エターナルクス2
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/04/29(火) 19:47
- 水板のエターナルクスの続きです。
登場人物は久住、吉澤、高橋、石川、菅谷、夏焼他です。
前スレ
ttp://m-seek.net/test/read.cgi/water/1182000584/
- 2 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:48
- 「ふーっ、美味しかった。ありがとう、付き合ってくれて」
「ううん、あたしもお腹すいてたし」
「そっか」
「あ、送るよ」
「駅まででいいよ。わたしの家、駅から近いから」
「本当?気をつけてね」
「よっすぃこそ気をつけて?よっすぃの家って駅から少し歩くんでしょ?」
「あたしは、平気だよ。道わりと明るいから」
「本当…?」
「うん、心配しないで」
「…うん…でも、心配は、するよ…」
夜の道をぽつぽつと歩いていく。
歩きながら秋と冬の狭間に訪れる甘い匂いの空気に触れ、ふいに気がついた。
これは、デート。
- 3 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:49
- 美貴と何度歩いても見出せなかった気持ちがふわりとひとみを包む。
どこかくすぐったくて、やわらかな時間。
意識すると、急に恥ずかしくなった。
ただでさえ曖昧な境界線をさらにゆらゆら行ったり来たりしていて、はっきりしない自分に苛立つ。
「…わたしね」
ひとみの心を察してか、梨華は努めて静かに声を零した。
梨華の横顔に吸い込まれるようにひとみは梨華を見つめている。
「夢にまで見てた。よっすぃを、吉澤さんって呼んでた頃から…
いつか、二人っきりでご飯食べたり、街を歩いたりしたいって」
梨華の横顔は幸せそうで、そして切なそうで。
「毎日近づけるのが嬉しかった。はじめて梨華ちゃんって呼ばれた日のこと覚えてる。
はじめて肩に触れた日のことも、はじめて同じプレイヤーのヘッドホンを一つずつして聞いた曲も、
はじめてよっすぃて呼んだ時のよっすぃの顔だって…全部覚えてる。よっすぃは、忘れてると思うけど。ふふ」
見透かされて、どきんとする。
ひとみにとって何気ない日常が、どれだけ梨華の日々を彩ったのだろう。
ひとみにとって何気ない言葉が、どれだけ梨華を傷つけたのだろう。
わからなくて、戸惑う。
梨華をはじめて『梨華ちゃん』と呼んだ日など、もちろん覚えているはずがなかった。
- 4 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:49
- 「…ごめん」
うなだれるひとみに、梨華は慌てて付け足す。
「ううん、いいんだ。わたしが忘れなければ、一生思い出は忘れられないんだよ。
それってすごく素敵だと思わない?」
梨華はすぐに消える流れ星のように笑った。
「……うん。そうだね」
ひとみも微笑を返す。
ひとみにも、そんな記憶がある。
自分以外の誰もが忘れたとしても、自分は忘れないという素敵な思い出がある。
だから梨華の笑顔はけして空しいものではないとわかった。
「でしょ?だから…よっすぃと二人だけで、一生忘れない思い出を作っていけたら、
それはどんなに幸せだろうって思うんだ」
ひとみも想像する。
ひとみが好きで仕方のない人と同じ記憶を、同じ思い出を、素晴らしいものとして共有する。
一生忘れないと二人で誓い、二人の秘密であり続ける。
なんて幸せなことなんだろう。
- 5 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:50
- ああ。
それでも。
「…まだ、よっすぃにとってその相手は私じゃないってわかる。
でも諦めたくないんだ。お願い、嫌いにならないで」
梨華は涙を流すまいと笑っていた。
梨華は泣き虫なくせに泣くのを嫌がる。それでも堪えきれずに泣く自分にも情けなくて泣けるらしい。
そんな気高い姿が美しかった。
踏み出せないままでいる自分を感じる。
「嫌いになんか、ならないから…そんな不安に思わないで」
梨華に言えるのはこんな言葉だけ。
梨華の気持ちに応える未来が出来たとしても、歩き始めている気がしない。
嫌われたくないだけ。
- 6 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:50
-
「ありがとう」
全部わかっても、梨華はひとみの前では泣かなかった。
- 7 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:50
-
+++++
- 8 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:50
- 一人、歩く道。
暗くても静かでも、もう怖くはなかった。
闇が忍び寄るたびに怯えて逃げているだけだったひとみはもういない。
それでも、携帯電話を握り締める習慣だけは治らないままだった。
梨華には見栄を張ってしまったけれど。
「ふぅー」
随分冷えた夜。
冬はもうそこまで来ている。
夜はもう怖くない。
けれど今、無性に会いたい人がいる。
もう家にいるのかな。
誰かと遊んでる?
お風呂に入ってる?
早ければ、眠っている?
ああ。
考えただけで、涙が零れそう。
- 9 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:51
- 携帯のアドレス帳からその名前を出す。
機械で表示されたありふれた名前がどうしてこんなに苦しくさせるのかわからない。
わからない?
そんなはずない。
もうわかってるはずなのに。
何通か送ったメール。
返事は返ってこないから。
だから、答えを出すのが怖くて。
誰かが見てくれていれば、それに縋ってしまう。
ダメな自分。
抜け出そう。
ほんの些細なことでもいいから。
- 10 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:51
-
ピ。
ピ。
ピ。
プルルルル…プルルルル…
速い心臓の音が聞こえる。
何度呼吸を深くしても、苦しくて。
『…もしもし』
「もしもし、愛ちゃん?」
- 11 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:52
- 久々に聞いた愛のやさしい声。
我慢していないと涙が零れてしまいそうになるから、上を向いてみる。
漆黒の空に細い月が浮かんでいた。
あたしってこんなに泣き虫だったっけ。
小春に出会って、忘れてた感情が蘇った。
愛ちゃんに出会って、忘れてた感情が何故か止められない。
「ごめ…寝てた…?」
『…いえ、宿題やってました』
「そか。…おつかれ」
『…よしざー先輩…?』
「………っ」
声が詰まるひとみに気がついているのかいないのか、わからない。
愛はひとみの沈黙にも黙って待ち、同じ時間を共有してくれた。
- 12 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:52
- 「…っ、あぁ…ごめんね。…愛ちゃんは、元気?」
『はい…元気です』
「ならいいんだ。…ううん、よくなんかないんだけど…ごめん、何言ってるかわかんないよね」
『わからないです』
「はは」
『…けど』
「ん?」
『わけわからんでも、よしざー先輩と喋れば、楽しいです』
「……ありがとう」
『…!…あ、あーし、宿題全然終わってないんです。だから切ってもいいですか』
「うん。いいよ。邪魔してごめんね」
『いえ…』
「また電話してもいい?」
『…………』
愛の気持ちとか、迷いとか、わからないことだらけ。
ただこの沈黙がどうやって傷つけずに断ろうか、という種類のものではない気がした。
- 13 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:52
-
+++++
- 14 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:52
- 愛は戸惑っていた。
ひとみの質問にすぐに頷きたい気持ちが溢れそうで、抑えていた。
こんなことになりたくないから宿題を理由にして切ってしまおうと思っていたのに。
でも。
今黙ったままだったら、ノーという答えに取られてしまいそう。
なぜかそれは嫌だった。
結局は好きな人に嫌われていると思われるのが嫌なのだろう。
自分が嫌われてもいいから梨華とひとみが幸せになれば良いなんてきれいごとを口だけで言っていても、
実際に誤解されていると思うと耐えられないくらいに痛い。
こんな風に、電話されて嬉しい。
もっと話したい。
矛盾する心。
梨華は愛の矛盾すらも見抜いて、ああ言ったのだ。
後悔しても知らないと。自分に嘘なんてつけないと。
今ならわかる。
やはり自分は嘘は苦手。
上手くつき通せそうもない。
- 15 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:53
-
「………あーし、ずるいですね。ごめんなさい。言ってることとやってること、全然違う。
でも、やっぱり嘘はつけません。よしざー先輩と、また電話したいです」
声は無意識だった。
言った後に、はっとした。
奥の奥の本心をそのまま見た感じだった。
結局はこれに尽きる。
ひとみともっと近づきたいのだ。
『電話だけ?』
ひとみは愛の本音に、ほんの少しだけ笑いを混ぜて空気を軽くしてくれる。
「…え、そ、れは…」
『あたしは会いたい。今すぐでも愛ちゃんに会いたいくらい。
会って、いっぱい喋りたいよ。愛ちゃんが迷惑がってても、たぶんそう思ってる』
「迷惑なんて思いません!それは、思いません」
『そう。…ほっとした』
ひとみの心が近い感じがする。
苦しくて切ない気持ちになる。
好きだと感じる。
- 16 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:53
-
『あたしたちは逃げてるんだ。ずっとそうしてきた。
でもあたしね、頑張るよ。全部ちゃんと頑張るからね。見てて』
よくわからないけれど、愛もまた、頑張らねばと思わされた。
どこかでひとみが愛を好きでいてくれているという自信があった気がする。
自分から動かなくても、梨華が動こうとも、いずれは上手く行けるのではないかとそんな甘い考えを持っていた気がする。
このまま側にいられれば、いつかはと。
それはやはり甘え以外の何者でもなくて、梨華の言ったとおりで。
『かわいそうな愛ちゃん』の言葉ならば、ひとみも少し優しく嘘をついてくれるような気がしたのだ。
図星なのが悔しかっただけ。汚い自分を認めたくなかっただけ。
自分はなんて汚い。
いつだって甘えている。
ひとみと出会うまで麻琴に会うことから逃げていたように。
- 17 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:53
- 甘えた自分と決別しなければならない。
いつも口では言っていた。
本当に決別できる日が来るんだろうか?
「…はい」
『じゃあ、宿題頑張ってね』
「はい…」
ピ。
通話時間が表示されて、葛藤と恋い慕う心の時間だと感じる。
- 18 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:54
- 自信がなかった。
多分、一生自分はこうやって大切なものを取りこぼしていくのだろうと思った。
あれこれ理由をつけて興味のないふりして、本当に必要だったと気づいた時にはもう遅い。
嫌だ。
ひとみが誰かのものになるのは嫌だ。
だったら何かしなければならない。
何か。
ちゃんと。
今からでも、間に合うだろうか。
自信がない。
でも。
- 19 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:54
-
+++++
- 20 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:54
- 昼休み。
何気なく流れる時間。
緊張のない、休む時間だった。
「あ、コハルトイレ行ってくるね」
「はーい」
やり残した次の時間の宿題とにらめっこしている梨沙子をつき合わせるのは悪いと思い、
小春は一人でトイレに立った。
- 21 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:55
- トイレで手を洗い、鏡を見る。自分が映っている。
自覚はしている、大きな目と高い鼻。世間ではわりと整った顔立ち。
「うーん…」
そんなことはどうでも良い。その奥を小春は見ていた。
やりたいことのない自分自身。どうにかしなければならないという気持ちもあるが、
どうしてもその先が見えてこなかった。
好きなことは沢山ある。
買い物が好き、テレビが好き、お菓子が好き、おしゃれが好き。
けれど仕事にしたいという風には思ったことはない。
芸能人。
モデル。
保育士。
看護師。
パティシエ。
美容師。
人並みの憧れはあれど、人生をかけて臨みたい道などは見えなかった。
そんな自分は、つまらない人間だ。
夢とは人の生きがいになり、人の輝きになり、魅力になり。
だから小春も早く夢が欲しい。
けれど見つかりそうもない。
- 22 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:55
- 好きなことを仕事に出来る人は、とても幸せ。
仕事にしたいほど好きなことを見つけられる人は、とても幸せ。
コハルも、そんな幸せになりたい。
指先から滴り落ちる水の透明度が、見えない未来を見せる。
何かを思い描くこともままならない自分。
考えても考えても、考えているだけ。答えが出る日は来ない。
「はぁ…」
ぼーっとトイレでひんやりした空気に漬かっていた時。
唐突に勢いよくトイレの出入り口が開け放たれた。
驚いてそちらに目をやると、クラスメイトの血相を変えた姿だった。
- 23 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/04/29(火) 19:55
- 「こんなとこにいた、小春…!」
「ふぇ?…大丈夫なの、コハルと喋って」
ほんの少し冷たく言い放つ。
彼女もクラスの空気に沿って自然と会話をしなくなった一人だった。
彼女は一度躊躇って、それから首を振って小春をしっかりと見据えた。
「梨沙子が」
どくん。
その名前で一気に空気が変わる。
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/04/29(火) 19:57
- 更新終了です。
このスレッドでの完結を目指しています。
- 25 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/04/29(火) 19:59
- 今のところ一番上に来てしまっているので隠します。
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/04/29(火) 19:59
- 引き続き隠します。
- 27 名前:名無し草 投稿日:2008/04/30(水) 00:09
- 毎回毎回心揺さぶる文章を書かれていてもう何と言ったらいいか
作者さん愛してる!
- 28 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/04/30(水) 20:28
- つ、続きが気になる・・・
- 29 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:11
-
+++++
- 30 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:11
- 「よっすぃ!あのね、ここの部分なんだけど…」
「あーそこね、あたしも最初意味わかんなかったよ」
「だよね、あの教授が説明ヘタなんだと思う」
「あたしも思った」
「ね」
微笑みあう美女。
愛はその光景を離れた場所から見ていた。
昼休みの食堂。
にぎわう人の中でも特にあの二人は目立っていた。
- 31 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:12
- 「…聞いた?石川先輩の告白の話」
「うん…」
「大胆だよね、すごいなぁ…吉澤先輩もずっと仲良しだったし、時間の問題かもね」
愛は、隣に座るあさ美の問いかけに弱々しく頷いた。
梨華がひとみに、大勢の人が行き交う大学の広い廊下で告白をしたという話。
多少の尾ひれはついているだろうが、梨華がひとみに心を伝えたことは校内では知らない者の方が少なかった。
その噂は完全に石川梨華を応援する空気を作り出していた。
今でさえ、梨華とひとみを見守る優しい視線が絶え間なく降り注いでいる。
愛はたまらない気持ちになる。
自分で選んだ答えのはずなのに、いざ目の前に出されるとこんなにも痛い。
見ていたくない。
やめてほしい。
勝手だとわかっていても、嫉妬が止まらない。
梨華に笑いかけないで欲しい。
自分に笑いかけて欲しい。
自分に話しかけて欲しい。
自分を見て欲しい。
こっちを見て。
お願い。
こっちだけ、見て。
…先輩。
- 32 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:12
- と。
ふいに、ひとみがこっちを見た気がした。
最近なら、必死に抑えつけて視線をそらしていた。
けれど今の愛にはそんな事出来ない。
涙が零れそうな衝動のまま、感情も隠さずにひとみを見ていた。
確かにひとみと視線が噛み合っている。
お互いに逸らせない感じがした。
やばい。
涙が、零れてしまいそう。
嬉しくて、悲しくて。
あなたのことが大好きで。
でも。
あなたの隣には、もう。
- 33 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:13
-
「…愛ちゃん?」
「ごめん、あーし…」
「え?ちょっと…愛ちゃん?」
大好きな食堂のご飯も、何もどうでも良かった。この悲しみから逃れたかった。
こんなにも、こんなにも好きなのに。
真っ直ぐに向かっていけないのを、自分の過去のせいにして。
自分の過去について触れた梨華のせいにして。
こんな自分を誰が好きになってくれるというの。
でも。
あなたにだけは、好きでいて欲しい。
まだ、思ってしまう。
自分じゃ何もしないくせに。
それでも。
それでも、よしざー先輩が…大好き。
歩いている。
体が勝手に動く。
- 34 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:13
-
気がついたら、人ごみをかき分けてひとみの前に立っていた。
隣にいる梨華の視線を感じる。
それでも愛は怯まない。
悲しみから逃れたい。
だから、幸せの方へ歩いて行きたい。
「…よしざー先輩っ」
「愛ちゃん…」
愛はひとみの名を呼んだきり、なんの言葉も出てこない。
喉が固まってしまったように詰まって、頭が真っ白になる。
自分が何故今ここにいるのかもわからない。
けれど。
ただ、ひとみの手をぎゅっと握った。
- 35 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:13
- ほとんど無意識。
ひとみの手を握ることしか知らないように、愛はひとみの白い手に自らの幼さの残る小さな手を重ねる。
次の瞬間ひとみは立ち上がって、握られた手を強く握り返し走り出した。
何故かひとみの体には人が当たらない。モーゼの海のように彼女のオーラに人が分かれていく。
幾重にも重なった人の波が分かれ、道が出来る。
ひとみと愛はそのコースを走るだけだった。
愛の目に映るひとみの潔い後ろ姿。
ああ。
なんか、よくわからないけれど泣ける。
- 36 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:14
- 「…愛ちゃん」
声と共に足が止まる。
上がった息のまま、ひとみは愛を抱きとめた。
愛は涙が止まらない。
どうしようもない自分でも、強く抱き締めてくれるから。
「よしざーせんぱい…っ…」
「愛ちゃん」
「うぅうう…っ、っく…うぅ…!」
「泣かないで」
「よしざー…せんぱ…!ごめんなさぁ…ごめんなさい…!」
「愛ちゃんには、笑ってて欲しい」
泣き虫。
弱虫。
甘えん坊。
自分を罵っても、体はずっと強くひとみを抱き締めていた。
優しい声の色に溺れていた。
離れたくない。離さないでほしい。
数日自分から避けていて、こんなにも思いが募っていた。
言葉を初めて交わした日までは知らなかった感情。強い独占欲。
どんどん欲張りになっている心。
- 37 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:14
- もう戻れない。
知ってしまった。愛する人に見つめてもらう喜びと苦しみを。
ほろ苦い痛みと、痛みを超えるほどの甘さを。
自分に笑っていて欲しいなら、自分をあなたの側に置いて欲しい、と。
いつかちゃんと言葉に出来るだろうか。
今はただ、言葉もなく。
- 38 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:14
- 同じ時に、ひとみはどこか穏やかな気持ちに包まれていた。
愛が泣き出しそうに見えて、愛に手を掴まれて、次の瞬間自らの体は立ち上がっていた。
走っている間中、愛のこと以外は考えられなかった。
色々考えていたことが嘘みたいに、何もかも吹っ飛んでここから愛を連れ去ろうと思った。
走りながら愛が泣いているとわかったから、何も考える間もなく足を止めて抱き締めていた。
今のひとみには何より愛の涙が耐え難いものだった。
何度も何度も泣かないで、と言いながら愛の柔らかな髪を撫でた。
愛がしっかりと自分の体を捕まえてくれているのを感じて、嬉しく思った。
ずっと考えていた心が、少し見えた気がした。
近付けば、また答えも見えてくるのかもしれない。
抱き締め合うことが温かいことは小春から教えてもらった。
でも、抱き締め合うことがこんなにも甘苦いことだとは知らなかった。
確かに甘くて苦かった。
愛を抱き締めた時にだけ感じるぴりっとした痛み。
嫌じゃない、ほんの少しの刺激。
今はただ、言葉もなく。
- 39 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:15
-
「…ねえ」
「はい…ずずっ」
「ちょっと移動しようか、人が多いや」
「え、あ、はいっ」
愛は慌てて勢いよく鼻をすすり、頬を手の甲で拭ってひとみから離れた。
ひとみは笑って、愛の頬に一瞬触れてからそっと愛の手を取り歩き出した。
愛の頬に、暖かな花が一輪咲いた。
二人は靴を履き替え、玄関から外へと歩いた。
「…どこに行くんですか…?」
「んーとね、どこだろう?」
「考えてないんですか」
「そだね、嫌?」
ひとみはずるい笑顔で愛に振り向いた。
こんな笑顔で嫌?なんて聞かれて、例え嫌でも嫌なんて言えるのだろうか。
魔法のような笑顔。
そして愛は魔法にかかるまでもなかった。
- 40 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:15
-
「……嫌じゃ、ないです」
愛は、心から嬉しくて。
ひとみの手を痛いと言われそうなほど握り締めて、まるで自分が連れ出したかのように歩いていく。
今は二人でいられるなら、どこへでも行けそうだった。
「じゃあ行くか、どっかに」
「はいっ」
愛の目には涙が滲む。
それは悲しみではなく、喜びのため。
「愛ちゃんは泣き虫だね」
「うぅ、はい…そうなんです、自分でも、直したくて…」
「泣きたい時は、よしざーの胸で泣け」
何気なく放った言葉がいつも愛の心にはとてつもなく響く。
- 41 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:15
- 「はいっ、ありがとうございます…!」
存在にどれほど助けられてきたのだろう。
自分もまた、この存在を助けられるような人間になりたい。
大げさだ、なんて笑われて。
大げさなんて事はないといくら言おうと、ひとみの中の価値観ではわかってもらえない。
そんなことが歯がゆくて、でも温かかった。
- 42 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:16
-
++++
- 43 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:16
- 「はぁーあ」
梨華のあからさまなため息を聞いて、美貴が苦笑いをした。
ひとみが座っていた席に腰掛けて、美貴はうっとりとした表情でひとみと愛の去った道を心でなぞっていた。
美しい光景だった。
王子様のように迎えに来てお姫様のように連れ去られた愛と、
お姫様のように迎えに来てもらって、王子様のように連れ去ったひとみ。
二人を阻まない人の波。真っ直ぐに去り行く姿。
とてもとても綺麗だった。
置いてけぼりの異国の姫が友達でさえなければ、この余韻にずっと浸っていたけれど。
美貴は梨華へ視線を向け、軽く覗き込むように首を傾けた。
梨華はほどけていくモーゼの海を見ている。
残像が、彼女の目には見えているのだろうか。
映画のワンシーンのような逃避行の様が。
- 44 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:16
- 「…梨華ちゃん、ホントはこうなるのわかってたんでしょ?」
「そんなわけない、って言いたいけど…たぶんね。だからそんなにショックじゃないよ」
「…」
「こないだもうちょっともうちょっと、って念を押したんだけど、ああダメだなって思った。
一生懸命わたしを見ようとしてくれてたけど、ふとした瞬間に隙あらばわたしなんか見てなくて」
「ホントにさ、ダメなやつだよねあいつは。頑張られるほど痛々しくて、困る。
迷ってるふりして、本当は決まってるんだよね」
「気づかせてあげられたかな?わたし…」
「うん。頑張ったね」
「やるだけのことは、やった。もう後悔することはない。でもやっぱり悲しいなぁ…」
上を向いて、少し痛そうに梨華は笑っていた。
悲しくてしょうがないはずなのに、どこか安心したように。
- 45 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:16
- 「あとは、ちゃんとよっすぃの言葉で聞きたいな。わたし諦め悪いから」
「うん…そうだね」
美貴がそっと、梨華の頭に触れた。
触れたら泣いてしまうんではないかと、美貴は少し怖かった。
けれど梨華はなんだか肩の力が抜けたように、とろんとした目で笑ったのだった。
「よっすぃが、綺麗でかっこよかったから好きになったわけじゃない。
綺麗でかっこいい人なら誰でも良かったわけじゃない。
弱いとこも、怖いとこも、よっすぃの全部が好きで、愛しくてたまらなかった。
こんなに誰かを好きになれるなんて、知らなかったよ」
幸福そうだ。
梨華の笑顔の不思議を、美貴は感じる。
美貴ならば…泣いて怒っているだろう。
梨華は怒りっぽくて泣き虫のくせに、誰もが大泣きするような場面ではこんな笑顔でいた。
晴れやかで、あたたかそうに笑っていた。
- 46 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:17
- ああ。
梨華ちゃんが笑ってるよ。
ミキは…ミキは。
ああ。
「な…んで美貴ちゃんが泣くのよぉ!」
梨華が驚いて美貴を見ているけれど、美貴の涙は余計に溢れた。
拭っても拭っても涙が落ちる。
「ごめっ、だっ、て…りかちゃ、が…わらって…つらい、のに」
「……辛くないと言えば、嘘になるんだけど…なんなんだろうね?
なんか知らないけど、すっきりしてるんだよ?」
「うぅう…ほんと、きにしないで…」
「ありがとう、美貴ちゃん」
梨華が笑っているのに、何故か泣けてきて。
梨華が困ったように美貴をあやし続ける。
- 47 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:17
- 「あ」
「え?え?え?何?どうしたの?美貴ー?おーい、痛い?痛いの?どうした?」
「…あのね、人が、泣いてる時…くら、い、そのアホな、質問攻め…やめたら?」
まいが二人のもとへやって来て美貴の涙に驚き、
そんなことをやっているうちに、やっと美貴は笑えたのだった。
「美貴が泣いてるとかおもしろー!写メっていい?写メ」
「ダメに決まってんだろバカ、バカ」
「はい、まいはバカです、すいません」
ぽん、とまいの手が美貴の頭を撫でる。
まいが優しく笑っているのを見て、美貴はもちろんわかっている。
まいは普段馬鹿ばっかりやっているけれど誰よりも優しくて、自分の役割をわかっている人だから。
そしてまいの手は梨華の頭にも伸びる。
「梨華ちゃんらしいねえ」
何が?と聞こうとしたけれど、そういえば何もかもだなあと思い直し、梨華は苦笑いした。
でも、嫌じゃない。
精一杯恋をしたと胸を張って言えるから。
- 48 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:18
-
「…許さないんだから」
唐突に、鼻をかみながら美貴が呟いた。
その目が多少腫れているせいなのか厳しく見えて、慌てて梨華とまいがなだめに入る。
「いや、まあよっすぃははっきりしないから色々あったけどさ、許してあげようよ…」
「よしこだって梨華ちゃんの気持ちを弄んでたわけじゃないと思うよ?」
「違う!あのねえ、いくらなんでもそこまで梨華ちゃんに肩入れは出来ないよ」
「美貴ちゃん。あのね、さりげなくだけど私にすごく失礼だよ?」
「ミキを泣かせておいて、ちゃんと幸せにならないなんて。そんなの絶対に許さないってこと!
だからよっちゃんには、愛ちゃんにも、絶対幸せになってもらうから」
美貴をじっと見た後、まいと梨華が顔を見合わせる。
もう一度美貴を見て、ふっと同時に笑った。
「そうだね!そうだそうだ、美貴かわいいなこのー」
「美貴がかわいいことなんか知ってるっつうの」
「わたしの方がかわいいけどね」
「なんなんだよ失恋早々うざいんだよマジで」
「ちょっとぉ!傷心のわたしをちょっとは労わってくれない!?」
「はいはいかわいそうにー」
「前々から言おうと思ってたけどねえ、美貴ちゃんはいつも…」
「はいはいはい!ケンカしない!」
- 49 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:18
- 彼女達が意図して作り上げたいつもの空気に、周囲の緊張もほどけていく。
何より梨華自身が悲劇をアピールしなかったことにより、ひとみや愛への反感の空気は薄まっていった。
梨華は感謝してもしきれないたくさんの友情に感動した。
人とは支えあっているものだと、今日ほど感じたことはない。
自分もまた誰かを支えられる日が来ると良い。心の奥で深く願った。
失恋は、悲しいけれど。
それ以上に今はまだ、あたたかかった。
- 50 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:19
-
+++++
- 51 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/10(土) 02:20
-
- 52 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/10(土) 02:22
- 更新終了です。
>>27さん
こちらこそ本当に感謝しています。
ありがとうございます、照れました。
>>28さん
こうなりましたが…いかがでしたか?
- 53 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/10(土) 02:46
- 最高です。へたれ愛ちゃん最高です。美しい光景にハーンしました。
りしゃ・・・
- 54 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/12(月) 20:34
- 更新お疲れ様です
このスレを読んでるせいなのか、最近よしあいがかなり気になってます
実際のよしあいとイメージが重なる所が多々あって読んでいてドキドキです
これから二人がそれぞれどう変化して行くのかが楽しみですYO
あと吉澤さんの仲間たちがあたたかくて惚れました
- 55 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:16
-
「はっ、はぁっ、はぁっ、…はぁ、はぁ…!」
ほんのついさっきのクラスメイトの言葉が何度も何度も頭の中でぐるぐると回って止まらない。
あまりに激しく回るから、めまいと吐き気すら覚える。
『なんか怖そうな先輩達が、梨沙子のこと連れて行った。雅たちのグループが仕組んだっぽい』
まさか。
ほんの一瞬目を離しただけなのに。
ただ、トイレに行っただけなのに。
まさか、まさかこんなことになるなんて。
- 56 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:16
-
「梨沙子!!!」
小春が全力疾走で教室に戻った時、もちろん梨沙子はいなかった。
戻って来ていることもないようだ。
通常は昼食後ののんびりとしたひと時を過ごしている教室。
今日だけはどこかよそよそしく、いつも通りにしようとしているだけのわざとらしい何かがあるだけだった。
心底腹が立つ。
勿論今自分をニヤニヤしながら見ているあのグループもだけれど、
自分たちは関係ないという顔をしている傍観者達にも腹が立つ。
傍観者は立派な加害者だ。けれど、事実や証拠がないからどんな場合でも責任を逃れられる。
『知らなかった』『気がつかなかった』『私たちは何もしていない』
『何も知らない』『だから関係ない』『私たちは何も悪くない』
悪くないわけがない!
クラスの皆に無視されることがどれだけ梨沙子を傷つけたかなんて、こんな奴等に想像できるはずもない!
腹が立つ。
けれど今ここで何を叫ぶよりも梨沙子を助けることが優先された。
- 57 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:16
- 「梨沙子…!!」
「待ってよ」
すぐに踵を返し姿を探しに行こうとする小春の腕をしっかりと掴んだのは雅だった。
「帰ってきたら、誰にも迷惑かけない存在になってるから」
雅が、言う。目から感情が読めない。
言葉だけを鵜呑みにして小春は頭に血が昇り、雅の肩を力一杯握った。
ダン!と黒板に押し付けられて雅は痛みに眉を歪める。
大きな音に一瞬にして教室が静まり返った。
「痛い」
雅の静かな言葉を無視して、小春は見たこともないような鋭い目つきで畳み掛ける。
「いいの?雅はそれでいいの?梨沙子がどんな目に遭ってもいいんだ?」
- 58 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:17
-
否定して欲しかった。
いいはずないと。
そして理由を話して欲しかった。
そうすれば、自分たちは分かり合えると思った。
けれど雅は小春の目を見ようとはしない。
「…自業自得」
まだ言う。
雅が苦しくなっていくのが、なんとなくわかった。
二年にも満たない付き合いだけれど、わかることもあるのだと思った。
だから、本当の言葉を聞きたい。
「なんで?雅は梨沙子のこと本当に好きだったじゃん!
なんでこんなことするの?本当にもう梨沙子に嫌われてもいいんだ」
「…」
「今なら間に合うよ、止めに行こう」
小春は引っ張られた方向とは反対に雅の腕を引くが、雅は懸命にそれに逆らった。
雅の表情が歪む。
それは、痛みからではなく。
- 59 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:17
- 「行かない、あたしは行かないから」
ばっ、と。
…握った手を振り払われた瞬間。
小春は自分でもよくわからないうちに雅の頬を張っていた。
ぱしん。
その割れるような裂けるような痛々しい音に、教室はさらに静かになった。
小春にはもはや雅しか見えない。ここには目の前の頬を押さえた雅しかいないような感覚。
頭に上っていた血が上りきったのか、それともすとんと下がったのか。
とても真っ白な感覚がした。
わあわあと叫んでいた小春は、急に声のトーンを落として囁いた。
- 60 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:18
-
「意地ばっか張ってたら、気がついたら何もかも失ってる。
コハルは、雅には何も失って欲しくなんかなかった。でもいらないんだよね?
自分から投げ出したって、コハルは受け取ったから」
静かで重い声は、静寂の教室に響いた。
雅は心臓を鷲掴みにされたような苦しみに息を止める。
しかし、振り切るように首を強く振って一瞬で我に返り、小春の肩を掴んだ。
その思いもよらない強さに小春は一瞬怯んだ。
「…あんたが助けに行って何が出来んの!?あんたなんか力もないし、喧嘩とか弱いじゃん!
助けに行ったところでどうせ一緒にやられるに決まってる」
雅の剥き出しにされた感情。
雅は小春に触発され、仮面が外れようとしていた。
- 61 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:18
- 小春は雅の鋭い目をじっと見据えて、ほのかに笑って見せた。
「それならそれでいいよ」
「っ」
「助けられないからここで待ってるより、梨沙子と、痛みを分けられたら…その方がずっと良い。
それでも梨沙子の痛みは、コハルなんかにはわからないくらい大きいけど、
それでも行きたいんだ。何も出来なくても、側にいたい」
初めて見た、小春の表情だった。
雅は神々しさすら感じる。
無邪気で、ただただ梨沙子を大切に思う小春の優しい顔だった。
力の抜けた雅の腕を振り払い、小春は勢いよく教室を飛び出す。
その後ろ姿は無鉄砲で計画性も何もなく一般的には愚かだが、雅には眩しすぎるほどだった。
「ちょっ…小春!!!こは…」
- 62 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:19
-
教室中が、取り残された雅を見ている。
静まり返った空間で、雅は今さっきの出来事を思い出していた。
小春の冷たい視線。
小春の愛に満ちた表情。
言葉も。
すると。
「…あたし」
- 63 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:19
- 目が覚めたように、雅は急に馬鹿らしくなった。
今まで意地を張っていた自分も、意地を張っていた原因さえも。
あんなに譲れなかったはずの気持ちが、砂になり崩れていく。
…あたしは。
何を守るために、こんなことしてたの?
なんて馬鹿らしい。
あたしだって、小春のこと、梨沙子のこと、あれくらい大切な存在だったはずなのに。
何を、何をあたしは。
傷ついたなんて…恥ずかしいこと、思ってたんだろう。
雅の心を変えたのは、敵意でも、憎悪でも、哀れみでもなく。
少しずつ積み重なった、小春と梨沙子から与えられたやさしい思いやりの心だった。
もう向けてもらえないかもしれない。そう思うとこんなに怖い。
壊れそうな世界でどうしてか悲しいほどに強く揺ぎ無いやさしさ。
- 64 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:19
- そうだよ。
あたしは何を守ろうとしてたんだろう。
本当に大切なもの、分かってたはずなのに…甘えてた。
でもこんなことがいつまでも許されるわけない。
傷ついたことは、傷つけることを許されることではない。
傷つけることは、どんな理由があったって許されないことだと分かっていたはずなのに。
なんでこんな。
ああ、そうだ。
こんなことを後悔している場合じゃない。
…あやまら、なきゃ。
あたしは謝らなきゃいけないんだ。
- 65 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:20
-
「雅、ほっときなよあいつらなんか」
よく通る声。
この騒ぎの仕掛け人は雅に威圧的に言葉を向ける。
彼女の言葉は常に意図せぬ命令だった。
どの世界でも性格と物腰で常に権力を持つ立場で生きてきた彼女は、自分の発言に絶対の自信があった。
誰しもが頷く自分の言葉は常に正しいという無意識の自信だった。
彼女の世界は狭く、自身を誰もが心から慕い恐れているという考えを曲げたことなど一度もなかった。
一連の騒動だって、誰もが梨沙子を自分と同じくらい大嫌いで、皆が梨沙子を無視することを喜んでいたと信じていた。
そのあまりに堅すぎて脆い自尊心。
それを破壊したのは、誰よりも流れからあぶれることを恐れていた雅だった。
「るさいんだよ、黙ってろ!一人じゃ何も出来ない弱虫が」
「は…誰に向かって…ちょっと雅!どこ行くんだよ!雅!!!」
怒号を背に打たれながら雅も走り出した。
小春とは正反対の方向へ。
- 66 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:20
- やってしまった。言ってしまった。一般的にはかなりやばいことを。
もう戻れない。
あんな事を言って、そのに先何が待っているかくらいはたやすく想像できる。
それでも止められなかった。
言葉も足も何もかも。
ごめん。
ごめん。
梨沙子。
小春。
許してもらおうなんて思わない。
いや、本当は許してもらいたい。
でも、それならまずちゃんと謝らなきゃね。
許してもらえないかもしれないから話さないなんて、それじゃ何も始まらない。
突き放されてやっと思うなんて。
- 67 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:20
-
いらなくなんかないの。
本当は欲しいものだらけ。
どれも掴もうとして上手く行かなくて、既に持っていたものすら手放して意地を張って、
結局一つも手に入らない。
そんなのはいやだから。
本当に大切なものを一つだけ見つけたら、しっかり掴んでおかなければならない。
もう手放したりしないよ。
- 68 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:20
-
+++++
- 69 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:21
- 「ここは…?」
「んー?あたしの中学の時に通ってた道だよ。綺麗でしょ」
「はい、静かで…いいですね」
その頃、ひとみと愛はのんびり歩いていた。
静かなところへ行こうと思ったら、この道を思い出したのだ。
いつも歩くのが好きだった、思い出の道。
少し遠回りだけれど木が多くて道も舗装されていない。
夏でも少しだけ涼しくて、風が吹くと木が揺れてざわめいた音がやさしくて。
たまに授業をサボって一番大きな木の下で眠っていた。
この道を歩いた先で美貴と出会った。
矢口先生も、元気でいるだろう。
小春は今は何している?
当時の思い出を同じように見ては来なかったけれど、愛はとても気持ちよさそうに木漏れ日の下を歩いている。
二人の手はいつまでも握ったまま離れなくて、まるでそこからひとみの思い出が愛に流れているように。
「もうすぐあたしの通ってた中学校が見えるよ」
「本当ですか?楽しみ」
「まあ普通の学校だけどね、公立だし」
二人の足は、中学校へと進んでいく。
- 70 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:21
-
+++++
- 71 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:21
- 足が上手く動かない。
日ごろの運動不足がたたっている。
今ばかりは非常に呪わしい足。
小春は必死になって走っていた。
息が苦しくてたまらない。
昼休み、人通りの少ない場所なんて限られている。
かつての美貴との少し痛かった経験もまた有効だ。苦笑いする余裕もないけれど。
このどこにでもある公立の中学校にある静かな場所。
裏庭。
体育館裏。
旧校舎の裏、外からは木で覆い隠されている狭い元テニスコート。
今は草が生え放題で、微かにコートのラインが見えるか見えないか。
あそこは静かで明るい時でもなぜか不気味だから、普通誰も近寄ろうとはしない。
なんとなくだけれどそこが一番可能性としてある気がして、
候補の中で一番遠いテニスコートへと走っていく。
- 72 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:22
- はっ。
はっ。
はっ。
息が、切れる。
足がどんどん重たくなる。
こういう時って、嘘みたいに速く走れるんじゃないの?
どうして上手く走れないの?
どうしてあのテニスコートがあんなにも遠い。
どうして。どうして。
誰かどうにかして。
こんな時くらい夢みたいな出来事が起きてよ。
今にも座り込みたい衝動を堪えてただ走る。
「…聞いてる?人の話」
- 73 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:22
- テニスコートに近づいていくと、明らかに場違いな棘のある口調が聞こえて、小春は足を速めた。
空回り空回り、上手く進まない。
転んでしまいそうな勢いで飛び出す。
ザザザッ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…!」
吐き気と脇腹の痛みに耐えながら顔を上げる。
小春の目の前に広がったのは、やはりそれなりの景色だった。
見るからに…上級生、三年生だ。5、6人。
見るからに虫を踏み潰しそうな顔をして、飛び出してきた人影に怪訝な視線を向ける。
その輪に囲まれて明らかに怯えていた梨沙子と目が合った瞬間、小春は再びかっと血が昇る。
「梨、沙子に…さわるなっ…!」
梨沙子の制服の襟を掴む手を振り払って、梨沙子の前に両手を広げながら立った。
息を整えようとしても、興奮も手伝って心臓は速まるばかり。
それでも揺るぎない決意と共に、自らが倒れることなど頭にあるはずはなかった。
汗ばんだ小春はじろじろと複数の不快な視線にさらされる。
- 74 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:22
- 「何?こいつ」
「しらなーい」
「ねえアンタちょっと邪魔だからどけてくんない?今うちらその子に用事があるんだけど」
小春にも向けられる敵意。最終通告。
人数的にも立場から見ても明らかに劣勢だった。
それでも小春の心が折れることなどあるはずがなかった。
ぶんぶんと激しく首を横に振り、大きな目を見開いて全員に向けて睨んだ。
「梨沙子、帰ろう。こんな人たちに付き合っててもしょうがないよ」
汗ばんだままの手で梨沙子の柔らかい手を握り、強く来た道の方向へ引く。
梨沙子の体が引かれるままに傾いた時、小春の進行方向に上級生が二人立ちはだかった。
さすがにそう簡単に帰してはくれないだろうとは思っていたが。
「いいから、アンタは大人しく帰りなよ。見逃してやるって言ってんだから」
ドスのきいた声。どこから響くのだろうというほど低く醜い声だった。
小春はさらに睨み返し、精一杯強がった。
梨沙子の手から勇気を貰っているように感じて、梨沙子の手の感触を確かめる。
梨沙子が弱々しく、けれど確実に小春の手を握り返していた。
その事実が小春を強くする。
- 75 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:22
- 「梨沙子は連れて帰ります」
その意志を曲げる気はなかったから、仕方がない。
こうなる運命だったのだから、仕方がない。
上級生の女子生徒達は一様に顔を見合わせて、小春も的の中に入れたようだ。
一気に視線の鋭さが増す。
未来がチカチカと一瞬一瞬で予想される。
一瞬、頭から血を流していた過去の自分がフラッシュバックして、殴られてもいないのに頭が痛くなった。
少なからず小春の心に傷となっているらしかった。
ああ。
コハルが痛いだけならいいけど。
こんな状況でまた怪我なんてしちゃったら、梨沙子傷つくだろうな。
そんなのはやだな。
なるべくなら二人で無事に帰りたいけど。
そうもいかないみたいだ。
小春の遠くで、テニスボールがフェンスにぶつかったような音がした。
- 76 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:23
- 「あーもうめんどくさ。なんなの?まじうざい」
「いいんじゃない別に、一緒に指導してあげれば。先輩に対して失礼だし」
いよいよ雲行きが怪しくなってくる。
唐突に小春の手が握り返されて、耳元で『にげて』と聞こえた。
…ああもう。
梨沙子はどうしてこうなんだろう。
もはや腹が立つほどにやさしくて、困る。
そんな梨沙子だから、こうまでして守りに来たんだけれど。
「ねえ、なんで邪魔するの?この子がうちの後輩泣かせたりするから悪いんでしょ?
何もしなかったらこんなところにわざわざ呼ばれたりしないでしょ」
「梨沙子は何もしてない!」
「だめ、無理。話になんない。マジイラつくんですけど」
小春の肩あたりの制服が掴まれて、前後に揺さぶられる。
軽い小春の体に衝撃が伝わって、されるがまま。
やばい。
さっき走ったから、お昼ご飯吐きそう。
やだ。
本当は怖い。
本当は、こんなことなんかされたくない。
本当は、誰かに助けに来て欲しい。
だって痛いのは嫌だ。誰だって嫌に決まってる。
- 77 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:23
- ああ。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
梨沙子何も悪いことしてないのに…コハルだって。
おかしいよ。
この世の中、おかしいことばっかりだよ。
いよいよ口の中に酸味が広がる。
やばい、と思って必死にぐっと口を押さえた。
「あれ?どうしたのー?さっきまでの威勢は?あははは、弱虫だねえあんたも」
弱虫。
大勢で年下をいたぶるような奴等に言われた言葉に、反論したいのに。
やばい。
きもちわる――――あたまが、いたい。
やだ。
やだ。
やだ!!!
- 78 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:23
-
「あのー、そのへんにしといてもらえないかなあ」
あの時とほんの少し似た状況で、あの時とは全く違う響きの声を響かせて、あの時と同じように来てくれた人がいた。
ああ。
ああ。
なんでここに、とかいう疑問すら思う間もなく、小春はその声に反射的に安心した。
- 79 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:24
-
+++++
- 80 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/14(水) 00:24
-
- 81 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/14(水) 00:29
- 更新終了です。
本当に色々すみませんでした…
>>53さん
ありがとうございます。
やっぱり日常的な話だとたまにこんな感じのシーンを書きたくなります。
本当にその件に関しては申し訳ないことをしました。
さわりでも入れようかな、と思ったのですがどうしても長いのであきらめました。
>>54さん
それは良いことですね。そして作者としてとてもうれしいことです。ありがとうございます。
吉澤さんが現メンだった頃ほどのネタは今はありませんが、それでもここの関係性はなんだか好きなんです。
吉澤さんは本当にいい友達に恵まれていると思います。現実でも思います。
- 82 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/14(水) 00:47
- きたあああああ!
手に汗握る展開ですね!ああ本当に緊張しました。
- 83 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/15(木) 20:36
- うわぁ…
息をするのも忘れるくらい引き込まれました。
大好きです。
- 84 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/16(金) 02:42
- 大量更新乙です。一気に読みました。
BGMで「ぎゅっと抱きしめて」という曲を聴いてたんですが、
雰囲気がマッチしていて驚いたので、何となく報告したくて書いてみました。
スレ汚しだったらすみません・・・。
- 85 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:49
- 「なんだあれ」
学校とそれ以外とを分けるフェンスのすぐ向こうに規則正しく植えられている松の木の間から、
いつもなら人のいるはずのない場所で不穏な空気を放つ集団を見つけた。
そこは旧校舎に備え付けられていた古いテニスコートで、
新しいものが出来てからは利用されることもなくなり立ち入る人など普通ならいない。
そこに、人がいるのだ。ひとりじゃなく、集団が。
「えー、もしかしてあれってあれ?呼び出し系?」
「え…」
ひとみのトーンが下がった声。
愛も様子を察して固まっている。じっと目を凝らしてみても、とても穏やかには見えない。
- 86 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:49
- 「…ごめん、ちょっと行って来るわ」
「え?ちょ…!」
愛が何を言う間もなく、ひとみは3メートルはあろうかというフェンスを勢いよく登り始めた。
弾みをつけてぐんぐん上昇していく。
気がつくと、あっという間にフェンスの向こう側に降り立っていた。
かしゃん。
踏み込んだ時に一瞬鳴ったフェンスの音は、ボールをぶつけた時のそれに似ていた。
「うぉお…こわっ、こわっ。実は怖かったよ」
地面につけた右手を離しながら立ち上がった時に小さな声でつぶやく。
ちらっと後ろを振り返って愛に照れたように笑い、すぐにまっすぐに向き直ってゆっくりと歩いていく後ろ姿。
- 87 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:49
- …置いてかれてしまった。
いや、ここで無視する人なんかではないと知っているけれど。
相変わらず、あの人はやることなすこと常識破り。
…どうやって、これ登ろう…?
見上げると、愛の身長の約2倍ほどのフェンス。
とりあえず手をかけて登ってみようと思ったものの、怖くなってすぐに断念した。
そんなことを何度か繰り返しているうちに、何故かおかしくなってきた。
これからもこんな風に振り回されて、たまに置いてかれるのかと思うと、何だかわくわくしてきた。
そんな日々、とても面白いに決まってる。
少し前までは誰もが自分を腫れ物を扱うようにしていたからこそ、おざなりにされただけで新鮮で、
本来の自分を思い出した。自分はどうしようもないから、どうしようもないなって言って欲しいのだ。
たまには話を聞き流されたりとかして、思う存分不満を叫びたい。
ひとみならば、叶えてくれそうだった。
今はとりあえず、回り道を探そう。
無理に登ろうとしても仕方のない時が、多々ありそうだから。
ついていけなくて困っている間も、ちゃんとひとみは待っていてくれるだろうから。
安心して、愛はフェンスに掛けた足を下ろした。
- 88 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:50
-
+++++
- 89 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:50
- 「まあまあ落ち着いて」
ひとみはそっと小春の肩を掴んでいた手を開いて、元あるべき位置へ戻した。
掴んでいた女生徒も抵抗しようと思ったものの、ひとみの穏やかな表情の割に強い力で手を開かれ、
怯んだ隙に手は太ももの辺りに置かれていた。
「誰?あんた」
「関係ない奴は消えろよ」
ひとみは自分の目線よりも若干低い場所からじろじろ睨み上げられている。
ひとみは敵意むき出しの視線をものともせずにふっと笑って首を振った。
「おー怖い。最近の若いもんはって言われてもしょうがないよね。
明らかに年上の人に対しても敬語が出てこないんだから」
「っせぇな、消えろっつってんだろ」
「消えないよ。何故ならあたしはこの子の知り合いだから」
小春の肩をそっと抱いて、ひとみはあくまでも笑っている。
しかし若干目が笑っていないことは誰もが気がついていた。
それでもまだ彼女たちは見くびっていた。
ひとみの美しい見た目に気圧されても、所詮は大抵の世間体ばかりを気にする大人と同じだと思っているらしい。
なめてたら痛い目見るよ。と、小春はふらつきながらも懸命に敵を睨んでいた。
- 90 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:51
- 「まあ、状況から察するにこれは呼び出しってやつでしょ?」
ひとみが小春に視線を向ける。
小春は梨沙子の手を握ったまま二度頷いた。
梨沙子が不安げにひとみを見ている。心配しているのだろう。
そんな微笑ましい二人に優しく笑いかけ、首を戻した瞬間にひとみの笑顔は温度を下げる。
「まあ、これはあくまで持論であって真理ではないんだけどね」
ひとみが静かに言葉を紡ぐ。
その口調が静かなのにどこか威圧的で、思わず場は静まり返った。
- 91 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:51
- 「あたしは思うんだ。例え相手がどんな悪だろうと、
相手が丸腰の一人あるいは少数だった場合、味方の数がそれより多いのは公平じゃない。
多いということはそれだけで強いから、冷静で平等な話し合いなんて出来ないでしょ」
一つ一つの言葉に意味を持たせて、ゆっくりと言葉を手の平に置いていくように。
「相手と話がしたいときは、一対一。これは基本。
人数が公平じゃないものは全て話し合いの意味を持たない。一方的な攻撃にしかならないんだ。
もしどうしても相手が聞く耳を持たない場合には、中立的な第三者を持ってくるべきだ。
初めから先入観を持っていない奴からは事実しか述べられない。
事実だけを見聞きすることによって、新しい発見があるかもしれない。
今まで悪だと思っていた人が、急にそうでもなく見えてきたり」
- 92 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:51
- 「…意味わかんないんですけど」
耐え切れず、女子生徒が一人冷ややかにひとみを見て言い放った。
ひとみは眉を下げ、肩をすくめた。
「聞く気がないんだよね。あたしは難しいことなんて言ってない。小春」
「え、あ。はい!?」
いきなり呼ばれて慌てて小春は返事をした。
ひとみは小春独特の空気に苦笑して、それでも優しく小春を見ていた。
「小春はちゃんとわかったでしょ?」
「はい。相手が悪い人でも、ちゃんと話し合いをするにはこっちは相手より大人数では
だめだってことですよね?」
「そう。それはどうして?」
「えっと…一方的に責めることになっちゃって、公平に話し合いが出来なくなるからです」
「そうだね。じゃあ、そうならない為にはどうすればいいって言った?」
「敵でも味方でもない人を新しく、連れて来るんです」
勉強を教えている時にも思ったけれど、小春は答えを口にさせると目を大きくする癖があるらしい。
こぼれそうなほどの大きな目。
ひとみは小春が一生懸命に答えを探したり、答えを言葉にしている姿を見るのがいつも好きだった。
「そういうこと。えらいえらい」
ちゃんと答えにたどり着けたらどの場面でもしっかり褒めると決めている。
小春はひとみが頭を撫でると、満足そうに目を垂らした。
- 93 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:52
- 「このように頭はあまり良くない小春でも理解できました。
それは相手の話をちゃんと聞こうと思っていたからです。
一方的な情報だけで全てを判断することほど浅はかなものはないよ。
真実を見ようともしないで誰かを攻撃することは…人間として、最低だよね」
小春の頭を撫でながら、徐々に棘を増してくるひとみの言葉。
小春も、自らに向けられていない棘に思わず息をのんだ。
ひとみは、敵に対してこうも容赦ないんだ。
初めて見るひとみの横顔だった。
- 94 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:53
-
「なんなの、次から次に」
はーっとあからさまにため息をついて、女子生徒は苛立ちを隠さずにいる。
「…もういいよ。めんどくさい。行こ」
リーダーらしき人物の言葉に、集団は一斉に動き出した。
不満気な空気を纏ったまま、やがて遠くなっていく。
よく聞き取れないけれど、何か文句や悪口みたいな言葉を言っているようだ。
まっすぐに向かい合うことも出来ずに尻尾を巻いて逃げたみっともない姿。
人間も多種多様で、けれどあの人たちだって悪いところばかりじゃないと…思いたい。
全く見えなくなってから小春は梨沙子に向き直り、顔を見合わせたまま息をついた。
なんとか無事でいられた。
一時は怪我まで覚悟していたものの、やはり互いに無事でよかった、と思った。
梨沙子が涙ぐみながら小春を見て笑っている。
小春は思い切り笑って、梨沙子の涙も吹き飛ばしてやろうと思った。
- 95 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:53
- 「よっしゃ。戦意喪失・藤本美貴作戦大成功じゃん」
敵が去ったひとみからは棘は完全に抜け落ちている。
いつもの穏やかで少し抜けたひとみの顔が戻っていた。
小春は思わずひとみに抱きついた。
「おわっ」
「せんせぇー!!!なんでいるのぉー!」
「えー?たまたまー。あたしはヒーローの血を受け継いでるからね、
こういう場面にはどうしても出くわしちゃうんだよ」
「たまたまって…なに言ってんですかぁ…
ヒーローはあんなにくどくど説教しません…あれは多分金八先生の血ですよ」
「いや、金八先生とは全然繋がりないよあたし」
若干冗談に聞こえない軽口もありながら、小春は力が抜ける。
ずるずると。ひとみがそれを受け止め、全体重をなんとか支えた。
会った時よりもさらに背が伸びて体つきも変わった小春は、ちょっと重い。
「てか、重いよー」
「重くないです!普通です!」
小春を支えながら、ひとみは苦笑いした。
梨沙子と目を合わせて、互いになんとなく微笑み合う。
…あ、この子か。と瞬時にひらめいた。小春の言う、大切な女の子。
ひとみは自分の顔を棚に上げて、外国人みたいな女の子だなぁと感じた。
- 96 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:54
- と。
たったったっ。
軽やかな足音と共に、もう一人忘れてはいけない。
「よしざー先輩ー、あっちにフェンスが途切れて抜けられるところありましたよ…って、あれ?」
愛がのんびりとした口調で3人のもとへ合流した。
「マジか。あたし高い所ダメなりに頑張ったのに。いや登るのは好きなんだけどさ…」
「えへっ。…でもなんか、かっこよかったですよ」
「本当?やったね」
「はいっ。えへへっ」
ひとみは今更ながら自分の行動に冷や汗が流れた。
けれど結果的には良いのだろうか。皆笑っているから。
…愛が、笑っているから。
愛が合流すると、緩んだ空気にさらにふわふわとしたものが付け足される。
小春は始め不思議そうに愛を見ていたが、やがてひらめいたようににやりとした。
愛は小春の笑顔にきょとんとしている。
- 97 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:54
- 「あれぇー?もしかして二人で来たんですかぁー?」
「え?うんそうだけど…」
「へーえ」
小春は訳知り顔でにやにやとひとみを見ている。
「お前はなんていう笑顔をしてんだよ気持ち悪い」
ぺしん、と額を軽く叩くもその表情は崩れない。
「えへへへぇー」
小春に全て見透かされている感じがして、ひとみは耳が熱くなる。
小春にはこの手のからかいは効かないだろうから、梨沙子のことを尋ねることも出来ない。
- 98 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:55
-
そこに、もう二人。
「もーっ!!!なんでこんな時につかまんないんですか先生は!」
「何怒ってんだよ!しょうがねーだろ忙しいんだよ教師は!」
雅と真里が走ってテニスコートへやって来た。
真里は雅に激しく引っ張られながら必死に走っていた。
「梨沙子!小春!」
二人が息を切らして飛び出した現場には、すでに緩い空気が漂っていた。
雅の目に映るのは、知らない人物に抱きついている小春、
きょとんとしているもう一人の知らない人物、同じような顔をしている梨沙子。
誰も誰にも危害を加える様子はない。
え?
