はらり……舞い落ちる
1 名前:; 投稿日:2007/01/16(火) 01:57

「電気つけるか帰るか、どっちかにしなさい」
様子を見に来た美術教師が、顔を覗かせていたドアを閉めた。
2 名前:; 投稿日:2007/01/16(火) 01:58
再び静寂が訪れた美術室でひとり、梨沙子は小さく首をふった。
一向にはかどらない進行と自分自身に、苛立っている。
目の前に立ててあるキャンバスから視線を外し、膝元のスケッチブックを開いた。
梨沙子は、卒業制作のために中学校棟の美術室を借りている。

共用のグランドを挟むようにして、小学校棟と中学校棟が向かい合っている。
梨沙子はあと数ヶ月で、小学校棟から中学校棟に移る。
卒業制作は、軽はずみに口にしたものだ。

校舎際に泡立っていた談笑の音が遠ざかっていく。
部活を終えた生徒たちが着替えを終えて帰っていくのだろう。
3 名前:; 投稿日:2007/01/16(火) 01:58
梨沙子は大きく息を吸う。
「あー」
叫ぶくらいの大きな声を出そうと思ったが、出なかった。
慣れない中学校棟に、どこか緊張している。
再びキャンバスを見つめる。
首をかしげた。
何も思い浮かばない。

今日は雅は来るのだろうか。
一年先に中学生になった雅は、クラスメイトを連れてきては
梨沙子を自慢げに紹介していたが、そのうち来る回数がめっきり減った。
どうせ近所だし、会おうと思えばいつでも会えるからとは思っていても、寂しい。

しんと美術室の空気が一段沈んだような気がした。
手元が見難いくらいだ。
窓の外は藍色の向こうに闇が霞み、そのずっと奥にはぼやけたオレンジが広がっている。
もう夜が来る。
隣接している美術準備室の電気が点いた。
4 名前:; 投稿日:2007/01/16(火) 01:58
梨沙子はため息をついてスケッチブックを鞄にしまい、
キャンバスを棚にしまって美術準備室に向かった。
「先生ありがとうございました」
すっかりおざなりになった挨拶だが、軽く頭をさげて帰ろうとする。
「ちょっと待って梨沙子ちゃん。お菓子たべていかない?」

梨沙子は断りきれず、美術教師に差し出された椅子に座った。
この人は美人だけどどこかが変だから怖い。
美術室がほしかったから教師になったなんて言う人を信じてはいけない。
警戒心は十二分にあるのだが、無条件に優しくしてくれるこの若い教師に逆らえない。

「どう? 進んでる?」
答えのわかりきった質問に、梨沙子は黙って首を振った。
美術教師も返答はどうでもいいようで、にこにことお菓子を山積みにさせていく。
梨沙子は目のはしに映った限定と書かれた包装紙をつまみ、剥いた。
「明日は先生も一緒に描いていい?」
お菓子が梨沙子の口に完全に入ったのを確認して、美術教師は聞いた。
食べている最中に首を振れない梨沙子は、曖昧に頷いた。
美術教師はうれしそうに笑い、もう遅いから送っていってあげようかと言った。
5 名前:; 投稿日:2007/01/16(火) 01:59

中学校棟を出るときは、入るとき以上に緊張する。
この時間にもなると学校に残っている生徒が少ないため、私服の梨沙子は異様に目立つ。
自分よりも年上の、どこか威圧的に感じる好奇の視線が嫌いだった。

梨沙子は使われなくなった下駄箱で靴を履き替え、そっと玄関を出る。
玄関脇で、男女数人が円になるようにして笑っている。
制服姿と、ジャージ姿が半々だ。
「おう、梨沙子ー」
やわらかで穏やかな声だが、無遠慮なほどにまっすぐな声に
梨沙子は丸めていた背中をびくりとさせた。
6 名前:; 投稿日:2007/01/16(火) 01:59
舞美だ。梨沙子は困ったような笑顔で、衒いのない笑顔を受け入れる。
「今日も美術室?」
「うん。そう」
「ふーん。そうなんだー」
「そうなの」
「あたしも美術室行こうかなー、とか言って」
舞美は自分で言ってけらけら笑った。
梨沙子は少し見上げるような格好で、舞美を見る。
透き通って破けてしまいそうな白い肌に、幾筋もの汗の跡が見える。

「舞美ちゃんは部活?」
どうにか、声を出した。
「うん、そう! 今日も走った」
快活で単純で、裏など何ひとつないような舞美だが、梨沙子は苦手だ。
どこまでも勝手に踏み込まれてしまうのではないかと、距離を置いてしまう。
そこに悪意があるのかないのか、梨沙子にはまだわからない。

玄関から、からだの大きな男子学生の集団がぞろぞろと出てくる。
披露に足取りは重いが、どことなく漲った、隙のない印象を与える。
梨沙子は思わず、舞美の後方に隠れた。
「大丈夫だよ。ただのサッカー部」
頭を下げられた舞美は、にこやかに手を振っている。
7 名前:; 投稿日:2007/01/16(火) 01:59
じゃあ行くね、舞美は元いた仲間のところに戻った。
梨沙子は放り出されたような不安を覚えながら、グランドへ歩き始めた。
体育の授業などで使っているグランドまで来れば、安心できる。
まだ浅い夜を反射した青白い土を踏みしめて、梨沙子は歩く。
おぼろげなイメージで、像を結ぶまではいかないが何か浮かんできそうだ。

「梨沙子ー。やっぱ一緒に帰ろう?」
舞美がふわりと跳ぶように走ってきた。
汗を掻いているが、息は切れてない。

ほら、やっぱり。舞美はわたしの邪魔をする。
梨沙子は歩を緩めずに進んだ。
ペースを乱さなければ、さっきの続きができるかもしれない。
「どうせ校門出たら、わかれちゃうけどねー」
梨沙子の思いなど露ほども気付いていないような舞美が、並んだ。
「昔はさー、けっこう一緒に帰ったよね」
8 名前:; 投稿日:2007/01/16(火) 02:00
梨沙子は小学二年生で、舞美は小学五年生。
ふたりとも、夏休み明けにこの学校に転校してきた。
お互い転校生同士、廊下ですれ違えば話をしたり、待ち合わせて一緒に帰ったりもした。
他に何人か一緒に入った生徒もいたが、学年もばらばらで付き合いのある生徒は少ない。

「じゃあ、また明日ねー」
「うん。ばいばい」
梨沙子は、舞美が振り返るのを一度だけ確認して、背を向けた。
全く別方向の帰路につく。

いつの間にか疎遠になっていったのは、地理のせいもあるだろう。
学校は同じだが、使う駅は別々だ。
会うきっかけは学校しかなく、学年もちがうふたりは、
それぞれに居場所を見つけ、たまに見かけて挨拶をしあう程度だった。
それも、舞美が中学校に進学してから途絶えた。

またこうして会うようになったのは、梨沙子が美術室通いを始めてからだ。
9 名前:; 投稿日:2007/01/17(水) 01:53



10 名前:; 投稿日:2007/01/17(水) 01:53

物忘れにおろおろしたような冬の雨の中、梨沙子はグランドを突っ切った。
固められた土がぬかるみ、真っ赤な長靴にかき混ぜられた。
中学校棟に入り、廊下を抜けても、湿気はまとわりついている。
梨沙子の明るく染めた髪が、ゆるく巻いている。

中学校の授業はまだ明けていない。
授業教室の近くを通らないよう遠回りし、角を曲がれば美術室というところで千奈美に会った。
「梨沙子なにしてるの?」
いつもの人懐こい笑みではない。
黒目がちの瞳が困惑したように梨沙子を見つめている。
「ちなこそ、授業は?」
「しーっ」
「あー、サボったんだー」
梨沙子の非難めいた声は、思いのほか大きく出た。
慌てを人差し指では抑えきれず、千奈美は梨沙子の口を手で覆った。
11 名前:; 投稿日:2007/01/17(水) 01:54
騒がないと目で訴えても、梨沙子は信用されていない。
口を手で覆う千奈美を引きつれ、美術室に入った。
「なんで梨沙子がいんのぉ?」
「先生に借りたの」
梨沙子は不機嫌を隠さずにむくれ、たらたら準備を始める。

チャイムが鳴り、静けさに淀んでいた校舎に声が広がった。
「そんなりーちゃん怒らないでよ」
「怒ってないもん」
「本当に?」
「うん」
千奈美は目を細め、美術室を後にした。
「わたし帰りの会に行くから。またね」
梨沙子はだらしなく笑顔を見せ、千奈美を見送った。
広い美術室にひとり、準備を終え、窓の外に目をやった。
雨が降っている。
12 名前:; 投稿日:2007/01/17(水) 01:54

生徒の気配がほとんど消えた頃、美術教師が入ってきた。
手際よく準備を進めるその女を、梨沙子は視線を悟られないよう横顔を見つめた。

人を寄せつけない美しさがあるが、雰囲気のせいか刺々しさがぼやけている。
きれいに整えられた髪の向こうに、ルージュの引かれた唇が見え隠れする。
美術教師の動作のたびに女の香気が梨沙子の胸を苦く満たした。
友達の母親でもおばさん先生でも道往く女でもない、梨沙子が初めて目にする女だ。

梨沙子は目の前のキャンバスに視線を戻し、筆を持った。
昨日のイメージを引き上げようと頭の中を探るが、何も出てこない。
代わりに舞美の幸福そうな顔が浮かんできて、梨沙子はそれを振り払った。
13 名前:; 投稿日:2007/01/17(水) 01:54
美術教師は迷いなく、淡々と一定のリズムでキャンバスの白を消していく。
載せられていく色をぼんやり眺めていると、右手の薬指に指輪を見つけた。
なめらかな指先には、派手じゃない程度にマニキュアが塗られている。
自然な色合いの美術教師の指に、主張するようなきれいな指輪。

何かが揺れ動いたのを感じたのか、美術教師は梨沙子を向いた。
梨沙子はなんでもないと言ったように曖昧に笑い、首を振った。

「もう描くものは決まってる、んですか?」
梨沙子がぎこちなく喉を震わせた。
美術教師は気にする素振りもなくキャンバスに向かったが、
先ほどの嫌な間が、梨沙子の中でくすぶっていた。
「決まってるよ。わたしの中に、いつもあるもの」
言い切った美術教師の相好が、かわいらしく崩れた。
梨沙子はつられたように頬を引き上げる。
14 名前:; 投稿日:2007/01/17(水) 01:55
借りた小さな画集分だけ重くなった鞄を肩に、梨沙子は玄関に降りた。
雨はまだ降り続いている。
白銀灯に光る雨が、美術教師の指輪を連想させた。

キャンバスに貼り付く絵具の音だけを聞いて一日を終えた梨沙子に
美術教師は特に何も言わず、自身の集中力が切れる少し前に作業を切り上げた。

梨沙子は下駄箱のサイズに合わず、ひしゃげた長靴を引っ張り出した。
指についた水滴を祓う。
今日は舞美はいなかった。
15 名前:; 投稿日:2007/01/22(月) 02:05





16 名前:; 投稿日:2007/01/22(月) 02:06

「今日もゴルフ?」
「うん、ゴルフ」
窓に映した自分を見つめ、丹念に前髪を撫でていた愛理が答えた。
梨沙子と愛理は、ちょうど同じ時期に転入してきた。
安穏で人に対してこだわりのない愛理の性格もあってか、二人はずっと仲がいい。
愛理の遊び相手はたくさんいるが、鈴木さんじゃなく愛理と呼ぶ梨沙子と遊びたがる。

週末は大体、どちらかに予定が入らない限り、一緒にいることが多い。
ここ一年は特に、梨沙子は週末は学校を挟んで、ちょうど逆側にある愛理の家にいる。
父親に付き添って全国をまわるのは疲れるし、飽きたと愛理は言う。

「愛理も行けばよかったのに」
家族で行ったら楽しいだろうにと、梨沙子は不思議でならない。
愛理はよく、家族の話をする。
「今日も泊まってく?」
「うん」
返事の代わりに梨沙子を誘った愛理は、再び窓の中に目を落とした。
17 名前:; 投稿日:2007/01/22(月) 02:07
「プロゴルファーって普段なにしてんの?」
梨沙子が膝元に置いていた画集を閉じた。
「よくわかんないけど、けっこう家にいる」
「土日は試合に行っちゃうんだ」
「いろいろだけどね」
愛理は梨沙子の追求を退けるように、野太い声で伸びながらベッドに倒れる。
答えられないわけではないが、梨沙子のなぜ? は面倒だ。
おどけて逃げた。

窓の向こうのぼんやり薄い青空に、梨沙子は大きなあくびをした。
涙をにじませ、吸った息をすべて吐き出した。
なめらかな動作で、ベッドに入った。
愛理が首を傾げて甘く笑む。
意味ありげににやけた梨沙子が転がる。
追いやられた愛理が嬌声をあげてのけぞった。
舞った埃が、ふたりの笑い声に震えて黄金色に輝いている。

「やっぱり卒業制作、一緒にやろう?」
ほんのひと時テンションのゆるんだ隙間に愛理が切り出した。
切実な雰囲気に梨沙子が、俄かに口の端を歪ませる。
自分でもうまく把握できていないことを、他人に伝えられない。
18 名前:; 投稿日:2007/01/22(月) 02:08
怯えたような表情の愛理に、梨沙子は少ない語彙の中から言葉を探す。
沈黙ではない無言が続く。
人の足音と車の排気音が絡まり、過ぎると同時に消えていった。
「みんなも梨沙子のこと待ってるのに」
「みんなって?」
梨沙子は愛理とよくいる面子を思い浮かべた。

「みんなって、みんな……」
「うん」
「美術室なら、小学校にもあるし」
あれは図工室だと思ったが、言わなかった。
「中学校のじゃないとダメなの?」
愛理と友達と図工室で、だめな理由はない。
ただ、一人で、自分でなにかを決めて完成させたかった。
中学校の説明会で美術教師に声をかけられ、今に至った。
19 名前:; 投稿日:2007/01/22(月) 02:08
梨沙子は、見つけようのない返答に困ってはいるが、この空気は嫌いじゃない。
目を合わせると、互いの感情が行ったり来たりする。
今にも泣き出しそうに見える愛理には、ある種の痛切さがある。
悲しませているのだろうかと思うと、自然に笑みが零れた。

誰も気に病む必要はない。
「本当になんでもないんだって」
少し強めに言うと、愛理は安心したように息を吐いた。

話は終わったが、愛理にはもっと正確に状況を伝えたかった。
思考を巡らせているうちに、まどろみに吸い込まれていった。
20 名前:; 投稿日:2007/01/22(月) 02:08

目を覚ました梨沙子は、白くふくらむ蛍光灯の光に毛布をかぶり直した。
家とはちがう感触に、周囲を窺う。
引かれたカーテンには夜が張り付き、膝を折って座った愛理がゲームをしていた。
「おはよう」
「どれくらい寝てた?」
「三時間くらいかな」
画面をポーズさせた愛理が、確認に時計を見た。

梨沙子はベッドから下りようとしたが、そのまま腰掛けた。
寝てすっきりしたせいか、愛理もそのように見える。
「さっきそんなゲームあったっけ?」
指を差して、聞いた。
心なしか口調も軽い。
「弟の部屋から持ってきた」
「おなか減った。コンビニ行こう?」
一緒にゲームとは言わない。
前に自信を持って愛理のぷよぷよの挑戦を受け、大敗して以来だ。
21 名前:; 投稿日:2007/01/22(月) 02:09
部屋を出る間際、愛理が半身をひねった。
「親に言わなくていいの?」
「今メール入れた」
親は最初のうちこそ反対していたが、言うことを聞かない梨沙子に声は小さくなっていった。

リズムよく階段を降りる愛理のあとを、梨沙子が追う。
玄関に向かう途中に、居心地の良さそうな広いリビングがある。
主のいないリビングは静まり返り、愛理の部屋とはまるで違う印象を受けた。

「こっちで食べる?」
愛理が振り返った。
梨沙子が首を振る。
エアコンのスイッチに手を伸ばしていた愛理が、そのままリビングを突っ切った。
22 名前:; 投稿日:2007/01/22(月) 02:09
「中学入ったら、部活やる?」
並んで靴を履いているとき、愛理が聞いた。
「まだ考えてない。愛理は?」
「わたしも、まだ」
梨沙子は、愛理の言葉の端に甘えが含まれているのを感じた。

先に外に出た梨沙子は身をふるわせた。
「でも、土日がなくなるのって、やだよねー」
「うちもそれが嫌で考えてないんだよね」
鍵をかけた愛理が、声を弾ませた。
「なんか入りたいとこあるの?」
「土日ないの嫌だから、考えてない」
「なにそれ」
「だってしょうがないじゃん。髪切るのも嫌だし」

愛理のもごもごした口調がおかしくて、梨沙子が笑う。
そして、少し大人ぶった表情で、
「いいんじゃない? このままで」
と乱暴に言い捨てた。
嬉しそうに愛理が、そうだねと頷いた。
23 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/22(月) 02:56
おもろ〜い
B工いいッス
最高ッス
24 名前:; 投稿日:2007/01/23(火) 02:12





25 名前:; 投稿日:2007/01/23(火) 02:12

掃除当番で遅くなった。
センチメンタルのせいか、つい話し込んでしまった。
中学校棟の視線、言葉が、胸に轟く。
梨沙子はうつむき、人の少ないところを探して歩いた。
似たような校舎でも、廊下の色がちがうだけで恐怖に近い緊張がある。

おい、と舌を巻いたような声に肩をつかまれ、梨沙子は凍りつく。
引いていく血の気と、強く激しくなっていく動悸が不快だった。
これから起こるだろうことを想像し、後悔にからだが硬直した。
「なにビビってるくせに、中学校まで入ってきてんだよっ!」
すぐ目の前で、茉麻が笑っていた。
「なんだ、まあかー」
安堵に、梨沙子の口がだらしなく開いた。

