蝉のぬけがら
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 22:02
 
-  初めまして、こんばんは。 
 初めてで緊張しているので、よろしくお願いします! 
  
 ハロープロジェクトの、みんなが、出てきます。  
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 22:03
 
-   
  
 さっさと朝食を終えた佐紀が、流しに食器を置き、水を流す。 
 そして、食卓に置かれた「ごはん炊いといたから、あとはヨロシク!」と書かれたメモを捨てた。 
 後藤は朝が弱い。 
 だから、朝食はいつも前の晩に炊いておいたごはんだけだ。 
 前の日の残りとか、すじことかたらことか明太子とか、そういうものでごはんを食べる。 
 朝食の用意がないことはみんなわかりきっているのに、後藤は律儀に毎日メモを書く。 
 昨日は「ごはん」とだけ書かれていたし、一昨日は関係ないイラストが書かれてあった。 
  
 桃子が塩漬けのウニをちょびっとずつなめながら、ごはんを口につめこんでいる。 
 そういう食べかたは貧乏くさいからやめなさいと後藤に怒られる。 
 そんな味もわからないくらいに少しずつ食べるのは、塩漬けになったウニにも失礼だと。 
 もっと豪快に食べなさいと言う。 
 でも、桃子はそういう食べかたが好きだからやめない。 
 それに、お米を豪快に食べてるじゃん、と思う。 
  
 「もも、早く食べて」 
 「ああん、待って〜!」 
 佐紀は桃子を待たずに鞄を持って家を出る。  
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 22:03
 
-   
 朝が一番早いのは中学二年生の佐紀と桃子の二人だ。 
 佐紀は隣町の、大学までエスカレーターで行ける私立学校に通っている。 
 受験のない環境でゆっくり過ごしたいと、自分で受験を決めて入学した。 
 みんなは、ふーん、くらいにしか考えていない。 
 学校は行けるところに行けばいいと思っている。 
  
 桃子も佐紀と同じく隣町まで通っているが、事情が違う。 
 家から歩いて三十分ほどのところに公立の中学校はあるのだが、入学を拒否された。 
 ウソのようなホントの話。 
 勉強についていけないし、授業そっちのけで騒ぐからという小学校での悪評が中学校にまで伝ったのだ。 
 それに、少しだけ虚言癖もある。 
 だからそういう子用の学校に行っている。 
 みんなは、桃子だからしょうがないね、くらいにしか考えていない。 
 学校が入学を拒否するなんてありえないということを知らない。  
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 22:04
 
-   
 佐紀は外に出ると、空を見上げた。 
 太陽が少しずつ高いところに来るようになった。 
 過ごしやすい季節になるな、と目を細める。 
 桃子が追いついてきた。 
  
 「じゃ、行こうか」 
 家の前の一本道を歩く。 
 道端に生えている草がずいぶん伸びてきた。 
 桃子がたんぽぽを見つけ、にこにこして自分の髪にさした。 
 「どう? 似合う?」 
 くるりと一回転してポーズをつける。 
 淡い緑が浮かぶ水田から吹いてきた風にスカートが巻き上げられた。 
 「もう、ばかー!」 
 風の吹いてきた水田に向けてかわいく怒鳴りつけた。 
 水面がきらきらと銀色に揺れている。 
   
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 22:04
 
-   
  
 ◇ 
  
  
 友理奈が意味もなく楽しそうにして、納豆をねっている。 
 シャワーを浴びてきた雅が、濡れ髪をタオルで叩きながら友理奈に言う。 
 「また納豆?」 
 「みやもまたシャワー?」 
 茉麻がどんぶりにごはんを山盛りにして食卓に座った。 
 そして、器にたまごを三個わり入れ、かきまぜる。 
 「あ、まあちゃん、わたしの納豆に少し入れて」 
 「いいよ」 
 黄身と白身が完全にまざったのを確認した茉麻が、友理奈の納豆に入れる。 
 「ちょっとだよ、ちょっとでいいからね?」 
 「うん。でも、ちょっと難しい」 
  
 舞波がガラスの器に山盛りにしたいちごを黙々とつぶしている。 
 リンゴを齧る雅が、それを見て牛乳を持ってきた。 
 「砂糖入れる前に、ちょっとちょうだい?」 
 そう言って、潰れたいちごの上から牛乳を注いだ。 
 舞波は砂糖を入れるけど、雅は入れない。  
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 22:05
 
-   
 千奈美が足首をすっぽり覆うくらい長いスカートをひきずりながら、バタバタと駆けてきた。 
 中学校の女番長だ。 
 小学校と中学校は併設されていて、両方合わせても生徒は百人もいない。 
 だから、みんな顔見知り。 
 千奈美は小さな頃からやんちゃ娘で、小学三年生くらいのときに小学校をシメていた。 
 「やばーい、遅刻じゃない」 
 女番長だけど、時間にはうるさい。 
 のんびり果物を食べている雅と舞波を睨む。 
 「二人ともまた遅刻?」 
 「髪乾くまで行かない」雅が言う。 
 「わたしはみんなと行くよ」舞波がガラスの器の底に残った牛乳を飲み干した。 
  
 茉麻が千奈美と舞波の鞄を持ち、二人に差し出した。 
 「そろそろ行かないと」 
 納豆を食べて歯をみがいていた友理奈が、ランドセルを背負った。 
 雅以外の四人が、揃って家を出て行く。 
  
 「いってらっしゃーい」 
 氷水を飲みながら、雅は四人を送り出した。 
 急に家が静かになる。 
 耳に痛いくらいの静寂。 
 からからと氷をまわして一息に飲み干した。 
   
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 22:06
 
-   
 ふすまの開く音がして、肩にかけた毛布をひきずった梨沙子がのそのそと歩いてくる。 
 「梨沙子、今日は早いじゃないの」 
 「えー? いまなんじー」 
 眠そうに瞼をしばたかせている梨沙子の髪がぼさぼさに乱れている。 
 「八時ちょっとすぎ。寝ぐせなおしてあげるから、ちょっとこっちに来なさい」 
 「いや、いー」 
 梨沙子は食卓には寄らず、畳の居間を抜け、板張りの廊下の向こうにある 
 庭に面した縁側の木枠のガラス戸を開けた。 
 そこで朝の弱い太陽の光を浴びながら、毛布にくるまって丸くなった。 
 猫のれいなが、梨沙子の脇を抜けて部屋に入ってきた。 
  
 雅は右手にグラスを持ち、左手にれいな用の肉缶を持って縁側に向かう。 
 居間のこたつにもぐりこもうとしているれいなに言った。 
 「れいな、餌あげるから、縁側においで」 
 「えぇ〜? こたつの中で食べちゃいけんと?」 
 「だめ。こたつが肉くさくなるでしょ?」 
 文句を言うれいなを柔らかく諭した雅は、梨沙子の隣に座った。 
 そして、すごすごと縁側にやってくるれいなに釘をさす。 
 「居間に持っていっちゃだめだよ」 
 「わかっとるけん」 
 図星をつかれたれいなが、拗ねたように言った。  
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 22:06
 
-   
 「みやも今日、学校やすも?」 
 今にも眠ってしまいそうに目を閉じながら、梨沙子が言った。 
 「なに梨沙子、今日も学校休むつもりだったの?」 
 「うん。わかんない」 
 「どっちよ」 
 「みやも休むんなら、休む」 
 「わたしは学校行くよ。家にいても暇だもん」 
 「じゃあ、わたしは休む」 
 どっちにしても休むつもりだったんじゃない、雅は家の中に戻りながら苦笑した。 
   
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 22:06
 
-   
 圭織の住む離れから、ののとこんこんが出てきた。 
 猫のれいなが、髭を震わせて家の中に逃げ込んだ。 
 ののとこんこんは、圭織の飼っているペットだ。 
 二人ともGK用の黄色いユニフォームを着て、下は黒いロングパンツを履いている。 
 大きなあくびをしながら、庭に落ちている石を拾う。 
 「ったく、なんでこの家はこんなに石だらけなんだよ」 
 ののがぶつくさ言いながら、庭の隅に放った。 
 その一画は石が山のように積みあがっている。 
 「ほんとにね、どうしてこんなに石がたくさんあるんだろう」 
 こんこんが左手に集めた石を、庭の隅に捨てに行く。 
 どんなに拾っても、しばらくすると石が増えているのだ。 
  
 石を拾うののとこんこんを見ながら、梨沙子がしのび笑いをする。 
 梨沙子が山や川原から拾ってきては庭に捨てているのだ。 
 最初はののとこんこんが不思議そうに首を傾げているのが面白いというだけだったけど、 
 今は積みあがった石の山が家くらいに大きくなったら、穴を掘ってみたいと思っている。  
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 22:07
 
-   
 「髪かわいたから学校に行ってくる」 
 制服を着た雅が、縁側に出てきた。 
 梨沙子は唇を尖らせるだけで何も言わない。 
 抗議がわりに雅の短いスカートをめくった。 
 「なにすんのよバカ」 
 千奈美のスカートは長いけれど、雅のスカートは短い。 
 圭織が言うには、千奈美が硬派で、雅が軟派なのだそうだ。 
 たしかに、千奈美は恋愛はわからないし興味がないから男には近寄らない。 
 反面、雅は男女問わずに仲良くする。 
 どちらが性差を強く意識しているかはべつにして、硬派と軟派に分かれている。 
  
 サッカーの練習をはじめていたののがひやかす。 
 「おう、雅ちゃん、今日もかわいいパンツはいてるねぇ!」 
 こんこんがしょうがないなといった顔で練習を中断させた。 
 雅は顔をまっかにさせて、学校に行ってしまった。 
  
 家にいるほうがずっと楽しいのに、どうしてみんな学校に行くんだろう。 
 梨沙子がれいなを引き寄せて首を撫でながら雅の背中を見送った。 
   
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 22:07
 
-   
 ののとこんこんが額に汗を滲ませて練習している。 
 今はこんこんがキッカーで、ののがキーパー。 
 ゴールがあるつもりで右のポストに触れ、左に跳んでボールをキャッチする。 
 びよ〜んと伸び上がったののが、ボールを弾き出した。 
 どうだすごいだろうと、自分の飛んだ距離を自慢してみせた。 
 こんこんが、へんっ、って顔で応える。 
 「なんだよ、こんこん、文句あんのかよ!」 
 「わたしは直線で跳んで、きれいにキャッチするもん」 
 いつものようにキーキーキーキー言い合いがはじまった。 
  
 縁側の梨沙子は、れいなにのしかかるようにして寝てしまった。 
 れいなは窮屈そうに体をちぢませて、梨沙子を起こさないように耐えている。  
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/24(火) 22:07
 
-   
 「ただいまー」 
 ちょっと散歩に行ってきた風の圭織が帰ってきた。 
 だけど、家を出たのは昨日の深夜。 
 ぼんやり歩いていたら、夜が明けていた。 
  
 キーキーの延長がドッヂボールになっていた、ののとこんこん。 
 圭織は、敵意をむき出しにしてボールを投げあう二人を見て、満足そうに微笑む。 
 「のんちゃんとこんこん、今日も仲良しね」 
 ののが圭織にボールを思いきりぶつけて、言う。 
 「なーに、すっとぼけたこと言ってんだよっ!」 
 「まあ、のんちゃん! なんてことするのよ。捨てるわよ」 
 「立派な野良になってやるよ。ね? こんこん」 
 「うん。世界一の野良になって、世界中のペットを襲い続ける」 
 笑顔をかわすののとこんこん。 
 これで仲直り。 
 眉尻を下げてボールをぶつけられたお尻をさする飼い主、圭織のおかげ。 
 本人にその気はなかったけど。 
  
 梨沙子が目を覚まして、かおりんおはよう、と言った。 
 解放された猫のれいなが、するすると家を出て行った。 
 後藤はまだ起きてこない。 
  
   
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/25(水) 21:56
 
-   
  
  
 変態女 
   
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/25(水) 21:57
 
-   
  
 小学校は、中学校よりも終わるのが早い。 
 友理奈は男子の何人かに、掃除サボんなよー、と睨みをきかせて家路につく。 
 ランドセルを背負い、同じ納豆好きで仲のいい中島早貴と一緒に帰る。 
 「早貴ちゃん帰ろー」 
 「うん」 
 クラスで、学年で一番小さな早貴は、のんびりとランドセルに授業道具をしまっている。 
 友理奈は勉強道具を学校に置きっぱなしだ。 
 圭織や後藤から、そう教えられている。 
 先生の言うとおりなんてバカみたいでしょ? 学校に教科書置いたほうが鞄が軽くていいよ。 
 生真面目に毎日授業道具をそろえて学校に来る早貴をバカにはしないが、大変だな、とは思う。 
 友理奈は変に物事の裏を見ようとしないし、他人を穿った視点で見ようともしない。 
 いつだって素直に感じたまま、それぞれのいいところを見つけようとする。 
 穏やかに健やかな友理奈は、みんなに好かれる。 
 乱暴な男子に立ち向かえるだけの精神力と背の高さを持っている。 
 それをカサにきない友理奈は、男女問わずに好かれるのだ。 
   
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/25(水) 21:57
 
-   
 二人ならんで林すぐ脇の道を歩く。 
 時折吹く風に揺れ、濃密な緑の匂いがする。 
 林をつっきるように通る三両編成の電車が空気をやわらかく震わせた。 
 「ねえねえ、早貴ちゃん」 
 「なに?」	 
 「今日さ、社会で弥生時代に入ったでしょ?」 
 「うん」 
 「弥生土器ってさ、なんで縄文土器よりも薄いのに硬いんだろうね?」 
 「え?」 
 「だって、そうでしょ? 厚いほうが強いに決まってるでしょ?」 
 無邪気に言う友理奈の疑問に、早貴は固まってしまう。 
 たしかに、縄文土器のほうが装飾もされているし、大きくて厚いくてカッコいい。 
 焼く温度が違うと教科書に書いてあったし、先生も言っていたような気がするけど、 
 この二つが並べてあったのなら、間違いなく縄文土器を選ぶであろう。  
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/25(水) 21:57
 
-   
 どう答えようか困っている早貴を、友理奈がまっすぐに見つめている。 
 なにか答えなきゃいけないんだろうな、と早貴が必死に言うことを考えていたとき、 
 「えへへ〜、今日もめっけてぃ……」 
 ここいらで悪評高い野変態ミキティが、いやらしい笑みを浮かべてがに股で立っていた。 
 ももひきを履いて、ランニング。 
 ぼっさぼさに伸びきった髪の毛は、肩のあたりで揺れている。 
 股間をボリボリと掻き、鼻の穴を膨らませてニヤニヤと二人に歩み寄る。 
 平坦な体つきをしているため、男に見えなくもないが、女だ。 
 この村で最も恐れられている変態、ミキティ。 
 どこかの家の引き篭もりらしいが、その実体は知られていない。 
 山で小動物を獲って食べているという噂もある。 
 村中の米蔵を転々としているという話もある。 
  
 「うぃっへっへっへ〜、今日はおいしそうな女の子だねぇ」 
 ミキティが舌なめずりして体を揺すると、プンと嫌な匂いが漂う。 
 「がおー!!」 
 両手を広げて威嚇した。  
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/25(水) 21:58
 
-   
 「……ゆ、友理奈ちゃん、逃げようよ」 
 怯えきった早貴が、友理奈の腕をつつく。 
 でも、友理奈はミキティをまっすぐ見据えている。 
 いつだったかの後藤の話を思い出していた。 
  
 畑仕事を終えてきた後藤が、縁側で夕焼けを見ていた友理奈の隣に座った。 
 透けた赤の空をボーっと眺め、冷たく呟いた。 
 「なんで夕焼けって赤なんだろう。土色とかでもいいのに」 
 友理奈は後藤のひとりごとだと思って黙っていると、後藤が聞いてきた。 
 「ねえ、どう思う?」 
 「え?」 
 「だからさ、夕焼けって土色でもいいと思うんだけど」 
 「どうだろう」 
 「いや、どうだろうって、こっちが聞いてんのよ」 
 「ごっちんは土色の夕焼けのほうがいいの?」 
 後藤は少し考え、低い声で話す。 
 「土っていってもさ、赤土とかそのへんにあるような黄色い土じゃないよ、黒土」 
 「なんで?」 
 「野菜作れるから」 
 「そっか、黒土だと野菜作れるもんね」 
 「そう、黒土最強」 
 「でもさ、夕焼けが黒土色だったら、それって夜じゃない?」 
 「ああ、そうだわ、黒土色だったら夜だわ……いやー、しくった」 
 後藤ががっくりうなだれて首を振った。 
 そんな後藤を見ていて、友理奈が閃いた。 
 「あ、夕焼けは焼けてるから赤なんじゃないの?」 
 「いや、マジいまそういう状況じゃないから」 
 「えー、ごっちんから言ってきたのにー」 
   
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/25(水) 21:58
 
-   
 泣き出しそうな早貴が友理奈の肩を叩く。 
 「ねえ、友理奈ちゃん、早く逃げないと!」 
 ミキティが舌を出して気持ちの悪い笑みを浮かべ、距離を詰めてくる。 
 「肉喰わせろー、肉喰わせろー、ないなら女の子の肉を食べちゃうぞお!」 
  
 思い出していた話、全然関係なかった。 
 どうしてあんなことを思い出していたんだろうと友理奈は自分が悲しくなった。 
 「ぶぎーとれーん!」 
 ミキティががに股で襲い掛かってきた。 
 恐怖に押し潰されてしまった早貴が、声も出せずにその場に座り込む。 
 「エンジョーイ!」 
 覚悟を決めた友理奈、ミキティに向かって駆け出した。 
 頭がおかしくなったとしか思えない友理奈の行動に、早貴がえー? って顔をしている。 
 一番驚いたのはミキティ。 
 逆襲してくる子は初めてだ。 
 驚きのあまりケツを出して逃げた。  
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/25(水) 21:59
 
-   
 肩で息して腰に手を当てる友理奈に、呆然としていた早貴が駆け寄った。 
 「友理奈ちゃん、ミキティ追い払ったの?」 
 友理奈が自信満々に答える。 
 「エンジョイだよ、エンジョイ」 
  
 変態ミキティを撃沈。 
 この話は瞬く間に広がり、友理奈伝説の新たな1ページとなった。 
  
   
- 20 名前:ピアス 投稿日:2005/05/26(木) 06:58
 
-  あまりに面白くてビックリしました。 
 続き、期待しています。  
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/26(木) 23:09
 
-   
  
  
 桃子のできごと報告  
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/26(木) 23:09
 
-   
 車両の中には、桃子と佐紀以外の乗客はいない。 
 ガサガサしてくすんだ藍色のシートの上で、桃子が上機嫌に跳ねる。 
 べったりと闇が張りついた窓ガラスには、楽しそうな桃子と、つまらなそうな佐紀が映っている。 
  
 桃子がろれつがうまくまわらなくなるくらいの早口でくりかえす。 
 「だからねっ、村上の愛ちゃんがミニラのマネしたんだってぇ!」 
 身をよじって笑いながら、うほっうほっうほっ、とミニラのマネをしてみせる。 
 ウンザリした佐紀は、どうにでもしてって目をして桃子を見ている。 
 ミニラがなんなのかをわかっていないし、桃子がやっているのはオランウータンだ。 
 「ね? おもしろいでしょ? 村上の愛ちゃんがね、ミニラ!」 
 表情を暗くさせた佐紀は、なにかを言う元気もない。 
 「ねえしみちゃん、聞いてる?」 
 どうして反応しないんだと桃子が佐紀の顔を覗きこんだ。 
 聞いてるもなにもない。 
 聞かされ続けているから、さっきから桃子関係なしに頭の中で延々流れている。  
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/26(木) 23:09
 
-   
 待ち合わせた駅前から、桃子はずっと村上の愛ちゃんのことを話している。 
 人目も憚らず、ものすごい勢いでオランウータンのマネをしてきた。 
 奇異なものを黙殺する人々の冷ややかな空気に、佐紀は耳まで赤くさせながら耐える。 
 家とかだったら一緒にはしゃげるのに、桃子はどうして外でこういうことをするのだろう。 
 桃子が一生感じることのないであろう理不尽な疑問に、佐紀はどう対応していいのかわからない。 
  
 そんな佐紀だが、どうしても我慢できないことがあった。 
 こういうこと言うと、桃子をしらけさせてしまうかな、と思いつつも聞いた。 
 「ねえ、ずっと気になってたんだけどさ、その村上の愛ちゃんってなに?」 
 桃子はきょとんとして、首を傾げた。 
 「なにって、村上の愛ちゃんは村上の愛ちゃん」 
 「なんで苗字と名前の間に『の』がつくのよ」 
 「村上の愛ちゃんは村上の愛ちゃんだから」 
 人が当たり前だと思っていることを、当たり前じゃないと教えるにはかなりの時間と言葉の量が必要だ。 
 その相手が桃子なら、なおさら。 
 「わかった、もういいや」  
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/26(木) 23:10
 
-   
 じゃあさ、と桃子が声のテンションをさらに上げた。 
 「あややのマネするから、見ててね。あれがスポットライトね」 
 ちかちか揺れて、白いカバーに虫の死骸がもっさり翳っている車内灯を指差した。 
 桃子がコホンとひとつ咳ばらいをして、両手でマイクをかまえるフリをする。 
 上目遣いになった。 
 「桃子が行くよ! ワン・ツー・スリーッ!」 
  
  ♪もぉもいーろの きゃたおもぉい こーいしてーるっ 
  
 大袈裟なくらいにブリブリで歌う桃子。 
 それはあややがどうのということではなく、完全に自分のものにしている。 
 No.1アイドルとして日本の芸能界に君臨するあややを凌駕するほどのぶりっこ。 
  
 本当にかわいいな、と佐紀は思う。 
 でも、こんな薄暗い電車の中でやらなくてもいいのにな、とも思う。  
- 25 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/26(木) 23:11
 
-   
 「桃色片思い」を歌いきった桃子が、今度は♪グッバイボーイ、と 
 白っぽく汚れた板張りの床に膝をつけ、いじける仕草なのか指で文字を書いている。 
 これも、あややよりもずっとアイドルだ。 
 そして、床が汚れていることに気付かない集中力も、あやや以上だろう。 
  
 佐紀は、もし人が来てもいいように桃子から離れて座っている。 
 曲の合間にどうして離れるのかと聞かれた。 
 そっちのほうが観客っぽいから、と答えた。 
  
 そうこうしているうちに降りる駅が近付き、桃子は「ね〜え?」とちょこまか動いている。 
 桃子がいきなりくわぁっと怒り顔を作ったけど、佐紀は驚かない。 
 そういうフリなのだと知っているからだ。 
 「もも、もう降りるから、あややは終わり」 
 「えー? もうちょっとぉ」 
 甘い声を鼻にかけてさらに甘くさせ、桃子がねだる。 
 「ダメ。また隣の駅まで行きたいの?」 
 「それは嫌だけど……」 
 しゅんと唇を尖らせて俯く桃子。 
 電車がホームに滑りこむ。 
 佐紀が桃子の鞄を持ち、腕を引いた。 
 「ほら、もう電車着いたから」 
 「でもちょっとだけなら待ってくれるよ。ね?」 
 「そんなわけないじゃん」 
 「待ってくれないのは時間だけなんだよ? 学校で習った」 
 桃子の目的は、歌うことから待ってもらうことに変わっている。 
 「電車も待ってくれないから。今日はそれも覚えようね」 
 強く言いきる佐紀に、桃子は頷くしかなかった。 
  
 「言っとくけど、それはももが大人だからだよ? 大人だから降りるんだからね?」 
 大人の女に目覚めた桃子が、電車を降りながら佐紀にしつこく言っている。 
  
   
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/26(木) 23:12
 
-   
 >>20 
 ありがとう。頑張ります。  
- 27 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/27(金) 23:55
 
-   
  
  
 おかあさんの知恵袋  
- 28 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/27(金) 23:56
 
-   
 梅干を額に貼り、雪だるまのように着こんだ茉麻が、 
 縁側に座って口を開けてぬぼーっと太陽を眺めている。 
 今日、熱が出た茉麻は学校を休んだ。 
  
 午前中は空をおおっていた雲が晴れ、穏やかな陽気の気持ちいい天気だ。 
 庭では、ののとこんこんが暇つぶし撒いた餌を、警戒する様子もなく鳥たちがつついている。 
 梨沙子が縁側に近い家の影で、ざぶとんを枕にして昼寝をしている。 
  
 「はい、茉麻ちゃん、これ」 
 買い物から帰ってきた圭織が、業務用のアイスを茉麻に買ってきた。 
 風邪のときにはアイスがいいと、チョコもいいと、チョコレートアイス。 
 「ありがとう」 
 一緒に渡された小さな木べらで、茉麻がアイスを食べ始める。 
 家から商店街までは20分ほどかかるため、アイスは少しとけていた。 
 気だるげながらもおいしそうに食べる茉麻に、圭織が言う。 
 「それね、おいしいらしいよ。ほら、チョコの色が普通のよりも濃いでしょ?」 
 「あ、そういえば。茶色っていうよりも黒だね」 
 「高級なしるしよ、きっと」 
 圭織が手を口に当てて笑うと、茉麻も熱で赤くなった頬を緩める。  
- 29 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/27(金) 23:56
 
-   
 熱くなった体に、つめたいアイスが気持ちいい。 
 あとで気持ち悪くならないように食べるのをやめようと思ったけど止まらない。 
 自分で持っていては、いつまででも食べてしまう。 
 これはマズイと思った茉麻は、隣に座った圭織に渡そう木べらから手を離した。 
 「ねえ、かおりん」 
 「ん?」 
 圭織が深刻な顔をしていた。 
 「あ、いや、なんでもない。どうしたの?」 
  
 そう茉麻に言われるのを待っていたのだろう。 
 圭織はまっすぐ前を見て話し出した。  
- 30 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/27(金) 23:57
 
-   
 「カオね、ここ一年くらいでサッカーを見るようになったの。ほら、のんちゃんとこんこんが 
 フットサルやってるからさ、あ、でも、のんちゃんとこんこんに話を合わせようとして 
 見るようになったわけじゃないのよ」 
 そういう寂しい女じゃないからね、とでも言いたげな圭織に、茉麻はうんと相槌を打った。 
 「でね、この前、矢口んとこに泊まったのよ。わかるでしょ? 矢口って。そうそう、 
 真里っぺの元の名前。あの赤い車しか売ってないとこの嫁さん」 
  あそこって外国のタバコとかも売ってない? 茉麻が聞くと、圭織は声を潜めて言う。 
 「ここだけの話ね、売ってるのはタバコだけじゃないのよ。茉麻ちゃん、危ないから近付 
 いちゃダメよ、妊娠させられちゃうからね。……それでね、カオ、この前矢口のとこに 
 泊まったのよ。ほら、矢口ってミーハーじゃない。だからチャンピオンズリーグを見るとか 
 張り切ってて。知ってる? チャンピオンズリーグ」 
  知らない、茉麻が首を振った。 
 「サッカーのすっごい有名な大会なんだけど、それにね、カカっていうブラジルの選手が 
 出てたのよ。若くて才能も実力もあるって評判で、顔もちょっとかわいいの。でもカオは 
 ね、アルゼンチンの17歳のほうが才能あると思う。それはどうでもいいんだけど、いや、 
 あんまりどうでもよくないんだけど、カオと、矢口と、矢口の旦那さんとで見てたのよ」 
  うん、と相槌を打った茉麻などいないかのように圭織は話し続ける。 
   
- 31 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/27(金) 23:58
 
-  「カオはね、純粋にサッカーを楽しみたかったんだけどね、矢口が『カカ、カカー』って 
 うるさいのよ。旦那さんもカカをその日に知ったみたいなんだけど、なんか評判に浮かれ 
 ちゃったみたいで『カカー』って。あ、いま思えば、旦那さんは矢口に合わせていたのかも 
 しれないわね。いや、でも、そんなことはないか。だったらそのときに気付くはずだもの。 
 やっぱりただ浮かれていたんだわ、きっと。茉麻ちゃんもそう思うでしょ?」 
  どうでもいい話が長いな、と熱でぼんやりした頭で茉麻は思った。 
 「まあ、とにかくね、大会の決勝戦で、それだけですごいのに試合がすごく盛り上がってて、 
 矢口も旦那さんもカカ、カカってうるさいのよ。カカがボール持ってなくても、カカ、 
 カカってね。圭織ね、ずっと我慢してたの。この二人はカカ、カカって楽しんでるんだから、 
 余計なことを言っちゃいけない、って」 
  余計なこと? そう聞いても、圭織は真剣な顔をして茉麻を見ずに庭ばかり見ている。 
 「うん。カカってね、イタリア語で『うんこ』って意味らしいのよ。カオはね、前にテレビを 
 見ていてそれを知っていたのよ。耐えられないでしょ? 矢口と旦那さんが、イタリア語で 
 ずーっとうんこうんこって言ってるのよ。カオがさっきカカって言ってた部分をうんこに 
 換えて考えてみて? とんでもない話でしょ? 矢口と旦那さんはそれ以上にうんこうんこ 
 だったんだから。試合中、ずっとうんこって言ってたんだから」  
- 32 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/27(金) 23:58
 
-   
 カカがうんこというよりも、食べていたチョコレートアイスがうんこに見えてきて仕方なかった。 
 とけてきて何かに見えるチョコレート味のアイス。 
 茉麻がひとり勝手に困っていると、看病に農作業を休んだ後藤が縁側に出てきた。 
 「茉麻。もう中に入んなさい」 
 「……えー? でも、太陽にあたってたほうがいい……」 
 「ダメ。熱あんだから」 
  
 太陽を向いて目を細めていた圭織が口をはさむ。 
 「いいじゃないの、ごっちん。今日はあったかいし、茉麻ちゃんだって辛いようなら自分で中に入るわよ」 
 「なーんで圭織はこどもたちに甘いのよぉ」 
 「そういうことは言わないで。なんか叱れない大人みたいじゃないのよ」 
 「その通りじゃん」 
 後藤は茉麻を見ずに、圭織を向いている。  
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/27(金) 23:58
 
-   
 負けを確信した圭織が、ぐっと耐えるような顔になって奥歯をかみしめる。 
 「……ご、ごっちん、農作業は、…どうしたのよ。さ、さぼるんじゃないわよ」 
 せめてもの抵抗のつもりか、後藤を罵ってみた。 
 「ののとこんこんに任せた」 
 余裕たっぷりの後藤に、飯田が泣きながら叫ぶ。 
 「ばっかじゃないの! のんちゃんやこんこんが真面目に土いじりすると思ったら大間違いだからねっ!」 
 圭織の大声で、庭にいた鳥たちが一時的に隅の石山に避難した。 
 梨沙子が起きた。 
  
 寝癖のついた頭をもしゃもしゃと撫で、くわぁと大あくびして、空を見る。 
 晴れわたった空に浮かぶまっしろな雲が、たなびいてゆっくりと細くなっていく。 
 半分閉じた目でそれを見ていた梨沙子は、食べれたらいいのにな、と思った。 
 視線を縁側にまで下ろし、茉麻の持っているアイスに気付いた。  
- 34 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/27(金) 23:59
 
-   
 「あー、アイスー!」 
 上目遣いでパチパチしてねだろうと茉麻にすりよっていく。 
 茉麻が振り向いた。 
 梨沙子が、世界が割れるような大きな悲鳴をあげて腰を抜かした。 
 ふるえる指で、真っ赤になっている茉麻のおでこを指差した。 
 ん? と自分のおでこを触った茉麻がのんびりと言う。 
 「あ、これか。梅干だよ。こうやって貼っておくと熱が下がるの」 
  
 圭織と後藤が大笑いしていた。 
  
   
- 35 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 22:57
 
-   
  
 魔女の噂  
- 36 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 22:57
 
-   
 家からの届く灯りが、縁側の隅にすわる友理奈と千奈美の影をぼうっと庭に映す。 
 すっかり暗くなった裏の山が風にふかれ、ガサガサと不気味に反響しあう。 
 千奈美がひそひそ声で友理奈に言う。 
 「ねぇ、ゆり、聞いた?」 
 「全部は聞いてないけど、あれでしょ。魔女の話」 
 「しっ、声が大きいって」 
 「ごめん」 
  
 「なにやってんのー?」 
 離れから出てきたののが二人に聞いた。 
 夜の散歩に出るらしい。 
 ののに続いて圭織とこんこんが出てきた。 
 「友理奈ちゃんと千奈美ちゃんもどう? 夜の散歩」 
 圭織がにっこり微笑みながら二人を誘った。 
 「裏の山に行くの。夜は空気が濃くて気持ちいいよ。行こ?」 
 そう言ってこんこんが二人の手をつかもうとする。  
- 37 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 22:58
 
-   
 いやっ、反射的に振りほどく千奈美。 
 悲しそうな顔をするこんこん。 
 ののがぶっきらぼうに言う。 
 「千奈美、こんこんのこと泣かしたー」 
 「泣いてないじゃん!」 
 言って、気付く。 
 こんこん、前を向いたままポロポロと涙をこぼしていた。 
  
 泣くこんこんに手をつかまれたまま、あーぁ、と千奈美を見る友理奈。 
 傷ついた顔のこんこんに、千奈美が慌てていいわけをする。 
 「あ、いや、こんこんがいやなわけじゃなくて、怖いから」 
 「怖い?」かがんでこんこんを慰めていた圭織が聞いた。 
 「だって、夜の山でしょ? 怖いよ」  
- 38 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 22:58
 
-   
 圭織とののとこんこんが散歩に出かけるのを見送ったあと、 
 神経質なくらいにまわりに誰もいないことを確認すると千奈美は話し始める。 
 「なんかね、えりかと舞美が見たらしいよ」 
  
  
 前々から山に何者かが住んでいるという噂はあったが、見た者はなかった。 
 それを、矢島舞美と梅田えりかが見たと言うのだ。 
 放課後、番長の千奈美を中心に校舎裏でだべっていたときのことだ。 
 なにかおもしろい話はないのかと言う千奈美に、えりかが話した。 
  
 陸上部の舞美のなんちゃって高地トレーニングに付き合っていたのだそうだ。 
 千奈美たちの家のもう少し奥から山に入り、頂上をめざしていたのだという。 
 そこは連なった山々の中でも小さいほうで、歩いて一時間、走れば二十分ほどの行程だ。 
 舞美が二往復目の頂上に到達する間に、えりかは山頂につける計算だ。 
 後日、一緒に行く意味がなかったのではないかと口論になったのだが、それはまた違う話。  
- 39 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 22:58
 
-   
 細い山道の勾配はそれほどないが、うねるように作られているため距離がある。 
 なぜ舞美に付き合っているのかわからなくなって面倒になったえりかは、 
 直線で行けばショートカットできるのではないかと思い、縦に山を登り始めた。 
 急で、笹が密集しているために歩きにくいが、歩けないことはない。 
 うっすらと人が通った跡があったからだ。 
  
 汗が額ににじんできたころ、絵梨香はおかしいと思い始めていた。 
 この山を登る人は多くはないが、少なくもない。 
 だが、誰がこんな面倒な道を通るのだろうか 
 えりか自身つかれてしまって、縦に山を登ろうとしたことを後悔していた。 
 それに、どんどん山道から離れていく。 
 一体、どこに向かっているのだろう。 
  
 その話を聞いていた千奈美は、恐怖に逃げ出したかったが立場上そうはできなかった。 
 おもしろい話だと思って聞いていたのに、まさか怖い話が出てくるとは思ってなかった。 
 千奈美は、怖いもの全般が大の苦手だ。 
   
- 40 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 22:59
 
-   
 「でもさー、なんかそれウソくさくない?」 
 話のオチを聞く前に友理奈が言ってしまった。 
 真剣に怖がっていた千奈美は少し気分を害した。 
 「なんでそういうこと言えるの?」 
 「だってさー、魔女が住んでるのは森の中じゃん、えりかちゃんが見たのは山なんでしょ?」 
 もっともらしい発言だが、話にならない。 
  
 「ゆり、最後まで聞きなよ」 
 「うん、で?」 
 「えりかが見たのはね、女の人だったんだって。 
 後姿しか見てないみたいなんだけど、急にすっと消えたんだって!」 
 「ふーん」 
 興奮して語る千奈美に、完全に興味を失った友理奈。 
 友理奈が夜風に身を震わせて家の中に入ろうとした。 
 舞波が居間でなめるように顔を近づけて本を読んでいる。  
- 41 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 22:59
 
-   
 「最後まで聞いて!」 
 ひとり縁側に残されてしまっては怖くて動けなくなるだろう千奈美が、友理奈の足を掴んだ。 
  
 羽織るものがないから、ざぶとんを抱えた友理奈が聞いた。 
 「消えたから、魔女なの?」 
 「そう!」 
 「でもさー、なんで山んばとかじゃないんだろう。 
  普通さ、山の中で正体不明って言ったら化け物とか怪物とかじゃない?」 
 「なんかね、ちょこまかしててかわいかったんだって!」 
 「じゃあ、かおりんじゃないね」 
 それは失礼だと目を丸くさせる千奈美に、友理奈が説明する。 
 「あ、話聞いててね、かおりんかと思ってたの、魔女の正体。ちがうみたいだね」  
- 42 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 23:00
 
-   
  
  
 喫茶シシリア  
- 43 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 23:01
 
-   
 凝ってはいるが趣味の悪い木製のテーブル5席と、窓際のボックス席が2つ。 
 こだわりはあるが、全体的に中途半端。 
 どの席にも差されてある赤いフリージアは造花だし、 
 立派な音響設備があるのに流れているのは「MMM BOP」という曲だけだ。 
 肝心な部分が手抜きなのだ。 
  
 喫茶シシリアという名前は、店主の柴田が悩みに悩んでシチリアのような雰囲気の店にしたいと、 
 シチリアのことは何も知らない柴田が自信を持ってつけた。 
 ただシチリアというだけではないから、すこしひねって原語っぽくシシリアにしたのだ。 
 だが、実際に店ができて、その名前が喫茶「シシリア」だと目の当たりにした柴田は、 
 こりゃしばった、と思った。 
 信じられないくらいにダサかった。 
 開店したばかりだし、こっそり名前を変えても誰にもバレないかな、 
 そう考えて看板を外そうとしたところで、開店を祝いにやってきた 
 土建屋の斉藤や、眼鏡屋の村田や、理髪店の大谷に田舎臭いとバカにされ、 
 変に意地になって、ここは田舎なんだからいいじゃんと名前を変えなかった。  
- 44 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 23:01
 
-   
 放課後を楽しむ雅と茉麻と小春がボックス席で嬌声をあげている。 
 千奈美は番長の仕事があるとわけのわからないことを言って来なかった。 
 舞波は公民館にある図書コーナーへ読書に行った。 
  
 「ねー、田原ってゼッタイ小春に惚れてるよねー」 
 そう言いながらも、雅は内心おもしろくない。 
 田原は雅にぞっこんだったからだ。 
 好きか嫌いでいったら間違いなく嫌いだけど、それは別問題だ。 
  
 「雅、よかったじゃない。ウザいのがいなくなって。あ、田原って前は雅が好きだったの」 
 茉麻が雅に言い、小春に説明した。 
 その田原が誰だかわからない小春は、よくわからないといった顔をしている。 
 察した雅が、苛立ちの入りまじった口調で田原の特徴を言う。 
 「うんとねー、背が中くらいでー、髪もふつうでー、暗くてむっつりすけべ、って感じ」 
 「それは雅がずっと見られてたからだよ。言いすぎだって」 
 「じゃあ、どんなやつなの?」小春が聞いた。 
 「なんかおとなしくて、男子にいじめられる感じ」 
 フォローしたつもりの茉麻が、失敗したと顔をしかめた。 
 小春が二人の話をトータルする。 
 「知らなくて当然だってことでいいの?」 
 頷きつつ、雅が修正する。 
 「覚えなくていい」 
 茉麻が、そうね、と同意した。 
 その茉麻の口調がおかしくて、雅と小春が笑った。  
- 45 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 23:01
 
-   
 「はーい、お待たせー」 
 談笑する三人に、柴田がゼリーを持ってきた。 
 洗ったプリンの容器に、うすい緑色の濁ったゼリーが入っている。 
 「今日はレモンゼリーでーす」 
  
 「色、緑じゃん」 
 恐る恐るゼリーを手にした雅がつっこんだ。 
 「甘みつけるのにブルーハワイ入れたらそうなったのよ」 
 「カキ氷のやつ?」 
 「そう」 
 「いらない」 
 椅子にのけぞった雅が、ゼリーを遠ざけた。 
  
 「ていうか、あゆみちゃん、注文してないのに持ってこないでよ」 
 茉麻が言うと、柴田がいけしゃあしゃあと返す。 
 「誰も注文しないからよ」  
- 46 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 23:01
 
-   
 喫茶シシリアではオレンジジュースしか頼んではいけないというのは誰もが知っている。 
 柴田は100%のオレンジジュースだと謳っているが、みんな薄めていると知っている。 
 だが、どういうわけかおいしいのだ。 
 その日のオレンジの状態を見極め、ベストの割合で薄める。 
 それは柴田が100%のオレンジジュースだと言いきれるギリギリの基準なのだろうと、 
 謳い文句には納得いってないが、誰もがおいしいとオレンジジュースを注文する。 
  
 オレンジジュースがおいしいため、中途半端な他のメニュー、 
 例えば、できあいの生地で作ったアップルパイや買ったあんこで作ったぜんざい、 
 勘でてきとうに作ったジャムトーストなどが、非常にまずく感じられてしまう。  
- 47 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 23:02
 
-   
 今日のゼリーは、たまにする失敗の中でも最低の部類に入るだろう。 
 転校生でしょ? となかば無理やり食べさせられた小春が、 
 スプーンが刺さりにくいほどのありえない硬さのゼリーに慄き、 
 その味のわからなさに顔をしかめて三人分の水を飲み干した。 
  
 柴田も柴田で慣れているのか、それほど落ちこまない。 
 申し訳ないことをしてしまったと小春のほうが落ちこんでいるくらいだ。  
- 48 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 23:02
 
-   
  
 五時になった。 
 村中にあるしょぼいスピーカーから、やけにテンションの高い女の声が聞こえてくる。 
 「ハッピー! みんな、今日もチャーミーの声を楽しみにしてた? そりゃ楽しみにして 
 たよねぇ、ぐふふ。はーい、そういうわけでもう五時ですよー! ガキどもはおうちに 
 帰ってくださいねー、これからは大人の時間ですよー! というわけで、グッチャー!!」 
 ひずんで割れるチャーミーの高音がぶつりと途切れた。 
  
 放送を無視して喋り続けている三人の席に、柴田が立った。 
 「ほら、チャーミー放送おわったから、あんたらもう帰んなさい」  
- 49 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/28(土) 23:03
 
-   
 「えぇ? だってわたしの時計じゃまだ4時だよ?」 
 雅が時計のついていない自分の腕を見て言う。 
 「わたしの腹時計はまだ3時ー!」 
 お腹に触れた茉麻が続く。 
 「ピッ、ピッ、ピッ、小春のおこめ券が3時37分をお知らせします」 
 懐からおこめ券を取り出して鼻をつまんだ小春が時報のマネをする。 
 雅と茉麻がそれぞれにつっこむ。 
 「いや、小春、それ無理あるから」 
 ちっとも面白くはないが、三人には面白いらしい。 
  
 「5時はこどもが帰る時間なの。帰りなさい」 
 柴田が追いはらおうとしても、三人は楽しそうにああでもないこうでもないと時間を探している。 
  
   
- 50 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 22:56
 
-   
  
  
 夜遊び  
- 51 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 22:57
 
-   
 食べるのに夢中で誰も何も言わず、静かな食卓。 
 思い出したように後藤が呟く。 
 「そういえば、圭織は?」 
 「知らない、帰ってきたときにはいなかった」 
 反応の早い千奈美が元気な声で言った。 
 いつも大きな声だが、食事中ということもあって大きく響く。 
  
 後藤はそうなんだとうなずき、縁側で肉缶を食べているれいなを見た。 
 「圭織より猫のほうが居つきいい、ってのも考えものだよね」 
 「れいなが家にいちゃいけんと?」 
 「悪くはないけどさ、もうちょっと猫らしくしようよ」 
 「らしい、ってなんね? れいなはどっからどう見ても猫っちゃけど」 
 興奮して声が大きくなるれいなを、友理奈があやす。 
 「れいなは猫だよ、どっからどう見ても猫」  
- 52 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 22:57
 
-   
 納得して肉を食べ始めたれいなに、舞波が鼻白んだ。 
 敏感に反応したれいながくってかかる。 
 「あ、いま舞波がれいなのことバカにした!」 
 舞波の代わりにののが言う。 
 「だってさ、れいな猫のくせに肉食べてんだもん。魚とか食えよ」 
 「れいな、光物は食わん」 
 「知らねーよ!」 
 「のんちゃんだってペットなんだから牛乳とか飲みなよ」 
 「意味わかんねー。紺ちゃんもなんかあの猫に言ってやってよ」 
 「えぇ? ……わたし、飲むもん、牛乳」 
 「ほれみろ〜。のんちゃん、ペットしっかくー」 
 「うるっせ!」 
  
 猫とペットの言い争いに、背を伸ばすために毎食一杯の牛乳を欠かさない佐紀が入る。 
 「のんちゃん、わたしの牛乳飲んでもいいよ!」 
 「飲まねーって」 
 「飲んで」 
 「なんでだよ」 
 「なんでもっ」 
 桃子の面倒という責任を負っていない佐紀は明るい女の子だ。  
- 53 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 22:57
 
-   
 猫とペットと佐紀の言い争いをよそに、梨沙子が甘えた声で後藤に聞く。 
 「ごっちん、今日も行くの?」 
 「ん? 行くよ。あんたも来んの?」 
 「うん!」 
 口を開けて笑いながら梨沙子は頷き、言う。 
 「みんなも行こうよ」 
 「行かないよ。明日学校あるし」 
 桃子がみんなを代弁して言った。 
  
 すると、梨沙子がムッとした調子で少し声を太くさせて言った。 
 「わたしだって学校あるよぉ」 
 「どうせ行かないじゃん」雅が短く言った。 
 梨沙子は傷ついたフリをして茉麻に泣きつく。 
 困ったように梨沙子の頭を撫でる茉麻が、そういうこと言うなよ、みたいな顔で雅を見ている。 
   
- 54 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 22:58
 
-   
 ◇ 
  
 青い月明かりの下、後藤と梨沙子が手をつないで歩く。 
 大きな池の上で月が揺らめき、どこからか蛙の声が聞こえてくる。 
 「ねえ、ごっちん」 
 「んー?」 
 「蛙の声できる?」 
 「できない」 
 「わたしできるよ」 
 「やってみ?」 
 「ぐげごげー」 
 梨沙子は照れくさくなったのか途中で笑い、後藤にしなだれかかった。 
 「なーんかリアルな声だねー」 
 「でしょ? がまがえるなの」 
 「がまがえる?」 
 「そう、グロいやつ」 
 「グロいのは嫌だなー。かわいいやつやってよ」 
 「けろけろ、けろけろ」 
 「ぬはは」 
 「それよりさ、今日はどこにするの?」 
 おねだりするような目で、梨沙子が後藤を見上げる。 
 どうしようかな、と後藤が視線を山のほうにはずす。 
 やわらかい月夜が、山に複雑な陰影を作り出している。  
- 55 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 22:58
 
-   
 後藤がなにか言う前に、梨沙子がつないでいた手を引っぱった。 
 「ケメちゃんのとこがいい!」 
 「なんでよぉ」 
 「今日はジャズって気分なの」 
 大人ぶる梨沙子に、後藤の頬がふっとゆるむ。 
  
 保田の経営する「Bar Kei」は唯一の24時間営業店だ。 
 カウンター席しかない小さな店で、奥にはシンプルなステージとピアノが置いてある。 
 保田や、従業員の稲葉がそこで歌う。 
 一見オシャレっぽい雰囲気なのだが、昼間から暗い、アル中の溜まり場だ。 
 梨沙子は、昼間、店を切り盛りしている稲葉のチーズケーキがお気に入りだから、 
 夜に行くとあまった分は誰も食べないからとこっそりくれるから行きたいと言う。  
- 56 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 22:59
 
-   
 「でもね、今日は『女語り』の日だから、裕ちゃんとこ」 
 後藤がいじわるっぽく言うと、梨沙子があからさまに顔を顰める。 
 キャバレー「女純情」の裕子は、酔うと梨沙子にからんでキスしてくるからだ。 
 それも、かわいらしい小鳥の啄ばみのようなキスではなく、ねっちょりと吸いついてくる。 
 「やめようよ、中澤さんのとこは」 
 「なぁんでよー」 
 「昨日も行ったし……」 
 「ハナもタロも梨沙子のこと待ってるって」 
 中澤の飼っている犬のことだ。 
 「でも、中澤さんちゅーしてくる……」 
 「あんたに隙があるからチューされんのよ」 
  
 そうは言うものの、後藤はしょうがないことだと思っている。 
 嫌がるこどもたちを無理やり引き寄せてキスするのだから。 
 誰もが通る道なのだ。 
 非力な部類に入る裕子だが、それでも大人なりに力はあるため、こどもでは敵わない。 
 ここのこどもたちは、裕子のキスから逃げるだけの力を身につけることで、大人の階段をひとつ昇る。  
- 57 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 22:59
 
-   
 「さ、着いた」 
 入ろうとする後藤の腕をつかんだ梨沙子は、腰を引いていやいやをする。 
 切実な顔だ。 
 尻が地面につきそうで、後ろに逃げようとする梨沙子の足がずるずるとこすれている。 
 後藤は梨沙子の腕をパッと離す。 
 梨沙子が尻餅をつく。 
 「ひとりで帰れるなら、帰ってもいいよ」 
 帰れるはずがないと、後藤はにやりと梨沙子に言って店に入っていった。 
 立ちあがり尻のほこりを払った梨沙子が、地団駄ふんで後藤のあとを追っていく。 
   
- 58 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 23:00
 
-   
 店はステージの花道を囲んだボックス席、それを取り巻くようにテーブル席が配置されている。 
 後藤は店の一番奥、ステージと花道に接したボックス席に座った。 
 場合によってはサービス精神がたっぷりになる黒いリノリウムのステージでは、 
 オーバーオールを着たあさみ、みうな、里田まいが「北海道シャララ」を歌っている。 
  
 「おう、ごっちん」 
 「おっ、裕ちゃん」 
 後藤がにやにやして、中澤の着ている紫の全身タイツを撫でた。 
 体のラインを隠さないということは、心も隠さないということらしい。 
 「今日も来るなんて、あんたも暇やの」 
 「忙しい合間を縫って来てるんだよ。それに今日は女語りの日だし」 
 くふふ、と後藤が中澤を見て吹き出す。 
 中澤は、つっ、と舌打ちして、思い出したように言う。 
 「そういえば、圭ちゃんのとこに圭織おったで」 
 「あー、そうなんだー。ずっといなかったんだよねー」 
 「それより梨沙子ちゃんは来とらへんの?」 
 「いるよ、ハナタロのとこにでもいんじゃない?」 
 落ち着かなく梨沙子を待ってきょろきょろしている中澤、 
 後藤の隣に腰をおろした。  
- 59 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 23:00
 
-   
 後藤が、注文取ってよ、とカクテルの名を言う。 
 「裕ちゃん、ゾンビ」 
 「んなもん、あらへん。圭ちゃんとこ行け」 
 中澤のキャバレーではビールしか出さない。 
 安物のウィスキと焼酎もあるのだが、嫌な顔をされるため注文する客はほとんどいない。 
 一方、保田のバーは驚くほど種類が豊富だ。 
 なんでもある。 
   
- 60 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 23:00
 
-   
  
 中澤がステージの準備に去るのを見計らって、梨沙子が席に着いた。 
 後藤はビールジョッキを三つならべて、ピスタチオを齧っている。 
 「梨沙子、なんにする?」 
 「え、なにが?」 
 「飲み物」 
 「コーヒー」 
 「だから、飲み屋にはないんだって」 
 「でもコーヒー」 
 梨沙子はコーヒーが好きだと言い張る。 
 どこに行ってもコーヒーを飲みたがる。 
 それも、尋常ではない量の砂糖とミルクを入れて。 
 本当に梨沙子が好きなコーヒー牛乳よりも甘たるい。 
  
 「いい加減さ、メニューにあるものたのみなよ」 
 後藤がかるく諌めるように言った。 
 「でも飲みたいんだもん」 
 キャバレー「女純情」でもどこでも、梨沙子はかわいがられ、わがままは通ってしまう。 
 悪いことではないが、いいことでもないと後藤は思っている。  
- 61 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 23:01
 
-   
 あ、と思い出したように梨沙子が不安に目を揺らせて後藤に耳打ちする。 
 「酔いどれなっちが来てる」 
 「そうなんだ」 
 「うん、どうしよう」 
 「あ、圭織が圭ちゃんとこいるって。ここ嫌なら行ってくれば?」 
 後藤はどっちに行ってもいいという意味で言ったのだが、梨沙子は怒られてしまったような顔をする。 
  
 焼酎のボトルを抱えた酔いどれなっちが、ゆらりゆらりと近付いてきた。 
 「おう、なっち」 
 軽い感じで言った後藤に、うん、と頷き、ニコニコして梨沙子に言う。 
 「梨沙子ちゃん、なっちがお話してあげよっか」 
 ドギマギして答える梨沙子。 
 「話?」 
 「そう、なっちのお話」 
 梨沙子が困りきった顔で助けを求めるが、後藤は涼しい顔をしてビールを飲んでいる。  
- 62 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/29(日) 23:01
 
-   
 「梨沙子ちゃん、なっちのお話ききたいでしょ」 
 「うーんとね……えーっと、えと、……もう聞いた」 
 「へ? なっちまだなんにも話してないけど」 
 酔いどれなっちは、あれ? と首を傾げている。 
 梨沙子はしれっとした顔をしている。 
 「いや、聞いた」 
 「そうだっけかなー、話したべか……」 
 「そうだよ、なっち姉ちゃん酔っぱらってるから覚えてないんだよ」 
 真剣に考えはじめた酔いどれなっちの横を抜けて梨沙子が通路に出る。 
 「ごっちん。ウチ、ケメちゃんとこ行ってくる」 
 「わかったぁ。じゃあ、帰るときに圭ちゃんとこ寄るよ」 
 酔いがまわりはじめてトロンとしてきた後藤が言った。 
  
