更新の遅い短編集
1 名前:クッション 投稿日:2003/09/26(金) 17:15
「ねぇ」あゆみが言う。「何か変だよね」
「…うん。何か変」梨華が答える。

今日は久しぶりに、二人そろってのオフ。窓の外からは暖かな日の光が部屋に注ぎ、少し
だけ開けておいた隙間からは、風が心地いい。

「だから、柴ちゃんがそっちから回りこんで…そうそう」
「えっ、何?ここに置けばいいの?」
「そう、早く!あっ、もう遅いよ〜」
「ゴメン、ゴメン。で、次はどうすればいいかな?」
「ちょっと〜、自分でも考えてよぉ」
「そう言われても…ああ、ちょっと!……死んじゃった」
「えぇ〜、また?柴ちゃんすぐ死んじゃうんだもん…」

2 名前:クッション 投稿日:2003/09/26(金) 17:17
手が空いてしまって、冷静になり、一息吐くとまた柴田は言う。
「やっぱり変だよ」
「………」
「私たち、一応アイドルでしょ?それが二人そろって休み。で、することといえばボンバ
ーマン?なんか変じゃない?」
「うーん、そうだね」
局面が急なところにきて、そっちに忙しい梨華は適当に相づちを打つ。
「やっぱり、どこか変なんだよ…」
柴田は自分に言い聞かすように、うなずきながらつぶやく
3 名前:クッション 投稿日:2003/09/26(金) 17:18
チラッと梨華は、柴田のほうに目をやる。そして何か重大なことでも考えているように、
腕組みをしながら押し黙っている柴田の様子に、フフッと微笑する。ゲームの電源を切り、
画面の映像をテレビに戻す。

「それで、どこかってどこ?」
梨華の問いに、柴田の顔は急に輝きだす。実は、もうとっくにゲームには飽きていたのだ。
「つまり、なんだか暗いってこと!」
「じゃあ、どういうのが明るいの?」素直に訊く。
「街へ出て、騒ぐ、とか」
「うん、他には?」
「街へ出て、買い物をする、とか」
「うん、うん。」
「街へ出て、カラオケに行く、とか」
4 名前:クッション 投稿日:2003/09/26(金) 17:19
「――じゃあ、つまり」一息おいて、続ける。「柴ちゃんは、外に行きたいってこと?」
柴田は自分の言葉を反芻するように額に手を当て、口を開く。
「そう、なのかな?」
知らないよ、と笑いながらも梨華はもっと話を具体的に立て直す。
「でもさ、あんまり外に出るなって言われてるじゃん」
「そうなんだけどさぁ…というかもしかしたら、外に行きたいってわけじゃないかも知れない」
梨華は首をかしげる。
「だからさぁ、なんかさみしいなぁって。こうして女同士でゲームしてることが」
5 名前:クッション 投稿日:2003/09/26(金) 17:21
ようやく納得した様子で、梨華は口をはさむ。
「そっかぁ、そうだよね。休日に地元の友達とかに電話しても、“平日にいきなり言われても
ぉ…”とか、“ゴメン、今日、彼氏とぉ”とかが普通だもんね」
「そうそう。それに梨華ちゃんなんか、特に友達少ないからなおさらでしょ?」
「ガーン。って柴ちゃんもでしょうが!」
「ガーン。なんだとぉ!」

そこから派生したソファーの上でのクッションの投げ合いは、二人とも声を上げて笑うほ
ど愉快だった。梨華の手から放たれたクッションがあゆみの顔にクリーンヒットし、あゆ
みの投げ返したそれが梨華のお腹に当たる。子供にかえったかのように手を叩き、はしゃ
いだ。ちょっとぉ、今の強いよ。じゃあ、お返し。今の鼻に当たったよ?ここならどうだ!
ずるい、ずるいって!ははは、また鼻に当たった―――。
6 名前:クッション 投稿日:2003/09/26(金) 17:22
その投げ合いは、唐突に終わる。

あゆみが投げようとした拍子に、壁から出ていた止め金にクッションが引っかかった。ビ
リっという、少しマヌケな音をたてて、クッションが引き裂かれ、羽が部屋中を舞った。

「…きれい」思わず梨華がつぶやく。
「…うん」あゆみもうなずく。

7 名前:クッション 投稿日:2003/09/26(金) 17:23
しばらく黙り込んだ後、あゆみはおどけたように口を開いた。
「あ〜あ、何か大声で笑ったり叫んだりしてたら、のど渇いっちゃったよ」
「ほんとだね。なんだかお腹もすいちゃったし」
「だって梨華ちゃん、大人気ないんだもん。鼻、鼻ぁーって」
「そんなこと言ったら、柴ちゃんだって人の部屋こんなに羽だらけにしてさー」

8 名前:クッション 投稿日:2003/09/26(金) 17:24
そんなことを言い合っているうちに、さっきまでの興奮も伴って、また二人で大声になり、
笑い出す。そして笑い疲れた頃、梨華がポツリとこぼす。
「でもさ、どっちかに彼氏ができちゃったら、こんなふうに遊べなくなるんだよね」
「…うん。少なくとも機会は減るね」
「じゃあさ、わたし、しばらくこのままでもいいかも」
「…うん、そうだね。悪くはないね」

と、涼しい風が迷い込んだように通り抜ける。その目に見えない、それでいてこんなにも
人を癒してくれるものが、形を持つ。羽は遊んでいるかのように縦横無尽に駆け回り、静
まりかけていた部屋の中を幻想的な世界に変えた。
9 名前:クッション 投稿日:2003/09/26(金) 17:26
    ―――クッション 完―――
10 名前:クッション 投稿日:2003/09/26(金) 17:27
11 名前:クッション 投稿日:2003/09/26(金) 17:28
12 名前:リエット 投稿日:2003/09/27(土) 16:57
クッション、面白かったです!
自分の中でのいししばの関係そのままで、ほのぼのしながら読みました。
次作も期待しています!
13 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/27(土) 18:35
いししば、発見!リアルな感じがとても(・∀・)イイ!!
同じく次回作を楽しみにしてます!
14 名前:紫苑 投稿日:2003/09/30(火) 14:26
>>12 リエットさん

脳内妄想仲間ですね?
そう言って頂けて本当にうれしいです。
これからもがんばります。

>>13 名無し読者さん

リアルすぎて楽しくないかなぁなんて思っていたんですけど、
喜んでいただけたようで何よりです。
15 名前:紫苑 投稿日:2003/09/30(火) 14:26
『更新の遅い短編集』などと銘打っておきながら、更新です。

だけど、これからは本当に遅くなります。
できるだけ一本にしぼりたいので、そうなってしまいます。

もしよろしかったら、
同じ板で『たとえ話』なるものを書いているので、そちらで時間を潰してください。

それを十月中に終わらせるつもりなので、
次回作は約一ヵ月後になると思われます
16 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:30
毎年、この季節になると校舎内は、どこか寂しげな雰囲気がただよう。それでもそれは、
いつもどこか他人事だった。最上級生が学校から去り、新入生が入ってくる。それだけの
ことで、四月がくれば忘れてしまう。それだけのことだった。
17 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:31
「じゃあ、このプリントを後ろにまわせ」担任の先生が合図を出す。

伝言ゲームでもしているかのように、前の席の子が振り向き、後ろの子にプリントを渡す。
その紙を見た子は、一様に一瞬顔をしかめてから、またその動作をくりかえす。そして、
その波が一番後ろの席の希美のもとへ押し寄せた時には、クラス中はざわめきたっていた。

希美はその妙な空間に取り残され、手元の紙を見るのも忘れ、回りを見渡した。笑顔とた
め息。なんだか、急に教室の中に壁ができたような気すらした。
18 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:32
ねぇ、のの」隣の席の子が、希美に話しかける。「なんて書く?」
その言葉にハッとしたようにプリントをのぞき込む。そこにはこうあった。

“将来の夢”。

再び希美はハッとした。そう、これは卒業アルバムに載せるプロフィールのようなものな
のだ。姉の机の引き出しにしまってある、あれだ!
19 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:33
今になってプリントを凝視している希美に気づき、その子は自分の話を始める。
「でもさぁ、迷っちゃうよね。ケーキ屋さんにもなりたいし…あと、お花屋さんとか、保
母さんもいいよね」
「う、うん。でもののは…」
「そうか!残ったんだよね!いいなぁ、決まってる人は」
20 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:35
何も決まってなんかいない。それどころか、他の誰よりも不安な時間を過ごしているのだ。
そんな時に配られたこのプリント。もうすぐ自分がこの学校から去らなければならないと
いう実感を、否が応にも味わされた。それだけじゃない。自分の人生が動きだし、立ち止
まれないことへの憔悴感のようなものが生まれた。

「先生!」希美は小さな体をピンと張って、手をあげた。「トイレ行ってもいいですか?」

教室内に笑いが起こる。教師も、しょうがないな、辻は、といった様子で、手で行けとい
うジェスチャーをする。希美は席から立ち上がり、好奇の視線や男子たちの野次を横切り、
教室を出る。そして一目散に女子トイレへと向かった。
21 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:36
女子トイレに入ると、乱暴に個室のドアを開け、そしてまた乱暴に閉める。鍵を閉めよう
とするが、手が震えてなかなか上手くいかない。ガチャガチャという耳ざわりな音が静か
なトイレ内に響く。何度目かの挑戦でようやくカチャという小気味のいい音で鍵が閉まる
と、希美は声を殺して泣いた。

―――自分がどうして泣いているのかも分からずに。
22 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:37
23 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:38
モーニング娘。に入りたい”亜依は悩んだ末にそう書いた。悩んだわりにはそれしか浮
かんでこなかったのだから、おかしな話だ。

「亜依、本当に一人で大丈夫か?」父親が言う。
「大丈夫やって。それにダメって言ったって仕方ないんやし」
「それはそうやけども…」
「アンタは心配しすぎや!大丈夫やって。小学校も卒業したんやしな?」
「せやせや!」
母親の助け舟に勢いよく乗る。ただ勢いよく乗りすぎたせいで、舟は水面でゆらゆらと揺
れた。
「…大丈夫かなぁ?」
24 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:40
道は比較的すいていて、これならば新幹線の時間に遅れそうもない。高速で過ぎ去ってい
く見慣れた景色も、今日はなんだか遠く見える。もしかしたら、緊張しているのかも知れ
ない。でもそれも無理はないと思う。これから新幹線に乗って向かう寺での生活の最終日
に、モーニング娘。に入れるかどうかが決まるのだ。それは父親も同じようで、運転する
車はいつもよりもスピードが出てる気がする。

緊張を意識し始めると、それは不安に変わった。卒業アルバムに書いたことは嘘じゃない。
だけど、そんな自分を急に幼く感じた。モーニング娘。にはそんな子供染みたことをやり
そうな人がいない。受かる人ってうのは、こんな不安も感じない、もっと強靭な意志を持
った人たちなんじゃないだろうか。もちろん、ここまで残った人たちも…。
25 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:41
「それにしても慌しいなぁ。もっと時期を考えてくれたらええのに…」
赤信号で止まってる最中に、父親はハンドルを指でトントンと叩きながら言う。
「んっとにアンタは、どうしようもないことばっか言うな?」
「どうしようもないってどういうことやねん。卒業して、これから違う環境に移るなんて
大変な時に…。もう泣きそうやわ」
「なんでアンタが泣くねん?ホンマにしょうもない…」
26 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:42
そんないつも通りの両親のやり取りを聞きながら、少しだけ心が落ち着くのを感じた。も
しもこれからいろいろなことが起こり、環境が変わったとしても、何もかもが壊れてしま
うわけじゃない。帰ってくるところはあるんだなぁって。

27 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:43
28 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:44
列車がホームへと滑り込んできた。徐々にスピードを落とし、家族の前にその口を開く。

「じゃあ、希美」母親が言う。「しっかりやってくるのよ」
「おうよ!」もう迷いはなかった。
「食べ過ぎたりして人に迷惑かけるなよ」父親が言う。
「ををい!それが見送りの挨拶かよ!」冗談の分かる両親が笑う。

車内に乗り込み、向かい合う体勢にになると母親は言った。
「じゃあ、本当に頑張ってくるのよ。もし…もし落ちたりしても気にするんじゃないわよ」
29 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:45
何かツッコもうかと口を開きかけたけど、けたたましく鳴る発車の合図と閉まるドアにジ
ャマをされ、言葉にならない。変わりに腕がちぎれるくらいに手を振る。向こうからもそ
れが返ってくる。何故だか、あの時と似た涙が溢れてきそうになるけど、それを必死にこ
らえる。

ゆっくりと、でも徐々に早く遠ざかっていく両親の影を、窓に張り付くようにして目で追
う。それでも捕らえきれなくなった時、ようやく涙が頬を伝った
30 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:46
―――卒業アルバム 完―――
31 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:47
32 名前:卒業アルバム 投稿日:2003/09/30(火) 14:47
33 名前:紫苑 投稿日:2003/10/01(水) 09:21
『卒業アルバム』は、下地として、
加護ちゃんと辻ちゃんが二人とも卒業アルバムに、
モーニング娘。に入りたいと書き、
その一週間後くらいに叶ったという話があります。
ハロモ二で言ってたんですけど。

それから、>>18の始めに「 の付け忘れ、
     >>23の始めに“ の付け忘れがあります。

   申し訳ありません。
34 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:20
不思議なことってたくさんあると思う。

視線をテレビから離し、上に向ける。目についた物から挙げると、エアコン。そう、暖か
い空気を吐き出して、部屋の空気を快適に保ってくれているこの機械。でも、もともとこ
の部屋にあった冷たい空気のかたまりは、どこに行っちゃったんだろう?

考えても仕方がないから、携帯に手を伸ばす。本当のことを言えば、テレビでそれを見た
時点で電話はかけようって決めてたし。
35 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:21
トゥルルル トゥルルル

数回の呼び出し音の波がよせて、かえしてを繰り返すと、いつもの声が聞こえてくる。

「…はい」
「あ、市井ちゃん?後藤だけど」
小さなためいきの後、市井ちゃんは言う。
「わかってるから出たんだけど?」
「あはは、そっか。いやぁ、さ。ちょっと気になることがあってさ」
「またぁ?」怪訝そうな声。「昨日もそんなこと言ってかけてきたじゃんか」
「うん、そうだね。でもまたできた」
電話の声が呼吸音で割れる。市井ちゃんの苦笑してる顔が浮かんでくる。
36 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:23
「どんなこと?」
「うん。今、えっと、市井ちゃんはじぶんち?」
「そうだけど、それがなんか関係あるの?」
「まあね。じゃあ、そこはあったかいよね?」
話の展開をよく飲み込めない市井ちゃんは、しばらくの沈黙の後、流れに身をまかせる決
心をしたんだと思う。緊張の角のない、やわらかい口調になる。「うん、まあそうだね。
暖房がよく効いてるよ」
「じゃあ、だよ?市井ちゃんが暖房をつけるまで」
「うん」
「その部屋は寒かったってことだよね?」
「そうなるね」
「でも、今はあったかい」
「うんうん」
「じゃあ、その冷たい空気は…」
「室外機でしょ」
37 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:24
ポカーンと間が空く。

「えっ、今なんて言った?」
「だからぁ」市井ちゃんは勝ち誇ったように言う。「冷たい空気がどこにいくか、っていう
質問でしょ?」
「うん、まあ」
「その答えが、室外機って」
「ああ、そう…」
ポリポリと頭をかく。そっか、そんなものもあったなぁなんて。これじゃあ得意気に話して
た後藤がバカみたい。
38 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:25
「そんだけ?」市井ちゃんの声が届いてくる。
「うん。…ああ、それとさぁ」
ちらっとテレビに目をやる。その番組はもうすでに終わり、旅行番組が始まってる。ボン
ヤリと思った。ああ、この国、撮影で行ったことあるなぁ。
「…とう、後藤!?」
「ああ、ゴメンゴメン。市井ちゃんさぁ、テレビみてた?」
「テレビ?うんまぁ、てきとうに」
「それさぁ…なんの番組?」
また苦笑を意味する呼吸音が携帯を通り過ぎる。どうやら心を読まれたらしい。市井ちゃ
んはまたもや勝ち誇った声を出す。
「当ててみな」
39 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:26
もうお互いがなにを考えてるかわかってるっていうのに、妙なかけひきを強いられるとき
がある。まぁ、今がそれってわけなんだけど。市井ちゃんはイジワルだ。
「え〜、わっかんないなぁ。なに?」
「なんだと思う?」
「後藤がきいてんじゃん。なに?」
「いや、後藤だって何回も質問を質問で返してるだろ?じゃあ…ヒントあげる。後藤にも
わたしにも関係あります」
「ヒントなんかいらないよ。だから、なにって!」

少し間があく。うっ、強く言いすぎたか。小さな後悔が、一瞬体にかかる重力を大きくす
る。もちろんこれは比喩。そんな気がしたってこと。
40 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:29
「…ってんじゃん」市井ちゃんがつぶやく。
「えっ、なに?」
「ほんとはわかってんじゃん。後藤も」
からかうような優しい口調に、もうかけひきは終わり。
「だって、市井ちゃんが大人気ないんだもん」
乾いた
笑い声。「大人気ないのは後藤だろ?それに、後藤には悪い癖があるよ。昔からだけど」
「なに?」
「本当に言いたいことを隠す。電話もエアコンのことじゃないだろ?」
うっ、と思わず声が出る。それによって市井ちゃんはますます図にのる。
「ははは、まいったか。これに懲りたら、もう悪さをするではないぞ」

はは〜っと印籠を見せられた悪役をこなす。そう、冷たい空気なんてどこに行こうが知っ
たこっちゃない。いやいやいや、地球温暖化とかそういう話はおいといて。今の問題はこ
の感情。テレビでモーニング娘。が出ているのを見て、自分がそこにいないこと、もしく
は、自分がそこにいたんだぁという妙な…ようするに、それが不思議な感じがするってこ
と。
41 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:29
「わかるよ」と市井ちゃんは言う。「わかる。今でもあるもん。不思議だなぁって思うこと」
「ほんと?」
「うん、ほんと。こればっかりはいつまで経っても消えないんじゃないかなぁ」
「そっかぁ」少し気分が重くなる。いつまでも消えないのかぁ。
「後藤はそうじゃないかもしれないけどさぁ」
「うん」
えへへ、とごまかすような笑いの後、市井ちゃんはポツリと言う。「わたしはさ、その感情
が嫌いだったんだよ、実は」

あははは。大げさな言いかたするよ?銃で撃たれたような衝撃。
42 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:31
この告白が後藤が卒業する前にされてたんだったら、それはそれで違う衝撃を受けていた
んだろうけど、――そしてそれは悲しい気持ちをどっからか、後藤の感情に運んできたん
だろうけど――今の後藤の受け取りかたは違う。マイナスじゃなくて、プラス。同じ気持
ちだったんだぁという、感動みたいなもんまで感じたんだなぁ、これが。

「もちろん、娘。が嫌いってわけじゃないよ?」わかる!「そうじゃなくてさぁ…、そう
感じる自分自身がっていうかさ…」わかるよ!「飛び出しておいて、なにこんな感情を持
ってるんだよ!みたいなさぁ…」わかるよ、いちーちゃん!「甘えのような気がしてたん
だよね」すっごくよくわかるよ、いちーちゃん!
「わかる!」思わず大声になった。「どうすればいい!?」
43 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:32
おおっ、といちーちゃんはびっくりしたような声を上げた。実際にびっくりしたんだと思
う。だけど、同じ感想を持ってくれていたとは思わなかったし、共感してくれることがこ
んなにうれしいことだって思わなかったから。

電話の向こうで、おそらく苦笑しているいちーちゃんは、「ほっとけばいいんじゃん?」っ
てもらすように言う。
「えっ?」ちょっと拍子抜け。
「ほっとけばいいんだよ。少しずつ感じかたって変わるもんだから」
「…じゃあさ、いちーちゃんは今、どう思ってるの?」
「わたし?わたしは今はねぇ、そうだなぁ…」

胸がドキドキした。次にいちーちゃんから発せられる言葉が、これからの自分の答えにな
りそうな気がして。
44 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:34
「過去も間違いなく自分の一部だってこと。たとえばモーニング娘。がなくなったって、
そのメンバーだったわたしは、はっきりとその日々を思い返すことができるだろ?それが
あるから今がある。それを否定しても仕方がないと思う」
「それはわかってるよ。だけど…」
「きっとわかってないと思う」きっぱりとした声。「ほんとうにわかった時には、攻撃的
じゃなくなるから。自分に対しても」

言葉がすうっと胸のあたりにまで下りてくるのには時間がかかった。…ちょっと違うかな。
胸にはすうっと入ったんだけど、頭のほうが麻痺してた感じ。でも助かったことに、市井
ちゃんは頭の回転の復旧作業を無言で見守っていてくれた。あ、見てはいないんだけどね。
45 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:35
「そう、なのかな…」
ようやく出たかすれた声。なんだか自分がマヌケなような気もしたけど、気分はそう悪く
ない。それどころか、スッキリしてる?これまた不思議だ。
「そうだよ」
そのハキハキとした口調で脳裏に浮かぶ市井ちゃんの顔は、今度こそ優しい笑みだった。
46 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:36
なんかそんな感じで電話を切った後、考えなくちゃいけないことは山ほどあるような気が
した。まず一つだけわかるのは、市井ちゃんはすでにこの道をたどったってこと。それか
らきっと、市井ちゃんの言ってることは間違いじゃないってことかなぁ。

右耳に触れてみる。ずっと携帯を押しつけていただけあって、熱をもって熱い。この右の
耳に残るさっきまでの会話。その中で妙に納得したことがあった。“人の感じかたは変わ
る。”今日の後藤は市井ちゃんの告白を聞けるようになってたんだしね。
47 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:37
CDラックをあさる。中から一枚を引き出すと、それをプレイヤーにかける。なんとなくこ
うするのがいいと思った。聞かないようにしてたCDだ。イントロが流れだす。少し照れ笑
いのようなものを浮かべたと思う。

流れてきたのは、間違いなくモーニング娘。の中にいた自分の声。
48 名前:  投稿日:2003/10/24(金) 14:38
 
49 名前:  投稿日:2003/10/24(金) 14:38
 
50 名前:不思議 投稿日:2003/10/24(金) 14:39
―――不思議 完―――
51 名前:紫苑 投稿日:2003/10/27(月) 14:21
>>1-9 クッション
>>16-30 卒業アルバム
>>34-50 不思議
52 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/25(火) 16:24
保全
53 名前: 投稿日:2003/12/26(金) 17:29
54 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:31
『Don’t stop smiling please』
55 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:33
少女は退屈をしていた。

とは言え、今に始まった事ではない。生まれてからというもの、大半の時間を退屈の中で
過ごしてきた。同じ年代の子供と比べても、彼女の世界は非常に小さなものだった。彼女
にあるものは、もっと幼い時の自由に遊びまわれた日々の記憶と、その白い部屋の窓から
見える景色だけ。それだけが、少女と外界とのつながりだった。

すべりこんできた春の穏やかな風は、木々の匂いを含んでいた。鼻孔をなでるように、生
命の息吹が通り抜けるそのわずかの間、少女は退屈を忘れる。目を閉じ、それと一体にな
るイメージを描く。そして不自然にならない程度に強く、酸素を肺に送りこむ。
56 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:35
再び目を開けると、部屋の白い壁はあの日の高原に変わっていた。そこには幼い頃の少女
自身がいて、今よりも幸福そうな両親がいた。休日のゆるやかな空気が流れ、他にも二、
三組の家族の姿がある。幼い子供を中心とした一家特有のはじけるような明るさが、広場
を彩り、緑を際立たせ、空気を透明にしている。

少女は、溢れかえるようなグリーン一色の世界の中、小さな宝物を見つけた。全体を見ず
に一つ一つの命に目を向けると、届かない主張をそれでも止めないように群生している植
物。幸福のシンボル、四葉のクローバー。

両親のあたたかな目の届く範囲内。告げられずとも見守られていた中で、彼女は夢中にな
ってそれらを集めた。幸福というものがあるとして、それがどういうものなのか。光のよ
うなおぼろげなイメージを胸に抱きしめるように。
57 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:36
やがて両手いっぱいになったクローバーのやり場に困ると、少女は優しい灯がともるよう
なひらめきで、かぶっていた麦わら帽子を脱いだ。そして、小さな手に収まらなくなる程
の幸福のシンボルをその中に並べた。集めた宝物が一番輝いて見えるにはどうすればいい
か。麦細工の宝物入れを地面に置き、何度となく離れてみたり、近づいてみたり、あらゆ
る角度からそれを見つめ、微調整を繰り返す。

装飾が彼女にとって完全なものになると、少女はその喜びを分かち合う相手を探した。答
えは一つしかない。笑顔で彼女を見つめている二人は寄り添い、シートの上に腰を下ろし
ていた。愛情を多分に含んだ視線が交錯すると、父親は大きく両腕を広げる。

太陽を逆光にしたその明るい影に向かって、少女は足を踏み出した。走り出したい高揚し
た気持ちを押しとどめ、完璧な美である四葉をくずさないように。

すると、ゆっくりと歩く少女は急に背中を押された。
何事かと振り向いた彼女は、世界のうねりを聞いた。
58 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:39
それは風だった。とてつもなく大きな風。少女にはそう映った。太く、地中にしっかりと
根を張った大木を揺らし、それまで仲の良い遊び相手だった植物を鼓舞させる大きな力。

―――生きている。少女は感じた。この世界は紛れもなく生きている。

触れた事のなかった巨大な生命の中で、呆然としていた。草や木だけじゃない。自分の物
だとばかり思っていた髪の毛さえもが躍っている。さらには、手の中にあった麦わら帽と
クローバーまでもが騒ぎだし、空の青へと飛び上がる。流れるようにクローバーは帽子か
らこぼれ、UFOを逆さにした飛行体はますます上空へとのぼる。
59 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:40
我にかえった少女は、蒼穹を見上げたまま麦わら帽を追いかける。帽子はそれを楽しんで
いるかのように、右へ左へと彼女を翻弄する。クルクルと回っているうちに、どっちが地
面でどちらが空か分からなくなってくる。