茉麻がずっと隣にいた友理奈に、梨沙子を突き出した。
「こいつビビってるぅ!」
言葉遣いも態度も乱暴になっていく茉麻の力にも、梨沙子は逆らわない。
茉麻は絶対に痛くしないと知っている。
「びびってなぁいもんっ!」
途端に威勢がよくなり、叫んだ。
26 名前:; 投稿日:2007/01/23(火) 02:13
話半分だった友理奈が、切り出した。
梨沙子は友理奈の勢いに、半身になった。
「それより梨沙子知ってる?」
「知らない」
「だよねー。お相撲さんがね、騙されて納豆40個も食べたんだって!」
「ふーん」
「ね? すごくなーい?」
梨沙子がキョトンとして茉麻を仰ぐ。
「まぁはべつにテレビなんかどうでもいいから怒らないけどね。納豆、体にいいんだし」
ふひーひひひひぃ、梨沙子がおかしな息をもらす。
「でもこれ、ニュースだよ?」
「放送する?」
茉麻と友理奈は、放送委員だ。
「しない」
言って、友理奈はからだを折るようにして笑った。

これから部活だと言う二人を見送った梨沙子は、数度首をかしげた。
茉麻は放送委員だと言い、友理奈は放送部だと言った。
いつも私服で会う二人の制服姿に、軽い違和感を覚え、振り切った。
27 名前:; 投稿日:2007/01/23(火) 02:13

今日も梨沙子はぼんやりと座り、美術教師は変わらぬペースで絵を描き続けた。
美術教師は体調がよかったのか、七時すぎまで筆は休まらなかった。
途中何度か、もう帰りなさいと言われたが、梨沙子は頑なに帰ろうとはしなかった。
他人のことをここまで集中して見たのは初めてかもしれない。

ふうと美術教師が肩の力を抜くと同時に梨沙子は立ち上がり、さようならをした。
送っていく立ち上がった美術教師に、家までは明るい道しかないからと、
明るい道を歩きなさいといつも家族に念を押されていることを思い出して言った。
なにかあったらすぐに飛んでいくから、と携帯の番号を渡された。
28 名前:; 投稿日:2007/01/23(火) 02:14

梨沙子が美術室を出ると、ちょうど舞美が通りかかった。
あ、と梨沙子が立ち止まると、舞美が表情をほどいた。
「やっぱりいたんだ」
「遅いね」
「そう? 大体いつもこんなもんだよ」
舞美は残っている美術教師に気付いたのか、歩き出した。

黙って梨沙子はついていく。
夜の学校は怖いし、知らない人に会うかもしれないのも怖い。

「茉麻が帰るときに会ってね、梨沙子がいるって聞いたんだ」
舞美は半分ほどしか灯りのない廊下を、普通に歩いている。
「いつもこんな遅いの?」
「うーん。こういう日もあるけど、日によって違うかな。今日は長話になっちゃって」
「友達は?」
「先に帰った。わたしは忘れ物思い出しちゃって」
梨沙子は自分も友達と長話になった話をしようと思ったが、しなかった。
どこか舞美には許しがたい部分があるような気がして、それが警戒を緩めさせない。
29 名前:; 投稿日:2007/01/23(火) 02:15
外に出ると、舞美がマフラーに顔をうずめて待っていた。
梨沙子を確認すると、ごく自然に先を行く。
「梨沙子も、もう少ししたらここに通うことになるんだよねー」
「うん」
しょぼくれた声が出た。
「中学校、嫌?」
「やじゃないけど、わかんない」
「わたしは高校楽しみだけどなー」
「なんで?」
「新しいこと、いっぱいありそうじゃない?」
梨沙子はそれが嫌なのだ。

昨夜の雨に、グランドの土が湿っている。
梨沙子はじゃりっと滑る靴底に、眉をしかめた。
ひんやりとした空気が伝ってくるような気がした。
「梨沙子、雨嫌い?」
「あんまり好きじゃない」
「わたしね、雨女なの」
へへへっと舞美が笑う。
30 名前:; 投稿日:2007/01/23(火) 02:15
「そういえばさー、わたしと梨沙子が同じ校舎に通うのも、あとちょっとなんだね」
「わたしは通ってるわけじゃないけど」
「似たようなもんじゃーん」
舞美が振り返る。
並んでいた梨沙子も、同じように振り返った。

小中学校とは別区画に、高校棟がある。
「このまま上がるの?」
「どうなるかわかんないけど、たぶんね」
梨沙子にとって、高校は完全な異世界だ。
あと数ヶ月でそこに行くのが、舞美は楽しみだと言う。
その明るさはどこから来るのか、梨沙子にはわからない。
31 名前:; 投稿日:2007/01/23(火) 02:17
>>23
最高ッスって言われてわたしもサイコーっす!
32 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/24(水) 22:36
私もベリ好きなんで楽しく読ませて頂いてます。
頑張ってください。
33 名前:; 投稿日:2007/01/25(木) 02:36





34 名前:; 投稿日:2007/01/25(木) 02:36

キャンバスを見つめているだけで、何も考えていなかったことに気付いた。
美術室の外は静まっていて、声は聞こえない。
サッカーボールを蹴る乾いた音が響いてくるくらいだ。
梨沙子は立ち上がり、いつもよりずっと丁寧に教室のドアを開け、閉めた。
美術教師の筆が一瞬だけ鈍くなったが、止まらなかった。

視界がひどく狭く、微細に揺れている。
掲示物を見る余裕はない。
梨沙子は引き攣っているだろう自分の顔を想像し、戻りたくなった。
それは自尊心が許さない。
美術教師にカッコがつかないし、自分の意志を無下にしてしまうような気がする。

突き当たり、未知のほうへ折れた。
生徒はいなかったが、気配はする。
教室から伸びたプレートに並ぶ3という数字に、挫けそうになる。
心のどこかで舞美を探していることに、苦笑した。
35 名前:; 投稿日:2007/01/25(木) 02:36
縋るべきものを失くしたような、不恰好な歩き方になっている。
そろそろ進んでいると、教室の見覚えある小さな人影が映った。
鋭敏な感のあるショートカットとまるみを帯びた頬で認識すると同時に、叫んでいた。
「佐紀ちゃん!」
机に座って友達と話していた佐紀がびくんと振り返り、目を丸くさせた。

梨沙子は甘えきった笑顔で、その場で飛び跳ね佐紀を待つ。
入っていく勇気はなかった。
「どしたのー」
廊下に出た佐紀の腕を、梨沙子が両手で掴む。
佐紀も抱きかかえるように、梨沙子の腕を掴んだ。
「最近来てるの」
「美術室?」
「知ってたんだ」
「みやとか、あとこの前、茉麻にも聞いた」
自分の話を余所でされている嬉しさに、梨沙子は照れくさそうに下を向いた。

「あー、梨沙子ー」
少し掠れた、高くて穏やかな声と同時に舞美が顔を覗かせた。
梨沙子のところからは影になっていたが、佐紀と一緒にいた。
「舞美ちゃん」
「最近よく会うねぇ」
舞美は目を細め、親しみを込めて梨沙子を見つめる。
梨沙子は戸惑っているが、悪い気はしていない。
36 名前:; 投稿日:2007/01/25(木) 02:36
ずっと昔に舞美が苦手だと聞いたことのある佐紀が、驚きと共に二人を見比べている。
「なに舞美、梨沙子とよく会うの?」
「うん。なんか最近ねー、よく会う」
ちっとも答えになっていないが、佐紀から困った素振りは見えない。
「舞美ちゃん、部活は?」
「えへへ、今日ねー、サボっちゃった」
とても楽しそうな舞美の笑顔は清々しくて、梨沙子も心がウキウキしてくる。
そういえば、明るいところで顔を合わせるのは、お互い小学生のとき以来だ。

梨沙子は、不思議そうな顔をしている佐紀に言う。
「美術室行くようになったから」
「毎日一緒に帰ってるんだもんねー」
舞美が同意を求めるように梨沙子に目を合わせ、首を傾げた。
自分に向いた勢いを持て余した梨沙子が佐紀の手を掴み、舞美に頷いた。

教室にいる知らない顔が、梨沙子を観察している。
その視線に梨沙子は、平然と構えている。
「二人って同じクラスなの?」
「うん、そうだよー」
舞美が答えた。
「言ってないもん」
佐紀の人を遠ざけた、だが砕けた言い回しに、梨沙子が息を漏らして笑う。
37 名前:; 投稿日:2007/01/25(木) 02:37
「これからカラオケ行くんだけど、梨沙子も行かない?」
舞美の誘いに、梨沙子が佐紀を見る。
来ればいいじゃん、と佐紀は教室の友達に視線をやった。
知らない顔のおいでよという声が、梨沙子を絡め取る。
「ね? 一緒に行こう?」
梨沙子は手を取ってきた舞美の瞳の奥を覗こうと、じっと見る。
優しくて、澄んだ目をしている。
安心できるかもしれないと思った。
いけないことに足を踏み出すような興奮があったが、不安のほうが強かった。

梨沙子は首を振った。
「まだ絵、かかなきゃいけないから」
見栄もあったのかもしれない。
「そっか。じゃあ、また今度みんなで行こうね」
断られた落胆を微塵も感じさせない舞美の笑顔に、梨沙子はホッとした。

舞美の誘いが合図になったのか、教室の友達が鞄を持って立ち上がる。
「じゃね、梨沙子」
佐紀が、いつものような軽い言葉を梨沙子にかける。
一緒に教室に戻った舞美が振り返り、
「また今度ね!」
と手を振った。
梨沙子も手を振り返す。
後悔と安堵と、ちょっと申し訳ないかなという思いを胸に。
38 名前:; 投稿日:2007/01/25(木) 02:40
>>32
ありがとうございます。
ベリ好きの一人として、頑張ります。
39 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/27(土) 20:35
キッズは……ほいく板じゃないの?
40 名前:; 投稿日:2007/01/27(土) 23:41





41 名前:; 投稿日:2007/01/27(土) 23:42

美術教師との距離に慣れてきた梨沙子は、キャンバスには向かわず窓際に立っている。
葉の落ちた木々に邪魔された、うす暗闇のグランドが見える。
十七時ちかくなると、中学生の姿しかない。
サッカー部が休憩に入り、外周を走っていた陸上部がグランドに集まる。

「なに見てるの?」
いつのまにか背後に立っていた美術教師の声に、背筋が伸びた。
美術教師は、口元を緊張させるように笑み、大きな目を丸くさせ、梨沙子に視線を合わせた。
気恥ずかしさを覚えた梨沙子が笑顔でごまかしていると、それ以上は追求してこなかった。

グランドでは、紐を張っただけのトラックのスタートラインに何人かが集まっている。
からだを冷まさないよう各自それぞれ動きながら、顧問の合図を待つ。
その中に、舞美がいた。
遠目からでも、長い手足のすらっとした長身と、軽い身のこなしでよくわかる。
顧問が手をあげ、次の瞬間には腕に巻いた時計を操作して走り出していた。
42 名前:; 投稿日:2007/01/27(土) 23:42
舞美は男子の先頭集団には及ばないが、喰らいつくようなペースで走っている。
「矢島はやいなー」
美術教師が感嘆の声をあげた。
「先生知ってるんですか?」
「まあ、そりゃあね。大体ほとんどのクラス受け持ってるし」
当たり前のことだと梨沙子は照れ隠しにグランドに視線を戻した。

先頭集団から引き離されても、舞美のストライドに変化はない。
女子部員の中では、圧倒的だ。

「梨沙子ちゃん、足速いの?」
「はい」
「ふーん。なんかそんな感じする」
「いや、でも、そんなことないです」
「そうなんだ」
美術教師は梨沙子を愛しいとでも言いたそうに顔をほころばせた。
梨沙子はその表情をどこかで見たことがあるような気がして、記憶を探った。
思考と同時にわき起こる複雑な感情に不安を感じ、グランドに注意を戻した。

梨沙子は舞美のすぐ後方に女子部員がいることに気付いた。
髪が長めの小さな男子かと思っていたが、美術室に向かったとき、顔でわかった。
ペースを上げ、舞美に迫ってきている。
「あれは?」
「うーん、あれ? ……武藤、かな」
美術教師が目を凝らしている間に、舞美を抜き去った。
「女子では二人がダントツだねぇ」
さほど興味もなさそうに、美術教師は作業に戻っていった。
43 名前:; 投稿日:2007/01/27(土) 23:42

最後まで見届けた梨沙子がキャンバスの前に戻ると、美術教師が手を止めた。
「どっち勝った?」
「え? あ、舞美ちゃん。です」
最後の半周ですっとペースを上げた舞美が、そのままペースを上げ続け、ゴールした。
武藤も抜き返そうと粘ったが、舞美のほうが速かった。
「知りあいなんだ」
「ずっと前です。最近になって、また会うようになった」
敬語に変換しきれなかった。
「あの子、高校進学の時期だってのにまだ走ってんだね」
「このまま高校に上がるならいいんじゃないんですか?」
「にしても、普通はみんな夏くらいで引退するものなのよ」
美術教師は眉間に皺を寄せているが、顔は笑っている。

もっと聞きたそうにしている梨沙子に、美術教師はさらに話を進める。
「矢島ってけっこう目立つ子なのよ。見てくれもああだし、足も速いでしょ?
それでいて面倒見いいし。男女問わず好かれてるみたいなのよねぇ。
基本的には素直だから、先生受けもいいし」
顎に指を当てて話していた美術教師は、
「先生がこういうこと言うのはまずいか」
と梨沙子に笑いかけ、その表情を確かめてから筆を取り直した。
もう、話しかけられそうな雰囲気ではない。

梨沙子はスケッチブックを開き、何本か横に線を走らせた。
その余白に、サインペンで必要と思えた色を重ねていく。

いつも遊びで描いているようなものではない。
顔を背けたくなるような、ひどいものでもなかった。
ちらりと覗いてきた美術教師にも見せられるようなものだった。
44 名前:; 投稿日:2007/01/27(土) 23:42

玄関を出たところに、舞美がいた。
話していた友達に軽く手を上げた舞美に、梨沙子は声を準備する。
「今日、見たよ」
先に、喋った。
舞美が、ん? と顔を近寄せた。
「グランド。美術室から見えた」
「ああ、そうなんだー。見ててくれたんだー。なんか恥ずかしいな」
これ以上言葉を探すと、褒め言葉になりそうで、梨沙子は帰る素振りを見せる。
「あ、待って。わたしも帰るから」
「いいの? 友達」
「うん、後輩だもん。友達だけど」
梨沙子は舞美のペースがよくわからない。
「そっか」
「そうだよ」
「そういえば先生言ってた。普通、三年生はもう部活しないって」
友達にじゃあねと手を振った舞美が、梨沙子の進行方向に入った。

「でも、うちに帰っても九時過ぎまでは勉強しないし」
「勉強、するんだ」
「そりゃするよー。梨沙子はしないの?」
「しない」
「まだ小学生だもんね」
舞美が自然と言った言葉に、梨沙子の自意識がざわめく。
「みんな、中学入ったら勉強むずかしくなるって言うけど、ほんと?」
「わたし小学校のころから難しいって思ってたからわかんないや」
さらっと卑下た舞美に、梨沙子は不思議そうな顔をする。
見栄を張ったり、自慢をしたあと、自信なさげに否定する方法は知っている。
舞美のように、最初から自分を低く言った覚えがない。
45 名前:; 投稿日:2007/01/27(土) 23:43
途中、何人か部活終わりの生徒とすれちがう。
礼儀正しい挨拶を、顔をくしゃくしゃにさせた舞美が丁寧に返していく。
一切手を抜かない舞美に、梨沙子は感心したような鬱陶しいような顔をする。

「あ、ずっと言おうと思ってたんだけど」
「なに?」
「先週の土曜にさ、梨沙子のお兄ちゃんに会ったよ」
梨沙子には、兄と弟がいる。
弟はまだ小さいから帰るといつもいるが、兄とはほとんど顔を合わせない。
梨沙子が眠ってから家に帰り、梨沙子が学校から帰ってくると出かけてしまっている。
本当に帰ってきているのかすら、梨沙子は知らない。
「わたしん家のほうの駅にさー、ずっと行きたいねってお母さんと言ってた店があるの」
「うん」
「で、この前やっと行けたの。そしたら、そこの店員が梨沙子のお兄ちゃんだった」
梨沙子は関心を気取られぬよう、無言で舞美を見た。
「知ってるでしょ? 駅前のマックの隣の、二階に上がってくちょっと入りにくそうなとこ。今、大学生?」
「うん」
そういえば、梨沙子は高校を卒業してからの兄を、ほとんど知らない。
梨沙子の知る兄の情報は、大学に入ったということくらいだ。
だが昨年末、慶応大学を受けると言ってたから、ちがうかもしれない。
「わたしのこと、覚えててくれたよ。かっこよくなってたし」
「そうなんだ」
「うん。梨沙子の友達だからっていっぱいサービスしてもらった。お礼言っといてね」
「わかった」
梨沙子の知らない兄を、舞美は笑顔で話す。
内心、おもしろくない。

46 名前:; 投稿日:2007/01/27(土) 23:53
>>39
ちがいます。

わたしが膨大な量の過去ログを読んだところによると、
水板が長編、夢板がモーニング娘。で幻板がその他ハロプロ、
森が短編、草が掌編、黒板が俺×娘。で、ほいくが小学生キッズと区分けされているそうです。

つまり草板はジャンルや登場人物を限定されているわけではありませんし、
この話は舞台が中学校なので、ほいく板で書くのは、ほいくに失礼です。
千奈美に、ほいく板の「ほいく」は、保育からきているそうです。
なので、キッズの短編を書きたい人のために余計なお世話をする必要はないです。
たぶん明後日くらいからモーニング娘。も出てきます。
47 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/28(日) 05:52
愛理ヲタですが、愛理が可愛いw また登場キボンヌ!
でもなんで、キッズとそれ以外なんて分類しなきゃいけなくなったんでしょうねえ。
分けたらやっぱり、キッズ好きな人しか見なくなって、それこそ良さが分かんなくなるのに…。
それを言うなら、メロンやカントリーも分類(ry
小説から他メンのヲタになる人だっているのに。