 梨沙子が店の出入り口にさしかかったとき、店内がふっと暗くなった。 
 全身タイツの中澤がビールの大瓶を持ってステージに立つ。 
 「きゃー! 裕ちゃーん!!」 
 楽しそうな後藤の声が聞こえてきた。 
 中澤がキャバレー中に響くような太い声で叫んだ。 
 「第三十二章、毛に混じる白!」 
  
   
- 63 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/22(水) 21:15
 
-   
  
 海岸線の情熱 
   
- 64 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/22(水) 21:16
 
-   
 商店街のある道路の中ほどに位置する、閑散とした駅前の小さな広場。 
 タクシーが一台だけあって運転手が退屈そうに煙草を吸っている。 
  
 ベンチの上に直立したみうなが、腕をうしろに組んで声を張り上げている。 
 「るんるん共和国憲章その一!」 
 友理奈と岡井千聖と萩原舞が唱和する。 
 「その一!!」 
  
 「効果音を侮るなかれ! るんるんっ!!」 
 「るんるんっ!!」 
 ノリノリの友理奈が「るんるん」のところでYeah!と飛び上がった。 
 それをジロリと睨むみうな。 
 「あ、すいません」 
 出すぎたことをしてしまったと友理奈が謝った。 
 「いや、今のはよかったぞ。今度、それをどこかに入れよう」 
 尊大な口調でみうなが友理奈を褒めた。 
  
 見られてないのをいいことに、千聖がみうなの膝にクモをのせた。 
 もぞもぞに気付いたみうなが大騒ぎしている。 
 舞ちゃんが意味なく唇をひきむすんでかわいい顔をしている。  
- 65 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/22(水) 21:16
 
-   
 なにやってるんだろう。 
 商店街の通りを歩いていた雅は、みうなたちを遠巻きに眺めて思った。 
 「砂糖を切らしたから、いしよしさんとこで買ってきて」と後藤におつかいを頼まれたのだ。 
 後藤の言う「いしよしさん」はいしよし商店のことで、それが雅の気を重くさせていた。 
 今日の店番が石川だったらどれだけいいことだろう。 
 石川さんはちょっとうるさいけれど、優しくて楽しいお姉さんだ。 
 吉澤さんは素っ気ないだけなんだけど、綺麗な顔立ちをしているから威圧感がある。 
 それに、石川さんにつっこむときの鋭い眼差しが怖い。 
  
 雅はとぼとぼ歩きながら、上機嫌で「キューティーハニー」を歌う桃子を見る。 
  
  ♪おねがいー おねがいー かわいがぁってねー ももこは 努力家だしぃ 褒めたら伸びるのー♪ 
  
 桃子に買いに行かせようと思った。 
 そして、自分は隣の飲食店「海岸線の情熱」でなにか食べようと思っていた。 
 一番近くの海まで四時間はかかるこの村での、唯一の海だ。  
- 66 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/22(水) 21:17
 
-  「ももぉー、行きすぎー」 
 雅はワカメちゃんのように平手をぴょこんと跳ねさせて体に張りつかせ、 
 バタバタ膝を折るような桃子の走り方その3をマネして、追い抜いた。 
  
 「もうやだぁ、ひどーい」 
 桃子がじたばたして、大笑いしている雅に向かってバタバタと駆けていく。 
  
 追いついてきた桃子に、買い物行ってきて、と雅が真面目な顔で言った。 
 いろんな意味で、なんで? と首を傾げる桃子に、 
 「おだちんでなんか食べるでしょ? 先に行って注文しておくよ」 
 「ああ、そっか。じゃあねぇ、カンパチ!」 
 「ないから」 
 「じゃあ、イカ焼き!」 
  
 飲食店「海岸線の情熱」に入って、雅はしまったと思った。 
 中に吉澤がいたのだ。 
 その瞬間、どういうわけか桃子に対する罪悪感がわいてきた。 
 同時に、桃子に押しつけようとしたものが自分にまわってきたよかったと思った。  
- 67 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/22(水) 21:18
 
-  「おう、雅ちゃん」 
 従業員である岡田唯と話していた吉澤がへらへらと声をかけてきた。 
 「こんにちは」 
 雅は小さく頭を下げた。 
 吉澤の得体の知れない余裕に、受け入れがたいものを感じる。 
 「おつかい?」 
 「そうです」 
 「なにほしいの? 持ってきてあげよっか?」 
 いしよし商店と海岸線の情熱はもともとひとつの店舗だった。 
 改装の際に別々の店にしたのだが、中ではつながっている。 
 「あ、大丈夫です。ももが向こう行ってるから」 
  
 「雅ちゃん、たこやき食べにきたん?」 
 店内は二つのブースにわかれていて、その片方、たこやきを焼いている岡田が聞いた。 
 「あ、イカ……」 
 遠慮がちに雅が隣のブースを指すと、吉澤がふざけた調子ではあるが強く言う。 
 「なんでよぉ! たこやき食べてきなよ」 
 ちがうって、へらへら笑った岡田が吉澤をなだめるようにして、雅に言う。 
 「違うって、吉澤さん。いま、雅ちゃん言いかけてたやろ? イカ焼きでしょ?」 
 わたしが作るものを食べないなんてありえない、そんな口ぶりだった。  
- 68 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/22(水) 21:18
 
-  「じゃあ、それで」 
 雅は仕方なく注文すると、桃子の分を買いに隣に向かう。 
 小学生に無理やり買わせてるんじゃないよ、と岡田に言う吉澤の声が聞こえた。 
 吉澤さんが最初やろぉ? そんな、小学生に脅迫とか人聞きの悪い。岡田の声も聞こえる。 
 もう中学生だと言おうと思ったけどやめた。 
  
 もう片方のブースでは、三好絵梨香がとうもろこしやイカやホタテを網で焼いて売っている。 
 「雅ちゃん、こっちのイカも?」 
 「はい」 
 三好の笑顔にうなずき、雅は窓際のテーブルに座った。 
 木枠の窓から、隣のいしよし商店で石川と笑顔で話している桃子が見える。 
 罪悪感と憂鬱があいまって、なんだか目の奥がうるうるとしてしまう。 
  
 「あ、そうだ、雅ちゃん」 
 吉澤に声をかけられ、雅は顔をあげる。 
 「ちょっとこいつ連れて帰ってくれない?」 
 そう言って三好の足元から何かを引っぱりだそうとしている。 
 雅の位置からは影になっていて、何があるのかはわからない。  
- 69 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/22(水) 21:19
 
-  「おめー、ほら、早く出てこいよ」 
 「いやだ! れいなは帰らんと!」 
 れいな? 雅は立ち上がって吉澤のほうにまわってみる。 
 「家出はおしまい」 
 「れいなは猫っちゃ! 猫っちゃから帰らん!!」 
 そういえば、ここ何日かれいなを見てないな、と思った。 
  
 三好の足にしがみついたれいなが首ねっこを吉澤に掴まれ、引っぱられている。 
 ぎゃーぎゃーわめいているれいなに、吉澤が優しく言う。 
 「ほら猫、雅ちゃんだって迎えにきてくれてるんだからさ」 
 「雅ちゃんはおつかいに来ただけっちゃ、さっきそう言ってたと!」 
 「そうは言ってても、ちゃーんとれいなを心配してこっちに寄ったんだから。ね?」 
 急に吉澤に話を振られた雅は、目を丸くしてそうだとうなずいた。 
 「騙されん、れいなはそんな見えすいたウソには騙されんっ」 
 「うっせ、何日ここいる気だよ」  
- 70 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/22(水) 21:19
 
-  三好の足から剥がされたれいなは、今度は吉澤の足をするすると登り、背中にしがみついた。 
 「れいな、後藤さんが謝りにくるまで帰らん!」 
 吉澤が背中を揺らしながら笑う。 
 「ごっちん、言ったことすら覚えてないって」 
 「そんなことない!」 
 「だって、ごっちんだよ?」 
 「れいなはそんな愛されてない猫やなか!」 
  
 なんのことだろう、雅はれいなが家出を思い立った理由を考えながら、 
 イカができたという三好から皿を受け取った。 
 そのとき、三好がこっそり教えてくれた。 
 「れいなちゃんね、後藤さんに家に居つきがいいって言われたのがショックだったみたい」 
 そう言われて、雅はやっと思い出した。  
- 71 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/22(水) 21:19
 
-   
 「よっすぃー!!」 
 鋭い声が聞こえ、れいなを慰めようと立ち上がった雅がふりかえると、 
 目と口と鼻をとがらせた、仁王立ちの石川が店の前に立っていた。 
 「あー、めんどくせー奴がきた」 
 れいなを背中に貼りつかせたままの吉澤が呟いた。 
  
 「よっすぃ、店番サボらないでよ! わたしがこっちに入れないじゃないのよぉ!」 
 「もう石川さんのスペースないですやん」 
 岡田が鼻で笑う。 
 もともとの持ち主だった石川の白玉カレーは、なくなってしまった。 
 誰も食べなかったからだ。  
- 72 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/22(水) 21:20
 
-  「あ、石川さん。なんか大量にカスタードクリームが届いたんですけど」 
 三好が皮つきのまま、とうきびを焼き始めた。 
 1日1本食べなければ気がすまないらしい。 
  
 「わたしが頼んだのよ。カレーに入れて甘みとコクを出すの」 
 「ウゼェよ。ちゃんと返品しとけ」 
 苛立たしげに三好が吐き捨てる。 
 今はまだ無理です、とか言ってた馴れ合いの時期は過ぎた。 
 ウザい石川には、きちんとウザいと言う。 
 吉澤にけしかけられて。 
  
 せっかくのアピールチャンスが霞んでしまったれいなが泣きそうな顔をしている。 
 しがみついた吉澤の背中に顔を埋めた。 
  
 いつの間にか席についていた桃子が、幸福の顔でイカにがっついている。 
  
   
- 73 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/23(木) 03:11
 
-  れいなの猫っぷりがツボです。 
 各人のキャラ付けも面白い。次も楽しみにしてます。  
- 74 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/06(水) 16:55
 
-  なんだこれ、すげー面白い! 
 ミキティがツボだ、ツボ。また出して欲しい 
 続き期待してるっす  
- 75 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:52
 
-   
  
 映画を見よう 
   
- 76 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:53
 
-   
 雅が切符を買おうと券売機に向かう。 
 桃子と佐紀は券売機を素通りして駅構内に入っていった。 
 「買わないのー?」 
 「定期あるからー」 
 振り返り、佐紀が言った。 
  
 ああ、そうか。 
 雅は定期という響きが妙にかっこよく感じた。 
 それがたった一人の駅員に愛想を振り撒いている桃子も持っているものだとしても。 
   
- 77 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:53
 
-   
 ◇ 
  
 30分ほど電車に揺られて降りた駅のすぐ側に映画館がある。 
 今日見るのは、1000万人が涙したという、感動のラブストーリー。 
 心臓がやばいくらいに気高く美しい、心が震える物語。 
 枯れた現代人に見せたい映画No.1らしい。 
  
 佐紀と桃子がノリノリだった。 
 雅はそれほど見たいわけではなかったが、どうしてもと佐紀が雅を誘うので来てみた。 
 おそらく佐紀は、桃子と二人で映画に行くのがいろいろと不安だったのだろう。 
  
 雅はボーっとスクリーンを眺めている。 
 ポップコーンは予告でほとんど桃子に食べられてしまったし、 
 ジュースも飲みきって、とけた氷まで飲んでしまった。 
   
- 78 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:53
 
-   
 チューブにつながれた女が移っているスクリーンの中では、 
 水色の無菌服を着た別の女の独白が続いている。 
  
  あたしはいつだって酸欠なのよ、あなたの前ではチアノーゼなの 
  顔が紫色だけど、あなたに伝えたくて、必死で、声を絞りだすの 
   
  やっと……、やっと……わたしは、あなたに、やっと…… 
  あなたは生きている、あたしには、あたしだけにはわかるの 
  だって、機械音がピッピピッピ鳴ってるんですもの 
  
  あなたが死なないとわからない後悔、それはあなたのかすり傷 
  あたしはただ、あなたに刻みたかったの、あたしの存在を 
  大好きな友達の純潔を穢して、弄んで、捨てて、傷を穿って…… 
  あなたを殺すよりも、あなたに重い心の錠を!! 
   
- 79 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:54
 
-    
 すっげーつまんねー。 
 死ぬんなら死ぬで、はっきりしろよ、どうせ死なないんだろうけど。 
 雅は泣き寝入りのような気持ちでスクリーンを眺めていた。 
  
 隣の桃子は開始15分で眠ってしまった。 
 佐紀は真剣に見入っている。 
  
 あーあ、と雅は思う。 
 こんなことになるのなら、桃子をまんなかにしておけばよかった。 
 桃子なら途中で寝ても、桃子だからということになってそれで終わりだ。  
- 80 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:54
 
-   
 雅はつまらないからすぐにでも帰りたかったけど、物語にのめりこむ佐紀の手前、できない。 
 こういうのが好きな人、本当にいるんだな。 
 定番の話の、定番になるだろうラストを、何度佐紀に囁こうと思ったことだろうか。 
 ヨン様はいつ出てくるんだろう、そんな関係ないことを考えながら雅は必死に耐えた。 
  
 あちこちからすすり泣く声が聞こえる。 
 苛立ちまぎれに、雅は桃子の鼻の穴を押さえてみた。 
 んううーん、心地よい眠りの中にいる桃子が、雅の手を払う。 
 桃子の向こう側にいる牛のような女が雅を睨む。 
 しらーっとした顔の雅は、隣にいる佐紀を見た。 
 目が合った。 
 帰る? 佐紀がそう、口の動きだけで言った。 
   
- 81 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:55
 
-   
  
 映画館を出て、雅は解放感というものを初めて知った。 
 あまり好きにはなれない、街のざわめきのひとつひとつが歓喜の喝采のように聞こえた。 
 駅前の噴水で缶ジュースを飲みながら、雅は聞いてみた。 
 「佐紀ちゃん、よかったの?」 
 「みやこそ、どうなの?」 
 「わたし? ずっと帰りたかった」 
 「行きたいっていったのわたしだからさ、つまんない顔しちゃいけないと思ってたんだ」 
 「そうなの?」 
 「うん。みや、けっこう真剣に見てたし」 
 どうやら、佐紀に気を使って見ているフリをしていたのがいけなかったらしい。 
  
 それよりさ、と佐紀がちらちら見ていた方向を指差した。 
 「すごい変な人がいるんだけど」 
 プロレスのマスクを被った挙動不審な男がいる。 
 剥ぎ取られるのが怖いのか、人が通るたびに自分のマスクを両手で押さえている。 
  
 桃子が素っ頓狂な声をあげる。 
 「あ、けー太郎さんだ!」 
 「けーたろう?」 
 「うん。先生。わたしたちのことをすっごくよく考えてくれてて、優しいの」 
 自分のことを自慢するかのように桃子が言った。  
- 82 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:55
 
-   
 そういう問題じゃない。 
 雅と佐紀が、苦笑いで顔を合わせた。 
 「あのマスクは?」雅が聞いた。 
 「すっごい恥ずかしがりやさんなの」 
 勢いづいた桃子が、さらに続ける。 
 「けー太郎さんってどこでもマスクかぶってるんだよ、運動会とか演劇のときでもかぶってるの。 
  それにね、素手でバット折ろうとしたりして、怪我したりするの。 
  すごいんだよ、思いきりやって、ゴツって変な音がしたりしてね……」 
 この前の村上の愛ちゃんといい、ももの学校にはおかしな人が多いな、佐紀は思った。 
  
 「ちょっと見ててね」 
 にしし、と桃子は微笑むと、音もなくK太郎に忍び寄る。 
 それなのに、かなりの速度だ。 
  
 佐紀が桃子の背中を目で追いながら言う。 
 「マスク取るのかな」 
 「たぶんね」  
- 83 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:56
 
-   
 腰を屈めた桃子がするするーっとけー太郎の背後に立った。 
 神経質そうなマスクの男は、桃子の存在に全く気付いていない。 
 「もも、なんかすごくない?」 
 そんな佐紀の言葉に、邪気はあるけど純粋な邪気だからだろうな、と雅は思った。 
  
 桃子が片手でさっとマスクを取った。 
 卓越した技術。 
 けー太郎はしばらくマスクを取られたことにすら気付かなかった。 
  
 やったあ、と膝を折るような女の子ジャンプで喜んでいる桃子。 
 慌てふためくけー太郎にマスクを返すと、満面の笑みで帰ってくる。 
 「ね? おもしろかったでしょ」 
 「おもしろくて優しい先生なのにさ、なんでイタズラするの?」 
 佐紀の疑問に桃子は、うーん、と人差し指を頬にあて、首を右にかしげ、 
 「おもしろいからかなっ?」 
 と首を勢いよく左に傾けて言った。 
 その仕草は、まさに女の子そのもの。  
- 84 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:56
 
-   
 「はーい、発見」 
 雅が手をあげて、うーん、と人差し指を頬にあて、首を右にかしげ、 
 「おもしろいからかなっ?」 
 と首を勢いよく左に傾けて言った。 
 桃子のそれよりも多少大袈裟だが、遠くはない。 
  
 「も〜ぅ、そんなことしてないじゃん」 
 桃子が唇をつきだし、駄々っ子のような表情で、じだばたした。 
 それを佐紀がマネする。 
 「も〜ぅ、そんなことしてないじゃんっ」 
 佐紀のマネは、なぜか顎が出て鼻声だ。 
 かなり大袈裟だが、間違ってはいない。 
  
 「もぉ〜、やだあ」 
 雅が思いきりぶりぶりな声を作って、桃子の背中に隠れた。 
 桃子がするだろうことを先まわりしたのだ。  
- 85 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:56
 
-   
 佐紀が気付く。 
 ここは街中。 
 まわりにいた人たちが自分達を冷めた目で見ている。 
 楽しいことに熱中していると、まわりが見えなくなってしまう。 
 素にかえった瞬間が、とてもとても恥ずかしい。 
  
 「そんなことしないって〜」 
 笑うしかないといった表情の桃子が、体を振って小刻みに跳ねている。 
 それも雅にマネされてしまう。 
  
 佐紀はそっと桃子と雅の手をつかみ、ダッシュでその場から逃げ出した。 
  
   
- 86 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 22:58
 
-  >>73 にゃん 
 >>74 でへへ  
- 87 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 00:26
 
-  ハロプロのみんなが出てくるとは書いてあったが、まさかあんな人まで出てくるとは。 
 あいかわらずの「意外性」が素敵です。  
- 88 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:49
 
-   
  
 山の神様  
- 89 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:49
 
-   
 現代のGKは足技もうまくなければならない。 
 ののとこんこんがパス交換をしている。 
 その間を、れいながボールを奪おうとじゃれている。 
 梨沙子は縁側にこてんと横になり、その様子を眺めていた。 
  
 「ねえ、梨沙子ちゃんもやろうよ」 
 ボールを止めたこんこんが言った。 
 チャンスとばかりにれいなが飛びつく。 
 こんこんは足の裏で器用にボールを引き、れいなをかわした。 
 「いー、うごきたくない」 
 梨沙子が半分閉じた目をしょぼしょぼさせた。 
  
 れいなの第二撃が来るまえに、こんこんがののに出した。 
 「ふー!」 
 れいなが唸った。 
 やけになったのか、重力のすきまを滑るような素晴らしいスピードでボールを追う。 
 「ふー、じゃねーって」 
 ののが笑いながら、ボールをダイレクトで蹴ってれいなにぶつけた。 
 鼻っ柱にボールがあたったれいなが涙目で文句を言う。 
 「なにすると!」 
 「猫いじめ」  
- 90 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:50
 
-  梨沙子が眠りに落ちた。 
 小さく口を開け、静かな寝息をたてている。 
 その口に、麦茶が注がれた。 
 びっくりして飛び起きる。 
 「なになに!?」 
 「学校行かないなら手伝いな」 
 後藤がニヤニヤと笑顔で立っていた。 
   
- 91 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:50
 
-   
 手ぬぐいを首に巻いた後藤が、軽トラの運転席で梨沙子を待っている。 
 「梨沙子、早くしろー」 
 置いてくぞ、とは言わない。 
 梨沙子は置いてってほしいからだ。 
  
 嫌そうな顔の梨沙子が助手席に座る。 
 庭に撒く石をまとめて拾おうと、少し大きめの袋を持って。 
 後藤があきれたように言う。 
 「あんた、ののに知られたらいじめられるよ?」 
 「のんちゃんがきづくわけないもん」 
 「ま、そうだけどね」 
 後藤がハンドルの横についたレバーでギアをローに入れる。 
 おんぼろの軽トラがぎしぎしと音を立てて発進した。  
- 92 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:50
 
-   
 後藤の農場は、家から車で15分ほどのところにある。 
 車一台分の細い山道を、がたごと揺れながら登っていくのだ。 
 「ねえねえ、ごっちーん」 
 「んー?」 
 「ごっちんってさー、免許もってるの?」 
 「んにゃ、持ってないよ」 
 どうでもいいというように後藤は言うが、梨沙子は驚く。 
 「ダメじゃん」 
 「なぁんでよぉ」 
 「警察の人に怒られちゃうよ」 
 梨沙子は後藤が牢屋に入っているところをイメージして言った。 
 「こんなとこまで警察来ないって」 
  
 そっか、と梨沙子がハンドルをまわして窓を開ける。 
 風が入ってきて、後藤の首から手ぬぐいが落ちた。 
 「そろそろ梨沙子も運転おぼえる?」 
 「いいの?」 
 「もうクラッチに足届くでしょ」 
 大人に認められた、梨沙子が嬉しそうに顔をほころばせる。 
 喜びを知られないように手で頬を押さえるが、どうしても笑みがこぼれてしまう。 
 そんな梨沙子を見て、後藤が目を細めている。  
- 93 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:51
 
-   
 水田を抜けて、山道と交差するように流れている川のあたりで停車した。 
 後藤はまず荷台から腕ほどもある大きなモデルガンを取り出す。 
 「あとからあとから湧いてきやがる」 
 川を越えたところにある畑に向かい、的を定めずにとりあえず発砲した。 
 モデルガンらしからぬ、ドンと低い音が山間に鳴り響く。 
 一斉に鳥がはばたく。 
 そして、逃げ遅れたとろそうな鳥に狙いを定め、もう一度撃つ。 
 ドンッ。 
 弾はあたらず、鳥は飛んだ軌道のまま、少し離れた樹木で羽を休めた。 
 「あー、鳥うぜー」 
 後藤がそうはき捨て、距離を置いて再び農作物を食べようとしている鳥めがけて滅茶苦茶に乱射する。 
  
 梨沙子は鳥に当たらなくてよかったと、ホッとしている。 
 鳥を撃ちとった日は、必ず夕食に出てくるからだ。 
 みんな、おいしいおいしいとその肉を食べる。 
 そりゃそうだ、その日撃ち取った新鮮な肉なのだから。 
 でも、梨沙子はそれが何の肉かわかっているので食べられない。 
 もちろん、それを人に話すこともできない。  
- 94 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:51
 
-   
 「ごっちん、今日はなにすればいいの?」 
 「レタスの雑草取りして」 
 「わかった」 
 そう梨沙子が畑の左側に向かう。 
 「違う、そっちじゃない。右」 
 「えー? こっちだっけ」 
 「いい加減、キャベツとレタスの区別つけなさい」 
 「どっちも葉っぱのかたまりじゃない」 
  
 後藤の農場は広く、趣味の範囲を超えている。 
 休耕田もふくめると、サッカーコートが三十面ほど取れそうだ。 
 「梨沙子ー」 
 水田で作業をしていた後藤のよく通る声が、山間にこだました。 
  
 ちんたら雑草取りをしていた梨沙子が体を起こした。 
 後藤が小さく見える。 
 「なにー?」 
 「なんでもなーい」 
 逃げていないか確認しただけだ。 
 それがわかっている梨沙子は、逃げないよ、と呟いた。  
- 95 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:51
 
-   
 梨沙子が背中に汗をかきはじめ、腰のあたりにじっとり疲れがたまってきた頃、 
 スケッチブックを抱えた圭織がやってきた。 
 「梨沙子ちゃん、大変ねぇ」 
 柔らかそうな生地のロングスカートが風に揺れる。 
 「かおたんも手伝ってよ」 
 口元に笑みをたたえて圭織が首を振る。 
 梨沙子も手伝ってくれるとは思っていない。 
 すぐに作業を再開させた。 
 圭織が畑わきの土手に腰かけてスケッチブックを開いた。 
  
 畑に移動した後藤の持つ放水機が、小気味いい音を響かせる。 
 後藤のまわりに、虹の輪が咲いた。 
 太陽に熱された土の、香ばしい薫りが空を目指す。 
 「梨沙子ちゃん、あんまりちょこちょこ動かないで」 
 真面目に作業している梨沙子に、圭織が言った。 
 どうやら梨沙子を描いているらしい。 
 それを知った梨沙子は、駆け出して圭織から遠く離れた。 
 「ひねくれてるわねぇ」 
 圭織は小さく笑い、梨沙子の後を追った。 
   
- 96 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:51
 
-   
 「梨沙子ちゃん、サボっちゃおうか?」 
 圭織が声をひそめるようにしてイタズラっぽく言った。 
 「かおたん、仕事してないじゃない」 
 「おもしろい人に会わせてあげる」 
 「だれ?」 
 おもしろい、という言葉に梨沙子の顔が輝いた。 
 「山の神様」 
 さあ、こっちよ、ポカンとする梨沙子の背中を押し、山の中へ入っていった。 
  
 圭織は軽装であるというにもかかわらず、すいすい進んでいく。 
 歩きやすい道を選んでいるのだろうが、圭織ほど慣れていない梨沙子は歩きにくそうにしている。 
 生きている土はやわらかく湿っていて、足をとられてしまう。 
 農作業をしていたほうが楽かもしれない、と梨沙子は思った。 
   
- 97 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:52
 
-   
 「ねえ、かおたん、危ないんじゃないの?」 
 「なにがー?」 
 圭織が密集した笹を手で開き、梨沙子が通るスペースを作った。 
 飛び越えるようにして笹を抜けながら、梨沙子が言う。 
 「このあたりって魔女がいるんだよ?」 
 「そうなの?」 
 「うん、ちなから聞いた」 
 深刻そうな顔を作った圭織が、梨沙子を怖がらせるようにして言う。 
 「これから会うの、神様じゃなくて魔女かもしれないわね」 
 「え?」 
 梨沙子の顔が曇る。 
 「でも、かおの友達だから大丈夫」 
 安心したように梨沙子が笑った。 
 ひきつった笑顔だった。 
  
 「着いた」 
 圭織が立ち止まった。 
 山の中だというのにそこだけ整然としていて、妙に静やかだ。 
 深緑の苔におおわれた割と大きな岩と、 
 まっすぐ天に向かう樹木が数本生えているだけで、ほかにはなにもない。 
 それほど奥まったところではないが、暗いところだった。 
 静粛とした空気がしっとりと二人を包む。 
 お寺の境内みたいだ、と梨沙子は思った。 
  
 「おーい!」 
 不意に圭織が叫んだ。 
 「なにー?」 
 のんびりとした声がどこからか響いてきた。 
 梨沙子が思わず肩を震わせた。  
- 98 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:52
 
-   
 足を引きずったまるっこい女の子が歩いてくる。 
 「梨沙子ちゃん、この子が山の神様。あいぼん、この子が梨沙子ちゃん」 
 「どうも、あいぼんです」 
 圭織に紹介されたあいぼんは、人懐っこい笑みを浮かべている。 
 「はじめまして」 
 梨沙子がぎこちなく頭を下げた。 
 「照れてんの?」 
 あいぼんが圭織に聞いた。 
 「そうね。梨沙子ちゃん、緊張してる?」 
 顔を覗きこんでくる圭織に、梨沙子は曖昧に首をふった。 
  
 緊張というよりも、自分より背の低い女の子が神様なんてうそ臭い。 
 梨沙子は顔に出さずにそう思った。 
 ふむふむと頷いていたあいぼんが、梨沙子の目を見た。 
 「こんなんが神様とか胡散臭いと思ったやろ?」 
 梨沙子が、どうしてわかったの? さすが神様だ、といった顔をする。 
 得意気なあいぼんに、圭織が触れるかどうかの微妙なつっこみを入れる。 
 「ちがうでしょー」 
 「それ下手やからやめとき、って前に言わなかった?」 
 「うるさいわね」 
 鼻から息を吐いた圭織が梨沙子を向く。 
 「あいぼんね、初対面の人みんなに聞くの。胡散臭いでしょ? って」 
 「ちがうちがう、あいぼん人の心読めるから」 
 「誰もこの子が神様だなんて信じないもんね」 
   
- 99 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:52
 
-   
 親しげな二人の間に入れない梨沙子が、会話の切れ目を待ってあいぼんに聞いた。 
 「足、痛いの?」 
 引きずっていた右足を指した。 
 「よく気付いたね。梨沙子ちゃん」 
 くすぐったそうに初対面の梨沙子の名前を口にしたあいぼんが、圭織を見上げた。 
 「前に来たとき、かおりん最後まで気付けへんかったもんな」 
 圭織は聞いていない。 
 ボーっと何もない空間を見つめている。 
  
 「この前、崖から落ちちゃってね、それで」 
 あいぼんのさらっとした口調でも、梨沙子は痛そうな顔をする。 
 「そんな高いところから落ちたわけやないから大丈夫」 
 ここで、やっと、梨沙子の中で魔女とあいぼんがつながった。 
 「あ、魔女!」 
 「魔女?」 
 あいぼんが目を丸くさせた。 
 魔女、と確認するように呟く梨沙子。 
 千奈美から聞いた話を、あいぼんに聞かせた。 
   
- 100 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:53
 
-   
 自分が魔女と噂されているのがツボだったらしい。 
 あいぼんが鼻の頭をくしゃくしゃにさせて大笑いしている。 
 「魔女のほうがええなー。山の神様とか、なんか臭そうだし」 
 「あいぼんは臭くないよ」 
 「そうよ、あいぼんさんはかぐわしいねん」 
 言葉の意味がわからない梨沙子が首をかしげた。 
  
 それよりさ、といつの間にか帰ってきていた圭織が言う。 
 「あいぼん、うちくれば?」 
 「なんで?」 
 「ケガしてたら不便でしょ、いろいろ」 
 「大丈夫だよ」 
 「のんちゃんもこんこんも心配してたしさ」 
 梨沙子が説明してほしそうに圭織を見ている。 
 「この前ね、のんちゃんとこんこんと来たのよ」 
  
 「ね、あいぼん。うちに来なよ」 
 圭織に続き、梨沙子もあいぼんの腕を振って言う。 
 「おいでよ」 
 「山の中のほうが落ち着くねん」 
 この家と町から離れたくないと同居を拒むおばあちゃんのような口調だった。 
 えー、梨沙子が残念そうに顔をしかめた。 
   
- 101 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:53
 
-   
 泣け、梨沙子ちゃん、あいぼん来てくれないって泣け、圭織がそう梨沙子をけしかける。 
 泣き落としかいな、あいぼんが呆れた。 
 「じゃあ、お昼ごはんだけでもごちそうになろうかな。最近、ごっちんに会ってへんし」 
 あいぼんの言葉と同時に圭織が歩き出した。 
  
 少し遅れて、梨沙子とあいぼんが並んで歩く。 
 「ねえ、うちに来たことあったの?」 
 大体いつも家にいるのに、といった意味をこめて言った。 
 「女は謎が多いほうがカッコいいねん」 
 ただのはぐらかしに、梨沙子が、おお、と感嘆の声を漏らした。 
 山の神様というわけのわからない肩書きと、黙っていても伝わる母のような包容力に、 
 梨沙子はあいぼんを慕いはじめている。 
  
   
- 102 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/11(月) 23:56
 
-  >>87 わたしはマスクさんが好きです。 
 
- 103 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 23:47
 
-   
  
 雅の回想  
- 104 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 23:48
 
-   
 すっかり忘れていた。 
 雅は抜け落ちた部分を見つけて、ふと思い出した。 
  
 誰にでも愛される子っているんだな、と小春を見て思う。 
 不思議と気がつけば小春のまわりに人が集まっているのだ。 
 転校して数ヶ月、幼稚園からずっと一緒のこのクラスに馴染むのだって至難なはずなのに、 
 すっかりクラスの人気者になってしまった。  
- 105 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 23:48
 
-   
 そんな小春と一番最初に出会ったのが、雅だ。 
 春のことだった。 
  
 雅は学校への道をちんたら歩いていた。 
 シャワーに入って髪が乾くまで家にいたため、みんな先に行ってしまった。 
  
 昨日テレビで見た東京の空を思い出していたような気がする。 
 東京の空は汚いというような内容だったはずだ。 
 今、自分がいるところの空と、東京の空はどう違うのだろうか。 
 そこで雅は気付く。 
 テレビは東京の空についてやっていたが、雅はビルしか見ていなかった。  
- 106 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 23:49
 
-  道を逸れ、牧草地帯に入る。 
 今はまだ背丈の短い草ばかりだが、夏になると雅の肩まで隠すほどに成長する。 
 鞄を放り出し、寝転んだ。 
 朝露に濡れた青草がひんやり気持ちいい。 
 「サボっちゃおうかなー」 
 ちょうど、家と学校の中間の距離だ。 
 ひとりごちると目を閉じた。 
 陽光が瞼の上で明るいオレンジ色に弾ける。 
 自分の存在がすーっと地面に吸い込まれていくような錯覚に陥る。 
 間があいちゃったけど、二度寝できそうだな、と思った。 
  
 「あのー」 
 女の子の声が聞こえて、雅は苛立たしげな気持ちで目を開けた。  
- 107 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 23:49
 
-  ぱっちりした瞳が少し垂れた、でも凛とした顔立ちの女の子が雅を覗き込んでいた。 
 ここいらにいる人はほとんど知っている雅でも、見たことのない子だった。 
 「あの、中学校の生徒さんですよね?」 
 「そうだけど」 
 怪訝そうに答えた。 
 女の子は仰向けになったままの雅に紙切れを突き出して頭を下げた。 
 「これあげるので、学校の行き方教えてください!」 
 雅が差し出されたのは、おこめ券だった。 
 「行き方教えるのはいいけど、おこめ券はいらない」 
 「なんでですか! これでおこめがもらえるんですよ!!」 
 「おこめ券だからね」 
 「でっしょ? これでおこめがもらえるんですよ!!」 
 「うん」 
 「主食なのにぃ! なんで? なんでなの!?」 
 勝手に熱を帯びて叫んだ少女が、勝手に落ち込んだ。 
 少女は目頭に手をやって涙をこらえ、首を振っていた。  
- 108 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 23:49
 
-  面倒になってきた雅は、話の方向を戻した。 
 「で、学校に行きたいんでしょ? 転校生?」 
 「あ、うん、そうなの」 
 一方的なお米で友情が深まり、女の子の言葉遣いがぞんざいになった。 
 「名前は? わたしのことは雅って呼んでね」 
 「え? いや、それは恥ずかしいし」 
 「そう? 恥ずかしくないよ。わたしは雅なんだから」 
 それより名前は? と雅が視線で促す。 
 「あ、久住小春です」 
 「小春ちゃんか。かわいい名前だね」 
 「本当にそう思った?」 
 小春が雅をまっすぐ見つめて聞いた。 
 嘘をついちゃいけないような気がした雅が、正直に言う。 
 「言ってみただけ。春に生まれたんだな、って思った」 
 「わたしね、7月生まれなの」 
 「そうなんだ」 
 会話が途切れてしまった。  
- 109 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 23:49
 
-  小春はしてやったりといった顔をしていた。 
 それを受けて、雅は何を言っていいのかわからなかった。 
 気まずい沈黙。 
 雅が持ち直して、笑顔で小春に言う。 
 「学校、行こうか」 
 「そうだね」 
 「何年生」 
 「一年」 
 「あ、じゃあクラス一緒だ」 
 「ほんとに?」 
 「うん。うちの学校、生徒少ないから一学年に一クラスしかないの」 
 「あ、わたしが前に住んでたところと一緒だ」 
 「小春のところも、田舎だったんだ」 
 「そう、すっごい田舎」 
 「新潟?」 
 「なんでわかったの?」 
 「おこめ券もってたから」 
 「便利だよね、おこめ券。俵かついで歩く必要ないし」 
 「みんなにおこめ配るつもりだったの?」 
 「わたしを知ってもらうには、それがいいかなって」 
 「でもさ、おこめ券だったら新潟じゃないおこめ買うかもよ?」 
 「雅はちゃんと新潟のおこめを買ってくれるよね?」 
 「どうだろ。うちはごっちんが買ってるから」 
 一年の半分は家で取れた米だけど、と言おうとしたけど、また今度にしようと思った。 
 それよりも、自分を雅と呼んでくれた小春と仲良くなれそうな気がしていた。 
   
- 110 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 23:50
 
-   
 実際、仲良くなった。 
 だからどうなんだ、と自問自答して困る。 
 ただ思い出しただけなのだから。 
  
 朝から何もかもが億劫でならない。 
 昨日からの曇天のせいかもしれない。 
 淡いグレーの空と、乳白色に霞む稜線はいつもなら美しく映るのだろう。 
 だが、今の雅には重苦しい景色にしか見えなかった。  
- 111 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 23:50
 
-  何かしようと茉麻を探す。 
 自分の席で身じろぎひとつせずに、真顔で前を向いている。 
 ちょこんと膝に手をのせて、妙にかわいらしく見える。 
  
 舞波は亀のように首をのばして本を読んでいる。 
 千奈美はサボっているのか、いないようだ。 
  
 今ごろ梨沙子は家で惰眠を貪っているのかな、と思うと急に腹立たしくなってきた。 
 同時に、奔放な梨沙子に愛しさが込み上げてくる。 
 そういえば、最近あそんでやってないな。 
 そんなことを思い出し、たまには相手してやるか、と席を立った。 
 「雅、どうしたの?」 
 帰り支度をしている雅に、輪の中から抜けてきた小春が聞いた。 
 「帰るの」 
 「家に?」 
 「うん。じゃあね、また明日」 
 よくわかっていない小春に笑顔で言い、鞄を肩にかけて教室を出る。 
 梨沙子の喜ぶ顔を想像しながら。 
  
   
- 112 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/15(金) 23:34
 
-   
  
 最強のペット  
- 113 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/15(金) 23:34
 
-   
 小さな校舎に大きなグランド。 
 学校を囲む森がわさわさと風に揺れる。 
 正面玄関前にちんまり整列する、児童全員。 
 校長が長々と話している、いつものどこにでもあるような朝礼。 
 「……ですから、酔いどれなっちには石を投げてはいけません、酔っ払いだって人間です。 
 みなさん、変態ミキティに石を投げますか? 投げないでしょう? 同じことです……」 
  
 あー、どうしてこんな日に来ちゃったんだろう。 
 右も左も前も後ろも、みんな生徒。 
 梨沙子はこの圧迫感が嫌いだ。 
 大あくびして、空を見あげた。 
 スカッと晴れ渡った青空。 
 泣きたくなるくらいに雲が白い。 
 まだ風が涼しいけれど、今日は暑くなるだろう。 
 涙ににじんだ視界で、隣を見た。 
 六年生の中島早貴がまっすぐ前を向いている。 
 「ねえねえ、ゆりはどこ?」 
 そう声をかけてみたが、早貴は迷惑そうに顔をゆがめるだけで返事はこない。  
- 114 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/15(金) 23:35
 
-  今度は後ろにいる同学年の鈴木愛理を振り向いてみた。 
 「ねえ、めんどくさいよね」 
 眉をしかめて言った。 
 眉間による皺を見た後藤に、圭織のくせがうつっちゃったんだね、と言われたことがある。 
 「梨沙子、ちゃんと前向いて」 
 小声の愛理が梨沙子の頭を掴んで、前を向かせた。 
  
 校長の話がやっと終わった。 
 教室に戻って座れる、梨沙子は硬くはりつめた足を前に出した。 
  
  次は放送局からのお知らせです。委員長、おねがいします。 
  
 そうアナウンスがあって、友理奈が壇上に立った。  
- 115 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/15(金) 23:35
 
-  梨沙子はもう面倒で帰りたくなってしまい、踵を返した。 
 愛理の腕をつかみ、そっと列を抜け出す。 
 「ちょっと待ってよ」 
 愛理が抵抗するが、朝礼中だから大きな声は出せない。 
 「いいからいいから」 
 梨沙子はにやにやしながら愛理を引きずっていく。 
 体の大きな梨沙子の力に、愛理の抵抗は無力と化す。  
- 116 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/15(金) 23:35
 
-   
 友理奈がすっと背筋を伸ばしてマイクの前に立った。 
 あー、あー。 
 やわらかいアルトを校庭中に響かせて、ゆっくりはっきり話し始める。 
 「えー、放送局からのお知らせです。今週と来週はるんるん週間です。 
 みなさん、お昼ごはんのときに流す、るんるんな曲をリクエストしてください。 
  そして、一緒にお昼休みをエンジョイしちゃいましょ〜!」 
 全校生徒の反応を見ようと、グランドを大きく見まわした。 
  
 「あー、梨沙子! 帰るな!!」 
 声と同時に、愛理を引きずって学校を出ようとする梨沙子が駆け出した。 
 友理奈の叫び声に驚いたのか、愛理も同時に駆け出していた。 
 先生たちが二人を追いかける。 
  
 梨沙子と愛理は手をつないだまま校門を飛び出した。 
 「待ちなさい!」 
 かなりの速度で走る先生たちと二人の距離は二十メートルほど。 
 梨沙子が急停止し、行き過ぎた愛理を、手をつないだまま遠心力で森の中に放りこむ。 
 そして、学校にべーっと舌を出すと、楽しそうに笑って森の中に消えてしまった。 
 その瞬間にあきらめた先生たちが、ゆっくりとスピードを落としていく。 
 学校抜けの天才である梨沙子に森に入られては、もう捕まえることはできない。 
 熱いハートを持った希望に燃える、新任のユキヨシ先生が追いかけて森に入り、 
 迷ってしまって泣いているところを梨沙子に救出されたのは有名な話だ。 
   
- 117 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/15(金) 23:36
 
-   
 ◇ 
  
 緑を透過してきた光のおかげで、適度に明るい。 
 るりるると流れる小川の中央にある岩に腰掛けた梨沙子が、長い木の棒を持って川の中をのぞいている。 
 数匹ならんだ小さなメダカが、水の流れなどないようにひらひらと揺れている。 
 「愛理、ほら、メダカいるよ!」 
 「うーん……」 
 晴れやかな顔をしている梨沙子とは対照的な顔をしている愛理。 
 うつむき、どんよりと暗い目をしている。 
 「学校サボっちゃった」 
 先生に密告するような優等生ではないが、真面目な愛理は一度学校に戻ろうとしたのだが、 
 今帰ると学校でも怒られるし家でも怒られるよ、と梨沙子にてきとーなことを言われて踏みとどまったのだ。 
  
 「大丈夫だって。うちのせいにしちゃえばいいから」 
 キランキランと黄金色に跳ねる川面を棒でぴしゃぴしゃ叩きながら、梨沙子が言った。 
 「梨沙子はさ、怒られないの?」 
 「怒られないよ」 
 「いいなー」 
 「いいでしょ」 
 愛理がわかりやすく溜息ついた。 
 「じゃあ、うちも一緒に学校もどったげるよ」 
 その言葉に、愛理の目がぱーっと輝く。 
 「本当?」 
 「うそ」 
 けらけらと梨沙子が笑う。 
 「でもよかった。本当は学校戻るの嫌だったんだ」 
 どっちだよ、梨沙子は言いたくなったけど言わなかった。 
 「ね? 楽しいって。いつもよりもずっと長く遊べ──あ、クジャク!!」 
 「ちがうよ、あれはキジだよ」 
 「あはは、そう、それ」 
   
- 118 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/15(金) 23:36
 
-   
 川のせせらぎが気持ちいい。 
 強い陽射しに熱される体は、川の流れが連れてくる風の散歩がすぐに冷やしてくれる。 
 梨沙子はボーっと全体を眺めている。 
 太陽の動きや風の向き、虫の飛来や鳥の羽ばたき、植物のわずかな生育、 
 ちょっとした時間の経過で自然は変化する。 
 ひとつとして同じ景色はない。 
  
 梨沙子はそれでいいのだが、愛理はヒマでしょうがない。 
 「梨沙子ー」 
 「ん?」 
 「いっつもこんなことしてるの?」 
 「えー? あー、うん、…そう、かな……かもしれない」 
 「ほかのことしようよ」 
 「じゃあ、ちなんとこ行く?」 
 今の時間なら学校サボってどっか行ってるだろうと、梨沙子が言った。 
 ヤンキーの人か、と愛理が顔を曇らせる。 
 「ほかにはー?」 
 「ほかー? そうだなぁ……あっつるりんとこは?」 
 「あっつるりん?」 
 「稲葉さんのとこ。ケメちゃんのバー。チーズケーキもらえるかもしれない」 
 愛理の顔が明るくなる。 
 「あ、そこにしよう!」 
 でも、と梨沙子がふと思い出して顔を曇らせた。 
 「酔いどれなっちがいるかも」 
  
 あれもダメだし、これもダメだ、梨沙子は家に誘ってみた。 
 思いのほかあっさりと頷いた愛理を引き連れて、森から出た。 
   
- 119 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/15(金) 23:36
 
-   
 川沿いを昇り、視界が開けたところにコンクリの小さな橋がある。 
 梨沙子が棒で膝ほどの青草を薙ぎながら、ゆっくりと土手を上がる。 
 「こんなとこに繋がってるんだね」 
 そう愛理が感心するが、梨沙子にとっては当たり前のことなので特に何も言わなかった。 
  
 小石の混ざった白っぽいコンクリは複雑に陽光を反射して眩しい。 
 梨沙子の引きずる棒がカラカラと気持ちのいい音を立てている。 
 「いい天気だねー」 
 愛理が大あくび。 
 「うーん、そうだねー」 
 電車が走る音が聞こえた。 
 ほとんど同時に巻き起こった風に吹かれて、森中がざわざわと響く。 
 風に乗って、つんと饐えた嫌な匂いが届いた。  
- 120 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/15(金) 23:37
 
-  やばい、ミキティだ。 
 梨沙子が顔をしかめて愛理を見る。 
 敏感に匂いを嗅ぎ取った愛理は、つるんとまるい顔を青くさせた。 
 以前、ミキティに捕まって髪をびしょびしょになるまでなめられ、噛まれたことがあるからだ。 
 「あじょー、しょうなにょ、ままがしゅきなの、しょうよね、みきちーがしゅきなのよにぇ」 
 くどいくらいに甘く気味悪い声に、今でもうなされることがある。 
  
 「あーっはあっははははー!!」 
 高音が聞こえ、前方にある急カーブを背中を丸めた前傾姿勢のミキティが走ってくる。 
 「愛理、逃げよ?」 
 梨沙子が言うも、愛理は恐怖に唇を震わせて首を振るだけで動けない。 
 足からすっと力が抜け、座り込んでしまった。 
  
 どうにかしなきゃ、梨沙子は泣いてしまいそうだが頑張る。 
 友理奈に聞いたことを思い出し、何度も何度も頭の中でくりかえす。 
 エンジョイって言ってこっちから追いかければ、逃げていく。  
- 121 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/15(金) 23:38
 
-  「うきゃあ!」 
 無意味に飛び上がって着地したミキティが、下卑た笑みを浮かべて二人の前に立った。 
 暑くなってきただけに、体臭がきつい。 
 その上、走って体温が上がっているからとんでもない匂いがする。 
 「ぃえっへへぇ、学校サボる悪い子ちゃんはですねぇ、たぁべちゃーうぞお」 
 心の底から楽しそうに、怯えきった二人を見ている。 
  
 梨沙子は手に持っている棒に気付き、思い切り振った。 
 だけど極度の緊張でうまく力が入らない、落としてしまった。 
 これでもう、選択肢はミキティを追いかけるしかなくなった。 
 でも、どうやって? 
 梨沙子は目の前に立つミキティを見た。 
 垢でゴビゴビの髪の毛を後ろに流している。 
 目がエロく歪んでいる。 
 おでこが光った。 
 狂ったように大声で笑うミキティは、なにか言おうとしているが言葉はまとまりを持たない。 
 「んえっへ! あぶなひーっ、こだなひーっ、こいういけにゃいひーっ」 
 笑いすぎて息ができないのか、苦しそうにしている。 
 無理だ、食べられてしまう、梨沙子は絶望に心を握りつぶされたような気がした。  
- 122 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/15(金) 23:38
 
-  諦め、ガックリうなだれていた梨沙子は目を疑った。 
 ミキティが来た方向から、ののとこんこんが歩いてくるのだ。 
 梨沙子はもう一度、ベタに目をこすって確認する。 
 重そうなビニール袋の端を、それぞれ片方ずつ持っていた。 
 袋に入っているのはお菓子だろうか、二人とも何か食べている。 
  
 ののがこっちに気付いた。 
 袋を放り出し、体を大きく揺らすようにして走ってくる。 
 「ミ・キ・ティー!!」 
 だん、だん、だんっ、とがに股のののが飛んだ。 
 最上の笑顔だった。 
  
 声に振り返ったミキティ、次の瞬間にはののが飛び込んできた。 
 かなり勢いのついた体当たりに、ごろごろと数メートルは転がった。 
 ううぅ……、呻くミキティ。 
 ののを追いかけてきたこんこんが道端の草を揉んで、ミキティの顔に押しつけた。 
 イタズラっ子の笑顔だった。  
- 123 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/15(金) 23:38
 
-  「青臭い青臭い青臭い青臭いぃぃぃぃぃ!!」 
 苦悶の表情のミキティが涎を垂らし、倒れたまま狂ったように暴れまわる。 
 それを横で見て、大笑いして肩を叩きあっているののとこんこん。 
 「おまえら嫌いだー!!」 
 情けない声ですて台詞を吐くと、ミキティはよろよろと逃げていった。 
 追いかけてななめ後ろから足をかけるのの。 
 見事にかかったミキティは、顔から落ちた。 
 呆然とその様子を眺めている梨沙子と愛理。 
  
 「あー、ミキティおもしれー」 
 ケツを出して逃げていくミキティを見て、ののは笑いすぎて涙を流している。 
 こんこんは嬉しそうに手を叩いて、その場で跳ねている。 
  
 「クサが苦手なの? なんで? なんで知ってるの?」 
 愛理を助け起こした梨沙子が、ふらふらとこんこんに寄った。 
 こんこんは意味ありげに笑うだけだ。 
  
 ミキティは青臭いものに弱い。 
 この話はあっという間に子供たちの間に広まり、ミキティ凋落の日となった。 
  
   
- 124 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/16(土) 00:57
 
-  今回も小ネタがいっぱいですね。大好き。 
 
- 125 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/17(日) 00:35
 
-   
  
 千奈美の恋  
- 126 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/17(日) 00:35
 
-   
 いつからだろう。 
 ほとんど無意識に、視線が奴のほうを向く。 
 恋してる時をいつも勝手に想像してたけど、理想なんかとは全然、程遠い。 
 もっと胸が締めつけられるものだと思っていた。 
 現実は、胸がググググッと熱くなって、なんだかモヤモヤする。 
 恋とかよくわからないから男の子と遊ばなかった千奈美は、 
 わたしはどうしてしまったんだろう、と困っている。 
  
 二時間目はアヤカ先生の突撃!英会話の時間だ。 
 十九人の生徒達が、顔を伏せて突撃されるのを避けようとしている。 
 千奈美も同じように顔を下げているのだが、どうしても奴のことが気になってしまう。 
 どんな風にして突撃されないようにしているんだろう。 
 一挙手一投足が気になってしまうのだ。  
- 127 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/17(日) 00:36
 
-   
 アヤカ先生がサディスティックな笑みを浮かべて生徒の間を歩く。 
 普段はおとなしくて上品でおしとやかなアヤカ先生は、この時間が一番自分らしいと思っている。 
 「Ha〜i,それでは茉麻ちゃーん! Please stand up!」 
 テンションの高いアヤカ先生の声が聞こえて、生徒はみな安堵の息を吐いて顔を上げる。 
 指名された茉麻は立ち上がり、両腕を九十度にまげて体の側面につけ、構えた。 
  
 あれ? と千奈美は思う。 
 教科書に出ていない、どんな無理難題を突きつけられるのだろうと恐怖に慄くはずだ。 
 そんな動揺がクラス中で沸き起こり、茉麻の動向に注目する。 
 千奈美はそっと奴を覗き見た。 
 奴も千奈美と同じように、不思議そうな顔をしていた。 
 そんなどうでもいい、当たり前の反応である共通点でも嬉しい。 
  
 それにしても、茉麻はなにをするつもりなのだろう。 
 千奈美は、奴と茉麻の両方を視界に入れている。 
 ちなみに、茉麻の前に当てられたのは小春で、 
 「今年は米の出来がよかったので、高床式倉庫が必要になりました」を英語にしなさい、だった。 
 一応は小春の合わせたつもりなのだろうが、そんなのわかるはずもない。 
 アヤカ先生も、高床式倉庫をどう英語で言えばいいのかわからなかった。  
- 128 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/17(日) 00:36
 
-  「うおりゃー」 
 茉麻が抑揚のない声と共に、目の前で固まっているアヤカ先生の腹を拳で突いた。 
 千奈美は、茉麻がなにをしようとしていたのかやっとわかった。 
 前に、ののからアヤカ先生の撃退方法を教えてもらったのだ。 
 たしかそのとき、ののは半笑いだったはずだ。 
 だから、千奈美はからかわれてるんだろうと気にも留めず、その話すら忘れていた。 
  
 かなり痛かったのか、アヤカ先生は腹を押さえ、涙目で咳き込んでいる。 
 自分の腕力がこれほどとは思っていなかった茉麻は打った瞬間に焦り出し、謝りたおしている。 
  
 「おはようございま〜す」 
 当たり前のように遅刻してきた雅が、爽やかな挨拶と共に教室に入ってきた。 
 先生を殴ってしまった後悔に泣き出しそうな茉麻。 
 その茉麻を気にしないでと慰めるアヤカ先生。 
 「どうしたの?」 
 近くにいた舞波に聞いた。 
 顔をあげた舞波は、やっと教室の異変に気付いたようだ。 
 雅と同じように、驚いた顔をしている。 
 舞波の机の上には、世界の偉人カードが並べられていた。 
  
 千奈美は、気付かれないようにそっと、奴のことを窺っている。 
   
- 129 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/17(日) 00:36
 
-   
 英語が終わり、休み時間。 
 千奈美はけっこう本気で考え込んでいる。 
 奴のことが気になって仕方がないという、心密かな想い。 
 わたしは恋をしているんだろうか、そんな疑問。 
 ひとりで抱えきれなくなって立ち上がった。 
  
 「雅!」 
 こういうことを聞けるのは、雅くらいしか思いつかなかった。 
 消去法で選んだ。 
 「ちょっと来て!」 
 「やだ、なに? シメられんの?」 
 雅が目をまんまるにさせた。 
 一緒にいた小春が顔を引きつらせた。 
 「そんなわけないじゃん」 
 雅の腕を引き、教室を出て行く。 
  
 「どしたの?」 
 取り残されポカーンとしている小春に、やってきた茉麻が聞いた。 
 「わかんない」 
 「そう」 
 「でも雅、ほとんど授業受けてない」 
 「いいんじゃない?」 
 なんでもないといった風に茉麻が言った。 
 小春は、時々この人たちの感覚がわからなくなることがある。 
   
- 130 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/17(日) 00:36
 
-   
 「へー、ここが溜まり場かー」 
 一言でいうと、湿ってる。 
 体育館と更衣室と野球部室に囲まれた小さなスペースを、雅はそう評した。 
 千奈美は、どこから拾ってきたのだろうというようなボロボロの皮のソファに座っている。 
 「みやも座んなよ」 
 「いや、いい」 
 飛び出たスポンジは、元は黄色だったのだろうが黒ずんでわけのわからない色になっていたからだ。 
  
 「で、話って?」 
 「あ、うん……」 
 千奈美の顔が曇った。 
 あまりいい話ではないな、と思った雅はゆっくり待とうと思った。 
   
- 131 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/17(日) 00:37
 
-   
 雅の背後、更衣室がざわついている。 
 そういえば次の時間は体育だったと思い出した。 
 千奈美はなかなか話し出さない。 
 もじもじとソファから飛び出たスポンジをちぎっては、それをさらに細かくしている。 
 とてもとても緊張しているのがはっきりわかる。 
 どんな話になっても驚かないようにしよう、と雅は心に決めた。 
  
 二人の間には何とももどかしい沈黙が停滞している。 
 背後は男子更衣室なのだろう、わーわーくだらない叫び声が聞こえてくる。 
 千奈美が息を吐き、雅を見た。 
 「あのさ、実はね」 
 窓から白い布が飛んできた。 
 雅が拾った。 
 ブリーフだった。 
 「うわっ」 
 慌てて放る。 
 窓から下半身裸の男子が出てきた。 
 田原だった。 
 昔、雅が好きで、今は小春が好きな田原だ。 
 雅が汚らしいものを見たように顔を背ける。 
 千奈美が顔を真っ赤にして目をおおった。 
 白いブリーフは雅のすぐ側。 
 田原は丸出しにしたまま、それを拾おうかどうしようか迷っている。 
   
- 132 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/17(日) 00:37
 
-   
 「あー、田原が好きな女の前でモロ出しにしてるー!」 
 頭の悪そうな男子の声がした。 
 ガキが、と雅が舌打ちした。 
 田原は漲ってしまっている。 
 千奈美の顔色がすっと引き、瞳孔が開いた。 
 「あんたら邪魔!」 
 窓から顔を覗かせる男子を一喝。 
  
 凍りついた男子一同、窓を閉めて、着替えを再開したのだろう、静かになった。 
 「みや、行こう?」 
 怒った顔のままの千奈美が田原の脇を通り抜けた。 
 田原は媚びたような笑みを浮かべてダイジナトコロを押さえている。 
   
- 133 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/17(日) 00:37
 
-   
 あゆみちゃんのとこなら静かに話せるよ、 
 雅の言うまま喫茶シシリア。 
 ドアを開けるとそこにはいしよし。 
 「はぁ? つっこみ? 何に対しての?」 
 喰らいつくような勢いの吉澤。 
 「そ、そりゃボケに対して?」 
 若干押され気味の石川。 
 「聞き返してんじゃねーよ」 
 「ボケよ、ボケに対してのツッコミよ」 
 「うざ」 
 「海岸線の情熱にはツッコミがいないのよ!」 
 「つーか梨華ちゃん、芸人?」 
 「そんなわけないじゃない」 
 「ほー、芸人じゃないのにボケとかつっこみとかあるんだ」 
 「そりゃあるわよ、人それぞれだもの」 
 吉澤がキレた。 
 「じゃあ梨華ちゃんは、なに、人それぞれをすべてボケとツッコミに分けてしまおうと、 
 そう思っているわけだ、バカじゃね? なにしてーの? 笑わせたいの? なんで?  
 ボケとツッコミ? 楽しいの? おもしろいって言われたいの? なに目指してんの? 
 誰がそんなことを望んだ? 必要ある? あの店にボケとツッコミは必要あるの?」  
- 134 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/17(日) 00:38
 
-   
 突然のこの状況にびっくりする雅と千奈美だが、 
 吉澤の怒りはもっともなことだと、それぞれ心の中で思った。 
  
 あれだけ言ってもまだ足りず、苛立たしげに石川を睨んだ吉澤がカップを口に運んだ。 
 吐き出した。 
 柴田の創作で、何かおかしなものが入っていたのだ。 
 その隙に石川が攻撃に転じた。 
 「あるの! あるんですぅ!! ツッコミ必要なんですぅ!!」 
 「二回くらい死んでバカなおせば?」 
 まだ言うか、みたいな顔で吉澤が、首をかしげる柴田からおしぼりを受け取りながら言った。 
 ムッと頬をふくらませる石川。 
 すぐに情けない顔になり、 
 「しばちゃ〜ん……」 
 とすがるような目で助けを求めた。 
 「巻き込まないで」 
 柴田は冷たく言い捨てた。 
  
 「お、雅ちゃんと千奈美ちゃんじゃん」 
 立ち尽くす二人に気付いた吉澤に声をかけられ、雅がビクッと肩を震わせた。 
 「学校サボっちゃだめよぉ」 
 石川が説教することで自分のバランスを取り戻そうとしている。 
 「いらっしゃい。何にする? 今日はね──」 
 「オレンジジュースで」 
 柴田がおすすめを言う前に、千奈美が遮った。 
 今日はもう無理だな、なんとなくそう思った。 
  
   
- 135 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/17(日) 00:39
 
-  >>124 両思いだねっ! 
 
