娘。のメンバーとして認識してくれているから。
元の世界にいた頃とは違う。
私は圭さん達と同じ場所にいるんだって実感できた。
正直、浮かれていた。
だから、そんな私を、圭さんが複雑そうな顔で
見ていた事には気付きもしなかった。
- 430 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:37
- ...
私達が中澤さんの誕生日プレゼントに選んだのはマニキュアだった。
決して高い物ではないけど、この際値段は関係ないと思う。
大事なのは気持ちだ。
彩さんだって、大した物はあげられなかったけど、凄く喜んでくれた。
それはきっと私の気持ちが伝わったからだ。
だから、中澤さんにも真心が伝わればいいなと思う。
でも、今回は四人分の気持ちを一度に届けなくてはいけない。
マニキュアだけじゃイマイチ弱いという事で、
私達はホテルの部屋で、中澤さんへ宛てる手紙の内容を考えていた。
- 431 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:37
- 「裕ちゃん、25歳の誕生日おめでとう…っと」
「バカッ年齢は入れない方がいいって」
気持ちを手紙で伝えるのもなかなか難しいもんだな。
なんだかラブレターを書いているような心境だ。
いや、ちょっと違うかもしれないな。
だけど、思考錯誤しながらも、ひとつのものを
作り上げる時間はとても充実していた。
楽しい時間はあっと言う間で、手紙が完成する頃には、
既に午前二時を過ぎていた。
- 432 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:38
- ...
ダンスレッスンの合間に、私達は中澤さんを呼び出した。
「何…?」
当の本人は何の目的で呼び出されたのか
未だに分かっていないのか、少し警戒しているようだった。
「え、えーと、その、おめ…」
「裕ちゃん、誕生日おめでとう!」
私が最後まで言い終わらないうちに、真里さんが
大きな声を響かせ、プレゼントを中澤さんに突きつけた。
- 433 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:39
- 「お、おめでとうございます」
「おめでとう」
「おめでとー!」
彼女が勢い良く先陣を切ってくれたおかげで、
緊張がほぐれたのか、次々とおめでとうコールが湧き上がる。
戸惑っていた中澤さんも、やっと状況を把握できたようだ。
- 434 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:39
- 「…あー…中、見てええんかな?」
「もちろんです」
中澤さんは、まずはおそるおそる四つ折りにされた便箋を開き、
それに目を通し始める。
あれ?
彼女の目が心なしか潤んできているような…
そう思った時には、彼女の目がらぽろりと透明な雫が落ちた。
「え!?」
もしかして、感激してくれてるの?
- 435 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:40
- 「おおきに…」
最初は半信半疑だったけど、彼女の言葉で、
その推測が的外れではない事を知った。
華奢な肩を震わせて、静かに涙を流す中澤さん。
大人の女性というよりは、なんだか幼い少女のようで、
抱きしめてあげたくなった。
でもさすがに行動に移す勇気はまだなくて、
肩を抱くだけで精一杯だったのだけど。
- 436 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:40
- 「ふっ、無理して“裕ちゃん”なんて書いて…」
そう言って、中澤さんは指先でゆっくりと文字をなぞる。
「ごめんな、あの時はあんたらに当たってもうて…。
ホンマの事言うとな、演歌が嫌やったんやない。怖かったんや。
いきなりソロやなんて、ウチがモーニング娘。に必要ないって
遠回しに言われとるんやないかって」
「中澤さん…」
最初は怖い人だって思ってた。
慣れない関西弁が私にとってはきつく聞こえる事もあった。
確かに、難しい人ではあるかもしれないけど。
でも、やっぱり彼女は可愛い人なんだなって再確認する。
- 437 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:41
- 「そんなわけないじゃないですか。
中澤さんがいなくちゃモーニング娘。は始まりませんよ!
私達は、いつでも中澤さんについて行きますから」
「もう、せっかくここに“裕ちゃん”って書いてあるんやから、
ちゃんとこれからは裕ちゃんって呼んでーな」
「わ、私もですか?」
「当たり前やないの。いつまでも中澤さんなんてよそよそしいわ。
ほら、呼んでみ」
こうまで言われては、“中澤さん”呼びは諦めなくてはいけない。
私は、一呼吸置いて、ゆっくりと唇を動かした。
「ゆ…ゆう、ちゃん」
「よし、これからは全員裕ちゃんで統一な」
たどたどしい呼び方でも、裕ちゃん…は
喜んでくれているみたいだ。
- 438 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:43
- 「せっかくあんたらから初めてもらったプレゼントや。大事にとっとくわ」
「えっダメですよ、固まっちゃうじゃないですか!ちゃんと使って下さい」
「冗談や。ありがたく使わせてもらうな」
涙を拭いながら冗談交じりに笑う彼女は、やっぱり可愛らしい。
なんだかこっちが素敵なプレゼントをもらったみたいだ。
普段もそうやって笑っていればいいのにな。
さすがにそれは口に出せず、胸の内に秘めて置く事にしたけれど。
この日…私達は久し振りにゆるやかな空気に身を浸す事ができた。
- 439 名前:第16話 幸福のプレゼント 投稿日:2012/03/11(日) 23:43
- 第16話 幸福のプレゼント
了
- 440 名前:あおてん 投稿日:2012/03/11(日) 23:44
- >>408
ありがとうございます。グダグダと続いてまだ大きな波がない状態ですが、
気長に待っていただけたら幸いです。
- 441 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/03/12(月) 01:56
- みーよがこの設定にどんどん馴染んでくのが楽しいですw
- 442 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:18
- 中澤さんの誕生日を迎え、ダンスレッスンが終わり、ほっとひと息…
つく暇がなかった。
気が付いた時には、映画の撮影が始まっていた。
娘。だけじゃなくて、あの平家さんも一緒。
と言ってもそんな本格的で大がかりな映画じゃなくて、
まさにアイドル映画という感じ。
与えられたセリフも極端に少ない。
元いた世界では舞台漬けの日々で、演技には慣れているはずだった。
だから苦戦する事はないと思っていたんだけど。
- 443 名前:第17話 投稿日:2012/03/15(木) 23:19
-
「まいった…」
目のやり場に困る。
一緒に着替える事は少し慣れたけど、これは…
憧れの先輩達の水着姿を、まさかこうして間近で見れるなんて。
ある意味壮観だ。
でも、あんまりジロジロ見たらこの邪な感情がバレそうで怖い。
- 444 名前:第17話 投稿日:2012/03/15(木) 23:20
- 「水着なんて最悪…私なんか似合わないのに」
眉間にタテ皺を作ってぼやいている明日香に、私は慌てて首を横に振った。
「何言ってんの、明日香の水着姿可愛いよ?可愛いから困ってるんだよね」
「え?」
「あ、いや…何でもない」
そう、この映画は水着シーンの撮影もあるのだ。
9人の水着姿を前にして、冷静でいろという方が無理な話。
…って、私はスケベオヤジか。
そう思っていた時、私よりも更に上がいた事を知った。
- 445 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:21
- ...
「姐さん、綺麗な脚しとんなあ」
「もうー。いややわあ、みっちゃん」
平家さんに脚を撫でられ、裕ちゃんが甘えた声を出している。
セクハラ攻撃を受けているのに、その表情は嬉しそうだ。
目が合った瞬間、平家さんがにやりと笑う。
逃げる暇もなかった。
あっという間に平家さんの手が伸び、すかさずお尻にタッチされる。
「うひゃっ」
「お?おもろい声出すなあ。触り甲斐あるわあ」
「く、くすぐったいですよ」
- 446 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:22
- やけに手慣れている。
普段から一期メンバーの人達に触りまくっていたんだろう。
「みっちゃん、その子13歳やから手加減したってーな。
触るならなっちあたりにしい」
裕ちゃんの言葉に、平家さんはあっさりと手を離す。
平家さんってフランクな人なんだな。色んな意味で。
なんだか、昔の私を見ているようだった。
私も、ハロコンの舞台裏ではやりたい放題好き放題してたな。
だから手あたり次第女の子に触りたいと思う気持ちは分かるんだけど。
「ぎゃあっ」
「って、何やってんですかあ!」
圭さんのお尻にまで手を出した平家さんを見て、
私は慌てて止めに入ったのだった。
まったく、油断も隙も無い。
- 447 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:23
- ...
撮影は順調だった。
NGを連発する事もなく、監督に怒鳴りつけられる事もなく。
待ち時間がやたらと長かったけれど、この時間のおかげで、
一期メンバーと二期メンバーの結束がより強くなった気がする。
皆はどう思っているか分からないけど、
私としてはこの映画に参加できて良かったと、心から思った。
- 448 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:24
- ただ、徹夜続きの撮影ともなれば、皆のテンションが少しおかしくなっていた。
「ねえ、あなたはどうしてそんなにちっちゃいの?」
安倍さんは差し入れのフルーツを手に取り、それと会話をしている。
圭さんはその様子を目の当たりにして、
どうリアクションを取っていいのか分からないようだ。
「なっちって宇宙人だよね」
真里さんのその言葉には、安倍さんを天使のようだと評していた
圭さんまでもが頷いていた。
「正直、ここまでぶっ飛んでるとは思ってなかった。
やっぱり人ってのは直接接してみないと全然分かんないもんだね。
こういうなっちも可愛いんだけど」
- 449 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:24
- 「それを言うなら飯田さんも相当だと思いますけど…」
私はさっきから意味不明な寝言を言っている飯田さんへと近寄った。
そして、肩をそっと揺さぶる。
「飯田さん、起きて下さい。そろそろ撮影再開ですって」
「…んん…圭織、目が開けられないの。
電磁波の影響で瞼と瞼がくっついて離れなくなっちゃって…」
「何わけわかんない事言ってるんですか」
- 450 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:25
- ここまで個性的なメンバーがそろったモーニング娘。
というグループは、すごく素敵なグループだと思う。
でも、上に立つ立場の人からすれば、そうは言ってもられないんだろうな。
この人達をまとめないといけない裕ちゃんは大変な思いをしているだろう。
中身はいい大人だけど、私にはリーダーなんて絶対に無理だ。
私がリーダーになる事なんてないだろうけど、私は一人そんな事を思っていた。
- 451 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:26
- ...
那須での撮影がひと段落し、東京のホテルに戻ってからは、
私達は定期考査に向けての対策を練っていた。
まあ、学生の本分は勉強だからね。
主に、真里さんが私と紗耶ちゃんの家庭教師担当だ。
なんでも真里さんは神奈川トップ3に入る進学校に通っていたらしい。
いくら一度中学生をやったとはいえ、もう10年以上前の話だし、
私も現役の真里さんに教えを乞うのが一番だと思った。
ところが、途中で飽きてしまったのか、真里さんは
自分のテキストを閉じて筆記用具を片づけ始めた。
- 452 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:27
- 「そんな。真里さんってばー」
「もういいよ私は諦めた。今日ショムニ最終回だし」
そう言って真里さんはテレビをつける。
今頼れるのは真里さんだけだったのに。
「私ワールドカップ見たい」
と便乗する紗耶ちゃん。
彼女も既に勉強を放棄してしまったようだ。
「えー、日本出ないじゃん」
二人の会話を聞きながら、私は仕方なく一人で教科書に向き直った。
義務教育だから卒業可能だろうけど、できる事はしておきたいと思ったのだ。
- 453 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:29
- ...
そんな時、そっと誰かの手が肩に置かれた。
「ちょっと私にも見せてくれる?」
顔を上げると、圭さんが私の教科書を覗き込んでいた。
邪魔にならないように、とさっきまで部屋の隅で
文庫本を読んでいたのに。
実は私達を見守ってくれてたのかな。
- 454 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:29
- 「勉強見てくれるんですか!?」
「その、私そんなに真面目に学生やってたわけじゃないから、
役に立てるか分かんないけど」
好きな人に勉強教えてもらうって夢だったんだよね。
あれほど気になっていたテレビの雑音が一気に遠のいた。
「是非、お願いします!」
私が勢い良く頭を下げると、圭さんは快く了承してくれた。
- 455 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:30
- ...
こうして向かい合うのは、なんだか照れてしまう。
間近で見る圭さんの瞳。
可愛らしい唇。
色っぽい顎のホクロ。
やっぱり間近で見ると、圭さんの初々しい肌に触れたくなる。
「絵梨香、ちゃんと聞いてる?」
「えっ?」
「もう、ちゃんと聞いてなかったんでしょ」
「ご、ごめんなさい」
それでも、圭さんは懸命に問題と向き合って、
親身になって教えようとしてくれている。
私は気持ちを切り替える事にした。
- 456 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:31
- ...
「ねえ、圭さん。ここは…」
質問をしようと顔を上げると、目の前には圭さんのしかめっ面。
「えーっと…これどうやるんだったっけ?」
圭さんまで同じ問題で頭を悩ませていた時は、
なんだか可笑しくて笑ってしまった。
他人の為にこんなに必死になってくれる圭さんが愛しかった。
- 457 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:31
- それからしばらく圭さんに付き合ってもらっているうちに、
だんだんと学生時代の感覚を取り戻せて来た。
高校受験も経験していて、ひと通り基礎はやっているんだから、
てんで理解できていないわけではない。
勉強が好きなわけじゃ決してない。
けど、この時間がとても幸せ。
圭さんに教えてもらえるなら、きっと何時間でも飽きない。
彼女がいてくれるから、どんな事も頑張れる。
仕事だけじゃなくて、勉強だって。
- 458 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:32
- ...
「圭さん?…圭さん?」
さっきから一言も発さない圭さんが気になって目線を向けると、
彼女はイスにもたれて目を閉じていた。
そっと近付くと、小さな寝息が聞こえる。
時計を見ると、針は既に遅い時刻を指していた。
無理もない。
- 459 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:33
- 「よい…しょっと」
私は既に夢の中にいる圭さんの体を抱きかかえ、
ベッドにそっと下ろす。
以前、圭さんが熱を出した時、私が彼女を運んだ事がある。
その時よりもずっと軽い気がする。
気のせいじゃない。
おそるおそる頬に触れると、柔らかな手ごたえ。
でも、それはすぐに硬い骨の感触に辿り着く。
額にはうっすらと血管が浮き出ているように感じる。
- 460 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:33
- …明らかに痩せた。
痩せたのはなにも圭さんだけじゃないのだけど。
毎日のようにダンスレッスンやボイトレをして、
睡眠時間も大幅に削られているのだ。
そんな時期に、自分の目的の為に圭さんをこんな時間まで
付き合わせてしまって申し訳なく思った。
「ゆっくり休んで下さい」
私は圭さんに布団をかけてあげてから、再度教科書に向き合った。
忘れないうちに、圭さんに教えてもらった事を
少しでも多く吸収しておきたいと思ったから。
勉強会のおかげで、試験は納得のいく結果を
出す事ができそうだった。
- 461 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:34
- ...
今日もダンスレッスンだ。
東京に戻ってから、ひたすらダンスレッスンばかりしている。
全身からは滝のような汗が流れ落ちる。
きっと今頃体内の脂肪が燃焼しているんだろうな。
確かに、これで痩せなきゃウソだよね。
当時のモーニング娘。の人達は、見えないところでこんなに
苦労してたんだなと、尊敬の念を抱いた。
今は私もその一員なんだけど。
「はい、いったん休憩」
夏先生の一声に、皆が一斉に床にへたり込む。
「きっつー」
「マジでシャレになってないって」
- 462 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:35
- 明日香の方を見ると、明らかに顔色が悪かった。
「明日香、大丈夫?ちゃんと水分補給した方がいいよ」
「うん…わかってる」
明日香は私の助言に従い、ペットボトルの水を
ゆっくりと喉に流し込む。
「…いつにも増して元気ないね」
「絵梨香には何でもお見通しだね。
試験がボロボロだったから、ちょっとブルーなんだ」
試験…
そういえば、明日香の学校では、一番早く定期考査が
実施されたんだった。
- 463 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:35
- 「学校に行ける回数も、勉強する時間も極端に減ったし。
だんだんバカになってるみたい。
なんか、私このままでいいのかなあって思ってさ」
そう言って明日香はどこか遠くへ目線を送る。
憂いを帯びた明日香の横顔は、はっとするほど色っぽかった。
こんな大事な話をしてくれている時に、私ったら何考えてるんだろう。
- 464 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:36
- 「明日香、まさかやめたいなんて思ってないよね」
「あはは、さすがにまだやめたりしないよ。
モーニングは始まったばっかりじゃん」
「…まだ?」
私の問いには答えず、明日香は皆の輪の中に戻って行った。
そんな明日香の後ろ姿を、私は複雑な思いで見ていた。
- 465 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:36
- 二度目の中学生をやっている私でさえ、
勉強と仕事の両立はさすがにつらいと感じる時がある。
明日香のキャパはいっぱいいっぱいなのだろう。
当然だ。
いくら大人びていても明日香はまだ13歳なんだから。
聞きたい事は山ほどあった。
でも、今追及したって明日香を追い詰めると分かり切っていた。
だから、私も素直にその話はここで終わらせる事にした。
- 466 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:37
- ...
遂に初のコンサートの日。
朝目覚めてから、私の心臓はずっと落ち着かない。
この感じ…
懐かしいな。
ハロコンを思い出すよ。
- 467 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:38
- 「はぁ、どうしよ…絵梨香、始まっちゃうよ」
一方で、圭さんの手が小刻みに震えている。
「大丈夫ですよ、毎日あれだけ練習したじゃないですか」
「だって、だって絶対頭真っ白になっちゃうよ」
「頭真っ白になっても意外と踊れるもんですよ?
練習さえできてたら体はちゃんと覚えてますから、勝手に動いてくれます。」
「断言しちゃってるけど…絵梨香ってライブ経験あるの?」
「!いや、な、ないですけど」
しまった。
当時を思い出してまた余計な事を喋ってしまった。
圭さんのツッコミに私は慌てて否定する。
危ない危ない。
気を抜くとボロが出そうになる。
- 468 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:39
- その時、裕ちゃんが安倍さんにキスを迫っているのが目に入った。
「な、裕ちゃんにチューさせて!緊張ほぐしてーな」
「やだもう、裕ちゃんったらあ」
どうやらメンバーとスキンシップする事で
リラックスしようとしているようだ。
「裕ちゃん、ホントなっち好きだねえ」
ある意味感心したように二人の様子を見守っている圭さん。
- 469 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:40
- 「矢口ー、チューしよ」
今度は真里さんに魔の手が。
「圭織もやる!」
気が付けば、裕ちゃんに感化されたのか飯田さんまでもが、
他のメンバーにキスを迫っていた。
なんだか収拾つかない事態になってる。
- 470 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:41
- 「ああしたら緊張がほぐれるみたいですよ?」
「え?」
「リラックスさせてあげましょうか」
意味深な言葉をかけても、圭さんは
きょとんとした顔でこちらを見るだけ。
本当に圭さんって無防備な人だな。
「怒らないで下さいね」
私はそう言って圭さんの肩に手をかけ…
そっと唇を塞いだ。
「…ん」
- 471 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:41
- 「えー!?」
外野の大声が鼓膜を震わす。
紗耶ちゃんは目が点になっていたのが分かったけど、
圭さんの唇に触れた瞬間には、周囲の事は頭の中からかき消えていた。
何度も何度も夢想したその感触。
圭さんの唇は想像以上に柔らかくて熱かった。
“ずっと…こうしたかったんです”
心の中でそっと囁く。
ただかすかに重ねるだけのキスだったけど、
なんだか頭がじんと痺れて、涙腺が緩みそうになる。
- 472 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:42
- 唇を離し、小さく息を吐く。
自分からしておいて、圭さんの顔がまともに見られない。
正直に言うと、リラックスさせるというのは口実。
他のメンバーより先に、私が一番乗りしたかっただけだ。
そう。
もし他のメンバーに目の前で圭さんの唇が奪われたら、
と思うと我慢できなかった。
先手を打っておきたかったのだ。
本当はもっとロマンチックにしたかった。
こんなの、場の空気に乗せられているだけじゃないか。
でも、こういう状況にならないと、自分から
圭さんの唇にキスなんてできなかったと思う。
- 473 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:44
- 「緊張ほぐれましたか?」
こわごわと顔を上げると、圭さんは怒っているわけでも、
困惑しているわけでもなかった。
「も、もう…びっくりした。いきなりこんな…
さっきとは別の意味でドキドキしてるよ」
ただ、頬を染めて、少しだけ恥ずかしそうに私に笑いかける。
「でも…ありがと。確かに緊張は吹っ飛んじゃった」
良かった。
嫌じゃなかったんだ。
私は安堵から全身から力が抜けていくのが分かった。
その後、散々周りのメンバーから突っ込まれながらも、
私と圭さんは手を握り合ってステージに上がった。
- 474 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:44
- ...
この世界での初めてのコンサートは、
想像以上の盛り上がりを見せていた。
平家さんの歌が終わり、次は裕ちゃんの「カラスの女房」。
着物を着て艶っぽく歌う彼女はさすがだと思った。
綺麗なだけじゃなくて、色気が滲み出てる。
平家さんも裕ちゃんの歌に聴き入っていた。
そんな時だった。
- 475 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:45
- 「…え?」
音が消えた。
何の前触れもなくフッと。
そうだ、思い出した。
確かに途中でオケが止まるという事態が起こったんだよね。
そのハプニングは、ビデオやDVDにも収録されていたはずだ。
史実通りだと、いずれまたオケが再開するはずなんだけど…
でも、助けを求めるように舞台袖を見る裕ちゃんや、
パニックに陥っている娘。メンバーを見て、
このままじっとしていられなかった。
まさに、体が勝手に動いていた。
「絵梨香!?」
- 476 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:46
- 今度生まれりゃ あんたと暮らす
カラスの女房になるからね
“もう大丈夫ですから”と目だけで伝え、
私は裕ちゃんの手を握った。
そして、彼女の歌声とお客さんの手拍子に合わせて歌い始める。
二人分の歌声が、溶け合うように交差する。
私がその手を取った時、裕ちゃんはほっとしたような表情を見せた。
指先からはガクガクと震えが伝わって来る。
心細かったんだろう。
怖かったんだろう。
- 477 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:47
- ラストのサビに入る直前には、私に続き、
堰を切ったように他のメンバーも走り寄って来た。
無数の色彩を彩るように、それぞれが歌声を重ねていく。
娘。たちも平家さんも…10人がひとつになって。
この結束力は何なのだろう。
10人だけじゃない。
ステージも客席も、完全に一体化している。
音響が復活した頃、会場内はこれ以上ないほどヒートアップしていた。
- 478 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:48
- ...
「皆さん、今日は本当にありがとうございました」
「さみしい日」を歌い終える頃、全員の顔は
涙でぐしゃぐしゃになっていた。
もちろん私も。
夢に見た娘。としての初めてのコンサート。
そして隣には圭さんがいる。
お客さんの温かい声援に包まれて、皆と一緒に同じ歌を歌える。
ああ、これが私がやりたかった事なんだ。
この場所こそが、私が立ちたかった所。
- 479 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:49
- あまりの幸福感に、涙が溢れて止まらない。
しゃくりあげる度に喉が圧迫され、
満足に歌えなくなった時もあったけど、
皆で無事感動的なラストを締めくくる事ができた。
たとえ辛い事があっても、この記憶があれば、
これからも生きていけそうな気がした。
今後何百回とコンサートを開いても、私は絶対にこの瞬間を忘れない。
忘れてはならない。
私は目の前の光景を、全てをしっかりと目に焼き付け、
客席に手を振りながらステージを後にした。
- 480 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:49
- ...
「すみませんでした、でしゃばった真似をして」
頭を下げる私に、裕ちゃんは指先で私の額をピンと弾いた。
「何言うてんの、あの時ホンマに助けられたんやで。
ウチも一人じゃ心細かってん。
それに今思えば、あの瞬間が一番盛り上がったんやないかなって思うわ」
「そうだよ、絵梨香の機転で場が混乱せずに済んだんだよ」
メンバーの温かい声に、私は胸を撫で下ろす。
「カラスの女房みんなで歌えるなんて想像もしてへんかったから、嬉しかったで。
絵梨香、あんたのおかげや。ありがとう」
裕ちゃんの繊細な指がそっと私の髪の間をすり抜ける。
- 481 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:51
- 「かわええなあ…絵梨香」
これほどに優しい目を向けられる日が来るなんて、
初めて会った時は想像もできなかった。
裕ちゃんの細い指先が私の顎を掴んだと思うと、
艶やかな唇がおりて来た。
それはあっという間の出来事で、すぐに離れて行ったんだけど。
- 482 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:51
- 「絵梨香の唇、もろたで」
「ちょっと、最年少の子に何してんの!」
「ええやん、さっき圭坊ともしとったし。ウチのは感謝の気持ちや」
しれっと返す裕ちゃんに、何故か真里さんが抗議を続けている。
ただ、当の本人の私は、それどころではなかった。
甘い香りが未だに残って、しばらくの間ぼうっとしてしまっていた。
- 483 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:53
- ...
打ち上げではメンバーの家族が次々来場し、とても賑やかだった。
父も来てくれていて、正直照れ臭かった。
“よかったべ”
感想と言うにはあまりにそっけない言葉。
でも、私は充分満足だった。
お父さんは、内心私の芸能界入りを反対していた。
そんなお父さんが自分で会場に運んでくれた。
自分が頑張っている姿をお父さんに見せる事ができた。
同時に、その姿を少しでも認めてくれた。
それだけで、とても満たされた。
- 484 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:54
- 圭さんのご家族にも会えた。
元の世界では、圭さんのお母さんと面識があったからか、
緊張はしなかった。
代わりに、すごく懐かしい気持ちになった。
なぜなら、圭さんと、彼女のお母さんの三人で、
食事に行った事があったから。
圭さんのお母さんは、この世界でも気さくな人だった。
優しくて、温かい…まさに圭さんそのもの。
この人を見ると、本当に圭さんは大切にされて来たんだろうな
という事が再確認できて、なんだか嬉しかった。
私は心の中で一人、“圭さんを生んでくれてありがとうございます”と、
そっと呟いたのだった。
- 485 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:56
- ...
ホテルに戻り、二人でベッドに横になる。
このまま眠るものだと思っていた時、圭さんがゆっくりと口を開いた。
「今日さ…キスしてくれたのは緊張をほぐす為だったんだよね」
「そ、そうですよ?」
今日のキスの事に今触れられると思わなくて、心臓がドキッと跳ねた。
本当はそんなの口実なのに。
でも…
“純粋に私が圭さんとキスしたかった”
“他の誰かにキスされる前に私がその唇を塞いでしまいたかった”
さすがに本当の気持ちを口にする勇気はなかった。
- 486 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:57
- 「あのさ、じゃあ、私の方からおやすみのキスはしちゃダメ?」
「え…」
圭さんの思ってもみない言葉に、私は自分の頬が
熱を帯びるのが分かった。
「やっぱりダメかな」
「ダメじゃ…ないです」
私が答えると、圭さんはにっこり笑ってくれた。
そして、彼女の手が私の頬に触れる。
目を閉じた瞬間、ゆっくりと、優しく唇が重ねられた。
- 487 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:58
- たかがキス。
されどキス。
キスひとつでこんなにもドキドキした事があっただろうか。
キスって、こんなにも深い意味のあるものだったんだって事に気付く。
誰よりも大好きな圭さんとのキスだから、こんなにも尊いって思えるんだろうな。
唇が、ちょんって触れるだけの可愛らしいキスだけど、
それだけで、今日一日の…
ううん、これまでの全てが報われる気がした。
- 488 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:58
- 今は理由をこじつけなくちゃ圭さんにキスする事もできないけど。
特別な理由なんてなくても、これから彼女と
数えきれないほどのキスを交わせたらいいな。
何度もそう願いながら、私は今夜も圭さんと
同じベッドで眠りに就いたのだった。
- 489 名前:第17話 ミリオンキス 投稿日:2012/03/15(木) 23:58
- 第17話 ミリオンキス
了
- 490 名前:あおてん 投稿日:2012/03/16(金) 00:01
- >>431「思考錯誤」→「試行錯誤」の間違いです…お恥ずかしい。
>>441
ありがとうございます。
みーよが違和感なく娘。のメンバーだと思ってもらえる
作品にできたらいいなと思います。
- 491 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/03/16(金) 23:37
- 大きな第一歩ですね(ニヤニヤ
- 492 名前:あおてん 投稿日:2012/03/20(火) 23:53
- >>473
「安堵から全身の力が」
>>483
「自分から会場に足を運んでくれた」
に訂正させて下さい
- 493 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/20(火) 23:55
-
ここ最近、安倍さんと飯田さんがずっと口を聞いていない。
目を合わせようとすらしない。
「皆、おはよう!遅れてごめんね」
安倍さんが楽屋にやって来た途端、室内の空気がどんよりと曇った。
皆これから起こりうる事態を想定して気が重くなっているのだ。
「も、もー。遅刻多いぞなっち!」
真里さんがわざと明るいトーンで話しかけるものの、
今日もその事態を避ける事はできなかった。
- 494 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/20(火) 23:56
- 「なんで皆に迷惑かけてヘラヘラしてられるの?センターの余裕ってやつ?」
飯田さんは雑誌に目を落としたまま、
皮肉たっぷりの口調で安倍さんへの攻撃を始める。
「な、なっちだって反省してるべさ!」
「反省してないよね?だから同じ事繰り返すんでしょ?」
ああ、またか。
私は頭痛持ちの人のように頭を抱えた。
「い、飯田さん。たった数分の遅刻なんですからそこまで責めなくても…」
「そう、たった数分だよね!たった数分早く家を出ればいいだけなのに、
なっちはどうしてそれができないんだろうね!?」
飯田さんは私の言葉尻をとらえ、まるで鬼の首でも取ったかのように安倍さんを責め続ける。
怖い。
いつもは天然でぽーっとしているのに、こういう時の飯田さんは本当に容赦がない。
それだけ普段、いろんな感情を内に溜め込んでいるんだろう。
- 495 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/20(火) 23:57
- 「絵梨香」
その時、圭さんが私の手をそっと引いた。
そして小声で一緒に外へ出るように促す。
私は素直に圭さんに従う事にした。
やはり私なんかじゃとてもじゃないけど
二人を仲裁できないと分かったから。
- 496 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/20(火) 23:58
- ...
「困ったもんだよねあの二人には」
廊下に出て、圭さんははぁ、と大きなため息を吐く。
圭さん達だって最初は止めに入っていたけれど、
最近の二人の口論は日に日に激しさを増す一方で、もう諦めているようだ。
「どうにかできないんでしょうか…。
最近は裕ちゃんいない時が多いし、和田さんやつんくさんに相談した方が…」
安倍さんと飯田さんは同い年で、同じ病院で二日違いで生まれて、
そして狭き門をくぐって同じモーニング娘。としてデビューした。
本当に運命的な出会いをした二人。
なのにその二人がいがみあう姿を見るのはやっぱり悲しい。
- 497 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/20(火) 23:59
- 「女の子同士の問題について、男の人に相談してもなぁ…。
それ以前に、和田さんもつんくさんもあの二人が不仲なのは知ってるみたいよ。
でも何もしないって事は、やっぱりどうにもならないんじゃないかな」
「そうですか…やっぱり」
予想通りの返答。
私はがっくりとうなだれた。
しかし、圭さんが次に放った言葉に、今度は激しく動揺してしまう事になる。
「それに普通の女の子って、同性に対しての同族嫌悪がものすごいらしいしね。
対立しちゃうのも仕方ないんじゃないかな。
私は女の子好きだから、嫌悪とか、そういうのはよくわかんないけど」
- 498 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:01
- 「へ!?」
その瞬間、心臓がうるさいほどに騒ぎ始めた。
女の子が、好き?
「ん?わ、私何か変な事言った?」
「いっいいえ。私も女の子は好きだから、圭さんの言う事は分かります」
「ふふ、絵梨香って女の子には優しいもんね」
…私は動揺を悟られないように笑顔を作り、
圭さんの手をぎゅっと握り直した。
ちょっと、汗かいちゃった。
それでも圭さんは嫌がる事なく握り返してくれた。
きっと圭さんの態度からして、深い意味で言ったわけじゃなかったんだろう。
だけど、私の胸の動悸はしばらくの間おさまってはくれなかった。
- 499 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:05
- ...
楽屋に戻ると、安倍さんと飯田さんは相変わらず険悪な雰囲気だった。
だけど、仕事には二人はそれを持ち込む事はなかった。
やっぱり、芸能生活が二期より長いだけあって、プロなんだなと実感させられる。
私も、プライベートで何があったとしても、仕事だけはきっちりこなさないといけない。
それが、この職種に就く人間の使命だから。
そして見てくれている人に対しての最低限の礼儀だから。
正確に言えば娘。のメンバーは私よりもずっと年下。
でもそんな事は関係なくて、彼女達から学ぶ部分は多々あるのだ。
二人を見て、その事を強く実感した。
- 500 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:06
- ...
「日中はあんなに暑かったのに、夜は涼しいね」
「そうですね」
今日は花火大会。
朝から皆その話題でもちきりだった。
相当楽しみにしていたのか、仕事から解放されると
すぐに花火を見る準備をしていた。
特に安倍さんはテンションが異様に高かった。
明日香達は人ごみを嫌ってビルの屋上で見ると言っていたけど、
私と圭さんは直接見に行く事を選んだ。
さすがに、会場まで足を運ぶわけじゃなくて、
比較的花火が見える遠くの河川敷に行く事にしたのだけど。
これが明日香や安倍さんだったら、きっと騒ぎになっていただろう。
- 501 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:07
- ...