…って、意味わかんない上に、ここで書く事じゃなかったですね、すみません。
私は応援しています。

48 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/28(日) 08:06
ベリ℃は全部キッズ認識だと思ってた。(爆

ま、それはいいとして俺は別に良いと思いますよ。作者さんの言う通りだしね。
「男×ハロメン」は荒れる可能性が高いからやっぱり黒で書くべきだと思うけど。

>>47さん
>それを言うなら、メロンやカントリーも分類(ry
一言余計だと思うけど?荒れて迷惑なのは作者さんなんだからいらぬ火種は残さないほうがいい。

>>作者さん
スレ汚しごめんね。楽しみにしている人もいると思うので完結目指して頑張ってくらさい。
49 名前:39 投稿日:2007/01/28(日) 19:50
ごめんなさい。
本当にいらない事を言ってしまったようです。
反省してます。
50 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:02





51 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:03

週末、愛理の家に行くと嘘をついた。
自覚的に嘘をつくのは、初めてだった。
不信を抱かず見送った母親に、梨沙子は罪悪感を覚え、そしてほくそえんだ。

よくある週末と変わらない、愛理の家へ向かう道に、梨沙子は精神的な異常さを実感する。
未知への不安と高揚が、同量だけくるくると入れ替わる。
兄のことは絶対的に信頼しているが、突き放されるのではないかと怖くなってしまう。
すれ違いの期間と、爆発的に増えてきた情報量が、そうさせる。
52 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:04

道すがら、小春に会った。
「梨沙子ちゃーん!」
声を張り上げ全力疾走で、梨沙子のところまで来た。
小春は一昨年の春に転校してきた。
グランドの鉄棒で知り合って以来、不思議といい関係が続いている。

息を切らせてきた笑顔の小春に、梨沙子は傲慢にも手を差し伸べたくなる。
「どうしたの?」
「ん? 梨沙子ちゃん見えたから」
「家このへんなんだ」
「そう! このへんっ!」
梨沙子は来た道を振り返る。
学校がすぐ目の前にある。
「学校ちかくていいね」
「歩いて五分かかんないくらい。走れば一分」
梨沙子の家も学校から近いほうだが、急いでも十分はかかる。

「そういえば、もう夕方だけど、どっか行くの?」
小春の疑問に、梨沙子は本当にわからないといった顔で眉間に皺を寄せる。
「どこも行かないけど」
言って、後悔した。
もし、このまま小春に誘われれば断る理由はない。
53 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:04
小春のことは好きだが、邪魔だと思った。
まっすぐなところが苦手だ。
舞美にも、小春に似た抵抗感がある。
向かってこられると、構えてしまう。
どうして小春はよくて、舞美がダメなのか、梨沙子にはわからない。

若い女の乗った自転車が通り過ぎようとする。
あぶないよ、と小春に歩道の端に引き寄せられた梨沙子が、顔を上げる。
小春と目が合った。
誘われると悟った。
「うち来てご飯食べよう? 今日はお姉ちゃんが作ってくれるの」
「……え? あ、うん、………………えーと、えっと、えと」
恐れていた事態に、本当に久々に、頭の中がまっしろになった。
「すっごいおいしいのー! お姉ちゃんのミソラーメン」
「なら行く」
味噌ラーメンならしょうがないと、梨沙子は小春の家に行くことにした。
54 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:04

小春の家を出たのは、夜の九時過ぎだった。
自然と帰るような流れになり、愛理とは泊りが普通になっている梨沙子は驚いた。
それでも、小春にとっては夜遅くだという。
ずっと元気にしていたのが急に口数が少なくなり、最後には動かなくなってしまった。
梨沙子は、夜遅いから送ると出てきた姉に礼を言って、一人で家を出た。

いつもよりずっと冷えた夜に、梨沙子は味噌ラーメンの熱さを思い出し、ひとりにやけた。
ちょうど小春と会った場所まで来て、立ち止まる。
「今日はラーメンを食べる日じゃなかった」
ひとりだったからか、考えていることがそのまま呟きとして出た。
すぐ近くには、暗闇にそびえる学校がある。
振り返ると、知ってはいるが馴染みのうすい道路が、夜に伸びている。

立ち止まると、迷ってしまう。
このまま家に帰り、今日は泊まらなかったと嘘を重ねるよりも、
最初の嘘を突き通したほうが、ずっと気が楽なような気がした。
梨沙子は心を決め、踵を返す。
家とは逆方向に歩いてる。
55 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:04

舞美が物事を丁寧に伝える性格だからか、場所はすぐにわかった。
一階が外国の料理屋の小さなビルの二階に、舞美の言っていた店があった。
看板は出ているが、階段は暗く急で、どこに繋がっているのだろうと考えてしまう。

たしかに入りにくそうなところだと、梨沙子はそのまま通り過ぎてしまった。
そのまま引き返すこともできず、大きく迂回して、立ち止まらず息を吐きながら階段を駆け上った。

小さな踊り場にテーブルが置いてあり、観葉植物の隙間から白熱球の明かりが漏れていた。
梨沙子は息を整え、店の名を確認した。
帰ろうかと一度上ってきた階段を見下ろし、それからゆっくりドアを開けた。
56 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:05

小さな店だった。
入ってすぐ、カウンター席のガラス仕切りの向こうに、兄が見えた。
突然の来訪に、いらっしゃいませも出ない兄に、梨沙子は後悔に押し潰されそうになる。
カウンターにひとりで座っている女が振り返り、兄になにか話しかけた。
梨沙子は唇を結んで突き進み、兄の前あたり、女から席をひとつ開けて座った。
そこが、限界のように思えた。

「そんな離れたとこじゃなくて、こっちに座れよ」
兄が、女のすぐ隣を指差した。
女はにこにこして梨沙子を見ている。
「いいよ、座んな」
高くて甘たるい声を出した女に、梨沙子は反発を覚えた。

緊張感のない笑顔で兄と親しげにいる、この女が誰かわからない。
女も同じような視線をしているのを感じながら、梨沙子は兄を見た。
「知り合いと、妹」
簡単な説明だが、梨沙子への紹介が先だった。
それが妙にうれしくて、梨沙子はにやけないよう、頬を噛んだ。
「なんだよそれぇ〜、紹介になってないじゃんよーっ!」
女は甘たるい声のまま、乱暴な口調で話す。
57 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:05
梨沙子は何か言われてしまうかもしれないと思いつつも、女を観察した。
髪を胸のあたりまで伸ばした横顔は恐ろしく綺麗だが、表情が間抜けている。
よく見ると、梨沙子よりもずっとからだが小さい。
笑ったとき顔に走る皺が女を幼く見せ、梨沙子は可愛いと思ってしまった。

「あれやろぉ、妹とか言って実はカノジョなんやろー」
間延びしたイントネーションだった。
「いいえ、ちがいます」
咄嗟に本気で否定してしまい、低い声が出た。

兄ちゃん、おあいそ〜、禿げ上がった額まで赤くした男が、大きな声を出した。
梨沙子は驚いて、うしろを見る。
テーブル席の、表情のゆるんだ男三人が立ち上がっている。
58 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:05
兄が会計に外している隙に、女が身を寄せてきた。
やわらかい香りが、梨沙子の鼻腔を刺した。
「ねえ、梨沙子ちゃんっていうでしょ」
「……はい」
「やっぱり! あたったー!」
不快感が、顔に出た。
「そーんな怖い顔しなくなっていいじゃーん」
やけにテンションの高い女は、変なイントネーションのまま梨沙子に迫る。
「お兄ちゃんに聞いてただけだから。妹と弟がいるって」

客を完全に見送った兄が、厨房への戻り際に、聞いた。
「なに話してんの?」
「お客さんの入らない店だねって話。ねー?」
女が同意を求めるように首を傾げてきたが、梨沙子は否定する。
「そういや梨沙子に言ったっけ。この店のこと」
「舞美ちゃんに聞いた」
「ああ、この前来てたな。仲いいの? 高校生でしょ?」
「まだ中学生」
「そうなんだー」
兄が視線を遠くにやった。
舞美を思い出そうとしている。
気に入らない。
59 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:05
梨沙子は睨むと同時に、この女は誰なんだと兄を見た。
「ねー、あぁしの紹介が知り合いだけって冷たくなーい?」
女もそれを感じたのか、梨沙子に味方した。
「大学の同級生」
「それだけ?」
「家が隣の駅で、上京してきた田舎者」
「なーに言ってんの〜あぁしもう標準語だってばー」

甘えきった女の態度に、梨沙子は間に入れない。
その表情を察したのか、兄が話しかけた。
「梨沙子、なんか食べる?」
「なにあるの?」
はい、と女に渡されたメニューを開いた。
緊張と、漢字の多さと、知らない言葉にうまく読めない。
「よくわかんない。ここ何屋?」
「焼き鳥屋」
「おしゃれぶってて、いけすかない焼き鳥屋だー」女が口を挟んだ。
「お兄ちゃんひとりでやってるの?」
「今はね。オーナーが旅行に行っちゃってて」
ふーん、と梨沙子は女が両手で持っている湯呑みを指差した。
「これは?」
「教えてやんなーい!」
女の無邪気すぎるいじわるでも、梨沙子は傷ついてしまう。

「ただのお茶だよ。梨沙子もうなんか食ってきたの?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、ちょっとだけ焼くよ」
厨房の奥へ消えた兄に、女ががなった。
「あ゙ぁしにもつくっでー」
すぐ戻ってきた兄は炭を足して、うちわで風を送る。
冷蔵庫を開けた背に、女がすがるような声を出した。
「あぁしにも゙ー」
60 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:06
梨沙子は物珍しそうに、机で突っ伏す女を見ている。
女は、梨沙子の好奇に気付いているが、好き勝手にしている。
串の準備を終えた兄が、ちょうど梨沙子の目の前で焼き始めた。
「けっこう久々だな」
「お兄ちゃんが帰ってこないからだよー」
鳥の油が滴ったのか、香ばしい音と共に煙が燃え上がった。
梨沙子は、わあっと声を上げ、笑った。
どこか、隣の女を気にしながら。
「最近ずっと帰ってない」
「遅いけど帰ってるよ」

「あぁしを無視なんてばじょくするのかこの童貞!」
女が太い声で叫んだ。
すぐに、顔をくしゃくしゃにさせて、なっは! とおかしな声で笑う。
梨沙子は、全然印象はちがうけど、舞美に似てると思った。
「してねーよ」
「してる」
わかりやすくむくれた女は、差し出された皿に、すぐに機嫌をよくした。
61 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:07

終電があるからと、女が帰った。
梨沙子は解放されたとでもいうようにあくびをして店内を見渡した。
女を見送って戻ってきた兄が、施錠した。
「ほんとにお客さん来ないんだねー」
「だからここでバイトしてんだよ」
ジョッキを手にした兄が、梨沙子の隣に座った。

梨沙子は女の残していった湯呑みに口をつけた。
大袈裟に吐き出した。
「これ、おさけ」
「焼き鳥屋で飲まない人のほうが少ないよ」
「よく来るの? あの人」
「梨沙子あんまり好きじゃないだろ。向こうはたぶん梨沙子のこと気に入ってるけど」
「なんで?」
「人見知りだから、珍しかった」
「カノジョ?」
「ちがう」
うそっぽいと思ったが、本当のような気もしてきた。
梨沙子は、兄の食べていた串を横から摘んだ。
62 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:07
落ち着くと、眠くなってきた。
今日はたくさん新しいことがあったと、梨沙子は大きくあくびをした。
兄は店の後片付けをしている。
「もうそれ食べちゃえよ」
「うん」
最後の一欠けを口に入れ、皿ごと兄に渡す。
水を流す音が、眠気を誘う。
鳥を咀嚼しながら、意識が閉じていくのを感じていた。
寝てしまっては、今日がすべてなくなってしまうような気がした。

両脇を掴まれ、立たされた。
「寝るな。帰るぞ」
「かたづけは?」
「明日でいい」
梨沙子は兄にしがみつくように裏口から店を出て、寒さに目を開けた。
寒さを認識すると、また眠気のほうが勝ってしまう。

ふわっとからだが持ち上がった。
横に抱えられたが、すぐに下ろされた。
「これじゃ家までもたない」
「そうだよ。もうそんな小さくないもん」
梨沙子は兄の肩を掴み、前に立たせ、背中に飛び乗った。
少しよろめいたがすぐに安定し、梨沙子はだらりと腕を垂れ下げる。
63 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:07

人気の散った夜道が、ゆっくりと過ぎていく。
まだ開いている店から聞こえる様々な音が、梨沙子には心地よく響いた。
「ねー」
「ん?」
「今度早く帰ってくる日はないの?」
「べつにどうしても帰れないってわけじゃないんだよ」
「そうなんだ」
「早く帰れって?」
「そういうわけでもない」

昔はよくこうやって話していた。
弟には親がついていたから、梨沙子の面倒はなにかと兄が見ていた。
年が離れている分、梨沙子にも弟にも優しかった。

懐かしい感触のする兄の背中も、あの頃とはどこか違う。
ひどく寂しいことのように思えて、寒風に涙が滲んだ。

「お兄ちゃん、変わった?」
「梨沙子が?」
「うん、どっちも」
「そんなすぐには変わらないだろ」
安心感に、梨沙子は意識が閉じていくことを受け入れた。

64 名前:; 投稿日:2007/02/04(日) 02:12

>>47
ありがとう。
その通りだと思います。

>>48
傭兵かアイドルじゃなきゃ男出ていいものだと思ってた。(獏
兄重みたいなものなんで気にしないでください。

>>49
本人?
謝ることじゃないと思いますけど。
65 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/04(日) 07:18
読むたびに新しいキャラが出てきて楽しいです
ってかりしゃこ可愛いwww
66 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/07(水) 12:54
・レスをつける前に自治FAQに目を通しておくこと

65 :名無飼育さん :2004/11/07(日) 16:10
<<小説板が増えました>>

どちらも2chブラウザ対応。

黒板(別名栗板)
tp://m-seek.on.arena.ne.jp/cgi-bin/black/index2.html
・「俺×娘。」専用板。この板で男性キャラが出てきても叩かれることはありません。安全地帯です。
・ただしジャ○ーズ禁止。なぜなら危険だから。

もむすめ。(ほいく)
tp://m-seek.on.arena.ne.jp/cgi-bin/kinder/index2.html
・はろぷろきっずやべりーずこうぼうの ねたや しょうせつをかこう!
・るーるをまもって なかよくね!

842 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/25(月) 21:20
ダウト。黒板は「男×娘。あり」じゃなくて専用だから
あとほいくはキッズ・べりえ専用

他は特色などありまっせん
自治スレの最初のほうに書いとる
67 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 01:31





68 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 01:32

疲れている。
からだはそうでもないが、どこかが重たるくぼやけている。
新しいことが増えているからかもしれないと思った。
もやもやと晴れない部分が、心のどこかに巻きついている。

情報が増えるたびに形を帯びていく判然としない曖昧さに、歩みも鈍くなる。
これまで、体調を、疲れている疲れていないで考えたことはなかった。

「梨沙子ねむそうだね」
隣を歩いている愛理が、梨沙子の顔をのぞきこんできた。
「給食たべたから?」
「わたしご飯食べてもそんな眠くなんないもん」
「気がつけばいつも寝てるじゃん」
さらりと笑う愛理に、梨沙子は苦笑する。
いつものように、否定はしなかった。
69 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 01:32
困ったような愛理の視線を感じ、梨沙子は首をまわしながら歩く。
「疲れてるの?」
「かもしれない」
なんとなく、連れ出した。
目的もなく学校中を歩きまわることに、梨沙子は愛理以上に困りはじめている。
「そういえば、さっきもずっとボーっとしてたもんね」
確認するように、愛理が梨沙子を見る。
頷いてから、梨沙子は何の話だろうと思った。

背が高く、容姿も抽んでている二人は、小学校では異様に目立つ。
かすかに色気づいてきた男子が、二人を意識している。
梨沙子は気付いているが、無視している。
そのほうが良く見えるだろうから。
70 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 01:32
「あ」
思い至った。
先ほど愛理が言っていたのは四時間目のことだろう。
先生が来るまで少し間があった。
友達同士で集まって喋っていたのだが、梨沙子は輪にいるだけで加わらなかった。
「どした?」
「なんでもない」
「だって変な声だーすんだもーん」
愛理が、おどけた。
もたれるように寄せてくるからだを支えて、聞く。
「愛理なんかほしいものないの?」
「くれるの?」
「あげないけど」
「なんで聞くのぉ」
「なにがほしいのかな、って……」
気になった、とまでは面倒で声に出なかった。

廊下は肌寒い。
愛理が教室に戻りたそうにしている。
梨沙子は体育館のほうへと階段を降りていく。
71 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 01:32
そういえば、と梨沙子は隣の愛理の髪を指した。
「中学対策?」
愛理は髪を頭頂でひとつに結んでいる。
「おしゃれだよ」
「そうなんだ」
気まずくなりそうで、梨沙子は笑った。
愛理はやたらと髪型にこだわる。
「おだんごにしようと思ってたのに、梨沙子が途中で邪魔するからぁ」
不完全な髪型を、愛理が撫でる。

梨沙子が外に出ようと思ったとき、愛理は鏡を出して髪をさわっていた。
朝、弟の具合が悪くなってしまって時間がなかったと言っていた。
梨沙子は無言で愛理の腕をつかんで立たせ、連れ出した。

体育館に反響する、ボールのバウンドや生徒の駆ける音、嬌声が聞こえる。
半端に開けられた戸の隙間から、オレンジの灯がてらりと光る廊下に伸びている。
「体育館?」
「なんとなく」
梨沙子は悠然と体育館を突っ切り、ステージに腰かけ、息を吐いた。
遅れて愛理も、跳ねるようにして梨沙子の隣に座った。
「けっこう人いるんだね」
「だね」
梨沙子は縦横に蠢く生徒の群れを、少しだが高いところから見下ろし、和んだような気分になる。
72 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 01:33
「あ、千聖とまいちゃんだ」
愛理がものすごい勢いで体育館に入ってきた、千聖と舞を見つけた。
ステージから降り、背筋を伸ばした前傾姿勢でずんずん進む愛理を、梨沙子は変だと思った。