「…あれ?」
- 99 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:55
- 「なんだよ、いないじゃん…ていうかよっすぃー?」
「矢口先生!お久しぶりです」
「何、よっすぃーがなんか関係あるの?」
「いや、あたしはたまたま通りがかって…」
「たまたまって…」
知らない人物の顔を見て、一気に真里までも和やかになる。
なんだかえらく身長差のある図を見て、雅はいっそうわからなくなる。
もう、何がなんだか。
違う。
今は、違うんだ。
雅は掴んでいた真里の腕を離し、梨沙子と小春に駆け寄った。
まだ緊迫した空気から抜け出せないでいる。
「ごめん、遅れた!二人とも怪我してない?」
「え?大丈夫だよ?吉澤先生が助けてくれた」
「吉澤って……え?この人があの家庭教師の人!?なんでいるの?」
「たまたまだって」
「たまたまって…」
- 100 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:55
- 小春の間延びした口調に、雅すらもとうとう力が抜けてしまった。
思わずその場に座り込む。
一気に季節はずれの汗が吹き出た。
「雅、矢口先生呼んでくれたんだ」
「…うん」
小春の声に、雅は恐る恐る、と言った感じで言葉を吐き出した。
「…あたしだって絶対止められないから…大人がいれば、何とかなると思って。
絶対こんなの、子供だけで解決できないから…なのに、矢口先生いないし。
もう絶対、梨沙子も小春も…って思って…ほんとに…」
雅の弱々しい声。指先が震えている。
小春は、『雅だ』と思った。
ここにいるのが、小春の知っている雅だった。
- 101 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 22:56
- 「みや」
梨沙子が雅の横に座り込み、そっと背中に触れた。
「ごめんね、みや。心配かけて」
「………あたしなんかに、謝らないでよ…あたしが悪いんだから…」
雅の涙腺に梨沙子の優しさがやたら響いて、全部涙になりそうだ。
まだ。まだ。泣くのはまだ、と懸命に言い聞かせ、必死で堪える。
「…みや」
梨沙子の声だ。
ずっとずっと変わらない、その響き。
「……りさ、こ」
たぶん自分も。
この名前を呼ぶ時のアクセントも、声も…ずっと変わっていなかったはず。
心だけが、変わっていってしまった。
でもまたあの時みたいな気持ちであなたを呼びたい。
- 102 名前:4 ただ大切な女の子 投稿日:2008/05/19(月) 23:01
-
三人の中学生が、柔らかな空気に包まれた。
真里とひとみが目を合わせると、ひとみは愛の手を引いて真里と共にその場を離れる。
きょとんとしたままの愛に、ひとみは優しく微笑んだ。
愛はよくわからないままだけれど、ひとみが笑っているのだから大丈夫なのだと感じた。
だから、ひとみに笑顔を返した。
「お茶くらいなら出してやるよ」
「矢口先生いっつも職員室でお菓子つまみ食いしてたじゃないですか、あれ出してくださいよ」
「うっさいな!あれは労働に必要な栄養補給だ!」
「小春にばれたら大変なことになりますね」
「もうなってる。雅も、梨沙子にまで、どんどんお菓子奪い取られるよ。
あいつらだけじゃない。他にもたくさんのやつらに。やめろって言ってるのにさ。
でも、置き場所知ってても勝手に持っていくやつは一人だっていないよ」
真里は、困ったような顔をしてから…とびきり嬉しそうな笑顔でそう言った。
ひとみも、愛ですら。
真里の言葉に心が温かくなった。
- 103 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/19(月) 23:06
- 4 ただ大切な女の子 終了です。
>>82さん
緊張させてしまいすみません。
個人的にはこういうシーンを書くのも結構好きなんですよw
たまにやりすぎてしまい読者様に不快な思いをさせてるのではと心配になります。
>>83さん
とてもうれしいお言葉です、ありがとうございます。
私も読んでくださる方皆さん大好きです!
>>84さん
ありがとうございます。
その曲ってミニモニの方ですよね?探したら二曲あったので。
読んでみるとまさにこんなシーン書きましたね。笑いました。
いえいえ、知らなかったので教えていただいてありがとうございます。
- 104 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/21(水) 01:36
- みやはこの後どうなるんだろう。
よっすぃーまぶしいな。上っていく背中が見えました。
- 105 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/22(木) 23:15
- >>84です。
そうです、ミニモニの曲で、愛ちゃんが歌ってるほうです。
作者様のおかげで二倍楽しむ事が出来ました。
ありがとうございます!
これからもひっそりと読み続けます。
- 106 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:54
- そこには三人だけがいた。
雑草の手入れもされず、芝に似たもっと強かな草が沢山生えていた。
ところどころ草の生えていない場所から乾燥した赤土が見えている。
でこぼことして、足元を見なければ転んでしまいそうだ。
でも、足元を見てばかりいると木の枝に引っかかってしまう。
そんなのなんでもそうだ。
上手く歩く方法を知っていても、上手く歩ける人なんてほとんどいない。
常に色んな場所に気を配りながら転ばないように少しずつ歩くのと、
不注意で転んだって立ち上がりまた不注意のまま歩き続けるのはどちらが大変なんだろうと考えた。
雅を見る。
今は見下ろす形。
小さくて弱い一人の女の子がそこにいる。
- 107 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:55
- 「…雅」
顔を腕で覆い隠している雅にそっと声をかけて、小春も同じように草の生い茂った地面に腰を下ろした。
草の上に座ると冷たい。青い匂いがつんと鼻に届いた。
「…ん。わかってる。ちゃんと、言うから…」
雅は小春に呼ばれた己の名前だけで、なんとなく言いたいことは理解した。
ぐっと胃に力が入るけれど、それよりも強く拳を握り締めた。
「みや…大丈夫?」
「うん。あたしは大丈夫だよ」
あまり具合の良くなさそうな雅に梨沙子の心配は募る。
だが雅は顔を上げ、梨沙子を視界に取り込むと優しく梨沙子に微笑みかけた。
梨沙子は一瞬驚いて、その後緩やかな笑顔で大きく頷いた。
風が規則正しく並んだ木々を揺らしていく。
ざわざわと何かを訴えるように木は擦れて囁く。
ざわ。
ざわざわ。
- 108 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:55
-
風が止んだ。
風が止んでも、その場は静かだった。
細い細い糸が張り詰めて、雅を苦しめている。
小春にも梨沙子にも少しずつだが痛みが伝わった。
やがて雅は重い口を開く。
「まずは、本当にごめん。梨沙子、小春」
体勢を整え背筋を伸ばし、雅が深く頭を下げる。形は最早土下座に近い。
長い時間ずっとそうしていた。その分長い沈黙が走るけれど、何故だかその沈黙は悪い感じがしなかった。
ゆっくりと顔を上げて、雅は視線を落としたまま話を続けた。
「…何から話せばいいのかな…あのさ、前にあたしが変だなって感じた日って、ある?」
視線を向けられて、少しだけどきりとする。
小春はずっと考えていたけれど理由のつかめなかった違和感にすぐに思い当たった。
「あるよ、コハル」
「…あたしも、ある」
梨沙子が続いた。梨沙子は普段は抜けているし自分のことほど出来ないことが多いけれど、
その分周囲に敏感なところはあり、おそらく気がついていた。
- 109 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:56
- 「…そっか。多分同じ日だよね」
二人は鋭かっただろうが、雅もわかりやすかったのだろう。
雅は思わず苦く笑って、それから自嘲的な表情になった。
「あの、日」
あの。
それだけで三人は一斉に同じ光景を頭に浮かべていた。
「梨沙子が…三年の先輩に、告白された日。あの日、あたしいろいろ思っちゃったんだ」
雅はこめかみ辺りに綺麗に伸びている髪を乱して、きゅっと目を閉じた。
後悔とか、苛立ちとか。色々な複雑な感情がこみ上げてどうしようもないほど自己嫌悪に陥る。
けれど、その中には種類の違う感情が含まれていた。
- 110 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:56
- そんなの、砂漠に埋まったダイヤほど綺麗ですごいものじゃない。
片栗粉の中に埋められた赤い飴玉みたいなものだった。
だけど、絶対に。
なかったわけではないのだった。
「あたし、あの人のこと…結構本気で、好きで」
好き。
恋愛。
中学生の。
当たり前にある。
ほのかだけれど本人には大きな。
痛そうに目を閉じたまま話す雅を見て、小春はどことなく納得した。
違和感の正体が見えた。ピントが合わさって、はっきりと見えてきた。
雅と恋愛の話をした時、いつもなんだかはぐらかされて、その場にいないカップルの話になったりした。
雅は自分の恋愛についてあまり話したがらなかった。
けれど恋をしてないとは一度も言わなかった。
たぶん言葉には簡単に出来ないような…本気の、叶わない恋なのかな?
なんて、なんとなくだけど思ったりしたのだ。
雅はミーハー。面食い。好きな芸能人も流行りにすぐ流される。
そんな雅がとても叶いそうもない夢みたいな恋をしたっておかしくはないのだ。
- 111 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:56
- かつて小春は自分がしたような、遠い人への恋を思い出していた。
感情は、報われないのに膨らむばかり。憧れだと切り捨ててしまいたいのに、目で追ってしまう。
何かの拍子に期待してしまう。何かの拍子に舞い上がってしまう。
世の中にあるシンデレラストーリーと呼ばれるエピソードが、いつか自分にも訪れるという期待をしてしまう。
そしてある日現実を見る。
どう考えても妥当で当たり前なのに、受け入れられない現実に深く傷つく。
自分でもどうしようもない痛みを、小春も知っていた。
小春がその痛みに共鳴している間にも、雅は言葉を紡ぐ。
「…話したこととかなかったけど、たまに放課後とか練習してるのを見るのが大好きだった。
初めての、恋…だと思う。叶うことなんかないって知ってても、諦められなかったんだ」
自らの恋を語る雅は、痛々しくも輝いていた。
悲しげに笑っていても、どこか幸せそうだった。
恋を語る女性の全ては平等に輝きを与えられ美しいのだと感じる。
- 112 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:57
- …梨沙子。
小春はふいに、梨沙子が泣くのを我慢しているのがわかった。
雅の話は、その先を聞かなくてももう皆分かっていた。
梨沙子は自らの罪深さを感じているのだろう。それは違うと言いたかったけれど、今は我慢した。
雅も梨沙子の様子に気がつきながら、言葉を続ける。
今更止める意味はなかった。
「…梨沙子が、その人に告白された時に、何かがはじけた。
なんで梨沙子なのって。どうして梨沙子なの、梨沙子ばっかりって。
梨沙子はすごくきれいで、どこでも男子とかに人気で、モテるし。
バカ正直で敵が多いけど、本当にやさしいから本当の味方がいて。心から信じ合ってる友達がいて。
素直で明るいから、大人も皆梨沙子をかわいがってて。大切にしてて」
ごく。
小春は人の黒い部分に触れるたび、いたたまれなくなる。
こんな感情が自分にだってある。
誰しも持つ醜い感情から、出来るならば目を逸らしたい。正面からぶつかりたくなどない。
けれど溜まる一方で毒のように心を蝕むそれを溜めて平気でいられる人などそうそういない。
誰かに叫ばないと、こわれてしまう。
何かの拍子に吐き出す醜い感情は、人間の自浄作用のように上手くは出来ていないから痛みを伴うけれど。
- 113 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:57
-
「いつも、梨沙子は本気で大切にされていて。愛されて。梨沙子ばっかり、梨沙子ばっかりって…
まるで今までずっとそればっかり思ってたみたいに気持ちがあふれた。
だからって急にあんなこと…許されることじゃ、ないけど。
でもどうしてもどうしても、あの時はどうにもならなかった。自分を止められなかった」
一気に溢れ出たたくさんの思いをぶつけられてはっとする。
それはいつか、雅がほんの少しだけ小春に話したことのある嫉妬の感情だった。
近すぎるあまりにうらやましくなることがある。
小春にはわからないことだった。
確かに梨沙子はとても美しいけれど、雅だってとても美しい。
雅のすっと釣り上がった涼しげな目は大人っぽくて、小春はうらやましいと思っていた。
けれど、そのうらやましいという気持ちは、時に近いほどに大きくなるものなのかもしれないと思った。
- 114 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:58
- と。
「みやのほうがっ…!」
耐え切れない、といった様子で梨沙子が声を張った。
雅と小春の視線を受けてもなお怯むことなど知らずに叫ぶように言葉を投げ落とす。
「みやの方が綺麗じゃん!大人っぽくて、細くて、しっかりしてて。
あたしはずっとずっとみやになりたかったのに、なんでそんなこと言うの!?
みやはあたしの憧れなんだよ!あたしは、みやが…」
声が詰まって、涙があふれる。
懸命に拭って、拭って、それでもあふれて。
ひりひりとしている、何もかも。
「みやが、みやがあたしにやさしくしてくれたから、あたしはやさしくなろうって思ったのに…
あたしなんかより、みやの方がやさしいのに…!」
梨沙子の心の叫び。
彼女の心にきっとたくさん蘇っているであろう多すぎるほどの雅との思い出たち。
小春にはそれは見えないけれど、想像の二人はとても楽しそうだった。
- 115 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:58
- 「…梨沙子」
「みやのバカ。そんなこと思うなんてバカだよ。あたしなんか」
「あたしなんかなんて、言うなぁ…」
雅も堪え切れずとうとう両目からぽと、と雫を零した。
そんなくだらないことで梨沙子を傷つけたのか。そう言って責められた方が楽になれたはず。
けれど梨沙子は懸命に雅を大切だと叫ぶ。泣きながら、雅を憧れだと叫ぶ。
雅はそんな梨沙子がいじらくして、かわいくて仕方がない。
どうしてこんなに愛しい存在を、一瞬でも憎いと思ってしまったのか今は分からない。
理由を探す暇があればもっと目の前の存在を大切にしたい。
「ごめんねみや、苦しかったよね…?あんなの、見たくなかったよね?」
「見たくなか、っ…でも、あんたが謝ることじゃないでしょぉ…?」
「わかってるよぉ、でも謝りたいんだもん…っ」
「…バカだね、あんたはほんとに」
「うん、バカだから…だから、みやがいなくちゃダメなの」
「…うん、わかってるよ?」
「みや…っ、ぅう、うぁー…うあああぁん」
「梨沙子、ごめんね。本当にごめん」
泣きじゃくる梨沙子を、雅もまた涙をとめどなく流しながら抱きしめた。
梨沙子を慈しむ雅の表情はあまりにやさしくて。
見ていた小春も涙を流していた。
二人ともやさしくて。
二人とも互いが大切で。
それが痛いくらいに伝わった。
- 116 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:59
- 小春はいつか、この二人にとっての互いみたく…この二人にとって、近すぎるほどの存在になれるのだろうか?
不安と、期待。
少しの嫉妬。
なれるかな?
なりたい。
なってみせる。
…そんな感じ。
「…小春」
「…なに?」
雅がふいに小春を見た。穏やかで、少しだけ澄ました雅の顔。
うん、何も言わなくてもわかる。雅の言いたいこと。
でもなんだか直接言葉にしてもらいたいような気持ちになって、そのまま聞く体勢をとった。
雅は小春の単純な心など見透かして笑う。
「梨沙子の傍にいてくれて、ありがとうね。いっぱい、いっぱい頑張ってくれてありがとう。
小春がいなかったらうちら仲直り出来なかったかもしれない…本当にありがとう」
「…ううん」
- 117 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:59
- ああ。
いざ言葉にされると、嬉しくてたまらないはずなのになんだか胸が苦しくなる。
嬉しすぎると、苦しくなるものなの?
返事もいっぱいいっぱいだった。これ以上何も言える気がしない。
どうしよう、嬉しすぎる。
体の容量よりも多い喜びを無理やり詰め込もうとして、なんだか苦しいよ。
苦しさを堪えて涙を拭い、笑って見せる。
雅も同じようにして笑う。
いつも挨拶と交わすような笑顔が何より宝物に感じた。
これからもあなたは大切な友達。きっと、親友。
言葉にしなくてもいい。言葉にしないほうがいい。
きっと私たち、また少し近づいた。これからも近づいていければいい。
- 118 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 12:59
-
「こは、る」
「ん?何、梨沙子」
うつむいていた梨沙子が顔を上げて、小春を潤んだ赤い目で見つめた。
小春はなるべくやさしく笑えるように、と思って笑った。
涙に濡れた顔も、本当に綺麗…なんて。そんなことばかり考えてしまう自分に心の中で苦笑した。
そんな小春に、梨沙子は満面の笑みを向ける。
小春が思わずどきりとした瞬間にその瞬間は訪れた。
- 119 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:00
-
「大好き!!!」
あまりに直球で、初め何がなんだかわからないくらいだった。
だんだんと意味が染み込んできた時にはもう梨沙子は雅ごと小春を抱きしめていた。
「もぉー、梨沙子」
「あははっ、大好き!みんな大好き!」
「いたぁい!もぉっ…ふふっ」
雅のくぐもった楽しげな声。
梨沙子のからっとした明るい笑い声。
「コハルも…大好き!」
小春はとりあえずこれでいいか、と思い、飛び切りの笑顔で言葉を返した。
梨沙子が声を上げて笑った。とても、とても嬉しそう。
今はまだ、小春と梨沙子の好きの意味が違うということを言わなくても。
いつか言える日が来るまで、ずっと隣にいたいと思った。
- 120 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:00
- 「…どうしよう、もう五時間目始まっちゃったよね」
チャイムは耳に届かなかったが、おそらくもう授業は始まっていた。
「もうちょっと、こうしていたいなぁ」
「…あたしも」
小春と雅は顔を見合わせてだよねぇ、と同意した。
元来真面目とは言い難い性格の二人は、腰を置きしばらく動かないと決め込んだ。
「……」
どちらかというと義務は重んじるものだという考えの梨沙子は困ったように二人を見ている。
小春も雅もわかっていて、知らない振りをした。
「どうしたの?梨沙子」
「ほらほらぁー」
ぽんぽんと雅が空いた隣の草むらを叩くと、弾けるように梨沙子はその場所に座り込んだ。
もうどうにでもなれ、とでも言いたげに小鼻を膨らませてぎゅっと拳を握り締め、肩を強張らせて正座をした。
まるで自分に罰を与えているよう。
でもどこか滑稽な梨沙子の姿に、小春も雅も笑わずにはいられなかったのだった。
話したいことは沢山ある。
明日も話せるけれど、今日話したいこともいっぱいあるのだ。
会話はなまもの。鮮度が命。
だから、いっぱいいっぱい話したい。
「てかさ、てかさぁ!」
- 121 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:00
-
+++++
- 122 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:02
- 「子供だけじゃどうにもならなそうなら呼んでって、オイラが言ったのに。
オイラがちょうど職員室出てたから焦らせちゃったよ。
よっすぃーには助けられちゃったね。ほんと、ありがとう…あぁーもうダメだオイラー」
「なんかオイラーってボイラーみたいですね」
「…相変わらずだな、お前」
「おかげさまで」
「意味わかんない」
ひとみは真里に思わず脱力してしまうような笑顔を向ける。
真里はいつも必要以上に抱えこんでしまう癖があるから、適度に力を抜けるような人が側にいるといいだろうなあと思う。
真里ならばすぐに見つかるだろう。何せ、見た目も小さくてかわいいし。
それに、本当に魅力的な人だから。
「あんまり思いつめないでくださいね。子供にどうにもできないことはたくさんありますけど、
大人にだってどうにもできないことはたくさんあるんですからね。
それに子供は思ってるよりもずっと強いです」
「…ん。ありがと」
真里がふわりと笑う。
やさしい空気になって、なんだか敵わないなぁと真里はいつも思わされる。
でも、自分に出来ることをすればいいと、今はもう分かるから焦らない。
- 123 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:02
-
「じゃあ、そろそろ失礼します」
「おー、もうこんな時間…って次の授業!ギャー!!」
真里は急に慌てて甲高い声を発しながら走り去ってしまった。
ひとみと愛は一瞬の間を置いて顔を見合わせ、噴き出した。
「楽しい先生ですね」
「でしょ?あたしの自慢の先生だよ。内緒だけど」
ひとみの嬉しそうな笑顔に、やはり愛も嬉しくなった。
そしてふいに近くにいることが急に恥ずかしくなったりもして、どうしてだか忙しい。
でもやっぱり、嫌じゃない。
「じゃあ、もう行こうか」
「はいっ」
二人は椅子から立ち上がり、人気の少ないルートから校舎を出た。
折角だから愛が見つけたフェンスの切れ目から学校を出た。
ひとみにとって懐かしい景色。
ここが包み込むのは、たくさんの気持ち。
好きも嫌いも、辛いも楽しいも、この大きな入れ物の中にはなんでも詰まってる。
それにぶつかっては感じ、思い出にしていくのだろう。
ひとみは中学生の時の思い出を話し下手なりに一生懸命、身振り手振りで伝えていく。
愛は、時には伝わらないこともあったけれど、とにかくひとみが楽しいならば愛も楽しくなった。
- 124 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:03
- 歩きながら、ひとみは頭の中で今日あった出来事を何となく振り返ってみた。
何か、とてつもなく大きいようで、でも今日より前にもうあったような出来事。
…。
そうだ。
うん。
あれ。
え。
なんかゴタゴタに巻き込まれて有耶無耶になってたけど、
…あたしらってなんかすっごいことしてない?
- 125 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:03
- ひとみは急に恥ずかしくなってくる。
でも、もうこれ以上恥ずかしいことなんてないような気がした。
そう思うと、不思議とこれからすべきことが見えてくるようだった。
そうだね。あたし達、まだ何もちゃんと言ってない。
決めたらその時に言わなきゃ。あたしはきっと、また逃げてしまうから。
…よし。
「…」
「ん?どうしました?」
急に足も口も止めたひとみ。
二歩先に出てしまい、愛が振り返った。
振り返った先のひとみは、何か言いたげに軽くうつむいたまま目を泳がせている。
- 126 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:03
- 「あのさぁ」
「はい?」
「たぶん、これを逃したら一生言えないかも知れないから言っておくね」
「?」
「あーっと…その、あのね?」
「はい」
愛は、ひとみのただならぬ気配に少し改まって背筋を伸ばした。
心音が緊張のためか大きく聞こえる。
ひとみはぽり、と額を掻いて、みるみる顔を赤くしていく。
「あたし、愛ちゃんのこと好き」
- 127 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:04
- 「……」
「…ん、言った、言ったよ?あたしは言った。
ていうかねーマジであたし、こんなん初めてだからね!」
言った後より顔を赤くして、耳まで真っ赤に染め上げて、ひとみは足早になった。
愛はとりあえずついていくものの、顔はきょとんとしていた。
と。
「…って、ちょっと!!!!!」
「うわ!?」
愛が唐突に叫ぶので思わずひとみに不整脈が起こる。
ドッドッドッドッ。
ただでさえドキドキしていた心臓がさらに上乗せされて激しく鳴る。
ひとみは胸を押さえながら振り向いた。
「なん、なに…え?何?どうしたの」
「……」
愛はどうやら怒っているようだ。
何かまずい事を言っただろうかとひとみは思い返すが、いまいちぴんと来ない。
…好き。
と、言った。
だけ。
- 128 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:05
- うわ。
今更ながらまたも顔が赤くなる。
それが何か彼女の怒りの原因なのか?愛は顔を赤くしながら肩をいからせている。
けれどいまいち迫力がなくて、そんな姿もかわいらしく見えた。
愛は次にはみるみる眉を下げて、泣きそうな顔になった。
「なんでぇ」
「へ?」
「何で先に言っちゃうんですか!」
「何が?」
「あーしが先に言おうって思ったんですよ!ちゃんとぉ、今までお世話になりっぱなしやったからぁ、
告白くらいはあーしからしようって思ってたんです!それをぉ!なんでいっつもそやってぇ…」
「…え」
愛は方言全開で、涙を浮かべながらそのどうにもならない気持ちを手振りで必死に伝えようとする。
どうやら、ひとみが先に好きと言ってしまったことがまずかったらしい。
そうかそうか。
え。
「…いや、それならさっきの空気あったじゃん?あの時被せてくれてもあたしは構わなかったんだけど」
「まさか好きとか言うなんて思ってなかったんです!」
「いやいや、あれは普通に考えて告白の空気だったでしょうが」
「あーしはそういうのわからんもん!ほやからぁ、ちゃんと聞いてもぉたやないですか!」
「…あー…」
- 129 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:05
- そうは言うものの、今更発言をなしになんて出来ない。
ひとみは頭を掻いて眉を下げた。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
頭の中で目まぐるしく思考が回っていくけれど一つには止まらず、いつまでも色々なことが巡っている。
とにかく。
とにかく。
えっと、とにかく…謝ろう。
「いやぁ…そっか。なんか、…ごめん」
恐る恐るといった感じでひとみは愛の顔色を伺いながら謝罪した。
どうしたらいいかわからないけど、怒っているのなら謝らないと。
正直まだどうしてそんなに怒られているのかはわからないのだけれど。
でも愛には嫌われたくなかった。
「……」
「…ごめんね?」
- 130 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:06
- 困り果てたひとみが俯いた愛の顔を覗きに来る。
少しずつ距離が近づいてくる。
愛ちゃん、と呼ぶ声が弱くて。
震えるほどの感情が押し寄せる。
ずるい。
ちゃんと、言わせて欲しい。
自分だけ楽になってずるいよ。
…もう。
愛は思い切ってぶつかるようにひとみの胸の中へ飛び込んだ。
というか、もうそれはほとんどぶつかっていると言えた。
ひとみはあまりに驚いて、確かに何かの考え事が吹っ飛んだ。
「うおっ、なになになに」
「…」
愛は、ひとみの胸の中でひとみを見上げた。
女性同士とは思えないほどの身長差。見上げるのが少し苦しいくらい。
愛は、あまりに近いひとみの整った顔にめまいすら覚えた。
ひとみもまた、愛のどこか幼い顔立ちと吸い込まれそうなほどまっすぐな目に戸惑うほど惹きつけられた。
- 131 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:07
- 体が触れ合っていると、互いの心音が伝わってくる。
互いに破裂しそうなほど高鳴っていることがわかり、恥ずかしくも嬉しくもある。
愛は、熱に浮かされたように不思議な空間でひとみだけを見ていた。
その柔らかそうな唇から、零れ落ちた言葉。
「…愛してます」
これ言うのは、あーしが先ですから。
と、あくまでも真剣に、まっすぐに。
愛。
なんて。
そんなこと、思ってても簡単に口になんかできないのに。
不思議なほど全て本当のまま、愛を語る人。
好きが精一杯だった自分が恥ずかしいほど、愛はまっすぐだった。
- 132 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:07
- …うん。
そうだね。
あたしはなかなか言えないと思うけど…ちゃんと、愛ちゃんのこと。うん。
言えないけどこんなに。…言えないけど。
「あぁもぉほんとにさぁ…」
「…!」
こんなにきつく抱きしめているくせに、抱きしめ返されたら愛の体はこわばった。
それでもやさしくそうしているうちに、愛の体から力が抜けていく。
小さな、柔らかい愛の体を守るように抱きしめているけれど、
本当は愛のもっと大きな何かに守られているのかもしれない。
なぜかそんな風に思って、少しだけ泣きそうになった。
やばい。
本当に、なんなんだろう。
中学生じゃあるまいし、こんなことで戸惑ってどうしたらいいかわからないなんて。
信じられない。
なんなんだろう。
- 133 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:07
- 「あたしさ」
「はい?」
「これ初恋かも」
「……ウソだぁ」
「信じられないよね。あたしだって信じられないもん」
「…でも、そうなら嬉しいです」
「うん、喜んで」
「ふふっ」
「……で、この後どうしよう?」
学校に戻るには中途半端な時間。
けれどきっと、離れたらその後は家に帰るだけ。なんとなくだけどそんな感じ。
戻るのも、帰るのも、まだしたくない。
それなら、残っているのは一つだけだ。
- 134 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:08
-
「…とりあえず、もうちょっとだけこうしませんか」
「おお、ちょうどあたしもそうしたかったんだ」
というわけで、とりあえずもうちょっとだけ、このままで。
- 135 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:08
-
+++++
- 136 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/05/25(日) 13:08
-
- 137 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/25(日) 13:12
- 更新終了です。
>>104さん
こんな感じになりました。
あー嬉しいです、見えるって言っていただけるとなんだか書く甲斐あります。
吉澤さんはついこういことさせたくなっちゃうんですよね…
>>105さん
いえいえ本当にこちらこそありがとうございます。
読み続けてくださる方がいると思うととても力になります!
- 138 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/25(日) 13:22
- 青春!、って感じですねー
心地よい読後感です
次回も楽しみにしてます♪
- 139 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/25(日) 13:51
- >>126の吉澤さんかわいー!
こうまでストレートな言葉を選ぶ吉澤さんてあんまり見たことなかったから、キュンキュンきましたw
- 140 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/25(日) 16:02
- 心理描写が丁寧で味わい深いですなあ。
後半かなり照れましたよ(;´д`)
リアルにハァーンと叫びそうになりました。
- 141 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:40
- 放課後になって、小春たち三人はそろりと教室に戻る。
数名残っていたものの、ほとんど人はいない。
その数名は、どうやら三人の行方が気になっていたようだ。
小春に梨沙子が連れて行かれたと教えてくれた女生徒も、中にいた。
「…えと、ただいま?」
小春がへらっと笑うと、その数名が一気に三人のもとへやって来た。
「梨沙子ちゃん、大丈夫だった?」
「え?うん…大丈夫だよ?」
「…あの、本当にごめんね、今までいろいろ」
「あたしも、反省してる」
唐突にクラスメイトに頭を下げられて、梨沙子はわたわたし始める。
「…ううん、大丈夫だよ。あの、顔上げて?あたしは全然…」
その様子に雅と小春は顔を見合わせて笑い合った。
「うん、やっぱりあんたらは三人仲良しじゃないとしっくりこないよ」
クラスメイトにそう声をかけられて、なんだかとても嬉しくなる。
「だよねぇー、えへへへぇ」
小春は雅の肩を抱き、梨沙子と微笑み合った。
その様子を見て、クラスメイトたちも安心したようだ。
- 142 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:40
- 和やかな雰囲気の中、一転して一人の生徒が話し始めた。
「…あの後、なんかね、急にあのグループで『私はやりたくなかった』とか言い始める人が出てきて。
『こいつに命令されて、従うしかなかった』とか…『こいつが言い出した』って、全部あいつに押し付けて。
なんていうか、あいつ孤立しちゃったんだよね。
私たちも人のこと言えないけどさ、なんか…責任全部擦り付けてさ…そういうのって…」
その話を聞いて、誰もが口を閉ざす。
小春はふつふつと忘れていた怒りがわいてきた。
それは自分を守る手段だと頭では分かっているつもりだ。けれど、納得がいかない。
散々グループのリーダーのことを持ち上げておいて、いざ危なくなったら置き去りにして全部押し付けて逃げるなんて。
そんなのおかしい。そんなの友達じゃない。
本当は今すぐにでも文句を言ってやりたい衝動に駆られる。
けれど本人はもうどこにいるのかわからなかった。
- 143 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:41
-
「明日」
その力強い声が、一瞬誰のだか分からなかった。
「明日、話しよう。ちゃんと話せばわかってくれるよ」
梨沙子が、教室にいる全員へ向けて力強く言った。
彼女の持ち得る芯の強さ。それは、限りないやさしさでもあって。
誰もが見とれるような輝きに満ちているのは、小春の贔屓目だろうか?
「うん…わかった、明日ね」
「今日はもう帰ろう、疲れたでしょ?」
「帰ろう」
- 144 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:41
- 中学生もなかなか毎日大変だと、よく思う。子供だって、必死に生きている。
子供だからこそ出来る生き方があるんだと思う。
今を精一杯生きると決めている。
笑い合って。
たまにはぶつかって。傷つけ合って。
悩んで、泣いて。
そして、また笑い合う。
喧嘩をしたりすれ違ったりする時に、その人をどれだけ思っているかを感じる。
どうでもいい人とは仲直りしたいなんて思わない。
喧嘩だってたまには悪くないのだろう。もちろん、1対1。これはお約束にしよう。
たくさんのことを教えてくれる先生の言葉なのだから。
そういえば、「戦意喪失・藤本美貴作戦」って。
美貴は口喧嘩が強いだろうことは知っているけれど、なんてネーミングなんだろう。
今日帰って時間になりひとみが来たら、まずなんて言おうか。
あの人のどこら辺に惚れました?
なんて言って告白したんですか?
…キスはもうしました?
やばい、楽しみ。
小春がひとりでにやけていると、雅はどうせ良からぬことでも企んでいるのだろうと
軽く小春の頬をつねった。
「いふぁい!ふぁにふんのー!」
間抜けな小春の声に、一気に場が明るくなったのだった。
- 145 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:41
-
+++++
- 146 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:42
- 「もーうるせえうるせえうるせえ!てめえマジで黙れ!」
耳たぶまでこれ以上は無理というほど赤くしたひとみが小春にクッションを投げつけた。
小春はクッションを受け止めて、ニヤニヤした顔を引き締めることなどしない。
「そんな照れなくてもいいじゃないですかぁー、先生もう22歳でしょ?
今更どこが好きとか、ちゅーがどうとか、それくらいの質問に照れないでくださいっ」
「年齢は関係ないんだよ!そういう話は小春にはまだ早い!」
「そういうって…コハルの友達は足をどっちも横にしたらすごい気持ち良かったっていう話とかしますよ」
「何の話!?」
ひとみが大きな目をこぼれそうなほど剥いて、思わず仰け反った。
小春はきょとんとしたまま、確信犯めいた笑みを浮かべてひとみに詰め寄った。
「ええ?なんのって…吉澤先生知りませんか?」
ひとみは一転顔を青くして小春の口をふさぐ。
「…小春は…まだ、だよね…?」
ひとみがあまりに今にも泣き出しそうなほど心配しているものだから、つい意地悪したくなる。
「どうでしょうねー、コハルこれでも結構モテますよぉー?うふふぅ」
「……」
冗談に聞こえない小春の顔。
ひとみは目の奥がくらっとして、思わず机に腕をかけてもたれかかる。
「最近の中学生は本当に…もうなんなんだよ…
あたしなんて14の時の彼氏に連れてってもらった場所野球場だぞ…しかもデイゲームだぞ。
なんかやだ。母さんが妊娠したのを知ったみたいなそういう気分」
「?」
なぜ母親?という疑問をこめて小春が首を傾げると、ひとみは一瞬言いよどんだものの、はっきりと言葉にした。
- 147 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:43
-
「家族の、そういうのってなんか聞きたくない。そんな感じ」
唇を尖らせて視線を落とし、ひとみは本気ですねているようだ。
「…」
でも小春はひとみの言葉が嬉しかった。
込み上げて来る感情に歯止めがきかなくて。
体のしたいままに任せてぎゅっとひとみにしがみついて、小春はひとみを見上げる。
「コハル、家族みたいですか?」
「え?当たり前じゃん、小春は大事な家族だよ…嫌?」
「嫌なわけないじゃないですか!何を言ってるんですか!」
一瞬表情を翳らせたひとみの不安を吹き飛ばすように小春は大きな声で被せた。
その勢いに気圧されて一瞬肩を強張らせたひとみをさらにきつく抱き締める。
「…」
すりすりすり。
自分の胸元に額を擦り付ける小春の顔が見えなくて、ひとみはとりあえず小春の髪を撫でる。
- 148 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:43
- 突然。
がばっ、と思い切り顔を上げた小春にひとみは間一髪反応して衝突をかわし、小春の様子を見守っていた。
「ちょっと待っててください!」
ひとみを置いて小春は部屋を飛び出した。
どたどたどたー。
「こら、階段音立てて下りないの!」
どたどたどたー。
ひとみがきょとんとしている間に大きな音を立てて母親に怒られながら小春は戻ってくる。
母親の怒号などで懲りている様子もなく、その手にはカメラが握られていた。
「記念撮影しましょう!先生とコハルの家族記念です!」
「…はぁ。まぁいいけど」
小春があまりに嬉しそうで、なんだか笑ってしまう。
「いきますよ、いきますよ、はいチーズ!」
小春が手を伸ばして持つデジタルカメラに向かってひとみと小春が微笑む。
ピ、と電子音がしてフラッシュが光る。
小春はいそいそと撮影した画像を確認している。
ひとみはただただ微笑ましくて、小春を見ながら笑っていた。
- 149 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:44
- 「…あ、切れてます。もっかいいいですか?」
「あー、あたし撮ろうか?」
「いいです!コハルがやります!」
カメラをとても大事そうに抱えて決して離さず、何度も何度も撮り直し。
けれど、何度付き合っても今日はひとみも疲れたり呆れたりしなかった。
今日は人生でもまた一つ出来た大切な日だと、心から感じた。
「小春」
カメラとにらめっこしている小春を呼ぶと、小春の大きな目にひとみの姿が映りこむ。
映りこんだ自分の顔は、優しいと自分でも思えた。
小春。
ありがと。
- 150 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:44
-
「…やっぱ、なんでもない」
照れくさくなって目を逸らしたひとみに小春はにかっと大きく口を開けて笑った。
「えーなんですかぁーすっごい気になる!えいっ!」
唐突にピカッと何かが眩しく光った。どうやら写真を撮られたようだ。
「あはははっ!せんせぇすごい顔してますよー」
「おまっ、消せそれ!何勝手に撮ってるんだよ!」
「やだやだー!」
こんな風に、ただ遠慮なく笑い合えればいい。
なんの心の引っかかりもなくふざけ合えたらいい。
たまに喧嘩をしても、家族ならきっとまた仲直りできる。
大切だといつまでも思える気がする。
血よりも深く互いを繋ぐ何かを感じて、ひとみは騒ぎながらほんの少しだけ泣いた。
- 151 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:44
-
家庭教師の時間が終わり、ひとみの帰る時間。
小春がついテレビドラマに気を取られているのを見ながら、ひとみと小春の母親は顔を見合わせて苦笑いをした。
「すみませんでした、今日は騒がしくて。次からは勉強しっかりさせますんで」
「ううん、楽しそうでいいんじゃない、たまには」
「あはは…でも小春ちゃんはいつも楽しそうで、本当に」
「やだ、小春はいいのよ。…吉澤先生、あまり頑張り過ぎないで下さいね」
「え?」
ひとみが驚いて小春の母親を見ると、懐かしい笑顔が浮かんでいた。
かつて世の中にはどうにもならないことなどないと思っていた頃、ひとみの母親はあんな風に笑っていた。
「まだ若いのに随分しっかりしているから、たまに心配になっちゃうのよ、おばさんってお節介だから。
なにか困ったことがあったら何でも言って下さいね?出来ることならば力になりますから」
「…はいっ、ありがとうございます」
嬉しさを隠せないままに笑って、照れくささに耳が熱くなった。
肩に乗せられたやわらかくやさしい手のぬくもりが、妙に心に沁みた。
- 152 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:45
- 「わーっ、ごめんなさいごめんなさいっ、今日もありがとうございました!」
「小春、足音立てないって何回言わせるの」
唇を尖らせた小春の頭を少し乱暴に撫でたら、小春は見る見る破顔した。
「またね」
「はいっ!」
ぶんぶんと激しく振られた手も、今日はいつもよりずっと嬉しい。
いつもより少しだけ大きめに手を振り返した。
今日は、夜道も怖くない。
携帯を握ろうとした癖を途中で止めて、そのまま両手を後ろに組んで弾むように道を歩いた。
夜の星が少しだけ見える。
ほんの少しだけでも良かった。
見付けきれないくらいの星はすでにひとみの周りにいっぱいあった。
- 153 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:45
-
+++++
- 154 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:45
- 「おはようっ」
多分、梨華は笑っておはようと言ってくれると思ったのだ。
その隣に美貴がいて、その隣にまいがいて。
四人で歩きだし、何気ない会話をして。
そして、いつの間にかひとみと梨華だけになっているのだ。
いつもと同じようで、いつもとは違う。
二人無言のまま、だんだんと人気のない場所へ来た。
ひとみは自分の性格上心臓が心配だったが、何故だかあまり速くはなかった。
「…うん」
一人納得したように頷いて、梨華はひとみの前に立った。
梨華は笑っている。
ひとみも同じように笑おうと思った。けれどやはり上手く笑えない。
本当に情けない。…それでも、せめてちゃんと言わないと。
- 155 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:46
- 「あのね、梨華ちゃん」
「うん」
ひとみはぎゅっと痛みを飲み込んで、梨華をしっかりと見据える。
梨華もしっかりとひとみの目を見つめた。
「この間の、返事だけど」
「うん、聞かせて」
「…」
梨華は笑っている。
ひとみは痛みに耐えて、次の言葉を言わなければならない。
「…ごめん。好きな人がいるから、梨華ちゃんの気持ちには応えられない。
今まできっと、あたしが気づかないところでもたくさん傷つけたよね。本当にごめんね」
「…ううん、いいよ。謝らないで」
梨華の、ほんの少しの翳った笑顔。どれも穏やかで綺麗で。
そう。
魅力的な人だから、とてもとても大切な人だから。
- 156 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:46
-
「あたしのこと、好きでいてくれてありがとう」
ありがとうと、言いたかった。
その時に、やっと心から笑えた。
「…うん!わたしこそ、本当に楽しい時間をありがとう。
本当に本当に幸せな時間だったよ…!」
梨華が、まさに華の如く笑顔を咲かせた。梨華の笑顔は本当にまぶしい。
梨華にはこの先もずっと笑顔でいて欲しい。
ずっと笑顔でいさせてくれるような誰かと出会って欲しい。
誰かを好きになるということは、例え失恋でもこんなに人を綺麗にさせるんだ。
美貴もそうだった。
亜弥もそうだった。
小春もそうだった。
愛もたぶん、そうだ。
自分はどうだろう?
ほんの少しだけ、誰かに聞いてみたい。
- 157 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:46
- 梨華はくるっと太陽に向かって大きく腕を広げた。
「ふふっ。わたし、これから新しい恋する。
もっともっと綺麗になって、よっすぃ達以上に幸せになってやるんだから」
振り返って見せるいたずらっぽい幼い笑みも、愛らしくて魅力的。
「それはあたしらも頑張らないと」
自分でも少しだけ梨華のまねをして笑ってみる。
二人で言葉もなく笑い合う。
やがて、どちらからともなく校舎に戻るため歩き始めた。
「…ていうか、よっすぃ達付き合うことになったの?」
「え?ん、…うん、まあ」
昨日の一部始終を思い出して思わず赤面。
その赤みの見事さに梨華は堪えきれず笑う。
- 158 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:47
- 「そっかぁ…よかった。二人とも妙に遠慮がちだったからそこまで行ってないかと思った。
よかったね、美貴ちゃんにぶっ飛ばされないで済むよ」
「…え?何それ」
「昨日言ってたよ、あそこまでして告白の一つも出来ないようならぶっ飛ばすって」
「……」
梨華は冗談は言わない。
そして美貴ならば本気でやりかねない。とりあえずほっとして、苦笑した。
「うん、良かったわ。美貴容赦ないからね」
「相手との力の差とか相手が無抵抗とか関係ないもんね」
「それは梨華ちゃんもそうでしょ、子供相手にすぐムキになったりするでしょ」
「当たり前じゃない、子供だっていけないことはちゃんと教えないと」
いきなり真面目な顔をして本気で力説するその顔。
何故だか少しだけおかしくて、笑ってしまう。
「あ、ちょっとなんで笑うの!?もぉ!」
「ごめんごめん、なんか…いやなんでもない」
「言いかけないでよ気持ち悪いなぁっ」
もしかしたら、互いに無理しているのかもしれない。
梨華は特に、がんばっているのかもしれない。
でも二人は今、かけがえのない友達として笑い合えた。
それがひとみは本当に嬉しくて。
ありがとうと言いたい分だけ、たくさん笑った。
- 159 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:48
-
+++++
- 160 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/07(土) 00:56
- 更新終了です。
あと1、2回で終了します。
>>138さん
ありがとうございます。
青春、いいですねー。そう言って頂けると嬉しいです。
>>139さん
ありがとうございます。
こういう吉澤さんがとても好きなんですw
言葉ではなく行動で表す吉澤さんも男前でいいですが、たまにはこういう感じもいいかなと。
>>140さん
ありがとうございます。
後半部分は書いてる方もかなり照れました。
- 161 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 01:02
- よしこはハァ━━━━━━ ;´Д` ━━━━━━ン!!!!
- 162 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/07(土) 02:09
- 梨華ちゃんいい女だなぁー
- 163 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:15
- 「小春っ!いつまで寝てるの!お友達来てるからっ」
「んぁ…?」
ベッドに潜り込んでいた小春はさゆみの大きな声で一気に覚醒する。
…友達?
慌ててドタドタと音を立てながら服を着替え、階段を駆け下りる。
とりあえず身に着けただけ、といった制服の着方で階段を下りながら居間に目をやると、二人。
「こはるー、おはよぉ」
「おはよう」
梨沙子と雅が居間のテーブルの横に座っていた。
梨沙子は屈託の無い笑みを、雅は少し呆れたように微笑を。
…わあ。
なんだろう。
すごく、すごくうれしい。
「おはよう!」
小春は勢いのままに階段を三段飛び越えて下りて、母親に怒られた。
それからも髪を整えながらおかずをつまみ食いして、怒られたり。
今日はいつもの三倍は怒られた。
それでも嬉しくてたまらなかったので、ずっと機嫌が良かった。
- 164 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:15
- いつもの道も、なぜだか明るく見える。空も三人を見守るように爽やかに晴れていた。
「ごめんね、なんかみやもあたしも早く目が覚めちゃって」
「ううん、大丈夫!」
「っていうか小春が図太いだけでしょうが」
「なーんで!健康的だよ?」
「うん、それはそうだね。そういうことじゃなくて」
小春の高い声に、雅の頭が痛いような仕草。
そして、梨沙子がふわふわ笑っていて。それで足りないものはなくなった。
小春はやはり楽しくて楽しくて、いつまでも明るく話し続けていた。
- 165 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:16
-
「おはよー!」
「あー、おはよう!」
「おはよーっ」
「「「…」」」
小春たち三人が教室に入った途端、教室の女子に一気に囲まれながら挨拶の嵐。
梨沙子が驚いて小春と雅の後ろに隠れた。
なんだかなあ。
小春も雅も雑にあしらって、自分たちの席へかばんを置きに行く。
梨沙子もそれに続いた。
と、三人の視界がある光景をとらえた。
- 166 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:16
- 「見てよあれ、自業自得」
「ほんとさぁ調子に乗りすぎだったよね」
「実際あいつが言い出してさぁ…逆らえないみたいな空気にしてさ」
「ほんとにもう一番うんざりしてたのはあいつになんだよね」
くすくす。
くすくす。
小春の背筋に何か重く冷たいものがぞわっと走った。
椅子に腰掛けて、視線をやや下に置いて微動だにしない姿。
雅をそそのかし、梨沙子を貶めた張本人は今ただ一人でいた。
何かに耐えるように、何かに怒るようにただ唇を結んでいる。
「…」
小春はじっとその光景を見ていた。
以前の小春ならば、自業自得だと感じていただろう。
そして、手を差し伸べることなど頭に浮かぶはずも無かった。
大勢のクラスメイトと同じように思っていたはずだ。あいつが全部悪いと。
今は少しだけ大人になれたのだろうか、冷静に世界が見える。
彼女は今回の責任を全て押し付けられた。
まるで、彼女が全てひとりでやったかのように。
- 167 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:16
- 「梨沙子ちゃん、本当にごめんね。どうしても逆らえなくて…
本当はやりたくなかったんだよ?あんなこと」
「もう許して貰えないんじゃないかってずっと怖かったよぉ」
「梨沙子ちゃん本当にかわいそうだったー」
梨沙子の腕に自らの腕を何の躊躇いもなく絡ませ、
昨日までも仲良しだったように振舞うかつての取り巻きたち。
見ているだけで気分の悪い光景だった。
それが例え本心からの行動でなくとも、
梨沙子を無視して笑っていた自分の行動の責任を全て一人に擦り付け笑う。
今は梨沙子をちやほやしていたほうが自分の立場は安全だという選択。
友達って何だろう。
小春は何度も自分に問いかける。
自分もかつてはああしていたのかもしれない。
損得で人との接し方を考えていたのかもしれない
でも色々あって、知って。
人と人との関わり方って、きっとそういうんじゃなくて。
わかって欲しい。無理かもしれないけど。
友達ってもっとすごいものなんだよと、叫びたくてたまらないのだ。
- 168 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:17
- 「…」
梨沙子は初め、なんとなく力の無い笑顔をしていた。
組まれるままの腕もだらだらと揺れるのみ。
しかし、やがて組まれた腕をやさしくほどく。
「…どうしたの?梨沙子ちゃん」
梨沙子は元取り巻きたちの質問には耳を貸さずに歩いていく。
もちろん、彼女の元へ。
俯いていた彼女の前に立ち、優しく笑っていた。
彼女は睨むように梨沙子を見上げている。
「…いい気味でしょ。自業自得だって、思ってるんでしょ。
いつまでもいい子ぶってないでなんでも言えば?ああ、男子の前じゃ無理か」
いつもの悪態にも力は無い。
小春はあんなにも弱々しい彼女の姿を見たことが無かった。
しかし、彼女が本当に強い人間ではないことは薄々気が付いていた。
取り巻きというコウモリにたまたま持ち上げられていただけだと、わかっていた。
雅もじっと彼女と梨沙子を見つめていた。
雅の中で大きかった彼女の存在。彼女に嫌われたら何もかも終わりだと思っていた。
今はとても小さく見える。彼女は同い年の、まだ幼い少女だった。
- 169 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:17
- やがて、梨沙子は静かに口を開いた。
「今ならわかってくれる?」
静かに響く声。
見た目で想像するよりも落ち着いている声色。
涼しいその声が小春の耳にも届く。
「は?」
「…今なら、こんなことされた人の気持ちわかる?
今まで普通に話してたクラスの人が、急に自分を見なくなった時。
いきなり、誰も自分の周りにいなくなった時。どんなに悲しくてどんなに辛いかわかる?」
「あたしは悲しくなんてない。初めから誰も信用なんかしてなかったもん、裏切られたって悲しくない」
吐き捨てるように梨沙子に言葉をぶつけるけれど、ただの強がり。
誰もがそれを悟り、ある者は嘲笑し、ある者は哀れみ、ある者は何も感じなかった。
梨沙子はそっと目を伏せて、睫毛を震わせる。
「…そんなの、悲しいよ」
悲しい、と言った後にしっかりと彼女の目を見据える。
彼女は負けない、負けないと叫ぶように梨沙子を睨むけれど。
梨沙子は睨んでいないのに、なぜか彼女は梨沙子が怖い。
「…はぁ?何言ってんの?」
「誰も信じないなんて言わないで。信じて欲しくない人間なんていないと思う。
でも誰かを信じなきゃ、誰も信じてくれないよ。
だからあたしはあなたを信じることにするよ。信じて欲しいから」
「うぜえんだよ、いい子ぶんなって言ってんだろ!」
バァン!