気がつけば、少女の口からは笑いがもれていた。出そうと思った笑い声ではなく、むしろ
抑えようとしても無理であろう、自然にあふれ出る嗚咽。

目が回り、仰向けに倒れこむ。耳の横では相変わらずクローバーが主張し、草の香りが辺
りを包んでいる。まだゆっくりと空を泳いでいる影から目を離し、静かに動く白い雲とス
カイブルーに、つまりは空そのものに意識を向ける。

きっと今、空を飛んでいるんだ。少女は息を止め、目をつむった。
60 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:41
体を起こすと、慣れ親しんだベッドのスプリングがギシリと悲鳴をあげる。病室は元のま
まの白い壁で、空想のスクリーンとしての役目を終えていた。思えば、あの家族旅行のす
ぐ後だった。少女の体が不治の病に侵されている事が明らかになったのは。

少女は窓の外に目をやる。そこには、もう届かない日々があった。窓枠に切り取られなが
らも、わずかに残る深緑に向かって手を伸ばす。もちろん、その小さな体では、窓にすら
手が触れることはない。それでも少女は、何かをつかんだように手を握り、自分の目の前
でそれをほどいた。―――手相の他には何も無い手のひら。

ドアを二度ノックする音が届いてきた。
少女は、どうぞ、と声をかける。相手が誰なのかは分かっている。
61 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:42
優しく、大人びた笑みを向けながら入ってきたのは、長身の女性だった。彼女は慣れた手
つきで、ベッドの横にあるイスを自分の方へ引き寄せると、腰を下ろし、少女の頭をゆっ
くりとなでた。
「元気にしてた、のの?」
「うん。飯田さん、あのね、あの場所のことを思い出してたの」
「…そう。ののが空を飛んだ時のことね?」
「すぅごい気持ちがいいの。もう一度飛んでみたいなぁ」

白い部屋の中で談笑している二人のコントラストは、思わず目を細めたくなる程に明確だ
った。飯田さんと呼ばれた女性は、フルネームを飯田圭織と言い、つややかな黒髪が腰の
あたりにまで伸び、細身のダークスーツがよく似合っている。いつも穏やかな微笑をたた
え、二十代前半という実年齢よりも幾分落ち着いて見えた。対照的にののという愛称を持
つ少女はというと、とても体が小さく、髪はダンゴにして頭の上に束ね、人とあまり接し
ない生活を送ってきたせいか、十代半ばという年齢にしては無邪気さが際立っている。顔
も圭織は美しいと言われる部類に属し、可愛いと評されるののとはまるでタイプが違って
いた。
62 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:44
圭織はいつからか、この病室に毎日通うようになる。始めは、お互いに手探りだった。異
なった世界の年齢の離れた二人は、会話の取っ掛かりをつかむのに苦労した。それでも圭
織は純粋なものを愛する心を持ち、ののはまさにそのものだった。あの日、照れ笑いを浮
かべながらののが口にした約束を、二人は苦もなく守り続けている。

圭織はそんなふうにののを幼い頃から知り、ずっと見守って来た。ののもそんな圭織に心
の底から甘え、凸凹を絵に描いた二人は、その隙間を補い合うかのように仲が良かった。

ののは一日の大半を空想の中で過ごす。それは外界から突如として遮断された少女の、自
然に身につけた退屈の迎え方だ。十年近くの歳月をそうしてやってきた。その内容を、圭
織だけには話し、圭織は心からの笑顔でそれに応える。二人にはそれだけで充分だった。
63 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:44
「もう一度、飛べるかなぁ?」
上目づかいにそう尋ねるののを、圭織はしっかりと見つめ返す。
「いい?圭織、実は魔法を使えるの。いつかののが元気になったら、あの日の風を呼んで、
ののをあの場所まで運んであげるんだから」
「そっかぁ、そうだよね。楽しみだなぁ」
「ののが今まで見られなかったもの、ぜーんぶ見せてあげるんだから」
「うん!」
目を輝かせるののの頭を、圭織は再びなでた。惜しみない愛情を込めて。



64 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:45
そんな毎日が続き、これからも続いていくであろうと思っていた真夜中。

ののは胸の激痛に目を覚ました。あまりに頼りない命綱であるナースコールに手を伸ばし、
そのボタンに力を込めるのもやっとの思いだった。胸を押さえてうずくまり、目を強くつ
むり、助けが来てくれるまでの時間を必死に耐える。

意思とは無関係に震える身体を、何度も悪寒が通り抜ける。
寒い。それでいて焼けるように熱い。

永遠にも思われた泥沼のような痛みから、引き上げてくれる手を目にした気がした。廊下
を急ぐ足音が鳴り響き、病室のドアが乱暴に開けられる。
65 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:46
苦痛の汗でにじむ顔を上げ、ののが確認した顔は圭織のものだった。圭織はいつもの穏や
かさをどこかに置き忘れたようにののに駆け寄る。
「のの、どうした!?苦しいの?」
ののはなんとか笑顔を作ろうとして、失敗した。油断をつくような鋭い痛みに顔が歪む。
「答えなくていい。すぐお医者さんが着てくれるからね?」
ののは震えるようにしてうなずくと、顔をシーツに沈める。呼吸は飛び散って乱れ、じっ
とりとした汗は、命を溶かすように流れ出る。

ののは、いつも不安にさらされていた。いつ終わりの日が来るとも知れない毎日。そして
恐らく、この病院から出ることなく終わる人生。自分で何をしたという事もなく、誰も知
らないままに、ひっそりとこの世からいなくなる。そう思うとたまらなく寂しい気持ちに
なった。
66 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:48
「ね、ねぇ、飯田さん」
ののが差し出した手を、圭織は力と、それ以上の何かを込めて握り返してくれた。
「ののが」息も絶え絶えに続ける。「生まれ、てきた意味って、あったのかなぁ?のの、は、
多分、失敗作で、み、んなに心配ばっかりかけて…」
「違うよ」圭織は確信に満ちた声で、包み込んだ手にさらに力を増す。「ののが今、こんな
ところで苦しんでるのは、故障しちゃったからなの!壊れた部分をなおして、これからを
生きるためなの!」
ののは自然と出てしまううめき声とは裏腹に、笑ってみせた。
「そう、なのかな…?」
「だけどね、のの」その健気な笑みに、圭織は胸を熱くする。
「世の中の人は大抵、どこかが故障しているの。それが目に見えるか見えないかの違いだ
けでね。でも本当は、見えない部分のほうがずっとタチが悪いの。故障した自分を醜く思
って、他人も故障してないと気が済まなくなるの。だけど、だけどののは身体は悪いかも
知れないけど、その大切なものには傷一つないんだから!」
激しい苦痛の強弱に、ののの顔は再び歪む。
「だから、そんな悲しいことを言わないで?圭織には分かるの。みんなが本当に欲しがっ
ているものは、ののが持っているものなんだよ?だからさぁ…」
67 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:49
その時になって、ようやく二人の看護婦と医者が部屋に飛び込んできた。これはまずい、
医者はののが苦しんでいる様子を見て、そう言った。すぐさま看護婦の一人に声を上げ、
緊急手術の手配をさせる。

ののの小さな体はタンカに乗せられ、ますますか細く映った。圭織は意識が朦朧としてい
るののに向かって、声をかけ、励まし続ける。病院の無機質な廊下は、見て見ぬふりをす
るように冷たい。足音と、台車のすべる音が反響もせずに吸われていく。やがて廊下の突
き当たり、手術室の前に着くとドアが音もたてずにスライドして開いた。
68 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:49
圭織の脳裏を凍るようなイメージがよぎる。もしかしたら、この病院は生きているんじゃ
ないだろうか。手術室はこの生物の口で、この機会を息を潜めて待っていたんじゃないだ
ろうか。圭織は自分の想像を、頭を振って打ち消す。
「のの、圭織が絶対に、あの場所に連れて行ってあげるんだからね!」

ののを乗せた台車が手術室にすべり込み、そのドアが閉まる瞬間、圭織は言った。
「圭織を信じて、のの!この世界が嘘でも、圭織を―――」

もう一度、空を。ののは思った。もう一度空を飛びたい。
そして、明日の夜明けを目にしたい。生きて…いた……い。

薄れていく意識は、手術室のドアと歩幅を合わせるようにして閉じられた。
69 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:51
手術室の中は喧騒に乱れる。患者の状態はかなり悪く、いつ事切れてもおかしくない。危
機を知らせる機械音が終始鳴り響き、執刀医を急き立てる。助手に対する指示の声も自然
と高くなり、空気はこれ以上ないほどに張り詰めている。

それでも、……それでも意識を持たない機器は、冷静に警報を鳴らし続ける。手を尽くす
医師をあざ笑う。逃げ道を次々と塞いでは、人をあきらめへと誘う単調な声を上げる事を
止めない。

人工的なこの場所には、時間の感覚が存在しない。患者の為に、人の手で作られた空間は
必要だ。しかし、不自然な事には違いない。歪みは必ずどこかに支障をきたす。
70 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:51
この場合に至っては、それは圧迫感であった。医者の心理を狭いところへと押しやる力。
実際に手術開始からかなりの時間が経つ。が、どのくらいの時が流れていったのか、飽和
しきってしまいそうな頭では知れない。何度か助手に時間を尋ね、返事がかえってきたが、
それはただの数字に過ぎない。患者の状態と医者の感覚が一致しなければ、そんなものに
意味はない。レシピ通り作れば出来上がる料理とは違う。同じ事をしても、患者によって
は息を吹き返し、患者によっては生命を失う。

執刀医の要求の言葉に、疲労が混じる。集中力のピントが音もたてずにずれていく。一呼
吸ごとに疲労が蓄積されていくのが分かった。苦行にも似たこの作業を続ける限界が近づ
いてきていた。
71 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:52
―――と、執刀医は顔を上げた。

彼だけではない。手術室にいる全員が目を見開き、機械を見つめる。部屋の中は、静寂に
包まれた。文字通りの静寂。精密な医療機器は正常を表す沈黙を始めた。信じられない、
誰かが呟いたような気がした。プロの集団の手が、一瞬とはいえ止まる程の衝撃。降って
湧いた希望の木漏れ日に、手術室内は活気が戻る。



72 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:53
ののは、あの高原に横たわっていた。どうして自分がここにいられるのかは分からなかっ
たが、それでも心は浮き立った。あの日のままの憧憬が眼下に広がっている。自分だけが
世界から取り残されている悲しみは、もう無かった。最も愛しているものが、そのままの
姿で待っていてくれた。それだけで救われた気がした。

ののの肩に、ふわりと手が乗せられる。
「どう、のの?」
振り返ると、圭織がその風景の中にいた。
「飯田さん!ホントに魔法使いだったんだ!?」
「そうだよ、だから言ったじゃない。信じてなかったの?」
ののはブンブンと首を振る。「そうじゃないけど……うれしくて」
73 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:54
圭織はそのままののの腕を取ると、駆け出した。

ののは少し驚く。入院が決まってからというもの、走るのは初めてだった。圭織の魔法は、
こんな事さえも可能にしてくれるらしい。少し考え、いつもとは違う圭織の笑顔、屈託の
ないそれで振り返るのを目にしていたら、そんな事はどうでも良くなった。

息が切れる事にさえ愛しさを覚え、二人は繋いだ手を振り回し、どこまでも駆け抜ける。

久しぶりに走ったせいか、ののが草に足を取られて転ぶと、手を繋いでいた圭織も引っ張
られるようにして倒れ込んだ。歓喜の声を上げながら、誰の目を気にするでもなく、ただ
生きている事を身体で確かめていた。

二人は並んで腰を下ろし、しばしの間、自然に身を任せる。会話を交わす事はなかった。
ただ黙って、草のこすれ合う音や頬をなぞる風の中にいた。そして時々、思い出したよう
に顔を見合わせ、笑った。
74 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:55
風に目を細め、遠くを眺めていた圭織はふと、笑顔を悲しいものに変える。
「でも強がってるけどね、圭織の魔法は、そんなに強力じゃないの」
「飯田さん?」
不思議そうに見上げるののの柔らかい頬を、圭織は軽くつまむ。
「ううん。笑って?ののは笑顔じゃなくちゃダメ。いつでも笑っていて?」
ののは、何だか分からないというふうにうなずいて見せる。
圭織はいつもそうするように、暖かな気持ちで、ののの髪の毛をすくようにしてなでた。
「いい?圭織が一緒にいてあげられるのは、ここまでなの。それでも圭織に誓って?絶対
にあきらめないって」

ののはその声が聞こえていないように、顔を圭織から離し、揺れる緑に戻した。けれどそ
の視線の先には、何も映ってはいなかった。風の音も草の匂いも無かった。
「ここは…本当のあの場所じゃないよね?」
「……うん。圭織は、ののを安心させる為にここを見せただけだから」
「……ありがとう。あの、このことだけじゃなくて」
圭織は、自分の口唇に人差し指を立てる。「いいの。だから、約束して?圭織の力が及ばな
くなる前に。救いの手を振り払わないって」
「また、会える?」
「うん、会えるよ。ののが笑顔でいてくれたら」
「じゃあ、ゆびきり」
75 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:56
おずおずと差し出された愛らしい小指に、圭織は自分のそれを絡めた。初めて会った日に
もこうしてゆびきりをした。その時の約束と、なんだか似ているような気がする。あの日
ののは、はにかんだ笑顔で祈るように、こう口にした。
“一人はもういやなの。ずっと…できればでいいんだけど、ずっと一緒にいて?”

それはとても悲しい言葉だった。装った悲しみではない。こんなにも深い悲感が、あどけ
ない顔のこの少女のどこに潜んでいたのだろう。

圭織はその時、ののの震える指に失くしてはいけないものを見た気がした。
“あたりまえだよ。圭織もずっと一人だったんだ。これから、よろしくね?”

「ゆびきりげんま〜ん」ののが歌う。
「嘘ついたらはりせんぼんの〜ます」圭織も歌う。
「ゆびきった!」
76 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:58
その瞬間、圭織の体が揺らぐ。それは人間的な揺らぎというよりは、歪んだという表現の
ほうが近いものだった。アンテナ状況の悪いテレビの画像のように、粒子が粗くなり、圭
織の長身が消えたり現れたりする。
「ずっと一緒に。圭織はののと一緒にいるからね」
その言葉を残して、砂が風に流される、そんな様子で空気と混ざり合い、圭織の身体は完
全にその場から消え失せた。
77 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 17:59
少女は退屈していた。

そして少女は、退屈を恐れていた。退屈は夜になると、絶望を運んでくるからだ。眠りに
ついたら二度と目が覚めないかも知れない、そう遠くない未来に死を決定付けられた人生。
少女は、優しい両親には、自分が感じている不安を口にする事はなかった。それがどれだ
け二人を苦悩させるか、想像するのは難しくない。手の中にある命が、苦しみ、消えかけ
ているのに何もしてあげられない無力感。

それでも眠る事の出来ない夜、漠然とした不安に泣きながら耐えるのは、何よりも苦痛を
伴う時間だった。ぶつける場所さえない悶絶しそうな暗闇の中、少女はある人物を創り出
した。

―――自分とは正反対で、美しく、優しい、そんな理想の女性を。
78 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 18:00
自分の事を幼い頃から見守っていてくれて、全てを知った上で愛を向けてくれる、そんな
ぬくもりを。あこがれに値するもの全てを兼ね備えた彼女の言葉さえあれば、生まれてき
た事を卑下せずに済む。彼女には自分に覆い被さっている恐怖や絶望感を口にし、心の奥
底をさらけ出す事が出来た。

生きている、唯一の証であるとさえ思った。
彼女がいるから生きていけるとさえ思った。



79 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 18:01
医師の手が再び動きを止めた。突然に訪れた日の光は、また突然として雲に覆われてしま
った。手術室内に再び機械音が鳴り響く。その耳障りな音にも、医師は冷静な表情を崩さ
ない。さっきまでとはモチベーションが違う。出口の存在を疑っていた時とは、まるで違
う。幾度となく手術を重ねてきた彼は、一つの真理を思い出した。医療の手の届かないと
ころは、必ずあるという事。

この場では間違いなくリーダーである彼の声に動揺はない。それは、浮き足立ちかけた部
屋の中をしっかりと押さえつける。

さっき、この子はそのまま亡くなるはずだった。医師は思う。ごく稀に、それを計算に入
れてはいけないほど微小な可能性でこういう事がある。何がそれを引き起こすのかは知ら
ない。恐らく自分には想像もつかないものなのだろう。それを誤魔化すように、本人の生
きる意志の強さという言葉を使ったりもするが、それは分からない。ただ一つ言えるのは、
この子にはそれがあり、それを信じて全力を尽くすのみという事だ。

ふと彼は、背中に誰かを感じた気がして振り返る。もちろん、誰もいない。
80 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 18:03
手術室の外では、ののの両親がやり場の無い怒りを抱えていた。どうしてこんな事が起こ
るのか。これまでに何度となくぶつけ続けてきた疑問だった。答えなどはもちろん存在し
ない。それでも吐き出さずにはいられなかった。誰に対するものでもない。二人はお互い
を守ろうとさえしている。それ故、その言葉は傷を深いものにしていた。

苦労が多いですね、二人は周りの人にそう言われ続けてきた。そしてその表情には、例外
なく同情の色が浮かんでいた。

ののに実際に触れている二人には、同情は必要のないなぐさめだった。苦労は確かに多い
かも知れない。元気であって欲しいという願いは、言うまでもなくある。けれど他の誰で
もなく、ののはののなのだ。自分の娘に誇りが持てると、何人の親が心から言えるだろうか?
81 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 18:03
二人は痛感している。身体が蝕まれ、その分どんなに気苦労が多かろうが、ののが自分達
の子供で本当に良かったと。そして、この幸福がいつまでも続いて欲しい。これは望んで
はいけない事なのだろうか?この世の中で許されない事なのだろうか?それ程の罪をのの、
もしくは自分達は犯したのだろうか?

父親は沈痛な面持ちで、燃えるように赤い、手術中のランプを見上げる。それは、まるで
ともしびだった。ののの命を意味するともしびのように映った。神様でも何者でもない、
漠然とした何かに祈る気持ちで、見つめ続ける。
82 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 18:05
医者は手を尽くし、両親は祈り、ののは苦しんでいた。

これまでのものとは次元の異なった、熱された金属を押し当てられたような痛み。草原が
だんだんと形を失っていく。叫び声を上げなくては気が狂ってしまいそうだった。

今やそこはただの暗闇。黒よりも暗い色。そんなものがあるのかどうか、それは分からな
い。ただののは今、確かにそこにいた。闇の他には何もない、そんな世界。地面の感覚も
ない。ずっと落下しているのだった。手を伸ばしても触れるものはなく、振り回した腕は
空を切る。

意思とは関係なく涙が流れ、嗚咽を上げていた。生まれたての子供のように何に縛られる
事なく、只々その行為をまっとうしていた。のどを震わし、声を上げて。

この降下の果てに何があるか、理解していた。そして、それでもいいと思った。指一本で
も動かせば、激痛が背骨から全身に走り抜け、容赦なく身体を切り刻む。のどが乾いてい
る。頭も痛い。吐き気がする。力が抜けていく。
83 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 18:05
―――もういい。

あきらめが甘い香りを漂わせながら忍び寄る。落下のスピードが急速に上がるのが分かっ
た。それだけではない。包んでいた暗闇が、身体にまで及んでくる。侵食されるように、
足が、指が、腕が消えていく。

―――もういい。

もう一度、声にならないうめきをもらした時だった。絶望で塞がれた五感を刺激するもの
の存在を感じた。耳も役立たずになっているというのに、その声だけは、はっきりと聞き
取ることが出来る。
84 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 18:06
ののが今まで見られなかったもの、ぜーんぶ見せてあげるんだから。
圭織を信じて、のの!この世界が嘘でも、圭織を―――。
ずっと一緒に。圭織はののと一緒にいるからね。

ののの意識が、ほんの少しだけ覚醒する。圭織と約束した事を守らなくてはいけないと思っ
た。いつの間にか止めていた、生きる努力を再び始める。この落下を阻止するために、消え
かけた腕を何もない暗闇に向かって伸ばす。再びほとばしる激痛に涙を流し、苦痛の音を漏
らしながらも、小さな体を精一杯生存の方向へ突き出した。

今すべき事をののは知っていた。かつてのそうしたように、このブラックアウトされた世界
の中を、もう一度飛ばなくてはならない。圭織がなぐさめてくれた言葉や圭織自身を信じて。
圭織はあの日の風を呼び起こし、ここから連れていってくれるんだ。
85 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 18:07
ののから迷いの感情が消える。痛覚だけは相変わらず鋭敏な働きをみせ、全身をくまなく
襲う。それでもののは痛みの海を泳ぐように身体を動かし、浮上を試みた。

落下スピードがほのかにゆるやかになる。もう少し。

ピタリと止まり、宙に留まっている時間は無かった。落下速度がおちてきたかと思えば、
空間がねじれ、反発するように身体が上昇を始めていた。全身は闇に飲み込まれ続け、絶
え間ない苦痛は止まらない。それでも、上を目指して。
86 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 18:08
ののは確かに風を感じた。あの日のあの場所の香りをまとった、何度となく思い浮かべて
は渇望していた通りの疾風。どれだけ頭の中で組み立てようとしても、それはどこか違っ
ていて、もうもしかしたら手にすることは出来ないのではないかと思っていたもの。

のの、圭織が絶対に、あの場所に連れて行ってあげるんだからね!

果てしない漆黒の先に、米粒ほどの大きさの光が見えてきた。生きていたい。ののは心か
らそう思い、半分にまで消えうせてしまった身体に力を込める。必死になって集めた幸福
のシンボル。今なら分かる。生きているというのは、それだけでとても幸せなことで、あ
の日々こそが四葉のクローバーだったのだろう。
87 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 18:09
光は段々と明確になり、その向こう側にはあの場所が続いていることさえ分かった。もう
少し。もう少しで、飯田さんにもう一度会える。

生きていたい。

生きていたい。

生きていたい。




―――機器が途切れのない高音を発し、一つの生命の終わりを告げた。
88 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 18:10
 
89 名前:HONEY 投稿日:2003/12/26(金) 18:11
――― HONEY 完 ―――
90 名前:  投稿日:2003/12/26(金) 18:15
>>1-9 クッション (いししば)
>>16-30 卒業アルバム (ののあい?)
>>34-50 不思議    (いちごま)
>>54-89 HONEY (ののかお)
91 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/16(火) 12:15
自己保全
92 名前:感想レス 投稿日:2004/03/26(金) 04:48
クッション…綺麗ですね
石川と柴田の関係性が、現実にも健全な美しさを持っていると感じる俺にとって
あぁ、綺麗だなぁ って

卒業アルバム…現在の辻加護が、当時の合宿に向かうような
精神的な変化を無視された様な違和感がありました
これは別に、ただ俺にとっての違和感というだけの事です

不思議…ずっと、ずっとこの物語の二人を見ていたい

HONEY…>>80の三段目から…、目が熱い
病気の少女って安易で嫌いなんだけど…、目が熱い
飯田の喋り方をもう少しディフォルメした方が違和感なくていいかもなんて事より…、目が熱い
両親のトコがとにかく…
。・゚・(ノД`)・゚・。
93 名前:ピアス 投稿日:2004/05/18(火) 21:12
ありがとうございます。
もう貰えないと思っていた物にまで感想を頂いて、
本当に、画面の前で頭下げました。
このお礼は作品で!……と思ったんですが、
遅筆なので、先に感謝の言葉になってしましました。
94 名前:ピアス 投稿日:2004/05/18(火) 21:25
次の『猫とアヒルのタペストリー』は、書き上がっていません。
なので、レスは(下さる方、いらっしゃいましたら)終わるまで待って下さい。
短編はどうしても一つにまとめておきたいんです。
じゃあ書き終えてから上げろよ、という意見は驚くほど良く分かるんですが、
あまりにも遅筆な為、誰かを待たせてるプレッシャー無しには終わりそうもありません。
あくまで短編ですから、そう長くはならないと思いますので、
どうかよろしくお願いします。
(気が向いたらここにある他の作品の感想も下さると、なお嬉しいです。)
95 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/05/18(火) 21:36





96 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/05/18(火) 21:37
                    1