二人で土手沿いをゆっくりと歩く。
多くの人が会場まで足を運んでいるからか、この場所は人がまばらだった。
いつも二期メンバーでぞろぞろと歩いていたから、
こうして二人きりで外を周るのは久し振りかもしれない。
「ねえ、絵梨香…あんた、ちょっと背伸びたよね」
「そうですか?」
確かに成長期だし、身長が伸びるように常日頃食生活にも
気をつけていたけど、自分ではよく分からない。
「うん。目線の高さが前より違うもん」
圭さんの手が私の頭を撫でる。
その優しい感触に私は目を細めた。
私の事、よく見てくれてるんだな。
- 502 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:08
- 「あーあ、身長まであっという間に抜かされちゃったなあ」
「え?」
圭さんの意味深な言葉に、私は思わず聞き返してしまう。
「絵梨香って私よりもずっと大人だし、可愛いしさ。パフォーマンスや人気だって…。
圭織がなっちを見て焦っちゃう気持ち…そこだけはちょっと私にも分かるな。
だからって私は絵梨香とは絶対にいがみ合いたくないけど」
「な、何言ってるんですか。私なんかよりも圭さんの方がよっぽどプロじゃないですか」
歌だけじゃない。
ダンスだって演技だって本来の圭さんが持っている力と比べると、
私なんかじゃ足元にも及ばない。
そして、圭さんがどれほど歌に誇りを持っているか、
責任感がある人なのか私は知ってる。
- 503 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:09
- 「気付いてなかったんだね。
すれ違う度に、振り返って絵梨香を見てた人が何人かいた事」
「えっ…」
確かに、ちょっと近くのコンビニに行くだけでも、
見知らぬ人から声を掛けられる事が増えた。
でも、やっぱり未だにそんな状況が信じられない私がいる。
「そんなの、今だけですよ。
私が娘。の中では最年少だから、ちょっと物珍しいだけですって」
「ふふ…分かってないなあ。私からみても絵梨香はこんなに魅力的なんだもん。
世間の人が放っておくわけないよ」
- 504 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:09
- そう言う圭さんは、なんだか寂しそうだった。
こんな顔をさせているのは私のせい?
私達は安倍さんと飯田さんのようにいがみ合う事はない。
だけど…
私が前へ出ようとすると、圭さんは複雑な思いを抱える事になるの?
寂しいと感じるの?
私は、圭さんを幸せにさせられるような人間になりたいのに。
- 505 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:10
-
その時、間延びした声がこの場の空気を変えた。
「よー、姉ちゃん達」
声のした方へ視線を向けると、浅黒い肌のお兄さんが手を振っていた。
「ちょっと見てかない?」
そう言うお兄さんの目の前には、様々なデザインのアクセサリー類が並んでいる。
どうやら露店を開いているようだ。
「圭さん、せっかくだし見ていきましょう」
天の助けとばかりに、私は彼女の手を引いて
そのお兄さんの元へと向かった。
正直、アクセサリーにはそれほど興味はなかったけれど、
さっきまでの微妙な雰囲気をかき消したかったのだ。
- 506 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:14
- ...
アクセサリーを物色していると、二人して同じ物が目にとまった。
圭さんが手に取ったのはシルバーの指輪。
「それ…」
「ん?絵梨香も気に入ったの?」
彼女の問いに私は頷いて見せる。
それは98年の世界の物なのに全く古臭くなくて、華奢で可愛らしいデザインだった。
「これさ、良かったらおそろいで買わない?」
「はい!私も今そう思ってたんです」
圭さんと同じ物が手に入る。
しかも、身に着ける物。
圭さんの提案に私は飛び跳ねたい衝動を必死で抑えた。
- 507 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:14
- 運良く在庫があったおかげで、私と圭さんは無事その指輪を入手できた。
試しにはめてみたけれど、サイズも問題なかった。
無料で指輪の内側に文字を入れてくれるとの話に、
私達はそれぞれイニシャルを入れてもらう事にした。
右手の薬指にはめたリング。
安物だけど、そんな事は関係なかった。
圭さんと同じ物を身に着けられるという事実が、
どうしようもないほどの幸福を与えてくれる。
お兄さんにお礼を言って歩き出すと、
「幸せになー」
という謎の声援を背後から受けたのだった。
- 508 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:15
- ...
指に光る圭さんとお揃いのシルバーリング。
彼女との大切な友愛の証。
私と彼女を繋ぐ物だ。
何度も街灯の光に指輪をかざしている私を、圭さんが嬉しそうに見つめている。
「ふふっそんなに気に入った?」
「当たり前じゃないですか。圭さんとおそろいなんですもん」
私は恥ずかしげもなく、さも当然のようにそう答える。
すると、圭さんは照れたように口角を上げ、突然、
すっと繋いでいた手を離した。
- 509 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:17
- 「ね、絵梨香、右手前に出して」
「え?こ、こうですか?」
「違う、手の甲をこっち向けて」
私はわけが分からないまま圭さんの言う事に従った。
彼女も同じように右手の甲を向けて、私の指にはまった指輪の表面に、
自分の薬指の指輪を重ね合わせた。
小さな、カチンという金属音が鳴り響く。
「これは誓い。絵梨香のライバルと名乗って恥ずかしくないような自分になる。
絵梨香に置いて行かれないように。ずっと絵梨香と一緒に歌を歌えるように」
- 510 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:18
- 触れ合う指輪から、薬指へ。
そして指を伝って心へと。
じわじわと温もりが移る。
こちらが恥ずかしくなるくらいに熱く純粋な言葉。
でも、その熱さがこそが圭さんの心そのものなんだ。
「私も誓います。許される限り、圭さんのそばにいるって」
鋼のように強い圭さんの視線。
それに負けないように、私は瞳に力を込め彼女を真っ直ぐ見つめ返した。
- 511 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:19
- ...
それからしばらくして、ひゅるひゅるという音と共に花火が上がった。
少し遅れて、爆裂音が辺り一帯に響き渡る。
「うわっ」
「始まったみたいだね」
顔を上げると、赤、青、緑、オレンジ…
様々な色の花が夜空に咲いていく。
「すっごい綺麗」
圭さんは心から花火を楽しんでいるようだ。
でも、私は花火よりも目の前の彼女に気を取られてしまっていた。
色とりどりの光に照らされる圭さんの横顔を見ると、止められなかった。
- 512 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:19
- 「絵梨香?」
今は近くに誰もいない。
幻想的な景色の下で、大好きな人と二人きり。
そんな状況に、私の理性は意味をなくしてしまった。
私は圭さんの肩にそっと手を添え、一瞬だけ唇を合わせる。
「ん」
おはようや、おやすみのキスはしていた。
でも、それ以外で圭さんとキスをしたのは、初めてのコンサートの時以来だ。
- 513 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:20
- 「い、今のは…?」
「花火見てる圭さんも綺麗だったから、つい」
「き、綺麗って…」
圭さんの顔は真っ赤だ。
そんな彼女が可愛くて、自分だけのものにしてしまいたい衝動に駆られる。
でも、私は右手をぎゅっと握り、それをかろうじて押しとどめた。
好きで、好きでずっと追いかけて来た人の一番近くに居る。
今この世界で私ほど幸せな人間がいるだろうか。
これ以上の幸せを望んだら、きっとバチが当たってしまう。
- 514 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:21
- ...
ふと、もう一人の絵梨香の姿が頭の中に浮かび上がった。
2012年の世界の絵梨香は幸せなんだろうか。
絵梨香も、幸せになればいい。
私の幸せを願ってくれた人。
絵梨香にも同じくらい…ううん、それ以上に幸せになって欲しい。
そして、私は圭さんの事を幸せにしたい。
絵梨香が“自分だけの圭さんを大切にして”と言ったように。
自分の手で彼女を守りたい。
私は右手に光っている指輪にかけて、心の中で密かに誓いを立てていた。
- 515 名前:第18話 薬指の約束 投稿日:2012/03/21(水) 00:21
- 第18話 薬指の約束
了
- 516 名前:あおてん 投稿日:2012/03/21(水) 00:23
- なちかお難しい
>>491
やすみよはしばらくキス止まりになりそうですw
- 517 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/03/21(水) 23:11
- ついに初期娘。を代表するエピソードが来ましたね
どう料理してくれるのか今から楽しみですw
- 518 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:22
- 「抱いてHOLD ON ME!」のレコーディングの真っただ中。
今はメインの安倍さんと明日香が収録している。
本当はこの曲で初めて1位を取ったんだよね。
だけど歴史は変わり、「サマーナイトタウン」で
初の首位を獲得してしまった。
今回の曲も、史実通りに世間の人に受け入れてもらえるのだろうか。
正直、怖いという思いがある。
この世界は過去ではないかもしれないから。
だから、何が起こるか全く予測がつかない。
油断してはいけないと、見えない誰かの忠告する声が今にも聞こえて来そうだ。
私は得体の知れない緊張感に包まれながら、皆の歌声にじっと耳を傾けていた。
- 519 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:23
- ...
「飯田ー、始めるで」
飯田さんの番が回って来た。
彼女は今回すごくおいしいよね。
“ねえ笑って”がきっかけで貴さんにいじられて、
世間の注目を集める事になるんだし。
しかし、当の本人は唇をぎゅっと噛み締めて俯いたまま。
「飯田さん?」
どうしたんだろう。
そう思った時、飯田さんの潤んだ目が大きく開いた。
「どうしてなっちや明日香ばっかりパートが多いの!?私だって努力してるのに」
「っ…」
その瞬間、まるで安倍さんは心底傷付いた風に顔を歪めた。
私達を包む空気が一瞬で凍り付いたのが分かった。
- 520 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:26
- 「こんなの間違ってる!だって本当なら私がセンターだったのに!」
喚くようにそう言って飯田さんはブースから出て行ってしまった。
「圭織!」
飯田さんを追いかけようとする圭さんを和田さんが制していた。
「飯田さん…」
確かに、一度はセンターの座を掴み取った直後に
安倍さんに奪われてしまっている。
飯田さんのやるせない気持ちは分からなくない。
納得できないという思いも分かる。
ASAYANの番組で“昨日に戻りたい”と彼女が泣いていた事は、
今でもよく覚えている。
だから、飯田さんを責める気持ちにはならなかった。
私は何も言えなかった。
- 521 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:28
- ...
スタジオの空気は一気に沈んでしまった。
明日香は気にしてないと言って毅然としていたけど、
安倍さんは半泣きになっていた。
無理もない。
世の中は、誰かを踏み台にしないと成り立たない事がある。
特に芸能界ではそれが顕著だ。
こうしてこの業界で生きている限り、誰かを傷付けている可能性だってある。
でもその事を知るには、この子達には早過ぎる。
私はただ、明日のハワイでは、この雰囲気が
元通りになっている事を願うしかなかった。
きっと、この場にいる誰しもがそう願っていただろう。
- 522 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:29
- ...
「初海外でーす!」
「アロハー!」
紗耶ちゃん達はカメラに向かってはしゃいでいた。
何事もなかったかのような微笑ましい雰囲気。
飛行機の席は安倍さんと飯田さんの二人は離される事になった。
それもそうだろうな。
- 523 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:30
- 二人が特に険悪になりだしたのは、同居を始めた夏からだ。
仕事で何時間も同じ空気を吸っているのに、
家に戻っても顔を突き合わせる事となる。
私の場合は大好きな圭さんだから、何時間彼女と一緒にいても全く苦にはならない。
それどころか、たまらなく幸せだと思える。
でも、安倍さんと飯田さんは私と圭さんとは違うのだ。
今はきっと彼女達は同じ時間を過ごすだけ、心は離れていく。
二人は距離を置くべきだと思う。
とは言っても、なかなかそういうわけにはいかないんだろうな。
どうにかしたい。
そう思っても、どうにもできない事もある。
何もできない事は分かり切っていた。
だから、私は不本意ではあるけれど、傍観するしかなかった。
- 524 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:30
- ...
ハワイの海はただ美しいだけじゃない。
日本と違って波も大きく、潮風もベタベタしない。
優しくふわりとした波動を感じる。
それと同時に、太陽の恵みを体中で受けているような。
「ハワイ、最高だな」
私は思いっきり体を伸ばし、深呼吸する。
- 525 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:31
- 思わず「真夏の光線」の歌詞を口ずさみそうになって慌てて堪えた。
「真夏の光線」は、まだこの世界には存在しない。
いつまでも元の世界の住人の気分ではいられない。
私はもう既にこちら側の住人なんだから。
少し悩んで、今の時代でも違和感がなく、
かつこの情景にぴったりな曲をセレクトして歌う事にした。
- 526 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:32
- ...
love the island 過ぎてゆく
小さい毎日が 気まぐれとずっと
遊んでいたら こんなに時がすぎていた
...
鼻歌を歌う時のように軽快なリズムに乗って歌う。
ハワイの海を目の前にすると、声がいくらでも伸びる。
気持ちいい。
- 527 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:33
- 「その曲いいよね。小室プロデュースの新人の曲でしょ」
「うわっ明日香!?」
背後で響いた声に、私は勢い良く振り返る。
そこには予想通り明日香が佇んでいた。
「き、聞いてたの?」
「別に隠す事ないじゃん。絵梨香の歌声好きだよ」
「あ、あは。ありがと」
歌声が好きだと言ってもらえて、嬉しくないわけがない。
それも明日香からの言葉だと尚更だ。
この時代に合った選曲をして良かった。
- 528 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:35
- 「絵梨香はさ、つんくさん以外の人にプロデュースされて
みたかったって思った事ない?」
「え!?」
信じられない言葉に私は思わず聞き返してしまった。
「つんくさんに限らず、いい曲を生み出す人ってたくさんいるからね。
ああ、別に小室プロデュースがいいって言ってるわけじゃないけど」
この時代で歌手を目指す人達にとっては、
小室プロデュースはステータスだったはずだ。
でも、明日香はそういうミーハー的な意味で言ってるわけじゃないらしい。
ただ純粋に、娘。という枠にとらわれず、音楽自体に興味を示しているのだ。
- 529 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:36
- 「このままいったら、ずっとつんくさんの曲だけを歌い続けるわけじゃん?
つんくさんの曲ってどんどんお色気路線になってくし。
私には合わないんじゃないかって色々考えちゃってさ」
確かに、13歳で色気をアピールする歌詞を歌うのは抵抗があるに違いない。
「それに、私なんてアイドルってタイプじゃないのに、
足見せて水着着て、そんなんでいいのかなって」
同世代のSPEEDも結構過激な内容の曲を歌ってたけど、
彼女達はアイドルというよりはもはや完全にアーティストとして
世間に認められている。
一方で娘。は、色物グループというイメージを持つ人も少なからずいるのが現実だ。
明日香は、元々はロックボーカリストになりたかった子だ。
そんな彼女だからこそ、娘。でいる事に違和感を感じている。
- 530 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:37
- 「つんくさんの曲が不満とか、そんなんじゃないよ。
でもね。私が本当にやりたい事ってこれだったのかなって不安になるんだよね。
私は、なりたい自分になれるのかなって」
明日香の言葉に、私ははっとした。
それは、この世界に来る直前まで、私が思っていた事と全く同じだったのだから。
東京で、舞台を中心にこれからも地道に活動していくつもりでいた。
そんな時に、突然の札幌への異動命令。
私はあの時、自分の生き方さえ見失ってしまっていた。
明日香も今、あの時の私と同じ気持ちなのだろうか。
- 531 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:38
- 答えに詰まってしまった私に、明日香はぎこちなく笑った。
「…そろそろ皆のところ戻ろっか。さっき言った事は気にしないで」
そう言って、ずんずんと先に戻ろうとする。
「ま、待って。明日香」
私は慌てて明日香の後を追った。
今まで、音楽の方向性の違いを理由に、
解散や脱退をしたミュージシャン達はたくさんいる。
明日香も、その中の一人になってしまうのだろうか。
運命は、変えられないのだろうか。
- 532 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:39
- ...
10年後の自分へメッセージをと言われ、
「どうなっているのか分からないけれど、
この道を選んで良かったと思える自分でいて欲しい」と答えた。
10年後なんて全く想像がつかない。
この世界で生き続けるとして考えると…
圭さんは27歳、私は23歳。
元の世界とほぼ同じ歴史を辿る事になるのなら、
その頃圭さんは舞台女優として活躍しているだろう。
私は…どういう道を歩んでいるんだろう。
10年後も、私は圭さんと繋がっていられるのかな。
- 533 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:40
- メンバー全員といつまでも一緒にいられるわけがない事は分かってる。
近い将来、明日香、彩さん、紗耶ちゃんは
娘。自体から遠のき、離ればなれになってしまう。
彩さんや紗耶ちゃんに関してはまだ猶予がある。
だけど、明日香は、もうすぐ…。
海での明日香の話を聞いて確信した。
明日香は、もう既に「辞める」という選択肢も考慮してるんだ。
今の環境に身を置いている自分に、納得できていないんだ。
本当は、止められればいいんだけど。
今からこんな事を考えていても仕方ない。
でも、きっと近いうちに恐れている時が来るんだろう。
明日香から「辞めたい」という言葉を口にするその時が。
- 534 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:41
- ...
「なっち、圭織、おめでとう!!」
私達は夕食時、少し早いけど安倍さんと飯田さんの合同誕生日会を開いた。
「圭織、おめでとう。もうちょっとしたら圭織の方が先にお姉さんになるね」
安倍さんが優しく声をかけると、飯田さんの表情が若干和らいだ。
二人の間にこういう穏やかな空気が流れるのは久し振りかもしれない。
本当は、すぐにまたこの空気が険悪なものへと戻ってしまう事は分かっていた。
だけど、この時間がいつまでも続いて欲しいと私は強く思った。
- 535 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:45
- ...
裕ちゃんは演歌キャンペーンの為に
一日早く日本へと帰ってしまった。
よって部屋割が若干変更になってしまう。
今回の部屋割は明日香と紗耶ちゃん、飯田さんと圭さん、
安倍さんと真里さん、彩さんと私。
ちなみに今までは明日香と紗耶ちゃんと私の三人部屋だった。
- 536 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:45
- まさか私が彩さんと一緒になるなんて思わなかったな。
和田さんの考える事は謎だ。
まあ、一般の会社でも人事は良く分からない配置をするらしいし、
それと似たようなものなのかも。
私としては彩さんと二人で過ごすのに決して不満はない。
ただ、彼女といると緊張するのも事実なんだよね。
彩さんも疲れてるだろうし、さっさとお風呂入っておとなしく寝よう。
- 537 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:46
- そう…思ってた、
なのに。
どうしてこんな事になってるんだろう。
「ふうん、あんた脚とか結構筋肉ついてるんだね。スポーツやってた?」
「い、いや今は特には」
圭さんと一緒に入った事もなかったのに、まさか彩さんとお風呂だなんて。
しかも今、その彩さんに髪を洗ってもらっている。
彩さんは時間短縮の為に一緒に入ろうと誘ってくれたのだけど、ここまでするだろうか。
彼女の意図がよく分からない。
- 538 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:47
- 私のすぐ後ろに彩さんの裸体があるかと思ったら、平静ではいられない。
もしも相手が圭さんだったら、この比じゃないだろうな。
二期メンバーで使っているホテルの部屋は狭くて、
バスルームも当然二人で使うのは難しいものだった。
今思えばそれで良かったのかもしれない。
圭さんと一緒にお風呂だなんて、絶対キスだけで済まなくなる。
そんな事を考えていたからか、いきなりシャワーを頭から振りかけられた時は
大げさに反応してしまった。
- 539 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:48
- 「ぶっ!!」
驚いた拍子にお湯が鼻に入った。
おまけにシャンプーまで目に入って痛い。
「もうっ流すから目閉じてなって言ったじゃん」
すみません…聞いてませんでした。
私は水をひっかけられた猫のように
ぷるぷると髪にまとわりつく水分を飛ばした。
「ああ、こら、動かない」
泡がシャワーによって溶けて流れていき、
私の肌を守るものがなくなってしまう。
- 540 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:49
- 「…」
なんか、じっと見られている気がする。
こんなの自意識過剰だって分かっているけど。
意識してしまうと一気に体が熱くなり、息苦しくなる。
「絵梨香」
彩さんの声が耳元で響いた。
そして彼女の指先が、すっと私の首筋を滑って…
やばい。
近い、近いですって!
「すみません!お先に失礼します」
「あ…ちょっと」
私は彩さんの指をすり抜け、脱兎の勢いでバスルームを飛び出した。
- 541 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:50
- ...
「はー、やばかった…」
ペットボトルのミネラルウォーターを口に含み、気分を無理やり落ち着ける。
よく我慢したな私。
まだ胸がドキドキしている。
「深呼吸深呼吸…」
何度か深呼吸を繰り返していると、ようやく心臓がおとなしくなってくれた。
ほどなくして、彩さんがキャミ姿で戻って来た。
いくら今流行ってるとはいえ無防備過ぎる。
彩さんに限った事じゃない。
圭さんだって日本でホテル暮らしをしていた時、
キャミ一枚で私の目の前をうろついていたものだ。
おかげで、何度もむらむらしてしまいそうになった。
- 542 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:51
- 「まったく、逃げる事ないのに。襲われるとでも思ったの?」
彩さんは呆れたようにそう言って私が座っているベッドの隣に腰かけた。
お風呂上がりの女性ってどうしてこんなに魅惑的なんだろう。
私は彩さんと目を合わす事ができなくて、思わず赤い顔のまま俯いてしまった。
「すみません…恥ずかしかったんです」
それと、理性が危うかったんです。
もったいない事をしたとは思うけど。
って私は思春期の男子か。
- 543 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:54
- 「ま、いいけどさ」
彩さんはポーチから化粧水を取り出し、素肌にそれをなじませる。
「ほら、あんたもつけな。若いからって油断してたら痛い目見るよ」
「あ、ありがとうございます」
彩さんは性格がきつそうに見えて意外と優しいし気を遣う人だ。
そういうところは、圭さんと通じるものがあるのかもしれない。
テレビで圭さんを初めて見た時は、気の強い人なのかと思っていた。
でも、圭さんと…いや、“保田さん”と舞台で共演して、
彼女の優しさに触れて、どんどん惹かれていったんだよね。
2012年の“保田さん”は、絵梨香は元気だろうか。
私はもしも休みが取れて帰郷した時には、また2012年に戻ってみようと決めた。
- 544 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:56
- ...
今夜の彩さんは饒舌だった。
旅先というせいもあるのか、話題は尽きなかった。
私は彼女の話に何度も頷きながら耳を傾ける。
「なっちと圭織の雰囲気、今はいい感じだけどさ。
油断しない方がいいよ。多分日本に帰ったらまた火花散らすと思うから」
「ですよね…」
元の世界でも、何年も二人のわだかまりは解けなかったと聞く。
- 545 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:57
- 「圭織って特にプライド高くて我の強い子だからさ。
自分が一番じゃないと気が済まないタイプなんだよ。
どこにでもいるでしょ、そういう子」
「そ、そうですね…いますね」
彩さんの話に、私は梨華ちゃんの姿が思い浮かんだ。
“絵梨香はすぐ自分の世界に入る。もっとオープンに前へ出たらいいじゃん”と
昔梨華ちゃんに言われた事がある。
確かに自分が前に出ようという気持ちも、
芸能界で生きていくなら必要不可欠なものだろう。
でも、だからって…自分より恵まれたポジションに就くメンバーに、
激しい憎悪を抱くなんて考えられない。
いがみ合ってまで、他人を蹴落としてまで
そのポジションを手中におさめようとは思えない。
こんな風に考えてしまう私は弱い人間なんだろうか。
- 546 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:58
- 「絵梨香もASAYANで知ってるだろうけど、圭織だって一度センターを任された。
だけど学校の試験を受けに帰っている間に、なっちに
そのポジションを取られちゃったんだよね。
それを未だに根に持ってるみたい。
だからあの二人の関係を修復するのは至難の業だよ。私にも無理だったから」
その時の飯田さんの屈辱は相当のものだったに違いない。
せっかく苦労して頂上に辿り着いたのに、
そこから一気に奈落の底へ突き落とされるようなものだ。
- 547 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:59
- でも…飯田さんには悪いけど、もしも飯田さんがセンターだったとしたら、
娘。はあそこまで大きなものにならなかったかもしれない。
センターに選ばれたのが安倍さんだったからこそ、ここまで来れた。
きっと他の誰かではダメだったのだ。
そうやって飯田さんが吹っ切れる時が来るのだろうか。
うーん…難しいだろうな。
- 548 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 00:59
- 「だからぁ、悩むだけ無駄だよ。ほっとくしかないんだって」
「いって!」
彩さんはシワが刻まれた私の眉間をデコピンした。
「ほら、寝よう」
それと同時に彩さんはあっさりと私から離れ、隣のベッドへと戻っていく。
さすがに一緒のベッドで寝るわけじゃないらしい。
…って何考えてんだ私は。
それが当たり前じゃないか。
私は慌ててバカな考えを打ち消し、自分のベッドへ潜り込んだ。
- 549 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 01:00
- 元の世界の事。
明日香の事。
安倍さんと飯田さんの事。
圭さんの体調の事。
これからの事。
問題は山積みだ。
頭の中で糸がぐちゃぐちゃにこんがらがる。
でも、時間がどれほどかかっても、放棄せずに、
ひとつひとつ解決していかなければならない。
解決できなくても、考える事を止めちゃいけないんだ。
私はそんな思いを胸に、そっと目を閉じた。
- 550 名前:第19話 パラレルライン 投稿日:2012/03/27(火) 01:01
- 第19話 パラレルライン
了
- 551 名前:あおてん 投稿日:2012/03/27(火) 01:02
- >>517
ありがとうございます。
なちかお問題に関しては長期戦になりそうですw
- 552 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/03/29(木) 16:49
- もしかしてそっちの展開になっちゃうの?!って期待してしまいましたw
- 553 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 01:59
- 恐れていた時は、思っていたよりも早くにやって来た。
「抱いてHOLD ON ME!」の販促イベント後。
地方のホテルの一室に、私達二期メンバーと明日香の姿があった。
けれど今、この場は重い空気が立ち込めている。
ついさっきまで、旬なドラマや歌手の話で盛り上がっていたのに。
何故なら、明日香は何の前触れも無く、いきなりこう切り出したからだ。
「私、モーニング辞めたいって思ってるんだ」
- 554 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:02
- その瞬間、私は、遂に来たかと、半ば諦めに近い気持ちで
その言葉を聞いていた。
「は、はぁー!?明日香、冗談だよね?」
真里さんは、“何言ってんだこいつ”と言いたげな目で明日香を見ていた。
紗耶ちゃんは驚いた拍子に、お茶が気管に入ったのかむせて涙目になっている。
そんな彼女の背中をさすりながら、圭さん自身も困惑の表情を浮かべていた。
「…どうして?サマーナイトタウンで1位も取れて、今まさに波に乗ってる時じゃん」
私は極力落ち着いた声で言葉を投げかけた。
そのつもりだったけど、語尾は震えていたと思う。
「だからこそだよ。皆に騒がれれば騒がれるほど、どんどん等身大の私が置いてけぼりになるの。
モーニング娘。の“福田明日香”が一人歩きしていく状態が…正直つらい」
- 555 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:03
- 「明日香は贅沢だよ。そんな恵まれた場所にいて不満なの?
明日香のようなポジションに就きたいって思ってる子はたくさんいるんだよ?
私だって…っ」
圭さんのその切々とした訴えに、私は目を丸くした。
彼女がそこまで強く自己主張する事は珍しかったから。
そして同時に、あの時の飯田さんを思い出した。
レコーディング中、“自分だって努力してるのに”と
涙ながらに自分のパートが少ない事への不満を訴えた飯田さん。
皆、少しでも多くのパートが欲しいと願っている。
そして、スポットライトを浴びたくて必死なんだ。
それは圭さんも同じなのだろう。
“何があっても歌っていたい”と強い想いを抱き続けている人だから。
- 556 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:04
- 「うん。だから私が辞めた後チャンスだよ?」
全てを見透かしているような明日香の視線と、
ストレートな物言いに、その場にいる全員が固まった。
「明日香、そういう言い方やめて」
私が少し強めの口調でたしなめると、明日香は素直にごめんと呟いた。
確かに、皆仲間である前にライバル同士だ。
そして生身の人間なのだ。
欲だってある。
明日香という穴が開く事をチャンスだと思ってしまう部分も、
心のどこかであるのかもしれない。
でも、今するべき話はそんな事じゃない。
- 557 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:07
- 「今辞めるのは本当にもったいないと思うよ。
いつかその選択を後悔する時が来るかもしれない。
だから、もう少しだけ考えてみてよ。ね?」
「そうだよ、明日香。そんな急ぐ事ないじゃん」
私達の説得に、明日香はしっかりと頷いていた。
だけど分かっていた。
既に明日香の心は固まっているという事に。
明日香は一度こうだと決めたら、決して信念を曲げない強い子だから。
そういう子だという事を、私は充分過ぎるほどに理解していた。
私はこの短期間で、明日香を知り過ぎてしまったみたいだ。
- 558 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:08
- ...
以降、私達の間でその話題が出る事はなかった。
皆あえて避けていたのかもしれない。
そもそも、娘。で脱退者が出るだなんてこの時点では前代未聞なのだ。
他のメンバーにとってそれは、到底受け入れられないはず。
私だって…本当は受け入れたくない。
一時的な気の迷いであって欲しいと何度も思った。
明日香は既に私にとって、失いたくない大切な仲間の一人になっていたから。
- 559 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:09
- ...
ある日、私は圭さん達がいない隙を狙って明日香を部屋に呼び出した。
どうしても、明日香と二人で話がしたかった。
明日香自身、何故私に呼び出されたのか理解しているようだった。
- 560 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:10
- 「…明日香、私達が何言っても、辞めるって意思を
覆す気なんてないんでしょ?」
「うん、もう決めたから」
やっぱり…。
私は大きなため息を吐きたい気持ちだったけれど、
寸でのところで抑えた。
「正直、もう限界かな。夢を与える仕事だなんだって言うけど、
夢だけじゃ、この世界で生きていけない。
夢を与える曲より何より、第一に売れる曲を歌わないといけない。
それがよく分かった。そりゃそうだよね…これはビジネスだもんね。
好きな事を仕事にするのが、こんなに辛い事とは思いもしなかった」
- 561 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:11
- 寂しそうな横顔。
そんな明日香を見て、私は一言も反論できなかった。
これら全ては、明日香が純粋だからこその発言なんだ。
純粋に音楽を愛していたから…
真っ直ぐに自分の夢を追い続けていたから。
だからこそ、綺麗な心を持った明日香には、理想と現実のギャップに耐えられなかった。
- 562 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:11
- 「それに、やっぱり私はアイドルなんてガラじゃないよ。普通に戻りたい。
普通に学生をやって、マイペースに好きな事をして、自分の夢を追いかけたい」
普通の定義は人それぞれだけど、明日香の言いたい事は分かる気がする。
普通とは、多数派に属する事。
その普通から一度外れてしまえば、自分が望んでもなかなか戻る事はできない。
手遅れになる前に、明日香は戻りたいんだろう。
日常の世界へ。
ここは日常と非日常の狭間のような世界だから。
- 563 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:12
- 「私、もう疲れたんだよね…。
これから先も、自分を偽り続けて、耐えていく自信なんてないよ」
「っ…明日香…」
ウソ…
あの明日香が。
あれほど他人に弱い部分を見せる事を嫌っていた明日香が…
涙を浮かべている。
それでも、泣くまいと気丈に堪えているのが分かる。
だから私は気付かないフリをして、できる限り優しく明日香を抱きしめた。
- 564 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:13
- 「わかった…明日香の気持ち、よく分かったよ」
そう言って、明日香の短い髪をそっと撫でる。
私は人として明日香が好きだった。
でも、彼女は芸能人としてはあまりに不器用過ぎた。
この世界で生きていくには繊細だった。
どれほど大人びていようと、この子は13歳。
穢れを知らない、かつ不安定な存在。
だから、壊れてしまう前に、解放されるべきなんだ。
本当は引きとめたい。
けど、そうしたら明日香を苦しめるのは分かってるから。
私は黙って抱きしめるしかできなかった。
- 565 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:15
- ...
どのくらいそうしていただろう。
「…もう、大丈夫、ありがと」
しばらく無言で抱き合っていたけれど、ようやく明日香の方から言葉を発した。
その声が落ち着いていたから、私はゆっくりと自分の腕を解いた。
「はぁ。ごめんね、私ちょっと情緒不安定だ」
彼女の頬には、涙の跡すらもなかった。
私の前では、感情のままに泣いてくれても良かったのに。
- 566 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:17
- 「喉乾いちゃったね。お茶もう一杯飲もうか」
そしてこの空気を変えようとするように、明日香は私から離れ、
備え付けのポットでお茶を淹れ始めた。
ぎこちなく笑う明日香が、なんだか痛々しくて。
明日香を救う事ができない自分が歯がゆかった。
- 567 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:19
- ...
明日香の淹れてくれたお茶を飲みながら、私達は雑談していた。
先ほどの事には触れないように。
話の内容は、主に私に関する事だった。
「絵梨香はセンターポジションに就きたいって思った事はないの?」
「そんな…娘。になれただけでも夢みたいな話なのに。
私はセンターになれるような器じゃないよ」
いきなり何言ってんの、と笑い飛ばそうとする私。
だけど、対照的に明日香の目は笑っていなかった。
- 568 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:20
- 「絵梨香は自分を過小評価し過ぎだよ。
私、絵梨香にはもっと上を目指して欲しい」
「う、上って…」
それは、否が応にも争いに加担しなくてはならない事を意味する。
競争原理にとりつかれた世界。
それは芸能界だけじゃなくて、この国自体がそうだと言える。
元の世界でも、妬みや嫉み、同性同士の足の引っ張り合いを嫌というほど見てきた。
それらを醜いと蔑んでいた事があった。
その中に、自ら飛び込んで行けって?