机を叩いた音にも全く動じずに、梨沙子はただ彼女を見つめている。
- 170 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:18
- 「いい子ぶる?」
「どうせあたしのこと笑ってるくせに」
「笑ってはいないよ。ただ可哀相だなとは思うけど」
本当に悲しげなのだ。軽蔑とはまた違う哀れみ。
梨沙子の決意に満ちた姿に彼女は怯んで、とうとう目を逸らした。
梨沙子はそれでも言葉を続けていく。優しいけれど、甘くはない響き。
「あたしはあなたに辛い思いをして欲しいわけじゃない。仕返ししたいわけじゃない。
ただ、誰かを傷つけた時に相手がどのくらい痛いかを知ってほしい。
自分が傷つかなきゃ、自分が傷つけた人の痛みだってきっとわからないと思うし。
人の痛みに気が付いてほしい。ちゃんと考えてみて。人を傷つけることがどういうことなのか。友達って何なのか。
…あなたが、答えを見つけてくれるって信じてる」
最後に、やさしく微笑みを添えて。
彼女がいつか人の痛みに、友達という言葉の本当の意味に気が付いてくれることを心から信じているのだろう。
「あなたたちも」
梨沙子は方向を変えて、梨沙子をちやほやしたかつての彼女の取り巻きに向かって言う。
彼女たちは自分たちの罪を罪とも思っていないのだろうか。
勘違いして、へらへらと笑っていた。
梨沙子はさっきまで向かい合っていた彼女に向けたものよりももっと冷たい目をしている。
「あたしに話しかけてきてくれても良いけど、あたしはあなた達を友達だとは思わないよ。
友達を便利に使う人たちまで信じきれるほどあたしはバカじゃない。
…あなたたちも、考えてね。ねえ、『友達』って何?」
- 171 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:19
- しん。
梨沙子の声で、教室が静まり返った。
梨沙子は自分の席へとゆっくり戻っていった。
強い目をしているものの、握り締められたこぶしの力の強さは見ているだけでわかる。
本当は苦しいくせに、少しだけ無理している。
小春は、雅の手を引いて梨沙子へ駆け寄る。
「梨沙子、おつかれ」
小春が梨沙子の肩を抱くと、梨沙子は力が抜けたように小春にもたれかかった。
そして、ほんの少しだけ目を潤ませていたのだが、小春は気が付かないふりをした。
悲しいことばかりで、怖いことばかりで、人を簡単に信じればバカを見るような世の中。
それでも誰も信じないなんて悲しいと梨沙子は叫ぶ。
誰も彼も信じろなんて言わないけれど。
せめて同じ時間を過ごすクラスメイトに、信じる人を見つけられたっていいじゃないか。
今までのような辛い目に遭わせた相手を、こうまでも思いやれる。
小春は梨沙子の姿が眩しかった。
- 172 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:19
- あなたに出会えてよかった。
この先も、あなたのことを見ていたいと心から思うんだよ。
お願い、そばにいさせて。
雅と言葉を交わして笑い合う梨沙子に視線を送ると、
今まで引っかかっていたものがするりとほどけていく感じがした。
- 173 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:19
-
+++++
- 174 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:20
- 「……」
「……」
なかば強引に二人きりにさせられたものの。
この視線の痛さはさすがのひとみでもいたたまれない。
愛なんて、もはや目の前の食べ物しか見えていないようだ。黙々と食事を進めている。
「愛ちゃん」
「はっ、はい!?」
「…場所、変えよう」
「はい…」
トレイを持って、ふたりですごすごと人気のない場所を探す。
すれ違う人に無遠慮に視線を向けられ、だんだんひとみもげんなりしてきた。
「もうなんだかすっかり注目の的だね」
「すみません」
「?何で愛ちゃんが謝るの?」
「え、だって、あーしがあの時よしざー先輩の所に行ったりしたから」
「いやいやそれを言うならあたしの方があんな急に飛び出しちゃったから」
「いやいやいやそんな」
「いやいやいやほんとに」
「…」
「…」
「ふふっ」
「うはは」
なぜだか楽しい。ただ話しているだけなのに、こんなに楽しい。
それは、相手が大好きな人だから。
やはり二人でいるのはむず痒く恥ずかしいけれど、遥かに越えて楽しいと感じた。
愛が笑っていれば、ただ単純に幸せ。
幸せ。
なんて優しい響きなんだろう。
- 175 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:20
-
「よーっちゃん」
歩いている時に、音符が語尾についていそうな軽やかな声が聞こえて来た。
声のするほうを見ると、ひとみはにこりと微笑み返した。
「なつみさん」
とても童顔だけれど天然で毒舌な准教授は、にっこり。一見なんの邪気もなさそうな笑顔で二人を見ていた。
ひょこっと部屋から顔を出している姿は本当に幼くて。
「なになにー、周りが邪魔だから二人っきりになれるところ探してるのー?」
「……まぁ、そうっちゃそうです…」
その唇から躊躇いもなく本当のことを口にするから、よくドキッとさせられる。
けれど悪い人ではないのだと。生徒へ向ける笑顔が優しいから、なんとなくそう思う。
そんななつみが、悪戯っぽい笑顔を浮かべて二人に向け首をかしげた。
「じゃあここ使いなよ、なっちはもう今日は帰るから」
「え、いいんですか?」
「うん。じゃあこれ、使い終わったら鍵ちゃんと閉めてね」
「はい、ありがとうございます」
ひとみが持っているトレイに彼女の趣味らしいキーホルダーが付いた鍵を置いて、
なつみはいつもの笑顔を残しスキップしながら去っていった。常に楽しそうな人だなと思う。
おそらくだが、彼女が今日この時間で上がりではなかったら三人で昼食を食べる羽目になったかもしれない。
なつみの性格を良く知るひとみはこっそり運に感謝した。
- 176 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:20
- 「じゃ、お言葉に甘えちゃおっか…って勝手に受けちゃったけどいいかな?」
そういえばなつみと鉢合わせてから、愛はずっと黙っていた。
慌てて愛の顔を覗きこむひとみに、愛はにっこり明るい笑顔を返した。
「はいっ、ここで一緒にご飯食べましょう」
ひとみは、愛が笑えば全てどうでもよくなった。
何より求めていたこの笑顔。
一生離したくない…なんて。
出会ってこんなに短い期間で結論を出せるとは思わないけれど、今ははっきりそう思っていると言える。
- 177 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:21
-
ガチャリ。
内側から鍵を閉める音が大きく響いてひとみはどきりとした。
狭いけれど日当たりもよく割と静かなこの部屋。
二人の息遣いまで聞こえてきそうで。
…まずい。
これは、緊張してきたぞ。
「…」
「…」
ひとみの感情に倣うように愛も緊張を隠せない表情でいた。
二人はよそよそしく食事を再開する。
口の中で響くレタスのシャキシャキという音。
愛がペットボトルのお茶を飲み下すごくん、という音。
いちいち一つの音が大きく聞こえていた。
このままでは、心臓の音さえ聞こえてきそうだ。
無言。
そのままで、食事は続く。
いつまでも終わらなさそうな食事が続いていく。
- 178 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:22
-
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
やっと目の前の皿の上から食べ物がなくなった。
二人して手を合わせ、軽く頭を下げてみる。いつもより少し丁寧に。
しかし、味はほとんどわからなかった。
「「……」」
非常に重い沈黙。
いつもは相手に合わせて自分を変えている、といったスタイルのひとみ。
相手が話さなければ自分が無理やりにでも話した。
今日は会話のネタも何も浮かばない。
愛が目の前にいて。
二人きりで、ご飯を食べて。
…違う。
もっともっと。
そういうことじゃない。
- 179 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:22
- ひとみが愛を大切に思うように、愛もひとみを大切に思っていて。
二人は、恋人同士で。
今それが一応はっきりしていて。
昔の自分はそんなことくらいで戸惑っていたはずなかったのに。
どうしたらいいかわからない。
そんな時は。
「…なんか」
「はいっ」
「あ、ごめん…」
「いえ、続けてください」
目を丸くしたままの愛の綺麗な顔立ちに愛しさを募らせながら。
「…なんかさ、全然気の利いたこととか言えなくて、歯がゆい。
今何したらいいのかとか、全然わかんないや」
どうしたらいいかわからないから、とりあえず今自分がどうしたらいいかわからないことを伝えてみよう。
本当はこんな情けない部分など誰彼かまわず見せたりはしない。
ただ、愛にだけはいつだって本当の自分みたいな、正直な気持ちを持っている部分を見せていきたいと思った。
愛がたくさんの辛いことを話してくれた時、心のどこかで嬉しかった。
大切な人が、隠そうと思えば一生隠せる辛い部分をあえて見せてくれた。
自分が大切な人にとって弱い部分や辛い過去を見せてもいい人になれた。
ひとみにとっても、愛は見せてもいい存在であるとこんな風にしか示せないけれど。
- 180 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:23
- 「あたし、愛ちゃんのことこんなに好きだよ。すごい緊張してる。
だからこれからもあんまりうまく会話が続かなかったりとかよくあるかもしれない。…許してくれる?」
ひとみが眉を下げて、ほんの少しの弱気な顔。
けれどひとみの顔には鈍感な愛ですら伝わりすぎて痛いくらいの感情に溢れていて、暖かくて。
愛の目には、喜びの涙。
机に隠れて強く握られていたひとみの握りこぶしに、愛の手が重なった。
柔らかい愛の手のぬくもりに、ひとみの心には緊張とともに穏やかな気持ちが広がる。
「本当に、今更なんですけど」
「ん?」
「…夢みたい。本当に」
愛がひとみを見て、涙ぐみながら笑っている。
ひとみは愛を見るたびにまた好きになる。
これが現実だなんて。
- 181 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:23
-
「そうだね…幸せすぎる」
「これ以上ないくらいに幸せ。でも、もっと幸せになりたい、なれそう」
「うん、そんな感じ」
「おんなじ気持ちですね」
「いいことだよね?」
「…はい」
優しく微笑み合う時間。
やがて、どちらからともなく身を乗り出して。
昼食の乗っていた皿が何枚も置いたままの机越しのキス。
初めてを作る場所にこだわるほど幼くもなくて。
けれど、重なるだけの唇でさえ震えて。
- 182 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:23
- 互いに椅子に座りなおした後に、顔を見合わせて赤くなる。
「…と、トレイ、下げようか」
「はっ、はい」
よそよそしい雰囲気に戻り、二人は慌てて席を立った。
ドアを開ける瞬間何かが逃げていくようで少しだけ愛は寂しかった。
ひとみが鍵を閉めるとトレイに放り込んで両手でトレイを持ち直し、歩き始める。
ほんの少し早足のひとみに早足でついていく。
ひとみが本気で早足をすれば愛なんてすぐに突き放されてしまうのに、愛はいつまでも同じ距離を保っていた。
優しいひとみの後ろ姿。隣で歩きたいけれど、後ろ姿も見ていたい。
あと。
…今すごく手を繋ぎたいのに。
トレイを持っていると手を繋げない。
相手がそんなもやもやを抱えているのも、互いになんとなく感じていた。
トレイを下げ終わったら、教室が分かれるまでの少しの時間手を繋いでいこう。
誰に見られても、分かれ道まで絶対に離さない。
- 183 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/13(金) 02:24
-
+++++
- 184 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/13(金) 02:31
- 更新終了です。たぶん次で終われるはずです。
6月中の完結を目指したいのですが…どうなるかはわかりません。
>>161さん
久々にしっかり書けて楽しかったです。
>>162さん
わたしの中ではかわいいんだけど、芯の強さが美しいイメージです。
彼女は本当に良かったときにしか良かったと言わないでいて欲しいと思ってます。
- 185 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/13(金) 03:02
- ホントに素敵なお話ですね
読んでてよかったと思います
- 186 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/15(日) 22:27
- 素敵です。涙が出そうになります。
ついに終わってしまうんですね・・・。ずっと追いかけて来たので寂しくなります。
- 187 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/15(日) 22:48
- 終わってしまうんですね。本当に最初からいろんな意味で泣かされっぱなしでした。寂しいですね。個人的希望としては、美貴ちゃんのその後も読みたいんですが。笑っ 気が早くてすいません。とにかく続き楽しみにしてます。
- 188 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:32
- 中学生三人組は昼休みにこっそり持参したお菓子をつまんでいた。
ただそれだけのことが楽しくて仕方ないのだ。
と、梨沙子が急にポテトチップスをつまむ手を止めた。
雅がちらっと梨沙子に目をやる。
明らかに梨沙子は小春を気にしている。しかし小春は気が付かない。
本能に忠実な小春は、目の前のお菓子で頭がいっぱいのようだった。
三人で一つの机に向かい合うのも久しぶりだから、浮かれるのも無理はない。
しかし。
…ったく、小春。
これじゃあせっかくのチャンスも逃げちゃうよ。
雅は呆れながら心の中で呟いた。
そんな雅の心配をよそに、梨沙子は小春の制服の袖越しに腕をつついた。
「ねえ、こはる」
「ん?んぁい?」
やっと顔を上げて梨沙子を見た小春はハムスターのように口を膨らませていた。
その愉快で色気のない顔に雅は苦笑いを隠せない。
これだからお子様は。なんて、同い年ながら思ってしまったり。
- 189 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:32
- 「えっと」
「うん」
小春の大きな目が梨沙子を捉えると梨沙子はもじもじとしていた。
小春は大きな音を立ててお菓子を飲み込み、ぺろっと唇を舐めた。
梨沙子は意を決したように強い目をした。
「あの、こないだの…絵の、話なんだけど…」
「絵…あ、そうだね、約束したもんね。見られるの?見る!見たい!」
急にテンションを上げて身を乗り出す小春に、梨沙子は嬉しそうに笑った。
「恥ずかしいんだけどね…約束したもんね」
「うんっ!わー楽しみっ」
浮かれる小春に、梨沙子は一緒になって体を揺らし、手を取り合った。
「絵?」
雅が怪訝そうな表情をすると、梨沙子が慌てて先日の経緯を話す。
雅は事情を聞いて、にこりと穏やかに笑った。
「ふーん…梨沙子が南高だっていうのは聞いてたけど、そんな理由だったんだ。
いいんじゃない?あたし梨沙子の絵好きだよ」
「えへへ。あたしもみやの絵すきー!すごいんだよ、みやの絵は」
「ちょ…ちょっと梨沙子!!!」
雅が顔を赤くして梨沙子を止めようとするが、梨沙子はするりとかわす。
雅のただならぬ様子が気になる。小春が興味深そうに梨沙子に目を向けた。
「何?どうすごいの?」
「小春も聞かなくていいから!」
「みやねー、前にお雛様の「梨沙子!!!」
「えーえーなになになに?」
- 190 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:32
- 騒ぎながら、小春は遠いところにある意識の中で考えていた。
当たり前だが、雅は梨沙子のことを小春よりも知っている。
もちろん絵が好きなことも雅は知っているに決まっている。
わかっていても、小春は少しだけそんな事実が面白くなかった。
でもこれから知っていけばいい。
まだあせることはない。
14歳で出会えたなら、100歳まで生きるとして、あと86年お話ができるんだ。
その頃には梨沙子のことで知らないことなんかない、そんな人になっていたい。
- 191 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:33
-
+++++
- 192 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:33
- 「うわー、梨沙子の絵かぁ」
「やだ、あんまり期待しないでよぉ…」
小春は梨沙子の言うことなど耳を傾けずにとにかくはしゃぐ。
「あ」
と、急に雅が校門のところで足を止めた。
梨沙子と小春が振り返ったら、ほんの少し企みを含んだ笑顔でいる。
梨沙子にも小春にも感づけないほどの微量の悪戯心。
「どーしたの?」
「あたしちょっと用事思い出したからごめんね。二人で楽しんできて!ごめーん」
「え?ちょっと雅!」
「みやぁー?」
雅が去り際に小春に向けた視線。小春はなんとなくだけれど、その意味を感じ取った。
けれどその親切に応えられる気はしない。
二人きりにさせてもらったのは嬉しいんだけど。
とりあえず、ちょっとだけデート気分を味わってみようかな。
- 193 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:33
- 学校から小春が帰る道とは反対方向。
電車で二駅ほど離れた場所に、その建物はあった。
見るからにアーティスティック?なんて、実のところ小春には良くわからないのだけれど。
現代からは少し置いていかれているような古いイメージのある建物で、
木やレンガのような自然のぬくもりがそこかしこに感じられるつくりだった。
なんだかやさしい。
梨沙子はここで、絵を描いている。
どんな顔で、どんなことを思いながらどんな絵を描いているんだろう?
「ふえ、結構おっきーなぁ」
「うんっ、あたしここ大好き」
梨沙子が幸せそうに笑うから、小春も幸せ。
二人は手を取り合って建物へ入っていく。
「…わ…」
入った瞬間に大きな絵が小春と梨沙子を出迎えた。
女の人が幻想的な世界の中で佇んでいる、眼差しが印象的な絵だった。
貫かれ、小春は一瞬身動きが取れなくなった。それほどに鮮烈な絵。
小春ですら名前を知っている有名な絵たちよりも距離が近いせいなのか、それらよりも迫力を感じた。
- 194 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:34
- 「わぁー…すごーい!すごいすごい!」
「すごいでしょ、先生が教えた生徒さんがくれたんだって。
すごく価値が高い絵画なんだけど、売らないで先生にあげたんだよ。
…あたしもいつか、ここに絵を飾ってもらいたいんだ」
小春はふいに真顔になり、真剣に絵を見ている梨沙子に目をやった。
ここにある絵は、小春でもわかるほどに力に溢れている。
エネルギーと、技術と、才能と、言葉では表せない何か。
小春の立つ場所からは歩くべき道さえ見えない遠い道。
この高みに、梨沙子は届くのだろうか?
届きたいと願う梨沙子には、少しの冗談も含まれていない。
「…」
大丈夫。梨沙子ならできるよ。
いつもなら笑って言えそうな無責任な言葉も出てこなかった。
言える筈がない。彼女の一生を軽々しく言葉にすることなど出来る筈がない。
時に遠すぎて。
どんなに本気でもつかめない時はつかめない。
それでも夢見ずにはいられない。
人の夢はなんて儚い。
儚いという漢字を知らなくとも、小春はそんなことを思う。
「じゃ、あたしの絵はこっち」
「…うん」
梨沙子の後ろについて歩く。
梨沙子の柔らかそうな髪がふわりふわりと揺れている。
儚くとも。
美しくて。
だから人は生きてゆける。
- 195 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:34
-
しん。
眠ったように静かな教室には所狭しと絵が貼ってあり、書きかけのキャンバスから油の匂いがした。
「今日はまだ誰も来てないや」
梨沙子の声が教室に響いていつもより心まで届く。
梨沙子はゆっくりと色々なキャンバスを覗き込みながら教室の奥へ進んでいった。
やがて真ん中あたりで止まって、イーゼルに立てかけてあるキャンバスを小春へ向けた。
「…これ、一番最近の絵。もう少しで完成するんだ」
「……」
梨沙子の描く、絵。
鮮やかな緑の草原と、澄み渡る空。
その中で小さな子供が二人走っている。
それは、どちらかというと年相応で。驚くほど抜群に上手いわけでもなく。
一般的に絵を描かない人と比べたら遥かに上手い。
ただ…一番最初に見たあの絵があまりにも美しくて。
梨沙子のエネルギーと絵を愛する心が負けているんじゃない。
なのにどうしてこんなに遠いんだろう。
…涙が出てきそう。
小春は梨沙子の絵が好きだ。
やさしくてあたたかくて、梨沙子の人間性が出ている。
そう、小春は梨沙子の絵が好きだ。
「…下手でしょ?」
「下手じゃないよ!下手じゃない。…コハル、梨沙子の絵好きだよ」
小春は必死に訴える。
お世辞でもなんでもないとわかってほしかった。
「…ん、ありがと」
梨沙子は笑った。
小春一人が好きでも意味がない。
小春にもわかっている。
でも。
小春はこれからもずっと梨沙子の絵を好きでいるだろうと。
一番のファンでいるだろうと誓う。
一人が何を思おうと微々たる物で、それが力になるなんて思わないけれど。
- 196 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:35
-
「いつから絵が好きだったの?」
「んー…どうだっただろう…幼稚園くらいにはもう書いてたと思う。
お母さんも、あんたは小さい頃絵ばっかり書いてたって言ってたよ」
「どうして、絵を描くのそんなに好きなの?」
「んー?なんでだろう?いつの間にか好きになってた感じかなぁ」
「いつの間にか」
「うん、でも幸せだよね。生まれた時からずっと好きなものがあって、
これからも好きだろうなって思うものがあるのって。
…夢を見つけようとするんじゃなくて、いつの間にかそこにあった。
そういうのってなかなかないんじゃないのかなって思う」
小春は、梨沙子の穏やかな横顔をそっと見た。
幸福に満ち溢れた夢に輝く顔。
好きなことを見つけるのには、どんな道があるのか。
自分にもその瞬間は訪れるのか。
先はいつだって何もわからなくて。
だからこそ、色々な未来が広がっている。
わからない。
わからないから、楽しい。
「ふーん、そっかぁ。いいねぇー!梨沙子輝いてるよ」
「やだもーこはる。からかわないでよ」
「からかってないよぉ!…本当に」
「……そ、っか」
梨沙子が照れくさそうに笑う。
小春はどこか切なくて、でもそれ以上に嬉しくて。嫉妬もなく。悔しさもなく。
それは梨沙子だから?もしかしたらそうかもしれない。
…まあ、そんな安易な理由でもいいか。自分らしいし。
それから、二人はたくさんの飾ってある絵を見てまわった。
同じテーマを与えられたのに、それぞれ全く違って。
面白い。
人の心の中を覗き見ているような感覚で、少しドキドキする。
ここは小さな世界。
狭いけれど無限。
この中の一人としている梨沙子を知ることが出来て、嬉しかった。
- 197 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:35
-
+++++
- 198 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:35
- シャッ。
シャッ。
小春はドキドキしながらペンが紙とこすれる音に耳を済ませていた。
なんとなくだけど、ペンの音でマルかバツかわかる。
「…」
ひとみが答え合わせをしながらふいに赤ペンを止めた。
「どうしました?」
「最近小春ミス減ったよね。前は単位間違えとかすごく多かったのに、誤答自体も減ったし」
「あ、やっぱりですかぁ?えへへへ」
「…なんかいいことでもあったの?」
ひとみが優しく笑いかけてくれる。
「…っ」
小春はずっとずっと叫びだしたかった言葉が湧き上がってくる衝動を抑えきれない。
どっちみち、一番最初に言おうと思っていた。
小春は大きくピースを作り、ひとみに思い切り笑った。
- 199 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:36
-
「志望校、決めましたぁーっ!」
「…まじか」
「はいっ!」
「お…おお!やったじゃん!良かったね小春!」
「はいーっ!」
二人で抱き合って笑い合う。
小春はわしゃわしゃと髪を崩れるほど撫でられて笑った。
ひとみにぎゅう、と抱きついてぬくもりを感じた。
「やっぱり目標があると気合入りますね。今だとちょっと厳しいから、もっと学力が欲しくて」
「そうだね。うん、そうだ」
「…コハル、もっともっとがんばります」
「うん。…がんばろうね。あたしが絶対その学校行かせてあげるから」
「はいっ!コハル、先生となら絶対合格できると思います!」
ひとみは素直に嬉しくて、言葉を反芻した。
目を閉じても、また開いても、夢と消えない現実を抱き締める。
かけがえのない存在が羽ばたく姿を見られたら、それはどんなに幸せだろう?
「ちなみに、どこなの?」
「はい、南高です」
「ふーん…どうして?」
「梨沙子がそこだっていうのもあるんですけど」
「うん」
ひとみが相槌を打つと、小春は意外そうに言葉を止めた。
「ん?」
ひとみが首をかしげると、小春はばつの悪そうな顔をしてひとみを見上げる。
「…怒られるかと思ったのに」
叱られた犬のような小春の表情に、ひとみは思わず軽く噴き出した。
「どうして?友達が一緒なんて理由は安易だって?」
「はい」
「あたしそんな短気じゃないから。全部聞いてから考えるよ」
「…」
伸びた髪をやさしく梳く手のやわらかさ。
小春はほっとして、ひとみの肩に頭を預けながら言葉を続けた。
- 200 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:36
- 「梨沙子には夢があるんです。遠い夢なのに、しっかりと自分の夢だって胸を張って言える夢が。
…コハルには、まだ何もなくて。本当に…なんにも。
梨沙子のそばで夢を探したいんです。夢を持っている人の生き方を見て、自分の生き方を探したい」
「そっか」
「もし、夢を持っている人が梨沙子じゃなくて他の人だったら?とかも結構考えました。
でも答えは出ませんでした。それはもしもの話でしかないし。現実はたまたま恋をした相手が夢を持っていただけで。
それ以外のことを考えても今が変わったりはしないから。
だから今を受け入れて、周りにはいい加減に思われようと、梨沙子のそばで夢を見つけます」
いつにもまして饒舌な小春。
しっかりとした言葉とは裏腹に、不安からなのか、小春の体がかすかに震えていることに気が付く。
夢が見つかる可能性。
夢を見つけた人への劣等感。
不合格という恐怖だって、拭い去れない。
ひとみは触れている体全てからそんな複雑な気持ちを受け取る。
誰だって。
人生を道を選ぶことに恐怖を微塵も感じない人などいない。
個人差はあれど、少なからず失敗や後悔を恐れ、一歩踏み出す勇気を求める。
今のひとみにだって不安はたくさんある。
若く強い小春でも、不安にならないはずはなくて。
「そうか、うん。…わかったよ。一緒に頑張ろう」
ひとみはそれきり黙って、小春のことをずっと抱き締めていた。
今は抱き締める。それだけ。
「…はい」
小春はひとみの腕の中でゆっくりと目を閉じる。
不安が溶けていくように肩の力が抜ける。
- 201 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:37
-
「よし、じゃああたし南高について色々調べてみるよ。
今の小春の学力だとどの程度合格できそうなのか、倍率はどのくらいになりそうなのか。
…大丈夫。大丈夫だよ」
「はいっ」
ひとみの大丈夫には説得力があった。
たぶん基本的に言う事に根拠があるからというのもあるけれど、
ひとみの言うことならなんでも多分そうだという何の根拠のない信頼もある。
それがひとみの魅力で、小春がひとみの好きな理由の一つであった。
ひとみとならば頑張れる。
心からそう思うと、なんだか勉強がしたくなった。
不思議。
こんなに勉強をしたいと思える日が来るなんて。
人は変わっていく。
多分、小春も成長した。
色んな人と出会えて、色んな人がまぶしくて。
自分もまたもっともっと強くなれるように、頑張ろう。
- 202 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:37
-
+++++
- 203 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:37
-
それから、月日は驚くほど早く流れた。
何があるわけでもない、それがとても幸せだということもわかっていて、
誰も口には出さずに幸せな日々を謳歌していた。
小春は勉強をした。ひとみも勉強をした。周囲もみな、それぞれの目的に向かって勉強していた。
それでもすれ違い殺伐とすることはなく。
互いを高め合うために時にはライバルとして張り合った。とても楽しくて、喜ばしい日々。
小春は15歳の冬を迎えていた。
スカートもためらわずに履けるようになったり。休日にはファンデーションを塗ってみたり。
一年前よりも頭が良くなった実感があったり。色んな髪型に挑戦するようになったり。
確実に大人に近づいていた。
それでも。
「……もしもし……」
『んー、どしたぁ』
南高の受験日前夜。
寝付けない小春は、久しぶりにひとみに電話をかけた。
ひとみのノイズがかかった穏やかなトーンの声が小春に落ち着きを取り戻させる。
ひとみを大切に思う気持ち、憧れる気持ちは少しも変わってはいなかった。
梨沙子には、会う度に想いが募る。
それでも飛び出してしまわなくなった自分はやっぱり少しだけ大人になった?
- 204 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:38
- 「…せんせぇ、コハル緊張してきましたぁー」
『小春でも緊張とかするんだ』
「します!すっごいします!失礼ですよっ」
『ああ、ごめんごめん。…小春も大人になったんだ』
「ふぁ…お、とな?」
まだまだ子供だなと言われると思ったので、意外な言葉に面食らって言葉が詰まった。
ひとみが唇の先で笑った音がした。
『大きくなるほど怖いものって増えるからね。もちろん好きな物だって増えるけど。
あたしと会った頃の小春なら、今日だってぐっすり眠ってたんじゃないかな』
「あはははぁ…」
小春は力なく笑い声を出す。
そんな時もあった、とても昔に感じる。
確かにあの頃より怖いものが増えた。
そして大切なものも比べ物にならないほど増えた。
もしかしたら、やっぱり大人になってるのかも。
「こんなコハルでも、変わったり出来るんですね。不思議」
『…大人になったあたしでも、小春と出会ってから随分変わったと思うよ』
「コハルもですよ」
『本質は変わってないかもしれないけど…生きやすくなったって感じる』
「…人は出会うものなんですね。出会って、変わっていって、そうやって繰り返していく生き物なんですね」
『そうだね。…最近はさぁ、出会いが少なかったりとかして、寂しいなぁーって心をさ、
誰にも言えないままで抱えてる人とか…そういう寂しい人が誰かに気持ち聞いて欲しいっていうのを
お金儲けとか自分の欲のために利用したりする人とか…そういうどーしようもないのもいるかもしれないけどさぁ』
「はい」
小春は目をゆっくりと閉じて、ひとみの言葉に耳を傾けた。
- 205 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:38
- 『それでもさ、あたしは出会わない方がいいなんてことはないと思う。
まずはクラスの人とか、お隣さんとも話してみればもしかしたら人生が変わるかも知れないんだよ。
…あたしが何気なく家庭教師をバイトに選んで変われたみたいに。
ありがとう、小春。あたし小春と出会えて本当に良かった』
「はい。…コハルも、先生と出会えて良かったです」
そしてゆっくりと反芻し、ひとり微笑んだ。
照れたようにひとみは違う話題を持ってきた。小春もそれに倣って違う話題に乗った。
ひとみと、何気ない会話をする。笑う。からかわれて大きな声を出す。そしてまた笑う。
すると、ざわついていた心がだんだんと穏やかになる。
ゆるゆると流れる夜の静かな時。瞼が下がってきて、気持ちがいい。
今ならばいい夢を見られそうだ。
「…ありがとうございます、先生。コハル寝れそうです。
明日頑張りますね、応援しててくださいっ」
『うん。寝坊すんなよ。…応援してるから』
それは、誰よりも心強い応援。
ひとみが応援してくれるならばいつもよりもずっと力が発揮できそうだ。
小春は嬉しくて溜まらず声を弾ませた。
「はい!おやすみなさいっ」
『おやすみぃー』
ピ。
小春は電話を切った後、電話を握り締めて横になり目を閉じた。
電話からひとみの温もりが感じられるような気がして、ぽかぽかした。
明日。
うん、大丈夫。
大丈夫だよ。
大丈夫。
- 206 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:39
-
+++++
- 207 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:39
- 南高の前で、小春はぼんやりと校舎を見上げていた。
中学校と基本的な形は変わらないはずなのに大きなものに見える。
けれど、心臓は落ち着いていた。
自分が試験を受ける教室に着くと、小春の二つ後ろの席に梨沙子が既に座っていた。
梨沙子が小春に気が付き、ふわりと甘い笑顔を浮かべた。
「おはよう、こはる」
「おはよっ梨沙子」
髪が少し伸びて、初めて会ったときより大人っぽくなった梨沙子。
朝の太陽に輝く髪の柔らかそうな質感に見とれる。
「さっきみやからメールあったんだけどね、みやも会場着いたって。緊張してるって」
「え?…あ、ほんとだ。コハルにも来てた。…そうだね、コハルは梨沙子がいるから心強いよ。
でも雅は今独りでドキドキしてるのかな」
「…でも、みやなら大丈夫だよ」
「うん、そうだね」
本当は雅と進路が分かれるのが少しだけ寂しくもあったけれど、それでも大丈夫だと思った。
今は自分に出来ることをやろうと心に決める。
「梨沙子」
「ん?」
「…絶対、受かろうね」
「うんっ!」
梨沙子の笑顔。それは、誰よりも愛しい。
自分が梨沙子の心強さになりたいと思った。まだまだ子供で弱く、何も知らないけれど。
だから知りたい。自分を、梨沙子を、この世界を。
そのために進んでいくと決めた。
試験まで、あと30分。
- 208 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:39
-
+++++
- 209 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:40
- 受験が終わってから三日後。
「ええー?なにここ!すっごーい!」
「うわぁ…おっきぃー」
「ホントにここで合ってんの?」
「うん、マンションの名前同じだもん」
「…吉澤先生って…何者?」
小春と梨沙子と雅、それにさゆみは想像を絶する高層マンションを見上げていた。
そのあまりに高級そうな佇まいに4人とも思わず萎縮してしまう。
「どうしよう…」
「とりあえず入ろうよ、部屋の番号わかってるでしょ?」
「うん、でもぉ…」
「…」
初めてのオートロックに戸惑いを隠せずにいて、4人は黙り込む。
「お、小春ちゃん?」
すると、突然声をかけられた小春が声のする方向を見ると。
「美貴さん」
「久しぶり」
「お久しぶりです!」
美貴が機嫌よさそうな笑顔で買い物袋を提げていた。どうやら買出しのようだ。
美貴は小春から視線をずらし、3人に視線を流した。
「あ、はじめましての子結構いるね。藤本美貴。吉澤ひとみの幼馴染。よろしくね」
「はじめまして、小春の姉のさゆみです」
「菅谷梨沙子です、よろしくお願いします」
「あっ、夏焼雅です!よろしくお願いしますっ」
美貴のルックスにさらに驚いたのか、雅はなぜかやたら緊張している。
少しだけ覗く耳が赤くなっていた。
当の本人は4人を見渡した後雅の様子を気に止めることもなく軽く微笑んで小春の背中に手を添えた。
「まあそう緊張しないで、大丈夫、怖くないから入ろう」
「はいっ」
美貴がいるならば心強かった。小春は安心して美貴の後ろについていく。
ぞろぞろと3人も後に続いてきた。
- 210 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:40
- 802号室のインターホンを押す。
ピンポーン。
滑らかな電子音が二回鳴った。
するとすぐに声が聞こえる。
『はぁーい』
…先生の声だ。
それだけで小春はわくわくが止められそうもなかった。
「よっちゃーん、小春ちゃんたち来たよ」
『マジか、もうちょっとで出来るからー』
「はーい」
鍵が開いたらしき音がすると、美貴がドアを開けて中へ進んでいく。
ぞろぞろと女ばかり中に入っていく光景はなんだか面白かった。
エレベーターが緩やかに上がっていく中で、美貴は今いる場所の説明を改めてしてくれた。
その前にひとみにメールで説明されたがいまいちよくわからなかったというのが本音だ。
ここがひとみの住んでいる場所じゃないということだけは知っている。
「今日借りてるのは絢香さんの部屋だよ」
「あやかさん?」
「うん、なんかよっちゃんがカテキョの前にしてたバイト先の常連さん。
まあわかると思うけど超金持ち。絢香さん今はちょっとイタリアだから
よっちゃんが鍵預かってるんだって。いつでも部屋使っていいって言われてて、
今日のこと連絡したら全然大丈夫って言うから遠慮なく借りたってさ」
「ちょっとイタリア…」
ちょっと、とかいう気持ちで外国に行ける。
スケールが違う。
知り合いとはいえ、ひとみはまだまだ測り知れないなと感じた。
それはそうと、当然だがひとみの人間関係をなんでも知っている美貴。
美貴から語られる絢香という存在のひとみとの親密さ。
小春はほんの少し面白くない。
まだそんな感情があったのかと、心の中で驚きと共に苦笑した。
- 211 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:40
- エレベーターで8階まで上がり、エレベーターを右に曲がってすぐに止まった。
『木村』という表札のある部屋を開けて美貴が入っていった。小春たちも後に続く。
中に入った瞬間、髪の長い女性が顔を出した。
見覚えのない顔に一瞬どきっとする。
「おー、君たちが例の!あ、どうもどうもうちの吉澤がお世話になってますー」
「なんで家内気取り?あ、紹介すんね。友達の里田まいだよ」
美貴がその人、もといまいを見て呆れたように笑っている。
紹介されたまいは小春たちにぺこぺこ何度も頭を下げた。
「どうも里田ですー。いやー若いねーさすが」
「何がさすがなの…あの、もうわかってるかもしれないけどこの人かなりバカだから
むやみに近づかない方がいいよ、バカが伝染るからね」
「はーい!わかりました!」
まいが否定するより早くさゆみは手を上げて大きく返事をした。
美貴はそれにすかさず反応して笑う。
「お、さゆみちゃんいい返事だね」
「はい、バカにはなりたくないので」
「バカじゃなーい!」
まいの大きな声に、玄関が一気に温まった。
「さ、どうぞどうぞ上がって」
「お前の家じゃないし」
「細かいことは気にしない」
美貴の突っ込みを聞きながら、まいに促されるままに部屋に上がる。
「おじゃましまぁーす」
- 212 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:41
- しかし、玄関からして相当広い。
中に入るにつれその部屋数の多さに驚かされる。どうやら二階もあるようだった。
「すごぉーい…」
「すごいよね、ミキもあんまり来ないからなかなか慣れない」
進んでいくと、だんだんふわりふわりといいにおいがしてきた。
小春は鼻をしきりに動かしてにおいを楽しむ。美味しそうなにおいだ。
「いいにおい」
梨沙子が嬉しそうにそう言うと、雅も期待を隠し切れずにいた。
長い廊下を歩いたら、大きな居間に出た。
大きさに圧倒されながらあたりを見渡していると、キッチンに二つの人影があった。
向こうを向いたまま、二人は寄り添って騒いでいた。
「ちょっ…りーかーちゃん!センスなさすぎでしょ!」
「なんでよ、かわいいじゃん!」
「無理無理無理。なんでウサギ型なの?」
「かわいいもん!」
「却下」
「ウサギ!?」
キッチンからの声にすかさずさゆみが反応して大きな声を出してしまった。
声に反応してキッチンの二人が振り向いた。
どこかで見たことのある女性。
と。
- 213 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:41
-
「あ、小春」
「…せんせぇー!!!」
ほんの少し会えなかっただけで、こんなに会えた幸せが溢れる。
今すぐ抱きつきたい衝動に駆られるが、ひとみは料理をしている。
外から入ってきたままキッチンに踏み入るのもどうかと思い我慢した。
エプロン姿のひとみが新鮮で小春は胸を躍らせる。
小刻みに跳ねている小春を雅が呆れた顔で見ていた。
さゆみが対面キッチンの向こう側から身を乗り出した。梨華はきょとんとしている。
目を輝かせてテンションの上がっているさゆみにひとみが首を傾けて微笑んだ。
「今反応したのさゆみちゃん?」
「はい!ウサギってなんですかっ?」
「ウサギ好きなの?」
「はい!」
「これ」
さゆみは梨華が持っているものを覗き込んで、目を大きくして喜んだ。
それはウサギのシルエットを模ったポテトサラダ。
目の部分にミニトマトを置き、胡瓜で鼻や髭などを細かく描いている。
耳にも細長いハムが置かれていて、向かって右耳にはにんじんのリボンが付いていた。
あまり綺麗に形を作れているとは言えないが、なぜだか愛らしい。
「わぁ、かわいい!すっごいかわいいー!」
さゆみがぴょんぴょん飛び跳ねてはしゃいでいる。
「でしょお?よっすぃてばセンスないとか言うんだよ?」
「えーこんなにかわいいのにぃ」
「だよねぇ、かわいいよねー」
梨華とさゆみの会話に、ひとみは苦笑いする。
どうやら梨華一人ならば言いくるめられそうだが、
さゆみという強力なサポートが加わるとどうも敵わないらしい。
- 214 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:42
- 「…しょうがないなぁ…いーよ、梨華ちゃん。それで行こう」
「え、ホントに?」
ひとみが頷くと、梨華がひとみを見て目をキラキラと輝かせる。
大きな皿を持って満足げに笑っている。
「やったぁー!ありがと。えーと…さゆみちゃんでいいの?」
「はい、久住さゆみです!」
「さゆみちゃんとは趣味が合いそうだね、わたしもウサギが大好きなの」
「そうなんですか、嬉しいですっ」
「わたしは石川梨華、よろしくね」
「よろしくお願いしますっ」
すっかり意気投合した二人にひとみは軽くため息を付いた。
一息ついたひとみに美貴が近づいていく。
ひとみが美貴に気が付いて笑いかけた。
「あ、美貴」
「あったよー…バルサミコ酢」
「ほぉ、ありがとぉー」
美貴が先程持っていた買い物袋をひとみに渡す。
「こりゃーすっげえバルサミコ酢だなぁ」
「でっしょ、ハンパじゃない」
「ハンパじゃない」
ひとみは美貴と顔を見合わせてなにやら意味深に笑っていた。
すると。
「はい、検査」
「「!!!」」
- 215 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:42
- 突然隣から声がして二人は視線を斜め下に落とす。
真里がきつい目つきをして買い物袋を取り上げた。
「貸しなさい」
「あ!」
「ちょ、矢口先生!」
がさごそ。無遠慮に中を探ると、真里は眉間にしわを寄せながら何かを取り出した。
それはどうやら赤ワインのようだ。
「…ふーん。これはすっごいバルサミコ酢だねえ」
「でしょ、これ本当に高かった…」
「ワインだよね?」
真里がじろりとひとみと美貴を睨みあげた。
美貴はあからさまに知らない振り。
ひとみは引きつった笑いを浮かべて必死に平静を装いながらワインに手を伸ばした。
「やだなぁー先生誤解してますよ!これ料理に使うんですよ?」
ひとみの手がワインを掴む。
「料理って、あとはチーズケーキが焼き上がるのを待つだけじゃんか」
真里がワインをさらに引き剥がす。
「…隠し味に、一滴ほど…」
ひとみの苦しすぎる説明に美貴の顔がもう無理だと言っていた。
というか、あまりに嘘が下手なひとみに笑いを堪え切れないといった感じだろうか。
真里は袋にワインを戻し二人の腕を中学の時のように軽く叩いた。
「はい没収ー。今日は未成年がいるから全面禁酒だって言ったでしょ?」
「やだぁあああ!!!」
「こんな日に飲めないとかミキ無理!マジで無理!!」
「ダメなもんはダメ!」
ひとみは美貴とじたばたして真里の手にあるワインを取り返そうとしている。
真里もむきになってワインを小さな体で抱え込んだ。
生真面目な梨華がすかさず真里の助太刀に走りひとみと美貴を止めようとして
返り討ちにあったのをまいが笑って見ていた。
ひとみがそんな大きな声で駄々をこねているところを小春ははじめて見る。
同い年の人といるとひとみもやはり年相応に見えるものだ。
なんだかおかしくて、梨沙子と雅の顔を見て笑い合った。
- 216 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:42
- 「あ、そういえば遅くない?」
まいが突然ひとみに話を振り、ひとみは髪をかきあげた後に時計を確認する。
自然と騒ぎも収まり、無事にワインは封印された。
といっても袋の口を固く縛るというかわいい封印だったが。
「もうすぐ来るはずだけど…」
ひとみは急に心配そうな顔になった。
梨華が何か言いかけようとする。
と、タイミングよくインターホンが鳴る音がした。
途端にひとみの表情がほのかな緊張とあふれ出すような喜びに変わったのを見て、
どこか急いで玄関へ向かう横顔を見て、小春はなんとなく誰が来るのかわかった。
「こんにちは」
「こんにちはぁ!」
愛が、麻琴の車椅子を押しながら部屋に入ってきた。
「こんにちは。いらっしゃい」
「お邪魔します」
「本当にいいんですか?わたしも…」
「いーよいーよ、ほれっ」
ひとみは慣れた手つきで麻琴を背負い、居間へと進んでいった。
「すみません、ありがとうございます」
「いえいえ」
愛はその光景を微笑みながら見ていた。
- 217 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:43
- ひとみに小春。
美貴に、梨華に、まい。
梨沙子に雅。
愛に麻琴。そして真里とさゆみ。
広いリビングにたくさんの人が集まった。
初めて会う人も初めての気がしない。
年齢もさまざまで、なのに変に萎縮しない。
なんだか、…まるで。
テーブルにはたくさんの美味しそうな料理が所狭しと置いてある。
ソファに座ったりカーペットの上に座ったり、テーブルを囲んで皆がわいわいと会話をしていた。
「よーし、全員揃ったところでとりあえず乾杯しようか!」
唐突に、まいが大きな声と共に立ち上がった。
「なんでお前が仕切ってるんだよ」
「いーよいーよやらせといて」
ひとみになだめられた美貴の文句も気にとめず、
まいはコップになみなみ注がれたサイダーを大きく掲げている。
「では、小春ちゃん雅ちゃん梨沙子ちゃんの受験終了、およびよしこの教員免許取得、
美貴と梨華ちゃんの就職先決定、さゆみちゃんの大学合格、
愛ちゃんと麻琴ちゃんと矢口さんの健康、およびおよびーわたくしの留年を祝してー!」
「なげぇ」
「最後のはお祝いはできないよね」
美貴と真里は小さな声で突っ込みを入れた。
入れながらも笑い、コップを持っている。
「まあまあいいからほらっ!かんぱーい!」
『かんぱーい!!!』
一斉にグラスを鳴らし合い、微笑み合う。
相手が誰というくくりもないままテーブル越しにも乾杯をする。
小春は、グラスを当てた後にそれがひとみだと気が付いて笑い合った。
喉を通る炭酸は、ぴりぴりと刺激的で。
一気に飲むと涙がにじんだ。
- 218 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:44
- 「わーい!うさちゃんいただきまーす!」
さゆみが真っ先に箸をとってポテトサラダに手をつける。
それにつられてまいや美貴も箸を取った。彼女らは当然のように肉に手を伸ばした。
梨華はさゆみの言葉がよほど嬉しかったのか、とても満足そうな顔で箸を取った。
ひとみが小春たちを見ると、小春の隣の真里が促して三人とも箸を持ち料理に手を伸ばした。
なので、ひとみは隣の愛とその向こうの麻琴に食べるよう勧めた。
「よしざー先輩が作ったのはどれですか?」
「ん、まあほとんど基本はあたしなんだけどお勧めはこれかな」
「わぁ、おいしそー!じゃあ、いただきますっ。麻琴食べる?」
「うんっ」
愛は体を伸ばして中心辺りにある大きなオムライスを取り分けた。
麻琴の分と自分の分を取り分けて、ひとみにも取り分ける。
「ありがと」
「はいっ、…いただきます」
「いただきまーすっ……んー!おいひぃー!すごい卵とろとろ!」
「…おいしい!おいしいです、よしざー先輩っ」
「本当?ありがと」
愛と微笑を交わすと、妙に照れた。誰に料理を褒められるよりも照れる。
見渡すと、みんな何かをほおばり笑っている。
おいしい、と聞こえてくる。
みんなが笑顔になっていることが、ひとみはなんだか無性に喜ばしかった。
自分も愛に取り分けてもらったオムライスを一口。
…おいしい。
誰かとわいわい食べるご飯はなんて美味しいのだろう。
- 219 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:44
-
『ひーちゃん!それあたしのでしょ!?』
『なんで?決まってないじゃんそんなの』
『6個あったら2個2個2個でしょうが!なんでひーちゃん3個取ってんのさ!』
『うっせーなもぉーこのサルは』
『ママー!ひーちゃんがー!』
『わかったよ、私のあげるから。亜弥も3個食べなさい』
『……いい、ママはちゃんと食べて』
『…たく、ほんとしょーがねーんだから。…ほら、亜弥』
『ひとみ、食べ物を投げないの』
『はぁい』
『やーい怒られてやんのぉ』
『亜弥も肘つかないで』
そんな、当たり前の光景。
もう二度とないと思っていた光景。
思い出せば泣いてしまうかと思った。
もう一度目の当たりにすれば後悔が襲うと思った。
- 220 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:44
- 「ふわぁー!梨沙子、こぼしてる!」
「え?あ…」
「ほら、ティッシュ」
「ありがと、みや」
「さっすが雅!」
「や…ティッシュくらい誰でも持ってるでしょ!」
「ねーねー愛ちゃんもうちょっとそこの鶏肉取ってくれる?」
「ええよ。ほい」
「ありがと。これやばいヒットしたわ」
「あーしもー。これレシピ知りたいっ」
「わたしも教えてもらお」
「たまにはお酒なしで純粋に料理を楽しむのもいいよね」
「へぇー、美貴ちゃんお酒とおつまみしか楽しめないのかと思った、あとお肉」
「ん?なんなの?喧嘩売ってる?」
「なんでそうなるのよ、いちいちつっかかって来ないでくれる?」
「つっかかってんのはどっちだよ」
「まーまーまーまー落ち着いて落ち着いて落ち着いて落ち着いて、
クール、クールに行こう、そして大人になろうよ」
「「まいちんには言われたくない!」」
「え…なんでまいが怒られるの?」
「おいしー!これ本当においしい!」
「ちょっ、さゆみ!ウサギぐっちゃぐちゃになってるよ!」
「まあ食べ物ですからね」
「最初に目に箸を突き刺す当たりさすがだと思ったよオイラは」
「目じゃないです、ミニトマトです」
「そうだね…さゆみのそういうところが好きだよ」
「ありがとうございまーす」
- 221 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:45
- けれど、亜弥も母親も、ぼんやりと父親ですら。
今ここで、同じように時を過ごしているように感じた。ひとみの心が温かくなる。
泣けてきたりはしなかった。
もし涙になるならば、それは幸福だった。
ひとみはこっそりとこの空気を味わう。
それは今まで飲んできたどの酒よりも強く酔いが回り、
今まで食べてきたどのお菓子よりも甘く濃密だった。
優しい時間だった。
それは永遠ではないからこそ輝くのだけれど、
今だけは終わって欲しくない気持ちでいっぱいだった。
夢なら醒めないで。
幸せに手が届きそうな心地に揺れて、ひとみは笑った。
- 222 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:45
-
+++++
- 223 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:45
- 高層マンションからの眺め。
高いところはあまり好きではないのだが、夜に見ると悪くはない。
料理を平らげて片付けも終わり、それぞれがテレビを見たり話し込んだりとだらだら過ごしていた。
なんとなく、帰りたくないという気持ちは皆同じなのだろうかと感じた。
「もうすっかり暗くなっちゃいましたね」
「おお、小春」
唐突に後ろから声をかけられてひとみは少しだけ目を大きくした後に笑った。
小春はその姿にぴったり寄り添うようにして、ベランダからの景色を見渡していた。
夜の冷たい風。3月はまだまだ寒い。
ひとみの腕を取ってぎゅっと抱き締め、暖を取った。
「時間大丈夫?」
「はい、大丈夫ですよ。いいんです、今日くらい」
「…」
2人には別れが近づいていた。
もちろん二度と会えなくなるわけではない。
けれど、これから教師の道を進むひとみはもう家庭教師をやっていく余裕はなかった。
小春の家庭教師はもう辞めなければならない。
「…寂しいです」
「うん、あたしも」
- 224 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:46
- 寂しさを、寂しいという言葉では表現しきれない。
小春はそれでも泣くまいと誓った。
別れるときは、笑顔で。成長したのだと、しっかりとひとみに示すため。
「…」
「…」
言葉もなく。
2人は時が経つのを惜しんでいた。
それでも絶望などない。別れは終わりではないと知っているから。
4月、小春は高校生になる。
高校生、なんだか大人の響き。自分が高校生になるなんて実感がわかない。
実感はなくとも必ずなる。南高に受からなくても、滑り止めの高校はもう合格が決まっていた。
だんだんと高校生の自分が当たり前になる。
だんだんとひとみのいない生活が当たり前になる。
「メール、いっぱいしてもいいですか」
「いいよ」
「たまに電話してもいいですか」
「いいよ」
「会いたいって言ったら、会ってくれますか」
「…それは、あたしも聞きたかった」
小春の寂しげな表情を包み込んでひとみは笑う。
「小春とはまた会いたいから。これからも、たまにでいいから…会おう」
「…はい」
小春は目には見えない絆というものをはっきりと感じていた。
きっと、この先もひとみとこうやって笑い合えると思う。
なんて幸せなこと。
- 225 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:46
- 夜の風が冷たすぎて、そろそろ耐え切れなくなってくる。
「さむ…戻ろうか」
「はい、…あ、そうだ、忘れてた」
「?」
小春は慌ててベランダから部屋に戻り、またベランダに戻ってきた。
その手に持っていたものは、封筒。
ピンク色の、かわいい封筒だった。
「ありがと。開けていいの?」
「いいですよ」
ひとみはどこか緊張しながら封筒を開く。
「……あ、これ」
「はいっ」
小春は満足そうに笑っている。
「これ、あげます」
「…ん、ありがとう。大切にする」
ひとみが本当に嬉しそうに封筒ごと抱き締めているから、小春も嬉しくてたまらなかった。
「おい、さみーよ!ベランダ出るなら閉めな」
「あ、すいません」
真里の文句でふっと空気が緩み、2人は慌てて部屋に戻った。
夜はまだ長い。
それでも必ず日は昇る。
小春とひとみは惜しむ気持ちを隠し、笑って話し続けた。
- 226 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:46
-
+++++
- 227 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:47
- 「せんせえー!おやすみなさーい!」
ぴょんぴょん跳ねている小春に笑顔を返してひとみは手を振った。
真里に送られる3人は同じ方向へ帰っていく。
そういえば、梨沙子の家で今日は泊まると言っていたような。
楽しそうに笑っている少女たちを見ていると、自分の心までが洗われているようだった。
その限りある時間を精一杯楽しめればいいと、願った。
そのためには大人として出来ることをやろうと誓った。
さゆみは少し前に会う人がいると言って帰った。
後片付けも手伝い、最後まで細やかな気遣いや礼儀を忘れない姿が頼もしくもあった。
親以外に近しい人でそういう人がいるのだろう。
もしかしたら今日会う人がそうなのかもしれないけれど、それはわざわざ聞くことでもなかった。
「よしこ、この後うちで飲む?梨華ちゃんも美貴も来るけど」
まいがひとみの肩を抱き既に酔っているようなテンションで寄りかかってくる。
「え?ああ、今日はいいや」
「まじで?なに、体調悪いの?」
飲みに乗らないひとみなどまいには想像もつかなかったのか、
大げさなほど驚いた顔でひとみの顔をまじまじと見たり、ひとみの額に手を当てたりした。
「いや…そりゃあたしは酒好きだけど」
ひとみが苦笑いをしているとまいは首をかしげた。
そういうところが楽しくて好きだけど、たまに困ってしまう。
飲みに行かない理由を口に出しては言えない、だって恥ずかしい。
「まいちん、空気読め」
「わたしでもさすがに読むよぉ…」
美貴と梨華が顔を見合わせて苦笑いしている。
2人に視線を合わせると、まいをひとみから引き剥がしてくれた。
助け舟に感謝して、ひとみはそっと片手だけ胸の前で立てて謝った。
「じゃあねおやすみー」
「おやすみ、よっすぃ」
「え?え?なんでなんで?ちょっとー!」
美貴と梨華が手を振り、まいは引きずられていく。
おかしくて嬉しくて、ひとみはつい笑ってしまった。
- 228 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:47
- まいが遠ざかると途端に静かになった。
ひとみは愛と麻琴を見て、少しだけ笑って見せる。
「最高でしょ、あたしの友達」
「ふふっ、そうですね」
「愛ちゃんも、わたしにとっては最高の友達ですよ」
「うん、あーしも麻琴最高の友達」
嬉しそうに微笑み合う2人。
愛が車椅子を押しながら、3人は移動していく。
この住宅街は、細い月でも明るいくらいに喧騒やネオンから遠くて静か。
騒がしい場所からも少し離れればこんなにやさしい。
今生きているこの地がやっぱりいとおしい。
麻琴の明るい笑顔に、ひとみと愛の笑顔も絶えない。
どこまでも優しく明るい麻琴を見ていると、ひとみはなんだか心が癒されそうだなあと思った。
辛い時、この笑顔はどれだけ傷ついた心を癒してくれるのだろう。
それは才能。
いつか子供たちに囲まれて慕われる先生になる麻琴を想像すると嬉しくなった。
- 229 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:47
- 麻琴の家に着くと麻琴はくるっと振り返り、夜の中で太陽のように笑った。
「ありがと愛ちゃん。吉澤先輩もありがとうございました!」
「気にせんでええよ」
「ん、じゃあおやすみ」
「おやすみなさーい、お邪魔してすみませんでしたぁー」
「え?」
「麻琴!」
ひとみと愛を見て麻琴がニヤニヤしている。
2人は顔を見合わせて、なんとも言いがたいむず痒そうな顔になった。
「…じゃ、帰ろうか。送ってくよ」
「はいっ、すみません」
2人は緊張しながら歩く。
- 230 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:48
- あの日から2人は近づいたようなそうでもないような日々を送っていた。
ひとみが多忙だったせいもあるが、この一年ほどで劇的に愛を育んだわけでもなかった。
学校で顔を合わせる時間といえば、昼食の時くらい。
休日も返上で働いていたひとみとはなかなか予定も合わなかった。
愛の敬語も相変わらず。
ひとみも時折無理をして愛の前で平気なふりをしたこともあった。
こんなに好きなのに。
相手の気持ちがわからなくて、少しだけ不安。
互いにどこか遠慮しすぎて、踏み出せないでいた。
もう少し近づきたいのに、もし相手がそうじゃなかったら怖い。
こんな心情もあってか、一年以上恋人という関係で、いまだにキス止まり。
その事実を消去法で突き止められた時、ひとみは美貴に頭を強く叩かれたり。
その事実を打ち明けた時、愛は今までで一番麻琴に驚かれたり。
もちろんそれ以上のことをするのが親密であるというわけではないが、
もしかしたら相手は不満に思っているかもしれないなどと必要以上に考えてしまう。
けれどこの時間はチャンスだと、互いに思っていた。
思うほど、会話が上手く弾まなくもなった。
もっと自然に言葉を交わしたい。
もっともっと相手と一つになりたい。
もっと、もっと。
こんなに好きなことを知って欲しいから。
だから、踏み出す。
「…あの」
「え?」
愛が、そっとひとみの手を取って握った。
湿った小さな手から溢れ出る感情にひとみも心が揺れる。
「よしざー先輩の家に、行きたいです」
ひとみは手を握り返し。
愛を連れたまま、乗ろうとした電車を変えた。
- 231 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:48
-
+++++
- 232 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:49
- 「お、おじゃまします…」
「どーぞ」
愛はあからさまに緊張している。
ひとみだって負けないほど緊張しているくせに、強がって笑った。
ひとみはテーブルに麦茶の入ったグラスを二つ置いて、
テレビもつけずに、愛が座っている場所から微妙な空間を開けてソファに座る。
「…」
「…」
沈黙。
ただの乾ききった無味なそれではなく、どこか熱っぽくて。
互いに触れれば何かが弾けてしまいそうで、それが怖かった。
弱いとか、ずるいとか、そういう部分とは違う。
醜くて欲深い部分を見せることが怖くて。
人間ならば誰にだってある感情が、今はどこか邪魔で。
ああ。
本当に初めてのとき、こんなに緊張したっけ?
ひとみは思い返してもこんな感情が見当たらなかった。
それだけ、本気。
…愛を、心からいとしく思うから。
自分のわがままな欲望に困らせたり傷つけたりはしたくなかった。
愛もそれは同じだった。
きっとひとみが思うよりも自分は浅ましくて醜い。
今だって、本当はひとみの白い頬に触れてみたくて。
いつでも穏やかに笑ってるひとみの本当に余裕のない顔を見たいと思った。
誰も見たことのないひとみの全てを独り占めしたいと思った。
- 233 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:49
-
「…よしざー先輩」
「な、に?」
愛はひとみを近くからじっと見つめる。
愛の潤んだ目に戸惑いを隠せずにひとみは平静を装うことも出来ない。
髪から、ゆっくりと視線が下りていく。
どきん。
どきん。
どきん。
今聞こえるのは自分の心臓の音だけ。
「肌…本当に綺麗ですね」
「…あ、りがと」
「髪も、目も、睫も、鼻筋も唇も…本当に憧れます」
「え…そっかな?」
目を細めた愛にじっと見つめられて、耳が熱くなっていくのを感じた。
恥ずかしいから悟られたくはないのだけれど多分それは無理だった。
「…さわっても、いいですか?」
愛の、囁き。
耳から直に脳に囁かれている感覚にくらっときた。
「いい、よ」
ひとみの声も、愛の声も、震えていた。
- 234 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:49
- 愛の指がひとみの頬に触れる。
滑らかな曲線に沿って、きめの細かい肌を指が滑る。
ひとみは、自分でも無意識のうちに愛の空いているほうの手と自分のそれをゆっくり絡ませていた。
愛は、ひとみを一つずつ知っていく。
ひとみも、愛の指先から愛を知り、感じる。
愛がひとみの黒目をじっと見つめている。
奥の奥まで見られているような感覚に、ひとみは怖くもあった。
今の心の中を見られるのはどこか恥ずかしかった。
「あーしも…」
「え…?」
「たぶん、よしざー先輩の気持ちと一緒です。あーしも…同じ目になってるはずです」
愛が言うから、ひとみは逆に愛の目を見つめた。
透き通るような漆黒に、焦げ茶色。
大きなその目は熱に溶けそうだった。
不思議と恐怖が薄れていく。
同じ気持ちだとわかると、2人はゆっくりと唇を重ねた。
互いに。
こんなに人の唇が柔らかく温かいと、改めて知る。
何度キスをしても当たり前のようになどなれそうもなかった。
- 235 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:50
-
ベッドのある部屋で、オレンジ色の薄い明かりだけが2人を照らす。
「…とりあえず、服脱ごうか」
「…はい…」
とにかく。
年上だし、言い出した自分から…と思い、ひとみは思い切ってシャツをめくり上げる。
頭を通してシャツを落とし、ブラジャーを外していて。
気が付くと、愛の刺さるような視線を感じた。
「…そんなに、見ないで欲しいんだけど…」
こんなに見られると、さすがに恥ずかしい。
すると愛ははっとした。
「あ…あーし、見とれてました…すごく、綺麗で」
「綺麗?こんなガリガリの体が?」
意外な言葉に耳を疑い、ひとみは愛を見つめた。
愛は目を大きくして、それから手を使いながら少しだけ話し始めた。
「はい、なんていうか…よしざー先輩って、普段ちょっと乱暴に喋ったりとか、
わざと男の人みたいに振舞ったりとかするじゃないですか」
「…うん」
ひとみの心はどこかちくりとした。
見透かされている、ひとみの仮面。自己防衛。
キャラクターという仮面に隠したひとみの弱い心を、愛には見せていた。
見せていいはずなのに、やっぱり少し怖い。
「だから…どっかで、あーしもそれにいっぱい甘えてたと思うんですよ。
よしざー先輩は強くてすごい人だって。コンプレックスになりそうなくらい。
優しくて、気が利いて、あーしが落ち込んだ時はすぐに連絡をくれて。…それは、まるで完璧みたいで」
「…」
なぜ悲しそうにするのかひとみにはわからない。
不可能と知りながら当たり前のように完璧を目指し続け完璧でありたいと思うひとみ。
完璧なようならば、それはひとみにとっては喜ばしいこと。
けれど愛の顔が曇るのならばそんな心の理想も揺らぐ。
- 236 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:50
-
「でも完璧なんてない。よしざー先輩は」
愛の指が再びひとみに触れる。
「こんなに、細い」
くびれに。
「こんなに、小さい」
骨の浮き出たあばらに。
「…ちゃんと、膨らんでる」
包み込むようにひとみの小さな胸に。
「ちゃんと、動いてる」
高鳴る心音を感じて。
「こんなに綺麗な女の人だって、改めて思っちゃって…つい、じーっと見ちゃいました。
女の人の裸見てこんなに見とれたの初めてです」
そして、愛は照れて笑った。
「なんか、余計に親近感わきました。もっと好きになりました」
愛にやさしく抱き締められる。
ひとみはその言葉に驚きを隠せなかった。
- 237 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:50
-
…完璧ではないあたしを、もっと好きになる?