- 136 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/18(月) 00:58
 
-  そうか、小春はまだ染まってないんだなあ 
 
- 137 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:34
 
-   
  
 まいはのメガネ  
- 138 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:34
 
-   
 縁側で寂しそうに曇り月夜を眺めている梨沙子。 
 膝にれいなを抱え、毛をぶちぶち毟っている。 
 梨沙子が風呂に入っている間に、後藤がひとりで遊びに行ってしまったのだ。 
  
 「あ、あの、梨沙子ちゃん?」 
 れいながそっと話しかけるも、梨沙子は反応しない。 
 むっとした顔で、雲の加減で明るくなったり暗くなったりする黒い稜線を眺めている。 
 「梨沙子ちゃん、あのね、れいな、そういうのはどうかと思うと」 
 抜かれる恐怖と、抜けていく快楽。 
 どちらにしても背徳という淫靡が響きが横たわっている。 
 れいなは身動きが取れない。 
  
 「りー、寝ないのー?」 
 桃子の甲高い声が聞こえ、梨沙子は首を振った。 
 何人かの足音が寝室に向かっていく。 
 寝る前だというのに、桃子はさわがしい。 
 ちょっともも、うるさい! と不機嫌そうな雅の声が聞こえてきた。  
- 139 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:35
 
-  居間のテーブルでは、佐紀が教科書を広げ、舞波が本を開いている。 
 寝室はうるさいし、早い時間から誰かが寝ていることもあるからだ。 
 佐紀は基本的に学校で勉強を済ませるタイプなのだが、授業の難易度が上がってきたためか、 
 最近ではよく居間で教科書を開いている姿を見かける。 
 舞波は相変わらず、べったり体とあごをテーブルにつけ、本を読みふけっている。 
  
 圭織は酒の匂いでみんなに嫌われるのは耐えられないと、 
 居間と縁側の間にある廊下で小さなちゃぶ台を出して晩酌をしている。 
 「ねえねえかおたん」 
 「んー?」 
 口元に優しい笑みを作った圭織は、浴衣を着て髪を結っている。 
 この季節は、いつもそうなのだ。 
 「のんちゃん、平気かなー」 
 こんこんが顔を曇らせる。  
- 140 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:36
 
-  ののは酒の匂いが嫌いだ。 
 晩酌するなら寝ると、不貞腐れて離れに入っていってしまったのだ。 
 Bar Keiの新作ケーキでこんこんを釣った圭織は、愛しくてたまらないといった顔をする。 
 ぽんぽんと叩くようにこんこんの頭を撫で、言った。 
 「寂しくなったら来るわよ」 
 ののがじとっとしたふくれっつらで来たらどんなに素晴らしいことだろう、と思いながら。 
  
 桃子の叫びのような悲鳴のような嬌声が聞こえてきた。 
 思わずこんこんが肩をビクンとさせた。 
 うるさいな、と思った佐紀が静かにするように言おうと思ったとき、 
 梨沙子がれいなを放り投げ、どたどたと寝室のほうに向かって、 
 「うるさ〜い!」 
 と叫んだ。 
 やつあたりだ。 
  
 そしてすぐに、 
 「うるさくなーい!」 
 という桃子の声が返ってきた。 
 もう、と梨沙子が廊下を踏み鳴らして舞波の隣に座った。 
 舞波は受け入れるように腕を広げたが、本に夢中でおざなりだ。 
 イライラのおさまらない梨沙子。  
- 141 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:36
 
-  圭織が微笑ましそうにその光景を見つめながら、おちょこをそっと唇に差し入れた。 
 夜風が後れ毛にゆるく吹いた。 
 しあわせそうに目を細めたこんこんが、モンブランをちまちまと口に運んでいる。 
 雲が流れ、二人が明るい黄色に染まる。 
  
 「舞波ちゃん、ひょっとして目が悪くなってきてるんじゃないの?」 
 脈絡なしに気付いた圭織が言った。 
 そうなの? 梨沙子が重ねた。 
 わからないといった風に舞波が首をかしげる。 
 「舞波ちゃん、これ何本に見える?」 
 こんこんが指を三本立てて聞いた。 
 「三本」と舞波。 
 「そりゃわかるわよ、脳震盪をおこしてたわけじゃないんだから」 
 圭織の穏やかなつっこみに、こんこんが顔を真っ赤にさせた。  
- 142 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:36
 
-  「舞波、これは?」 
 少しだけ身を引いた佐紀が、英語の教科書を広げている。 
 舞波が眉間に皺をよせ、目を細めて前のめりになった。 
 「見えてたって読めないよ……」 
 梨沙子が呟いた。 
  
 ケーキをこんこんに食べさせ、機嫌をとりながら圭織が言う。 
 「ごっちんに言っとくから、村っちのところでメガネ作っておいで。ね?」 
 舞波は少し考え、いい、と首を振った。 
 自分の目が悪いと認めたくないのだ。 
   
- 143 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:36
 
-   
 次の日、舞波は村田眼鏡店の前にひとりで立っていた。 
 眼鏡作ってくるまでごはん抜き、と朝帰りの後藤に言われたからだ。 
 梨沙子がいない日は、朝まで酒を飲んでおしゃべりができる。。 
  
 眼鏡屋の前で、舞波は躊躇っている。 
 初めての店はなんとなく入りづらい。 
 誰かが一緒に来れば楽だったのかもしれないが、舞波は人を誘うことが苦手だ。 
  
 一枚ガラスのドアから、そっと中を窺う。 
 店内は明るい白木で統一されていて、白熱球の暖かい色があちこちに放射されている。 
 壁に大きな貼ってある、和紙やおしばなや無機質なものが擬人化されているイラストが折り重なった 
 コラージュのようなものが怖いけど、入れないことはないな、と舞波は思った。  
- 144 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:37
 
-  店奥のカウンターで暇そうにしている村田と目が合った。 
 右の頬にえくぼができる、柔らかい笑み。 
 どこか似ている笑顔に、舞波は思い切って足を踏み出した。 
 ガラス戸にぶつかった。 
 自動ドアではなかったらしい。 
  
 「ごめんごめん、ここ、自動ドアじゃないんだ」 
 慌てて駆け寄ってきた村田が指差したところには、自動ドアじゃありません、と書いてある。 
 おでこをさすりながら舞波が入ると、改めて、と村田が息を吸った。 
 「いあっさーい」 
 いらっしゃい、のつもりなのだろう。 
 のんびりと間延びした、舌足らずどころではない声が響いた。 
 どうしていいのかわからずに、舞波は軽く頭だけ下げた。  
- 145 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:37
 
-  「めがね、買いにきたんえしょ? ごっちんかあ聞いてうよ」 
 村田の言葉の半分くらいには子音が存在しないため、かなり聞き取りにくい。 
 「え、目はどんな状況なの?」 
 紫のフレームが尖った眼鏡が印象的だった。 
 「よくわかんないんですけど」 
  ほう 
 「昨日、かおりんに」 
 ほうほう、かおりんがね 
 「はい、目が悪いんじゃないの、って言われて」 
  そっかぁ 
 「そういえば、本とか黒板とか見にくくなったかな、って」 
  黒板見にくいとつらいよね 
  
 舞波は一生懸命説明しようとするのだが、相槌が多すぎて進まない。 
 だから話すのをやめた。 
 二人、意味なく見つめあう。 
  
 余計な相槌を打つくせを自認している村田が、気付いたような顔になって言った。 
 「ま、とりあえずしよくはかってみようか」 
 「はい?」 
 思わず、聞いてしまった。 
 「視力」 
 意識すると、正確に発音できるらしい。  
- 146 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:37
 
-   
 「けっこう悪いねぇ」 
 検査後、村田が結果を見ながらそう言った。 
 「舞波ちゃん、けっこう生活に困ってたえしょ?」 
 そうだろうか、舞波が首をかしげた。 
 「どのくらい悪かったんですか?」 
 「うん、ようほう共に0,3。日常的に眼鏡かけるくらいのレベル」 
 「山とか遠くのほうを見てたら治りませんか?」 
 「そやあ、ちょっとはよくなうだろうけど……」 
 舞波は、眼鏡をかけることに抵抗があった。 
 なんというか、カッコ悪い。 
 「とりあえう、レンズだけえも決めちゃおうか。めがえにするかあ別にして」 
 それに、村田さんは優しくて心の広そうな人だけど、信用していいのかわからない。 
  
 大雑把な眼鏡のようなものをかけさせられ、何度もレンズを替えて、 
 その度に村田はふむふむとうなずき、やっと度数が決まったようだ。 
 くっきりした慣れない視界から解放された舞波は、こめかみを揉んで伸びた。 
 見えるのはいいことなんだろうけど、どこか落ち着かなかった。 
  
 用紙に舞波の度数を書き込んでいた村田が顔をあげた。 
 「で、フレームはどえにする?」 
 「やっぱり眼鏡にはなるんですか?」 
 「えぇ!? 眼鏡にしないのぉ?」 
 聞き返されては、困ってしまう。 
 ここは眼鏡屋で、舞波は客で、眼鏡を買いにきたのだから。 
 「あ、そうか、ごえんね、舞波ちゃん、めがえにするか迷ってたんあもんね」 
 そう言うと、しょぼんと寂しそうな顔をした。 
 人生のすべてを否定され、でも何もアクションを起こせない、そんな顔だった。 
 その村田の表情が、舞波のためらいを吹き飛ばした。 
 「いや、眼鏡にはします、ごっちんに作ってこいって言われたから」 
   
- 147 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:37
 
-   
 フレームは村田に任せた。 
 任せてほしそうにしていたから。 
 舞波が家に帰ると、みんなが出迎えてくれた。 
 「舞波が帰ってきた!」 
 期待に目を輝かせた千奈美が叫び、みんなどたどたと玄関にやってきた。 
 面食らう舞波に、梨沙子が聞く。 
 「眼鏡は?」 
 「できるの三日後だって」 
 なんだよー、みんな口々に溜息をもらし、部屋に戻っていった。 
 舞波の眼鏡を楽しみにしていたのだ。 
 それ単体でもなんだかつまらなくておもしろい舞波は、眼鏡をかけるともっとおもしろいことになるだろう。 
 どう笑ってやろうと一番楽しみにしていた千奈美は、気の毒なくらいに残念がっていた。  
- 148 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:38
 
-   
 三日後。 
  
 今度こそは、と皆が玄関で舞波を待っていた。 
 一緒に村田のとこに行けばよかったのだが、そんなことは考えない。 
 楽しみは、みんなで共有するからこそ楽しいのだ。 
  
 「ただいまー」 
 舞波が帰ってきた。 
 みんなの期待を慮ってか、眼鏡をかけて。 
 でも、あまりに普通、というか似合っていたので誰も笑えなかった。 
 「にあってる……よねぇ?」 
 拍子抜けした友理奈の声がぽつんと落ちた。 
 みな口々に同意のような呟きを漏らす。 
 梨沙子のリアクションが無駄に一番大きかった。  
- 149 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:38
 
-  「メガネ、つけ根のとこが暑い」 
 抵抗というか、嫌悪感に似た感情はぬぐえないようだ。 
 眼鏡はずした舞波が、目の間を揉んだ。 
  
 「なんでコンタクトにしなかったの?」 
 ののが聞いた。 
 一同、固まる。 
 「だってさ、かおりんもこんこんもコンタクトじゃん」 
   
- 150 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/20(水) 23:39
 
-  >>136 かわいいからね 
 
- 151 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/22(金) 00:41
 
-  なるほど、子音がポイントだったのか 
 
- 152 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:15
 
-   
  
 後藤さんの楽しみ  
- 153 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:16
 
-   
 雅と茉麻が縁側でパピコを吸っている。 
 扇風機がカラカラ鳴り、水色のビニールテープがたなびく。 
 「これ、取ろうよ」 
 テープをつまみ、かっこ悪い、と雅が言った。 
 「取れないと思うよ。かおりん、がっちり結んでたから」 
 茉麻が中風から強風に変えた。 
 蝉がジーーーっと空気を振るわせ始めたからだ。 
 どういうわけか、蝉の声を聞くとさらに暑くなるような気がする。 
  
 「ちょっと止めるよ?」 
 雅が扇風機を止め、テープをほどきはじめた。 
 パピコを吸いおえた茉麻は、もう一本と部屋の中に入っていった。  
- 154 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:16
 
-  居間では、スーツ姿のおじさんが二人、正座している。 
 茉麻は、つまらなそうに話を聞いてる後藤を横目で見ながら居間をつっきった。 
 「ほどほどにしときなさいよー」 
 大丈夫、茉麻がそう言うと後藤はうなずき、で? と話を中断させていた男二人に続きを促した。 
  
 顎から汗をたらしながら、雅がビニールテープと悪戦苦闘している。 
 「取れそう?」 
 縁側に戻った茉麻が聞いたが、雅は首を振るだけだ。 
 銀色の鉄網に結わえつけられたテープは球結びでかたく絞られていて、 
 その上、誰かがほどかないようにと結びしろを絶妙に切ってある。 
 無理やりほどこうと雅が力をこめても、するするとテープがずれるか、扇風機が動いてしまう。 
 「壊れちゃうよ」 
 そう言った茉麻が、居間を振り返る。 
 灰色のスーツを着たほうが、ひっきりなしにハンカチで汗を拭い、話している。 
 早く帰ってくれないかな、と茉麻は思う。 
 スーツ姿のおじさん二人は、見ていて暑苦しい。 
 棚の上で、れいなが小さくなって様子を窺っているのが見えた。 
 天井すれすれのところにいるせいか、とても窮屈そうだ。  
- 155 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:16
 
-  後藤に話をしている二人は、農業関係か企業か高級な飲食店の人だということは知っている。 
 あまり興味がないから茉麻はくわしくは知らないが、後藤はけっこうすごいらしい。 
 以前、梨沙子が得意気に話していた。 
  
 寒暖差のある地域で栽培される米は、粘りと甘みがあっておいしい。 
 ただ、後藤の作る米は、それだけじゃない。 
 梨沙子が用語を覚えていなかったし、茉麻もすべて覚えようとしたわけじゃないから、 
 細かい部分はわからないが、品種のかけあわせ方と、育て方がすごいらしい。 
  
 梨沙子の拙い説明ではあまり伝わらない。 
 だが、ごっちん米をほしがっているすっごい高い食べ物屋がたくさんある、という部分で、 
 大まかなニュアンスは伝わった。 
  
 「だからー、毎年苗あげてるじゃないのよぉ〜」 
 痺れを切らしたのか、後藤の大きな声が聞こえた。 
 「ええ、ですが、そう、うまくも……」 
 「育て方だってちゃんと教えてるしさっ」 
 恐縮するおじさんに、後藤は拗ねたような口調で言った。 
 おかしな光景だな、と茉麻は思う。  
- 156 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:17
 
-  ずっと話していたほうと別のおじさんが話のすきまに切り出した。 
 「あの、一度わたくしどものところへ来ていただいて」 
 「やだ。地元離れたくない」 
 「ほんのちょっと教えていただければ」 
 「やだ」 
 「そんな長期間ではなくてですね、何日かでいいんですよ」 
 「やだ、っていうか無理」 
 ああなっちゃうと、本当に無理なんだよな、茉麻は雅を見た。 
 テープは呪いでもかけてあるんじゃないか、というくらいに頑丈だ。 
 さっきから雅が爪でテープを引っ掻いているのだが、ほとんどダメージはない。 
 「はさみ使えば?」 
 「そういうのは悔しい」 
  
 交渉はまだ続いてる。 
 「では、現在の成育途中の稲をわけていただくというのは……」 
 「ああ、もうわかったわかった。じゃあ、それで」 
 「あ、ありがとうございます!」 
 「はい、どーいたしまして」 
 「で、どの程度わけていただけ──」 
 「そんなことも判断できないの? てきとーに持って帰ってよ」 
 そうすごまれると、おじさんはますます臆してしまう。 
 「ほら、猫も怖がってるじゃない」 
 後藤は帰れといえる性格じゃないから、理由をつけて帰らそうとしている。 
 「怖がっとらん!」 
 棚の上から、れいなが強がった。 
 後藤はぶーっとむくれて、実力行使に出た。 
 「もうわかった、あたしも勝手にする」 
 そう言って、ずっと脇に置いてあった茉麻と雅の成績表を手に取った。 
 見たくて見たくてしょうがなかった。 
 誰の成績が気になるということではなく、人の成績表を見るという行為そのものが好きなのだ。  
- 157 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:17
 
-  「まぁまぁ〜、あんた成績あがったのー?」 
 「中学はいって初めての成績表だもん、そんなのないよ」 
 にやにやと成績を見ている後藤に、茉麻が言った。 
 無視されているおじさん二人は、どうしたものかと困っている。 
  
 茉麻のを見て、今度は雅のを見ていた後藤が素っ頓狂な声をあげる。 
 「みや、ちょっとあんた!」 
 「んー?」 
 「なにさ、この遅刻31日って」 
 「そんなにあったんだ」 
 雅は扇風機に一生懸命で、あまり話を聞いていない。 
 代わりに茉麻が説明した。 
 「ごっちん、お昼くらいまで寝てるから知らないだけだよ」 
 「そーなの?」 
 「うん。みや、起きるのは一緒だけど、シャワー浴びるから」 
 「そうなんだ」 
 納得した後藤は、今度は二人のを見比べてはじめた。 
 農作業をしてるのに昼まで寝てる? そんな顔でおじさん二人が目を丸くさせている。 
  
 灰色のスーツを着たほうが、申し訳なさそうに話に入った。 
 「ちょっと待ってください」 
 「なに?」 
 「あの、後藤さんは昼から作業を開始されるんですか?」 
 「そうだけど」 
 「それでちゃんと育つんですか?」 
 「知っての通りじゃない」 
 なんということだ、おじさん二人は頭を抱えてしまった。 
 だが、誰でも後藤のように育てられるわけではない。 
 太陽よりも眩しく強い後藤の存在があるからこそ、なのだ。 
 後藤のために、植物は必死で育とうとする。  
- 158 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:18
 
-  「あ゙〜、あぢぃ」 
 びしょ濡れのののが帰ってきた。 
 「どこ行ってたの?」茉麻が聞いた。 
 「川で泳いできた」 
 「うそ。のんちゃんねぇ、川に落ちたんだよ」 
 こんこんがバラした。 
 ののが睨むと、こんこんがキャッと笑って飛びのいた。 
  
 ペット二人とほぼ同時に、 
 「ただいまー!」 
 という桃子の元気が声が聞こえてきた。 
 「ちょっと待ちなさい」 
 バタバタと居間のわきを通り抜けようとする桃子を、後藤が呼び止めた。 
 「なに?」 
 「ほら」 
 「なんのこと?」 
 にこにこと誤魔化すような笑顔を張りつけた桃子は、棒読みですっとぼける。  
- 159 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:18
 
-  「ただいまー」 
 少し遅れて、佐紀と千奈美が一緒に帰ってきた。 
 「一緒だったんだ」 
 縁側から茉麻が声をかけると、途中で会った、と千奈美が言った。 
 そして、後藤が差し出している手を見て、鞄から成績表を取り出した。 
 佐紀も同じように出して、後藤に手渡す。 
 「あー、二人ともいい子だ」 
 「ももは悪い女の子だもん」 
 桃子は頑として後藤に成績表を見せようとしない。 
 後藤はただ、人の秘密をのぞいてるような錯覚が好きなだけだ。 
 怒るとか文句を言うとかいじめるとかはないのだが、桃子はどういうわけか嫌がる。 
 後藤はべつにして、成績表を出すと誰がどうなるか、うっすらとだがわかるのだ。 
  
 根くらべだ。 
 後藤は桃子から視線を逸らそうとしないし、桃子はごまかそうと笑顔を崩さない。 
 なぜ後藤はそこまで桃子の成績表にこだわるのか? 
 一番おもしろいからだ。 
 「さ、ほら、早く出して」 
 「人の成績は見ちゃいけないんだよ」 
 「そんなこと誰が決めたのよぉ」 
 「桃子条例が定めたの」 
 「条例とか聞いたことないし」 
 「じゃ、憲法、桃子憲法」 
 「読んだことないから」 
 「でも、ちゃんとあるんだよ?」 
 「読んだことない人には適用されない」 
 イライラしてきてるのだろう、後藤の声がどんどん低く、抑揚がなくなっていく。 
 限界を感じ、観念した桃子が、しょんぼりと唇をさげて成績表を手渡した。 
 後藤が変に間延びして幼い、満足気な口調で言う。 
 「最初っからそう素直に渡せばいいのよねぇ」  
- 160 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:19
 
-  桃子の成績表を開いた後藤が、むずかしそうな顔をして首をかしげた。 
 「○、△、□って意味わかんないんだけど」 
 「今年からそうなったの」と桃子。 
 「いや、なったのって言われてもさー」 
 納得いかないような顔で後藤が言った。 
 「ちょっと見して」 
 ののが取った。 
 びしょびしょのまんま入らないでよ、と後藤が言ったがののは聞かない。 
 桃子の成績表を見て、幼稚園でもこんなのねーよ、と大笑いした。 
 その横から見ていたこんこんは、おでんみたいだね、と言った。 
  
 桃子と聞いて、扇風機を放り出した雅が輪に加わった。 
 「すごーい! くまさんのシール貼ってある!!」 
 「うそ、どこ!?」 
 電車の中では見せてもらえなかった佐紀が反応した。 
 「もも、なにこれ!」 
 どんなときよりも一番楽しそうな雅が言った。 
 だが、からかわれると何となくわかっていた桃子は、そっと部屋にひっこんでしまっていた。  
- 161 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:19
 
-  茉麻はボーっとその様子を遠巻きに眺めている。 
 完全に居場所がなくなったおじさん達がかわいそうだな、と思いながら。 
 もはや空気よりも存在感がない。 
 怖がっていたれいなですら、楽しそうに目と頬をくしゃくしゃさせ、 
 桃子の成績をあーでもないこーでもないと言っている。 
  
 明るい家庭とは、時としてそういうものだ。 
 おじさん特有の暗くジメジメとした存在は、明るさとは正反対のところにある。 
 威厳も権力もないこの場では、いてもいなくても同じなのだ。 
 促された灰色のスーツが立ち上がった。 
 「では、有り難くわけさせていただきます」 
 「んー、わかったー」成績表を手にした後藤は上の空だ。 
 「これは前金ということで、残りは後日振り込まさせていただきます」 
 「おつかれさまー」 
 封筒を置いていった。  
- 162 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:19
 
-  「後藤さん、これなに?」 
 目ざとく見つけたれいなが聞いた。 
 「お金じゃない?」 
 「すごーい!!」 
 封筒から出てきた札束に、れいなが声を高くした。 
 「ごっちん、ちょっとちょうだい?」とのの。 
 「いいよ」 
 ののよりも先にこんこんが飛び上がり、喜んだ。 
  
 「海岸線行こう、海岸線」 
 「え〜、あゆみちゃんのとこがいい」 
 ののの提案に、こんこん。 
 「新商品できたって絵梨香ちゃんが言ってたと」 
 れいなが言って、話が決まった。 
 新商品という言葉に、こんこんの目が輝いたからだ。 
 「みんなも行くでしょ?」 
 お姉さんの顔になったののが子供たちに言った。 
 「もちろん」と佐紀。 
 「じゃあ、桃子ちゃん呼んできて」 
 こんこんが言うと、なぜかれいながうれしそうに駆けていった。  
- 163 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:19
 
-  「圭織とゆりと梨沙子、圭ちゃんとこにいるよ」 
 熱心に成績表を見ている後藤がポツリと言った。 
 「いや、いい。あそこなんかクサイもん」とのの。 
 「舞波ちゃんは?」とこんこん。 
 「図書館じゃない?」 
 茉麻が言うと、寄ってから行こう、とこんこんが言った。 
  
  
  
 「あ、圭織とゆりと梨沙子、裕ちゃんのとこだった」 
 後藤が顔をあげたときには、もう誰もいなかった。 
 「まあ、いいか」 
  
 なにはともあれ、夏休み。 
  
   
- 164 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 00:21
 
-  >>151 おう、うああんあいいんをあいいにいあいんあよ 
 
- 165 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:13
 
-   
  
 牛  
- 166 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:14
 
-   
 中学生は忙しい。 
 みんな出かけていない。 
 忙しぶりたいのだ。 
 うっすら見えてきた社会との接点を積極的に探っている。 
  
 取り残された小学生、梨沙子と友理奈。 
 縁側で麦茶を飲みながら、今日もサッカーにいそしむののとこんこんを眺めている。 
  
 「ねえ、ゆりー」 
 つまらなそうにしている梨沙子が声をかけた。 
 「なにー?」 
 友理奈の声はのんびりしている。 
 「なんかしようよ」 
 「そうだね、なんかしようか」 
 「なにするー?」 
 「るんるんはー?」 
 「それはいー」 
 「楽しいのにー」 
  
  
 「ゆりー?」 
 「んー?」 
 「るんるん以外はー?」 
 「りゅんりゅんはー?」 
 「やっぱいー」  
- 167 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:14
 
-  「サッカーするぞ、サッカー!」 
 汗をたっぷりかいたののが、息を切らしながら言った。 
 こんこんは両手を地面につけ、胸を開いて肺に空気を送りこんでいる。 
  
 友理奈が汗をかいた二人に麦茶を注いだ。 
 そして、手についた水滴を気持ちよさそうに額にピタピタしながら聞いた。 
 「前から気になってたんだけどさ、ふたりがやってるのってサッカー?」 
 「そうだけど?」とのの。 
 「フットサルはどこに行ったの?」 
 唖然と顔を見合わせるののとこんこん。 
 二人とも、いつの間にか目的を失ってしまっていたのだ。 
 「今サッカーって言ったの、のんちゃんだからね」 
  
 ケンカが始まった。 
 「ちょっと、こんこん!」 
 「でも、フットサルもサッカーも、どっちも一緒っしょや〜」 
 「なんでそんなのんびりしてるのさ」 
 「キーパーはキーパーだもん」 
 「ちっげーよ、のんはどれだけ飛べるかに命をかけてきたんだから」 
 「そんな大袈裟な」 
 「ちまちま飛んでるこんこんのほうが使える、ってことになっちゃうじゃん」 
 「わたしのほうが上、って言ってよぉ」 
 「のんのほうが遠くに飛べるもん」 
 「ゴールの枠を飛び越えちゃうね」 
   
- 168 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:14
 
-   
 「買い食い行こうか」 
 梨沙子が思い立ち、友理奈がうなずいた。 
 台所で粉を振っている後藤のところに、おねだりに行く。 
 「ごっちーん、お金ちょうだい?」 
 細くて高くてかわいらしい梨沙子の声。 
 後藤は金をあげてもいいと思ったのだが、手を離すのが面倒だった。 
 「金がほしいなら働きな」 
 「えー?」と友理奈。 
 「うち、ごっちんの農作業てつだってるもん」 
 「あれはアンタが学校サボってるからでしょうがー」 
 後藤が振るいにかけた粉を、もう一度振るう。 
  
 友理奈がパッと明るい顔つきになった。 
 思いついたのだ。 
 「夏休みのおこづかいちょうだい?」 
 「そんなことであげてたら、そのうち日曜だからってあげなきゃならなくなるじゃないのよぉ」 
 そっか、と素直な友理奈は納得してしまった。  
- 169 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:15
 
-  今度は梨沙子が屁理屈をこねる。 
 「ごっちん、農作業のバイト代」 
 「だから、それはアンタが──」 
 「学校が二時までの日とかでも、五時くらいまで働いたもん」 
 勝ち誇る梨沙子。 
 それじゃ弱いよ、とどこか諦め顔の友理奈。 
 後藤がはたと手をとめ、考え出した。 
 「なるほどぉ」 
  
 これはいけるんじゃないか、と笑みをかわす梨沙子と友理奈。 
 「そういや、そうかもねぇ……」 
 後藤はそう呟き、粉のついた手を洗ってポケットにつっこんだ。 
 出てきたのは500円玉と100円玉2枚と小銭。 
 「じゃあ、これで行っといで」 
 時給に換算すると200円くらいだろうか。 
 けど、700円もあれば情熱の海岸線でたこ焼きととうもろこしを買える。 
 ジュースは絵梨香ちゃんにサービスしてもらえばいい。 
 梨沙子と友理奈は、大喜びで家を飛び出していった。 
   
- 170 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:15
 
-   
 情熱の海岸線の前に、おかしな生き物がいる。 
 なんだかよくわからないが、かわいいということだけは確かだ。 
 「なんだろうね、これ」 
 友理奈がおそるおそる近づいた。 
 「やめなって、噛まれるかもしれないよ」 
 「噛まないよ」 
 おかしな生き物が梨沙子に言った。 
 思わず数メートル後ずさりする梨沙子。 
 友理奈はポカーンと口をあけている。 
  
 「さゆみは牛だもん、噛まないよ」 
 「え、牛だったの!?」 
 友理奈が驚いた。 
 「そうよ」 
 当たり前のように言った。  
- 171 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:15
 
-  「えぇ〜? 牛じゃないよぉ」 
 疑わしげな目をした梨沙子が、さゆみの前に立つ。 
 牛に見えなくもないが、犬のような気もするし、パンダのような気もしてくる。 
 「でも、かわいいよね」 
 友理奈が頭を撫でると、さゆみは、えへっ、とやわらかく笑った。 
 「でも、牛じゃないよ」 
 油断させておいて噛むつもりかもしれない、梨沙子は警戒を解かない。 
  
 「じゃあ、さゆみが牛だって証拠みせようか?」 
 「なに?」と友理奈。 
 「もぉ〜」 
 小さな口を大きく開けて、さゆみがかわいらしい声で鳴いた。 
 梨沙子のナマイキが顔を出す。 
 「それくらいならうちだってできるよ、もぉ〜!」 
 「わたしにもできるかも、もぉ〜」 
 友理奈も、もちろん梨沙子も似てはいないが、少なくともさゆみよりはうまい。  
- 172 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:15
 
-  「なにやってんのよアンタたちぃ」 
 「あ、チャーミーさん」 
 「しーっ、そういうこと言うんじゃないの」 
 石川が友理奈に近寄り、大袈裟に顔をしかめて人差し指を唇に当てた。 
  
 なんかムカツクな、と梨沙子は思った。 
 石川がチャーミーだということはバレバレなのに、ひた隠しにしようとする。 
 それも、これはおもしろいんだぞ、とどこか誇らしげに。 
 「チャーミーチャーミーチャーミーチャーミーチャーミーチャーミーチャーミーチャーミー」 
 意味はないが、梨沙子が連呼した。 
 「しーっ、そういうこと言うんじゃないの」 
 石川が梨沙子に近寄り、大袈裟に顔をしかめて人差し指を唇に当てた。  
- 173 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:16
 
-  「石川さぁん」 
 これ以上ないというくらいのほんわりとした甘い顔で、さゆみが石川を呼んだ。 
 「なによ、さゆぅ」 
 石川も、これ以上ないというくらいとろけそうな顔をしている。 
 「あのね、この子たちがさゆみは牛じゃないって言うんですよぉ」 
 「あら、ひどいわねぇ」 
 かわいくて仕方ないといった感じの石川が、むくれて梨沙子と友理奈を指差すさゆみの頭を撫でた。 
 ころんとさゆみが石川の胸の中にもぐりこんだ。 
 「なんか言ってやってください!」 
  
 「さゆは牛なのよ!」 
 腰に手をあてた石川が、二人の前に立ちはだかって声高に言った。 
 「そうだそうだー」 
 石川に守られるような格好のさゆみが、やけに強気で続いた。 
 妙に芝居がかっていて、言葉に抑揚がない。 
  
 なんだこいつら、と梨沙子と友理奈はとるべき表情をなくした。  
- 174 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:17
 
-  胡散臭さが、友理奈にも疑心を抱かせた。 
 自分を猫と言い張ってきかないペットを思い出したからだ。 
 ここは牛と言わないとおさまりがつかないだろう。 
 経験から、そんな結論に至った。 
  
 「ウソくさーい」 
 眉間に皺をよせた梨沙子が言ってしまった。 
 友理奈が慌てて話の方向を逸らせようとする。 
 「石川さん、さゆみは──」 
 「さゆみんって呼んでね!」 
 さゆみが、キャッ! 言っちゃった!! みたいな感じで言った。 
 面倒だな、と思いつつ友理奈は訂正する。 
 「さゆみんはやっぱり北海道からつれてきたんですか?」 
 「山口よ」 
 石川が短く言った。 
 恥ずかしいようだ。 
 「宇部線に乗ってきたんじゃー」 
 さゆみが屈託なく言った。  
- 175 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:17
 
-  「食べるの?」 
 仮に牛だとして、なにをするんだろう。 
 梨沙子の一番の疑問はそこだった。 
 さゆみの顔が恐怖と不安に曇った。 
 「そうそうそう、さゆを捌いてジューッっとね……って、ちがーうっ!」 
 …… 
 ………… 
 のりつっこみ! 
 つまんねぇ!! 
  
 完全にしらけてしまった。 
 うずくまりたい気持ちをおさえて、石川が咳払いをひとつした。 
 「食べないわよぉ、だってさゆは乳牛よ?」 
 「バターとかチーズを作るんだ!」と友理奈。 
 「おしいけど、ちがう」 
 石川がもったいぶるように間を作り、胸を張った。 
 「さゆの乳を搾って生クリームにするのよ!」  
- 176 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:19
 
-  なにがすごいのかはわからなかったが、石川の自信にすごいことなんだろう、 
 梨沙子と友理奈はそう思った。 
 「梨沙子、ちょっと絞ってみてよ」 
 「えーやだよー。なんか噛みつかれそうだもん。ゆり、やってよ」 
 「むりむりむり。だって、さゆみん牛っぽくないんだもん」 
 「だよねー、うち、名前聞いてからさー、さゆみんはさゆみんとしか思えないもん」 
 ふたりの会話にそんな気はなかったが、さゆみがひどく傷ついた顔をした。 
  
 石川が慰めようと思ったそのとき、萩原舞ちゃんがトボトボと歩いてきた。 
 ぷにゅぷにゅの頬具合から、なにか重大な悩みをかかえていることが窺い知れる。 
 はぁ〜、とちっちゃな口からためいきがこぼれた。 
 「あれ? 元気ないじゃない」 
 珍しく抑えたトーンで石川が言った。 
  
 これだ! と顔を見合わせる梨沙子と友理奈。 
 友理奈が説明する。 
 「人間関係に疲れちゃったんだって……」 
  
 「それじゃあ今夜のごはんは?」 
   
- 177 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:20
 
-   
  
  Oh! niku〜!! 
  
 石川が乙女、友理奈がひらめき、 
 梨沙子が無防備、舞ちゃんがぶりっこ、 
 それぞれポーズを取った。 
  
  Let's Dance! 
  
  
  ♪お肉すきすき おなかすきすき 
  
  ♪ステーキ からあげ しょうが焼き 
  
  ♪食べて 食べ食べ 力つきつき 
  
  ♪チャーシュー とんかつ ハンバーグ! 
  
  ♪とーさんも かーさんも にーさんも ねーさんも 
  
  ♪ジャストミートでかっとばそ! 
  
   
- 178 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:20
 
-  歌い踊った爽快感に、石川が額の汗を拭う。 
 そして、ハッと気付く。 
 さゆみが目いっぱいに涙をためていた。 
 「やっぱ石川さん食べるつもりだったんだ……」 
 「ち、ちがう、ちがうのよ、さゆ」 
 石川が慌てれば慌てるほど、さゆみは疑心暗鬼になっていく。 
 「じゃあ、どうするつもりだったんですか?」 
 「こうするのよ!」 
  
 言葉でダメなら行動で示そうと、石川がさゆみの乳をつかんだ。 
 「いやぁん」 
 甘たるい声で、さゆみがくすぐったそうに身をよじった。 
 さゆの嫌がることはしない、と石川が手を離す。 
 「これじゃ絞れないじゃないのよぉ」 
 「だぁってぇ、石川さんの手つき、いやらしいんだもん」 
 「じゃあ、ほら、あんたたち」 
 石川が子供たちを顎でしゃくった。 
 見るからに不機嫌だ。 
 それは顎が尖っているからでも、曲がっているからでもない。 
 いやらしいと言われて悲しいのだ、それが怒りを呼び起こした。  
- 179 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:20
 
-  滅多にできないことに、なんだか楽しそうな舞ちゃんがおずおずと手をのばした。 
 舞ちゃんの弱い力は、かえってもどかしい。 
 「うぅ〜ん」 
 さっきよりも高い声でさゆみが悶えた。 
  
 「じゃあ、あたし行くね」 
 友理奈が遠慮なくさゆみの乳をにぎった。 
 「あったか〜い」 
 そう感想を言い、ひともみ。 
 「いやっ」 
 「あれ? あんまり出ないな」 
 首をかしげた。 
  
 「ちがうよ、上から順に絞らなきゃいけないんだよ」 
 噛まれることはなさそうだな、と判断した梨沙子が空いた乳をつかんだ。 
 若干びびりながら、ゆっくりと絞る。 
 ぴゅ〜っと乳白色が迸り出た。 
 「あぁん」 
 「そうか、そうやればいいんだ」 
 友理奈が見よう見まねでギュッと絞った。 
 「あっ!」 
 さゆみから切なく、逼迫した声が漏れた。  
- 180 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:21
 
-  そんなさゆみの反応に気付かず、梨沙子と友理奈は乳の感触と、 
 搾乳という生命の神秘を楽しんでいる。 
 さゆみが昂ぶる。 
 「いやあ、いやぁん、いや、あ、あ、いやぁぁ、……ああぁ〜ん」 
  
 「おもしろいねー」 
 友理奈がにっこりと微笑む。 
 「ねー」 
 梨沙子もどこか満足そうだ。 
 舞ちゃんはポカーンと口を開けている。 
 石川は、子供たちの行き過ぎた遊びを止められなかった自分を恥じている。 
 濃い女の香気を撒き散らし、桜色に染まるさゆみに目を奪われてしまった。 
   
- 181 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:21
 
-  虚脱していたさゆみがハッと現実を取り戻した。 
 そして、まさにしくしくといった感じで啜り泣いてしまった。 
 「さゆみはよごれてしまったの。あはずれた女なの」 
 「そ、そんなことないわ、さゆ!」 
 石川が駆け寄り、さゆみんを抱きしめた。 
 「でも、でも、……でも」 
 「いいのよ、さゆ、それ以上は言わなくていいの!」 
 「でも、さゆみはやっぱり女だったの!」 
 泣き崩れた。 
 「そうよ、さゆは女の子よ、私の一番大切な、とってもかわいい女の子よ!」 
 水分をたっぷり含んだ綺麗な瞳で石川を見つめる。 
 「石川さんっ!!」 
 「さゆぅぅぅ!!」 
  
  
   
- 182 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/23(土) 12:22
 
-  「なにやってんの?」 
 ひしと抱き合い、二人だけの世界に浸っているバカと牛に、吉澤が声をかけた。 
 吉澤にその気はないのだが、ひどく冷たく響いた。 
 「え?」 
 石川が顔をあげる。 
  
 子供たちは三文芝居に飽きて帰ってしまっていた。 
  
   
- 183 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 01:00
 
-  さゆはどんなときでも常にさゆであるのがさゆのすごいところだとは思っていたが、 
 まさかそんなときにまでさゆであるとは思わなかった  
- 184 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 17:20
 
-  石川さんとさゆの関係がいい感じです。 
 
- 185 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 22:15
 
-   
  
 鵜飼いのガキさん  
- 186 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 22:15
 
-   
 「ガキさんのノリ、苦手なんだよねー」 
 千奈美が茉麻に言った。 
 「そう? 普通だと思うけど」 
 「だってさ、なんか変じゃない?」 
 「そうかなー」 
 「まあは誰が苦手とかないもん」 
 ぼやくように千奈美が言った。 
 「そんなことないよ」 
 「じゃあ、どんな人が苦手?」 
 目を斜め上に向けた茉麻がしばし考える。 
 「そうだなー、……どんな、ってのはないけど」 
 「ほら、やっぱり」 
 どこまでもマイペースな茉麻は、苦手意識が希薄だ。 
  
 夕食の準備中にふと魚を食べたくなった後藤におつかいを頼まれた茉麻と千奈美。 
 千奈美はガキさんの、体育会系ではないけどそれっぽいノリと勢いが苦手だ。 
 それに、いしよし商店へのおつかいなら海岸線の情熱で買い食いできるが、ガキさんところはそうはいかない。  
- 187 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 22:16
 
-  「神秘的じゃない?」 
 大きなコンクリの橋を渡っている最中、茉麻が言った。 
 指差した先には、陽と共に色彩の落ちた山の中腹から頂上にかけて、うすく靄がかかっていた。 
 「あー、緊張するぅ」 
 千奈美は胸を押さえ、橋を渡りきったところにある風化してじゃりじゃりの階段を降りた。 
 「ねえ、まあにお願いしていい?」 
 「いいよ」 
 あっさりと引き受けた茉麻は、大きくて丸い石の転がる河原をずんずん進んでいく。 
  
 緩やかなカーブを描いた河川は高低がほとんどないため、水はほとんど流れず淡いグリーンに染まっている。 
 それでも、向こう岸は増水に削られて黄色い土がむき出しになっている。 
 50メートルはあるのではないかという川のまんなかあたりに、手漕ぎ式の舟が停まっていた。  
- 188 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 22:16
 
-  船の上で横になっているせいか、ガキさんの姿は見えない。 
 川べりに立った茉麻が、息を吸った。 
 「ガーキさ〜ん!」 
 千奈美が茉麻に遅れて歩いてくる。 
  
 わずかに船が揺れて、ガキさんが顔を覗かせた。 
 丸みを波紋が小さく広がった。 
 前のめりになり、眉に皺を寄せて誰が来たのかを確認し、 
 「おお、茉麻ちゃーん!」 
 と、大きく手を振って応えた。 
  
 「12匹くださーい」 
 茉麻はそう言って、ふと千奈美を振り返る。 
 「今日れいないたっけ?」 
 「どうだろ、一応買っておいたほうがいいんじゃない?」 
 千奈美に言われ、茉麻が訂正する。 
 「やっぱり13匹でー」 
 「種類はー?」とガキさん。 
 「なんでもー」 
   
- 189 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 22:16
 
-   
 「なかなか始まらないねー」 
 船着きの短い桟橋に立った千奈美が言い、おそるおそる聞く。 
 「なにしてんの?」 
 「行こう」 
 オールを持って予備の船に乗る茉麻の目は本気だった。 
 「やだよ」 
 「ちゃんと責任もって漕ぐから」 
 「そういう問題じゃなくて」 
 「ヤンキーでしょ、根性よ」 
 「ガキさんみたいなこと言うのやめて」 
 「ほら、ちな、はやく乗って」 
 そろそろと千奈美が乗りこむと、茉麻が勢いよく漕ぎだした。 
 力の加減がわからず、オールは水面を滑るようにして飛沫がとんだ。 
 大袈裟な悲鳴。 
 「きゃーっ!! ちょっと、まぁ!」 
 茉麻はごめんごめんと笑いながら、力の入れ具合を探っていく。 
  
 すぐにオールの扱いを思い出した茉麻の漕ぐ舟は、力があるせいか、あっという間にガキさんの船に着いた。 
 半ばぶつかるようにして横につけると、千奈美がまた悲鳴をあげた。  
- 190 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 22:17
 
-  「どうして愛ちゃんはいっつもそうなのよ!」 
 ガキさんが怒鳴っていた。 
 船同士がぶつかりあった衝撃で揺れているが、気付いていない。 
 二人がそっと船の中を窺うと、鵜の愛ちゃんが船底にへばりついていやいやをしていた。 
 「いやぁ! やらん」 
 「やらんじゃなくて、仕事でしょうがー」 
 「もう暗くなってきたし、水もつめたい」 
 「パッと行ってサーッと取ってくりゃいいんだからさ」 
 「13匹やろ?」 
 「13回パッと行ってサーッと取ってくりゃいいんだから」 
 「それ、ぱーでもさーでもない」 
 もっともなことを言われ、ガキさんがまごついた。 
 「それはあれだよ、もの、ものの言い方ってやつで……」 
  
 愛ちゃんが畳み掛ける。 
 「いやいやいやいやいやぁ! ぜーったいやらんっ!」 
 「やれぇぇぇ!! 仕事だぁぁぁぁぁ!!」 
 ついにガキさんがキレた。 
 「ガキさんきらい」 
 悲しそうな顔をした愛ちゃんが水の中に飛びこんでいった。 
 取り繕うように、ガキさんが二人に言った。 
 「いま始めるからね」  
- 191 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 22:17
 
-  「ほれほれー、愛ちゃーん」 
 楽しそうなガキさんが、愛ちゃんの首に巻きつけた紐を操り、開いた手で魚を追いこむ。 
 「始まったね」 
 「まぁ、最初から近くで見るつもりだったんでしょ」 
 茉麻が、そんなことないよ、と言いつつも興味津々にガキさんの様子を見ている。 
  
 「とれた!」 
 愛ちゃんがかわいらしい声で川からあがってきた。 
 ペッと魚を船上に吐きだし、褒めてもらいたそうにガキさんを見ている。 
 「ちがーう!」 
 そう叫んだガキさんが、魚を川に放り投げた。 
 あまりの横暴に、愛ちゃんが目を丸くさせた。 
 「なにすんのぉ!」 
 「これウグイ、食べられないの、前にも言ったでしょ?」 
 鳥は三歩歩いたら忘れる。 
 愛ちゃんも同じだ。 
 「ほら、もういっかーい!」 
 太く伸びやかな声を響かせて、愛ちゃんを潜らせた。 
 でっぷりとした尻と太ももが、ドポンと沈んでいく。  
- 192 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 22:17
 
-  ガキさんと愛ちゃんの魚捕りは、なかなか進まない。 
 愛ちゃんの魚を獲ろうとする意志が希薄で、五回に一回くらいしか成功しないからだ。 
 そのたびにガキさんは、怒鳴ったり、叫んだり、嘆いたりする。 
 見てる茉麻と千奈美のほうがヤキモキして、そのうちウンザリした。 
 しかしガキさんは忍耐強い、愛ちゃんが何度失敗してもテンションは下がらない。 
  
 「やっぱりなんかすごいよね、ガキさん」 
 ガキさんの勢いは苦手だが、苦労している人を見るのはおもしろい。 
 千奈美がにやにや見ている茉麻に言った。  
- 193 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 22:18
 
-  それにしても、魚獲りは遅々として進まない。 
 愛ちゃんは他のことに気を取られてばかりだからだ。 
 「ガキさん、カニみつけた」 
 とか、 
 「珍しいビンのふたが沈んでたわ」 
 とか、 
 「鯉と恋ってどうちがうんやろね」 
 とか、 
 「見て見てガキさん、水上の宝塚」 
 とか、 
 「タニシがいっぱいあったんやけど」 
 とか、 
 「ガラスの破片があって危ないわぁ」 
 とか、 
 「底のほうがぬるい」 
 とか、 
 いらない報告ばかりしに上がってくる。 
 そして、ガキさんはいちいちリアクションを取り、愛ちゃんを追い返して、 
 愛想笑いを浮かべて二人にいいわけをする。  
- 194 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 22:18
 