千聖に手を引かれて走っていた舞が、足を止めた。
気付くのが遅れた千聖と手をつないだままの舞が、頼りなげによろめいた。
勢いのまま愛理が、舞に抱きついた。

舞が愛理にしなだれるようにして笑い、千聖がなにか話している。
体育館の喧騒に吸い込まれ、声は梨沙子のところまでは届かない。
愛理と舞が、手招いている。
梨沙子は笑って手を振った。
73 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 01:33
二人とは、距離の取り方がわからない。
千聖は、梨沙子にとっては元気すぎる。
一学年下の舞は、会えば自然に甘えてくるが、それをどう扱えばいいのかわからない。
存在の質そのものが、ちがうような気すらしてくる。

梨沙子は、愛理は自分と似た部分が多いと思っている。
その愛理は、無理なく二人と仲良くしている。

離れたところから三人を見、そんなことを考えていると、もやもやのひとつを思い出した。
どうていという言葉の意味を、調べていなかった。
兄と女の遣り取りは、わからないことだらけだったが、その部分は鮮明に残っている。

美術教師に聞いてみようと思った。
そう決めて、すぐに躊躇う。
聞いてもいいことなのか、わからない。

74 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 01:38

>>65
ありがとうございます。
楽しんでもらえるようがんばります。

>>66
・レスをつける前に自分の引用する文の内容をよく理解すること。
その上で、俺×娘。の定義を明確に説明できますか?
75 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 23:44





76 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 23:44

数度筆を入れて、すぐに迷った。
何をしたいのか、わからなかった。
描き進めた。

イメージがまったく浮かんでこない。
どこからか引っ張り出し、消えないうちに手を動かし続けた。
詰めていた息を抜いた瞬間、破り捨てたくなった。

「駄目だよ、やぶいちゃ」
美術教師の呟きのような言葉が、梨沙子の心臓を鷲掴みにした。
見透かされたと梨沙子は、顔を真っ赤にさせた。
「納得いかなくても、今の、それを、最後までちゃんと描き切りなさい」
距離を測りながらの、遠慮がちな声だったが、厳しい口調だった。
この人はあまり強く言えない人なんだろうと梨沙子は思った。
77 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 23:44
外のほうから、雅の声が聞こえたような気がした。
梨沙子は冷静を気取ってゆっくり立ち上がり、窓に向かった。
雅が大きな声を出すときはたいていはしゃいでいるから、すぐに目につくはずだ。

雅らしき後姿を見つけることはできたが、もうずっと遠くにあった。
それは、桃子のかもしれないと思った。
前に佐紀が、雅が髪を切って、後ろから見ると桃子と同じだと言っていた。

完全に絵から心の離れた梨沙子は、踵を返して広い美術室を見まわした。
すっかり馴染んだ空間だが、まだ知らない部分がたくさんある。
梨沙子は美術教師の背後を過ぎて、棚の前にかがんだ。
茶色く丸まった埃が積もったキャンバスを指先で引っ張り出す。

布のこすれる音と共に、外国のおじさんの畏まった顔が出てきて、吹き出しそうになる。
慌てて口を押さえて、美術教師を見る。
眉間に皺を寄せて、キャンバスを睨んでいる。
ここのところ、筆の進みがよくない。
梨沙子が絵を棚に戻そうと指先に力をこめると、外国のおじさんの鼻の穴が目に入った。
また吹き出しそうになった。
78 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 23:44
おもしろくもないのに笑いそうになった。
損をした気分で梨沙子は、美術室の角まで歩いた。
思いのほか響く足音に、そろりと美術教師を振り返る。
先ほどと、全く同じ格好のまま停止していた。

梨沙子はおもしろそうに、美術教師を円心に美術室をぐるりとまわった。
飽きて、自分の椅子に座った。
その間、美術教師は瞬きひとつしていないように思えた。
79 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 23:44

帰り際、やはり舞美に会った。
梨沙子が使っている下駄箱が、ちょうど見える位置にいた。
舞美は当たり前のように、梨沙子に駆け寄ってくる。
梨沙子も、それが当たり前になっている。

「梨沙子の親って厳しいほうだっけ」
「なにが?」
突然の切り出しに、梨沙子は一歩引いてしまう。
「あ、門限とか。早く帰ってきなさいって言う?」
「明るい道を選んで帰ってきなさいって言う」
「そうなんだ」
舞美は満足そうに微笑むと、その場に座った。
「梨沙子も座りなよ」
自然に促され、梨沙子は否定をするのも忘れて、靴を履いたほうがいいのか迷った。
80 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 23:45
舞美は、座った拍子に乱れたスカートを調え、足を伸ばした。
膝をすっぽり覆うような長さのスカートを、梨沙子が指差した。
「それ、校則で決まってるの?」
「あ、長さ?」
「うん」
「そうだよ、膝下三センチ。膝小僧の下から三センチね」
「そんな長いんだ」
「スカート長いの、いや?」
「そんなこともないけど」
梨沙子がどすんと腰を下ろした。
「だって、短いと先生に怒られるんだよ?」
舞美は怒られたことがないとでもいうように、だって先生こわいもん、と言った。

話し込む体勢になっている。
舞美は疑いもなくにこにこしているが、梨沙子には少し場が重く感じる。
初めてのような空気だった。
「そういえば梨沙子さ、昨日うたばん見た?」
梨沙子は曖昧に頷いた。
「ほんと? わたしも見たー」
「あれでしょ? あのぉ……絡むとかってやつ」
「そう、それー! 夜とか絡めるとかさー、なんかドキドキしちゃったー」
屈託なく話す舞美に、梨沙子は少し恥ずかしくなった。
梨沙子もドキドキして見ていたが、舞美のそれとは、大きくちがう。
家族の目が気になって、赤らみそうになる顔を抑えるので精一杯だった。
81 名前:; 投稿日:2007/02/08(木) 23:45
察したのか、舞美が梨沙子の腕を取った。
「夜に、ほら、絡んでる」
からかうように顔を近づけ、梨沙子の顔が真っ赤になるのを見て、笑った。
「かわいー。照れちゃって」
「照れてなんかないもん!」
舞美はさらりと笑顔で流して、梨沙子の表情を確認した。
あー、と声を落とす。
「もう卒業しちゃうんだよねぇ」
感慨深そうに、見える範囲すべてを眺めた。
「梨沙子はこれから入ってくるんだもんね」
「中学、楽しかった?」
「うん! すっごく」

それから舞美は、見回りの教師に帰るように言われるまで、話し続けた。
飼っている犬のことや、部屋がタンスで埋め尽くされていることや、他にも、いろいろと。
梨沙子も、兄の店に行った話や、どうていってなにかを舞美に聞いた。
そんなこと聞いちゃダメだよとかわされた。

舞美と校門前で別れる頃には、夜が深く濃くなっていた。
時間帯のせいか、いつもとはちがう景色の感触に、梨沙子はにんまりする。
新しいことが始まったような気分だった。

82 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/18(日) 23:21
凄く素敵な雰囲気ですね
読んでて気持ちがいいです
83 名前:; 投稿日:2007/03/13(火) 01:09





84 名前:; 投稿日:2007/03/13(火) 01:10

穏やかな日が続いた。
舞美がグランドに出ることは極端に減ったが、帰りはほとんど一緒だった。
何もない日が続いた分だけ、梨沙子の苛立ちは明確に形を帯びて募っていく。

大人にならなきゃいけないと思っていることに気がついた。
自分の名前ひとつ書くにも気を使い、そのうち躊躇いが行動を引きずるようになった。
迷いばかりが膨れ上がっていく。

線を引いたままになっているキャンバスには埃が付着し、少しずつ色が褪せていく。
ただ見つめ続るだけのキャンバスの変化に、梨沙子は自分を重ねる。
新しいことは、苦痛を伴う。
そう感じた。
85 名前:; 投稿日:2007/03/13(火) 01:11
「梨沙子ちゃん、もうすぐ卒業だね」
美術教師の絵は、完成を間近にして極端にそのペースが落ちた。
難しい顔をして修正を試みていたが、それすら躊躇うようになった。
「はい。来週……あれ? いつだったかな」
「もう一月もしないうちに、梨沙子ちゃんも正式にこっちの生徒になるんだね」
何気ない会話の中にある事実に、梨沙子はひどく暗い顔をする。
「そんな怖がらなくてもいいんだよ」
美術教師は優しく撫でるように笑うが、梨沙子にとっては深刻だ。

今が終わることを拒否しているのか、次に切り替わっていくことに恐怖しているのか。
梨沙子は目の前にある時間の経過に嫌な気分になる。
このキャンバスを引き裂いてしまえば楽になれる、ずっと抑えていたものが弾け出た。

ちらりと美術教師を盗み見る。
哀れに思えてしまうほど真剣に悩んでいる。
梨沙子は美術教師に気取られぬよう、脇に置いた筆箱を確認した。
中にあるボールペンの先端をキャンバスに尖らせる情景がはっきりイメージできた。
美術教師はどんな反応をするだろうか。
86 名前:; 投稿日:2007/03/13(火) 01:11
「先生」
「ん?」
梨沙子の声に、すぐさま美術教師が思考を中断させる。
やわらかそうな唇が濡れている。
濃艶な香気に、梨沙子は、美術教師のようになりたいのかもしれないと思った。
「どうしたの?」
「え、あ、いや、……なんでもないです」
「いいよ、なんでも聞いて」
「そういうことじゃなくて。本当に大丈夫です」
「いつでもいいよ」
梨沙子は、美術教師のことが好きなんだろうと思った。

自分だけのペースで生きている美術教師は、梨沙子のペースに合わせるわけではない。
梨沙子にとってそれが楽で居心地がいい。
美術教師の自分に対する好意も、卑下て考えてみても十分に伝ってくる。

以前、舞美が言っていた。
美術教師は授業中でもボーっとしていたり、自分の世界に入ってしまうことが多い。
そういう時には生徒がどんなに大声を出しても気付かない。
梨沙子にとっては、美術教師の知らない一面だった。
87 名前:; 投稿日:2007/03/13(火) 01:11
美術教師の筆を持つ手が、狂おしいくらいに力が入っている。
この世界には筆と、筆を握る指、キャンバスしかないとでもいうような雰囲気だ。
「先生?」
「ん?」
「なんでもない」
甘えたように、梨沙子が美術教師に笑いかけた。
美術教師はわけがわからないといった表情をしたが、すぐに笑顔になった。
88 名前:; 投稿日:2007/03/13(火) 01:11

今までで一番かわいくさようならを言えたような気がする。
自分で自分のことをかわいいと思えたのは、初めてかもしれない。
美術室を出た梨沙子は、跳ねるように玄関に向かった。

途中、放送室から出てきた友理奈に声をかけられた。
「あれぇ? 梨沙子、なんか機嫌よさそうじゃん」
「べつに?」
梨沙子は、自分でも声が浮かれていることに気付いた。
「そっか」
あっさり引き下がる友理奈に、梨沙子は少しガッカリした。
友理奈は、梨沙子がムキになって否定することを知っている。
89 名前:; 投稿日:2007/03/13(火) 01:12
「さっきまでね、ちーとみやもいたんだよ?」
友理奈はどこか拙い動作で放送室を指した。
「ふーん。なんで?」
「えー、なんでだろう」
「なんでだろうね」
ぼーっと首をかしげて笑う友理奈に、梨沙子はホッとする。

雅の名前を出されたとき、動揺した。
ひどく後ろめたく、今までにないくらい、雅の存在を意識した。
感情を見抜かれるのは、なにもかもを見透かされてしまうようで怖い。

並んで歩く二人に、追いかけてきた茉麻が文句を言った。
ごめん忘れてた、とへらへら笑った友理奈が、茉麻の肩を撫でる。
喉を鳴らして梨沙子が笑う。
玄関の踊り場に、舞美がいる。
そんな日常は、長くは続かない。
意志や願望の外にある問題だ。

90 名前:; 投稿日:2007/03/13(火) 01:12
>>82
ありがとうございます。
嬉しいです。
91 名前:; 投稿日:2007/03/14(水) 02:15





92 名前:; 投稿日:2007/03/14(水) 02:15

「梨沙子ちゃん、今日遅刻したでしょう?」
顔を出すなり、美術教師にそう聞かれた。
梨沙子が不思議そうな顔をする。
「こっから見えた」
美術教師は不気味な笑みをうかべてグランドを指差した。

得意気な顔のつもりなのだろうと梨沙子は思った。
わかりにくい美術教師の機微が、つかめるようになってきた。
93 名前:; 投稿日:2007/03/14(水) 02:16
梨沙子は学校を遅刻した。
本当に久しぶりに、朝、梨沙子が学校の準備をしている時間に兄が起きてきた。
早い時間に起きだしたことを梨沙子以上に驚いていた兄は、ひどく疲れた顔をしていた。
半分目を閉じたまま自室に戻ろうとする兄の手を掴み、階段を降りた。

弟を見送ってにこにこしている梨沙子に、兄と母が学校に行くよう交互に言った。
行くに決まってんじゃんとむくれて家を出た梨沙子に、兄が追いついてきた。
物珍しそうに朝の風景を眺めてのんびり歩く兄の隣で梨沙子は、この前と逆だと思った。

梨沙子は、コンビニの前で送り出そうとする兄を困らせた。
まあいいやと梨沙子を無視したように許容する兄の背中に、また店に行っていいか聞いた。
兄は積み上げられた雑誌を身を屈めて取りながら、連絡してからのほうがいいと言った。
学校に行けと言われ、梨沙子は素直に従った。
94 名前:; 投稿日:2007/03/14(水) 02:16
「よく見えましたね」
「グランド誰もいないのに梨沙子ちゃんだけ歩いてるから、すごい目立ってたよ」
妙にかわいらしい声で美術教師は言う。
梨沙子の顔が赤くなる。
美術教師に照れたのか、見られていたことが恥ずかしくなったのか、わからない。

梨沙子はキャンバスの上に、画用紙を貼りつけた。
今朝、コンビニで買ってもらったものだ。
テープがキャンバスを汚さないことを確認して、さらさらと絵を描き始める。

スムーズに描きあがったそれを見て、美術教師が微笑む。
「梨沙子ちゃんってかわいい絵、描くんだね。それ焼き鳥?」
「こういうのなら、いつでもかける」
「そういうの描けばいいのに」
梨沙子は首を振る。
丸い線や、色とりどりの絵ではないものを作りたい。
今までのものでは、限界があるような気がする。
梨沙子の目指すものが目の前にあるものなら迷わないし、ここにも来ない。
95 名前:; 投稿日:2007/03/14(水) 02:17
ぼやけた視点で自分の絵を見つめていた美術教師が、大きなあくびをした。
美術教師は梨沙子の視線に気付き、恥ずかしそうに口元をおさえた。
「眠いんですか?」
「ちょっとね。授業中は頑張ってたんだけどなぁ」
梨沙子ちゃんの前では油断しちゃうのかな、と付け足した。
「先生眠いならわたし、帰りますけど」
「いいよ、そんな気をつかってくれないでも」
「でも……」
「本当にいいの。どっちにしてもこんな時間じゃ寝れないよ」
そして、ふと何かを思い出したように下を向いた。
梨沙子を見る。

「なんか今日ね、すごい雨になるらしいよ」
「早く帰らないと」
強風にぐるぐると形が変わる鈍色の雲を見て、梨沙子が言った。
「わたしは帰らないけどね」
「なら、わたしも帰りません」
美術教師が、ふっと息を漏らす。
ゆるいが、親密な空気が流れる。
96 名前:; 投稿日:2007/03/14(水) 02:17

玄関に舞美の姿はなかった。
車で送ると言った美術教師に甘えればよかったと思った。
今にも雨が降り出しそうな、重く湿った風がドアの隙間から吹いている。

「りさこー!」
天候が落ち着いている間に帰ろうとしたところ、声をかけられた。
反射的に立ち止まった。
舞美の声ではなかった。
桃子の声だった。

なんだももか、梨沙子は顰め面で脱力し、桃子に寄った。
もう! とふひゃふひゃの笑顔の桃子を突き飛ばそうとする。
その向こうに、くしゃくしゃの笑顔で手を振る舞美がいた。
「ほらー、言ったじゃーん。梨沙子、すごく生意気なの」
桃子が、自分は正しいと言わんばかりに舞美を見る。
舞美は大して意味があるでもなしに、うんうん頷いている。
97 名前:; 投稿日:2007/03/14(水) 02:17
二人の間にどんな遣り取りがあったか想像のついた梨沙子は、身を正す。
桃子が梨沙子の目の中を覗き込む。
「なに梨沙子急におとなしくなってんの?」
「べつになってないもん」
「あー! ナマイキとか言われてびびってんでしょー」
「びびってないー」
よくわからない二人のやりとりに、舞美が手を叩いて笑っている。

「そういえばりーちゃん、美術室で絵かいてるんだって?」
梨沙子が頷く。
「なんで?」
「卒業製作」
「完成した?」
「まだ。全然」
「だってもう卒業じゃん」
間に合うの? といったニュアンスに、梨沙子は黙ってしまう。
98 名前:; 投稿日:2007/03/14(水) 02:17
卒業製作は、すでに期限を過ぎている。
製作が授業時間にも食い込むようになった頃、愛理と友達の輪に加わった。
「まだ時間あるし、ガーッて描いちゃえばいいじゃん」
横から舞美が口を挟む。
「そうだよ、りさこ絵うまいんだからさ」
「この前ももの描いた絵の背景ねぇ、へへ、なんか犬小屋みたいだった!」
舞美が、笑いながら桃子の言葉を遮った。
よほどおもしろかったのか、腰を折って息を詰まらせている。