 獲物を探していた。それも、出来るだけ屈強な相手が好ましかった。腕力だけで世の中
を渡っているような、そんな奴でなければならない。
 夜の渋谷は今日も人の神経を煽るような刺激に満ちていた。何処から湧いてくるとも知
れない人混み。その一人一人が仲間同士で、もしくは小さな機械に向かって上げるわざと
強調したような荒っぽい笑い声。罵声。とっくに役目を終えた陽光の代わりに街を照らす
のは、ケバケバしい色をしたネオンサインだ。原色の人工的な光が、何に左右されること
もなく、ジットリとした強弱のない点滅を繰り返している。
 何かが起こってもおかしくない。何かが起こらなくてはおかしい。人にそんな錯覚を植
え付けるのに充分なように思えた。
 少女は先程ぶつかった女の睨み付ける視線を背中で受け流しながら、自分もまた、この
風景の一端を担っているのだろうと苦笑していた。もしかしたらこれは、生まれた時から
決定付けられていた運命なのではないだろうか。宿命と言ってもいい。夏の虫が灯りを求
めるように、本能に組み込まれていた命令のまま、この街の殺伐とした空気に引き寄せら
れたのだ。そんな想像が彼女の表情を笑みとも取れる形に歪めていた。
97 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/05/18(火) 21:40
 少女と虫の違うところは、少女はむしろ光を避けている点だった。彼女は雑踏を通り過
ぎ、センター街から一本はずれた、比較的人通りの少ない裏道へとすべり込む。その足取
りに迷いは微塵も混ざらない。
 視軸は常に道行く男達に定められ、注意深くその肉体を吟味した。だが、どうもうまく
ないことも事実だった。日が悪いのか。それともそれが流行りなのか。普段こんな街と縁
のない彼女には判断がつかないが、表通りほど煌々とはたかれていない極彩色の電飾に照
らされた男はどれも、あまりに貧弱に映った。
 こんなのを相手にしても仕方がない。少女は小さく息を吐き、歩みを止めないままに次
に自分が取るべき行動について思案を巡らせていた。
 動きやすいようにと選んだ黒に白いラインの入ったのスニーカーが、コンクリートに微
小な足音を残す。その先からは影法師が顔を出し、居場所が定まらないのか、散り散りに
なりながら必死に彼女の後を追いかけていた。自らの分身がすがっているみたいにも見え
た。しかし、それすらも振り切ろうとしているかのように、彼女は足を進める。
 決断力。それは彼女の一番の武器だった。彼女自身もそれが自分の強みだということは
認識しており、それが失われたら自分はお終いだと覚悟していた。するべきことを決めた
ら、迷うことはない。後は実行するのみなのだ。
98 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/05/18(火) 21:42
 それはここでも例外ではなく、彼女は素早い決断力で計画を微調整する。人目を気にし
て避けていたセンター街へ移ろうと決心し、車も通れないような裏通りの暗い路地に入っ
た。まさに通り抜けのために作られたとしか思えない細い道を、二、三歩進んだところで、
少女は突如として足を止めた。影がようやく彼女に追いつく。
 視線の先では舞台上の黒子のように、二つの影がうごめいていた。その男は後ろ姿で、
学生と思われる制服姿の女を壁に押し付け、その両肩の上の辺りに手を押し出して、逃げ
られないように固定していた。女の悲鳴からそれが穏やかな交渉でないことが分かったが、
それはどうでもよかった。それよりも大切なのは男の体格。まったくをもって求めていた
獲物にふさわしく思えた。
「ちょっとアンタ、何してんだよ」
 うるさそうに男は、チラッと少女を一瞥し、蝿でも追い払うように手を振る。
 挑発に乗ってこないのなら、無理矢理にでも乗せてやればいい。彼女は舌先で唇を湿ら
した。幸いにもこのタイプは、頭が回らない奴が多い。
「嫌がられてるのが分かんないの?ブッサイクな顔してさぁ」
 挑発は当たった。二つの意味で。一つはもちろん、男が明らかに血の昇った顔で近づい
て来たこと。もう一つは、暗闇で見えていなかった顔が本当に酷いものだったこと。
99 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/05/18(火) 21:43
「今ナンつった?」
「鏡見たことないのかって言ったんだよ。それとも耳まで遠いの?」
 侮辱の響きを多分に混ぜた口調に、相手が女であるというゴミのような気遣いは消えた
らしい。男は動物的に目を見開き、拳を固めて振りかぶった。
 さすがに戦慄のようなものが少女の背中に寒気を走らせた。しかしそれは緊張というよ
りも緊張感に近いものに思えた。目は様々な事柄を認識し、身体は思い描いた通りの動き
をする。
 顔のすぐ横で文字通り空を切った打撃を確認すると、彼女は相手のみぞおちを強打し、
ワンステップで離れた。どうあがいても力の差はある。立場が逆だったと想定して、それ
に対する予防。
 男は腹を押さえながら少し苦しそうにうめくが、戦意を喪失した様子はない。それどこ
ろか、鋭い目付きにはますます闘志を煽られたことが見て取れた。
 やはり相手を一撃で倒せる程の力は、自分にはないらしい。少女はかすかな期待を捨て
去り、今度は注意深くにじり寄ってくる相手に視線を合わせる。ケンカ慣れしているこの
男も、どうやら格闘技の経験はない。最初のパンチの力み方でそれが分かった。どんな格
闘技もそれを取る事から始まるのだ。そしてそれは街のこういう連中は大概同じことなの
だろう。
100 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/05/18(火) 21:45
 静を切り裂くように動へと移った男は、左腕でフェイントを入れるが、踏み込みの浅さ
からそれは筒抜けだった。少女は余裕を持って本命の右をかわす。
 これならば負ける気がしない。無意識の安堵が彼女に生まれかけた。―――が、すぐに
それは再び冷たいものとなり、身体を抜けた。男の狙いが打撃ではなく、服を掴むことに
移行したと気付いたからだ。余裕を持って大き目によけていなければ、その智略はまんま
と成功していた。心臓が一度強く打ち、パニックを呼び起こす時と同じ動きをする。
 しかし、彼女の集中力は途切れなかった。むしろ再び引き締まった。無い頭を振りしぼ
って考えたであろうこの必勝パターンは、確かに良策だ。しかし、それさえも自分の手の
中にある今、こいつの敗因にもなり得る。自信を持っている攻撃を改めるのは難しい。瞬
間に決着がついてしまう場では尚更だ。
 思惑の通り、男はがむしゃらに服を掴もうとし、行動がワンパターンになる。
 少女はそれを認めると、わざと距離をおき、男が手だけを伸ばす、バランスを崩した体
勢で服を掴ませた。男のニヤリとした顔が視界を一瞬横切る。一瞬、というのは、逆にそ
の腕を取り、彼女が身体を回転させたからだ。自然、相手も世界も急旋回する中、体重を
全てその腕に乗せ、関節の曲がってもいい側とは反対の方向へ力を込めたまま、地面へと
倒れ込む。
101 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/05/18(火) 21:47
 当たり前のように鈍い音がして、当たり前のように少女の腕には独特の感触が伝わって
きた。当たり前じゃなかったのは結果だけだ。てっきり骨折するものと思っていたのに、
男の右腕は脱臼していた。ブラブラとだらしなく腕は揺れる。
 何が起こったかすら理解していないであろう男の薄汚い獣のような悲鳴を尻目に、少女
は気分が静かに高揚しているのを感じながら立ち上がった。
 揉み合いになることはまずないだろう。それでも不安材料は一つでも潰しておいた方が
いい。そんな念には念を入れてのシュミレーションだったけど、万が一肉弾戦になっても、
あたしは戦える。
 上気した顔を夜風が心地よく通り抜け、張り詰めた祝祭をあげた。暗闇は全てを呑み込
むように辺りを包み、毎日のようにもめごとがあるこの街で、また一つの出来事を秘密で
覆う。ネオンだらけのくせに、この街の闇はより深いのだ。
 そんなものがあるかどうかも視界不良でとらえることができなかったが、少女は衣服に
ついたほこりを手で払いながら、男が腕を押さえながら姿を消すのを確認した。もう完全
に興味はそこにはなかった。彼女の黒目勝ちな瞳の奥の光は、次に起こす行動を映してい
た。それはこの場にはない。今は彼女の心の内にか存在していなかった。
102 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/05/18(火) 21:48
 知らない人がそれを見たら、浮かれていると取られたかも知れないような顔つきで、少
女は鼻息荒くその場を立ち去ろうとした。胸中は黒い希望で満ち溢れ、誰も自分を止める
ことなどできはしないとすら思えた。
 直後、心拍数が一気に跳ね上がる。手首を握られる感覚が伝わってきたのだ。あまりに
も冷たい感触によってもたらされた、最悪の想像と共に振り返る。
「すっごーい!強いんだね、助けてくれてありがとー!」
 そこにあったのは目を輝かせた笑顔だった。存在すら忘れかけていたが、どうやら男に
絡まれていた女らしい。ほとんどしていなかった想像よりも幼く見えた。
 やや青ざめた顔になった少女は動揺を悟られないように、そうでもないよ、とだけ口に
して視線を元に戻すが、腕が離れない。
「何?用が無いんだったら、先を急ぐんだけど」
「名前」
「えっ?」
「わたしは亀井絵里。あなたの名前は?」
 少女は少し考える。この場では名乗っても、特に危険はないように思えた。
「……田中れいな」
103 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/05/18(火) 21:50
 亀井絵里と名乗った女は、田中れいなかぁ、とその名前を何度か口の中で転がした。表
情はめまぐるしく変化し、何かを口に出そうとしてはつぐむ。話の切り口に迷っているよ
うだった。
「もういい?」
 会話を打ち切ろうとすると、絵里はブンブンと首を横に振る。
「れいなはさぁ、正義の味方なの?」
「正義の味方って、あんたいくつ?悪いけど、もう」
「十二月に十五才になった!れいなは?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
 ちょっとした後悔がれいなに生まれる。この可愛い子ぶったあひる口の女は、思った以
上になれなれしい。その上、何を考えているんだか理解できそうにない。この街で楽しそ
うに大声を張り上げている奴等とは別の意味で、だけどそれと同等に訳が分からないタイ
プだ。
 絵里はれいなのあからさまな拒絶の態度に気づく様子がなく、矢継ぎ早に興味に満ちた
質問をぶつける。まるっきり、言葉を覚えたばかりの子供のようだった。目に付く物全て
に興味を示し、母親に尋ねる子供、そのものに映った。
104 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/05/18(火) 21:52
 視線を握られた手首に落とすと、絵里もそれを追いかけてくる。しかしその仕草をどん
な意味でとらえらたのか、ニッコリと笑うだけだった。心底嬉しそうに目を細める。
 つきあってらんない。そう判断したれいなは無視を決め込むことにした。何よりも、早
くこの場を去らなければ、あの男が仲間を引き連れて戻ってくる危険性がある。
 繋がれっぱなしだった腕を振り払うと、踵を返し、れいなは足早に歩き出した。影は再
び千切られながら追いすがり、電飾はチリチリと網膜を焼く。店先では酔っ払い同士のろ
れつの回らない罵り合いが始まった。この勢いと周りの人間の様子からすると、殴り合い
に発展しそうだ。理由なんてどうでもいい。そこに衝動があり、相手がいるからだ。
 やはりそうなのだろう、とれいなは思った。この街の人種が理解不能でも、自分はこっ
ち側の人間だ。ここでは嫌悪感をもよおさずにはいられない空気が充満し、発散され続け
ている。限りなくドス黒くて、鉛のように鈍い感情。そしてそれは確実に自分の中にも存
在する。核として、存在する。
 酔っ払いの集団の傍らを通り抜け、れいなは足を速めた。来るときに想像した虫の気分
だった。本能はそれを求め、火の中に飛び込んでも、そこでは生きていけない。じゃあ、
自分は何処で生きるのだろうか。生きていく場所が何処かに存在するのだろうか。
 ―――そうだ、あたしはもうそんなことを考えないでよかったんだ。
 安堵とも取れないウヤムヤな感情は放っておくことにした。それよりもまず、一刻も早
くこの街を抜け出したかった。
「ねえねえ、ちょっと待ってよ、れいなぁ!」
 背中からは絵里の、場違いな弾んだ声がついてくるのだった。
105 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/05/18(火) 21:52





106 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/07/24(土) 14:18
「じゃあ、れいなのほうが一学年下なんだぁ」
 絵里の声と、自転車の秒針のような規則正しい回転音のみが響いていた。この時間では
人通りは途絶え、道は二人の少女の専用道路と化している。地元の住民から痴漢が多いこ
とで知られる駅からのこの道筋は、申し訳程度に設置された街灯と自動販売機の前以外で
は、お互いの顔さえ識別できない程に薄暗い。そんな深い闇の中を進む二人を、物言わぬ
コンクリートの壁や電信柱だけが見下ろしていた。
「ってことは、れいなはさぁ」
「…………」
「そう思わない、れいな?」
「…………」
「でもれいなって意外と」
「…………」
 ペットの名前に自分の考えたものが採用された。そんな響きのある声色だった。絵里は
やたら嬉しそうに“れいな”を連呼する。同時進行で徒歩のれいなに合わせて自転車を引
きながら、自分を救った彼女の行動を身振り手振りで再現しようともしていた。無謀なこ
ころみ。当然の結果として、主人の動きによってバランスを失った自転車は転倒した。幾
度となく繰り返されているというのに、大して気にする素振りも見せない。ただ笑いなが
ら引き起こしては続きを始めるのだ。
107 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/07/24(土) 14:21
 れいなにとって一番の不運は、絵里と近所だという事実が発覚したことだった。自宅か
らの最寄り駅が同じという程度だが、それは充分に日常生活の範囲内にある。絵里の通っ
ている高校も日頃よく耳にするもので、偶然を知った絵里の質問攻めのトーンはさらに上
がった。偶然と運命を混同した物言いに、帰りの電車の乗車時間中、れいなはずっと辟易
とさせられていた。いつもより遅く感じる電車の速度。その苛立ちは二人の方をチラチラ
と眺める好色そうな中年男にぶつけられた。暴力を振るった訳ではない。れいなの鋭い目
つきで思い切り睨み返されたというだけで。
 当り障りのない疑問にだけ答え、他は無言を貫いた。かけられている迷惑を思えば、そ
れでもサービス過多なくらいだ。絵里はそんな胸中を知ってか知らずか、沈黙したれいな
に深追いすることはなかった。その代わり、子供のような質問も途切れなかった。電車の
速度は上がらない。
 ようやく列車が目的地で動きを止めた時、れいなは別れも告げずに立ち去ろうとした。
あまり人のいない駅の構内を、滑るようにして出口へと向かった。ポケットから切符を取
り出し、それを機械へと押し込む。押し込みながら、疲労を溶かすように息を吐く。その
時になって気がついた。れいなのそれとは程遠い、不細工な足音が追って来ている。どう
やら駅への到着は開放を意味しなかったらしい。そこからも方向が同じだったようで、今
なお、こうして禅門答にさえ感じられる煩わしさを投げつけられているのだ。
108 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/07/24(土) 14:22
 教室の中のざわめきのように、気にしなければ何ということはない。言い聞かせるよう
にれいなは、いつしかそんな絵里の一人喋りを言葉としてではなく、音として放っておく
ことにした。熟考しなければならない事柄はいくらでもあり、ちょっとしたミスも無くさ
なければならないのだ。小さなほつれがどういった結末を引き起こすのか。その行き着く
先を思えば、推敲する時間はいくらあっても構わない。
 考えた途端、物思いを遮る派手な音が上がった。倒れた自転車はさほどスピードを持っ
ていた訳でもないのに、大袈裟に浮いた後輪を回転させた。シャリシャリとした硬い音が
空気を滑り、前方のカゴからは学校指定の鞄が地面へと放り出された。高校入学からそう
間もないというのに、すでに不格好に変形し始めている。意識して見てみれば、自転車も
泥除けの部分がボコボコになってしまっていた。どうやら彼女の身の回りにあるものは、
常にこういった扱いを受けているらしい。
 無邪気と言うよりは、あまりにも無防備だ。ふつふつと湧き上がる苛立ちが、れいなの
呼吸を荒くした。
109 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/07/24(土) 14:24
 感情を他人に晒すのがどれだけ危険な行為か、この女は分かっていないのだ。ましては
会ったばかりの人間にどうしてこう剥き出しの好意を向けるのか。それは言わば弱みで、
爪を立てれば簡単に傷がつく性質を持っているというのに、それを喰いものにしたくてウ
ズウズしている奴等がそこら中にいるというのに、この女は知りはしないんだ。
「たぶん、れいなはねぇ」
 神経を逆撫でするように絵里は話を続ける。
 れいなは静かに決断した。こんなのと一緒にいたら自分のペースが乱れてしまい兼ねない。
「―――いいかげんにして」
「えっ?」
「どうしてあたしにまとわりつくの?」
 れいなは少し強めの口調になる。いや、敢えてそうした。
「あたしがアンタを助けたのは、偶然以外の何物でもない。それどころかあんな時間にあ
んな所にいて、はっきり言って、自業自得だと思ってるけど?」
110 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/07/24(土) 14:26
 その声は暗闇に染み渡り、空気に波紋を広げるかの如く凍りつかせた。二人の足が止ま
ったことで、夜道は完全な静寂の中に押し込められる。ふざけていて窓ガラスを割ってし
まった後のような、喪失感を伴った静寂だ。
 そんな状況だけに、次の言葉を吐き出そうとしたれいなはそれを見間違いだと思った。
シュンとなっているか、もしくは怒りをあらわにした表情。そんな予測と共に向けた視線
の先にあったものを、彼女は暗闇のせいにしようとした。一種のごまかし。それを許さな
かったのは、思い出したように通り過ぎていった車のヘッドライトだった。ゆっくりと光
は、れいなの足元を抜け、身体を通り、絵里の全身を舐めるようにすり抜けていった。瞳
孔の収縮が追いつかないせいか、焼きつく肖像。
 そこにあったのは相変わらず嬉々としている絵里の、ニンマリ顔だった。
「れいなの目って、猫みたいだね」
「……はぁ?」
 それはれいなが絵里に見せた、初めての隙だった。れいなの表情に呆然としたものが浮
かんだのを見て取り、絵里は顔を覗き込んで、ますますニヘラとする。
111 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/07/24(土) 14:27
 何だか色々なものがれいなの頭を通り過ぎていったような気がした。初めは真っ白だっ
た。驚きが脳内で破裂した。それが尾を引きながらも静まると、ようやく言葉が入ってき
た。予想がつかないにも程がある。空気というものが読めないのだろうか。
 時間にすれば数秒間。二人は見つめ合っていたことになる。れいなは自分を取り戻すと、
冷静さを欠いてしまっていたのだと気が付いた。気が付いてしまえばそれが癪で、不機嫌
に目を反らし、歩行を再開した。口にしようとしていた文句も動揺によってとうに霧散し
てしまっている。
 それからも続けられた絵里の発する一方通行な話題は、さらに都合が悪い方向へ移った。
つまり、呆然とした時のれいなの顔がどれだけ可愛かったかというものだ。当然れいなは
無視を徹底し、無表情を貫く。その甲斐あってか、その後もしばらくは一人で楽しがって
いた絵里も、さすがに雰囲気を察したらしく、少しの間押し黙った。
 風が少し強くなる。遮断物はキレイに横並びになっているので、むしろ積極的に二人の
歩く道に空気を流し込んだ。ひんやりとはしていたが、こごえる程ではない。彼女達の黒
髪を弄ぶようにして風は吹き、遠くの方で民家のシャッターに音を立てた。街灯はポツポ
ツと二人を誘い込み、進む先にわずかな陽だまりを作って、コンクリートの壁と足元のア
スファルトを照らす。壁の染みが人の顔のようだった。
112 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/07/24(土) 14:29
「あのね」突如、ポツリと絵里が漏らした。「わたしすっごく方向音痴で、ずっと迷って
たの。109の前まで友達に送ってもらって別れてから、駅までたどり着けなくて、二時
間くらい」
「…………」
「気がついたら陽は暮れてくるし、道はどんどん寂しくなるし、変な男の人には絡まれる
し、パニックになってたの」
「……ちょっと待って」
「うん、なになに?」
 れいなが久し振りに口を開いた喜びを隠そうともしない絵里の振る舞いに、さっきの感
情が蘇りそうになる。だが自分のペースを取り戻すチャンスだ。それくらいは皆無に等し
いれいなのあの街に対する知識の中にさえあった。
「109の前までって駅と目と鼻の先じゃん。そんな嘘なんか」
「友達もそう言ってたんだけどね、どこが目でどこが鼻なんだか、もう全然わかんなくて」
 ニコニコ笑いながらも大真面目だ。口調や動作の端々に、真剣な者だけが持つ熱がこも
っていた。それが現れる場面がおかしいというだけで、確かにそれはあった。
113 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/07/24(土) 14:31
 れいなが再び黙り込むと、言葉を切った絵里は、癖であるらしい唇を突き出す表情で思
い出し笑いをした。れいなの脳裏に疑問符が浮かぶ。ゴメン、と言うように口を押さえて
しばらく笑った後、絵里は疑問に答えるように小さくつぶやいた。
「そんな時に、急に現れたのがれいななんだぁ。……それこそ正義の味方みたいに」
 カメラのピントを合わせるように、音もなく自分へと戻ってきたあこがれに似た視線が、
れいなには窮屈に感じられた。繰り返される無防備な感情表現。それが彼女に、慣れない
場所にいる時の居心地の悪さを運んでくるのだった。
 何故だか危険な感じもした。勝手に刷り込み現象を起こした、口元だけではなく脳細胞
までもがあひる並であるらしい絵里の視線は、心に奇妙な波を立てた。れいなはかつて、
確かにその表情を何処かで目にしたことがあるような気がしたのだ。デジャ・ヴとよく似
た、しかし決して甘い香りのしない重苦しいだけの引っかかり。それは身体が震えてくる
くらいに感情を揺さぶろうとする。
 嫌だ。思い出したくない。
114 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/07/24(土) 14:32
 連鎖して錯綜しようとする追憶の手を心の内に押し返すと、れいなは強く拳を握り締め
た。そんな雛鳥に餌を与え、後生大事に飼ってやるなんて程お人好しではない。まして、
その感情がどれくらいあてにならないか、嫌というくらいに思い知っているのだ。知って
いるのに繰り返すのは、馬鹿のすること以外の何物でもない。あたしはそんなお遊びに付
き合ってはいられない。
 ―――それならば。彼女にとっては明確な結論だった。壊してやればいい。
 何事もなかったように絵里は、一人語りを再開した。彼女の見据える世界は未だ光に溢
れ、何処にもありはしないイノセント・ワールドを映し出しているらしい。クネクネと足
元が覚束ないシルエットは、浮かれてさえ見える。
 もはやそれもどうでも良かった。むしろ想像の世界を壮麗に飾ってくれれば、粉々にす
る時に少しくらいは快感を残してくれるかも知れない。岩を水面に投げ込めば、派手な音
が返ってくる。その程度の快感。楽しみでもなければ、悲しくもない。ただ暴力的な衝動
を持つ者としての習慣のようなものだ。期待は大きければ大きい程、失われた時の反動が
強い。その瞬間に絵里はどんな表情を浮かべるだろうか。
115 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/07/24(土) 14:33
 三つ目の角を曲がって、れいなは静かに足を止めた。絵里はしばらくそれに気付かず空
間に話しかけていたが、強調したい部位を感情豊かに語り、その反応を確かめる段になっ
てようやく、慌てて戻って来た。
「どうしていきなり止まるのぉ」
「…………」
「一人で恥ずかしいじゃん、いてくれないとぉ!」
「着いたから」
「えっ?」
「あたしの家……ここなんだ」
 絵里の顔が回転した。見えない糸に引っ張られているようだった。長く柔らかな髪がフ
ワリと円を描く。それが動きを止めるまでの刹那、れいなはようやく絵里の長所を目の当
たりにした気がした。すぐに失われてしまう物だからそう思えたのかも知れない。他はど
うあれ、少なくとも絹のようなこの髪だけは綺麗だ。
116 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/07/24(土) 14:35
 幼い頃から何度も繰り返されてきたことで、結果は分かり切っていた。この辺は比較的
綺麗な家が多い。そんな中で取り残されたように建っている木造のアパート。壁が崩れ、
隣の民家に寄りかかるようにして、どうにか身体を支えていた。誰かが放置したゴミ袋や
粗大な残骸が階段脇には転がっていて、明らかに景観を汚している。それを言えば、この
建物自体がそうなのだが。
 到底人が住んでいるとは思えないであろう佇まいを目にした時、人は本当の感情を押し
殺した態度になる。それはくだらない同情ですらない。ただのルールだ。優越感を表に出
してはいけないという暗黙のルールを守っているだけで、本人がいないところに身を置け
ば、一転して格好の噂の種となるのだ。
 気分が良かった。奇麗事ばかり口にする絵里が、今度は気を遣うようになる。それは確
実に彼女の中の何かを破壊した証なのだと思えた。得体の知れないこのタイプも、そうな
れば見慣れている。人間が豹変することはいくらでもある。
 急に頬をなでていた風が完全に止まった。不思議なことに、かえって気温が下がったよ
うだった。海の底にでもいるみたいな沈黙と無風。見慣れている風景も何処かボンヤリと
感じられた。水面にあたる夜空をを見上げれば、キラキラと太陽の雫が輝いている。今夜
の星がこんなにも透明だったことに、れいなは初めて気がついた。
117 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/07/24(土) 14:36
 長く感じられたが、恐らくきっと、それは数秒のことだったのだろう。絵里がさっきと
同じようにフワリとれいなの方に向き直った。
「こんなに近いんだぁ、じゃあ、毎日でも遊びに来られるね!」
 お決まりの表情はなかった。それどころか、飄々とした口調だった。
 嬉しそうに手を振って遠ざかって行く絵里の後ろ姿。オーバーに何度も振り返るので、
自転車はまた路上に転がる。それが乗り物だと思い出したらしい絵里はようやくサドルに
またがり、街灯の届かない闇の中へと姿を消した。整備不良のキシミだけがいつまでもれ
いなの耳に残っていた。戸惑いはめまいにも、息切れにも似ていて、価値観が足元から揺
さぶられているようだった。
 れいなは絵里の言葉を反芻して、そして首を捻る。毎日?冗談じゃない。
118 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/15(日) 12:01
設定と話の雰囲気がいいね。これの続き気になる!
119 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:00
                    2