-  作業は一歩進んで五歩下がるようなものだったが、それでも魚は溜まっていく。 
 が、7匹目を捕まえたときだろうか、愛ちゃんがついに弱音を吐いた。 
 「あぁし、もう無理」 
 捕まえる際に、魚が喉の奥に入ってえずいてしまったらしい。 
 うるうると涙をためた上目遣いでガキさんを見る。 
 だが、ガキさんは声を張り上げて叱咤するだけだ。 
 「あーいちゃーん! そこは気合だってぇー!!」 
 今日一番の大声だった。 
 千奈美がビクンと肩を震わせた。 
  
 「じゃあ、いちご買ってくれる?」 
 「なに? いちごって」 
 「いちごって言ったらあぁしやろ」 
 「そういうことじゃなくて、なに?」 
 怪訝そうな顔のガキさん。 
 だが、愛ちゃんは何も考えてない顔で言った。 
 「ごほうび。今日がんばったから」 
 ガキさんのほうが何倍も頑張ってるのにな、と茉麻は思った。  
- 195 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 22:19
 
-  「わかった、わかったからさっさと魚、あと6匹捕ってきて」 
 「おう、とってくるぅ!」 
 元気が回復したのか、愛ちゃんは元気よく潜っていった。 
 だが、すぐに上がってきて、言った。 
 「もう見えん」 
 「はぁ?」と掴みかからんばかりのガキさん。 
 「もう暗いから見えん。それに水も冷たくてたまらんし。だから帰る」 
 愛ちゃんは首に巻かれた縄を外すと、いちごお願いね、と残して飛び去ってしまった。 
 「いちごなんて誰が買うかー!」 
 しめったガキさんの声が、夜の帳の降りた河川一帯に響いた。 
 紫がかった藍色の空を、愛ちゃんがバサバサと羽ばたいている。 
 愛ちゃんのシルエットはやがて影になり、暗い稜線に溶けるようにして消えた。 
  
 「あ、魚は大丈夫だから。こういうときのために、罠を仕掛けてあるんだよね」 
 「愛ちゃんを呼び戻すの?」茉麻が聞いた。 
 「いや、愛ちゃんはああなると絶対に言うこと聞いてくれないから。魚捕りの罠」 
 ガキさんは、じゃあ、行ってくるね! と快活に言って船を漕ぎだした。 
  
 めげないなー、この人。 
 茉麻と千奈美は、尊敬に似た気持ちで船を漕ぐガキさんを見つめていた。 
  
   
- 196 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/24(日) 22:22
 
-  >>183 もぉ〜 
 >>184 いやん  
- 197 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/25(月) 01:35
 
-  思わず鵜にフイタ 
 相変わらずのぶっ飛んだキャラ設定だ 
 なのにそれぞれが「らしい」のがすごいと思う  
- 198 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/25(月) 16:40
 
-  この2人のやりとりが好きです。 
 次も楽しみにしてます。  
- 199 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/28(木) 22:51
 
-   
  
 世界は幻なんかじゃない  
- 200 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/28(木) 22:51
 
-   
 ここ数日、雨が降り続いている。 
  
 縁側で梨沙子が、雨だれが踏み石に穿った穴を見つめている。 
 小さな穴に引き寄せられる雫が風に煽られ、微妙に落下点を変えていく。 
 跳ねる水滴もひとつひとつ違う。 
 梨沙子はその不規則に、規則性を見つけようとしている。 
 白い足が雨に濡れる。 
  
 背後からは大きな笑い声が聞こえてくる。 
 振り返り、梨沙子が言う。 
 「雨戸閉めてさ、みんなでこわい話しようよ」 
 家の中が一個の箱のように閉め切られていると、なんだがドキドキする。 
 狭い感じがするからなのか、みんなとの距離が近くなるような気がするからなのか、それはわからない。 
 話題とは関係ないであろう話をしたのは、輪の中心にいたいと思ったからだ。  
- 201 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/28(木) 22:52
 
-  「やだよ怖いもん」 
 桃子が素っ気なく言う。 
 怖いと泣いてしまうから、本気で嫌なのだ。 
 それに、怪談話で喜ぶのは小学生くらいだ。 
 茉麻や千奈美の反応も芳しくない。 
 同じ小学生の友理奈は怪談話が苦手だ。 
 舞波はどっちでもいいといったような顔をしている。 
  
 「ねえ、みやー」 
 「しない」 
 佐紀とじゃれていた雅の口調が一番素っ気なかった。 
 「梨沙子が一番怖がるじゃん、それにまだ昼だし」 
 また言ってるよ、くらいの口調でののが言った。 
 サラリーマンの霊の話はみんなが覚えるほどにしてしまった。  
- 202 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/28(木) 22:52
 
-  前ならみんな怖がりながらも集まってくれたのにな、と梨沙子は再び庭を向いた。 
 つんつん、と圭織が寂しそうにむくれる梨沙子の頬をつついた。 
 「カオと怖い話しよっか」 
 「やだよ。かおりん、話ってより顔が怖いもん」 
 そう弱々しく微笑んだ。 
 圭織は梨沙子の頭を撫で、みんな大人になろうとしているものね、と言おうとしたがやめた。 
 「そうだ梨沙子ちゃん、かぼちゃのポタージュ作ってあげようか?」 
 「いらない」 
 そんなことでは、梨沙子の機嫌は直らない。 
 「今日は雨で何もできないから、たっぷり時間をかけて作れるのに」 
 圭織の言葉を無視した梨沙子が、おもむろに立ち上がった。 
 「ごっちんの手伝いに行ってくる」 
 「危ないよ」 
 「だいじょうぶ」 
 みんな、心配すればいいんだ。 
  
 ピンクの雨がっぱを着て、ピンクの長靴を持った梨沙子が縁側で居間を振り返る。 
 「誰か行く人ー」 
 誰も行くとは言わない。 
 やっぱりな、と縁側に腰を下ろし、長靴を履いて、いちおう傘も持った。 
 「台風近付いてるって言うし……」 
 「いつも行ってるとこだもん」 
 不安そうな圭織に送られて、梨沙子は台風用の囲いをしている後藤の元へ出かけた。  
- 203 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/28(木) 22:52
 
-   
 傘をさした梨沙子が、畑までの一本道を進んでいく。 
 轍にそって溜まった濁り水では、雨が落ちるたびに飛沫が散り、煙っている。 
 ぼたぼたとひっきりなしに鳴る傘の向こうでは、同じように山も小気味いい音を立てている。 
 梨沙子は水溜りでぶつかりあう波紋をちゃぷちゃぷあわ立て、一定のペースで歩いていく。 
 そうするのが一番疲れないのだと後藤に教えられたからだ。 
  
 歩くペースが守られていると、体は無意識に足を前に運ぶようになる。 
 梨沙子は静かな思考で、雨とは切り離された傘の中の世界に浸った。 
 落ち続ける雨音の片隅に、無音があることに気付いた。 
 それは、意識するとすぐに消えてしまう。 
 梨沙子は慎重に無音を探しながら歩いた。  
- 204 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/28(木) 22:52
 
-   
 どれくらい歩いてきたのかわからなくなり、ふと顔をあげた。 
 森の中だった。 
 間違えるはずのない道で迷ってしまったことに対する恐怖はなかった。 
 辺りを窺っていると、雨音が遠く上のほうにあることに気付く。 
 天に近いところではいくつもの枝と葉が折り重なって空が見えなくなっていた。 
 白昼夢のような感触に、梨沙子は現実を確認しようと木々を触れてまわる。 
 「なんだろう、ここ」 
 そんな呟きは、森の静寂にすっと溶けてしまう。 
 梨沙子はおそるおそる木のうろに指をつっこんでみた。 
 指についたおがくずの匂いを嗅いでみる。 
 すぐ目の前を黒点のような羽虫が宙を漂っている。 
 風が吹いて、雨をいっぱいに溜めた葉がいっせいに揺れる。 
 一瞬、雨脚が強くなったような錯覚に陥った。 
 ぼとぼと落ちてきた雨粒が、梨沙子の頬を濡らした。 
 足元の白く柔らかな感触にバランスを崩し、尻餅をついた。 
 梨沙子は思い出したように、頬についた水を指で払う。 
 鳥の羽ばたきが聞こえた。 
 急に光が差してきて暖かくなり、雨に沈んでいた心地よい匂いが立ち昇ってきた。 
 空と太陽と土と緑と川の匂い、自然の匂いそのものだ、と梨沙子は思った。 
 なんの匂いだろうと発生源を探して初めて、梨沙子は先ほどとは全く違うところにいることに気付いた。 
 太陽は見えないが空は明るいし、地面は暖かく、ふかふかして気持ちがいい。  
- 205 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/28(木) 22:53
 
-  「お、なんや? もぞもぞすると思ったらちっこいのがおった」 
 「ぎゃあぁぁぁぁぁ!」 
 地面だと思っていた部分が動き、梨沙子は大慌てで逃げ出した。 
 「そんな逃げんでもええやろ」 
 正面から出てきた手が梨沙子の進路を遮った。 
 ひょいと持ち上げられながら、梨沙子はさめざめと泣き、終わりを悟った。 
 体をだら〜んと弛緩させ、目を閉じている 
 誰か助けてください誰か助けてください誰か助けてください、珍しくしおらしい感じで念じながら。 
  
 丸太のような指でつつかれる。 
 「ほら、食べないから。食べないから、起きて」 
 聞き覚えのある声だった。 
 梨沙子は薄く目を開けた。 
 「あれ、あいぼん?」 
 「おう、あいぼんさんやでー」 
 「でも大きい」 
 「おっきいあいぼんさんやでー」 
 奈良の大仏よりも大きいそれは、にこにこと笑っている。 
 大きいことをのぞけば、あいぼんそのものだ。  
- 206 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/28(木) 22:53
 
-  あぐらをかいてるあいぼんをポカーンと見あげ、梨沙子が聞いた。 
 「なんで大きくなったの?」 
 「おかしなことを言う子やなぁ、あいぼんさんはずっと大きいっちゅーねん」 
 「えー? 前に会ったときは小さかったじゃん」 
 あいぼんの明るさは警戒心を溶かす。 
 すっかり慣れた様子の梨沙子に満足そうなあいぼんが、ふむふむと顎を撫でてている。 
 「そりゃ、あれや、小あいぼんやな」 
 「こあいぼん?」 
 「そう、で、こっちのあいぼんは大あいぼん」 
 「おおあいぼん……」 
 「そういや自分、何しにきたん?」 
 梨沙子が戸惑い、不安になったのか挙動不審にあちこちを見る。 
 質問されてるのに、自分って呼ばれた。 
 関西弁は自分は相手を指す、ということを知らない。 
  
 しばらく梨沙子の思案を楽しんだ大あいぼんが、平べったく言い直す。 
 「名前は?」 
 「梨沙子」 
 「梨沙子ちゃんは何しにきたの?」 
 「気付いたらここにいた」 
 「そうやろな」 
 「なら聞かないでよ」 
 「ここはな、心が刺々した子しか来られんようになっとるんや」 
 「してないもん」 
 これが証拠や、とわかりやすく尖った梨沙子の唇を指した。 
 「あいぼんさんが聞いたるけ、言うてみ?」 
 「大阪のおばちゃんには言いたくない」 
 そうは言いつつも、梨沙子は目の前の不自然な存在になら話せそうかな、と思った。 
 とても優しそうだし、大きいから現実感がない。 
 旅の恥は掻き捨てとはこういうことを言うんだな、と舞波が得意げに言ってたことを思い出した。  
- 207 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/28(木) 22:53
 
-  「でもやっぱ言わない」 
 梨沙子がそっぽ向いた。 
 あいぼんが面倒くさそうに鼻の頭を掻いた。 
 「あんな、梨沙子ちゃん。この世にはな、素直になれる子と、素直になれん子の二種類しかおらんねん」 
 「あたりまえじゃない、素直か素直じゃないの他に、なにがあるのよ」 
 「そや、ええとこに気付いたな、っと、ここで時間や、ほな」 
 「なんで? まだ途中──」 
  
  スコーン! 
  
 そんな音が梨沙子の脳に響き、意識が白濁していく。 
 大あいぼんのでっかい指に殴られたと気付いたときにはもう、視界は黒く塗り潰れていた。 
  
  
   
- 208 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/28(木) 22:54
 
-   
 「梨沙子!」 
 目を空けると、雅が必死になって揺さぶっていた。 
 「ああ、みや」 
 「大丈夫? ケガは?」 
 あくびをして、頭を切り替える。 
 よく知ってる場所だ、家の近くの森の中。 
 どうやら木の根元で眠っていたらしい。 
 寝てた、と梨沙子が言うと、雅は安心したように脱力した。 
  
 雅に引き起こしてもらう。 
 「みんな心配してたんだから」 
 「なんで?」 
 「ごっちんが帰ってきて、梨沙子見てないって言うから」 
 雨具を着ていない雅に気付いた梨沙子は嬉しそうな顔をする。 
 なによ、雅は乱暴に言うと、梨沙子の手を引いてずんずん歩き出した。 
 「みやは?」 
 「は?」 
 「みやはうちがいなくなって心配した?」 
 「してない」 
 だらしなく口を開けてにこにこしている梨沙子は、引っぱられるがままだ。 
 「世の中にはね、素直になれる子と、そうじゃない子がいるんだって」 
 「梨沙子は素直じゃない子だね」 
 雅に言われ、素直だよぉ、と大きく笑った。 
   
- 209 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/28(木) 22:55
 
-  >>197 ャョ 
 >>198 ャョャョ  
- 210 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 00:41
 
-  ジブリのアレを思い出しました。 
 色んなキャラが普通に存在してるのが面白いです。  
- 211 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/30(土) 02:38
 
-  地元に帰ったら、山に行ってみたくなりました。 
 
- 212 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/08(月) 23:20
 
-   
  
 猫にピアス 
   
- 213 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/08(月) 23:21
 
-   
  
 「スプリットタンって知ってる?」 
 「なにそれ、魂のある舌ってこと?」 
 「それはスピリットね。スプリット、分かれた」 
 「分かれた舌ってことか」 
 「そうそう、蛇とかトカゲみたいな舌。人間も、ああいう舌になれんだよ」 
  雄はおもむろにくわえた煙草を手に取り、にゃあっと舌を出した。彼の舌は本当に蛇の舌のように、先が二つに割れていた。その舌に見とれていると、雄は器用に右の舌だけ持ち上げて、割れた舌の隙間に煙草を挟んだ。 
 「……すごい」 
  それが、出会いだった。 
  
  
 「かっこぃぃぃ!」 
 目を輝かせたれいなが手を組んで身悶えた。 
 舞波がつまらないと放り出した小説を読んで、感激に震えているのだ。 
 哺乳類なのに爬虫類の舌という、神に背くような無軌道さに憧れたし、 
 何よりも肉体を傷つけるという反社会的な部分に強く惹かれた。 
 頬と鼻のあたりをほわほわさせて叫んだ。 
 「れいな、スプリットタンにすると!!」  
- 214 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/08(月) 23:21
 
-  「れいな、ちょっとおいで」 
 桃子の隣で夏休み特番を見ていたこんこんがれいなを呼んだ。 
 なにー? とれいなが駆け寄る。 
 「ちょっと舌だして」 
 「なんで?」 
 「ちゃんと割れる舌かどうか確認するから」 
 割れる舌とそうじゃない舌があるんだ、れいなは素直にそう受け取った。 
 こんこんがにやにやして、ちょろっと出た舌を、爪を立ててつまんだ。 
 「いったぁ! なにすると? ……ばかぁ」 
 れいなが大袈裟に痛がり、理不尽な暴力に不安になって、それからガキみたいな反撃をした。 
 逃げるように半身になったこんこんは、ただ笑っている。 
 「なになにー?」 
 友理奈の膝で寝ていたののが起き上がった。 
   
- 215 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/08(月) 23:21
 
-   
 縁側では、麦茶を飲んで休憩する後藤と梨沙子が米について話している。 
 「あいつらさー、なんでくっつくんだろう」 
 「あれじゃない?」 
 「なに?」 
 後藤に聞かれ、梨沙子は照れるように笑った。 
 何か言おうと思ったのだが、何も言うことがなかったのだ。 
 「しかもさ、完璧な形ならいいんだけど、中途半端に崩れてるのがムカつく。グロいし」 
 苛立たしげに後藤が言った。 
 「ああ。それはある」 
 もっともらしく梨沙子が同意した。 
  
 「なんの話?」 
 散歩から帰ってきた圭織が、庭に石を撒いている。 
 見つかるよ、と小声で梨沙子が止めたが、圭織は、大丈夫だよ、とやめない。 
 家の中では、れいなを中心に笑い声が起きている。 
 バカにされているのだが、れいなは嬉しそうだ。 
  
 「なんの話?」 
 圭織がもう一度聞いた。 
 「ああ、セミの脱け殻。稲にくっついてたんだわ。ね? 梨沙子」 
 「うん」 
 梨沙子が元気よくうなずいて、 
 「完璧な形なら許せるんだけどね」 
 と得意気に言った。 
 農業の何たるかの一端を知った気になっているのだ。 
  
 それは違うけど、と言いかけた後藤が首をひねった。 
 「そうかもしんない。きれいに脱けてたら、たぶん許せるな」 
 「だよね。最近、あんまり見ないもん。ちゃんときれいなぬけがら」 
 石を撒き終えた圭織が、そうなんだ、といった顔をしている。 
   
- 216 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/08(月) 23:21
 
-   
 理髪店、とだけ書かれた理髪店。 
 店主の大谷雅恵は「りはーつ」とか「かみーた」とかいろいろ考えたのだが、 
 シンプルに「理髪店」と落ち着いた。 
 だが、大谷の髪型はシンプルでも落ち着いてもいない。 
 天気よりも変わりやすい。 
 大谷は髪形を変えること自体がマンネリになりつつあることを自覚しながら、 
 鏡に向かって次はどうしようかと考えていた。 
  
 そこへ、勢い込んだれいなが入ってきた。 
 「こんにちは!」 
 「こんにちは」 
 「ピアスを開けてください!」 
 「ああ……」 
 大谷はピアスを左の眉に三つ、唇に三つつけた顔で驚いてみせた。 
 痛そうだとれいなの気が萎えた。 
  
 「まさおー、こいつにピアス開けてやってよ」 
 ののを先頭に、桃子、友理奈、茉麻、最後にこんこんが入ってきた。 
 「わかった」 
 ピアッシングもやっている大谷は、ピアッサーを取りに奥へ消えた。 
 れいなが唇を引き結び、鼻から大きく息を吸いこんで仁王立ちしている。 
 「あ、大谷さーん、舌ですからねー」 
 こんこんがわりと大きな声でそう言うと、大谷は、え? という顔をして戻ってきた。 
 「れいな、スプリットタンにすると!」 
 桃子と友理奈がクスクスと顔を見合わせて笑っている。  
- 217 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/08(月) 23:22
 
-  「いいけど、……いいの?」 
 不思議そうな顔で大谷がれいなに聞いた。 
 「それはれいなが猫だからか? 猫だから差別しようというのか!」 
 誰だよおまえ、れいなのおかしな弁論口調にののが笑った。 
 「いや、そうじゃなくて、一生もんだからね、後悔しないかってこと」 
 れいなは力強くうなずく。 
 「じゃあ、ちょっと舌見せて」 
 「やだ」こんこんにされたことが過ぎったのだ。 
 「でも、見ないと穴あけられないよ?」 
 「痛くしない?」 
 「見るだけ」 
 渋々ではあったが、べーっと舌を出した。 
  
 「猫にでもできるんですか?」 
 横からこんこんが聞いた。 
 「まあ、舌は舌だからね、大丈夫じゃない?」 
 無責任とも思えるような大谷の軽い口調にれいなの顔が曇る。  
- 218 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/08(月) 23:22
 
-  「血ぃ出るの? 血」 
 れいなを怖がらせようと、茉麻が聞いた。 
 「出るよ、もちろん。体に針刺すわけだから」 
 「えー、痛そう」 
 桃子と友理奈の声が被った。 
 もう、と桃子が撫でるように友理奈の肩を叩いた。 
  
 こんこんがれいなの腕をつつく。 
 「だって」 
 「痛くない!」とれいな。 
 「痛いよ、ふつうに。舌噛むと痛いでしょ?」 
 大谷の言葉にれいなの強気が削がれた。 
  
 「そういえばさー、どうやって舌割るの?」 
 ののがぶきっちょそうな指で、店内にあるピアスを手に取ったりしている。 
 「まず開けて、拡げて、それからメスで切るみたいだよ」 
 「えぇ〜!? 切るの〜? 痛そう」 
 桃子がぶりぶりに肩を震わせた。 
 「ね、痛そうだね」 
 うすら笑いの友理奈が続いた。 
 いいの? いいの? 茉麻がれいなを追い込んでいる。 
 「舌ちょっき〜ん」 
 おどけた口調で桃子が呟く。 
 場が冷めた。 
 誰もなにも言わなかった。 
   
- 219 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/08(月) 23:23
 
-   
 「さ! いこうかね!!」 
 ピアッサーを手にした大谷が、野太い声でれいなの前に立った。 
 舌だして、という短い言葉にれいなが慌てて舌を出す。 
 大谷が、無遠慮に舌をつまんだ舌を脱脂綿で叩く。 
 「いだぁぁぁ!」 
 力の限りに目をつぶっていたれいなが大谷を突き飛ばした。 
 そして、一目散に出入り口まで駆け、振り返った。 
 「ばかー!!」 
 叫んで、逃げていった。 
  
 「なにしたの?」 
 尻餅をついた大谷を助け起こした茉麻が聞いた。 
 「消毒」 
 そう呟いた大谷は、信じられないと目を丸くさせている。 
  
 「ピアッサー挟むとこくらいまでは行ってほしかったかな」 
 こんこんがぼそっと言った。 
 予想通りの展開だけど、もうちょっと何かあってほしかった。 
  
   
- 220 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/08(月) 23:24
 
-  >>210 と〜とろぉ〜!! 
 >>211 マウンテンッ!!  
- 221 名前:ななしひとみ 投稿日:2005/08/09(火) 22:12
 
-  やべぇ、マジでいいもん見つけました。お気に入りに入れて毎日読みに来ますよ。 
 
- 222 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/10(水) 00:38
 
-  へたれ猫万歳。 
 
- 223 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 01:33
 
-  なんだこれ。面白すぎやんw 
 
- 224 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:50
 
-   
  
 夏祭り  
- 225 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:51
 
-   
 夏になると現れる、頭のおかしな奴。 
 この村にも、またひとり流れ着いた。 
 「うぃへへへぇ」 
 ぼろぼろの紙袋を持った、スノッブな雰囲気の女は意味もなく笑っている。 
  
 夏祭りの準備に忙しい商店街をまっすぐ通り抜けると、こくりと首を傾げて振り返った。 
 よそ者が入り込んできたというのに、ここの連中は誰も気にかけない。 
 おかしなこともあるものだ、と来た道を、今度は中央を歩いてみた。 
  
 「おい、よっさーん! こっち手伝ってやー!!」 
 Vシネを好んで観そうな、いい年したヤンキーが叫んだ。 
 女は余計なことには関わりたくないと、紙袋で顔を隠す。 
 「すいませーん、体の具合が悪いんで無理ですー」 
 どっからどう見ても、よっさんと呼ばれた女は元気そうだったが、ヤンキー女は何も言わなかった。 
 何か過去にあったのだろうかとも考えたが、聞くのも怖かったので女はそっと通り過ぎた。  
- 226 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:51
 
-  まだ誰も気付かない。 
 女はちょっと悲しくなりながらも、何度も行ったり来たりをくりかえす。 
 「うきゃー!」 
 甲高い声が聞こえ、強烈な悪臭を放つ浮浪者がかなりの速度で女を抜いていった。 
 「待てこらミキティ!」 
 背の低いアジア系の顔をした女の子が、無邪気な悪意をたたえた笑みで追いかけていく。 
 持っている草が香草の類に見えた。 
  
 なんなんだろう、あれは。 
 楽しそうに見えなくもない二人を目で追っていると、酒瓶を抱えた小さな女の子を見つけた。 
 「ま〜たやってるべ」 
 一升瓶を重たそうに抱えているのは、女の子ではなく女だった。 
 童顔でわかりにくいが、よく見るとそこかしこに年輪を感じる。 
 「酒って腐んないんだべか、なっちの内臓は腐ってるのに……」 
 昼から酔いどれている女は、ぶつぶつと呟きながらふらふらと歩いていく。 
 この人についていこう、そう思った。 
 紙袋を抱えた女は、とろんと酔いに潰れそうな瞳に太陽を見た。 
  
   
- 227 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:51
 
-   
 「おーい、行くぞ〜」 
 後藤が軽トラのエンジンをかけて待っている。 
 浴衣を着た子供たちが、わらわらと玄関から出てくる。 
  
 まっさきに出てきた梨沙子が、ちらちらと後ろを振り返っている。 
 雅を待っているのだ。 
 そんないじらしい梨沙子を、朝からあややを歌い続けている桃子が追い抜いた。 
 今日、裕子の店のステージに立つことになっているのだ。 
 上機嫌に車の荷台に乗り、佐紀を引っぱり上げた。 
  
 ポケーっとした笑顔で出てきた友理奈が空を仰いだ。 
 午前中の曇天とはうって変わって晴れ渡った空で、太陽が高度を下げ始めている。 
 まっしろな雲に、極弱い、うすいオレンジが差してきた。 
 「りーちゃん、乗ろ?」 
 「うん、あ、ちょっと」 
 友理奈は渋る梨沙子にそれほど疑問を感じることもなく、茉麻と舞波のあとを追った。 
  
 雅はまだ来ない。 
 「さ、梨沙子ちゃん、行くわよ」 
 最後に出てきた圭織が、梨沙子を担ぎあげた。 
 雅を待っているなんて死んでも言えない梨沙子は、為すがまま荷台に放り込まれた。 
 むっとした顔を隠さない梨沙子の頭を撫でた圭織は、助手席に乗った。 
 「もう出ていいよ」 
 「みやとちなは?」 
 圭織は静かに首をふった。 
 つい先ほど、痛ましいくらいに深刻な顔をした千奈美が、雅を呼び止めていたのだ。 
 思春期にはあまり人に触れてほしくない悩みだってある。 
 そ、と後藤はうなずいて車を発進させた。  
- 228 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:51
 
-   
 裕子の店を中心に、縁日が左右に伸びている。 
 そこから少し離れたところに、今年もまた無駄にゴージャスなやぐらが建っている。 
 土建屋の斉藤は、夏祭りのやぐらに命をかけている。 
 そしてもうひとり、やぐらに命をかけている石井リカ村長。 
 やぐらの上から童謡を歌うのが大好きなのだ。 
 以前はピーチという名前でアップテンポな曲を歌っていたのだが、 
 どういうわけかそれを理由に村長を解任させられた。 
 苦難の末に再選を果たした今は童謡。 
 誰かがイタズラでマイクのコードを抜いても気付かず歌い続ける。 
  
 二階以上の建物はないというこの一帯で、ひときわ目立つやぐらがオレンジに染まる。 
 マイク片手に「夕焼け小焼け」を熱唱する石井村長の前を、トンボの影が通り過ぎていく。 
 それを眺めていた梨沙子は、さらに視線を上に向けた。 
 夜の侵食がはじまっている東の空は紫で、わけもなく溜息がこぼれた。 
 「梨沙子、手伝いなよ」 
 がっちり肩を掴まれてその方向を見ると、後藤がにやにやしていた。 
 ハッと気がつき、梨沙子は周囲を見まわした。 
 もうみんな逃げたあとで、誰もいなかった。 
 「うん」 
 そう素直にうなずくと、後藤が手を離して出店に入っていく。 
 梨沙子は素知らぬ顔をして、逆方向に歩いていった。  
- 229 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:52
 
-  誰かいないかな、梨沙子がちんたら出店を覗きながら歩く。 
 ところどころに「ののお断り」や「こんこんお断り」といった看板が置いてある。 
 ののは喰い散らかすし、こんこんはあれにしようかこれにしようかと周囲の迷惑も考えずに散々まようからだ。 
 この二人が来ると途端に客の流れが悪くなり、商売にならなくなる。 
  
 「ちょっと、梨沙子!」 
 真っ青な顔をした友理奈が、梨沙子を手招きしていた。 
 「あれ、ままはー?」 
 たしか茉麻といたはずだ、と思い出しながら聞いたが、友理奈は取り合わない。 
 茫然自失と香ばしく焦げた物体の前に立ち尽くしている。 
 「なにこれ」 
 「牛の丸焼きだって」 
 梨沙子は見る範囲を少し広くしてみた。 
 ののとこんこんとれいながいて、石川が肉にナイフを入れている。 
 そのナイフの切っ先を見て、友理奈がくすんくすんと泣き出してしまった。  
- 230 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:52
 
-  「チャーミー!」 
 声が先に出た。 
 「ん? 梨沙子ちゃんも食べる?」 
 いつものかわいらしい笑顔で、肉を差し出してきた。 
 その後ろで、こっちが先だろうがよ! とののが文句を言っている。 
 「さゆみん焼いちゃったの?」 
 なんて残酷なことをするのだろうと、梨沙子は眉毛を垂れてしょんぼりしている。 
 「ここにいるよ〜」 
 ペットと猫の奥から、さゆみがにこにこと手を振っていた。 
 何のストレスもない、ただ楽しくて仕方がないといった笑顔だ。 
  
 じゃあ、これは? ショックにまだボーっとしてる友理奈が聞いた。 
 「あ、これ? これは麻琴」 
 目の前の丸焼きがマコトということはわかったが、マコトが何かはわからなかった。 
 さゆみんじゃないならいいや、と梨沙子が皿に手を伸ばす。 
 「ちょっと待って、これはのんたちの」 
 横から伸びてきたののの手が、皿を掠め取っていった。 
 先にあげなさいよ、とお姉さん面する石川を、物も言わずにののが蹴った。 
 あいた、と石川は太ももを押さえ、顔をゆがめた。  
- 231 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:52
 
-  「それよりさ、なんか買ってきてよ」 
 肉を頬張り、こんこんとれいなにも食べさせているののが子ども二人に言った。 
 このペット二人は出入り禁止だし、れいなは断られるんじゃないかと怖くて買い物ができない。 
 猫相手に商売してくれないと思ってるのだ。 
 「なに買ってくればいいの?」素直な友理奈が聞いた。 
 「焼きそば」 
 ののは焼きそばが好きなわけではない、トラウマが焼きそばを食べさせようとしているのだ。 
 「ごっちんのケーキも」 
 石川が言った。 
 おめーが行け! ののが口をもごもごさせながら叫んだ。 
 「さゆみもケーキ! さゆみの分だけでいいからねっ」 
 何か言いたそうな目で石川がさゆみを見た。 
 えへへ、とさゆみが取り繕うように笑う。 
  
 れいなは肉に夢中で、丸焼きにまでかぶりつきそうな勢いだ。 
 宙に視線をさまよわせたこんこんが、幸せそうに指を折り始める。 
 「えっとねぇ、ベッコウ飴でしょー? りんご飴でしょー? わたあめも食べたいなぁ」 
 「あ、焼き鳥!」れいなが言った。 
 「カキ氷でしょ? チョコバナナでしょ? フランフルトにぃ、クレープにぃ……」 
 子ども達はこんこんを無視して買いに行った。 
 こんこんはまだ指を折っている。 
 「わたがしにぃ、氷いちごにぃ、あんず飴にぃ……」 
 二週目に入ろうとしている。 
 「おもしろいから、もう少し見てましょうよ」 
 さゆみが物珍しそうにこんこんを見ていた。 
  
   
- 232 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:53
 
-   
 後藤の出店は裕子の店のすぐ横にある。 
 一番客の入りがいいから、流れてくる客を見越した裕子がここ以外で商売させないのだ。 
  
 一度は逃げたけど、やっぱり戻ってきた茉麻がケーキを売り続けている。 
 その後ろで、後藤はジョッキ片手にご機嫌な様子。 
 「やっぱ、まあまあだよねぇ」 
 茉麻は自ら進んで掃除をするし、洗濯だってする。 
 愛嬌があって、はっちゃけたおもしろいことだってできる。 
 舌足らずに「あいがとうございます」と笑顔を振り撒く献身的な中学生に、人も集まる。 
  
 「おつかれ、ごっちゃん」 
 ボーっと回転していく客を眺めていた後藤に、中澤が声をかけた。 
 「女語りしないの?」 
 「お祭りやぞ、語ってる場合ちゃうやろ」 
 お祭りだから見たいのに、と後藤は残念でならない。 
 中澤はせっせとケーキを売る茉麻を見て、ひとりだけかい、と呟いた。 
 「みんな逃げやがった」 
 「それよりごっちゃん、ケーキくれや」 
 「魔法がとけちゃうよ」 
 「うっさい、ちょっとぐらいええやん」 
 「ダメだって、みんな並んでるんだから」 
  
 そんなやりとりを聞いていた茉麻が、ちょっとした隙にフルーツタルトを中澤に手渡した。 
 そして、中澤がありがとうと言うより早く前を向いた。 
 「よく気のつく子やなぁ」 
 「ね、いつものんびりしてるのにね」 
 集中しているときの茉麻は勢いが違う。 
 そんなことに感心しながら中澤は、茉麻にあとでなんか奢ってあげるから店に来なさい、と言った。  
- 233 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:53
 
-  「あ、裕ちゃん。ももは?」 
 「うるさいくらい」 
 だろうな、と後藤は店に戻っていく中澤を見送った。 
 そして、茉麻に声をかける。 
 「まあまあ、もういいよ。あとはやるから」 
 「でも……」 
 「大丈夫。もうなくなるでしょ」 
 「おにぎりは?」 
 ケーキが売り切れたら、おにぎりを売ることになっている。 
 幻のごっちん米のおにぎりは、一個1000円もする。 
 完全なぼったくり値だが、売れるからいいや、と後藤は思っている。 
 「いいよ。裕ちゃんとこで食べて、余ったら売る」 
  
 躊躇う茉麻を追い払うようにして桃子のところに行かせた後藤が店に立った。 
 「あら梨華ちゃん」 
 財布を持った石川が客だった。 
 「買いに来たの」 
 「言ってくれれば、裏からあげたのに」 
 さっき言ってたこととは違うが、後藤の中では筋が通っている。 
 裏からでもいいと言っても、鬱陶しいくらいに真面目な石川はちゃんと買おうとするからだ。 
 「全部ちょうだい」 
 残り20個ほどのケーキの数を確認して、石川が言った。 
 さゆみが驚き、喜ぶ顔を見たいのだ。 
 「マジ?」後藤が驚く。 
 「まじ」 
 「店じまいにできるから助かるけど」 
 「いくら?」 
 「3000円くらい」 
 計算するのが面倒になった後藤は、てきとーに言った。 
 「なに? くらい、って」 
 「ぬぁはは、いいじゃん」 
 石川を見送った後藤は店を放り出し、いそいそと中澤の店に向かった。  
- 234 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:53
 
-   
 中澤の店の、ステージと花道に接したボックス席、後藤のお気に入りの席。 
 圭織と酔いどれなっちが向かい合っている。 
 この店は基本的にビールしか出さないはずなのに、酒の一升瓶やワインやシャンパンが並んでいる。 
 酔いどれなっちは勝手に持ってきて、圭織は「Bar圭」のあっちゃんに持ってこさせた。 
  
 「いやー、なっち今日ちょっとさ、変なんだよ」 
 「いつものことじゃない」 
 「むっかつく!」 
 酔いどれなっちが唇を尖らせ、ぷんっ、といった感じで怒った。 
 「で、なんなのさ」 
 「なっちさ、なんか今日すっごい疲れるんだよね」 
 「そうなんだ」 
 そんなこと報告するなよ、と思いながらも圭織は優しさでうなずいた。 
 「なーんか生気を吸われてるみたいなんだよねぇ」 
 「ちゅーちゅー、ちゅーちゅー、絵里は蚊ですよ?」 
 「なっち、訛ってるよ」 
 「べつにいいべさっ」 
 ふん、と鼻を鳴らした酔いどれが拗ねた顔を作った。 
 そう勢いこんだが、するすると力が抜けたようにテーブルに張り付いてしまった。 
 かまってもらいたいと全面に出てる顔に、圭織は珍しくイライラした。 
 「そういえば、なっちの周り、どんよりしてるかも。憑かれてんじゃない?」 
 「でしょ? やっぱそう思ってたんだよねぇ」 
 「そんなぁ。かわいい絵里がいるのにぃ」 
 圭織は嫌味のつもりでいったのだが通じなかった。 
 ちょっとわかりにくかったかもしれないと、眠たそうななっちの瞼を引っぱってみた。 
 「いったぁ! なにすんのよ圭織ぃ!」 
 「うっせバーカ」 
 「……ひ、ひどいですよぉ、…圭織さん!」  
- 235 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:53
 
-  「ももはまだ出てないよね」 
 後藤が滑り込むようにして、圭織の隣に座った。 
 「はい、なっち。おにぎり」 
 「あー、ごっちんまでなっちのことば、バカにするー」 
 酔いどれはまだ、自分の顔がおにぎりのような形をしていると信じている。 
 後藤は何がなんだかわからないという顔をして、圭織を見て、そしてまたなっちを見た。 
 「つーかさ、これ誰?」 
 指差した先には、あのスノッブな女。 
 「カオも知らない。なっちの知り合いなんじゃないの?」 
 「えぇ? なっち? 知らない知らない。圭織の知り合いだと思ってた」 
 酔いどれなっちも知らないと首を振る。 
  
 満を持して、といった感じでスノッブな女が、でへでへへとだらしない笑顔で頭を下げた。 
 「絵里です」 
 「あ、そうなんだ」 
 これっぽっちも興味ないといった後藤は、とりあえず拍手だけはしてみた。 
 圭織は興味ないどころか無視だ。 
 「で、なっち、具合悪いなら帰れば?」 
 「それもまた無理」となっち。 
 途中から入ってきた後藤は、その前にどんな無理があったのかわからない。 
 最初から一緒にいた圭織も、その前にどんな無理があったのかわからない。 
   
- 236 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:53
 
-   
 ステージ裏のバックルームでは、桃子が大はしゃぎしている。 
 「ねー、これやばくなーい?」 
 上目遣いに前髪を直している桃子が言った。 
 「大丈夫だって。かわいいよ」 
 佐紀はかわいいと言って、しまったと思ったが、桃子の反応で、もっとしまったと思った。 
 「あたりまえじゃない。かわいすぎるって言ってんの〜」 
 途中でこらえきれずに、うそだけどー、と笑った。 
 桃子だけが笑い、佐紀はあきれ、舞波は知らん顔をする。 
 何も言われなかったことで調子に乗る桃子は、さらに続ける。 
 「やっぱぁ、水もしたたるいい女っ?」 
 「ももち、ちがう。水もしたたるいい男」 
 不必要なくらいに言葉を知ってる舞波が力強くつっこんだ。 
 「でも、ももは水もしたたるいい女だもん」 
 桃子も、そこは譲れない。 
  
 「なにがー?」 
 手伝いを終えた茉麻が入ってきてすぐ、友理奈と梨沙子が走ってきた。 
 二人とも興奮しきってる。 
 「梨沙子がりんねちゃん投げて泣かしたー!!」 
 「どういうこと?」佐紀が聞いた。 
 「なんかね、なんかねー! ……飛んだの」 
 梨沙子がそう説明したが、友理奈と同じ結果しか話してない。 
 筋道立てて話すのが苦手な二人は、同じようなことを言ってはつまずき、 
 話の細部の小さな違いにつっこんだりして説明にならない。 
  
 「桃子ちゃん、もうええで?」 
 りんねちゃんは梨沙子の大声に驚いてバランスを崩したんだって、と主張する友理奈、 
 ちがうよ、うちそんな大声ださないもん! と言い張る梨沙子のわきを素通りした中澤が言った。 
 桃子がステージに向かう足をはたと止めた。 
 「あれ、みやとちなは?」 
  
   
- 237 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:54
 
-   
 怖い夢の中にいるみたいだ、雅はそう思った。 
 だけど、とっぷり陽が暮れてしんと冷えた夜気や、遠くから聞こえる石井村長の歌に、 
 これは夢じゃなくて現実なんだと思い知らさせる。 
  
 隣でうつむいて歩いている千奈美は、家を出てから一言も喋ってない。 
 いつものような元気で明るいちなこだったら、どんなに楽だろうか。 
 雅はこっそり溜息を吐いた。 
 やっぱりこれは夢、それも悪夢よ! 
 大きな瞳をむき出しにして叫ぶ圭織の姿が脳裏に過ぎった。 
  
 みんなが後藤の軽トラで出発してからしばらく、千奈美は雅の肩を掴んだまま動かなかった。 
 どうしたの? と聞いても、千奈美は困ったような顔をして何も話さなかった。 
 どれくらいそうしていただろう。 
 雅には、その沈黙が一分のようにも一時間のようにも思えた。 
 真剣な眼差しの千奈美が発する緊張感が、痛いくらいに伝わった。 
 伝わった緊張に喉が渇いて仕方なくて、何か飲もうと動きかけたとき、千奈美が口を開いた。 
 「田原が好きなの」  
- 238 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:54
 
-  千奈美は、恋ってもっと胸が締めつけられるものだと思っていたけど、 
 現実は胸がググググッと熱くなって、なんだかモヤモヤするし、そんな自分に腹が立つ、 
 といったようなことを言っていた気がするが、あまりの衝撃に雅は覚えていない。 
 あの変態の田原が好きだなんて、やっぱり悪い夢だ。 
 アヤカ先生がいじめじゃないかと重く考えて学級会を開いたときも、 
 田原は、いじめられなきゃぼくは楽しい学校生活を送れないです、と硬くしながら言っていた。 
 千奈美は、そんな田原のどこが好きなのだろうか。 
  
 「みやはいいよね、両想いで」 
 暗い声で千奈美が呟いた。 
 「は?」 
 「だって、そうでしょ」 
 「なにが?」 
 雅は目をまんまるくさせている。 
 「梨沙子とラブラブじゃん」 
 「はぁ〜!?」 
 千奈美は気まずくなっててきとうなことを言ってみたのだが、雅の食いつきが思いのほかよかった。 
 「いいな、みやはちょっと振り向くだけでりーちゃんと両想いなんだもん」 
 「今は梨沙子、ちなにベタベタじゃない」 
 「それはみやが冷たくするからだよ」 
 「ちがうって」 
 「ホントにそう思う?」 
 観念したように雅が、誰にも吐き出したことのない心情を吐露した。 
 「重いのよ、あの子」 
 いつもの明るくて元気で、バランス感覚がよくて客観性を持っている雅ではない。 
 どこかの安いドラマにあるような、そんな重苦しい雰囲気を作っていた。 
 千奈美が恋しているのだとしたら、わたしも恋。 
 そういう年頃なのだ。  
- 239 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:54
 
-  「でも、好きなんでしょ?」 
 千奈美が力強く言った。 
 恋に悩んでいるのが自分だけ、という状況が耐えられない。 
 どうせなら雅も巻き込んでしまおうと考えたのだ。 
 雅の恋の相手として浮かんでくるのは、梨沙子しかいなかった、それだけのことだ。 
 「ねえ、みや、りーちゃんのこと、好きなんでしょ?」 
 「好きは好きだけどさー……」 
 ちなの言うような好きじゃないと思う、と雅は言いよどんだ。 
 「好きなんでしょ?」 
 千奈美は追い討ちをかけるように迫る。 
  
 そのとき、雅の頭に浮かんできたのは、縁側でポップコーンを食べながら寝入ってしまった梨沙子だった。 
 本人はそうとは言わないが、お祭りだから浮かれて朝の五時くらいから起きていたらしい。 
 ポップコーンを数個つかみ、口に入れながら眠ってしまったのだ。 
 手からポップコーンがこぼれ、力はぬけて首が落ちて柱に頭をぶつけ、 
 いたっ、と起き出して大袈裟に「いひひひぃ」と照れ笑いを浮かべていた。  
- 240 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:54
 
-  「やっぱ、ちなの言うような好きじゃないわ」 
 雅はそう言い切った。 
 舌打ちする千奈美。 
 驚きつつも、その真意を知った雅、切り返す。 
 「で、田原だっけ」 
 「もう、いいじゃん! それは!!」 
 さっきのは言ってみただけだよ、とでも言いたげな千奈美。 
 それを見た雅には、どうしても確認しておきたいことがあった。 
 「あのさ、ちな」 
 「ん?」 
 「さっき腹立つって言ってたでしょ?」 
 もう聞かないでよ、と千奈美が照れた。 
 「腹が立つってさ、自分に? 田原に?」 
 「そりゃ、田原に決まってんじゃん」 
 そう言い切る千奈美に、雅はある仮説を打ち出した。 
 だが、真面目に悩んでいる千奈美には言えなかった。 
  
 沈黙をひきずったまま歩いていると、仄白い月明かりが、縁日の白熱球にかわった。 
 石井村長の歌はまだ続いている。 
 なんで今年は誰もコードを抜かないんだろう、雅は思った。  
- 241 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:54
 
-  「お、雅ちゃんと千奈美ちゃん、なんか食べてってよ」 
 一番はしで屋台を出している柴田が、ふざけた顔で手招きしていた。 
 「なんでこんなはじっこにいるの?」 
 千奈美が聞いた。 
 柴田は毎年、なぜかベストに近いポジションを取っているのだ。 
 いいポジションを与えられているのに、それを発揮できないのも毎年のことだ。 
 「今年は運がなかったのよ、それより、なにたべてく?」 
 「あ、じゃあオレンジジュース」 
 雅は緊張していたから喉がカラカラだった。 
 「あ、わたしも」 
 千奈美も似たようなものだったのだろう、すぐに続いた。 
 「ざんね〜ん、今年からオレンジジュースは出さないことにしましたぁ〜」 
 よくわからない自信に満ちた柴田が言い切った。 
 だからはじっこに追いやられたんだ、と納得した雅と千奈美はその場を後にした。 
   
- 242 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:55
 
-   
 桃子のキンキンしたかわいらしい歌声は、人の心を掴み取る。 
 桃子の過剰なまでにぶりぶりのダンスは、人の心を狂わせる。 
 ステージはとんでもない熱狂に包まれていた。 
 そこはもう、中澤が人生の痛切さを叫ぶステージと同じものだとは思えない。 
 咽かえるような甘いかわいらしさだけが、空間を支配していた。 
 桃子がステージに登場したからできたわけではない、初めからそこに桃子の世界があった、 
 そんな感じすらさせるような圧倒的な力があった。 
  
  ♪ Let's Go ももこぉ! Let's Go てんさぁーい!! 
  