そして、他人を踏み台にしろと?
- 569 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:21
- 「絵梨香には、今のままで満足して欲しくないから。
絵梨香は、私が辿り着けないところに行けるような気がする」
「…明日香こそ私を買い被り過ぎ。
それに、周りを押しのけて自分が、だなんてそんなのできないよ」
娘。の一員になって、多少なりとも知名度が上がった事は自覚していた。
でも、センターだなんてとてもじゃないけど考えられない。
私がそんな夢を持つ事自体おこがましい。
明日香が私に期待してくれるのは嬉しい。
だけど…私はそんなに強くない。
この話は終わりだと言わんばかりに、私は首を横に振った。
- 570 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:22
- 「それより…」
そして、すっと右手を明日香に差し出した。
「え?なに」
「いつまで一緒にいられるか分からないけど…、明日香、最後までよろしくね。
私は明日香がどういう選択をしても、受け入れるから」
「…ああ、こちらこそ」
明日香は薄く笑って、私の手を握り返してくれた。
「ありがとう、絵梨香。絵梨香と話せて良かった」
さっき私に見せた、真剣な表情は既に消え失せていた。
でも、明日香の真っ直ぐなあの強い瞳が、いつまでも私の頭から離れなかった。
- 571 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:23
- ...
今夜も瞼はなかなか落ちなかった。
「圭さん…」
隣で眠っている圭さんの背中にそっと手と耳を当てる。
心地良い心臓の音と、彼女の温もり。
でも、今考えてしまうのは明日香の事だった。
明日香も、こんな風に何度も眠れない夜を過ごしたんだろう。
そして、悩んで、悩み抜いて、答えを見つけた。
- 572 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:24
- 当人を取り巻く環境は、人格の形成に大きく影響するという。
特に、それが幼少期から思春期にかけてだとすれば尚更。
明日香の同じ年頃の子は、毎日学校へ行き、勉強以外にも
人間関係のノウハウを学び、社会に出ていく為の準備をする。
大事な時期に、明日香はそれをする事ができない。
貴重な時間は、ほぼ仕事に割かなくちゃいけない。
義務教育中の身なのに、最低限の事も満足に学ぶ事ができない。
その事実に、明日香は危機感を感じている。
- 573 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:25
- 私達と過ごしているだけでは、得られるものは限られていると
明日香は判断したのだ。
当時の私にとって、学校はわずらわしい存在でもあった。
でも、学校に行かなければ決して得られなかったものがたくさんある。
部活動に勉強にと、せわしない日々。
ただそれはマイナスな事じゃなかった。
つらい事、嬉しい事、様々な事があったからこそ
今の私があると言える。
三好絵梨香という人間がいるんだ。
- 574 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:26
- 私は教師でも何でもないけど、教育って大事なんだなって今更ながらに気付いた。
だから、明日香を止めるなんてできない。
やめないでって言いたい。
でも、明日香の決意が固いって分かるから。
私ができる事は、明日香の選んだ道を応援する事。
それしかできない。
つらいけど…寂しいけど。
それが明日香の人生だから。
- 575 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:27
- ...
夏の厳しい日差しが徐々に和らいできた季節。
二期メンバー四人がつんくさんに呼び出された。
「…で、安倍と福田が、娘。のメインボーカル。
中澤は演歌でソロデビューしたやろ。
せっかくやから他のメンバーも活かしたいと思うたんや」
前置きが長いけれど、これからつんくさんの言わんとしている事が予測できた。
- 576 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:28
- 「飯田、石黒と新メンバーの4人の中から1人選んで、ユニットを作るつもりや」
ああ、来たよ。
二期メンバーのタンポポ加入争い。
「一応ユニット名はタンポポっていうんや。仮やけどな。
コンセプトはセクシーでちょい大人っぽい感じやな」
史実の通りにいくとタンポポのメンバーには真里さんが選ばれる。
負け戦と分かりつつそれに挑むという事自体は構わない。
ただ、落とされた圭さんや紗耶ちゃんが
ショックを受ける事は避けられないのだ。
それを思うと今から憂欝だ。
- 577 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:29
- 「実はな、その1人はもう決まってるんだ」
「へっ!?」
想像もしてなかった事実に、皆が一斉に和田さんの方を向く。
「矢口や。石黒や飯田の歌声に一番マッチする声質を持っとるのはお前やと判断した」
「わ、私ですか!?」
あ、あれ?
選考は課題曲ラストキッスをつんくさんの前で披露してからじゃなかったか。
確か、その様子がASAYANでも流れていたはずだ。
それを、チャンスも与えずに決定するなんて不公平じゃないだろうか。
- 578 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:31
- 真里さんの透き通った裏声は聴いていて心地良かったから、
私としてはこの人選は納得できるものだ。
というか、はなから真里さん以外のタンポポだなんて想像できない。
でも、圭さんや紗耶ちゃんの気持ちを考えると…
ほら、思った通り明らかに落胆してる。
それもそうだ。
今まで不遇の扱いを受けて来て、やっと自分を売り出すチャンスが訪れたと思ったのに。
彼女達のそんな顔なんて見たくない。
ホテルに帰って、どうやって二人を慰めようかと考えていた時だった。
つんくさんが新たに継いだ言葉に、私は耳を疑った。
- 579 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:32
- 「ああ、そこの三人も落ち込むのはまだ早いで。
お前らのユニットもちゃんと用意してあるんや。
候補としてはプッチモニってユニット名を考えとるんやけど」
「プッチモニ!?」
「な、なんや三好。デカイ声出して。ユニット名が気に入らんか?
それやったらコンモニあたりに…」
「い、いえ、プッチモニでお願いします!」
「忙しないやっちゃなー。嬉しいのは分かるねんけど、落ち着いて聞いてや」
つんくさんは呆れたように私を一瞥してから、再び説明に戻った。
- 580 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:36
- 冷静でいられるわけがない。
私は思わず自分の胸に手を当てた。
動揺のあまり、心臓が早鐘を打つのが分かった。
タンポポに関しては史実通りだ。
でも、問題はプッチモニだ。
プッチモニが結成されたのは翌年。
後藤さんが加入してからの話だ。
元は後藤さんと紗耶ちゃんと圭さんの為のユニットだった。
それが…こんな事になるなんて。
私以外の人達は、私の様子の変化に気づきもしなかった。
それどころじゃないのだろう。
「詳細は追って報告するから、ボイトレを怠るなよ」
という和田さんの忠告と共に、私達はその場から解放された。
- 581 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:37
- ...
ホテルに戻ってからは、皆お祭り騒ぎだった。
「ねえ、凄いよ!うちらちゃんと歌わせてもらえるんだよ?
皆に名前覚えてもらえる機会が増えるんだよ!」
プッチモニは確か、女性3人組ユニットの売り上げとしては
日本最高記録を叩き出した凄いユニットだ。
そんなユニットに私が携わっていいものだろうか。
- 582 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:38
- もしかしたら、明日香はこの事を知っていたのかもしれない。
だから、私にあんな事を言ったのだろうか。
“今のままで満足して欲しくない”という、明日香の言葉が蘇る。
確かに最初は娘。のメンバーになれただけで満足していた。
圭さんさえ隣に居てくれればそれで良かった。
でも、もうそんな思いだけでこの世界に居座るわけにはいかないのだ。
- 583 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:42
- 私にも、責任というものがあるから。
私が娘。のメンバーになった事で、変わってしまった事象は少なからず存在する。
そして今も、摂理に反し続けている。
私が存在しているだけで、この世界を引っかき回している事は否定できない。
だったらその分少しでも、この世界の人達の役に立たなくてはならない。
この世界を…周りの人達を良い方向へと導く努力をしないといけない。
私なんかに、それができるとは思えないけど。
せめて後藤さんが加入するまで、プッチモニを潰すような真似はしてはいけない。
決して歴史を悪い方へ変えてしまってはいけない。
その為なら、どんな事もする覚悟を持たなくちゃ。
いつしか、私はそう思い始めていた。
- 584 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:44
- ...
「抱いてHOLD ON ME!」の発売から一週間。
このシングルに関しては、史実と変わらずオリコン1位だった。
二度目の1位。
連続首位。
それはとても名誉な事だ。
だけど皆の表情は1位が取れて嬉しい、というより、
順位が以前より下がっていなくてホッとした、というものに近かった。
- 585 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:47
- これからも、ずっとこのプレッシャーに晒されなくちゃいけないのか。
一度頂点を極めたと思っても、更に上へ行く事を要求される。
もう、戻れないところまで来てしまっている。
途中下車は許されない列車に乗り込んでしまった。
いや、引き返せないレースに一歩踏み出したと言ってもいい。
この時から、私はある事を頻繁に考えるようになっていた。
私は、これからの自分の生き方や考え方自体を変えるべきなのではないかと。
そして、この世界で生きて行く為に必要なものは一体何なのだろうかと。
- 586 名前:第20話 夢と虚像 投稿日:2012/03/31(土) 02:47
- 第20話 夢と虚像
了
- 587 名前:あおてん 投稿日:2012/03/31(土) 02:49
- >>552
みーよはエロカだけど一応一途な設定なんでw
- 588 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/04/02(月) 23:44
- 凄い展開になってきましたね
まさかそう来るとは
- 589 名前:みおん 投稿日:2012/04/04(水) 00:43
- やすみよの関係性よりも歴史?がどうなるのか気になる
- 590 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 01:54
- ...
リズムに合わせて恋を刻むの
あなたが全てよ Hi!Shake Up Shake Hip
メロディに乗せて
恋を奏でましょ
乙女の心理学
...
- 591 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 01:56
- 今日は、プッチモニのデビュー曲「乙女の心理学」のレコーディングだった。
てっきり、「ちょこっとLOVE」でいくものだと思っていたけれど、
やっぱりシナリオ通りにはいかないものだ。
ちょこラブはハロコンでも披露した経験があって、かなり歌い込んでいたけれど、
テンポが速くて、かつ歌い慣れていない「乙女の心理学」は
やっぱりハードルが高い。
「うん、やっぱこの三人にして正解やったわ。お前らバランスええな」
そう…なんだろうか。
「乙女の心理学」は、元々は圭さんと紗耶ちゃん、二人だけの為の曲だった。
なのに、その大事な曲で私がいきなりセンターを陣取るだなんて。
私はセンターになれる器じゃないっていうのに。
焦りばかりが先走ってしまう。
- 592 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 01:57
- 「ん?絵梨香ちゃんどうしたの」
そういえば、紗耶ちゃんはプッチモニで大ブレイクしたはずだ。
本来のプッチモニにいた頃の彼女は、ショートヘアが良く似合っていて、
エネルギッシュに活躍していたイメージが強かった。
でも、相変わらず現時点での紗耶ちゃんは物静かなままだ。
もしかして、私のせいで彼女の才能の芽を摘んでしまっているんだろうか。
また余計な事を考えてしまう。
今のままじゃいけないって分かっているのに。
- 593 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 01:57
- どんなに自分に喝を入れても、いまひとつ自信が持てないままなのだ。
こんな自分が嫌になる。
変わろうと思っても、なかなかそう簡単には性格って変われるものじゃないんだな。
それでも、引くわけにいかない。
タンポポには…負けたくない。
- 594 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:00
- 「え…」
数秒前の自分の思考が信じられなくて、私は思わず動きを止めた。
今、私タンポポに負けたくないって思った?
争い事は嫌いなはずなのに。
それなりの結果を残しさえすれば、タンポポに勝つ必要性なんてないのに。
…やっぱり、この業界にいれば、変わって行ってしまう部分もあるんだろうな。
この変化が、良いものなのかは分からないけど。
- 595 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:00
- 「なんでもないよ」
私は曖昧に笑って誤魔化した。
こんな感情はまだ、誰にも知られたくないと思った。
業界の色に染まりつつ…
競争原理に取りつかれつつある自分を認めたくないという、
せめてもの抵抗だった。
- 596 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:01
- ...
10月に入り、久し振りの長期オフが入った。
おそらく、このオフはユニット始動前の充電期間なのだろう。
私は都内で一人暮らしする準備も兼ねて、自分の部屋の荷物整理をしている。
つまり、私は今札幌の実家に居る。
- 597 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:02
- 確かにいつまでもホテル暮らしのままではいられないもんね。
圭さんと一緒に過ごせる時間が減ってしまうのは残念だけど、
それは仕方がない事だ。
引出しを漁っていると、当時の日記帳を見付けた。
ちょうど1998年の物だ。
初めて転移した日の前日までの出来事が綴られている。
私はここに来て日記を書いた覚えがないから、過去の絵梨香が書いた物だ。
字も、文体も、どこか幼い。
- 598 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:03
- ...
「4月3日
ずっと気になっていた場所に今日行ってみようと思う!
昔聞いた話だけど、近所の脇道の先にある雑木林に、綺麗な桜の木があるらしい。
でもそこへは誰も近寄らないみたい。
私もあそこへは行っちゃいけないと大人達に教えられていた。
魂が吸い取られるとか、変な噂しか聞かないから。
怖いけど、ちょっとだけなら大丈夫。
家族にバレないように慎重に抜け出そう。
4月4日
あの場所に行ったけど、結局何も起こらなかった。
それはそれでつまんない。
でももう少ししたら、あの木は綺麗な桜が咲くと思うから、これから通おうと思う。
4月5日
やっぱり何も起こらなかった。
4月6日
おばあちゃんに例の場所へ行っていたのがバレて叱られた。
別に何も起こらなかったしいいじゃん。
ほんと年寄りってよく迷信を信じるよね。
でも、ブキミなのは分かるかも。
- 599 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:04
- 4月9日
明日最後にもう一度だけあの桜を見に行こう。
そして思い出の品をそこへ隠そう。
こんなものがあるからいけないんだ。
すぐそばに置いてあるから思い出して悲しくなるんだ。
でも、ゴミとして捨てるなんて勇気はない。
だから、埋めてしまおう。
これさえなくなれば、寂しい思いをまぎらわせる。
あの人の事を考えないで済む。
- 600 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:05
- ...
そこで日記は終わっている。
思い出の品?
あの人?
おぼろげな当時の記憶がじわじわと蘇って来る。
心当たりがないでもなかった。
でも、それはもう過ぎた事だ。
あの人に会う事はきっともう二度とない。
今考える事じゃない。
- 601 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:05
- 何にせよ、これではっきりした。
当時の三好絵梨香は、4月10日にいざないの桜へ行ったのだろう。
だからその日、27歳の私がタイムスリップできたのだ。
おそらく、私がまた2012年に一時的に戻る気でいる事は、
もう一人の絵梨香は知っているはず。
もうすぐ、以前転移した時と同じ時刻になる。
もしかしたら、いざないの桜にわざわざ足を運んでくれているかもしれない。
私は僅かな可能性に賭けてあの場所へ向った。
- 602 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:06
- ...
私は再びあっさりと2012年へやって来た。
やっぱり、もう一人の絵梨香は待機してくれていたのだ。
迷惑かけちゃってるなぁ…。
調べたい事を調べ終えたら、早急に自分の世界へ戻ろう。
あまり絵梨香を待たせるわけにはいかない。
そんな事を思いながら、私は全速力で実家へ向かった。
- 603 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:07
- ...
「え…」
自分の部屋に人の気配を感じて、私は入り口で立ち止まった。
ベッドに、誰かいる。
もう一人の絵梨香は、今1998年にいるはずだ。
だとすれば一体…。
もしかして、友達を泊めてた?
朝陽が差し込む部屋の中で、私に気づいたのか、その人が振り返った。
- 604 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:08
- 「みーよ、どこ行ってたの?」
「圭さ…!?」
心臓が止まりそうになった。
いや、この瞬間、息も止まってたと思う。
錯覚じゃない。
- 605 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:09
- 「け、圭さんって。いきなりどうしたの?
下の名前で呼んでって言ってもなかなか直らなかったのに」
「え…」
そっか。
こっちの絵梨香は彼女の事をまだ“保田さん”って呼んでるんだ。
って、いやいや、そういう事じゃなくて。
どうして彼女がここにいるんだろう。
それも半裸に近い状態で。
ありえない。
まさか、また新たな異世界に転移したって言わないよね?
ポケットを探ってみると、以前と同じ場所に携帯があった。
即座に引っ張り出して画面の日付を確認する。
2012年、8月…やっぱり、ここは元の世界だ。
一体、私が知らない間に何があったんだろう。
とにかく、落ち着け、落ち着くんだ私。
- 606 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:10
- 私は深呼吸しながら、ゆっくり保田さんの元へ歩み寄った。
…ああ、間違いない。
本当に保田さんだ。
保田さんが今私のベッドにいる。
「メモがあったから待ってたけど…もうちょっと遅かったら探しに行くところだった」
言われてみれば、テーブルの上に
“ちょっと朝の散歩に行って来ます”と書き置きがあった。
きっと2012年の私が書いたんだろうな。
あの場所に彼女を連れて行くわけにはいかないもんね。
- 607 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:11
- ...
「みーよ」
「はい?」
保田さんに呼ばれた瞬間、彼女は私の顔を両手で包んだ。
そして、自然に唇を重ねて来た。
軽く触れるだけのキス。
それでもこのキスは、明らかに恋人同士と交わすものだった。
「…っ」
おそるおそる、私は保田さんの背に手を回す。
頬が熱くなる。
感情のままに、好きだと、彼女に想いを打ち明けたくなる。
だけど、保田さんは私にではなくて…
もう一人の絵梨香にキスしてるつもりなんだよね。
そう考えると、罪悪感のようなものに支配される。
私は不自然に思われないように、保田さんの背中を撫で、体を離した。
- 608 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:13
- 「服着て下さい…いくら夏でもここは北海道なんですから。
風邪引きますよ」
シーツの下の綺麗な肌がチラチラと覗いて理性が崩れかけそうだ。
「ふふっごめん、ずっとおはようのキスしたくて待ってたから」
私の言葉に頷いて、彼女は素直に服を身に着け始める。
同一人物のはずなのに、根底的には変わっていないはずなのに、
やっぱり圭さんとは違うものがある。
上手く言えないけれど、圭さんと比べると、雰囲気も更に落ち着いていて、
なんだか、どっしりしているような…。
当然か。
目の前の彼女は、立派な大人の女性なんだもん。
色々なものを乗り越えて来た証拠なんだよね。
そう、これが保田さんなんだ。
やっと思い出せて来た。
- 609 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:13
- 彼女が少し動く度、圭さんとは違う香水の香りが漂う。
意識しちゃいけないって、必死で抑えようとしても、心臓が勝手に暴れ出す。
愛しさが込み上げる。
こればっかりは、どうしようもないのかもしれない。
だって、私が元々好きだったのは…
こっちの世界の“保田さん”なんだから。
でも…そっか。
彼女は、絵梨香を受け入れてくれたんだ。
- 610 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:15
- 2012年の世界に戻って来て、
保田さんと言葉をいくつか交わしてわかった事。
絵梨香と保田さんは…その、深い関係になっていた。
推測するに、もう一人の私が保田さんを抱いたのは一度や二度ではないらしい。
断言はできないけれど…
それとなく聞き出してみたところ、
あのメールの直後に、絵梨香と保田さんは再会を果たし、
お互いに想いを打ち明け合ったようだ。
そして、絵梨香と保田さんは前から両想いだったと。
いつから保田さんが私を好きでいてくれたのかははっきりしなかったけど。
それ以来、仕事の合間を見つけては、
保田さんと絵梨香は札幌と東京を行き来して会っているらしい。
- 611 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:15
- 随分…遠回りしてしまったんだな。
でも、きっと今絵梨香は凄く幸せなんだろう。
良かったね。絵梨香。
私に向ける保田さんの笑顔、本当に素敵だ。
絵梨香といて、楽しいって思ってくれてるんだよね。
…いいなあ。
私なんて圭さんに満足にキスもできないのに。
…いけない。
立派な大人の二人と、未成年の私達を比べる時点で間違ってる。
私達は私達のペースで、ゆっくり歩めばいい。
- 612 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:16
- その時、保田さんのお腹が鳴った。
「…今の聞こえた?」
「はい」
そういえば、私の体も空腹を感じている。
ちゃんと食べて来たのに。
ああ、これはもう一人の、27歳の絵梨香の肉体だからか。
まだこっちの絵梨香は朝食べてなかったんだ。
「ご飯にしましょっか」
「そ…そうだね」
「おいしい朝食作りますから、期待してて下さい」
顔を赤くしている保田さんがたまらなく可愛い。
私はニヤケそうになるのを必死に抑えながら、
下に降りて調理に取り掛かる事にした。
- 613 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:17
- ...
そろそろ2012年の世界にやって来て2時間になろうとしている。
以前ここに滞在したのは3時間くらいだった。
本当はいつまでもこうしていたいけど、それは許されない。
1998年にいるはずのもう一人の絵梨香も、
いざないの桜で待機している頃かもしれない。
いい加減戻らないとまずい。
でも、保田さんがいるのにどうやって抜け出そう。
上手い言い訳が見つからない。
そんな考えを巡らせてしばらく経った時だった。
突然、家のチャイムが鳴った。
誰だろう。
「私ちょっと出ますね。
あー、隣のおばさんだったら話長くなりそうだな」
- 614 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:18
- 応対に出てみると、近所のおばさんではなく郵便配達員の人だった。
判を押し品物を受け取ってから、はたと気づく。
これはチャンスだ。
多少遅くなっても、多分保田さんは私が
近所のおしゃべりなおばさんに捕まっていると思ってくれるだろう。
出るなら今の内だ。
私は名残惜しいという思いを振り切って、いざないの桜の元へと駆け出した。
- 615 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:19
- ...
「はぁ…戻って来たぁ」
肌を撫でる風の冷たさで実感する。
1998年10月の世界だ。
しかし、そこで重大な事に気が付いた。
「!しまった」
予想外の出来事があってすっかり本来の目的を失念してしまっていた。
圭さんの体質の事や、娘。の歴史、メンバーの人間関係について
詳しく調べるつもりだったのに。
さっきまで、私は保田さんの事で頭がいっぱいで、その事を
思い出しもしていなかった。
「何やってんだよもう」
自分のあまりの迂闊さにあきれ果ててしまう。
私はがっくりと肩を落としながら自宅へと戻った。
- 616 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:20
- ...
自分の部屋に入ると、前回と同じように、机の上にノートが開かれて置いてあった。
絵梨香からの新たなメッセージだ!
私は急いで机に駆け寄り、ノートに視線を落とした。
「うわ…」
その瞬間、軽い眩暈がした。
ミミズのような…というのは言い過ぎだけど、
曲がりくねった文字がびっしり並んでいる。
凄い殴り書きだ。
よっぽど急いでいたんだろう。
- 617 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:20
- そこには、私が知りたかった答えがほぼ綴られていた。
そうだった。
私の思考や言動は夢を通して向こうの絵梨香にも筒抜けだった。
彼女は私の気持ちを汲んでわざわざ調べてくれた。
そして懸命に私に伝えようとしてくれたんだ。
- 618 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:22
- ...
まず、圭さんの体の事…
扁桃炎に関しては、やっぱり手術をするのが一番だと言う。
でも、あのハードスケジュールじゃ難しいだろう。
それを絵梨香も理解しているのか、症状を悪化させない為の対策が
事細かに書かれてあった。
免疫力を低下させるステロイド系の薬や抗生剤は避けるようにだとか、
保田さんの話によれば、半身浴はアレルギーに効果的だったらしいとか。
そして甲殻類のアレルギー反応にも充分気を付けて欲しいという新情報まで。
- 619 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:24
- 明日香の事に関しては、幼馴染とバンドを結成して、
地道に活動しているとの報告があった。
だから、明日香を引き止めなかった私の選択は、
きっと間違っていないはずだと書いてくれている。
これが彼女の望んだ音楽の形なのだろうと。
ただ、安倍さんと飯田さんの事だけは極端に短かった。
おそらく、絵梨香自身もどうしていいのか分からないんだろう。
史実では、保田さんが卒業時に二人を仲直りさせた事になっているらしい。
保田さんが娘。に加入して、卒業するまで約5年。
つまり、二人の関係が修復するまで、5年もかかったのだ。
やっぱり…私のできる事は限られている。
- 620 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:24
- 四つ目に、大まかな娘。の歴史が記されていた。
これ…全部頭に詰め込んで来たんだ…。
随分を手間を掛けさせてしまった。
私が保田さんにのぼせ上がって大事な目的を忘れていた間、
絵梨香はこんなにも真摯に私と向き合ってくれていた。
これは私の問題なのに。
かっこ悪いな、私。
何の為にあっちの世界へ戻ったのか分からない。
もう一人の絵梨香に申し訳ないという思いでいっぱいになった時、
最後のメッセージに辿り着いた。
- 621 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:26
- “保田さんが家にいてびっくりしたでしょ?驚かせてごめんね。
保田さんとまたあんな風に幸せな時間を
過ごせるようになったのは、絵梨香のおかげだよ。
私も、絵梨香と圭さんのようにもっと親しい関係になれるように頑張るね。
絵梨香のプッチモニ期待してるよ”
「…なーに言ってんだか。私達よりよっっぽど仲良くしてるじゃん。ノロケ?」
でも、不謹慎かもしれないけど…
私自身も、保田さんに会えて凄く嬉しかった。
だって私が、心から好きだった人だから。
きっと保田さんの事は今も好きだ。
同一人物である圭さんの近くにいられても…
簡単に保田さんへの想いが消えるわけじゃない。
「なんか…二股野郎になった気分」
- 622 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:27
- とにかく、一度にこれだけ知る事ができれば充分だ。
今のところこれ以上2012年に干渉する必要はないだろう。
明日また行ってもまだ保田さんがいるかもしれないし、
そんなに度々お邪魔するわけにいかない。
2012年の保田さんはもう一人の絵梨香のものなんだ。
「ありがとう、絵梨香。これ、ちゃんと活用させてもらうよ」
一瞬、何か言葉にできない複雑な感情が芽生えた気がしたけれど、
私はそれを無視してノートを胸に抱いた。
- 623 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:29
- ...
「おいおい、お前らこないだ来たじゃねえかよ。大体プッチモニって何だよ」
休み明け早々にうたばん収録。
この世界のうたばんに出演するのはもう三度目だっけ。
貴さんはどうやっていじってやろうかと言わんばかりの目で
私達を見回している。
「つんく調子に乗ってると思わねえ?」
「なっちあたり絶対嫉妬してるぜー」
まさに彼らはマシンガンのように話しかけて来る。
こちらが何を喋ろうか考える前に、貴さんか中居くんが勝手に話を進めてくれる。
変に肩肘張らなくていいし、こうして積極的に話を振ってくれるのはありがたい事ではある。
他の司会者の人だったらこうはいかない。
- 624 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:32
- その時、貴さんは圭さんの方を向いて、いきなり突拍子もない事を言った。
「お前なんでそんな目をひんむいてギラギラしてんだよ!こええよ」
「なっ!も、元々こういう顔なんですよ」
圭さんはカメラが回っている事も忘れて貴さんを睨みつけている。
元の世界ではどれほど酷い扱いを受けても笑って済ませていた圭さん。
でも、今は明らかに憤慨している。
これが普通の反応だと思う。
いくらテレビとはいえ、いきなり自分の事を
面白半分にネタにされて、誰もそれを愛のあるイジリとは解釈しないだろう。
はたから見れば明らかにイジリではなくてイジメだ。
いや、愛あるイジリと判断するのはまだ早いか。
今現時点での貴さんは、ただ面白がってるだけの可能性の方が高そうだ。
- 625 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:33
- 「ウソつけよ。化け猫みたいになってんぞ」
「化け猫じゃないですよ!失礼です!」
まさに、好きな子をいじめる小学生男子の図だ。
圭さんも圭さんで馬鹿正直に反応を返すものだから、
二人のやり取りがどんどんヒートアップしていく。
スタッフさん達も皆ゲラゲラ笑ってるけど、いいんだろうか。
いや、良くはないよね。
冷静に傍観してる場合じゃなかった。
まずい。
このままじゃ圭さんは早々にお笑い要員として扱われてしまう。
17歳の女の子にとってそれはあまりに酷だと思う。
私は慌てて二人に割り込んだ。
- 626 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:35
- 「そんな事より曲について話をさせて下さいよ!この曲はですね…」
「うわっ真面目だなぁ。しゃーねえなあ」
貴さんは私の気持ちを察してくれたのか、やれやれと言ったように
脱線した話を元に戻そうとする。
和田さんが鋭い眼光で私を睨み付けていた事は分かっていた。
でも、私はそれでいいと思っていた。
彼女を守れたという安堵感に浸っていた。
選択を誤っただなんて、微塵も感じていなかった。
- 627 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:36
- ...
収録後、予想通り和田さんが仁王立ちして私を待ち構えていた。
お咎めなしで終わるだなんて、私も思ってはいなかった。
だから、素直に和田さんの後をついて行く。
そして廊下の隅まで行くと、さっきよりも比べ物にならないほどの
冷たく昏い目が私を射抜いた。
「どういうつもりだ。お前が邪魔さえしなければ
あれで視聴率取れてたかもしれないんだぞ」
「いえ、ですが…っ」
「言い訳は必要ないんだよ!」
和田さんのドスの利いた声に私の身が竦んでしまう。
- 628 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:38
- 「石橋さんは業界で何年やって来てると思ってるんだ。
お前は黙ってあの人の進行に委ねてりゃいいんだ!」
「でも、見て見ぬふりなんて…っどうしてもできなかったんです」
「この際お前個人の感情なんて関係ない。お前達は商品だ。
売れなければただのガラクタだ。
世間に認められて初めて存在価値が見出せるんだよ。
娘。の名前を覚えてもらわないと何も始まらないんだよ!」
商品…
そうだ、以前にも和田さんに、
私達は温室で育てられる花じゃなくて雑草だと言われた事があった。
私達は、守ってもらえるような立場ですらないんだ。
- 629 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:39
- 「お前には、他のメンバーほど、上にのし上がってやろうという根性があると思えない。
今のままならセンターは外れてもらうからな」
和田さんの言っている事はもっともだ。
正論過ぎて…
何一つ言い返せない。
情けない。
瞳にみるみる涙が溜まっていく。
視界が歪む。
それでも私は、爪が真っ白になるほどに拳を握り締め、
唇を噛んで耐え続けた。
- 630 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:41
- ...
数時間後、私はようやく和田さんのお説教から解放された。
フラフラする。
なんだか、水の中を歩いているように錯覚しそうなほど、足が重い。
ああ…圭さんだ。
「絵梨香っ大丈夫?」
終わるのを待っていてくれたんだろう。
圭さんが心配そうな顔をして駆け寄って来てくれた。
それだけで、張り詰めていた糸がいともたやすく切れてしまう。
「絵梨香…私に寄りかかっていいから」
「ごめんなさい…私、なんか、すっごい疲れて…」
私は圭さんに素直に体を預け、目を閉じる。
- 631 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:43
- 彼女は何も言わず私の頭を優しく撫でてくれる。
気持ちいい。
圭さんの腕の中。
この場所が私にとって何より安らげる。
「圭さんは、どんな嫌な思いをしても…
それが売れる事に繋がるなら嬉しいと思えますか?」
「…嬉しいよ。それで、皆に覚えてもらえるなら。
絵梨香と同じところに行けるなら」
迷いのない、はっきりとした声だった。
さっき貴さんの前で見せた圭さんの表情は、
嬉しいというものからはかけ離れていた。
傷付かなかったわけがないだろうに。
だけど、彼女はそれすらも受け止めるつもりでいるんだ。
- 632 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:44
- 「私だって、いつまでも負けっぱなしじゃないんだから。
言ったでしょ、私は絵梨香に相応しい自分になるって」
私が瞳を開けて圭さんを見上げると、彼女は右手の指輪をかざして見せた。
「圭さん…」
本当に…この人はどこまで綺麗なんだろう。
- 633 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:45
- こんな優しい目をした人を、貴さんはどうして怖いなんて言うんだろう。
事務所の人達は、どうしてモノのように扱うんだろう。
圭さんの心臓がトクトクと動いている。
こんなにあったかいのに。
心を持った、生きた人間なのに。
私達は、人形なんかじゃないのに。
- 634 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:48
- ううん、違う。
そんなの、皆分かってるんだ。
分かった上で、私達を売り込む為に数多くの人達が
全力を注いでいるんだ。
私達に嫌われる事さえ覚悟して。
私がした事は、そんな人達を、圭さんの想いを踏みにじるものだった。
その事にやっと気付いた。
- 635 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:50
- 「さっきの収録の時、私を守ろうとしてくれてたんだよね」
でもね、と言葉を区切り、圭さんは私を真っ直ぐに見つめる。
「私は絵梨香が思ってるほどか弱くないから。
私はチャンスがあるならどんな理不尽な扱いを受けてもいい。
結果的にプラスに繋がるなら、試練だと思って喜んで受け入れる。
だから、守ってくれなくていいんだよ?」
ああ、そうだ。
圭さんは芯が強い人だ。
明日香とはまた違う強さを持った人だ。
私は…とっくにそれを知っていたはずなのに。
- 636 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:55
- 「ごめんね、私のせいでいっぱい怒られちゃって」
「いえ…悪いのは私ですから」
ただ単に私が圭さんにそんな売れ方をして欲しくなかったのだ。
歌も聴かずに、圭さんの苦悩も知らずに、
世間の人達に彼女の存在をそんな風に認識して欲しくなかった。
歌やダンスは二の次で、コメディ的な役割を求められる圭さんを見たくなかった。
トーク番組では目立たない存在でも、ステージに立つと
秘められた実力を発揮する…
“強くて、優しくて、ひたすらに歌を愛し続ける圭さん”
でいて欲しかった。
いつまでもそんな、綺麗でかっこいい圭さんでいて欲しかったんだ。
- 637 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:56
- 圭さんを自分の人形のように扱っていたのは、私の方だった。
なんて幼稚な独占欲。
どれほど彼女が底抜けに優しくて、他人を受け入れてくれる人でも、
介入できない部分がある。
そんな当たり前の事を知った。
- 638 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:59
- 私も、頭を冷やすべきだ。
そして、圭さんと少し距離を置くべきなのかもしれない。
圭さんの事が絡むと、私は我を忘れてしまう。
何が正しいか、何が間違っているのか分からなくなってしまう。
だから、一度離れた方がいい。
圭さんの為にも。
娘。の為にも。
自分の為にも。
もう一人の絵梨香だったら、今の私を見て何て言うだろう。
絵梨香に意見を求めてみても、当然の事ながら答えが返って来る事はなかった。
- 639 名前:第21話 人形姫 投稿日:2012/04/05(木) 02:59
- 第21話 人形姫
了
- 640 名前:あおてん 投稿日:2012/04/05(木) 03:02
- >>588
ありがとうございます。
話はまだまだ続きますが退屈させないように頑張ります。
>>589
ありがとうございます。
大きな変化が生じるのは終盤ですね。
- 641 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/04/06(金) 23:24
- 某所で語ってた例のシーンがw
- 642 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:19
-
「圭ちゃんと何かあった?」
「え?」
明日香のストレートな問いに、私は思わず身を強張らせる。
「だって最近私と一緒にいる事の方が多いじゃん。あんなにベッタリだったのにさ」
確かに、私はあのうたばんの収録以来、圭さんと距離を置くようになった。
圭さんの近くにいたら、私は娘。やメンバーの未来よりも、圭さんと二人で過ごす今を優先してしまう。
このままじゃ、いずれ何かが崩れてしまう。
だから、今の内に歯止めをかけておこうと思ったのだ。
冷静になる時間が、私には必要だと思ったから。
- 643 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:21
- 「仲が微妙になったとかそんなんじゃないよ、
私が勝手に圭さん断ちしているだけだから」
「はぁ?」
明日香はわけがわからないと言いたげな顔で私を見つめる。
「明日香は分からなくていいよ。分からなくて当然だから」
そう、これは私の問題なんだ。
- 644 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:22
-
「…ま、いいけどさ。ねえ、絵梨香、これから麻布の温泉行かない?」
「えっ?」
いきなり違う話題を振られ、私は素っ頓狂な声を出す。
まだ仕事が残ってるのに温泉?