 れいなは通っている小学校の下駄箱の前で立ち尽くしていた。確かに前日までそこにあ
ったものが失くなっている驚きから、そうしていた。
 前兆と思われるものは全くなかった。言ってみれば透明な壁にぶつかったような、唐突
な衝撃だった。いつものように目を覚まして、いつものように家を出て、いつものように
ここまでたどり着いたというのに、自分の上履きだけが忽然と日常から姿を消していた。
 木製の下駄箱は五十の口を開き、その前にはスノコが敷かれている。突き出した舌のよ
うなわずかな段差。そこには決まり事があった。入学式の後に、それを習った。ここに上
る時は必ず靴を脱がなくてはならない。口にした教師も転勤で何処かにいなくなってしま
っているような、それくらいの時間は流れた。四年目の今となってはルールが厳守されて
いるとは言いがたい。行動はもはや、無意識へとプログラミングし直されているのだ。れ
いなも何となく教えられた通りにしているものの、習慣以上の考えが頭をよぎることはな
くなっていた。
120 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:01
 靴箱にドアなんてものは付いていない。プライバシーという概念さえ、まだ存在してい
ないのだ。眼差しをそちらに向けさえすれば、上履きが並んでいるのが容易に見て取れる。
一クラス分の履物を抱え込んだ木造物。ただボンヤリと、いつもなら気にもならないその
光景に彼女は見とれていた。当然が崩れ落ちたせいかも知れなかった。
 紛失物は丁重に扱うという考えから遠く外れていた。そうするにはあまりに生活に密着
し過ぎている。さらには元々が踵を踏みつけることでサイズの帳尻を合わせていた代物で、
当然、薄汚れてもいた。長所を挙げることの方に努力を要するような、れっきとしたオン
ボロである。しかし、それらがそのままイコールで不必要と結ばれるとは限らない。もし
そうであるならば世の中から我慢という言葉は廃れ、消えていくに違いない。愛着なんて
ものを持ち合わせてはいなくても、人間は不便をする。
 最初にれいなの頭をもたげたのは、混入の可能性だった。自分の上履きが間違った場所
に仕舞われているのではないのだろうかという仮定が、もっともらしく頭の中で組み上が
っていく。
121 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:03
 彼女自身がそんなミスを犯すとは考えにくくても、昨日、彼女が学校を出た後の出来事
だとすれば容易に想像はついた。どのくらいの時間かは知る術もない。しかしいくばくか
の時間が経った後、誰かが誤って彼女の上履きを落とし、元あった場所が分からなくなっ
てしまったのだ。あるいは探すこともしなかったかも知れない。とにかくその誰かは自分
が落とした履物を手に取り、適当な人の所に落下物を押し込むことで満足したのではない
だろうか。
 大雑把な行動はまかり通る。行動基準というのはいつも、多数決で決まるものなのだか
ら。ここでは年齢がそうさせるのか、紛れもなく多数派はそちら側だった。現に拾い上げ
られもしなかった上履きが、それも右の方だけ、れいなの足元に転がっていた。一見して
彼女のものではなかったが、すぐに所有者に思い当たる。落ちていた場所から垂直に三段
上。スペースを持て余している左足に、パートナーを重ねるようにして並べた。
 見回してみるが、落ちているのはそれだけだった。得体の知れない誰かは、ほんのわず
かな労力は惜しまないでいてくれたらしい。
 意を決すると、背の低いれいなは一番下の段から順を追っていくことにした。
122 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:04
 キチンと揃ってはいなくても、下駄箱の一人分の空間は限られている。それはある程度
整然と並んでいることを意味する。念頭に入れれば、無理矢理突っ込まれた一足分の乱れ
を探すのはそう難しい作業ではない。左側から右側へ視線を流し、右端に来たら一段分目
線を上げて、今度は左へと滑らせるのだ。その繰り返しで簡単に片がつく。
「どうしたの、田中さん?」
 作業にリズムが生まれ始めたちょうど真ん中の辺り。中腰の姿勢でいる時に、声が降っ
てきた。顔を上げると、れいなのクラスの学級員長であるメガネをかけた女の子だった。
登校して来たクラスメートと挨拶を交わしたりはしていたが、れいなの様子に気がついて
声をかけてきたのは彼女が初めてだった。
「ちょっと上履きがどっか行っちゃって……」
 手助けを懇願していると思われるのは嫌だった。出来るだけ口調にその意が表れないよ
うに、素っ気なく発音する。感謝の気持ちがない訳ではない。こうして話し掛けてきたと
いうだけで、彼女の誠実は感じられた。それをありがたくは受け取りながらも、手を煩わ
せるのは忍びなく思えたのだ。
123 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:06
「そっか、手伝おうか?」
「ううん、いいよ。ありがとう。すぐに見つかると思うからさ」
 本当に自分一人で大丈夫。その意思表示として、れいなは彼女から視線を切り、物探し
を再開する。
 打ち切られてしまった会話に手持ち無沙汰になった委員長は、しばらくどうしたものか
と迷っているようだった。落ち着きなく右手で、ランドセルの重みがかかる左肩の部分を
ズラしてさする仕草にそれが感じられた。挙句、言葉に従おうと決めたらしかった。彼女
は、じゃあ教室でね、と口にした。行動から察するに、どうやら彼女も何となしにルール
を守っている側の人間らしい。そんなどうでもいいことが嬉しくなって、それとは関係な
く、れいなもようやく本心を表すように笑って返事をかえすことができた。
 しかし、れいなの目論見は見事に外れた。偶然が引き起こすあらゆる事故を想定したが、
何処からも爪先に緑色のゴムを施された小さなシューズは現れなかったのだ。
 落ちてしまいがちな壁との隙間も漁った。グンと可能性の低くなる両隣のクラスの下駄
箱も探した。さらに小さな偶然を追いかけて、同じフロアの、違う学年のものにまで手を
伸ばした。それらの場所において、見落としはないと断言できた。できただけに釈然とし
ないものを胸に抱えながら、彼女は靴下姿で職員室に行き、そして来客用のスリッパを借
りるハメになった。
124 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:07
 いつもと違うパタパタとした足音が廊下に反響する。だがそれは、すぐに朝特有の始ま
りの雰囲気に吸い込まれていった。すぐ側を男子二人組みが走り抜けて行き、はしゃぎ声
はこの建物の一部であるかのように、聞こえない場所がない。エネルギー。そう呼ばれる
ものがここには満ち溢れている。
 れいなは指定された自分たちの履物の底がゴム製であることの理由を知ったような気が
した。全員の足音がこうだったとしたら、とてもたまったものではない。
 考えながら教室のドアを開けた瞬間だった。
 気圧が変わった時に訪れる耳鳴り。急にそれ以外の物音から一歩退いたように思える、
あの感覚に似ていた。
 奇妙な違和感は薄い膜のようにれいなの身体を包み込む。姿形を捉えることはできない。
クラスを覆うクスクスとした笑い声自体は異常ではないはずだ。いつも誰かしらが笑って
いて、むしろ暗い顔をしていたり、眠たそうにしている子の方が少ないのだから。それな
らば他に何かがあるのかと言えば、特にない。おかしなことがないのだとすれば、間違っ
ているのは自分の感覚ということになる。
125 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:09
 れいなは感じた差異を気のせいだと判断した。そう思ってしまえば納得できる程度のも
のであったし、自分がドアを引いた瞬間に生じた理由が見当たらない。
 大して気にするでもなく、席に着いた。座ると同時に机の上に置いた色褪せたランドセ
ルから、一日分の教材を取り出し、机の中に入れる。時間割表に目を走らせるまでもなく、
一時間目の授業は国語だった。必要な教科書とノート。それだけを机の上に残して、他は
全部そうした。最後に底に沈んでいた筆箱を手に取った時。
「あれっ、田中さん。靴どうしたの?」
 ニヤニヤした笑いが顔にあった。同時に不思議に思ったのは、普段あまり会話したりし
ない女の子だったことだ。
「ああ、朝来たらなくなっててね、職員室でスリッパ借りてきた」
「ふーん、そうなんだ。あたしはてっきり」
 割とハッキリ、彼女は言葉を濁した。合図を出されでもしたかのように周りのクスクス
笑いが高くなった。風に煽られた炎そのものだった。笑い声は変幻自在に姿を変え、そし
て確実に伸びていく。
126 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:10
 れいなは思わず教室中を見回した。日常生活の一端であったなら気がつきもしないであ
ろう不自然が、彼女の背中に冷たい汗を伝わせた。視線が全くぶつからない。れいなは脳
裏でというより、直感で悟ったのだった。違和感の本当の正体。この笑い方は声を抑える
為ではない。抑えている振りをして、かえって強調しているのだ。
 キレイに円になっていた。みんながみんな教室の端の方からこっちを伺うように見てい
るので、それはいびつな、むしろ四角に近い形をしていただろう。しかし、れいなの目に
はキレイな円に映った。自分から放射状に距離を取っているその光景は、いつかフィクシ
ョンで目にした処刑場の一幕のようだった。
 呆然と、れいなは口にした。
「……てっきり、なに?」
「いや、別にいいんだけどね」
 彼女の顔からヘラヘラとした表情が消えることはなかった。唇の端だけを斜めに上げた、
嘲笑と酷似した笑顔。もう一度彼女がれいなのスリッパに目を落とすと、その口角の上昇
は急角度を描いたようだった。彼女はそのまま鼻から息を吐き、踵を返し、処刑場の外の
群集の中へと紛れ込んでいった。何人かが英雄を称える様相で駆け寄っていく光景が、こ
れからの生活を象徴しているようだった。
127 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:11
 彼女の余裕。それが見ていたクラスメートを、ある意味勇気づけたのだろう。その日か
られいなへの攻撃は伝染病のように静かに、爆発的に広まった。行為は段階を経て、徐々
にエスカレートしていく。それは確認作業だった。何処までやっても大丈夫かを確かめる
ライン引き、それ以外の何物でもなかった。子供たちは他人を傷つけることは平気でも、
自分たちの危機に対する嗅覚は研ぎ澄まされているのだ。どうあっても一方的に攻撃出来
る安全地帯を確保しなくてはならない。石を投げても追いかけては来られない間隔を保つ
為に、石とは別の物を、たまたま飛んでいってしまったという体面を取り繕う為に、クラ
スが一丸となって線を引くことに従事した。
 発端はどうやら、払っていない給食費だった。担任が母親に渡すようにとれいなにだけ
配っていた手紙の内容を、あの英雄の彼女が知ったらしい。休み時間に誇らし気にばら撒
いていた噂でそれを知った。彼女の母親はPTAの会長だった。娘のクラスの問題を知るの
に、それ程の労を要さなくてもいい立場にいた。娘を思う親心。母親は彼女に、忠告も加
えたそうだ。育ちが悪いから近づくな。それがれいなの家を観察して帰った結論らしい。
事実その忠告は本当によく当たっていたし、子供たちも守った。模倣するかのような忠実
さで、教えを実行に移した。スノコは土足で踏み付けても、無邪気さと紙一重の残酷さは、
こういった約束を破らない。
128 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:14
 大人が始めた遠くからの攻撃ゲームを、まるでサーカスだと、れいなは思った。子供た
ちは完全に自分の弱点を把握していて、そこを巧妙についてくる。だけどそれに自分は反
応してはいけない。傷ついた顔を見せれば、たちまち餌食になってしまうのだから。自分
は笑顔ではなく無表情のメイクを施されたピエロだ。結果の知れたゲームに顔色一つ変え
ないピエロ。自分はこれからそのように生きていかなければならない。
 悟ったのは、ゲームが始まって間もない頃だった。
 段々と人がれいなの周りから離れていく中、れいなは納得できないでいた。どうしてこ
んなことが起こり得るのか。恨みや憎しみの感情を完全に排除しても、純粋に疑問だった。
何か大したことが起こった訳でもない。自分は今までと変わってはいないのに、突如とし
てこんな目に会っている。それはどうしてなのか。
 疑問は一気に晴れた。トンネルから抜けたような光。今まで見ていた世界と現実の世界
を繋ぐトンネル。いくらそこが薄汚れていても、トンネルから抜ける時は眩しく感じるの
だと、れいなは知った。
 視線の先にはあの委員長がいた。前日までの彼女は、決して冷たい輪の中に加わろうと
はしなかった。緩みきっている最低限の規則を守るように、相変わらずどうしていいのか
分からないでいる顔をしていた。ただ、波は確実に打ち寄せる。堤防を削るように何度も、
激しく。彼女はその時、遂に決心したらしかった。一言ずつ区切る話し方が、れいなの耳
にもはっきりと届く。彼女はれいなが上履きを探している姿を持ち出して、周りの人間を
沸かしているのだった。
129 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:15
 楽しそうに話す彼女を見続けていると、視線に気づいて、さすがに居心地悪そうに目を
反らした。しかし、れいなには分かっていた。そうでなくなるのに時間はかからないだろ
うと。
 彼女の人格を疑うことはなかった。むしろ自分に近いとすら感じていた。それだけにれ
いなは気づく。人は時として、容易に変化する。誠実を疑わない彼女ですらそうなのだか
ら、もはや自分にも信用が置けるはずがない。きっと逆の立場なら、自分もオブラードに
包んだ飛礫をぶつける人間なのだ。
 後悔の念が向かったのは、考えの至らなさだった。上履きが見つからなかった理由。れ
いなはあの時、知らないことがあり過ぎた。可能性に入れないといけないものは他にもた
くさんあったのだ。たとえば悪意が働いることを、何故念頭に入れなかったのだろう。自
分は可能性から削除した、人の手によってしか行き着かないであろう焼却炉や、その一歩
手前の段階であるゴミ箱、そういったところを探さなくてはならなかったのだ。
 うつむいた委員長のメガネが反射で輝いていた。その鋭い光に目を細めながら、れいな
は覚悟を決めた。
130 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:15





131 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:17
 泣きながら目を覚ました。一瞬、自分が何処にいて、何歳であるかを見失っていた。
 見間違うはずがなかった。そこは一間しかなく、家具すらほとんど存在しない。紛れも
なく自分が生まれ育った空間だった。時計に目をやると、午前三時を回ったところだ。そ
のまま自分の横に視線を落とせば憎むべき対象の一つが寝息を立てていて、部屋の端と端
でもこれだけ近いのだと、その狭さを再認識する。
 れいなは立ち上がると、洗面台へと向かった。水は出るはずだ。ここ最近は幸運にも、
止められることが少なくなっていた。自動引き落とし。システムの発展を称えてもいい気
になる。
 水を手ですくい、顔を洗った。三度繰り返した。出しっ放しになっている水の排水溝に
吸われていく音が、深夜の静けさに存在感を持つ。それからコップに溜めた水を一気に飲
み干すと、ようやく息を吐いた。
 この涙は現実のものではなかった。教室や家で、攻撃を受けたことによって涙を流した
ことは一度もなかった。それだけに腹立たしくもあった。どうして今更、と。
132 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:18
 中学校に入学した頃、れいなへの心理的、物理的射的ゲームは止んだ。中心人物と学校
が離れたこともあっただろうが、それだけではない気もする。その時期は、ちょうど計画
を立てた時とも符合するからだ。攻撃の苦痛を表情に出さない。それとは別の種類の決意
が心に生まれたのだった。
 今ではれいなに悪意を向ける者はいない。同時に善意にも触れない。完全に異物と化し
ていた。必要以上の事柄を話しかけられないし、周りの人間はその必要をできるだけ減ら
そうと努めているのが分かる。つまり、恐れられる存在になった。
 事件を起こしたことはない。別の学校だった生徒も自分が小学校時代、どんな扱いを受
けていたかを噂で知っているだろう。実際にあの頃攻撃を加えてきたメンバーの顔も、今
のクラスの中にある。それなのに、みんなが彼女を怖がっていた。その理由がれいなには
よく分かる。昔も思ったことだ。誰もが自分の攻撃される雰囲気には敏感なのだ。隠し切
れない自分の攻撃性を、彼等、彼女等は感じ取ったのだ。
 落ち着きかけていたかのように見えていた感情が、再び揺れた。
 なのに、どうして今更。
133 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:19
 受けた屈辱がありありと脳裏に浮かぶ。机一面に書かれた自分への悪口。席を外した隙
に破られた教科書。筆記用具はゴミ箱、もしくは上履きと同じように姿を消した。席替え
や体育の授業のチーム決めは、公的な嫌がらせに他ならなかった。思い出そうとすれば他
にも色々ある。家の前まで押しかけてきて、外で笑っている声を聞いていたこともあった。
その罵声ともはしゃぎ声とも取れない言葉を、どんな気持ちで受け止めていたのかさえ、
蘇える。しかし、それらはいい勉強だったとも思っていた。人間がどういうものであるか、
これ以上に教えてくれるものはなかった。中学校に入り、みんなが自分を悪意とは別の意
味で避けるようになると、達観できた。
 誰もがプライドを保っている。攻撃を楽しんでいた奴等もまた、そうだ。成長という名
の詭弁を自らに振りかざし、良い思い出にしてしまうのだろう。あの頃の自分は幼かった。
だけど、それが今の自分を作っている、などと。実際に優しいとクラスで認知されている
男も、その昔は一員だった。その男の笑顔を目にする度、れいなは都合の良いプライドに
笑いが込み上げてくるのだ。
 なのに、どうして今更。
134 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/09/12(日) 20:20
 れいなは同じ言葉を何度も噛み殺すように口にしながら、自分の太ももの辺りを握り拳
で殴った。視界が揺れるように滲む。しかし、涙はこぼれ落ちない。紙一重のところで意
地が涙腺を支えていた。もう恨んではいない。もし恨んでいたとしても、直接どうこうす
るつもりはない。それだけは本当だった。しかし浮かんでは消える行為の数々は、理性と
は無関係に胸を刺激する。刻み込まれてしまったものを無に帰すことができずにいた。
 れいなはもう一度顔をゆすぐと、布団へと戻った。胸が熱くて眠れない。どうしてこん
な夢を見てしまったのだろう。回想すると、一つの顔が浮かんだ。嫌な奴だ、とれいなは
つくづく思う。忘れかけていたような傷のかさぶたを、馬鹿みたいな笑顔で剥がすのだ。
それに付き合わされるのでは、身が持たない。
 同時に何故か、感情の揺れ幅が安定していくのも感じた。ちょうど収束していく時間帯
に入ったのだとも考えたが、あれだけ迷惑をこうむったのだ。一つくらいはこんなことが
あってもいい、とも思った。第一、あの女に会わなければ、自分がこんな真夜中に悶々と
しなくて良かったのだ。
 誰に訊かれても絶対。彼女は認めなかっただろうが、れいなは絵里にほんの少し、感謝
をしたのかも知れなかった。眠りに落ちる、わずかな刹那。
135 名前:  投稿日:2004/09/12(日) 20:21
 
136 名前:  投稿日:2004/09/12(日) 20:24
>>1-9 クッション (いししば)
>>16-30 卒業アルバム (ののあい?)
>>34-50 不思議    (いちごま)
>>54-89 HONEY (ののかお)
>>96-117  猫とアヒルのタペストリー 1
>>119-134 猫とアヒルのタペストリー 2
137 名前:ピアス 投稿日:2004/09/12(日) 20:30
>>118 名無飼育さん

ありがとうございます。
設定と雰囲気には力を入れているんで、
そこを褒められてとても嬉しかったです。
筆力の問題で保てているかどうかは不明ですが(笑

ちょうど区切りのいいところでレスを頂いたので、
刻むことにします。
分量は当初と変わらないんですが、
二ヶ月に一度の更新ペースということで、
期間的に長くなりそうなんで。すみません。
138 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:30
                   3



 角を曲がった時、アパートの前に座り込んでいる人影を見た。近づくにつれ、その人物
が明らかになるにつれ、れいなは気分が重くなるのを感じた。彼女は両足を投げ出し、首
輪の付いていない猫と戯れているようだった。
 すぐ側まで歩み寄って足を止めると、れいなに気づいた彼女が晴れやかな顔を上げた。
 またか、とれいなは息を吐く。視線を空へと反らした。雲に覆われた、灰色の空と呼ん
でも支障はなさそうな天気だった。幸運。そんな文字が浮かんだ。あまり自分には縁がな
い言葉だが、今はここにあるらしい。
 視界の外れで何かが揺れる。意識を向けると、彼女はすっかり餌付けの済んだらしい猫
の手を掴んで、フルフルと左右に振っていた。
139 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:31
「おかえりー」
「おかえり、じゃない。どうして毎日毎日あたしの家の前にいるわけ?」
「れいなを待ってたから」
「待っててなんて、一度も頼んだことない」
 立ち上がった絵里の腕から、野良猫は飛び降りる。そのまま素早く家と家の隙間に走り
抜けていった。一見して雑種で、身体の模様がゴチャゴチャとしている。
「れいなが怖い声だすから、ゴローがどっか行っちゃったじゃん」
「名前までつけたの?」
「うん、ゴロゴロいうからゴロー」
「……単純だね。それに、そんな理由で名前を決めてたら、どの猫もみんなゴローになる」
「そうとは限らないよ」
「どうして?」
「ほら、ここにれいなって猫もいるし」
140 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:32
 この一週間、毎日がこんな調子だった。学校から帰ってくると、制服姿のままの絵里が
あの野良猫と一緒に待ち構えていた。彼女の鞄には、常にお菓子が入っているらしい。そ
れを分け与えることで、彼女は難なくあの猫を手なずけてしまった。不思議はない。この
辺ではゴミを漁ることで疎まれている猫だ。そっちの方が効率がいいと考えても、何一つ
としておかしくはなかった。むしろ気になったのは、それでも昨日までは名前がなかった
ことだ。今日また、猫が咽喉を鳴らして彼女にすり寄るくらいに、一人と一匹の距離が縮
まったのだろう。
 野良猫の消えた方向を、見送るように眺めていた絵里が顔をひねった。
「今日はどこに行く?」
「……どこにも」
「あのねぇ、わたし行きたいところがあるんだぁ」
「行きたいところがあっても関係ないし、アンタに付き合えないよ、今日は」
「またまたぁ、毎日そうやって人を追い返そうとするんだから」
「悪いけど」れいなはきっぱりと言う。「今日は絶対に無理」
 初めて絵里はショックを受けたらしい顔をした。
141 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:34
「どうして?」
「用があるから」
 本当だった。毎日引きずられるように色々な所に連れ回されるのにウンザリしていたの
も事実だが、外せない理由が存在した。れいなは素早くこれからの行動予定をシュミレー
トして、落ち度のないことを確かめる。問題は一つだけのように思えた。つまり、これか
らの絵里の追及を振り切ることだ。
「どんな用事?」
「……何でアンタにそんなことを説明しないといけないの?」
「そうなんだ、やっぱり!」
「えっ?」
「本当は用なんてないんだぁ!人をジャマにしてるだけなんだぁ!」
喚き散らす絵里の頭越しに、視線が集まってくるのを感じた。それは主婦だった。井戸
端会議をしていた三人が、驚きに好奇心を混ぜた様子で、こちらに熱い視線を送ってきた。
自分たちだけはいつも品性正しく、間違いがないと思っている人種。これも地域の目を光
らせているつもりにでもなっているのだろう。しかし、ただでさえ悪評が蔓延しているの
だ。これ以上増やす必要もない。
142 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:35
 れいなはあきらめの表情で、何度かうなずいた。絵里の目に輝きが宿るのを見て、せめ
てもの抵抗をした。彼女の思い通りになる訳ではないが、そう思われるのも癪である。意
味のない意地を張るのは久し振りだ。だが上手く出来るかどうかは、不安ではなかった。
れいなは可能な限り、小さな声で言った。
「分かった」
「んっ、なにが!?」
 聞き返しながら、彼女はすでにニヤけている。したり顔というやつだ。
「絵里の行きたいところについて行ってあげる」
 絵里はまた大声を上げた。どちらにしても黙ってはいられないらしい。データにないタ
イプ。れいなはまたそれを意識した。彼女はピョンピョンと飛び跳ね、何処へ行くかの説
明を、整理されていないことを証明する切り口で話し出そうとする。
「―――ただし」それをれいなが遮った。「着替えてくること。それが条件」
143 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:37
 アヒル顔。本人は口を尖らしているつもりなのだろうが、クセになってしまっているそ
の表情と見分けがつかなかった。
 れいなは続ける。
「制服でウロウロすんの、好きじゃないんだよね。それが嫌ならこの話はなかったことに
するけど、どうする?」
 絵里は慌てて首を横に振った。「うん、じゃあ、着替えてくるから!急いで戻ってくる
から、れいなもそれまでには用意を済ませてないとダメだよ!?」
 れいながうなずくと、絵里は満足そうに笑う。踵を返して傍らに置かれていた自転車の
スタンドを払い、猫の名前を呼んだ。お別れの挨拶をするつもりらしい。それでも姿を現
さない猫に痺れを切らして、地面を蹴り上げた。ノロノロと自転車は加速した。
 アパートの階段を上がりながら、れいなは思った。野良猫と言えども、それ程ヒマでは
ないのだ。生きていれば目的地も心配事も、それなりにある。彼にとって、ここもその一
つでしかありはしないのだ。
 勢いよく閉めたドアは、わずかに残響の尾を引いた。
144 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:37