 19歳にしてすでに伝説に名を刻んだと誉れ高いあややを完全に自分のものにしている。 
 客は桃子の勢いに飲み込まれるようにして、惚けたようにステージを見守っている。 
 自分に視線が集まっていることに気付いた桃子は歌が終わるとはにかみ、間を作った。 
  
 「大人なももの、大人なおはなしっ!」 
 口調からしてぶりっこなのだが、大人。 
 その証拠に、じっと何も話さず、見下ろす形ではあるが上目遣いでステージを見ている。 
 黙っていれば大人なレディなのだ。 
 「あのね、ももね、こう見えるかもしれないけど、じつはぁ、すっごい大人なんですよぉ〜!」 
   
- 243 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:55
 
-   
 田原が小春に告白しようとしているという噂が入ってきたのは、裕子の店のすぐ前だった。 
 店の入り口からは、桃子の声が漏れ聞こえている。 
 「行こう」 
 雅は、店に入ろうとしている千奈美の腕を掴んだ。 
 千奈美を思う気持ちももちろんあったが、好奇心のほうが強かった。 
 すっかり忘れていたことだったが、田原は雅が好きだった。 
 ちょっとだけど自分の関係した恋の行く末を見届けたい。 
  
 「ちょっと待ってよ、みや。わたし行かない」 
 雅は、千奈美の耳元に顔を近づけた。 
 そして、さっき言おうか迷ったことを話した。  
- 244 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:56
 
-   
 駅舎わきの陰ったところ、そこに小春は呼び出された。 
 空気が湿っているように感じるのは、夜のせいだけではないはずだ。 
 ただ伸びただけの雑草が、妙に強く闇に浮き上がっている。 
 線路沿いの緑色の金網に田原が背をもたれて立っていた。 
  
 「あの、なに?」 
 緊張してはいるが、小春の顔は笑っている。 
 少しでも近くで現場を見ようと、数人の男子が植え込みに隠れているのを見つけた。 
 「好きです、付き合ってください」 
 躊躇うこともなく、雰囲気を作ることもなく、田原はただそう言った。 
 「そうなんだ」 
 小春は笑ったまま、じっと立っている。 
 へらへら笑うだけで、沈黙、というのは、ある意味一番嫌なタイプの告白後の態度だ。  
- 245 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:56
 
-  「小春ー」 
 まだ告白前だと空気を読み違えた雅が、普通に声をかけた。 
 少し離れて、千奈美もやってくる。 
 笑顔は笑顔だが、小春は救われたような笑顔になって、雅に抱きついた。 
 「付き合って、って言われちゃった」 
 小春を受け止めた雅は、その肩越しでモジモジしている田原に言った。 
 「お断りします」 
 有無を言わせぬ、つんけんした口調だった。 
 そして、行こう、と小春の手を繋いで歩き出した。 
 なんで雅が決めるんだろう、そんな空気が流れたが事情が事情なだけに仕方がない。 
  
 小春を連れて再び祭りに向かおうとする雅は、千奈美が自分を見ていることに気付いた。 
 どうぞ、という雅の目配せと同時に、千奈美が走った。 
 千奈美の顔は青く冷たくなり、瞳孔が開いている。 
 十分にスピードに乗ったところで、飛んだ。 
 「てめーコラ、付き合うって言葉になんか憧れてただけだろうがー!!」 
  
 千奈美のとび蹴りをくらった田原の体がくの字に折れ曲がる。 
 金網がガシャンと派手な音をたててひしゃげた。 
 「ちょっと待ってよぉ」 
 いつものかわいいちなに戻った千奈美が、雅のあとを追う。 
 「きっと田原のことがムカついてただけだと思うよ」 
 顔だけ後ろを向いた雅が言った。 
 そうだよね、と千奈美がうなずく。 
 「なんのこと?」 
 小春が聞いた。 
 雅は当たり前のような顔をして言う。 
 「そういうこと」 
   
- 246 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:56
 
-    
 
- 247 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:56
 
-   
 ステージが開始してから三時間が経とうとしている。 
 客は疲れて出て行ってしまったが、桃子の勢いは衰えるどころかさらに増していく。 
 桃子は、残った客がBGM程度にしか聴いていないことに気付いてはいた。 
 だが止まらなかった。 
 無尽蔵の体力と誰にも負けないかわいさ顕示が、桃子を突き動かしている。 
  
 後藤はまだ珍しいものを見るような新鮮さを失わず、桃子を見ている。 
 その正面、桃子に背を向けるようにした圭織が、隣にいる梨沙子の頬をつついた。 
 梨沙子は煙たそうに手を払いのけ、ん゙ー、と唸った。 
 「梨沙子ちゃん、中澤さんがなんか買ってあげようか」 
 とは言うが、梨沙子の目の前には全種類あるのではないかというくらいに飲食物が揃っている。 
 梨沙子本人はそうとは言わないが、至るところで貰ってきたのだろう。 
 チャームポイントの目をキランキランさせていると、大人が勝手にくれるのだ。  
- 248 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:57
 
-  梨沙子の不機嫌の原因は、本人は絶対に認めないが雅だ。 
 やっと来たと思ったら小春をつれていて、佐紀と一緒に花火に出かけてしまった。 
 圭織がチョコバナナをくわえながら梨沙子の頭を撫でた。 
 「梨沙子ちゃん、カオと一緒に花火しよっか」 
 「しない」 
 酔いがまわって体が大きく左右にゆれている安倍が、ふーっと息を吐き出す。 
 「梨沙子ちゃん、好き嫌いしてたら大きくなれないべさ〜」 
 「安倍さん安倍さん、絵里は好き嫌いないですよぉ」 
 「うち、なっち姉ちゃんよりも大きいし」と梨沙子。 
 「ちがう、なっちが言ってるのはねぇ、器の大きさってことなの」 
 「プリティーだからいいもん」 
 「そう、なっちが言ってるのはね、人間って器の大きさで決まるのよ」 
 「なにが決まるんですか? 絵里、安倍さんのお話聞きたいです」 
 「ねえ梨沙子ちゃん、なっちの話聞いてる?」 
 「聞いてない」 
 「絵里は耳の穴かっぽじって聞いています」 
 「梨沙子ちゃん、なっちの話聞いてよぉ」  
- 249 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:57
 
-  隠れているつもりか、屈んだ友理奈がそっと梨沙子のテーブルに近づく。 
 わけもなく楽しそうで、笑い声がもれている。 
 バレバレのまま、テーブル上の焼きそばに手を伸ばした。 
 梨沙子がその手を叩く。 
 「いったぁ〜、梨沙子にはたかれたー」 
 友理奈は笑顔のまま手をさすり、両手をかるく丸めて頭上にかかげてみた。 
 なんとなくだ。 
 それがとてもとてもおもしろかったのか、千奈美が笑い崩れるようにして友理奈に体を寄せた。 
 友理奈は目を細くさせて大口あけて笑い、中途半端に手を出して、千奈美の半分くらいを支えた。 
  
 「ちゃんと持ってこないとダメじゃん」 
 ののの、ゲーム性の否定。 
 ずんずん歩き、焼きそばを掴んだ。 
 「も゙ー!」 
 梨沙子が目を尖らせて、焼きそばごと噛みついた。 
 こんこんがそのわきからベッコウ飴をかすめとっていった。 
 梨沙子はそれを見逃し、ののは抗議する。 
 「こんこんも持ってったよ」 
 「こんちゃんはいいの」と梨沙子。 
 「なんだよそれよぉ!」 
 そう勢いこんだが、今にも泣き出しそうな、悲しそうな顔をした。 
 はーい、こっちに注目ぅ〜、桃子がステージで飛び跳ねている。 
   
- 250 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:57
 
-   
 圭織が梨沙子を担ぎ上げた。 
 「怖い、怖い、マジ怖い」 
 手足をバタバタさせて梨沙子が抵抗するが、すぐにおとなしくなった。 
 圭織は絶対に落とさないという、ある種の信頼関係が成り立っている。 
 「花火しよ?」 
 「わかったから、おろして」 
 「わかった」 
 そうは言ったものの、圭織は梨沙子を下ろさなかった。  
- 251 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:58
 
-   
 月が出ている。 
 圭織は梨沙子が見て見てと花火を持ってはしゃぐ姿を眺めながら、静かに微笑んでいた。 
 「夜空に大きく咲く華よりも、手元で小さく咲く花のほうが儚く美しい」 
 なにそれ、梨沙子が笑った。 
 「詠ったの」 
 「俳句?」 
 「短歌よ」 
 感心したように梨沙子はうなずき、点けて、と圭織に花火を差し出した。 
 圭織は心の中で舌を出しながら、ライターで火をつけてやる。 
  
 縁日通りの中央に、大量の花火がどかっと置かれている。 
 少し離れたところにいくつも蝋燭があって、それぞれ自由に花火をしているのだが、 
 圭織と梨沙子は花火を抱えて喧騒を離れた。  
- 252 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 22:58
 
-  梨沙子はひとつ花火が消えそうになると、次の花火を取り出して器用に火をうつしかえていく。 
 花火のやりかたを思い出したのだ。 
 「ねえ、梨沙子ちゃん」 
 「なに?」 
 「やっぱいいわ。なんでもない」 
 さしたる疑問も抱かずに、梨沙子は花火を続けている。 
 新しくつけた花火は、これまでのよりも勢いがあって、青からピンクに変化した。 
 「見てた? かおたん。今の、すごいきれい」 
 「見てたわよ」 
 その美しさに気を取られるあまり、梨沙子は火をうつしかえるのを忘れていた。 
 黙って圭織が火を差し出す。 
 そして、帯のすきまから煙草を取り出した。 
 梨沙子はたまに吸う煙草を極端に嫌うが、たちこめる煙と火薬のにおいで気付かなかった。 
  
 「ねえ、かおたん、線香花火ないのー?」 
 圭織を見上げて、はっと息をのんだ。 
 ちょうど、圭織が煙を吐き出したところだった。 
 月の輝きに照らされた花火の青煙が、圭織の吐き出した煙にあおられて渦を巻く。 
 ゆっくりと混ざり合い、月光に溶かされたように消えた。 
 圭織が煙を吸い込むたび、細い首が艶めかしく動く。 
 そしてまた、煙がきらきら絡みながら溶けていく。 
 その中心にいる、淡くうすい黄色に発光しているような圭織の整った顔は、別人のように美しく見えた。 
 「ん?」 
 視線に気付いた圭織が、いつもの笑顔で梨沙子を向いた。 
 梨沙子ははにかむだけで、何も言わずに花火を差し出した。 
 火をつけようとライターを持つ圭織に、一緒に花火しよう、と言った。 
 遠くのほうから、ミキティは火にも弱いぞー、という子供の声が聞こえてきた。 
  
  
   
- 253 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/14(日) 23:00
 
-  >>221 ありがとう 
 >>222 に゙ゃー 
 >>223 どういたしまして  
- 254 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/15(月) 08:53
 
-  面白すぎです。 
 マコー!  
- 255 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:19
 
-   
  
 ドナドナ  
- 256 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:19
 
-   
 「おんのかなー、おるんやろうけどなー、おらんやろうなー、おってほしいなー」 
 東京を出たときから、つんくはどこか楽しそうにそう呟き続けている。 
 「なあ、松浦ぁ、おると思う?」 
 「いるといいですね」 
 何度このやりとりをくり返しただろうか。 
 グラサン割って、黙れっ、と一喝したいところではあるが、できない。 
 それは立場上の問題というよりも、つんくが隙だらけで間抜けだ、という部分が大きい。 
 少年の心を持ち続けるとはこういうことなのかな、と松浦は思い、悲しい気持ちになった。 
  
 生きる伝説をなりつつアイドルあやや、松浦亜弥。 
 デビューして六曲目までがすごかった。 
 目まぐるしく動くヒットチャートにおいて数々の記録が塗り替えられた。 
 その後は、技術という名の最上の惰性でトップにまで昇りつめた女。 
 今なら嫌な仕事を断るくらいの力はある。 
 だが、忙しいスケジュールの中、頭の弱いプロデューサーのお供をするのにはわけがあった。 
 ある女を捜している。 
  
 「どや、ポッキーがプリッツに早変わりや。ええやろ」 
 遠出のおやつはポッキーとはしゃいでいたつんくは、ポッキーをべろべろになめていた。 
 「そうですね」 
 「ポッキーなのにプリッツにもなるってのがええねんよな」 
 「もういいですから」 
 「どや、もっとちゃんと見ぃや」 
 つんくがチョコをなめとかしたプリッツを松浦の前で振る。 
 「早く食べちゃってください」 
 「アホか! 乾かさんとプリッツにならんやん!」 
 少年の心を持ち続けるのは難しい。 
   
- 257 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:19
 
-   
 陽光は白く、影が濃い。 
 のっぺりとしたアスファルトの道沿いには、淡い緑の稲穂がふっくらと伸び盛っている。 
 おつかいで頼まれたみりんと石鹸と長ネギと抱えた友理奈が、桃子の後ろを歩いている。 
  
  ♪ 雨はつめたいけど 濡れていたいな 思い出も涙も 流すから 
  
 バカみたいに澄み切った明るい青空の下、桃子がしっとりと歌いあげている。 
 あの日から、桃子はずっとノリノリだ。 
 さっきだって、おべっかだけど「桃子ちゃん歌じょうずねぇ」と三好に褒められた。 
  
 「ももち、あややは雨じゃなくて渡良瀬橋だよ?」 
 爽やかな無関心で桃子を見守っていた友理奈が言った。 
 「あれ、そうだっけ?」 
 「そうだよ、雨はかおりんの歌だよ」 
 友理奈は誤った知識を植えつけられている。 
 いつだったか保田のところで「雨」を歌った圭織が、これはカオの曲なの、と言っていた。 
 それを鵜呑みにしてしまっているのだ。 
 ちなみに、「抱いて」も圭織の曲だと思っている。 
   
- 258 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:20
 
-   
 駅前ロータリー。 
 ところどころ黄ばんでいる噴水に足をつっこむ雅、千奈美、小春。 
 「あぢー」 
 雅がカンカンに照っている太陽を睨んだ。 
 「やっぱ川にしようよ、なんかぬるぬるしてるし」と千奈美。 
 「小春はどっちでもいいよ〜」 
 「でも、川に行くとジュース買えなくなるじゃん」 
 パシャパシャ水を蹴りながら雅が言った。 
 ああ、と千奈美と小春が声をそろえた。 
  
 そして、三人は再び酔いどれなっちを眺めた。 
 酒と水を両手に持ったなっちは、なにがおもしろいのかロータリーをぐるぐる回っている。 
 「あれさー、車の邪魔だよね」と千奈美。 
 「車なんて走ってないじゃん」 
 雅はそう言うと、ね? と小春に同意を求めた。 
 「あ、吐いた!」 
 なっちを指差して、小春が素っ頓狂な声をあげた。  
- 259 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:20
 
-  「水か酒かわかんないと、なっちの心がびっくりしちゃうべさ」 
 酔いどれなっちは口をぬぐって、また歩き出した。 
 吐しゃ物は、水分だけだった。 
 「ゲロと一緒にちょびっちゃったし」 
 ぶつぶつ呟いてるなっちに、知らない女がついてまわっている。 
 「大丈夫ですか? 安倍さん」 
 目にも耳にも入らないといったなっちは、右手の瓶を口に入れた。 
 そして、まずそうに顔をしかめる。 
 水だと思って飲んだのに、酒だったのだ。 
 「あー、なっち、マジで疑心暗鬼だ」 
 「安倍さん、大丈夫ですか? あ、髪にガムついてますよ。大丈夫ですか?」 
  
 ロータリーに一台の小型バスが入ってきて、停止した。 
 前を見て歩いてなかったなっちが、止まったバスにぶつかってキレた。 
 「な〜にするんだべ、このぉ!」 
 腕を振り上げたが、一升瓶の重さに負けてよろよろと尻餅をついた。 
 「ワンダーや! ワンダーな酔っ払いや!」 
 バスから浮ついた感じのおじさんが出てきて叫んだ。 
 そして、興奮気味に周囲を見まわす。 
 「うわっ、この駅舎とか噴水、めっちゃ渋いやん」 
 三人を見つけて駆け寄ってくる。 
 「お、噴水に足つっこんでる女の子がおるで!」  
- 260 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:20
 
-  雅が、なにこのおっさん、みたいな顔をしている。 
 目の色が変わった千奈美が怒鳴る。 
 「消えろ!」 
 「ばーか」 
 にこにこした小春も続いた。 
 「ミラクルや、ミラクルやー!!」 
 おっさんがハイテンションのまま仰け反った。 
 「松浦ぁ、お前もはよ来いー!」 
 雅が飲んでいた缶を投げる。 
 顔に当たったが、おっさんはテンションが上がりすぎていて気付かない。 
  
 「つんくさん、この子たち困ってるじゃないですかぁ」 
 カメラマンを引き連れたあややがやってきて、つんくを咎めた。 
 「あ、ごめんね、みんな。松浦亜弥と申します。こちらはつんくさん」 
 雅と小春はボーっとあややを見ている。 
 「幻滅……」 
 つんくを見た千奈美が呟いた。 
 もっとキラキラしてる人だと思っていた。 
 漫画のあやや物語のつんくさんは、小奇麗で優しそうなおじさんだった。  
- 261 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:20
 
-  「あのー、リアクション薄いとやりづらいんだけど……」 
 あややが申し訳なさそうに言って、さらに続けた。 
 「知ってる? わたし、あやや」 
 「うん、知ってる」 
 雅がふつうに言うと、あややはさらに困ったような顔をした。 
 が、困ってるのは、勝手にカメラを向けられて何かを求められている三人のほうだ。 
 田舎の子は芸能人を見たとき、はしゃがなきゃいけないというルールを知らない。 
  
 最後尾にいた男が声をかけた。 
 「あのさ、もうちょっとリアクションとかしてくれる?」 
 千奈美が黙ったまま、その男に缶を投げつけた。 
 それを見たあややが、大笑いしている。 
  
 ひとしきり笑うと、切実な表情になって三人に聞く。 
 「あのさ、ここに綺麗な顔して笑顔がかわいい女の子っていない?」 
 石川さんかな、小春が雅と千奈美に言った。 
 「うんとね、みきたんっていうんだけど、気が強くて、優しくて、明るい子なの」 
 変態ならいるが、みきたんって女はいない。 
 雅が立ち上がった。 
 「知ってるの?」あややの声が途端に大きくなった。 
 「あ、いや、知らないけど。あややのすっごいファンの女の子がいるんで、会ってもらえませんか?」 
 そう言って、千奈美と小春に、ももに電話してくる、と駅舎に向かって歩いていった。 
   
- 262 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:20
 
-   
 「あやや来てるんだって!」 
 叩きつけるように受話器を下ろしたののが声を張り上げた。 
 あややの大ファンで、桃子に振りを教えたのも、ののだ。 
 「どこー?」 
 こんこんが聞いた。 
 「あれ? どこだっけ」 
 「ダメじゃない」 
 「あ!」 
 「思い出した?」 
 「あ、ああ、無理。……びっくりしてあんま聞いてなかった」 
 また電話がかかってきた。 
 すぐさまののが取る。 
 それをこんこんが奪い取った。 
 ののは不満そうだったが、佐紀に仕方ないよと慰められた。 
 「駅前にいるんだって」 
 正確に雅の電話を受けたこんこんが言った。 
 「よし、行こう」 
 ののは言うが早いか、もう駆け出していた。 
  
 佐紀が部屋で本を読んでいる舞波を呼んだ。 
 「舞波、あやや来てるんだって、行こう?」 
 舞波はあまり興味はないようだったが、それでも行くと部屋から出てきた。 
 「梨沙子ちゃんは?」とこんこん。 
 「ごっちんと畑」 
 縁側でところてんを食べていた圭織が言った。 
 最近、梨沙子は比較的熱心に後藤の手伝いをしている。 
 めんどくせーなー、と焦れるのの。 
 「カオが呼びに行くから、のんちゃん達は先に行ってなさい?」 
  
 ももとゆりは途中で会えるから、と三人はあっという間に出て行った。 
 圭織はところてんの器を縁側に置いた。 
 これから梨沙子を呼びに行くのだが、歩いていくには少し遠い。 
 間に合わないかな、と思いつつ立ち上がった。 
 「あれー、みんなどことー?」 
 縁側の下で昼寝していたらしいれいなが、目をこすりながら出てきた。 
 猫の足ならすぐ着くかな、圭織はそんなことを思った。 
   
- 263 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:21
 
-   
 とりあえず、そのあややの大ファンに会ってみようとテレビクルーは待機。 
 村一番のアイドルか、と失笑気味に。 
 遠巻きに人だかりができている。 
 移動するタイミングを逸した三人が、物珍しそうにあややを見ている。 
 「なにしにきたんですか? こんなとこまで」 
 雅があややに聞いた。 
 「あんな、新人──」 
 「うるせーよおっさん。あんたには聞いてない」 
 千奈美が乱暴につんくを制した。 
 「ええで、ええで、はねっかえりさがええねん。最終的に勝つねん」 
 「聞こえてんのか、おっさん」 
 冷たくつんくを睨んだ千奈美は、後藤のスーツ男を扱うときの影響を受けている。 
  
 「あのね、新人を探してるの。わたしの妹分」 
 へー、小春がポーッと口を開けた。 
 「そういうテレビの企画でもあるんだけど、決まった子は本当にデビューできるんだよ」 
 「どや、三人ともかなりいい線いっとるで。東京行かへんか?」 
 やばいくらいに騒がしい、様々な嬌声が聞こえてきた。 
 着いたな、と雅があややを見た。 
 「来ました」  
- 264 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:21
 
-  人垣を割って飛び込んできたのは、のの。 
 どたどたと掛けてきて、目を輝かせてあややの前で立ち止まった。 
 にっこり微笑んだあややが、ののの頭を撫でる。 
 「あなたがももちゃん?」 
 「そう、のんがもも」 
 言って、あれ? と首をかしげた。 
 うおおおおお! つんくが身悶えた。 
 「違うでしょ、のんちゃん。あれがももです」 
 いい具合にののについてきた友理奈が、人垣の後ろでぴょんぴょん飛び跳ねている桃子を指した。 
 「ねえ、あやや、ぐっばいボーイやってよ、ぐっばいボーイ」 
 ののは話を聞いてない。 
  
 スタッフが人垣をかきわけ、桃子たちを中に入れた。 
 汗で長い前髪がぺったり張りついた佐紀が、雅の隣に座って噴水に足をつっこんだ。 
 「あなたが桃子ちゃん?」 
 それほど身長差はないが、あややが桃子に視線を合わせるようにして屈んだ。 
 桃子はためらっているのか、モジモジとあややを見ているだけだ。 
 「どうしたの? 桃子ちゃん」 
 こんこんが桃子の肩をつかんだ。 
 突然、本当に突然だった。 
 桃子がふっと息を吐いたと思ったら、声を張り上げた。 
 「初めまして桃子ですっ! よろしくお願いします! てへっ」 
 計算を計算と感じさせないような、見事なまでのぶりっこだった。 
 「ギフトや、ギフトや!! ギフトが現れたでぇ!!!」 
 つんくが発狂した。  
- 265 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:21
 
-  けたたましいクラクションと共に軽トラがつっこんできた。 
 わっと人垣が裂けた。 
 「あやや来てんだって?」 
 急停止して、運転席から後藤が顔を出した。 
 振り返り、ケガ人がいないことを確認する。 
 後藤の奇蹟だ。 
 「お、ここにもまたすごいのがおったで」 
 我に返ったつんくが呟いた。 
 荷台からくだびれたれいなを抱きかかえた圭織と、梨沙子が降りてきた。 
 うー、と低くうなって照れている梨沙子は、圭織の背中に隠れている。 
  
 つんくが圭織の抱えている猫に興味を示し、目を丸くさせた。 
 「こ、これ、猫なんか?」 
 「そうよ。ほしいならあげる」 
 圭織がれいなの首根っこをつかんで差し出した。 
 ハッと目に力が戻るれいな。 
 「れいなは猫やけん、誰のものにもならん。自分のことは自分で決めると」 
 ほっほー、つんくが気持ちの悪い笑みを浮かべた。 
 車から降りた後藤が言う。 
 「あれ? れいなってわたしの飼い猫なんじゃなかったの?」 
 「あ、れいなは後藤さんに飼われてるんやけど、所有権はれいなっていうか……」 
 しどろもどろ。 
 「じゃあ、なっちがもらってく」 
 「やだ、やめろ、やだー、くさっ、くさい、酒くさい、後藤さーん!」 
 「あはっ」 
 後藤が大口開けて手を叩いて笑っている。 
 じたばた暴れるれいなだが、人形を抱くようにした酔いどれの腕はほどけない。 
 「あぁ〜ん、絵里もだっこしてくださーい」 
 まだ笑い続けている後藤。 
 いいの? みたいな顔で友理奈が後藤をつついた。 
 「はぁー、おもしろ」 
 ふーっと息を吐いた後藤が、目の端にこぼれた涙をぬぐった。 
 「で、なんだっけ」  
- 266 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:21
 
-  ぐっばいボーイ! としつこく言い続けるののを押しのけたあややが、後藤の前に立った。 
 「あの、綺麗な顔して笑顔がかわいい女の子っていませんか?」 
 「ああ、いることにはいるけどぉ……」 
 後藤は認めたくないけど、といったような苦い顔をした。 
 そして、野次馬の中で必死に手を振ってアピールしている石川を見つけた。 
 吉澤が、やめろ恥ずかしい、と制している。 
 「石川さんじゃないよ、人を探してるんだって」 
 雅が言った。 
 「じゃあ、知らないわ。つーか、他に情報ないの?」 
 「みきたんっていうんですけど、気が強くて、優しくて、明るい子なんです」 
 「圭織、知ってる?」 
 「いないんじゃないかなー」 
 みきたんと聞いて、後藤と圭織、二人の脳裏に変態さんが浮かんできたが、まかさねー、と流した。 
  
 「そ、それよりや!」 
 つんくが桃子にひざまづいた。 
 「一緒に東京行って、世界制覇を目指さへんか?」 
 「えぇ〜? もも、ひとりで東京に行ったら寂しくて泣いちゃうよ……」 
 本当に想像してしまったのだろう、うっすらと涙ぐんだ。 
 「きもー!」 
 茉麻が笑った。 
 「わきゃー!! 若い肉ぅ!! たっくさ〜ん!!」 
 暑さにやられたミキティは最近、町の中心部にも進出してきた。 
 後藤が軽トラのエンジンをかけた。 
 そして、ミキティを轢いた。 
 「みきたーん!」 
 ええええぇぇぇぇぇ? 
 あややがミキティを!? 
 みんなビックリした。 
 「あ、亜弥ちゃん……」 
 あややの膝の上で、ミキティはあの日のことを思い出していた。  
- 267 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:22
 
-   
 ミキティは当時、尊敬される歌手を目指してレッスンに励んでいた。 
 たまにカメラが入ったりして、意味なくなじられるばかりの日々だったが、それでも頑張れた。 
 夢のため、そして一緒に頑張るあややがいたからだ。 
 「亜弥ちゃん、どっちが先にデビューできるか競争だよ?」 
 「わたしだってみきたんには負けないんだから」 
 「こいつぅ」 
 「あはは、みきたん、一緒に頑張ろうね」 
 「うんっ、頑張ろうね」 
 オールディーズが流れてきそうな、爽やかな関係だった。 
  
 だが、現実とは残酷なもので、二人の関係は脆くも崩れることになる。 
 あややのデビューが決まったのだ。 
 「みきたん、わたし、デビューが決まったの!」 
 世界一幸せそうな顔をしたあややが、まっさきに報告に来た。 
 「亜弥ちゃん、おめでとう!」 
 心から祝福した。 
 もちろん悔しさもあったが、あややの笑顔がただ嬉しかった。 
  
 その次の日、つんくに呼ばれた。 
 もしかしてわたしも、ミキティはそんな予感に頬が緩みっぱなしだった。 
 事務所の一室で待っていたつんくは、開口一番こう言った。 
 「藤本もええねんけどなー、ダメやねん」 
 「どっちですか」 
 「ええねんけどなー、ダメやねん、って意味やねん」 
 「だから、どっちなんですか」 
 仰々しく溜息をついたつんくは、無感情に言った。 
 「お前をデビューさすことはできひん」 
 「なーんでですかー?」 
 まさか自分がデビューできないとは思っていなかった。 
 だから、思わず口をついて出た。 
 「美貴は明るく元気なかわいい女の子です。デビューだけでもさせてください」 
 「たしかにな藤本、お前の言うとおりかもしれん。だけどなー……」 
 つんくはじろりと藤本をなめまわすように見て、呟く。 
 「パッションがないねん」 
 「美貴、情熱だってあります!」 
 「ちがう、情熱やなくパッション」 
 「なんなんですか、それ」 
 「ちちや」 
 「は?」 
 乱暴な口調で言う。 
 「お前に揺らせるだけの乳はあんのか、聞いてんねん」  
- 268 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:22
 
-  セクハラだ、そして屈辱だ。 
 殴りそうになったが耐えた。 
 これもデビューのため、亜弥ちゃんと同じ高みに到達するため、 
 ミキティは唇を噛みしめてぐっと耐えた。 
 「ゆ、揺らせますよー」 
 「じゃあ、やってみぃ」 
 言葉に詰まる。	 
 今からじゃ無理だ! 
 せめて三ヶ月くらいはないと! 
 そうだ、三ヶ月あったなら美貴の胸は揺らすことができよう。 
 そう言おうと思ったとき、根拠のない希望的観測は打ち砕かれる。 
 「お前には無理や」 
 決定的な一言だった。 
 「藤本、あんな、CDっていうのは乳を揺らして売るもんなんよ。ひと揺らしで一枚、 
 ふた揺らしで二枚、っていう風にな。歌えてかわいいだけの女の子やったらぎょうさんおる。 
 この子はかわいい、その子もかわいい、あの曲もいいし、どの曲だって聞き込めば耳になじむ。 
 溢れかえっとるんよ、藤本くらいの女の子は。じゃあ、どこで差をつけますか?  
 乳を揺らしてCD売るんよ。……歌手をなめるなぁ!!」 
  
 何も言い返せなかった。 
 その夜、藤本は東京を離れた。 
  
   
- 269 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:22
 
-   
 大粒の涙をぽろぽろこぼしたあややが、抱いたミキティの肩を揺さぶる。 
 「みきたん、ずっと探してたんだよ、ずっと探してたのに……。死なないでぇ!」 
 「いや、べつに死なないけどさ」 
 変態は不死身だ。 
 ミキティって普通に話せたんだね、佐紀が雅に言った。 
 キャラ作ってたんじゃない? 雅がくすくすと笑う。 
 えー、そういうのやだー、小春がにこにこして言った。 
 「作ってねー!! 美貴はいつでも自然体だー!!!」 
 起き上がった。 
 だが、キャラを作った変態に怖さはない。 
  
 「でもさー、意識してああだったんなら、ある意味本物だよね」 
 千奈美が言った。 
 「じゃあ、やっぱりミキティは本物の変態ということで」 
 そう友理奈が軽くまとめると、ミキティはがっくりうなだれた。 
 完全なる敗北だった。 
 またもや友理奈に……、そんな思いにミキティは泣いてしまいそうになった。 
 みきたん、ここでどんな生活してたの? そんなあややのまともな疑問に、またさらに打ちのめされた。  
- 270 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:23
 
-  おもしろいけど使えない、そんな結論に至ったテレビクルーたちは撤収の準備をはじめている。 
 「ちょっと待ってくれや、ギフトがおんねんぞ!」 
 つんくがそう訴えるが、誰も聞いていない。 
 一番下っ端らしき青年が言った。 
 「今すぐ連れていけるのならOKだと思うんですけど……」 
 どうせ無理だろ、そんな顔で大きな荷物を担いだ。 
 「桃子ちゃん、頼む。何も聞かずに俺についてきてくれ!」 
 桃子にかけよったつんくが土下座した。 
 「行きません」 
 即答だった。 
  
 「なんで、なんでや……。すぐにデビューの準備を始めるし、十分なプッシュだってする、 
 桃子ちゃんはあややと同等、それ以上の逸材なんや、給料は月1000万や、どや、これで、 
 それに、六本木ヒルズに住ませたる、今日のホテルはヒルトンや、ヒルトンのスイートを用意する、 
 だから……」 
 「だってもも泣いちゃうから」 
 つんくよりもデビューよりもあややよりも六本木ヒルズよりも、ぶりっこの貫徹が優先される。 
 さすがギフトや、本物は一筋縄ではいかないと、つんくはゆっくり立ち上がった。 
 「今日のところは諦めるけど、また来させてもらうで。なんかあったら連絡くれや」 
 名刺を渡して車に戻っていく。 
 その際にも、抜け目なく野次馬のチェック。  
- 271 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:23
 
-  「もも、行けばよかったのに」 
 夢だったんだし、これ以上ない条件だったんだし、と後藤が言った。 
 「ごっちんは、ももがいなくなって平気?」 
 「あ、いや、まあ、そんなこともないけど……」 
 「ももはデビューよりも、あの家にいたい」 
 桃子にまっすぐ見つめられて、後藤はそっぽ向いた。 
 そして、こっそり嬉しそうな顔をした。 
  
 「みきたん、わたしはもう帰らなきゃいけないけど、帰ってきてよね」 
 あややはそう言って、財布から札をぜんぶ抜いてミキティに渡した。 
 一万円札が30枚ほどある。 
 「これでお風呂入って髪切って服買って東京に来て。まだあの707号に住んでるから」 
 ミキティが呆然と一方的に用件を言って車に入っていくあややの背中を見送った。  
- 272 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:23
 
-  「あー、さゆみん!」 
 友理奈が、あややの乗ったバスを指差した。 
 さゆみが窓から体を乗り出して、ものすごい笑顔で手を振っている。 
 「牛やー、牛さんがおったで!」 
 つんくが半狂乱で小躍りしている。 
  
 「ちょっとさゆぅ!」 
 石川が窓からさゆみを引っ張り出そうとしている。 
 「ごめんなさい石川さん。そしてありがとう。さゆみは新しい土地でがんばります」 
 勝手すぎるほどの爛漫さに、石川はずるずると崩れ落ちてしまった。 
 それをきっかけに、小型のバスは発進してしまった。 
 「さゆ!」 
 涙をうかべた石川が必死に追いすがる。 
 だが、距離は開いていくばかりだ。 
 「石川さ〜ん、またねー」 
 さゆみは笑顔のまま大きく手を振っている。 
 絶妙のタイミングで石川が転んだ。 
 そして、わんわん泣き出してしまう。 
 「梨華ちゃん……」 
 「よっすぃ!!!」 
 小さくうずくまって泣く石川を、吉澤が後ろから抱きしめた。 
 にわかに拍手が起こった。  
- 273 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:23
 
-  梨沙子がきょろきょろしている。 
 「どしたの?」 
 こんこんが聞いた。 
 ぐっばいボーイ、ののが悲しそうな目をしてむくれている。 
 茉麻があやすようにしてののを持ち上げた。 
 「たかいたか〜い」 
 「うっせ、バカてめー、やめろ」 
 舞波は退屈してしまって、ずっと本を読んでいる。 
 桃子は、ねーねー、と後藤に張りついている。 
  
 「梨沙子ちゃん?」 
 こんこんがもう一度聞いた。 
 「あ、かおたんは?」 
 「そういえばいないねぇ」 
 梨沙子とこんこん、二人できょろきょろした。 
 どしたー? 後藤が桃子の頭を押さえつけている。 
 「かおたんがいないの」 
 不安に顔をゆがめた梨沙子が言った。 
 ふーん、とうなずきながら後藤が周囲を見まわす。 
 「またどっかふらふらしてんじゃないの?」 
  
 冷たい風が吹いて、梨沙子の髪を巻きあげた。 
  
  
   
- 274 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/16(火) 22:24
 
-  >>254 呼んだ? 
 
- 275 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:07
 
-   
  
 スケッチブック  
- 276 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:07
 
-   
 ののが狂ったようにボールに飛びついている。 
 呼吸は荒く、苦しそうに顔をゆがめて次のボールを要求した。 
 目を赤く腫らしたこんこんのボールは際どいところに飛んだ。 
 ののはぐっと踏みこみ、体を大きく伸ばして捕球し、ごろごろと勢いのまま転がる。 
 もう一時間も続けている。 
 時折、涙を滲ませて。 
  
 桃子が思い出したようにさめざめと泣きはじめた。 
 それに釣られるように、友理奈が頭をたれて肩を震わせた。 
 舞波は無表情で下を向いている。 
  
 農作業を終えてきた後藤が放心したように座り込んだ。  
- 277 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:07
 
-  千奈美はぐっと耐えるように目をくもらせ、鼻をすすった。 
 なにか食べなきゃ、目をうるませた茉麻が簡単なものを作って食卓にならべた。 
 しょんぼり眉毛をさげた佐紀が、手伝おうと立ち上がる。 
  
 れいなは縁側で小さくまるまって、外界との接触を拒んでいる。 
  
 少しやつれた雅が心配そうな顔で梨沙子を見て、茉麻と佐紀に続いた。 
 梨沙子は庭の隅にできた小高い石山の上で、山を眺めている。 
 山は何ごともなかったかのように、太陽の光を浴びて複雑に緑を輝かせている。 
   
- 278 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:07
 
-   
 三日前、あややが村に来たその日。 
 圭織が食卓にいないのはよくあることで、それほど不思議なことではなかった。 
 桃子がつんくに認められたと、みんなはしゃいでいた。 
 「もぅやぁだー、やめてよ〜」 
 半分からかわれていたのだが、桃子も上機嫌で笑顔がたえなかった。 
 そんな、いつもよりもちょっとテンションの高い、いつも通りの食卓。 
  
 「かおりんが!」 
 縁側からそんな声が聞こえてきて、みんなのんびりと振り向いた。 
 そして、凍りついた。 
 汗まみれのあいぼんが、潰されるように圭織を担いでいた。 
 圭織は眠っているのか、力なく腕や足がたれていた。 
 どんなに呼びかけても、目を覚まさなかった。  
- 279 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:08
 
-  すぐに町医者の是永先生に来てもらった。 
 あいぼんの説明では、山の中で倒れていたのだそうだ。 
 満足そうなうすら笑いをうかべて、きれいに形になっている蝉のぬけがらをいくつも服につけて。 
  
 渾身の力で圭織の胸を押していた是永先生が、暗い面持ちで首をふった。 
 「お気の毒ですが……」 
 後藤は、信じられないといったように口を開けて、感情を出すことなく圭織を見ていた。 
 すすり泣きがどこからともなく聞こえてきた。 
 ののが引き攣るようにして泣き始めた。 
 こんこんが拗ねた顔をして、ぽろぽろと涙をこぼし、ののにくっついた。  
- 280 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:08
 
-  一人だけが事実を追いきれていない梨沙子が、戸惑ったように圭織と周りの反応を見比べていた。 
 「……え? なに、なんなの? え? えーっと…えと……」 
 そして、どうしても認めたくなかった結論に辿りついた。 
 すぅっとしぼむように表情が消え失せて、庭に出て行った。 
  
 沈痛な面持ちで後藤は是永先生を見送り、再び部屋に戻ってきた。 
 すすり泣く声がわあっと大きくなり、それは皆が泣きつかれて眠るまで続いた。 
 そのまんなかにいた圭織の顔は静かで、とてもとても穏やかなものだった。 
 是永先生ってだれ? と誰かが思った。 
   
- 281 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:08
 
-   
 庭でののが大の字になって空を見ている。 
 後藤がのろのろと縁側に出て、れいなを膝にのせた。 
 人間の気配に、ののや梨沙子のまわりに集まっていた小鳥が一斉に羽ばたいた。 
 鈍色の雲が、晴天を覆いはじめる。 
 風に雲が流れて翳りが重なってはほどけ、ゆっくりと移動していく。 
 後藤は、光を意識してまぶしそうに目を細めた。 
 「つーか、木から落ちて死ぬとかありえなくねー?」 
 吐息に混ぜるようにして、表情をゆるめた。 
  
 「せみの抜け殻とってて、落ちたんだよね……」 
 友理奈が弱々しく笑った。 
 「おもしろいよね」と桃子。 
 「笑えねーって」 
 ののは、空を眺めつづけている。 
  
 泣くな猫、後藤がれいなの頭をくしゃくしゃと撫でた。 
 「……だ、だって、後藤さん…ひっ、お空になってしもうたと」 
 「なってないよ。ていうか、ここにいるし」 
 そういうことじゃなくて、とれいなは首をふるが、言葉にならない。 
 おもむろに舞波が立ち上がり、食卓についた。 
 茉麻が、梅干しを齧っていた。 
 「まあさん、なんで食べてるのよー」 
 悲しげではあったが、千奈美が明るく言った。 
 「お腹すいちゃったから」 
 みんなを和ませようと思って、とは言わない。 
 すっぱそうに顔をしかめた茉麻は、箸を置いた。  
- 282 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:08
 
-  「食べようか」 
 後藤が立ち上がった。 
 そして、茉麻と佐紀と雅に、ありがとうと言った。 
 雅がれいなに肉缶を差し出す。 
 「ほら、もも。ちーも」 
 後藤の声は静かだった。 
 その分だけ、優しく力強く響いた。 
 庭に出た友理奈が、ののに手を貸している。 
  
 梨沙子は動かない。 
 あの日以来ずっと、何かを探すように山を眺めている。 
 ジッと空気を震わせた蝉が、羽根を広げて飛んでいった。 
 陽に焼かれて水分をうしなった肌に、しめった風がうすく吹きつけた。  
- 283 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:09
 
-  雅は困ったように目を伏せている。 
 それを見た佐紀が庭に出ようとしたとき、離れからこんこんが出てきた。 
 スケッチブックを持って、バランスを取りながら石山を登るが、どうしても崩れてしまう。 
 「梨沙子ちゃん、よく登れたねぇ」 
 山の途中から手を伸ばし、スケッチブックをひらいた。 
 梨沙子はなんの反応も示さない。 
 「かおたんの机の一番上にあったんだけどさ」 
 何も映さない梨沙子の横顔が小さく動いた。 
 そして、薄寒さを感じさせる透明な瞳が微細にうごき、わずかながら表情に恥じらいの色が差した。 
  
 「梨沙子、早くおいでよ」 
 雅が声をかけた。 
 梨沙子は首を振りかけ、ふと止まり、それからゆっくりと立ち上がった。 
 が、座りつづけていたせいで筋がかたくこわばっていて、そのままゴロゴロと転げ落ちた。 
 「梨沙子ちゃん!」 
 一番近くにいたこんこんが、スケッチブックを放りだして梨沙子に駆け寄った。 
 庭の中ほどまで落ちた梨沙子はうつ伏せの格好で停止した。 
 それに続くようにして、スケッチブックがすべり落ちてきた。 
 みんなの脳裏に、石山からの転落死、という最悪の予感がよぎった。  
- 284 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:09
 
-  硬直したように動けない食卓の一団。 
 余裕のない顔をしたこんこんが、梨沙子の名を呼び続ける。 
 梨沙子が顔をあげ、にぃっと照れくさそうに微笑んだ。 
 「も〜ぅ!」 
 それぞれに安堵を口にしたが、ぶりっぶりな桃子の声が一番大きかった。 
  
 こんこんが放りだしたスケッチブックはパラパラと風にめくれ、先ほどのページにもどった。 
 いつだったか、圭織が描いていた畑仕事をする梨沙子だった。 
  
  
   
- 285 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:09
 
-   
   
- 286 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:09
 
-   
   
- 287 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/17(水) 23:10
 
-   
  
  
                                 蝉のぬけがら おしまい 
   
- 288 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/19(金) 09:45
 
-  終わっちゃったのかあ。 
  
 独特の世界観とくせのあるキャラたちが大好きでした。 
 とても楽しい時間をありがとう。またどこかで出会えることを期待してます。  
- 289 名前:名無し読者。 投稿日:2005/08/21(日) 01:20
 
-  はぁ〜。乙でした。 
 楽しませてもらいました。  
- 290 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/29(月) 19:07
 
-  楽しかったです 
 ありがとう  
- 291 名前:ピアス 投稿日:2005/09/11(日) 16:44
 
-  読んでいる時間が幸福でした。 
 今年の「夏が終わったなぁ」という実感はこの小説になりました。 
 感謝の気持ちでいっぱいです。  
- 292 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/14(水) 03:34
 
-  今日見つけて、一気に読み終えてしまいました。 
 この世界に息づく娘。たちがとても楽しそうで、にんまりしてしまいました。  
- 293 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/22(火) 22:15
 
-   
  
  
  
  
  
    
- 294 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/22(火) 22:15
 
-   
  
  
  雪だるまがとけるまで 
  
  
  
   
- 295 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/22(火) 22:16
 
-   
  
 紅葉もほぼ終わり、枯色の葉が木々に揺らめく山もよう。 
 色の抜けきった落ち葉が朝露に濡れてしっとりと地面に積もっている。 
 ぐんと冷え込んだ朝、陽はまだ射さない。 
 寒々とした靄が、すーっと風に流され白い濃淡を微細に変えていく。 
 薄暗闇に黒く濡れた石山は、まだあの夏のまま。 
  
 縁側の木戸がするする音を立てて開き、さむいってぇ! という後藤のだるそうな叫びが庭に漏れ出た。 
  
 ぴりぴりと頬を突き刺す冷気に、桃子は眠そうな目を細めた。 
 ひとつ身震いして、くぁっ〜とあくびした。 
 「もも、早く閉めてって」 
 どてらを着て、こたつに顔をべったりつけた後藤が、 
 為す術もなく腰のあたりに流れてくる冬の予感に耐えている。  
- 296 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/22(火) 22:16
 
-  「ごっちん、また朝帰りなの?」 
 ほとんど眠ったような顔をした佐紀が、足をすって居間に入ってくる。 
 収穫が終わるとほとんど何もすることがない後藤は、ほとんど毎晩遊び歩いている。 
 「昨日はいしよしさんのとこで鍋してただけだから」 
 「朝まで?」と桃子が聞く。 
 「ちがう。三時くらいまで。なんか寝ちゃいそうだったから、帰ってきた」 
 誰が一番最初に寝たの? と佐紀がどうでもいいことを知りたがる。 
 「梨華ちゃん。なんか妙にテンション高かったからね」 
 後藤はそう言ってのそのそと起き上がり、早く着替えちゃいなさい、と台所に消えた。 
 冬はだいたい毎日、きちんと食事を作ってあげるようにしている。  
- 297 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/22(火) 22:17
 
-   
 「ああ、今日もいい匂いがするー」 
 桃子と佐紀が食卓で朝食を食べていると、寝起きとは思えない爽やかな顔で友理奈が起きてきた。 
 寒くなってくると、どうしても早起きしてしまうらしい。 
 「ゆり、今日はなんにする?」 
 「んーとね、目玉焼き! 納豆のせてね」 
 「あいよー」 
 後藤に今朝のリクエストをした友理奈は、口いっぱいにごはんを頬張る桃子の隣に座る。 
 「おはよう」 
 トーストを齧る佐紀が、おはよう、と返した。 
 少し遅れて、ごはんを飲み込んだ桃子も。おはよう。 
  
 桃子と佐紀を送り出した後藤と友理奈。 
 「ねえ、ごっちん」 
 「ん?」 
 「眠い?」 
 「うーん…まあ、ねぇ……眠いよ」 
 「だよね、みんな起こしてくる!」 
 どことなく嬉しそうな友理奈の背中を見て、後藤は首を傾げる。 
 そして、呟いた。 
 「まあ、あれだね。複雑な時期だからね……」  
- 298 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/22(火) 22:17
 
-   
 ◇ 
  
 「さむいさむいさむーい!」 
 シャワーを浴び終えた雅の濡れた髪から飛沫がとびちる。 
 自分で自分を抱きしめて飛び跳ね、体をあたためようとしている。 
 ここまできたら根性だな、千奈美は食卓から感心したように雅を見ている。 
  
 舞波が眠そうに千奈美の隣で食卓につっぷしている。 
 昨夜も遅くまで本を読んでいたのだ。 
 後藤が帰ってくるのと、舞波が眠りについたのはほぼ同時だった。 
  
 居間では、友理奈がこたつかられいなを引っ張り出して遊んでいる。 
 「ばかばかばかばかばかあ!」 
 れいなはめちゃくちゃに手足をばたつかせて抵抗する。 
 「バカって言うほうがバカなんですー」 
 友理奈は顔をくしゃくしゃにさせて笑っている。 
 そして、さゆみんだ! とテレビを指差した。 
  
 田舎町ではただの牛でも、都会に出ればお茶の間の人気者。 
 今日もご機嫌にもぉ〜と鳴いて、朝の暗い気分の人たちに天気と元気を伝えてる。  
- 299 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/22(火) 22:17
 
-  「あれ、まあまあは?」 
 ココアを全員分入れた後藤が、食卓に座った。 
 「また梨沙子が絡みついて取れないみたい」 
 居間から友理奈が言った。 
  
 寒がりな梨沙子は、誰かにくっついて寝ようとする。 
 そっちのほうが暖かいからだ。 
 そして、茉麻の体温が一番高くて、体が大きいから安心して眠れるのだ。 
 だから茉麻は最近、雅よりも登校が遅い。 
  
 「りーちゃん昨日も遅かった?」 
 ココアを手にした千奈美が聞いた。 
 すると、舞波はぼんやりと顔を千奈美に向けた。 
 「うん、けっこう遅くまで離れにいたよ」 
 「そうなんだ」 
 千奈美はぼんやりとカップに口をつけた。 
 「のにゅ!」 
 舞波を意識していたから、熱いココアを飲もうとしていることを忘れていたのだ。  
- 300 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/22(火) 22:18
 
-  のにゅ? なにそれ、って感じで雅が首をかしげた。 
 「おはよー」 
 髪をもっさもささせた梨沙子が入ってきた。 
 「ままが寝ながら屁ぇこいた」 
 そう言って、後藤の膝の上に座った。 
 「ここで寝ないでよ」 
 後藤が言い終わる前に、梨沙子は夢の世界に吸い込まれてしまった。 
  
 でも後藤は容赦なく起こす。 
 サラダのレタスをパジャマの中に入れて。 
 びっくりした梨沙子が目を覚ます。 
 「ののとこんこん起こしてきてよ」 
 けれど梨沙子はパニックに陥ってそれどころではない。 
 ぎゃーぎゃーわめきながら床の上を転げ回る。  
- 301 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/22(火) 22:18
 
-   
 ◇ 
  
 「じゃあ、行ってくるねー」 
 ランドセルの友理奈を先頭に、準備を終えた地元の中学組が家を出た。 
 ドライヤーを覚えた雅も、もちろん一緒に。 
 梨沙子はまだ転げ続けている。 
 息が切れて苦しそうにしている。 
  
 「言っとくけど、かまってやんないからね」 
 後藤の厳しい愛のムチ。 
 梨沙子はすごすごと起き上がると、腹立ちまぎれにれいなをコタツから引きずり出した。 
 れいなが怒鳴る。 
 「なにするとー?」 
 「だまれ猫」 
 すさまじいれいなの勢いは、梨沙子の言葉に沈黙した。 
  
 カイロがわりにれいなを抱えた梨沙子が、庭を横切り離れの戸を開ける。 
 「起きろぉ!」 
 だが、ののもこんこんも起きていた。 
 「起きてるから」 
 「梨沙子ちゃんも一緒にやろう?」 
 ウィニングイレブンをしていた。 
 これからの時期は寒いし、地面も濡れたまま乾かないので、インドア。  
- 302 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/22(火) 22:18
 
-  「やるー」 
 梨沙子がののの隣に座った。 
 そして、再びパニック、ゴキブリがいたのだ。 
 「あ゙あ゙あ゙ああああ!」 
 だが梨沙子が叫ぶ前にゴキブリは潰れていた。 
 無意識にゴキブリを潰してから、梨沙子は叫びだしたのだ。 
  
 「ばっか梨沙子おめー、麻琴殺すなよ」 
 ののが梨沙子が手にしたスケッチブックを払い落とした。 
 でも視線は画面から外さない。 
 「なに、のんちゃん、ゴキブリ飼ってたの?」 
 潰れたゴキブリを見て平静を取り戻した梨沙子が聞いた。 
 「べつに飼ってはないけどさ、でも麻琴は殺しちゃだめなんだよ」 
 「変なの」 
 「変じゃないよ、普通だよ」 
  
 「ていうかそれ、かおりんの遺作!」 
 こんこんが大きく口を開けて放り出されたスケッチブックを指差した。 
 いつだったか、圭織が描いていた畑仕事をする梨沙子の絵だ。 
 ゴキブリの汁がついてしまっている。  
- 303 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/22(火) 22:19
 
-  あ、といった顔をした梨沙子。 
 でも、まあいいや、と曖昧に笑った。 
 「やったー。のんの勝ちー」 
 こんこんがゲームから注意を逸らした隙に、ののがVゴールを決めた。 
 「のんちゃんずるいー」 
 「なんでさ、集中を切らすこんこんが悪いんだべさ」 
 「でも、ずるい」 
 続けてゲームしようとするこんこんを、梨沙子が押しのける。 
 「次はうちの番だもん」 
  
 「のんちゃん、れいなと代わってよ。れいなが梨沙子ちゃんとする」 
 「黙れ肉球」 
 「もういいよ、れいな。朝ごはん食べに行こう?」 
 こんこんがれいなを抱えて出て行った。 
 「のんちゃんどこにするの?」 
 「ああ、梨沙子が相手だからなー。アゼルバイジャンでいいや」 
 「そんならうち、ブラジル使うよ? いいの?」 
 「いいよ」 
 「ぼろ負けして泣いたって知らないかんね」 
 「のんに勝ったことねーくせに、偉そうなこと言うな」 
  
 ゴキブリの汁のついてしまったスケッチブックは放り置かれたまま。 
  
  
   
- 304 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/22(火) 22:23
 
-   
 >>288 また会えたね! 
 >>289 おう! 
 >>290 どういたしまして。 
 >>291 冬もあるのです。 
 >>292 自演。  
- 305 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/23(水) 01:49
 
-  また会えた! 
 まさか続きが来るとは思ってなかったので、すごく嬉しいです。 
  
 あいかわらずのみんなでよかった。  
- 306 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/01(木) 21:57
 
-   
  
  
 Bar圭  
- 307 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/01(木) 21:57
 
-   
 この村唯一の24時間営業店。 
 店主のケメ子は眠らない。 
 だからか、なんとなく昔から村の子どもたちに敬遠されてきた店。 
 ほとんど黒に近い深い茶色のオークの床材が保田の自慢だ。 
  
 八席ほどの店の奥、一段高いところにあるピアノに、一筋の光が当たっている。 
 酔いどれたなっちがポロンポロン鍵盤を叩いている。 
  
  ♪ 恋を決めたのも キスしたのも 
  
  ♪ ぜんぶ許すのも 自分で決めた 
   
- 308 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/01(木) 21:57
 
-   
 「あー、なんか面倒になっちゃった。飛ばそう」 
 歌の途中で、なっちはペットボトルに入った乳白色の酒を飲んだ。 
 「いいから続けなよ」と保田。 
 「いい加減、歌と合ってないピアノやめーい!」と稲葉。 
 「うるさいよー」 
 さっさと続ければいいのに、なっちは唇を尖らせて二人を睨んだ。 
 そして口の中で呟く。 
 「地下鉄は複雑すぎるわ、迷ったり乗り継ぎでミスしたり、それでもいつかはたどり着けるわ」 
  
  ♪ そう 青春も 同じ たどり着く 
  
  ♪ ああ 小さいころに 
  
  ♪ ああ あなたに さようならって言えるのは 今日だけ 
   
- 309 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/01(木) 21:58
 
-   
 「こんちはー」 
 圭織と手をつないだ梨沙子が、階段をあがってきた。 
 そして、熱唱するなっちの背中を見つけ、困ったように圭織を見あげた。 
 優しく微笑んだ圭織は、そっと梨沙子の背中を押し、ピアノとは逆方向に向かった。 
  
  ♪ わたしには鏡に映った あなたの姿を見つけられずに 
  
  ♪ わたしの目の前にあった 幸せに縋りついてしまった 
  
 「こっからは微妙に見えないんだけどさ、なっち、なんか泣いてない?」 
 眉をひそめた圭織がカウンター越しの稲葉に言った。 
 それを聞いていた保田が、首を伸ばしてなっちを見る。 
 そして、顔をしかめるようにして笑い、本当だ、泣いてる、と言った。 
 「なんで?」 
 梨沙子が聞いた。 
 「なんでだろうね。なっちみたいにバカで幸福な人生を送っていても、いろいろあるのよ」 
 そう言って圭織がよくわからないといった風な梨沙子の髪を撫でた。  
- 310 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/01(木) 21:58
 
-   
 「圭織、なんにする?」 
 なっちの歌を邪魔しないような声で、保田が聞いた。 
 「ホットワイン」 
 「外、寒かった?」 
 「すっごい寒い」 
 そう言って、圭織は思い出したようにラクダ色のマフラーを外した。 
  
 やっぱりここ暗い、と梨沙子がおもむろに遮光カーテンを開けた。 
 暗くない程度にまで落とされた店内に、薄黄色の午前の光がななめに射した。 
 窓の向こうには、すっとぼけた空が広がっている。 
 「こら梨沙子ちゃん、カーテンあけないの」 
 圭織がやんわりと叱るが、梨沙子はえへへと笑うだけだ。  
- 311 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/01(木) 21:58
 
-   
  ♪ わたしの誕生日に 22本の蝋燭を立て 
  
  ♪ ひとつひとつが みんな君の 人生だねって言って 
  
  ♪ 17本目からは 一緒に 火をつけたのが 
  
 止まないなっちの熱唱を尻目に、稲葉が聞く。 
 「梨沙子ちゃんは今日もあれやろ?」 
 「うん。チーズケーキとキャラメルラテ」 
 「チョコのあれもあるで?」 
 「どっちも!」 
 会話は成立しているが、稲葉の言葉には「あれ」が多い。 
 おばさんの兆候だ。 
  
 「かおと梨沙子だー」 
 メロンパン持った後藤が、吉澤と階段をあがってきた。 
 あっちゅん今日のスープなに? と聞いて飯田の隣に座った。 
 「今日はミネストローネ」 
 「えー? コーンスープにしてよ」 
 「そんなん無理やって」 
 「作って」 
 「なんでよ」 
 「今日さ、あんま寝てないから、そっち系のが食べたいんです、お願いしますよー」 
 後藤の柔らかな頑なさに、稲葉が肩を落として厨房に消えた。  
- 312 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/01(木) 21:59
 
-   
 最近ごっちんよくこっちに来るね、ホットワインを飯田に渡した保田が言った。 
 ちょっと高い声で後藤が返す。 
 「そだね」 
 「吉澤が来るのは久しぶりだけどね」 
 保田が意味ありげに吉澤を睨む。 
 「だって、そんな圭ちゃんに会いたくないでしょ」 
 「でも、ごっちんは最近よく来てくれるよ?」 
 「裕ちゃん、あんま女語りやってくんないんだもーん」 
 そう後藤がメロンパンの甘い部分だけをちぎっては食べている。 
  
  ♪ ひとつだけ こんなわたしの わがまま聞いてくれるなら 
  
  ♪ あなたは あなたのままで 変わらずにいてください そのままで 
  
 「ネタ尽きたのかなぁ」 
 残念そうに後藤がメロンパンを剥ぎ続けている。 
 「それはある」 
 圭織が頷いた。 
 「わたし、二十一章くらいが一番好きだったなー」 
 「それくらいが一番おもしろいよね、スナックで人生の何たるかを知った気になった、とか」 
 「そう! でも、三十章すぎてからは男ほしいとか抱きしめられたいとか愚痴っぽいもんね」 
 思い出し笑いしながら後藤が呟いた。 
 「そういえばさ、裕ちゃん、二十五章くらいで一日ビール三本とか言ってたでしょ?」 
 「言ってたねぇ」 
 「でもさ、あれ、裕ちゃんが覚えてないだけでさ、それ飲み終わってからまた買いに行ってたのよ」 
 「なにそれ」 
 「疲れてるからすぐ潰れちゃって記憶ないからさ、本人は気付いてないんだけどね、 
  ふらふらして新しいビール買いに行くのよ、知るかバーカとかって舌打ちしながら」 
 圭織が笑い、後藤もそれに続く。 
 梨沙子は微妙に話に加われなくて、出たり引っ込んだりしている。 
   
- 313 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/01(木) 21:59
 
-   
 その横で、吉澤が保田に説教されている。 
 「ちょっと石川どうなってんのよ? あの子こそ、全然顔みせないんだから!」 
 「あれじゃね? 圭ちゃんきっと嫌われたんだよ」 
  
 「なぁ〜んで圭織がいんのぉ!?」 
 いつの間にか歌い終えていたなっちが尻餅ついていた。 
 えー!? さきぃ!?  
 そんな勢いだ。 
 みな無言。 
 お約束。 
  