桃子は舞美の自覚のない無礼に慣れているのか、特に怒った様子もない。
梨沙子は笑おうかどうしようか迷い、舞美につられるようにして笑いはじめた。
「も〜ぅ、りーちゃんの卒業製作の話してんでしょ!」
唇をとがらせて飛び跳ねる桃子の肩に、すっと真面目な顔になった梨沙子が手を置いた。
「いや、でも、うち、ももの絵好きだよ。なんかいいと思う」
完全に上からの目線に、笑いが引きかけていた舞美が大笑いする。
「やっぱ生意気だ」
「ちがうもん!」
「ほらー、そういうとことか」
「生意気じゃない!」
梨沙子の否定が強くなればなるほど、舞美の笑いが深くなっていく。

自分をいとおしそうに見る桃子の視線に、梨沙子はふと気付いた。
そのとき、舞美も自分を受け入れてくれるのだろうと感じた。
梨沙子が他人の自分を見る目をはっきりと意識するようになったのは最近のことだ。
その変化は取るに足らないものだと、梨沙子はまだ思っている。
99 名前:; 投稿日:2007/03/15(木) 01:53





100 名前:; 投稿日:2007/03/15(木) 01:53

美術教師はひどく疲れた顔をしていた。
瞼が重く垂れ下がり、瑞々しかった頬も乾いて崩れ落ちてしまいそうだ。
昨日と今日では、まるで別人だ。

梨沙子はいつも通り振舞おうと硬く張ってしまう肩を呼吸でやわらげた。
遅々と進まない絵の準備を終えると、美術教師の様子が気になってしまう。
逃げるように窓際に向かう。

強風にグランドに立つ陸上部員のジャージがバタバタと煽られている。
その中に、舞美がいた。
乱れる髪を手で押さえ、その場で飛び跳ねている。
梨沙子はその姿だけみとめると、元いた場所で戻っていく。
美術教師のことが気になって仕方がない。
101 名前:; 投稿日:2007/03/15(木) 01:53
普段と変わらない時間が、梨沙子にとっては苦痛でならない。
気を遣わせまいとする美術教師の無理が伝わってしまう。
耐え切れず、梨沙子のほうから声をかけた。
「先生、だいじょうぶですか?」
やや早口になった梨沙子に、美術教師は顔を歪めるようにして笑顔を作る。
「ん? 大丈夫だけど、なにか変?」
梨沙子は言うべき言葉を見つけられず、曖昧に笑みを返す。
美術教師はすっと息を抜いてさみしそうに笑う。
自然な表情だった。

「梨沙子ちゃん、好きな人いる?」
梨沙子は美術教師への心配も忘れ、踏み込まれたと思った。
ごまかそうと逃げ道をさがしてみたが、見つからない。
「……いません」
おかしな間が空き、声が小さくなった。
美術教師の香に、梨沙子は身構える。
「先生はね、いたんだ。好きな人」
初めて感じる雰囲気だった。
極度の緊張に陥った梨沙子の視線が徐々に下がっていく。
美術教師の指には、まだ指輪が嵌められている。
102 名前:; 投稿日:2007/03/15(木) 01:53

帰り道、梨沙子が釈然としない思いを抱えていることを察したのか、舞美の口数は少なかった。
細い体を縮ませた舞美は、何度か寒いと呟いた。
梨沙子はその度に返答したが、舞美にその声が届いたかはわからない。

「そういえばさ、最初のきっかけってなんだったの?」
別れ際に聞いた舞美に、梨沙子が首をかしげる。
舞美は、あ、と梨沙子に笑いかけるように続けた。
「梨沙子が美術室で絵を描くきっかけってなんだったのかなーって」
「ああ」
「ももがなんでって聞いてたでしょ?」
昨日は説明する言葉が浮かばず、てきとうにはぐらかしたが何を言ったか、梨沙子は覚えていない。
「最初はね、先生に声かけられたの」
「中学校で?」
「ううん、小学校。そういう中学の先生が来る会があって、そんとき」
「ふぅん、そうなんだー」
「そうなの」
舞美は、もっとくわしく聞きたそうな顔をしている。
梨沙子は言わない。
103 名前:; 投稿日:2007/03/15(木) 01:54
じゃあ、と梨沙子は帰路に着く。
「よくわかんないけどさ、元気だしなよ!」
舞美の声に、振り返った。
ここ二ヶ月ほどで、知ったことがある。
舞美の明るさや優しさは、無邪気さや幼さと同じことだ。
純粋なまっすぐさに踏み込まれても痛くない。

梨沙子は舞美に近寄っていく。
抱きつきたくなった。
だから、そうした。

104 名前:; 投稿日:2007/04/04(水) 00:40





105 名前:; 投稿日:2007/04/04(水) 00:41

卒業式が過ぎた。
証書授与で壇上に立ったとき、よろけただけだった。
さみしいと泣きじゃくる愛理に、梨沙子は自分の小学校生活を寂しく思ったりもした。
昨年、卒業生を見送ったときは悲しくなったが、自分の卒業式では悲しくならなかった。
106 名前:; 投稿日:2007/04/04(水) 00:41

梨沙子は小学校の卒業式の前の日も、美術室に向かった。
学校が早く切りあがったせいで、中学の卒業生が、まだかなり残っていた。
愛理よりも周囲を憚らず泣く舞美のすぐ側には、梅田えりかがいた。

舞美は、えりかを信頼しきっている様子で、涙のそのすべてを預けていた。
二人が仲がいいことは知っていたが、最近もそうだとは知らなかった。
梨沙子は、舞美に声をかけることなく通り過ぎた。

あとで聞いたことだが、えりかは停学で年が明けてからは学校に来ていなかったらしい。
スカートが短かっただけと聞いたときは、梨沙子は今後の三年間にゾッとした。
107 名前:; 投稿日:2007/04/04(水) 00:41

休み中、雅が二度遊びに来て、一度は泊まりだった。
最近、雅はまた優しくなったように思う。
どこか焦れたような刺々しさが消え、昔、雅が今の梨沙子よりも小さかった頃に近くなった。
昔よりも、自信に満ちている。
梨沙子は今も昔も雅のことが好きだが、今のほうが好きだと確認した。

同時に、遠くまで行けてしまいそうな雅に、梨沙子は焦れてしまいそうになる。
思えば、梨沙子はずっと雅に追いつこうとしてきた。
だが雅は、いつも梨沙子のずっと先にいる。
108 名前:; 投稿日:2007/04/04(水) 00:41

梨沙子は釈然としない思いで、ボーっと午前の惰眠を貪る。
よぎっていた雅の隙間に、舞美の笑顔がちらちら浮かんだ。
舞美からの初めてのメールは、卒業式おめでとう、といったものだったが、返信していない。
ほとんどすべてを投げ打ったつもりでの行動は、舞美にとってはただの親愛の印だったようだ。
関係に影響がなかったことに安心したが、それ以上に落胆があった。
なにを望んでいたわけではない。

卒業して、どれくらい経ったのかはっきりしない。
知らぬ間に長い時間が流れて、入学式が目前に迫っている。
すっかり春めいてきた陽射しが、窓を透けて梨沙子を暖める。
眠くはなかったが、起きるのも面倒で梨沙子は目を閉じた。
109 名前:; 投稿日:2007/04/04(水) 00:41

陽射しが引いて、ひとつ冷たくなった雰囲気に目を覚ました。
梨沙子は起き上がり、ベッドに残る温みを疎ましく思った。
何もない日々が続いたことで、梨沙子は自分がなにを拒否していたのか、わからなくなってしまった。

夕食前、ふと思い出して愛理の家に行くと嘘をついた。
梨沙子の卒業式あたりを境に、兄が前よりも家にいるようになったので必要性を感じていなかったが、
もう一度あの店に行くと言ったのを思い出した。

外に出ると、昼間にこもった町の熱が梨沙子を包んだ。
風が吹き、軽く梨沙子を抱きとめる。
バランスの悪い柔らかな空気に、梨沙子は何かをくすぐられたような気がした。
しなければならないことをどこかに置き忘れてきたようで、気分が重くなった。
110 名前:; 投稿日:2007/04/04(水) 00:42
躊躇わずに入れた店の中には、当たり前のように兄がいた。
最近はよく家で会っているせいか、前回のような感動はなかった。
梨沙子はカウンター、兄のすぐ前の席に座った。
テーブル席には、まだ早い時間だというのに若い女が数人さわいでいた。
まだ灯の入らない店内に、うすく夕闇が差している。

ふと梨沙子は美術教師のことを思い出した。
思い出さないようにしていた。
卒業を前に挨拶に行ったきり、会っていない。
美術教師は卒業生を送り出し、ひとつ小さくなったように見えた。
梨沙子にはそれが、卒業式だけのせいだとは思えなかった。

「さみしそうな顔してるね」
憔悴したような美術教師が、笑顔を作った。
「悲しそうなのかな」
梨沙子は首をふろうと美術教師を見た。
かたまってしまい、首を傾げたようになった。
「どっちも一緒か。さみしいと悲しくなるし、悲しくなると、さみしくなっちゃうし」
111 名前:; 投稿日:2007/04/04(水) 00:42
ずいぶんと背の高い、甘たるい顔立ちの女が梨沙子を現実に引き戻した。
梨沙子と目が合うと、にこにこ顔をほころばせる。
「この子が梨沙子ちゃんですかー?」
「そうですよ」
串をまわしていた兄が答えた。
「かわいいっ!」
身悶えして高い声を絞りだした女は、梨沙子にさわりたそうにしている。
梨沙子が不安そうに兄を見る。
「前に梨沙子がここ来たときの」
「お姉ちゃんから聞いたの」
「ああ」
大袈裟に梨沙子が反応した。

「本当にかわいいね」
身をかがめた女が、梨沙子を覗きこむ。
にやけた梨沙子が、おそるおそる聞いた。
「本当ですか?」
「うん。わたしのほうがかわいいけど」
梨沙子がガッカリしたよう笑う。

女が友達に呼ばれて席に戻ると、梨沙子は少し浮かれたように、兄を向いた。
「梨沙子、お前ちょっと明るくなった?」
「前から明るいもん」
そういうことじゃなくて、と兄は言いかけて、やめた。
空腹だったのか、梨沙子がすごい勢いで食べている。
112 名前:; 投稿日:2007/04/04(水) 00:42
早食いの梨沙子がやけに大事に二皿目を食べていると、先ほどの女が隣に座ってきた。
酔いがまわってきているのか、色白の女は首まで桃色に染まっている。
「梨沙子ちゃんだけずる〜い。チャーハンなんてメニューに書いてなかったー」
梨沙子メニューだからと兄が言い、梨沙子が恥ずかしそうに顔を伏せた。

頬をふくらませた女が、手に持ってきたグラスを唇にさし込んだ。
「お酒飲んでいい年なの?」
「だめだよ、わたし十七だもん」
「なんで?」
飲んでいいの? と名残惜しそうに最後の一口をスプーンですくった。
「地元こっちじゃないから、大丈夫」
「ああ、そういえば」
「お姉ちゃんが春休みに帰ってきたから、代わりにわたしが友達とこっちにいるの」
梨沙子が納得したような、していないような顔をしている。
113 名前:; 投稿日:2007/04/04(水) 00:42
携帯が鳴り、梨沙子は驚いて立ち上がった。
「梨沙子の携帯だろ? 鳴ってるの」
兄が女にチャーハンの入っている皿を渡す。お姉さんにお世話になってるから。
必要以上の感動をもって女は喜び、早速食べ始めた。
「梨沙子ちゃんはいいなー。優しいお兄さんがいて」
通話中の梨沙子が目だけで返答する。
「お姉ちゃんのことは大好きだけど、なんかちがう感じがするなー」
梨沙子が、え? と電話の向こうに聞きなおした。
「それにすっごいきれいな彼女がいるんでしょ? 美術の先生だっけ。なんかいいなー、そういうの」
女はおいしそうに食べながら、器用にぼやいている。
そして、梨沙子の反応に、表情が凍りついた。
兄のほうも確認し、うなだれた。

「あ、でんわ、舞美ちゃんから。急に愛理の家に泊まることになったって」
突然の、考えてもなかったことに、梨沙子はあばばばとなり、
本当のことを言っているのに、嘘をついているように言葉が宙を浮いた。
兄にごちそうさまを言い、店を出る。
階段を降り、通りに入ってしばらくして、兄が追いかけてきた。
「俺も最近まで知らなかったんだ。向こうも、もちろん」
「でも……」
その最近はいつくらいの最近なのか、聞けなかった。

梨沙子は唇を噛んで下を向いている。
なにをどうすればいいのか、わからなかった。
目の前の兄の顔を見れないかわりに、美術教師の顔ばかりが浮かんでくる。
兄の持っていた包みを握らされた。
「明日わたそうと思ってたんだけど。……誕生日おめでとう」
頭上から降ってくる声に、なんだか誤魔化されているような気がした。

114 名前:; 投稿日:2007/05/16(水) 00:23





115 名前:; 投稿日:2007/05/16(水) 00:24

数十分前まで激しく降っていた雨が嘘のような、見事な晴天が広がっている。
雨跡の残る町並みが、幾分か眩しく見える。
梨沙子ははためくカーテンの隙間から漏れてくる心地いい風に、満腹も手伝って、
からだが机の上に重く落ちていくのを感じている。
教壇では、英語の教師が、黒板にゆっくりと英字を書き連ねている。

中学に入ってからは時間が経つのが恐ろしいほど早かった。
振り返ってみると、小学生だった頃が異様に遠く感じたりもする。

愛理とは違うクラスになった。
千聖と同じクラスになった愛理は、
「よく話してみると、千聖はおもしろいし、すごく優しい」
と言っていた。
梨沙子は、愛理と千聖の間に距離があることすら、知らなかった。
今でも週末は愛理の家で過ごしているが、その回数も減った。
廊下ですれ違っても、二言三言話して終わりのときも多い。
梨沙子には、それが少し寂しい。
116 名前:; 投稿日:2007/05/16(水) 00:24

授業が終わり、教科書を鞄に仕舞おうか迷っているとき、ふと兄の店に行きなくなった。
あれ以来、顔を合わせても、兄は何も言わないし、梨沙子も聞かない。
雨上がりの夕焼けが梨沙子の目に入り、それと似たような朝焼けを思い出した。

中学生としての生活が始まり、変に背筋が伸びていた頃だった。
昼寝をしてしまった梨沙子は、一度寝たが、深夜に目が覚めてしまった。
枕元のスタンドの灯りで本を読んでいた梨沙子は、その光が徐々に弱くなってくることに気がついた。
窓を見ると、濃緑色のカーテンが青白い光に膨らんでいた。
それが朝だと気付いたとき、玄関のドアに鍵が刺さる音がした。
驚いたが、兄が帰ってきたのだろうと身を起こした。
117 名前:; 投稿日:2007/05/16(水) 00:24
薄暗いリビングで兄は、辛そうにビールを呷っていた。
梨沙子が酒の臭気を感じる距離になって兄が振り返った。
「起きてたのか」
「うん。今日昼寝したから、夜おそくに起きちゃった」
「そっか」
兄はビールを飲みきり、テレビの画面を眺めている。
テレビには、ソファで眠ってしまいそうな兄と、
その隣でどうしていいかわからずに立っている梨沙子が映っている。
「今日、飲み会だったの?」
「ばいと」
「バイト終わって飲んだの?」
「そう」
兄は酷く酔っていて、短い単語でもろれつが回っていない。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないさ」

立ち上がろうとしてよろけた兄を、梨沙子は支えた。
「梨沙子もちょっとは寝ておけ」
「眠くないもん」
「そっか」
梨沙子は、芯を失ったように歩く兄の下に潜り込むように、階段を上がった。
のしかかるような兄のからだは熱くて重く、梨沙子の額にあっという間に汗が噴いた。
階段を上がりきり、別れ際、兄が部屋の前で立ち止まった。
「先生、なんか言ってた?」
梨沙子は一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。
朝の静寂にも押し潰されてしまいそうな小さな声だった。
兄は梨沙子の返答を待たずに部屋に入ってしまった。
118 名前:; 投稿日:2007/05/16(水) 00:24

玄関で靴を履き替えているとき、友理奈に声を掛けられた。
「梨沙子帰んのー?」
「うん、帰るー。なんで?」
「部活はー?」
友理奈にバトミントン部に入ると言ったことを思い出した。
結局、入部するとなると面倒になって見学だけで終わりにした。
梨沙子が誤魔化すように笑顔を見せると、友理奈それだけでわかったのか、
「放送部に入りなよ。まあもいるし」
考えとく、と梨沙子はやっと馴染んできたローファーの踵を鳴らし、手を振った。

校舎を出て、グランドを抜ける。
梨沙子のクラスの美術は、いつも肘当てのついたジャケットを着た老人だった。
学校で会えば、美術教師とは話すが、教師と生徒の関係でしかない。
ほんの二ヶ月ほどのことだったが、あれは一体なんだったんだろうと思ってしまう。
美術室のほうは、見ないようにした。
119 名前:; 投稿日:2007/05/16(水) 00:25

一度家に帰り、電車に乗って隣駅で降りた。
改札を抜けた先の小さな広場の花壇に、舞美が腰掛けていた。
鞄を脇に置き、やや足を伸ばすようにしている。
スカートは中学校の頃とは違い膝上で、それだけで爽やかに見えた。
隣には見知らぬ少女が舞美と同じように腰掛けている。

梨沙子が声をかけようか迷ったまま通り過ぎようとした。
気付いた舞美が、声をかけた。
「梨沙子!」
こっち、と手招いている。
「久しぶりだねー、元気だった?」
舞美は鞄を隣の少女に渡し、梨沙子の座るスペースを作った。
梨沙子は促されるように舞美の隣に座る。
この舞美のペースが、梨沙子には懐かしい。

「友達できたんだ」
高校から入ってきたの、と舞美が隣の少女を梨沙子に紹介した。
「真野恵里菜です」
少女はそれだけ言って、梨沙子に笑顔で会釈した。
綺麗な顔立ちが柔らかな皺に優しくなり、梨沙子を涼やかに撫ぜるようだった。
「菅谷です」
「梨沙子ちゃんでしょ? 舞美から聞いたことある。パッと見で、わかっちゃった」
舞美が、わたし梨沙子って呼んだし、とか言って、と笑っている。
120 名前:; 投稿日:2007/05/16(水) 00:25
梨沙子は恵里菜のことをじっと観察する。
本当に綺麗で、見ていると落ち着く顔だ、と梨沙子は思った。
体格は梨沙子とそれほど変わらないだろうが、妙に小さく見える。
一歩引いたような穏やかな雰囲気が、不思議な磁力を生む。
すぐに仲良くなれそうな気がした。