「あー、ババくさいとか思った?でも意外とハマるよ温泉って」
「いや、私も温泉好きだよ」
元の世界にいた頃も、時間に余裕ができれば
温泉旅行にでも行きたいと思っていたところだった。
「じゃあ行こうよ」
- 645 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:23
- 確かに麻布までならすぐ帰って来られるだろう。
取材の待ち時間も長いし、考えてみればいい時間の使い方だと思う。
そう思って頷いた時、明日香が信じられない事を言った。
「あっ圭ちゃーん!絵梨香も行くって」
「!?」
あの、明日香?
圭さんもいるとは聞いてないよ。
- 646 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:24
- 目を見ただけで私の意を汲み取ったのか、明日香はこともなげにこう言う。
「喧嘩してるわけじゃないんでしょ?だったらいいよね」
それはそうだけど。
まあ、今更引くわけにいかないよね。
圭さんが行くんだったら遠慮するだなんて、そんな事できるわけない。
せっかく誘ってくれてるんだし、一緒に付き合うとしよう。
私は覚悟を決めて明日香の後をついて行く事にした。
- 647 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:25
- ...
そこは温泉というより、よくある銭湯だった。
「何ここ!薬草風呂もジェットバスもないの!?」
設備に不服なのか、さっきから明日香はプリプリ怒っている。
「まあまあ。ここ湯加減もいい感じじゃん。
せっかくなんだからゆったりしようよ」
圭さんはそんな明日香をなだめつつ、手足を伸ばして寛いでいる。
- 648 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:25
- 私は極力圭さんの姿を視界に入れないようにと背中を向けていた。
彼女の素肌を見ると、どうしても思い出してしまうから。
あの時、絵梨香の帰りを待ってくれていた“保田さん”。
“保田さん”の首筋や、薄い肩…白い肌を。
圭さんではなく“保田さん”へ抱いていたあの頃の想いが、まだくすぶっている。
隣に圭さんがいるのに“保田さん”の事を考えるなんて、どうかしてるけど。
- 649 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:27
- なんだか、こうしているのが逆効果な気がして来た。
圭さんを遠ざけようとするほど、意識してしまう。
「絵梨香」
肩にそっと誰かの手が添えられて、私は飛び上がるほどに驚いた。
「わ!?」
「そ、そんなに驚かなくても」
私の肩に触れたのは圭さんだった。
よくよく考えれば、隣にいるのは圭さんなのだから、
そんな事するのは彼女以外にありえなかったのだけど。
- 650 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:27
- 「ごめん、考え事の邪魔しちゃったよね」
「いや、いいんですよ…それより、明日香は?」
見れば、明日香の姿が消えていた。
「ん?かろうじて打たせ湯があったみたいだからそこに行ったよ」
周囲を見渡してみると、なるほど、打たせ湯の下で目を閉じ、
じっと佇んでいる明日香の姿があった。
そうしてると何だか修行僧みたいだ。
いや、巫女の禊ぎに近いかな。
- 651 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:28
- とりとめのない事をぼんやり考えていた時、圭さんが再び口を開いた。
「…なんか、久し振りじゃない?こうして絵梨香とゆっくり二人で話すの」
「そう、ですかね」
確かに、毎日のように四六時中一緒にいた頃を基準にして考えると、
この世界で、オフの日を除きこれだけ圭さんと関わらなかったのは初めてかもしれない。
私自身、圭さんを意識して避けていたところもあったし。
現に今も圭さんと目を合わせる事ができない。
- 652 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:29
- 「ねえ。私、絵梨香に嫌われちゃったのかな」
「はい!?」
私は思わず圭さんの方へ勢い良く振り返る。
圭さんの鎖骨や肌にはり付く髪に色気を感じる余裕はなかった。
「私とあんまり話さなくなったのってうたばんの収録の頃からでしょ。
私のせいで嫌な思いさせちゃったから…もう私と一緒にいたくないんじゃないかって」
「圭さん!」
私は最後まで聞いていられず、すごい勢いで圭さんの手を掴んでしまった。
バシャッと大きな水しぶきが上がるほどに。
- 653 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:30
- 「私が圭さんを嫌いになる事なんてありえません。
私はいつだって圭さんが大事です。
それだけは何があっても変わりませんから」
圭さんは心底ほっとしたように笑ってくれた。
「よかった…私、もし絵梨香に嫌われたら、どうしていいのか分かんないよ」
「そんなわけないじゃないですか。私にとって圭さんは大切な人なんですよ」
私の言葉に、圭さんがゆっくりと頷いてくれる。
こんな風に圭さんが私を見つめてくれたのは、数日ぶりかもしれない。
- 654 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:32
- なんだか圭さんを独占しているようで、嬉しいという思いが滲んでしまう。
だけど、それじゃダメなんだ。
自分自身の事や周りの事を二の次にして、圭さんを第一に考えてしまうようじゃ。
本当は望むまま圭さんの事を見つめて、圭さんの事をずっと考えていたい。
でも、そんな事を続けていれば、いずれその代償がやって来る。
今の自分の能力に甘んじてはいけない。
- 655 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:32
- 私はまだ未熟な人間なんだ。
二期メンバーとして選ばれたけれど、
プッチモニのセンターとして抜擢されたけれど、
それはきっと元の世界で培った“経験”という貯金があるからなんだろう。
そんなものをあてにして目先の事にとらわれていたら、
いずれ堕落するのは目に見えている。
- 656 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:34
- 私の自分勝手な欲望のせいで、周りの足を引っ張るわけにいかない。
むしろ、最終的には私が皆を引っ張っていけるくらいにならなくちゃ。
強くならないといけない。
“だから…ごめんなさい、圭さん。
その為に、私は少しだけ距離を置こうと思うんです”
私はゆっくりと彼女から手を離し、再度背中を向けた。
圭さんはもうそれ以上何も言って来なかった。
二人で長い間、ゆったりと温かなお湯に身を浸していた。
- 657 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:35
- ...
「またあの二人口きいてないんですか」
「みたいだよ。タンポポできたから圭織は落ち着いてくれるかと思ってたら、
今度はなっちの方が圭織に嫉妬しちゃってるっぽい」
私の質問に、彩さんが小声で教えてくれる。
あーややこしいなあ、もうっ。
どうして女ってこんなに面倒くさいんだろう。
そりゃあ、私も女だけど。
大事な時期に、仲間割れしてる場合じゃないのに。
- 658 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:37
- 今日も安倍さんと飯田さんは些細な事で言い争いをして、
それ以来ずっとお互い口もきかず目すら合わそうとしなかった。
こんな調子じゃ、明日香がいなくなった時どうすればいいんだろう。
そんな事を思いながら、私はいそいそと帰り支度を始める。
私は事務所に用意してもらったマンションへ。
ちなみに圭さんと紗耶ちゃんは千葉の実家へ、真里さんは神奈川の実家へ。
数ヶ月続いた私達二期メンバーのホテル暮らし生活は、あっさりと終わってしまった。
- 659 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:38
- 「紗耶香ー、帰ろう」
「うん」
あ、圭さんったらそんな手なんて繋いで。
そうだよね、二人とも千葉っ子だもんね。
帰る方向が一緒だし、ほぼ毎日同じ電車に一緒に乗ってるなら、
そりゃ一気に親密にもなるよ。
- 660 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:39
- 「はぁ」
環境の変化がめまぐるしくてついて行けない。
つい最近まで一緒に暮らしていたのが夢みたいだ。
もう、ツアーやイベントでもない限り、圭さんと寝る前におしゃべりしたり、
一緒に眠る事ができなくなってしまったのだ。
おはよう、おやすみのキスもできなくなった事も痛い。
それだけじゃなくて、やっぱり私自身人恋しくなっているのかもしれない。
本当は、仕事仲間としてはこれくらいの距離感があった方がいいんだろうけど。
でも。
距離を置くと自分で決めた事とはいえ、他の誰かと
どんどん親密になっていく圭さんを見ると、胸がちくっと痛む。
- 661 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:40
- 本来、そこに私はいないはずの人間なんだから、これがあるべき姿のはずなのに。
分かってはいるのに。
この感情が何なのかは、はっきりと自覚している。
そう、私は今紗耶ちゃんに嫉妬している。
私って…随分狭量な人間だったんだな。
- 662 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:41
- 「絵梨香、寂しかったら電話してきていいからね」
「退屈だったら漫画貸すよ?」
「…はい。ありがとうございます」
私は口角を無理に上げて二人にお礼を言った。
気持ちは嬉しかった。
誰かとコンタクトを取りたくなってしまうのは事実だったから。
だけど、圭さんにだけは甘えるわけにはいけない。
そんな事をすれば、決意が揺らいでしまう。
- 663 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:42
- 最優先事項はプッチモニだ。
何があってもこれだけは失敗できない。
このユニットは、これからの私達の人生に大きく左右するはずだ。
娘。になれたという事実に、圭さんの隣にいられる事に、
どうしようもない幸福を感じていたあの頃には戻れない。
ウソのない世界で無邪気に笑っていた私はもういない。
売れなければ人間扱いしない…
それが会社の方針なのだとすれば、素直に従うまでだ。
世間に認めてもらうまで、私は圭さんに対する一切の感情を切り捨てるつもりでいた。
- 664 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:43
- ...
決意を胸に一人帰ろうとした時、あるメンバーが声を掛けてきた。
「ねえ、絵梨香」
「安倍さん、どうしたんですか?」
私の目の前には、小動物のような愛らしい目で私を見上げる安倍さんの姿。
「いきなりこんな事言って悪いけどさ、今晩泊めてくれないべか?」
「!?」
- 665 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:44
- 一瞬、自分の耳を疑った。
今まで安倍さんとはそれなりに仲良くしてきたつもりだったけど、
プライベートでも密接な関係を作るまでではなかった。
なのに今、安倍さん自ら泊まりたいと言っている。
このシチュエーション、圭さんだったら飛び跳ねて喜びそうだな。
- 666 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:45
- 「あー、ええと、私は構いませんけど、大したおもてなしできませんよ?」
「全然いいよそんなの!良かった!じゃあ泊めてくれるべ?」
それにしてもどうして私の所なんだろうか。
その問いを投げかける前に、安倍さんが私の腕を掴んだ。
「そうと決まればレッツゴーだべ!」
「あっちょっと」
そして安倍さんはそのままもの凄い勢いで廊下をダッシュで駆け出す。
「ま、待って下さいよそんな急がなくても」
それでも、安倍さんの足は止まらない。
- 667 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:47
- 「あ!お疲れー」
まだ廊下にいた圭さんや紗耶ちゃんの姿を見つけ、安倍さんが軽く手を上げる。
二人は、腕を組んでいる私と安倍さんの事を目を丸くして見ていた。
「き、気を付けて帰って下さいね」
本当はもう少しちゃんと挨拶したかった。
でも、安倍さんが私の腕を引く力は意外と強く、足を止められないので、
一気に廊下を駆け抜けた。
何か言いたげな圭さんを残したまま。
- 668 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:47
- ...
「へーっ。これが絵梨香の部屋かあ」
部屋に着くなり、安倍さんは物珍しそうに辺りを
キョロキョロと見回している。
「いいなあ、なっちも一人で住みたい」
安倍さんの言葉に、私はピンと来た。
もしかして、飯田さんと一緒にいたくなかったから泊まりに来たんだろうか。
でも、それなら何も私の所じゃなくてもいい気がする。
- 669 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:48
- 「にしても、どうして私の所を選んだんですか?
彩さんや裕ちゃんだって一人暮らしですよね」
「だって裕ちゃんは大人で色々あるだろうし、彩っぺはタンポポだし」
「は?タンポポ?」
どうしてそこでタンポポが出て来るのだろう。
疑問符を浮かべる私に、安倍さんが言葉を続ける。
「絵梨香はプッチモニっしょ。
なっち、プッチモニにタンポポを打ち負かして欲しいんだべ」
「ええ!?」
- 670 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:49
- 無関係なはずの安倍さんが、どうしてそんな事にこだわるんだろう。
…ああ、そうか。
タンポポに飯田さんがいるから。
タンポポのセンターは飯田さんだった。
敵の敵は味方…安倍さんはそういう考え方をしているのか。
冗談混じりに安倍さんは言っていたけれど、
100%冗談で言っているというわけではないのだろう。
そんな事を願ってしまうくらい、安倍さんと飯田さんは対立しているんだ。
- 671 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:50
- というか、安倍さんってなかなか食えない人だな。
可愛くて天然な人という認識は間違っていたかもしれない。
「今すぐっていうのは難しいかもしれませんけどね。いずれ追い抜いてみせますよ」
「おお、頼もしいべさ」
現実問題、私がプッチモニのセンターを任されてしまった以上、
手を抜く事は許されない。
商業主義の世界にいる以上、売上の件も無視できなくなる。
プッチモニの名を汚してはいけない。
打倒タンポポの目標も持てないくらいじゃ、これから先センターは務まらないだろう。
プッチモニの実質的なリーダーは圭さんだけど。
って、だからって二人の不仲まで煽ってどうするんだ。
- 672 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:51
- 「それより、夕飯作りますよ。何がいいですか?」
「あっじゃあ、鍋がいい!」
鍋は簡単だからありがたいけど、食材あったかな。
「具は何でもいいですか?」
「石狩鍋!石狩鍋がいいべ!」
え…鮭なんて冷蔵庫に入ってない。
「あの…どうしても石狩鍋じゃないといけませんか?」
「だって最近食べてないんだもん。ダメ?」
まったく、わがままなお姫様だ。
「足りない物買って来るんで、待ってて下さい」
「やった!じゃあなっちは絵梨香がエッチなもの隠してないかチェックしてよーっと」
「そんなもんないですから。すぐ戻るんで」
ぴしゃりと言ってのけて、私は鍋の食材の買い出しの為にひとっ走りしたのだった。
- 673 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:52
- ...
「あー食べた食べた。ごちそうさまでした」
安倍さんは幸せそうにほうっと息をつく。
とりあえず満足してもらえたようで良かった。
「絵梨香手際いいよねえ。あ、お願いがあるんだけど聞いてくれるべか?
実はこれ一番頼みたかった事なんだべ」
「な、何でしょうか」
安倍さんの真剣な瞳に思わず姿勢を正してしまう。
「前にお菓子も作るって言ってたっしょ?今度なっちにも教えてよ」
- 674 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:53
- …なんだそんな事か。
強張っていた肩の力がふっと抜けた。
「もちろんいいですけど。でも急にどうしたんですか?」
「んーと、作ってあげたい人がいるから…」
そう言って頬を染めもじもじとしている安倍さんは、まさしく恋する少女みたいだ。
「え…それは誰って、聞いてもいいですか?」
安倍さんは迷っていたようだけど、意を決したように口を開いた。
「…明日香」
- 675 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:54
- そりゃまあ、飯田さんって言うわけはないか。
そもそも安倍さんが飯田さんに手作りのお菓子をプレゼントしたところで、
二人のわだかまりを解消できるとは思えない。
そんな単純な話ではない。
いや、それより安倍さんって明日香の事…
「や、変な意味じゃないべさ。こないだの杏仁豆腐は失敗しちゃったし、
名誉挽回したいって気持ちもあるんだべ。明日香はおいしいって言ってくれたけど、
もっとおいしいもの食べさせてあげたいっていうか」
- 676 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:55
- 何にせよ、安倍さんは明日香の事が気になっているようだ。
最近明日香とのラジオが始まったみたいだしね。
そういえば、安倍さんって明日香が辞めるつもりでいる事をまだ知らないんだよね。
私達二期メンバーにしかまだ話していないって明日香は言っていたし。
真実を知れば、相当ショック受ける事は分かり切っている。
その時の事を思うと、胸が痛んだ。
だから、せめて今は、皆が少しでも長く
明日香の楽しい時間を過ごせるよう、手助けするべきだ。
- 677 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:55
- 「分かりました、まずはマフィンとかどうですか?簡単ですし」
「まふぃん??」
「ああ、カップケーキみたいなもんです」
「それなら明日香喜びそう!楽しみだべ」
無邪気に嬉しそうに笑う安倍さんを見ると、こっちも心が軽くなる。
圭さんが彼女の事を天使みたいだと言うのも分かる気がする。
色々と、底知れない何かを感じさせる事もあって怖い時があるけど。
でも明日香の為に何かしたいと思う安倍さんの心は、とても綺麗だと思う。
その夜、私と安倍さんはお菓子作りの件で大いに盛り上がった。
- 678 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:56
- ...
「…あー、もう朝か」
夜更かししてしまったせいで、頭がぼんやりする。
目覚ましを止めるのにも手間取ってしまった。
随分と長い間アラームが鳴っていたと思うけれど、
それでも隣の安倍さんは起き上がる気配がない。
- 679 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:58
- 「安倍さん、起きて下さい。安倍さん」
「…」
ダメだ、やっぱり起きない。
噂には聞いていたけど、寝起き悪いなこの人。
「安倍さーん?」
頬をつんつんとつついても反応なし。
そういえば、安倍さんと飯田さんが一緒に出勤してたのは最初だけだったな。
後から安倍さんが遅れてやって来るのがお決まりになってた。
始めの方は飯田さんも粘り強くちゃんと起こしてたんだろうけど…
飯田さんはこの安倍さんの寝起きの悪さに辟易してたのかも。
- 680 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:59
- 「安倍さん…生きてます?」
私が安倍さんに顔を近付けた時だ。
その瞬間、安倍さんはがばっと起き上がった。
「うわっ」
なんだ、起きてたんじゃないか。
彼女はせわしなく周囲を見回していたけれど、最終的にその視線が私の方へ向く。
「お母さん、なっち白目向いてた!?よだれ垂らしてた?」
…いや、違う。
まだ寝ぼけてるな。
- 681 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 22:59
-
「しゃっきりして下さい。早いとこ何かお腹に入れて支度して出ましょう」
壁時計の針は、いつもより少し遅い時刻を指している。
安倍さんにまともに付き合っていたら確実に遅刻だ。
飯田さんの苦労が少しだけ分かった気がした。
「おはようございます!」
結局、私達が現場に着いたのは時間ぎりぎりだった。
- 682 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 23:00
- ...
「そうそう、泡立て器の先はちゃんと底にくっつけて下さいね。
あ、飛び散るんで今絶対手は離さないで下さい」
「だーいじょうぶだよ。絵梨香は心配し過ぎだべ」
今日も安倍さんは私の部屋に泊まりに来た。
いつも収録中に明日香がお腹を鳴らしてるから、
その時の為に色々作って行ってあげたいんだと言う。
なかなか健気な子だ。
安倍さんは思い立ったら即行動派らしい。
- 683 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 23:01
- 私は横で指示を出しながら、安倍さんのお菓子作りを手伝っていた。
そういえば、女の子とお菓子作りだなんて何年ぶりだろう。
それも、安倍さんと一緒にだなんて夢にも思わなかった。
なんだか、本当に心まで10代に戻ったみたいでわくわくする。
こんな気持ち、まだ残ってたんだ。
安倍さんのおかげで、私は久し振りに
肉体年齢相応の少女らしい気持ちを取り戻す事ができた気がした。
- 684 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 23:01
- ...
連日二人揃っての出勤ともなると、それについて突っ込むメンバーも出てきた。
「なっち昨日も絵梨香のとこにお泊まりかー。二人で何やっとるの?」
「よっ同伴出勤」
裕ちゃんや真里さんにからかわれて、私は思わず苦笑い。
当然やましい事なんてなくて、安倍さんにお菓子の作り方を教えているだけだ。
だけど、そんな私達を怖い顔で睨んでいる人物が一名。
そう、飯田さんだ。
- 685 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 23:03
- 「あのさぁ、なっち。何まわりくどい事してんの?
そんなに私と一緒が嫌ならはっきり言えばいいじゃん!」
飯田さんの言い出す事はいつも予想の斜め上を行く。
どうしてそういう考えに結びつくんだろうとある意味感心さえしてしまう。
「な、何言ってるべさ。
なっちはただこの子にお菓子の作り方を教わりたくて…」
「そうですよ。飯田さん、それは誤解です」
ああ、また始まったよ。
確かに飯田さんと一緒の部屋で過ごすのは気まずいって理由もあったんだろうけど、
安倍さんは明日香の為を思って私のところに来ていたのだ。
しかし飯田さんは聞く耳を持たず、既に暴走を始めている。
- 686 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 23:04
- 「うるさい!いい加減にしな!」
彩さんの鋭い一喝に、安倍さんと飯田さんが静まり返った。
「圭織!あんたも被害妄想が過ぎるよ。
なっちや絵梨香にはちゃんとした用事があったの。
朝っぱらから嫌な気分にさせないでよ」
さすがにこれ以上口論を続ける気はなくなったのか、二人はそっぽを向く。
お互いの姿を視界にも入れたくないようだ。
その日、安倍さんと飯田さんの間に流れる刺々しい空気は霧散する事はなかった。
飯田さんを不快にさせてしまった原因は私にもあるので、
正直申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
- 687 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 23:05
- ...
この事がきっかけとなってしまったのか、
数日後、安倍さんと飯田さんの同居生活が解消される事になった。
見ていられなくなったのか、彩さんと裕ちゃんが事務所にかけ合ったらしい。
これで良かったのだと思う。
もう、安倍さんと飯田さんは限界だったんだろう。
一緒にいればいるだけ、二人が傷付け合い、心身ともに疲弊していくのが
周囲の人間にも分かっていたから。
それでも、同居というしがらみから解放されても、
やはり安倍さんと飯田さんの険悪な雰囲気は緩和しなかった。
- 688 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 23:06
- きっと二人の冷戦はまだまだ終結しない。
このままだど、それは数年先まで続いていくだろう。
分かってはいるのに、私は相変わらず、解決策を見つけ出せないままだった。
- 689 名前:第22話 夢のあとさき 投稿日:2012/04/09(月) 23:06
- 第22話 夢のあとさき
了
- 690 名前:あおてん 投稿日:2012/04/09(月) 23:08
- >>641
あの時の方でしたかw
うたばんはどうしても外せないエピソードなので参考にさせていただきました。
- 691 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/04/10(火) 08:15
- お菓子作ってあげたい人を一瞬塀の中のあの人かと(ry
- 692 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:05
-
「はい初登場プッチモニー!」
司会のダウンタウンさんに紹介されると、突如沸き起こる黄色い歓声。
一心に私を呼んでくれている女の子達がいる。
浜田さんがその声を拾い、いきなり私に話を振って来た。
「お前ミヨって言うんか」
「ミヨじゃなくてみーよです。苗字が三好なんで」
- 693 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:07
- 「どっちでもええわそんなん」
「いっ」
いきなり浜田さんが私の頭をはたいた。
本当にこの人は他人の頭をポカポカ叩き過ぎだと思う。
それでも、これは名誉な事だというのは理解している。
「痛いじゃないですかー!」
「めんどいからお前は今日からミヨ!」
今度はスタジオ全体がどっと笑いに包まれる。
- 694 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:08
- 良かった。
反応は上々だ。
紗耶ちゃんはおとなしいし、圭さんもうたばん以外の歌番組では
ほとんど口を開かない。
元々、圭さんは人から話を振られない限り、率先して前に出ようとするタイプではない。
貴さんだからこそ、あの漫才のようなやり取りが成立するんだろう。
だから、主に私が話を繋げないとダメなんだ。
たとえ自己顕示欲の塊のように思われようと、こうする他はない。
奥ゆかしい人間は、この世界では生きていけないのだから。
- 695 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:09
- ...
「今日のお前はなかなか良かったぞ」
「ありがとうございます」
和田さんのお褒めの言葉に私はすっと頭を下げる。
「今度は間奏のところでもウィンクしてみたらどうだ。
それで多分あと100枚くらいは売れるかもしれないぞ」
「分かりました、やってみます」
もう、和田さんの言葉に反発を覚える事もなかった。
和田さんに従ってさえいれば、おそらく大きく道を踏み外す事はない。
私はいつしかそんな損得勘定で動くようになっていた。
- 696 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:10
- とにかく、どの程度視聴者にインパクトを与えるか。
それが大きな課題だった。
無邪気な子供の仮面をつけて、言葉巧みに大人を取り込もうとする自分。
こういう時までも冷静に、売上にまつわる事や世間を騙す事を考えてしまう。
私はいつからこんな風になってしまったんだろう。
- 697 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:13
- 自分を偽り、人を騙す事に抵抗や罪悪感を感じないと言えばウソになる。
夢を与えるだなんて詭弁だと思う事だってある。
でも、ここはショウビズ界。
魅せてなんぼの世界なんだ。
ウソをウソで塗り固める事になっても、それに疑問を感じる暇はない。
これはもう私個人の問題ではない。
メンバー一人に対するイメージは、娘。全体のイメージへと繋がる。
そして一度マイナスイメージを持たれると、それを覆すのは難しい。
その事は元にいた世界で十分学んでいた。
だから私は、少しでもイメージアップに繋がるなら、
良い意味でインパクトを与えられるなら何だってするつもりでいた。
- 698 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:14
- ...
11月8日。
この日、私は戸籍上14歳になった。
圭さんとの年の差は3歳差に縮んだけれど、
距離は縮まったようには思えない。
むしろ以前より少し遠くなった。
それは他でもない自分が彼女を遠ざけたからなんだけど。
だけど、その代わりに、周りの事が以前より見えるようになった。
圭さん以外のメンバーとの交流も増えていった。
- 699 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:15
- そして今、メンバー全員が私の誕生日を盛大に祝ってくれている。
気持ちがこもったプレゼントも貰った。
安倍さんからは手作りお菓子、彩さんは下着、
明日香からはおすすめの曲を入れたMD。
飯田さんは自作イラスト、裕ちゃんはベルト。
紗耶ちゃんと真里さんは共同でマグカップ、
そして圭さんは手作りの携帯ストラップ。
娘。全員からプレゼントを貰えるだなんて、
ものすごい贅沢をしているなとつくづく思う。
元の世界にいた頃は考えられなかった。
- 700 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:17
- バースデーソングを歌ってくれた時、皆の愛情が伝わって来て、
気を抜いたら涙がこぼれてしまいそうなほどに嬉しかった。
大丈夫だ、私はこの世界で生きる事を後悔しない。
皆とこうして出会う為なら、私はきっとどんな試練にも挑んだだろう。
自分の感情を抑える事くらい、どうって事はない。
私は彼女達の役に立てる人間になりたいと思った。
圭さんの為だけではなく、メンバー皆の為に。
- 701 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:18
- ...
私は誕生日に届いたファンレターを読み返していた。
デビューして以来、幾度となく励まされて来たファンの人達の言葉。
それは元の世界にいた頃から変わらない。
まぎれもない私の宝物だ。
だけど、今この瞬間は文字を辿っていくにつれて、鈍い痛みが広がっていく。
“みーよの屈託のない笑顔は凄く好感が持てます”
“絵梨香ちゃんのハスキーな歌声が好きです”
“あなたの元気なところにいつも勇気づけられます”
- 702 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:21
- 「…やっぱり、さすがにこれは素直に喜べないな」
耳触りの良い言葉だけが書き連ねられた数々の手紙。
きっと批判めいた内容のものは事務所側が弾いてるのだろうけれど。
耐えられなくなり、私はそこから視線を外した。
その言葉の甘さに浸る事なんてできるわけない。
そこまで私は図太いわけじゃない。
今の私にそんな言葉を掛けてもらう資格はない。
だって、それは全部まやかしなんだから。
- 703 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:21
- 無邪気ではつらつとした私。
そして前向きに仕事をこなし、一途に歌を愛する私。
それこそが世間の人が求めている三好絵梨香像。
同時に、それはかつての理想の自分でもあった。
でも、実際の自分はそれとはかけ離れてる事くらい自覚している。
- 704 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:22
-
私は天井を仰ぎ見て、ゆっくりと深呼吸する。
なんだか自分がひどく汚れているような気がする。
いや、気のせいじゃないんだろう。
このままじゃダメな気がする。
でも、何がダメなのか分からない。
「ごめん…ごめんなさい…」
誰に対して呟いたものなのか分からない言葉が、
静寂に包まれた部屋に溶けていく。
- 705 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:23
- 私は無意識のうちに右手の薬指にはめた指輪を撫でていた。
次に目についたのは、圭さんから貰ったメッセージカード。
“Happy Birthday 絵梨香
ついに14歳だね。
出会った時から大人びていたのに、なんだか最近どんどん
大人になっていく絵梨香を見ると、実はちょっとだけサミシイかも。
私には甘えて欲しいな。
凛々しい絵梨香も好きだけど、可愛い絵梨香も好きだから。
これからも、ずっと一緒に音楽をやっていけたらいいね。
With love 圭”
- 706 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:24
- 「…だからあなたは危険なんですよ」
圭さんの言葉で、いとも簡単に私の決意が揺らぎそうになる。
距離を置くと決めているのに、今の私は…
こんな時、圭さんがいてくれたらと、そう考えてしまっている。
思わず、私は携帯を取り出していた。
それには、圭さんがくれた可愛らしいビーズのストラップが揺れている。
- 707 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:25
- 「圭さん…」
圭さんのメモリを呼び出そうとして、それをかろうじて押しとどめる。
「ダメだ」
圭さんには甘えられない。
そう思っていても、意味の無い事を繰り返してしまう私がいる。
- 708 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:26
- 時間を持て余す一人きりの夜。
何か気を紛れさせていないと、心が潰れてしまいそうになる。
圭さんの重荷にはなりたくなくて、私は自ら連絡を断っていたというのに。
何度も、メモリを呼び出しそうになった。
だけど実際にそれをしなかったのは…。
今この瞬間、圭さんは紗耶ちゃんと楽しそうに電話しているかもしれない。
そう考えると、それ以上指先が動かなかった。
- 709 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:27
- なんだか、元の世界で、“保田さん”と
離れ離れになってしまった時の事を思い出す。
結局私からは“保田さん”に連絡をする事はなかった。
勇気を出して再び接触を試みたのはもう一人の絵梨香だ。
でも、それとは状況が違う。
今圭さんに縋ってしまえば、何もかもが台無しになる。
また、圭さんを第一に考えてしまう私に逆戻りしてしまう。
- 710 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:30
- にもかかわらず、今夜だけは圭さんの声が聞きたいという
欲求を抑えられそうもない。
一度は強くなりたいと願ったはずなのに。
誰にも頼らず、求めず、一人で立ち上がれる人間になるべきなのにだ。
私の指先は震えながらもボタンを押している。
「…」
1分…ううん、数秒だけでいい。
優しい声で私の名前を呼んで欲しい。
何度コールが繰り返されただろう。
けれどその電子音が、ある時を境にプツリと途切れた。
出てくれたんだ。
- 711 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:30
- 「圭さ…!」
『お掛けになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか…』
「…」
事務的なアナウンスが、冷たい響きを持って耳に届く。
一瞬にして体の力が抜けた。
私はゆっくりと息を吐き出し、携帯をテーブルの上に置く。
私は脱力した体をベッドの上に横たえた。
今は、何もかも思考の隅に追いやって、心の深呼吸をして。
孤独な時間も受け入れられるようにならなければいけない。
それが私自身の在るべき姿だ。
- 712 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:31
- …
…
ピリリリリ
ピリリリリ
「ん…」
けたたましく鳴り響く音に、私の意識がゆっくりと覚醒する。
どうやらそのままうたた寝してしまっていたようだ。
これは、携帯の呼び出し音?