145 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:41
 新宿三丁目。何度も足を運んだ駅だった。この時間帯の人の行き来はそれ程ではない。
これも確認済みの光景だった。
 渋谷とはまた違った感じの、派手な街だ。そして、奇妙でもある。
 有名デパートが軒を連ね、上品な雰囲気が通りまで漂ってくる。その辺りを行き交う人
たちは、誰もが着飾っていた。場違いを恐れているのだろうか。それとも普段から気を使
っているのだろうか。どちらにしても、余裕のある匂いがしてくる。しかし交通量の多い
道路を挟んで反対側に抜けると、価値観は逆転した。今度はその装いが場違いになってし
まう。そこに格好を気にする者がいない訳ではない。基準が違うのだ。
 スカートをひるがえし、れいなはそちら側を目指した。できれば制服は避けたかった。
しかしボヤボヤしていたら、絵里が着替えを終えて来てしまうかも知れなかった。急いで
駅まで追いかけて来られても、問題ないだけの時間が欲しかったのだ。仕方なくれいなは、
鞄だけを置いて、すぐ家を後にした。私服の方が目立たなくてより行動に適していたが、
こちら側なら制服も少なくはない。
146 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:42
 街にはピンク色が幅を利かせていた。やたらに大きな看板がポップ色の強いデザインで
描かれていて、そこを行く人々とチグハグだった。歩いているだけで、何人もに声をかけ
られる。それを揉め事にならない程度に、素っ気なくやり過ごした。向こうも対応には慣
れているのだ。特に気にする様子もなく、次の相手へと興味を移す。
 そう遠くない未来。れいなはここを歩いていく時のことを思った。その時もこうやって
ある意味平和に誘いを断りながら目的地を目指すのだろうか。その先で何が起こるのか、
あたしがどんな感情を胸に秘めているのか、誰も知りもせずに。きっとそうなのだろう。
いや、そうでなければならない。声をかけてきた男も、相手がその後どんな行動を取ろう
とも、特に気にはしない。それを恐ろしいとも感じずに、ここでの日常は続いていくのだ。
感情が通わないことは、何も特別ではない。
 しばらくそんな中を歩くと見えてくる自販機の横。そこがれいなの定位置だった。三つ
並んだ不格好なオブジェの一番端に、背中を押しつけて座り込んだ。まだ時間があった。
147 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:43
 今日の行動は特に、ただの反復練習に過ぎない。ここまできたらほとんどがそうだった
が、それに輪をかけてそうだ。退屈だとは思わない。そこまで呆けてはいなかった。ター
ゲットの日常には、習慣とも呼べそうなローテーションがある。それを確認することが目
的だった。散りばめられた砂の中から、所在さえ定かでないものに血眼になる作業は終わ
っている。問題なのはいつもそれがそこにあるかどうかだ。これまでは例外がなかった。
状況から察するに、これからも変わりそうもない。反比例の関係。その確認回数は、多け
れば多い程誤差が少なく済むのだ。そんな最終調整に入っていた。
 これまでの人生、と考えて、れいなは首を振った。今もだ。この瞬間にも感じる。誰か
に操られてきたような、手のひらの中で弄ばれているような感覚が残っていた。我に返れ
ば、どうしてこんなところで佇んでいるのかさえも分からなくなりそうだった。だけど、
様々な事柄が起因して、行動を起こさせ、自分は確かにここで時間を待っている。それだ
けは間違いがなく、ここを立ち去るつもりもなかった。
148 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:45
 手の甲に、小さく冷たい点を打たれた。顔を上げる。雨だった。コンクリートがニスを
塗られでもするみたいに、うっすらと黒く光り出した。それが瞬く間に広がる。
 れいなは立ち上がって、傍らに転がっている傘を手に取った。家を出る時にこれを予測
して持ち出したものだ。それを開くと、雫は大粒になり、地面に音を立てるくらいになっ
た。スカートのポケットから時計を引き出す。そろそろ現れてもおかしくはない時間だっ
た。両手で傘を握り締め、相手が姿を見せるにに違いない方向に目をやった。自動販売機
越しだ。これと傘のおかげで、いざという時も顔を見られる心配はない。面が割れること。
それがもっとも避けなくてはならない事態だった。
 不意に背中から誰かにぶつかられた。
 勢い余ってぶつかってきた人物もろとも、自販機に衝突する。傘の骨が悲鳴を上げた。
左右に振り返るが、その誰かは背中に張り付いて顔を見せようとしない。だが、分かった。
雨に濡れて少々湿っているものの、その黒の長髪には見覚えがあった。
「……ちょっと」
 背中の彼女は反応しない。そこが自分の居住区だと言わんばかりにしがみついている。
「アンタ、着替えて来いって言ったでしょ?」
149 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:46
 絵里は顔を上げた。こんな時にも笑っている。遊びの延長線上にいると考えているよう
な笑みだった。そして、残念そうに言う。
「見っかっちゃった?」
「見つかるも何も、自分から体当たりしてきたんでしょ」
「だってぇ、雨が降ってきちゃったんだもん」絵里は睨みつけるフリをする。「人のこと
をまこうとするなんて、ヒドイ!」
「だから、黙って追いかけてきたの?」
 絵里はうなずく。そして、胸を張る。正体を現すまでれいなに見つからなかったことが、
余程誇らしかったらしい。
 彼女もまた、制服姿のままだった。違いは、鞄を肩に掛けていることである。れいなの
考えを読んで、家まで戻らずに、そっと物陰かられいなの動向を伺っていたのだろう。
 れいながため息を吐くの見て、絵里は彼女の頭を二度、なでるように叩いた。
「まぁ、これにこりたら、絶対に絵里ちゃんの前では嘘をつかないことだね。どうせ、用
があるっていうのも作り話なんでしょ?」
150 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:48
 煩わし気にその手を振り払うと、れいなは見た。通りの向こう。黒いスーツ姿の男性同
士が、向かい合わせになって何事かを話している。そして、手にしている鞄から、お互い
に何かを取り出そうとしていた。そんな光景が、雨モヤを挟んで展開されている。
 れいなの真剣な視線に、絵里が気づいた。
「誰、あの二人?もしかして、本当に用事があった?」
「ううん、何でもない」れいなは素早く組み立てる。「絵里をまこうと思って電車に乗っ
たのはいいんだけどさ、あの男に痴漢されて、腹立ったから、あたしも尾けてただけ」
 騒がれては困る。不自然なのもいけない。こんなところに座り込んでいたのを、絵里は
知っているのだ。彼女には何かがあれば騒ぎ立てようとする前例があった。
「何それ、許せない!」
 無駄だった。彼女は大声を出さずにはいられない性質なのだ。そう悟ったれいなは、自
分のことのように怒って出て行こうとした絵里の口を両手で押さえつけ、壁まで引き戻し
た。それでもモガモガとくぐもった声で抵抗する彼女が黙り込ませるには、時間を必要と
した。そのまま鼻も塞ぎ、酸素が足りなくなって、ようやく彼女は落ち着いた。
151 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:49
「いい?この場で出て行って何になるの?あたしはアイツの家をつきとめて、それで告発
してやるんだから、ジャマしないで」
「それはそうなんだけどさぁ」
 絵里は初めて呼吸を覚えたかのように、必死に空気を吸い込みながら口にする。
「れいなの身体を触られたんだと思ったら、頭に血が昇っちゃってさぁ」
 無視して、れいなは視線を二人に戻した。彼等はお互いの差し出した物の中身を確認し
ているようだった。
 れいなの体温が上がる。血液の流れが一気に高まり、熱を押し上げたようだった。沸騰
しそうな身体に、雨が心地良かった。一人の男は鞄ごとを相手に手渡し、もう一人は白い
小さな紙袋を与えた。
「うわっ、あれ、きっとえっちぃビデオかなんかだよね」
 同意を求める絵里に曖昧な返事をしながら、心の中では中身が何なのか、異なった答え
の想像がついていた。彼の存在を知ることになったきっかけ。それを思い浮かべれば、疑
う余地もなかった。
 鞄と袋を交換し合う男たち。長い距離を取って自動販売機の陰には、一つの傘に身を寄
せ合う二人の少女がいる。息を呑んで見守るのを、いつの間にやら霧雨になっていた降水
が、静かに包んでいた。
152 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:50
 
153 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:50
 
154 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2004/10/08(金) 21:52
>>1-9 クッション (いししば)
>>16-30 卒業アルバム (ののあい?)
>>34-50 不思議    (いちごま)
>>54-89 HONEY (ののかお)
>>96-117  猫とアヒルのタペストリー 1
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155 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/27(水) 22:59
今はじめて一気読みさせていただきましたが、どれもこれも独特な
世界観がたまりません。れなえりヲタなんで今の作品が一番好きで
す(w
これからも猫とアヒル応援してます!
156 名前:通りすがりの者 投稿日:2004/11/15(月) 16:45
すごく良い作品ばかりで読みふけってしまいました。
HONEYは泣けました{涙
猫とアヒルのタペストリー更新待ってます!
157 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/02/12(土) 15:56
更新いつまでも待ってます。
158 名前:ピアス 投稿日:2005/02/22(火) 00:55
自己保全
159 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/11(金) 01:23
面白いです
更新お待ちしてます
160 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:26
                   4



 何かがおかしいとは思っていた。冷たい違和感が常にあった。
 それは雪とよく似た性質を持っていた。一つ一つはふとすれば見落としてしまいそうな
細かい結晶で、しかし、連続する暮らしの中では確かに積もり、形を持つのだ。雪が冬の
街に溶け残り世界を白く染めるように、釈然としない思いは心の底に沈殿した。
 そして、それを計算に入れている節もあった。
 よるべなく揺れる気持ち。それは全てが曖昧の上に築かれていることによる。反発も甘
えも許さない。ただ受動的に物事を受け入れるしかないファジーさを守りながら、それで
もことは幾度となく起こった。これは偶然のようでありながら、決して偶然ではないのだ。
見せつけるようだった。れいなの望みの混ざった思考の流れを嘲笑った。彼女はそれを気
のせいだと考えようとし、そうでないという事実が突きつけられるのをひどく恐れていた。
161 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:27
 ある時れいなは、それを許してあげてほしいと懇願されたことがあった。考えないよう
にしていたことが本当だったのだとハッキリしたのと同じ時である。疑問のパズルが音を
立ててはまっていった。そこに答えは一つしかなかった。客観的事実。完成した図面は疑
いもないものだったのだ。そして、その流れのままに許しを乞われた。
 口にした女性は、その暮らしがどんなものであるかを想像できるくらいには事情を知っ
ていた。調べたのだという。ずっと探していて、専門の業者に依頼してようやく見つけ出
した。そう言った。
 問題はそこではなかった。そんなことは驚くに値しない。彼女がもたらした驚愕はむし
ろ、れいなの立ち入れない側面にあった。自身の存在理由でありながら、予想だにしなか
った。頭の中で緩んでいた線は張り詰め、そして弾けた。悲しい程に美しい高音を断末魔
に、それは二度と戻らなかった。
 その間も女性の語調は止め処なかった。口が軽いというより、抑えていたものが溢れ出
ているように見えた。誰にでも言えることではない。強固な秘密が常に彼女の頭の上にあ
ったに違いない。コンクリートで固めたダムに亀裂が入って崩壊するように、彼女は話し
続けた。
162 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:28
 あらゆる状況を熟知いているはずの彼女の想像。だが、それもやはり想像の域を出るこ
とはないようだった。れいなの内部で何が起こっているのか、彼女には分からない。派手
な悲劇に心を囚われている人間にはきっと、見えないものがあるのだろう。例えば、その
後にある真綿で首を締めつけられるような生活。それを取るに足らないものと考えている
様子があった。相手がその話を聞いて、どう感じるかを予測しない。死角にあるようだっ
た。だからこそ軽々しく許容を求め、理解者だと言い切ることができたのだろう。そうい
った点で彼女は結局、劇場で映画を楽しんでいる観客と大差がなかった。
 彼女が心動かされた作品。それは悲劇としてはそれなりによくできていた。しかし彼女
が知り得ないその後の脚本に、こういったシーンは確かに、あった。
 その日、れいなは絵を描いていた。テーブルの上にはスライド式の紙のクレヨンケース。
カバーの役目をする方は接触部分がなめされて破れており、相当使い込んでいることが見
て取れる。その横に長さのまちまちな何色かが並んで箱にあり、十二からそれらを引いた
数の主要なカラーが直接散乱していた。そして、画用紙。彼女はそれに向かって、クレヨ
ンを動かしている。握っているのはカバーの剥がれた黒。この色と肌色が他の物と比べて
背が低い。その滑音と、秒針の確かめるような行進だけが部屋をつかさどる音の全てだっ
た。
163 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:29
 れいなはチラッと、その行進に意識を向けた。それは壁に掛かっている。いつもの通り
なら―――もっともその基準が何処にあるのかすら分からなくなりそうな、当てにはでき
ない目安だが、その中で一番多いパターン通りなら、もうあまり時間がなかった。悟った
彼女は、すぐに視軸をテーブルに戻し、作業を再開する。気を取られたからからといって、
集中が続かないという訳ではない。むしろそれはいつもよりあり余ってあった。それだけ
に取った行動だった。中途半端な形でのタイムアップ避けたかったのである。
 彼女の絵は、褒められることが多かった。それは当然のことではあった。周りの園児は
電柱と見分けのつかない樹木や、家や人間と同じサイズのチューリップを描いている。セ
オリーが確立していない真っ白な状態。その割りに一度流行のようなものが通り過ぎると、
誰もがそちらに転んだ。太陽を画面の右角天辺に四分の一の形で描くのも、その流れの轍
と言えた。白いだけの旗は、何色にも染まるのである。
 その中にあって、れいなの絵には揺れがなかった。それらを頑なに拒んでのではなくて、
影響のされようがないというのが本当のところだった。遠いところにあったのだ。彼女の
絵に太陽が出てくることはない。草も木も、もちろん雨だって降らない。そこにはただ、
人がいた。全身ではなく、肩から上だけ。彼女は人物画だけを好んで描いた。
164 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:31
 その手並みは彫刻のそれに似ていた。れいなの線は引かれるごとに対象浮き彫りにし、
元々そこにあるものから、余計を取り除いているようだった。そして何より、彼女には迷
いというものがない。それは力強さと直結する。園児の技術はたかが知れていても、その
タッチはその人物が醸し出す雰囲気を、シャープに収めることに成功していた。頑なに人
だけを描く彼女の内に、それに見合った能力があることは誰もが認めるところだったので
ある。
 だが、れいな自身はそこまで考えての行動ではなかった。単純な話、それがプレゼント
すると一番喜ばれるからに過ぎなかった。彼女にとって、絵とはそういうものだったのだ。
 クレヨンの動きが慎重になる。こだわらなくてはいけない箇所であることを、彼女は感
じていた。目元をかすめる、軽くウェーブのかかった前髪。そこがれいなの思い浮かべて
いる女性の、最も好きな外的特徴だった。いつか自分がそうなることを思って、常日頃か
ら前髪を引っ張ってみたり、癖を真似て、サイドへとかき上げてみたりしていたのである。
 だからこそれいなは、それを出そうと真剣にラインを引く。
165 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:32
 今日もお絵かきの時間を使って描いた絵を、人にあげた。人は自分の新たな一面の発見
を非常に喜ぶ傾向にあるようで、そして、れいなにはそれができた。嬉しそうな顔。それ
だけで描き甲斐として充分ではあるものの、時として破顔以上の報酬を受け取る場合とい
うのも、確かに存在した。それが起こった。
 描いた絵の対象は副園長だった。彼はその時間の園内を、少なくともれいなの目にはブ
ラブラと映る様子で散策していた。確たる目的がなくても景色を楽しめる人は、多くない。
そういう何処か牧歌的な空気の流れを彼は纏っていた。表情もそうだ。彼はまさか自分が
モデルになっているとは露とも知らずに、思い思いの場所でクレヨンを動かす子供たちを
ニコニコと眺めて歩いた。園児は彼に何か声を張り上げ、一言二言コメントを貰い、笑い
声で会話を締めくくる。行く先々でそんな光景がくり返された。
 立ち止まったのは、女の子が彼の前に立ちはだかったからである。
 差し出された一枚の画用紙。無言だった為、彼は少々、戸惑いを顔に浮かべた。しかし、
副園長という立場からも分かる通り、経験もあった。彼は覗き込んだその女の子に、何か
を企んでいるような、堪え切れない笑みがあるのを悟った。ならば、気づかないフリをし
て驚いてあげるのが本当だ。彼は絵を手に取った。
166 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:32
 その表情はれいなが今まで目にした相手の中でも、もっとも大きな喜びを表した。やは
り、彼にはロマンチックな一面があったのだ。大袈裟な演技の必要はなかった。彼はかけ
ていた眼鏡を外して、表面を布で磨きさえした。繁々と、というには興奮に押されている
ような見方でそれを眺め回した。挙句、お礼の言葉と共に彼の口から吐き出された提案が
あった。君の絵は絶対に人を喜ばせることができると、彼は上気した頬のままで、念を押
した。
 それが今、れいなが絵を描いている理由だった。
 予想していなかった贈り物が、どれだけ人を幸福な気持ちにさせるかを彼女は知った。
何か、運命的なものが働いたように思えた。今日を逃したら、それをするのに相応しい日
は二度と訪れないだろう。幼稚園児である彼女にも分かった。
 予感めいた興奮。それが集中力と相まって、背中にゾクゾクとした痺れをもたらす。こ
れまでにないくらいに出来がいい。副園長の顔が思い浮かんだ。本心であることが疑いよ
うもない温度の言葉がよみがえる。あの絵であそこまでの感情の動きがあったのだ。それ
よりも断然完成度の高いこれを渡された人間がどんな表情を浮かべるか、想像もつかなか
った。そして、想像もつかないだけに、また、背中が痺れる。
167 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:32
 彼女が絵を仕上げ、完了の合図である伸びをしたのは、それからさらに時計の長針が反
転した時だった。合わせて約一時間。時間切れに設定した時刻よりも十五分早い。
 同じ色ばかりを見つめ続けていたせいか、部屋の配色がいつもと違って見えた。窓から
差し込む午後の日の光も違う。心地の良い疲労だった。大げさに押し出すため息も、立ち
上がると同時に鳴る身体の何処かの器官も、肌寒くなっていた気温も悪くなかった。窓か
ら顔を出してみる。まだ帰ってくる様子はない。そう焦らなくてもよさそうだ。安堵した
途端に、今度は待ち切れなくなった。早く見てもらいたい。そして、驚かせたい。
 彼女は待ち切れずに部屋から出て、アパートの階段の一番上に腰を下ろした。手すりの
赤サビの匂いのする中、数分後に訪れるであろう場面に、れいなは一人照れ笑いを浮かべ
ていた。
168 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:32





169 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:33
 絵里の笑顔は馬鹿みたいだ、とれいなはいつも思う。何といっても締まりがない。だか
らみっともなく見える。そう指摘しても、彼女は怒るどころか、ますます笑う。吐き出す
言葉自体は怒っているような感じでも、声色は笑い声に他ならない。その様子を目にする
度にれいなは考えを新たにするのだった。絵里の笑顔は馬鹿みたいじゃなくて、馬鹿その
ものだ。
 かつて天動説が主流であったように、人間は自分を中心に物事を考える。その感覚でい
えば、エスカレーターは上昇と共に騒音を運んできたようだった。ポップでカラフルな音
色も、それらが混ざり巨大化すると、ただの耳障りなものに変わる。そういう意味で、こ
の場所は新宿の風俗街に似ていた。そしてれいなは、それが嫌いだった。
「どう、スゴいでしょ?」
 絵里は何故か胸を張る。自分がこの場所を作った訳でも発見した訳でも、さらにはれい
ながちっとも凄いとは感じている訳でもないのに、そうした。そうしてから、ケチをつけ
られたように少しトーンを落として呟いた。
「ああ、でもなぁ……。ここ、同じ高校の娘もけっこうくるんだよなぁ」
「同じ学校の人が来ちゃいけない訳でもあるの?」
「うーん、いけないってこともないけどぉ……って、れいな、あれやろ!」
170 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:34
 二階に到着するやいなや、絵里はれいなの腕を掴んだまま駆け出した。バランスを崩し
そうになるが、ここ数週間でこの行動にも慣れた。いいようにされるのが少し頭にくるし、
その度に注意の小言を口にするが、出会った頃のように転倒が頭をかすめるほど危険では
なくなった。
 ゲームセンターへ行ったことがない。
 そもそもここへこうして来るハメになったのは、何気ない会話の中で、一際何気なく漏
らしたれいなのその一言が原因だった。
 それは別に行きたいという感情の表れでは全くなく、絵里が楽しそうに話すリズム系ゲ
ームとやらへの共感を遮っただけだったのだが、彼女は乗り気になってしまった。絵里は
何処で感情のスイッチが入るのかが理解不能で、スイッチが入ったということは分かりや
すい。勝手に人の腕を取り、「れいなの知らない世界を見せてあげよう!」と年上ぶった
セリフが吐き出され、「行かない」と言うと、子供のように駄々をこねた。全くをもって、
扱いづらい。
171 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:34
 その時から今まで、れいなは腕を掴まれたままだった。振り払おうとしても、頑なに離
さないのだ。ゲームセンターに到着するまではこうしてると、恨みがましい目でれいなを
見た。仕方がないと思える事情がなくもなかった。あれからも何度か隙を見て、途中で彼
女から逃げ出した実績がある。だから強くは文句を言えなかった。
 駅ビルの存在は頭の片隅にあった。。普段利用する出口とは反対側。川を挟んでいるの
で、駅構内を通らないとかなり大回りになるそこに半年程前、大型なショッピングモール
ができたという。都心からやや外れたこの辺では、それはそれなりに大きな出来事であっ
たし、地元の中高生たちにとっては、輪をかけてそうだった。周りでなされている会話か
ら、多くの学生が足繁く通っているらしいという噂は知っていた。しかし、れいなは一度
も足を踏み入れたことがない。街に元々あった小さなゲームセンターにも出向いたことが
なかった。
 そんな彼女にも二階のフロア一面に広がっているこのコーナーが、相当に大きな規模で
あることは想像がついた。何故小走りをしなければいけないのか。注意しようにも興奮し
切っていて言葉の届かない絵里は、れいなを引っ張ったまま、その壁際にある機械の前で
ようやく足を止めた。
172 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:34
「ほら、これ! これがそう!」
 周りの音量からか心理状態からか、いつもより大きな声で絵里はそれを指差す。飛び跳
ねながらなので、その切っ先はブレていたが、どうやら間違いがないようだ。
「へぇ……。って言われても」
 口にしてから、れいなは絵里のペースに乗ってしまったと気づいた。
「わかってるわかってる。ちゃんと何も知らないれいなにも説明してあげるから!」
「そうじゃなくて」
「これをこうやって持ってね、これがこの位置まで来たら、その高さに合わせて振る。簡
単でしょ?」
「いや、それはどうでも……」
「でね、このゲームの面白いところはね」
 会話は順番に交わすもの。絵里にはその概念がないらしい。画面を指し示して、もはや
機械に話しかけているような状態である。
173 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:35
 興奮し切っている彼女に、どうせあたしの興味が何処にあるかすら分からないだろう。
れいなは視線を絵里からフロア全体へ外した。同年代くらいの男女が夢中になって各々の
前にある機械に張りついている。慣れ親しんだ感情がよぎる。何が面白いのだろう。確か
に、知らない世界ではあるかも知れなかった。絵里がそう宣言した通り、自分からは遠い
ところにあった。しかし、それらは苛立ちに近い感情しか呼び起こさない。滅入っている
時に聞かされる与太話みたいに、ウンザリとさせられた。
 周りと同じようにはしゃいでいる絵里は、ちょっと実演してみせるね、と地面に置いた
鞄の中から財布を漁り始めた。
「何だか、あんまり新しくないみたい。このゲーム」
 れいなが周辺の物と見比べて唯一持った感想に、絵里が答える。
「うん、結構古いんだよね。でも、これが好きなんだぁ」
 しゃがみ込んでいる絵里の声はくぐもっていた。余程気が急いているのか、返事でチラ
リとれいなを笑顔で見上げただけで、底の方をゴソゴソとやっている。あれぇ、おかしい
なぁ。ゼッタイにここにしまったと思ったんだけどなぁ。時折漏れる一人言には、まるで
緊張感というものがない。
174 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:36
 彼女はやっとのことで目的の二つ折りを見つけ出すと、立ち上がり、ニヤリとれいなを
見やって、機械に付属されている物を手に取った。
「これ、コントローラーって言うんだよ」
「マラカスじゃなくて?」
「マラカスでありながら、それでいて、なおかつ、加えて、コントローラーなの。あっ、
ちょっとれいなには難しすぎたかなぁ?」
 絵里は明らかに構って欲しいような口ぶりだったので、れいなは押し黙った。マラカス。
コントローラー。その二つがどう結びつくのか想像してみる。上手くいかなかった。途方
もないことに頭を使う人もいるらしい。それだけは分かった。
 楽しそうに絵里はマラカスをシャカシャカと揺らした。揺らしながられいなを見た。愉
快な気分の共感を求めるような目つきだった。覗いた八重歯も、細かいリズムも、何もか
もが明るさに満ちている。喜怒哀楽の、喜と楽が凝縮されているような光景だ。
「早くお金入れたら?」
 何かを言わないと場が動きそうにない。れいなは目を逸らして口にした。それでも絵里
の浮かれ調子は収まらなかった。ニヤ二や笑いながら、見ててよ? と百円玉を軽く上空
へ放り投げる。そこが彼女の浅はかなところだった。キャッチし損ねた硬貨は何処までも
転がり、人の合間を縫い、やがてゲーム機の下で動きを止めた。バイトの従業員は迷惑そ
うな顔で新しいものをレジから彼女に手渡し、ペコペコと頭を下げてから戻ってきた絵里
の顔にはやはり笑顔があり、れいなはため息を吐いた。
175 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:36
 実際、絵里には無駄な動きが多かった。普段からそうだが、このゲームをしている最中
は、日常生活に輪をかけてそうだった。それが意識的なのかどうなのかは知らない。それ
でも本当にサンバでも踊っているように腰を動かし、声を上げる。音に合わせてマラカス
を指定された方向に移動させるだけでいいと自分で説明したばかりなのに、そうやって馬
鹿みたいに笑っていた。
「どう、面白そうでしょ!?」
 視線は画面に向けたままで、荒い呼吸の絵里が訊く。
「さあ。でも、アンタが楽しんでることだけは確かだと思う」
「うん、最高に楽しいよ!」
「そうだろうね。何だか似合ってるよ。マラカス振って踊ってるのが」
「わーい、れいなに褒められたぁ! やったね!」
「……もう好きなようにすれば?」
 やっぱり馬鹿みたいではなく馬鹿だ。れいなはそう確信する。
176 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:52