視線に気付いた恵里菜が、くすぐったそうにはにかみ、肩にかかる程度の黒髪に指を通した。
「なに梨沙子見つめちゃってんの?」と舞美に肩をつつかれた。
「見つめてないよぉ!」
梨沙子がムキになると、舞美が「ほらね」と言い、恵里菜が顔をほころばせた。
舞美は、梨沙子がかわいくて仕方がないといった表情をしている。
121 名前:; 投稿日:2007/05/16(水) 00:25
梨沙子はこの二人を、どこか遠い存在のように感じた。
舞美は紺色のベストを着ていて、恵里菜は白を着ている。
それだけで、もう別世界の人のように思えてしまう。

「これからどうする?」
恵里菜が風に乱れる髪を抑えている。
「そういえば梨沙子、なんか用事あったんじゃないの?」
「おにいちゃんのとこに行こうと思っただけだから、べつに」
「そうなんだ、じゃあ、一緒に行っていい?」
「いいけど、つまんないよ」
「じゃ、行こう!」
すっくと舞美が立ち上がり、スカートの埃を払っている。

まだ座っている恵里菜に、梨沙子は気付いた。
「わたしも行っていい?」
どうしてそんなことを聞くのだろうと思った。
梨沙子は大きく、はっきり恵里菜にわかるように頷いた。
「もちろん」
122 名前:; 投稿日:2007/08/07(火) 23:54





123 名前:; 投稿日:2007/08/07(火) 23:54

気付けば、夏になっていた。
先ほどスイッチを入れたエアコンの冷風が床を這い、
ぬるく蒸した店内の空気をかき混ぜていく。

梨沙子は窓際のテーブルに座り、夏休みの宿題を積み重ねた。
普段は夜しか映していない窓が、天頂を過ぎたばかりの陽光にちりちりと焦げているようだ。
簡単ですぐに終わりそうなものは、もうほとんど手をつけてしまった。
梨沙子はドーナツの箱をあけ、小さくかじった。
「お兄ちゃん、牛乳」
「ねえよ」
カウンターで本を読んでいる兄が、肘をついたまま言った。
124 名前:; 投稿日:2007/08/07(火) 23:54
もう、と梨沙子はムッと唇を尖らせるが、兄は背を向けたままだ。
梨沙子は諦めたように息を吐き、てきとーに一冊抜き出した。
夏休みに入ってから、梨沙子は兄のバイトする店にいることが多くなった。
最初の数日は友達と遊べと言われていたが、今はもうなにも言われない。
まだ一度も店長には会っていない。
他に楽しいことがあるからと、店を放り出して別のことをしているらしい。

「お兄ちゃん、牛乳」
「じゃあ、買ってきてよ」
面倒そうにレジを指し、ついでに煙草も買ってきて、とまた読書に戻った。
梨沙子もまた外に出るのは嫌だと、レジの開け方は知っているが動かない。
店自体は兄ひとりでやることも多いらしく店長の不在でもそう問題ないらしいが、
混み合っているときは梨沙子もなんとなく手伝うようになり、レジ打ちやメニューを覚えてしまった。
「中学生はたばこ買っちゃダメなんだって」
「バイトもしちゃいけないんだぞ」
「お金もらってないじゃん!」
「今度やるよ」
気を削がれてしまった梨沙子は、疎ましそうにカクテルの本を見ている。
最近になって、梨沙子が夏休みに入ってからはずっと、兄は酒の勉強をしている。
棚には、今まではなかった、外国の文字の入った甘い酒のボトルが並ぶようになった。
125 名前:; 投稿日:2007/08/07(火) 23:54
こんにちはー!
凛とした心地よい声が階段のほうから聞こえる。
梨沙子はドアから顔を出して、階段をあがってくる恵里菜を迎えた。
恵里菜は、前髪はおろしたままでふたつ縛りにしている。
同じ髪型じゃない。
今日、梨沙子は、シャワーを浴びてそのままにしてある。
少しホッとして、残念だと悲しい気持ちになる。

同じような髪の長さだからか、二人はよく、髪型がかぶる。
そのままおろすか、ふたつに縛るか、左右どちらかに寄せて縛るか、それくらいしかない。
兄や舞美に言わせると、前髪の直し方もそっくりだそうだ。
二人とも、左手で撫でるようにして前髪を直す。
126 名前:; 投稿日:2007/08/07(火) 23:54
梨沙子と目が合うと、恵里菜はふっとほどけたような笑顔になる。
美しい顔立ちが瞬時に幼くなり、梨沙子は生意気にも自分が年上のように錯覚する。
「今日も暑いね」
「ドーナツあるよ」
恵里菜の笑顔が、さらに甘たるいものになる。
つられた梨沙子はにやにやと恵里菜を招き入れた。

「こんにちはー」
恵里菜はドーナツにではなく、まっすぐカウンターに向かった。
「今日はどんなのですか?」
「グレープフルーツジュースとか好き?」
「はい!」
「じゃあ、それにする」
人と話すとき、恵里菜はまっすぐに相手の目を見る。
その視線に兄はたじろいでいる、と梨沙子はおもしろくない。
恵里菜のことは好きだが、二人が仲よさそうにしているのを見ているのは嫌いだ。
127 名前:; 投稿日:2007/08/07(火) 23:55
「ぎゅうにゅう!」
厨房に入る兄に、怒鳴った。
だから買ってこいよ、ほとんど取り合われず、梨沙子はさらに不機嫌になる。
「牛乳のみたいの?」
「ドーナツだもん」
「前に舞美ちゃんもおんなじこと言ってた」
恵里菜が笑う。
その笑顔に、梨沙子はほんわりしていく自分を戒める。

「じゃあ、一緒に行こう?」
カウンターの、一番エアコンの風のあたる位置にいた恵里菜が立ち上がった。
いいよ、梨沙子に行かせていいから、厨房から声がする。
梨沙子は、二人になりたいからそんなことを言うんだと、兄を不潔だと軽蔑する。
ちょっと前まで、うちが小学校卒業するくらいまでは美術の先生だったのに。
カクテルの勉強だって、舞美や恵里菜を呼び寄せるためにやっているんだ。
「ね? りーちゃん」
恵里菜の呼ぶりーちゃんは、皆のように平坦ではなく、り、にアクセントがかかる。
それがかわいらして、梨沙子は恵里菜に呼ばれるのが大好きだ。
癇癪を起こした。
「いい! ウチひとりで行ってくる!!」

叩くようにレジを開けた。
煙草買ってきて、と聞こえたが、やだ! と声を荒げた。
「なんかわたし、まずいこと言っちゃった……んですかね」
「気にしなくていいよ」
「でも……」
「いいって、いいって」
梨沙子の苛立ちは頂点に達し、もう! と地団駄ふんで階段を駆け下りた。
128 名前:; 投稿日:2007/08/07(火) 23:56
真夏の太陽に炙られて、怒りはどろどろにとけてなくなった。
冷静になった梨沙子は、自分の取った行動の幼稚さに赤面した。
二人きりにしてしまった。
後悔が襲ってきた。

すぐに戻ろうとも思ったが、自意識が許さない。
重くなっていく気分を吹き飛ばすように駆けた。
少しでも早く買い物を終え、すぐ店に戻ろうと。
129 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/08(水) 22:44
やっと来た!!待ってた甲斐がありました!!
洗練された文章に感心するばかりです。
これからも頑張ってください!
130 名前:; 投稿日:2007/08/11(土) 21:58





131 名前:; 投稿日:2007/08/11(土) 21:59

視界が狭い。
ぐるぐるしている。
人々の声が重なり合って膨張し、ひどい圧迫感がある。
酒と油と煙草のにおいに満ちた店内で、梨沙子はふと息を抜いた。

慣れてきたとはいえ、まったくの未知の、異世界だ。
その中にあって梨沙子は、自分と、自分の外を意識する。
大丈夫か? 声をかけられたわけではないが、視線を感じた。
梨沙子はカウンターの中を振り返り、口の端に笑みをうかべて頷いた。
立ち尽くしていたことに気付いて、動き出した。
132 名前:; 投稿日:2007/08/11(土) 21:59
テーブル席に空いたジョッキを見つけた。
失礼します、と声をかけ、反応を見ずにジョッキの取っ手を掴んだ。
客が、Yシャツを来た中年のサラリーマン風だったからだ。

厨房に入って流しにジョッキを置いた。
人の使った食器に触れることに抵抗感があったが、すっかりなくなった。
触れたくない部分には、触れなければいい。

冷蔵庫からオレンジジュースのボトルを出した。
片隅にある丸椅子に腰をおろした。
以前はなかったものだ。
梨沙子はボトルをかたわらに置き、両手を突き上げて伸びた。
疲れてはいないが、眠気が滲みでてきた。
133 名前:; 投稿日:2007/08/11(土) 21:59
たっぷり氷を入れたグラスに、なみなみとオレンジジュースを注ぐ。
グラスをからからまわしながら、カウンターの向こうに首を伸ばした。
ほとんど見えない。
氷の弾ける音がした。
ここは静かだと、梨沙子は特別な場所にいるような気分でジュースを飲む。

串の載った皿を持った兄が、流れるような動作で客席に向かった。
こうして一緒にいることが不思議だと、梨沙子はむず痒いような気持ちになる。
数ヶ月前までは、ほとんど顔もあわさないような生活だった。
いなくなってきた人が不意に帰ってきたような違和感に、自然だった状態を思い出せない。
元々こんな距離感だったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

戻ってきた兄が、すっかりリラックスしている梨沙子に気付いた。
さぼってんじゃねえよ、と口を動かした。
梨沙子は息を吐くようにして曖昧に笑う。
ふっと相好をくずした兄が過ぎていくのを見送る。
134 名前:; 投稿日:2007/08/11(土) 21:59
梨沙子は、自分の中にある大きな変化を実感している。
それがなんなのか、知ろうとすると頭が痛くなって、収まりのつかない衝動に揺さぶられてしまう。
わかっているのは、自分がなにかと向き合おうとしていることだけだ。
実は生まれたときから向き合っていたと知った、というほうが正確かもしれない。
思考がかけめぐりはじめたので、数度まばたきをして、自分の周囲を確認する。

見えていたが見ていなかった周囲のものが、すーっと輪郭を帯びる。
そろそろ休憩を切り上げようか、と氷のとけて薄くなったオレンジジュースを口にした。
まだ冷たさの残るそれは甘みが弱く、柑橘のすっぱさが梨沙子の舌を刺した。
まさか自分がバイトをするとは思わなかったし、できるとも思ってなかった。
兄のフォローや客の好意のおかげもあるが、今のところ、大きなミスはしていない。
135 名前:; 投稿日:2007/08/11(土) 21:59
経験で、男の人たち、とりわけ中高年は好意的だとわかった。
隙さえ見せなければ、変に絡んでくることもない。
逆に女の人たち、梨沙子の見た目でおばさんには気をつけている。
細々したことで、露骨に嫌な顔をしたりする。

手伝い始めのころ、注文したものとちがうと文句を言われたことがある。
文句を言っていたのは一人だったが、肌の垂れかけた女四人はみな同じような嫌な顔をしていた。
バカにされたような視線に梨沙子はわけもわからず悲しくなり、それから腹立たしくなった。
すぐに兄が入ってきて話を聞き、そうは言わなかったが女の注文ミスだとわかった。
正しいものを作り直すと兄は謝り、女たちはそれが当然だというような顔になった。
梨沙子には謝らなかった。
136 名前:; 投稿日:2007/08/11(土) 22:00
店が終わったあと、梨沙子はどうしてあんなに文句を言われたのか聞いた。
あの年代はアホが多いし、お前に嫉妬してるだけだから取り合うなと言われた。
納得いかない顔をしていると、兄は梨沙子に淡い緑色のドリンクを出し、隣に座った。
お前、若いしかわいいから。

そのとき梨沙子は、まあね、と笑って話を終わらせた。
そういうことを言う兄にも、そういうことを言うようになった自分にも、驚いた。
かわいいは昔から言われ続けてきたことだったが、どう返せば一番いいのか、わからなかった。

あとになった思ったことだが、外にいるから言うし言えることなのかもしれない。
家にいるときと、外にいるときでは、関係が微妙にちがうような気がする。
137 名前:; 投稿日:2007/08/11(土) 22:00

メールをチェックしてから戻ることにした。
携帯を取り出そうと、七部丈のパンツのポケットを探った。
今夏のためにと買ったものだ。

愛理からメールが着ていた。
舞美と恵里菜がピースしている写真が添付されている。
今日、愛理の家に泊まりに行くことになっている。
店に行ってから、とカッコつけたが、最初から行けばよかったと思った。

寄ってきた兄が携帯を覗きこんだ。
「見ないでよ」
「見てないし」
梨沙子が携帯をかくすように胸にだき、睨み上げる。
へらへら笑っている兄は、三人、迎えにきたよ、と言った。
にこにこした愛理と舞美と恵里菜がカウンターから顔をだし、梨沙子に手をふっている。
138 名前:; 投稿日:2007/08/11(土) 22:00
ああ! と大声を出して立ち上がり、口を噤むように手をあてた。
お客さんは? と目で聞いた。
「もうみんな帰ったよ」
お前ボーっとしすぎだよ、と頭に大きな手が置かれる。
首がぐんと下がる。
梨沙子は照れくさくなってその手を払いのけた。

「迎えにきたよー」
愛理のあっけらかんとした声がして、顔を上げる。
顔をくしゃくしゃにした舞美が、うんうん頷いている。
一歩下がった恵里菜が、満面の笑みで焼き鳥を頬張っている。

兄が三人に見えぬよう、立ち上がった梨沙子のポケットに指を差し入れた。
お疲れさま、とりあえず今日の分だけ。バイト代。
その小さな声に、ありがとうと言った。
以前よりもありがとうという言葉を口にしやすくなったかもしれない。
調子に乗って偉そうにおごったりするんじゃねえぞ、からかうような声は無視した
139 名前:; 投稿日:2007/08/11(土) 22:01
>>129
ありがとうございます。
あんま間を空けないようにがんばります。
140 名前:; 投稿日:2007/08/16(木) 00:03

すっかり馴染んだテーブル席で梨沙子は、落ち着きなく宿題に向かっている。
まだ開店の三時間前だというのに、カウンターでビールを飲んでる女がいる。

馴染みのようで、その女がひょこっと顔を出すと、兄はさっとビールを出し、
気を使わなくてもいいからと言うのを無視して、火をおこした。
哀れにも色っぽくも見える派手な身なりの女は、ぞろ目の三十三歳、裕子さんだと紹介された。
三十四だと年齢を訂正する凄まじい迫力に、梨沙子は圧倒された。
試すように自分を見る女の目が怖いと、梨沙子はテーブルから動けない。

息を詰めるように身を縮ませている梨沙子とは対照的に、二人は和やかに話している。
梨沙子の視線はプリントの文字とシャープペンシルの先を数度往復してから、二人に向く。
それをくり返している。
141 名前:; 投稿日:2007/08/16(木) 00:03
女は薄く開いた唇のすきまに流し込むようにビールを飲んでいる。
ここからよく見る、舞美や恵里菜のそれとはまるで違う洗練された動作に梨沙子は見惚れる。
気付いた女が梨沙子を誘うようにグラスを掲げた。
梨沙子は首を振る。
「この子、飲まんの?」
「まだ中一ですよ」
「ええやん、あんただって飲んどったやろ?」
「飲んでませんよ」
本当か嘘なのか曖昧な口調だった。
わたしには酒だといってジュースを出すのに、と梨沙子は少しムッとする。

「それにしても、お盆ってのもひまやなー」
「なんかなかったんですか? 旅行とか、実家に帰るとか」
「うっせ」
「荒んでますねえ」
「殺ね!」
女が食べ終えた串をカウンターの向こうに投げつけた。
梨沙子が肩を震わせる。
こえー、と兄は笑って一歩下がった。
女はふんっと頬を歪めるだけだ。

女は兄をかわいがっているように見えるし、兄は女に甘えているように見える。
親密さの見える信頼関係に、どういった知り合いなんだろうと梨沙子は興味をかきたてられる。
142 名前:; 投稿日:2007/08/16(木) 00:03
こんにちはー、羽がはえているような軽い歩調で舞美が入ってきた。
入ってきた瞬間目に入った女の出で立ちに驚いたような顔になる。
なんだろうと軽く会釈をし、汗を滴らせて梨沙子のところに来た。
「暑いねー、今日」
「なんで隣に座るの?」
「いいじゃん」
向かいが空いてるのに、と梨沙子は席を詰める。
舞美がからだを寄せてくる。
梨沙子がさらに席を詰めると、その分、寄ってくる。

女との間に、舞美がいる。
梨沙子はいくぶんか安心し、宿題を再開した。
恵里菜、今日お墓参りだから来ないって、と舞美が言った。
顔が近い。
「あ、今日か。そういえば前に言ってたね」
「梨沙子は? 行かないの?」
「うん」
今日、両親と弟で行っているはずだ。
兄はもちろん、梨沙子もなんとなく行かなかった。
無理にでも連れていかれるかと思ったが、母はわりとあっさり引き下がった。

舞美がにこにこと梨沙子に笑顔を向けている。
聞いてほしいのかな、と思った。
「舞美ちゃんは?」
「わたしの家も今日だったんだけどねぇ……、行かなかった!」
冒険の途中のような舞美の明るい表情に、梨沙子の口がだらしなく開いた。
なになにぃ、と舞美が梨沙子の頬をほじるように突付く。
梨沙子は顔をのけぞらせて舞美の手をはらう。
143 名前:; 投稿日:2007/08/16(木) 00:03
あの子も、なんやいろいろ考えとるみたいやぞ。
それまで途切れていた女の声が聞こえ、そのニュアンスが梨沙子の心を捉えた。
兄を見た。
ほとんど無表情で、どこに向いているかわからない視線が、カウンターの端に留まった。
女も同じところに視線を走らせ、泡の消えたビールを飲み干した。