もしかして…
- 713 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:32
- 「っ!?」
私は飛び起き、テーブルの上に置いたままの携帯に手を伸ばす。
そして画面も確認せずに通話ボタンを押した。
「も、もしもし」
『もしもし?』
それは圭さんの声じゃなかった。
「あ…明日香?」
数時間前まで耳にしていた声に、起き抜けで
靄のかかった頭が一瞬にしてクリアになる。
私の中にいた圭さんの残像は、霞むように消えていく。
- 714 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:33
- 『夜遅くにごめん、もう布団に入ってた?』
遠慮がちでどこか緊張した声。
私その張り詰めた気持ちをほぐしてあげたくて、少しだけ嘘をついた。
そもそも、私は寝るつもりでいたのではなく、
単にうたた寝してしまっていただけだからと、
心の中で言い訳をして。
「ううん、何もする事が見つかんなくて、どうしようかと思ってたところ」
私の返答に、明日香がほっとしたように小さく息をついたのが聞こえた。
『なら、少しだけ時間ある?』
「うん、暇だもん」
『良かった。じゃあさ…』
- 715 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:35
- ...
「はい、到着。ここだよ」
土手に上がると、視界が開けた。
夜空には、満天の星。
耳元で囁く涼しげな秋風。
静かな空気を震わせる虫たちの鳴き声。
全てを包み込みさわさわと揺れる草むら。
なんだか、懐かしい気がする。
なぜかそんな言葉が不意に胸をつく。
陳腐な表現だとは思うけれど、それ以外の言葉が出て来なかった。
- 716 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:36
- 今夜は、しし座流星群が見られる日。
私はすっかり忘れていたけれど、明日香と安倍さんは
前から楽しみにしていたらしい。
元々はかくし芸大会の楽器の練習後に二人で約束していたらしいんだけど、
一人の時間を私が持て余しているだろう事を見越して、招待してくれたのだ。
明日香の言うベストポジションに、私達はそっとレジャーシートを敷く。
- 717 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:37
- 足を踏み入れた事も無い空間。
見た事のない景色。
だけど、ここにいると、望郷の思いにも似たものが込み上げて来る。
東京に、こんな場所があったんだ。
目まぐるしい動きを見せる都会の中で、
この場所だけは昔から変わっていないような気がした。
頬を撫でる風も優しくて、心地良い。
この場を支配する時間はゆっくりと流れている気がする。
まるで、故郷である北海道にいた頃に戻ったかのような錯覚。
すごく落ち着く。
- 718 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:38
- じっと夜空を眺めていると、すっと一筋の光が流れていった。
「あっ今の見えた?」
「見た見た!」
私達は、願い事をするのも忘れて、次々と夜空を彩る流れ星を
目で追い続ける。
「綺麗だね」
「うん…ほんとに。北海道で見た星に負けないくらい綺麗」
「東京で見る星もふるさとで見る星もおんなじだね」
安倍さんの言葉にハッとした。
それがどこかで聞いた事のあるような内容だったからだ。
そうだ。
『Never Forget』の歌詞だ。
あの曲は、安倍さんと明日香のエピソードから
生まれた曲だったんだと納得する。
- 719 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:39
- 「気晴らしになったかな?」
「え?」
唐突に声をかけられ首をかしげる私を、
明日香の真っ直ぐな視線が射抜いた。
「絵梨香、最初の頃に比べて怖い顔する事が増えたでしょ」
…やっぱり、明日香は聡い子だ。
私なんかじゃ明日香には隠し事なんてできないね。
もしかして、この間銭湯に誘ってくれた時も、
私を息抜きさせようとしてくれてたんだろうか。
- 720 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:41
- 「ごめんね、私のせいかな。
私が前に、今のままで満足して欲しくないなんて言ったから」
申し訳なさそうにそんな事を言う明日香。
明日香が気に病む必要なんてどこにもないのに。
「明日香のせいなんかじゃないよ。
いずれにせよ、人は結局は自分一人で戦う力を
身につけていかないとダメなんだって分かったから。
仲間がいつまでも側にいてくれるわけじゃないし」
このまま歴史をなぞる事になるのなら、わずか二年足らずで
彩さんや紗耶ちゃんも去って行ってしまう。
そしていずれはリーダーである裕ちゃんも。
- 721 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:42
- 「強いね…さすがは、私が見込んだ絵梨香なだけはあるよ」
「何言ってんの。ホント明日香は私を買い被り過ぎだって。
…でも、ありがと。
明日香がここに連れて来てくれたおかげで、気持ち的にも楽になれた」
まだ不安そうな顔をしている明日香に
私はそっと笑いかけて、言葉を続ける。
- 722 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:44
- 「今も、私、なんか胸がいっぱいで…。
今日の事を思い出したら、これからも頑張れそうな気がする。
一緒にこの光景を共有できて嬉しいよ。
私、絶対にこの眺め忘れない」
今まで、もう何百回、何千回と当たり前のように見続けて来たはずの夜空。
でも、明日香とこうして星を眺める事は…きっともうない。
「うん…私も忘れないよ」
それを明日香自身も理解しているのか、じっと唇を噛んでいた。
きっと泣きそうになるのを堪えていたんだろう。
- 723 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:46
- その時、安倍さんの大きな声が二人の湿っぽい空気を和らげてくれた。
「ずるい!何二人だけの世界作ってるべさ!」
「いや、流れ星って儚いなあって思ったら、しんみりしちゃって」
「そ、そうそうそう!」
私達の言葉を安倍さんは素直に受け止めてくれたのか、
それ以上は追及して来なかった。
そして事情を知らない彼女は、私達に無邪気に
手作りお菓子を勧めてくれる。
「二人ともお腹空かない?
ほら、絵梨香が前に教えてくれたお菓子、今度はなっち一人で作ってみたんだべ」
「おっ。おいしそう。何これ」
「フィナンシェって言うんだってさ。食べて食べて」
「おお、安倍さんやりますね」
- 724 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:47
-
タイムリミットは着々と迫っている。
もしも明日香がいなくなる…
それは娘。の大きな要が消失する事だ。
その時、私や安倍さん達はどうなるんだろう。
果たして私は、皆を支える事ができるんだろうか。
答えは見つからない。
フィナンシェを一口かじると、それはどこか甘じょっぱい味がした。
- 725 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:49
- ...
結局、プッチモニのデビュー曲「乙女の心理学」は、
頻差ではあるけれどタンポポに敗北した。
結果はオリコン3位。
ちなみにタンポポの「ラストキッス」は2位。
追加メンバーのみで構成されたグループで、
よくここまで健闘できたものだとも思う。
だけど、それはモーニング娘。というネームバリューもあっての事だ。
プッチモニの一員になろうと、どこまでも娘。の名前はついてまわる。
「サマーナイトタウン」で1位を取ってしまったあの瞬間から…
私達はもう逃げる事も、立ち止まる事もできなくなったのだ。
一度世間に娘。名を知られてしまった以上、無様な堕ち方はできない。
これからも上を目指さなければいけない。
娘。の名を汚さない為に。
私はこの時、これからも戦いは続くのだという事を強く実感したのだった。
- 726 名前:第23話 仮面のアクトレス 投稿日:2012/04/13(金) 02:50
- 第23話 仮面のアクトレス
了
- 727 名前:あおてん 投稿日:2012/04/13(金) 02:51
- お知らせ
みーよがアメブロでヤススのブログをフォロー(お気に入り登録)してました
>>691
ちょっまだ出会ってもないですよw
- 728 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 21:53
- 秋から冬に季節が移り始める頃。
かくし芸大会の練習だけでなく、「Never Forget」の歌入れ作業が始まったり、
紅白出場が決まったりと、息をつく暇がない劇的な日々を過ごしていた。
「Never Forget」を歌う度に涙腺を刺激されてしまい、
レコーディングにはてこずってしまった。
明日香は今回のシングルがラストシングルとなる。
- 729 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 21:55
- 明日香のいないモーニング娘。…
これから、どうなるんだろう。
不安がつきまとう。
私は、確かな未来を知っているわけじゃない。
私という存在によって、何かしらこの世界に影響を及ぼしている。
少しずつ元いた世界とズレが生じてきている事は気付いている。
よって、私の知っている歴史とは微妙に変わっている部分があるのだ。
結局は何が起こるか分からない。
手探り状態な点においては、他のメンバーとそれほど大差がないかもしれない。
どちらにせよ、私に立ち止まる暇はなかった。
これからも、薄暗いトンネルの中を、突き進んで行かなくてはいけないから。
- 730 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 21:57
- ...
今日もかくし芸大会の練習。
皆が連日の練習に疲れて一休みしていた時だった。
彩さんが壁に立てかけてあった誰かのギターを手に、圭さんに声をかけた。
「圭ちゃん、ひと通り楽器できるんでしょ。あんたもなんか弾いてみてよ」
そう言って彩さんは素早く弦を押さえ、完全に演奏する体勢に入っている。
「???」
- 731 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:02
-
圭さんも何が何だか分からない様子らしい。
彩さんに近づいて、いくつか言葉を交わしている。
バンド経験のある彩さんだから、おそらく楽器の扱いに慣れている
圭さんと演奏してみたかったんだろう。
最後は、圭さんもこくんと頷いて見せ、エレクトーンの鍵盤に指を置いた。
そうして、彩さんのふとした気まぐれから、二人のセッションが始まった。
- 732 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:03
- うわあ…かっこいい。
二人は特別仲がいいというわけではなかったけれど、
本当に息がぴったりだった。
彩さんはバンドでギターもやった事があって、
圭さんも小さな頃からエレクトーンをやっていたって聞いた事がある。
真っ直ぐに伸びた背筋。
繊細で巧みな指使い。
それにより色づくメロディー。
それぞれの楽器を奏でる二人の楽しそうな表情。
なんて綺麗なんだろう。
- 733 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:04
- 魔法のように黒鍵と白鍵を自在に操る圭さん。
後ろからぎゅっと抱きしめてしまいたくなるくらい、惹きつけられる。
そして、ごついギターにもものともせず、豪快な指さばきを披露する彩さん。
音色の一つ一つが私の心の中に染み込んで、溶けていく。
楽器の音色が、これほどまでに私の胸を締め付けるものだなんて、想像もできなかった。
何を思って彼女達は曲を奏でているのだろう。
彼女達の音に酔いしれる一方で、嫉妬めいた感情がふくれ上がる。
私にも、才能があれば良かったのに、って。
私の彼女達に混ざって音楽を楽しめたら、どんなに素敵な事だろう。
そんな事を思いながら、私は長い間、釘付けで二人の演奏する様を眺めていた。
- 734 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:05
- ...
「どうしたの、ぼーっとして」
演奏を終えた途端、彩さんが私の元に近寄って来た。
「何?ホレた?」
にやりと悪戯っぽく笑う彩さんに、私は素直な言葉を返す。
「はい、見惚れちゃってたんです。楽器が弾ける人ってすごいなあって」
「ふっ、別に大した事じゃないし、絵梨香もやってみればいいよ」
簡単に言ってくれるなあ。
断るつもりでいたけれど、彩さんは有無を言わさず私にギターをつきつける。
うわ、結構重い…。
- 735 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:06
- 「いや、できませんよ。私楽譜も読めないんですよ?」
「そんなん関係ないって。触るだけでも、ほら」
強引な彩さんに押されるようにして、私はおそるおそるそれに触れてみた。
見よう見まねで軽く弦をはじく。
「あれ…」
想像していた以上に、なんとも味気ない音が出た。
- 736 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:06
- 「構え方がダメなんだよ。ここはこう持って…」
彩さんは私の指を掴み、あるべき場所へと導く。
彼女の助言に従うと、今度は伸びのある音が響いた。
「うわっちゃんと音鳴った!鳴りましたよ!」
「そんな事でいちいち喜んでどうすんの」
呆れたようにそう言うけれど、彩さんの表情は優しい。
「あんたが興味があるなら教えてあげる。
基礎のコードさえ覚えたらどうとでもなるから」
彩さんの指が、ネックを押さえる私の指に絡む。
その手つきに思わずドキッとしてしまった。
- 737 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:08
- そして何種類かコードの押さえ方を教えてもらっていた時だった。
「あんたら楽器一つではしゃぎ過ぎ。
そろそろかくし芸の練習再開するで。
こっちが本命なんやから」
裕ちゃんが痺れを切らしたように言い募った。
「はーい」
それもそうだ。
詳しく教えてもらうのはまた今度だな。
裕ちゃんに促されて、私達は持ち場に戻った。
それでも、彩さんと圭さんの輝いた姿が、
頭からなかなか離れる事はなかった。
- 738 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:08
- ...
圭さんの18歳の誕生日。
同時にかくし芸大会当日でもあり、
ゆっくりと圭さんと話す機会さえなかった。
お祝いの言葉と一緒に、ささやかな誕生日プレゼントを渡すので精一杯で。
それでも、圭さんは心底嬉しそうに「ありがとう」って笑ってくれた。
圭さんにあんな風に笑顔をもらったのは、なんだか久し振りな気がした。
- 739 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:09
- この日のかくし芸大会は大成功を収めたと言える。
娘。は、元々実生活においては、団体行動にあまり向いてない人の集まりだ。
それは否定のしようがない。
だけど、一つの事に向けて何かをやり遂げようとする
私達の団結力は、凄まじいものだと思った。
- 740 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:10
- 先日、圭さんと彩さん二人のセッションを目の当たりにした瞬間。
練習に疲れた時、思い思いに楽器をかき鳴らした時間。
皆で一体になって音色を重ねる行為。
そのどれもが刺激的で、私のモノクロな心を鮮やかに塗り替えた。
そして今更ながらにある事に気付いた。
音楽ってその名の通り音を楽しむものだったんだって。
歌う事だけじゃ全てじゃなかったんだって。
今回の経験を通して、私は自分の手で音を生み出す楽しさを知った。
この出来事がきっかけで、真っ暗なトンネルの中に
かすかな光が差した気がした。
- 741 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:10
- 文化でもビジネス、ビジネスでも文化…か。
多くの人に支えてもらっているという責任とプレッシャーからは、
きっと逃げる事ができない。
でも、自己の主張ばかりにとらわれる必要はないんじゃないかと、
あの瞬間だけはそう思えた。
それは、携わった音楽が自分達だけのものではなかったからだろう。
そして売り上げというしがらみから一時的に解放され、
自分に少しばかり考える余裕ができたんだと思う。
- 742 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:11
- こんな風に深く音楽について考えた事なんて、今までなかったかもしれない。
ただ歌が好きだという気持ちのまま、スクールに通いつつ
ひたすらオーディションを受け続けていた日々。
そしてこの世界に来て、娘。になってからは、
“売り上げ”や“世間の好感度”を最優先に考える事が日常となっていた。
だけど、確かにあの瞬間は、私はそんな思考からは離れて、
純粋に音楽を好きだと思っていた。
音に触れるのが楽しい…
それは、この世界に来て初めての感覚だった。
この事をきっかけに、自分の中で新たな選択肢が生じたという事に、
私自身は、まだ気が付いていなかった。
- 743 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:12
- ...
上海にて新曲のジャケット撮影。
そこはジャングルのようにそびえたつ超高層ビルに囲まれた地。
その隙間から吹き込む風は私達の体温をたやすく奪った。
皆歯の根が合わずに、ガチガチと音を立てながら震えていた。
寒空の下長時間の撮影を続けたのがたたったんだろうか。
彼女は、またもや体調を崩してしまった。
- 744 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:13
- ホテルに帰り着くと、圭さんは早々にベッドに押し込まれた。
圭さんの事だから、ギリギリまでずっと一人で耐えていたんだろう。
きっと、ただの高熱ではないはずだ。
圭さんの場合、高熱が出ているという事は、きっと扁桃腺も腫れているだろう。
これまで、幾度もそういう事があった。
その都度私はさりげなさを装って、のど飴を渡したりしていた。
だけどそれは一時的に喉の痛みを軽減させるだけだ。
和田さんに話すと漢方薬を買って来てくれた。
即効性があるわけではないし、正直あまり期待できないけれど。
それでも、何もしないよりはずっといい。
私もできる事はしたいと思っていた。
圭さんの扁桃炎の事を知っているのは娘。の中で私だけなんだから。
- 745 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:14
- 「圭さん?」
私はのど飴と漢方薬をテーブルに置いて、そっと圭さんのいるベッドに近寄る。
額にはうっすらと汗が滲んでいた。
私はそれを用意した濡れタオルで拭ってあげる。
「う…ん」
圭さんが小さく呻いて、すがるように私の手を握りしめる。
やっぱり、辛いんだろう。
「圭さん、大丈夫ですか?」
彼女の顔を覗き込むと、その唇がかすかに動いた。
「え?何ですか?」
- 746 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:15
- 「――」
圭さんの声を拾った瞬間、心が一気に冷えていくのが分かった。
それは、明らかに私の名前とは違う響きだったから。
“紗耶香”
はっきりと聞こえた。
驚愕に目を見開く私を見ても、圭さんは私が三好絵梨香だとは気づかない。
私の存在すら認識できていない。
微動だにできずにいる私に彼女は微笑んで、再び目を閉じた。
- 747 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:15
- どのくらい経ったのだろうか。
圭さんはもう一度だけ、まどろむように“紗耶香”と呼んだ。
「…どうして」
夢の中でも、私以外の人間の名前を呼ぶ。
- 748 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:16
- 「っ!」
なんで…
なんで私を見てくれないんですか。
どうして私の名前を呼んでくれないんですか。
これ以上屈辱に耐えられなくなり、私は思わず圭さんの手を振りほどいた。
彼女は今熱にうかされているんだという事実も頭の隅に追いやって。
- 749 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:16
- 廊下に飛び出したところで、人影が見えた。
あやうく接触しそうになるところを寸でのところでかわす。
「うわっ何!?」
「あ、すみませ…!」
それは紗耶ちゃんだった。
たった今、圭さんがすがって、追い求めていた人物。
「…」
「?絵梨香ちゃん、怖い顔してどうしたの?」
彼女は怯えたように私を見上げている。
- 750 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:17
- 紗耶ちゃんも圭さんも悪くない。
分かってる。
分かってるからこそ、悔しかった。
本当は認めたくなかった。
でも…
「…圭さんの側にいてあげて下さい。紗耶ちゃんを呼んでたから」
私は無理に口元に笑みを浮かべて見せた。
そしてすれ違い様に、紗耶ちゃんの肩をそっと叩く。
紗耶ちゃんは何も言わなかった。
その代わり、ぱたぱたと足音を立てて、
圭さんのいる部屋へと真っ直ぐに駆けて行くのが分かった。
- 751 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:18
- 私はその晩、早々に自室のベッドに潜り込んだ。
他のメンバーとも最低限の言葉しか交わさず。
そしてもやもやとした気持ちを抱えたまま、一夜を過ごしたのだった。
- 752 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:18
- ...
翌朝、私は圭さんに声をかけられた。
圭さんの顔色は昨夜に比べると幾段マシになっていた。
その事は私を安堵させてくれた。
「圭さん、もう熱下がったんですか?」
「うん…それよりさ、絵梨香、昨日私の側にいてくれた?」
「…」
昨日の記憶が蘇る。
圭さんに紗耶ちゃんと間違えられた事。
圭さんの手を振り払ってしまった事を思い出し、胸がズキッと痛む。
- 753 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:20
- 「何言ってるんですか、圭さんの側にいたのは紗耶ちゃんですよ?」
「でも…のど飴置いてくれたのは絵梨香でしょ?」
素直に認めてしまえばいいのに、私は答えられなかった。
元の世界にいた頃。
確か、コンサートで私が他のハロプロメンバーと
「ちょこっとLOVE」を歌った時の話だ。
あの時、私は紗耶ちゃん…いや、“市井さん”の再来だと言われた。
特に私は彼女と似ているなんて自覚した事はないけれど…。
私は細く息を吐いて、じっと圭さんを見つめた。
- 754 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:21
- 「圭さん。私ってそんなに紗耶ちゃんと似ていますか?」
「え…」
圭さんが絶句した。
その反応からして、何か思い当たる事があるようだ。
「…いえ、何でもないです。変な事聞いてごめんなさい」
私は口の端を釣り上げて形だけ笑って見せる。
なんだか、作り笑顔ばかり上手くなってる気がする。
- 755 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:22
- たった今、“市井さん”にだけは負けたくないと強く思った。
本来の世界で、プッチモニのセンターに抜擢され、
一時期娘。の中心メンバーとも言われていた彼女。
いつか追い抜いて見せる。
たとえどれだけ難しくても。
そして、この世界の“紗耶ちゃん”にも絶対に負けたりしない。
必ず、圭さんを奪い返しにいく。
- 756 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:23
- 今の圭さんは、私と紗耶ちゃんを両天秤にかけている。
そして、紗耶ちゃんに気持ちが傾きかけている。
それが言葉にしなくても分かった。
圭さんが一番側にいて欲しいと思う時に、私は彼女と距離を置こうとした。
だからこそ、より多くの時間を一緒に過ごすようになった紗耶ちゃんへと
信頼を寄せるようになるのは当然の事だ。
圭さんを責められない。
本当はやるせない思いで心が苦しいけれど。
私はもう何も言わずに、静かに圭さんの元を立ち去った。
- 757 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:23
- ...
帰国して早々にとくばんの収録があった。
貴さんは以前のように圭さんをいじり倒す事はなかった。
今回は人数も多いし、圭さんのみにかまける必要性は感じられなかったんだろう。
その事にほっとしている自分がいた。
圭さんの本人の希望でもあるにもかかわらず、どうやら私はまだ
圭さんがああいう扱いをされる事に抵抗があるらしい。
この前、和田さんにもあれだけきつく言われたのに。
- 758 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:24
- 貴さんにお笑い要員としての素質を見出されたからこそ、
“保田さん”は多くの人に名前を知られ、愛されたんだろう。
でも、自分がそんな圭さんを見たくなかった。
ただ単に私個人のわがままだって分かっている。
圭さんからしてみれば余計なお世話だろうに。
それでも、もっと何か他の道があるんじゃないかと、
私は往生際の悪い事を考えていた。
- 759 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:26
- ...
早いもので、明日香の誕生日がやって来た。
約一ヶ月遅れで、明日香は私と同じ年になる。
仕事帰りに、私と明日香で安倍さんの家に寄って、
三人でささやかなお祝いをした。
御馳走は作れなかったけれど、簡単なものを
安倍さんと一緒に作って皆で食べる事にした。
- 760 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:27
- 料理を口に運びながら、明日香がふと口を開いた。
「人生ってさぁ。何なんだろうね」
「福ちゃん、いきなり何だべ」
安倍さんは明日香の事を福ちゃんと呼ぶようになっていた。
明日香の友達が、彼女をそう呼んでいたのを知り、対抗しての事らしい。
その明日香の呟きに、私はさほど驚きも感じなかった。
明日香は、常にそんな哲学的な事を考えている子だから。
- 761 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:28
- 「人生ねえ…」
唐突に、あの世界の保田さんの姿が思い浮かんだ。
『人生はショータイム』という舞台で共演した時、彼女は言っていた。
自分にとって人生は物語であると。
そして、それは理想通りにはいかないけれど、
いつでも自分が主役で、無限の選択肢の中から
自分の手で選ぶ事ができるんだと。
- 762 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:28
- 「人生って、自分のオリジナルのストーリーを紡いでいく事なんじゃないかな。
無数の選択肢の中から選ぶという行為の連続なんだよ。
それが積み重なって形となったものがきっと運命ってものになるんだと思う」
「へええ」
明日香と安倍さんは目をキラキラ輝かせて私の話を聞いてくれている。
いや、これ、全部保田さんの受け売りなんだけどね。
- 763 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:29
- …なんだか、私って保田さんとの思い出に浸る事が多くなったな。
やっぱり私は未だに、保田さんは保田さん、圭さんは圭さんなんだって
割り切る事ができていないのかもしれない。
そんな事を思っていたら、安倍さんが無邪気な笑顔で明日香に向き直っていた。
「福ちゃん、これからも一緒に物語紡いでこうね!」
そうだ。安倍さんはまだ知らないんだ。
年が明けたら、正式に明日香が娘。を脱退する意思を表明する事を。
そしてそれは圭さん達にも言える事だろう。
圭さん達は、明日香の“辞めたい”という思いが
一時的なものだと信じ込んでいたから。
- 764 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:30
- 「なっち…」
苦しそうな表情をして、明日香はじっと安倍さんを見つめていた。
目を逸らす事も、頷く事もできないようだった。
明日香は正直で、ウソをつけない子だから。
「あ、安倍さん、私を忘れないでくださいよー!」
私はこの微妙な空気をどうにかしたくて、
勢いのまま安倍さんの肩をがばっと抱いた。
「忘れてない、忘れてないべさ!」
安倍さんは嫌がる事もなく、自然に私を受け入れてくれる。
- 765 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:31
- 「…いつかさ、仕事とかそういうの抜きにして、
皆で純粋に音楽を楽しめる時が来たらいいよね」
明日香が視線を外し、ふっと遠くを見つめながら小さく呟いた。
その表情は寂しそうだったけれど、少しだけ心が軽くなった気がした。
こんな言葉が出て来るのは、これで私達との関わりを断つつもりはないから。
「…うん、そうだね」
- 766 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:32
- 明日香は、娘。のメンバーではなくなってしまう。
それでも、蚊帳の外の人間になるわけじゃない。
私にとって、大切な存在だった。
純粋に音楽を楽しむ…か。
本当にそんな日が、来ればいいな。
真っ直ぐな目で音楽について語る明日香を見守りながら、
私はそっとグラスを傾けた。
- 767 名前:第24話 蒼き日々 投稿日:2012/04/18(水) 22:32
- 第24話 蒼き日々
了
- 768 名前:あおてん 投稿日:2012/04/18(水) 22:33
- >>724二行目の「もしも」は要りませんでした
- 769 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/04/22(日) 19:52
- いよいよ山が近づいてきましたね
それはそうと、18歳になったからエロ解禁ですか?w
- 770 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 22:51
- ここ数週間で色々な事があった。
紗耶ちゃんが15歳になったり、レコード大賞で最優秀新人賞を受賞したり、
初めての紅白に出場したりと、息をつく暇もなかった。
1998年は娘。にとって飛躍の年だった。
娘。は確実に音楽業界へのトップへと昇りつめようとしている。
色物グループではなく、歌手として。
ただ、明日香だけでなく、紅白を最初で最後の出場と思っているメンバーが大半だった。
まだその先があるという事を知らずに。
だから、晴れ舞台で自分の力を出し尽くそうと皆は必死だった。
そうして私達娘。は慌ただしく1999年という年を迎えたのだった。
とにかく、目の回るような忙しさだった。
- 771 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 22:52
- 新春コンサートの後に、数日オフが与えられた。
私は北海道に帰省したのだけど、今回2012年の世界にはあえて転移しなかった。
またあの時のように“保田さん”と
鉢合わせてしまっても困るというのもあったから。
あんな事はそうそうないだろうと理解していても、やっぱり怖かった。
“保田さん”とキスした感触を今でも覚えてる。
圭さんとああなってしまった今、もし2012年に行って
私の帰りを待っている“保田さん”がいたら…
私はきっと彼女に甘えてしまう。
“保田さん”にはもう一人の絵梨香がいるのに。
それに、今の私が2012年の世界から得られる情報はもう限られているだろう。
知りたい情報は、もうあらかた絵梨香が提供してくれた。
もしかしたら、絵梨香がまだ私に何か伝えたい事があったのかもしれない。
それでも、私は大人しくする事を選んだ。
今の私は色々と不安定だから。
- 772 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 22:54
- ...
覚悟してはいたけれど、年が明けてもフル稼働だ。
娘。は今や波に乗っているグループのひとつ。
のんびりしてはいられない。
それでも暇を見つけては私は楽器を弾いていた。
今は彩さんからギターを教わっている。
あの圭さんと彩さんのセッションが忘れられなかったと…、
自分もいつかあんな風に楽器を演奏できるようになりたいと、
その事を素直に伝えると、彩さんは心底嬉しそうに笑ってくれた。
そして私にギターを教える事を快諾してくれたのだった。
この瞬間も、私は彩さんの部屋でギターの練習をしている。
- 773 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 22:55
- 「いっづ!」
嫌な痛みを感じた時には、指の腹にうっすらと血が滲んでいた。
そしてそれは赤い珠に形を変える。
どうやら、ペグから少しはみ出た弦の先が刺さってしまったらしい。
「うわっ血っ!血ぃ!」
彩さんはわたわた慌てる私の指を掴み、傷口をしげしげと眺める。
「…なんだ、大した事ないじゃん、大げさなんだから。ちょっと待ってて」
そう言って、脱脂綿に消毒液を染み込ませ、そっと血を拭ってくれる。
- 774 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 22:56
- 「ったく、気をつけなね」
そして絆創膏を貼ってくれたのはいいけれど、
彩さんはまだ私の指を掴んで離さない。
ただ無言で私の指をじっと見つめている。
「…ホントに、やわらかい指してんだね」
「え、あの…彩さん?」
彩さんの手がケガをした私の指を優しく包み込む。
絆創膏の上から傷口を撫でられて、なんだか頬が熱くなった。
何秒くらいそうしていただろう。
「ご、ごめん」
突然、彩さんが慌てたように手を離した。
- 775 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 22:58
- 相変わらず、彩さんが何を考えているのかは分からない。
それでも、私の前で慌てて見せたり、
優しい笑顔を向けてくれるのを見ると不思議な感じだ。
初めて顔を合わせた時からは考えられない状況。
最初はあんなに私にきつい言葉を浴びせてたのに、と思うと可笑しくなる。
「今日はここまでにしとこうか。私も今ので集中力切れちゃった」
そう言って彩さんは身の周りの片づけを始める。
「あんたも早く帰りな。明日も早いじゃん」
まあ、さすがに泊まっていけとは言わないか。
って、私何期待してるんだろう。
- 776 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:00
- 「すみません、こんな夜まで押しかけて教えを乞うなんて」
「何言ってんの今更。私は嬉しいよ。絵梨香がプライベートで
楽しめるものや熱中できるものを見つけたのは、すごくいい事だと思うし」
「…彩さん…」
ギターを始めてまだ数週間。
それでも、新たな知識を吸収する事が楽しい。
どうせすぐ飽きてしまうのではないかという予感は、不思議なほどに感じなかった。
たとえ飽きてしまう時が来ても、ひと通り弾けるようになるまでは
決して投げ出さないと私は心に誓っていた。
- 777 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:01
- ...
今日も自分の部屋で近所迷惑にならない程度にギターを弾いていた。
ノーミスで一小節弾き終えられると、それだけでその晩は気持ち良く眠れた。
明日も何かいい事がありそうな気がして。
まだまだ下手くそだし、趣味だと言える段階ですらないけれど、
楽器に触れている時は、悩みさえ、自分の置かれている立場さえも忘れられる。
いつの間にか、ギターが私の心の拠り所になっていた。
何度か演奏を繰り返し、ある程度満足すると、私はベッドに入った。
- 778 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:01
- ...
ピリリリリ
ピリリリリ
「うう…何なのこんな夜に」
一体誰だろう。
せっかく気持ち良く眠れていたのに。
電源を切らなかった私が悪いけれど、安眠妨害だ。
- 779 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:02
- 「…もしもしぃ?」
半分寝ぼけながら電話を取る。
『絵梨香…ごめん、寝てたよね』
「…明日香」
その低い声は、どこか震えていた。
たとえノイズ混じりのものでも分かる。
「どうしたの?何かあった?」
しばらく沈黙があった。
だけどようやく決心した明日香がすっと息を吸って告げた。
- 780 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:03
- 『…あのさ、私…明日…正式に脱退する事を発表するんだ』
来るべき時が来てしまった。
覚悟はしていたはずなのに、ぎゅっと心臓を握り潰されるような衝撃が走った。
翌朝にはASAYANの収録。
表向きは新年の挨拶を収録すると言っていたけれど、
きっとその時に、他のメンバーの皆にも真実が知らされるんだろう。
『絵梨香は薄々気付いてたと思うけど…
絵梨香にだけは前もってちゃんと伝えておきたくて』
- 781 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:04
- そうか…明日なんだ。
もうおぼろげだけど、元の世界で明日香の脱退が知らされたのは、
大体この時期だったはずだよね。
「うん…分かってたよ、明日香」
それでも、息を整え、静かに声を絞り出す。
『そっか…』
明日香は私の落ち着き払った反応に少し安心してくれたらしい。
『やっぱり絵梨香はどっしりしてるね。ちょっとほっとした。
でも、皆は…どう思うんだろう。
怖いよ…絵梨香。明日になるのがこわい』
- 782 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:04
- 明日香のその感情は当然のものだった。
私の場合はこの運命に辿り着く可能性を知っていたから、
まだこうして冷静でいられる。
ただ、他のメンバーはきっとこうはいかない。
娘。から脱退者が出るなんて、現時点では前代未聞。
皆がすんなり受け入れるなんてできないはずだ。
分かっていたからこそ、私はまず明日香に励ましの言葉をかける。
明日香が覚悟を決めないと、何も始まらない。
- 783 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:05
- 「怖がる必要はないよ。明日香は何にも悪い事なんてしてないんだから」
でも、と言い募る明日香に、私は言葉を続ける。
「前に言ったよね、人生って無数の選択肢の中から選ぶ行為の連続だって。
誰が何と言おうと、明日香の人生なんだから、
第三者が勝手に選択肢を変える事なんてできないよ。
明日香が悩んで、悩み抜いてこれだって決めた事だから、きっと正しい選択のはずだよ。
他の誰でもない明日香自身が選んだ、明日香の運命なんだよ」
『…そう、だよね…自分で決めた事だもんね』
耳に届いて来たのは、決意を固めた声。
顔は見えないけれど、明日香の今の想いが明確に伝わって来た。
『ありがとう。怖いし、辛いけど…ちゃんと明日を受け入れるよ』
最後に、明日香はそう言って私との通話を終わらせた。
- 784 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:06
- ...