いつもどこかでひとみは、誰かの望む吉澤ひとみでなければと思っていた。
それは無自覚のうちに染み付いた生きる術で、
良くも悪くも人を惹きつける見た目のひとみが自分を守るために持って生まれた技だった。
皆が言う。ひとみはすごい人だと。
ある人はカッコイイと言う。
ある人は優しいと言う。
ある人は強いと言う。
ある人は頼れると言う。
ある人は繊細だと言う。
なんでもよかった。相手の自分に抱くイメージになれればなんでも。
誰かの望んだキャラクターを演じることを無理していると思ったことはないけれど、
自分でも本当の自分がどれなのかがわからなくなった時もある。
愛の前では優しくて頼りになる先輩、晩熟で紳士のような恋人。
だから怖かった。
それ以外の自分を見せて受け入れてもらえるのかが不安だった。
けれど愛は、今全てを見せようとするか細い体のちっぽけな一つの存在を、抱き締めてくれる。
あたしはあたしのままでいいと。
何の仮面も望まないと。
弱虫で自分がかわいいだけの素顔を見て、好きになったと言ってくれる。
愛は、かけがえのない存在。
「…ありがと、愛ちゃん。すごく…嬉しい」
ひとみの声は知らず震える。
愛の首筋に顔を埋めて、喜びに震えていた。
愛もまた、そんなひとりの存在をいとおしく思い抱き締めた。
- 238 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:51
-
やがてどちらからともなく体がゆっくりと離れると、愛も自らの服に手をかける。
「あーしのことも、見てくれますか。別に、特に何もないと思いますけど」
「…うん」
ひとみは誰の動きより、今愛が動くことにドキドキした。
目を伏せて、少しはにかんで。ゆっくりとシャツに手をかける。
何故か自分が弾け飛びそうなほどに心臓が激しく鳴る。
ぱさり。
布の音がして愛の白く締まった肢体が浮かび上がると、ひとみもそっと近づいて触れた。
無駄のない肉付き。
触れるとなめらかで柔らかいのにしっかりとしていた。
どこか幼い顔立ちだけれど、愛の体は確かに女性。
「…綺麗」
言葉が思考よりも先に飛び出した。
多分、愛よりスタイルのいい女性ならこの世にたくさんいるだろう。
愛より背が高くて、細くて、胸が大きい人もたくさんいる。
それでも愛の体が一番好きで、美しく見える。
それは多分一生解明などで気はしない人間の仕組み。とても素敵な錯覚。
「いいですって、そんな…」
愛が照れたように腕で前を隠すから、ゆっくりと両手を掴み、解く。
「本当だよ、すごく綺麗」
少し筋肉の浮き出た腹部も、美しい形で膨らんでいる胸も余すことなく焼き付けたい。
やがて、もっと触れたいと思った。
視線を上げると、愛と目が合う。
顔を近づけて再び唇を重ねた。
ひとみがそっと愛の剥き出しになった肩にくちづける。
愛もまた、ひとみの背中に指を滑らせたあと、そっと首筋に顔を埋めた。
- 239 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:51
-
互いに言葉にしなくても感じる。
焦る必要はない。
やがて朝が来るとしても、今はまだ真夜中だから。
どこまでもゆっくりと触れ合って、確かめ合って、抱き締めて。
求め合うよりは、与え合っている感覚がした。
それはなんてやさしい愛の形なのだろう。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
二人は確実に愛を深めていった。
- 240 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:52
-
+++++
- 241 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:52
- 「…こはる」
「…何?」
「もう寝た?」
「…寝て…ないよぉ」
うとうとしている中、じゃんけんで負けた梨沙子と小春は布団を並べて床で眠っていた。
しん、となると、雅のかわいらしい寝息が聞こえてきた。
「みや、寝てるね」
「うん」
梨沙子はどうやらかなり意識が覚醒しているようだった。
電気を消してからかなり経つのに。
「…どうかした?」
心配になって小春は梨沙子のほうに体を向けた。
梨沙子は豆電球の中で笑っていた。
「なんかね、寝たら…全部夢になっちゃいそうで」
「え?」
「それくらい、今日はすごく楽しくて。パーティーも、ここに来てからいっぱいしゃべったのも。
…あんまり幸せすぎて、夢なんじゃないかって思っちゃうの」
「…梨沙子」
だんだんと寂しそうになっていく梨沙子の目。
わからないはずの彼女の辛い過去が見えた気がした。
「この幸せは…壊れちゃう日が来るんじゃないかって、そんなことばっかり思っちゃう」
- 242 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:52
- 幸せを幸せのまま受け止められない。
幸せな日々がいつまでも続くはずはない。
それは小春も知っていること。梨沙子は何度も経験したこと。
幸せの大きさに比例して、不安も大きくなる。
気持ちがわかるから、小春は梨沙子の髪を撫でた。
「…多分、いつかそんな日が来るかもしれないね。
でもコハルは信じたいんだ。…いつか、こんな幸せが壊れても。また辛い日々がきても。
それを乗り越えた時、今よりももっと幸せな未来があるって」
「…」
「信じよう?辛いことがあっても、必ずいつかは幸せになれるって」
小春は目いっぱい笑顔になった。
梨沙子の不安を少しでも取り除きたい一心だった。
「…うん」
不安が消えたように、梨沙子は笑う。
小春は髪を撫でる手を止めずに言葉を続けた。
ここからは友達としての言葉ではなく、恋する一人としての勝手な言葉だけれど。
- 243 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:53
- 「少なくとも」
「ん?」
「コハルは…一生、梨沙子のこと大好きだよ」
何度そう思ったのだろう。
何度思っても消えない想い。
切ないほどに、本気の恋。
「…ありがとう」
梨沙子はふんわりと笑った。
伝わってなくても良かった。ただこの言葉で喜んでくれるのならば、今は。
一生傍にいられればどんな形でもいいと感じる。
それがいつどうなるかなんてわからないけれど、いつでも一番いいと思える関係でいたい。
梨沙子の幸せを願っているから。
梨沙子の髪を撫でる小春の手に、手が重なった。
梨沙子の手は、やわらかく暖かい。
二人の鼓動が一つになり、心を共有しあうかのように。
この先の幸せを願う。
この先も、この人といたいと思う。
夜に願うは儚くても、今この幸せが夢ではないことだけ知っている。
「こはる、大好きだよ」
「うん、梨沙子…大好き」
「えへっ」
「へへぇ」
二人は確実に今日も近づいた。
- 244 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:53
-
+++++
- 245 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:53
- 「はっ、はっ、はぁっ、はぁ…」
待ち合わせの場所へ、小春は走る。
南高へ足を運んだ帰り。
いつもひとみが連れて行ってくれるおしゃれなカフェ。
温かい飲み物が美味しいカフェ。…大好きなカフェ。
常連となった今では、お店の人に姉妹だと思われている。
あえて否定はしなかった。だって、姉妹だと思うから。
角を曲がりカフェが見えると、ひとみが入り口あたりで立っていた。
いつものように中で待っていないところを見ると、さすがにそわそわしていて座っていられなかったのだろう。
現に今もうろうろそわそわ、そんな言葉が似合う。
小春は悪戯心が芽生えたのを必死で抑えて、声を張り上げた。
「先生!」
小春の声にはっとしたひとみが小春を見た。
心配そうな表情のひとみに、小春は大きくピースサインを作ってこれ以上ないくらいに笑って見せた。
「合格しましたぁー!!!えへへへへっ」
春未満の風とともにやってきた吉報に、
ひとみはほっとしたような笑顔を浮かべて小春の元へとゆっくり歩んできた。
小春もまた歩き出し、店の前も構わず2人はきつく抱き締めあった。
- 246 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:54
- 「おめでとう、おめでとう小春!やったね!」
「なんかいけると思ってましたから!えへ…先生のおかげです」
「もう先生じゃないでしょ」
先生じゃない。
あ、そうだ、と小春は思い直す。
じゃあなんて呼ぶ?
吉澤さん?
ひとみさん?
それとも。
「…おねえ、ちゃん?」
「え?」
小春の言葉に驚いてひとみは目を剥いた。
「あれ、違いました?ごめんなさい!」
慌てて取り消そうとすると、ひとみはさらにきつく小春を抱き締めた。
驚いている小春からは、ひとみの表情は見えない。
「あの…どうしました?」
「…ううん。いいよそれでも。気に入った」
ひとみの声が静か。…少しだけ、震えている。
小春はどこかでその感情がわかる気がした。
少しの悲しみもあるけれど、溢れるほどの喜びを。
だから。
小春はとろけそうなほど笑顔になって、ひとみに顔をこすり付ける。
- 247 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:54
-
「…おねぇちゃん」
心から、そう呼ぼう。
かけがえのない家族なのだから。
「えへ、ふふふふふぅー」
「気持ち悪いって」
「えへへへ、気持ち悪くないですよぉー」
笑いが止まらなくなった小春の背中を何度か軽く叩いてひとみも笑う。
二人して笑いながら、ひとみが空を見上げるから小春も真似をした。
「さゆみちゃんに怒られないかなぁ」
「大丈夫です、きっと喜んでくれますよ。うちの家族みんな」
「…だと、いいね。そう思いたい」
「思っててください、大丈夫です」
「小春の大丈夫には何の根拠もないからなぁ」
「失礼ですよ!」
この日々が何よりも宝物。永遠の輝きを持つ思い出になる。
いつかまた絶望が来たとしても、この日々があればまたやり直せるだろう。
いつまでもいつまでも、心の中の力になる。
今ここに生きていることをしっかりと噛み締め、笑い合った。
何かを犠牲にして生きているのだと知って、だからこそ強く生きてやる。
笑って、幸せに生きてやる。
「じゃあ、とりあえずあったかいココアでも飲もうか」
「はい!まだまだ寒いですからね」
ひとみと小春は手を取り合って店の中へ入っていく。
その微笑み合う姿は、誰が見ても確信を持って幸せだと言える笑顔に包まれていた。
まるで光のように、2人はいつまでもあたたかい笑顔でいた。
- 248 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:54
-
+++++
- 249 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:55
-
+++++
- 250 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:55
-
「ふぅー、やばいやばい」
一日の始まり。
- 251 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:55
- 今日はどうしてもバタつく。
仕方がない、今日は教師としての一日目。
家の中全体がどことなく落ち着きがなくて、時間に余裕があるはずなのに急いでしまう。
スーツ、乱れなし。
髪、ばっちり。
メイク、適度に。
爪、長くない。
持ち物、大丈夫。昨日と今朝とでもう5回は確認した。
「よし、準備おっけー!」
「ちょっと!おべんとおべんとっ」
「…あ!ありがとう」
おいおい…何がオッケーなんだか。
ひとみは自分に突っ込みを入れながら苦笑し、エプロンの似合う彼女から弁当を受け取った。
ひとみの好みに合わせてくれた弁当箱は、ひとみのお気に入り。
- 252 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:56
- 「じゃあ…行ってくるね、愛」
「うんっ。気をつけて。頑張ってください!」
「頑張りますよー」
「あーしも、早く教師になれるように頑張りますっ」
「おう、そうだねえー。待ってる」
愛と微笑み合いながら、ひとみは真新しい革靴に足を入れた。サイズはぴったり。
ドアを開くと今日もいい天気。ん、なんだか幸先がいい感じ。
愛もひとみのわくわくが移ったようにどこかはしゃいでいた。
「いってき…」
あ、と。
ひとみは靴をすばやく脱いでUターンして部屋に戻り、よく倒れる写真立てに向かって行ってきます、と告げた。
ピンクの、ひとみの部屋には似合わない写真立て。
ひとみの大切な写真立て。
そこに飾られているのは、小春とひとみが姉妹のように寄り添って優しく笑っている写真。
あの日渡されたピンクの封筒から覗いた笑顔はあまりに幸せそうで、絶対にここに飾ろうと決めていた。
…まあ。
今度の休みにも会う予定なんだけどね。
笑って、ひとみは一歩外の世界へと踏み出した。
- 253 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:56
-
+++++
- 254 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:56
-
「こはるっ、早く早くー!」
梨沙子の声に急かされて小春は家を飛び出る。
いってきます、という高い声が家中に響き渡った。
走りながら梨沙子と挨拶を交わす。
- 255 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:56
- 「わーやっばい!遅刻遅刻遅刻!もぉ梨沙子先に行ってもいいのにー」
「大丈夫、二人で行こう、絶対間に合うから!」
梨沙子は自信たっぷりに言う。
何の根拠もないけれど、なんだか間に合えそう。
手を繋いで走り出す。
空は快晴。
風は追い風。
下りの坂道。
転げ落ちそうなほど速いスピード。
足が浮いて、空を飛んでしまいそう。
それでも地面を踏みしめ走り抜ける。
「なんか、飛べそう!」
「ねぇー!すごぉい!」
二人で笑い合い、決して手は離さずに。
まだ見ぬ未来へと走り続ける。
- 256 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:58
-
愛して見つけた光。
愛されて見つけた光。
眩しいほどに白いのに、泣けるほどにやさしい。
永遠に傍にいられれば、きっとずっと輝いている。そう、信じている。
信じるから輝くのだと思い、今日も誰かを愛す。
出会い、変化して、そしてまた輝く。
きっと、永遠に。
- 257 名前:5 だいすきな女の子 投稿日:2008/06/27(金) 01:59
-
エターナルクス FIN
- 258 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/27(金) 01:59
- 思ったより長くなってしまいましたが、エターナルクスはこれで全て終了です。
長い間お付き合いありがとうございました。
読者の皆様に心より感謝申し上げます。
>>185さん
ありがとうございます。本当に嬉しいです。
読んで良かったと思っていただけるなんてなんだかとても幸せです。
>>186さん
ありがとうございます。
寂しいなんて!でも終わりは始まりだと思いますので、
これ以上のものを発表できる日が来ればなあと思っています。
>>187さん
ありがとうございます。色々な場面は書いていてとても楽しかったです。
藤本さんのこの後とか、あの人の話とかちょっとだけ番外編の構想を練っています。
いつになるかはわかりませんが…
- 259 名前:幹 投稿日:2008/06/27(金) 02:01
- 改めまして、私の自己紹介を致します。
HNは幹(みき)と申します。
飼育には2002年頃から入り浸り、個人的には
ttp://www13.ocn.ne.jp/~snow_w/
こちらで主に吉受けの吉絡み文やイラストを節操なく書いていました。現在はキッズにも手を広げ、
ブログとGALLERYから入れるアナログ板をメインで更新しています。
今までは飼育に投稿する勇気がなかったのですが、
吉澤さんの卒業を期に新しいことにチャレンジしてみようとこの話を投稿することを決めました。
以後は幹というHNで活動して行こうと思っていますので、よろしくお願いいたします。
次回は吉澤さんと田中さんというマイナーな組み合わせのベタなお話を掲載する予定です。
ではまた近いうちにお会いいたしましょう。
本当に本当に、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
たくさんの方々に感謝をこめて。
- 260 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/27(金) 02:24
- 大好きです
- 261 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/27(金) 02:44
- 心があったかくなりました。ありがとうございます。
- 262 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/27(金) 11:54
- 幹さんだったんですね!ブログもアナログ板も伺わせてもらってます。
穏やかな最後に、じんわりとこみ上げてくるものがありました。
ホントに素晴らしかったです。ありがとうございました。
- 263 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/27(金) 21:26
- まったく気付かずにブログを読んでましたw
なぜこんなに惹かれたか納得です。
毎回更新を楽しみにしていたので、終わってしまった寂しさはありますが、
それよりもこの作品を読めてよかったなと思いました。感謝です。
完走おめでとうございます!
また次の作品も読みたいです。
- 264 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/27(金) 23:09
- ずっと愛読していました。
楽しい時間をありがとうございました。
- 265 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/06/28(土) 22:58
- 自分もサイトの方にも作者様と気づかず訪問させていただいてた一人です。
すごくステキな話をありがとうございました。
- 266 名前:幹 投稿日:2008/06/29(日) 23:09
- >>260さん
ありがとうございます。
そのお気持ちに感謝がいっぱいです。
>>261さん
こちらこそお付き合いいただきありがとうございました。
文の中で動き回る人たちの幸せが、読者の皆様にも伝わることを目指して書きましたので
とても嬉しいです。
>>262さん
本当ですか、ありがとうございます!嬉しいです。
最後は本当に幸せにしようと思ったので、
なんだかちょっとあったかい感じになっていただけると嬉しいです。
>>263さん
ありがとうございますw
終わりは始まりでもあります。個人的には新たなスタートに感じています。
良かったといって頂けて本当に嬉しいです。
>>264さん
ありがとうございます!
1年という思った以上に長い期間となったわけですが、
途中何度も更新が滞ったりして申し訳りませんでした。
ちょっとでも楽しく思っていただければ幸せです。
>>265さん
本当ですか!わー嬉しいです。
こちらこそ本当にありがとうございました。
では、新しい話を始めようと思います。
といってもそんなに長くないです。
雨の日の話なので6月中に掲載したいと思っていたので前後編に分けてなんとか頑張ります。
こちらもおそらく3年前くらいに書いたお話です。
- 267 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:10
- ***
雨の中。
聞こえる。
雨の音。
雫が地面へ絶え間なく叩きつけられる音。
油の足りない音。
揺れる音。
空気が裂ける音。
貴方がそこに生きている音がする。
呼吸が、まばたきが、温度が、聞こえる。
雨の中。
やけに大きく響く。
消え入りそうなほど小さな、生の叫び。
一瞬だけど。
微かにだけど。
はっきりと。
確かに。
―――確かに、聞こえるよ―――
***
- 268 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:10
-
ブランコが雨の中
- 269 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:11
-
じとじと。じとじと。
れいなは、そんな朝にのそのそ起き上がった。
外を見ると、今日も雨の午前6時半。
汚れたガラス窓には無数の水滴がついている。
TVを点けていない、自分以外に誰もいない。
そんな部屋の中では、自分の動きを止めるとぱらぱら…という音が聞こえる。
もう聞き飽きた。袖を通す制服も、心なしか湿っている。
- 270 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:12
- あまりにも鬱陶しいこの時期。
目に付く全ての物がうな垂れて見える時期。
雨が降っている。
昨日も一昨日もその前の日も。
雨ばっかり。
…もう、嫌になってしまう時がある。全てを捨ててしまいたくなる暗さを、感じる。
だって朝目覚めた時から雨の音なんて。全てを投げ出したくなる。
学校に行くとかより、もう息をすることさえも鬱陶しくなる。
この身を捨てて、何処かへ飛んで行きたい。
爽やかな風の吹く、なんの苦しみもない世界へ行きたい。
こんな所もう嫌。
一体いくつの悩みを抱えれば、楽になれるの。
一体いくつの悲しみを感じれば、楽しいことが起こるの。
一体何リットルの雨を降らせれば、太陽は機嫌を直してくれるの。
…雨は、嫌い。
こんなことばっかり考えちゃうから。
それでも人っていうのは、色んなことに逆らいきれずに、ただ疲れ切った自分の身体に鞭を打って日々を生きる。
それじゃあ、毎日同じ事しか出来ない飼い犬なんかと変わらないのに。
ちょっと頭が良くなってしまったがために、それが嫌で嫌で。
でも…それで結局なんかしたかな?
れいな、何にも出来ない。
動くだけの力がない。
こんな細っこい腕じゃあ、自分の必要最低限の物すら支え切るのが難しい。
朝ご飯は食べない習慣。
歯磨き粉は歯が白くなるとか銘打ってるやつ。
洗顔フォームは上手く泡立たない。
顔を鏡で見ると、目の下に深いクマ。
大きくため息が出る。
- 271 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:13
- れいな、高一なのになんでこんな疲れきってるんだろ…
高一ってすごく楽しい時期なんじゃないの?
なんか、高校生活ってもっと楽しいものだと思ってた。
勉強が辛い。わからない。ついていけない。
わかってるところでさえ、本当は理解してないんじゃないかって不安がよぎる。
テスト前はいつもお腹が痛い。眠りが浅い。
進路が見つからない。
こんなに早い時期から急かすように進路進路進路、教師はよく言う。
でもれいなにやりたいことなんてない。
やりたいことのない人は一体どうしてればいいんだろう。
友達とも、何となく上手くいかない。
嫌われてるわけじゃない。でも嫌われてるんじゃないかって、怖い。
朝、おはようって言ってもらえなかっただけで悲しくなってしまう。
そして自分の中でおはようって言う勇気さえなくなっていく感じがする。
本当のれいなっていうのを見せるのが怖くて、なんか自分じゃないみたいな自分をやってる。
でもそれも多分受け入れてもらえない。
なんだか、上手くいかない。
どうしてだろう、他の人が普通に出来ることがれいなには出来ない。
ちょっとバカやって、変なこと言って笑わせるタイミングが掴めない。
どうやったらあんな風にやれるんだろう?何が違うんだろう?
わかってる。
きっとれいなが変なんだ。
れいながなんか、きっと、変なんだ。
れいなは昔からそういう所あった。
だからそういう面見せないようにって頑張ってきた。
でも、ボロって出てきちゃうものだ。
でも、頑張ってるのに。
すごいすごい頑張ってるのに。
いっつも笑顔絶やさないで元気にしてるのに。
一生懸命頑張ってるのに。
メールも沢山してるのに。
れいなはどうして駄目なんだろう。
他の人はみんな上手く行ってるのに。
なんでれいなは上手く行かないの?
なんでれいなだけ上手く行かないの。
れいな、こんなに頑張ってるのに。
れいな、こんなに、こんなに頑張ってるのに…
- 272 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:14
- 学校に行く前からなんだか泣きそうだ。
慌てて頭を振って、重たい鞄を持って、赤い傘を持って。
誰もいない家に行ってきます、と呟いて、鍵を閉めた。
足が重たい。
雨が、降ってる。
少しだけ小走りで、逃げ出したい衝動に負けないようにした。
ここで逃げたら、負け。
耐える。
れいなは耐えられる。
すぐに終わる、3年間。そんなの、棒になんて振れないんだよ。
今高校に行かないでれいなに何が出来る?
高校に行っていない人の風当たり。
れいなはそれに耐えられる?
だったら、この現状を飲み込む方が楽でしょ?
苦しくない。
苦しくなんかない。
だって、みんなが少なからず抱えている思いなんだよ。
大丈夫。大丈夫。
言い聞かせるように呟いた。
大丈夫。
大丈夫。
ああ。
大丈夫という声と一緒に、助けて、と聞こえる。
でも大丈夫。
きっと、あと少ししたら慣れるから。
今はまだ、慣れない新しい生活に疲れちゃってるだけだから。
吐きそうな湿気が体に纏わりついて、なんだか体が重い。
だけど体重はまたちょっと減った。
…れいなは。
れいなは、弱い子だ。
- 273 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:14
- ザアアア…という音に思考が乱れる。
ノイズが脳味噌を引っ掻くようにして、れいなの内側から抉って来る。
制服のスカートと剥き出しの足が濡れていく。
なんだか、傘を差しても意味がない。
それでもなんだか縋るように傘を握って歩く。
足を擦り合わせるようにして、濡れる不快感に耐える。
れいなを。
…れいなを、れいなを…………助けて。
この腐りかけた自己顕示欲をどこかへ捨て去ってしまえたら。
れいなの汚い根性を誰かが洗い流してくれたら。
こうやって誰かを頼る惨めな心も消えてくれたら。
あぁ、あぁ。
でも、そんな人いないよ。
れいなは、ひとりぼっちなのかなあ。
れいなは、れいなは。
ガキで、自分勝手で。
れいなは。
れいなは。
…れいな、れいなは……可哀相な子なのかなあ…………
- 274 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:15
-
キィ
車の通りが激しい道なのに、雨は相変わらずなのに。
何故かその音はすごく大きく聞こえた。
- 275 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:15
- これは…
今通り過ぎかけた、公園のブランコの音だ。昔よく遊んだ、思い出の。
今でも鮮明に思い出せる景色。
…あの頃は良かった。
そんなこと、誰もが思ってると思い込むことで何とか空しさから逃げている。
キィ、キィ
まだ、響いている。
ここにある思い出は、揺れているんだ、こんな雨の中。
誰にも守ってもらえず、酸化した水に濡れて凍えているんだ。
ブランコも、ひとりぼっちかな?
何故だかよくわからないけれど、なんだかよくわからないけれど。
惹かれていく。
意識の中に入り込んでくる、ブランコの音。
ブランコが雨の中、キィキィと声を上げて泣いている。
…………どうしてこんなに響くの?
どうしてこんなに忘れられないの?
足が。
足、が。
胸に響く音に引っ張られるようにブランコの見える所まで来た道を戻った。
ローファーが水溜りに飛びこんでも、嫌な気分はしなかった。
そっと、ブランコの方を見る。
そこには、ブランコ以外にもなにかがあった。
ブランコ以外には、雨があった。
地面があった。
水溜りがあった。
木があった。
草があった。
ほかにも色んな遊具があった。
大きな黒い傘があった。
だぼだぼしたジーパンがあった。
……人が、いた。
- 276 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:16
-
キィ、キィ、キィ
そこから見える恐ろしいほどに白い指が、ブランコを揺らしている。
何故かブランコに乗らずに、横に立って揺らしている。
その指は、傘からはみ出して、びしょびしょになっている。
キィ、キィ。
油が足りない音が、高い音で空気を割る。
よくわからない景色だけれど、
その人の持つ空気にあっという間に誘われて、なんだかふわふわしてきた。
白い物が流れ込んでくる。
白くて、薄くて、柔らかくて、きもちいい。
甘く緩く切ない。
腰から下と指を見るだけで、その人がどれだけ美しいか想像がついた。
そして、どうしようもない引力も感じた。
その姿の持つ何か特異なものは、れいなの心に引っ掛かり続けている。
落っこちていきながら、色んな所を引っかいて。
…この人は。
れいなの苦しみを壊してくれるの?
れいなの日常を変えてくれるの?
れいなの、れいなの心が、震えてる。
れいなの心が、何ヶ月かぶりに嬉しそうにしてる。
ぶるぶると、感動してる。
何かをとてつもなく求めてる。
- 277 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:16
- 「…あのっ!」
雨に掻き消されて、情けなく響いたれいなの声。
それでも、その人は振り返ってくれた。
…なにか、シンパシィ。
遠くからでもわかるその目の存在感。薄茶色の髪。
男性だか女性だかよくわからない外見を持ったその人は、なんだかリアリティの欠片も感じなかった。
だけど、大きめの黒い長袖の服はは胸元が僅かに曲線を描いていて。
そして横顔の繊細さははっきりと女性だった。
その顔の全てを見た時、今まで経験したことのないような感覚に思わず息をのんだ。
……本当に綺麗…
真っ直ぐにこちらを見つめて来るその顔は、声も出せないほどに整っていた。
安易な誉め言葉も使えない雰囲気に包まれていた。
こんなに飲まれそうなオーラを発している人に初めて逢った。
…そして、オーラがこんなに柔らかく優しい人にも。
恐る恐るその人に近付く。
なんだか、この空気を汚してしまいそうで怖くて。
れいなが踏み込んで、壊してしまいそうで。
それでも、近付きたくて仕方なかった。
「あのっ」
あ、泣きそう…
喉からせり上がって来る何かに俯きながら耐える。
そして少しだけ歪む視界のまま、また顔を上げた。
傘を少し上にずらして、その姿を全て映し込む。
だんだん近付いて来るその人の顔。
なんて言うか、見れば見るほどおかしな感じになる。腰から力が抜けてしまいそう。
口も開きそうなまま、絡み続ける視線に捉えられていた。
引き寄せられるように。
まるで、その人の目は魔法。
- 278 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:16
- …ふいに、その人の唇が緩んだ。
堅い表情をしていたその人の笑顔はあまりにも優し過ぎて。
「…どうしたの?」
透明な声が、れいなの奥深くにまで染み込む。
少し低めだけど、優しくて緩やかな流れの声。
「…何、してるんですか」
「…え?ブランコ、揺らしてるんだけど」
意外と、普通に喋れた。
至極当然のことを返されて、それでもなんだかまだ夢から醒めていない。
れいなの体内の酸素なんかはもう全てこの空間色に染まった。
「乗ればいいじゃないですか」
「お尻、濡れちゃうじゃん」
「…どうしてわざわざ雨の日なんかに来たんですか?」
「…雨の妖精だからね、雨の日にしか来れないの」
「へぇー」
「うん」
……。
「…………って、え?」
ん?
何、何か今言いました?
さり気なくよくわからないことを言った横顔。
長い睫毛が揺れた。
- 279 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:17
-
「びっくりした。あたしのこと、見えるんだね」
れいなに体を向けて、ちょっと悪戯っぽい笑顔を浮かべて、その人はそう言った。
首を傾げてる姿は、少し子供っぽい。いや、かなり。
笑顔と真顔のギャップ。
重さと柔らかさ、白い肌と黒い服のコントラスト。
胸が高鳴るほどに。
「…妖精…?」
れいなはつい、素直な感情でその言葉を口に出してしまう。
それでも怯まずに、胸を張ってその人は言い放った。
「そうなんだぁ。…あたしは、心の綺麗な人にしか見えない、妖精。雨の」
「…心、の…?」
…どう反応したらいいかわからない。
なんだろう、急に。
「そうだよ。キミ、いい子なんだね」
屈託の無い笑顔で誉められた。
たまに言われる。
いい子。
いい子。
…………?
ギュルンと音を立てて、視界がひっくり返るような不快感。
れいなの中のれいなとれいながミキサーでグチャグチャにされる。
- 280 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:17
-
「…れいな、いい子なんかじゃ、ないです」
なんだか、苦しくなった。嬉しかったけど、なんだか自分を誤魔化している様で苦しかった。
きっと雨の妖精が見えるなられいなの心は綺麗なんだろう。
でも、違う。れいなの心は綺麗なんかじゃない。
れいなは、いい子なんかじゃない。
何かの間違いなんだよ。
きっと、未成年だから。
まだ、誰かに身体の奥深くへと踏み込まれたことがないから。
そういう、物理的な綺麗さなんだよ。
妙に切なかった。
心が綺麗だという誉め言葉を素直に受け止められない心の汚さが嫌だと思った。
俯くと、赤っぽい土は雨でグチャグチャだった。
ローファーの先っぽにへばり付いている。
ばたばたばた。
傘に雨の当たる音。
どんどん目の前が滲んできて、目が焼けるようにあっつくなる。
「…れいな…れいな、いい子なんかじゃ、ないんです。
いっつも、文句ばっかり言って、そのくせ自分からはなんも出来なくて。
いっつも、いっつも、口ばっかりで」
声が震えるけど。
そう、いつだって、『理解して欲しい』としか思わなかった。
自分を責める言葉を吐きながら、自分の頭を優しく撫でて、抱きしめて守っていた。
自分のことが可愛くて可愛くて仕方なかった。
そんなれいなの心が綺麗なわけない。
うぐ、うぐ、と変な声を漏らさずには泣けなかった。
- 281 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:19
-
「『れいな』」
名前を呼んでくれたあと。
自分を雨の妖精と言っている人は、れいなの頭を撫でてくれた。
優しく。
その手はほのかにあったかくて少し濡れていた。
れいなの言葉を否定せず、ただ頭を撫でてきた。
れいなの本質を見てくれているような気分だった。
れいな自身こそが見えていない本質を。
。。。。。
- 282 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:20
- れいながいいだけ泣いて、それからしばらく無言でいると。
手、濡れるけど。
そう言ってさり気なくれいなの手を掴み、手を引いてくれて。
だから、いいよって意味を込めて握り返した。
公園の中のアスレチックに登ってみたり、小さな山に登ってみたり、公園の中だけでふらふらと二人で散歩をした。
雨の妖精さんは、れいなの手をそっと握っていてくれる。
狭い公園の中だけど、それくらいがちっぽけなれいなにはちょうど良かった。
何も言わない妖精さん。
だけど、並んで歩くだけで不思議な安心感を持てる。
「学校、サボっちゃった…。れいな、中学は皆勤賞だったのに」
「れいなは真面目なんだねぇ」
「…そんなこと、ないです」
「ううん、多分クソ真面目。だからそんなに苦しいんだよ」
「…れいなが苦しいの、わかるんですか」
「そりゃあ妖精さんだもん」
「そうですか」
「…色々、突っ込まないの?」
妖精さんが困ったように笑う。
…確かに、ツッコミどころは満載だ。
「……はい」
「ふーん」
だけど、どうでもよかった。
この人が雨の妖精であろうが、なんだろうが。
れいなの傍にいてくれるならなんでも良かった。
…れいなはまた、『個人』ではなく『存在』を欲している。
だから、『れいなじゃなきゃ駄目な人』がいないんだよね。
れいなこそが、『この人じゃなきゃ駄目』を持ってないから。
…貴方は。
れいなの中の、れいながどうしても欲する個人になってくれますか。
- 283 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:20
-
「あ」
いきなり声を上げるからびっくりした。
「な、え?」
その人はいきなり振り向いた。
「雨、止みそう」
「え?」
「雨の中じゃないとあたし、れいなと手とか繋げないんだわ。
…晴れの日は透けてないと干からびちゃう」
「?」
透ける?
干からびる?
状況の飲み込めないまま首をかしげるれいなに、その人は困ったように視線を泳がす。
髪を乱暴に掻いて眉間に皺を寄せた。
「うーんとなんていうか…あぁ説明できねー。とにかく雨降ってないと駄目なんだよあたし。
ごめんね、また雨の降った日に逢おう。ホントごめんね、じゃあ…ばいばい」
「えっ」
いきなりれいなの手を離して、その人は去っていく。
突き放すように素早かったその動きに心が痛む。
じくん、と心臓が叫んだ。
なんで?
やだ。やだ。
置いていかないでよ。
ねえ、ねえ。
また逢いたい。
また逢いたいの。
こんなに早くお別れなんて嫌だ。
「…名前、なんですかっ!!!」
必死で叫んだら、有り得ないほど声が裏返った。
恥ずかしくて、顔が赤くなる。
妖精さんはきょとんとした顔で振り向いた後、妖精なのにまるで天使みたいな眩しい笑顔で。
「ない」
と、言った。
- 284 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:21
- え。
ない?
「…ない?ナイ?……『無い』……?」
ない、っていう名前じゃなくて。
「そう、名前が無いの」
あ。
そうなんだ。
…名前がない。
悲しげに笑われると切なくて。
なんだか無性に悲しくて可哀相で。
こんなれいなでも、ちゃんとそこに確証を持った個人を表す単語を持っているのに。
あんなに綺麗な人が、種類でしか区別されないなんて。
そんなの。
…気がついたら叫んでいた。
「じゃあ、れいなが名前つけます!!」
「……」
妖精さんは、本当に小さな子供を見るみたいにしていた。
なんだかちょっと悔しかったけど、れいなの子供っぽさはれいなもわかっているつもり。
公園を僅かに出かけた姿を追いかけて、その目の前に立つ。
真っ直ぐに、向き合う。
その妖精さんはれいなよりずっと背が高い。
れいなも色白って言われるけど、それよりもっと白い本当に人間味の無い青白い肌。透けてしまいそうだ。
化粧気の無いのに目の周りがはっきりしていて、目の力が本当に強い。
よく見たら、ほくろが多い。髪の毛は染めているみたいだけどもう根元が真っ黒。
すう、と。
向き合うたびにとらわれるその瞳。
ふいに、口から漏れた声。
- 285 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:22
-
「ひとみ、って……どうですか」
自分で驚いた。
あんまりにもそれしか出てこなかったから。
「……ひとみ…?」
ひとみ、と言った時、妖精さんの瞳が大きく動いた。
黒目に囚われそうになる。
「ぁ、あ、えと…目が、すっごい大きいから。…ああどうしようごめんなさい。れいな、こんなありきたりなのしか」
「…いや、いいんじゃない?『ひとみ』」
妖精さんはなんだかすごく嬉しそうで。少し、さっきより顔色が良くなったように思う。
ほっぺたが膨らんで、無邪気で無防備な笑顔。
「じゃあ、あたしこれからひとみね」
「…はい」
はきはきとした声。穏やかな微笑みをれいなにまっすぐ向けてくる。
雨の中で、それは眩し過ぎる。
少しの沈黙のあと、ひとみさんはれいなの髪をそっと撫でた。
それはきっと、しばしのお別れの合図。
でも今は不安じゃなかった。
少しずつだけど、ここには繋がりが出来始めていて。
だからきっと、また会えると思った。
- 286 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:22
- 「じゃ、またねれいな」
「…ひとみさん。また逢いましょう、必ず」
平気だって。梅雨時なんだから雨なんてまだまだ降るから。
そう言い残して、ひとみさんは去っていった。
大きな傘でほぼ隠れた後ろ姿。
名残惜しいけれど、ここで追いかけないのが暗黙のルールだと感じた。
ここで追いかけて、現実を見て希望を失ってしまうのなら。
このまま留まって夢を見ているほうが、れいなは幸せだから。
れいながつきとめようとしない限り、きっとひとみさんは雨の日は毎日逢ってくれるから。
それでいい。
それがいい。
。。。。。
- 287 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:22
- 雨はしとしとと降り続く。
多分きっと、ずっと。
将来、もしかしたら日本も温暖化とかで熱帯になって雨が降らなくなっちゃうかもしれない。
でも今のれいなにはそんな先の見えないことに恐れを抱く余裕などなかったし、考えようともしなかった。
必要ないと思った。
だかられいなには永遠。
ずっと、で十分表現の足りる時間なんだ。
そんな、なくなることのない時間がれいなの中にどんどん深く入ってくる。
れいなの生活の一部にめり込んでくる。
朝雨が降っていても、気分が落ち込むことなどなくなった。
むしろ元気になるくらいだ。
登校時間にはいなくても、下校途中に見ればひとみさんは雨の日はいつでもブランコを手で揺らしていた。
れいなは、学校も苦じゃなくなった。
ひとみさんがいてくれるなら、傷ついても平気だと思えた。
だかられいなは正直に友達と接するようにした。そしたら思ったよりも気持ちが楽になった。
一人で行動することが増えたけど、もうれいなはひとりじゃないから。
きっとそれこそが学校を排除したという証。
前は学校になんとか取り入ろうとしていたから苦しかったのだ。
今は学校に見向きもしなくなったからこそ苦しくないのだろう。
それはいいことか悪いことかわからない。
でも、ひとみさんがいればいい。
ひとみさんがいれば、れいなはれいなでいられる。
- 288 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:23
- 学校から走ってバスに乗って、それから走って公園に向かう。
水溜りの音がする。
靴下が濡れていく。
傘が風に抵抗する。
ブランコへ一直線。
そこに、いつもの姿。
息を切らして前髪を直し、靴下を上げながら満面の笑みを浮かべた。
「ただいま、ひとみさん」
「…あ、おかえりれいな」
ひとみさんは、ブランコを揺らす手を止めて優しく笑った。
れいなが思いっきり笑うと、れいなの頭を撫でてくれた。
「あ、ごめん髪濡れた」
「気にしないで下さい、こんなのすぐ乾きます」
髪を撫でてくれてる手に目を細くしたら、ひとみさんはもっと優しく笑った。
ここがれいなの帰る場所。
こここそが、れいなの心の居場所であって。
この笑顔こそが。
- 289 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:23
- 屋根がついているベンチに座って傘を置いて喋った。
今日学校であったこと。
難しい問題を考えることを拒否して回るシャープペンシル、
体育館で聞こえるぱちぱちという不思議な音、昼休みに流れた高い声の曲、
隣の席の人が持ってきた弁当の匂い、雨に歪む外の景色、
昼間から蛍光灯を全て点けられたまま放っとかれた空き教室。
沢山沢山話した。
途中話が途切れても良かった。気にならなかった。
何か盛り上がれる話題を探そうと必死に脳内の細胞を働かせることも要らなかった。
ひとみさんが聞いてるんだか聞いてないんだかわからない相槌打ったとしても。
緩い緩い微笑みだけは絶やさずに、そこでじっとしてくれている。
この時間こそが、れいなには必要なんだ。
とにかく思ったことを話して、それを受け入れてもらえた。
それがどんなにかれいなの心を温めてくれるんだろう。
立て掛けられた雨に濡れた傘が地面に垂らす水滴を見ながら思った。
立て掛けられた雨に濡れた傘を見つめている姿を目で追うと、感じた。
「…れいな、ひとみさんみたいに美人になりたいな」
「ふふ、なにさいきなり。れいなだって可愛いじゃん十分」
「なんか…もうちょっと大人っぽい感じになりたんです。ひとみさんすごく大人っぽいし綺麗なんだもん。
…もうちょっと髪型とかお化粧とか服装とかオシャレにしたらいいのに」
「やだよ、面倒だもん」
「もぉー。…れいながひとみさんだったら、まず絶対いっぱい洋服買う」
「へぇー、それから?」
それから、ひとみさんになったら何をしたいか話した。
髪をロングにすると言ったら長いのウザいんだもんと言われた。
背が低い子じゃちょっと似合わないような服を着ると言ったら
じゃああたしがれいなになって背の低い子が似合う服来たいと言われた。
「…一瞬だけでも、入れ替わってみたいなぁ」
「ごめん、そんな能力はないわ」
…そっか。
まぁそんな切な希望じゃあないから。ちょっとだけ、少しの間だけって話だ。
だって雨の妖精なんかなっても、どうしたらいいかわかんない。
れいなの体使ってひとみさんが変なことしたりしたら困るし。
ひとみさんの腕を掴んで、頭を預けた。
「…んーん、いいんです…れいな、ひとみさんの横でこうしてるのも結構好きだから…」
「そ?」
「はい…」
ひとみさんは、人を甘えさせる何かを持っているようだ。
ひとみさんの腕には、ついついつかまって寄りかかりたくなる。
仄かに石鹸の匂いと服の柔軟材の匂いがする。その匂いが堪らなく好きだ。
れいなは目を閉じて鼻をくんくんさせた。
「あたしも、れいなとこうしてるの好きだよ」
ふわわふと綿を触るみたいに髪を撫でられる。
ひとみさんに頭を撫でてもらうと、本当に眠くなる。
- 290 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:24
- 「ひとみさん…」
「ん」
「……なんでも、ないです」
「ふーん」
もう出逢って2週間くらい経つけれど。
そういえば、いつも同じ事がある。
雨だということや、傘の色とかじゃなく。
多分偶然だと思うけど、それにしてはちょっとおかしいなって思うことがある。
ひとみさんも敢えて触れない。多分これからも触れない。
多分れいなが不思議な気持ちなことわかってると思う。
でもそんな事言えなかった。
だって。
怖いんだもん。
…ひとみさん。
気付かないふりして、目を閉じて柔らかい腕に甘えていた。
袖が長いから指が少しだけしか見えない。だから剥くように手を取り出して、いじって遊ぶ。
そして手を握りしめる。
必ずどこかで繋がっていたい。
れいなの半袖から覗く腕は、ちょっとだけ震えそうだ。こんなにじめじめして暑いのに。
繋がっていたい。
どうしても、失いたくはなかった。
ひとみさんだけは、離さない。
どうしたって、離したくない。
。。。。。
- 291 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:24
- 今日も雨。
ぼたぼたぼたぼた。
水の音。
「…雨ばっかり降りますねえ」
「まあ、梅雨時だもんね」
「でも雨の日は…好きです……」
「あたしも、結構好きだよ」
れいななりの想いの告白だった。
れいなが抱えている想いをれいななりに、ひとみさんに伝えたつもりだった。
ひとみさんは、どう感じたんだろう?
「…地球に一番初めに降った雨って…どんなんだったんでしょう」
「さあねー」
「わかんないんですか」
「わかんないよ」
「…妖精なのに…」
「あのね、れいな妖精に変な先入観持ちすぎ」
「じゃあ妖精ってどんなんですか」
「…妖精はねえ」
「……」
見詰め合う。
目の奥の表情が見えない。見えないモードにされた。
ちょっとショック。
「……雨とか、火とか、属性があって、そういう特徴以外は大して人間と変わんないよ」
なんか適当なこと言っているなって感じだったけど、取り敢えず関心を示すような感じにしておいた。
信じているわけじゃない。
ただ、そこには触れてはいけないのだ。
…つい口を突いて、からかうように話を振ってしまったれいなが悪い。
ひとみさんが思いつくように矛盾を感じる妖精の特徴を述べている。
どうしたらいいかわからなくなって、だんだんと動けなくなってくるれいなの様子をわかっていたのだろう。
ひとみさんは軽くため息をつくように話を止めて、それから黙りこんでしまった。
れいなはひとみさんの顔色を覗うように、白い長袖のシャツのボタンを触る。
そしてそっと顔を見る。
覗き見るひとみさんの横顔は綺麗なあまりに怖くて。
そこには、れいなには到底踏み込めない、底無し沼のような闇があった。
白い肌の向こうに見える痛いほどの重み。
きっとれいながこの人の持ち得る全てを理解することなど到底不可能なのだろう。
そしてこの人自身こそが、常に大きく膨張している自分を恐れているのだろう。
言ってはいけない事を言ってしまった。
沈黙が教えてくれなくたって、十分にわかっていた。
時間を巻き戻せたら。
思ったことは今まで数え切れないほどあったけど。
この日こんなにも強くその感情を覚え自己嫌悪に陥ったことは、きっと一生忘れることは出来ないだろう。
息苦しくなるような沈黙を、なんとか雨が繋ぎとめてくれていた。
。。。。。
- 292 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:25
- 今日も雨だ。
雨。
日曜日だから、早くいるかもしれない。
日曜日だけど誰とも遊ばないしどこにも出かけないし。
どうだろう。
…きっと、いる。気がする。
逢いたい…
つい気持ちが焦って、ろくに身だしなみも整えないままジャージで飛び出した。
ひとみさんに早く逢いたい、早く。
風の抵抗を受けて。
水溜りに攻撃されて。
運動不足の体に堪えて。
突き動かされるように想いのままにいて。
「……はぁ、はぁ…はぁ、はぁっ…」
公園に着いたときはすっかり息は上がりきっていた。
ブランコを希望に満ちた顔で見上げる。
- 293 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:25
-
―――――――――――いない、や。
そこには、誰もいないままただ雨にさらされたブランコがあるだけだった。
滴る水は穢れない聖水のようで。
人の手垢が染みつき塗装のはげた金属の傷みを洗い流していた。
…なんだぁ。
いない、や…
仕方ないから、屋根の付いたベンチに腰掛けて待つことにした。
…今、何時だろう。
小さな公園だから時計はなかった。
あるのはブランコとベンチ、滑り台に焦げ茶の木で構成されたアスレチック、
小さな山、臭いトイレ、水飲むあの変な形のやつ。
ぼこぼことした砂場。雑草が刈られたばっかりの草むら。
一人で見ているその風景は、なんて味気ないのだろう。
泣けてくる程に。
二人のあたたかみを知ってしまうと、一人なんかじゃいられなくなる。
ひとみさん。
ひとみさん。
早く来て。
早く、来て。
一人は嫌。
ひとみさんと一緒がいい。
。。。。。
- 294 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:26
- 結局その日、ひとみさんは来なかった。
こんなことなかったのに。
雨の日、逢いたいと思った日にいなかったことはなかったのに。
なんで?
…………うそつき、だ。
ひとみさんのうそつき。
雨の日はいつも会えるって言ったじゃん。
うそつき。うそつき。
うそつき。
「うぅ」
なんだか、れいなはれいなのあまりの情けなさに、声が出るほどの泣きの感情が出てきた。
今きっと本当にガキな顔してる。
拗ねて口をとがらせて、情けない。幼い顔。
傘でそんな顔を隠して。とぼとぼと歩きながら、泣きながら家に帰った。
目の前が見えなくて、時々瞬きをすると気が付いた様に視界が晴れてはまた濁った。
その度に熱い涙と鼻水が流れた。
家にもは誰もいなかった。
だから、ベッドの上で思いっきり泣いた。わんわん言って泣いた。
ベッドは湿気てて気持ち悪かった。部屋の中は暗かった。
悲しかった。
とてもとても、悲しかった。
うそつき。
ひとみさんのうそつき。
うそつき。うそつき。
バカ。バカ。
…ねえ、れいなのこともういらない?
れいなのこと、もともとそんなにいらなかったの?
れいなは。
ひとみさんがいなきゃ生きてけないよ。
「うわぁぁあ…あぁ…っ、う、ぐ、うわああーん…」
誰もいないのに、声をあげて泣くってことがなんだか恥ずかしくてみっともなく思えた。
でも、声をあげずにもいられなくて、それがまた情けなかった。
こんな風に被害者のヒロインになりきらなきゃ、人ひとり悪者にも出来ないなんて。
弱い心。
。。。。。
- 295 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:27
-
救急車のサイレンが遠くで聞こえた。
気が付くと薄暗くなっていた自分の部屋。
眠っていたのだろうか。
なんだろう?この胸騒ぎ。
涙の残骸。
頭が痛い。
ひくひくひく、と体が揺れた後、ふぅーっと押し出されるように息が漏れた。
少し落ち着いた。
ザアアア……
ぽたぽた、ぽたぽた。
まだ、雨が降っていた。
ひとみさんは、どうしているのだろう。
ひとみさんはこんな夜にも一人、誰もが素通りしていくような薄い空間に一人でいるのだろうか。
そんなの…可哀相。
れいなは大声で叫べば、どんな視線だろうが誰かが視線を向けてくれる。
れいなの存在は、どんな形であれしっかり確かめることが出来るのだ。
きっと。
あの人は、叫ぶ声さえも持たない人なんだろう。
ただ誰かにほんの少し触れてもらって、ここにちゃんといるよっていう証明をしてもらうことすらかなわないのだろう。
れいなはガキで。
まだまだ青くて。青すぎて渋いほどに苦くて酸っぱくて。
だから。
なんにもひとみさんの中に抱えているものの予想なんてつかないけど。
自分に何か出来るなんて、思っちゃいないけど。
…だけど。
。。。。。
- 296 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:28
- 次の日。
月曜日。
多分誰でも一番憂鬱な曜日。
授業の内容なんて忘れた。宿題も全然出してない。小テストの結果は目も当てられないほどのものだった。
そんなのどうだっていいから。
学校の帰り道に向かった。早足で。
しとしと降り注ぐ雨の中。いつもの傘を差して。いつもの公園へ。
背の低い門の横を通り、姿を確認した。
泣きそうだけど、まだ泣かない。
わざと水溜りを思いきり踏み付けて、ぱしゃんという音をたてると、長い睫毛の伏せられていた顔が上がる。
- 297 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:28
-
「れいな…」
許してあげるなんて偉そうなことは言えるとは思わないんだけど。
ひとみさんにまた逢えた。
また元通りの生活に戻りたいから。
何かあったのだろうけど、何も聞かずに。
にこ、と笑って、ひとみさんに擦り寄る様に抱き付いた。
見上げて覗き込むひとみさんの顔はなんだか疲れてやつれていた。
いつも真っ白な肌が、一段と透けてしまいそうに青かった。
それでも。
れいなは、聞かない。
聞かないから、傍にいて。
「ひとみさん…髪伸びたね」
ひとみさんの目を見て、笑ってそう言った。
髪に手を伸ばし、雑に横分けされた前髪を梳いた。
ひとみさんがれいなのいじる反対側を触っている。
今日も少し袖が長すぎる長袖から、白くて長い指だけが見える。
「…髪ね、伸びるの早いんだぁー」
いつものように全てを包み込むような笑顔のひとみさんがここにちゃんといた。
夢でも幻でもなく、ここに。
雨にごまかされそうだったから、力を込めてひとみさんに抱き付いた。
「れいな…?」
「ひとみさんの匂い、すっごく落ち着く」
「…れいなも。髪、いい匂いする」
ひとみさんがれいなの髪を優しく撫でる。
飴細工をチョコレートケーキの上に乗せるように繊細な手つきで。
目を閉じた。
ああ。
ひとしずくだけ。
ここにこうして大切な人がいてくれる喜びの涙を、許して下さい。
「ひとみさん、大好き」
すりすりと首筋に擦り寄って、猫のように甘えた。
すると、猫にするように喉を手の甲で撫でられた。
くすぐったくて、肩がびくっ、と動いたれいなを、ひとみさんが綺麗な目で見ている。
「あたしも、れいなのこと大好きだよ」
好き、って言葉。
…優しくて切ないほど甘い響き。
震えて、弱い子になってしまう。
甘えたの、わがままの、駄々っ子になってしまう…
- 298 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/29(日) 23:29
-
「れいなのこと、いらなくなったりしない…?」
怖くもあった。
それくらい、こんなに近くに居て触れあっていてもひとみさんは消えてしまいそうだったから。
ひとみさんの大きな目にれいなが映る。
その中のれいなは、有り得ないほど歪んで不細工な顔をしていた。
目を背けてしまいたい。ひとみさんの目にこんなふうに映っている事実を受け止めきれない。
れいなは情けなく怯えてひとみさんから離れようとした。
すると腕をしっかり掴まれて、捕まった。
「いらなくなんて、なんないよ」
どうして疑うの?という悲しみさえも感じた。
…はじめから、れいなが必要ってこと前提で話してくれていた。
れいなって、ほんとうに可哀相な子なんだな。
でも。
これから絶対、幸せな子になりたい。
「…………っ…」
…この涙は。
昨日のなんかとは全然違う。
「…ひ…とみ、さん…ぅうー…」
情けなくひとみさんの名前を呼んで、縋るように抱き付いた。
今日はいつもよりずっとひとみさんの手があったかくて。
こういう日に限って、ずるいなあ。
あったかすぎてきっと、もっともっとなくてはならなくなっちゃう。
あまりにも必要としてしまう。
いいのかな?
大丈夫なのかなあ?
…まだれいなたちの間には壁があるっていうのに。
触れもしない相手に縋るのは間違ってる?
…いつか、触れられる。
きっと。
あなたは何者なんですか?
本当の名前は?どこに住んでるんですか?
どうして、ここにいるんですか?
どうして、妖精なんて言うんですか?
そう、聞けたら。いいのに。
。。。。。
- 299 名前:幹 投稿日:2008/06/29(日) 23:35
- ブランコが雨の中
前編終了です。
なんとか明日完結できるといいのですが…
話とは関係がありませんが、美勇伝大好きです。
これからも3人の幸せを願っています。
- 300 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 21:56
- バスの中で揺られていると、ついうとうとした。
眠い。
外は今日も雨。
早くこのバスがあの公園の近くのバス停に着かないかなぁ…
- 301 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 21:57
- 「あははは!」
「っ!」
高い笑い声がして、れいなはぶるっと震えて飛び起きた。
深く瞬きをする。
うるさいなぁと後ろのほうを睨むと、女子高生三人が楽しそうに話していた。
エンジンの音とウインカーの音の中、声はそこからしか発生していない。
でも今の本当うるさい…なんであんな高い声出んの?
目覚めが悪いなぁとイラついたけど、よく見たら次はれいなが降りるバス停だった。
ちょっとラッキー。
…なんだろう?