すべての動きが止まり、沈黙が生まれる間際、こんちわー、と男が入ってきた。
野菜の詰まったダンボールを抱えた腕は、まっくろに焼けている。
気のいいおじさんといった、皺寄った笑顔が兄と、梨沙子の両方に向けられる。
舞美ちゃん、ちょっと、と舞美を退けさせた梨沙子が、男に駆け寄る。
「ごくろうさまです」
「梨沙子ちゃん、挨拶も上手になってねー。これ、いつものところでいいかい?」
梨沙子が頷くと、男はダンボールを持ち直し、厨房に入っていく。
144 名前:; 投稿日:2007/08/16(木) 00:04
梨沙子が伝票にサインするのを待ちながら、男が思い出したように言う。
「そういや、下に同じくらいの女の子がいたけど」
知らない、と梨沙子は伝票を返し、舞美を見る。
ん? と目を丸くさせた舞美もまた、知らないと言った。
「そう? ならいいんだけど」
まいど、男の声と、舞美の、あー! という絶叫が重なった。
舞美が店を出ようとする男の脇を素晴らしい速度で抜けていった。

「遊びたい盛りの子に手伝わせてんの?」
「店長もうしばらく来てないんですよ」
「あのおっさん、なに考えてんやろな」
「なんか、明治通りがキテるとかって、新しい店舗探してるみたいですよ」
「もうこっちの店には興味ないんやろな」
「ですよね、たぶん。卵がテーマとかって言ってましたけど、どうするんですかね」

梨沙子が二人の会話に聞き耳をたてていると、舞美が栞菜を連れて戻ってきた。
大丈夫? と首まで真っ赤にほてらせた栞菜に駆け寄る。
「うん」
そうは言うものの、栞菜は全身の水分が抜けてしまったようにぐったりしている。
145 名前:; 投稿日:2007/08/16(木) 00:04
中学に入って愛理と一緒にいると、栞菜といる時間が必然的に長くなった。
栞菜はいろいろなことに気がつくせいか、その時間は梨沙子にとって心地いいものだ。
同い年のような、姉のような気楽さで栞菜と付き合うことができる。
「いやー、すっかり忘れてたよ。ごめんね、栞菜」
「うん、いいよ」
声を張る余力もないのか、栞菜は力なく近くの椅子に座った。

熱中症になってんじゃない? と女が心配そうにしている。
梨沙子がノートで栞菜を扇いでいると、兄が氷をたっぷり入れたビニール袋を持ってきた。
「ま、いいではないか!」
舞美は弱りきった栞菜がかわいいとでもいうように、にこにこしている。
146 名前:; 投稿日:2007/08/22(水) 22:41





147 名前:; 投稿日:2007/08/22(水) 22:42

雅の隣に座っている。
これからどうしようと梨沙子は胸を高鳴らせている。
やや飽きてきた店内が、まるで別世界のようだ。
雅は頬杖をついて、なにか考えているようだ。

ここに来る途中、ばったり雅にあった。
どこに行くのか聞いた雅が手ぶらだったので、ドキドキしながら誘った。
ふーん、とあっさりついてきた雅に、梨沙子は少し気抜けした。

「梨沙子、休み中なにしてた?」
「だいたい、ここ」
「働いてんの!?」
雅の驚いた顔に、梨沙子は、まあ、うん、そう、としどろもどろに答えた。
顔は得意気にゆるんでいる。
「みやは?」
「受験勉強」
「ほんと?」
「いや、嘘」
つまらなそうにしていた雅の頬が、でへへとゆるんだ。
梨沙子も同じようにゆるみかけたとき、雅の表情が不意に引き締まった。
二人に背を向けるようにして本を読んでいる兄をちらりと見、話しはじめた。
みやにとってどういう距離なんだろう、と梨沙子は思った。
148 名前:; 投稿日:2007/08/22(水) 22:42
雅の表情はまたつまらなそうに翳っている。
「一昨日、男子に告白された」
「またぁ!?」
やっぱりみやはすごい。
大袈裟な梨沙子の声に、雅があわてて口を塞ぐ。
雅の手の中でおとなしくなった梨沙子は、もう静かにしてるからというように雅を見た。
「クラスの何人かで海行って、みんなにはめられて、なんか言われた」
最後だから、わいわいやりたかったのに、と不貞腐れている。

こういうとき梨沙子は、どう言ってあげればいいのか、わからない。
誰に告白されたのか、とか、だったら誰が好きなんだろう、とか、聞いちゃいけないのはわかっている。
一緒に海に行きたいけどれ、行こうと言い出せない自分のこともわかっている。
149 名前:; 投稿日:2007/08/22(水) 22:42
「みやはそういうの嫌なの?」
「嫌じゃないけど、きらい」
なんとなく言いたいことはわかる。
どう言えばいいのか、言葉を捜しあぐねていると、膝に手が置かれた。
雅の視線に梨沙子は、あ、と開きかけてた股を閉じる。
雅がふっと張っていた気を抜くように笑んだ。
「梨沙子も見られてるんだから、ちょっとは意識しないと」
「えー?」
困ったような顔を作ったが、悪い気分ではない。
言われるだけならいいけど、実際にそういう場面にはなってほしくないと梨沙子は思っている。

階段を蹴り上げる音でわかった。
梨沙子は悪戯っぽく、声を少し鼻にかけて言った。
「あ、モテモテの人がきた」
150 名前:; 投稿日:2007/08/22(水) 22:42
こんにちはー、土産物のふくろを提げた恵里菜が入ってきた。
梨沙子に向けられるはずだった笑顔が、雅の存在に、すっと落ちた。
あ、これだ、と梨沙子は思い出す。
初めて会ったとき、梨沙子は恵里菜の美しい顔立ちの涼やかさに惹きこまれた。
いらっしゃい、兄の声が間抜けに遠のいていく。

梨沙子は、自分と雅の向かいを指し、テーブルをばんばん叩く。
喜びが滲んでくるのが、はっきりわかる。
大好きな雅と、恵里菜を引きあわせることができて、その役目が自分の中にある。

うん、と口元を軽く引きしめ、恵里菜が正面に座る。
雅の緊張した気配が伝わってくる。
それが、梨沙子には気持ちいい。
「みや、恵里菜ちゃん。恵里菜ちゃん、みや」
手振りをまじえながら交互に紹介し、梨沙子は満足したように一息つく。
それだけ? と雅が口を開け放している。
恵里菜が笑った。
人懐こい、いつもの愛らしい笑顔だ。
梨沙子も楽しくなってくる。
151 名前:; 投稿日:2007/08/22(水) 22:43
おかしなテンションの上がり方をした梨沙子が、うんうん恵里菜に頷いている。
「恵里菜ちゃん、モテモテなんだもんねっ!」
盆前に愛理の家に泊まったとき、舞美がそんな話をし、恵里菜は否定しなかった。
恵里菜は、ん? と土産を開いていた手を止め、数度瞬きした。
そして、どうでもいいといったように笑った。
「おばあちゃん家に行ってたんだ」
どこに行っていたのか、梨沙子は聞かなかった。
どうせ聞いてもわからない。
雅も同じだった。

恵里菜がビリビリ乱暴に包みを破く。
クッキーだった。
「食べよう?」
152 名前:; 投稿日:2007/08/22(水) 22:43
梨沙子と雅に一個ずつ渡し、恵里菜はおいしそうに食べている。
どこに行ってたの? 
包みを開けようとした梨沙子が、振り返ってこちらを見ている兄に気付く。
恵里菜がさっとクッキーを四、五個つかみ、カウンターに駆けていく。

梨沙子の顔が崩れてしまいそうに歪む。
愛理の家で兄の話になったとき、恵里菜は身を乗り出していたような気がした。
ほんの短い時間だったが、梨沙子は気が気じゃなかった。
「あ、サクサクだ」
クッキーを食べていた雅が、梨沙子の異変をぼんやり眺めている。
153 名前:; 投稿日:2007/08/31(金) 01:35





154 名前:; 投稿日:2007/08/31(金) 01:36

「ボーっとしてると、終わらないよぉ〜?」
空いたカウンターを眺めていた梨沙子を、愛理が下から覗きこんだ。
そんなんじゃないよ、梨沙子は残った数学の問題に向かい、すぐに顔をあげた。

愛理と、栞菜が並んで座っている。
かるく口をすぼめるようにして黙々と筆を進める愛理を、栞菜がじっと見ている。
雨が降るのかな、梨沙子は数日前ほど陽光の差さない窓を見ている。
愛理がふっと考えこむように眉間に皺をよせ、腕をくんで首をひねった。
うーん……、しばらく考え、甘えるように栞菜に笑いかけた。

寄せられた問題をさっと解いた栞菜が、にこにこしている愛理の口に飴玉を放りこんだ。
やけに高くなった愛理の笑い声が、梨沙子の耳をつんざく。
迷惑そうに顔をゆがめた梨沙子に二人は気付かない。
恋人のようにくっついている二人に、なんだかなー、と梨沙子は思う。
155 名前:; 投稿日:2007/08/31(金) 01:36
金曜日と土曜日と日曜日が過ぎれば夏休みが終わる。
なにもなかったような気がする。
この店にいることが当たり前になっていた。
学校生活の再開への拒絶が、梨沙子の胸を握りつぶす。
ここに、馴染みすぎた。

「梨沙子、なに暗くなってんの?」
愛理が心配そうに梨沙子を見ている。
学校始まるのいやなんだー、栞菜が笑った。
「いやなわけじゃないよ」
強がった。
この店にほとんど毎日いることが、幸福だったと思い始めている。
舞美がいて、恵里菜がよく来ていて、愛理も、たまに栞菜もいた。

集中が切れてしまったのか、愛理がシャープペンシルを転がした。
金具がひっかかってテーブルをすべる様を、栞菜が目で追っている。
はぁ、と愛理が肩を落とした。
「宿題終わらなかったら、夏休みも終わらないのかな」
156 名前:; 投稿日:2007/08/31(金) 01:36
正直にならなければよかったと、梨沙子は後悔した。
愛理と同じように、息を吐いてしまった。
さらに空気が沈んでしまう。
あー、と栞菜が諦めたような声を出した。

恵里菜の笑い声が聞こえ、梨沙子の顔がパッとドアを向く。
入ってきたのは、兄だった。
やや遅れて、恵里菜が入ってくる。
本当に楽しそうな顔をしている。

「めずらしいじゃん、二人で」
梨沙子は、いま自分がどんな顔をしているのだろうと気になった。
愛理と栞菜が、梨沙子を見て、顔を見合わせている。
「ん? ここの前で会って、お昼ご馳走になったの」
ですよねぇ? と恵里菜が兄を見あげる。
いつもならおっとりに聞こえる恵里菜の口調が、梨沙子には媚びているように聞こえてしまう。
黙って頷く兄に、かっこつけてんじゃねえよ、とまず使わない言葉で、心の中で毒づく。
157 名前:; 投稿日:2007/08/31(金) 01:37
どこに行ったんですかあ? ぽかーと口をあけた愛理が聞いた。
「知ってるかな、不動産屋を左にまわったとこの」
「ここから?」
「そう、ベトナム料理」
おいしかったよ、と恵里菜が口を挟む。
以前よりも確実にちがう距離に、梨沙子は目を覆いたくなる。
「梨沙子とも前に行っただろ」
兄の気遣いがひどく惨めに思えてきて、癇癪しそうになった。

すっと恵里菜が隣に来て、梨沙子の目を見て、笑んだ。
梨沙子はどこか安らいだような気持ちになる。
なにに怒っていたのだろうかと、気がすけた。
158 名前:; 投稿日:2007/08/31(金) 01:37
「栞菜、この前の写真、持ってきてくれた?」
梨沙子の表情の変化を見て、恵里菜が栞菜に言ったのは、先日の花火のことだろう。
栞菜が持ってきたデジカメを奪った舞美が、手当たり次第に撮りまくっていた。
それを持ってくると、梨沙子のところにもメールが着ていた。
「持ってきたよ。でも、梨沙子が恥ずかしがって見たがらない」
ぼやいたような栞菜に続き、あんなにわたしかわいい? ってポーズしてたのにね、と愛理が言った。
そうそう、こんな風に! 栞菜がかわいい顔を作るが、過剰で変顔にしかならない。
こんなのもなかった? 愛理がデレデレに笑ったままなにかしようとするが、表情にならない。
愛理がかわいくて仕方ないといった栞菜が、ばんばんテーブルを叩いて悶えている。

恵里菜が、にこにこ二人の間で首をまわしている。
「そんなのしてないよー」
梨沙子が否定するが、愛理も栞菜も、恵里菜も、取り合わない。
バカにされているようだが、悪い気はしない。
理解されている、と思う。
159 名前:; 投稿日:2007/08/31(金) 01:37
ひと通り笑いのひいた愛理と栞菜が、思い出したように宿題を始める。
梨沙子は、目の前の宿題を放り出したままだ。
肘をついて宿題を見ているような見ていないような恵里菜と、目が合った。
恵里菜は目をパチリと開き、ん? と首をかしげた。
「なんでもない」
「なにがぁ?」恵里菜の口調はやわらかい。
「んー、なんだろ。なんでもないから、なんでもない」
言葉の端が照れ笑いに乱れてしまった。
にやにやした梨沙子が、くっつくように恵里菜に肩を寄せる。
いちゃいちゃしてると、愛理が指摘し、栞菜が騒ぐ。
どぎまぎ否定する梨沙子を、恵里菜がいとしそうに見つめている。

りさこ宿題しないの? 愛理が手を止めた。
ずっと愛理にいたずらしていた栞菜の手も止まる。
「もうやめた」
「やめちゃえ、やめちゃえー」
恵里菜が明るい声を出す。
「そういえば、宿題は?」
「まだ終わってない」
でもたぶん終わる、と笑った。
160 名前:; 投稿日:2007/08/31(金) 01:37
海に行きたい、梨沙子が言った。
愛理と栞菜が、にやりとおでこをくっつけた。
「行っとく?」
最近行ってないなあ、と恵里菜がつぶやいた。
「最後に行ったの、いつ?」栞菜が身を乗り出した。
「六月の初めかな」
「じゃあ、ちょうどいいね!」
栞菜がひとり納得したように頷く。
恵里菜も愛理も、よくわからないといった顔をしてる。

行こう! 興奮した様子で栞菜が立ちあがった。
「今から?」
梨沙子が怪訝な顔をする。明日でいいじゃん。
今から行くからいいの、と愛理が言い、恵里菜が梨沙子を立たせた。

渋々とだが、どこか表情のゆるんだ梨沙子は、恵里菜に手をひかれたままだ。
細長いグラスでビールを飲んでいる兄が視界の端に映った。
愛理と栞菜は、もう店を出ようとしている。
161 名前:; 投稿日:2007/08/31(金) 01:38
突然現れた女の出で立ちに、愛理と栞菜が竦んだように止まる。
二週間くらい前に来た、ぞろ目の人だ、と梨沙子は思った。
名前は思い出せなかった。

女は走ってきたのか息を弾ませ、額に汗を滲ませている。
店内に視線を一周させ、振り返った兄、ビアグラス、目の前の愛理と栞菜、恵里菜を見た。
梨沙子も、女の視線を追うように視線を一周させた。
兄のところだけ、なにかが剥がれているような気がした。

ちょっとごめんな、女が愛理と栞菜の脇を抜け、梨沙子の前に立った。
恵里菜の手の力が強くなる。
女は、どっか行くとこに悪いんだけど、と前置きした。
「梨沙子ちゃん、ちょっと来てくれんか?」

162 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:29





163 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:29

行かなくていいの?
言うのが躊躇われた。

梨沙子は明日の予定に心を逸らせている。
先日は結局海に行けず、夏休みの最終日に行くことになった。
舞美と恵里菜と愛理と栞菜、雅も来る。
愛理が誘ったら、二つ返事でOKだったらしい。
梨沙子と雅で佐紀を誘ったが、予定があると断られた。
164 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:29
兄が店の準備を始めている。
梨沙子は手伝おうか迷ったが、近づきたくなかった。
話したくないことを、話さなければならなくなる。
少し酔っているのか、恵里菜の高くなった笑い声がひびく。
雅と栞菜が大きな声を出している。

昨日、梨沙子は、始業式よりも二日早く制服を着て登校した。
裕子が、美術教師が退職すると言っていた。
理由ははっきりとは教えてもらえなかった。
ただ、二学期が始まる前に、美術教師はいなくなるとだけ聞かされた。
165 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:29
梨沙子はまだ二年以上もあると思っていた。
なにもしなかった三ヶ月と少しを後悔はしていない。

終わりが来るのは嫌だった。
話したいこと、教えてほしいこと、一緒にしたいことが、たくさんあった。

梨沙子が美術室に入るなり、声が刺さった。
待っていてくれたのかもしれない。
そっけない口調の棘が、やさしく感じた。
赦されたような気がした。
「遅いわよ、来るの」

166 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:29

りーちゃん。
引き戻された。
恵里菜が楽しくて仕方ないといった顔で寄ってきた。
どこか無理がある。
隠してはいるが、兄も昨夜から神経質になっている。
行動の端々に無理が見える。

ちょっとずつおかしいと、梨沙子は思う。
ちょっとが連鎖して大きな違和感を生み出し、皆それに飲まれている。
りーちゃん、ただ笑いかけてくる恵里菜はなにを感じて、こうなっているのだろう。
167 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:29
梨沙子は恵里菜の手にあるグラスを奪い、一息に飲み干した。
未知の匂いと味に、からだ中が拒絶を示す。
破裂しそうな心臓が、血を激しくかきまわし脳を揺らす。
瞼が熱い。

「もう一杯くださぁーい」
恵里菜がキッチンに入っていく。
やはりどこか媚びがあると梨沙子は感じる。
頭が重い。
突っ伏すと、すべてがきれいに消えうせてしまうだろうと思った。

そのほうが楽だ。
過ぎてしまえば、そのままだ。
梨沙子は、意志を持って、立ち上がった。
168 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:30