 「ねえねえかおりん、足出してよ」 
 なっちなど完全無視の梨沙子が、圭織の肩を揺さぶる。 
 え〜? これ疲れんのよね、そんなこと言いながら飯田が足を出す。 
 「行くよ、梨沙子ちゃん。よーく見ててね。……えい!」 
 ゆらゆらと薄く揺らめいていた足が、にょきにょきと伸びていく。 
 「きもー!」 
 のけぞった梨沙子が大笑いする。 
 後藤が、何回見ても慣れないわ、みたいな顔をしている。 
 たしかに、飯田の足の具現は見ていて気持ちのいいものではない。  
- 314 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/01(木) 21:59
 
-   
 保田に出された、よくわからない臓物の味噌煮を食べる吉澤が聞く。 
 「前から思ってたんだけどさ、死んでるくせによく現世で生きてられるね」 
 そういうのって疲れない? そんなニュアンスだ。 
 「生きてた頃より楽よ。肉体がないから身軽だし」 
 「それがおかしい」そう保田。 
 「おかしくないよ、だってこうして普通にしてるんだし」 
 失礼なこと言わないでよ、と飯田がむくれる。 
 梨沙子が、なんだっていいんだけどさー、といった顔をしている。 
  
 誰にも気付かれないよう、そっと、なっちが立ち上がった。 
 稲葉がコーンスープを持ってくる。 
 あ、梨華ちゃん? なんかてきとーに情熱の海岸線の持ってきてよ、吉澤がテレパシーを使っている。 
 とろんとした後藤がパッと目を開けた。 
 「そうだ梨沙子」 
 「なに?」 
 梨沙子が嬉しそうにテーブルに身を乗り出して、後藤を見る。 
 「あとで学校行ってみんな連れてきてよ。今日はここでごはん」 
 あ、小春ちゃんも連れてきてよ、と吉澤がだらしなく顔をゆるめて言った。 
 圭織がホットワインに口をつけて、ほうっと息を吐いた。 
 和んだせいか、足がしゅるしゅると縮んだように溶けて、曖昧に揺らいでいる。 
  
   
- 315 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/01(木) 22:03
 
-  >>305 ちょっぴり背伸びしてみたい 
 
- 316 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/01(木) 22:42
 
-  かおたあああん 
 
- 317 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/02(金) 02:21
 
-  大人たちがわいわいやってる中に一人混じってる子供、という図がなんかいい。 
 
- 318 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/02(金) 19:12
 
-  そう来るかw 
 
- 319 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/06(火) 22:18
 
-   
  
  
 初冬のまんなか  
- 320 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/06(火) 22:18
 
-   
 教室にはたわんだ空気が流れている。 
 小春が黒板の前に立ったその瞬間、クラス中がリラックスした。 
 そんなことに関係なく、舞波は本を読み続けている。 
  
 アヤカは本気で後悔している。 
 小春を指名する=授業時間が十分潰れる、ということなのだ。 
 お願いだからちょっとでも考えて小春ちゃん! 
 そんな願いも虚しく、小春はにへらにへらとアヤカに笑顔を投げている。 
 せめて黒板を向いてほしい、アヤカはそう切に思う。 
 「小春ちゃん、Let's Try!」 
 「わかってますよぉ〜」 
 口ではそう言うが、小春は相変わらずアヤカに笑顔を向けている。 
  
 今日は朝からクラスの全員が揃って、そして圭ちゃんの誕生日でパーティもあるし、 
 とってもいい日だったのにアヤカは小春を指してしまった。 
 こうなることはわかりきっているのに、どうしてもアヤカは小春を指してしまう。 
 小春の磁力の為す技だ。 
  
 そんな中、茉麻が、うっすら雪の積もったべちょべちょのグランドを眺めている。 
 鉛色の空から落ちる雪が、風に煽られあちこちに舞っている。 
 目をしぱしぱさせた茉麻が、大きくあくびをして涙をぬぐった。 
 グランドでは、寒そうに身を縮めた雅が、ぐるっとグランドの端を歩いている。 
 木や草の生えている端のほうが、歩きやすいし汚れない。  
- 321 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/06(火) 22:18
 
-   
 ◇ 
  
 後藤が諦めに似た面持ちで、食卓に頬をべったりくっつけている。 
 火にかけた鍋のふたがカタリカタリと揺れ、隙間からうすく湯気がもれている。 
 「あのさ、れいな……」 
 「いやだ!」 
 取りつく島もないといった様子のれいな。 
 食卓の隅でちぢこまり、完全にへそを曲げてしまっている。 
  
 「おもーい」 
 廊下で、珍しく腰の落ちた友理奈が悲鳴をあげた。 
 額にはうっすら汗が浮いている。 
 「ちょっと一回おろそう」 
 友理奈と一緒に石油ストーブを抱えていたののがゆっくりと片方をおろした。 
 「ああ、腰痛い」 
 ふぅっと息を吐いた友理奈がのけぞり、背中のあたりを叩いている。 
 ののが、後ろを漂っていた圭織に食らいつく。 
 「かおりんも手伝えよ」 
 「無理よ、だって圭織おばけだもん」 
 つんとむくれる圭織。  
- 322 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/06(火) 22:18
 
-  いい加減あやまったほうがいいよ、こんこんがののに言う。 
 すると、ののは泣き出しそうな悲しそうな顔をする。 
  
 昨日の夜、ののはものすごく自然な流れで圭織をおばけと言ってしまったのだ。 
 のんちゃんはそういう風に思ってたんだ、実際におばけだからこそ、圭織は傷ついた。 
 ノリ的にそんな雰囲気だったから、そっちのほうに感情が流れていったせいもある。 
 ののはそういった圭織の気持ちはわかるが、おばけにおばけと言って何が悪いという思いがある。 
 そして、めんどくせー奴だな、かおりんは、というのがののの本音だ。 
  
 しょうがないな、と首をふったこんこんが、ののと交代する。 
 「友理奈ちゃん、もういける?」 
 「うん、もうちょっとだしね」 
 居間までは本当にもう少し。 
 「さ、友理奈ちゃん頑張ってね」 
 そう圭織が声をかける。ついでにのんちゃんも、と。 
 「うるせーな、やるよ」 
 喜びを隠せない嘆き声で、ののが友理奈の持つ側に手をかけた。 
 どうせならこっちのほうやってくれればいいのに、こんこんが残念そうな顔をする。 
  
 「ねえねえかおりん、本当にこれでお餅焼けんの?」 
 友理奈が圭織に聞く。 
 「うん。他にもスルメ炙ったり、お鍋もできるし」 
 とばとか干し芋もね、とこんこんが言った。 
 「この冬は電子レンジいらずだね!」と友理奈。 
 「それにしてもよく見つけてきたよね、こんな余計なもん」 
 よたよたと石油ストーブを運びながら、ののが努めて口を悪くする。  
- 323 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/06(火) 22:19
 
-  「ねえ、れいな」 
 口の端でむくれっぷりをアピールしたれいなは反応すらしない。 
  
  
  
 「……れいなってば」 
 「いやだったらいや! ふつうのでいい!!」 
 れいなが髭をビリビリさせている。 
 この冬こそ掘りごたつにしたいのに、と後藤は溜息を吐く。 
 今からでも遅いくらいだ。 
  
 後藤さんなんて掘りごたつに焼かれて死んじゃえばいいんだ、 
 れいなはそう言い捨て逃げるように食卓から降り、 
 石油ストーブを点火させようとする圭織の隣で顔を輝かせているののの背中に飛び乗った。 
 「ストーブじゃ体の片方しかあったまらないんだよぉ」 
 「知らーん!」 
 以前、れいなは掘りごたつの中から出ようと飛びあがったはずみに、背中をやけどしたことがある。 
 れいなにとって、掘りごたつとは背中を焼くものでしかない。 
   
- 324 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/06(火) 22:19
 
-   
 ◇ 
  
 「で、なんでしたっけ」 
 たっぷり時間を潰した小春が、ようやく問題の意図を知ろうとする。 
 だが、こんなことでアヤカはたじろいだりしない。 
 「だからね、これは『私』の文になってるでしょ? それを『彼』にするの」 
 「なんで?」真顔な小春の普通の質問。 
 「そういう問題だからよ」 
 「彼を指さしながら、私の文を読めばいいんじゃないんですか?」 
 どういうことか理解が追いつかずに、アヤカは立ち止まってしまう。 
  
 おはよーございまーす。 
 やっぱり今日も雅は前のドアから入ってくる。 
 「おはよう……ってあれ?」 
 雅の登校にアヤカは驚く。 
 だって雅ちゃんは朝からちゃんと学校に来てたじゃない。 
  
 教室がくすくすとひそめ笑いに満ちる。 
 「あ、みや〜。小春のかわりにやってよぉ」 
 そう小春に言われ、黒板を見た雅が急に子供のような幼い顔になる。 
 「こんなのわかるわけないじゃなぁい」 
 バカらしいとでも言いたげに、黒板を無視して自分の席に着こうとする。 
 そして、怪訝そうな顔をする。 
 「なんで梨沙子がここにいるのよ」 
 どっ、クラス中が大笑いする。 
 雅が入ってきた瞬間、慌てて机につっぷした梨沙子が恥ずかしそうに顔をあげた。  
- 325 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/06(火) 22:20
 
-  ひとりだけ驚いているアヤカ。 
 なんで? なんで? といった自問自答に自我が崩壊しかけている。 
  
 気付けよ、そう生徒全員は思っている。 
 しかしアヤカは天然さん。 
 私服の梨沙子にまったく気付かなかった。 
  
 「学校に行ったと思ってたら、こんなとこでなにやってんのよ」 
 あんたは小学校にでも行ってなさい、ってな感じの雅に言われ、梨沙子の強気が顔を出す。 
 「でもあたし、この問題わかるもん!」 
 つかつかと黒板に向かった梨沙子が、黄色のチョークを手にした。 
 小学生にわかるわけないだろう、そんな空気を梨沙子は瞬時に変えてしまった。 
  
 He doesn't take beautiful risako away. 
  
 なんでわかるの? といった尊敬を一身に受け、梨沙子は得意気。 
 「でもさー、なんでガールが梨沙子になってんのよー」 
 勘ちがい入ってるよね。教室の最後尾、椅子でシーソーしていた千奈美がつっこんだ。 
 「しかもなんか黄色いチョークで書いてるし」 
 雅が自分の席に座って言った。 
  
 「でも梨沙子、頭いいんだね」 
 茉麻はポツリと言ったのだが、思いのほかよく響いた。 
 「かおりんに教えてもらったの」 
 恥ずかしそうに左手で口元を覆う梨沙子。 
 それを見た千奈美は、かおりんの仕草に似てるな、かおりんは右手だけど、と思った。  
- 326 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/06(火) 22:20
 
-  英語ができた梨沙子は、ここは自由な場になったと判断して舞波に寄っていった。 
 「あー、舞波また古文書読んでる!」 
 「古文書じゃなくて古文」 
 なんで英語の時間に古文を読んでるんだよ、とは誰も思わない。 
 舞波だからだ。 
 アヤカもそのあたりは心得ている。 
 中途半端に自分の価値観で舞波に触れて、驚きの正論で食って返されるのが怖い。 
  
 「終わった終わったあ!」 
 解放感に満ち満ちた小春が、大きく伸びをしながら教壇を降りる。 
 あなたは答えてないじゃない、アヤカはそう引きとめようと思ったがやめた。 
 ここからまた十分も時間を取られるのもバカらしい。 
 そして、授業を再開させるべく機を窺う。 
  
 タイミング計ってないで早く授業始めたら? みたいな顔の千奈美がアヤカを見ている。 
 雅が大きなピンクの鏡を取り出して、髪についた雪がとけて玉になった水を払う。 
 舞波を半分押しのけた梨沙子が、こんなの読めない日本語じゃないの混じってるし、と笑った。 
 「いいから学校行きなよ、梨沙子」 
 「ここだって学校だもん」 
 「小学校」  
- 327 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/06(火) 22:20
 
-  「はーい、じゃあみんな、open your tex──」 
  
 「いいもん! ゆりの学校放送見に行くから!」 
 怒気は微塵も感じられない梨沙子だが、そう叫んで教室を出て行った。 
 そういやゆり、今日学校行かないって言ってたな、雅はそう思い出して腰を浮かせかけた。 
 が、すぐに座りなおした。 
 学校に行くって言ってる子を止めるのもおかしな話だな、と。 
  
 頬杖ついた茉麻が、雪に霞む鉛色の空と枯れた稜線の境界を眺めている。 
 木々が棘のようにささくれだった暗い色合いが、仄かに白く彩られていく。 
 風が弱まり、雪はひらひらと、深々と舞い落ちてくる。 
 まぶたが今にも落ちてしまいそうな茉麻が呟く。 
 「根雪になるのかな」 
  
   
- 328 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/06(火) 23:35
 
-  >>316 りぃさこおおお 
 >>317 ありとあらゆる全てに対応できる少女。その人は梨沙子。 
 >>318 みんなが同じ方向を向けば楽しみ方は一緒だね!  
- 329 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/07(水) 12:21
 
-  小春はだいぶん染まったなあ 
 
- 330 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 03:45
 
-  突然失礼します。いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント 
 「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、 
 案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。 
 お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。 
   
- 331 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2005/12/17(土) 02:24
 
-  アヤカ先生いいなぁ 
 授業が全然進まないだろうけど(w   
- 332 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/23(金) 01:06
 
-   
  
  
 前のめりのメリークリスマス  
- 333 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/23(金) 01:06
 
-   
  
 ののが笑い転げている。 
 掘りごたつ断固反対のれいながこたつを占拠したのだ。 
 ああ、掘りごたつだったら足が窮屈な思いをせずにすむのにな、 
 そうぼやく後藤に焦り、こたつにもぐりこんだまま出てこなかった。 
  
 あまりにも出てこないから心配した茉麻が引っぱりだすと、れいなは気絶していた。 
 拗ねたように唇を尖らせて。 
 「れいな、れいな!」 
 余裕のない顔をした茉麻が、れいなをぶら提げて庭に駆けていった。 
 ののが涙を流して笑い転げている。  
- 334 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/23(金) 01:06
 
-  そして舞波も、静々と笑っている。 
 圭織がこっそり隠し持っていた昔のビデオを見て、笑い続けている。 
 場末としか言いようのない居酒屋で、裕子が着物を着て演歌を歌ってる。 
 肘のテカテカしたジャケットを着た酔っ払いに褒められ、感極まって泣いている。 
 始めは興味を持って見ていた後藤は、飽きてイグアナをさわっている。 
 あちこち流れているみっちゃんに注文していたイグアナが、半年経ってやっと届いた。 
  
 「ちょっと梨沙子、ボーっとしないの」 
 とろけそうな顔をした桃子が、梨沙子に注意した。 
 桃子と一緒にクリスマスの飾り付けを作っている千奈美は、作業を続けている。 
 ひとつ間を作った梨沙子が、ぽつりとこぼす。 
 「もも、きもい」 
 聞こえているのに聞こえてない桃子は、イグアナを撫でながらテレビを見る後藤にねだる。 
 「ごっちーん、今日お鍋がいい」 
 わたしのポン酢つかう? 天井でふわふわしていた圭織が言ったが無視された。 
 圭織の作るポン酢はしょっぱいし、なんか変な味がするからだ。 
 「鍋かあ、いいねぇ」 
 乗り気には見えなかったが、後藤はのそのそとこたつから這い出て、電話をかけた。 
 「あ、梨華ちゃん? 鍋セット持ってきてよ」 
 ぱあっと顔を輝かせた桃子が、後藤の背中に「かんぱち!」と叫んだ。 
 「違う違う。パシリじゃなくて配達のお願いだよ」 
 よっちゃんじゃないと持っていってあげないの?  
 後藤は笑いながら言っているが、その言葉には抗えないような強制力がある。  
- 335 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/23(金) 01:06
 
-  ふと手を休めた千奈美が、舞波とテレビを交互に見る。 
 そして、色紙をよくわからない形に切っている梨沙子に聞いた。 
 「あれってそんなにおもしろい?」 
 瞬きもせず指先に集中していた梨沙子が顔をあげる。 
 テレビでは、演歌を歌う裕子、その後ろでノボリを抱える貴子が映っている。 
 「あ、中澤さん?」 
 「うん」 
 「おもしろいおもしろい」 
 「でも梨沙子笑ってないじゃん」 
 どこか投げやりな梨沙子に、千奈美はまだ笑っている舞波を見ながら言った。 
 ののの笑い声が響いている。 
 なんでだろう、梨沙子は口の中で呟き、舞波が代わりに笑ってるからかな、と再び紙を切りはじめた。 
  
 椅子に座るこんこんを中心に佐紀、雅、友理奈が石油ストーブの前に陣取っている。 
 「こんこん早くしてよー」 
 友理奈が半面焼けた餅に手を伸ばす。 
 真剣のあまり瞳孔が開きかけているこんこんが、その手を跳ね除ける。 
 そして、しばらく。 
 慎重に餅をひっくりかえした。 
 かすかに割れ目の入った香ばしい焼き色に、うっとりと頬をほころばせる。 
 いくつも並んだ美しい焦げを前にほころんでしまう頬を、手で押さえている。  
- 336 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/23(金) 01:07
 
-  「じゃあ、これは?」 
 雅が冷蔵庫にあった魚肉ソーセージをぶらぶらさせている。 
 「これって揚げるものなの?」 
 そう佐紀がソーセージを給油口に入れようとする。 
 ちがうから、雅がつっこむ。 
 二人は意味なく楽しそうだ。 
 遠目からは、友理奈も二人に混じって笑っているように見える。 
  
 「こんこん、お餅もいいんだけどさー、マシュマロは? 今日は焼かないの?」 
 そう友理奈が聞くが、こんこんはそれどころではない。 
 きなこにするか、海苔を巻くか、悩んでいる。 
 砂糖醤油もいいが、カロリーが高いので正月までおあずけ。 
 傍目には二択だが、きなこに砂糖を入れるかどうか迷っているから、三択だ。 
 「お餅はきなこと砂糖でしょ」 
 横から手を伸ばした佐紀がきなこに砂糖を入れ、さっと餅にまぶして雅を分けあった。 
 忍耐の結晶を掠め取っていった二人に唖然とし、自分の世界から帰ってきたこんこんは、 
 ののの異変に慌てて立ち上がる。 
  
 そんな様子をボーっと見ていた梨沙子が突如、かおりんにいちゃもんをつけはじめた。 
 「なんでかおりん抜けていかないのよ」 
 ん? と圭織が小首をかしげる。 
 「だからー、なんで落ちてかないのよ」 
 微妙に言葉を変えた梨沙子の意図に気付いた圭織が、知らないわよ、と首を振った。 
 「だって、落ちてかないんだもん」 
 「壁はすり抜けられるのに?」 
 「そう言われてもなぁ」 
 梨沙子は納得いかない顔をしている。 
 そうだ、と圭織はなにかを思いつく。 
 「そうだ梨沙子ちゃん、床は歩けても天井は歩けないでしょ?」 
 わけのわからない例えに、梨沙子の顔が困惑にゆがんだ。 
 そして、もういいや、といった感じで、またクリスマスの飾りを作りはじめる。 
   
- 337 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/23(金) 01:07
 
-   
 ゆっくり吸って吐いてね、とこんこんがののの口に袋を当てている。 
 過呼吸って怖いよね、したり顔で梨沙子が呟き、舞波がまた新たな笑いの淵を見つけ出す。 
 千奈美が、口のまわりがきなこで汚れた友理奈を見て笑っている。 
 サンタさん来ないかなー、桃子が後藤を見ながら言ったが、後藤はうたた寝をしている。 
 佐紀と雅は二人で、二人だけにしかわからぬ、わけのわからない世界にいる。 
 「あ、絵梨香が来た」 
 肉体を脱ぎ捨てセブンセンシズを身につけた圭織がすーっと壁を抜けていく。 
  
 今まさに敷居を跨ごうとしていた三好が、圭織の出迎えに笑顔で応える。 
 「ああ、飯田さん。こんにちは。ちょうどよかった、はい、お届け物」 
 道産子をやたらと誇る三好は、無駄に薄着だ。 
 ちょうどよかったじゃなくて感覚がすごいのに、と残念そうな圭織は、 
 それでも浮かれきった笑顔で差し出された包みを覗きこんだ。 
 中には、キムチやキムチの元、豚肉に豆もやしに大根にんじん…… 
 「なにこれ、鍋セットじゃない」と怪訝そうな圭織。 
 「そうですけど?」 
 三好は石川にパシられたのだ。 
 「そうじゃなくて、わたしが頼んだやつは?」 
 「ああ、肩の出たサンタの衣装ですか?」 
 「そう、ちゃんと人数分そろえてね、って言ったじゃない」 
 「すいません、ここんとこの雪で荷物が届かないんですよー」 
 それよりも、と三好が話題を変える。 
 「今日、絵里ちゃんの誕生日なんですよ。これからパーティーあるんで飯田さんも来ません?」 
 「誰よ、その絵里ちゃんって」 
 「え、誰って絵里ちゃんは絵里ちゃんじゃないですか。夏にこっちに来てそのまま住み着いた……」 
 「知らない。イヴイヴに誕生日なんて、どこまで前倒すつもりなのかしら」  
- 338 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/23(金) 01:08
 
-  圭織はぶつぶつと呟き、がっくり肩を落として玄関を抜けていく。 
 抱えていた鍋セットが戸に当たってカタリと落ちた。 
 いつになったらここの人達は絵里ちゃんの存在を認識するんだろう、 
 こっそり溜息ついて三好は落ちた鍋セットを拾い、戸を叩いた。 
  
 庭では、汗をかいた茉麻が気持ちよさそうに柔らかな雪の上に寝転がっている。 
 意識を取り戻したれいなが、ずぼずぼ足を雪に取られてわめいている。 
 あまりの雪のつめたさに、軽くパニックになっている。 
  
  
   
- 339 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/23(金) 01:11
 
-  >>329 遠い目をしてしまうよなあ 
 >>330 おまえきらい 
 >>331 みんなでアヤカ先生を困らせましょう  
- 340 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/24(土) 03:29
 
-  あいかわらずみんな好き勝手にやってますね 
 この雰囲気好きです  
- 341 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/09(月) 00:53
 
-  あけおめです。 
 今年もここの更新楽しみにしてます。  
- 342 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/13(金) 00:44
 
-   
  
  
 愛ちゃんの家出  
- 343 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/13(金) 00:44
 
-   
 「実際、冬ってすることないのよねぇ」 
 こたつにすっぽり埋まるようにして寝転んだ後藤がつぶやいた。 
 それがかたつむりみたいだと、出がけの千奈美が笑っている。 
  
 「寒いねー」 
 パジャマのままの友理奈が、後藤の隣に寝転んだ。 
 ちょっとテレビ見えなくなっちゃうじゃないのよぉ、と後藤が友理奈の肩に顎を乗せた。 
 「ごっちん、今日もだらだらだね」 
 「ダラダラでもないよぉ、今日はちゃんとなんかするし」 
 収穫を終えてしまうと、本当にすることがない。 
 農業だけで十分すぎるほどの貯えができてしまう後藤は、冬に働く必要がない。 
  
 「それより友理奈、学校は?」 
 「行かない」 
 「今日もかい」 
 「ダメ?」 
 「だめじゃないけどさー、うん……」 
 「だって、もう卒業は決まってるんだもん」 
 こたつでかたつむりをしている二人の会話に割りこむように、梨沙子とは違うもんね、と雅が言った。 
 そう、そうなのよ、咎められていたわけではないが、友理奈が雅の加勢にうれしそうになる。 
 そして、頭も首も手も毛糸でまるくなった梨沙子に、りーちゃん行ってらっしゃーい、と手を振った。  
- 344 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/13(金) 00:44
 
-  ぶーっとおもしろくなさそうにむくれた梨沙子が、雅に手を引かれて玄関に向かう。 
 「ほら梨沙子、行くよ!」 
 「みや、今日はシャワーなし?」 
 「なし」 
 「なんでよぉ」 
 「なんでも」 
 足は進んでいるが、なかなか体が進まない梨沙子を、茉麻が押した。 
 「ほら梨沙子、ちゃんと学校行かなきゃ進級できないんでしょ?」 
 ゆっくりとした口調の茉麻に背を押されながら、梨沙子がなにかを思いつく。 
 「あたし学校行かなくてもいいんだもん、農業やってるし、いちおー」 
 継がせるなんて誰も言ってないよ、後藤がこたつから口を挟んだ。 
 「あ、だったらほら、学校行けばいいんでしょ? 行けば。だったらお昼くらいから行く」 
 「今行かなきゃ、梨沙子ぜったいサボるでしょ?」 
 茉麻の背中を押す力はかなり強い。 
 梨沙子は必死に踏ん張っている。 
 じゃあもういいよ、と見捨てられない程度のねばり強さで。 
  
 「あー! さゆみん!!」 
 友理奈の大声が聞こえてきたが、誰も反応しなかった。 
 いつまで新鮮な気持ちでテレビのさゆみを見ていられるのだろう。 
 「新コーナーだよ、新コーナー!」 
 テレビを指さし、周囲を振り返る友理奈。 
 おおう、と後藤が顎から落ちた。 
 いつの間にかいた圭織が小さく吹きだした。  
- 345 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/13(金) 00:45
 
-  テレビの中では、くすんだ海と空、そして天気図をバックにさゆみが立っている。 
 「わたし、道重さゆみの髪飾り、テレビの前のみなさんにお貸ししちゃいま〜す」 
 体をかたむけたさゆみが、ぐっと頭をカメラに近づけて黄色い髪飾りを大写しにさせた。 
 そして、ちょっと待っててくださいね、と甘くはにかんでフレームアウト、 
 こぼれおちてしまいそうな笑顔でピンク色のケースを持ってきた。 
 「さゆみ持ってるのこれだけじゃないんですけど、こんなにあるんですよ」 
 得意気に髪飾りをがしゃがしゃさせて飛びはねている。 
  
 みっちー髪飾りいっぱい持ってるんだねー、と後藤が落ちた体勢のまま感心した。 
 さゆはちっちゃい子に貸すつもりなんだろうけどさ、応募するのっておっさんばっかなんだろうね、と圭織。 
 誰もこんなの応募しないんじゃん? とふらふらしたののが庭のほうから入ってきた。 
 冷めたお姉さん達の言葉に、応募しようと必死に宛て先を覚えていた友理奈の顔が曇った。 
  
 「あら、のんちゃん早起きね」 
 確信的にうすら笑いを浮かべた圭織が、ののの髪をなでた。 
 けれど、ののはその手を振り払わずに、力なく首をふった。 
 「寝てないだけ、愛ちゃんが止まらなくて」 
 「高橋まだいたの?」 
 「かおりんいなくなってからがすごくて」 
 「遠慮してたのかしらね、あの子」 
 「一晩中だよ……」 
 愛ちゃん来てるの? まぁー愛ちゃん好きー、茉麻が居間に戻ってきた。 
 晴れ晴れとした顔の梨沙子も一緒に戻ってくる。 
 「梨沙子は学校行きなさい」 
 後藤が梨沙子を見もしないで言った。  
- 346 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/13(金) 00:45
 
-  梨沙子、置いてくよー、玄関から雅と千奈美の声がする。 
 いいよー、そう梨沙子が返そうとした瞬間、行きなさい、と後藤がくりかえした。 
 目をしょぼしょぼさせた舞波が通り際、これが最後だと思うよ、と言った。 
 優しく諭すような調子だったが、梨沙子には厳しく響いた。 
 諦めたように学校に向かう梨沙子に、圭織が声をかけた。 
 「そういえば梨沙子ちゃん、鞄は?」 
 「いい」 
 わかりやすく唇をとがらせて、舞波のあとを追う。 
 梨沙子ちゃん学校でなにしてんだろ、圭織が呟いた。 
  
 気になるのか、半分寝かけたののが友理奈に聞いた。 
 「知ってる?」 
 「よくわかんないけど、図書室で勉強してるってのは聞いたことある」 
 こたつに座りなおした友理奈が言った。 
 圭織は頭を抱え、ののはくすくすと笑っている。 
   
- 347 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/13(金) 00:45
 
-  「ねえ、愛ちゃん離れにいるの?」 
 「行かないほうがいいって」 
 ののが離れに向かった茉麻を止めた。 
 「なんで?」 
 「すごいことになってる」 
 「なら余計行きたいじゃん」 
 そう言って茉麻が庭に出た。 
 昨夜振っていた雪はやんでいて、凛とした空気が低いところを這ってくる。 
 朝の薄い陽射しが真新しい雪に反射して、部屋を強く照らした。 
 さみぃよ、眩しそうに目を細めたののが、寝返りをうって外に背を向けた。 
 茉麻がふと立ち止まり、戻ってきて顔を家につっこんだ。 
 「ゆりも行こう?」 
 「うん、あとで行くー」 
 友理奈は後藤のいじる携帯を覗いている。 
 さむいって、ののがこたつに潜りこんだ。 
 そして、ん? とこたつの中をごそごそ漁り、気を失ったれいなを引っぱり出した。  
- 348 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/13(金) 00:46
 
-   
 茉麻は朝のまだかたい雪をザクザク踏みしめ、離れに向かう。 
 庭のまんなかでは、ぼろぼろになった門松が放り出されている。 
 ののと梨沙子の雪合戦のあとだ。 
  
 はやる気持ちをおさえて茉麻が離れの戸を開ける。 
 「おはよー」 
 「ありえへんって、ホントありえへんって!」 
 愛ちゃんの怒声が聞こえてきて、茉麻はギョッと目を見開いた。 
 「も〜ぅ、ほんとガキさんきらい」 
 羽をバサバサさせた愛ちゃんが熱弁を振るっている。 
 それを聞いてるはずのこんこんは、正座したままこっくりこっくり船を漕いでいる。  
- 349 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/13(金) 00:46
 
-  茉麻は、どうして? と好奇心で聞いてしまった。 
 どちらかというと、ガキさんのほうがおもしろいから好きだ。 
 だから、気になってしまったのだ。 
  
 「冬でも魚取らせようとすんの、ガキさん」 
 愛ちゃんが充血しきった目で茉麻を見つめる。 
 どう? ひどいでしょ? と言わんばかりに。 
 「でも、あのへんって冬になると凍っちゃうよね?」 
 「割って潜れって言うの!」 
 愛ちゃんの叫びに、こんこんがビクっとなって起きだした。 
 「だって、そういうお仕事なんでしょ?」 
 あくまでマイペースに茉麻が聞くと、愛ちゃんはしょんぼりと下を向いてポツリとこぼす。 
 「でも水つめたい」 
 「そっかあ、冬だもんね」 
 「やろぉ? 鳥って冬になったら南に行くものなのに、なのにガキさんったら……」 
 自分だけでも南に行くとは言わないんだな、と茉麻はほほえましく思った。  
- 350 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/13(金) 00:46
 
-  「冬なんだから、ワカサギ釣ったら?」 
 寝てなんかないよ、みたいに平然としているこんこんが言った。 
 でも愛ちゃんは下を向いたままブンブンと首を振る。 
 「愛ちゃんが言いづらいようなら、わたしから言ってあげようか?」 
 どこにワカサギあんのか知らん……、愛ちゃんの声は今にも消え入ってしまいそうだ。 
  
 困ったねぇ、そうこんこんが茉麻に視線を送る。 
 茉麻は、観客の音声だろうか、ざわめきだけが残る画面のターフを眺めている。 
 このまま愛ちゃんを無視してゲームを始めようか迷っている。 
 「あ〜、もういやー」 
 羽を広げた愛ちゃんが大の字に寝転んだ。 
 「もう諦めたら? マメだって愛ちゃんいじめようとやってるわけじゃないんだし」 
 昨夜から何度この台詞を口にしただろう、こんこんは再度説得を試みた。 
 「夏はそうじゃなくても、冬だといじめになる」 
 「そうだけどさー」 
 「だって、あぁしが魚取るってことは、魚が一匹食べられるってことやぞ?  
 麻琴だって冬くらいはゆっくりしたいやろ、家でぬくぬくしたいやろ」 
 愛ちゃんは怒りのせいかのか興奮のせいなのか早口になって、言葉使いもおかしくなってきている。 
 麻琴は関係ないと思うけどなー、愛ちゃんに聞こえないよう、こんこんが小さく言った。 
  
 「ねえ、あいぼんなら知ってるんじゃない? ワカサギあるとこ」 
 茉麻は二人のほうを見ず、背中を丸めてコントローラーを手に言った。 
 直接会ったのは二度三度だが、そんなの関係ないくらいにインパクトがあった。 
 それに、梨沙子がしょっちゅうあいぼんのことを話すから、自然となじんでしまった。  
- 351 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/13(金) 00:46
 
-  そっかー、愛ちゃんが鼻にかけた高い高い甘い声で鳴いた。 
 「あいぼんとこお世話になるわ。そしたら魚とらんでもすむし」 
 そう言って立ち上がり、ぶるるとたたんだ羽を振るわせた。 
 「ごはん食べてけば?」 
 「いや、あぁし鳥やし」 
 こんこんのごはんの誘いを断り、思い立ったが吉日とばかりに動きだそうとする愛ちゃん。 
 そして、ドア開けてよ、と潤んだ目でこんこんを見る。 
 鳥だから、ドアを開けられない。 
  
 あ、と思い出したこんこんがドアを開けようとすると、向こうから開いた。 
 のほほーんとした顔をした、パジャマにコートの友理奈が腰をかがめて入ってきた。 
 「愛ちゃん来てるんだってー?」 
 「もう過去形だがし」 
 至って普通の口調でよくわからないことを言って、愛ちゃんは夏より明るく澄んだ青空に飛び立っていった。 
 なんだあれ? ぽかんと半開きになった友理奈の口からは、多少わざとらしく舌が覗いている。 
 舌を覗かせるたび、女の子の脳には穴が開いてスポンジのようになっていく。 
  
 「ゆりもやるでしょ?」 
 「あ、うん、やるけど……」 
 歯切れの悪い友理奈の返答に茉麻が振り返ると、こんこんがぐったりと倒れていた。 
 「どしたの!?」 
 茉麻の声が大きくなる。 
 ああ、と友理奈がこんこんの体の下に手を挟むが、なかなか持ち上がらない。 
 「気絶するみたいに寝ちゃった」 
 「ごはんの話しといて寝ちゃうなんて、よっぽど眠かったんだね」 
 茉麻が逆側からこんこんを持ち上げ、二人でそっとキングサイズのベッドに寝かせた。 
 「眠いって言って、寝ちゃえばよかったのに」 
 ベッドに腰かけた友理奈が軽い調子で言ったが、茉麻は「そうだね」とは言えなかった。 
  
  
   
- 352 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/13(金) 00:47
 
-  >>340 びんびこ 
 >>341 おめおめ  
- 353 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/13(金) 02:25
 
-  鳥さんの再登場キター 
 相変わらずのテンションでひと安心です。  
- 354 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/27(月) 01:56
 
-   
  
  
 桃子のなみだ  
- 355 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/27(月) 01:57
 
-   
 ステージに立つ桃子は、笑顔が過ぎておかめのように見える。 
 人を喜ばせたいがための狙いなのだろうが、そのセーラー服姿は浅はかで幼稚で物哀しい。 
 そんな桃子の甘たるい声が、スピーカーを通してやや割れながら広い店内に響く。 
 「ここ最近ずっとあったかかったのに、急に寒くなりましたよねぇ、 
 でも、ももカンパチ好きなんですよ、カンパチ。だから寒さも平気」 
  
 なんでカンパチって二回も重ねるんだろう。 
 目をしょぼしょぼさせた後藤が、いつもの席で桃子を見あげるようにしている。 
 「ごっちん、眠いの?」 
 「いや、眠いっつーかだるい」 
 「風邪?」 
 圭織が心配そうに眉をしかめる。 
 「暇すぎてだるい」 
 後藤の向かいに座る圭織は、ステージに背を向けたまま入り口を見ている。 
 大雪のせいか、他に客はいない。 
 梨沙子と友理奈が、ハナとタロを追いかけ回している。 
  
 「だからね、もも、豚肉食べながらごっちんに言ったんですよ、 
  そうそうこのカンパチあぶらがすごいのっててお肉みたぁ〜い、って、ちげえよっ!」 
   
- 356 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/27(月) 01:58
 
-  「ごっちん、眠そうやのー」 
 中澤が後藤の隣に座ろうとする。 
 が、後藤は動くのが面倒なのか場所を空けようとしない。 
 「裕ちゃんが女語りやってくれないから、暇」 
 そう後藤がテーブルにつっぷして、携帯をいじりはじめた。 
 最近ごっちんよく携帯使ってるね、と圭織が言い、ほう、と中澤が横からのぞく。 
 ちょっと人の見ないでよぉ、とは言うが後藤は隠さない。 
  
 「つーかさ、なんでももは喋ってんの?」 
 桃子がステージに立っているというのに、後藤が退屈している原因はそこだ。 
 「なんか笑いとりたいらしいで」 
 「梨華ちゃんじゃないんだから」 
 後藤が鼻で笑う。 
 「どうせそのうち、ももは大人だからー、とか言い出すんでしょ?」 
 駄々っ子のようになった後藤は、携帯を閉じてテーブルに放り出した。 
 ステージに立つ桃子は目の前のことに真剣で、足元でふてる後藤に気付かない。 
  
 圭織は変わらず入り口のほうを見ている。 
 梨沙子がじゃれようとするハナとタロに追いかけられている。 
 きゃーきゃー喚く梨沙子のわきで、友理奈が大笑いしている。 
 「あ、中学生組が来た」 
 圭織が言った。 
 ドアが開いた。 
 青暗い昼空から冷気と共に粉雪がパラパラと舞い込んできて、雅が一番に入ってきた。  
- 357 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/27(月) 01:58
 
-  それにしても人いないなあ、後藤が呟く。 
 桃子ちゃんのステージ、最初のほうは盛況やったのになー、中澤がぼやく。 
 その煽りを受けて、あさみ、みうな、里田まいは出勤規制されている。 
 圭織はどうでもいいと言ったような顔で、爽やかな飲み物ちょうだい、と注文した。 
 「もっと季節感あるもの頼めや」 
 「だってもうすぐ春じゃない」 
 「でも今は寒いやないか」 
 中澤が鼻から息を吐いて厨房へと消えていく。 
 その間際、ごっちんは? と聞いた。 
 「ホットミルク。スチームで泡立てて、チョコを入れてね」 
 圭ちゃんとこ行け、そう中澤が声を荒げた。 
  
 「そういや最近、村長見ないね」 
 退屈まぎれに後藤が言う。 
 「石井リカ?」 
 怪訝そうに飯田が言う。 
 理由はないが嫌いらしい。 
 「そう」 
 後藤はペースを崩さない。 
 「夏祭り以来、見ないわね」 
 「だよねぇ〜」 
 なんとなく、後藤が桃子にスプーンを投げる。 
 熱弁ふるう桃子は気付かない。 
  
 「村長さー、いつの間にか消えたよね」 
 所詮は村の使いぱしりよね、とでも言うように酔いどれなっちがやってきた。 
 どっから聞いてたのよ、圭織が気まずそうになっちを手で追い払った。 
 「そんな邪険にすることないべさー」 
 後藤の隣に座ろうとしたが、足がもつれてよろめき、なっちがころころ……。 
 受け身も取れずに床に転がるなっちを見下ろした後藤は、意味なく腹をなでている。 
 「なにやってんの? こいつ」 
 レモン水と牛乳のパックを両手に持った中澤がなっちを蹴る。 
 なにすんのさー! と元気なかっぺの声が一瞬だけマイクを通した桃子の声に勝つ。 
 「つーかなにこれ?」 
 圭織が汚いものでも見るように中澤の出したレモン水を返す。 
 「なにって、見ての通りレモン水やないの」 
 「だからそのレモン水ってなんなのよ」 
 「あんた知らへんのかいな」 
 「知ってるけど。あいぼんのでしょ?」 
 「そうや、神様からのありがたいもんや」 
 「なんでそれをかおに出すのさ」 
 言って気付く。 
 ああ、レモン水はコーラよりもさわやかだ、と。  
- 358 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/27(月) 02:00
 
-  まだ入り口のあたりでちんたらやってる中学生組は、わけのわからないことでキャーキャー楽しそうにしている。 
 雅が寄ってきたタロを抱えあげた。 
 その匂いに過剰になつくタロにべろべろなめられる。 
 そして鬱陶しくなったのかタロを梨沙子に押しつけた。 
 腰砕けになりながら逃げる梨沙子。 
 佐紀が逃げ道を塞ぐ。 
 さらに逸れて逃げる梨沙子。 
 茉麻が梨沙子を抱きとめた。 
 いやらしく甘い笑みを浮かべた茉麻が、梨沙子をタロに押しつける。 
 べたーん、と。 
 今日一番の大声が広い店内に響き渡った。 
  
 圭織と後藤の隣に座れなくて仕方なく中澤の横に立っているなっちが年長者の余裕で言う。 
 「梨沙子ちゃん、かわいがられてるねー」 
 「茉麻、梨沙子ちゃんがかわいくて仕方ないって感じだよね」 
 圭織がうなずき、後藤が後ろを振り返る。 
 半狂乱の梨沙子が頭を振ってじたばた暴れまわっている。 
 みんなそれを見て大笑いしている。 
 涙が出そうになるほど和やかな光景を見て、これはいじめの第一歩だな、と後藤は思う。 
 パックから直接牛乳を飲み、どうせならヨーグルトのほうがよかったかな、と後悔した。 
 ステージでは桃子が懸命に喋ってる。 
  
 ごっちん飲みなよぉ、となっちがついに後藤の隣に滑りこめた。 
 ポケットからとっておきの密造酒「ふんころがしと空と風」を出して勧めた。 
 「いらない」 
 一言で返され、大げさに驚いた顔をする。 
 「そういや最近ごっちん飲まへんなあ」 
 後藤の異変と売り上げを心配した中澤が言う。 
 「うん、なんかお酒ってあんまおいしくないことに気付いたから飲まなくてもいいかなーって」 
 「ごっちん、どっか体わるいんじゃないの?」圭織が聞いた。 
 「それはもう過ぎた」 
 きょとんとする圭織に、後藤はえへへへと子どもじみた笑みを浮かべる。 
 そして、がたがた震える携帯をすばやく手に取った。 
 「おーぅ、まっつー。どしたー?」 
 まっつー? 誰それ。 
 どんな知り合いだろうと、三人が顔を見合わせる。 
 そんな三人をよそに、後藤はへらへら笑いながら会話を楽しんでいる。  
- 359 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/27(月) 02:00
 
-  置いてけぼりを食らわされた気分の圭織と中澤が、さらになっちを置いてけぼりにする。 
 「小学校も中学校もそろそろ春休みやろ?」 
 「うん、小学校が昨日からで、中学校は今日からかな」 
 そっかあ、と中澤が目を細め、入り口近くで意味なく楽しそうな一団を見ている。 
 友理奈を見て、首をかしげた。 
 「あれ? 友理奈ちゃん、卒業ちゃうん?」 
 「そうだけど?」 
 「卒業式のあと、学校に通う友理奈ちゃん見たで?」 
 「ああ、なんか卒業してからもしばらく行ってたね」 
 そう圭織はふうっと大きく息を吐く。 
 卒業前は学校に行けば行くだけ卒業が近くなるからって登校拒否したり、 
 卒業してからは、行ってない分学校に行かなきゃ、とか言ってまた通いだしたり、 
 本当に困った子ね、そんなニュアンスを込めて。 
 「そういや今お彼岸でしょ? なっち拝んであげるから圭織ジョウブツしなよ」 
 子どもには嫌われるかバカにされるかどっちかのなっちが、参加できない二人の会話に腹をたて、 
 なんまんだーぶーなんまんだーぶー、と圭織を拝みはじめた。 
  
 圭織はそんなこと気にする様子もなく、入り口の椿事を自己満足げな笑みを浮かべて眺めている。 
 追い詰められた梨沙子が新たな能力を覚醒させたのだ。 
 ドアを開けて手をかざし、風と雪を集めて反撃に打って出る。 
 ぶわあっと強風が店内を吹きぬけ、二十メートル先の桃子のスカートをめくりあげた。 
 雪の粉が舞い上がり、店内の暖気にとかされキラキラ舞った。 
 「梨沙子ちゃん腕をあげたわねぇ」 
 圭織がうんうん頷いている。 
 もうそろそろ圭織やばいんじゃないの? とやけに楽しそうな後藤に聞かれ、 
 そんなことないわよ、と立ち上がった。  
- 360 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/27(月) 02:02
 
-  「実はね、瞬間移動をマスターしたの」 
 圭織はそう言い、見ててね、と背筋を伸ばして目を閉じた。 
 集中しているせいか、足が透けてゆらゆら揺れてきている。 
 「いくよ、せーの!」 
 掛け声と同時に圭織が一瞬にして消え、次の瞬間、入り口の一団の中心にいた。 
 すげえ……、目をまんまるにしてあんぐりと口を開けた後藤が呟いた。 
 便利な能力やなあ、中澤がなんか普通のことを言った。 
 だが安倍はそんなの認めない。 
 腕を組んで唇をとがらせ、つまらなそうにはき捨てる。 
 「ふんっ、超スピードでごまかしただけだべさ」 
  
 そんなことないよー。 
 圭織は声を出したと同時にまた消え、しばらく間があって元の席に戻ってきた。 
 「ほら」 
 そう手のひらにのせていたのは、赤と緑のきれいな髪留めのゴム輪。 
 「これ、さゆのとこ行って借りてきたの」 
 「なによそのネタ。ちょっと消えれるからってなちはそんなのにごまかされないかんね」 
 なち、ってめっちゃ噛んでるやん、中澤がつっこみ、後藤はなっちの動揺っぷりにうふふと笑っている。 
 「なんだっていいんだけどさ」 
 圭織は悠々と座り、同じくさゆみんに貰ったのだろう、チョコレート入りのホットミルクなんぞを飲んでいる。 
 「あー、お彼岸くさい、なんか圭織お線香のにおいがする」 
 圭織に鼻を近づけたなっちが、顔をしかめて鼻をつまんだ。 
 「なによ、なっちなんて酒臭いだけじゃなくてうんこの匂いだってするじゃない。またちょびったでしょ」 
 え? と後藤が顔をゆがめて後ずさり、中澤がなっちの腕をつかんだ。 
 「なっち退店」 
 中澤がなっちを引きずり店の外に出そうとする。 
 「なぁんでよぉ、なっちがちょびらすわけないべさー」 
 ぎゃんぎゃん喚くなっちと入れ替わるように、梨沙子がどすんと圭織の隣に座る。 
 ああ、そのうんこ……。後藤がそんなような顔をした。  
- 361 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/27(月) 02:03
 
-  「どしたの? 梨沙子ちゃん」 
 「みんないじめる」 
 「どうして?」 
 「わたしが雪だるま作りたいって言うから」 
 「そっかあ、そうなんだ」 
 いとしそうに目をほそめた圭織が、ふくれっつらの梨沙子の髪を透く。 
 そういうことじゃないと思う、と言いたい後藤がむずむずしている。 
 圭織が、よし、とひとつ息を入れて言う。 
 「作ればいいじゃない、思う存分」 
 「ほんと?」梨沙子が圭織を見上げる。 
 「うん、きっと今年最後の大雪だもん」 
 「そうかな」 
 「そうよ、季節外れの低気圧のプレゼントよ」 
 「じゃあ、かおりんも一緒に作ろう?」 
 「それはお断りよ」 
 だって寒いの苦手だもん、と圭織はえへっと舌を出した。 
 ああ! もう!! 梨沙子はくしゃくしゃ髪をかきむしる。 
 そんな梨沙子を圭織は食べてしまいそうだ。 
 ああ、これはいじめだどうしよう、後藤のむずむずはどきどきに変わった。 
 そして、するりと沈圧を避けるように席を立った。 
 よっすぃのとこ行ってなんか食べさせてもらおう、と。 
  
 「もういい! 舞波!」 
 梨沙子は後藤を追い抜き、舞波の手を引いて雪景色の中に吸い込まれていった。 
 少し遅れて後藤も。 
 ボックス席に残った圭織も、しゅっと消えてしまった。 
 友理奈と中学生組も、後藤について店を出て行った。 
  
 空になっただだっ広い店内に、桃子の張り上げた声がほとんど遮蔽なく響き渡っている。 
  
   
- 362 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/27(月) 02:03
 
-   
 ◇ 
  
 あのカップお気に入りだったんで返してください、 
 そうさゆみんに言われた圭織が中澤に店に戻ると、桃子がステージで泣いていた。 
 しくしくと、両の人差し指を目に当てて。 
 「あ、圭織、なにしてたのよ」 
 涙する桃子と見ていられずに飲んだのか、酔いで頭をふらふらさせた中澤が舌打ちした。 
 「なにって、さゆのとこに行ってただけだけど」 
 「桃子ちゃんほっぽりだしといて、つめたすぎや」 
 「付き合いきれない夜もあるのよ」 
 すっかり冷めたミルクを飲み干した圭織が、目を閉じ息を吐き、全身の力を抜いた。 
 「あれ、ほんとに泣いて…る?」 
 中澤が自信なさそうに首をかしげ、眉根を寄せて桃子を覗き込もうとする。 
 それを察知した桃子が背を向ける。 
 疑心暗鬼になった中澤は、桃子に苛立ちをぶつけようもないのでビールを呷る。 
 どっちだよ! と解き放ちたかったが、我慢した。 
  
 「そんなのどっちでもいいじゃない」 
 ふわりと浮かび上がった圭織は桃子に自分のコートを頭からかぶせる。 
 「外は寒いから、家に着くまでに目の腫れもひくよ」 
   
- 363 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/27(月) 02:03
 
-   
 暗闇に降ったばかりの雪がふわふわと世界をなめらかに覆っている。 
 昨日までに溶けてまた固まり、ささくれだった雪棘がしゃりしゃり音を立てる。 
 圭織は、桃子のかぶったコートのずれをなおして空を見上げた。 
 濃い藍の透き通った夜空に乳白色の雲が浮かび、一番うしろで月が煌々と照っている。 
 月まで行ってみようかな、そんなことを思いながら視線を桃子にまで下げた。 
 なんかおっきな雪のかたまりが転がっていて驚く。 
 桃子は背中に当てられている圭織の腕を頼りに歩いているので気がつかない。 
 なんだったんだろう、あれ、圭織は思わず浮き止まる。 
  
 圭織の腕がはずれて、桃子が立ち止まる。 
 あ、と思いなおし、圭織は再び桃子の背中を押す。 
 「あのね、桃子ちゃん」 
 こくり、コートの中の桃子がうなずいた。 
 「行き過ぎた存在は敬遠されるの。カオも昔はそうだった。 
 真剣に言葉や詩の意味を理解しようとしてるのにさ、 
 それを言っても誰も理解してくれないし、笑われるだけなの。 
 カオが言ってたのはさ、みんなの言う意見を前提とした、自分なりの解釈だったのよ、 
 みんながたどり着く答えを自分の意見として発表しても仕方ないでしょ?  
 だからみんな、わたしのことを意味のわかんない、飛び越えたバカな子だと思ってたのよ。 
 敬遠されてたのよ。でもね、こう考えてみて?  
 ……敬して、遠ざけられる。誰も近づけないくらいに到達してるのよ」 
  
 等間隔で目に入る大きな雪塊に心を奪われながらも、どうにか桃子を慰めた。 
 あなたは特別だけど、普通じゃないわけじゃないの。 
 そんな絶妙の日本語にはないニュアンスを丁寧に伝えたつもりだ。 
   
- 364 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/27(月) 02:04
 
-   
 家の玄関の3メートルほど前で桃子はコートを外し、圭織に返した。 
 「かおりん、ありがとねっ!」 
 背を向けたまま明るく声を張り、ガラガラ戸を開け「ただいまー!」と家に入っていった。 
  
 ふぅっと鼻から息を吐いた圭織は、庭に石山よりも大きな雪だるまがあることに気がついた。 
 これはいよいよだな、なんだか意味のわからないことを呟き、コートを着なおした。 
 おばけなので体感はないが、こういうのは気分だ。 
 敬遠どころではない梨沙子のスケールに、淋しさと焦りと喜ばしさが同時に募る。 
 祝杯でもあげようとシシリアに移動しようと念じたとき、玄関のすぐ脇にある小さな雪だるまに気付いた。 
 控えめな、だけど丁寧な雪だるまは、雪の造成によく見られる歪さがなにひとつない。 
 小さでかわいらしい雪だるまが、そっと、玄関脇のポストの上に置かれていた。 
 圭織はふっと笑ってそれを抱え、あいぼんのところに行こうと飛び上がった。 
 この優しく弱らかな雪だるまを残したい、そう思った。 
 家の中からは、ももはねー! という桃子の元気な声が聞こえてくる。 
  
  
   
- 365 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/27(月) 02:08
 
-  >>353 
 だいじょーぶー  
- 366 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/10(月) 23:57
 
-   
  
  
 友理奈の朝  
- 367 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/10(月) 23:58
 
-   
 「あら、友理奈ちゃん今日も早いわね」 
 春休みなのに、とどこからともなく現れた圭織が声をかけた。 
 友理奈は今にも寝落ちてしまいそうな険しい顔をして、テレビを向いている。 
 「春休みでもこの番組はやってるから」 
 大きくあくびをした友理奈が、眠気を遮断するように目をぱちぱちさせた。 
 「春休み、って今日から学校じゃないの?」 
 「新入生だから遅くてもいいの」 
 「でも遅刻はダメだよ。なっちみたいになりたいの?」 
 「入学式に遅刻していくと、きれいで破滅的な先輩に会えるんだよ?」 
 「先輩ったって、みんな知ってる顔じゃないの」 
 「うん、でもそうなの」 
 「まあ、いいけどさ……」 
  
 長い足を折って毛布にくるまる友理奈を見て、圭織は、まだ寒いんだ、とストーブ脇にあるマッチを擦った。 
 そして、ストーブで暖かくなったら友理奈ちゃん寝ちゃうな、そう思った。 
 「そんなに眠いなら、もういっかい寝たら?」 
 「でも、7時台の見てからじゃないと」 
 「何時から起きてたの?」 
 「5時台」 
 友理奈はばたばたと毛布をめくり、冷たい風を入れながら睡魔と戦っている。 
 圭織は、休み中だからこそ無理をして早起きをする友理奈に居たたまれなくなり、 
 すっと家から出て行った。 
   