私は電話が切れてからも、ぼんやりと暗い天井を眺めた。
明日は、他のメンバーにとっても試練の日となる。
今更もう避けて通れない。
それ以前の自分達には戻れない。
だから、明日香と同じように私も覚悟を決めないといけない。
本当は皆の悲しむところは見たくない。
それでも、これは運命なんだから。
- 785 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:07
- ...
明日香の言った通りだった。
この日、娘。のメンバーが部屋に集められ、明日香が今春脱退する事を伝えられた。
あくまでも、事務的に。
皆は息を呑んだり、呆然としたりと反応は様々だった。
今更驚くなんていうわざとらしい演技はしたくなかったので、
私はただ黙って苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
- 786 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:08
- 「…それじゃ、後は福田と話し合ってくれ」
そう言ってASAYANのスタッフや和田さん達が部屋から立ち去っていく。
室内になんとも言えない嫌な沈黙が流れた。
「冗談っしょ、明日香」
最初にその沈黙を破ったのは安倍さんだった。
まるでこの世の終わりのような表情をしている。
それをきっかけに、他のメンバーも次々と口を開いた。
「そうやで、明日香、ウソなんやろ?受験してすぐ戻って来るんやろ?」
「歌だけでも一緒に続けようよ!」
- 787 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:09
- 予想通りの反応だった。
やっぱり明日香の選択が理解できないのだろう。
特に、一期メンバーは共に苦労してようやくデビューまで辿り着いた。
だからこそ認めたくないんだ。
別れが来る事を。
「ねえ、明日香!考え直してよ」
彼女達は納得できないのかいつまでも食い下がり続ける。
その反応も明日香にとって想定の内だったはずだ。
だけど、覚悟はしていても、やっぱり辛いんだろう。
明日香は今にも泣き出しそうな顔で静かに首を横に振っている。
- 788 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:09
-
皆がどれだけ追いすがっても、明日香の意思は変わらない。
それだけは確かだった。
私にはもう明日香の背中を押してあげる事しかできない。
だから…
- 789 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:10
- 「明日香が決めた事です。明日香の人生は明日香にしか歩めないんです。
明日香の人生は明日香が主役で、私達は脇役ですから。
私達が今更どうこう言う問題じゃないですよ」
「分かってる…分かってんねんけど!」
「絵梨香冷たくない!?何でそんなに落ち着いていられんのさ!」
さっきまで泣いていた真里さんが、キッと私を睨みつけた。
「あんなに明日香と一緒にいたくせに涙のひとつも流さないの!?」
小さな手が私の私の服の襟元をぎゅっと掴み上げる。
「いつも物分かりのいい大人みたいな事言って!
こういう時くらい悲しんで見せてもいいじゃんかよ!」
- 790 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:10
- 「…泣けませんよ」
私まで泣いたら、明日香が余計に苦しむから。
「バカッ!絵梨香のバカ!」
真里さんが私の胸をトンと突く。
でもその手には、私が痛みを感じるほどの力なんてものは入っていなかった。
やり場のない想いを私にぶつけようとしても、結局はできなかったんだろう。
私はただ、そんな真里さんの背中を撫でてあげるのが精一杯だった。
- 791 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:11
-
「皆、聞いて」
その時だった。
飯田さんの凛とした声が響いた。
一斉に皆の視線が飯田さんへと集中する。
「圭織は、絵梨香の言う事は正しいと思う。
こういう時には泣くんじゃなくてむしろ笑った方がいいんじゃないかな。
そうじゃないと明日香が困るじゃん。誰だって仲間の泣き顔なんて見たくないでしょ?」
- 792 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:12
- 「飯田さん…」
私は飯田さんの発言に心底驚いた。
普段何を考えているのかも分からない、掴みどころのない人だと思っていた。
でも、今の飯田さんは誰より冷静で、物事の本質を見極めようとしている。
そして、ちゃんと明日香の立場になって明日香の気持ちを尊重してあげている。
さっきの飯田さんの言葉は、きっと私の言葉なんかよりも
ずっと皆の心にストレートに響いただろう。
「そうやな…明日香かて、泣かれても困るわな。ほら、矢口も泣き止み」
裕ちゃんは涙を指先で拭い、真里さんに力なく微笑んで見せる。
「…わ、わかったよ」
彼女に倣うように、真里さんも懸命に涙を止めようとしている。
- 793 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:12
- それでも、やはり暗く沈んだ雰囲気を完全に変える事はできなかった。
すすり泣くメンバーの嗚咽も途切れる事はない。
本当にお通夜のような状況だった。
特に安倍さんはさっきからずっと泣きどおしで、目が真っ赤になっている。
そんな安倍さんが見るからに痛々しくて、私は触れる事もできなかった。
明日香は表情を歪め、ただひたすらに「ごめん」と何度も呟いていた。
- 794 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:13
- ...
明日香との別れを惜しんでいた皆。
そして静かに涙を流していた圭さん。
自宅に帰り着いても、その姿がずっと頭から離れなかった。
できるならば今すぐに圭さんの涙を拭ってあげたかった。
でも、その隣には紗耶ちゃんがいた。
紗耶ちゃんは意外にも落ち着いていて、圭さんの手を黙って握ってあげていた。
私はそんな圭さんを、遠くから見守っているしかできなかったんだ。
- 795 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:14
- 悲しいという気持ち。
悔しいという気持ち。
様々な感情が混ざり合う。
それを外へと追いやりたくて、私はギターに手を伸ばす。
思うままにいくつかのコードを押さえて鳴らしてみる。
私の心とは真逆の澄んだ音色が返って来る。
それだけで、今日の全てを許せる気がした。
気が付いたら、私は『Never Forget』のワンフレーズを奏でていた。
明日香の為の曲。
でも、きっとこれは私にとって、私達にとって生涯忘れられない曲になるだろう。
繰り返し弾いているうちに、荒んでいた心が、徐々にやわらかくなっていくのを感じた。
- 796 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:15
- ...
遂に、明日香の脱退がテレビや新聞を通じて世間に報道された。
その事はやはり大きな影響を与えたらしい。
実家の電話はひっきりなしに鳴り、近所の人間にも色々と根掘り葉掘り聞かれ、
明日香は相当まいっているようだ。
私は見かねて、そんな明日香を自分の部屋に泊まらせる事にした。
私といる事で、明日香が少しでも心を落ち着けてくれるのなら嬉しいから。
- 797 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:16
- 「絵梨香は私よりずっと強いよ。
折れない心を持ってるし、いつも前を向いてるよね」
テーブルに突っ伏しながら、力なくこちらを見る明日香に、私は苦笑いした。
「そんな事ないって。私は元々不安定な人間だよ?
特に圭さんといたら、私は確かに強くもなれるけど、同時に弱くもなっちゃうから」
「慕ってる人の前ではむしろそうなるのが当然だと思うよ。
本当に圭ちゃんの事大切に思ってるんだね」
「…別に、大切なのは圭さんに限った事じゃないよ。
私にとっては明日香も大事。皆仲間なんだし」
- 798 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:16
- これは私の本音だった。
明日香や皆も私にとっては大事な同志だ。
それに、圭さん一人にこだわる危険性を
私はうたばん収録の時に嫌というほど理解した。
ひとつのものに囚われていたら、そのせいで何かを壊してしまう事だってある。
今は周りから取り残されないように、客観的になる事が必要なんだ。
私は一人じゃなくて、グループの一員なんだから。
そして人の前に出る仕事を選んだのだから。
いずれにせよ、私がいくら圭さんを想ったところで、今の彼女は紗耶ちゃんを…
- 799 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:18
- 「まあ今は私の事はいいよ。それより…」
一度言葉を区切って、私は立てかけてあったギターケースを手に取る。
「?」
明日香はそれを不思議そうに見ていた。
何を言い出すのか全く予想ができないはずだ。
これから私が言う事を、明日香はどう思うんだろう。
「最後のコンサートで『Never Forget』の弾き語りやらない?」
ギターに慣れ始めた頃から、ずっと考えていた。
これが、私と同じくギターに興味を持っている明日香に伝えたかった事。
- 800 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:18
- 「え…っ」
私の言葉を耳にして、明日香ががばっと体を起こす。
初めて明日香と言葉を交わしたあの日。
今でも鮮明に覚えている。
音楽雑誌を読んでいた明日香の目は真剣で、
誰も寄せ付けられないほどに、その世界に入り込んでいた。
そして音楽について語る時の明日香は、まさしく夢見る少女で、心底輝いていた。
明日香が、楽器も弾ける歌手になりたいと思っていた事を私は知っている。
- 801 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:19
- 「すごい…どうして私がやりたいと思ってた事が分かったの?」
明日香の瞳に輝きが戻る。
ああ、これだ。
私はこの顔が見たかったんだ。
だけど何かを思い出したように、明日香は一度、はたと黙り込む。
「…あ、でも。い、いいのかな。つんくさんの曲勝手にいじっちゃうみたいで…」
なんというか、明日香は時々妙に気にしいなところがある。
でも、それが明日香なんだよね。
- 802 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:21
- 「つんくさんが明日香の為に作ってくれた曲なんだから、
むしろ喜ぶんじゃないかな。これは明日香の曲だよ」
「私の…曲」
私の言葉を反芻するように、明日香がすっと目を伏せる。
「ね?明日香の曲、最高の形で表現してみようよ」
未来は不鮮明なものだ。
皆不安がって先に進む事を躊躇ってしまう。
だけど、目標がある人は違う。
たとえ小さな目標でも。
それだけでもきっと前を向いて歩いていけるんだ。
だから、私は明日香と何か約束をしたかった。
ラストコンサートに向けて、明日香に全力で突っ走って欲しくて。
最後に希望の光を集めてあげたかった。
- 803 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:21
- 「どうかな?今からやればきっと間に合うよ」
「うん…私やりたい。絵梨香、一緒にやってみよう」
そう言って、明日香は太陽のように笑った。
その笑顔は等身大の14歳の少女のものだった。
- 804 名前:第25話 希望の光 投稿日:2012/04/23(月) 23:21
- 第25話 希望の光
了
- 805 名前:あおてん 投稿日:2012/04/23(月) 23:25
- >>740は「歌う事だけが全てじゃなかった」の間違いですorz
>>769
いやー、どうでしょうねw
本当はやすみよイチャラブさせたいんですけどね
- 806 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:02
- 「Never Forget」の弾き語りをする…
その件についてつんくさん達の許可が下りてからというもの、
私と明日香は仕事の合間を縫っては弾き語りの練習していた。
お互いの家で練習するだけでは飽き足らず、仕事場でもギターを持ち歩くようになった。
「Memory 青春の光」のTV収録の待ち時間。
そのわずかな間さえ、楽屋でギターに触れていた。
- 807 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:04
- 正直他のメンバーにとっては迷惑極まりないだろうと思う。
以前は楽屋で騒いでいたらすぐに裕ちゃんの喝が飛んで来たものだけど、
今回は大目に見てくれた。
彩さんも嫌な顔ひとつせず私達に付き合ってくれている。
その代わりに圭さん達は楽屋にいる事が少なくなった。
紗耶ちゃんを連れ、ロビーでスタッフさん達と談笑している圭さんを頻繁に見るようになった。
気を遣わせてしまっている事は承知の上だった。
それでも、私は明日香との練習に専念する事に決めていた。
明日香と一緒にいられる時間は残り少ない。
こうして同じ音に触れられる時は今しかないのだから。
- 808 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:06
- 安倍さんも交え、よく明日香と一緒に、
“音楽って一体何なんだろうね”と語り合った。
結局その疑問に答えは出なかったけれど、その時間さえかけがえのないものだった。
他の人が聞けば、青臭いと笑われるような会話をたくさん交わした。
“売れなくてもいいから自由に、誰の指図も受けずに、
自分のやりたいように音楽を楽しんでみたい”と言っていた明日香。
- 809 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:07
- 思えば、私は加入した当初から明日香に助けられていた。
キャリアで人を判断せずに、自然体に接してくれた。
まるで“保田さん”のように。
そんな明日香に、私は、私達二期メンバーはどれだけ救われただろう。
恩返ししたい、なんて恩着せがましい事を言うつもりはない。
でも、何かをしたかった。
明日香は芸能界にそれほど未練というものはないだろう。
だからこそ、最後のステージを心から楽しんで欲しかった。
一度でもこの業界に携わった事を後悔しないように。
娘。に入ったのは間違いだっただなんて思わないように。
明日香が、笑って飛び立てる事を願った。
- 810 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:07
- ...
99年に入ってからは特に、
毎日、毎日ひたすらに音楽を追い続けていたような気がする。
本当に、あっという間だった。
気付けばもう3月。
また、春がやって来る。
出会いの季節、そして別れの季節。
何かが、変わろうとしていた。
- 811 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:08
- ...
「えーりーか」
「はい?」
後ろから声を掛けられ振り向いた私の頬に、安倍さんの人差し指が突き刺さった。
「あっはは、ひっかっかったー」
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている私を見て、安倍さんがケタケタと笑う。
この人、精神年齢いくつなんだろう。
「もう、安倍さんったら。どうしたんですか?」
「今晩絵梨香をなっちの部屋に招待しようと思って」
また鍋でもするんだろうか。
魅力的なお誘いだけど…
- 812 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:09
- 「え、私は…。たまには明日香と二人きりでゆっくり過ごして下さい」
私ばかりが明日香を独占するわけにはいかない。
そう思って辞退したのだけど、安倍さんは首を横に振った。
「え?いやいや、福ちゃんはいないべ?」
「あ、断られちゃったんですか?明日香、最近自伝の仕事で忙しそうですしね」
「違くて。なっち、今日は絵梨香と二人で話したいんだべさ」
- 813 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:10
- 安倍さんがわざわざ私と過ごす為に時間を作ってくれている。
その事が驚きでもあったけれど、同時に嬉しくもあった。
年が明けてからは明日香ありきの生活を送っていたから、尚更。
他のメンバーもそうだったけれど、私と安倍さんは特に明日香を中心にして行動していた気がする。
たまには明日香抜きで語らうのもいいかもしれない。
「分かりました。なんだか安倍さんと二人って久々ですね」
一度は辞退したものの、結局私は安倍さんの招待を受けたのだった。
- 814 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:11
- ...
鍋を完食してから、私と安倍さんはグラスを片手に語り合っていた。
グラスの中身はジュースだったけれど、
安倍さんはまるでアルコールが入っているかのように饒舌だった。
「…でね、なっちは絵梨香がうらやましいなって思うわけさ。
なっちはプッチモニやタンポポとしては活動できないし、
メンバーとの距離はこれ以上縮まらないもん」
正直、安倍さんの言う事に驚いた。
安倍さんは、自分の事以外にはそれほど興味のない人かと思っていたから。
ただ、明日香に関しては例外なんだろうと。
- 815 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:11
- 「そんな…私だって全員と仲良しこよしなわけじゃないですよ」
「えー?なっちよりは絶対うまくやってるよ」
贅沢な悩みだとも思う。
安倍さんは皆が欲しがるものを全て手に入れているのに。
でも、安倍さん本人にとってはやはり満たされない部分もあるんだろう。
皆が知らないだけで、色々と溜め込んでいるんだ。
- 816 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:12
- 「明日香がいなくなったらどうしようか。
なっちって圭織とも仲悪いし」
まるで独り言のように安倍さんが呟く。
確かに安倍さんは1期メンバーで娘。の中心的存在。
誰しもがそのポジションを羨んでいる。
同時に、対抗意識を燃やしている。
だからこそ、皆完全に安倍さんに心を許し切っているわけじゃない。
プライベートでも安倍さんと関わろうとするメンバーは限られて来る。
安倍さんのファンだと言っていた圭さんでさえ、彼女とは一定の距離を置いていた。
- 817 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:13
- 「ほんと、明日香には甘えまくって助けてもらってばっかりだったなあ。
…ねえ、絵梨香は、年下の子に甘えたいなんておかしいって思う?」
「年齢は関係ないですよ。10代なんて皆総じて子供です」
「あはは、絵梨香だって子供なのに何言ってんの。なまいきー」
さっきまで寂しそうな顔をしていたのに、無邪気に笑ってくれる安倍さん。
明日香の脱退に、飯田さんとの不仲…
人間関係に悩んでいるのは私だけじゃないんだ。
圭さんと紗耶ちゃんの関係に嫉妬している自分が、なんだかひどく小さく思えた。
- 818 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:14
- ...
しばらくおしゃべりを楽しんだ後、安倍さんは私に布団を敷いてくれた。
干したばかりなんだろう。
優しい陽だまりの匂いがした。
忙しいだろうに。
でもそんな細やかさが嬉しかった。
このまま、穏やかに明日を迎えられる事を願いつつ、私は枕に顔を埋めた。
「…おやすみなさい、安倍さん」
- 819 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:15
- ...
あれから数時間。
何故か私はなかなか寝付けないでいた。
目を閉じても夢の世界へ誘われる事はなく、何度も寝がえりを打った。
安倍さんの隣で眠るのが緊張するからとか、そういうわけじゃない。
なんだか得体の知れない不穏なものを感じていたのだ。
- 820 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:15
- 今度は仰向けになって天井を見上げる。
「ん…?」
その時、違和感に気付いた。
照明が不安定に揺れている。
それは気のせいではなかったんだという事を、私は直後に知る事となる。
「!?」
やばいと思った瞬間には、もう手遅れだった。
全てがスローモーションのようだった。
かろうじて上半身だけは起こせたけれど、これ以上体が動かない。
声を上げる事すらもできなかった。
- 821 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:16
- ガラスが砕け散る甲高い音が夜の静寂を破った。
月明かりに反射する破片が、夜目に美しく映る。
「ぐっ…!」
襲いかかった衝撃の大きさに、一瞬体がバラバラになってしまったのかと思った。
まるで、この砕け散った破片のように。
同時に頭も床にぶつけてしまったせいか、意識がもうろうとする。
そんな私の意識を現実に引き戻したのは、安倍さんの悲痛な叫び声だった。
- 822 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:18
- 「いやああああっ絵梨香!!」
その声から、私は自分が今とんでもない状況に陥っている事を把握した。
天井の照明が私めがけて降って来たのだ。
多分、無傷でいられるわけがない。
だけど痛みはない。
きっと感覚が麻痺しているんだろうな。
ただ、熱い。
拍動を繰り返す度、熱い液体が傷口から溢れだして来る。
- 823 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:20
- 「絵梨香!返事して絵梨香!」
夜中に近所迷惑ですよ、と言おうとしたけれど、掠れて声が出なかった。
「やだ、やだ絵梨香しっかり!しっかりするべさ!」
おそらく照明器具の取り付けが甘かったんだろう。
そしてそれが私の上に直撃したのだ。
どうやら隣の安倍さんは布団を頭まですっぽり被っていたおかげで被害を免れたようだ。
それだけが不幸中の幸いだった。
「ああ、どうしよう!どうしよう…救急車っ」
「いや、あの…大げさですから」
だんだん意識が鮮明になって来たからか、やっとの事で声を絞り出せた。
いつもは少しのケガだけでも気が動転するのに、どういうわけか、
今この瞬間私の心は落ち着いていた。
あまりに安倍さんが切羽詰まった様子だったからだろう。
- 824 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:21
- 「絵梨香!生きてるべか!?」
「そりゃ当たり前ですよ…
それよりガラス片が散らばってるから、不用意に動き回るのは…って!」
私が言い終える前に、既に安倍さんは玄関の外へ飛び出そうとしているところだった。
「待ってて!圭織を…圭織呼んでくる!!」
え?飯田さんまで呼んだら余計場が混乱しそうな気がするんですけど。
「あっ…ちょっと、せめてちゃんと扉を閉めて…」
結局、私の声は届かなかったようだ。
そもそも最初から安倍さんは私の言葉なんて耳に入っていなかった気がする。
「…はぁ」
私は成す術もなく遠ざかる安倍さんの後ろ姿を見送った。
- 825 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:22
- ああ、まだ血が流れてるよ。
べったりして気持ち悪い。
おそらく複数の箇所をガラス片で切っているんだろう。
一応この体は商品なのに。
どうすればいいんだろう。
私は今何をすべきなんだろう。
…ううん、何もしない方がいい。
月明かりを頼りに動き回るのは危険過ぎる。
安倍さん達が戻って来るのを待っていた方が良さそうだ。
- 826 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:24
- むやみに体を動かすわけにもいかず、
私は天井に貼ってある星を模った蛍光シールを眺めて時間を潰していた。
なっちが夜暗闇で眠るのが怖くて貼ったというその星は、
こうして見上げている私の事も、何故だか勇気づけてくれている気がした。
明日香と安倍さんと、三人で流星群を見に行った夜の事を思い出すからだろうか。
夜空を飾る満天の星は、手を伸ばせば、すぐにでも届きそうな気がした。
本当に、つい最近の出来事みたいだ。
そんな懐かしさに思いを馳せていた時、強烈な光が視界に飛び込んで来た。
- 827 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:26
- 「!まぶし…っ」
その明るさに耐えられず、思わず手で目を覆った。
「絵梨香、生きてる!?」
飯田さんが懐中電灯を手に部屋の中に駆け込んで来たようだ。
安倍さんと全く同じ事を聞くので少しおかしかった。
「生きてますから…危ないから近寄っちゃダメです。
せめてスリッパ履いて下さい」
飯田さんは冷静で、私の言葉を素直に聞き届けてくれた。
彼女は安倍さんにもスリッパ履かせ、ゆっくりと近付いて来た。
- 828 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:27
- 「圭織、圭織っどうしよう!なっちのせいだ!」
安倍さんはぽろぽろと涙をこぼしながら飯田さんにしがみついている。
「なっち、落ち着いて。絵梨香不安にさせてどうすんの。
まずは和田さんに連絡するよ」
普段は暴走する事が多々ある飯田さんなのに、この時は心底頼もしく見えた。
泣き崩れる安倍さんを目にして、自分がしっかりしなきゃと思っていたのかもしれない。
明日香の脱退が発表された時にも思った事だけど、
飯田さんは自分に直接関係のない事柄に関しては客観的になれる人なんだろう。
- 829 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:28
- 飯田さんは安倍さんの体を支えながら、和田さんと連絡を取っていた。
深夜にもかかわらず、和田さんはすぐに電話に出てくれたようだ。
和田さんは私の意識がはっきりしている事を確認すると、
“すぐ行くから止血をしてじっとしてろ”と言って電話を切った。
和田さんが来るまでの間、二人はずっと私の事を励ましてくれていた。
どれくらい経っただろうか。
和田さんが到着すると私はすぐさま車に押し込まれ、救急病院へ連れて行かれた。
- 830 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:29
- ...
出血は多いけれど傷は思っていたほどでもなかった。
腱を傷付けるまではいかなかったらしい。
それでも、やっぱり何針か縫わなければいけない傷もあったみたいだ。
そして頭を強くぶつけた事もあってか、2日ほど入院する事を余儀なくされた。
念の為に脳の検査をして様子を見るらしい。
縫合を終え入院着に着替えると、私は早々にベッドに押し込まれた。
私の意思に反して、首やら腕やら、あらゆる箇所にぐるぐると包帯が巻かれてしまった。
- 831 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:29
- 「どうするよこれ…」
抜糸をするまでに約一週間。
もうすぐ全国ツアーが始まる。
おそらく、初めの方は包帯を巻いたままコンサートに出る事になるだろう。
結果的に皆に心配を掛け、世間を騒がせてしまう事は避けようがない。
今から憂欝だ。
和田さんなら、騒ぎをきっと最小限にとどめておいてくれるだろうけど。
それでもその晩、やはり私は眠りに入る事はできなかった。
- 832 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:31
- ...
翌日。
「はぁ」
本日何度目か分からないため息が出た。
検査結果は異常なし。
それには深く感謝すべき事だ。
だけど、私の心に平穏は訪れない。
どうしても皆の事が気になってしまう。
特に安倍さん。
気に病んでないといいんだけどな。
- 833 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:33
- レッスンを休んでしまう事も心苦しい。
1日休むだけで、1人欠けただけでも何かしらのバランスは崩れてしまう。
それを理解してるからこそ申し訳なさでいっぱいになる。
絶対に迷惑なんて掛けたくなかったのに。
圭さんも扁桃炎に苦しんでいた時、同じ事を考えていたんだろう。
メンバーに迷惑を掛けたくない、仕事に穴をあけたくないって。
だからこそ高熱にうなされても仕事を続けた。
今はその気持ちが痛いほどに分かった。
私の苦悩なんて圭さんに比べたらたかが知れているけど。
- 834 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:34
- このままレッスンを休んでコンサートに支障をきたさないだろうか。
“Never Forget”のギター演奏は理想の形に近付いて来ていた。
完璧とは言えないけれど、この分ならきっと本番でも通用するはずだ。
でも、不安要素はいくらでもある。
コンサートのダンスレッスンが始まっている大事な時期なのに、
私は穴をあけてしまった。
このコンサートツアーは娘。にとって初めての全国ツアーで、
明日香にとっては最後のツアーなのだ。
一分一秒でも時間を無駄にしたくない。
私に出せる全ての力を注ぎたかった。
- 835 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:34
- 本当は今すぐにでも病院を抜け出してレッスンに参加したい。
今の私は安静にして一刻も早く傷を癒すのが義務だと分かってはいる。
でも、何もできないこの時間がもどかしい。
こんな事なら、せめて2012年の世界に行って
明日香のラストコンサートの研究でもしておくべきだった。
今更後悔しても遅いけど。
- 836 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:35
- ...
その時、ドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」
私の返答とほぼ同時に、ドアの隙間から病室にするりとしなやかな体が入り込む。
その様はなんだか猫のようだと思った。
「なんだ、意外と元気そうじゃない」
「な、夏先生!?」
それは夏先生だったようだ。
予想もしていなかった人物の来訪に反応が遅れてしまった。
私は慌てて起き上がり姿勢を正す。
- 837 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:37
- 「そのままでいいから」
夏先生はそう言って私の体をベッドに押し戻した。
「やー、話聞いた時はさすがの私もびっくりしたよ。
ついてないっていうか。あれは不慮の事故だからね」
そうだ。
あれは事故だった。
なのに自分の責任のように言って泣いていた安倍さんの顔を思い出すと、胸が痛む。
- 838 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:38
- 「安倍さんの様子はどうですか?」
「ずっと飯田が付き添ってあげてるおかげでだいぶ落ち着いてる。
安倍だけじゃなくて、話を聞かされた時は皆パニック状態だったけどね。
レッスン休んで今すぐ病院に行くってもう聞かなくて」
「…そうですか…随分心配かけちゃったな」
私の表情に影が差している事に気付いた夏先生は、
ベッドに腰を掛け、私の顔を覗き込む。
「なんて顔してんだか。
三好、あんたに落ち込んでる暇なんてないよ。分かってるよね」
夏先生が少し語気を強める。
でも、それには優しさが溢れていた。
- 839 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:40
- 「ケガしたって三好は歌える。
それに別に捻挫したわけでもないし、踊れないわけじゃないんだから。
一番重要なのはお客さんの心に入り込む事。
そして一挙手一投足に気を配って、歌や振り付けに込められた意味をよく考えて」
「…はい」
いつも容赦のない、夏先生の厳しい指導の下で皆必死だった。
かく言う私も例外ではなく、悔しさに涙をのんだ事だって何度もある。
でもこうして今、温かな言葉を受けてしまった私は、こぼれる涙を止められなかった。
未来への不安。
自分への不甲斐なさ。
温もりへの安堵。
様々な感情が絡み合う。
- 840 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:40
- 「よしよし」
夏先生は小さな子にするように、私の頭を優しく撫でてくれる。
偽りのない温もり。
夏先生は本気で私を心配してくれている。
そして娘。と共にあろうとしてくれている。
私は14歳の少女としても、27歳の一人の人間としても、彼女に甘えていた。
私が子供に返れる場所がここにあった。
それだけで私は今救われている。
今だけ、よりかかる事を許して下さい、夏先生。
明日からはちゃんと前を見据えますから。
- 841 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:43
- ひとしきり泣いた後、夏先生はドアに向かって声を発した。
「あんた達、もう入って来ていいよ」
「え!?」
その瞬間、ぞろぞろと列を作って見知った顔が入って来た。
「皆…」
涙を拭う暇もなかった。
そんな事をしても、赤くなった目はごまかせないけれど。
安倍さん、飯田さん、明日香、彩さん、裕ちゃん、真里さん、紗耶ちゃん、圭さん。
ほぼ毎日のように顔を合わせているのに、今はひどく懐かしい感じがする。
「大勢で押し掛けてもあんたに負担がかかるだけだろうから、一度は止めておいたんだけどね。
まあ仲間のピンチを放っとけるわけないよね」
そう言って夏先生は苦笑いする。
- 842 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:44
- 「絵梨香大丈夫なの!?」
しばらくの間、皆がかわるがわる私の頬や髪、手に触れて無事を確認する。
正直、夏先生が来てくれた時、皆が一緒にいなくてほっとしていたところがあった。
だって、元々は皆に合わせる顔がないと思っていたから。
でも…皆の姿を見ると、温もりに触れられると、すごく安心する。
大惨事にならなくて良かった…
またこうして皆の顔が見られて、声を聞ける事ができて良かったとつくづく思える。
私は今になって初めて、無事でいられた事を心から神様に感謝した。
- 843 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:45
- ...
皆がそろそろお暇しようかという雰囲気になった時、なっちが口を開いた。
「ごめん、皆…ちょっと絵梨香と二人で話したい事があるんだ。
二人っきりにしてくれないべか」
色々と思うところがあるんだろう。
皆深く追求はせず、静かに頷く。
だけど、飯田さんが次に放った言葉に私は耳を疑った。
「…わかった。圭織は待ってるから。なっち、一緒に帰ろうね」
衝撃的だったのは他の皆も同じだったようだ。
特に真里さんなんて口をあんぐり開けている。
本当に思った事が顔に出る人だ。
- 844 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:47
- 一瞬、圭さんと目が合った。
何か言いたげな瞳。
ある時までは、その大きな瞳に見つめられるだけで胸が高鳴った。
それだけで幸せになれた。
なのに、私は自分から視線を逸らしてしまう。
やっぱり、こんな情けない姿を見られるのは抵抗があるから。
視線を下に移すと、圭さんの右手の薬指には、約束の指輪が。
まだ、してくれてるんだ…。
指輪に賭けて誓った時は、誰よりも近くにいたはずだった。
なのに、今は遠い。
結局最後まで視線は交わる事がなく、ドアは閉ざされた。
- 845 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:48
- 病室には私と安倍さんの二人だけになる。
「あの、安倍さん…」
「ごめん…本当にごめんね」
また謝罪の言葉。
安倍さんはあの時何度も私に謝っていた。
飯田さんや私が安倍さんのせいじゃないとどれだけ否定しても。
「お願いですから謝らないで下さい。私はこの通りピンピンしてるじゃないですか。
それに、安倍さんの家に泊まりたいって思ったのは自分なんですから。
安倍さんのせいなんかじゃありませんよ」
「なっちを許してくれるの?」
「許すも何も、安倍さんに非なんてどこにもないんですよ?