177 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:53
 声が降ってきて、それでれいなは目を覚ました。
 眠っていたのと気温が下がっているのとで、自然に震えが起こった。自分の腕でもう片
方の腕を抱きしめようとして、触れる異物に気がついた。画用紙だった。それが引き金と
なって、記憶が音を立てるような勢いをもって甦ってくる。階段の上で母親を待っている
間に、眠気が襲ってきたのだ。しばらくウツラウツラとしていたが、予想していた帰宅時
刻を二時間ほど越えた辺りで抵抗し切れなくなり、その場で身体を横にしたのだった。
「どうしてこんなところにいるの?」
 焦点が定まらない。目が慣れてこないのは、暗闇のせいである。ボンヤリと、周辺が暗
くなるほどの長時間眠ってしまったのだと分かった。
「どうしてこんなところで寝てたの?」
 繰り返した女性の声で、もう一つ分かったことがあった。声の主。それが誰であるかだ
った。
 れいなは立ち上がって、おかえりー、と声を発した。彼女は階段の頂上にいて、女性は
二段下に位置しているというのに、それでも首を持ち上げる形だった。
「……ただいま」
178 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:53
 母親は口にすると同時に、ついさっきまでれいなの頭があった辺りにヒールを当て、彼
女の傍らを通り抜けた。
「あのね、ここにいたのはね」
「鍵、かけてないわよね? ……ああ、開いてる」
 母親が室内へ消える間際、れいなは閉まり行くドアに手を挟み込んで、後に続いた。
「今日ね、先生にね、褒められたことがあるんだぁ」
「褒められたこと?」
「うん、ものスゴく、スゴいねって言われた」
 その言葉に反応して、母親は動きを止めた。続いてれいなのと目線が合う高さまで腰を
折り、あたかも今初めて、れいなが持っている物に気づいたように視線を落とした。
「それ、なあに?」
「だからぁ、すっごく褒められたの!」
 れいなは背中に隠していた絵を取り出して掲げた。
「誕生日、おめでとー!」
 奇妙な間があった。冷たいままの母親の目つきには、観察の言葉の持つ俯瞰性が宿って
いた。
179 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:54
「どうかなぁ、これ?」
 母親はその問いには答えずに身を翻し、自分の行動を再開した。
「ねぇ、ってばぁ!」
 膝を伸ばして背を向ける横顔には、陶製の彫刻と同質の冷たさがあった。確かめるよう
な身体の動かし方。そこには足を止めたことへの軽い後悔が垣間見える。彼女はヤカンを
火にかけ、返す腕で髪留めに触れた。日常の動作である。何一つ自分の生活に変わったこ
とは起こらなかった。そういうように、習慣を崩さない。上げられていた髪がほとんど音
を立てずに滑り落ち、それらが回転するように左右に揺らされる。ガス台の前で止めてい
た足が動き出すタイミングも、洗面所へと向かう視界からの消え方も、何もかもが変化を
示さない。追いかけていけばそこでそんな表情、動作をしているかも記憶と照らし合わせ
ることができた。そして、それを証明するように蛇口を捻る音、強目の水圧が洗面台にぶ
つかる音が思惑を通り抜ける。
180 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:54
 れいなは途方に暮れた。ともすればこれが正常なのではないかと思えてくる。しかしそ
うだとすれば、これが正しいあり方だとしたら、どうして自分がこんなに悲しい気持ちの
中にいるのか、分からなかった。ただの痛みではない。表層的ではなく、芯が放射状にひ
び割れる響きがあった。それがどうしてなのかも分からない。ただ何故か、いつものよう
に母親の後をついて回る力が湧かず、代わりに何かが迫っている感覚が心に覆い被さる。
振り向いてはいけない、見てはいけない、絶対に気がつきたくない感覚。
 それもわずかな間だった。母親が洗顔を終えて戻ってくると、たちどころに影を潜めた。
反動のような衝動がせり上がった。それははけ口だった。後ろにあるものを取っ払ったま
ま、この感情の原因をプレゼントを喜んでくれなかったからだと、わざと単純に結論づけ
た。
 母親は相変わらず、れいなに注意を向けることがない。シュンシュンと鳴り始めていた
ヤカンを黙らせ、カップに注いだ。コーヒーの匂いが立ち込める。彼女の奇妙なクセだっ
た。それが就寝の時間帯であっても、帰宅したら必ずブラックを淹れて飲む。何故かいつ
もそうして、それが今、れいなは許せないと思った。
181 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:56
 画用紙が風圧に負けて、この場に相応しくない間抜けな音で翻った。一息吐いた母親の
背中に、れいなが画用紙をぶつけたのだ。両端を持ち、絵を表面にして何度も衝突させた。
その度にクレヨンが母親の衣服に擦りついたが、どうなってもいいと思った。すでにそれ
にためらいを覚えるほど、冷静ではなかった。
 何度となく衝撃を加えられた結果、母親が振り向いた時には、絵はグシャグシャになっ
てしまっていた。握り締める手。れいなは肩で荒い息をした。しばらくそのままだった。
母親はボンヤリと睨みあげるれいなの瞳を見つめていた。不思議な鋭さのある、濁った温
度を持つ眼差しだった。
 やがて母親は興奮に凝り固まったれいなの指を解き、絵を自らの手に移した。切り傷の
ように走った一本一本の皺を伸ばし、広げていく。ゆっくりとした動作。彼女だけでなく、
この部屋だけでなく、世界がその秒針を緩めたような時間が流れた。作業は続く。その内
に、絵は完全な姿がどんなものだったかが分かるくらいにまで修復された。彼女はそれを
眺める。
 数秒間のことだっただろう。そんなに時間がかかる訳がない。しかし、緩やかになった
時間の流れの中で、れいなにはそれが数十分もの間続いたように思えた。
 ―――そして母親は、唐突に時間を速めた。
182 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:56
 音が空気を走る。手品師のような流麗な手つきで、画用紙は引き裂かれた。半分になっ
た紙は重ねられ、もう一度破音が静寂を駆けて四分の一の大きさになる。感情を感じない
人差し指と親指。彼女が軽く力を込めるだけで、絵はいとも容易く手の中で回転し、小く
なっていった。
 声を上げることができなかった。れいなはただ立ち尽くしていた。働かない頭の認識を
待たず、次の行動が起こった。母親は両手一杯になった細切れを、天井の蛍光灯目掛けて
放る。ハラハラと見覚えのある黒や肌色が空中で揺れた。それは床や壁に影を作り、一片
がれいなの頭に乗って、一片が頬を縦にかすめていく。落下を拒むように部屋中を滑る絵
―――数秒前まで絵だった紙切れを視線で追うでもなく、れいなは母親を見上げていた。
舞い落ちる紙吹雪は微弱な落下音を立て、やがて、重力に負けて完全に動きを止めた。
 それを踏みつけるように足が動いた。母親は頓着なく、習慣に戻った。歩く風圧で引っ
くり返った一枚の紙片が目に留まる。それは瞳を描いた部分だった。少女の願望を込めた、
暖かな眼差し。それはれいなに描かれている物が現実ではないことを突き付けた。明らか
な場違い。それだった。
183 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:56
 母親が汚れた衣服を取り替える為にもう一度洗面所へ消えると、れいなはその場で脚を
折り、震える手で一枚一枚を拾い集めた。なかなか上手くいかない。まるでテープで留め
られでもしているように、指は紙の上っ面をなぞった。喪失感と疑問。覚束ない手つきは
一切れごとにそれらを拾い上げた。迫ってきていたものが何なのかは、結局分からないま
まである。しかしそれは、今や転んだ彼女の身体を覆い尽くし、心に深く根を張った。こ
れが唯一の確かなものに思えた。胸に触れれば知覚できそうなくらい、ハッキリとした異
物を感じた。一生、拾い終えられなければいい。れいなはそう思った。
 視線に晒されていることに気がついて、顔を上げた。いつしか消えていた母親の気配。
日常と寸分違わぬそれは、そこに収束していた。ただ、異質に変化して。彼女は笑ってい
るのだった。それは帰ってきてから初めて見せた笑顔。破られた絵を拾うれいなの後姿を
眺めてようやく、彼女は微笑んだのである。
 目の合った瞬間、母親は掴んでいた電灯の紐を引っ張り、部屋は暗闇に包まれた。
 声は、その中から聞こえた。
「……ちっとも似てなかったわよ、それ」
184 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:56





185 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:57
「うっまーい! すごいすごい! れいな、絵の才能あるよぉ!」
 無理矢理一緒に撮らされたプリクラに、無理矢理描かされた適当な絵。不細工なアヒル
の絵を、わざと描いた。その皮肉を絵里が分かるとも思えないながら、いい加減に備えつ
けのペンを動かした。
れいなは呆れを隠さないため息を吐き出す。
「こんなのでよくそんなことが言えるね」
「分かるって!」絵里は言葉に力を込める。「うまい人って線一本引いただけで違うもん。
へぇ、れいなにこんな特技がねぇ〜。もしかして、教室とか通ってた?」
 首を横に振りながら、遠い昔にもこんなことを言われたなと考え、ある事柄に気がつい
た。あのことがあって以来、れいなが描いた初めての絵になった。そもそも、こんな落書
きをそう呼ぶのなら、という条件を伴ってはいたが。
 絵里は出来上がったプリクラを手に取って、意味もなく、天井にぶら下がっている蛍光
灯に透かしてみたり、指先でヒラヒラさせたりした。その光景は何かに似ていた。興奮を
抑える術を知らない小動物のそれだった。彼女はただでさえ安定していない足元から注意
が逸れ、熱心に画面に向かって銃を撃っている男子高生や機械そのものに何度かぶつかり
そうになりながら、それでも目を離さない。
186 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:57
 れいなは意図せず、その光景を誰かと重ね合わせていた。
 ここまででなくてもよかった。だけどあの時、もう少しだけでも喜んでくれれば、何か
が違ったかも知れない。考えてから、打ち消した。それは違った。それは眼前にあるもの
を捻じ曲げてしまっている。どちらにしても時間の問題ではあったのだ。
 れいなには趣味と呼ばれるものが一つもなかった。嫌悪の対象は掃いて捨てるくらいに
あったが、心から好きだと思えるものさえない。自分でそうしたのだと思っていた。誰か
の思惑などが働いている筈がなく、望んだものを選び、そうでないものを排除してきた。
その結果だと思っていた。しかし結局、操り人形でしかなかったのだ。
 ようやく分かった時には手遅れだった。そう仕向けられていたのだと察知した時には、
もう何事にも興味を持つことはできなくなっていた。何故、自分はそれらを摘み取られな
くてはいけなかったのか。今のれいなには分かる。到底納得はできなくても、理解はして
いた。たった一つ。許せないものができた。
187 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:58
 人工的なもの。それも大量の灯りに覆われた密閉された空間は、人の感覚を狂わせるら
しい。外へ出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。ちょうど眠るつもりがなかった昼寝
が長引いてしまった、あの唐突な目覚めに似ていた。時間が一気に飛んだようだ。れいな
は妙にいつかの日を追憶していた。絵里に会ってから、こんなことが多い。相応に気温も
落ちていて、それは凝縮を思わせた。縮み上がって分離した空気の粒子を捉えることがで
きそうな鋭さだった。
 絵里の要求はやむことを知らない。時間的にはまだ夕方だから、と腕を引っ張られて、
一階のマクドナルドでジュースを口にしながら時間を潰すことになった。どうやら、逃が
さない為にはこれが一番効率がいいと学習してしまったようだ。
「亀井さん?」
 声がかかったのは、レジから窓際の座席に着こうとするあいだだった。
「やっぱり! 亀井さんだぁ!」
 制服姿の女の子だった。そして、絵里と全く同じものだった。三人グループで、地元が
一緒の面子なのか、それぞれは異なったブレザー。声をかけてきた彼女だけが絵里の知り
合いであるようで、他の二人は少し距離を置いたところに留まっていた。
188 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:58
「えぇ、あぁ、うん。そうだね……」
 疑問符が浮かんだ。れいなは訝しげに絵里を振り返る。蚊の泣くような、ごく小さな声
だった。いつもの彼女とは似ても似つかない様子をしていた。手に二人分のジュースの乗
ったトレイを持ったまま、れいなの背中に隠れるように後ずさっている。妙な具合だ。顔
見知りであるはずの絵里がれいなの背後で身をすくめ、押し出されたれいなは見ず知らず
の女子高生と対面させられているのだから。
 ちょっと、と絵里に文句を言おうとした。それを打ち消すように笑い声が響いた。話し
かけてきた女子高生のものだった。
「あはは、相変わらずだね。学校を出てもそうなんだぁ。かわいいのに、もったいないな
ぁ」
 絵里はモジモジとしたままである。ああ、とか、うん、などと時々相槌らしきものを打
ってはいるが、それは恐らく彼女まで届いてない。そんな力を持ってはいなかった。
 女子高生は不思議そうな顔をした。
「あの、あんまり似てないけど、もしかして妹さんかな? それともお友達? それって
中学校の制服だよね?」
189 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:59
 その問いに、どう答えていいか分からなかった。絵里は相変わらず、れいなの背中に向
かって、何か濁った言葉を吐いている。
 れいなはしばらく考えて、ええ、まぁ。そう返した。曖昧にしておくに越したことはな
い。
 彼女が軽い別れの挨拶を口にして二人の元へ戻ってからも、しばらくそのままだった。
よく分からないことが起こった。そして、それはなお続いている。
 振り返りもしないで、れいなはため息を吐いた。
「……どういうつもり?」
 絵里は、あはは、と誤魔化し笑いのようなものを浮かべて、背中から出てきた。そのま
ま、今度はスタスタと店内を歩いていく。いつもの軽い足取りに戻っていた。止まったの
は店のロゴが貼られた窓際。店内からはただの影でしかないそのマークに隠れるような席
を選んだ。そしてれいなが続いて隣に腰掛けると、もう一度、あはは、と前置きみたいな
笑みをこぼし、言った。
「見っかっちゃった?」
190 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 17:59
 れいなが冷たい視線のままでいると、絵里はいつにないサービス精神を発揮する。ジュ
ースをれいなの前にセッティングして、ストローを刺した。さらに、飲みやすいように折
り目で曲げ、角度の調整をする。それを終えると、自分の物も同じようにして、ジュース
を吸い込んだ。白いストローをオレンジ色の液体が通り抜けるのが見えた。かなりの勢い
を持っていた。一気に半分近くまでに減った紙コップをトレイの上に戻すと、絵里は大き
く息をした。説明義務を果たしたような、満足気な顔だった。
「……で、どういうこと?」
 れいなのピンポイントな問いに、絵里はうーん、と唸った。唸ってから、一息に口にし
た。
「実は、絵里ちゃんは、人見知りする美少女だったのでしたぁ」
「はぁ?」と、れいなは目を丸くする。「そんなはずない」
「それがあるんだなぁ。よく知らない人と話す時、固まっちゃったり」
「……さっきみたいに?」
「そう、さっきみたいに」
191 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 18:00
 何の矛盾もない。そういうふうに絵里は、あぁ、ビックリしたぁ、と一人ごちる。言葉
の通り、驚きの後の熱に侵されているようだった。シャツの胸元を引っ張っては押しつけ、
風を送る。同時に空いている左手で再びジュースを持った。勢いよく、喉が鳴る。
「そんなわけない」れいなはくり返した。「それどころか、かなり馴れ馴れしい対応を、
初対面の時からされた記憶があるけど?」
「ああ、れいなは特別」
「…………」
「意識したわけじゃなくてさ、れいなにはガーッといけたんだよねぇ。不思議なことに」
 性懲りもなく、全てがハッキリしていると信じて疑わない語調である。
 れいなはそれは光栄だと皮肉を言おうとして、やめた。絵里のことだから、言葉通りに
受け止める可能性がある。というより、かなり高確率でそうなるだろう。押し黙ったまま、
口をつけていなかった飲み物に手を伸ばした。オレンジの人工的な味が不快だった。唇を
湿らす程度にとどめておいた。
「それじゃ、二重苦なんだ? 方向音痴と、人見知り」
「うーん、仲良くなったらそれなりに話せるんだけどねぇ」
192 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 18:01
 嫌味を言ったつもりなのに、絵里はやはりそうは受け取らなかった。
 れいなは何度も首を捻る。店を出て、歩き始めてからの絵里の言動。それはれいなに、
やはりさっきのは幻覚だったのではないかと思わせるようなものだったのだ。そのくらい
彼女は喋りっ放しで、大げさに身振り手振りを交えた。自転車を引いていないのが幸いだ。
乗り物だって、傷が増えるのを好まないだろう。
 れいなの家の前に着いて、絵里が置いておいた自転車に乗り、呼ばれたゴローが彼女の
腕の上に飛び乗る。いつもの風景。れいなはそれをボンヤリと眺めていた。眼差しに緊張
感が混ざらないように注意しながら、そうした。
 やがて、切り出した。
「ああ、絵里。そうだ、言っておかないと」
 絵里は、なあに、と振り返る。
「明日は親戚の法事があるから、待ってても遊べないよ」
 ここ最近の彼女との接触で学んだこと。本当に用がある時は、当日ではなくて、前もっ
て知らせておくこと。それさえ守れば、さすがの彼女も家の前で待っていることはない。
「えぇー、せっかくの土曜日なのにぃ」
 だからだ、という言葉を飲み込んで、れいなは用意しておいた代案を口にする。
「その代わり、日曜日は大丈夫。日帰りだから」
193 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/03/21(月) 18:01
 不承不承。絵里の表情にそんな印象を覚えた。だけど彼女は一応の納得をして、いつも
の馬鹿そのものの笑顔を見せた。そして、その笑顔に見合った提案がなされた。
「じゃあ、指切り」
「…………」
「なんだよぉ。照れるなよぉ」
「気持ち悪い」
 絵里は口を尖らせながらも、そうなるであろうということ程度は予測していたらしく、
粘って強要することはなかった。
 ゴローを腕から降ろす絵里を見ながら、れいなはかすかに胸が痛むのを感じた。彼女と
した約束の日曜日。それが訪れることはない。いくつもの嘘を彼女に吐いてきたが、何故
だか口の中に苦味のようなものが走った。それを彼女がどのように知るかを想像できたか
らかも知れない。
 とても愉快な交流とは言えなかった。しかし、れいなは絵里の後姿を、静かに見送った。
目にするのが最後になるであろう背中を、見つめていた。遠くでクラクションが聞こえた。
遠くで風が吹いていた。遠くでゴローが塀の上へと駆け上がった。全てがそうだった。距
離がある。
 世界はいつでも、遠く離れたところにあった。
194 名前:  投稿日:2005/03/21(月) 18:02
 
195 名前:  投稿日:2005/03/21(月) 18:04
>>1-9 クッション (いししば)
>>16-30 卒業アルバム (ののあい?)
>>34-50 不思議    (いちごま)
>>54-89 HONEY (ののかお)
>>96-117  猫とアヒルのタペストリー 1
>>119-134 猫とアヒルのタペストリー 2
>>138-151 猫とアヒルのタペストリー 3
>>160-193 猫とアヒルのタペストリー 4
196 名前:ピアス 投稿日:2005/03/21(月) 18:12
>>155 名無飼育さん

ありがとうございます。遅くなってすみません。
見限らずにこれからも応援していただけると嬉しいです。

>>156-157 通りすがりの者さん

レスありがとうございます。励みになりました。
ちなみに、『HONEY』はラルクのやつです。
こういう曲かと思って聞いていたところ、
違ったみたいなので、じゃあ、これはオリジナルだ、と書いちゃいました。(笑

>>159 名無飼育さん

ありがとうございます。待たせてすみません。
次からはもっと早くしようと思います。絶対に。
197 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/21(月) 22:59
読んでたら可哀想で仕方なかったです。時間の違う場面がお互い
引き立てあってるように感じました。何かが起きそうな雰囲気にハラハラします。
198 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/03/29(火) 12:56
更新お疲れさまです。 か、悲しい(T_T) 画家をも目指している自分にとってもキツいことですが、続きは気になるところ(ェー
次回更新待ってます。
199 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:20
                    5



 その日は何か大きな力が働いたのか、世間の注目を引くような出来事が起こらなかった。
そうでなければ、取り上げられないような事件だった。
 前日の夜遅く、路上に停まっていた車に一人のパトロール中の警官が職務質問を掛ける
為に近づいたという。全ての窓にスモークの貼ってある、黒塗りのベンツだった。中には
男が乗っていて、暴力団員である彼は一切の抵抗を示さなかった。その状況でどう足掻い
ても無駄だということは理解できたらしい。男の容貌に不審を強くした警察官がダッシュ
ボードから押収したもの。それによって彼は、麻薬取締法違反と銃刀法違反、二つの罪で
現行犯逮捕された。
200 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:21
 女性アナウンサーの声は、何処か涼やかだ。無理に周りのものを吹き飛ばそうとせず、
引き連れていくような心地良さがあった。職業として、求められる資質というものはある。
朝の顔と、彼女にはそう呼ばれるだけの雰囲気が備わっているようだった。ただし、それ
は毎日繰り返される。外から射す太陽光線も同様である。直下ではなく、斜めに窓枠をく
ぐり抜けるその鮮やかな姿態は、いつもと同じ穏やかさを湛え、いつもと同じ澄んだ空気
をまとっていた。大きな始まりに満ちているが、それは特別ではない。
 ただ異変は、母親の反応にあった。
 どうしたの。れいなが掛けた声に返答はない。食い入るように見詰めているテレビ画面
へ目線を追いかけると、男の顔写真が貼りついていた。その横には氏名と年齢が白い文字
で並んでいる。見覚えはない。目つきの悪い顔は、実年齢よりも老けて映った。三十四歳
にはとても見えなかった。
 やがてその顔写真が笑顔まで完璧な女性アナウンサーに切り替わった。百八十度の転回。
口調からして、次のニュースは明るい話題のようだ。
201 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:21
 後は家を出るだけだった。ランドセルまですでに背負い、玄関に向かっていた。母親の
背中を通り抜け、いつものように返事のない、一方的な行ってきますを口にして、何とな
しに振り向いた。そこにあったのが、彼女の息のつまるような凝視だった。集中の糸が張
りつめ過ぎていて、かえって原稿を読み上げる爽やかな声が届いていないのではないかと
思えるような表情である。そして何より彼女は、小さく震えていた。
 あまりの唐突な驚愕に立ち尽くしていると、その横顔が錆びついたドアを思わせるよう
なスピードで振り返った。何か、部品が欠けている機械のようだった。損傷はむしろ心的
であったのかも知れない。そう思わせる動作である。れいなを眺め回し、そこに何かを探
していた。思い出そうとしていた。瞳の動きに能動性はない。そういう機能だから肖像を
なぞっているだけのようだった。意思の感じられない目で、血の気の引いた青白い顔つき
で、視線を被っている少女がどんな存在であるかを、模索していた。
 しばらくしてから宿った光。それは憎悪に他ならない。母親はその時、何一つとして言
葉を吐き出すことがなかった。ただただ、その目で少女を見据えた。
 れいなにもそれが、今まででもっとも激しい、自分に向けられた感情だと分かった。
202 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:22
 それから一年後。小学校の卒業式の帰り、一人で証書の入った筒を右手に持って歩いた
のを、れいなは記憶している。感情に細かい波が立っていた。証書のせいだ。手にしてい
たくないというよりは、手にしていてはいけない物のように感じていた。気分が落ち着か
なかった。ならば、と何処かに捨てようとして、それに適切だと思える場所も見当たらず
にいた。近くに海はない。川はあったが、そもそもそんな大袈裟なものにしたくもない。
ゴミ袋の積まれた収集場所。その隙間に差し込むくらいの、エピソードにもならない廃棄
が理想である。しかし、午後の町にゴミの山はなく、結局のところ、家のゴミ箱に放り投
げることあたりが関の山だろうと考えていた。
 母親の妹だと名乗った女性は、そんなれいなを、家の前で待っていた。
 彼女は、れいなの顔を繁々と眺めた。奇妙な感情が混ぜこぜになった、忙しい視線だっ
た。母親に追い返され、れいなを一目だけでも見たくて、そうしていたと説明を受けた。
 生活に辛いことはないか、と彼女の質問がされる。辛いことが何なのか、麻痺して分か
らなくなっていたけれど、れいなは特にないと返した。その言葉に反応して降りてきたの
は、彼女の救われたような笑みだった。それを何処か理不尽に感じながら、やっぱりれい
なは黙っていた。
203 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:23
 もしも少しくらい嫌なことがあっても。彼女は本題をそう切り出した。れいなの母親が
被害を受けた事件についてである。直前に目にした母親の様子から、当然知っているもの
と判断したようだった。同意を求める疑問形の話し方にそんな節が見て取れた。
 全てが繋がっていくのを感じた。複雑に見えて絡まっていた糸がほんのきっかけから解
けるように、明確な一本の線となった。その加害者は捕まらず、しばらくしてある事実が
判明した時、母親は実家から姿を消したという。
 全てが初耳だった。しかしれいなは、さも全部の事情を熟知しているふうな顔で聞いた。
上手く装えた自信はなかったが、彼女が疑いを抱くことはなかった。
 母親の震えた横顔を思い出した。れいなには分かった。彼女はきっと、あの時に見つけ
たのだ。元凶が突然、そして文字通り目の前に現れたのだ。あまりの出来事に、忘れては
いけないような気がして、れいなが網膜と脳裏に焼きつけておいた男の素性。それが意味
を持った。
 叔母にあたる彼女が立ち去ってすぐ、れいなは卒業証書をその場に投げ捨てた。そうし
てみれば、やはりただの筒と紙切れに過ぎない。どうしてだったんだろう、と思った。何
故、こんな単純なことに気がつかなかったのか。そのつもりさえあれば、何処にだって、
その瞬間から投げ捨てることができるのに。全部がそうなのに、どうして今まで、こんな
ものを抱えていたのだろう。
204 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:23
 当時の気持ちを思い出しながら、れいなは靴を履いた。記憶をなぞる。それから三年間、
ひたすらに身体を鍛えた。どう動かせば思い通りの結果が生まれるか、研究しながら、可
能だと思われる計画を立てた。自分を過大評価せずに、確実に目標を達成できるよう、相
手の身辺調査から状況を導き出した。―――その全ては今日、終わる。
 れいなにとっての始まりの場所。それは紛れもなく、叔母であるあの女が立っていた地
点だった。階段を降り、視界が開けていくごとに、昔の自分が見えるような気がした。目
を凝らせば、トボトボと歩くその姿を捉えることができそうだった。重荷のように証書を
持ち、どうしたものか考えあぐねているのだ。そして少女は間もなく、誰かが自分を待っ
ていることを察知して、顔を上げる。その視線の先、階段脇の壁に、身を寄せるようにし
て立っている女性を発見する。
 れいなの足が唐突に止まった。
 正にその場所だった。そこで絵里は、れいなが降りてくるのを、ゴローを抱えながら待
ち構えていた。
 彼女は顔を上げ、八重歯をのぞかせた。
「おはよー。今日はどこに遊びに行こっか?」
205 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:24