- 368 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/10(月) 23:58
 
-   
 しばらくして、こんこんが身を縮めながら入ってきて、ストーブの前に転がりこんだ。 
 微妙にあったかくなって、油断してるこの時期が一番寒いんだよね、そうひとり呟いて。 
 こんこんと同時に、朝の陽射しがほぼ直線的に、 
 何度もとけて凍ってをくり返した一面の雪氷に跳ねながら飛び込んでくる。 
  
 あまりに眩しさに目を瞬かせた友理奈の視界に、黒い影が入る。 
 かおりんころす、そう泣きそうになりながら廊下に転がりそのまま寝ようとする。 
 「ちょっと夢枕に立っただけじゃないの」 
 ストーブの前でうとうとしてたこんこんが顔を引きつらせて立ち上がった。 
 圭織に目を見開いた真顔で、淡々と語られるのは恐怖以外のなにものでもない。 
  
 くすりと笑った圭織が、庭へと続くガラス戸を閉めた。 
 ガラス戸の内側に白く溜まった結露が水滴となって落ちる。 
 その向こうから、朝の静かな空気をふるわせるガタガタした車のエンジン音が聞こえた。 
 音が止み、ギシっとサイドブレーキの軋みのすこし後、 
 バタン、玄関の戸が空気を巻きこみながら音を立てた。 
 ガラス戸に水滴の筋が複雑に絡みあう。  
- 369 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/10(月) 23:58
 
-  「ごっちん、おはよ〜?」 
 半分眠って首を落とした友理奈が、寝ぼけ眼のまま顔をあげた。 
 「おう、ゆりぃ」 
 後藤はコタツにスイッチを入れ、中で眠る猫を追い出した。 
 なにするとや、れいなは眠気に押しつぶされそうになりながら、眠るののの下に潜りこんだ。 
  
 後藤はコタツ脇に置いてある急須にポットからお湯を注ぎ、てきとうにまわして誰かが置き離した湯呑みに注いだ。 
 「新しくお茶っ葉いれればいいじゃない」 
 圭織に言われたが、微妙にお茶な感じがいいんだよ、と後藤は思い出し笑いをした。 
 「なに?」 
 「あ、このことじゃないんだけどさ、さっきわたし舞美ちゃんのことひいちゃったよ」 
 「ひくって、車で轢いたの?」 
 くすくす笑う後藤に、飯田は怪訝そうに聞いた。 
 「そう、すっごいんだよ? ついうっかりさ、運転中に寝ちゃって。 
  どん、って感触があって、ハッと目ぇ開けたら、女の子がぽーんと飛んでてさ。 
  あーりゃビビッたね、マジで」 
 後藤はのんきに口をあけてはへらへらしている。 
 「で、舞美ちゃんはどうなったのよ」 
 圭織は、もしかして後藤は気が触れてしまったのではないかと、気が気じゃない。 
 「それがさー、すっごいんだよ?」 
 ここで一度、後藤は手を叩いて大笑いし、圭織の刺すような視線に気付いた。 
 「いや、もったいぶろうってことじゃないんだけどさ、あまりにおもしろかったから。 
  まずいなー、って車おりて倒れてる子のとこ行ったらもう起き上がっててさ、 
  舞美ちゃんだったのね、おはとうございまーす、ってさわやかな笑顔で行っちゃった」 
 「本当に大丈夫なの?」 
 「ランニングの途中だったみたいだね」 
 「ダメだよ、居眠り運転なんか」 
 ほとんど酒を飲まなくなった後藤は、軽トラで遊びに行くようになった。 
 「今日は早く帰ろうと思ってたんだけどさ、ひとみんが半蔵門になっちゃって、帰るに帰れなくなっちゃったんだよ」 
 「帰ってくればいいじゃないの、べつに」 
 「梨華ちゃんがノリノリでさ、具合悪くなってんの気付かないではしゃいじゃったから、 
  いきなり目ぇ剥いてぶったおれちゃって、大変だったんだよ」 
 「ほっときゃいいじゃない、あんなバカ」 
 「いやぁ…意味ないのに他人のフリしてたよっすぃが大慌てでさ〜、ほんとビックリしたわ……あ、みっちー」 
 話題を逸らそうという意図なのかどうなのか、後藤がテレビを指差した。 
 ほとんど寝ている友理奈は目を覚まさない。 
 友理奈の中ではあくまでも、みっちーではなくさゆみんだ。  
- 370 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/10(月) 23:58
 
-  ブラウン管のさゆみんは今日も元気に髪飾り。 
 やらせだとチクリを入れながらも、さゆみん人気で持ちこたえる髪飾りコーナー。 
 「さあ! 今日もテレビの前のお友達からのお便りが届いています!」 
 世間ではやらせだの、あんな髪飾りいらないだの言われてることなど 
 全く関係ないとでもいうような明るい笑顔のさゆみんが、葉書を顔の横でピラピラさせている。 
 「今日のおともだちは、石川梨華さん、21歳!」 
 言って、え? と動揺が走る。 
 そして、鼻のあたりがキュッとなり、くるるとした瞳がうるうるゆれる。 
  
 なんだかいけないものを見てしまったような後藤が、ぽつり呟く。 
 「ああ、昨日テンション上げすぎてぶったおれた人だ」 
 「ここまでくると、どっちもかわいそうになってくるね。あと……」 
 そう圭織は、なにかを考えていそうな顔で寝ている友理奈を見た。 
 「寝ててよかったよね、友理奈」 
 微妙に開いた間を埋めるように、シャワーの音が落ちる。 
 あ、みや起きたんだ、とどことなく気まずい後藤が先に言った。 
 「あら梨沙子ちゃんおはよう」 
 圭織が、髪をもじゃもじゃさせて起きてきた梨沙子に声をかけた。 
 なんか作らなきゃ、と後藤が重い腰をあげた。  
- 371 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/10(月) 23:59
 
-   
 十五分後。 
 ばたばたと学校の準備をする面々の中、佐紀がのんびり起きてきた。 
 佐紀の通う私立は、始まるのが少し遅い。 
  
 「ほら、のんちゃん。佐紀ちゃんも起きたんだし、そろそろ始めなきゃ」 
 圭織が、眠るののの頭のほうに立つ。 
 「うるせー立つな!」 
 反射的に飛び上がったののが叫ぶ。 
 「早くしなよ、氷割り」 
 「しねえよ……」 
 一瞬だけ強かったののは眠いのか、すぐに言葉が弱くなる。 
 「なんでさ」 
 「この前やったら、いきなり猛吹雪になったから」 
 「珍しいことするからじゃない」 
 「だからいい」 
 「フットサルできないわよ」 
 にやっと笑った圭織は、再び寝転んだののの頭のほうに立つ。 
 「しねんだよっ!」 
 圭織は眠くて気が立っているののを怒らせて喜んでいる。 
 そのすぐ横を、安物の柑橘系香水の匂いをぷんぷんさせた雅が過ぎていく。  
- 372 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/10(月) 23:59
 
-  いなかっぽく、だけどひとり颯爽と学校に向かう雅。 
 不自然な匂いに、ストーブの前でうとうとしていた梨沙子がパッと目を覚ました。 
 目を見開き呆然と雅を見送った圭織の横で、ののは意味ありげに頷いている。 
 「LOVEの匂いがする」 
 なぜか驚き、不安そうにきょろきょろする梨沙子。 
  
 「おいりしゃ」 
 「ん?」 
 「なんで泣きそうな顔してんだよ」 
 「してないよ」 
 「のんの目はごまかせないね」 
 「してないって」 
 圭織のいじめられた分、梨沙子をからかおうとする。 
 「今のんのこと、バカだと思ったろ」 
 「思ってないよ!」 
 何のことかわからないが梨沙子は、マイナスな何かを察して思いきり否定した。  
- 373 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/10(月) 23:59
 
-  「早く氷割りしなよ」 
 圭織が無理やり話を戻す。 
 あ、と声をあげた梨沙子が玄関先にかけていく。 
 よくわからないののが首をかしげた。 
 雪だるまを救いに行ったのよ、とける前に、圭織がしずしずと笑った。 
 おはよー、足りない子のような薄ら笑いで、髪がうねった桃子が起きてきた。 
  
 「また一年が始まるんだな」 
 久々の騒々しさを背に、満腹で幸福顔のこんこんが窓の外を眺めながら言う。 
 友理奈は、不安と期待の入り混じった複雑な寝顔をしている。 
  
  
   
- 374 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/14(金) 10:27
 
-  更新きてたー 
 入学式に遅刻していくと出会える綺麗で破滅的な先輩からは、 
 制服の上着を貸して貰えるんですよね。確か。  
- 375 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/20(木) 09:28
 
-  おもろい 
 
- 376 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 01:03
 
-   
  
  
 春になると  
- 377 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 01:03
 
-   
 どこまでも透明な青い空に、鍬が土を咬む音がひびきわたっている。 
 まだまだ冬のにおいのする山間の畑に、後藤が鍬を打ち下ろす。 
 短く刈れ残った昨年の穂束ごと、土を掘り返す。 
 真黒い土に、枯れた穂束のクリーム色が混ざり、後藤はふうっと息をついて顔をあげた。 
 冬を越えた木々に、萌黄色の新芽がまばゆく映える。 
 ぽかぽか陽気と労働で熱されたからだに、つめたい風が吹き抜けていく。 
  
 「ごっちーん」 
 あいぼんが林のほうからドテドテと駆けおりてきた。 
 「おぅ、あいぼん。珍しいね、ここまで下りてくるなんて」 
 後藤は手にしていた鍬を畑に刺し、手ぬぐいで汗をぬぐった。 
  
 土の感触をたしかめながら、あいぼんが言う。 
 「まだ水入れてないんかい」 
 「うん、いちおーは機械で馴らしたんだけどね、なんかしっくりこなかったから」 
 だから自分でもやろうと思って、と後藤は鍬でぐりぐり土をかきまわしながら付けたした。  
- 378 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 01:04
 
-  「それにしてもおそくない?」 
 「そう? 今年寒かったしねぇ、妙に冬が長引いたりしたし……」 
 「そっかあ。それより今年も大丈夫なん? ごっちん米」 
 「どうなんだろうねぇ、大丈夫じゃない? それよりあいぼん、桜は? どんな感じ?」 
 後藤はこの畑のまだ先の山の高いところにある、桜の群生地帯のことを言っている。 
 村の中心部からするとあまりに遠いため、様子見に行く、というような気にはならない。 
 あいぼんから情報を聞き出せない村人たちは、常に一発勝負の気構えで花見に行く。 
  
 「七分ってところかな」 
 「そんなもんなんだ。駅前のはもう散り始めてるよ」 
 「まだ山の中は寒いからね」 
 ほうほう、とあいぼんの話にうなずきながら後藤は携帯を取り出し、舌打ちした。 
 「なしたん?」 
 「圏外だ」 
 「そらそうやろ」 
 「でも、あっちのほうならびみょーに電波届くんだよね」 
 そう言って軽トラを停めているあたりを指差した。  
- 379 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 01:05
 
-  そして、梨沙子が気まずそうにタイヤのところでしゃがんでいるのを見つけた。 
 寝坊して、起こされても意地でも起きず、後藤が先に行ってしまったのだ。 
 「梨沙子、怒ってないから、早く手伝ってよ!」 
 後藤がそう叫ぶと、梨沙子は遠目から見てもうれしそうに立ち上がり、荷台に載ってる黒長靴に履き替えだした。 
 ふっと笑みをこぼした後藤が、べつにまだ長靴いらないのに、とつぶやき、銃も持ってきてよ、と大きな声で梨沙子に言った。 
  
 なにすんの? と怪訝そうなあいぼんに意味深な笑みで応え、 
 はずかしそうだけど満面の笑顔の梨沙子から、自分の腕ほどもある銃を受け取った。 
 「梨沙子あんた、寝坊したらどうとかって自分で言ってたよね?」 
 受け取ったままの銃を梨沙子に突きつけ、後藤は楽しそうに言った。 
 梨沙子は表情を凍りつかせ、とぎれとぎれに答える。 
 「……あ、あの、…あそこを耕すって言いました」 
 「よし。行ってこい」 
 妙な貫禄をただよわせた後藤は、梨沙子に鍬を持たせる。 
 梨沙子は鍬を両手でかかえ、畑の一番山に近い一画まで駆けていく。  
- 380 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 01:06
 
-  「あそこ?」 
 あいぼんが聞いた。 
 うん、あそこ、と後藤が梨沙子の向かっている先を指差した。 
 「あ、休耕田にしたまま面倒になって放ってあるやつやろ」 
 「そう、あそこ」 
 後藤はにやにやしながら、かさかさになった一画を眺めている。 
 土はべこべこに盛り上がり、粉を吹いたようにひび割れて乾いたその一画には雑草も生えない。 
 「なんであそこだけ、あんなんになってしもたんやろなあ」 
 「わかんないけど、森の魔女の呪いじゃない?」 
 一瞬あいぼんが、ん? と考え、ああ、とうなずいた。 
 唐突で伝わりにくかったせいで、ノることも、笑うこともできなかった。 
  
 けっこう自信のあったギャグが流れた後藤は傷心をごまかすように、そういえば、とあいぼんを向いた。 
 「ここに携帯の電波立てていい?」 
 「なんであたしに聞くん?」 
 「なんでって、山の神様だからじゃない」 
 「ああ、なんかいろいろバランス崩れないかとか、そういうこと?」 
 後藤がうなずき、あいぼんがいいんじゃない? と言いかけたとき、 
  
  だめええ! 
  
 という梨沙子の声が聞こえてきた。 
 「梨沙子ちゃんがダメって言うなら、ダメやな」 
 「なんでよぉ」 
 「それより、なんでこんなとこでまで携帯つかいたいのか、あいぼんさんはそっちのほうが気になりますなあ」 
 かわいらしい八重歯をのぞかせ、下卑た笑みで後藤に肩をすりよせる。  
- 381 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 01:06
 
-  べつになんだっていいじゃん、と唇をとがらせた後藤は、梨沙子の鍬打つ背中を見つめながら、あそこに何植えよっかな、と逃げた。 
 「携帯の電波でも立てたら?」とあいぼんが追いすがる。 
 「煙草でも生やそうかな。こっそり食べにきちゃダメだよ、あいぼん」 
 「あいぼんさんは煙草なんか吸わへん」 
 「みんな知ってるから、隠さなくていいよぉ」 
 「アホかっ! 煙草なんか吸うかあ! 山の神様やで? 自然志向やっちゅうねん」 
 「じゃあ、なに吸ってたのよ」 
 「大麻や」 
 「同じじゃない」 
 「全然ちがう。あれは神様からの贈り物。優しさやねん」 
 ふざけた調子ではなく、真剣に言うあいぼんに後藤は、ふーん、と 
 どうでもよさそうにうなずき、作業を再開させようと鍬をさがす。 
  
 しばらくさがして梨沙子に渡したんだと気付き、ぽすんと畑に倒れこんだ。 
 空には太陽がのぼり、冬の透度を残した鮮やかな青になっている。 
 後藤はやわらかい土の薫りと凛とした空気をおもいきり吸いこみ、そして吐いた。 
 「あぁ、いいよねぇ……。春先のこの感じ」 
 あいぼんに言ったつもりだったが、返事はなく、かわりに「おーい!」という大声が聞こえてきた。  
- 382 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 01:06
 
-  体を起こすと、あいぼんが圭織とののとこんこんに手を振っていた。 
 「桜に行くのー?」 
 「そー」 
 背中が覆われてしまうくらい大きなリュックを背負ったこんこんが、あいぼんに手を振りかえしている。 
 「なにその大荷物」 
 「向こうでしばらく遊ぶからー」 
 今度はこんこんより大きなリュックを背負ったののが答えた。 
  
 「ごっちん、しばらく帰らないからねー!」 
 桜と共に過ごす食物と堕落の日々の予感に幸福の顔をしたこんこんが叫ぶ。 
  
 「車で送ってってよ」 
 白い籐のバスケットをぶら提げた圭織が、甘い声を出した。 
 後藤はそれとなく梨沙子を振り返り、にんまり笑って言う。 
 「いやぁ、まだやらなきゃならないことあるからー」 
 そっか、と歩き出そうとした圭織が思わずバスケットを落とした。 
 なんとなくフタにかぶせていたピンクの布切れが舞った。 
 少し後ろを歩いていたこんこんが、蹴ってしまった。 
 れいなが飛び出す。 
 「なにすると!?」 
 命からがらといった様子で声を荒げるも、れいなの不運に反応する者はもう誰もいない。 
 しかも、れいなが飛び出したのは、こんこんの進行方向。 
 舞い落ちた布切れともども、れいなを踏んづけてしまった。 
 「あ、ごめん」  
- 383 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 01:07
 
-  圭織とののはさっさと先に行き、こんこんはとりあえず謝って二人の後を追った。 
 後藤は立ち上がり、丹念に畑の具合を調べながら、ざくざく銃で穴を開けている。 
 「なにしてんの?」 
 懐からこんもりした白い花を取りだしたあいぼんが、後藤に聞いた。 
 「ん〜? なんとなくね、気合入れ」 
 「ふーん、変なの」 
 「変じゃないって」 
 全身の毛を逆立てていたれいなが背中を落とし、あきらめたように腹を空に向けてねころんだ。 
  
 れいなの様子を見ようと顔をあげた後藤の視界にあいぼんが入った。 
 後藤はあまりの驚きに唇をふるわせ、 
 「あいぼん、なに食べてんのぉ!」 
 と素っ頓狂な声をあげた。 
 「こぶしの花だけど?」 
 「ちょ、ちょ、…ちょっと、ちょっとー!」 
 不必要なくらい大げさに驚く後藤。 
 あいぼんは不思議そうに首をかしげてもしゃもしゃしている。 
  
 「ちょっとー、その辺に生えてるの食べちゃダメだってぇ!」 
 「なんで? ホコホコしてておいしいのに。それにこぶしだし」 
 れいながそろそろとあいぼんに寄り、ねだるように人懐こい笑みを浮かべた。 
 自らも食べながらあいぼんは花弁をむしり取り、れいなの口元に持っていく。 
 期待に頬をほころばせ口にしたれいなは苦味に顔をゆがめ、ペッと吐きだした。 
  
 目をまんまるに見開いていた後藤は、どこかで折り合いをつけたのだろう。 
 ま、そうだね、と再び銃を畑に刺しはじめた。 
 森の神様だもんね、と口のなかでつぶやきながら。 
   
- 384 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 01:07
 
-   
 すっかりこぶしを食べ終えたあいぼんは、畑を刺すだけという意味のわからない単純動作を 
 薄ら笑いで続けている後藤が恐ろしくなって、休耕田を耕している梨沙子のところに移った。 
 梨沙子はつまらなそうに畑を耕している。 
 耕すというよりも、乾ききった黄土色の土を剥がして、粉々に砕いている。 
 「梨沙子ちゃん、大変やなぁ」 
 あいぼんが声をかけても、梨沙子は息をもらすように、うーん、と言うだけで反応らしい反応は返さない。 
 つまらなそうではあるが、とんでもない集中力の一端を発揮している。 
  
 よいしょっ、とあいぼんが畦道の土手に腰をおろした。 
 冬を越した枯草と、淡い新緑がほぼ半々の土手に、タンポポがちらほらと咲き誇っている。 
 あいぼんはつくしをポキポキ折っては畑に投げこみながら、 
 空の太陽 ちょっとまぶしいけぇど、と口ずさんでいる。 
  
 どこにだってある花だけど〜、あいぼんは気持ちよさそうに歌声を風にのせていく。 
 風の異変に気づいた梨沙子が、作業を止める。 
 「なに? その歌」 
 「世界で一番うつくしくて儚い歌」 
 あいぼんが鼻歌のすきまで梨沙子に伝えた。  
- 385 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 01:07
 
-  そのとき、パンパンパンパーンッ、乾いた炸裂音が連続した。 
 梨沙子とあいぼんが顔をその方に向ける。 
 後藤が無表情で銃を撃ち放っている。 
 「あ、みや……」 
  
 制服姿の雅が、同じ学校の制服を着た男の子とBB弾に撃たれている。男の子の四歩後ろで。 
 学校さぼって、桜を見に行くつもりだったのだろう。 
  
 「ちゃんと学校に行けー」 
 普通の声色だったが、やけに強く響き渡った。 
  
 集中的に撃たれはじめた男の子は、あまりの痛みにパニックになっている。 
 感じをつかんだ後藤は、見事な技術で二人の進行方向を遮る。 
 来た道を逃げ戻ろうと、後ろにいた雅を抜くように走る。 
 雅は反射的に男の子の腕を捕まえ、進行方向に向かって走り出した。 
  
 たくましいな〜、あいぼんが関心したように言った。 
 梨沙子はさみしそうな顔をして、作業に取りかかった。  
- 386 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 01:07
 
-   
 雅たちと入れかわるようにして、ミキティが里のほうに走りぬけていく。 
 うきゃー! 奇声とも嬌声とも絶叫とも取れる高らかな声をあげて。 
 昨夏までは黄ばんでいたももひきとランニングは、黒ずんでカピカピしている。 
  
 まだいたんだ、とでもいうように、後藤がミキティを撃つ。 
  
 少し離れて、待てー、とののとこんこんがミキティを追いかけていく。 
  
 だいぶ遅れて、ミキティと同じように汚いかっこうをした絵里も、きゃー、と甘たるくて穏やかな笑顔で続いていく。 
 ミキティとののとこんこんを追いかけているはずなのに、逃げているように走っている。 
  
 「ああ、あの子も堕ちたんやな……」 
 絵里の存在を認識する数少ない存在のあいぼんが、ぽけーっと口をあけている。 
  
  
   
- 387 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 01:10
 
-  >>374 さようならこんこん。もう会わない。 
 >>375 せくしーうえうえ  
- 388 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/09(火) 03:51
 
-  ピンクの布切れ! 
 
- 389 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:01
 
-   
  
  
 愛があるなら  
- 390 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:01
 
-   
 「ねえ、やばいんだけど」 
 死にそうな顔をした雅が、佐紀にそばだてた。 
 尋常じゃない暗さに一瞬ギョッとした佐紀は、どうしたの? と部屋に隅に雅を寄せた。 
 ちなも、という雅のつぶやきに、佐紀が目線で千奈美を呼び寄せた。 
 ちょうど部屋の隅で本を読んでいた舞波が、三人の深刻な雰囲気に居心地わるそうにしている。 
  
 居間では、友理奈と茉麻がチャンネルの奪い合いをしている。 
 「絶対さゆみん見るの!」 
 珍しく我を強く出している友理奈だが、茉麻も譲らない。 
 びぃやああ! とおかしな音を出して友理奈を威嚇する。 
 一瞬ひるんだ友理奈が、ぽかんと口をあけて茉麻の奇行の意味をさぐる。 
 その隙に茉麻はリモコンを奪おうとする。 
 「だめえ!」 
 友理奈がリモコンに覆いかぶさった。 
 必死な友理奈に対し、茉麻はまだまだ余裕がある。 
 のんびりした声で、友理奈をゆさぶる。 
 「ほらほらー、パンツ見えちゃうぞー」 
 いやー! と友理奈は悲鳴をあげたものの、ジャージを履いていることを思い出す、確かめる。 
 その隙に茉麻はリモコンを奪おうとする。  
- 391 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:01
 
-  「仲良く両方見ればいいのにねぇ」 
 できもしないことを言うこんこんは、ストーブの前で和んでいる。 
 山のあまりの寒さに、一夜で逃げ帰ってから、今まで以上にストーブにべったりになった。 
 「もう一個テレビ買えばいいんだよ」 
 桃子がねだるように、こんこんに顔を近づけた。 
 にいと笑ったこんこんは、 
 「そしたらみんな、この部屋に寄りつかなくなっちゃうでしょ?」 
 とストーブに載せていた薄切りのさつまいもをひっくり返した。 
  
 でも、こんなの見るために部屋にこもっちゃうかなあ、と桃子が首をかしげた。 
 テレビでは、昼間の墓場でありとあらゆる可能性におびえているさゆみんが、助けを請うている。 
 入ってくる入ってくる、と言っているようだが、口をおさえているため聞き取れない。  
- 392 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:02
 
-  すーっとカーテンが開き、圭織が入ってきた。 
 「あ、まちがえた」 
 ガラス戸を開けて夜気と一緒にみんなの注目を浴びるはずだった。 
 が、割と暇してたこんこんと桃子しか気付かなかった。 
 「どっちかにしてよー」 
 こんこんがやんわりと圭織を諌める。 
 普通に玄関から帰ってくるか、そっと透けて帰ってくるかにして、と言っているのだ。 
  
 「かおりん、桜どうだった?」 
 「きれいだったよ」 
 「ぶっとおしだったんでしょ?」 
 「うん、ずーっと桜の下にいた。ちゃんと終わるまでね」 
 寒さに逃げ出すような、へたれたペットにはわからない美しさがあったのよ、なんて優位をこめて。 
 「なんで?」 
 白痴のような顔をした桃子の質問責めに、圭織はひとつひとつ丁寧に返していく。 
 「しまい込んだ愛が痛み出すからよ」 
 「なにそれー」 
 「幼いことの切なさをそっと教えてくれるの、桜は」 
 「ももはねー、桜の花っていったら梨沙子ってかんじ」 
 ふと圭織の顔が、なにそれ? とゆがむ。 
 「いや、梨沙子、桜好きでしょ? だから……」 
 「あ、ああ、そうね」 
 圭織は知らなかったのだろう、そんな顔をしている。 
 梨沙子のことはわたしが一番、 
 といったプライドを傷つけてしまったのではないかと、桃子の顔が不安そうになる。  
- 393 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:02
 
-  「あいぼんが今年の桜は特にきれいだって言ってたなあ」 
 見れなかったかといって、さほど悔しそうではないこんこんが、目を細めて言った。 
 「麻琴のおかげだよね」圭織が言った。 
 「だよねー」 
 こんこんと圭織、顔を見合わせて笑う。 
  
 「なんなの? マコトって」 
 きょとんとした桃子が、視線を往復させている。 
 「桃子ちゃんには、まだ早いね」 
 しずやかに笑ったこんこんが桃子の前髪をぽんぽん撫でる。 
 「えぇ〜、おしえてよぉー」 
 キスでもしそうな勢いで桃子は顔を近づけねだるが、こんこんはただ意味ありげに笑っているだけだ。  
- 394 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:02
 
-   
 なんでだよ! 台所からののの悲鳴が聞こえてくる。 
 「なんでよぉ」 
 大量のさつまいもを煮る後藤に、逆に問い返されたののが詰まる。 
 「のんちゃん、さつまいもでもモンブランって作れるんだよ」 
 本当に知っていたのか、知ったかぶりなのか微妙な梨沙子が、ののに言った。 
 かなり得意げに。上から目線で。 
 ずっと後藤の隣にはりついている梨沙子は、口を出すが手は出さない。 
 「うるせえ、なんかりしゃに言われるとすげー腹たつ」 
 ののの口調は普通だったが、辛辣な言葉に梨沙子がしゅんとした顔をする。 
  
 ふれると泣き出すな、と思った後藤は、 
 「しょうがないじゃないの。よっちゃんがさつまいもしかないって言うんだから」 
 とうっすらではあるが、梨沙子の正当性をほのめかした。 
 「それに、ののがバカみたいな量のモンブラン食べたいって、そんなバカみたいな量の栗がこの世に存在するわけないじゃないのよ」 
 よくわからないが、それとなく尤もなことを言ってののを黙らせた。 
 「梨沙子はほれ、粉ふるって。一番大事なところだからね? 手ぇ抜いちゃだめだよ」 
 そう言ってざるを持たせた。  
- 395 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:03
 
-   
 「見られたんだけど」 
 ニュアンスですぐにわかった。 
 雅はボーイフレンドの存在を、一部の者をのぞいて隠していたのだ。 
 思春期だから。 
  
 「堂々と付き合ってるって言えばいいじゃ──」 
 そう言った千奈美の口をおさえ、雅は目を見開き唇を剥いて表情で威嚇する。 
 「で、誰に見られたの?」 
 冷静に、なだめるように佐紀が言った。 
  
 雅は苦虫を噛み擦り潰す、そんな感じで指を折りはじめた。 
 「…えーっと。えー、その、ね? えっとね、えーっと……」 
 「はやく言いなよ」 
 思わず佐紀がつっこむ。 
 梨沙子じゃないんだから、とは言えなかったが。 
  
 「えっとね、ごっちんでしょ、梨沙子でしょ、あと、あいぼんに、かおりんに、 
 のんちゃんこんこん。数に入れなくてもいいけどミキティと、なんか変なの」 
 そんなに? 佐紀と千奈美が驚く。 
 「あ、あと、あゆみちゃんも。シシリアのとこで」 
 もうバレバレじゃん、千奈美が厭きれる。 
 どうしようもないな、と佐紀は思ったが、とりあえず言う。 
 「もうほぼみんなに知れ渡ってるんじゃない?」 
 「そんなことないもん、ほんと、何人かじゃん、見られたの」 
 すかさず雅が否定する。 
 そうまでなっても隠したいのか、窮屈そうに存在を消して本を読むフリした舞波は思った。 
  
 「でも、登下校が一緒なだけなんだから、バレてもいいんじゃない?」 
 絶望しきった雅のなぐさめには全然なってないが、佐紀がまともなことを言った。 
 なぜか雅が勝ち誇る。 
 「ふ、ふん、そんなことないもん」 
 そう言って、恥ずかしくなったのか真っ赤な顔をくしゃくしゃにさせて思い出し笑い。  
- 396 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:03
 
-  「どうせほっぺにちゅーくらいでしょ?」 
 さまざまなものが去来して複雑な表情になった千奈美は、鼻で笑った。 
 「ただのほっぺにちゅーじゃないもん、くちびるに近いほっぺにちゅーだもん!」 
 言って、キャッと頬を赤らめる。 
 ついてけないなー、佐紀と千奈美はスイッチが入ったときの雅をどう遠ざけようか考えだした。 
  
  クリームできたよー 
  
 後藤の声がする。 
  
 「いや、いらな……くもないけど、あとで食べるぅ!」 
 雅が声を張り上げた。 
 そして、さ、部屋で作戦立てよ? と立ち上がった。 
 そろそろと、でも目立って部屋にひいていく雅、佐紀、千奈美。 
 雅の背中は楽しそうで、佐紀と千奈美の背中はどっか疲れている。 
 そんな三人の背を見ていた圭織がなにかを思いつき、一人笑いをし、消えていった。 
   
- 397 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:03
 
-   
 ◇ 
  
 中学校の広いひろい体育館のステージ前に、こぢんまりと女生徒が集合している。 
 「どしたんだろね、急に集会なんて」 
 列の最後尾で茉麻が言った。 
 「男女別だしね、あれじゃない? なんか関係」 
 舞波は直接的な表現をさけた。 
  
 列からはみでた小春が、体育座りのまま揺れている。 
 うーとか、あーとか、よくわからない羽音のような唸りをあげている。 
 「小春うるさい」 
 雅が小春の両肩を押さえた。 
  
 「あー、ゆりだー」 
 珍しく集会に参加している千奈美が、隣の一年生の列を指さした。 
 ゆりー! 茉麻が大きく手をふる。 
  
 ぶかぶかの真新しい制服を着る、頭二つくらい抜けた友理奈は四人に気づき、恥ずかしそうにうつむく。 
 「こっちおいでよー」 
 えくぼを見せた舞波が、友理奈を呼ぶ。 
 だが友理奈はうつむいたままだ。 
  
 千奈美が立ち上がり、友理奈のところまで行って引き寄せようとする。 
 「いや、いいから、いいから。ここで大丈夫だから」 
 友理奈はけっこう本気で拒絶している。 
 その少し前では、なかさきちゃんが困ったように下を向いている。 
 小学校のときはざっくばらんだったというのに、中学校という場所は人間関係を変える。  
- 398 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:04
 
-   
 「Hi! じゃあ今日は清く正しい男女交際の心得、女の子編のおはなしをしまーす!!」 
 この場が静まることがないと知っているアヤカが唐突にはじめた。 
 「で、今日は特別講師の方に来て頂いてまーす!!」 
 声を張りあげ、勝手に進める。 
 「ではどうぞー!!!」 
 壇上を腕で指したが誰もいない。 
  
 いやですって、ほんとにできませんから。 
 大丈夫だって、つーか紙袋までかぶってノリノリじゃん。 
 かおたんが強引にかぶせたんじゃないのよぉ。 
 いいから行っとけって。ポジテブよ、ポジテブ。 
 でもこれじゃ前が見えないし。 
 つべこべうるさいなー、ほら、目のところやぶってあげるから。 
 あ、ちょっと見えた! 
 だから、ほら、さっさと行きなさい。 
  
 ステージの袖らへんで、圭織と紙袋をかぶったバカが見え隠れしている。 
 「あれ石川さんじゃない?」 
 雅に押さえられていても揺れていた小春がピタリと止まった。 
 「だね」 
 千奈美がうなずいた。  
- 399 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:04
 
-   
 肩を落として壇上に立った紙袋が、大きく息を吸った。 
 「はじめまして、喫茶シシリアの柴田あゆみと申します!」 
 あ、きたねー、袖にいた圭織が呟いた。 
  
 「ちょうど、みなさんと同じくらいの年頃です。花も羨む乙女盛り、16歳でした」 
 17って、高校生じゃん。茉麻がぽつりと言った。 
 「わたしは恋をしました! 恋をしちゃいましたあ! 王子様みたいな人でしたあ! 
  ちょいとへなちょこりんだけど、王子様でしたあ! 会話はメールでしたあ!」 
 きもっ、舞波が嫌悪に顔をゆがめた。 
  
 「そう、16歳のときでした。わたしには付き合ってる彼がいました。 
  いつもわたしのことをニヤニヤと暖かく見続けてくれました。優しい彼でした。 
  君は世界で一番チャーミングな女の子だよ、と耳元に囁きかけてくれました、えへっ!」 
  
 瞳孔ひらいた茉麻が、赤点のサーチライトを紙袋のやぶれたポイントに当てている。 
 ぶりっこには厳しい。 
  
 「半年あまり月日が過ぎ、しあわせな日々でした。彼はやっぱりわたしの隣にいました。 
  夏の日、嵐の夜でした。わたしと彼は、家に帰ることができず学校に残っていたのです。 
  わたしの不注意でした。いえ、これから先、桃色の青春を過ごすみなさんの前です。 
  恥を忍んで言ってしまいましょう。彼と少しでも長く一緒にいたくて謀ったのです。 
  ありていの言うのでしたら、誘惑したのです」  
- 400 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:04
 
-  前にさー、よっちゃんと15のときから一緒なのよと言ってなかった? 雅が千奈美に聞く。 
 千奈美は退屈による睡魔のせいか、白目を剥いて意識が飛びがちだが、それでもチャーミーの話を聞いている。 
 学校に出る前、圭織に「今日、人の話を聞いてないと枕元に立つわよ」と脅されたのを思い出したのだ。 
  
 なんだよこれ、雅は誰にともなく毒づき、恋路の邪魔をする奴ぁ、どいつもこいつも微塵切りだ、くらいのことを考える。 
 いや、微塵切りじゃなくて、細切りにしてバターソテー、わけのわからないギャグにひとり笑った。 
 状況とタイミングからして、自分に向けられた言葉だとはっきり感じ取っている。 
 そんな中、スピーカーを割って体育館で破裂した金切り声、棒読みチックな恐怖に叫び声に顔をあげる。 
 紙袋の女が肩を震わせ、自分で自分を抱きしめ怯えていた。  
- 401 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:05
 
-  「恋のゲージが振り切れた瞬間! 彼が! 彼が! 
  血に飢えた獣、いや、梨華に飢えたケダモノ!! いやー!!」 
  
 第二波のすぐ後、あ、まちがえた、柴ちゃんだった、とつぶやいた。 
 紙袋だろうと、石川だろうと、チャミーだろうと、偽柴ちゃんだろうと、そんなのどうでもいい。 
 そんな白けた空気をよそに、三文芝居でも創作の過去の傷に酔った女はさらなる高みに駆け上っていく。 
  
 「わたしは彼に辱められ、恋に、そして心に裂傷を負いました。……なのに、 
  なのに!! なのになのになのに! 彼はバーガーショップでバイトしてたのです!!」 
  
 少し陽に焼けたサーファー風とか言うのかな、舞波がバカにしたように笑った。 
 だがその知識のもとに出た皮肉に、誰もその意味に気付くことはなかった。  
- 402 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:05
 
-   
 あーあーあー、小春はアジの開きが喰いたいぞー、なにかひとつ突き抜けた小春が、 
 ふらふらとおぼつかなく揺れながら体育館が出ようとする。 
 「ちょっと小春!」 
 雅が追おうとするが、圭織が立ちはだかる。 
 「待ちなさーい!」 
 自分が止められると思った小春がダッシュする。 
 バタバタとがに股で。 
  
 「なに?」 
 やけに挑戦的な雅のまっすぐな瞳が圭織を射抜く。 
 「え? …………な、……なによ、そのカッコウは!」 
 飲み込まれてしまった圭織は、雅のスカートの下の紺ジャージを指差す。 
 「ファッショよ!」 
 甘えと抵抗のせいで、変に舌足らずになってしまった強い口調。 
 圭織は動いていない心臓を握りつぶされたような気持ちになった。 
 ステージでは、とりとめなく、だらりと続く石川の熱弁が続いている。 
   
- 403 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:05
 
-   
 小春ががらんとした校舎を歩いている。 
 塗りむらのある廊下がぬらりと光っている。 
 「で? なに?」 
 冷静に抑えた口調から出てきそうな台詞だが、声が苛立ちに熱くなっている。 
 それは、つんとした匂いのする化学実験室から聞こえる。 
  
 なんだろう、小春はドアの小窓から中を覗く。 
 そして、キャッと目をそらし、膝をかかえるようにうずくまった。 
  
 ズボンを脱ぎ捨て、パンツを下ろした田原が貧弱な屹立を誇示している。 
 黒板には「清く正しい男女交際の心得、男の子編」と荒々しいが形の整った文字で書き殴ってある。 
 喜びのあまりうすら笑いを浮かべる田原の魔羅からは、透明でとろりとした液が垂れている。 
 吉澤が耳だけでなく、首筋まで真っ赤にさせながらも、気丈に向かい合っていた。 
  
  
  
   
- 404 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/19(金) 02:06
 
-  >>388 必死なんだからよお! 
 
- 405 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2006/07/28(金) 01:55
 
-  続き期待してます 
 
- 406 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2006/07/28(金) 01:56
 
-  ageてしまった…… 
  
 _| ̄|○ スイマセン  
- 407 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:50
 
-   
  
  
 夏が過ぎて 
   
- 408 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:50
 
-   
 風がさらさら流れていく。 
 そこかしこに残る熱を冷ます風が、今はまだ静かに吹いている。 
 太陽が光を弱め、木々の色彩も徐々に薄れていくこの季節でも、 
 夏と変わらない嬌声が弾け聞こえてくる。 
  
 「もうちょっと高くするよー」 
 のんびりした友理奈の声がして、ボールが放物線を描く。 
 落下点ちかくに並んで立ったののとこんこんが、ほぼ同時に飛び上がる。 
 ふたりは笑顔で肩をぶつけ競り合い、キャッと声が高く漏れた。 
 先に最高点に達したののの手は、落下してくるボールに届かず、 
 タイミングよくジャンプしたこんこんが隙間から片手を伸ばし、キャッチした。 
  
 得意気にボールを返すこんこんとは対照的に、ののはけっこう本気で悔しがり、唇を噛む。 
 「じゃあ、行くよー」 
 そんなののの様子に全く気付いていない友理奈が、間髪入れずにボールを投げる。 
 やはりのののほうが飛び上がるのが早い。 
 こんこんがスカした。 
 着地間際にののがボールを掴み、うれしそうに友理奈に返す。  
- 409 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:50
 
-  雅が縁側に腰掛け、その様子をぼんやり眺めている。 
 無表情に近いが、なにかを思い出し、あぐらをかいて、ん゙〜、と唸った。 
 「ねえ、みやもしよう?」 
 友理奈が声をかける。 
 とりつくろうように曖昧に笑って、首を振った。 
  
 玄関前に軽トラが止まり、手ぬぐいを首にかけた後藤がおりてくる。 
 「ごっちーん、なしたー?」 
 ののが聞く。 
 「お弁当なら、のんちゃんが食べちゃったよー」 
 こんこんが告げ口する。 
 「こんこんだって食ったべさっ」 
 「わたし煮豆しか食べてないもん」 
  
 「お弁当忘れるなんて、油断するのが悪いって言ってたー!」 
 家の中に戻りながら、雅にボールを渡した。 
 みや投げてよ、ののがこんこんを隣に立たせる。 
 「ちがうことやってよ」 
 雅がボールを放り出した。  
- 410 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:51
 
-  玄関に入っていった後藤に少し遅れて、制服を着た小春が走ってきた。 
 息が切れ、汗がもみあげのあたりに滴っている。 
 「梨沙子いるー?」 
 「はたけー」 
 雅が返す。 
 「ありがとー!」 
 そのままの勢いで通り過ぎようとする小春を、こんこんが止めた。 
 「もうすぐごっちん畑に戻るから、遠いし乗せてってもらったら?」 
 え? と小春の顔が困惑と緊張にゆがむ。 
 が、すぐ笑顔になった。 
  
 呼ばれたと思って庭に顔を出した後藤がそれを目ざとく見つけ、友理奈に耳打ちする。 
 「わたし怖がられてんの?」 
 友理奈はバカで素直だから、わからないことがあったらすぐに聞く。 
 「ねえ小春せんぱ〜い、ごっちんのこと怖いのー?」 
 ちょっと! と眉間にコミカルな皺をよせた後藤が、友理奈の腕をたたく。 
 そして、なんでもないような顔をして、内心どきどきしながら、小春を窺う。 
  
 小春は、ぼへら〜っと口を開けて笑っている。  
- 411 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:51
 
-   
 後藤が怖いくらいの真顔でハンドルを握っている。 
 助手席の小春もまた、怖いくらいの笑顔でまっすぐ前を見ている。 
 でこぼこの轍に軽トラが揺れ、開いた窓からかすかに土埃がけむる。 
  
 「小春ちゃんさ〜」 
 「はい!」 
 後藤はたじろぎ、いい返事だねぇ、と口の中で呟く。 
 「なんですかー?」 
 「あ、いや……」 
 「はい」 
 「…………あ、梨沙子に呼ばれたの?」 
 「けっこう前に来てって言われてたの、さっき思い出したんですよ」 
 「さっき思い出したんだ」 
 「はい、さっき舞波が変な本を見せてきたんです、それで梨沙子を思い出して」 
 「そうなんだ」 
 「はい」 
 返す言葉に困りながら後藤は、そういえば梨沙子も変なもの見せたがるような気がする、と思った。 
   
- 412 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:52
 
-   
 雑木林を抜けると、複雑に光が跳ねる黄金色の稲穂が視界に開けた。 
 それは小春がここに越してくる前、新潟で見ていた景色そのものだったが、質がまるでちがう。 
 自らの存在が消えてしまいそうなほどに圧倒的な、生命の宝石箱やー! 
 すごーい、と小春がため息まじりに感嘆の声をもらす。 
 が、その次の瞬間、え? と小春の顔が困惑と緊張にゆがんだ。 
 後藤の車に乗ればどうかと言われたときよりも、さらに大きく。 
  
 山に近い一画だけ、妙に背の高くて大きな稲穂が密生している。 
 バランスよく稲穂が並ぶ田圃で、そこだけが歪に盛り上がっている。 
 「たぶん梨沙子が見せたかったのって、今見てるやつだと思うよ」 
 「なんなんですか? あれ」 
 「いやあ、あそこだけ梨沙子にやらせてみたらさ、ああなっちゃった」 
 死んだに等しい休耕田に、梨沙子は異様に豊潤な稲を実らせた。 
 「あれ、大丈夫なんですか?」 
 もうしわけなさそうに小春が聞く。 
 「今のところはね」 
 自分で言ってて無責任だな、と後藤は思ったが、本当にそれ以上はわからないのだ。  
- 413 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:52
 
-   
 小春を見つけた梨沙子が手を振っている。 
 車を降りた小春は、ありがとうございました、とおかしなリズムの早歩きで梨沙子へと向かう。 
 けっこう遠い。 
 そして、近づけば近づくほど、巨大な稲穂が迫力を帯びてくる。 
 「なにこれー!」 
 「すごいでしょー」 
 「うん! すごーい!」 
 テンションの上がりきっていた梨沙子、顔を逸らして照れた。 
 「でもこれ、どうやったらこうなったの?」 
 「ごっちんに教えてもらった通りにやった」 
 「でも、全然ちがうよ」 
 ほら、そう小春が指差した大部分は、たわわに実ってはいるが小ぶりの美しい稲穂だ。 
 「……わかんないけど、でもこうなった」 
 「食べれんの?」 
 「たぶん……」 
 自信がなくなり消え入りそうな声になっていく。 
  
 じゃあ一個もらうよー、と小春はフリスクほどの籾を毟りとり、そのまま口に入れた。 
 まず、顔が歪んだ。 
 梨沙子がさみしいような悲しいような顔をする。 
 「おいしー!」 
 小春の鼻の穴がふくらんだ。  
- 414 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:52
 
-   
 おいしいおいしいと頬をほころばせる小春を、梨沙子は戸惑いの面持ちで眺めている。 
 刈り入れたら、れいなにでも毒味させようと後藤と話していたのだ。 
 ふつう、こんな変な作物を食べようとは思わない。 
 「外の皮が邪魔だけど、おいしいね」 
 てっきり梨沙子もこの味を知っていると思っている小春は、満面の笑みで言った。 
  
 え、ああ……、梨沙子は口ごもり、生の米食べてもおいしくないんじゃないかな、と騙された気分で籾に手を伸ばした。 
 手に取ってはみたが、ためらう。 
 小春がおいしいと言うたび、梨沙子は自分の作物を疑ってしまう。 
 が、小春が無我夢中で貪り食っている様を見ていて、そんなことどうでもよくなってきた。 
 埃をはらうように籾を撫で、かぶりついた。 
 控えめではあるが、鮮烈な甘みが口いっぱいに広がり、噛むほどに味わいが深くなっていく。  
- 415 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:53
 
-   
 「うそ、まじ?」 
 二人の様子を見に来た後藤が信じられないといった顔をした。 
 生米をバリバリ食う梨沙子と小春は、珍妙だが幸福そうだ。 
 「ごっちん、これおいしい」 
 「いや、わたしはいいよ」 
 食えって言われそうだから、先を越して逃げた。 
 すると、梨沙子が自分を全否定されたような顔をする。 
  
 今朝までこんなの食べれないとか言ってたのに勝手だな、と後藤は息を吐く。 
 「じゃあ、ちょっとだけ」 
 変に投げやりな甘たるい声で、梨沙子の持っていたそれを口に入れた。 
 「あ……」 
 あまりの美味しさに、呆けた。 
  
 「ちゃんと炊いたらもっとおいしいんじゃない?」 
 「あー、ウチもそれ思ったー」 
 梨沙子が意味もなく小春を指差して同意する。 
 同意というよりも、小春が自分の意見を先に、とでも言いたげなニュアンスだ。 
  
 ふと我に返った後藤は、夕焼けに差しかかる空気の変化を察知した。 
 「まあ、その方法は後々かんがえるとして、帰るよ」 
 「なんで?」 
 「言ったでしょ、今日は女語りが復活するから、早めに帰るって」 
 あ、そっか、と梨沙子は名残惜しそうにしている小春に腕をからめた。 
 そして、小春に先導を任せる。 
   
- 416 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:53
 
-   
 ◇ 
  
 ステージでは、るんるん共和国改め、 
 一度聞いただけでは覚えられないおかしなグループ名になった、みうなと岡井千聖と萩原舞がコントをしている。 
 ちなみに友理奈はもう在籍していない。 
 飽きてしまったのだ。 
  
 顔の半分くらいを覆ってしまいそうな大きなサングラスをかけた萩原舞が叫ぶ。 
 「サングラスかけてたっていいじゃないですかー」 
 でも体が小さいから、声も小さい。 
 健康的すぎるくらいに焦げた小さな女の子、岡井千聖がたしなめる。 
 「怒らないでよ」 
 「いやいや、きれてないっすよ」 
 なんか見たことある感じ、でもそれがなにかはわからない。 
   
- 417 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:53
 
-   
 ステージすぐ脇の定席に座る後藤は、コントなど存在すら意識していない。 
 「だからさー、梨華ちゃんも出来心だったんでしょ? 出来心っていうのか、わかんないけど」 
 「でもさ、やっぱ、それはちがうじゃん」 
 「なにがちがうのさ。みっちー追っかけて、ちょっとの間、留守になっただけじゃん」 
 「だからってさー、あんな楽しそうにはできないでしょ」 
 「だって梨華ちゃん、あんなじゃん。どうしようもない感じじゃない」 
 「うーん、……まあ、そうだけど」 
 骨と皮になるくらいに痩せ細った吉澤が俯く。 
 「梨華ちゃんが帰りたいって言ってんだから、迎えに行ってあげりゃいいじゃないのよぉ」 
 「石川だって子どもじゃないんだからさ、帰りたかったら自分で帰ってくるでしょ」 
 「だって、梨華ちゃんだよ?」 
 確信を持って後藤に迫られ、吉澤は言葉を失くす。 
 「ね? よっちゃん」 
 「なんかそういう甘えがむかつくんだよね」 
 「じゃあ、そんなになるまで痩せないでよぉ!」 
 「いや、これはただ食事の量が減って、運動するようになっただけだから」 
 「言っとくけどねー、今のよっすぃ、アレより酷いよ」 
 後藤が店の最後方にいる一席を示す。 
  
 いつからいるのかわからないほど席は乱れきり、とけた氷で水っぽい。 
 カルピスに酔った新垣が、机につっぷしてクダを巻いている。 
 「いやあ、さすがにあそこまではないっしょ」 
 吉澤は認めたくないのだろう、今までで、ここ最近で一番声が大きかった。 
  
 新垣は今、悩んでいる。 
 生活の糧を共にする相棒、鵜の愛ちゃんが仕事ができなくなってしまったのだ。 
 どれだけ仲違いしても仲直りしてきたし、いつまでも一緒にやっていける、 
 どちらかが落ち込んでいても、ふたりでなら人生楽しんでいける、そんな自信があった。 
 だが、今回ばかりは、愛ちゃんを救ってあげられないし、力にもなってあげられない。 
 愛ちゃんは、新垣以上に悩んでいる。 
 あぁしは鳥と人間、どちらの魂を持っているのか、わからなくなった、と。 
   
- 418 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:53
 
-  「まさにあんな感じだよ?」 
 そう後藤に断定されては、吉澤はなにも言えなくなってしまう。 
 「まあ、そういうこともあるんじゃない?」 
 やけに親しげな笑みを浮かべた矢口が、吉澤の隣に座った。 
 後藤と吉澤は、一応は笑顔を浮かべて、困っている。 
 前の家を放り出されてから矢口は、中澤のキャバレーに寝泊りしてる。 
  
 紫色の全身タイツを着た中澤がやってきて、叱りつける。 
 「こらメイド! お客さんに慣れ慣れしくするんじゃありません!」 
 「えー、なんでだよー」 
 「なにがもなんでもあれへんがな、さっさとメイド服着てきなさい」 
 屈辱のメイド服だけは着るまいと矢口は粘るが、中澤は矢口を辱めて喜びを得ている。 
 かわいい矢口だった、今でもまだかわいいから、辱めたい。 
  
 死にそうな顔をしたオバケがすーっと入ってきて、後藤の隣に座る。 
 「ちょっとごっちん、わたしの戸籍ってどうなってるの?」 
 「いや知らない。なんで?」 
 「死亡届けとか出した?」 
 「わかんないけど、誰か出したかもしれないね。圭織、死んでるんだし」 
 はぁ〜、深いため息を吐いた圭織は、それでもまだ足らないとでもいうように、 
 自らの形態を透けさせて、ふよふよに崩れ落ちた。 
 「もうやめてよ、それ。生きてる実感がしなくなってくる」 
 後藤が、見たくなかったものを見てしまったような顔をしている。  
- 419 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:53
 
-  「いえーい! なっち戸籍もあるし、住民票もあるぅ!」 
 涎を垂らしながら、酔いどれなっちが駆けてきた。 
 うっさい死ね、圭織がつぶやく。 
 なっちは勝ち誇ったように、圭織の前で立候補宣言をした。 
 だいぶ前、どっかで誰かが言っていた村長の不在を、今になって思い出したのだ。 
  
 「マジ? なっち立候補すんの? なら、わたしもしようかな」 
 矢口が口を挟む。 
 なっちは泣きそうに困った顔になり、え? だれ? と不安そうに中澤の腕をつかむ。 
 「いや、うちも知らん」 
 「えー、なにこれー、知らない人に親しげにされるなんて、なっちこわーい」 
 そんなのどうでもいいんだよ、と圭織が声を荒げる。 
 「どこの誰ともわからぬ馬の骨に、村長の大役を任せられるわけないべさー」 
 ノリノリのなっちが、圭織に物も言わせない。 
  
 「それよりごっちん、桃子ちゃん、最近どうしてる?」 
 中澤が、みんなには聞こえない程度の声で後藤の肩を叩いた。 
 「元気にしてるけど?」 
 「最近こっちのほうに顔出さんなあ、思て」 
 「ももの話、笑えないし。しょうがないんじゃない?」 
 「普通に歌やればええのに」 
 「なんか前、こんこんが言ったみたいだよ。無理しないで、得意分野でやれば? って」 
 「うん、で?」 
 「いやだって」 
 そうだよなあ、と中澤は、諦めの面持ちで後藤の隣に座った。  
- 420 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:54
 