むしろ安倍さんの部屋を血で汚しちゃって申し訳ないっていうか…」
- 846 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:50
- 私は安倍さんの意識を別の方へ向けさせようと、違う話題に触れた。
「そういえば、昨夜から飯田さんとずっと一緒なんですか?」
「あ、う、うん。なっちね、圭織にいっぱい励ましてもらったべさ。
…その時に、昔の事思い出して懐かしくなっちゃった」
「昔の事、ですか?」
「うん、なっち達がデビューする前の事。
ロックボーカリストオーディションの最終選考に落ちた時、もーショックでショックで。
涙が止まらなかったわけさ。
圭織は、帰りの飛行機でも泣いてるなっちをずっと慰めてくれたんだ。
当時の記憶がぶわって蘇って来ちゃってさ」
その流れは私もASAYANで知っていた。
誰かが栄光を掴み取る代わりに、誰かが絶望に打ちひしがれる。
最終選考で落選する悔しさは、私もよく知っていた。
- 847 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:52
- 「飯田さんって暴走する時は暴走しますけど、
傷付いた人を放っておけない人ですもんね」
「うん。そういう圭織の優しいところ…なっち、忘れちゃってたんだなって。
一緒に暮らして、お互いの嫌なとこばっか目についちゃってさ。
正直言っちゃうと、消えてくれないかって思った時もあった…
それは圭織も同じなんじゃないかな」
誰かの消滅を願うほどの激しい憎悪の感情。
ましてやそれをメンバーに向けるだなんて、私は考えもしていなかった。
でも、お互いを認めているからこそ、その感情は芽生えるんだと思う。
どうでもいい人間に対して、そんな大きなパワーは決して向く事はないはずだから。
- 848 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:54
- 「やっと圭織だけが悪いってわけじゃないって気付いたんだ。
どうしようもなかったんだよ。
圭織と私は同期だし、同い年だし、同郷だし…色々と比較される事も多いと思うんだよね。
圭織はいっぱい嫌な思いしたと思う。
でもなっちは自分がチヤホヤされるのが気持ち良くて、それが当然なんだって思ってた。
圭織の気持ち、考えようとしてなかったな。ちょっと自己嫌悪」
安倍さんは一気に吐き出してから悲しそうに顔を歪める。
「自己嫌悪に陥る安倍さんなんて、安倍さんらしくないですよ。
大事なのは、過去の行いを後悔する事じゃなくて、過ちに気付く事です」
「ほんっとに絵梨香って大人っていうか達観してるっていうか。
なんだか福ちゃんみたいだべ」
「ふふっ私は子供なんじゃなかったんですか?」
悪戯っぽく笑うと、安倍さんも無邪気な笑顔を返してくれた。
圭さんが言っていた、天使のような微笑。
良かった。
安倍さんはやっぱり笑ってないと。
- 849 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:55
- 「飯田さんと安倍さんが仲良くしてくれたら、私もすごく嬉しいです」
「えへへ、照明の買い物に付き合ってくれるって約束もしたし…
それまで、圭織が部屋に泊めてくれる事になったんだ」
安倍さんはなんだか照れくさそうだったけど、
話を聞いているだけで温かい気持ちになれた。
明日香がいなくなった後の事を恐れていた彼女。
だけど、安倍さんが危惧するような事にはならないだろうと、今はそう思える。
お互い素直になれていなかっただけで、歩み寄るきっかけを探していたのかもしれない。
- 850 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:56
- 「圭織を好きになれない部分はまだいっぱいあるべさ。
でも、人間だから完璧な人なんていないわけじゃん。
だから、頑張って圭織の嫌な部分も許す努力をしようって思ったの。
苦手な子にも、きっと好きになれる要素はあるはずだべ。
『サマーナイトタウン』の歌詞でもあるっしょ、“大キライ大キライ大キライ大スキ”って。
この場合とはちょっと意味は違うけどさ」
私は安倍さんの目を見ながら、何度も頷いた。
飯田さんと目を合わそうともしなかった安倍さんが、こんなにも前向きな話をしてくれる。
それだけで私も前に進める気がした。
- 851 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:57
- ...
それからどれくらい経っただろう。
ふと安倍さんが時計を見てあっと声を上げた。
「長居しちゃった。圭織待ちくたびれてるかも」
確かに、これ以上飯田さんを待たせない方がいいだろう。
「…ひとつひとつ、飯田さんの好きなところを見つけていって下さい。
そうすれば、きっと飯田さんも安倍さんをもっと好きになりますから」
私の言葉に、安倍さんは元気よく頷いてくれた。
「じゃあ絵梨香、レッスンの時に会おうね!」
そう言って軽い足取りで病室の外へ向って行く。
向こうのドアの隙間から、安倍さんに優しく笑いかける飯田さんの顔が見えた気がした。
- 852 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:58
- ...
今日は千客万来だった。
だからこそ、一人きりになった時のこの静寂が顕著に思える。
でも、心細くはない。
私の心の中は喜びに支配されていたから。
「安倍さんと飯田さんか…」
同郷で、同い年で、生まれた病院も同じ。
そして同じグループで一期生として活躍するアイドル同士。
恋愛感情だとか、そんなものはなくても、安倍さんと飯田さんは
運命の二人だと呼べる。
そんな二人が、長い間いがみ合っているのを見るのは辛かった。
- 853 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/04/30(月) 23:59
- でも、あの事故をきっかけに、二人は再びお互いに向き直る覚悟を決めてくれた。
だとすれば、私がケガをしたのは決して災難でも無駄な事でもなかった。
迷惑を掛けてしまったけれど、不謹慎にも
ケガをして良かったのかもしれないと少しだけ思ってしまった。
雨降って地固まるってとこか。
降って来たのは照明だったけど。
この喜びが、ぬか喜びになりませんように。
私はそう願いながら目を閉じた。
昨夜眠れていないだけあって、今夜はすんなりと安眠できた。
- 854 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/05/01(火) 00:00
- ...
私は無事退院を許可された。
レッスンに復帰した時、夏先生は変に気遣う事もなく、
皆と同等に厳しく指導してくれた。
それがとても嬉しかった。
そしてレッスンの日々を経て、遂に初めての全国ツアーが始まった。
札幌ZEPPを皮切りに、これから4月の半ばまで全国を転々とする。
抜糸をしたばかりで、完全に傷が癒えているわけじゃない。
汗に濡れればその都度包帯を交換し、消毒しなければいけなかった。
着替えにも手間取るし、しばらくはメンバーやスタッフさんに迷惑を掛けてしまうだろう。
そして肌を覆う白い包帯はやはり人目を引く。
だからどうしても負い目を感じてしまう時もあったけど…
“ギターに包帯少女ってマッチしてるよね”と
明日香が茶化してくれたおかげで、なんだか私は少しだけ吹っ切れた気がした。
- 855 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/05/01(火) 00:01
- 「包帯ってヴィジュアル系っぽいじゃん。意外とウケるかもよ」
と彩さんも便乗する。
相変わらず彼女はそういうジャンルに興味があるようだ。
「そうそう、YUKIちゃんだってファッションで包帯巻いてたりするべ。
なっちもやってみたいかも」
明らかに私だけ浮いている状態なのに、
皆は腫れものに触るような態度を取る事はせず、優しく私を受け入れてくれる。
私に疎外感を感じさせないように、ごく自然に。
それだけで、どんどん心が軽くなっていくのを感じる。
- 856 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/05/01(火) 00:02
- 仲間っていうのはありがたいな。
圭さんを自分だけのものにできなくても、
あの頃のように無邪気にじゃれ合えなくても、
心救われている自分がいる。
圭さんが大事な人であるのは変わらない。
近くて遠い人。
でも、きっとこれが一番心地良い距離なんだ。
そう自分に言い聞かせる。
- 857 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/05/01(火) 00:03
- 「出番だよ。絵梨香、行こう」
「うん!」
明日香に促され、私は相棒とも言えるギターを手にする。
もう数え切れないほどにギターを弾いてきた手は、それになじむようになっていた。
空いた方の手で、明日香の手を握りしめる。
「後悔しないように、精一杯楽しもうね、明日香」
「今この瞬間だって、楽しいよ。すっごく」
返って来たのはとびきりの笑顔。
最後の瞬間まで、この笑顔を曇らせたくない。
強く、そう思った。
- 858 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/05/01(火) 00:04
- ステージに立つごとに、別れに近付いている。
だけど、きっともう怖くない。
今なら明日香を笑って送り出せそうな気がする。
もうすぐ本格的な春が来る。
北海道にも、今年最後の終雪が降って、春の日差しがそれをゆっくりと溶かしていく。
まるで、安倍さんと飯田さんのわだかまりが消えていくように。
1999年春…
娘。は一つの節目を迎えようとしていた。
- 859 名前:第26話 終雪 投稿日:2012/05/01(火) 00:04
- 第26話 終雪
了
- 860 名前:あおてん 投稿日:2012/05/01(火) 00:07
- 更新ペースが遅くてすみません
- 861 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/05/02(水) 06:35
- 狼で美勇伝の話題が出てたので久しぶりに読んでみました
この作品の三好さんには幸せになってもらいたいものです
- 862 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:09
- Memory青春の光ツアーは何事もなく終盤へと近付いていた。
突然の明日香の脱退発表。
そして明日香の大切なラストツアー直前に起こった私の事故。
様々な人に心配と迷惑を掛けた事は事実。
こんな私なんかを受け入れてくれるのだろうかと不安におびえた夜もあった。
- 863 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:10
- だけどそんなものは杞憂だった。
地方のお客さんは温かくて、彼らの声が直接心に響いた。
同時に数えきれない勇気をもらった。
そしてツアーの合間に、新曲「真夏の光線」のレコーディングをこなし、
8人の新生モーニング娘。の誕生に向けての準備が着々と進められていた。
私のケガも抜糸をした後は順調に回復し、腕を覆っていた包帯の姿はもう既にない。
傷も塞がり、白く盛り上がった跡が少し残っている程度だ。
この分だと、何の問題も無く最終日まで全力を尽くせるだろう。
明日香のラストツアーは、残すところあと2公演となっていた。
- 864 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:11
- ...
4月9日。
私は福岡のホテルの一室で、一人ギターの手入れをしていた。
同室の安倍さんは明日香達と出かけている。
最後の瞬間までできる限り明日香といたいんだろう。
誘ってもらってはいたけれど、邪魔にはなる事は避けたかったので、
私はあえてここに残る事に決めた。
「Never Forget」の弾き語りは好評で、
涙を流しながら拍手を贈ってくれるお客さんも少なくなかった。
この曲が、私にとってまさかこれほどまでに大切な曲になるとは思いもしなかったな。
元の世界にいた頃は、“いい曲だなあ”って程度の感想だったのに。
- 865 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:13
- そういえば、明日は4月10日…
あの日から、丸一年経とうとしている。
私が2012年から、1998年にやって来た日。
あの時は、右も左も分からなくて本当に必死だった。
デビューしてからも、目まぐるしい日々が今まで続いている。
2012年の世界にいた頃が、遠い昔の事のように思える。
- 866 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:14
- 未だに自分が娘。に在籍しているという事が信じられない時がある。
私は確かに、この世界で息をして生きている。
肌の下には皆と同じ血が流れている。
うっすらと残る白い傷跡が、これは現実なんだと教えてくれる。
だけど時折不安になる。
やっぱり私は、白昼夢を見ているんじゃないかって。
いつか一人きりで目が覚めて、私を取り巻いていたもの全てが
一瞬にして消え失せてしまうんじゃないかって。
でも、これはきっとただの夢じゃない。
だって、この世界は、2012年の絵梨香にも影響を及ぼしているから。
最初は1998年にタイムスリップしたものだとばかり思っていたけど、
それも何か違うような気がしてならない。
だったら、この世界は一体…
- 867 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:15
- その謎が解明できない限り、私はこれからも
漠然とした不安に襲われる事となるだろう。
決して誰にも言えない秘密。
他の誰かに聞いて欲しいと思う時だってある。
まるで、皆を騙しているかのような罪悪感に苛まれる時もある。
一切孤独を感じないと言えばウソになる。
こんな事を考えていると、あの頃の事を思い出す。
- 868 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:15
- 2012年の世界で…北海道にいた頃。
私は膝を抱え、一人殻の中に閉じ込もっていた。
札幌行きを会社から告げられた時、私の世界はモノクロに変わった。
私はいらない人間なんだと言われた気がして。
もしかして私は誰にも愛されてないんじゃないかって思うようになって。
可能性も選択肢も、もう私には無いのだと決めつけていた。
諦めるしかないと思っていた。
誰よりも大切だったはずの、“保田さん”の事も、無理に忘れようとした。
- 869 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:16
- だけど、何の神様の悪戯か…
私はこの世界へいざなわれた。
そして奇跡的にも娘。の一員となれて、たくさんの出会いがあって。
少しずつ、少しずつ何かが変わっていった。
そしてそれは元の世界にいる、もう一人の絵梨香にも言える事だった。
彼女は目を逸らす事なく前へと進んで行き、保田さんと想いを確かめ合った。
- 870 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:18
- この世界の圭さんは、決して私のものではない。
圭さんにとっての私が重要な位置にいなくても、それでも不幸なんかじゃない。
確かに、この世界で自分が異質な存在であるという事実は、辛いと思う。
そして、元の世界の“保田さん”、この世界の圭さん…
どちらを思い浮かべても、ちくりと胸は鈍く痛むけれど。
それでも、私には娘。がある。
どの世界にも優しい道なんてないだろう。
でも、皆がいてくれるなら、私はきっと歩いて行ける。
それだけのものを私は手に入れた。
- 871 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:18
- ...
私はギターをケースに仕舞い、すっくと立ち上がった。
メンバーの誰かの部屋に遊びに行こう。
明日香達は外を散策しているけれど、何人かは部屋に残っているはずだ。
彩さんあたりにまた音楽の話でも聞こうかな。
そんな事を考え、私はふらりと彩さんと裕ちゃんの部屋の前までやって来た。
- 872 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:20
- 「…あれ?」
しかし、何度チャイムを押しても、ドアをノックしても返答がない。
二人して寝ているのか、それともどこかに出かけているのか。
だけどこのまま引き下がる気になれず、私は無意識にドアノブに手をかけていた。
まさか、鍵を掛けていない、なんて事は…
「!」
あっさりと開いてしまった。
皆鍵を掛けない場合が意外と多いんだよね。
まったく無防備な。
- 873 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:20
- ...
「…彩さん?裕ちゃん?」
人の気配はない。
留守のようだ。
やっぱり出直そうかと思った時だった。
廊下の方から、誰かの足音と話し声が聞こえた。
それはだんだん大きくなり、こちらに向かって来る。
「や、やば」
こんなところで誰かと出くわしたら確実に不審人物扱いだ。
私は音を立てないように内側からドアを閉める。
しかしそれで終いにはならず、聞き覚えのある声が耳に届いて来た。
彩さんの声だ…。
- 874 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:21
- まさか、彩さんと裕ちゃんが戻って来た?
突然の事に頭がパニックになる。
この時、私はとにかくどこかに隠れないといけないという思いに支配されていた。
考える暇もなく、私は咄嗟にクローゼットの中にこっそり忍び込んだ。
そしてほぼ同時に、ドアが開く音がした。
はっきりとは見えなかったけれど、
そのまま彼女達がこの部屋の中に入った事がうかがえた。
「セ…セーフ」
安堵の息を吐きそうになったところで思いとどまる。
全然セーフじゃない。
これじゃ出るに出られない!
私のバカ!
私は自分の浅はかな判断を悔いた。
- 875 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:22
- もう仕方ないから、頃合いを見計らって
“びっくりさせたくて隠れてました”って出て行こうかな…
ちゃんと謝れば、二人も本気で怒ったりはしないはずだ。
そう考えた時だった。
「あれ?」
クローゼットの隙間から部屋の内部を覗くと、彩さんといたのは裕ちゃんではなかった。
- 876 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:23
- 圭さん…?
「なんで」
どうしてこの二人が?
不思議に思いながらも凝視していると、やっと異変に気付いた。
二人が言い争いをしているのだ。
しかも圭さんの方が怖い顔をして彩さんに詰め寄っている。
内容はよく聞こえないけれど…喧嘩?
私は扉に近寄り、二人の声に意識を集中させた。
- 877 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:24
- ...
「うわ、圭ちゃん怒ってる?」
「当たり前でしょ!?あの子まだ14歳なのに!」
「そうカリカリしないでよ。
そりゃ犯罪だろうけどさ、圭ちゃんが気にする事じゃなくない?
いいじゃん、男と女みたいに妊娠するリスクもないし」
こともなげに言う彩さんに、圭さんが絶句する。
何の話?
いや、そもそも犯罪って何?
一体どういった話をしているんだろう。
推測は不可能だ。
「何、もしかして圭ちゃんも狙ってた?うらやましいとか思っちゃってるんだ?
分かった分かった、じゃあいっそ3Pでも…」
彩さんが最後まで言葉を続ける事はなかった。
- 878 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:25
- ...
バシーン!
まるで何かが爆ぜたような強烈な音が、部屋の空気を震わせた。
何?
何が…起こったの?
「いっ…てぇ…」
気が付けば、彩さんは低い声で呻きながら頬を押さえ、床にしゃがみ込んでいる。
「!?」
信じられない光景に、私は何度も瞬きした。
だけど、目の前の事実は変わらない。
- 879 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:25
- 圭さんが…
あの圭さんが人を殴った。
周りから心無い言葉を投げかけられても。
どれだけ理不尽な扱いを受けても。
そんな事をものともせず、じっと耐え続けてきた圭さんが。
誰よりも優しい圭さんが。
- 880 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:26
- 「彩っぺ…」
震える圭さんの唇から漏れる声は、
まるでしわがれた老婆のような昏い声だった。
同時に、圭さんが彩さんを見下ろす目にぞっとした。
直接あの視線を浴びていない私でも分かる。
怒り。憎しみ。悲しみ。絶望。軽蔑。
全ての感情が入り混じった目。
あの人は本当に圭さんなんだろうか。
なんだか、彼女が圭さんの姿をした別人のように思えてならない。
それほど私にとって、圭さんの言動が予想外だった。
- 881 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:27
- 私も相当のショックを受けているのか、
目の前で起こっている事を把握するのに、しばらくの時間を要した。
「絵梨香はね、彩っぺの性欲処理人形じゃないんだよ」
…私!?
何故ここで私の名前が圭さんの口から出るんだろう。
それに何だかとんでもない単語が飛び出したような。
圭さんに関わりのある人間で、絵梨香という名前の人間は
おそらく私しかいないはず。
だから、間違いなく私の事を言っているのだろう。
でも、彼女達の会話が何一つ理解できない。
心当たりもない。
わけのわからない事だらけで頭がひどく混乱する。
- 882 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:28
- 圭さんは震える自分の右手をもう一方の手で
ぎゅっと握りしめながら、最後の言葉を絞り出した。
「絵梨香を…絵梨香をオモチャにしないで」
その言葉を聞き届けたのとほぼ同時だった。
「!う…わっ」
思わず身を乗り出そうとして、私はバランスを崩してしまった。
その瞬間、小さくクローゼットの扉が軋んだ。
小さな音だったけれど、さすがに二人は気が付いたようだった。
- 883 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:28
- 「えっ絵梨香!?どうしてここに…何やってるの!?」
圭さんの大きな二つの目が限界まで見開かれている。
彼女の瞳はさっきまでの冷たく昏いものではなく、確かに温度が宿っていた。
その事に、少なからずほっとした。
「…おおかた、イタズラでもしようとしてたんでしょ。
しかも盗み聞きまで…悪い子だね」
一方で、彩さんは圭さんほどの動揺を見せる事はなかった。
いや、圭さんに殴られたショックの方が大きくて、
どういうリアクションを取っていいのか分からないのかもしれない。
- 884 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:29
- 「あ、あのこれは一体…」
「ごめん、びっくりしたよね。大丈夫。怒らないからこっちおいで」
彩さんはそう言いつつクローゼットに近付き、
強引に私の腕を引いて外に連れ出す。
そしてゆっくりと彩さんの手が私の頭へと伸びる。
私の髪の隙間に入り込むその指先は優しい。
まるで圭さんに見せつけるように私の髪を指に絡めて来る。
「あ、彩さん?」
- 885 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:30
- と、彩さんの肩越しに圭さんと目が合った。
その瞬間、彼女の目から堰を切ったように
大粒の涙がこぼれるのが見えた。
「け、圭さ…」
「…っ!」
圭さんはすぐに背を向け、信じられない速さで部屋の外へ飛び出して行った。
「あっちょっと!圭さん!?」
- 886 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:31
- ...
私は思わず彩さんの方に振り返り、勢いに任せて問い詰めた。
「い、一体何があったんですか?
さっきからわけ分からない事だらけなんです。説明して下さい!」
「ええー、一から説明すんの面倒なんだけど」
彩さんは本当に面倒臭そうにぼやきながら、自分の頬に手を当てる。
「…あー、いってぇ。マジで叩くなよなあ」
彩さんの頬には赤い手形がくっきりとついていた。
派手な音がしたとは思っていたけど、やはりかなり強く叩かれたらしい。
だけど、今彩さんの頬の事を気にしている余裕はなかった。
- 887 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:31
- 「圭さんに何を言ったんですか」
彩さんははぐらかす気がないのか、あっさり口を割った。
そして、到底受け入れられない事を言い放った。
息をするように自然に。
「絵梨香をモノにしたって言った」
「…はい!!?」
立ちくらみがしたのは気のせいじゃないだろう。
あまりに衝撃的な内容。
聞き間違いである事を一瞬祈ったほどだ。
- 888 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:32
- 「あの…今なんて?」
「だから、絵梨香とやったって言ってみたの」
悪びれもせずに言い直す彩さん。
いや、意味は通じてますけど。
何を考えてるんだこの人は。
「な、何でそんな大ウソを…!」
「だって圭ちゃん見てたらイライラすんだもん。
あっちへフラフラこっちへフラフラと。
あんまり圭ちゃんが優柔不断だからさ、カマかけたくなったんだよね。
結局どっちにするんだよって」
カマをかけた…?
ますます意味がわからない。
眩暈に加えて更に頭痛がして来た。
- 889 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:33
- 「でもま、これではっきりした」
「あの、何がですか?
彩さんの言ってる事がさっぱり分からないんですけど」
「だからあ!本当は圭ちゃんがあんたと紗耶香どっちに傾いてるのか確かめたの!
あんたも見たでしょ?私に殴りかかって来た時の圭ちゃん、般若みたいな顔してたじゃん。
私が名前を出したのが紗耶香だったら、圭ちゃんもあそこまでムキにならなかったんじゃないの。
私の勝手な憶測だけど」
やっと話が繋がった。
もしかして…それを確かめる為に?
- 890 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:34
- 圭さんが、紗耶ちゃんと私を両天秤にかけている事は薄々気づいてはいた。
そんな圭さんの煮え切らない態度に、彩さんがイラついていたというのも分かる。
だけど、腑に落ちないところがある。
「どうして彩さんがそこまで…」
その問い掛けには答えず、彩さんはドアに向かって顎をしゃくった。
「それより、圭ちゃん追いかけた方がいいんじゃない?」
「あ!」
私は弾かれたようにこの場を後にした。
彩さんの本心を確かめる事も忘れて。
- 891 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:35
- ...
長い廊下を一気に駆け抜けると、小さな後ろ姿が視界に入った。
圭さん…見つけた!
彼女は今まさに自分の部屋に入り込もうとしているところだった。
「圭さん!待って下さい、誤解です」
「いやっ嫌あ!」
圭さんの手首を掴むと、予想以上に激しく拒まれた。
まだ気が昂ぶっているのか必死で私の手から逃れようとする。
その時、圭さんの手がざっと皮膚の上を掠った。
「っ!」
抜糸もして傷も塞がっている状態とは言え、
一瞬にして背中から嫌な感覚が駆け上がった。
爪先が古傷を抉った痛み。
それでも、この痛みに構っている暇はない。
- 892 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:36
- 「圭さん、私は彩さんとは…」
「聞きたくないのよ!!」
慟哭。
彼女の悲痛な叫びに、私は二の句が継げなかった。
一瞬押し黙ってしまった私の隙をつき、
圭さんは手をすり抜けて部屋の中へと消えていく。
「待ってっ待って下さい!」
ドアノブを掴んではみるものの、ドアにはしっかりと施錠が
施されてしまったのか、びくともしない。
「圭さん!開けて下さい!」
みっともない声を上げて、私は何度もドアを叩く。
「せめて、返事をして下さい…っ」
それでも、圭さんは声すら発さない。
まるでこの世に私一人きりとなってしまったかのような静けさ。
だけどそんなわけはなく、両隣の部屋を
割り当てられたメンバーは出払っているようだ。
きっと圭さんと同室の飯田さんもどこかへ行ってしまっているんだろう。
- 893 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:37
- 「お願いですから…開けて…下さい」
どれだけ懇願しても、目の前の扉が開かれる事はない。
それは無言の拒絶。
「圭さん…」
圭さんは、彩さんの言葉を真に受けてしまっている。
私と彩さんが一線を越えていると信じて疑ってない。
現に私はさっき彩さんの部屋に忍び込んでいたのだ。
それを圭さんもしっかりと目にしている。
どう考えても誤解される状況だった。
そんな私の言う事を信じろという方が無理な話かもしれない。
足にうまく力が入らず、私は額を扉に預けた。
- 894 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:38
- 扉一枚隔てたすぐ側に、圭さんがいる。
確かに彼女の気配がする。
だけど、誰より遠い。
「彩さんとは何もやましい事なんてないんです。
信じてもらえないでしょうけど…いえ、信じてもらえなくてもいいんです。
誤解されるような事をしていたのは事実ですから」
薄い扉の向こうからやはり返事は返って来ない。
姿も見えない。
声も聞けない。
だけど、彼女の微かな息づかいは確かに聞こえて来たような気がした。
- 895 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:40
- 「せめて、これだけは…言わせて下さい。
私が好きなのは圭さん、あなた一人です」
本当は、全て打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。
私はあなたの側にいたくて時を越えたんだって。
でも、ここまで非現実的な事を言ったって信じてはもらえない。
この世界に来て1年という時が経っても…
私自身何が起こっているのか、どうしてこの世界に辿り着いたのか、
それすら理解できていない。
仮にあの不可思議な体験を信じてくれたとしても、
余計に彼女を混乱させてしまうだけだ。
だけど、せめてこの想いだけは…
どうしてもこれだけは言葉にしたかった。
誤解されたままで終わらせたくなかった。
こんな拙い言葉なんかじゃ、とてもじゃないけど自分の想い全てを伝え切れないけれど。
今の想いの丈をぶつけたかった。
- 896 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:42
- もう、限界だった。
私は既に泣いていた。
まさしく自分を抑えられない子供のように、
私は涙を流しながら感情を露わにしていた。
「好きなんです。本当に好きでたまらなくて。
どうしていいのか分からなかったんです。
この気持ちは、自分を見失ってしまいそうになるくらい強くて。
同期の仲間だからとか、それだけの意味じゃなくて…。
知ってましたか?一緒にホテル暮らししてた頃…私は圭さんの寝顔を見て、
いつも汚い事考えてたんですよ。
キスだけじゃ足りないって。全部私だけのものにしたいって。
私の好きはそういう好きでもあるんです」
扉の向こうで、圭さんが息をのんだのが分かった。
でも、もう止められない。
- 897 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:45
- 「私、仲間の紗耶ちゃんに嫉妬してたんです。
ううん、紗耶ちゃんだけじゃない。
私は、ファンの人やあらゆる人間に嫉妬してた。
…うたばんの収録の時に気付いたんです。
あの時石橋さんの邪魔をしたのは…圭さんが酷い扱いを受けているのを
見ているのが耐えられなかったって理由もあるけど…それだけじゃなくて。
不特定多数の人に圭さんの魅力を知られるのが怖かったんです。
あの頃は、圭さんの魅力を誰よりも知っているのは私なんだって
優越感に浸っていたから…。
圭さんを鳥篭に入った小鳥のように思ってたんです。
私だけが見られる綺麗な小鳥でいてくれたらいいって。
…重症ですよね。自分でも気持ち悪いって分かってます。
だから、圭さんを避けていたんです」
- 898 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:45
- 一気に口にした途端、急速に体の力が抜けていく気がした。
遂に…遂に言ってしまった。
まるで、黒いマグマのような濁った想いを明かしてしまった。
誰にも言わず、全て抱えて生きていくつもりだったのに。
...
「…ごめんなさい圭さん。
こんなの、圭さんを困らせるだけなのに。
もう二度とこんな事言いませんから…忘れて下さい」
その言葉を最後に、踵を返そうとした時だった。
- 899 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:48
- 「待って!!」
空気を切り裂くような叫びが聞こえたと同時に、勢い良くドアが開いた。
「いっ!?」
ガツッと鈍い音が響いた。
それが自分の顔にドアがめり込んだ音であると理解するのに、
随分と時間が掛かった気がする。
うわ…これは効いた…。
くぐもった呻き声を出す私を見て、圭さんは一気に蒼くなった。
「あ、ああああ…!ごめんっごめん絵梨香!今すぐ冷やそう!」
圭さんは私の腕を掴み、部屋の中へと招き入れた。
そして、強引に私をベッドに座らせる。
未だに顔面に広がる痛みに耐えるのに必死で、私はされるがままだった。
- 900 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:49
- 「ちょっと待ってて!帰らないでね!」
そう言って圭さんは大慌てでフロントから氷をもらって来てくれた。
確かに涙が出そうになるくらい痛かったけど、
こんなの、彩さんに比べたらどうって事ないよね…。
それでも私は素直に圭さんの厚意に甘える事にした。
私はそのまま氷を患部に当てる。
そうして、私達はしばらく無言のまま時を過ごした。
- 901 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:50
- ...
氷が溶け始める頃、圭さんの方からそっと口を開いた。
「…全部、話してくれてありがとう」
いつしか彼女はぴんと背筋を伸ばし、真っ直ぐに私を見てくれていた。
その目は随分泣き腫らして赤かったけれど。
「ずっと、絵梨香の気持ちが分からなくて不安だったんだ。
いつになったら本当の顔を見せてくれるんだろうって」
「ごめんなさい…」
俯いてしまう私の手に、圭さんの手がそっと重ねられる。
- 902 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:52
- 「…だから、嬉しかったよ。
私、今まで好きとか言われた事なかったからびっくりもしたけど」
……。
「え…ええ!?本当ですか?」
「ウソついて何になるの。告白された事ないもん」
少しだけ拗ねたように秘密を暴露する圭さん。
周りの男達はどれだけ見る目ないんだろう。
いや、それより他に確認すべき事がある。
「嬉しかったって…本当に?気持ち悪くないんですか?」
「気持ち悪いわけないよ。
これほど強い感情を私に向けてくれる子がいるなんて、考えもしてなかったから。
初めて告白してくれたのが、絵梨香で良かった」
- 903 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:53
- 「…だったら、これからは、何度だって私が言いますよ。世界中の人間分」
私は圭さんの髪を撫でながら、唇を耳元に近づける。
そして内緒話をするように、そっと囁いた。
「好きです。圭さんが誰を好きでも、この気持ちは消えたりしません」
たとえいくつもの世界を超えたって。
この世の誰よりも、私にとってはあなたが大切だから。
「きっともう私は、圭さん以外の人を求められないと思います。
それくらいあなたが好きです」
「絵梨香…」
圭さんの潤んだ瞳がすっと閉じる。
そして何かを期待するかのように、微かに顎を持ち上げる。
躊躇はしなかった。
私は圭さんの頬を両手で包み込み、唇を触れ合わせた。
やっと…本当のキスができた。
駆け引きや偽りじゃないキス。
- 904 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:54
- 唇を離すと、圭さんの頬を新たな涙が伝った。
涙の跡を残しながら落ちる雫。
まるで流れ星のようだと思った。
「圭さん…やっぱり、嫌でしたか?」
「違う、嬉しいの。
私を好きだって言ってくれて、こんなにあったかいキスをくれる子がいて。
それが、私の好きになった子なんだもん。
これほど幸せな事ってある?」
圭さんは心底愛おしそうに自分の唇を指でなぞる。
- 905 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:55
- 「…紗耶香、嫌がらずに私のキスを何度も受け入れてくれてたの。
紗耶香は本当に可愛いし、今でも魅力的な女の子だと思ってる。
一緒にいるのは楽しくて、嬉しかった。ちゃんとドキドキしたの。
でも、どうしてなんだろうね。
絵梨香とするキスと何かが違うって思った。
絵梨香と紗耶香が似ていても、やっぱり中身は別なんだって…
やっと分かった。絵梨香は絵梨香、紗耶香は紗耶香…
どっちもお互いの代わりにはならないのに。
辛い時一緒にいてくれる紗耶香を、寂しさを埋める道具にしようとしてた」
一瞬だけ、ふっと寂しそうな表情が垣間見えた気がしたけれど、
それはすぐに影を潜めた。
圭さんは私に向き直り、胸が締め付けられるような笑顔を見せてくれた。
「私が好きなのは、絵梨香だよ。
だから、もう紗耶香に縋ったりしない」
- 906 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:57
- 「そんな、いいんですよ…私はこの言葉を貰えただけで、
充分過ぎるほどなんです」
「ふふ、ダメだよ…独占欲が強いのって私も同じだから。
他の子が私の知らない絵梨香を知っているのが悔しかったもん。
彩っぺが絵梨香に触れる事さえ許せなかったの。
辛くて、耐えられなかった。
絵梨香に気持ち悪いって思われたくなくて、ずっと隠してたけど」
「気持ち悪いわけないじゃないですか。
たとえ圭さんに嫌なところがあっても、私はそんなところも好きになれます。
でも、それは全部杞憂に終わると思いますよ。
私は最初から圭さんが大好きなんですから」
圭さんの涙を唇で拭うと、彼女は幸せそうに目を細めた。
「…私達、両想いだったんだね」
そっと私の胸に頬を預けて来る圭さん。
そんな圭さんの髪を、私はゆっくりと指で撫でる。
圭さんは、籠の中の鳥じゃない。
その事に気付けた今の私なら、きっと間違えたりしないはずだ。
彼女の温もりを感じながら、私はそっと目を閉じた。
- 907 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 02:58
- ...