ちょっとだけいい予感がする。
バスを軽い足取りで降りて公園へ真っ直ぐ走っていく。
今日も雨は降っている。
それが今ではれいなの喜び、心の支え。
「ひとみさんっ」
血の色に似たシャツの上から黒いパーカーをふわりと羽織った、いつもと同じような服装。
長袖から伸びた手が今日もブランコを揺らしていた。
れいなの声に顔を上げて、そして、すごく優しい顔で笑うんだ。
れいなもまた、笑顔を抑えきれずに。
「こんにちわっ」
「こんちわ」
ひとみさんが、本当に幸せそうに笑っているのが嬉しくて。
走り寄る。
白い肌に、ほんのり色づいた頬。
…ん?
- 302 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 21:57
- 「あれっ」
「わ!何」
れいなの大きな声にびっくりして体を引いたひとみさんの顔を覗きこむ。
「ひとみさん、メイクしてない?」
「ん、んーまぁ、ね…たまには、いいかなって」
物凄く照れくさそうに頭を掻いているひとみさんの耳がほんのり赤くなった。
ひとみさんは薄くファンデーションを塗っていたり、ちゃんとアイラインをひいていたりして、
いつもよりもずっと柔らかい顔つきだった。
チークにほんのり彩られて、なんだかいつもよりずっと女性っぽくて。
「…うれしい」
「なんでよ」
「わかんないけど、すっごいうれしいです」
本当に。
わかんないけど、幸せだった。
なんかよくわからないけど、ひとみさんのことが本当に大切だと思えた。
今日もとりとめのない会話を交わす。
それは、口に出した瞬間に忘れてしまいそうなくらいにくだらなくて、
でも、そのひとことひとことがれいなの心の隙間をどんどん埋めていった。
ひとみさんもまた、話す前と話した後との表情の違いがあった。
いつもよりもずっと細やかなひとみさんの横顔のつくり。
ずっと、見ていたい…
- 303 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 21:58
-
ゴォオオ…
「「!?」」
突然、空全体が唸るような音をたてた。
するといきなりゆるく降り注いでいた雨が激しくなる。
ばたばたばたばた。
当たると痛そうなほどの勢いで。
目の前が見えづらくなるほどひどい雨が降る。
カッ、と。
今一瞬光った。
数秒後にゴオオ…と不機嫌そうな空が轟音を放つ。
ひとみさんがびくっと肩を竦めた。
思わずれいながひとみさんを見ると、ひとみさんは気まずそうにれいなをチラッと見た。
「…ひとみさんもしかして、雷怖い…?」
「なっ!?そんなことな…」
ドォン、と一層大きな音が鳴った。
「っ!」
瞬間ひとみさんがれいなの制服の袖を掴んだ。
物凄く不安げに空を見上げている。
その顔はなんだか本当に可愛くて。
なんか、怒られた犬みたいな。…って言ったら、ひとみさんどんな反応するんだろ?
「…ぷっ」
「笑うなよっ」
「だって、ひとみさん…かわいい、すごい」
「………」
耳が見る見る間に赤くなるひとみさん。
顔を背けて、うるさいと言った後頬に手を当てていた。
「…夕立、ですよね。すぐおさまりますよ」
そう言ってひとみさんの頭を撫でた時、はたと気がついた。
…雨が止めばひとみさんは帰っちゃう。
今日はもうお別れ。
もうすぐ梅雨も明ける。
…そしたらひとみさんとも、なかなか会えなくなる。
そんなの…
「…ゃだ、な…」
ばたばたばたばた。
雨にごまかしてわがままを言う。
許されないわがままだから、誰にも気付かれちゃいけなくて。
だから声は…息を吐く時くらいの音だった。
勇気がないれいな。
- 304 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 21:58
- …勇気と言うか、プライドの問題かな。
屋根から流れ落ちる雨水は、れいなの心を思い留める。
みっともないことってなんだか出来ないから。もうずっと前かられいなはみっともないのに。
縛り付けてでもひとみさんにここにいてほしい。
思う反面、思うだけなのは…れいな自身を、れいなが守りつづけているせいだと思う。
変わってない。れいなは…全然変わらない。
あの日からずっと、ひとみさんによりかかってるだけだから。
れいなのカラダには、どこにも力が入っていないから。
れいな、前より心、良くなったよね?
れいな、強くなったよね?
れいな、十分休憩もらったよね?
れいな、変われるよね?
…れいなは変わりたいよ。
頑張るから。
ひとみさんを自分の力で捕まえてみせる。
- 305 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 21:59
-
「ひとみさん」
自分で驚くほどにスッキリした声が出た。
その声の色を、ひとみさんなら感じ取っている。
横顔は穏やかなまま、ゆっくりと視線が絡み合った。
「…はい?」
使われた事のない丁寧な返事。
ひとみさんなりの、準備は出来ているよの合図。
そしてれいなにはまだ出来ない笑顔。
「……れいな、ひとみさんのこと大好きです」
「うん」
「…ひとみさんの全部、ちゃんと…頑張って受け止めますから」
震えるな。
震えるな、体。
「だから……ちゃんと、全部、見せて下さい……」
ちゃんと、笑えてるのかな。
- 306 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 21:59
- ああ。
なんでわざわざ今日にしようと思ったのか。
れいなにはわからないけど。
多分、もうすぐ梅雨は明けるから。
そんなふうに、何もなかったみたいにひとみさんがいなくなるなんていやだから。
「わっ」
いきなり体が傾いた。
ひとみさんに支えられて、抱えられるようにして屋根のある場所から飛び出した。
雨がれいなの瞳に入る。激しい雨。
まるで感情のように。
ひとみさんは、公園の真ん中に立った。
連れられたれいなももちろん同じ場所に立つ。
雨は容赦なくひとみさんとれいなに、この世界に打ち付ける。
雨の音以外なにも聞こえない。
なんて激しい。
ここにひとみさんだけがいる。
それ以外には何もないみたい。
この世界に二人きりみたい。
そして。
- 307 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 21:59
- 「れいな」
「……はい」
「あたしのこと、つかまえてて」
どんどん濡れて顔が前髪に隠れていくひとみさん。
でも、顔なんてきっと見なくても…わかるような声色で。
なんて。
あったかい。
「……は、い………」
その前髪を横へ分ける。
ひとみさんの、どこまでも綺麗な顔がはっきりとれいなの目へ。
そのままひとみさんの滑らかな頬へ指を伝わせる。
視線が、離れられない。
濡れたように透明な綺麗な目から、ひとみさんが入ってくるようで。
首から肩。
そして、腕と肩の繋ぎ目から脇腹へ指を下ろしていって。背中へ。
これ以上ないくらいに精一杯つかまえようとしてひとみさんの肩にほっぺたを預ける。
そこは冷たい雨にうたれながらもすごくあったかくて。
れいなはとにかくすごく安心できた。雨の冷たさも、くっついていたら吹き飛んだ。
静か。
とてもとても。
- 308 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:00
-
…ざあああああ。
……さぁああああ。
…ぽたぽたぽたぽた。
…………ぽたん、ぽたん…
- 309 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:00
-
…永遠のような一瞬のような。
ありきたりだけど、そうだった。
そんな時間が、終わる。
雨が止む。
「れいな」
ここにいる。
まだここにいる。
ひとみさんが、雨の降っていない空の中ここにいる。
れいなの腕の中に。
いる。
「れいな」
「はい」
ひとみさんの目は綺麗だ。僅かにぶれて、瞬きが増える。
ぼたぼたぼた。
大きな音を立てて、雨の名残はひとみさんを濡らしつづける。
「ごめんね、れいな」
…謝られても怖くないのは、ひとみさんが優しい目をしてるから。
「…ひとみさんは、やっぱり人間だったんだ」
怯えないで。
しっかりとれいなを見据えて。
「…………ごめんね」
ごめんね。
と、ひとみさんは謝った。
れいなは、笑う。
- 310 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:01
-
「……………赦して、あげます」
その全てから。
ごめんねの意味が、ちゃんとわかるから。
いつしか夕日が差し込んで、辺りを光らせて。
キラキラそこは、知らない世界みたいで。
二人だけがここにいる。
確かに。
地面にしっかり足をつけて。
れいな達はここにいる。
勢いに任せて、ひとみさんの頬に唇を寄せた。
滑らかな肌。
暖かな肌だ。
大きく見開かれたひとみさんの目が、れいなを綺麗に映し出す。
それからなんだか、よくわからない表情。
喜びも、悲しみも。人間の感情が全て映し出されたよう。
「れいな……」
「はい?」
「…れいな……」
綺麗な笑顔で。本当に、すごく綺麗な笑顔で。
でもなんだか酷く切なくて。
「れいなのこと、あたし今、凄い愛しいって思ってる。
これどうしよう。……どうやって伝えたらいいのかわからない…」
震えながら。
…ひとみさんは、あたしを愛しいと言ってくれる。
困った様に笑って。とりあえずといった感じでれいなの髪を指で梳いている。
だから今度は、勇気を振り絞って唇を掠めた。
それはまるで知らない世界だった。
柔らかくてあったかくて。そこからまた、何か新しい心が生まれてくる。
- 311 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:01
-
「れいなも、こんなに、ひとみさんの事を愛しいって思ってる」
伝える方法なんて、いつだってわからなかったよ。
それでも伝わってるんだよね?こんなにもれいなに、ひとみさんの戸惑いや熱い感情が流れ込んでくるんだから。
これはなんなんだろう。
こんなの、同性同士ではおかしいって位に熱かった。
離されたくないって思った。
恋愛ではない。
恋愛にしては、全てが未熟過ぎて、浅過ぎて、深過ぎる。
でも、友情とか。そういうのでもなくて。
これは。
心が繋がる瞬間。
「うっく」
ああ、もう。
まただ。
指を触れ合わせているうちになんだか嬉しいって言うか、嬉し過ぎて苦しいくらいで。
胸がいっぱいって、きっとこういう感情。
いっぱいになった胸は、破裂しちゃいけないから中の思いを外へ出す。
それは涙になったり。
くちづけへのエネルギーになったり。
これが愛なんだ。
これが、愛。
- 312 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:02
- 「ぅ、っく…」
「よしよし。れいな………」
…れいなは今。
この身体におさまりきらない愛を注がれている。
また情けない声出して泣くしかないれいなの背中を、ひとみさんが叩く度にぺちぺち音がした。
こんなにずぶ濡れなのに。…あったかい。不思議なくらい。
ひとみさんの髪も目も唇も、指の温度も柔らかい肌も……静かな声も。
今全てがれいなのもの、れいなの心の中。
そしてこれはこれからも続く。
明日からきっとれいなの人生は変わる。
もう逃げない、もう怖くない。
だってれいなは、かけがえのないものを、やっとこの手に掴む事が出来たんだから。
全てが互いを繋いでいる。
れいなとひとみさんは。
今、全てで繋がってるんだから。
。。。。。
- 313 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:02
-
……全てを手に入れた。
はず、だったのに。
- 314 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:03
-
。。。。。
ひとみさんは、次の日から公園には来なくなった。
。。。。。
- 315 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:03
-
次の日だけじゃない、その次も。
その次の次の次の次も。
一週間。
一ヶ月。
時間だけは、どうにも止まらなかった。
だって、誰よりも速くて。誰よりも無情で。
れいなは、動けなくなってしまった。
れいなはまた置いてかれた。
全てに。
ひとみさんはいくら待っても来なかったし、雨ももう降らなかった。
来る気配すらなかった。
どこにいるかはわからないけど、来ない確信だけは何故かリアル。
そういうのが堪らなく嫌だ。
- 316 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:04
-
。。。。。
- 317 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:04
- ひとみさんのいないまま、夏は来た。
雨も、降らない。
本格的な夏が、れいなを振りまわす。
萎れているどころか、れいなの心には、一滴の潤いすらなかった。
れいなは痩せた。
前も痩せ型だったけど、夏ばてだとかなんとか言ってごまかしてた体調はどんどん悪くなっていって。
二の腕が、手首みたいだ。
さすがに親も心配して。
で、学校を暫く休ませてくれるようになった。
兆度よかった。
- 318 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:05
- 気分転換と言って、公園へ出かける。
子供が沢山いて、楽しそう。
ブランコの揺れる音や、はしゃぐ高い声。
お母さん達の笑い声。
れいな達の思い出の場所は、きっと他の人にはなんの変哲もない公共の施設。
なんでここにひとみさんはいないんだろう。
…走り出す。
- 319 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:06
- フラ。
午前中とはいえ暑くて暑くて、弱ったれいなの身体にはキツい。
とりあえず近くのコンビニに入って体を冷やす。
ホントは座りたい。結構、フラフラする。
でも、ずっとこうでもいい。
頭がはっきりしていると、ひとみさんの事ばかり考えてしまうから。
夜も眠れぬほどに思う。
やっぱりひとみさんは、雨の妖精だったのかもしれない。
いなくなるのをわかってて、れいなに応えてくれたのかもしれない。
雨が止んでも、そこにはいたけど。
何か、他の理由があって。
…ひとみさんは結局れいなに全てを見せてはくれなかったの?
確かにあの瞬間、全てが繋がったと思ったのに?
それはれいなの一方的な思い違いだった?
あの瞬間が続くと確信したのも。これで全部が変わると感じたのも。
れいなだけだったの?
れいなは、あの魔法みたいだった時間から急に現実に引き戻されて、
夏休み明けのガキみたいにふわふわしていた。
とりあえず人込みに身体を運んでもらう様に。
学校では、れいなの存在は無に等しかった。
…前と違うのは、それに焦る心を失ってしまった事。
ひとみさんに預けたまんまなんだよ。
れいなの心。
でも、ひとみさんの心はここにない。
れいなはからっぽ。
れいなの心は戻っては来ない。
不思議なくらい、日常には跡形もなくて。
過ごした日々も全て、夢だったみたいに。
汗がれいなを包む度、雨の冷たさを思い出す。
そして、その中の温もりを思い出す。
れいなの心だけがまるで間違っているみたいに、ひとみさんを一瞬だって忘れる事が出来なかった。
- 320 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:07
- どうしても、苦しいや。
……少し、眠りたいな。
そう思ってコンビニを出た。
外は変わらず揺れるように暑くて。
目を細める。
れいな、もう、だめかも。
…このままどっか消えちゃいたい。
勿論もうそんな気力もなかった。
ひとみさんのもとに置いて来たって、言ったじゃん。
- 321 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:07
-
公園を横切って家へ戻る。
ぽたっ。
- 322 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:08
-
……ぽた、ぽた。
ぽつぽつ、ぽつぽつ。
さぁあああ……
「あ…」
れいなを冷やす水滴は、いつしか溢れる様に。
雨だ。
雨だ。
れいなは驚きのあまり固まってしまった。
公園で遊んでいた子供たちは、母親に手を引かれてれいなを通り過ぎていく。
母親の怪訝な視線も、れいなにはどうでもよくて。
れいなは空を見上げた。
それから、公園のブランコを見る。まだ、誰かが乗っていた名残で揺れていた。
れいなは公園に恐る恐る入っていく。
…自分で見ても細っこい足が、頼り無く。でも、ちゃんと。
人の気配はしない。
でも、立ったまま動けずにいる。
何故かどうしても動けずにいる。
れいなの身体は、熱を奪われていく。
風邪ひいちゃいそうだ。
ひとみさんと濡れたときは、こんなに寒くなかったのに。
そっと自分を抱く。
軽く、震える。
- 323 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:09
-
ぱしゃっ。
誰かが水溜りを踏む音。
- 324 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:09
-
振り向く必要はなかった。
「ねえ、風邪ひいちゃうよ」
- 325 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:12
-
「ねえ」
「…大丈夫です」
知らない人の声。
ひとみさんの歩く時の癖だって、れいなはわかってるから。
早くどっかいって。
れいなの思い出に、れいな達だけの場所に、近寄らないでよ。
「……!」
気が付くと、傘でれいなは守られていた。
さっきの人だ。
れいなは傘の中に入っている。
その人が、れいなの肩を抱いた。
視界の隅に見えるのは…大きな黒い傘。
確かに、ひとみさんの傘だった。
れいなは自分でも驚くほどに力強く動き出した。
- 326 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:14
- 「これっ、この、傘」
顔を上げたれいなが見た顔は、ひとみさんとは全然違う顔。
…長い髪に、本当に美しい顔。優しそうで、気高そうで、強そうな。
その人が握っている柄を掴んで縋る様にその人に詰め寄った。
「この傘…知ってるの?」
甘くて穏やかな声は、高さとか全然違うのに…ひとみさんに似ていた。
「これは、これはっ」
「…あなたがそうなんだ…やっぱり。雨が降ったらきっと来るって思ったの」
「……知ってるんですか、れいなと…ひとみさんのこと」
ひとみさんって。
れいながつけた名前。
だけど。
多分、ひとみさんって本名な気がする。
「…よく、聞いてたもの。ひとみちゃんに」
泣きそうなカオしながら。
その人は、華奢な肩を竦ませた。
「……ひとみちゃんに逢わせてあげる」
その人は、天使みたいな笑顔でれいなの手を握った。
笑顔の方が、ずっとずっとキラキラしてる人だ。
「はい…っ」
怖い。
怖いよ。
でも、いかなきゃ。
- 327 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:15
- 車に乗せられた。
中は広くていい匂いがした。
運転手さんに、家に帰る、とだけ呟いた後、女の人はれいなを見る。
その時れいなは車の中に置いてあったタオルを渡されて髪の毛を拭っていた。
バチ、と目が合う。
「わたし、梨華っていうの」
「……あ、田中れいなです…」
遅めの自己紹介。
礼儀正しく下げられた頭につられてれいなも深く頭を下げた。
長い、緩く巻かれた髪が似合う。
れいなもこんな人になりたいな、と思う。女の子らしい人の代表、みたいな人。
でも、それだけでもない深い優しさを、れいなの膝にかけてくれたカーディガンから感じる。
「姉、なの」
「え?」
「ひとみちゃんの」
「あ…そうですか、似てませんね」
「まあ、よく言われるけど、私自身は結構似てると思ってる」
「……」
わかる気も、わからない気も凄くした。
そして僅かな沈黙。タオルの擦れる音、エンジン音。
- 328 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:15
-
「ホントはね、あなたの事…わたし、嫌いよ」
「え?」
また、いきなり。
「…嫉妬してるのよ」
「…………」
俯いた横顔は、少しだけ暗くて。
でも、何ていうか。言葉で言うほどにはその目には黒いものがない。
きっと…穏やかに育てられてきたんだろうな。
誰かを嫌いになる事よりも、誰かを好きになる事の方が難しい。
誰かに好かれるより、誰かに嫌われる方が勇気がいる。
それを素直に、言葉にする。
強くて、真っ直ぐな人なんだろうな。
「いつも一緒にいたのにね?…れいなちゃんと逢ってからのひとみちゃんを、わたしはそれまで見た事なかったもん」
「……」
「あんなに嬉しそうな顔して…出かけるの、初めて見たの」
「そんな風には、見えなかったんですけどね」
逢った時から、ずっと、優しいイメージしかなかったから。
そりゃあ、初めて逢った時はちょっと怖かったけど。
「そう、なんだぁ…不思議ね。れいなちゃん、ホントにいい子なんだよ…きっと」
梨華さんは、れいなの濡れた頭をそっと撫でた。
…いいこ。
同じこと、言うんだから。
れいなもちょっと、梨華さんに嫉妬した。
この人は…れいなの知らないひとみさんを、たくさんたくさん知ってるから。
同じ環境で育ってきて…共有してるものや考え方が確かにあって。
それは、当たり前で。
でも、やっぱり悔しくなっちゃうのも、それもまた…当たり前で。
だから素直に悔しがっておいた。
車は凄く優しい運転で。
なんだか、ずっと浅かった眠りが…ツケを払うかのようにれいなを訪れる。
とろん、と揺れて。
優しい優しい女の人が歌う洋楽が遠ざかる…
。。。。。
- 329 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:16
- 昔から。
何故かいつも、車が止まると目が覚める。
今日も、エンジンの止まる音で目が覚めた。
「おはよう…着いたよ」
梨華さんの優しい声で気持ちのいい感覚がまだ残っている。
…どのくらい眠っていたんだろう?
とりあえず外へ出ると雨はすっかり止んでいて、また暑さが戻ってきていた。
目の前にあるのはれいなの家よりも広い、上品なつくりの家。二世帯住宅の重量感。
そっと見上げると、ひとみさんが呼んでいる気がして。
誰にも知られたくないけど、心が焦る。
梨華さんの後についていく。
黒いドアを開くと、よその家のいい匂いがした。
甘くて爽やかで優しい香りだ。
「さ、あがって」
「おじゃまします」
れいなは、はやる気持ちを抑えて靴を震える手でそろえて。
奥へと進んで行く。
…中は、外見よりもずっと広かった。
でも、無駄な広さは感じない、嫌味のなさ。
ベージュとか茶色が多くて。
「こっち」
階段を2段くらい上がった梨華さんが、れいなを笑顔で見る。
でも、不安げに。
…怖いな、なんか。やっぱり。
2階の奥へ進む。
1番奥のまんなかにそびえるドアを、梨華さんが押した。
れいなは、この家の不思議な空気のせいか、言葉を発する事が出来なくなっていた。
ただ拳をきつく握って、進まない足を必死に進めるくらいしか。
- 330 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:16
-
2階の1番奥の部屋。
- 331 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:17
-
薄暗い。
カーテンが閉まってる。
そこには、黒いベッドがすぐに見えた。
でも、ベッドは無人だった。
右は、小さなグレーのソファーと、細い本棚があった。
クローゼットらしき取っ手のついた扉もあった。
左には。
小さなテーブルと、多分、丸いパンと。
小さな箱。
- 332 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:17
- 思い出した様に煙たくなった。
テーブルには、箱とパン以外にも何かが刺さった容器が置いてあった。
れいなでも何度も嗅いだ事のある匂いがした。
それは、悲しい匂いだった。
ここにひとみさんがいるんだろう。
そしてここにひとみさんはいなかった。
そう。
それがどういうことなのか。
それがひとみさんなのくらいはわかった。
バカでガキで、どうしようもないくらいに青臭いれいなでも。
- 333 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:18
-
「……ひとみさん…………」
喉が、絞られる。
苦しくて。
声が上手く出ない以上に、何かがどうにもならなくて。
こんな。
こんなに。
こんなに、ちっちゃくなっちゃって。
れいなを軽く覆い被せるくらいの高かった背も。
…れいなの胸の中でおさまるくらいになっちゃって。
れいなでも軽く持ち上げられる重さになっちゃって。
予想はしてた。
でも、予想外だった。
その箱にれいなはそっと、触れる。
冷たいな。
中は、見る気がしなかった。
でも多分、ひとみさんの肌みたいなんだろうな。
梨華さんの声が、遠くからはっきり聞こえる。
だんだんと涙に曇っていく声はそれでもすっごい可愛くて。
梨華さんの、言葉…
染み入ってくる。
「もう、長くないこと…知ってたの、あの子、自分が……」
- 334 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:29
- だから…わたし。
わたし大学をいつも早退して。ひとみちゃんの病院に走って行って。
他に誰も居ない部屋に……二人っきりで。
秘密だからね、って。
悲しい笑顔で。
喜びながら。
ずっと…こっそり、ひとみちゃんが病院抜け出すの手伝ってた。
暑い日は身体に障るから。
雨の日にしか出かけられなくて…それくらい不自由な…もう、結構…身体もボロボロで。
でも、だんだん雨の日を楽しみにしてるの、知ってた。
……出掛ける度に…表情が元気になってるの。
『……あのね、いいことあったんだよ…!』
って。
すごくすごく嬉しそうで。
あんなにきらきらした笑顔、入院してから初めてで。
それが…『良い事あった』じゃなくて。
『良い子と逢った』だったのを知って、ちょっとだけ嫉妬しちゃったけど。
でもね、感謝してる。
れいなちゃんには凄く凄く感謝してるの。どんな言葉でどんな風に伝えたらいいのか…わからないくらい。
…あんなに……楽しそうで。
毎日毎日、点滴の針が刺せなくなっちゃってくるくらいの量の点滴…して。痛々しくて、腕が見せられないくらいボロボロで。
毎日毎日、薬の副作用で、苦しそうで。吐いても吐いても……苦しそうに汗かいてて。
…あんなに気丈だった子が、毎日のように泣いて…
なのに、雨の日、抜け出すようになってから変わったのよ。
ひとみちゃんね。
ひとみちゃん、幸せそうに笑う事が増えた。泣く事もなくなった。
毎日出掛けて行く度に、幸せそうな顔になるの。
…どんなに顔色が悪くても、でも…目だけは、いっつも幸せそうなの…
…大丈夫、もうあたし大丈夫だよって。
- 335 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:30
- 「この間容態が急変して……少し宣告されたよりは…早かった。
でもね。でも…凄く、安らかな最期だったの……」
笑顔。
いつでも笑顔だった。
れいなの前では、優しく穏やかで、広くて。
そんな風に、れいながひとみさんをそうさせてたって?
そんな。
ねえ。
れいなが一体何したっていうんだろう?
ひとみさん、教えてよ。
れいなはいつだって、わがままいって、生意気いって、泣いて、怒って、自分勝手に生きてただけだよ。
「あんなに周りは慌ただしかったのに。……一人だけ、笑ってるんだよ、ちょっと。
もう、死ぬって本人が…一番、穏やかだった。
あたしは遠くから見ているしかなかったけどね…?なんか…逆に涙が止まらなくって…。
もう、この子を引き止める事なんて出来ないって思うと悔しくて悔しくて…」
梨華さんの、涙がこぼれる音がする。
一体、何がそこまでそうさせたの?
れいなの、このちっぽけな存在の、何が。
あんなに清らかで美しい人を、笑顔にさせたんだろう?
「……でも、遠くからその表情をずっと見てたら…あの日、抜け出そうとしたひとみちゃんを見つけたこと。
外に出たいって言ったひとみちゃんを手伝った事。……間違ってなんかなかったんだって、心から思った。
私がひとみちゃんを殺したのかもしれない、でも、それを背負っていけるくらいには…いいもの、もらった。ひとみちゃんから」
- 336 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:31
- わからない。
わからないまま。
すべては、わからないまま。
だってまだ、名字も、「ひとみ」って名前が漢字かどうかすらも。
使ってるシャンプーも。
血液型も、誕生日も。
好きなことも。
なにも。
ただ、でも。
好きな色と、手の大きさと、笑顔の色と、肌の温度は…知ってる。
忘れられないくらいに、この胸に残ってる。
……れいなの心、抜けてなんかいなかった。
ずっと、ここにあったよ。
れいなの心は。
そして。
ひとみさんの心が、れいなの心の足りない部分を埋めてくれていた。
だからこんなに透明になって、見えなかったんだ。
ありがとう。
多分、れいなも、大丈夫だよ。
「ひとみさん」
小さな、冷たい箱に縋るようにして。
- 337 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:31
-
「……ひとみさぁん………う、っ…、ああ……っ、うぅ、う…うあぁああああぁ…」
それはそれは、この世の終わりみたいな涙が出た。
明日死ぬみたいな声が出た。
苦しい。
苦しい。
でもそれは熱くて。
死にそうな声出しても、今のところ、全然死ぬ気なんてしなくて。
れいなは生きている、れいなは生きている。
生きてるから、こんなに熱い涙が流れるんだ。
そのことを、知った。
知っていたことを、改めて気がつかせてくれた。
こんな形でしか知ることの出来ないれいなは、バカ。
- 338 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:32
-
。。。。。
- 339 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:32
- れいなは、なんとか体重を戻して、学校にもまた通い始めた。
「れいなちゃん…体、もう平気なの?」
びっくりして右を見た。
となりの席に座る、黒髪がつやつやした色白の子。
薄い唇を広げて、屈託のない笑顔で話し掛けてくれる。
「うん、もう全然」
「そっか、よかったぁ…」
その笑顔は優しくて。
穏やかな姿はひとみさんになんだか似てた。
それから。
その子とは、よく話すようになった。
「れいなちゃんさ、無理しちゃったんだよ、きっと…高校って結構大変だよね。
わたしもね、学校行く前、おなか痛くなっちゃう時があるんだ」
「……そうなの?」
「当たり前じゃん、きっと、…皆そうだよ?皆、上手くいかなくって悩んでるよ」
「うーん…れいな、ちょっと悩み過ぎなのかな?」
「でも…悩むのはいいことだよ」
その子は。
悩んでから、また優しく笑った。
「…そっか、そうだね」
れいなの周りは、以外とれいなを見てくれているんだな、って思った。
ひとみさんほどに。
どうしようもないくらいに激しく、自分の全てを受け止めて欲しい、なんて感情ではない。
れいなも、この子の何かを受け止めたかった。
こうやって、ゆっくり。
たまに欲張って失敗しても、またやり直せるから。
それに、やり直せず死んじゃっても、それもまた人生な気がしてきたから。
- 340 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:33
- れいなはとりあえず勉強してみた。
バカだけど。
でも、がんばってみた。
ほんの少しだけ頭がよくなっただけで、人ってあんなに嬉しさ感じるんだなって思った。
新発見だ。
色々慌ただしいうちに、高校生活はあっという間に過ぎて行く。
何て忙しい3年間なんだろう?
…それはそれは、輝かしい。
上手くいかなくて。泣いて笑って怒って苦しんで頭抱えて。
そんなのが全ていつかかけがえのないものになる。
忙し過ぎて、センチメンタリズムもふっとんだ。
でも、いいことはれいなにたくさん残っているように思う。
- 341 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:34
- 今でも時々ひとみさんの夢とか見る。
雨が降ったら、探してしまいそうになる。
ブランコにはたまに乗る。
ブランコに揺れながら思うのは、いつも同じ誓い。
今ここに生きているという証。生きる意味。
そんなの…わからなくたって、とりあえず死ぬまでは生きる。
それが生きるということであって。
きっと。
カッコ良くいようとして、なりたい自分を追いかけて。
それで派手に転ぶことこそが、人生を楽しく生きることなのかもしれない。
周りに不満持って不貞腐れたまま病気になって慌てて。
したかったことを少しくらいした後にあっさり死んでしまう。
そういうのも。
誰とも噛み合わない自分を誰かのせいにして、誰か大切な人が死んだとしても、それでも自分は長生きする。
そういうのも。
全部。
なんていうか。
それこそが、人生楽しんでるってこと。
楽しくない人生を歩むことも、楽しい人生をちゃんと歩んでるということ。
何もない人生より悪いことのある人生の方が楽しい。
悪いことがある分、どんなささいな幸せでも、しっかり幸せだと感じられるから。
だから。
とりあえず、なんかやってみますね、ひとみさん。
死ぬまで、見苦しくあがいてるの、見ててくださいね。
もうすぐ二周忌だから。
梨華さんに聞いた好物いっぱい持って行きますね。
もちろん二人でちゃんと全部食べますから。
こっそり見ててくださいよ。
梨華さんを太らせちゃったら、ごめんなさい。
- 342 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:34
-
でも………
れいなとひとみさんの食の好みって、あんまり合わないんだよね。
後から知ったことなんだけど。
- 343 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:35
- ***
雨の中。
そこにある景色。
音はもう、しないけど。
その光景はずっとここに。
れいなの、深いところに。
貴方の生きていた音と、雨の音と。
それはきっと、れいなの中に残ってる。
聞こえないとしても、それはもう消えない。
一瞬だったけど。
微かにだったけど。
はっきりと。
確かに。
- 344 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:35
-
―――確かに、聞こえたよ―――
***
- 345 名前:ブランコが雨の中 投稿日:2008/06/30(月) 22:36
-
ブランコが雨の中 END
- 346 名前:幹 投稿日:2008/06/30(月) 22:36
-
- 347 名前:幹 投稿日:2008/06/30(月) 22:38
- ブランコが雨の中
終了です。とりあえず6月で終わらせられました。
作者は北海道に住んでいるので梅雨時期などに疎いのですが、時期に合わせられたでしょうか。
ではまた。
- 348 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/03(木) 09:14
- 泣けた・・・・・
- 349 名前:0 叶わない願い事の方が多い 投稿日:2008/07/09(水) 21:49
-
願い事は一つだけ。
………みんなが、幸せなこと。
- 350 名前:声に出してみたい日本語 投稿日:2008/07/09(水) 21:49
-
声に出してみたい日本語
- 351 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:50
- 休み時間の声は、人ひとりくらいなら簡単に溶かす。
ミキは、その中に紛れ込んだ。かき混ぜられるコーヒーに注がれるほんのひとかけの砂糖のように。
一人で、携帯を見る。
『送信者: 亜弥ちゃん
本文: たん今日ヒマ?ヒマだったらあそぼーよ』
講義中にポケットでぶるぶるしてた。
中身はほとんど予想できたけど、見るとやっぱりミキはだらしなく笑った。
かわいいなぁ、と思って、微笑ましくなった。
右の親指をせわしなく動かして返事を打つ。返事はもちろん、イエスで。
ミキはバイトもしてないし、わりと毎日のようにこうして亜弥ちゃんと遊ぶ。
亜弥ちゃんの笑顔を思い出して、ミキはまた笑顔になる。
と。
- 352 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:51
-
「おーおー…間抜けなツラしちゃってぇ」
にゅうーっと長い机から首が生えてきた。
毎度食らう手だからもうびっくりはしなかった。
白い手が机の角に添えられる。綺麗な形の爪はつやつやした透明なネイルがごく薄く塗られていた。
「よっちゃんにだけは言われたくないし」
「む、それはどういう意味かな」
「ご想像にお任せします」
「お任せしないでよ」
大きな目が長い前髪にかかって隠れるのがなんか惜しいけど、
でもあんまりきらきらしてるのをアピールされるのもなんか違う気がしたから、これでいいのかな。
なつっこい笑顔でミキを見上げて、よっちゃんは笑った。
「またどーせデートなんでしょ。もうすぐ試験なのに大丈夫ー?」
「にひっ、世の中勉強より大事なことの方が多いんだよ」
「なんだよその笑いは。にひって」
「いいじゃん、幸せなんだから。そういうよっちゃんはどうなのさ」
「あーあたしら?ふふふー、今日は久々にデートなんだぞ!」
よっちゃんはふわりと。
それはもうバカみたいに幸せそうに笑った。
ミキの思考は一瞬凍る。
でも、そんなのもう慣れっこ。
凍ってから溶けるまでは早くて、ミキは笑い出す。
- 353 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:51
- 「…へー、よかっ」
「ごめんっ!」
ミキの言葉を遮って発せられた言葉。
その声と共に甘い声の主が走り寄ってきた。
漂う全てがピンクの薔薇のような女の子が。
「ごめんね、よっすぃ。今日どうしても終わらせなきゃいけない宿題が終わりそうにないの。
だから、今日はデートに行けない。この埋め合わせは必ずするから…本当にごめんなさい」
梨華ちゃんの姿。よっちゃんをよっすぃと呼んで、今にも泣き出しそうな顔でよっちゃんに謝るその姿。
余りにも申し訳なさそうで、逆にずるい。
それじゃあ、どんなに相手が悪くても怒ってるこっちが悪者みたいになってしまいそうな表情。
梨華ちゃんはそういう顔を天然で作り出すから余計に罪深いと思う。
- 354 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:51
- 「…ん、わかった。宿題頑張ってね」
「ごめん、ね…」
「気にしないで」
よっちゃんは微笑んで梨華ちゃんにそっと触れた。
触れた瞬間弾けるように梨華ちゃんはよっちゃんのもとを離れた。
そして自分のいつも座っている一番前の真ん中あたりの席へ戻っていった。
あんな場所、好き好んで座りに行く大学生なんて梨華ちゃんくらいなもんだ。
そんな梨華ちゃんは、よっちゃんのさっきまでの笑顔を見ていたのかな。
今のよっちゃんの笑顔。
これがどんなに辛そうなものか、わかってるのかな。
こんなこと、もう何度目だろう。
梨華ちゃんが夢に目覚めてから。
いったい何度よっちゃんは期待して、いったい何度こんな風に裏切られてきたのだろう。
梨華ちゃんが見つけた夢は、簡単なものではない。遊んでる暇なんて本当はない。
それがわかるからよっちゃんは笑う。本当は誰よりも泣きたいくせに。
- 355 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:52
- ミキは毎日のように見るそのよっちゃんのきつい笑顔に耐えられなかった。
泣き出してしまいたいくらい。
よっちゃんには笑っていて欲しい。
よっちゃんには幸せでいて欲しい。
ミキは、よっちゃんがいつでも幸福でいてくれればいいと思っている。
よっちゃんだけ、幸福でさえあればミキはそれでいいと思っている。
そう、それはそういう感情。
…ミキは密かに。
よっちゃんだけを、愛してる。
- 356 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:52
- 微妙な空気になった二人の沈黙をバイブレーションの機械音が軽く破った。
亜弥ちゃんからの返信メールだった。
『送信者: 亜弥ちゃん
本文: どこ行くか考えておくね!楽しみにしててよ♪』
ミキはぼーっとそれを見つめていた。
すぐに返信する気持ちにはなれなかった。
だからつまり、そういうことなんだ。どういうことって、言わせるの?
ミキには好きな人がいる。
ミキには恋人がいる。
でもミキの恋人はミキの好きな人ではない。
そういうことなんだよ。
ミキはきっと、酷い人なんだと思うけど。
でもミキには亜弥ちゃんが必要だと思うんだ。ミキはきっとどうにもならない寂しがりやだから。
でも、よっちゃんを梨華ちゃんと離そうなんてはなから思っちゃいないし。だから、こうなっても仕方がない。
現状に満足しているかと言えば嘘になるけれど、だからってどうしようなんてこともあまり考えてはいない。
ただこのまま、時が過ぎて、自然と亜弥ちゃんを愛せればいいなと思っている。
よっちゃんと梨華ちゃんが上手く行けばいいなと思っている。
ただそれだけのこと。
ただそれだけのことが、どうしても上手く行かないだけで。
- 357 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:53
-
+++++
- 358 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:53
- 「たーん!」
「あ」
学部が違う亜弥ちゃんが、向こうからやってきた。カバンについているぬいぐるみがくるんと揺れた。
抜けるような白い肌と愛らしい笑顔。そのままミキに突撃してくる愛すべき恋人。抱きしめられたので、ぎゅっと抱きしめ返した。
「ぎゅー」
「にゃははっ」
「ゴメンね、6限長引いちゃって」
「ううん、そんなに待ってないよ」
ただこうしているだけなのに、時々あったかいだけじゃなくて、ものすごく悲しくなってくる。
そのことはミキをとても辛くさせる。
亜弥ちゃんは何も悪くないから、亜弥ちゃんにそれが伝わらないようにするだけで必死になる。
そんなことを考えて、ミキは亜弥ちゃんに笑いかけるんだ。
「たん、今日はねぇ、前に言ってたお店に行きたいんだー」
「ん?どこだっけ」
「もぉー、こないだ話したじゃん!最近オープンしたかわいいケーキ屋さんがあるって」
「あ、あーあー言ってたね」
「そこに行こうよっ」
「うん、いいよ」
亜弥ちゃんと手を繋いで歩き出す。
- 359 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:53
- 途中、階段で梨華ちゃんがミキたちを抜かしていった。
「あっ、美貴ちゃん亜弥ちゃん、ばいばいっ」
「ばいばい」
「ばいばーい」
その返事を聞く前に梨華ちゃんは走り去ってしまった。
ここ最近毎日のように梨華ちゃんはああやって急いで帰る。ひとり、勉強をしに。
梨華ちゃんは勉強を見つけてから、輝きだしたように思う。
実は梨華ちゃんとは小学校からの長い付き合いになるんだけど、
あんなに輝いている梨華ちゃんはきっと今が最高記録だと思う。この先のことまではわからないけど。
ああ。
毎日夢中になれることがあることは恵まれていることだ。と、思う。
ふいに後ろを振り向くと、ここからギリギリ見えるよっちゃんの横顔。
いつもバイトに行かなければならない時間まで、ああやって自販機の横のベンチで携帯を弄っている。
一人で画面を見て笑って、でも笑っているのを見られるのが恥ずかしいからそっと手で口を隠す。
それでも笑っているのはバレバレだから、隣で座っている子にからかわれて照れる。
一連の仕草はいつも同じなのにいつも新鮮。
そんな。
そんななんでもないことが、バカみたいに愛おしいんだ。
悲しいくらい。
- 360 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:54
- 手を繋いだり、腕を組んだり、とにかく接近したり。
放課後はよくこうやって亜弥ちゃんと街をぶらぶら歩く。
街の景色はいつも少しずつ変わっていたり、変わらなかったり。
亜弥ちゃんと歩くようになってから二つくらい季節が過ぎたけれど、歩き初めた時と比べるとやっぱり変わっているのかもしれない。
服の色味とか。おすすめのケーキやランチの食材とか。漂う風の香りも。
亜弥ちゃんと歩いていると楽しかった。
亜弥ちゃんと交わすくだらない会話とか。
亜弥ちゃんの白い肌とか。
亜弥ちゃんのくしゃっとする笑顔とか。
亜弥ちゃんの綺麗な唇とか。
亜弥ちゃんの全ては、どこか違うからホッとする。
このただゆったりと歩く時間が、愛されることがミキには確かに必要で。
- 361 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:54
- 「たんはさぁ、こういう系好き?」
「うん、割と好きなほうかなぁ」
「そっか、じゃそれ見ようね」
「うん」
今度の休みに見る映画が決まった。
携帯で上映時間をチェックして、時間帯で見られる映画をピックアップして、その中から見る映画を決める。
基本的に趣味が合うから、こういう事でもめることは少ない。
どちらが妥協するでも不満を残すでもないから、きっと良い相手だと思う。
亜弥ちゃん。
ミキの恋人。
ケーキ屋さんで二つケーキを食べて、この間見たテレビの話題で盛り上がりながら歩き続ける。
信号が赤になり立ち止まると、ふいに見えた店。信号を二回渡ったらそこへ行ける。
隣の制服の袖を引っぱってミキが指差した先を亜弥ちゃんが見ると、亜弥ちゃんはあっと言って少し照れ笑いした。
「あそこに入ろうよ」
「…うんっ」
亜弥ちゃんはふにゃっと嬉しそうに笑って、ミキの腕を取った。
ちょうど信号が青になった。
- 362 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:54
-
+++++
- 363 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:55
-
『あなたのことが好きです。付き合ってください』
その言葉とともに訪れた静寂。
ミキがいる空間が静かになったわけじゃなくて、ミキの心にとても静かな時間が訪れたのだ。
アイスティーの氷がパチン、と弾けた音が妙に響いて。
次の瞬間、ゆるゆるとBGMがミキの耳に戻ってきた。
ああ、と目の前にいる人の言っていることを理解すると、不思議なほど安心したのだった。
- 364 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:55
- そう、それはもう半年ほど前のこと。
一人喫茶店の窓際の席でボーっとしていたミキに、亜弥ちゃんが近づいてきてそう言ったのだった。
亜弥ちゃんは笑っていた。
自信ありげに笑っていたくせに手は爪が白くなるほど強く握り締められていて、そういう強がりがどこかミキと重なった。
そう。
ミキと亜弥ちゃんはそこから始まった。
コーヒーの香りは混じりけなく充満して。
どこか古ぼけて絵に描いたような喫茶店の窓際で。
ミキの罪は始まったのだ。
- 365 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:56
- 小さな思い出の喫茶店の中は相変わらず古ぼけて、少し暗くて、コーヒーの香りがふわふわしてて。
絵画が飾ってあって、陶器の置物が置いてあって、繁盛してるわけじゃないけどその静けさがなんとも気持ちいい。
いつものウインナーコーヒーを頼む。これでもかってくらい甘くして飲むのが好きだ。
亜弥ちゃんはいつもココアを頼む。
今日はついでに二人してブルーベリーチーズケーキを頼んだ。
さっきケーキを食べたばかりなのに、名前を聞いただけで食欲がわいた。
「にしても本当OKしてもらって良かったねぇ」
他人事のようにそう言って笑うミキに小さく膨れて見せる亜弥ちゃんの愛らしさがミキをふわりと笑顔にさせる。
「…ん、でも良かったよ。本当にダメもとだったし」
「亜弥ちゃんのことは知ってたんだけどまさか告白されるとは思ってなかった。
この店にいながらいつも思ってたんだよね、なんかいつもいるなあって」
「たんがいつも行ってる場所だから行ってたんだよ?」
「あ、そうだったの?」
「そうだよ、たんのこと付け回してたから」
「あっはっは、そうだったんだ!」
今更ながらそんなことを聞いた。亜弥ちゃんはここに、ミキが来るから来ていたらしい。
そうだったんだ。亜弥ちゃんはそんなにミキのこと見ていてくれたんだ。
ふいにやっぱり悲しくなる。思い出を語るたびに悲しくなる。
笑う分、嘘を重ねていく。口にする分、嘘が重なっていく。
嘘が嘘じゃなくなる日はきっと一生来ないとわかっているのに、ミキはやっぱり嘘をつき続ける。
- 366 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:56
- 亜弥ちゃんはいつまでこうしていてくれるんだろう。この、この穏やかな最高の裏切りを。
いつかそれを、亜弥ちゃんが知る日が来るのだろうか。
それはミキでさえ全くわからなった。
ただ、今してることがどれだけ最低なことかははっきりとわかっているつもりだ。
だからといって何をするわけでもないのだけれど。
ああ。
この裏切りはぬるすぎて。
ミキはきっと自分をどんどん追い詰めているけれど。…悪い方へ悪い方へ、行ってるに違いないけれど。
それでもきっと抜け出せないんだ。
この毒入りの蜂蜜瓶から。
柔らかな鯨の胃の中から。
亜弥ちゃんは最高の恋人だね。かわいくて優しくて明るくて、愛してくれて。
それで、こんなにも楽しい時間をくれる。
ミキにはもったいないよ、本当に、本当に。
亜弥ちゃんが無邪気に笑うほどに、ミキは償いようもない罪を重ねていくのだった。
- 367 名前:1 愛と恋人とあとは、 投稿日:2008/07/09(水) 21:56
-
+++++
- 368 名前:幹 投稿日:2008/07/09(水) 21:59
- 「声に出してみたい日本語」1愛と恋人とあとは、
終了です。本作は6回ほどの更新で終わると思います。
またしばらくお付き合いください。よろしくお願いします。
>>348さん
ありがとうございます。
感情に少しでも働きかけられたら嬉しいです。
- 369 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/10(木) 00:39
- 更新お疲れ様です。
今回のお話も面白そうですね。
続き楽しみにしてます。
- 370 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/10(木) 21:04
- あーこういうのすごく好きです
楽しみに待ってます
- 371 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:50
- 不思議なほど深いと感じる夜だった。
唐突に目が覚めて、そして目がさえて。
テレビをつけてみるけれどカラフルな長方形が並んでいた。
ぷつん。テレビを消して、ミキは身体を起こす。
どうしようもないので外の空気でも吸いに行こうと思った。
黒いパーカーを羽織ってスウェットのまま鍵を持って最寄りのコンビニまで出かけた。
外は静かだだった。
秋の風は随分涼しくなっていて、ミキの伸びた髪を揺らしていった。
街灯だけが煌々と輝いて、どの家もほとんど明かりを消していて。
外は東京とはいえ空気が綺麗だと感じた。一つ、大きく深呼吸をした。
うっすらと星の輝く空。半月に近い三日月があった。
この間見たときは満月だったのになぁ。意外と月の満ち欠けは早い気がする。
最寄りのコンビニまでは、歩いて二分。
ドアを引くと共に来客を知らせる音が流れる。
すると、レジに椅子を置いてボーっとしていた店員がこっちを見た。
そしてミキを見た後すぐにまた視線を何かの本に戻した。多分あの人はバイトだ。
- 372 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:51
- ミキは左に曲がって雑誌の並ぶスペースの前に立った。
適当にファッション雑誌を取り出して表紙をじっと見た。
ピンクで雑誌の名前が印刷されていて、よくある顔のモデルが微笑んでいた。
『秋の愛され髪型50』
『14アイテム1ヶ月着まわし術』
『絶対成功する秋のモテメイク』
まあ特に目を引く文字は並んでいなかったけれどとりあえず雑誌を開く。
一気にカバンや靴がバーッと並んでいる。
パラ。
巻き髪のモデルがすましたポーズで決めている。
あー足ほっそ。顔ちっさ。
ミキも足細いとか顔小さいとか言われるけど背が低いからモデルは無理かな…なんて。
あぁ…これ、かわいいかも。
ミキだったらこれはこっちのと合わせるかなぁ。
…うん、これだとミキに似合うね、うん。
ああこのネックレス欲しいかも。うーん。このピアスはちょっと違うなぁ。
「お客さん、立ち読みはご遠慮下さーい」
「っ!?」
え!?
なんだよバイトのくせに、耳元で話しやがって気持ち悪いな!
- 373 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:51
-
…と、睨みつけたら。
いきなり目を引いたのはさっき見た店員とは似ても似つかない真っ白な肌だった。
そして何より、人を吸い込まんばかりに輝く大きな瞳。
…嘘。
「…よっちゃん!?」
「よっ、すっごい偶然」
よっちゃんはニカっと笑った。
…やばい、眩しい。
驚きのドキドキとは違うドキドキが響いてる。
- 374 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:52
- 「どうしたの、こんなとこに」
よっちゃんの家はこの近所ではない。
「ん、散歩?」
「嘘でしょ、危ないよ」
もう日付も変わっている夜中も夜中。
結構な距離を一人で歩いていることになる、本当危ない。
よっちゃんは変なところ危機感が抜けているところがある。
夜中に急に走りたくなったら平気で走りに行くとか言ってるし、
遊んでて終電出ちゃうとタクシー代がもったいないとか言って歩いて帰ろうとする。
全く、女なんだしそこらにいないくらいの美人なんだという自意識過剰さも持って欲しい。
「へーきへーき、ほらこんなカッコしてたら夜なら男に見えるからあたし」
と、大きなパーカーを引っぱって見せてくれるけど全然そういう問題じゃないと思う。
ヘラヘラ笑っているよっちゃんを見て深くため息をつく。
もう、…と。あきれるフリをして。
本当は何でこんなところまで来たかなんとなくわかってしまった。
もちろんミキじゃない。
- 375 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:52
- 『やっぱりいきなり一人暮らし不安だから、美貴ちゃんの借りたマンションの近く借りたんだっ。
もしもの時は助け合おうね、大学からもよろしくね』
梨華ちゃんは、大学に入る前の春休みにそう言って笑ったっけ。
ミキと梨華ちゃんは大学の近くのマンションを借りたのだ。
このコンビニからは梨華ちゃんの部屋も近いということ。
よっちゃんは、梨華ちゃんに会いたくなったんだ。
別に押しかけるつもりで来たわけじゃない。ただ、外からでも何だか見に来たくなってしまったのだ。きっと、そう。
そういう気持ちがわからなくもないから、多分当たってる。
よっちゃんには指摘しないけど。
…そんなこと言っても、悲しげに曖昧に笑って誤魔化すだけだから。
その笑顔がミキは本当に嫌だから。
ああ。
そんな片思いみたいな恋の辛さを、誰にでも隠そうとこうやって笑うんだ。
明るくされる方が逆に心痛む。
…笑顔の裏の涙を、どうしてそうまでして隠すの。
梨華ちゃんに迷惑かけるから?
梨華ちゃんを困らせたくないの?
…もう、隠しきれないくらい悲しみに溢れてるくせに。
- 376 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:53
- きゅっと喉が締め付けられて。
俯いたミキに、よっちゃんは。
「美貴こそどうしたの?こんな時間に。…なんかあったんじゃないの?」
そう言ってミキの髪を優しくなでた。
バカみたいに優しい指。
泣いてしまいそうで、振り切る。
「――――んでも、ないよ」
なんでもある、みたいに響いた自分の声に嫌気がさす。
ああダメだ。全然上手くいかなかった。なんでこうなんだろう。
よっちゃんの前だとどうしても上手くいかなくなる。
困ったように笑ったよっちゃんの瞳の奥の空虚を、ミキは知る。
そしてどうしようもなく心を揺さぶられるのだ。
それは水を張った氷の上で滑った、そう感じた瞬間痛みが身体に走るくらいに
自分ではどうしようもなく止められなかった事態だった。
「…よっちゃんじゃないの、なんかあったのは」
言葉を発した後で、ああ、今喋ったよな、とどこか冷静に思っていた。
よっちゃんは…ほとんど聞き取れなかったかもしれない呟きを聞き返すことはなかった。
あるいは、聞き返せなかったのかもしれない。
それはやっぱりミキには一生解らないことだった。
- 377 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:53
- 「……眠いから帰る。よっちゃんも早く帰りな」
読み始めたばかりの雑誌を棚に戻して、ミキはよっちゃんの背中に軽く触れて促した。
よっちゃんが動き出す前にミキは出口へ向かう。
「美貴んち入れてくれないの?」
ふざけてそう言ったよっちゃんに。
「殴るよ」
……振り向けずに。
ミキが感じた意味と、たぶん違う解釈をしたよっちゃんは。
このこと梨華ちゃんには言わないでね、あいつこういう冗談本当嫌がるからさ。
そう言った。
梨華ちゃんが怖い顔して嫌がるのが容易に想像できた。
そしてそれを同じように思い浮かべているよっちゃんも想像できた。
「―――ふっ」
何にも可笑しい事なんてないはずなのに声に出て笑えた。
「さてね、どうしよっかなぁー言っちゃおうかなぁ」
そう茶化して、よっちゃんを置いて外へ出た。
よっちゃんはちょっと、とか言いながら笑って追いかけてきた。
外は、寒い。
- 378 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:53
- よっちゃんとミキは二分ほど並んで歩く。
亜弥ちゃんと並んで歩く時のように盛り上がるわけでもない。
梨華ちゃんと並んで歩く時のように気の置けないわけでもない。
よっちゃんと、並んで歩くということは。
それはミキにとっては長くて短い時間で、あって欲しいけどあってはならない時間で、
ただどうしようもないほどに埋まらない何かを見つけてしまっては、それを見ないようにするだけの時間だった。
コンビニから、カップラーメンも出来ないような時間でミキのマンションに着いた。
「じゃ、気をつけてね」
「うん」
「…よっちゃん」
「なに?」
「家に無事に着いたら、メールしてね。やっぱり心配だから」
「うん、わかった。…ありがと。起こしたらごめんね」
「いいよ、別に」
「じゃあ、また明日ね」
「うん…ばいばい」
「ばいばい」
よっちゃんはなんてことなくここを去っていくけれど。
ミキには大切な二人だけの秘密なんだよ。
よっちゃんからメールが来るまで眠れるはずもない。
そんなのって、ちょっと可笑しい。
- 379 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:54
- なんでこんなに好きなんだろう?
なんで、ミキはよっちゃんをこんなに好きなんだろう。
ミキだけが、みんなとは違う方向を向いてしまっているのだ。
ミキさえちゃんと正しい方向を向いていれば、全て上手くいくのに。
そう思うとミキはやっぱり笑えてくるのだった。
- 380 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:54
-
+++++
- 381 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:54
- 「美貴ちゃん」
「ん?あ、梨華ちゃん」
「どうしたの?」
「んー?別に」
「…まぁいいや、ふふっ。戻ろうよ」
「……うん」
職員室を出たところで呼び止められた。
たった今講義中の携帯電話の使用でお叱りを受けたミキとは違い、梨華ちゃんは進路指導室から出てきた。
大方資料でも見ていたのだろう。
ニコ、と笑いかけてくる梨華ちゃんは、何だかとても遠くに見えた。
昔から不器用でお人好しで、いつも要領悪くて。
失敗してはしゅんと俯いて美貴ちゃん美貴ちゃんと甘えてきた梨華ちゃん。
ミキの記憶はそこで止まっている。
いつまでもそんなイメージだから、今の梨華ちゃんが梨華ちゃんに見えないのだ。
なんなんだろうね、これ。並んで歩きながら、梨華ちゃんと並んで歩いている感じがしなかった。
ミキ達の関係は変わってしまったのだろうか。
別に幼なじみだからって特別仲が良かったわけじゃない。いつも一緒だったわけでもないのに。
どうしてこんなに遠く感じるんだろう?