-  話しかけてくる矢口を頭から押さえつけた圭織が、ボーっとした吉澤の顔の前で手を振った。 
 「よっすぃ、石川がなんか帰りたいって言ってるんだって?」 
 「そう、圭織も言ってやってよー」 
 後藤がさらにたたみかける。 
 この件に関して、やけに力が入っている。 
 実は後藤も石川がいなくてさみしいのだ。 
  
 「わたし、あ、おいらが連れ戻しに行こうか? どうせ暇だし」 
 「ダメだよ、よっすぃ、人生にはねぇ……」 
 なっちがおかしな人生論を語りそうになったので、中澤が口を挟む。 
 「でも、なんで帰りたいなんて言い出してんやろな」 
 「そういや、なんでだろうね」と後藤。 
 「いじめられたりしてんじゃないの?」と圭織。 
 それはないでしょ、と吉澤が首をふる。 
 無視ってのはいじめなんだぞ! 
 「でも、理由のないいじめはないからねぇ」と後藤。 
 言葉が通じてしまって、はっとなる。 
  
 圭織が笑い出した。 
 「たしかに、理由のないいじめはないよねー」 
 「でも、梨華ちゃんだからなあ」 
 吉澤が心配そうに呟く。 
 後藤がにやける。 
 「あ、梨華ちゃんだってぇ」 
   
- 421 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:54
 
-   
 すぐ隣の席に身を隠し、ずっと話を聞いている梨沙子と雅。 
 梨沙子はもう話半分で、雅にしなだれることに執心していたが、 
 その一方で雅はなにやら深刻そうに、暇なお姉さん達の話に聞き入っていた。 
 「みや………、みや?」 
 「ん? なに?」 
 「このままじゃ女語り始まっちゃうよ」 
 梨沙子が、店の奥に消えていく中澤を指さした。 
 「なんかまずいことでもあるの?」 
 眉間に皺をよせ、口を噤む梨沙子に、雅は急に不安になった。 
 興味がないわけではないが、今の梨沙子の表情と、中澤のキャラクターを結びつけると、 
 想像したくもないような恐怖の予感がして、膝が震えた。 
  
 店内がふっと暗くなる。 
 「やばい、みや、逃げよう」 
 梨沙子が雅の手を取って走り出した。 
 え、え、えー? なにー? これー! くらーい!! ガキさんの声が響き渡る。 
 だが、その声もすぐに後藤の歓声に掻き消された。 
 中澤の声が、キャバレーの壁を突き破りそうなくらいに破裂する。 
 「第三十三章、ぞろ目っ!!!」 
  
   
- 422 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:54
 
-   
 ◇ 
  
 後藤は軽トラから降り、空を見上げた。 
 まだまだ蒼く暗いが、東の端の向こうからぼんやりと透明な紅が差してくる。 
 ちょっと油断すると身震いしそうな冷えに抵抗するよう、後藤は息を吸い込む。 
 夏の濃さを残した山々が、秋の気配に静まりかえっている。 
  
 どうしようかな、満足げにひとりごちり、どうにかしなきゃいけないことがたくさんあると思いなおし、そっとドアを閉めた。 
 今日は、やっぱり女語りはよかったと、思い出し笑いをしながら、極力音を立てずに戸をくぐる。 
  
 居間で、こんこんが待っていた。 
 ラブラドールの仔犬が映っているテレビを消した。 
 「おかえり」 
 「ずいぶん遅くまで起きてたね」 
 「うん」 
 「さっきさー、また矢島舞美ちゃんを轢いちゃって、大丈夫ですか? ってこっちが逆に聞かれちゃったよ」 
 なんであの子、こんな夜更けから走ってるんだろうね、そう話しだそうとすると、 
 しっ、こんこんが唇に指をあて、空いた手で後藤の死角を指す。 
 梨沙子と桃子と舞波が、身を寄せ合うようにして眠っていた。 
  
 「秋だからもう怖くないって、怖いDVDさっきまで見てたの」 
 並々ならぬこんこんの表情に、後藤は出すべき言葉を失ってしまう。 
   
- 423 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:54
 
-   
  
  
       
- 424 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:54
 
-   
 子ども三人に気を使い、台所の食卓テーブルで話を聞いた。 
 食べ物以外でこんなに意見がはっきりしてるのは珍しい、後藤はそう思った。 
 それは相談というよりも、報告だった。 
 淡々と、でも置き去りにするのではなく、こんこんは後藤に伝えた。 
  
 聞いても無駄だろうと思いながらも、後藤は訊いた。 
  
 「もう決めたことだから」 
 こんこんは穏やかな顔をしているが、強固な意志に支えられた目をしている。 
  
 居間のほうから、寝返りをうつ声が聞こえた。 
 舞波の声だ、後藤は今さらながらに、舞波の声を確認した。 
  
  
  
   
- 425 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/17(日) 20:55
 
-  >>406 
 どうせ上がるんだし  
- 426 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:10
 
-   
  
  
 青空がいつまでも続くような未来であれ 
   
- 427 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:10
 
-   
  
 家の中からでも、空が高いのがわかる。 
 布団が敷き放しの子ども部屋で、舞波はダンボールを組み立てている。 
 が、誰かが脱ぎ散らかしたパジャマが引っかかり、うまく組めない。 
  
 「手伝おうか?」 
 表情の薄くなった雅は、恐ろしく美しく見える。 
 パジャマを外し、ダンボールの形を整えて押さえた。 
 ありがと、小さく呟き、舞波が合わせ目にそってガムテープを滑らせる。 
   
- 428 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:10
 
-   
  
 ◇ 
  
 昼過ぎ。 
 開店前のキャバレー裕子。 
 まだ灯の入っていない薄暗い店内で後藤は、いつもの席でボーっとステージを眺めている。 
 「刈り入れ、まだなん?」 
 「うん、まだ。もうちょっと」 
 「いいのんかい、畑にいなくて。ごっちゃん、タイミングめっちゃうるさかったやん」 
 「梨沙子いるから……」 
 中澤は、ふーん、と意外そうな顔をして、ジョッキを三つ置いて奥に消えていった。 
  
 後藤は手元にあったビールを一息に半分以上も飲み、重く息を吐いた。 
 あんまりおいしくないからとやめたビールだったが、今は飲まないほうが不自然なような気がしている。 
 脳にまわる血流が意識され、すぐにそれが鈍くなり、思考が低回をはじめる。 
 後藤は残りを飲み干し、息を吐いて頭を垂れ、目を閉じた。 
  
 「ねえ、よっすぃは〜?」 
 後藤は声のしたほうをチラと見て、返した。 
 「知らなーい」 
 言って、ギョッとして、慌てて振り返った。  
- 429 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:10
 
-  見るからに吉澤を探しにきてはいない、黒いエプロン姿の柴田。 
 駅弁の売り子のような格好で、コロッケを山盛りに抱えている。 
 「いないのかあ、そうなんだ」 
 柴田は意味なくニコニコしている。 
 微小な体の動きにあわせて、肩から伸びた黒い牛のノボリが揺れている。 
  
 ええっ? めずらしく普通のリアクションが出た後藤、言葉が出てこなかった。 
 呆然と柴田が歩いてくる様を見つめ、自分の隣に座ってきたところで、ようやく焦点が合った。 
 柴田は笑顔を崩さない。 
 「……なに?」 
 「情熱の海岸線、秋の新商品」 
 ここまで言えばわかるでしょ、とでも言いたげに、コロッケを差し出す。 
  
 嫌ではないが、期待もしてない。 
 後藤は、心が枯れていくのを感じながら、そのコロッケを口にした。 
 まずくはないが、コショウが妙に強い、変に水っぽい。 
 無駄に分析してしまう。  
- 430 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:10
 
-  柴田は自分では手をつけず、解説をはじめる。 
 「これね、秋の新ジャガと、鹿児島黒豚を使ってるの」 
  
 後藤、味わうフリして無言を装ってはいるが、眉間に皺。 
 新ジャガにはまだ少し時期が早いとか、ノボリに描いてあるのは牛だとか、 
 そういうことに気付く余裕はまだない。 
   
- 431 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:11
 
-   
  
 ◇ 
  
 軽やかなくらい、空が青い。 
 うすい雲の白さが、やけに際立つ。 
 枯れ草の混じるようになった畦道で、梨沙子が小さく蹲っている。 
  
 そのすぐ後ろで、圭織が困ったようにふわふわ漂っている。 
 元気が出るまで放っておけばいいのだが、そこまで突き放せない危うさが、梨沙子にはある。 
 稲が風に揺られるだけで泣く梨沙子に、圭織はかけるべき言葉を見つけられない。 
 そんな考えてもないが。 
 それよりも、からかいたくて泣かせたくて仕方がない。 
  
 「こりゃまたけったいなもん実らせたなあ」 
 うしろに手を組んで、あいぼんが畦道沿いをてくてく歩いてきた。 
 おいしいんだから、梨沙子が声だけ出す。 
 そして、その反動ですすり泣く。 
 稲は、この前、小春と食べたときよりも二まわり以上大きくなっている。  
- 432 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:11
 
-  あいぼんは梨沙子の隣にすわり、眩しそうに稲を眺める。 
 「麻琴もよくここまで頑張ったなあ。梨沙子ちゃん、そぅとぅ好かれてる」 
 梨沙子の背を優しく撫で、指を順番にまわして畳ながらおどけて言った。 
 「ずっと気になってたけど、マコトってなに?」 
 誰にもほっとかれないようなかわいらしい、か細い声で聞く。 
 珍しく知らないことを素直に聞けた。 
  
 あいぼんが圭織を窺う。 
 圭織は、一度は首を傾げたが、まあ、いいか、とでも言うように頷いた。 
 「あんな、梨沙子ちゃん。麻琴はな、頑張ってる子には頑張れぇって言うし、 
  困って泣いてる子には、優しく手を差しのばしてくれんねん」  
- 433 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:11
 
-  泣き濡れた梨沙子が、隣に座ったあいぼんをキョトンと見て、圭織を確かめる。 
 圭織も、あいぼんの説明でなにかわからなくなってしまったようで、難しい顔をしている。 
 「え? ちょっと待ってあいぼん、マコトって、空気と水と麻琴の、麻琴だよね?」 
 うん、と今度はあいぼんが不安そうな顔になる。 
  
 感覚的な概念を伝えるには、言葉は邪魔なだけだ。 
 ののに聞けば、麻琴は麻琴だと言うだろうし、こんこんに聞けば、食べ物仲間と言うだろう、 
 後藤に聞いたとしたら、そういやなんなんだろうね、と悩むフリだけして、笑ってごまかして終わりだろう。 
  
 「いや、麻琴っていえばさ、ほえっさー! って感じじゃない」 
 圭織の突き上げた腕は明後日のほう、視線が十日先を向く。 
 「ちょいちょいちょいちょい、なんかそっちのほうが変」 
 「え? 麻琴っつったらこれじゃん、ほえっさー!」 
 「意味わからへん。なにそれ? ほえっさー」 
 あいぼんの鼻の下が伸び、ゴリラっぽい顔になる。  
- 434 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:12
 
-  梨沙子が泣いた。 
 ふたりがあまりにもバカっぽいので素に返り、舞波のことを思い出したのだ。 
 	 
 あ、やべ。圭織が反省したような表情を作るが、どこか笑ってる。 
 「そういや、あさ美ちゃんと舞波ちゃん、行くの決めたんだってね」 
 「あいぼん知ってたの?」圭織が聞く。 
 「けっこう前にね、どうしようか考えてるんだあ、ってあさ美ちゃん言ってた」 
 「そうだったんだ」 
 一緒にいたのに全然気付かなかった圭織は、さみしそうな複雑な顔をする。 
 「まあ、近くの人には言えないだろうし、気付かせないようにするよ、あさ美ちゃんは」 
 そう背を向け、香ばしそうな色をした巨大な稲の群れに降りていく。 
  
 「のんちゃんには、まだ言えないままだしね」 
 自嘲気味に笑った圭織が、梨沙子を慰めるように、ふわっと浮かび上がる。 
 なに、のんは知らないの? あいぼんが振り返る。 
 宙を舞う圭織につられるように顔をあげた梨沙子が、ゆっくりと頷いた。  
- 435 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:12
 
-  そうなんかー、あいぼんが空を見上げる。 
 輪郭を失いつつある白い太陽が、透明な青空に拡散している。 
 空に溶けた陽光は、ゆっくりと地上に降り、麻琴に吸い込まれて恵みをもたらす。 
 かすかな、でもはっきりとした意志を持って。 
  
 「のん、ほんとに知らないのかな」 
 あいぼんは、空を見上げたままだ。 
   
- 436 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:12
 
-   
  
 ◇ 
  
 首都、東京。 
 目に飛び込んでくる情報が、田舎の風景とくらべて桁外れに多い。 
 あまりに多くの事象に脳が整理できず、眩暈がしたののは、吉澤の手を探した。 
  
 やっと掴んだ吉澤の手は、なぜか来た方向、新幹線に戻ろうとしている。 
 「おい!」 
 ののは声を荒げ、引き返す気まんまんの吉澤の背中をプラットフォームに戻した。 
 「いや、無理」と言った吉澤の顔は、蒼白になっている。 
 「おめえの格好のほうが無理だよ」 
 守るべき対象を見つけ、人一倍つよい姉御気質がののの背中に筋を通した。 
 「ばっか、これはあれだって、……正装だって!」 
 花柄のスカートをはいた吉澤が、唾を飛ばして顔を赤くさせる。 
 思春期の一時期以来、オシャレということを忘れていた吉澤の、 
 東京への変な気負いがおかしな方向に出てしまった。 
 「うっさい、もういいから行くよ」  
- 437 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:13
 
-  とは言うが、やはり怖い。 
 ある程度、乗客がプラットフォームを降りていき混雑が収まるまで、近くのベンチに待機した。 
 「つーかよっちゃん、梨華ちゃん家の場所とか知ってんの?」 
 きょろきょろと周囲を見渡していたののが、不安そうに聞く。 
 石川の携帯番号は控えてきたが、公衆電話が見当たらない。 
 東京には公衆電話がないと保田に教えられていたののは、そんなことあるわけないと信じていなかった。 
 そもそも電話を使うことは少ないし、村にある公衆電話の場所はわかっている。 
 それまであった常識が通用しないことに、これまであった繋がりがすべて断ち切れてしまったような気がしたのだ。 
  
 吉澤は、ああ、とののに握り締められていないほうの手で、スカートのポケットを探る。 
 「なんかねえ、石川がお手紙ちょうだいねって送ってきた手紙に、 
  ……………………きもいよな、お手紙ちょうだいって手紙送ってくるの」 
 「もう、いいから!」 
 ののは一刻も早く結果が、安心がほしい。 
 なんだよぉ、とあくまでマイペースは吉澤は、ののの苛立ちをかわすような笑顔でポケットを探る。 
 もうすでに立場は逆転し、元に戻ってる。  
- 438 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:13
 
-  「ねえ、あるんでしょ?」 
 救いを求める弱者のような顔で、ののが吉澤の腕をつかむ。 
 「大丈夫、ちゃ〜んとあるから」 
 笑いながら腰を浮かせて、奥のほうまで手をつっこんだ。 
 そして、凍りつく。 
 「あれ?」 
 「ん?」 
 「ない」 
 「え?」とののが息を詰まらせた。 
 「だから、ない」 
 「うそでしょ?」 
 「いや、まじ」 
  
 吉澤の真剣な表情に、のののかたまった頬がふっとほどける。 
 「あー、わかった。なーんちゃって、とか言うんでしょ?」 
 「やべえ、なくした。もしくは忘れた」 
 どこかのんびりした吉澤に対して、ののは半狂乱。 
 「うっそつけよ、おめえ! あんだろ、ぜってぇどっかに隠してんだろうがよ!」 
 やたらめったらに吉澤のスカートのポケットに手をつっこむ。 
 「脱げる脱げる脱げる、スカート脱げちゃうから」 
 吉澤は下ろされそうになるスカートを押さえる。 
 それがさらにののの疑心を煽る。 
 「ほらやっぱ隠してんだろうがよぉ! 早く出せよ、いいから出せよー!!」 
   
- 439 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:14
 
-   
  
 ◇ 
  
 ダンボールが揺れている。 
 ぼこぼこに折れ曲がり、激戦であることが垣間見れる。 
 「出せー! こっから出せー!」 
 れいなの悲鳴が聞こえるが、舞波たちは淡々と荷造りをしている。 
  
 舞波が持っていく物を選び、千奈美がダンボールに詰め、雅がダンボールから出す。 
 雅はいつ突っ込まれるか心待ちにしているのだが、二人ともれいなに気を取られて気付かない。  
- 440 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:14
 
-   
 ついうっかり現れたれいなは、ちょうど手伝いに来た千奈美に抱きかかえられ、 
 当然のようにダンボールに詰め込まれた。 
 「これ送ってみない?」 
 れいなだからいいんじゃないかと、軽く思いやりが緩んだ雅が提案した。 
 いいねー、と千奈美がダンボールを少しだけ空け、水のボトルと肉缶と新聞紙を入れ、素早く閉じた。 
 「空気穴、開けたほうがいいんじゃない?」 
 普段なら止める役割の舞波の、思わず助言。 
 センチメンタルは人から余裕を奪い、残酷にさせる。 
  
 これは冗談じゃなく本気だ。	 
 さすがにやばいと勘付いたれいなは、途端に喚きだした。 
  
 「れいな缶詰あけれたっけ?」 
 雅が腕を組んで首を傾げた。 
 「人間、その気になれば何でもできるもんだよ」 
 千奈美が我が物顔で無責任を言う。 
 「れいな、猫! れいな猫だから! れいな猫やけん、缶詰なんか開けられん!」 
 ダンボールの中から何か聞こえた。 
 「早く荷造りしちゃわないと」 
 なにかを振り払うように、舞波が 
  
 それからずっと、れいなは誰かに救いを求めている。 
   
- 441 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:14
 
-   
  
 ◇ 
  
 あ、と思い出したように後藤が、ステージで打ち合わせ中の舞ちゃんに声をかける。 
 「そらまめちゃーん、ちょっと来てー」 
 てててっと舞ちゃんが駆けてくる。 
 「ねえ、前から気になってたんだけどさ、そのサングラスってなんなの?」 
 なんなのもなにもないのだが、けっこうずっと気になっていて、聞けないままだった。 
 「自由のシンボルです」 
 「んな、あややじゃないんだからさー」 
 後藤は鼻白む。 
  
 あー! と柴田が声をあげる。 
 なになに? 後藤が振り返る。 
 「そういえばごっちんに会いにきたの、コロッケ食べてもらうためじゃなかった」 
 苦労でもないけど、コロッケ食べなくてもよかったんだと、後藤の口が半開き。 
 「よっすぃがさー、梨華ちゃん追っかけて東京行ったんだよ。その話だった」 
 「まじ?」 
 「うん、ののも一緒だって行ってたから、ごっちんなんか知ってるかなー、って思って」  
- 442 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:14
 
-  それはマズイと後藤が慌てて携帯を取り出す。 
 「あ、まっつー? よかった繋がって」 
 まっつーって誰? と柴田が不思議そうな顔をしている。 
 「うん、あ、そうなの? いや、なんかね、よっすぃが梨華ちゃん連れ戻しに東京いるらしいよ」 
 『それって梨華ちゃん知ってるの?』 
 「知らないと思う。かなりまずいっしょ? 知らせてあげてよ。わたし梨華ちゃんのケイタイ知らないし」 
 『そうしたいのはやまやまなんだけどさ、実は今かなり体調悪くてねー』 
 「そうなの? 全然そんな感じの声じゃないけど」 
 『パソコンがさー、エロサイト見てたら急に画面が青くなっちゃって、 
  なんかウィルスかかっちゃったみたいで、そのせいだと思うんだけどねぇ……』 
 「ふーん。じゃ、よろしく」 
 よくわかんなかったから、切った。 
   
- 443 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:15
 
-   
  
 ◇ 
  
 ほとんど鏡面のような大きな河。 
 上流のほうからぴるるると渓流のせせらぎが聞こえてくる。 
 愛ちゃんは桟橋にすわり、ほうっとため息をつく。 
 それに呼応してか、つけてある小船が揺られて波紋が起こる。 
  
 川面に映った自分の姿を見て愛ちゃんは、じゅんわり滲む涙をこらえた。 
 わかると思ったことが、わからなくなる。 
 ガキさんに言われた、本当はどっちがいいの? 
 「どっちなんやろうなあ」 
 とひとり呟いてみたものの、鳥と人間なら、人間のほうがいい。 
 あったかいごはんにポカポカお風呂、あったかい蒲団で眠るんだろな。 
 あぁしはやっぱり人間がいい。 
 でも、やっぱ、なんだか踏み切れない。  
- 444 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:15
 
-   
 カサカサカサカサ…… 
 俯く愛ちゃんに忍び寄る地を這う影。 
 ミキティ! 
  
 カサカサカサカサカサカサカサカサ…… 
 体は汚れで黒光りしているが、自然に同化しかかっている。 
 すさまじく醜いスピードで、愛ちゃんとの距離を一気に詰める。 
  
 がはーっ! 
 愛ちゃんの細い首を絡めとり、桟橋に叩きつけ馬乗りになった。 
 「I wish I were a BIRD!」 
 変態のくせに英語をしゃべった。 
 はあ? と愛ちゃんの顔が恐怖と異臭にゆがむ。 
   
- 445 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:15
 
-   
 ふひゅー、息を漏らし、涎と洟水を垂らしたミキティが、腹の底から声を発する。 
 「わたしには見える。お前は鳥と人間、二つの魂を授かって生まれたのよ!」 
 「そんなバカな!」 
 「自分に言うがいい。鳥のときは人間に憧れ、人間のときは鳥になりたくないと願う、バカげた自分自身に!!」 
  
 どっちも同じことやろ、自分が自分でなくなってしまいそうな恐怖の予感の中、 
 愛ちゃんは、どっちにしてもあぁしは人間になりたいのかもしれないと目を閉じた。 
 だが、どうしても鳥である自分を捨てたくないとも思った。 
 人間になってしまえば、ガキさんとの関係がなくなってしまうような気がしたからだ。 
 ガキさんと一緒にいられるなら、いっそのこと鳥のままでも……  
- 446 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/09/29(金) 02:16
 
-   
  ばくばくばくばく 
  
 ミキティが愛ちゃんの魂を喰らう。 
 全身のあちこちを噛まれながら愛ちゃんは、心の中でずっとガキさんを呼んでいた。 
 仲直り、しておけばよかったな。なんであんなに長いこと謝れんかったんやろ。 
  
  ばくばくばくばくばくー 
  
  
 あーはっはっはー! 変態の高笑いを聞きながら、愛ちゃんは意識が薄れていくのを感じていた。 
  
  
   
- 447 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/10/28(土) 23:57
 
-  愛ちゃん! 
 
- 448 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/12/27(水) 19:56
 
-  面白すぎて続き期待 
 
- 449 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/01/10(水) 21:05
 
-  新年のご挨拶 
 
- 450 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/29(木) 22:30
 
-   
  
  
 あれから  
- 451 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/29(木) 22:30
 
-   
 水を張った鍋に、昆布がひらひら揺れている。 
 朝の台所に立つ雅は、じっと鍋を見つめている。 
 いつもなら朝は前の日の残りをそのまま使うのだが、 
 昨夜は千奈美と茉麻がお味噌汁パーティーといって飲み干してしまった。 
  
 ふるふると水が揺れだし、鍋の底に小さな気泡がたちはじめる。 
 そろそろだ、と雅は昆布から滲むエキスに目を凝らす。 
 出汁を取る理由は未だにわからないが、経験で好評を覚えた。 
 お湯に味噌を溶くよりも、顆粒の出汁を入れるよりも、みんな喜ぶ。 
  
 小さかった気泡が大きくなり、ぶくぶくしだす前に昆布を取り出した。 
 流しに放り、かつお節を掴む。 
 煮立つ前に火を止め、一呼吸置いて、まっしろい布巾で漉した。 
 出汁を取り終えたかつお節は、あとでれいなに食べさせる。  
- 452 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/29(木) 22:30
 
-  集中が途切れると、雅は朝の寒さを思い出した。 
 空気はぴんと張り詰めていて、素足がつめたい。 
 ストーブをつけ忘れていたと居間に戻ると、軽トラが家のすぐ前に停まった。 
  
 雅は首をかしげ、ちょっと背伸びをするように外を見やった。 
 梨沙子が疲れたような表情で降りてきて、大きく背伸びをした。 
 朝の澄んだ空が、光の弱い日に白く照らされている。 
  
 「どしたの? こんな時間に」 
 そっと家に入ってきた梨沙子の表情が、ふっとやわらかくなる。 
 先ほど車を降りてきたときの様子が嘘のようだ。 
 「畑見てきた」 
 「なんで」 
 「気になったから」 
 「なんで」 
 梨沙子は言葉を止め、心底困ったように考えこむ。 
 「うーん……、なんていうんだろう、あれ、……あのさ」 
 「ごめん、いいわ」 
 聞いたみやが悪かった、と雅は朝食作りを再開させる。  
- 453 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/29(木) 22:31
 
-  取り残された梨沙子は、出かかった言葉が見つからず、気持ち悪そうにしている。 
 それよりも、わざわざ朝早く家を出た理由がわからなくなり、もう! と足踏みした。 
  
 あ、そういえばさ、と台所から雅が顔を覗かせた。 
 「昨日こんこんからメール着てさ、正月、帰ってくるって。梨沙子昨日はやく寝ちゃったから」 
 「舞波も?」 
 「舞波?」 
 雅が、うーん……と間を持たせる。 
 たっぷりと焦れた梨沙子の様子に満足したように、にやっと笑う。 
 「もちろん、舞波も一緒に」 
 梨沙子は、ぱあっと顔を輝かせたが、すぐ自分を戒めるように真顔に戻った。 
 かっこつけんなよ、雅がにやにやしたまま台所の奥に引っこんだ。 
   
- 454 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/29(木) 22:31
 
-   
 これから寝るの? 雅の背越しの質問を受けながら、梨沙子は食卓で水を飲んでいる。 
 畑を出発したときは、すぐにでも寝ようと思っていたが、目が冴えてしまった。 
  
 舞波は今春、梨沙子が中学に入る少し前に、べつの勉強がしたいと家を出た。 
 大学に合格したと同じ町に出たこんこんは帰ってきて、たっぷり一ヶ月はいた。 
 そのとき、編入した先の中学校での舞波をいろいろ聞いたが、いつも通り、だそうだ。 
 「ねー、みやー」 
 「んー?」 
 「どれくらいいるってー?」 
 「こんこん?」 
 「うん、舞波」 
 「連絡してきたのこんこんだからわかんないけど、正月はいるんじゃない?」 
 聞きたいのはそういうことじゃないのに、と梨沙子はふくれっつらで雅を見る。 
 ちょうど雅が振り返り、湯気のたった椀を両手に持って梨沙子の前に座った。 
  
 梨沙子は自分の分かと思ったが、ちがうようだ。 
 雅は椀を隣の席に置き、あまった一つに口をつけ、ゆっくり啜った。 
 「おいしー」 
 そして梨沙子の視線に気づき、飲むの? と聞いた。 
 寝るものだと思っていたようだ。 
  
 恨みがましい視線に雅は苦笑し、じゃあ持ってきてあげるよ、と席を立つ。 
 おはよー、と佐紀が入ってきた。 
 雅が座っていた隣に座り、当然のように味噌汁を飲む。 
 幸福そうに顔をほころばせた。  
- 455 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/29(木) 22:31
 
-  「ほら、あんたも拗ねた顔してないで食べなさい」 
 「すねてないもん」 
 梨沙子がやっとありついた味噌汁に口をちょびちょびつけていると、 
 バタバタと桃子が駆けてきて、ねえ、ちゃんと伸びてる? と髪のうしろのほうを三人に見せる。 
 「だいじょうぶだよ」佐紀が言う。 
 「ほんと? ほんとに? みーやん」 
 うんうん、雅がてきとーにうなずくと、桃子は神経質に、梨沙子にも同意を求める。 
 桃子の必死さが面倒で、梨沙子は雅と佐紀を向いた。 
 「そういえば、さっき舞美ちゃんひいちゃった」 
  
 また? 雅が顔をしかめる。 
 「まだ二回目だよ」梨沙子はぶつかってくるんだもん、と言いたげだ。 
 「でも、ごっちんも何回か轢いてるよね?」佐紀が口を挟んだ。 
 その佐紀の表情に、梨沙子はどう返していいものかわからなくなる。 
 ちょっと前だったら後藤と笑いあってた話なのに、どうも状況がちがう。 
 高校になって、佐紀と舞美は同じクラスになった。 
  
 おはよー。 
 茉麻と友理奈が起きてきて、ゆっくり朝食中の佐紀を見て意外そうな顔をする。 
 「出なくていいの?」 
 ぼんやりと眠そうな友理奈の髪はボサボサで、硬そうにささくれ立っている。 
 ああ! ああ! 半狂乱の桃子が、居間で天然パーマと格闘している。  
- 456 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/29(木) 22:31
 
-  「もも、行くよ!」 
 さっと立ち上がった佐紀が、桃子の腕を掴んだ。 
 するり。 
 桃子が腕をほどいて、登校を拒否する。 
 寝癖のほうが大事だ。 
 「先に行ってるよ」 
 桃子のことはどうでもいったように、佐紀はさっさと家を出てしまう。 
 行ってらっしゃ〜い、雅がひらひら手を振る。 
 茉麻がコンロ前に立ち、友理奈に味噌汁を飲むか確認している。 
 取り残された桃子が、どうしていいかわからずに、オロオロしている。  
- 457 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/29(木) 22:31
 
-   
 涙なく半泣きだった桃子が家を出てしばらくして、千奈美が起きてきて、怒る。 
 「なんで起こしてくれなかったの!?」 
 「起こしたよ」 
 友理奈がつんとした口調で返す。 
 「起きなかったんだもん、ねぇ?」 
 茉麻に同意を求め、茉麻は、そうそう、とうなずいた。 
  
 梨沙子は味噌汁を飲んで温まり、忘れていた睡魔におかされている。 
 眠っちゃいけない、そんな思いもありつつ、楽なほう、楽なほうへと誘導されてしまう。 
 「寝ちゃうの?」 
 制服に着替えた雅にちょんとおでこをつつかれた。 
 「寝ない」 
 「寝そうじゃん」 
 えへへ、雅は意味なく笑う。 
 梨沙子はぐいと体を起こし、眠くないと強がる。 
 体の芯がゆらゆらしている。 
  
 「無理すんな」 
 雅が笑って、茉麻と友理奈と家を出た。 
 少し遅れて、千奈美が後を追った。  
- 458 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/29(木) 22:32
 
-  梨沙子は制服を着ようと、立ち上がる。 
 部屋に行くのも面倒な疲労に挫け、居間に足が向いた。 
 縁側に落ち着く。 
 朝、雅がつけたストーブが暖かい。 
 弱いながらも日差しが気持ちいい。 
  
 学校へ行こうと、梨沙子はせめてもの抵抗に日差しに背を向ける。 
 シンと静まった家内に、梨沙子はため息を堪える。 
 あぁ……。 
 わざとらしく声を出して、静寂を確かめる。 
  
 後藤は、考えるところがあると、家をふらりと出てしまった。 
 辻は、東京に行ったまま帰ってこない。 
 れいなは、ダンボールで発送されたまま消息を絶った。 
  
 一人で家にいてもつまらない。 
 学校に行こう。 
 でも眠い。  
- 459 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/29(木) 22:32
 
-  圭織は瞬間移動を覚え、世界中をあちこち飛び回っているようだ。 
 能力を生かし、たまにおみやげを万引きしてくる。 
 フランスのおみやげしか持ってこない。 
  
 「ねえ」 
 誰かわたしを起こして制服着せて学校に連れてってよ。 
 もちろん、反応はなにもない。 
 梨沙子はふてくされたように眠ろうと決める。 
 背中に当たる日差しはやわらかく、暖かい。 
  
   
- 460 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/29(木) 22:33
 
-  >>447 
 ガキさん! 
  
 >>448 
 続いちゃった☆ 
  
 >>449 
 ご丁寧にありがとうございます。 
 今年もよろしく。  
- 461 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/30(金) 12:53
 
-  やったあああああああああおかえりいいいいいいいいいい 
 りさこせつないよりさこ  
- 462 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/30(金) 16:31
 
-  なんか涙出てきた… 
 
- 463 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/09(日) 20:28
 
-  お帰りなさい。待ってました。 
 
- 464 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/23(日) 00:53
 
-  れいにゃぁぁぁぁぁぁぁぁ! 
 
- 465 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 02:02
 
-  時が経つのは早いものですね 
 
- 466 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:03
 
-   
  
  
 梨沙子が二人  
- 467 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:04
 
-   
 どんなきっかけがあったのか、茉麻が漫画本を山積みにさせて読みふけっている。 
 最新刊までの全十二巻、一年くらい前はアニメでもやっていた。 
 梨沙子は茉麻と並んで漫画本をひらいている。 
 茉麻が四巻で、梨沙子が二巻。 
 読みはじめでは梨沙子が一冊おくれで読んでいたのだが、差がついてしまった。 
  
 「ねえ、ままー」 
 「ん?」 
 集中しきれない梨沙子が茉麻に声をかけるが、気のない返事しか返ってこない。 
 目を見開くように真剣に読んでいる茉麻は、新しい漫画本に手を伸ばした。 
 「どした、梨沙子」 
 「なんでもない」 
 「そう」 
 「やっぱある」 
 茉麻は漫画本から目を離さない。 
 なにか話そうと思うが思考がまとまらず、梨沙子は最新刊を手に取った。  
- 468 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:04
 
-  不幸にすり切れてしまいそうな、カッコいい男の子を救えたらロマンチックだろうと思う。 
 隠した痛みに耐え切れなくなったような表情で必要とされたら、きっと嬉しいだろう。 
 憧れるが、自分は大事にされたほうがずっといいと梨沙子は思う。 
 「どした? 梨沙子」 
 茉麻はまだストーリーの中に入りきっている。 
 「うん、こういうことあるのかな、って」 
 「あるわけないじゃん」 
 こんなの子供だましだよ、茉麻はそっけなく言う。 
 漫画本に熱中しながら。 
  
 だよね、梨沙子は掘りごたつに集まっている、佐紀、千奈美、友理奈のわきを抜けた。 
 縁側のあたりで立ち止まり、振りかえる。 
 三人は雑誌をかこんで盛り上がっている。 
 「ひゃー!」千奈美が感嘆の声をあげる。 
 「これ、いい!」友理奈が指をさして興奮している。 
 「こんな風なのがいい」佐紀が瞳をうっとりさせている。 
 「でも、こんなん絶対ないよね」 
 いきなり現実に戻った友理奈が、あっさり意見を覆す。 
 それは言っちゃだめだよー、千奈美がわめき、友理奈が曖昧に同意した。 
 恋の話をしている。  
- 469 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:04
 
-   
 梨沙子はため息をつきつつ、窓をあけて縁側をおりた。 
 サンダルをつっかけ、荒れ放題になった庭のまんなかで息を吐く。 
 吐けば、自然と息を吸う。 
 そんなことを確かめた。 
  
 「梨沙子さむーい!」 
 千奈美の高い声が聞こえる。 
 「今もどるー!」 
 梨沙子は大きく声を出し、家に戻る。 
 そのとき、石山の隣にある、かつお節の塊が大きくなっているのに気づく。 
 雪に埋もれているため、どこからが雪でかつお節なのかわからない。 
 冬の弱い陽光を雪がいっぱいに反射して、浮き立つくらい明るく白い景色に、 
 濡れたかつお節のくすんだ茶色が、涙が出そうなほどに物悲しい。 
  
 雅はダンボールに詰められたまま行方不明になったれいなのため、 
 かつお節だけは捨てずに庭に集めている。 
 夏場は臭くてたまらないと、誰かが見つけるたびに処分していた。 
 意固地にかつお節を塚にすると言う雅も、見て見ぬふりをしていた。 
 集めるということよりも、集めようとする行為そのものに意味があるようだ。  
- 470 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:04
 
-  梨沙子がどうしようかと屈んで、こんもりたまったかつお節を見ていると、 
 「もう、なにやってんのー」 
 と悲鳴にちかい高い声で、千奈美が庭におりてきた。 
 ちょっとー、と背を向けている梨沙子の近くまで来て、あ、と立ち止まった。 
 「みや、まだ集めてんだ」 
 「ね。最近さむくなったから、くさらなかったんだね」 
 「でも、雪どけのときとかになったら最悪じゃない?」 
 「どうする?」 
 梨沙子は屈んだまま、千奈美を見あげる。 
 顔をしかめている千奈美は、首をかしげ、身をふるわせた。 
 「とりあえず今日はいいよ。寒い。また今度にしよう?」 
 「だね」 
 梨沙子は立ち上がり、千奈美のあとに続いた。 
  
 「なーにやってたのー?」 
 正座してテレビを見ていた桃子が二人に声をかける。 
 「ん? ああ、まあいろいろ……」 
 梨沙子は掃除機をかけている雅に気をつかい、曖昧にぼかした。 
 千奈美は、梨沙子がまた変なの見えてたの、と桃子の隣に座る。 
 「変なのなんて見てないって!」 
 梨沙子の叫びは誰にも届かない。 
 わかっているのか梨沙子もそれ以上はなにも言わなかった。  
- 471 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:05
 
-  ガタガタいう掃除機のケーブルを器用に足でさばく雅が、無駄に大きな音に負けぬよう声をあげる。 
 「みんな邪魔、早くどいて」 
 掃除機のヘッドで桃子や千奈美や茉麻をどける。 
 「べつにいいじゃん、ここまで来ないんなら、来れないんじゃない?」 
 「うるさい」と雅。 
 佐紀や友理奈と台所に追いやられた梨沙子が、しゅんとしてしまう。 
 しょうがないな、といった笑顔で佐紀が梨沙子の背中に手をまわす。 
  
 出立の日、最後の最後まで泣いていた梨沙子に、困り果てていた舞波に声をかけたのが雅だった。 
 「梨沙子のことは心配しないで、ちゃんとやってきなよ」 
 舞波は梨沙子に世話を見られているようで、梨沙子のほぼすべてを世話していた。 
 列車がホームに滑り込もうとしている中、でも、と躊躇う舞波に、雅はでへへと笑って背中を押した。 
 「元に戻るだけだって。梨沙子がちっちゃい頃はずっとみやが見てたんだし」 
   
- 472 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:05
 
-   
 ◇ 
  
 ふてくされた梨沙子が、唇に不満をたっぷり含ませてハンドルを握っている。 
 助手席の桃子が遠い目で車に揺られている。 
 受験勉強をするんだからと、追い出されたのだ。 
 佐紀は勉強を教えると、友理奈は一緒に勉強すると家に残った。 
 「りさこー?」 
 「ん?」 
 「海まで行ってちょうだい」 
 「あ゙?」 
 気取りきった悪い笑顔で、あらぬ海を指さしている桃子に、梨沙子は新鮮な殺意を覚えた。 
 「海なんて知らないって。行くなら裕子さんかケメちゃんのとこ」 
 あえて柴田さんのところ、とは言わなかった。 
 七人を心配して、しょっちゅう顔を出しにきてくれるからだ。 
 ありがた迷惑にも、必ずなにか差し入れを持って。 
  
 「えぇ〜えー? ドライブしようよー、せっかくなんだしぃ〜」 
 甘たるい桃子の声に、梨沙子は声を低く言い捨てる。 
 「山越えられないし」 
 「梨沙子ならいけんじゃん?」 
 「無理」 
 それから梨沙子は声色を明るく変えて、 
 「裕子さんのとこにするねっ!」 
 桃子を黙らせるには、人数に頼るか、それ以上のテンションで決定するかしかない。 
   
- 473 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:05
 
-   
 キャバレー「女純情」の前に車を横づけする前に桃子は軽トラのドアを開ける。 
 「ちょっ、もも! あぶないってば」 
 「大丈夫だって。久々にステージ立っちゃおっかなあ!」 
 ぴょんと車から降りた桃子がさっさと店に入っていく。 
 もう! と梨沙子も桃子の後を追い、鍵をかけ忘れたと一度車に戻り、店に入った。 
  
 梨沙子が店に入ると、桃子を迎えに出ていた裕子が相好をくずした。 
 「もう梨沙子ちゃん、最近ぜんぜん来てくれへんからあ」 
 長くなりそうな年寄りの愚痴は無視した梨沙子の表情が凍っている。 
 よく見ると、桃子も同じような表情をしている。 
 それで我にかえった梨沙子は、改めて冷静にステージを見やる。 
 そしてまた表情が凍る。 
 これではいけないと冷静を努めようとすればするほど、混乱してしまう。 
  
 「ねえ、もも」 
 「……」 
 あの桃子でさえ目をまんまるにしたまま動かない。 
 「ねえ」 
 「…………」 
 「もも?」 
 「………………えぁ? ああ、うん。なに?」 
 「……え、いや、あ、べつに。なんでもない。見ちゃだめ」 
 珍しく動揺しきっている桃子に、梨沙子は安心する。 
  
 とりあえず入ってぇな、裕子に案内され、昔よくいた席に着く。 
 ステージと花道の交差する、なじみ深い席で梨沙子はほっと息を吐く。 
 一度もステージを見ずに。 
   
- 474 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:05
 
-   
 りーちゃん見てるよ、正面に座った桃子が声をかけるが、梨沙子はステージに背を向けたままだ。 
 見ちゃいけない、目を合わせたら引きずりこまれると、梨沙子は怯えた瞳でまっすぐ前を向いている。 
 「ちょっとー、町長にな〜にガンたれてんのよ」 
 酔いどれなっち改め、町長なっちがベロンベロンに酔っ払って梨沙子に近寄ってくる。 
 桃子が立ち上がり、愛想よく声を高く挨拶する。 
 「あっ、どうもー」 
 ふんっ、なっちは表情をゆがめ、梨沙子の隣に座った。 
 「あーあ、つまんない」 
 「じゃあなんかおもしろいことしましょうよー」 
 「しない」 
 なっちの思いやりない不機嫌にも、桃子はにこにこしている。 
 「梨沙子ちゃん、圭織もごっちんも裕ちゃんも、みんな一緒にいなくなっちゃったんだよ?」 
 飲み友達の不在をぶーぶー言うが、梨沙子はそう言われても返す言葉がない。 
 梨沙子が裕子の店に寄りつかなくなった一番の理由は、この女だ。 
 今は誰も梨沙子を守ってくれる人がいない。 
  
 「ねえ梨沙子ちゃん、なっち今ちょっといいこと思いついちゃったんだけど、聞きたい?」 
 「いえべつに」 
 梨沙子は覚えているくせにメニューを眺めながら、そっけなく答える。 
 子供たちもそろそろ、というか、はっきりとこの女がおかしいということはわかりはじめている。 
 できれば関わりあいたくないと思っている。 
 本当は桃子も梨沙子のような態度を取りたいのだが、単純に勇気が足りないのだ。 
 それは酔いどれなっちもわかっている。 
 だから、 
 「こうなりゃ力づくだあ!」 
 と公費で作ったなっち酒の瓶を梨沙子の口にねじ込み、逆立てた。 
 ガチっと歯と瓶がぶつかる音がした。 
 「ああ、なにするんですかあ?」 
 桃子が慌てて酒瓶を奪うも、梨沙子はすでにかなりの量の酒を飲んでしまっている。 
 なにすんだこのアホッ! 水を運んできた裕子が酔いどれなっちをグーで殴った。  
- 475 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:05
 
-   
 おぼえてろよー、捨て台詞を残して酔いどれが退散した。 
 「まったく、あの女はなに考えてんだ」 
 怒りの冷めやらぬ中澤が、桃子の、だいじょうぶ? という声にハッと現実に戻った。 
  
 梨沙子は強がっているのか、なんでもないといったような顔をしている。 
 ねえ、りーちゃん、なんともない? 桃子が心配そうに梨沙子の肩をゆすっている。 
 もうほとんど泣き出しそうで、どうしようと裕子を見あげた。 
 「どれくらい飲んだ?」 
 裕子は大丈夫だと言い張る梨沙子に水を飲ませながら、桃子に聞いた。 
 どれくらいと聞かれ、うーん……と悩んでいた桃子が首をかしげながら答える。 
 「ゴボッ、ゴボゴボッ、ゴボッ、くらい?」 
 「案外、梨沙子ちゃん酒強いのかもな」 
 裕子はケロリとしている梨沙子の頬や首に触れ、目を見た。 
 へへへ、なぜか梨沙子は照れ笑いを浮かべる。  
- 476 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:06
 
-  よかったぁ、中澤の安堵を確認した桃子が、ホッと肩をなでおろした。 
 梨沙子はなにが恥ずかしいのか、まだ笑い続けている。 
 「りさこ酔っちゃったの?」 
 桃子が梨沙子をのぞきこむ。 
 ひひひひひ、と梨沙子は肯定とも否定とも取れるような仕草で笑っている。 
 そのあまりの屈託のなさに、笑い上戸かいな、と裕子もつられたように笑っている。 
  
 ひひひひひひひひ、ひひひひひひひひ、ひひひひひひひひ、ひひひひひひひひ、ひひひひひひひひ、 
 裕子は酔った梨沙子がかわいくて仕方がないといったように表情をとろつかせているが、 
 桃子はおかしいんじゃないかと途端に強大な不安に襲われた。 
 「ちょっと梨沙子! だいじょうぶ!?」 
 「ぽんっ!」 
 梨沙子の声が弾けた。 
 おお! ステージで顔面を緑に塗りたくった愛理が腰を抜かした。 
 あ、愛理、そういえばいたんだ、桃子はずっと無視していた存在を思い出した。 
 どこで作ったのか、気味悪いほどリアルな河童になっていた愛理が、目をまんまるにしてなにか言いたそうにしている。 
 桃子はその視線を追い、我が目を疑った。  
- 477 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:06
 
-  梨沙子が、二人いる。 
 先ほどまでのハイテンションな梨沙子と、恐ろしくテンションの低いどよ〜んとした梨沙子。 
 桃子と愛理は驚きに面食らっているが、裕子は涙を流して爆笑している。 
 「あーっはっはー! 分裂したあ! 梨沙子ちゃんが二人やあ!」 
 テーブルを叩いて笑っている裕子に、ハイテンションな梨沙子がはりついている。 
 ね? かわい? りーちゃん、かわい? 梨沙子が、裕子に聞いている。 
  
 それはあまりにも不思議な光景だった。 
 桃子は梨沙子が二人になってしまったこともそうだが、ハイテンションの梨沙子が信じられない。 
 今まで梨沙子のテンションが高くなることは何度となくあったが、どこか抑えがあった。 
 あんなぶりっこで、あけすけなく、上目遣いで「かわい? ねえ、りーちゃんかわい?」なんて絶対に言わなかった。 
 ずっと無理してたのかなあ、と桃子は思ってしまう。 
  
 裕子にはりついているほうはいいとして、桃子はもう片方、どんよりしたほうが心配になる。 
 ねえ梨沙子、どうなっちゃったの? 桃子が優しく手を肩にかけた。 
 さわんなよ! 邪険に振り払われた。 
 「もういいんだよ、かまわないでよ。お正月すぎてるのに、舞波まだ帰ってこないし。 
  もうほんとにいいから。うち、もうどうなっても。グレて夜の蝶になっちゃうから」 
 桃子は戦慄した。 
 梨沙子がこんなに投げやりだなんて!  
- 478 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:06
 
-  「いやー、すごいねえ」 
 まじめな顔をした愛理は、まだ腰が抜けて立てないのか、はいはいで四人のところまで来る。 
 おそるおそる、どんより梨沙子の表情を確かめ、頬をつついた。 
 桃子と同じように邪険に振り払われ、愛理はにやりとした。 
 「お、おー。……おおー、おーおーおー、おお…… おうっ?」 
 梨沙子の頬をつんつんしながら愛理は、おかしな抑揚でおーおー唸っている。 
 裕子の笑い声がまだ止まない。 
 ハイテンションの梨沙子が、きゃーきゃー無邪気にはしゃぎ、はっととろっくー、と叫んでいる。 
 どんよりの梨沙子はずっと変わらぬ投げやり調で、愛理の指を跳ね除けている。 
 そのたびに愛理のテンションはあがり、笑顔が輝いていく。 
  
 桃子は悲しくなった。 
 いつも周囲を巻き込む自分が、周りに影響されて頭がおかしくなりかけている。 
 痛い痛いと聞こえたほうを見ると、どんより梨沙子が愛理の指を折ろうとしていた。 
 慌てて桃子が梨沙子の指を剥がす。 
 「あー、びっくりした」 
 それほど危機感を抱いていなかった河童が、楽しげに折られそうになっていた指に息を吹きかけている。  
- 479 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:07
 
-  「あー、おもろい。酔って人格変わる奴は多いけどなー、二人になるのは始めてやで。あー梨沙子ちゃんすごいわ」 
 化粧の落ちを気にした中澤が笑いをおさめようとしている。 
 それどころじゃないですよ! すっかり常識人に成り下がってしまった桃子が小指を立てる。 
 「べつにええんやない?」 
 中澤が二人の梨沙子を並べてうっとりする。 
 ところが、二人の梨沙子はお互いを認めないとでもいうように、ぷいとそっぽ向いてしまった。 
 ありゃりゃ、愛理が呟いた。 
  
 「そういえば愛理はなにしてたの?」 
 りーちゃんに見ちゃダメって言われてたけど、と桃子が聞いた。 
 なにってカッパじゃん、愛理が腕を広げて河童の自分を見せつける。 
 あまりの自然さに、桃子は愛理の河童はとても当たり前なことなのだと思った。 
  
 二人の梨沙子は、もみくちゃになってケンカしている。 
 お互いがお互いのことを認められないようだ。 
 「どうやったら元に戻るんやろ」 
 梨沙子に挟まれ幸福そうな中澤はビールを飲み始めている。  
- 480 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:21
 
-  そうだ、と桃子は梨沙子をどうにかしないと、と河童を熱弁する愛理を無視した。 
 梨沙子が愛理を見ちゃいけないと言った気持ちがちょっとだけわかった。 
 「ねえ、りーちゃん」 
 呼びかけると、両方とも桃子を向く。 
 にこにこしている梨沙子と、仏頂面の梨沙子。 
  
 「かあーいー!」 
 両極のあまりのかわいさに、桃子はつい、両方を抱きしめてしまう。 
 「こら、わたしを足蹴にすんな!」 
 桃子に踏みつけられた中澤が怒鳴る。 
 それでも桃子は我に返らない。 
   
- 481 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:22
 
-   
 ◇ 
  
 結局、解決を見出せずに一時間が経とうとしている。 
 梨沙子同士の折り合いはまだつかない。 
 「梨沙子が仲良くなれば、勝手に戻るんじゃないかな」 
 愛理がさらっと言うが、桃子はうんざりしたように首を振った。 
 さっきから何度もその台詞は聞いた。 
 いつの間にかそうすれば戻るみたいな話になっているが、本当にそうなのだろうか。 
 この二人の梨沙子は、同一人物だとは思えないほど共通しない。 
 片方が右を向けば、もう片方は手元を見ているし、 
 片方が笑えば、もう片方は突然怒り出すし、 
 片方が愛理を殴れば、もう片方は静かに中澤に寄り添っている。 
  
 「どうする?」 
 意味ないとは知りつつも、桃子が愛理にすがる。 
 このままでいいんじゃない? 素敵な笑顔が返ってくる。 
 中澤は積極的に、このままがいいと望んでいるようだ。。 
 それぞれ梨沙子はなぜか、優位性を中澤に好かれているかどうかで決めている。 
 ずっと梨沙子がほしかったが常に邪魔があった中澤にとって、願ってもない状況だ。 
  
 どうしてこんなに気を揉んでいるのだろうと、桃子はもうすでに泣きそうだ。 
 そのとき、バッと店の扉が開いて、懐かしい声が聞こえてきた。 
 「ただいまー!」 
 完全にからだに馴染んでいる声に、桃子は泣き出してしまった。 
 安心してしまったのだ。 
 信じられないといった表情だった二人の梨沙子が、同時に叫び、駆け出した。 
 「舞波!!!!!」 
 故郷に戻ってきた喜びに満ち満ちた舞波が、とんでもない勢いで飛び込んでくる梨沙子を受け止めた。 
 そのすぐ後ろに優しい顔をしたこんこんがいる。 
 すこし離れて、みんなを代表して二人を迎えに出た雅、千奈美がいる。 
 梨沙子は一人に戻っていた。 
  
   
- 482 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 00:25
 
-  >>461 
 愛しさと 心強さと 
  
 >>462 
 ボク泣かないもん! 
  
 >>463 
 ありがとう!!! 
  
 >>464 
 しゃゆうううううううう!! 
  
 >>465 
 ほんとにねぇ……  
- 483 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/07(月) 10:18
 
-  おかえりぃぃぃ 
 
- 484 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/24(火) 17:08
 
-  待ってるぅぅぅ 
 
- 485 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/15(金) 20:08
 
-  あけおめぇぇぇ!!! 
 
- 486 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/01/23(土) 13:27
 
-  あげるなぁぁぁ 
 
- 487 名前:sage 投稿日:2010/02/20(土) 01:47
 
-  ごめんなさぁぁぁいぃぃぃ!! 
 
- 488 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/20(土) 02:28
 
-  从 ´ヮ`)<あ、ごめんなさぁぃ・・・ 
 
- 489 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/02/20(土) 04:02
 
-  ん 
 
- 490 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/05/17(月) 00:18
 
-  こんな桃子も大学生になっちゃったぞ。 
 
- 491 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/02/04(金) 19:29
 
-  まこととは結局なんだったのか  
 愛ちゃんはどうなってしまったのか  
 後藤辻れいなの行方  
 梨沙子はどんなお姉さんになっているのか  
  
 なんにせよ幸せだといいよね 
   
- 492 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/02/04(金) 19:29
 
-  まこととは結局なんだったのか 
 愛ちゃんはどうなってしまったのか 
 後藤辻れいなの行方 
 梨沙子はどんなお姉さんになっているのか 
  
 なんにせよ幸せだといいよね  
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