206 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:24
「行かないよ、何処にも。いつもそう言ってるじゃん」
「うん、そうだね。だけど最後には、絵里ちゃんに付いてきてよかったなぁ、れいな幸せ!
ってなるでしょ?」
「全然。というか、一度もなったことない」
「またまたぁ。ちゃんと知ってるんだからぁ」
 不思議と驚きがなかった。だから、怒りの感情も湧かなかった。なんとなく、こんなこ
とがあるんじゃないかと思った。絵里がいるのではないかという気がしていた。れいなは
むしろ、そのことに驚いた。
「……親戚の法事だって言ったじゃん」
「うん、そうだね」
「出かけるから来ても無駄だって、前もって言っておいたじゃん」
「うん、言ってたね」
「今日だけは、どうしてもしなくちゃいけないことがあるんだ」
「うん、そんな気がしてた」
「どうして」れいなは力なく、単純に疑問として口を開いた。「どうして分かった?」
207 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:25
 絵里はゴローを肩口から地面に降ろす。猫はこの前のように駆けて逃げたりせずに、彼
女の周りをクルクルと回った。絵里の伸ばした腕に身体をすり寄せ、心地良さそうに喉を
鳴らす。揺らした指先をざらついた舌で舐め始めた。
 顔を上げた絵里の笑顔は、いつもよりもかすかに影が差して見えた。
「れいなさぁ、ウソつく時、優しくなるよね」
 押し黙ったままのれいなに、絵里は続ける。「実はその瞬間は嬉しくて、舞い上がっち
ゃってさ、いつもちょっとしてから気づくんだ。こういうことがあった時、絶対に次に何
かが起こるって。れいな、ウソつく時だけ、“アンタ”じゃなくて“絵里”ってわたしの
名前、ちゃんと呼んでくれるんだもん」
 一瞬、呆然となった。呆然としてから、れいなの中に苦笑が生まれた。完全なるコミュ
ニケーション不足。そんな言葉がよぎる。人と接していなかった弊害が、こんな形で起こ
るとは予想だにしなかった。そこまで自分の言動に注意を払われたことがなかった。絵里
の言葉が本当かどうかすら判断がつかない。いや、彼女がここにいることこそがその証拠
だ。自分にはそんなところがあるのだと、れいなは彼女の口から、こんな時に、初めて知
った。
208 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:26
「そっか、随分間抜けなんだ」
 れいなが自嘲的に呟くと、絵里が即座に否定した。
「違うって。亀井の家の絵里ちゃんが賢いんだって」
 口にして、えへん、と胸を張った。やはり、とてもそうは見えなかった。
 何故か、ほんの少しだけ爽快だった。気持ち良いまでに全てを見透かされた。いつもは
キチンとはまる計算が、見えていたものが、彼女といるとハズレることが多い。自分の滑
稽さが愉快だった。嫌いな人間を嘲笑う気分と、それでも切り離せない自らを、俯瞰で笑
い飛ばしたい感覚とが混在した。
「アンタ、変だよ。絶対、変」
「……れいなほどじゃないもん」
「あたしは正常だけど? 正常。本当に普通の中学生」
「ならさ」絵里がわざと声色を明るくしたのが、れいなにも分かった。「普通の女子高生
と女子中学生らしくさ、このまま遊びに行こうよ」
「……それは無理」
「ほんと、どこでもいいよ。れいなは猫だから、砂場とかがいいかな?」
209 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:26
「……無理だって」
「えへへ、砂場はトイレだし、全然中高生らしくなかったね。じゃあ、屋根の上とか……
これも違うか。それならもう、何でもいい!」
「……無理なんだよ」
「年相応とか、正常とか、こだわらない」
 絵里の語尾が震えていた。その様子は、初対面の印象と変わらない。まるで子供だった。
泣くのを必死で我慢している小学生みたいだった。恨めしそうな視線。唇は一文字に引き
伸ばされている。どうやって声を発しているのか不思議なくらい硬く強張っている。そし
てそこから零れ出た語調は、嘆願のそれとよく似ていた。
「だからさぁ、どこにも行かないでよぉ」
 不意に、決心がついた。誰にも言わないでおくつもりだったことを、話す気になった。
どちらにしても、この計画をやめることだけは有り得ない。どうしてこんなことになった
のかを、誰かに聞いてもらいたい気分になった。そういう気分が訪れたのは、れいなにと
って初めての経験だった。
210 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:27
 れいなが口を開き、その話を切り出してすぐ、思い浮かんだのはいつかの彼女の口調だ
った。二度と会うことのなかった叔母。話をしながら、それと一体化するような、奇妙な
響きが内側にあった。
 ドラマでよく目にするような、ありふれた悲劇。高校二年生だった少女は、人当たりが
良く、誰に対しても安易に傷つけるような言動を取らないタイプだったという。かといっ
て聖人君子だったわけではない。学校で禁止されているアルバイトを無断でしていたし、
それは親が病気で働けないから、といったような切迫した理由からでもない。ただ、みん
なと遊ぶお金が欲しい。洋服が欲しい。CDが欲しい。つまり何処にでもいるような、そ
れよりほんの少し優しいくらいの女子高生だった。
 それが遠くから眺めての証言だったのなら信憑性が薄いが、身内である妹に向かっても
そうだったという。裏表のない性格。そう捉えることができるだろう。
 彼女は電車で学校に通っていた。家の最寄駅から五つ目が学校の前だ。それだけ離れて
いれば充分だった。教師が偶然地元の駅で下車する可能性はかなり低い。だから、バイト
は家と最寄り駅の間でした。駅までは毎朝自転車をこいでいたので、学校帰りに制服のま
ま、それに乗って直行するのだ。彼女は定休日である木曜日を除いた平日の午後五時から
九時まで、喫茶店で働いた。働きぶりも申し分はない。
211 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:28
 飲み物が買いたいといったような、そんな理由だった。彼女はその日、バイト先から家
へ直接向かわずに、駅前のコンビニエンス・ストアーに立ち寄った。特にめずらしくもな
い行動。しかし、ペットボトルを手に店を出た彼女は、日常になく気味の悪い視線に晒さ
れていることに気がつく。そちらを見ないようにして、だけど、それでも尾けられている
ような気配を感じた。不気味ながらどうすることもできない。こんなことで交番に駆け込
むのはおかしいし、気のせいかも知れないという感情もあった。自意識過剰なのだと、自
らに言い聞かせる。よくあることだ。ただ同じ方向に行きたいだけなのに、それを警戒し
て走り出してしまったなんてことは、本当によくある。祈るように反芻しながら、いつも
と違う圧迫感に自転車のスピードは上がった。鼓動も速い。危機を告げる身体の器官が、
脳と剥離しているようだった。とにかく、一刻も早く家にたどり着こうと道を急いだ。
 その瞬間は何が起こったのか分からなかった。さらに加速しようと脚に力を込めるやい
なや、コンクリートに背中から叩きつけられていた。揺れる視界を持ち上げると、自転車
の後輪のホイールが不自然に曲がっている。交通事故にでもあったようだ。さらにそこに、
見慣れない棒のようなものが突き出ていた。歪みはそれを中心に派生していた。
212 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:29
 ふと、身体を強い力で引きずられた。麻痺してしまっている鈍い驚きと共に顔をそちら
に向けると、ニヤけた男の表情があった。男は笑っていた。笑いながら、彼女を空き地の
草むらの方へと移動させようとする。
 それがどういうことか、理解するよりも早く、声を上げた。恐怖感をあらわにした。男
は構う様子がなく、貼りついた笑みを絶やさない。ただ強固な腕で、それまで以上の乱暴
に彼女の身体を扱った。
 抵抗しながら、辺りを見回した。肌を切るように研ぎ澄まされた風は、絶望感を大きく
した。用意周到さを感じさせた。住宅街から離れ、使う人が限られているような道だ。他
の通りとの合流までも遠い。そんな目的がない限り気づかない、完全なデッドスペースで
ある。手荒な方法を取るのを厭わないのだから、この男はきっと、いつでも自分を捕らえ
ることはできた。想像が冷たい震えを全身に伝える。それを、このポイントに到達するま
で待っていたに違いない。蜘蛛が獲物を巣へと誘い込むように息をひそめ、そして、絡め
取るように。
213 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:30
 草を掴んで移動に耐えようとした。しかしあっけなく千切れ、手をすり抜け、皮膚を切
りつけた。倒れた自転車が遠ざかる。もう戻れない平穏な過去のようだった。土の匂いが
した。助けを求める声がうるさいと、平手で頬を叩かれた。途端に嗅覚を刺激するものは
血に変わり、目の前も赤くなる。男の顔には、やはり変わらない笑い。気をくじくような、
笑い。空に星があった。空気を挟んで、星が見えた。瞬いていた。呼吸するきらめきがあ
った。それなのに、空は何処までも暗い。月もそれを拭うことはできない。
 ―――超然とした世界の中で、彼女自身だけが、とてもちっぽけだった。
 不運はその日で終わらなかった。彼女は屍のように無感情になり、学校を休み、部屋に
閉じこもって日々を過ごした。たまに物音がして両親が部屋を覗いてみると、室内にはも
のが散乱していて、かぶった布団が荒い呼吸により上下しているのだった。
 そんな彼女に、二人は伝えることができなかった。隠すというより、状況を見て伏せて
いるつもりでいた。しかし、どうにもならない事情というものも、世の中にはきっと、あ
る。身を切る心地で、事実を告知するしかなかった。
 妊娠を知らされた彼女は、無言で家を後にして、二度と戻ってくることがなかった。
214 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:31
「当然、両親っていうのは、堕ろさせるつもりで話を持ち出したんだと思う」
 れいなは言葉を切った。振り返ることで、徐々に胸の内側で何かが張りつめてくるのを
感じた。熱を持ったそれは、彼女を一刻も早く、と急かした。
「あたしはそうやって生まれた。もちろん、あの女はあたしを可愛がるはずもなくて、そ
れどころか、憎んでた。不幸になるようにって、育てた」
「そんなの……ひどい」
 絵里は泣きそうな顔で、今や口はへの字に曲がっていた。まだ何か言いた気で、だけど
言葉に詰まっているようだった。出てくる断片ですら途切れ途切れだ。
「何もかも……あんまりだよ! れいなのママに起こったことも、それと……それからの
ことも」
「……それから?」
「れいなのこと。だって、れいなに何かしたって、れいなは関係ないじゃん。絶対間違っ
てるよ、全部。だったらどうして産んだの? 本当だったら意味分かんないし、ひどい!」
 何故他人のことでこんなに感情的になるのか、不思議に思う。れいなはその顔を見つめ
ながら、ほんのわずか、口角を上げた。
215 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/05/30(月) 22:31
「そんなに分からなくて、ひどいかな?」
「えっ?」
「それって、あの女のしたことって、そんなに言うほどひどいことなのかな? やっぱり」
 絵里は何が何だか分からない、といった顔をする。
 呼吸を整えた。熱を抑え込む。れいなは首を持ち上げ、よく晴れた休日の午前中のゆる
やかな空を眺めた。あるのは雲や太陽ではない。決意だ。正確には、遠い日にした決意。
事実を知った瞬間に芽生えた決意。記憶の洪水が頭の中で音を立てていた。迫り来る流れ
にうなされるように、呆然とした口調になった。
「だけどね、その話を知った時に初めて、本当にあの女があたしと血の繋がってる、実の
母親なんだって……実感したんだよね」
 絵里の表情におびえに似たものが走った。自分の冷たくうつろな目つきが原因だと、れ
いなにも分かった。
「あの女はあたしを産むことで、この世の中に復讐したんだ。絶対に忘れない、って。無
抵抗だった自分をとんだ目に合わせた世界に、その憎悪の対象を形にして、自分の人生を
傷つけて、復讐をしたんだよ」
「……れいな?」
「あたしも同じ」
 れいなの中の音がピタリとやんだ。今そこにあるのは、抑えを失った熱だけだった。
「あたしは、あたしを生んだものを許さない」
216 名前:  投稿日:2005/05/30(月) 22:32
 
217 名前:  投稿日:2005/05/30(月) 22:34
>>1-9    クッション (いししば)
>>16-30   卒業アルバム (ののあい?)
>>34-50   不思議 (いちごま)
>>54-89   HONEY (ののかお)
>>96-117  猫とアヒルのタペストリー 1
>>119-134 猫とアヒルのタペストリー 2
>>138-151 猫とアヒルのタペストリー 3
>>160-193 猫とアヒルのタペストリー 4
>>199-215 猫とアヒルのタペストリー 5
218 名前:ピアス 投稿日:2005/05/30(月) 22:39
>>197 名無飼育さん

何だかすみません。
そう言っていただけて、本当に嬉しかったです。

>>198 通りすがりの者さん

ありがとうございます。キツいのはごめんなさい。
それと、言えた義理ではないですけど、スゴいですね。頑張ってください。
219 名前:通りすがりの者 投稿日:2005/06/04(土) 19:37
 更新お疲れさまです。 なるほど、田中チャンにはそんな事が・・・。 でもどんな事があったとしても、そんな事はダメですよ。 作者様からそんなお褒めの事を頂けるなんて。 うれしいです。 作者様も頑張ってください。 次回更新待ってます。
220 名前:ピアス 投稿日:2005/08/18(木) 20:35
自己保全
221 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 03:54
突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。

222 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/12/30(金) 23:44
                    6



 ついさっきまで、そんな気配は全く見受けられなかった。家を後にするときに確認した
天気予報でも、降水の心配はしなくていいはずだった。
 しかし今、辺りには雨が降り出す時、特有の空気の重さと匂いが立ち込めている。かつ
ては虹の香りと言われたらしい、湿気を含んだ匂い。もしかしたら一雨くるかも知れない。
見上げた空には太陽がサンサンと輝いているというのに、そんな予感がれいなを包んだ。
 休日の新宿には、ゆとりというものがまるでなかった。物理的にも心理的にも、どこか
押し込められた息苦しさがある。信号で止まり切れなかった自動車が横断歩道にはみ出し、
その合間を歩行者が縫っていく。競うように次々と抜けて、信号が赤に変わってもしばら
く、途切れることはない。当然のごとく、道路の両脇には路上駐車が連なっていた。隙間
なく埋められた鋼鉄の車体。奇妙な光を湛え、打ち捨てられたように息を潜めている。
223 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/12/30(金) 23:47
 例外はただの一箇所。一台分だけポツンと空いたスペースがあった。れいなはそこを、
大通りを挟んだ路地から見つめていた。
 数週間前もここに立った。その時は走り去っていく車を見送った。今とは違い、完全に
雨が降っていて、そして何より一人ではなかった。一つしか持ち合わせていない傘の下、
濡れるのを嫌った絵里に押し出されて、左腕の袖が気持ち悪く肌に貼りついたのを覚えて
いる。そういった状況下で、れいなは、素早く組み立てたホラ話を本当らしく見せるのに
苦心していた。辻褄は間違いなく合う。それは分かっていた。男が次にどういった行動を
取るかは知れていて、それが外れるようなら、この決意自体が完全な絵空事になってしま
うのだから。
 後は行動予測通りに彼女を誘導して、尾けた挙句にここで振り切られたフリをするだけ
でよかった。痴漢に逃げられてしまったと、絵里は地団太を踏んだ。同じように口惜しが
ってみせ、しかしその実、れいなはそっと安堵の息を吐いたのだった。
 あの時、咄嗟に吐いた嘘が、あんなに彼女を怒らせるとは思わなかった。ただ、リアリ
ティのために痴漢にあったと言ったのだ。本来の絵里の気の小ささは、自分以外の人間へ
の対応ではっきりと分かる。彼女を奮い立たせたものが何であるかを考え、自然に彼女が
ついさっき自分に訴えた言葉を思い出しそうになり、れいなは意識を通りの向こうへと戻
した。視軸自体は、そこから離してはいなかった。変化はない。
224 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/12/30(金) 23:48
 ターゲット―――男は、叔母である彼女から存在を知らされた時、まだ出所していなか
った。そしていつ出てくるのか、正確な日付けを知ることもできなかった。しかし精度の
低い情報なら、比較的簡単に手に入る。男が暴力団員であるからだ。普通、犯罪を起こせ
ば元の場所では暮らしにくいが、彼らにはそんな制約がない。近所での噂話には常に晒さ
れているのだろう。男の素性や、出所の日が近いということを聞き出すのは非常に容易だ
った。適当に相槌を打ち、同調するだけでいい。
 何人かに話を聞くうちに、どれが本当で、どれが主婦たちによるフィクションであるか
が見えてくる。男は暴力沙汰の事件をくり返し、婦女暴行の罪で刑務所に入っていたこと
もあるという。原石の中に埋もれていた真実がカットされ、研ぎ澄まされるようにれいな
の中の確信は固まった。ニュースを目にした母親の表情。その直後の自分を見つめた瞳の
色。知らされた事実と、男の経歴。間違いなく、直感は正しかった。浮かんだ感想は怒り
のようでもあり、遠くでスイッチを押されただけのようでもあった。事実を知った時より
も、うつろな色をしていた。相変わらず世間の目は、本人がいないところで鋭い。ウンザ
リするくらいに、鋭い。
225 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/12/30(金) 23:48
 空模様は変わらないのに、空気はますます重い。片時も目を離していない一台分の駐車
スペース。その目の前にある店から中年の男が出てきた。彼もその雰囲気に気がついたの
か、空を見上げて、呆けたように首を傾げた。辺りが水浸しでないことがおかしいといっ
たような顔である。れいなは彼を知っていた。少なくとも、この距離から何度も見たこと
がある。だから、その場所にだけ路上駐車がされないのは、他ならぬこの男のしわざだと
いうことも知っていた。様子から察するに店長であるらしい彼には、すなわちこの店自体、
暴力団の息がかかっていることは間違いなさそうだった。他の車が停めようとすると立ち
退きを求め、とある車が来ると出迎え、挨拶に近い短い会話を交わすのが常なのだ。
 彼が自分の店から出てきたことが意味するものを、れいなは思った。どうやら準備の日
々は裏切らなかったようである。
 見られても注意を向けられる心配はまずないだろう。それでも念のため、れいなは半身
分はみ出していた身体を、完全に路地にしまった。幅にして、三十センチほどの一歩。そ
れだけの違いが、雑踏から大きく外れた感覚を呼び起こした。遮る空気の膜を意識する。
慣れ親しんだ閉塞感が覆っている。それに少し、安心した。
226 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/12/30(金) 23:49
 男が出所してきてからは、サイクルが安定するまで見守り続けた。れいなは非力を自覚
していた。足取りを追い、それに合わせながら計画を立て、最低限度、身体を鍛えた。ス
ペシャリストやアスリートになんか、ならなくていい。思ったように全身を動かすことが
できれば、それ以上は何の必要もない。それよりも状況を作り、油断を誘い、一度の接触
で終わらせることだ。万が一のことは念頭に入れておくべきでも、そっちのほうが遥かに
現実的だった。
 順調。それもこれ以上はないくらいの順調に思えた。確かにここに到達するまでに、れ
いなにとって予想外のことは、大小含めてたくさんあった。しかし今、この場には予感め
いた安堵がある。それは、結果の知れたチェスや何かを見守るように。空気を挟んだ大通
りでは、そうとも知らずに駒が動き回り、そして、しかるべき場所に落ち着こうとしてい
る。きっと動かしているのはその中の誰でもなく、もちろん、れいなでもない。彼女もま
た、その盤の上にいた。何かに押されるままに計画を立て、それを実行する舞台を整えは
した。けれど、役目をここで終える、ただの捨て駒だ。
227 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/12/30(金) 23:50
 れいなは自分を生み、育て上げたものを思った。
 それはきっと、欲望だった。相手の気持ちなんてものにチリほどの価値も認めない、極
めて利己的な欲望。自分がこうしているのも、それによる。人を傷つけたくて仕方がない
感情が、今自分を支配している。最低な気分だった。きっとそれは、感染力がとても強く
て、一度胸に巣くえば、二度と取り除くことはできない性質を持っている。そしてその歪
な欲望に晒された者もまた、同じように他人を傷つけるようになるのだ。心から最低な気
分だった。―――そんなものが、自分の身体や心にはつまっている。他の誰よりも。
 あの女、母親は、度々トラブルを起こしては仕事をクビになった。決して人と交わろう
とはしなかった。そして、突然れいなを放置して家を空けることがあった。期間などは告
げない。一週間程度で済むこともあれば、三ヶ月近くになることもあった。幼い頃のれい
なには、その長さは受動的なもの、運のようなものに感じられた。早く終わることを願い、
生きるために自分が万引きしてきたものを食べて暮らすのだ。選択肢なんて、他になかっ
た。あったのはたった一つのことだけ。盗品を噛み締める度に残る、内側で何かが育って
いる感覚がそれだった。身長が伸びたことに気がつくと、その栄養が何から得られたのか
を意識した。最低の気分だった。全ては少しずつ、しかしながら確実に蓄積していく。そ
んな生活が引き金になり、学校でも同じような感情にまみれることになった。もはや、疑
いようもない。
 繋がっている。連鎖している。全ては自分の中に収束する。
228 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/12/30(金) 23:52
 あたしはそれによって生まれた。生まれてからも、そんなものを、精神的、肉体的に食
べながら成長してきた。何せ、周りには他に何もなかったのだ。たとえば腕を切って血が
流れたとしても、それは血液であると同時に、黒い色をした感情だ。あたしの中にそれ以
外のものは存在しない。純粋な、一滴の混ざり気のないそれ。そのものがあたしだ。
 我慢ができなくなり、れいなは自らの皮膚に爪を立てる。痛覚にさえ嫌悪が湧き上がっ
た。痛み? 一体何様のつもりでそんなものを感じるのだろう。笑えてきて、笑ったこと
も不快で、全身を掻きむしりたい衝動に駆られる。完全な悪循環。それを無理やりに押さ
え込んだ。今はおかしな行動を取ってはいけない。ここまでのことが台無しになってしま
う。大丈夫、もうすぐだ。もう少しの辛抱。もうすぐで全部が終わるのだから。
 あたしはあたしを生んだものを、それ以上にあたしを許さない。
 琴線に触れるものがあって、意識を戻した。そのまま壁の端から通りを窺い見た。フル
スモークのベンツ。ウインカーも出さないそれが、信号待ちの車に巻き込まれ、左に傾い
て停まっていた。瞬時にれいなは、人波に小さな身体を潜り込ませる。この信号に間に合
う必要はなかった。
229 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/12/30(金) 23:53
 歩道側の信号が赤に変わり、渋滞のようだった自動車は流れ始める。あの男が乗ってい
るベンツもゆるやかなスピードでスペースにすべり込んで、やがて、動きを止めた。もっ
たいぶったように時間がそよぎ、遮光された窓に陽が弾かれた。伸びやかなものではない。
太陽さえもが行動制限を背負っているようだった。だからそれは、研ぎ澄まされた鋭さと
も違う。苦し紛れの抵抗に似た儚さを帯びた、そんな光だ。
 突如、れいなの周りの人々が一斉に空を仰いだ。驚きと後悔。どちらにしろ不満気な色
をした言葉が吐き出される。雑音は潮騒のように俄かに広がりを見せた。それでもれいな
は車体から目を離さなかった。大粒の雨が後頭部を打とうとも、それに気を取られること
はない。ただただ、一点を見つめ続ける。
 男は運転席側のドアから降りてきた。大仰な立ち振る舞いで隣に停まっている自動車の
運転手を睨みつけるようにして、身体を揺すった。時計にチラリを目を落とす。そして、
降り出した雨を嫌う仕草を見せ、歩道の店主のところへと向かった。
230 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/12/30(金) 23:53
 集中の糸が張りつめる。男の姿を見た瞬間から、れいなは真っ白な世界にいた。脇道の
ない、理路整然とした白。青信号に動き出した人の群れに押されながら、取るべき行動だ
けが頭にあった。脳内を電気信号で満たすように、何度もシミュレートする。流れ作業の
ごとく光景が浮かんだ。どの足を踏み出すか、何センチ幅で歩くか。それすら克明に捉え
ることができそうだった。同時にこんなことも浮かぶ。男は女を傷つけ、女は落とした影
を憎みながら、それを明らかにせずに暮らし続けた。その生活を傍観者たちは笑い、石を
投げつけた。しかし、その中の誰もが支配者ではないのだろう。誰かにとって、その一つ
一つが動かなくてはならないと決意させるものではあっても、やはりそれは小さなことだ。
結局自分は、最初から最後まで、吐き気のするあの感情のままに行動している。
 雨は輝いていた。太陽は雲に隠れていない。一粒として例外なく青空を映し、雫は法則
なく地面に散りばめられる。アスファルトには人や車や建物などの影さえ刻まれていた。
ネオンサインでできた弱々しい黒とは違う。混沌とした空模様ではあるが、紛れもない自
然の中で作られたものである。そして現れたれいなの影法師は、腰の辺りに手を当てた。
それも一瞬のことで、振った腕が偶然触れたのと大きな違いはない。すぐに後方へ離れて
いった。しかし、それで充分だった。ポケットに入っているナイフを確認するには、充分
な長さの時間だ。
231 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/12/30(金) 23:55
 気の早い信号機が点滅を始める。赤に変わっても、人が残っていては、車は動き出すこ
とができない。埃を掃き出すようにスイッチを切り替える街並み。渡り終えたれいなの頭
上で、完全に赤く止まった気配があった。
 目の横を、髪の毛の中で溜まった水滴が流れ落ちていく。今や顔中が濡れているのに、
その一筋だけはハッキリと判別できた。流れは皮膚の上で抗うように強弱をつけながら、
結局は重力に従う。首を伝い、服の下にもぐり込み、胸のあいだを通った。それでも身体
は、内側から燃えているように熱い。あの男を目にすると、いつもこうだ。黒い色をした
感情が、沸騰するようにたぎる。けれど今、あるのは、どうやらそれらと少しカテゴリー
の違うもののようだった。これまで経験したものとは、桁外れの熱が発せられている。
 それぞれの目的地へと散った歩行者に混じって、れいなも通りを左に曲がった。談笑し
ている二人の男まで、約十メートル。驚くくらいに冷静だった。もう迷うことは何もない
のだ。用意されたものは、全て出揃っていた。自らの性質。シミュレーション。目撃者。
被害者。そして、加害者。これ以上、何が必要なのだろう。
 雨足は不安定に強まり、弱まる。十分もすれば何処かへ行ってしまう雨だ。輝く雫を集
めたように、取り出したナイフの切っ先は反射した。男たちはまだ気づいていない。お互
いに薄ら笑いを浮かべながら、離れようとしていた。当然だ。誰が考えながら生活するだ
ろう。傍らを行き交う人間、それも女子供が、もしかしたら自分の命を狙っているかもし
れないだなんて。
232 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2005/12/30(金) 23:55
 れいなは自らの背中に回した手のひらの中で、握りを確かめた。力の関係で、両手を使
わないといけないこと。刃の向き。突き刺す位置。角度。澱みなく頭から降りてきた。何
度も練習した。この瞬間のために、確実にしとめるように。
 一息に身体の前方に戻された少女の手。そこにあるものに、対象は予想よりもずっと早
く反応した。一方の店主は男に見送りの視線を投げかけているが、全く気がつく様子がな
い。生命の危機に瀕している者には、特別な直感でも働くのだろうか。男は不意に振り向
き、驚愕に身体がついてこないながら、大きく目を見開き、れいなを見つめた。充血した
その眼光は、鋭い緊張を伝える。
 動けなくなったかもしれない、とれいなは考えた。もしも、これが初めての経験だった
なら、動きを止めてしまったかもしれない。しかしながら、彼女には覚えがあった。人間
が動物的本能にもっとも迫る瞬間。その張りつめる空気。咽喉の渇きに付随する、嗅覚の
痛みも知っている。雑踏。罵声。ネオンサイン。暴力。脳裡に渋谷の裏通りが甦った。や
っぱりあの行動は正解だった。自分の力でも人を倒せると確かめることができ、絵里と出
会った、あの夜の行動。
 ―――絵里。
その言葉が浮かんだ時、初めて、決断をしたれいなの思考が揺れた。
233 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:14