…梨華ちゃん、綺麗になったね。
- 382 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:55
- 「あれ?帰ったと思ってた」
梨華ちゃんの高く甘い声に我に返る。
目の前には今階段の下から上がってきたよっちゃんがいた。踊り場で鉢合わせる。
よっちゃんは困ったように笑って、
「ま、ね」
とだけ言って梨華ちゃんの隣に自然と合流した。
梨華ちゃんはどうだか知らないけれどミキはすぐに悟る。
様子から見て、告白かなんかでの呼び出しだ。
4年生になって、初めて見た時の初々しい高校生上がり丸出しの大学生もすっかりいい大人になった。
その容姿や物腰から後輩に人気があることは知っている。
かつて先輩がいたときには先輩にもかわいがられていた。
よっちゃんには人を惹きつける才能があるように思う。ミキも惹かれた一人なのだから。
「もしかして、また告白されたとか?」
あ。
…梨華ちゃんも、わかってたか。
わざわざ口に出すところが梨華ちゃんらしい。
よっちゃんはむう、と怯んだように口をむにゅむにゅさせて頭をぽりぽり掻いた。
梨華ちゃんはそれを見てくすくすと笑い始めた。
…余裕だねぇ。
付き合い始めの頃は、梨華ちゃん毎日不安そうだった。
よっすぃは綺麗だし、人気もあるし、どうしてわたしなんか選んでくれたのかなぁ。
そんな感じの言葉が口癖だった。
月日は経って。
自分への自信がいつしか梨華ちゃんにもついて、それが、よっちゃんへの信用に繋がったんだと思う。
なんて、矛盾。
よっちゃんはきっと、どこかで不安になって欲しいと思っているだろうに。
まるでよっちゃんのことなんて気にしていないみたいに見えちゃうよ、梨華ちゃん。
わかってる、梨華ちゃんなりに心配かけまいとしていること。
でも、よっちゃんが求めているのはそんなんじゃないんだって、どうしてわからないの?
- 383 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:55
- …もしミキなら、わざとすねてみせるよ。
よっちゃんも、呆れながら笑ってくれるでしょう?
……怒らないで、あたしは美貴だけを好きなんだから。不安になったりしないで。
そう言って、本当に優しく抱きしめてくれるんだ。
でもそれは、ミキの世界だけのお話に過ぎない。
現実はこうして気持ちがすれ違いもどかしいまま。
…歪んで、いく。何もかも。
- 384 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:55
-
+++++
- 385 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:56
- 「ん…っ」
亜弥ちゃんの甘ったるく熱い声。
ミキがしてあげる時はいつも、ミキにしてる時からは想像もつかないほどかわいい。
その声をもっと聞かせて欲しいと思う。
実際ミキがそうされるのはすごく怖くて嫌なんだけど、焦らして焦らして理性をギリギリまで追い詰めてしまいたくなる。
ミキはする側に回ると途端にサディスティックな部分が芽生える感じ。
亜弥ちゃんの白い肌。柔らかい身体。
触れると、それだけでぶわっと熱くなる正直な身体。
悲しいくらい本能で触れてしまう。本能が反応してしまう。
亜弥ちゃんが裸のままベッドを出て、綺麗な形のお尻を向けながら冷蔵庫を開いた。
二つの缶チューハイを取り出して、はい、と一本差し出された。
キンキンに冷えたそれを一口大きめに含むと、炭酸と甘みと苦味がじわっと舌と喉を刺激した。
汗をかいた後に飲むとかなり美味しいと思う。
やっぱり普通の炭酸とは違う何かがあるんだ。気のせいかもしれないけど。
「っぷはぁー」
「にゃはは、おじさんじゃん」
「うるさいなぁ」
二人ベッドの頭の部分に背をもたれて、肩を寄せ合う。肌と肌が触れる感じがとても心地良い。
そうやって、激しく燃え上がった後はゆったりと過ごすと落ち着く。
…ごく。
喉が鳴る。
美味しい。
満たされている。
付き合うって、恋人って、気持ちいい。
…そしてミキは思う。
「…はぁー、わっからん…」
「ん?何?」
「何でさ、辛いのかなぁ」
「何が?」
「…友達のね、恋愛。なんかさ、一緒にいて楽しくもなさそうだし、
お互いいい影響なさそうだけど、一緒にいようとしてるんだよね。それ見てると痛々しいっていうか…」
- 386 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:56
-
*****
- 387 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:56
- 「「4位!?」」
思わずよっちゃんとハモってしまった。
梨華ちゃんは誇らしげに一枚の紙を見せた。
S、A、S、S…かなりいい。
「嘘みたい…昔は半分くらいだったのに」
「わたしだってねぇ、やれば出来るんだからっ」
梨華ちゃんはもう嬉しくってしょうがないらしい。
目を垂れるほど細くして二ッコニコしている。ちょっとほっぺたも赤くなって興奮が見える。
ミキは、どこかで素直に祝えていないのがわかった。
それは、隣の存在の寂しそうな目のせいだ。
「おめでと」
笑うことが、酷く疲れる。
この距離は…人としての距離。
生きがいや目標を見つけた人の光を感じて。
そして、そんなものとは無縁の人との間に存在する絶対的な隔たりも。
梨華ちゃんといると、自分が酷く惨めになる。
そんな風に感じること自体に、自己嫌悪する。
梨華ちゃんは何も悪くないとわかっているのに。
この学校を選んだのは、確かにこの職種にも興味があったけど。
でも、それは別にそこまで熱を注いでいるわけではない。
ただここが無難だったからに過ぎない。行くんだったら、ここかな。くらい。
別にこの仕事に就けなかったからといってミキの人生が大きく狂うことはないだろう。
でも梨華ちゃんは違う。
一生をここに賭けた。
自分の将来をその職業に注ぐことを決めたのだ。
それは突然だった。
なんとなく過ごしていた三年間を取り戻すように、梨華ちゃんは猛烈に学力をつけ始めていた。
全力で情熱を注げる夢。
ミキにそんなものが見つけられるのかは、全くわからない。
- 388 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:57
- 「あっ、あのね、よっすぃ」
「…ん?何?」
ゆったりと微笑んでよっちゃんは梨華ちゃんに応えた。
梨華ちゃんは無邪気に笑ってよっちゃんの手を取った。
「あのねっ、テストもひと段落ついたしね、今度の日曜一緒に出かけない?」
梨華ちゃんなりに普段かまってあげられないよっちゃんへ気を使ったのか、
それともただ単に自分の都合がついたから一緒にいたい人を誘っているのか。
…笑って、よっちゃんの気持ちの何かを決定的に取り違えてる存在が一瞬酷く憎らしくなった。
それは昔からあった感情だ。
普段特別嫌いとか思うわけじゃない。ただ時折ものすごく梨華ちゃんを憎いと思うことがある。
小学生の時のことを覚えている。
梨華ちゃんは本当に昔から何をするにも不器用で。
何をするにも上手くいかない。だからこそ、少し上手くいったらとてもよく褒められるのだ。
頑張った、頑張った、って。まるで梨華ちゃんが誰よりも頑張ったみたいに言われるんだ。
- 389 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:57
- それは跳び箱の授業だった。
ミキは7段をごくたまに飛べる程度だったので、悔しくて、10回中10回飛べるようになりたくて、
何回か練習してほとんど失敗せずに飛べるようになった。
要するにミキは2つに分ければ飛べる組だった。
梨華ちゃんは飛べない組でも特に出来ない子だった。
跳び箱を飛ぶ定義がわかっていなかったとしか思えない動き。
その梨華ちゃんは、先生にみっちりついてもらって、何度も何度も練習をした。
そうしたら、なんとか5段飛べるようになった。
梨華ちゃんが5段飛べた時、梨華ちゃんはまるで10段飛べた女の子みたいにもてはやされた。
それを見た瞬間、ミキにはなんともいえない感情が芽生えたのだ。
どうしてミキが5段飛んだって誰も褒めてくれないのに、梨華ちゃんが飛べたらあんなに褒められるんだろう。そう思った。
そんな風に思ったことは何度もあった。
ミキは梨華ちゃんになりたいと思ったことはなかった。
でも確かに梨華ちゃんがうらやましかったのだ。努力する姿を隠すことを知らない梨華ちゃんが。
泥臭くても、必死にいられる梨華ちゃんが、眩しかったのだ。
本当は苦手なことを頑張ることがどれだけ大変なことかくらいわかってる。
不器用な梨華ちゃんが5段飛べるようになることが、ミキが7段飛ぶことよりはるかに大変なことだと。
それでもミキは、すごいね頑張ったねって…言って欲しかったのだ。
ミキは確かに、7段飛べるようになるまで頑張ったのに。
そんなことを思い出した。
- 390 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:57
- ほんの一瞬そんな出来事がよぎっている間に、よっちゃんが少しだけ考えていたみたいだ。
そして。
「…いいよ、そんな」
「え?」
よっちゃんは、優しく首を横に振った。
「休みならゆっくりしてなよ。根つめてるでしょ?疲れてるだろうし」
「…そ、そんなことないよ!わたしほら元気だし、大丈夫だよ?ねえ、大丈夫だから行こうよ」
「元気なら、勉強しなよ。…いつも塾が休みの日も勉強してるんでしょ?
今遊んで後悔するくらいなら、別に無理して時間とらなくていいんだよ」
「――――いいの、一日くらい平気だもん」
梨華ちゃんも、一瞬不安そうな顔を隠せなかった。
梨華ちゃんは、勉強の天才じゃないから。
積み重ねを怠った時点でどんどん崩れていく、止まったら死んでしまう魚のように。
もっと定着させるには、今の伸び始めの時期の努力こそが必要だという事はわかる。
よっちゃんにだってわかるから、手放しでは頷けなかったんだろう。とことん自己犠牲の精神だし。
梨華ちゃんの邪魔しないように、平気なフリをする。
…完璧には出来ないくせに。もう、きついくせに。
この決定的にすれ違った二人は、互いを好きという感情のみでどうして一緒にいられるんだろう。
もう…少しつつくだけで、壊れてしまいそう。
よっちゃんの見る景色。
梨華ちゃんの見る景色。
こんなに違うのに。
二人は、一緒にいて辛くないんだろうか。
- 391 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:58
- 「ね、行こう?わたし行きたいの」
「…いいの?本当に」
「大丈夫だってば!じゃあ日曜の10時にいつもの場所でね」
「…うん」
少し強引だけど、二人は日曜にやっとデートをすることになった。
久々のデートだ。
梨華ちゃんは少しだけ寂しそうに笑って、握り合っていた手をいっそう強く握り締めた。
よっちゃんはそれをじっと、見つめていたんだ。
- 392 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:58
-
*****
- 393 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:59
- 「恋愛ってさ、相手と一緒の時間は楽しくて楽しくてしょうがなくて、
心がいっぱいになるくらい幸せなんじゃないの?
一緒にいて辛いなら、それはもう恋愛じゃないんじゃない?」
ミキが物思いにふけりながらあおっていたチューハイはもう一滴も落ちてこなくなった。
程よく喉があったまって気持ちいい。
ぽい、と空き缶をベッドから床へ捨てたけど、カーペットの上に落ちて音はしなかった。
「はぁー」
ミキの大きなため息に反応して、亜弥ちゃんはアゴに手を当てた。
「でもさ、しょうがないよ。人間なんて色々いるんだからさ、付き合い方だって色々でしょ?
互いを好き、っていう気持ちが互いを辛くする関係だってあるよ。
それを恋愛と呼べないっていうのはたんという人間の一つの考えに過ぎないよ。
あたしはそういう辛いことも、恋愛にはつきものだと思うよ?
もちろん、楽しいに越したことはないよ。互いに高めあえるならそれはいいと思う。
でも恋愛って理屈じゃないよ。損得や理性でどうにかコントロールできるようなものじゃない。
そんな恋愛感情だらけだったら、それはちょっとつまんないし、ロボットみたいだよ」
亜弥ちゃんの言葉。
皮肉にもミキのよっちゃんへの思いを導く。
そう、理屈じゃない。
わかっていてもよっちゃんへの思いは止められないから。
ああ…困ったな。
- 394 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:59
- 「…なんで、皆が皆幸せになれないんだろうね。
どうして人間って辛いことがいっぱいあるのかな?どうして……」
何かにどうしようもなく苛立っているミキを、亜弥ちゃんはミキと同じように空き缶を放り投げて、組み敷いた。
亜弥ちゃんのチューハイの缶はカーペットを転がり落ちてフローリングをカラカラカラと転がった。
亜弥ちゃんの柔らかい唇を感じながら、思う。
ミキは幸せなの?
恋人がいて。
愛されて。
友達もいる。
それでも。
それでもミキは。
- 395 名前:2 幸せの裏 投稿日:2008/07/11(金) 19:59
-
+++++
- 396 名前:幹 投稿日:2008/07/11(金) 20:03
- 2 幸せの裏
更新終了です。
>>369さん
ありがとうございます。とても嬉しいです。
この人たちにどんな未来があるかを見守って下さると嬉しいです。
>>370さん
私も書いていて楽しいです。
ありがとうございます。
- 397 名前:名無飼育さん。。。 投稿日:2008/07/11(金) 22:02
- 更新お疲れ様です
みんながどうなっていくのか、すごく引き込まれます
- 398 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:33
- 月日が経つのは遅いのか早いのか。
講義は長い。
でも気がつけばもう四限目が終わろうとしていた。
昼休みにトイレから戻ってくると、ばたばたと梨華ちゃんがミキに駆け寄ってきた。
「ねえ美貴ちゃん、美貴ちゃん遺伝学得意だったよね?ここわからないんだけど…」
「え?どれ?」
ここ、と梨華ちゃんが指差した先の式を目で追う。
「答えを確認したんだけど、どうしてもこうなる理由がわからなくて」
「………」
そこに見るものは、まるで暗号だ。ミキに理解できる世界ではなかった。
…うわぁ、ダメだこれ。
「ゴメン。…わかんないや」
「あ、そっか。うんわかった。ありがとう…あとで先生か誰かに聞いてみるね」
「うん、ごめんね力になれなくて」
「ううん、いいよ」
…本当に。
ミキより下くらいの学力だったのに…いつの間にかミキの得意教科さえ、
梨華ちゃんは遥か上のレベルで理解していた。すごいことだ。
- 399 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:33
- 「…大変そうだね」
ミキの言葉に、梨華ちゃんは眉を下げて笑った。
「うん、そりゃあね…すっごく大変だよ」
「辛いでしょ?もうヤダ、やめたいとか思わないの?」
「え?うーん…でも夢を叶えたいし、頑張らなきゃだもん。辛いって思う暇があったら勉強してるかなぁ」
すごいなあ。
そんなにまで努力し続けるって、すごい。
きっと梨華ちゃんは、夢を叶えるだろう。そう思った。
ふいにミキの視界によっちゃんが入った。
よっちゃんは一人窓際で外を眺めていた。
「……。梨華ちゃんはさ、すごく自分ていうものを持ってるよね」
「そうなのかな?そうだったら、嬉しいな。ありがとう」
梨華ちゃんの自分は、でも、本当に自分だけなんだ。
いつもいつも、昔から…ずっと。自分が自分でいるためには犠牲をいとわないところがある。
そのことに夢中になると、人のことが見えにくくなってしまう部分がある。
今の梨華ちゃんに、いったいよっちゃんはどのくらい映っているの?
よっちゃんは、梨華ちゃんしか見えていないのに。
そう思うと妙に苛立った。
- 400 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:33
- 梨華ちゃんはそわそわとし始める。
ミキは悟って、笑った顔を作った。
「…いいよ、勉強しなよ」
「あ…っ、ごめんね。なんか勉強してないと落ち着かなくってさ…
美貴ちゃんとはまたゆっくりお話したいな。わたしに余裕ができたらだけどね」
「うん、じゃあ待ってるよ」
「ありがとうね、じゃあ」
そう言って梨華ちゃんはミキのもとを去っていった。
その背中を一瞬だけ見てすぐに視線をそらした。
ミキはいつもと同じ後ろの方の席について、そっと、誰にも気付かれないようによっちゃんを眺める。
よっちゃんの横顔は悲しそうとか寂しそうとか、そういうのじゃなくて。
人形のように感情が読み取れなくて。でも多分、それが一番怖くて。
ミキは切ない気持ちになる。
携帯を取り出してよっちゃんへ、『バーカ』ってメールを送ってやった。
よっちゃんはポケットから携帯を取り出して、それからミキを見て嬉しそうに笑った。
…やさしい、瞳。唇の曲線。
寂しげに誰かの温もりに心癒されている時の無防備さ。
…。
ああ。
ミキは思わず照れ隠しのようなふりをして顔を逸らした。
本当は、好きだって顔に書いてありそうだから、見られたくなかったのだ。
よっちゃんのあんな笑顔を平気な顔して受け止められるほど、ミキは自分に鈍感ではないから。
- 401 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:34
-
+++++
- 402 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:34
- 講義が全て終われば、ここはただの女だらけの箱になる。
無駄に大きな声を上げて笑う集団も、一人俯いて足早に去ろうとする姿も、
この時間はごちゃごちゃになって適当に放り込まれている。
何せ飾りと匂いばかり強い物質がごろごろと。
その光景を見渡すようにミキは広い講堂に視線を投げていた。
一番後ろからだと何もかもがよく見えすぎる。
と。
カバンを抱えて一つの影が近づいてきた。
…誰とも見紛うことのない。
誰よりも愛しい姿。
- 403 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:35
- 「ありがとね、美貴。気にしてくれてるんだよね、きっと」
「………」
亜弥ちゃんの講義が終わるのを待っている時、よっちゃんがミキの隣に来てそっと囁いた。
その横顔は穏やかで、彫刻を思わせるほどに完璧に美しくて。
人間を見ている時の感覚とは違うような気がしてくる。
「…明後日、デートなんだよね。貴重な時間、めいっぱい楽しんできてね」
ミキは最大限いい人のフリをして笑いかけた。
精一杯、明るく振舞う。
「……ん…」
よっちゃんはまた曖昧で悲しげに笑った。
そう、大嫌いな笑顔だった。
ああ。
ミキならそんな顔はさせないのに。と。
ミキは一生のうちにあと何度思うことになるのだろう。
よっちゃんがいる。
こんなに近くに。
でも、一生手は届かない。
どうしてこんなことになっちゃったんだろうなぁ。
- 404 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:36
- 「たーん!」
亜弥ちゃんが呼ぶ声がする。
でもミキは…動けずに。
「…いいよ、行って。あたしなら大丈夫だからさ」
よほどミキは酷い顔をしていたのだろう。よっちゃんはミキにそう言った。
ミキは亜弥ちゃんに笑顔を向けた。
一歩、二歩、三歩、歩いた。
そして振り向きざまによっちゃんのペンダントトップらへんに目をやって。
「二人で会っても、辛いだけじゃん」
早口だったけれど、しっかりと。
思わず零れてしまった。
ミキはすぐに顔を背けて逃げ出した。
その後のよっちゃんの言葉も表情も、わからない。
亜弥ちゃんが笑顔で迎えてくれるから、ミキはなんとか笑顔を返した。
でも本当は、後悔の念でいっぱいだった。
- 405 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:37
- なんであんなこと言っちゃったんだろう。
…本当に、言わずにはいられなかった。
怖くなる。
いつかそうやって、よっちゃんに何もかも話してしまう日が来てしまうことを想像して。
それだけは避けなければいけない。
ミキ、しっかりしろ、ミキ。
亜弥ちゃんの恋人で、梨華ちゃんの幼なじみで、よっちゃんの友人なミキに戻らなければいけない。
でも本当は知っている。
亜弥ちゃんを利用する、梨華ちゃんを憎む、よっちゃんを困らせるだけのくだらない存在だという事。
そして泣きたくなるんだ。激流に逆らう自分の心に、自嘲を混ぜながら。
明日またミキは一人で空しい気持ちになるんだとわかる。
一生のうちの少ない『若い』という時代のどれだけをそんな不毛なことに費やすのか。
それはまだまだわからない。
- 406 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:37
-
+++++
- 407 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:38
- 当たり前に、今週も日曜日がやってきた。
いつもなら休みで心が躍るはずの日も当然、今回ばかりは動く気にもならなかった。
身体が重たい。頭も重たい。気分が沈んで仕方ない。
わかりやすい自分。
正直、会えないとわかっているからこそ、無性によっちゃんに会いたかった。
待ち合わせに聞いていた時間はとっくに過ぎている。
ミキさえも知らない二人だけの「いつもの場所」で、梨華ちゃんとよっちゃんが二人だけの時間を過ごしていると、
そう思うだけで無性によっちゃんの顔を見たくなるのだった。
よっちゃんの指先、よっちゃんの唇、よっちゃんの髪の香り。
よっちゃんの断片的なイメージが重なり合って、花のように咲き乱れ散っていく。
「あ―――っ、もう」
イライラして、ソファを拳でドンと殴りつけた。
…。
ぐう。
お腹が減っていると気がついたのは、ちょうど考え事の切れ目にお腹が上手いこと鳴ったから。
仕方なく冷蔵庫に向かったものの、冷蔵庫の中にミキを今すぐ喜ばせるような食べ物は入っていなかった。
はあ、しょうがないな。
やる気がないけれど空腹には勝てそうもなかった。足取りも重いまま近くのコンビニへ向かう。
鍵をかけるのが面倒だったので財布だけ持った。
別に盗られて困るものなんてわかりやすいところに置いてないし。見るからに貧乏学生の部屋だし。
っていうかこのマンション自体貧乏臭いから泥棒がここ目標にするとか愚かだし。
とか、適当に理由つけて。
肌に馴染みきったスウェットもそのままに。
ミキ、女としてどうなの。まあ別にいいけど。
- 408 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:39
- ザッ、ザッ。
いつものように出かけるときは靴を履いて。
ガチャッ。
いつものように出かけるときはドアを開けて。
……………瞬間。
視界の端に何かが映った。
それは。
視線を右下に落とした。
それは体育座りでうなだれている人間だった。
ああダメだ。そんな幻覚が見えるなんて、ミキも重症だ。
だってだって。
だって、ここにいるはず………
「………美貴?」
- 409 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:39
- けだるそうに、その人間は顔を上げた。
その目がミキを捉えて、ゆらゆらと揺れた。
「……………よ、っ…ちゃん……?」
見た目に何かが変わったわけじゃないのに、何故かよっちゃんが怖く感じた。
何故か、ふわふわと…いつもより上手く笑っているせいかもしれない。
- 410 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:40
- 「美貴……」
ぞく、とした。驚くほど艶っぽい声で呼ばれた。あまりにも濡れた瞳で。
その凍るような感覚に一瞬忘れていたけれど、突然思い出してそれは口をついて出た。
「よっちゃん、デートは…っ?」
思わず責めるような口調になってしまう。
でも、だって。なんで。なんで。
「行かなかった」
そう言って、よっちゃんは無邪気に笑った。
その笑顔を見た瞬間、ぐっとこみ上げてくるものがあった。
ああ。
よっちゃんが壊れていく。
「どう、して…?」
声が裏返って詰まったけど、よっちゃんは驚くこともせずに笑っていた。
- 411 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:40
-
「もう、だめだぁ」
へらっと笑って。
…それから、みるみる目に涙を浮かべて。
「…辛くて…もう梨華ちゃんの顔見られないんだよ」
ぽたぽたと、涙が落ちる音しかしなかった。
- 412 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:42
- 「―――――んでだろうね…?こんなに好きなのに…なんでだろ」
綺麗に泣くなぁ、とどこかで思っていた。
泣き方を知らないように拭うこともせず、ただ彼女の頬を涙が落ちていった。
ただ泣く。
でもそれは、生きている人間の叫びのようではなくて。
割れかけた硝子のコップから、清らかな水が漏れ出したように。
『二人で会っても、辛いだけじゃん』
ミキは自分で発した言葉の重さを理解した。
がん、と頭を殴られたような感覚。ふらついて壁にもたれかかる。
「…ミキのせい?」
声が震えた。指も震えていた。
「…違う」
「だって、ミキがあんなこと言わなきゃ」
「違うよ、違う」
思わず涙が零れてきたミキを、よっちゃんが力強く引き寄せてその胸の中に収めた。
あまりにも強い力で一瞬呼吸が止まる。
なんて荒々しいんだろう。なんて悲しい。
気がつくと。
何故かミキは、よっちゃんとキスをしていた。
それは、間違ってぶつかってるにしては長くて、深い。
よっちゃんはひどく甘かった。
- 413 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:42
- 「……………ねえ」
涙の残る瞳が綺麗に光を溜め込んでいるのに、その目はちっともキラキラしていなくて。
でも驚くほどに色っぽくて。
「忘れたいんだ、今考えてること何もかも忘れたいんだよ、何も考えたくない」
そうして、もう一度ミキに唇を落として。
それはそれは…驚くほどに魅惑的な表情で。
捨てられている子犬のように縋るのに、どうしてか扇情的に。
- 414 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:42
-
「………………おねがい」
ミキの何かがはじけ飛んだ。
- 415 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:43
-
+++++
- 416 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:43
- 何もかももどかしくて、何がなんだかわからなくて。上になって、下になって、絡み合った。
髪をぐしゃぐしゃにしても、どれだけ激しく唇をぶつけても、何かに躊躇うことはなかった。
もう、そこに二人がいることだけが今頭を全部占めていた。
余りにも焦りすぎてよっちゃんが着ているシャツのボタンが取れかけた。
今までにした事もないほどに、腰を動かして、声を上げて悶えた。
今までにした事もないほどに、激しく指を動かして掻き回した。
貪るようだ。飢えに飢えた動物が食事をしているかのような。
傷の舐め合いは、それはなんだかとても甘ったるくて。
いつもこんなにも求めていたよっちゃんの肌は、陶器のようにきめ細やかで。
柔らかくて、熱くて、嘘みたいに甘かった。
蕩ける。
どうしよう、甘すぎる。
キスをする。
キスをする。
キスをする。
肌が重なり合って、温度が高まりきって。
これ以上は駄目…蒸発してしまう。
気持ちよくて、死んでしまいそう。
- 417 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:45
- そんなのわかってた。
よっちゃんが何もかも過ぎ去った後にどうしようもない自己嫌悪でいっぱいになるだろうことなんて。
梨華ちゃんを裏切ったことも、ミキを巻き込んだことすら全部背負い込んで傷つくだろうと。
よっちゃんだってわかっていたはずだ。そこまで考えなしじゃない。知っているから、考えすぎちゃうよっちゃんのこと。
それでも悲しみに抗うことができなかった。
きっとたまたまミキがそこにいただけで、誰でもよかった。誰でもいいから縋りつきたかったんだろう。
人一倍我慢強くて、悲しくても笑っているよっちゃんが。
悲しければ悲しいほどに涙を我慢するよっちゃんが。
こんなになるまで、一人で我慢してたんだ。
ヒビだらけのよっちゃんを、もう見ない振りできなかった……ううん。
ミキもまた同じように壊れてしまったんだろう。ダムを決壊させてしまったんだ。
目の前に差し出された瞬間、一瞬で抑えつけていた自分なんて塵になった。
- 418 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:46
- 気がついたら瞬きをするような刹那で事は終わっていた。
物理的時間は長かったはず。だって外は薄暗い。
でもミキはその間を別人格であったかのように…夢を見ていたかのようにぼんやりとした記憶しかとどめていなかった。
ただ、夢のように忘れてしまうことはないんだろう。
熱が下がらないで、ただぼんやりと永遠に忘れることはないんだ。
そう思うと、何故かまだ遠い目でどこかを見ているよっちゃんの首筋に再び吸い付いていた。
よっちゃんは体だけで反応してミキの体に指を滑らせる。
ミキからすれば、それが初めてのよっちゃんとの触れ合い。
さっきまでの酒に酔っていたような記憶とは違う。ビリビリと痺れるような刺激。
でも、その一瞬だけでまたわけわからなくなってしまった。とろんとした思考。
本当に好きな相手と触れ合うことは、人をこんなにもおかしくさせるものなのか。
よっちゃんの体が誰にも触れられていないはずなんてない、わかっていても全然気にならなかった。
ミキを激しく震えさせる指の慣れた動きにも、何も嫌な気分はしなかった。
桜が咲いたような頬の色とか、奥が見えない瞳の色。
時折苦しげに歪む眉、昂ぶって熱を出す唇。
すべて断片的な記憶。
でも、どれも今まで見た何よりも綺麗だった。
色づいた硝子は、破片こそ美しい。
触れたら怪我をするけれど、触れずにはいられないほどに綺麗なんだ。
深くくちづけた。
愛し合うように、深く傷つけ合ったのだった。
- 419 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:46
-
よっちゃんが熱めのお湯を浴びている時を見計らって、梨華ちゃんの携帯に電話した。
『…美貴ちゃん?』
弱々しい声が耳に届いた。
僅かにボリュームが落ちて、掠れていた。
「もしもし?今よっちゃんと一緒?」
『…ううん』
「もう家にいる?」
『うん、今…家』
「ちょっと今日は勉強なんかしちゃったんだけどさぁ、
どうしてもわかんないところがあって、良かったらちょっと聞きたいんだけど今から行っていい?」
『…ごめん、今日は…疲れてるから』
「……」
『……』
「………なんか、あったの?」
我ながら迫真の演技。
梨華ちゃんははっと息を飲み込んだ。
「…わかった。ちょっと待ってて、買い出ししてからそっち行くわ。
勉強はいいから喧嘩とかしたなら愚痴聞くからさ、今日は飲もうよ」
『…でも、ホントに今日は…一人で、考えたくて』
「梨華ちゃんが落ち込んだ時に一人で考えてなんかいい方向に行ったことあった?
ミキの意見も聞いてみてよ。ちょっとは考え変わるかもよ?」
『………わかった。じゃあ…待ってる』
「うん」
これでオッケー。
- 420 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:47
- ミキはシャワーから上がったよっちゃんの髪を丁寧にドライヤーで乾かして、
いつものよっちゃんのとは違う香りのする髪にワックスをつけて整えた。
そのこしのある髪に躊躇いもなく触れている自分がいた。躊躇いもなく触れさせている彼女がいた。
「梨華ちゃんに、ちゃんと謝りなよ」
後ろから抱きしめて、子供に言い聞かせるように手でリズムを作ってよっちゃんの肩を叩く。
お湯で柔らかく温まっているよっちゃんの肌からは石鹸のにおいがする。
「デートすっぽかしちゃったこと」
「…うん」
「今日はとりあえず帰りなよ」
「うん」
「今からミキが梨華ちゃん家行くから、その間に帰りな。
梨華ちゃんは今家にいる。鉢合わせないから、ちゃんと真っ直ぐ帰ってね」
「うん」
「これ、うちの鍵。閉めたら郵便受けに入れておいて」
「うん」
『いい子』のようによっちゃんは素直に返事をして。
ミキはよっちゃんに鍵を渡して家を出た。
適当にご飯を買い漁りながら、梨華ちゃんのお気に入りの梅酒ソーダ割りを籠に入れた。
ミキは、残酷だけど…よっちゃんを甘やかした。
縋ってくるならばとことん甘やかしてあげたかった。
よっちゃんの幸せを考えるふりした。後から辛いのをわかっていて。
- 421 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:49
- ピンポーン。
しばらく経ってから、トン、トン、トンと少しゆっくりめに歩く足音が聞こえた。
ガチャッ。
ドアが開いて、視界に入ったのはめいっぱいおしゃれをしたであろう梨華ちゃんだった。
よっちゃんとのデートに着ようって張り切って買った服なんだろうワンピースはしわになっている。
不器用ながらに長い髪を綺麗に巻いたんだろう、けれどもうしおれている。
張り切ったのであろうメイクも所々はげたり滲んだりしてぼろぼろだった。
目も腫れている。
それは酷かった。一目で何かあったとわかる姿。
うわぁ、と声が出そうになった瞬間に抱きつかれた。
「美貴ちゃん、美貴ちゃんっ…!」
またみるみる涙に濡れる頬。
その姿にミキは何も知らないような声で。何も知らないような手で。
「…どうしたの?」
そう言って、やさしく背中をさすった。
余計にわんわんと泣き出したから、ゆっくりと部屋の中まで誘導して、
部屋の真ん中に位置するテーブルの横に座った。
「…ん、く…うぅー」
ただ悲しみにくれている幼なじみを、ミキは遠くから見ていた。
頭にはよっちゃんの表情だけが浮かんでいた。
よっちゃんは悲しい顔なんてしなかった。
ただ、ちょっと笑いながら拭うこともせずに涙をこぼしていただけ。
それに比べて、この子はなんて素敵な泣き方をするんだろうとか思っていた。
梨華ちゃんはミキの左手を緩く握り、右手で近くに置いてあってティッシュを顔に当てていた。
よく見ると使い終わって丸められたティッシュは他にもいくつか散乱していて、ゴミ箱もティッシュがいっぱいだった。
向かい合いながら、梨華ちゃんの言葉を待った。
眠るテレビの画面にうっすらと映る嘘。
- 422 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:50
- しゃくりあげながらも、梨華ちゃんは言葉を紡ぎ始めた。
…ミキは、よっちゃんは無事に家に帰れるのかなと考えていた。
「あの、ね」
「うん」
「…今日、の…デート…ね」
「ん」
「……よっすぃ、こなかっ…」
梨華ちゃんは、た、を言えないまま再び涙の衝動に身を任せた。
高くてすごく悲しそうな鳴き声だけが響いた。
「電話、も…つなが、な…っ…ずっと、まってた、の、に…」
当たり前のことのはずだった。
梨華ちゃんには、二人幸せに過ごす今日の日しかもちろん想像できていなくて。
それが余りに突然に壊れてしまったから、びっくりして、悲しくて、わからなくて。
それはどんなに心を揺さぶったのだろうか。
どれだけ不安なまま、何時間待ち合わせ場所で待っていたんだろう。
会いたい人に会えないまま家に帰ってくるまで、どんな気持ちでいたんだろう。
素直すぎる梨華ちゃんには、今日の出来事はきっととても痛かったはず。
どこまでも…物語を見ているような気分で落ちる涙を見ていた。
ドラマのワンシーンのように、優しく背中をさすってあげた。
理由がわからず戸惑う姿の前に、答えが立っている。
そんな滑稽さをなんだかおかしくて、笑いそうになった。
ミキも十分壊れていた。
- 423 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:51
- 「…何か、あったに決まってるじゃん。よっちゃんが梨華ちゃんの約束ほっぽりだすなんてさ。
きっとどうしても抜け出せない用事とかあったんだよ」
「でも、なら…電話くらい、メールでも、くれてもいいじゃない…っなんでずっとつながらないのよぅ」
「もう少し待ちなよ?もしかしたらまだ帰ってないかもしれないし」
「でもっ…急に予定入っても…メール打つ時間くらい、あるよね…?電話一本くらい、して、ほしかった…」
「…」
「わからないから待つしかないじゃない。だめならだめって、言ってくれればいいのに…っ」
「よっちゃんなら、言えたら言うと思う。本当にバタバタしちゃってるんだと思うよ。
もしかしたら急に体調が悪くなったりしたのかもしれないし」
「っ…!だったら病院…行かなきゃ!よっすぃ風邪ひいちゃったら結構重くなっちゃうからっ…
この前の風邪の時だって倒れちゃったんだよ?今家で倒れてるかも…!」
「梨華ちゃん、もしかしたらの話だから」
「でも、そうじゃなきゃこんなこと考えられないもん!待ち合わせに来ないなんて…!
やっぱりわたしよっすぃの家行って来る!」
梨華ちゃんは急に急かされるように立ち上がって出かけようとした。
慌ててミキは梨華ちゃんの腕を掴んで引っ張った。
「梨華ちゃん!落ち着いてよ!」
「だって!」
「携帯が繋がらないって、繋がるけど出ないってこと?電源が入ってないの?」
「……電源切れてるか圏外か、だった」
「だったら大丈夫でしょ、電源を自分で切ってどこかにいるんだよ」
「…」
「少なくとも、よっちゃんが病気っていう可能性は薄いんじゃないかな。
近所の人とか、家族が病気とかさ。そこまでは梨華ちゃん踏み込まない方がいいよ。
っていうか、踏み込む理由ないでしょ」
「……」
「待とうよ、少し。何日も音信不通ってわけじゃない」
「………」
梨華ちゃんは少しだけ納得いかないような顔をしているけれど、
少し落ち着きを取り戻して、とりあえず座った。
- 424 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:52
- 「ごめんね美貴ちゃん。こんなこと初めてで…きっと、混乱してる…
少し冷静になってから、もう一回連絡してみる…」
「そうだね、それがいいよ。大丈夫…大丈夫だから」
「うん、ありがとう…美貴ちゃん、ごめんね本当に…こんな、の」
「いいよ、こういうときの近所でしょ?」
「美貴ちゃんがいてくれなかったら、きっとわたし一人でずっとずっと落ち込んでた。
今…少しだけ、よっすぃを責めたりするんじゃなくて、どうしたの?って聞こうと思ってる」
「そっか。梨華ちゃんがそう思ってるならきっとうまくいくよ」
「うん、ありがとう」
「ねえ、おなか空いてない?」
「…空いてる。お昼食べてないから」
「じゃあ食べよう?腹が減っては戦は出来ぬ。話し合いだっておなかペコペコじゃ上手くいかないでしょ」
「…うん」
その後、コンビニのご飯やお菓子を梨華ちゃんはたくさん食べた。
梅酒ソーダ割りをたくさん飲んだ。そして笑って騒いだ。
そして、こてんと眠ってしまった。
梨華ちゃんにそっと毛布をかけて、部屋を出て行く。
鍵をそっと閉めて、郵便受けに入れておいた。
- 425 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:53
- 歩きながらよっちゃんに電話する。
『はい』
「もしもし?」
『……美貴』
「家に着いた?」
『ん…』
「今から梨華ちゃんに電話しておきなよ。酔って寝てるから多分起きないと思うから、
何回かかけておくといいよ。もし出たり電話かけ直されたら、どうしても外せない用事があって今終わったんだって謝りな。
梨華ちゃんは多分何があったの?とか詳しく聞いてくると思うから…こういうのはどうかな」
ミキはよっちゃんにできる限りの入れ知恵をした。
こういうことに良く回る脳みそを持っていて損はない。
基本的に梨華ちゃんは信じたいと思っているだろうから、多少の矛盾点などは目を瞑ってくれるだろうと思う。
というか、多分事情があったと聞いて安心して、それでいっぱいいっぱいになると思う。
でも一応念には念を入れて。
よっちゃんは本当に素直にすべて相槌を打って聞いていた。今もまだ、あの浮遊感から抜け出せずにいるのだろうか。
けれど梨華ちゃんの前ではきっといつものように笑う。申し訳なさそうにひたすら謝って、梨華ちゃんが許せば笑うんだ。
梨華ちゃんを失わないために。その為に命に関わる精神を削られていようとも。
恋人の幼なじみと寝てまで、繋ぎとめようとしている。
ばかなひと。
だめなひと。
だから、すきなの。
- 426 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:54
- 梨華ちゃんは言う。
よっすぃはかっこよくてやさしくて、綺麗でかわいくて面白くて、ちょっとよくわからないこともするけど、自慢の恋人だと。
でもミキはそうは思わない。
恋人にするには嫉妬しすぎだし、情けないし、弱い。余りにも強がりで、ええかっこしい。
ええかっこしいだから、好きな人にはとことん駄目な部分を隠す。
でもその駄目な部分に惹かれているんだと気がついた。気がついて、余りにもおかしくて一人で笑った。
『…ありがとう』
「ううん」
ミキは誰も見ていないのをいいことに、何度もその声を反芻して噛みしめた。
切ないほど好きだ。何度もそう思った。
『なんなんだろうね。あたし』
「え?」
『…勝手に、嫌われないようにして、勝手に自分追い詰めて勝手に潰れて。本当情けないよね』
それはいつものように笑ってごまかした口調ではなくて。
ただ暗くて、吸い込まれそうな闇を声だけで感じた。
自分がそんなに嫌い?
…梨華ちゃんの望む姿になりきれない自分がそんなに嫌いなの?
- 427 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:55
- 「情けないね。情けないけど、ミキはそれがよっちゃんじゃないとは思わないよ。
どんなよっちゃんもよっちゃんだから、それを否定したりはしない」
それが彼女を甘い毒へ導く言葉だったのか、単に弱った彼女に影響されて本音が零れてしまったのか。
自分でもわけがわからない。
驚くほど自然に自分じゃないような自分が出てきて喋るから。
『……美貴…』
「なに?」
『…なんでもない』
「そっか」
唇が先に呼んだようにミキを呼んだ。
彼女が何を言おうとしていたのか、掴みかけて、でもすり抜けた。
- 428 名前:3 恐れていたことは 投稿日:2008/07/12(土) 15:55
-
+++++
- 429 名前:幹 投稿日:2008/07/12(土) 15:57
- 3 恐れていたことは
更新終了です。
>>397さん
ありがとうございます。大体話も折り返し地点まで来ました。
どのようになるか、見守っていただけるとありがたいです。
- 430 名前:名無飼育さん。。。 投稿日:2008/07/12(土) 20:49
- 連日の更新お疲れ様です
今一番楽しみにしている作品です
- 431 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:32
- 浅い眠りの中、夢を見た。
長い夢だった。
それは夢だったのか記憶だったのか定かではないけれど。
- 432 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:33
-
『…ん…くな…?』
見つけたのはミキが先だった。
白い肌が、派手な顔立ちが、纏う雰囲気が他とは違っていて目を引いた。
たまたま隣に座れただけの話。
『つまんなくない?この講義』
あんまりにも上の空って感じの表情で。それがまたクールで。
その横顔に、興味だけで何気なく小声で囁いた。
するとはっと意識を戻して、こっちに視線を持ってきた。
はっきり視線を合わせたときの衝撃が鮮明に蘇る。
『…うん、つまんない』
誰もが近寄りがたいと言った美人。そのくせ笑った顔はやけに幼くて。
二人して笑い合った。
始まりは、それ。
- 433 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:33
- そこからは別に劇的な出来事があって恋に目覚めたわけじゃない。
ただよっちゃんが好みの外見で、どんな人かを知るたびに惹かれていって。
梨華ちゃんとよっちゃんもミキ経由で知り合って、二人もまたとりわけ激しい恋という事もなく
何となく親しくなって、だんだんと惹きつけ合って、だんだんと友達の境界を越えた。
何かあれば、すごく好きになるわけじゃない。
ただ存在がそこにいてくれるだけでこんなにも愛しかった。
よっちゃんのどんなに普通のことでも、ミキには輝きだした。
気がついたときにはもう遅かった。
それだけの話。
記憶はずれていく。
- 434 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:34
- ある冬の日。
ミキは誕生日を迎えていた。
亜弥ちゃんとも出会う前のことだ、だからきっと一人なんだろう。
ちょうど日付が変わった瞬間、部屋を訪ねる人がいた。
こんな夜中に誰だろう?と思ったら梨華ちゃんだったんだ。
『美貴ちゃんっ』
『美貴』
…隣に、当たり前のようによっちゃんがいた。
『…どうしたの?』
『あのね、美貴ちゃんの誕生日一番にプレゼント渡したくて!
これ二人で選んだんだ、気に入ってくれるといいんだけど』
『梨華ちゃんてばピンクのものばっかり選ぶから説得すんの大変だったんだよ?あたしに感謝してよ』
『あはは、ありがとねよっちゃん』
よっちゃんが困ったように、嬉しそうに梨華ちゃんのことを話す顔がつらかった。苦しかった。
- 435 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:34
- 二人でミキを祝ってくれた後に、二人で笑い合いながら帰って行った。
そのときのミキにはまだあまり二人を冷静に見られる余裕はなかったから、あがっていけば?の言葉は出なかった。
あのときに二人が恋人という関係だったのかどうかは定かではない。
二人には恋人という括りも別に必要ではなかった。
傍目に、互いが互いを好きだという事なんてわかりきっていたし、本人たちもきっとそうだったから。
恋人という肩書きがなければ不安になってしまうようなことがなかったんだろう。
少なくとも、あの時の二人には。
二人で選んだというプレゼントの温もりに、嫉妬しか覚えられない自分が情けなくて泣いた冬の日を。
記憶はずれていく。
- 436 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:34
-
『わたし、本格的に看護の勉強しようと思ってるの』
梨華ちゃんがこの学校を選んだのは母親が看護師だったからだ。
けれど梨華ちゃんはそこらにいる女子大生の例に漏れず遊ぶことが好きだったし、勉強は嫌いだったし、
出来るならば華やかな夢を持ちたかった。芸能界に人並みの憧れを抱いていた。
梨華ちゃんの母親…おばさんが過労で倒れたことから梨華ちゃんの淡い夢は現実的なものに形を変えた。
幸い大事には至らなかったけれど、それでもゆっくりと休みが取れないほどにおばさんの職場は人手不足が深刻だった。
梨華ちゃんは看護師の人手が足りないことを深刻に自分の身に受け止めて、
少しでもおばさんの支えになれればと看護師になることを決意した。
梨華ちゃんは優しい。
知っている。
よっちゃんは痛いほど知っているから。
使命感に燃えた梨華ちゃんを止められるものなど何もない。
夢が叶うまでなりふり構わず走り続けるだろう。
そう、なりふり構わず。跳び箱を練習したあの時のように。
それが悪いなんて言えない。
ただ、それに苦しんでどうしようもない人もいるというだけの話。
- 437 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:35
- 記憶はずれていく。
ミキは罪悪感を感じてるの?それとも、正当化してるの?
ただ、優しい確かな想いが零れ落ちていく。
よっちゃんの幸せそうな笑顔が。
隣にいてその笑顔を見たかった。それが願いだった。
ミキがよっちゃんの表情で一番好きな顔は、ミキの隣では見られない。
唯一その顔にさせる人がそれに気がついていない。
ただそれだけのことがこんなにも悲しい。
- 438 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:38
-
+++++
- 439 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:38
- ぼんやりと夢の余韻に動けずにいた。
すぐに忘れてしまいたい夢ほど何故か後味が強く残る。
ごろごろと布団で転がっていると梨華ちゃんから電話が入った。
ちょうど美貴が起きるのを見計らったように電話が鳴った。
「もしもし」
『あ、美貴ちゃんおはよう。起こしちゃった?』
「ううん、今起きたとこ」
『そっか…あのね、昨日よっすぃから電話来たの』
「うん」
『でね、謝ってくれて…仲直りできた。やっぱり事情があったみたい。ちゃんと説明してくれた。
美貴ちゃんが昨日来てくれなかったら、きっとよっすぃのこと許せなかったと思う。
…美貴ちゃん、本当にありがとう』
「ううん、気にすんな。二人に喧嘩されちゃこっちがとばっちりくらうしね」
『ふふ』
「んじゃ、学校で」
『うん、あとでね』
ピッ。
- 440 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:39
- そっか。うまくやったか。
そう思うとなんだか眠たくなってくる。結局昨日はあんまり眠れなかったからだ。
学校行くのはだるいけど、ミキはちゃんと二人が会って改めて仲直りするところを見届けなければならない。
ちゃんと普通に出来てるか心配で見に来た少しだけ友達思いなヤツを演じなければならない。
従って、一本早いバスで行くことにした。そのほうがぽいかなあと思ったから。
梨華ちゃんも、きっと早くに行く気がする。
適当に支度を終えてバス停へ向かうと梨華ちゃんがいた。
いつもミキより一本早いこのバスで学校に行くから、会わないかなと思っていたけれど。
「あれ」
「…もっと早く行ってるかなと思ってた」
「本当はもっと早く行きたかったんだけど…二日酔いでね、ちょっと落ち着くまで休んでた」
困ったように笑って、いつものストレートにした髪を撫でた。
クマを隠すために少し厚く塗られたファンデーション。少しだけ瞳の色も寝不足と二日酔いで鈍っていた。
「美貴ちゃんは?いつも一本遅いバスだよね?」
「…なんかじっとしてられなくってさ。心配だし」
「やだもぉ美貴ちゃん」
「いいじゃん別にさ、ミキが何時に行こうと梨華ちゃんには関係ないじゃん」
「……美貴ちゃん、大好き」
「はぁ?何急に。キモいんだけど」
照れているように見せて笑う。
梨華ちゃんはくすくすと笑って無邪気に腕を絡めてきた。
髪がさらりと流れ落ちてきて、…ふわりと髪が香る。
梨華ちゃんの髪は、いつもよっちゃんの髪と同じ匂い。
でも昨日だけは違ったから。
だから。
だから?
- 441 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:39
-
バスがやってきて、ミキと梨華ちゃんは手を繋いでバスに乗り込んだ。
隣に座って、梨華ちゃんはずっとミキの手を握っていた。ミキも梨華ちゃんの手を握り返した。
まるで親友みたいに。
- 442 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:39
- 手を繋ぎながら、大学の門を通り過ぎていく。慣れた床を踏んで、しんとした校内を二人で歩く。
誰よりも早くそこにいたのは、やっぱりよっちゃんだった。
ドアを開けた瞬間、振り向いて立ち上がった。不安そうにこっちを見ていた。
「……」
「おはよう、よっすぃ」
梨華ちゃんが、いつもの綺麗な笑顔でよっちゃんに微笑みかけた。
「…おはよ、梨華ちゃん」
ほっとしたようによっちゃんは笑って、それからなんでもなかったかのように、
「おはよう、美貴」
と言った。
ミキは笑って、おはようよっちゃんと言った。
- 443 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:40
- それからは、ただ普通に三人で話した。
梨華ちゃんにとっては『もとどおり』だった。
梨華ちゃんは笑っていた。
よっちゃんも笑っていた。
ミキも笑っていた。
- 444 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:40
-
+++++
- 445 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:40
- よっちゃんは今日もミキの横で寝息をたてていた。
安心しきったように穏やかな寝顔。
満たされた空虚さによっちゃんは、ミキを求める。
求めなければ動けなくなってしまうから。
梨華ちゃんと一緒にいることが何よりも幸せで、何よりも苦痛だから。
一瞬でも、そのしがらみにいることを忘れるためになんでもする。
それはなんでもいい。たまたまそこにミキが立っていたから、抱きついた。
もしかしたらよっちゃんはミキの気持ちを勘付いていたのかもしれない。
ミキなら拒まないと思ったのかもしれない。
でも、どうでもいいこと。
耐えることを忘れたよっちゃんは苦しみをここに置いていく。
何よりもよっちゃんの苦しみを美味しくいただくミキのところに。
よっちゃんの柔らかい髪を、起こさないようにそっと撫でた。
ミキの手の中で粉々に砕けたよっちゃんが、馬鹿みたいに愛しくて。
こんなんで幸せだ。
ミキは本当に駄目なやつだ。
- 446 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:41
- 「美貴…」
「ん、ごめん起こしちゃった?」
「…ん、大丈夫。そのままして」
「いいよ」
髪を撫でて、抱きしめた。
ゆるゆると背中に手を回されて、縋るようによっちゃんはミキに頭を預けた。
求めたいまま温くて柔らかいだけの肌を求めるよっちゃんが、狂おしいほどに好き。
体のすべてを繋げているような感覚に酔いしれる。
それでもよっちゃんが満たされることのない理由を知りながら、穴の開いた容器に求められるまま水を注ぎ続けた。
優しく髪に唇を落として、すべすべの背中をぽんぽんとしてあげる。
いいこいいこしてあげたら犬が気持ち良さそうに目を細めるみたいにした。
よっちゃんは再び目を閉じる。その手はミキを捕まえて離さない。
目が覚めたときに、まだここにいてあげたい。
ずっと、そういう風に甘やかしてあげたい。
- 447 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:41
-
+++++
- 448 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:42
- 「よっすぃ、今日買い物付き合ってくれない?」
よっちゃんがトイレから戻ってきた時に梨華ちゃんが呼び止めてそう言った。
梨華ちゃんの隣にいたミキはよっちゃんを見た。
ふわん、とよっちゃんのいつものにおいがする。梨華ちゃんはそのにおいが大好きだと言っていた。
梨華ちゃんがよっちゃんの腕を取って自分のと絡めて甘えた。
滑稽にすら見える、今や過去の光景だ。
「今日塾でしょ?」
「いいのよ、ちょっとくらい遅刻したって。どうしても今日行かなきゃいけないの、
あのいつも行ってる服屋さんがすっごく安いんだ」
「ん、そか。いーよ」
梨華ちゃんはその返事ににっこり笑った。
ミキは知っていた。
梨華ちゃんの成績が少しずつ、明らかに落ちていること。
こないだの試験も今まで順調に上がっていたけどいきなり下がったから担任に呼ばれたし。
梨華ちゃんはすぐマイナスの感情が表情に出る。
…わかりやすすぎだよ。
- 449 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:43
- 「だよね?美貴」
「―――え?」
よっちゃんがミキを見てきょとんとしているのに気がついたら、梨華ちゃんもミキを見ていた。
どうやらミキに話がふられていたらしい。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「珍しいね、美貴ちゃんなんていっつもわたしの突っ込み所とか探してるのに」
「人を突っ込みするためだけにいつもアンテナ張り巡らせてる奴みたいに言うな」
「そうそう、それが美貴ちゃん。ね」
「うん、だね」
「よっちゃんも乗らない」
道化て見せたミキに二人は体を寄せ合って笑った。
別にじゃれたりとかは昔からしていたのに、どこか変な感じ。
梨華ちゃんから視線を感じた気がして梨華ちゃんに目をやるけど、梨華ちゃんはよっちゃんを見ていた。
普段はどちらかというと釣り目っぽい印象だけど、笑うと目じりが垂れる梨華ちゃん。
その横顔を今度はミキが見ていた。
- 450 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:43
- ミキを誤魔化すことなど梨華ちゃんには出来ない。
梨華ちゃんは確かにミキを見ていた。
- 451 名前:4 偽りの偽り 投稿日:2008/07/13(日) 22:43
-
+++++
- 452 名前:幹 投稿日:2008/07/13(日) 22:45
- 4 偽りの偽り
更新終了です。
次回で最終回となります。
>>430さん
ありがとうございます、とても嬉しいです。
この話を終えたあとどうしようか考え中ですw
- 453 名前:名無飼育さん。。。 投稿日:2008/07/13(日) 23:48
- 3日連続の更新嬉しいです。
やっぱり、みきよし好きです。特にシリアスなみきよしが。
- 454 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/14(月) 04:04
- 連日の更新お疲れ様です。
次回で最終回ですか…。
最終的にどうなっていくのか、とても楽しみです。
- 455 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:41
- 「や、…ぁんま、見ない…で」
だらしなく足を開いて、ミキの目に犯される行為に羞恥と快感を覚えて。
存在を確かめるように白い肌を滑るミキの指先にぴく、と反応していた。
耳まで真っ赤にして汗ばむいやらしくなったよっちゃんを見ていた。
涙を止められないよっちゃんに気づかないふりして指を奥深くへ沈めた。
「ん、ふ…ぁあっ!」
電気が走ったように跳ねる敏感な体。
更に悲しく泣きながらもミキの指に体を震わせて喘ぐよっちゃんの悲しみ。
ミキも、また悲しい。
どうして皆、皆が幸せな道を選べないんだろう?
皆が幸せならいいのに。皆幸せだったら、それに越したことなんてありはしないのに。
そう。
皆幸せなんて、そんなものないとわかっていても。
- 456 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:42
- ミキの携帯の着信音がバイブレーションの振動音と共に熱のこもった部屋に響いた。
「!」
着信音は梨華ちゃんに設定したもの。
それが瞬時に梨華ちゃんからだと理解したよっちゃんは一瞬目を見開いて、それからぐたっと力を抜いた。
「待ってて」
携帯を持ち、肌蹴ていた服を整えながらミキはベッドから降りた。
白い肌をさらけ出したままのよっちゃんがじっとミキを見ていた。
- 457 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:42
- 「もしもし」
『もしもし、美貴ちゃん?』
電話越しに聞く声は、何だか今の静けさによく響いた。
『美貴ちゃん、今家だよね?』
「うん、そうだけど」
『今からちょっと出られる?』
ふいに玄関に人の気配がした。部屋が静かなせいか、気配が押し迫るような感じ。
ふうー、とため息をついた。
「うんわかった。すぐ行くよ」
言いながらデニムのホックを留めなおして、髪を適当に手櫛で整えた。
携帯をポケットにねじ込んで、軽いジャケットを羽織って玄関へ向かっていく。
ガチャッ。
- 458 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:43
- …悲壮な顔をしているのは想像がつかない声色だったけれど、まさか笑っているとは思わなかった。
いつもと変わらないようなかわいいかわいい笑顔で、梨華ちゃんは笑っていた。
「急に会いたくなっちゃった。ちょっとその辺歩いて、お話しようよ」
ミキは自分の体を外にする、と出してドアを閉め、うんと頷いた。
梨華ちゃんと、のっぺりしたコンクリートを踏みつけてゆっくり前へ進む。
進むことには意味がなくて、ただなんとなく足を動かしているだけに過ぎなかった。
梨華ちゃんは笑っているけど、いつものように愚痴を喋り倒したりはせずに。
そして、ミキが喋りだすこともなく。
梨華ちゃんの愚痴がうちらのメイン会話だったなんて、こんな時に初めて知った。
それでも結構、ミキ達…分かり合ってると思うんだよね。
あともう何歩か歩けば、梨華ちゃんはミキより進んでミキの目の前に立つだろう。
ざり。
ざり。
ざり。
- 459 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:43
- 「…」
「…」
向かい合ったまま、梨華ちゃんはまだ笑っていた。
「気づいてない…とは思ってないよね?」
厳しく、どこか悲しい目をした目の前の人物。
あれ。
こんな時、どんなことを思えばいいんだろうか?