久々に会った美術教師は美しかった。
梨沙子がまだ小学生のころ、一緒に絵を書いていたときとも、
梨沙子が中学生に入ってから廊下ですれ違うときのかたい表情とも、
梨沙子しか周りにいないときに見せるやわらかな笑顔ともちがった。

なにを決めたのだろう、そんな疑問が梨沙子の脳裏に自然に浮かんだ。
そのとき初めて気付いた。
美術教師は、なにかを決めたのだ。
169 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:30
「裕ちゃんに聞いたんだよね?」
梨沙子が返答に戸惑うと、美術教師は言いなおした。
「あ、あの派手なおばちゃん。お姉さんかな」
ひっそりと笑う美術教師に、梨沙子は同調できなかった。
自分がいま立っている周囲のすべてが理解できなかった。
まだ中学一年生で、ほとんどなにも知らないからなのか。
瞬きしている間に、大人になっていればいいのにと思った。

本当にやめちゃうんですか? そう絞りだすのが精一杯だった。
美術教師は口元を締めるように微笑み、うなずいた。
「明日で最後。八月で終わりのはずだったんだけどね」
「本当は、今日だった」
美術教師の言葉をくり返すだけで、それ以上は聞けなかった。
「そう。でも、なんだかんだで、明日でおしまい」
「九月、一日?」
「うん、ごめんね。ずっと黙ってて」
どうして黙っていたのか、なぜ学校を辞めるのか、美術教師は言わなかった。
梨沙子は聞けなかったし、聞いても無駄だろうと思った。
美術教師は、今いる周囲のすべてを包みこんでしまうような、暖かな表情をしていた。
170 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:30

喉がカラカラに渇いていて、上手に喋れるだろうかと梨沙子は心配になった。
淡いオレンジ色のカクテルの入った細身のグラスを手に持った恵里菜が黙った。
梨沙子は強がって笑顔を作り、恵里菜の脇を抜ける。
兄の傍らに立った。
「行かなくていいの?」

昨日、制服に着替えてから、美術教師に会いに行くと兄に言った。
兄は一拍にも満たない間だったが、痺れたように動かなかった。
「行かなくていいの?」
問い詰めるように、兄の前に立った。
知ってるよ。返ってきた答えは、それだけだった。

「行かなくていいの?」
もう一度、聞いた。
兄は受けるとも逸らすともなく、梨沙子をじっと見ている。
梨沙子は逃げてしまいたかった。
171 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:30
梨沙子は一方的に、美術教師に対して引け目を感じている。
中学に入学する直前、疲弊しきった美術教師から逃げた。
ゆるやかに距離が遠のいていっただけだが、梨沙子はなにもしなかった自分を恥じている。

「行かない」
悲しそうな顔をしている。
「好きだったんでしょ?」
この数ヶ月、曖昧に誤魔化してきた。
わかっていても、梨沙子にとっては認めたくない現実だった。

先ほど飲んだ酒のせいか、気分が悪かった。
水を飲みたくなった。
兄から冷蔵庫へと流れる視界に、恵里菜が映った。

「あんまり、いじめるなよ」
自分は必要ない人間なんだ、そう言ってるように見えた。
「今日でいなくなっちゃうんだよ?」
「もう不必要なんだよ、お互いに」
兄は本当のことを言っているのか、今どこを見ているのか、
確かめるのが怖かった。
目が合った。
172 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:30
 
173 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:31

昨日、美術教師は梨沙子の夏休みの話を聞きたがった。
自分にできる最後のことだと、梨沙子はできる限りたくさん話した。
隠しても仕方ないと、したこと、見たこと、思ったこと、なんでも。
美術教師は、このまま死んでしまうのではないのかと思えるくらい穏やかな顔で聞いていた。

話し疲れた梨沙子が一息ついたとき、美術教師は、そっかー、と深いため息をついた。
「梨沙子ちゃん、夏休み楽しかった?」
「……はい、…………まあ」
「だよね。聞いてて、そう思った」
美術教師は、本当にやさしい顔をしている。
でも、夏も終わりだね、すっかり力のなくなった曇り空を眺めて言った。
遠くに霞む夕焼けが、藍の夜に飲みこまれてしまいそうな小さな雲を浮かび上がらせていた。
夏が終わろうとしている。

夏ではないなにがが終わったような気が、梨沙子にはしている。
そういえばさ、と美術教師が思い出したように梨沙子を向いた。
「梨沙子ちゃんは、その、恵里菜ちゃんって子だっけ? その子のためって言ってたけどさ……」
その通りだと、ふくれ面でうなづく。
「それって、梨沙子ちゃんのためなんじゃないかな。梨沙子ちゃんの好きな人を呼んで、いっぱい思い出のこせるように、って」




174 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:31
 
175 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:31
 
176 名前:; 投稿日:2007/09/01(土) 17:31
 
177 名前:名無し飼育 投稿日:2007/11/11(日) 02:07
不思議な感じのする文章ですね。
今日初めてこのスレを見つけて一気に読ませてもらいました。
私は男ですが、すんなりと梨沙子目線に入って行けたので、
ちょっとびっくりしています。(笑)
出来ればこの後の物語も読みたいと思いますので、なるべく早めのお帰りを
お待ちしています!
丁寧な描写と文章力。本当に拍手に値します。
178 名前:; 投稿日:2007/11/13(火) 22:27





179 名前:; 投稿日:2007/11/13(火) 22:29

「どうしてですか?」
梨沙子は努めて平静に声を出した。
怒気で喉のあたりで震えていた。
気味が悪いほど黒々とした髪の、中年の生活指導の教師が目を丸くした。

同じクラスの友達との教室移動のとき、思い出したように呼び止められた。
その教師とは何度かすれ違ったことがあるが、呼び止められたのは初めてだった。
なんなんだ、その髪型は。

夏の頃よりもやや伸びた髪は、今は胸に届きそうだ。
梨沙子は毛先をゆるく巻いて下ろし、前髪はピンで留めておでこを出している。
髪を染めているわけではなく、見た目は校則には違反していない。
180 名前:; 投稿日:2007/11/13(火) 22:29
生活指導の教師が、梨沙子の肩のあたりを撫でている髪を指差した。
「それはパーマじゃないのか?」
廊下を通っていく生徒が、梨沙子と生活指導の教師を見ながら過ぎていく。
その中に雅がいて、生活指導の教師の背後で梨沙子を振り返り、ばーかと笑顔で手を振った。

梨沙子の表情がわずかにほころぶ。
隣の友達の緊張している雰囲気が伝わってきた。
「わたし、天然気味なんで」
「天然?」
「天然パーマ」
バカにしたような声になったかもしれない、と梨沙子は思った。
じゃあ、と生活指導の教師が今度は頭頂あたりからの綺麗なストレートを指した。
「ここは伸ばしてきてるんです。それもダメなら、明日からはパーマみたいな髪で来ます」

鐘が鳴り、担任に報告しておく、と生活指導の教師が足早にその場を去っていく。
「なにを報告するんだろうね」
梨沙子がふっと微笑むと、友達のこわばっていた表情がゆるんだ。
急がないと、と梨沙子は両手に持っていた教科書とノートと筆箱を片手にまとめた。
友達の手を掴む。
「走ろう」
授業が始まり閑散とした廊下を走り、階段を駆け上がる。
踊り場で百八十度転回しようとするところで、女生徒とすれ違った。

美人ではないがアクなく整った顔立ちが、眠そうにしょぼしょぼ揺れている。
思わず梨沙子は二度見した。
惹かれたわけではない。
興味を持った。
181 名前:; 投稿日:2007/11/13(火) 22:30

昼休みは、梨沙子が生活指導の教師に呼び止められた話題が独占した。
気の合う五人で集まっている。
端のほうで外を見ている梨沙子は、悪い気はしなかったが面倒だとも思った。
「もうちょっとしたら呼びに来るんじゃないの?」
「五時間目うけれないねー、いいなー」
「でもよく言い返して、あいつ納得したね」
生活指導の教師はしつこく、絶対に自分の非を認めないことで有名だった。
ああ、あれね。梨沙子は「なんとなく」とはぐらかしたが、実は兄に聞いたままを言っただけだ。

それよりさ、とずっと気になっていたことに話題を変えた。
「さっき階段であった人、あの人だれ?」
一緒に走っていた友達が、ああ、という顔になり、誰だれ? 他の三人は身を乗り出した。
梨沙子は、他人のことにあまり興味を持たないように思われている。
182 名前:; 投稿日:2007/11/13(火) 22:30
「後藤夕貴でしょ?」
知らないから聞いているのに、と思ったが他の三人の反応が梨沙子には以外だった。
後藤夕貴はわりと知られているようだ。
ごとぅーか、といった声も聞こえる。
「知らなかったの?」
「うん。今日はじめて見た」
「うそー!?」
この五人でいるときは、そんな話題があがったことはなかった。
「なんの人なの?」
なんの人って言われてもねぇ、梨沙子以外は皆、困ったように顔を見合わせた。
ロビンさん、あっきゃんと呼んだら睨まれる、殴られる、本当にやばいのは橋本先輩、停学、
バンド、ロビン先輩はにこにこしてるけど裏では、ゆりか嬢、警察沙汰、話が混乱している。

聞いたことのある名前もあったが、ほとんど知らない話だった。
まとめると、後藤夕貴はごとぅーとも呼ばれていて、非常にモテている。
学校内でとてもよく目立っている三人の妹のような存在だということらしい。
至って普通のまじめな生徒だが、モテていたり三人に目をかけられていたり、
本人の、するりと抜けるような自由な性格もあいまって、学内に知らない者はいないそうだ。

そこまでわかれば十分だと、梨沙子の興味は満たされた。
話の中で驚いたのは、梨沙子はグループでいうと、舞美のグループなのだそうだ。
もう卒業していない舞美のグループというのも、おかしな話だと思った。
友達の言う矢島先輩グループの、愛理とも栞菜とも仲がいい。
中島早貴とも気軽に話せるし、千聖とも小学部にいるまいとも昔馴染みだ。
183 名前:; 投稿日:2007/11/13(火) 22:30
昼休みの終了間際、一番目立っているのは千奈美や雅だと聞かされた。
茉麻と友理奈も出てきたが、どれも実像とはちがう、ちぐはぐな話だった。
そういう人たちとも梨沙子は仲いいよね、と羨ましそうに言われた。
誇らしい気持ちにならないこともなかったが、噂は噂だと鼻白んだ。
たとえば千奈美はわがままで、ヤンキーに見えないこともないが、ヤンキーでは絶対にない。

今までこういった話は一度もしたことがなかった。
入学してからかなり経つ。
この四人とも短い付き合いではなくなったが、お互いに知らないことが多い。

これからいろいろ知っていくことになるのだろうか。
今のまま深くまで付き合わないほうが楽な気がするが、そうもいかないのかもしれない。
だが、それを望んでいる自分が間違いなく存在していることを認識している。
たまに自分が、わからなくなる。
184 名前:; 投稿日:2007/11/13(火) 22:31
>>177
お褒め頂き、ありがとうございます。
あまり間を空けずにやっていこうと思います。
185 名前:; 投稿日:2007/11/20(火) 00:39





186 名前:; 投稿日:2007/11/20(火) 00:39

掃除くらい待つよという友達に言い訳をつけて、先に帰らせた。
ぐだぐだと待ったり待たせたり、放課後に長々と居残るのは苦手だった。
誘われなくならないような頻度で、梨沙子は一人で帰る。

ここにきてぐんと透明度を増した空は、太陽の光が弱いせいでどこか心許ない。
秋めいて清澄だった風は途端に厳しさを増し、吐く息は白いのだろうかと梨沙子は口をホの字にする。
梨沙子は、ほぉと息を吐く。
巻いたマフラーが温い。

息が白いか確認するのを忘れていた。
もう一度吐こうとすると、栞菜に声をかけられた。
「もう帰るの?」
「うん」
「ちょっと一緒に喋っててよ」
「いいよ」
梨沙子は鞄を持ち直して歩き出す。
じゃなくって、と腕を掴まれた。
187 名前:; 投稿日:2007/11/20(火) 00:40
「愛理が今、告白中だから、ここで」
「ええ!?」
梨沙子が顔中を使って驚いた。
あまりの声の大きさに、帰宅途中の生徒が何組か振り返った。
栞菜は含み笑いで肩を竦めた。
「ちがうよ、告白されてんの。栞菜の言い方がわるかったね」
「なんだ、びっくりした。愛理が告白すんのかと思った」
「しないよ、たぶん。好きな人いても」
「いるの?」
「知らない。そういうの絶対に言いたがらないでしょ、愛理」
「モテる人の余裕なのかなあ」
「それはちがうでしょ」
ピシャリと切り捨てられ、梨沙子は押すように栞菜を小突く。
怒った表情を作った栞菜が、いたーいと笑った。

今日は長いな、栞菜はじっと校舎とグランドの境界あたりを見ている。
同じように梨沙子も、栞菜の視線をなぞった。
「いなくない?」
「愛理?」
「うん」
「ごめん、栞菜なんか関係ないとこ見てた」
栞菜の吐く息が、ちろちろと白く凍っている。
寒くなったよね、と梨沙子は右手で左手を握り、息を吐きかけた。
さむいよね、と栞菜は巻いている灰色のバーバリー柄のマフラーで顔の下半分を覆った。
188 名前:; 投稿日:2007/11/20(火) 00:40
梨沙子は、栞菜といるほうがずっと楽だと、改めて感じる。
明るい顔立ちをしているせいか、梨沙子は気をつかわないで一緒にいられる。
クラスの友達とは、まったく別次元の関係性にすら思えてくる。
「なに?」
「ん? 栞菜って優しいねーって思ったり」
なにそれ、しなを作った梨沙子を栞菜はいったん受けとめ、視線をはずした。
「あ、憂佳」
梨沙子も目にしたことのある少女に手を振った。
クラスの男子が騒いでいるのを聞いたことがある。
いつも一緒にいる奴のせいで近寄れない、とも。

「憂佳、今日はひとり?」
あ、栞菜ちゃん、と憂佳と呼ばれた少女が小走りで寄ってきた。
「うん、花音ちゃん委員会あるって」
「あれ? そういえばお互いに知ってる? 一年同士」
栞菜が、梨沙子と憂佳の間を取り持つように一歩下がった。

顔くらいは、と梨沙子がうつむき気味に言う。
「菅谷梨沙子ちゃんだよね?」
憂佳に声をかけられ、梨沙子は戸惑ったように、そう、と返した。
そっと憂佳を窺う。
触れると、あっという間にとけてしまいそうな白い肌をしている。
なにか言わなきゃいけないとは思うが、なにも言うことがない。
憂佳も困ったように顔を伏せている。
189 名前:; 投稿日:2007/11/20(火) 00:40
「二人とも照れてんの?」
ひとつ引いていた栞菜が、二人の頬をつついた。
「照れてないよ!」
憂佳の声が、ぽんと弾けた。

言おうと思ったことを、言おうと思っていた口調で言われてしまった。
梨沙子は驚いたように憂佳を見る。
気付いた憂佳が、はにかんだ。
「じゃあ、またね」
自分が言われたのか、栞菜に言ったのか、梨沙子にはわからなかった。
制服にやけに映える、憂佳の巻く生成りマフラーが遠ざかっていく。

「あーぁ、かんな怒らせたー」
梨沙子が栞菜を咎める。
知らないといった風の栞菜は、愛理おそいね、と呟いた。
校舎とグランドの境界あたりを見ている。
梨沙子もそれに習った。
190 名前:; 投稿日:2007/11/20(火) 00:40

しばらく待っていると、ひょこひょこ首を振った愛理が駆けてきた。
息を弾ませ、笑ったような顔で肩のあたりを撫でている。
「あぁ、ほんとにもうやだよぉ」
梨沙子は帰路に戻ろうとするが、二人が動き出す気配はない。
焦れる思いを抑えようと小さく息を吐いた。

「なんて言われたの?」
「なんも。ずーっと黙られて、マジあせった」
「勝手に帰ってきちゃったの?」
「あのー、って声かけたら、どっか行っちゃった」
息が詰まったような笑いかたで、栞菜がうずくまった。
梨沙子と愛理は顔を仕方ないとでもいうように顔を見あわせた。
「誰に告白されたの?」
「知らない人」
「ふーん」
「というか梨沙子、言ってもわかんないでしょ?」
愛理がうずくまっている栞菜の頭にちょんと触れ、歩き出した。
梨沙子が続き、息を整えながらの栞菜が続いた。
191 名前:; 投稿日:2007/11/20(火) 00:41
そういえばさ、と愛理が梨沙子を向いた。
「ん?」
「最近、お兄ちゃんの店に行った?」
「全然」
「そうなんだ」
夏休みが終わってからしばらくは、手伝ってと店に呼ばれたりしていた。
文句を言いながらも、梨沙子はあの焼き鳥屋での労働を楽しんでいた。
呼ばれなくなったのは、自分の必要性のなさではなく、兄の気遣いだと思っている。
大学の休みが終わってからのここ一ヶ月半ほどは、ほとんど顔を合わせてない。
「栞菜、たまに行きたくなるんだよね、あそこ」
「でっしょ?」
愛理が嬉しそうに栞菜の手を取り、そのまま繋いだ。

行けばいいじゃん、そう言おうとしたところで校門に着いた。
梨沙子と、愛理と栞菜の分かれ道だ。
「じゃあ、またね。梨沙子行くときは教えてね」
「栞菜も絶対呼んでよ」
しばらくは行かないだろうが、梨沙子は曖昧にうなづいて手を振った。
二人と別れると、急に腹立たしさがこみあげてきた。
呼ばれないと、行ってやんない。
192 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/07/03(木) 12:48
作者さーん!
続きを楽しみにしています。
193 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/09/21(日) 02:56
待ってます
194 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/01/31(土) 03:49
おもしろいです
195 名前:名無し 投稿日:2009/04/12(日) 03:00
本当に待ってます!
最終更新からすぐにレスをしていれば、作者さんに伝わったのかな…なんて考えてます

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