「本当に…本当にすみませんでした!」
「け、圭さん」
しばらくお互いを抱きしめ合った後、私は圭さんに真実を話した。
私達の関係にやきもきしていた彩さんが、
圭さんの本心を確かめる為にカマをかけたのだという事を。
それを聞いた圭さんは、ドアを私の顔にぶつけた時以上に顔面蒼白になった。
予想通りの反応で心苦しかったけれど、それでも黙っているわけにもいかなかった。
そして今、圭さんは彩さんの部屋で、こうしてカーペットに手をついて、額がそこに接触しそうなほどに深く頭を下げている。
私はそれを何度も止めさせようともしたけれど、圭さんは聞かなかった。
- 908 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 03:00
- 「ちょっともー、やめてよ」
ため息を吐きながら、彩さんも圭さんの顔を上げさせた。
「別に気にしてないし顔上げなって。煽ったのは私だし」
彩さんの頬は未だに赤い手形が残っていたけれど、本当に
気にしているそぶりは見られなかった。
「でも圭ちゃんって単純だよね。
私と絵梨香がそういう関係だなんてちょっと無理がない?」
自分が仕組んだ事なのに、彩さんはいけしゃあしゃあとそんな事を言ってのける。
でもこの華やかな笑顔を見ると、責める気なんて起こらなかった。
- 909 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 03:00
- 「心配しなくてもメンバーに手なんて出さないって。
私はグループ内恋愛はするつもりないし。
そういうのはコピバンやってた頃に懲りた」
彩さんの過去か…
まだまだ引き出しがいっぱいありそうだな。
少し気になったけれど、今はそんな場合じゃないか。
夜も更けて来た。
「もう遅いからいい加減寝ようよ。
18日までうちらは全力疾走しなきゃいけないんだから」
そう言って彩さんはそっと圭さんと私の肩に手を添え、
部屋の外へと押し出そうとする。
「うん…ごめんなさい。それと、ありがとう、彩っぺ」
「何が?」
謝罪と感謝の言葉を述べる圭さんを、彩さんは軽いノリであしらう。
だけど私は彼女の本心に気付いていた。
きっと圭さんの負担にならないようにという心遣いなんだろう。
- 910 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 03:01
- 去り際に、彩さんがそっと私に耳打ちした。
「私は一人の女の子を傷付けちゃったけど…圭ちゃんなら、大丈夫だよ。
多分、あんたを不幸にする事はないと思う」
彩さんの言う“女の子”が誰の事を指しているのか分かる気がした。
別れから1年近く経っても、完全に未練が断ち切れるものではないんだろう。
「大切なもの、もう置いて行かないようにね」
彩さんだからこそ、その言葉が胸の奥深くを突いた。
私は目から熱いものが込み上げそうになるのを堪えながら、静かに頷いて見せた。
- 911 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 03:02
- ...
茜色のスポットライトがステージ全体を煌びやかに照らしている。
波のような歓声が静まり返った頃、心地良い歌声が響き渡った。
一度耳にすれば、きっとずっと忘れられない歌声。
私はこの歌声を知っている。
元の世界にいた頃から、ずっと聴き惚れていた声。
スポットライトの下で、ひと際輝く彼女の姿がそこにあった。
- 912 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 03:02
- 明日香…。
思わず恍惚の吐息が漏れる。
表現者として、明日香あまりにも完璧な逸材だったから。
多くの観客を魅了するその姿に、私自身も心を奪われていた。
汚れのない純真な心をそのまま表したかのような、深みのある声。
内から滲み出るオーラ。
私がどれほど望んでも手に入れられないもの。
- 913 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 03:04
- 明日香と、私達の歌声がひとつになる。
9人分の歌声が、溶け合うように交差していく。
やっぱり、私は歌が好きだ。
圭さんがいなければ、私は歌えないのだと信じ込んでいた。
だけど私は今、淀みない想いを歌に乗せる事ができている。
いつかは夢が醒めて、私はまた一人では何もできない女に戻るのかもしれない。
それでも…今はこうして皆と歌っていたい。
許される限り、ずっと。
私達を包む声援は、永い間途切れる事はなかった。
- 914 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 03:04
- ...
「私がいなくなっても、ちゃんとカオリンと仲良くするんだよ。
なっちだったらできるよね?」
「うん…うん福ちゃん」
安倍さんの目からはとめどなく涙がこぼれ落ちる。
それを明日香の指が優しく拭い去ろうとする。
「もう私はなっちの涙を拭ってあげられないけど…それでも」
「うん、なっち、もっと強くなるよ。
そんで福ちゃんみたいに歌を愛し続けるさ」
声を上げて泣きじゃくる私達とは対照的に、
最後まで明日香は涙を見せる事はなかった。
全てが終わった後も、海の底のような静かな瞳で私達を見つめ、
優しくなだめている。
- 915 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 03:05
- 繊細で、偽りや曲がった事が嫌いな明日香。
そんな明日香だから、このショウビズ界に見切りをつけた。
明日香は弱さを他人に晒け出す事はしなかった。
最初は明日香の事を、鋼のようだと思っていた。
何事にも屈しない強靭な精神を持っているんだと。
聡明な明日香。
気高くて皆が羨む才能に恵まれて、向上心があって。
だけど…その裏側で、明日香は苦しんでいたんだよね。
明日香の心は鋼ではなく、ガラス細工そのものだったのかもしれない。
澄んだガラスはとても脆い。
触れたら壊れてしまうから。
だからこそ、一定のラインを引き、誰も立ち入らせようとしなかった。
私は…少しでもそんな明日香の力になれたんだろうか。
- 916 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 03:08
- 「絵梨香」
穏やかな声が私の名前を呼んだ。
顔を上げると、年相応の愛らしい笑顔がそこにある。
「最後にいい夢見せてくれてありがとう」
「…お礼を言うのはこっちだよ。
私は明日香と過ごした日々の事、おばあちゃんになっても忘れない」
明日香は照れる事もせず、真っ直ぐに私の目を見つめ返してくれた。
「約束…してくれる?せっかくあそこまで弾けるんだから、ちゃんとギター続けてね。
私ももっともっと上達してみせるから」
私は何度も何度も首を縦に振った。
明日香に出会えなければ、きっと私は
音を楽しむという事すら、知る事ができなかった。
「私の夢と皆の夢はちょっと違うけど…でも、心は一つだったと思う。
モーニング娘。ってすごいグループだよ。
私は娘。の一員になれて良かった。今、本当にそう思ってる。
いつか、またさ…同じ音楽を楽しもうよ」
「うん…約束だよ、明日香」
その時には、明日香に負けないくらいの歌手になっているから。
- 917 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 03:10
-
明日香は普通の女の子と同じ制服に身を包み、
集団に溶け込み、自分の望んだ世界へと戻って行く。
打算や偽りのない、穏やかな日常の世界へと。
だから、悲しんだりはしない。
もう別れを惜しんだりはしない。
明日香は、籠の外へと自ら羽ばたいたのだ。
真っ白い翼で。
自由を求めて。
耳をすませば、彼女の翼のはためきが聞こえて来るような気がした。
- 918 名前:第27話 翼のはためき 投稿日:2012/05/08(火) 03:10
- 第27話 翼のはためき
了
- 919 名前:あおてん 投稿日:2012/05/08(火) 03:12
- 前話でなちかおの二人が同じマンションの別々の階に住んでいるという
描写を入れ忘れました…
>>861
ありがとうございます。
みーよは色々と苦労してる人なんで幸せになって欲しいですよね。
- 920 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/05/08(火) 17:39
- ついに!
そして物語も新たな局面を迎えますね
- 921 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:34
- あれから、1ヶ月近く経った。
その間に、太陽とシスコムーンがメジャーデビューしたり、
『真夏の光線』が発売されたりと、私達の時は平等に進んでいた。
楽屋の隅でロキノンを読んでいた明日香の姿が、昨日の事のように思い起こせる。
いつもの場所に、本来あるべき姿が見つけられないのは寂しい。
まるで、胸にぽっかりと穴があいたような…
でも、私達と明日香は、それぞれの道を歩いている。
それに、何も永遠の別れじゃないんだ。
いつかまた会う約束もした。
だから、思い煩う事なんてない。
明日香が抜けて生じた穴は大きい事は確かだけれど、娘。8人の関係は良好だ。
圭さんや紗耶ちゃんとのぎこちない関係も解消された。
一番大切な人と、ありのままの想いをぶつけ合えて、お互いを信じられるようになった。
それだけでも、確実に前に進んで行っている。
- 922 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:35
- だけど、楽観視してもいられない。
「真夏の光線」はオリコン3位。
徐々に順位が下がって来ている。
次々と才能のある新星が現れ、世間の注目は、既に他へと移ろいでいる。
それを皆が自覚しているという事は嫌でも伝わる。
- 923 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:36
- 9人から8人になったからと言って、私達の娘。への思い入れは変わらない。
だけど、明日香が去り、娘。はパワーダウンしているという
世間の認識は簡単に拭い去る事はできないだろう。
明日香という核が失われても、私達は前に進まなくちゃいけない。
分かってはいるんだ。
でも…
これからの娘。には、いくつもの試練が降りかかる。
そして、皆はたくさんの傷を負ってしまう。
このまま、時代の流れに身を委ねていていいんだろうか。
今以上に大きな壁に突き当たる事は目に見えているのに。
私は知らないフリをしていてもいいんだろうか。
娘。という集団の中で、私は一人モヤモヤとした思いを抱えていた。
- 924 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:38
- ...
「うわっ絵梨香、何小難しそうなの読んでんの」
「すみません、今勉強中なんで」
大げさに驚いてみせる真里さんに、リアクションを取る余裕はなかった。
私が熱心に読んでいるのは主に音楽批評誌。
インターネットはまだ普及していないせいか、満足に情報を得られない。
よって、世間が娘。に対してどういうイメージを抱いているのか、
手っ取り早く知るにはこれが一番いいと思った。
ただ、書店でまとめて買って来たのはいいものの、
娘。を好意的な視点で評価してくれている記事は少なかった。
むしろ、酷評が圧倒的多数だ。
それは、明日香が脱退してから尚の事顕著になったように思える。
どれもが、明日香のいた頃の娘。を懐古し、今の娘。を貶す内容。
- 925 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:38
- 誌面に踊る文字を次々と目で追っていく。
“三好は福田の劣悪なコピー”
“保田の歌唱力は高いが声質にこれといった特徴がない”
“来年の今頃には確実に消えているだろうグループ”
「…」
これは、他のメンバーに見せられないな。
私は一応全てに目を通してから本を閉じ、バッグの中にしまい込んだ。
圭さんと私が明日香のパートを引き継いだ事により、
批評の矛先は私達二人にも向けられるようになっていた。
明日香がいなくなったから、娘。はダメになった…
それは、今一番言われたくない言葉だ。
- 926 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:40
- でも、明日香の脱退が決まった頃から、順位が下がり始めたのは事実だ。
史実通りならば、次曲の『ふるさと』はオリコン5位。
『LOVEマシーン』が生まれるまで、娘。は暗黒時代に突入する。
その未来を知っているからこそ、余計に気が重くなる。
「なんかそうしてると、絵梨香って福ちゃんみたいだね」
安倍さんの何気ない言葉。
でも、その言葉は、私の心の奥を引っかいた。
「…そうですか?」
平然を装い笑ってみせる。
私はどうしたって明日香にはなれない。
明日香の才能を超える事なんてできない。
でも、私達は、せめてこれだけは超えなければならないんだ。
明日香がいた頃の娘。を…
- 927 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:40
- ...
6月某日。
この日、鈴木あみとの売上対決、そして、メンバーの増員が発表された。
「売上対決ってなんだよ対決って!ウリナリじゃないんだからさぁ」
「それよりまた増やすって…勘弁してよホント」
予想通り、私を除いた娘。のメンバーは皆混乱状態に陥っていた。
- 928 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:41
- 増員するメンバーは1名。
99年9月9日に9人として新生モーニング娘。が誕生するのだと言う。
間違いなく、加入するのは後藤さんだ。
私は後藤さんの人となりは知っているから、一切の抵抗なくそれを受け入れられる。
でも、他のメンバーにとって、新たに見ず知らずの人間を
迎え入れるには相当の勇気と覚悟が必要だろう。
そしてASAYANによる、他の歌手との対立を煽る演出にも強い反発を覚えている。
無理もない。
明日香の脱退を悲しむ暇すら与えてもらえず、
大人の都合に振り回されているのだから。
- 929 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:41
- 『ふるさと』は鈴木さんの『Be together』に惨敗。
あれは、『LOVEマシーン』大ヒットの布石だったんだろうか。
でも、このままあの歴史をトレースする事だけは避けて欲しいと思っていた。
必ずいつかは道が開けると分かっていても。
- 930 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:42
- ...
「どうしたんや、三好。
大事な話がある言うても、今『ふるさと』の肉付けしとる真っ最中やから、
それほど時間割けへんで」
つんくさんは私に目もくれず作業に没頭していた。
言うんだ。
言うなら今しかない。
汗ばむ手の平をぎゅっと握りしめ、唾を飲み込む。
もしもこのタイミングを逃したら、二度目はない。
私は息を吸い、はっきりとした口調で一気に告げた。
「その曲では鈴木さんに勝てません」
- 931 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:43
- 「は?」
つんくさんはようやく私の方へと振り返った。
ただ、その目は点になっている。
「もう一度言います。その曲じゃ勝負になりません」
周りがざわめいた。
つんくさんを取り巻くスタッフの顔が皆引きつっている。
当然だろう。
私自身、どれほど恐ろしい事を言っているのか理解していた。
それでも、もう後には引けなかった。
ただ、和田さんだけは黙って私を見ていた。
まるで、次の言葉を待っているかのように。
そんな和田さんを一瞥してから、私は話を続けた。
- 932 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:44
- 「誤解しないで下さい。ふるさとは私にとって大切な曲です。
大好きな故郷を思い出す曲だから」
その言葉通り、『ふるさと』は思い入れのある曲だった。
元の世界で、ハロプロで一番好きな曲だと挙げたほどに。
でも…どれほど人の心を惹き付ける曲を生み出せても、今回ばかりは譲れない。
結果を出さなければ意味がない。
ここはそういう世界だ。
結果が全てなんだ。
プロセスや個人の感情なんて、勝負を前にすれば、何の意味もない。
- 933 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:45
- 『真夏の光線』のオリコンランキングが発表された時、言われた言葉がある。
これ以上順位が下がっていくようなら、近いうちに解散も考えていると。
その言葉は、ずっと娘。達に重くのしかかっていた。
私は『LOVEマシーン』で挽回できる未来を知っている。
だけど他のメンバーはそうじゃない。
彼女達にとってはまさしく、一寸先は闇状態なんだ。
『ふるさと』で大きな挫折を経験し、『LOVEマシーン』発売まで
明日に怯えながら生きていかなくてはいけない。
そんな事はさせない。
- 934 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:45
- 今更、なりふり構ってはいられなかった。
不安要素はできる限り減らしておきたかった。
音楽のおの字も知らない私が、一丁前に
その道に長けた人に意見するなんて、本来なら許されない事だ。
そんな事分かってる。
でも、このまま大人しく惨敗して、打ちひしがれたメンバー達の姿を
見ているだけしかできないだなんて、我慢ならない。
- 935 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:46
- 「そんなら、なんでやねん」
つんくさんは、わなわなと震えているように見える。
決して曲を貶しているわけじゃない。
だけど、つんくさんにとっては、自分を
全否定されたように感じているんだろう。
「娘。の為です。少しでも娘。にとってマイナスとなる要素があれば、
たとえつんくさんに恨まれても、意見させていただきます」
「三好お前、よくそんな口が…」
憤るスタッフの一人を和田さんがすっと遮る。
「綺麗事だけじゃやっていけない、世間に認められなければガラクタと同じ…
そう言ったのは和田さんですよね」
「…言ったな、確かに」
和田さんはどこまでも冷静に、しっかりと頷いてくれる。
- 936 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:48
- 夢見るだけじゃ、この世界にいられないと言って
明日香は去って行った。
1位が全てじゃないという言葉を残した明日香。
確かに、その通りだ。
音楽の良し悪しと順位は比例しない。
でも。
私は明日香のように純粋な心は持てない。
この場所で生きていくという事は、“そういう事”だ。
今更別の生き方なんてできない。
圭さん達のそばから離れたくない。
だったら、何としてもこの世界の方針に馴染まなければいけない。
誰かが、なんとかしなきゃダメなんだ。
薄汚れた大人になるのは、私一人だけでいい。
- 937 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:48
- 「…私が言いたい事は以上です」
私は一礼し、素早くこの場から立ち去った。
いや、半分逃げるような形に近かったと思う。
今にも爆発しそうな心臓を押さえ、震える足を引きずるようにして。
- 938 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:49
- ...
後日、鈴木あみとの対決曲は『忘れらんない』に決まった。
そう、娘。の6枚目のシングルは『忘れらんない』となったのだ。
『ふるさと』は『忘れらんない』のカップリング曲に
差し替えられる事となった。
私のあの言葉が影響したのだろうか。
それとも、つんくさん達の気が変わっただけなのだろうか
。
スローテンポの『ふるさと』とはまた違い、
『忘れらんない』はR&B調の曲。
R&Bブームが起こった99年の邦楽界では、充分に通用するはずだ。
単に、『忘れらんない』の方が、いい勝負ができると気付いたのかもしれない。
真偽は分からないけれど。
ただ、またひとつ歴史が変わったのは事実だ。
元の世界とズレが生じていく事に恐ろしさを感じないと言えばウソになる。
だけど、これこそが娘。にとって最善の道なんだと、私は信じる事にした。
- 939 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:51
- ...
「あっちぃよー。こんなに暑かったら干からびるよ」
「アホ、京都の夏なんてプラス湿気でこんなもんやないで」
「へー、どんくらいヤバいの」
「汗だくの圭坊が背後からべったり張り付いてくるくらいやな」
「うげえ」
「ちょっと、勝手に私を喩えに使わないでよ」
じゃれ合いながら自分をネタにする真里さんと裕ちゃんに、
圭さんは抗議の声を上げている。
- 940 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:51
- 私達娘。はバリ島に来ていた。
二冊目の写真集の撮影の為に。
娘。の増員、売上対決…度重なる試練に、皆の精神は疲弊していた。
きっとこの仕事は、そのフォローも兼ねているんだろう。
皆日本から離れた事で、どこか険が取れたような気がした。
この数日間だけは、それぞれが穏やかな休息を満喫できるようにと願った。
- 941 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:52
- ...
今日の撮影が終わり、私達は宿で自由気ままに過ごしていた。
ここでは、一人一部屋ずつ割り当てられていたのだけど、
圭さんは私と二人で過ごす事を選んでくれた。
広いベッドに一緒に腰掛けながら、今日の事を語り合う。
なんだか、東京でホテル暮らししていた頃を思い出すな。
「すっかりいじられ役になってきたよね私」
「やっぱり、うたばんの影響ですかね…」
『忘れらんない』のうたばん収録は、
主に飯田さんと圭さんがイジリのターゲットにされていた。
それに感化されたのか、真里さんや裕ちゃんは率先して
圭さんイジリをするようになっていた。
圭さんは最初の収録の時こそ立腹していたものの、
今は既に免疫がついてしまったのか、苦笑いしつつ受け入れている。
- 942 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:53
- 「圭さん、本当にいいんですか?」
「ふふっ…絵梨香は私をそういう風には見てないんでしょ?」
「もちろんですよ」
私の即答に、圭さんは満足そうに笑ってくれる。
「絵梨香がそういったイメージを取り払って、
私を一人の女として見てくれるなら、充分に幸せだもん。
絵梨香は本当の私を受け入れてくれる。
だから、他の人にどんなイメージ持たれようと平気」
「あ…」
圭さんが私の首に両腕を絡ませて来る。
シャンプーの匂いが漂って、くらりとした。
- 943 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:54
- 「絵梨香の前でだけは、私は女でいたい」
圭さんは私の頬に触れ、そっと唇をふさぐ。
味はないはずなのに、淡い花の香りに混じって、
それが甘く感じるから不思議だ。
私は誘われるように圭さんの左胸に手を添えた。
圭さんの心臓も、私と同じように動いている。
確かな鼓動を感じる度、この世界は夢じゃないんだと安心する。
「絵梨香…さわり…たいの?」
圭さんの問いに、顔がかあっと熱くなる。
ほとんど無意識にやってしまっていた事。
でも、それはきっとまぎれもない私の願望だから。
- 944 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:54
- 「いいよ…」
圭さんは私に微笑んで、小さく頷いてくれた。
息が止まりそうになった。
圭さんが、私を受け入れてくれている…
こんな奇跡のような事が、現実に起こり得るなんて。
圭さんの髪にキスをしながら、おそるおそる問う。
「圭さんの肌…見せてもらってもいいですか?」
圭さんは顔を赤くしながらも、再び頷いてくれた。
前髪をかき上げて、圭さんの額に唇で触れる。
そして今度は唇を頬へと移動しながら、圭さんの服を優しく脱がせる。
- 945 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:55
-
今まで、ずっとこうしたいって思ってたのに…なんでだろう。
彼女を直視できない。
だって…圭さんが…まるで、生まれたての赤ちゃんのように綺麗な存在だったから。
「絵梨香…震えてる。怖い?」
頷く事も、否定する事もできなかった。
私は今まで、元の世界で…
欲望のままに何人もの人と関係を持った。
決して誰でも良かったわけじゃない。
でも、“この人だ”と思った事はなかった。
圭さんに出会うまでは。
これほどまで誰かを大切だと思った事なんてなかった。
だからこそ、どうやって触れていいのか分からなくなってしまうんだ。
- 946 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:56
- 「私を見て」
圭さんは私の頬を両手で挟み込み、真っ直ぐな視線を向けて来る。
私なんかが、この人を一人占めしてしまっていいんだろうか。
そんな想いが、口をついて出る。
「私は、本当にあなたの側にいてもいいんですか?」
「何を今更…
私は絵梨香がいなくなったら、どうやって生きていったらいいか分かんないよ」
「…私もですよ」
私も、あなたがいなかったら、ここまで来られなかった。
圭さんじゃなければ、こんな自分に出会う事もなかった。
- 947 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:58
- 「愛してるよ」
優しい声が降りて来る。
私も身に着けているものを脱ぎ捨て、
圭さんの肌にぴったりと素肌を合わせていく。
その体が小さく身じろぐ。
「逃げないで。痕はつけたりしませんから…」
さすがに、水着の撮影を控えているのに、そんな無神経な事はできない。
私は、できる限り優しく唇を圭さんの胸元に押し当てた。
「ん」
鼻から抜けるような甘い声。
きっと圭さんは無意識のうちに出しているんだろう。
それがたまらなく色っぽくて、私は嬉しくなる。
正確に言えば、目の前にいる圭さんは、私の実年齢よりも10歳ほど年下だ。
だけど、彼女の体は充分に女を感じさせた。
- 948 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 01:59
- 「今だけ…圭って呼んでくれないかな」
「…けい…」
「もう一回…」
「圭…綺麗」
私の言葉に、きゅっと圭さんの瞼が閉じる。
その体は微かに震えていた。
ああ、ガチガチに緊張しているのは、私だけじゃないんだ。
それだけで、幸せな気持ちになれる。
「…ふふ」
私は圭さんの手の甲にキスをして、髪を撫でてあげた。
- 949 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:00
- 「今日はこのまま寝ましょうか」
「…え?」
圭さんがうっすらと目を開ける。
その瞳は潤んでいた。
「そんなにがっつく必要もないかなって。
…こうしてるだけでも、すごく気持いいですから」
実を言うと、いっぱいいっぱいなのは私も同じだった。
圭さんが愛しくて。あまりに綺麗で。
他の人と同じ触れ方なんてできなかった。
“あなたを大切にしたい”
それを言葉にしなくても、圭さんは納得してくれたようだった。
- 950 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:00
- 「…手、つなごっか」
圭さんはふわりと笑って、私の手を優しく取った。
「この間、言い忘れてた事なんだけどね…
私は…オーディションの時、初めて絵梨香が声を掛けてくれた時から、
ずっと好きだったんだよ」
「私も…ずっとあなたの事想っていました」
圭さんに出会う、ずっとずっと前から。
“保田圭”というただ一人の人を求めて。
私は、もしかしたら、圭さんに出会う為に、生まれて来たのかもしれない。
その晩、圭さんの素肌の温もりを感じながらも、
“保田さん”の事を思い出す事はなかった。
- 951 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:03
- ...
「おはよう」
目覚めると、何故か水着姿の圭さんがいた。
「ほんとぐっすり眠ってたよね。絵梨香の寝顔見たの、久し振りかも」
何度も、下から上、上から下へと視線を移動させる。
やっぱりどこからどう見ても水着だ。
「あの、どうして水着なんですか」
「泳ぎに行こうと思って。絵梨香も一緒に行かない?」
そう言って、圭さんは水着の上に薄手のシャツを羽織る。
- 952 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:03
- 「ま、待って下さい」
片時も離れたくない。
その思いに突き動かされ、起き抜けにもかかわらず、私は勢いよく跳ね起きる。
そんな私を、圭さんは優しく受け止めてくれる。
「…急がなくても、置いて行ったりしないよ。ちゃんと待ってる」
昨夜と変わらない、甘い香り。
優しい温もり。
それは私をいくらか落ち着かせてくれた。
私はゆっくりと頷き、支度にとりかかった。
- 953 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:04
- ...
結局、私達は本格的に泳ぐ事はしなかった。
ただ、この身を海水に浸し、クラゲのように漂っているだけ。
異国情緒あふれる南の島。
透明度の高いマリンブルーの海。
ぷかぷかと浮いていると、精神までたゆたっているような錯覚に陥る。
夢か現実か区別もできなくなる。
でも、この世界はまぎれもない現実なんだ。
- 954 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:05
-
「気持ちいいね」
「そうですね…」
相槌を打ちながら、私は圭さんの手をたぐり寄せ、そっと指を絡める。
心音と波の音が重なり合い心地良い。
全ての生物は海から生まれたというけれど、
その記憶の片鱗が私にもどこかにあるんだろうか。
このまま、圭さんと一体化できれば、どれだけ幸せだろう。
そんな私の考えを読んだかのような圭さんの言葉が、すっと耳に入って来た。
「ずっと、一緒にいられたらいいのに」
- 955 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:07
- 圭さんの方を見ると、さっきまで閉じられていたはずの瞳は開いていた。
「今回の曲に負けて、次の曲もダメだったら…もう後はないんだよね。
デビューが決まった頃、せいぜいもって2、3年だって和田さんに言われて、
覚悟はしてたつもりなのに。やっぱり怖いや」
水面に浮きながら、果てしなく広がる空を見上げる圭さん。
その瞳は、本当は何を映しているんだろう。
「娘。って枠がなくなったら、芸能界で生きていくのは難しいと思う。
本当はずっと歌ってたいって思ってるけど、
熱意や努力だけでやっていけるほど、この業界って甘くないから」
確かに、今の中途半端な現状じゃ、元娘。という肩書きは何の価値も無いだろう。
むしろ、それが足枷となる時だってきっとある。
- 956 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:10
- 「最近、娘。が解散になった時の事ばっかり想像しちゃうんだよね。
娘。がなくなったら、きっと他に拾ってくれるところなんてない。
その時が来たら…あはは、どうしよう。
専門学校にでも行かせてもらおうかな。
マックのバイトじゃ限界があるし」
圭さんは笑っていたけれど、彼女がどれほど怯えているのかは
痛いほどに伝わって来た。
「きっと絵梨香とも…離ればなれになっちゃうよね。
こうして、誰も私達を知らない…時が止まったみたいな場所で、
二人で静かに生きていけたらいいのに」
繋がれた手の力がいっそう強くなる。
「ううん…いっそさ、本当にノストラダムスが予言した通りに、
世界ごと終わっちゃったら、こんな風に怯えなくて済むのにね」
- 957 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:11
- 「…」
言葉が、出なかった。
これほどまでに追い詰められていただなんて。
私は圭さんの何を見ていたんだろう。
「なんてね。ごめん…言ってみただけ。
タチの悪い現実逃避だって思われてもしょうがないね」
この人は、こんなにも儚い笑い方をする人だっただろうか。
いや、私が知らないだけで、元の世界の“保田さん”も
当時は未来に怯え、神経をすり減らしていたんだろう。
- 958 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:12
- 「本当にごめん、わざわざ絵梨香を気欝にさせる事ばかり言っちゃうなんて…
どうかしてるよね。反省してる」
でも、今この人には、私がいる。
抱えている闇全てを受け止める為に…
その為に、私がいるんだ。
「そろそろ戻ろっか。皆起きて来る頃だよ」
繋がれた手はそのままに、圭さんは流れるような動きで陸に向かって泳いでいく。
- 959 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:13
- 陸に上がると、私はその手をそっと解いた。
そして、彼女を背後からきつく抱きしめる。
「絵梨香…?」
「圭さんが恐れているような未来にはなりませんよ。
万が一、最悪の結果になったとしても…
後の事はその時になって考えましょう」
「ん…そう、だね。悪い事は考えないようにする」
私は救世主でもナイトでも王子様でも何でもない。
娘。を引っ張っていけるようなカリスマ性も、ずば抜けた才能もない。
でも、私はあなたを守りたい。
圭さんに闇が押し寄せた時は、それをかき消すだけの光を集めてみせる。
たとえ、歪んだ光だとしても。
- 960 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:13
- ...
「『Be together』が1位という事で、今回は鈴木の勝利だ」
負けた…か。
結局、娘。の『忘れらんない』は『Be together』に頻差で敗北した。
本当に接戦だった。
- 961 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:14
- 元の世界のASAYANで見た対決の場面が脳裏に浮かび上がる。
『ふるさと』は5位で惨敗。
あの時の、皆の絶望的な表情が忘れられなかった。
そしてセンターを任された安倍さんが、
結果的に責任を負わざるを得なくなったのだ。
“ごめんね”と泣いていた安倍さん。
この世の終わりのような表情をしていた皆…
だけど今、暗い表情をしているメンバーはいない。
皆小室プロデュースの鈴木さんに勝てるとは思っていなかったのか、
この結果に満足しているようだった。
明日香が抜けても、娘。は鈴木さんと充分に渡り合えた…
それが分かっただけでも収穫だったのだ。
- 962 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:15
-
負けという事実は変えられなかった。
でも、この敗北は、決して屈辱ではなかった…そう思いたい。
「これが私達の頑張った結果です。モーニング娘。は2位でした」
裕ちゃんの凛とした声がこの場に響き渡る。
敗北したのはこちら側なのに、まるでそれが
勝利者宣言のように聞こえたのは、気のせいだろうか。
だけど、最悪の事態だけは避けられた…それだけは分かった。
- 963 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:19
- ただ…気がかりな事はある。
“その曲では勝てない”とあれほど偉そうに意見して、
曲まで変えさせてしまったというのに、結局は負けてしまった。
勝負の結果に満足はしていても、
その点に関してはやはり申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
いや、勝とうが負けようが私は失礼な事を言ったのだ。
その事実は変わらない。
私は素直に彼の元へと謝りに行く事を決めた。
- 964 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:20
- ...
「生意気言ってすみませんでした!!」
私は彼の目の前で直角に腰を曲げ、何度も頭を下げた。
きっと今回の事は禍根を残してしまうだろう。
それは覚悟するしかない。
自分が蒔いた種なんだ。
「三好、顔上げや」
おそるおそる、言われた通りに顔を上げる。
そこには、笑顔のつんくさんがいた。
- 965 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:20
- 「あ、あの…?」
戸惑う私の頭に、ぽんとつんくさんの手が乗せられる。
「俺にストレートに物言うて来た娘。は、お前で二人目や」
二人目?
「お前が俺に盾突いた時、ちょっと嬉しかったで。
福田の姿とダブって懐かしい気持ちになったからな」
「明日香とですか…?」
「福田もあの時のお前みたいに、曲出す度けちょんけちょんに言うてくれたで。
“つんくさんはモーニング娘。を本当に愛してるんですか”とか“
話題になれば何やってもいいんですか”とか」
それは…勇ましいというか。
明日香もなかなか無鉄砲な発言をする子だな。
- 966 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:22
- 「俺もふるさとは売れる曲とは思うてなかったしな。
真面目な曲でおもっきしスベってもかっこ悪かったし、これでええんや。
あの曲に変えたから2位になれたんや。なかなかおもろい戦い見せてもろたで。
次で巻き返し図る為の参考になったのは確かや」
そう言うつんくさんは早くも次の目標に向けて張り切っているのか、
目を輝かせていた。
その事に心底ほっとする。
「あの…つんくさん」
「なんや?」
「信じてもらえないかもしれませんけど、私にとって
ふるさとは大事な曲ですよ。今でも」
「三好が俺の曲を愛してくれとるのはよう分かっとる」
つんくさんは2、3度私の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた後、
そっとその手を離した。
「お前は間違った事はしてへんのや。胸張って堂々としとき。
その方がロックやで」
「…はい!」
私は精一杯の笑顔を向け、この場を後にした。
先ほどとは打って変わって軽い足取りだった。
- 967 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:23
- たとえ幾つもの苦難が私達に降りかかっても…
変えてみせる。
運命を。
この身を投げ出してでも。
これからも、私は道を切り開いて行くんだ。
まだ終わらせない。
私達に立ち止まる時間はないのだから。
- 968 名前:第28話 世界の終わりには 投稿日:2012/05/14(月) 02:24
- 第28話 世界の終わりには
了
- 969 名前:あおてん 投稿日:2012/05/14(月) 02:25
- まだまだ続きます
>>920
ありがとうございます。4期登場までは続ける予定です。
- 970 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/05/17(木) 15:55
- 更新キター!
この話のやすみよ凄く好きです。
- 971 名前:あおてん 投稿日:2012/05/20(日) 23:54
- >>970
ありがとうございます!
重度のやすみよヲタの私にとっては最高の褒め言葉です。
- 972 名前:あおてん 投稿日:2012/05/21(月) 00:04
- Two DestiniesU
ttp://m-seek.net/test/read.cgi/dream/1337526168/
容量がいっぱいなので、次スレを立てました。
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