「ん、まぁね」
やっと出てきた言葉がこれだった。
ある程度は予測していたはずの展開も、いざ来ると何故だか冷静すぎる。
びっくりするくらい、ミキは何も感じなかった。
「…わたしね、美貴ちゃんが羨ましい」
唐突に零れたものは、悲しみの言葉でも裏切りに対する非難の言葉でもなく。
ミキを?
梨華ちゃんが?
「綺麗で。派手で目立ってて。正直なのに、ちゃんとわかってくれる人がいて」
じっとミキを見つめている目。
その奥をじっと見つめても、よく見えない。
- 460 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:44
- 「いつもわたしが頑張って頑張ってやっとの思いで出来ることとか、軽々とやって見せちゃうんだもん。
それで、こんなの大したことない。こんなので誰が苦労するの?っていう顔してるの。
それが凄く羨ましかった。わたしは何やっても要領が悪いから。上手く出来ない自分が凄く嫌いだったの」
梨華ちゃんがそんな風にミキを見ていたことを知った。
梨華ちゃんは自分しか見えていないものだと思っていた。
意外と自分を冷静に見る目とかも、持っているんだ。
そんなもんなのか。
ミキは一方的に梨華ちゃんばかりが羨ましかったけれど、自分の良さってちゃんとあるんだ。
こんな時に、そんなことばっかり思っていた。
「…でもね?羨ましかったけど、わたしは美貴ちゃんじゃないから、私なりに一生懸命やったの。
そしたら勉強も成績良くなったし。――大好きな人にも出会えたし」
そこでふっと、梨華ちゃんの目が鈍くなった。
感情の温度が下がっている。低音で、それなのにひどくこの身を侵食した。
「なのに…美貴ちゃん、また軽々とよっすぃのこととっちゃうんだね。
いつもみたいに、わたしが一生懸命に頑張ってやっと手に入れたものを、横取りしちゃうんだ」
そんな風に思われていたんだ。
意外と、すんなりと納得できた。
- 461 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:44
- でもそれは違うよ。
ミキは梨華ちゃんから何も奪えちゃいない。何もこの手に掴んではいない。
頑張れることの尊さに、自分の美しさに気付けずに。
ミキなんかにそんな感情持ってたなんて…時間の無駄もいいところだね。そこも梨華ちゃんらしいけどね。
「よっすぃのことね、わたし本当に好きなんだよ?…美貴ちゃんもそうなんだと、思うけど。
よっすぃは…美貴ちゃんのこと、好きになった、の…?」
ミキは、笑いながら首を横に振った。
梨華ちゃんはあからさまにホッとして肩の力を抜いた。
「…よっちゃんは、今も昔もずっと梨華ちゃんだけを愛してるよ」
それは事実で、これ以上嘘を重ねる理由はなかった。
- 462 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:45
- 「もしよっすぃが、美貴ちゃんと…なんていうか」
「遊び?」
「……そう、だったんなら、謝る。亜弥ちゃんにも悪いことしたと思うし」
よっちゃんの過ちは、梨華ちゃんの過ちとなるの?
この場に来てよっちゃんの気持ちが自分に向いていることがそんなにも強みになることなのか。
親友と寝てるんだよ?
あのやさしい女の子が、遊びで恋人の親友と寝る?
ちょっと考えても…梨華ちゃんにはわからないことなの?想像がつかないの?自分には考えられないから?
「奥さん気取り?」
「だって、恋人だから」
それは確かにミキに向けられた言葉だったので、少し鋭かった。
多分ミキの笑顔が気に食わないんだろう。この状況で謝りもせず焦りもせず許しを請うこともせずに笑っているミキが。
でも。
「恋人、ね」
「なによ」
「よっちゃんは、ミキから離れられないよ?」
「――…っ」
「梨華ちゃんが好きだから、ミキを求め続ける」
「…何それ…おかしいじゃない!」
- 463 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:45
-
「梨華ちゃんはきっと、一生わからないままなんだろうね」
鈍感なことを羨ましく思う人もいるだろうけれど。
ミキは絶対に鈍感にはなりたくないと思った。
唇を噛み締めて悔しさを隠さない梨華ちゃん。今実際に何もわからないから、何も言えないようだった。
信じきっていたよっちゃんの裏切りの理由。それが何にあるのか明確にわからないのだろう。
悲しいよ。
苛立たしい。
一番に愛す。
そんな当たり前のことを忘れて、奥さん気取りなんて。堂々と恋人と言えるなんて。好きとか、言えるなんて。
毎日毎日我慢し続けたよっちゃんのことも知らないで被害者面。
- 464 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:45
- 「わからないでしょ」
「…」
「わからないままなら、よっちゃんの体はミキのものだよ」
にや。
わざと厭らしい笑みを浮かべると、わかりやすく梨華ちゃんの眼の色が変わった。
生々しい単語に心が揺さぶられている。
「嫌。…いやだよ。でも、わかんない…なんで…こんなに好きなのに。わたしは、こんなに好きなのに」
わたしはわたしはわたしは。
聞き飽きた、もう。
- 465 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:46
- 「じゃあ看護師になるの諦めてよっちゃんと一生二人でフリーターできる?」
「は?」
「大切な夢」
「…」
「よっちゃんと、夢。どっちか選ぶなら、梨華ちゃんはどうするの?」
心のどこかではわかってる。梨華ちゃんもまたゆるぎない愛を持っていると。
本物の愛のあり方にルールとかはないし。ただ、物差しが決定的に違っただけ。
よっちゃんは、愛する人の為に死ぬ愛。
梨華ちゃんは、愛する人のために生きる愛。
そんな食い違いが、あまりにも互いを滅ぼしているだけ。
「そんなのおかしい!比べようがないもん!全然違うじゃない!
どっちも同じくらい大切じゃダメなの?一位が二つあったらダメなの?」
だめだよよっちゃん。
もう無理だよ。
もう、無理。
愛してるだけじゃどうにもならないこともあるって、本当はわかってるんだよね?
「そんなのそっちの都合でしょ?梨華ちゃんの価値観をよっちゃんに押し付けてるだけだよ」
「だってよっすぃは応援してくれた!いっつも…頑張れって…言ってくれるもん…」
「よっちゃんはやさしいからね」
「…」
「でも、それがよっちゃんをずっと苦しめてた。梨華ちゃんが夢を諦めてよっちゃんだけを見られないんだったら、
ミキとの関係は一生やめられないと思うよ」
「わかんないよ!そんなのおかしい、絶対おかしい!大体、美貴ちゃんには亜弥ちゃんがいるじゃない!
なんでよっすぃも美貴ちゃんもそんなこと平気で出来るの!?おかしいよ、おかしい……なんで…」
- 466 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:47
-
はっ、と。
ミキをずっと見ていた目がミキの向こうを捉えた。
ミキはほぼ確信した目で振り向いた。
もちろん、そこに立っていたのは。
- 467 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:47
- 「……よ、っすぃ…」
梨華ちゃんは俯いた。
よっちゃんの空っぽな笑顔の中の、ひとかけら。
溢れそうな悲しみを、こんな状態になって初めてはっきりと確認したんだろう。
そのことへの痛みや後悔、そしてここに来ても理解が出来ないでもがく負い目。
梨華ちゃんの顔には全て出ていて、思わず笑ってしまいそうだった。
「…梨華ちゃん」
「ゃだ、よぅ」
よっちゃんのあまりにもやさしい声に、力なく首を振るしか出来ない梨華ちゃん。
そうして耳を塞いで、よっちゃんの言葉を子供っぽい方法でしか拒絶できない。
でも、ゆっくりと近づくよっちゃんにやさしく手を握られて。
「…―――ふぅー…うぅぅ、うっ…っく」
とうとう我慢できなくなって、縋るようによっちゃんに抱きついて泣いていた。
そんなドラマみたいに綺麗な、悲しい現実はなんだか夢のようだ。悪い夢のよう。
うっすらと涙が滲んで、それでも梨華ちゃんの前で笑い続けようと必死でいるよっちゃん。
そんなカッコつけのよっちゃんが、こんな時でも好きで好きでたまらなくて。
ミキは見ていた。
見ていることくらいなら、許されるかも知れないと思った。
- 468 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:47
- 「よっすぃ、わたしのこともういや?もうダメなの?」
「梨華ちゃんのことを嫌になったりはしない。あたし、梨華ちゃんのこと愛してるもん」
「なん、で…っ、なんでこんな時に、愛してるとか、いっつも言ってくれなかったこと言うのよぉ…やだ、終わるのはやだよ」
「ごめんね梨華ちゃん。でもね、これ以上あたしのわがままで梨華ちゃんを邪魔したくないんだ」
「やだ、やだ。邪魔なんかじゃないから、よっすぃがして欲しいことなんでもする。
わたし看護師になんかならなくてもいい、二人でいたいよ」
「思ってもないことは、言わないで欲しい」
「思ってるもん!よっすぃといたいの!その為なら、何もいらない」
「…それは、違うんだよ」
「……何が…?」
「あたしね、夢をまっすぐ追いかけてる、眩しいくらいにキラキラした梨華ちゃんが好きなの。
夢を諦めて、ぬるい日常に埋もれて光を失くしていく梨華ちゃんなんて見たくない」
「…夢」
「うん、夢。……でもさ、あたしって勝手だから。それじゃ寂しいの。あたしが、ダメなの。
一番好きな梨華ちゃんの側に、あたしはいられない。ダメなんだ。ごめんね」
「……っ」
「梨華ちゃんもさ、一番好きな自分でいるのに、吉澤ひとみはいつか必要なくなる」
「う、っ、う…うぅ」
「梨華ちゃんはね、大丈夫だよ。あたしが惚れた人なんだもん、大丈夫に決まってる」
「うぅう…っく、ふぅ」
- 469 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:48
-
「だから、さよならしよう?ね、梨華ちゃん」
「っ……っうぅ、うううう…」
「愛してるよ」
「うっ…!うぅ、う、うぁ、あ…あぁあ…!」
- 470 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:49
- この世で一番壊れやすいものを抱きしめるよりやさしく、よっちゃんは梨華ちゃんを抱きしめた。
梨華ちゃんは息が上手く出来ないくらいにひきつけを起こして泣いていた。子供みたい。
その背中をやさしくさするその表情に、永遠を感じた。
よっちゃんの目は、久しぶりにキラキラと輝いていたんだ。それは涙なんかじゃなくて。
そうか。
生かすも殺すも、梨華ちゃん次第だね。わかってたし、わかってる。
わかってるんだよ、全部。
「やだ、よぉ…」
「ごめんね」
「んっ…う、く…っ、いっぱい、ごめ…ごめん…ね」
「ううん、梨華ちゃんは悪くないから」
「ふぇ…っう…ううぅ、うぁあ…」
「泣かないで、あたし梨華ちゃんの笑顔が世界で一番大好きなんだから」
梨華ちゃんはその言葉を聞いて。
少しよっちゃんから離れて…最高に綺麗な笑顔をよっちゃんに向けて見せた。
涙がどんどん零れてきても、何度も拭って、必死に笑った。
でもやっぱりまた顔をよっちゃんの肩あたりに埋めて、泣きじゃくった。
よっちゃんは、そんな梨華ちゃんのことをいつまでもいつまでも名残惜しそうに、いとおしそうに抱きしめていた。
はぁ。
ずるいよね。
きっと2人は一緒じゃなくなっても一緒なんだ。一生。
そこには何の余地もなく、その事実だけがあった。それ以外はなかった。
離れることで繋がる心もあるんだね。
ミキには無理だった。そんなこと知ってたけど。…ああ。
とりあえずその場を立ち去った。
- 471 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:49
-
+++++
- 472 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:50
- 「亜弥ちゃん」
「んー?」
亜弥ちゃんと。
亜弥ちゃんの部屋でカフェオレをかき混ぜる。ふーふーする。
亜弥ちゃんはずずっと音を立てて啜り、あちっと呟いた。
「別れよっか」
- 473 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:50
- 「……」
「ミキ浮気したから」
ミキが淡々とそう告げる。
亜弥ちゃんはどういうことだと怒るでもなく何の冗談だと笑うでもなく。
「うそつき」
と、はっきりと言った。
その顔は。
「―――…」
「はじめっから、知ってたよ」
「…っ」
さーっと血の気が引いた音が聞こえる。
自分の鈍感さに恐怖した。誰かの鈍感を責める権利が自分にはなかったのだ。
何と言ったらいいかわからずうろたえるミキを見て、亜弥ちゃんは僅かに頬を緩めた。
「知ってるに決まってんじゃん、ミキたんのことだよ?」
「…ゃ、ちゃん…」
動揺を隠す方法を忘れたミキに、亜弥ちゃんは肩を寄せた。
もたれかかってくると、人の体温と女の子の匂い。亜弥ちゃんの匂いだ。
「謝らないでね。あたし、めっちゃくちゃ幸せだったよ。ミキたんがあたしの為にしてくれたこと、
あたしにくれた時間、色々…ぜーんぶ。あたし、全部の時間幸せだった」
「……亜弥ちゃん…」
「ミキたん、忘れないで」
「な、…に?」
亜弥ちゃんは喉の奥で笑って、頭を擦り付けてきた。ぐい、と肩を引き寄せられる。
- 474 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:50
-
「ミキたんはね、あたしを幸せにしてくれた。…ミキたん、自分を責めないでね。
ちゃんとあたしを幸せにしたんだから悲しむことなんてひとつもない」
亜弥ちゃんを凄いと思った。
こんなにも鮮やかにやさしく嘘をつける人を、ミキは知らなかった。
あまりに、やさしくて。
「…っ…」
なんだかもう涙を止めることができなくて。
亜弥ちゃんが優しく触れるたび、涙が零れ落ちる。
最後まで、甘えっぱなしだったね。
…ごめん…ううん、ありがとう。
亜弥ちゃん、亜弥ちゃん。大好きだよ。
きっと確かに、いつの間にか愛してた。
けれどこのまま関係を続けていっても何も変われないし、亜弥ちゃんが辛い気持ちになってしまったらミキはダメになる。
ミキがミキでいるために、亜弥ちゃんに手を離してもらおう。
手を離すこともできないようなミキを、好きになってくれてありがとう。
亜弥ちゃん。
亜弥ちゃんはミキが幸せにしたんじゃない。
亜弥ちゃんが、幸せになれる人だったんだよ。
きっと亜弥ちゃんなら、ミキじゃなくても幸せになれるんだよ。保証する。
こんなにかわいくて綺麗で、凄い人なんだから。
- 475 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:51
-
+++++
- 476 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:51
-
朝になった。
ひとりの朝が、やってきた。
- 477 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:51
-
+++++
- 478 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:52
- 「はよ」
「うわっ!」
いつものように家のドアを開けて外に出ようとしたら、いつもとは違い人影があった。
「―――……」
「ん?」
それは。
「よっちゃん…」
「はい、吉澤です」
そう、いつものよっちゃんだった。
弱いくせにカッコつけで…だけどやさしくて、綺麗な。
「…おは、よ。よっちゃん」
泣きそうになって声が詰まったけれど、それでもミキはすごく嬉しかった。
梨華ちゃん、すごいね。
…破片なんていらない。
よっちゃんという壊れやすいガラスは、砕け散ったガラスの器は、また新しくつくられていた。
ちょっと歪で、でもとびきり綺麗。今までとは全く違う形で。
この先よっちゃんはきっと、壊れてはまた梨華ちゃんが直してくれる。
梨華ちゃんという存在に出会った事実があれば、よっちゃんは何度でもやり直せるんだ。
梨華ちゃんを想って、生き続けるんだ。
- 479 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:52
-
あーあ。ダメだよ。
ごめん、言えないよ。
よっちゃん。
すき。
なんて、言えないよ。
- 480 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:52
- 「美貴」
「ん」
ふらふらと無言でバスに揺られていたとき、よっちゃんがふいに口を開いた。
申し訳なさそうな横顔をしていた。
「本当に、ごめん。迷惑かけた」
「…いいよ、謝らなくても」
「でも」
「謝らないで」
不思議と怒りとか悲しみとか、何も起こらなかった。
そこにあるよっちゃんがよっちゃんを取り戻した上でけじめをつけてくれることが嬉しくさえあった。
よっちゃんはそれでも苦しそうに唇を噛んだ。
「あたしが弱いから」
「…」
「梨華ちゃんも。美貴も。あややも。あたしがしっかりしてれば良かったんだよね。
あたしがちゃんとしてれば、皆上手くいったのに。あたしだけがダメで」
はっとした。
それはミキが思い続けていた気持ちとなんて似ているのだろう。
よっちゃんもまた、そんな思いに苦しめられていたんだ。
少しだけ、どうしてもこの存在を求めて止まなかった理由を知った。
…やっぱり、好きだな。
- 481 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:53
- この先他の誰かと出会って、恋とかしても。
それで…もしかしたら普通に結婚とかしても。子供産んでも。
それか、そのまま独身でバリバリキャリアウーマンでも。
よっちゃんをずっとずっと、一生好きでいてもいい?
先のことはわかんないけど、とりあえず今。
ずっと、ずっと大好き。
「美貴。…ありがとう」
「いいよ。あのね、よっちゃんだからだよ。
ミキの……大切な、友達だからだよ。誰にでも優しいわけじゃないからね」
強調して、その単語にたくさんの力をこめた。
「…友達?」
「当たり前じゃん。これからもあんたは、ミキの友達。もちろん梨華ちゃんもね」
にっと笑ってみせる。
恐る恐るこっちを見るよっちゃんの情けない顔にもっともっと笑ってみせる。
「本当に、いいの?」
「ミキが決めることだから、よっちゃんはごちゃごちゃ言わなくていーのっ」
「……そ、か。……ありがとう」
よっちゃんはすごく嬉しそうに笑った。
自惚れてもいいかな?ミキのこと、よっちゃんは大切でしょ?
友達として、いて欲しいでしょ?
- 482 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:54
- 学校に着いたら梨華ちゃんは勉強していた。
うちらに気が付くとおはようと言って笑い、すぐに顔を元の位置に戻した。
うちらも、梨華ちゃんにおはようと言う。
……梨華ちゃんもさ。
だってうちらいつからの付き合いだと思ってるの?
そしてそれぞれ離れた席についた。
今日一日の学校生活が始まる。
- 483 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:54
-
+++++
- 484 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:54
- それ以来、3人でつるむことはほとんどなくなった。
もちろん無視し合っているとかではない。会えば話すし。それが減っただけ。
梨華ちゃんは猛勉強している。それこそ鬼のように、なんて感じだろうか。
とにかく夢に打ち込む姿は何かを振り切ろうと痛々しいはずなのに、誓いに溢れていた。
彼女は必ず夢を叶える。
ミキはたまに梨華ちゃんに勉強を教わる。
よっちゃんはもともとミキ達以外にもよく遊ぶ友達がいた。
今はその2人と話すことが多いようだ。
その顔にはもう悲しみはない。どこかあどけなさもたまに見せて、本当に穏やかな笑顔が戻った。
ミキはたまによっちゃんの言葉で涙が出るほど笑う。
亜弥ちゃんとは二人で会うことはなくなったけれど、大人数で遊ぶ時に一緒になったりはする。
それでもほとんど二人で会話をすることはない。
亜弥ちゃんは笑っている。笑っている顔は今でもミキの元気になる。
ミキはたまに亜弥ちゃんの新しい恋人の話を人づてに聞く。
ミキはとりあえずふらふらしている。
もうすぐ卒業。就職先も無難に決めた。これからもなんとなく生きていくだろう。
だけど、なんだか悪くもないなと思った。
- 485 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:55
- 結局色んな人の色んな思いが空回りして、勢い余って傷つけあって。
みんな少し離れちゃったけど、これが一番いいみたい。
いつか探した、皆が幸せになる生き方を見つけられた気がする。
それはなんだか寂しい光景かもしれないけれど。
関わった誰一人として絶望はしていない。それってすごいことなんだよ。
生きるって難しくて。
これからもきっとたくさん傷つけあうけれど。
ミキはこの時間を忘れない。
穏やかで、少し切ないこの瞬間。
一生かける愛を見つけたこの日々を。
- 486 名前:5 もう言えない日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:55
-
「美貴ー」
「ん?なに?」
「今日のさぁ…」
今日も止まらないで進んでいく世界、うちらはひとかけらだけど確かにその一部。
そう思えるたび、生きているのも悪くはないと思う。
きっと、声にしてみたい言葉は一生胸の中。
誰もが痛みのような言えない言葉を抱えて笑っていた。そうやって生きていく。
そうやって、生きていこう。
- 487 名前:5.5 叶うかどうかは、自分次第 投稿日:2008/07/14(月) 21:56
-
願い事は一つだけ。
みんなが、幸せになること。
- 488 名前:声に出してみたい日本語 投稿日:2008/07/14(月) 21:57
-
声に出してみたい日本語 END
- 489 名前:幹 投稿日:2008/07/14(月) 21:59
- 声に出してみたい日本語
更新終了です。お付き合いありがとうございました。
>>453さん
ありがとうございます。
シリアスというのは私もなかなか好きな雰囲気です。
>>454さん
ありがとうございます。
このような結末になりました、いかがでしたか?
- 490 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/14(月) 22:02
- なんて前向きなラストなんだ、と感動しました
- 491 名前:名無飼育さん。。。 投稿日:2008/07/15(火) 00:32
- 切ないけど爽やかなラストでした。
すごく良かったです。
- 492 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/15(火) 00:42
- 完結疲れ様でした。
なるほど、こういう結末でしたか。
皆が悪い方向へ行かなくてよかったです。
上手く言えませんが、感動しました。
次回作、もしあるのなら楽しみにしてます。
- 493 名前:幹 投稿日:2008/07/27(日) 23:27
- >>490さん
ありがとうございます。
この関係で全ての人が前向きになるにはこうするしかないと思って書きました。
>>491さん
ありがとうございます。
良いラストと言ってもらえて意外でもあるのですが。
>>492さん
ありがとうございます。
メインキャラが幸せでも「じゃああの子はどうなっちゃうんだろう?」と
サブキャラを置いてけぼりにしないようにという目標を持って書きました。
次は吉澤さんと道重さんのお話です。
甘い話とは言いがたいです。非常に私の趣味に偏っていて
広く受け入れやすいものではないと思いますが、良ければお付き合い下さい。
新たな発見になったりすればとても嬉しいことです。
- 494 名前:世界にふたり 投稿日:2008/07/27(日) 23:29
-
誰も知らない世界みたいだった。
誰もいない世界みたい。
本当は、消えたのはあたしの方だと知っている。
あたしがここにいることを証明するのは、
あたしを世界から消した人だけ。
紅い唇があたしを呼ぶ。
*世界にふたり*
- 495 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:29
- 「吉澤さん」
「え?」
名前を呼ばれて振り向いた瞬間痛みと共に暗闇が訪れた。
次に目が覚めた時、あたしは遠い天井を仰いでいた。
知らない色の天井だった。
「目が覚めました?」
ミルクの飴を転がしたような声がして、ぼんやりとした頭で顔を向けた。
- 496 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:29
-
+++
- 497 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:30
- シャラシャラと音を立てて歩き、クローゼットを開く。
ワンピースを頭から脱ぎ、新しくワンピースを頭から着る。
そしてシャラシャラと音を立てて歩き、食卓テーブルに添えてある椅子に腰掛ける。
だだっ広い一間にちょこんと二脚の椅子と、小さめのテーブル。
しばらくそのままぼーっとしていると、カラカラと軽やかなカートの車輪の音がする。
パタパタとスリッパを引きずっている時のあの特有の音がする。
あたしがじっと見つめていた板チョコに似た扉がゆっくりと開かれると、カートの向こうに黒い髪と白い肌。
「おはよう、吉澤さん」
ガラス玉のように重たく透き通った目を持ったそのお人形みたいな女の子は、あたしにそっと微笑みかけた。
「…おはよ、さゆ」
あたしはさゆに微笑んでこう応える。
いつもの景色だ。
- 498 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:30
- ゆっくりとテーブルの上に皿を並べて、さゆはゆっくりとあたしの向かいにある椅子に座った。
一連の仕草は全て優雅な感じがした。
このありえないほど広い部屋から、さゆがお嬢様であるということを想像するのはたやすい。
彼女の上品な身のこなしにも納得がいった。
「いただきます」
「いただきます」
さゆが運んできた食事を、さゆとこうして毎日一緒に摂る。
バランスがよくてあたし好みの味である朝食を、大きな窓からはみ出した光の中静かにほおばる。
今日も、良い天気。
窓からは草原と高い塀と樹齢の高そうな木しか見えない。
基本的には食事中に会話はあまりない。
さゆはたまに目に見えるものを言葉にしたりするけれど、
たいていそれらの話は広がりようもないのでほとんど沈黙になってしまう。
互いに話題のない日々がもうどれほど続いたんだろう。
初めのころは色々あった。時にすごい勢いで怒鳴ってしまったりした。椅子は何脚も壊した。
椅子だけじゃない、この部屋のものは大抵あたしが壊して、何度も新しくされている。
あの時のあたしはそうでもしなければ本当にどうにもならなかったのだ。
でも今、もうほとんどの感情は起こらなくなった。
話すこともない。
怒る理由もない。
暴れる理由すら。
全部が空気に向かって殴るみたいになんの効き目もなくて、そうしているうちに慣れた。
いつの間にか、二人でいることがあたしの生活の全てとなった。
- 499 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:30
- 「ごちそうさまでした」
「吉澤さんはいっつも食べるのが早いの」
「そう?…おいしいから、かな」
「ふふふ。吉澤さんの好みはばっちりわかってるから」
「そうだね、あたしの好みにぴったりの味だよ」
さゆは嬉しそうに笑う。
けれど、さゆは料理を自分で作っているとは言ったことがない。
あたしもさゆがこれらを作っているとは思わない。
このご飯は誰が作ってるの?
…とても素人が作れるものには見えないし。
「静かだね」
「うん、今日は雨も降らないし、鳥さんもあんまり鳴いてない」
「…誰もいないみたい」
「誰もいないよ。さゆみと、吉澤さんだけ」
「…」
この家には他にどのくらい人がいるの?
…近づかないよう言われてるのか、さゆ以外の足音なんて聞こえたことないけど。
けれど確かに人はいる。そう感じる。
少なくとも、あたしをここに運んだ人がいる。
- 500 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:31
-
ここは、どこなの?
アナタは、誰なの?
どうしてあたしをこんなところに連れてきたの?
あたしをどこで知ったの?
どうして?
どうして…あたしをこんなところに、監禁するの?
- 501 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:31
- さゆは笑うだけで、何も答えてはくれない。
あたしもそのうち聞くのをやめた。
聞きたいことは、多分今でもあるんだと思う。
でもこの部屋でしか生きていないあたしに、
さゆ以外と会うことのないあたしに、知る術なんてないから。
心を置いてきたんだ。
『さゆみの恋人になって、ずっとここで暮らすって約束してくれるなら、この鎖取ってあげる。
…そしたらさゆみのおうちの中だってお庭だって、今よりずっと色んなところ行けるようになるよ?
この家の外にはどうせもう一生出られないんだから、
諦めてさゆみのこと好きになって?幸せに暮らそうよ、吉澤さん』
ある日目が覚めたら、顔も名前も知らない女の子がそう言って、笑っていた。
あたしの足にはもうそれがついていた。
あたしをこの部屋を動き回るのには不自由しない長さの鎖に
とてもいとおしそうに口付けていた、どこか熱を帯びた瞳を思い出す。
あたしが今でもこうしているのは、あたしがさゆの要求にいつまでも応えられないから。
…あたしには。
もう、死んだと思われてるかもしれないけど。
ずっとずっと、大切な人がいる。
一生変わらずに愛したいと思う人がいる。
その人を、こんな鎖と比べるなんて馬鹿げてる。
行き付けのパン屋のベーグルも、好きだった運動も、他人との接触も。自由も。
人としての最低のありかたも。…好きな人に触れたいと願う欲も。
全て放棄して、あたしは自己満足の理想に生きて死にたい。
そんなの馬鹿げてると笑う人のほうが多いだろう。
あたしだってたまにはへこたれて折れてしまいそうになる。
あいつはあたしのことなんて忘れて誰かと幸せに生きているかもしれないのに。
あたしはこうしてこんなところに閉じ込められてる。
馬鹿げてると思う。
…それでも、不思議と朝が来るとあいつに会いたくなるから。
そんなので、あたしは理想をまだギリギリ生きていた。
- 502 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:31
-
+++
- 503 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:32
- 毎日毎日、夜までさゆはあたしと一緒にずっとベッドでごろごろしていたり、
空をじっと眺めたり、一緒にお風呂に入ったりして恋人のように寄り添った。
時間の流れが酷く遅くて、静かで、もしかしたら止まっているのではないかと思うほど。
でも夜はやって来る。
洗ってそのまま濡れた髪の毛から雫が垂れて、青白い腕に染みた。
ぼーっと見ていると、やがて人の気配がした。
ドアが開く。
「吉澤さん」
さゆが、熱い声であたしを呼ぶだけ。
なのにあたしの体は疼いてくる。
さらさらの黒い髪をなびかせて、白いワンピース姿のさゆがあたしに近寄ってくる。
あたしは抗うこともなく、唇で唇を受け入れた。
あたしの視界が引っくり返ってはじめて見た時のあの天井が見える。
さゆの髪の毛が頬にかかってくすぐったかった。
くちづけて。
何度も、くちづけて。
- 504 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:32
- あたしが着るシンプルなワンピースをめくり上げて、さゆがあたしの体をまじまじと眺めている。
すっかり筋肉の落ちた体でも、さゆはあたしを美しいと言う。
あたしの体にも、さゆは唇を落とす。
柔らかなそれが敏感な場所に近づくにつれ、あたしは熱くなっていく。
「…ぁ…っ」
「吉澤さん」
「…ん、く…はぁ、あ…」
毎晩のように学習もせず幼い指に唇に舌に翻弄される自分がおかしかった。
毎晩のように、あたしは朝まで喘いでいた。
それどころかどんどんさゆを求めるようになったように感じる。
さゆが来なかった日は眠れない時さえある。
いつしか、あたしの体は調教されていた。
体の関係が当たり前のようになっても、さゆはあたしに同じことをするよう求めはしない。
いつかの事が終わった後、何気なくさゆに尋ねてみた。
どうして同じことをあたしに求めないのかと。
するとさゆはほんのりはにかんで、囁いた。
『さゆみの初めては、吉澤さんとさゆみが恋人になった記念日にって決めてるの』
内緒話のように、嬉しそうに。
無邪気にその日を信じたまま。
そんな無垢で綺麗な笑顔に心臓は痛んだ。
優しくて清らかな美しいさゆのことは、いつしか嫌いじゃなくなったから。
さゆが幸せを掴めない未来が見えるあたしにその笑顔は痛かった。
他人事のように傷ついてるあたしはただの偽善者だった。
- 505 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:32
-
+++
- 506 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:51
- たどたどしい読み方で、時々さゆに感じの読み仮名を教えながら読む物語。
タイトルや作者は有名で、あたしも何度か読み返したことのある話。
さゆが主人公の名前を読み上げた時、あたしはふと思った。
「これ、面白い読み方だよね」
「?」
さゆが首を傾げてあたしを見た。
「元の語源はイタリア語のcampanella。これをカタカナで読んだ読み方なのかな。
カンパネッラっていうのがネイティブな読み方で、小さな鐘っていう意味なんだって」
「じゃあこれはカンパネルラって読むほうが正しいの?」
「うーん、間違ってはいないけど、この作品はこのまま読むのが主流。
言いにくいけど、何となくこっちの方がいいよね」
「吉澤さんがいいなら、さゆみもそっちがいい」
さゆが無邪気にそう言って笑った。
はっとして、一瞬思考が止まった。
「…」
「?」
「ああ、ごめんね。遮っちゃって。続けて」
「うん」
もう昼間だろうか。
穏やかな陽だまりの下で、二人で肩を寄せ合って本を読んだ。
有名な作品でも、今読み返すと不思議な気持ちになった。
つたない言葉で文章を音読していくさゆの横顔は年相応に見えた。
いつもどこか余裕ありげに笑っているさゆとは少し違うように見える。
- 507 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:52
- 「…」
ぱたん。
さゆは本を閉じた。おそらくもう飽きたのだろう。
「この本はまた明日」
座っていたベッドに倒れこみ目を閉じた。
その顔はどこか人形のように魂が感じられない。温度が低い。
綺麗だと思った。
「さゆみは、頭が良くないから。本を読んでもよくわからないの」
「…」
「でも…このお話は、なんだか寂しい」
表紙の文字をなぞり、さゆは寂しそうな目で呟く。
シャラン。
鎖の音と共にあたしはさゆに近づき、髪を撫でる。
「さゆみが寂しいから、わかる」
「…」
「……なんて嘘。さゆみは吉澤さんがいてくれるから寂しくなんかないよ」
さゆが笑って見せるから、あたしも笑った。
- 508 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:52
- あたしはいつしか、自分を罪深く感じていた。
得体の知れない恐怖でしかなかったさゆがいじらしく思えた。
さゆに応えられない自分が悪いみたいに思えた。
…これは錯覚だと。
言い聞かせる。
ストックホルム症候群という言葉を知っている。
あたしは偶然にも心理学を習っていた。
ある極限状態に陥った時、犯人と同じ場所で過ごしていると
被害者が犯人に対し過度の信頼や愛情といった感情を抱くようになってしまう脳の作用だ。
あたしがさゆに対してこの状態である可能性は高い。
だから揺れてはいけない。
この女は犯罪者。あたしを拘束し監禁している。
あたしは被害者。あたしはこの女を憎んでいる。
忘れてはいけない。
どんなに美しい少女だろうと、この行為は犯罪なのだから。
- 509 名前:1 投稿日:2008/07/27(日) 23:52
-
+++
- 510 名前:幹 投稿日:2008/07/27(日) 23:54
- 世界は二人
更新終了です。
ついていきにくい世界観全開で申し訳ないです。
- 511 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/28(月) 00:00
- お久しぶりです!
ガクブルですが引き込まれてしまいましたので
静かに続きを待ちたいと思います。では
- 512 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/07/28(月) 02:06
- 良い感じの涼しさで今の季節にはよろしいかと思います。続き期待しています。
- 513 名前:名無し飼育さん 投稿日:2008/07/29(火) 00:49
- 引き込まれる内容です。
自分もさゆがいじらしく感じてしまいます。
- 514 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:37
- 『吉澤さんは今日からここで暮らすんだよ。
あ、その足だとワンピースしか着られないでしょ?
それに下着も紐になっていないと着脱が出来ない。
どっちもこんなに沢山そろえたの。好きなものを使ってね』
少女が大きなクローゼットを開き、色とりどりのワンピースを見繕いながら嬉しそうにしている。
あたしも自分の体を見て、趣味じゃないワンピースに着替えさせられていることに気がついた。
あたしは状況を飲み込めないままとりあえず敵意をあらわにした。
『誰?あんた』
『さゆみ』
少女はあたしの鋭い視線にも一切怯まずに笑っていた。
『てか何なんだよこれ。外せよ。自分のしてることわかってるの?犯罪だよこれ。
子供だからって許されることじゃない』
『外さない』
『外せって言ってるんだよ』
あの時は余裕がなかった。
どちらかと言えば温厚と言われるので、初対面の人間にあそこまで苛立ちを隠さずに会話をしたのは初めてだった。
彼女が怯えればあたしももう少し冷静でいられたかもしれない。
けれどどんなに威圧しても少女は眉一つ動かさないどころか、嬉しそうなのだ。
それがあたしにはたまらなく嫌だった。
少女の表情はあたしに確かな覚悟を感じさせたのだ。
ふざけて監禁ごっこをしているわけじゃない。
下手したら一生このまま。
そんな恐怖があたしを苛立たせた。
- 515 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:38
- ダァン!と壁を拳で殴るけれど、少女は冷ややかな笑顔を浮かべているだけだった。
『ふざけんなよ!!!さっさとこれ外してここから出せ!!!』
『さゆみはふざけてなんかいない』
どんな行動をしたって彼女に恐怖を与えることなど出来ない。
その時はわからなかった。
だから、とりあえず走って届き、さゆを掴んだ。
筋肉の無さそうな少女を乱暴に扱うのは正直気が引けたけれど、躊躇ったのは一瞬だけだった。
少女の上に馬乗りになり、細い首を強く絞めた。
『ふざけるな、…殺すぞ』
実際は本気で殺すつもりなどなかった。苛立っていたとはいえ、あたしにそんな度胸はなかった。
ただこの空気を変えたかっただけだった。
とにかく話が出来なければこの状況は変わらない。
少女の精神を乱せなければ何も変わらない。
しかし。
- 516 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:39
-
『吉澤さん、に…殺されるな、ら、…さゆみは…幸せ』
その少女はあたしに強く首を絞められながら、うっとりとした笑みを浮かべていた。あまりに幸せそうすぎた。
あたしは恐怖に襲われた。狂った人間というものを目の当たりにして、ただ引いていた。
『幸せ?お前だけ幸せに死なせるわけにいかない』
必死に言い訳して、あたしは彼女から離れた。強がっていたけれど足が震えていた。
だめだこいつ、狂ってる。
気持ち悪い。
話が通じない。
気持ち悪い。
怖い。
笑ってるよ。
気持ち悪い。
『そうだよね、さゆみと吉澤さんは一緒に幸せになって死ぬんだもんね』
見ず知らずの人間に笑ってそう言われた時の恐怖など、普通に人生を送れば味わえるものではないだろう。
あたしはやはり、目の前の状況を飲み込めないまま叫んで走った。
大きなドアに体をもたれるようにしながら激しく叩く。
『誰か!!誰かぁ!!!開けて…助けて!!!!誰か助けて!!!!』
- 517 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:39
- 叫んでも叫んでも誰にも届く気がしなかった。
それでもあたしは声が枯れるまで叫び続けるしかなかった。
『はぁ…あ…あぁ…』
叫び疲れてへたり込んだあたしにやっと少女は歩み寄り、
『今日はもう眠って。疲れてるだろうから。それともお風呂に入る?』
優しく言葉をかけるけれど。
あたしは狂ったように叫んで突き飛ばし、その場で耳を塞いでうずくまった。
何度も少女が体に触れる度に激しく振り払い、あたしはとうとう泣いた。
泣き疲れてか、極度のストレスなのか、いつしか意識を失ったあたしは
目が覚めたときには明るい日差しの中ベッドで横たわっていた。
夢であればいいと思った。
けれど起き上がるあたしの耳に聞こえたのは鎖の冷たい音だった。
それはまさに絶望だった。
からからからから。
何かの小さな車輪が回転するような音が近づいてくる。
ぼんやりとした意識で開くドアを見つめていた。
『おはよう、吉澤さん』
少女が持ってきたおいしそうな朝食を、あたしは躊躇いもなくひっくり返した。
- 518 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:40
-
+++
- 519 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:40
- 「…どうしたの?」
さゆと隣に並んで本を読んでいる時に思い出した過去。
本を破いて。
皿を割って。
椅子を壊して。
カーテンを千切って。
枕から羽根が出て。
本棚を倒して。
ガラスだけは強化ガラスみたいでいくら叩いても割れなくて。
さゆにも何度か手をあげた。
さゆは一度も泣かなかったし怒らなかった。
全て遠い昔のことのようだ。
実際、遠い昔のことなのかもしれない。
さゆもあたしもそんなに変わってはいなかったけれど。
それでも朝も夜も来たし、髪も爪も伸びたし、時間が来れば空腹になったし、生理も来た。
時間は確かに過ぎているのだ。
あたしも変わっているようだった。
慣れてきたこととか、そういうことじゃなくて。
あたしの心は確かに変わっていた。
認めたくないのに、認めている自分もいた。
振り切ろうと暴れてももう無意味だとわかる。
本当に何の可能性も見出せなかった。
変化を止めることなど出来ない。
あたしとかさゆとかのくくりではないもっと大きな流れがあって、
人間なんていう小さなものには逆らえない摂理。
- 520 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:41
- 「次から、吉澤さんが読んで」
「え?うん、いいよ」
「吉澤さんの声が好き」
「…」
「声だけじゃないけど。見た目も、中身も、何でも好き。
吉澤さんの好きなものは全部好きだし、吉澤さんの嫌いなものはさゆみも嫌い」
屈託のない愛。
監禁という行為だけは屈折しているけれど、表現方法は至ってストレートだった。
好きと言葉にする。
抱き締める。
キスをする。
優しく抱く。
間違えてもあたしを殴ったり、痛くしたりはしなかった。
ただ愛し愛されたいのだと。
普通に告白したんじゃ叶わないとわかって、こんな行動に出たのだと。
それほどにあたしを必要としてくれる人がこの先現れるのだろうか。
振り切れないそんな思考に恐怖する。
あたしは何のためにこんな状態を受け入れたのかを忘れてしまいそうになる。
というか、一日のほとんどであたしが鎖に繋がれている理由を忘れていた。
あまりに穏やか過ぎて。
足に繋がった鎖以外はあまりに優しすぎて麻痺してしまう。
してしまうというよりはきっともうしていた。
これがさゆの作戦だったりしたら、さゆはなんて怖い女なのだろうか。
笑ってしまいそうになった。
- 521 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:42
-
+++
- 522 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:42
-
―――
『よしざわさぁん、聞いてます?』
あたしを誰かが呼んでいる。
『よしざわさぁん』
…ああ。
こんな風に呼ぶのはあいつだけだったね。
そう、あいつ。
大好きなあいつ。
恋人のあいつ。
…あいつって、誰だっけ………?
―――
- 523 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:43
-
「―――――っ!!!」
息が出来ないような感覚に飛び起きた。
心臓が激しく動いている。汗で背中がすうっと寒かった。
額に手を当てて髪をかきあげながら呼吸を整える。
「…っ…はぁ…」
今の夢は。
…あたしの恋人の夢。
笑ってた。
目が、三日月のように。
…本当に?
名前…
あいつの名前、何だっけ。
- 524 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:44
- 『大好きです』
思い出せ。
『ずっと一緒にいたいって思ってるんですよ』
思い出せ。
『…よしざわさん』
思い出せよ、自分。
思い出せ!
『よしざわさぁん』
思い出せ、思い出せ、思い出せ!!!
――――!!!
―――……。
「あぁ…あ…っ、く…うぅう」
あたしは久々に泣いた。
壊れていく自分が恐ろしくて。
思い出してあげられないあいつに申し訳なくて。
あたしは泣くしかできなかった。
気が付きたくなかった事実だけれど、
あたしが朝目覚めた時に一番に思い浮かぶ顔は…今はもう、さゆだった。
あんなに会いたかったあいつの名すら思い出せはしない。
もうじき顔も全部忘れるんだろう。
受け入れるしかないの?
あたしはここで壊れるだけなの?
思い出も何もかも全部忘れて、さゆだけのために生きるの?
あたしは何のためにここまで頑張ってきた?
走り回りたい気持ちを抑えて、あたしは何を求めて縛られていた?
…あたしは。
あたしは。
- 525 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:46
- がちゃり。
ドアの開く音。
「…吉澤さん?」
「…さ、ゆ」
「吉澤さんどうしたの?泣かないで」
ドアの向こうからさゆが驚いた顔であたしを見ている。
走り寄ってきて、あたしをきつく抱き締める。
誰よりも愛おしそうに。
そんな風に。
「泣かないで、吉澤さんが泣くとさゆみも悲しくなっちゃうよ」
さゆがあたしを壊したくせに。
さゆがあたしを泣かせたくせに。
「うぁ…あぁああ…うぁああぁあああん」
あたしはさゆに縋って泣き喚いた。
涙からまた、思い出が流れていく。
それでも涙は止まることを知らないで、あたしは赤ん坊のように泣いた。
- 526 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:47
-
+++
- 527 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:47
- 「吉澤さんどうしたの?具合悪いの?」
あたしは答えなかった。
ベッドの中でシーツに包まってさゆに背を向け、運ばれてきた朝食を拒否した。
初めてのことではない。
最初の頃はひっくり返し飽きたら、こうしていつまでも意地を張って食べなかった。
何日かで空腹に負けて食べたけれど。
「…」
さゆは黙って、ひとりで椅子に座って食事を始めた。
かちゃかちゃ。
さく。
さく、さく。
かちゃん。
あたしは微動だにせずにいた。
お腹は減らなかった。
「何か、おなかに優しいものを用意するから」
いらない、と。
あたしは言葉にもしなかった。
戸惑った様子のさゆが感じられたけれど、あたしは振り向かなかった。
こうでもしなければ、あたしは到底耐えられそうもなかったのだ。
自然と思い出になっていくまともな生活に。
普通の人間として生きていた過去の磨耗に。
精一杯抗って、あたしはすねた子供のように黙っていることくらいしか出来なかった。
何をしても思い出は砂と消えていく。
けれど、少しでも動かなければそのスピードが遅くなるような気がした。
気のせいだと知っていても、今は動かずにいたかった。
がちゃ。
さゆが何かおかゆのような匂いのするものを持ってきた。
あたしは目を閉じて、さゆの問いかけに応じなかった。
何度か話しかけられたけれど何も応えないと悟ったのか、さゆはそれきり黙った。
さゆは一日中眠ったふりをするあたしのことを黙って見ていた。
なんとなく、とても悲しそうだったけれど、あたしは振り向かなかった。
- 528 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:47
-
+++
- 529 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:48
- 朝が来て。
夜になって。
朝が来て。
夜になって。
朝が来た。
さゆはずっとあたしの近くにいた。
おかゆが冷めたら何度も新しいものを持ってきては、座って黙っていた。
時折、さゆは本を取り出して詩を読む。
「思い出の日々が壊れたとしても
あなたは壊れたりしない
あなたはここにいる 私が知っています」
初めは反発した。
「私を許して欲しいなどとは言わない
言う事も出来ない
失ったものよりも大きい幸せをあげたいと思う」
どの内容も、あたしの神経を逆なでするような言葉を並べたものばかり。
「私にはわからないことだらけ
あなたのこと きっとまだまだわかってはいない
それでもあなたが幸せだったことはわかる
出会った日 あなたは誰よりも輝いていたから」
さゆなんかにわかるわけない。
あたしがどんなに日々を楽しく生きていたか、さゆにはわからない。
- 530 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:48
- 「愛していると 心から感じるように
愛されていると 心から感じたい
欲張りで身勝手だと知っていても
その思いだけは 我慢することなど出来ないのです」
さゆがどんなに愛を紡ごうと。
あたしの楽しく輝いていた日々の風化は止まらない。
あたしの楽しい日々は戻らない。
どうしてさゆが悲しいの。
泣きたいのはあたしなのに。
傷つけられているのはあたしなのに。
「愛していますと
何度言えば 愛してくれますか」
うるさい。
うるさい。
叫び暴れだしたい気持ちに火がつきそうなところで、ドサッという音がした。
それきり声はしなくなった。
静かになった部屋で、あたしだけが固く閉ざされていた。
- 531 名前:2 投稿日:2008/07/29(火) 22:49
-
+++
- 532 名前:幹 投稿日:2008/07/29(火) 22:53
- 世界にふたり
2 更新終了です。
作者も仮題と正式な題がごっちゃになってしまっていましたが、
『世界にふたり』が正しいタイトルです。
>>511さん
どうも、お久しぶりです。
静かにどこか怖くを目指して頑張ります。
>>512さん
ありがとうございます。
少しでも納涼になれば嬉しいです。
>>513さん
ありがとうございます。
でも実際されたら嫌だなあと個人的には思います。
- 533 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:04
- 夜の淵。
あたしももう限界が近づいていた。
そろそろ同じ体勢でいるのも辛くて、トイレに起き上がった。
何気なくさゆに目をやる。
「さゆ?」
さゆの顔は見えなかった。
カーペットに、うつ伏せで倒れていたから。
大好きな自分の顔を守ることもせず、潰されたように倒れていた。
- 534 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:05
- 「さゆ」
意固地になっていたあたしはこんな事実にもやっと気がついた。
頭が真っ白になって、ベッドを転げ落ちた。
ふらつく体でさゆを抱き起こすと、すっかりやつれて隈が浮かんださゆの顔が見えた。
唇も肌もかさかさで、あたしよりも衰弱していた。
…あたしがこの何日かずっと意地を張っていた時、さゆはおかゆを換える時以外ここを離れなかった。
あたしが意地を張り疲れて眠っている時も、ずっとここで眠らずにあたしを見ていたの?
食事も摂らず、睡眠も取らず。
…馬鹿なさゆ。
どうしてあたしなの?
どうしてそこまでして、あたしなの?
- 535 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:05
- あたしはまだほんのりあたたかいおかゆを口にした。
自分の頬に、ほんの数日前までとは違う涙が流れていることを感じた。
おいしい。
おいしくて、あたしはもう一口おかゆを口にした。
あれ。
…あたしはどうしておかゆを用意されていたんだっけ…?
熱があって、食欲がなかったのだろうか。
あまりよく思い出せないけれど、思い出せないということはたぶんそういうことなんだろう。
- 536 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:06
-
+++
- 537 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:06
- ベッドの中で横になりながら、隣で気を失っているさゆをずっと見ていた。
「…ん…」
やがてさゆは眉を少ししかめ、もぞもぞと動き始めた。
ゆっくりと目を覚ましたさゆに、そっと微笑みかける。
さゆの目にあたしが映っている。
「…吉澤さん…?」
「さゆが倒れてどうするんだよ、さゆが目覚めなかったら
あたしにもしもの事があった時誰が助けてくれるの?」
「…ごめんなさい」
わざと厳しいことを言ったけれど、あたしはもう怒っていなかった。
何がそんなに苦しかったのかさえ、あたしは忘れていた。
ただ目の前で申し訳なさそうにしているさゆを起こして、残しておいた冷めているおかゆを食べさせた。
小さな口で少しずつおかゆを食べていくさゆを見ていると
赤ちゃんの世話をしているようなたまらない気持ちになった。
「…ごめんなさい、吉澤さん。吉澤さんのほうが苦しいのに」
「え?あたしは元気だよ?ちょっと頭が重いけど、熱も下がったみたい」
「熱?」
さゆが怪訝そうな顔をしている。
あれ、熱ではなかったのだろうか?
- 538 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:07
- 少しの沈黙のあと、さゆははっとして目を細くした。
「…ああ、そうだった。吉澤さんてばここのところずっと熱でうなされていて、本当にさゆみ心配で…」
さゆは困ったように笑った。
倒れてしまうほどだ、よほど心配かけたのだろう。
「ごめん」
「でも、吉澤さんが元気になってよかった」
「うん。さゆが看病してくれたからだよ」
「…えへへ、さゆみは吉澤さんが大好きだから」
さゆのまっすぐな想い。
それはあまりに揺ぎ無いから、あたしはさゆみの髪をそっと撫でる。
「今日はここで眠って、まだ顔色が良くないから」
「うん…吉澤さん、こっちに来て」
さゆが手を伸ばす。
あたしはその手を取って、さゆと一緒にベッドの中で目を閉じた。
ずっと手を握り合い、不思議と安心感に包まれる。
- 539 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:07
-
+++
- 540 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:08
- その夜。
「…っ…」
「―――ん…?」
夜中にさゆの声が聞こえた気がして目が覚めた。
ぼう、とオレンジのゆるい光が浮かんでいる部屋。
意識はまだはっきりしていない。
油断したらすぐに落っこちてきそうな瞼を擦って少し目を隣へ向けた。
「さゆ?」
「…っう…っ、く…」
泣いてる?
思わず起き上がって、明かりにぼんやりと照らされた白い顔を見なおした。
いきなりすぎて頭がふらっとしたくらい。
「…さ、ゆ…?」
同じベッドの中で眠っているさゆは、夢の中で悲しみを堪えきれなかったみたいで。
…目を閉じて、悲しい泣き声をあげながらぽろぽろと涙を流していた。
初めて見た涙だった。
いつも余裕たっぷりに微笑んでいるさゆしか知らなかった。
その笑顔はどこか大人っぽくて視線にドキドキさせられたりしたけど、
こんな風に相応に子供っぽい表情を見ると、それはそれで心に重く響いた。
「さゆ…」
ほとんど息に近い声でさゆを呼んだ。
起こしてしまった方がいいのか。
起こしたら、眠れなくなっちゃったり、しないかな。
「っ…う、っ…うぅ…」
「…さゆ…」
その白雪姫みたいな頬に流れる悲しい涙を、あたしの指は自然に拭っていた。
もう片方の手は淋しげに布団を握り締めていたさゆの手を包み込んでいた。
…なかないで。
なかないで、さゆ。
長い睫毛を濡らして、そんなに悲しい声で泣いたりしないで。
- 541 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:08
-
―――――――だめだ。
これいじょうはだめだ。
はなれろ。
はなれろ。
きけんだ。
きけんだ。
つかまる。
つかまってしまう。
とらわれる。
とらわれてしまう。
……生まれてはいけない感情が生まれてしまう。
そんなの。
生まれてはいけない感情、それが何かなんてもうわからないくせに。
危険とだけ告げるならばその根拠を教えろよ。
あたしは。
あたしは。
あたしの中の信号が激しく点滅する中、さゆの黒い瞳がうるうると涙を溜めたまま開かれた。
その視線は悲しいが故に艶やかで、今まで会ってきたどの女性よりも官能的だった。
「さゆ…」
あたしの声にあたしを見たさゆは途端に顔をくしゃっとさせて、涙をぼろぼろと零した。
「…よしざわ、さんっ…!」
目覚めて更にしゃくりあげて泣き出したさゆを抱き起こしてきつく抱きしめた。
震える体を包み込んで、背中をリズムよく叩いた。
赤ちゃんみたいにしがみついてくるさゆの声だけが、
広くて、広すぎるからこそなんだかすごく怖い部屋にぽつぽつと降った。
- 542 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:09
-
「さゆ」
さゆの体温は、もうあたしの中では心地よいものになっていた。
いつからだろう。
…いつから、なんだろう。
ざわざわする。
心が、ざわざわしてる。
「さゆ…」
お願いだから。
お願いだから。
「吉澤さん、さゆみね、…さゆみ…っ……吉澤さんのこと…好き……!」
そう思った一瞬。
何度も何度も聞いたはずのその言葉があたしを貫いた。
「好きで好きで好きで、もう…どうしようもないくらい苦しい…
手に入らないってわかってる。…でも、っ、さゆみは、吉澤さんのこと…好き……」
好き。
ただそれだけの言葉に、あたしの馬鹿みたいなプライドは砂のようにほろほろとけて。
気がついたら、あたしはそこで初めてのキスをしていた。
紛れもなく初めてのキスだった。
物理的な説明など無意味。それが初めてのキス。
- 543 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:09
- さゆの薄い唇にあたしの唇が重なって。
さゆの少しかさついた唇が熱くなっていく。
熱さを感じなくなったと思ったら、あたしの体も同じくらいに熱くなっているようだった。
柔らかな感覚が何度も何度も訪れる。
繰り返し繰り返し口づける。
「んっ」
「さゆ」
「ん…」
短く呼んで、また口づける。
絡まった指がほどけて、互いの背を探る。
ぎゅ、とあたしの背中を覆う布を強く掴んださゆを包み込むように抱き締める。
身体が密着する。布越しに互いを感じる。
そうしないと死んでしまうみたいに、いつまでもいつまでも口づけた。
触れていないと息が出来なくなるみたいに。
背中のファスナーを下ろすと、しっとりとした肌が白く浮かぶ。
あたしは壊してしまいそうな激情に流されないように抗う。
けれど、さゆの切なげに潤んだ目を見ていると思考がぼんやりと白く霞んだ。
瞼に口づける。
熱い息がさゆの唇から零れて、あたしの喉を焦がした。
首筋から肩のくぼみに顔を埋めると、さゆの甘い匂いに包まれる。
髪をぐしゃぐしゃと乱されて、切なくなった。
柔らかく人形のような体つきのさゆがいる。
あんなに怖かったはずのさゆは、今はただの少女だった。
未知の世界への恐怖と愛情に揺れて涙を浮かべる少女は可憐で艶やか。
都合よく、本当の姿のような気がした。
誰よりも早熟で大人びているように見えた少女は、怖がりで弱くて。
優しく触れなければすぐに壊れてしまいそうで。
あたしは震える手でさゆに触れた。
- 544 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:10
-
+++
- 545 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:10
- 熱に浮かされて細まる目が美しくて、彼女に何度も口づける。
「あ…吉澤、さ…あっ…」
快感に震える彼女は、美しい。
優しく触れると、切なげにため息をこぼして。
よしざわさん、と呼ぶ。
あたしの名を呼び。
…だいすきと、何度も何度もうわ言のように唱えていた。
「吉澤さ…ぁ…!」
しなやかに反り返って果てるさゆは、海を泳ぐ人魚のようにも見えた。
- 546 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:11
- ああ。
だめだ。だめだ。
「吉澤さん…」
「さゆ…?」
『よしざわさぁん』
だめだ。
「さゆみにも、させて」
「…っ」
『…好きですよ』
ごめん。
「んっ、あ…あ」
「吉澤さん、吉澤さん…愛してる」
「やぁあ…!」
『愛してます』
許して。
許して。
「あぁっ…も…だめ…さゆ、さゆ…っ!」
「吉澤さん」
『……ょし―――わ…さぁん――……』
段々と声は遠ざかる。
やがて何も聞こえなくなった。
不思議と穏やかな気持ちになる。
ずっと締め付けられていた首輪を外して貰ったかのよう。
- 547 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:11
-
何度か互いに触れ合った後、不思議なほどの静けさに包まれる。
ふわりふわりと漂う心地よさに身を任せて、あたしはさゆと抱き締め合った。
「吉澤さん…」
「んー?」
「さゆって…呼んで」
「…さゆ」
「ふふ…」
ただそれだけで、さゆはこの世の全ての幸せを貰ったみたいな笑顔になる。
あたしもさゆの笑顔を見て幸せになる。
抱き締め合う。
時折、口づける。
弱った体のせいなのか、そうしているとすぐに意識はなくなった。
その日。
初めてあたしがさゆに触れた日。
- 548 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:12
-
「…吉澤さん…嬉しい…」
さゆがシーツに白い体を包んだまま、恥じらって笑った。
そっと上目遣いであたしを窺い見るさゆが、なぜだか可愛くて仕方がない。
本当は知っていた。
初めて会った時からどこかで惹かれていた。
純粋なその想いが心に響いていた。
どっちつかずな態度でずっとさゆを傷つけていたんだ。
さゆがあたしを見つけてから今まで、一体何度涙で枕を濡らしたのだろうと思うとたまらなくなった。
さゆはこんなに素敵な人なのに。
あたしは今までどうして拒んでいたのだろう?
何を怯えていたのだろう?
あたしを誘拐して監禁した相手だから?
そんなの。
あたしをこんなに好きでいてくれるのに。
あたしを愛してくれるのに。
だから、ここでずっとあたしを見ていてくれたのに。
さゆ以上にこんなあたしを愛してくれる人などいないのに。
さゆが好き。
さゆがこんなに好き。
- 549 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:12
-
「あたし、さゆのこと…好きだよ」
あたしは生まれて初めて心から愛を言葉にした。
さゆは、昨日とは違う涙で頬を濡らしたのだった。
- 550 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:13
-
+++
- 551 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:13
- 「あのね、よしざわさん」
かりかり。
「よしざわさんのこと、ずっと待ってるんです」
かりかり。
「信じてればいつかは…会えるのかな?って。ちゃんと会えるって。
また優しく頭を撫でて抱き締めてくれるんじゃないのかなあって」
…かたん。
「でもね」
ごしごし。
「…よしざわさんは、もういないんじゃないのかなってそればっかり思っちゃうんだぁ」
ざっ、ざっ。
「…………だって、よしざわさんはぁ…恋人を置いてどっかに消えたりする人じゃないもん…」
かりかり。
「待ってるんですか?」
かりかり。
「…もしかして、待ってるのかなあ?吉澤さん」
…かたん。
- 552 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:13
-
「じゃあ、会いに行きますね」
- 553 名前:3 投稿日:2008/08/03(日) 21:14
-
+++
- 554 名前:幹 投稿日:2008/08/03(日) 21:15
- 世界にふたり
3 更新終了です。
- 555 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/08/03(日) 22:56
- おぉ、これはついにあの子の登場でしょうか。
楽しみにしてます。
- 556 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/08/04(月) 03:58
- 更新お疲れ様です。
独特な世界に惹かれますね。
何だか動きがありそうで、すごく楽しみです。
- 557 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:44
-
がちゃり、と音を立てて鍵が外れる。
「はい」
足が軽い。
あたしは久しぶりに足に枷のない日々に戻った。
それは、あたしがさゆに応えたというしるし。
体ではなく心。
さゆによる甘い拘束を受けることを認めたという事だった。
「…ありがとう、さゆ」
「ありがとうは、さゆみが言いたい」
さゆは頬を染めて、まるでお伽話の姫のように笑った。
無邪気に胸に飛び込んでくるから、あたしは受け止めて優しく抱き締めた。
- 558 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:45
- それからの日々は、以前とさして変わりはない。
逃げ出そうと思えば逃げ出せたけれどあたしは自分の意志でこの部屋を出ることはなかった。
身体が元から変わったのか、スポーツ体質だったあたしは消えて体を動かしたくなることはあまりなかった。
外に出る時と言えば、屋敷の裏口から外へ出て広い敷地でさゆと草むらに寝転がるくらいだ。
よく手入れされた庭は、いつ誰が手入れしているのだろう。
そんなことはどうでも良かった。
あたしの身体はさゆと生きるために変わっていった。
「さゆ」
「なあに?」
右に転がってさゆを抱き寄せた。
さゆの髪からは甘いフルーティフローラルの香りがして、くすぐったくなる。
「…ふふ」
さゆの嬉しそうな声にあたしも笑顔になる。
草の上で横になり、穏やかな日差しを浴びて抱き合う。
この世であって、この世でないような楽園だった。
全ては満たされていた。
悲しいことなど一つもなかった。
自分がどうして長い間拘束されていたのか、わからない。思い出せない。
あたしは初めから決めていたのに。
もしかしたらその運命を受け入れるのに勇気が要ったのかもしれないなと今は思う。
だって信じられないもん。
こんなにきれいな女の子と出会えて、その子があたしを好きで。
そんな出来た話があるわけないと怖くなっても仕方がない。
大好き。
そんな言葉を言うのに、決意するのにこんなに時間がかかるなんてね。
さゆがどんなに寂しい気持ちでいたかを想像するだけで胸が痛む。
これからたくさん愛していこう。
たくさんの思い出を作っていこう。
二人だけの世界で、かけがえのない時間を大切に過ごそう。
「さゆ」
「…吉澤さん、大好き…」
「あたしも大好きだよ」
笑い合えば全部が明るく輝きだした。
全てを受け入れた先にあるのは本当の幸せだった。
「……」
さゆが寂しげに表情を曇らせた気がしたのだけれど、あたしは聞くことをしなかった。
- 559 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:45
-
+++
- 560 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:45
- 「さゆみが吉澤さんを初めて見たのはね、長い間ずっと外に出たことのなかったさゆみが
初めて外に出たときだったの。外ってね、この家の敷地の外」
「広いもんね」
「うん」
さゆの手を握りながら、さゆの横顔を見つめている。
穏やかな日差しの注ぐ昼下がりだった。
お腹も程よく膨れて、幸福感に包まれる。
「それは車に乗ってただこのあたりを回ってるだけなんだけど、さゆみにはすごく新鮮だった。
名前の知らない人が歩いてて、何かもわからないお店があって。すごく楽しくて」
さゆがキラキラと目を輝かせる。
あたしもつられて笑う。
楽しそうにありふれた町並みを眺めているさゆが頭に浮かんでいた。
「楽しかったんだ」
「うんっ…でもね、それだけじゃなかった」
「ん?」
さゆが大きな黒目をあたしに向けた。
イタズラっぽいような笑顔で、でもはにかんだようで。
「…その日に、初めて吉澤さんに会ったの」
言って、さゆは耳を赤くして顔を背けた。
顔を追いかけて覗き込むあたしに振り向くと、勢いよく抱きついてきた。
- 561 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:46
- 「一目見たときにすごく惹かれたの。自分よりも綺麗な人をはじめて見た。
すぐにその時いた爺やにあの人のことを知りたいって言ったの。
失礼だけど、写真も何枚か撮らせてもらったよ」
写真を撮られたなという感じを覚えた記憶はないが、そうらしい。
その時の写真はいつも見える場所に飾ってあるのだそうだ。
「で、爺やが調べてくれたら吉澤さんはこの街の人じゃなかった。
市外どころか、県外。旅行だったの」
「え?」
あたしも思わず声をあげた。
どういうことだろう?
「あの日たまたまあの場にいたんだって知って、運命の人だと思っちゃった。
出会うべくして出会ったんだなって、吉澤さんのことをすごく好きになったの」
…。
あたしは信じられないような感覚に包まれて運命の眩しさにくらっとした。
そんなことって、あるんだ。
さゆが幸せそうに微笑んでいるその理由を少しだけ知ることが出来た。
「変だよね…顔を見てデータを知っただけで、その人の全部を好きになるなんて。
自分でも信じられなかったけど、その日からは吉澤さんに会いたくて…会いたくて、
お話したくて、この気持ちを伝えたくて、両想いになりたくて」
さゆは笑っている。けれどどこか、切なげ。
あたしもきゅ、と胸が締め付けられる。
「寝込んじゃうくらいに毎日毎日吉澤さんのことばっかり考えてた。
ラブレターも書いたし、何回も会いに行きたいってお願いした。
でもうちはじいやも他の人も過保護だから…もしラブレターの返事が来なかったら、
もし会いに行って冷たくあしらわれたら、
さゆみが自殺でもしちゃうんじゃないかって心配してさせてくれなかった」
眉を下げて笑うけれど、何となく彼女の周りの大人の心配がわからないでもなかった。
「自分はそうは思わなかったけれど、傍目にはそう見えたんだね、きっと。
でもこのまま何もないのもさゆみは狂っちゃいそうだった。」
さゆは、ぎゅ、とあたしを捕まえる。
「…そして、決めたの。じいやとボディーガードの人にお願いして、吉澤さんをここに連れてきた。
それからは吉澤さんも知っての通り」
あたしは、ここで鎖に繋がれた。
- 562 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:46
- 「こっちに来て、吉澤さんはやっぱりとても綺麗な人でさゆみが思ったよりも素敵な人だった。
鎖で繋げても気高いし、どんな状態でも絶対綺麗。最初は不安定だったけれど、
絶対にさゆみを不用意に罵ったりしなかった。
いつの間にか普通に今までもそうだったみたいに優しく接してくれたし。…何より…」
…さゆの想い。
「いつまでも目だけは輝いていた。
思った通り…ううん、思ってた以上にさゆみは吉澤さんを大好きになった。
幻想なんかよりもずっと吉澤さんは魅力的な人だったんだもん。
その目で愛してくれるまで、さゆみは何十年でも何百年でも待つ覚悟はあったよ」
さゆの動機。
全ては正しくはないけれど真っ直ぐで、あたしの心を何度も揺らして。
いつしかあたしはさゆを好きになっていた。
「そっか」
「…もう、本当に夢みたい。吉澤さんとこんな風に抱き締めあえるなんて。
頑張ってよかった。辛かったと思う。吉澤さんも…さゆみも。
でも本当に良かった。嬉しい…」
さゆが噛みしめて何度も嬉しいと言うから、あたしは心から幸福になった。
誰かにこれほどに必要とされることは、この先きっと二度とないだろう。
何かを失ったかもしれないけれど、得たものは大きかった。
- 563 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:46
-
+++
- 564 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:47
-
「このお屋敷にはさゆみ以外にも何人か人がいるよ。吉澤さんの存在も知ってる。
でもさゆみには逆らえないから、良くないと思ってても何も言えない人ばかり。
何よりさゆみのこと大切に思ってくれてる人が多かったから、わがままも聞いてくれた」
美味しそうな夕食。
とろけるような脂の乗った魚に思わずうま、と声が出た。
さゆが満足げに笑う。
あ、と急に顔を上げてあたしを見た。
「今度は一緒にご飯作ろう?吉澤さんが作ったご飯食べてみたい」
「でも、こんな風に上手じゃないよ」
「いいの。吉澤さんが作ったものはさゆみには何でも世界一なんだから」
「そう?…わかった、約束ね」
「うん、約束」
テーブルの上の食事越しに指切りをした。
「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーらはーりせんぼんのーます、ゆーびきった」
そして、何故か笑い合った。
楽しくて笑えた。
静かな部屋に、暖かな笑い声が響いた。
- 565 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:47
-
+++
- 566 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:48
-
ある日。
お昼を食べ終えた後にのんびりしていると、さゆが急に決心したようにあたしを見た。
「あのね、吉澤さん」
「ん?」
「…写真、撮ろう?」
「へ?いいよ」
写真を撮るという割には重たそうに言うさゆに不思議な気持ちを抱えながら、
さゆに連れられて部屋を出た。
- 567 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:48
- 歩いたことのない廊下を歩く。
人気はないけれど、手入れが施されていて綺麗だった。
改めて広くて大きな家だなあと思った。
「…ここで、写真撮ろう?」
突き当たりのドアの先にあったのは、まるで大きなスタジオ。
生成りの背景が、大きなカメラが、名前も知らない機材が置いてあった。
「さゆの家って写真屋さんなの?」
「ううん、亡くなったお爺さまの趣味。でも使い方は知ってるから」
「へぇ…」
スケールの違う話だがもう驚くことはなかった。
「写真…撮りたい」
さゆが何度も繰り返す、その意味がわからずに。
あたしは写真を撮るという事にだけ、軽く頷いた。
するとさゆはぱっと奥へ消え、しばらくがさごそしていたかと思うと、
ゆっくりと不安そうに白い布を抱えてきた。
…あれは。
「これ、着て」
- 568 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:49
-
+++
- 569 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:49
- 白に薄くベージュを練りこんだような色味。
オフホワイトの滑らかで華やかなドレスにあたしは身を包んでいた。
肩は出ていて、きゅっと締めたウエストから一気にふわっと軽い素材が広がっている。
同じような色の糸で胸元から腰にかけて刺繍されている百合の花がすごく綺麗。
さゆがあたしの頬に触れながら唇にリップを伸ばす。
さゆの真剣な目。
そのさゆは、さゆの肌みたいに白くほんのり淡くピンクみがかかったドレスを着ている。
花のモチーフが大きくあしらわれていて豪華なのにしつこくなくて、さゆによく似合った。
息が止まりそうなほどの静寂に訪れる非現実的な空気も景色も、それでもやはり全て現実だった。
「…はい、出来た」
あたしから離れ、さゆがとても嬉しそうにしている。
あたしを上から下までじっくり眺めてさゆは笑う。
「吉澤さん…とっても綺麗。綺麗なんて言葉じゃ表せないくらい」
さゆの目に涙が浮かんでいるのがわかった。
あたしはその恥ずかしいばかりの台詞にほんのり頬に熱を持たせた。
「ありがとう」
さゆは慌ててあたしの場所と自分の場所を入れ替えて、目を閉じる。
綺麗に巻かれた髪が跳ねた。
「さゆみも、さゆみも」
無邪気におねだりするさゆがとても愛らしくて、その無防備な唇に一瞬だけ唇を重ねた。
すると、
「あ!だめだよぉ、せっかく綺麗にリップ塗ったんだから」
と怒られてあたしは苦笑した。
ふわふわのドレスを汚さないように彼女に化粧を施していく。
いつもよりも少しだけ強めに。
いつもより少しだけ。
肌に赤み。
瞼に深み。
睫毛に伸び。
唇に赤いリップを滑らせると、彼女の大人が見えた気がした。
深みを知った彼女が目に見えたように感じた。
どきり、とした。
「…出来たよ」
あたしのその声でさゆは弾けるように鏡を見た。
そして、どんなおいしそうなものを目も前にするよりも幸福そうに笑った。
「さゆみも綺麗?」
「うん、すごく綺麗だよ」
「早く、早く撮ろう」
「うん」
あたしは手袋をして、ベールを整えなおした。
- 570 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:49
-
+++
- 571 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:49
-
さゆが後ろ手に持ったスイッチで眩しく光る世界。
何度も光を浴びて、さゆと微笑みあった。
パシャ。ピピッ。
時にくちづけて。
時に肩を寄せ合って。
満面の笑みで。
少し澄まして。
パシャ。ピピッ。
パシャ。ピピッ。
何度も何度も、終わらなければいいのにと思った。
永遠のように短い時間が続いていた。
あたしは幸せだった。
さゆみもまた笑っていた。
- 572 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:50
-
『結婚式は出来ないでしょ。でも写真は残そう?花嫁が二人の、結婚式の写真』
さゆはそう言っておずおずとあたしの顔をうかがった。
あたしに断る理由などなかった。
どう頑張っても形で永遠を誓えないあたし達は、それでも形を求める。
ドレスを着て、それを写真におさめて。
それが何になるのかなんてわからないけれど。
ただここに二人がいたことを、愛し合ったことを、誰かに教えたかった。
いつか誰かに見つけて欲しかった。
認められることのない恋愛を。誰かが美しく思ってくれたら。
なんて。
名残惜しくドレスを脱ぎながら、スタジオで沈み込む。
深く口付けをして、舌を絡ませた。
舌が赤い。
潤んだ目が赤い。
布の白に映える赤は人間の色。
熱く燃えるような世界に純潔の象徴が汚されて、美しかった。
「吉澤さん…だいすき…」
うわごとのように呟く美しい少女の瞼に唇を落とした。
初めて、白い体に無数の痕を残す。
あたしにもそれはいくつもついていた。
まるで、薔薇のよう。
互いが互いを縛るのは、もう愛だけだった。
- 573 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:50
-
+++
- 574 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:50
- 出来上がった写真を全てアルバムにファイルして、暇さえあれば眺めた。
ウエディングドレスを着てはしゃいでいる二人の姿がそこには何枚もあった。
ウエディングドレスで撮影する時のようにおしとやかなものは少ないけれど。
城に囲まれたあたし達は紛れもなくお嫁さんだった。
互いが、互いの。
幸せそうなあたし達がきれいだと思った。
あたしですら、自分で自分を綺麗だと思えた。
ああ。
…すごいなあ。
あたしは一人でもそれを眺めてニヤニヤしてしまう。
そうだな。
結婚式の写真なんて…絶対に撮れないと思ってたし。
……あれ。
何でだろう?
どうしてそう思った?
あたしにも、恋人くらいいたんじゃないのかな。
人並みに恋をしてきたんじゃないのかな。
結婚願望がなかったのかな?
それとも?
何かを忘れているような気がしたけれど、あたしは思い出すことをしなかった。
- 575 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:51
-
+++
- 576 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:51
-
「よしざわさぁん…」
ザッ。
べちゃ。
「…よしざわさぁん」
がらっ。
ごろごろ、ドスン。
「……よし、…わ…ん…」
ガッ。
「………あ………」
- 577 名前:4 投稿日:2008/08/10(日) 23:51
-
+++
- 578 名前:幹 投稿日:2008/08/10(日) 23:53
- 世界に二人
4 更新終了です。
>>555さん
こんな感じになりました。
楽しみにしていただけてとても嬉しいです。
>>556さん
ありがとうございます。
あまり進んでいませんが、頑張っていきますので生温かく見たってください。
- 579 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/08/11(月) 01:37
- 更新お疲れ様です。
最後の部分が気になりますね…。
続き楽しみにしてます。
- 580 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:39
- あたしの生活は、少しずつ日常と呼べるレベルに戻っていった。
テレビもあるし、新聞も読める。特に興味がそちらに強く戻ったことはないけれど。
外出はあまりしないけれど、さゆの家の私有地である海へ足を運んだこともあった。
だだっ広く美しい海に誰もいなくて、あたしとさゆとでずっと独り占めをしていた。
現実感のない天国にいるかのような生活は続いた。
ただ楽しくて穏やかな日々。
さゆという愛しい人と愛し合う日々。
さゆの他は何もいらなくて、さゆが幸せならばあたしも幸せだと思えた。
さゆも同じようにいてくれるらしかった。
相思相愛とはなんという奇跡なのだろう。
泣けそうなほどの気持ちの熱さに毎日のように包まれた。
飽きることもなく、二人は二人でいた。
- 581 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:40
-
+++
- 582 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:40
-
そんなある日のこと。
まどろみながらデニムに足を通し、部屋に置いてある新聞を手に取った。
こんなに穏やかでいいのだろうか。
いつものように一面からひっくり返してテレビ欄に移り、一枚めくり、
四コマ漫画を読んでから目を通す。
今日も事故や事件はなくならない。
殺人事件に交通事故、窃盗、なんでもかんでも暗いニュースばかり。
「…」
私も、この中の一つなのかな。
私はこんなに幸せなのに。
…無事だと、伝えたいけれど。
ここを探られるのだけは嫌だった。
さゆが悲しむから。二人だけの世界を守りたいから。
あたしは…さゆだけを選んだんだから。
何気なく下のほうに小さく載っている記事を見た。
『不明女性の友人遺体で発見』
- 583 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:40
-
「―――――」
ぞ…わっ。
なぜか、それだけで経験したこともないような悪寒が走った。
力が抜けるような感覚に耐えて、あたしは震える手で、食い入るように記事を読んだ。
ぐしゃぐしゃと新聞の形が崩れた。
- 584 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:41
-
“1日未明、亀井絵里さん(19)の遺体が○○県内の山中で発見された。
足を滑らせた跡があり、誤って崖に転落し死亡したと見られる。
亀井さんは現在も行方不明となっている吉澤ひとみさん(当時22)の友人であり、
『吉澤さんを探しに行ってきます』と書置きを残して行方がわからなくなり
家族が捜索願を出していた。警察は自殺の可能性も含め、捜査を進めている”
- 585 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:41
-
「…………っ…」
ぐら、と引っくり返る。
柔らかなカーペットに倒れた。
「っは…っ、はっ、はっ…はっ、ぁう…あ……」
声が出ない。
息が。
心臓が。
頭が。
がたん、と椅子から崩れ落ちた。
震えて呼吸と鼓動の乱れ。
体が冷えていく。
キィ。
バタン。
「吉澤さん…?」
さゆが現れても、あたしはさゆを見る事が出来なかった。
「あ…あぁ…は、は、は、はっ、はっ、はっ…ひゅう、う…」
「吉澤さん、おはよう…どうしたの?吉澤さん…苦しいの?吉澤さん?」
- 586 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:42
- 『吉澤さん』
違う。
あいつは。
『よしざわさぁん』
そう。
もっと間延びした声であたしを呼んで。
ふにゃあ、って笑って。
幸せそうに喋って。
表情をくるくる変えて。
………あいつが、死んだ?
- 587 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:42
-
「絵里」
「…吉澤さん?」
「絵里が」
「………吉澤さん」
さゆがあたしを覗き込む。
震えて自らを抱くしかないあたしを包むようにする。
でも。
あたしの中に一気に流れ込んでくるものが止まらない。
あたしの中にあったものが破裂して、あたしの体中を染めていく。
ぶわあああああああと。
あたしが変わっていく。
いや、もとある形に戻っていく。
笑顔。
ふくれっ面。
涙。
温度。
匂い。
言葉。
…愛情。
確かにあったもの。
忘れていた。
絵里の全部があたしの記憶に蘇って、激しく頭が痛み痙攣した。
絵里が。
死んだ。
- 588 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:43
- 「……絵里…絵里が…あたしのせいで…あたしが…」
「吉澤さん」
「あぁ…絵里…ごめんね、ごめんね絵里、えり、えり…痛かったよね?
落っこちたなんて。…あたしがいなくて。探してくれたの?
それで、山なんか。バカだなあほんとに。絵里。痛かったよね……
あたしなんか探して、こんなあたしなんか探して、死んだの?
ねえ絵里。絵里。死んじゃったの?何で絵里が?何で絵里が死ななきゃならないの?
あたしが。あたしが。あたしが、絵里を忘れて。絵里はあたしを忘れてなくて。
あたしが…あたしが…あたしがいれば絵里は死ななかったのに。
絵里が死ぬことなんてなかったのに。絶対、絵里は絵里は絵里は」
「吉澤さん、落ち着いて?」
絵里。
笑顔がはっきりと浮かんで、ぐにゃりと歪んだ。
『よしざわさぁん…!大好き!』
- 589 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:43
-
「っ……えり……あぁ…うぁ…ぁあああああああああああっ…
あああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
呼吸が出来ない。
頭が割れそう。
ううん、割ったんだ。
絵里が落ちたときの痛みを…絵里の全ての苦しみを、この身に。
お願い。
絵里。
絵里。
- 590 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:44
-
「…しざわさ……!」
あたしの意識は途切れた。
- 591 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:44
-
+++
- 592 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:44
- 『吉澤さんのこと好きです。…だから、エリのこと好きになってください』
彼女は亀井絵里と名乗った。
あたしを好きだと言って、毎日のように会いに来て。
毎日のように彼女の笑顔を見て。
言葉から見える彼女の世界に感心すると、なんだかいいなあと思った。
かわいくて。
やさしくて。
明るくて。
どうしようもないけど、繊細で。
彼女の涙を見たときに、何かが共鳴した。
彼女の抱える闇が見えた。
あたしは彼女を強く抱き締めていた。
『よしざわさぁ…!!』
『カメちゃん、カメちゃん…好き…』
『うっ……ふぇ…』
『……かも』
『えぇ?なんですかぁ、それぇ』
『嘘。好きだよ』
笑い合った。
笑い合って、キスをした。
あたしたちは。
愛し合っていた。
- 593 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:45
- 『よしざわさ…きゃっ』
ずる。
ずざざざざ。
『や…よしざわさぁ、よしざわさぁ…助けて、死にたくない…!
よしざ、さんに…会うんだもん…!!!』
じゃりっ。
がらがらがらがらっ。
ざ、ざっ。
どさっ。
絵里が、死んだ。
- 594 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:45
-
+++
- 595 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:46
- 「―――――」
次に目を覚ましたときには何も考えられなくなっていた。
まっしろ。
何かを考えようとしても、何も考えられない。
何の欲求も浮かばない。
世界から何もかも消えた。
さゆはそんなあたしの隣であたしをずっと看ていてくれた。
あたしは何かを言わなければならないはずなのに、何も出てこなかった。
「吉澤さんが悪いんじゃない。勝手に監禁して、そこまで追い込んださゆみが悪いの」
さゆはポツリと話した。
「…吉澤さんが熱を出したって行った日、あるでしょ?
あの日に吉澤さんは亀井さんの記憶を消したんだなってわかった。
わかってて、利用したの。これでもう迷わずにさゆみのものになってくれるって」
やさしく手を握るさゆのあたたかく湿った手。
- 596 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:46
- 「吉澤さんはずっと忘れることを怖がっていた。おびえてた。
自分の愛情が嘘になっていくんじゃないかって、必死に抵抗してた。
…でもさゆみが、自信持って言える。…悲しいけど、吉澤さんは
今でも亀井さんのことが好きなんだよ。忘れてるだけで」
そうか。
あの時のさゆの曇った顔の理由がわかった。
でも、怒ろうなんて思わない。
何も変わらない。
あたしの置いて来た人が死んだ事実は消えない。
「吉澤さん…さゆみは、罪を背負って生きていく覚悟がある。
…だからお願い。逃げないで……一緒に強く生きようよ…」
あたしは聞いているような聞いていないような感覚に包まれて、また目を閉じた。
- 597 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:46
-
+++
- 598 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:47
- 何度もこうなったことはあるけれど、今回が一番酷かった。
腕には何本もの点滴が伸びて、ベッドから一歩も動けなくなってしまった。
あたしは普通に見たらもう廃人だった。
けれどさゆは毎日つきっきりであたしの世話をしてくれた。
たくさんのことを話した。
本も何度も何度も読んで、もう二度と漢字でつっかえることなく読めた。
愛してるとたくさん言ってくれた。
その度にさゆを愛しいと思う気持ちがあったけれど、罪の意識がそれをかき消した。
あたしだけがこのやさしさに甘えてて生きているなんておかしいと思い始めた。
絵里は死んだのに。
あたしを待ち続けて、探しに出かけて、死んでしまったのに。
あたしが幸せな間、絵里はずっと苦しんでいたのに。
あたしに、幸せを感じる資格などない。
「…ぃ…」
「…!なぁに?どうしたの?吉澤さん」
さゆを見てかすれた声を出すと、さゆが目を見開いてあたしの唇に耳を寄せた。
その純粋な心を、あたしは傷つける。
- 599 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:47
-
「しに、たい」
あたしの目からは涙が流れた。
「こ…ろ、して…?」
- 600 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:48
- 身勝手で残酷なことを言っているとわかっている。
さゆを酷く傷つけているだろうに、更にこんなお願い。
けれど、あたしは自分で死ぬことすら出来ないほどに衰弱していた。
死をもって死を償うなんてことじゃない。
そういうんじゃない。
あたしにはこれ以上あたたかな生活は耐えられそうもなかった。
苦しくなんかなかった。
さゆがやさしくて、温かいベッドの中で、お世話をしてもらって。
あたしにそんな労力やお金を使うことは最早無駄といっても良かった。
さゆはいつか言った。
吉澤さんに殺されるなら幸せだと。
けれどあたしはそうは思わない。
死にたくないし、殺されるのもいやだ。
殺されることを幸福だなんて思わない。
殺されるのも死ぬのも苦しくて辛くて最悪のことだ。
だから、殺される。
あたしの罰。
そして、共犯者のさゆの罰。
さゆにはどれだけの苦しみを与えるかわからない。
けれどあたしはさゆが悪くないとは思えなかった。
共有して、罪を償おうと。
あたしの足りない頭が出した提案だった。
- 601 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:49
- さゆが立ち上がる。
「吉澤さんが…望むなら」
ぽつり、甘い声のままそう言って、さゆは涙で頬を濡らす。
ゆっくりとあたしの上に跨って。
頬に涙の雫が落ちる。
暖かな涙も、もうあたしのためには流さないで。
誰ももう、あたしのために傷つかないで。
あたしが消えてしまえば良い。
あたしを忘れてしまえば良い。
- 602 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:49
-
あたしの冷たい唇にさゆは唇を重ねて。
ちくりと刺さる感覚。
腕に伸びる注射器を見た後、あたしは意識が落ちた。
「…さようなら、吉澤さん」
- 603 名前:5 投稿日:2008/08/23(土) 20:49
-
+++
- 604 名前:幹 投稿日:2008/08/23(土) 20:50
- 世界にふたり
5 更新終了です。
>>579さん
ありがとうございます。
こんな感じになりました…
- 605 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/08/24(日) 01:00
- 更新お疲れ様です。
はぁ…呼吸するのを忘れてしまいそうでした。
吉澤さんの好きだった人、やはりあの人でしたか。
悲しいですね。
- 606 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:30
-
「あのね、爺や。聞いて。
さゆみね?吉澤さんがいなくても大丈夫なようになりたいの。
さゆみは弱い子だから、吉澤さんがいなきゃダメな子だったけど。
……いつか、さゆみはこんなに強くなったよって吉澤さんに教えてあげたいの。
それまでは一緒にいられないけど、…いつか、吉澤さんを迎えに行くから」
- 607 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:31
-
+++
- 608 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:31
- 「ひとみ、具合はどう?」
「ん…だいぶ、いいよ」
「少しはご飯食べてるわね」
「うん」
あたしは病院で少しずつ回復していた。
ほんの少し減った病院食を見て、ぼんやりと記憶を巻き戻していた。
白い世界から、鈍い頭の痛みで覚醒した。
目が覚めた時には家族があたしを覗き込んでいて、あたしの家族は泣きながらあたしを叱った。
そして、あたしを強く抱き締めた。
しばらくは状況がつかめず、考える体力も気力もなかった。
けれどひとつ、わかること。
…あたしは生きていた。
そして、その次に思ったこと。
さゆは殺してくれなかった。
…どうして?
さゆ。
どうして、という想いだけがあたしを支配していた。
あたしの望みを聞いてくれるんじゃなかったの?
さゆは、あたしを殺してくれるんじゃなかったの?
どうして。
どうして。
- 609 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:32
- ゆっくり休みなさい、と布団を掛けられてまどろんだ時、左の白い棚を見た。
そこに一通の手紙が置いてあった。
あたしは誰もいなくなった時を見計らって、起き上がった。
ベビーピンクの封筒。
宛名はあたし。
ひっくり返すと、後ろには差出人の名前も開けた跡もなかった。
手紙のそばには母の字で書き置きがあって、あたしを連れてきた老人が
あたし以外の人は読まないようにと何度も頼んで行ったそうだ。
それを守る母を、あたしは尊敬している。
あたしを信じてくれているのだろうと思っている。
便箋を取り出して開いた。
もちろん、差出人はわかっていた。
- 610 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:32
-
『吉澤さんへ
吉澤さん、言うことを聞いてあげられなくてごめんなさい。
やっぱりさゆみには吉澤さんを殺せません。
殺すことは、違うと思いました。
ちゃんと生きましょう。
罪深いからこそ、苦しんで生きましょう。
色んな言葉や試練が吉澤さんにはあると思います。
でも、吉澤さんには生きていて欲しいから。
生きるべきだと思うから。
互いに強くなりましょう。
さゆみも、吉澤さんがいなくても生きていけるように強くなります。
吉澤さんも、罪を背負って生きていけるように強くなってください。
吉澤さんが大好きだから、吉澤さんとは生きません。
辛いけど、頑張ります。
頑張りましょう。
ずっと、一生、大好きです。
さゆみ』
- 611 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:32
- さゆの決意。
あれほどにあたしに依存したさゆの、強い気持ちを感じた。
さゆだからこそ、その文から伝わった。
ぎゅ、と手紙を抱き締める。
…あたたかい。
ごめんね。
あたしのせいで、辛い思いばかり。
さゆ。
さゆ、ごめんね。
ありがとう。
もう甘えない。
さゆが立たせてくれたから、これからは一人で立って歩いていかなきゃ。
罪を背負うなんて簡単なことではないけれど。
あたしなんかに出来るかどうかわからないけれど。
それから警察がきたり詮索されることなどはなかった。
あの日々を、あたしは誰にも話せと言われることはなかった。
それはたぶんさゆの家の力で。
あたしはいつでもさゆに甘えてばかりだった。…生死すら委ねて。
- 612 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:33
- けれど。
あの日々を。
あの時の気持ちを。
言わなければいけない人がいる。
「お母さん」
「何?」
「…絵里の家に、行きたいんだ」
「……」
あたしは一つの行動をすることにした。
- 613 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:33
-
+++
- 614 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:33
- 絵里のご両親とお姉さんの前で、じっと前を見据えていた。
「ひとみさん、生きていたのね…ニュースを見て、驚いたわ」
「はい」
「どこへ行っていたの?警察も…家出ということで捜査は終わった、って…
正直、到底納得できないわ。あなたが絵里を置いて消えるなんて」
絵里の母さんは悲しげに、悔しそうに下を向いて。
「ねえ、本当のことを教えてほしいの」
そして、あたしを強い眼差しで見た。
絵里に似た目をした絵里の母さん。
あたしは、すう、と息を吸って。
「……ある少女のもとで過ごしていました」
あたしの言葉に空気が濁る。
それでもあたしは真実を話さなければならない。
「あたしを愛していると。そう言って、あたしは足に鎖をつけられました」
周りの緊張がぴりぴりと肌を刺激するような感覚。
それでもあたしは話す。
- 615 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:34
- 「でもあたしはその子を恨んでいません。
愛し方を知らない彼女の深すぎる愛ゆえの行動だと理解しています。
その子は、あたしを本当に深くただ純粋に愛してくれました」
あたしを信じられないような目で見る絵里のお母さんに、
ただ俯いて手を組んでいる絵里のお父さん。
そして、長い髪で表情の見えない絵里のお姉さん。
「…次第に、あたしは環境もあってかどんどんその家に来る前の記憶をなくして…
絵里さんの存在すら…忘れて。やがて彼女を愛するようになりました。
絵里さんを忘れて、あたしは幸せに過ごしていました。
あたしがそんな風にしていたから、このような結果になったのだと思います」
あたしは椅子から降りて、床に手と膝をついた。
頭を下げる。
「申し訳ございませんでした。絵里さんを死なせたのはこのあたしです」
しん。
はっきりとあたしはその事実を口にした。
そう思ったから。
あたしが絵里を殺した。と。
- 616 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:34
-
ずっとうつむいていた絵里のお父さんが言葉を発した。
「…君は、同性同士だろうと必ず絵里を愛し続ける、幸せにすると約束したはずだ」
「……はい」
ずしん、と重い声色に、あたしの腹の奥が重くなる。
「君の経験した世界がどんなものだったら、我々には想像がつかない。
けれどそれで絵里を忘れてしまうような、ひとみさんにとっては絵里はその程度の存在だったのだろうか」
「そんなんじゃないです!絵里のことは本気です」
「…では、何故絵里を忘れた?
何故、君に会いに行った絵里を迎えに行くことはできなかった…?」
悲しげに声を震わせてそう言う絵里のお父さんの心の叫び。
その質問に答えられるのだろうか。
あたしの記憶消失で、誰かを責めることなど出来るのだろうか。
あたしはさゆを責められない。
そして、自分も責められない。
- 617 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:34
- 「あの時のあたしに何が起きたのか、あたし自身もよく分かっていません。
説明をすることは難しいと思います。けれど」
あたしはじっと三人を順番に見て。
「……この先、何があっても、絵里を…絵里への愛を、忘れることはありません。
それだけは約束します」
あたしが誓ったことだった。
絵里の死は必然ではなかった。
この重たい命ひとつ背負って、あたしは生きようと決めた。
辛いこともたくさんあるだろうけれど、絵里を愛していこうと決めたのだ。
「本当よね?」
ずっと黙っていたお姉さんが口を開いた。
長い髪、大きな目、分厚い唇。
絵里には似ても似つかないのに、二人はとても仲良しだったな。
「本当です」
あたしはしっかりと、その負けそうなほどの大きな目に向けて誓った。
- 618 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:35
- 「…絵里のこと、絶対に忘れないで。約束ね」
お姉さんがそう言ってあたしの肩に触れる。
あたしは深くうなずいた。
少しだけ、お姉さんはほほ笑んでくれた。
疲れ切った目で、それでもあたしを許してくれた。
「絵里のこと、たくさん愛してくれてありがとう。
あなたといる時の絵里は本当に幸せそうだった…」
絵里のお母さんが涙をこぼしている。
「あたしも、絵里といる時間は幸せでした」
絵里との時間は、これからも続いていく。そんな気がした。
あたしが忘れなければ、絵里は傍にいると思った。
「この先も、強く生きてくれ。
もう、絵里を忘れることなく…ひたすらに、強く生きてほしい」
絵里のお父さんが、あたしの体を立たせて、肩を掴んであたしに頭を下げた。
肩をとても強く掴まれる。
その手から伝わってくる娘への愛情に、あたしは涙をこらえるのに必死だった。
「……はい…!」
- 619 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:35
-
+++
- 620 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:36
- 『吉澤さんは…エリのこと変だって、気持ち悪いって思いますか』
あたしは初めから同性愛者だったわけではなかった。
絵里に出会うまでは数人の男性と交際をしてきた、ごく普通のその辺にいる人間だった。
けれど絵里に出会い、あたしの世界は変わった。
『吉澤さんを初めて見た時から、全部に見とれて。…エリ、同性愛者なんです』
告白するのにはどれだけの勇気が必要だっただろうか。
泣きそうな目で。
男の人を好きであれば人並みに幸せだっただろうかわいらしい容姿の少女は、
女のあたしにすべてを告白した。
『…やっぱり、吉澤さんを愛する気持ちは許されないものですか?』
驚いたあたしは、それでも絵里に対して気持ち悪いと感じることはなかった。
絵里だから、だと思う。
- 621 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:36
- それまでは、恋愛なんて求めるものだと思っていた。
でも絵里は求めたい気持ちを必死にこらえて、ただあたしに愛情を注いでくれた。
きっと愛されたいだろうに、あたしを懸命に愛してくれた。
初めは何か下心があるんじゃないかと疑ったりもした。
尋ねると、下心のない恋愛なんてありませんとはっきり言われた。
けれど、その後に絵里は続けて言った。
『でも、恋人になりたいから今こうしてるんじゃなくて。
…ただ、吉澤さんを愛したいから愛してるだけなんです』
そう言って、はにかんで笑った。
あたしの心のどこかがきゅんと緊張するように苦しくなる、絵里の笑顔。
それはとてもつたなくて真っすぐな愛情。
他人にそんな愛情を注がれたことのなかったあたしは、戸惑って、
それから…たまらなく幸福な気持ちに包まれた。
『よしざわさぁん、お弁当作ってみました!自信作ですよっ』
『よーしざわさぁん、…ちょっと隣失礼しまぁす』
『…吉澤さんの近くにいられるだけでこんなに幸せになれるんですよ』
『…大好きです…!』
いつしか。
愛されているうちに、愛してた。
なんだかあたしはいつもそんな感じなのかな。
自分の気持ちに鈍いのかな。
さゆにも、そうだったよね。
- 622 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:37
-
+++
―――
+++
- 623 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:37
-
+++
- 624 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:37
- 「吉澤さーん、これお願いしていい?」
「あ、いいですよー」
あの白昼夢のような日々。
あれから何年か過ぎた。
あたしはごく普通の中小企業に就職して、
とりわけ目立ちもせず仕事をこなしながら一人暮らしをしていた。
日常が戻ると物足りなさにでも包まれるのだろうかと不安にもなったけれど、
あたしにはもうその症状は出なかった。
「吉澤さん、よく働くね、お疲れ様」
「あ、ありがとうございます」
隣で一緒に仕事をする石川さんがお菓子をくれた。
石川さんはどこか雰囲気が絵里に似ていて、落ち着いた声色がなんだか懐かしさを感じさせる不思議な人だった。
隣になってから長いのでずいぶん仲良くなった。
たくさん話すことも増えた。
恋人についても聞かれたりした。
「吉澤さんは好きな人とか彼氏とかいないの?」
「いますよ。好きな人」
「へえー誰?わたしの知ってる人?」
「いえ。…知らない人です。でもみんなに知ってほしい、あの子のことは」
思い出すたび笑顔になれるから、あたしは一人で生きていけた。
- 625 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:37
- 絵里。
あたしは大丈夫だよ。
絵里の思い出がいつも隣にいるから。
けれど。
…時々思い出してしまう。
あの日々は幻なんかじゃなかった。
あたしの心に甘く疼く傷を残している。
…さゆ。
きっと忘れたり出来ない。
今でも、ちっとも色褪せずに笑っているんだもん。
不思議なほどに。
- 626 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:38
-
+++
- 627 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:38
- 「ねえ吉澤さん、今晩一緒にご飯食べに行かない?」
「はい、いいですよー」
「ほら!ふふ、すっごいお得なの」
石川さんがクーポン券を持って嬉しそうに笑っている。
あたしはなんだか絵里みたいなその笑顔にふと微笑みが漏れる。
会社を出て外を歩く。
もう夜になっていて、風がひんやりしている。
「寒いね」
「うん、ちょっとこたえる…寒さは」
「痛いですか?」
「大丈夫。ちょっとだけゆっくり歩いてくれる?」
「はい」
石川さんは少しだけ歩くのが覚束ない。
生まれつきなのか、何かあったのか、あたしは聞かないし石川さんは言わないから知らないけれど。
「ねえ、私の名前ってどう思う?」
唐突に石川さんは私にそう問いかけてきた。
- 628 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:39
- 「え?…石川さんの名前…梨華、ですか?」
「うん」
「…そうですね、かわいいと思いますよ」
「それだけ?」
「それだけ…って」
りか、は何となくえり、に響きが似ているような気さえしてくる。
絵里の本当のお姉さんより絵里に似てるかもしれない、石川さんって。
「…なんだか、懐かしい感じがします」
「…そう」
石川さんがふんわり笑う。
ああ、そうだ。
声が似てるんだ…絵里のお姉さんと。
圭織さん…会ってないけど、元気かな。
- 629 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:39
-
「あっ!」
高い悲鳴のような声が聞こえて、それからべしゃっという音が聞こえた。
20メートルほど先で、誰かが転んだようだった。
その拍子にスーパーのレジ袋からじゃがいもや玉ねぎが転がりだしてきた。
あたし達から見て上り坂のこの道だから勢いよく野菜たちが転がり落ちてくる。
「あー!すみませんすみませんっ、取ってくれますか!?」
…あれ。
この、声。
あたしは体が固まって、じゃがいもがあたしを通り過ぎた。
- 630 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:40
- 「はーい、って吉澤さん?…どうしたの?あ、あーっ、やだ待って!」
石川さんの声が遠ざかっていく。
あたしはまっすぐに坂の上を見ていた。
起き上がってレジ袋を持ち直し、こちらに向かってきた影も…固まった。
あたしは、ゆっくりと。
その影も、ゆっくりと。
街灯のあるところまで自然と引き寄せられて。
互いを確認するかのように。
わかっているのに、信じられないから。
ちゃんとこの目で。
白い光に照らされて、人形のような造形が浮かび上がる。
あの日々のように非現実的ではなく、
パーカーにデニム、髪を二つに結った彼女はどこか不思議だった。
彼女も大きく目を見開いて、あたしを見ている。
「…吉澤さん……」
「さゆ…どうして、ここに…」
- 631 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:40
-
「……吉澤さんっ…!」
唐突に抱きつかれて、あたしは懐かしさがこみ上げる。
さゆの匂い。
間違いない。
さゆがいる。
ここにいる。
「さゆ…」
「吉澤さん、吉澤さん、会いたかった!」
「さゆ…あたしも」
「毎日毎日吉澤さんのことばっかり考えてた…」
「………あたしも」
この数年、毎日絵里と同じくらいにさゆがあたしの心を占有して。
二人はいつも同じくらいあたしの心の中で笑ってて。
それは幸福なのか何なのかわからないけど、なんだかほほえましかった。
本当に二人を愛している自分の心を感じていた。
- 632 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:40
- 「さゆみ頑張ってるよ…?っ今、一人で全部暮らしてて…
アルバイトも初めて、お料理だって、洗濯だって…」
「……さゆ、一人暮らししてるの?」
「さゆみ…バカだから、いっぱい失敗しちゃって…
でも爺やも誰も呼ばないで、自分で何とかしたよ?
吉澤さんといつか一緒に暮らす時に、おいしいご飯作れますようにって…」
涙目のさゆがあたしを見上げる。
そこには、いじらしくて純粋なさゆがいた。
あのころのままのさゆがあたしを抱きしめていた。
「吉澤さんは?強くなった…?」
「…うん。そのつもり。もう死のうなんて思わないよ」
「さゆみはどうかな?…さゆみ、強くなったかな?」
「ひとりで生きてるんでしょ?すごいじゃん。さゆ、本当にえらいね…
あたしのために頑張ってくれて、ありがとう」
頭をやさしく撫でると、さゆの大きな目から涙が一滴零れ落ちた。
- 633 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:41
-
「もぉ…吉澤さんのこと、迎えに行く日はさゆみの二十歳の誕生日って決めてたのに。
けっこう早いよ、吉澤さんのばかぁ…」
怒ったように、頬を膨らませるさゆは困るほど愛らしい。
少し大人になって細くなった気がするけど、そういう愛らしさは少しも色褪せていなかった。
「ちょっと、あたしが悪いの?」
「だって。……でも、これって運命だよね?神様が許してくれたんだよね?
もう一緒になれますよって、充分強くなれましたよって」
「…かもね」
ふ、と笑い合う。
こんな気持ちになるのは久しぶりだった。
「……大好き。大好き。吉澤さんを好きな気持ちは全然変わってないよ」
「あたしも…こんなにさゆが好き」
あたしは、さゆをきつく抱きしめる。
さゆもあたしをきつく抱きしめると、切なくなった。
絵里とは違う抱き心地。
たぶん一生あたしは絵里を忘れない。
忘れることなんてできない。
絵里を忘れずに、さゆを愛していくんだと思う。
そんな風に、前向きに生きていける。
さゆに出会った頃…あの時出来なかったしわからなかったことが
今はなんだかよくわかるし、きっと出来る気がした。
- 634 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:41
-
「さゆ」
「………吉澤さん」
あたしは。
目を閉じて…さゆを心いっぱいに感じて。
どっ。
「―――――」
――――――さゆごと崩れ落ちた。
- 635 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:41
- 「きゃっ…」
どしゃっ。
ごとごとっ。
ごろん。
ごろん。
何かが転がっていく音がする。
それが一度拾われた野菜がもう一度コンクリートに転がった音だと気がつくのはもう少し後。
「吉澤さん…?」
さゆの腕の中で、空へと目を向ける。
ひんやりとしたコンクリートと、あたたかいさゆと。
熱い…熱い、背中。
流れ出ていくのがわかる。
「吉澤さん、どうしたの?吉澤さん…?吉澤さん」
さゆがだんだんと違和感に気づいて、あたしの見ている方を見た。
- 636 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:42
- 「…しぁ……さ…?」
声が出ない。
石川さんが、笑って立っていた。
その手に握られているものが光って、何かを垂らす。
「あ……あ…ぁあ…いやあぁぁああああぁああああああああああっ!!!」
すべてを悟ったさゆが、絹を裂いたような大きな悲鳴をあげて。
「いやだ、やだ!やだぁ!吉澤さん、しなないで、よしざわさ…っ!!!」
さゆの涙が頬に降ってくる。
石川さんは笑っている。
どうして、石川さん…が…あたしを?
- 637 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:42
-
「ねえ、梨華の『り』は絵里の『り』」
「…」
「…ここでクイズ。梨華の『か』は?」
「…か……?」
…『か』。
あたしはぼんやりと感じていた今までの違和感と既視感の答えを見つけた。
……あ。
そうか。
そうだったんだ。
やっぱり、この懐かしさは。
「………かお、り…さん?」
さゆが泣き叫ぶ中、石川さん…圭織さんが、笑った。
- 638 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:42
- 「この顔、素敵でしょう?絵里と私を合わせて作ったの。
背も低くしたら…声を変えるお金がなくなっちゃったんだけど」
「……かお…り…さ…」
「でも、全然気が付いてないみたいだから、あなたって本当にバカね」
「………んで…」
顔も。
背すら変えてまで。
あたしのそばで。
あたしを。
「絵里を忘れないって約束だったよね?ずっと見張ってた。
なのに今、絵里のこと忘れてたでしょ」
「え…?」
「大切な大切な約束を破るんだもん、針千本じゃあ足りないくらいよ」
圭織さんの目が冷たくあたしを射抜く。
…忘れる?
違う。
違う。
忘れてなんか、いない。
- 639 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:43
- 「絵里を忘れないって約束したのに、吉澤さんだけ幸せになるの?
あなたが絵里を忘れたら、本当に絵里は死んじゃう。
だから、あなたを絵里のところへ連れて行ってあげるね。
絵里もきっと喜んでくれると思うんだ」
圭織さんは笑った。
とてもうれしそうに、高く笑った。
「絵里!絵里、見てくれてる!?今そっちにあなたの大切な人連れて行ってあげる!
お姉ちゃんこんなことくらいしか出来なくてごめんね!」
「…か……」
違うんだよ…かおりさん、きいて。
「あははははははははははははははは!やったね、絵里!」
あたしの声は届かない。
- 640 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:43
- 「絵里!絵里はここのお店のお料理は何でも大好きだったよねぇ…
締めには絶対に和風パフェをぺろっと平らげて…絵里は…」
圭織さんは転がったジャガイモをそのままにして、クーポン券を揺らしながら去って行った。
あははははは。
あははははは……
いつまでもいつまでも、笑っていた。
圭織さんをそんなに追い詰めていたなんて知らなかった。
あたしは何も知らなかった。
あたしはやっぱり、罪深いね。
ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
- 641 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:43
-
どくん。どくん。どくん。
自分の心臓の音がやけに大きい。
…ああ。
耳が。
遠い。
さゆの泣き声が遠くなってきた。
体が震えてきた。震えというより、痙攣のような。
「吉澤さん、吉澤さん…吉澤さん…寒いの?吉澤さん…」
さゆが一生懸命あたしを抱きしめる。
震えの止まらないあたしの体を抱きしめて泣いていた。
ああ、やっぱりさゆはさゆ。
こんな時に救急車の呼び方も知らないさゆがなんだかすごくすごく…いとしくて。
それに、今はゆっくり二人でいたい気分だった。
穏やかな気持ち。死にたくはないんだけど、仕方がないなって感じ。
- 642 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:44
- 「どうして吉澤さんなの?…死ぬのは、さゆみじゃないの?
全部さゆみが壊したのに…!どうしてどうしてどうしてどうして」
「……さゆ……だいじょう、ぶ…さゆは、つよい……」
「さゆみは強くなんかない…吉澤さんと離れてる間、ずっとずっとさびしくて死んじゃいそうだったのに…
ねえ…うぅ…っ…!いなくならないでぇー…おねがいよしざわさぁん…うわぁああああん、うわぁああああ」
さゆが泣いてるのに手が上がらない。
涙を、拭いてもあげられない。
ただ笑うしかできない。
あーあ、あたしはなんでいつもこうなんだろう。
「さゆ…待ってる、か、ら………もっと、つよい、さゆ…しっかり生きた…さゆ」
「うっ、うっ、うっ…くぅ、うううう、うぅう、っううう」
「さゆは、ちゃんと…えりの、とこ、いって…あげてくれない?
あたしは、じご、く…だから……えり、…さびしいから……」
「うん……っ!わかったから、わかったから、死なないよね?吉澤さん死なないもん。吉澤さんは死なない!」
「あははぁ、…しな、ないよ…?」
- 643 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:44
- 笑ってるとだんだんさゆが見えなくなっていった。
さゆが何を言ってるのか。
自分が何を言ってるのか。
わからなくなっていく。
「……さゆ………」
出会えて良かったと。
後悔なんてしないと。
さゆを不安にさせないための言葉がもう何も出てこない。
「………ゅ……」
「吉澤さん……!ねえ、こっち見て…さゆみのこと、見てぇ…!!!」
- 644 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:45
-
静かだなあ。
久しぶりだ、この感じ。
世界に二人だけしかいないみたいな感じ。
- 645 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:45
-
あたしの世界に最後浮かんだのは、絵里とさゆとあたしとでふざけ合う、そんな欲張りな景色。
- 646 名前:6 投稿日:2008/09/28(日) 20:45
-
- 647 名前:エピローグ 投稿日:2008/09/28(日) 20:46
-
+++
- 648 名前:エピローグ 投稿日:2008/09/28(日) 20:46
- 「さゆみ、お葬式って出るの初めて。不思議なにおいがするね、この紫のお香」
じじじ…ぽろ。
ぽとん。
「なんだか…落ち着く。この、畳っていうものも…いい匂い」
さら、さら。
「……さゆみね、自首するよ」
さら…
「それでどうなるのかなんてわかんないけど」
ざっ。
「それでちゃんと罪を償って生きて、強く生きて、天国に行って亀井さんに会うよ」
ざっ、ざっ。
「吉澤さんのお願い二つも聞いてあげないなんて意地悪すぎるもんね」
がらがらがらっ。
「………じゃあ行こっか吉澤さん、今日こそはおいしいご飯作るんだから。見ててね、ちゃんと」
ぴしゃん。
すたすたすた……
- 649 名前:世界にふたり 投稿日:2008/09/28(日) 20:47
-
世界にふたり
END
- 650 名前:幹 投稿日:2008/09/28(日) 20:49
- 以上で、「世界にふたり」は終了です。
更新が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
このような非常に趣味に偏ったお話にお付き合いいただきありがとうございました。
次にまたどこかでお会いできる日を楽しみにしています。
>>605さん
ありがとうございます。
このような結末となりました。いかがでしたか?
- 651 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/29(月) 00:49
- 更新お疲れ様です。
最後は驚きました。まさか…でしたよ。
次回またお会いできる日を私も楽しみにしてます。
お疲れ様でした。
- 652 名前:見学者 投稿日:2008/09/29(月) 01:45
- 621の亀井さんの台詞が心にぐっときました。
それにしても、こういう結末になりましたか〜。予想外でした。
一つの『愛』って、周りの人たちの運命にも大きな影響を与えてしまいますね。幸せになるって難しい。
こちらの作品もとてもよかったです。実はエターナルクスも読んでました(笑)
ごちそうさまでした。
ログ一覧へ
Converted by dat2html.pl v0.2