234 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:17
「何するつもりか分かんないけど……そんなのダメだよ、れいな」
 きっと、そう言った絵里の、口調のせいだった。単純な正論。だけどそれに、れいなは
心を引っ掻かれずにいられた。
「知ってるよ。よく分かってる。でも憎くて仕方がないんだ、どうしても」
「……絶対、間違ってるって」
「間違ってないはずないって思ってるよ。全部、間違ってる」
「じゃあ、どうして」
「言った通りだよ」れいなは感情を込めないで口にした。「それでも憎い」
 突き放したつもりだった。人は人をこんなふうに憎悪することができ、無機質にそれを
吐き出すことだってできる。暴力の軽さを、絵里に突きつけたのだ。彼女は自分が復讐行
為をその程度に考えていると思ってくれればいい。彼女の胸のうちに湧き上がる感情が恐
怖でも、また軽蔑でも、遠くの世界で起こっていることなのだと認識させればそれでよか
った。事実、決して交わるはずのない二人だったのだから。
235 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:18
「それって、ママとかパパが?」
 絵里が発したのは疑問だった。その表情は読めない。そしてママはともかく、パパには
違和感があった。しかし、そうだね、とれいなは頷く。
「……でも、本当にそれだけ?」
「それだけ。これ以上、何があってほしいわけ?」
 話を切り上げたくなっていた。しゃべりすぎた。そんな小さな後悔がれいなを襲う。誰
かにいきさつを聞かせても、もう危険はない。それでも習性から外れたことに、かすかな
疲労を覚えた。
 いつも絵里は、子供のような言動を取った。そしてそれが可愛い子ぶってだけのもので
はないことは、れいなにも分かり始めていた。何故ならその性質が、常に彼女に都合よく
表れるとは限らなかったから。今もそうだ。彼女は何かを言いたがっていた。しかしそれ
が上手く言葉にならずに、視線はもどかし気に左右し、髪の毛をすく手の動きは乱暴にな
っている。いつ大声を上げて泣き出してもおかしくない。
236 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:19
 しかし、絵里の目はあるところで止まった。地面のかなり低い位置。三十センチ。きっ
と彼女が言い表せなかったものの断片はそこで、心配そうに彼女を見上げていた。野良猫
と少女の視線が交わる。わずかの間、時間を止めたような沈黙が流れた。やがて、彼女の
横顔に少しずつ赤みがさし始める。見えない、無音の形をした意思の疎通。一人と一匹の
間で、そんなものがなされていた。
 それが通り過ぎると、絵里の瞳がれいなを見つめた。何かが映っていた。
「わたしにはまだ、分からないことが多いから……」
 絵里はそれだけを吐き出すと、口を強く結んだ。覚悟のようだった。何かを踏み越える
ための、助走のようだった。
「だから、何かがどうなっても、どうにかできることなんてほとんどなくてさぁ。でも時
々、それがすっごく悲しいって思える瞬間があるの。あるんだ」
 全てが抽象的だった。まとめたはずなのに、絵里の話はいつもながら、それだけではど
ういう意味なのかが理解しづらい。しかしきっと、言葉は内容以外にも伝える手段を持っ
ているのだろう。それを証明しているようでもあった。
237 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:19
「れいなもさぁ、そう思わない?」
「アンタのことならそうだね。その通り。無知を自覚してるとは思わなかった」
「れいなもだよ」と絵里は言った。「れいなもそう。だから、どうしようもないことがあ
って、それをどうにかしようと思ってるんでしょ? でもひょっとしたら、決めつけちゃ
うのはまだ、早いんじゃないかな」
 れいなは首を振った。「そんなことない。あたしは遅すぎた。本当は、もっと早く気づ
かなきゃいけなかった」
「どうして?」
「もっと早く知ってれば、余計なことをウダウダ考えずに済んだ。それを撒き散らさずに
いられたし、もっと早く終わらせることもできた」
「それって、れいながどういうふうに生まれたかってこと?」
 れいなは直接答えず、知らぬ間に握り締めていた拳を解いた。汗をかいていたらしく、
指の隙間から入り込んできた風は冷たい。体温がそこから奪われるようだった。一体、風
というものは何故吹くのだろう。唐突にそんな疑問が浮かんだ。しかしそれもまた、風に
流されるように消える。今はそんなことは関係ない。いかなる理由であっても、煽られた
事実は変わらないのだから。この瞬間も風は吹いている。
「アンタ、あたしの絵を褒めたよね? だけど、あれくらいなら描けるやつなんていくら
でもいるし、価値でいえば全くない。きっと、紙を汚したってことでマイナスになるくら
いだね。そういうことに、かな」
238 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:20
「……れいなはママのことが嫌いなの?」
「もちろん。言ったでしょ、許さないって」
「親子だっていう実感があったのに、それでもダメ?」
「そんなこと、全く関係ない。ううん、余計に思うよ。のたれ死ねばいい」
 その返答を聞いて、絵里は何かが心に突き刺さったような顔をした。れいなはそれをほ
んの少し、憎らしく思う。彼女の幸福な日常生活に考えが至ったからかもしれない。親は
尊敬すべきもの。産んでくれたことを感謝しないといけない。暖かなモラルが、彼女を苦
しめたのだと思った。しかし、それは違った。絵里はいつも、れいなに奇妙な事柄を教え
る。それも、そうしようと考えてのことではなく、ただあるがままに。何故かそうだ。彼
女の行動そのものが、れいなにとっては驚きの連続だった。
 絵里はそれに、ずっと気がついていたのだ。恐らくは胸に秘めたままで。
 言葉には何かが宿る時がある。たとえば、誰かのために飲み込んだもの。同じ誰かのた
めにそれを吐き出す時。咽喉に引っかかるかすれた声が、“言霊”などと呼べる時が、き
っとあるに違いなかった。
「―――やっぱりれいなが許せないって言ってるのって、れいな自身なんだね」
 絵里の心の中は、れいなの想像した形をしていなかった。
239 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:20





240 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:22
 直前までは存在もしなかった考えである。れいなは身体を翻し、男の左脇腹の横を抜け
た。そこは手にした物を、突き刺すはずの箇所だった。数センチ押し出せば、絶命させる
ことのできたはずの箇所だった。しかしそれを実行することなく、スライドするように身
を低く、斜めに動かし、脚に力を込めた。伸びてきた手はきっと、店主のものである。彼
はまだ、何が起こったのか理解していないようだった。目の前でバランスを崩した少女を
支えるつもりだったのだろう。捕まえるという強制的な意思の感じられない動きに、その
ことが見て取れた。
 それを振り払うのと同時だった。極限まで抑圧されていたものが破裂するように、感覚
が甦ってくるのを感じた。街並みは主要なもの以外も姿を取り戻し、ざわめきや、すでに
やもうとしている雨さえそこにはある。
241 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:22
 れいなは脇目も振らずに脚を動かした。ただ、人混みに紛れることだけを考えた。何が
自分を突き動かしたのか、何をしてしまったのか、それは分かっていた。鼓動の高鳴りは
今、急がなければならないという結論だけを反映している。向かうべき場所があった。そ
れを阻止される危険性もある。証明するように背中から、そいつを捕まえろ、という声が
した。今頃はもう、この世からいなくなろうとしているはずだった、目標の声だ。男もど
うして自分が、突如として窮地に立たされたのか、想像もできていないはずである。自分
の勝手な欲望が形になって、文字通り生命を持ち、刃を向けたことなど思い及びはしない
だろう。ただ、そんな男にも理解できることはある。命を狙われた。そのことは単純な事
実で、間違いがない。そして、それはすでに、それだけで万死に値する。怒鳴りの鋭さは
物語っていた。
242 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:22
 騒ぎでできた、無意識的な空間。人々は距離を置いて、少女を見つめている。その伝播
速度はれいなの脚力よりも上で、進む先でひとりでに道ができた。誰かが追いかけてきて
いるかどうかは分からない。小さな動揺の声は周りから聞こえてくるが、それが何に対し
てなのかは知れない。この場には、理由になりそうなものが多すぎる。たとえば、れいな
は未だにナイフを握り締めていた。これもその一因である可能性は高い。
 走ることで狭くなった視界で捉えたのは、曲がり角だった。そこに入り込めば、さすが
に人波が割れてしまうことはないだろう。振り返らなかった。危機感に負ければ、危機は
大きくなる。時間のロスは許されない。
 潜り込めそうだと思った瞬間、遠くで一際高い悲鳴が上がった。すぐにそれが何を起因
としているのかが分かった。やはり、女を力づくで暴行しようとするやつだ。いざという
時に見境がない。身体に衝撃が走り、倒れそうになる。視界が乱暴に揺れる。れいなはそ
れを無理やり持ち上げ、呼吸がおかしいのを自覚しながら、角を曲がった。
 もう、完全に追ってくる様子はなかった。
243 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:23





244 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:26
 心臓が身体中に血液を送る器官なのだと、れいなは意識した。顔が赤くなっているのも
分かったし、鼓動が速いのも分かった。動揺しているのだと分かった。身振りがいつもよ
り大きくなっていると分かった。喋るスピードなんかいつもより全然速かったし、落ち着
かないといけないことも分かっていた。全部、分かっていた。
 分かっていながられいなは、否定の言葉を尽くした。止められなかった。それは酸素が
無くなるまで続き、終えた時には肩で息をする有様だった。息切れ。顔の熱さが全身に回
り、ジットリと汗ばんでいる。気温がこんなに突然跳ね上がることはない。やはり、脳と
身体は繋がっていたようだ。
 聞き終えて絵里はただ、こんなこともあるんだね、と一人ごちた。それがどういう意味
であるのか、説明する代わりに、急に笑顔になった。反射みたいな唐突さ。裏にあるもの
はともかく、れいなにはそれ自体はいつものもののように見えた。れいなと一緒にいる時、
いつもしている馬鹿そのものな笑い顔。
「じゃあ、れいなにいい話してあげる」
 だから、そんな提案を断るなんてことは、思い浮かばなかった。
245 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:26
 絵里は一つ、大きく伸びをした。祈るように手を組み、それを翻して突き出す。ゆっく
りと高度を増し、上昇につれて、込める力も大きくなっているようだった。手のひらが完
全に空を向いた時、動きが止まった。張りつめたベクトルの均衡が取れたような静止。そ
して、身体が震え始めたかと思ったら、吐息と共に小さな声が漏れでて、弾けた。腕は空
を切り、元の場所へと戻ってくる。一連の動作に、儀式めいた照れ隠しみたいなものが潜
んでいるようだった。
 絵里はえへへと笑い、咳払いをわざとらしく、した。
「むかしむかぁーし、あるところに、この世のものとは思えないほどの美少女がいました。
彼女は友達に誘われるまま街に遊びに行き、夜に一人、道に迷ってしまいました。それで
も気丈に暗い中をさまよいましたが、何と、まるでお姫様みたいに悪い男の人に道を塞が
れてしまったのです。それでも世間の風は冷たく、叫び声を上げても、誰もエリザベスを
助けに来てはくれませぇーん」
 彼女はふざけたようなトーンの高さを、そこで抑えた。けれど、コミカルな仕草はその
ままに、司会者がゲストを紹介するように、れいなに向かって両手を突き出す。
「……しかし、そんな中、サッソウと現れた少女がいます」
246 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:27
「あたしだって」れいなは口を挟む気になった。「アンタを助けるつもりなんかじゃなか
った」
 絵里は頷き、続ける。「それでも天才的美少女は嬉しかったのです。同時に、あること
に気がつきました。いつもはウジウジして、初対面の人にはものも言えないのに、その突
然現れた正義の味方に対してだけは、思ったことを口にできます。こうしたいと思ったこ
とを、その通りにすることができたのです。国民的美少女は、新しいことが起こる予感が
して、ワクワクしました。それはもう、夜寝る前に、明日は何が起こるんだろうって待ち
遠しくなるくらい。自分がこんな気持ちになることがあるんだって、驚きました。何だか
彼女といたら、変われそうな気がしました」
「……それは疑わない。あたしにだけ、いきなり馴れ馴れしかったのは。でもあたしには、
とてもアンタが変われたようには思えないんだけど」
 れいなの鋭い指摘に絵里は、うっ、とわざとらしく反応した。漫画の読みすぎのような、
大袈裟な動作。それから、れいなにひどいこと言われたー、とゴローに助け舟を求めた。
しかし、今回ばかりは手懐けたはずの野良猫も愛想を尽かしたのか、その手をすり抜ける
ように身体を動かした。ヨタヨタと二人から三メートルほど離れたところで落ち着き、後
ろ足で頭を掻き始める。しばらく二人は、それを眺めていた。
247 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:27
「それは疑わない」
 沈黙を破ったのは、れいなの口真似をした絵里だった。
「その通り。れいなの言う通り。恥ずかしながら、本当はまだ全然なんだよね。クラスメ
ートにだってちゃんと話せないしさ、知らない相手だとなおさら無理。交番で道訊くこと
だってできないんだよね。でもね、でも、れいなとは大丈夫だった。そんな相手が一人で
もいるなら、これからもそういうことがあるのかもしれないじゃん。だから、れいなはわ
たしの自信なんだよ。れいなといると、人見知り、治るかもしれないと思った。ううん、
それだけじゃない。もっともっと、自分の嫌なところとか全部、変わっていくかもって思
った」
 だからさ、と絵里はいっそう馬鹿みたいに微笑む。「だから、まだ完成なんかさせない
で、一緒に少しずつ変えていこうよ。これからはもっと、楽しいものだけ見るんだって、
そんなふうに過ごしていこう? わたしに自信を教えてくれたれいなが自分を諦めてるな
んて……そんなの変だよ」
248 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:28
 れいなは自分を臆病だと思った。その提案を断る言葉を持ち合わせていなかったから。
それでただ、無言で首を横に振るしかなかったから。その行為がどのようなものであるか、
理解していた。そして、気づいていた。絵里の笑顔の意味。こんな時だからこそ、彼女は
いつものように笑うのだ。
 自分の否定が、目の前にいる少女が身を切る思いで作り出した笑顔を壊すことだと知っ
ていたから、そうすることしかできなかった。
「……どうしても?」
「無理なんだよ。そんなふうには生きていけない」
「決めつけないでよ」
「そうじゃない。知ってるの。自分のことは一番よく知ってる。あたしは……無理なんだ
よ」
 きっと、そこには思惑のすれ違いがあった。"無理"の意味に、二人の間で大きな隔た
りがあった。それはたとえば、経験のない者が発するそれと、熟知した者が発するものよ
うな差。近いようでこの上なく長い距離が存在した。
「分かった。じゃあこれからは、そんなふうにしてみせる」
 しかしながら、片方の思い込みの強さから方向が一致するということもまた、あった。
絵里はもう、笑ってはいなかった。
249 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:28
「れいなが楽しいことを見つけるのが下手だっていうなら、わたしが代わりに探すよ。そ
れで、わたしがれいなにそれを教える。もしかしたら絵そのものに価値がなかったとして
も、それが誰かにとっては大切なものになるかもしれない。そういうものを見つける」
「…………」
「生まれてきてよかったって、わたしがれいなに言わせてみせる」
 どうしていつも、根拠のないことをこんなに力強く言い切れるのだろう。れいなはめま
いのようなものを覚えた。いつかの光景が重なる。母親を無条件で信じていた頃。思い出
したくないとは思わなかった。もう、傷つけて彼女の世界を壊したいとは感じない。認め
る。絵里はかつての自分に似ている。
 それだけに、これから何が起こるかの予測がついた。みるみるうちに絵里の瞳には涙が
溜まり、鼻をすすり始めた。明らかな前兆。それが始まるタイミングまで掴める。そして
れいなはそれを、心から目にしたくないと思った。
 絵里の瞳から雫が零れ落ちる瞬間、れいなは彼女に背中を向けて駆け出した。
「れいな、わたしここで待ってるから!」
 届いてきたものは、完全な涙声に他ならなかった。
「絶対に、いつまでも、ここで待ってるから!」
250 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:29





251 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:31
 長い夢を見ていたような気がした。覚醒したれいなの頭に最初に浮かんだ思い。それは、
ここは何処かに似ているな、というものだった。
 だが、考えがしっかりとした形を持たない。何せこの場には、似ているだなんていうほ
ど、物がないのだ。顔のすぐ横にある切れ目は、地面を四角く切り取ったコールタール。
およそ、転がっている自分の背丈ほどの道幅しかなく、他には電信柱と頼りない街灯だけ。
それしかない。人が通る様子もない。塀とも呼べそうな、コンクリートの壁が道を覆って
いるのみである。
 しばらくして、唐突に答えに行き当たった。れいなは上半身を起こした。身体を壁に預
けるという作業を何とか終えると、ため息を吐く。思考回路の一つの線が繋がった途端、
次々と記憶が蘇った。目の前がチカチカするような情報量。漏らした息の深さは、それを
表していた。あそこだ。ここは、絵里と初めて会ったあの路地に、とてもよく似ている。
 冗談のような話で、何もないところなんか、そっくりだった。迷路の壁のように、視覚
的に人を楽しませようという努力の削がれた小道。何かを期待する気が全く起こらない。
だからあの時、予想もしてなかった。そこに誰かがいて、その人物が力を試すのにちょう
どいい相手だなんて。まして、助けた形になった少女が自分の人生に関わってくるだなん
て、思いもよらなかった。
252 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:32
 二つの場所の類似。それに気がつくことができた要因の一つに、暗闇があった。もう完
全に帳が下りている。もちろん、すでに雨の跡など見受けられない。自然と考えが、どの
くらいの時間こうしていたのかに向きそうになり、しかし、そこには行き着かなかった。
思いが到達した場所は、絵里のことだった。れいなの口から小さな呻き声が零れる。自分
がこんなところで倒れている理由は、意識が戻った瞬間に分かった。始終襲っている痛み
がそれを教えた。ただ、そもそもどうしてそんなことになったのか。それは不思議と勘定
から抜け落ちていて、ようやく思い出したのだ。
「アンタのせいで撃たれちゃったじゃんか……馬鹿アヒル」
 腹部は血塗れで、流れ出たそれは道路のかなりの範囲を汚している。傷口がどのように
なっているのか確かめようとして伸ばした手が、すぐに紅く染まった。だかられいなはそ
れを諦め、静かに空を見上げる。ひどく澄んだ星空だった。
「本当、アンタに会ってから、ヒドイ目の連続だよ」
 呟いた後、そうでもないか。れいなは頭を振った。別に、アンタに会ってからってこと
もないか。
253 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:32
 銃撃されてから、しばらくは動いていられた。もちろん平気ということはなく、走るフ
ォームは崩れ、街並みや人混みが奇妙に揺れた。水に浮かべられた平らな浮き輪の上を走
らされている気分だった。それでもかなりの距離を駆け抜け、人波を掻き分け、ここまで
来ることができた。ナイフはもうない。その間に捨てていた。誰かの手に渡っていない限
り、道端のゴミと化しているだろう。意識を失って倒れていた自分と、それは変わらない。
 一気に表示され、処理が追いつかなかった情報が、ようやく収まるところに収まった。
自分の現状にまで降りてきた、そんな感覚があった。何もかもがクリアに見えて、それで
もって弾き出された取るべき行動は、今のところ、たったの一つだけ。
 れいなは痛みに耐えるために息を止め、身体を捻った。右肩にのみ壁がある状態になり、
跳ね上がった苦痛に、やっぱり声が出た。情けない姿に相応の、情けない声。しかし、こ
れで立ち上がるための体勢は整った。余計なことは一切考えなかった。彼女は右手に全体
重を乗せ、息を吐きながら、一気に重力に逆らう。眠っていた下半身に意思が伝わってい
くのが分かった。その手応えから、上手くいくと思った。思ったけれど、成功しかけた途
端、不意に足から力が抜けた。コールタールが顔の近くにまで戻る。
254 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:33
 それは奇妙な光景に違いなかった。人通りからわずかに外れた場所で少女が一人、立ち
上がることに必死になり、崩れ落ちる。地面にキスをしている。とても隣接するものとし
て相応しくない。しかし形として正しくなくても、それは事実だった。常識外れの事実は、
常に生命の側にある。正しい正しくないは、多分無意味だった。
「っんとに、アンタのせいで……」
 れいなは、絵里にかけられた迷惑を思った。つきまとわれ、ペースを崩され、古傷をえ
ぐられ、連れ回された。それだけではない。全然足りない。計画を狂わし、今朝、家の前
に立っていたのもアイツだ。昔の話をさせたのもアイツで、勝手に涙したのもアイツ。さ
らには失敗したのさえ、拳銃で撃たれたのさえ、アイツのアヒル顔が浮かんだからだった。
この苦痛さえ全部、アイツのせいだ。
 脚を動かすと、小さな石の欠片が地面から剥がれ、ジャリという音を立てた。普段は気
にも留めない、耳に届かないそれが、静寂の中で響いた。やけに、反響した。
 不思議な気分だった。絵里への不平不満はいくらでも出てくる。なのに天秤にかけて、
もらったもののほうが多いように思えたのだった。
255 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:33
 力がある程度、回復しているような気がした。れいなはもう一度、腕に身体を預け、今
度は慎重に立ち上がる。呼吸がおかしかった。咽喉は他人のもののような音を立てていた。
勢いをなくした身体が、途方もなく重かった。しかしながら、何とか立つことができた。
そしてそれならばきっと、歩くこともできる。
 ずいぶん遅い歩き始めだ、とれいなは自嘲的に笑った。ちょうど赤子のそれにも似た覚
束なさがある。しかしその感情は嫌悪とは違った。みっともないのは仕方ないと思えた。
これも全部、アイツのせいだ。それはもしかしたら、当たり前に転がっているものなのか
もしれない。しかし、少なくとも自分の身の回りにはなかった。あんなふうに名前を呼ば
れたのだって、名づけられてから初めてのことだっただろう。増して彼女は、自分がいる、
そのことで自信が持てたというのだ。そんなものを生み出す力が、この身体の中にもあっ
たのだろうか。とてもそうは思えない。だけど、肝心なのはそれが本当かどうかではなか
った。ただ絵里は、そう信じている。
 れいなは脚を動かす。あたしには戻るべきところがある。アイツは待ってると言ったの
だ。それなら、行かなくちゃいけない。こんな自分を待っていると言ってくれて、きっと、
必ず、そうに違いないと思えるもの。それが今のあたしにはある。
256 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:34
 自分の状態がどうであるのかは知れなかった。あったのは男を殺害し、そのことで、も
しくはそれから自分を殺すことのみだった。間逆の行動。この佇まいは明らかな計画外で、
医学的知識もない。感覚が麻痺している。寒気で身体が震えたけれど、気温のせいか、濡
れたまま意識をなくしたせいか、失った大量の血液のせいかすら、分からない。そして何
より、流れ出した血液量からして、もしかしたら長くないかもしれない。結局、分からな
いことだらけだ。
 確かなことは今、一つしかない。少しでも身体を動かすことができる限り、あたしは向
かわなくちゃいけない。そしてもしも、彼女の下へたどり着くことができ、想像しなかっ
た“これから”を生きることが許されているのなら、その時は―――。
257 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:34
 れいなは考えるのをやめ、絶対にそうしてみせるのだと自分に言い聞かせた。そして、
その決意のほどを、言葉にする。そういえばあの馬鹿アヒルに行動を読まれたままだとい
うのも、気に喰わなかった。
「待ってて。今、行くよ……」
 これは嘘にしない。とりあえず、彼女の鼻をへし折ることから始めよう。
「―――絵里」
 血は流れ続け、それは地面に点々と続いた。血痕はやがて暗闇を抜け、ケバケバしいほ
どにネオンのたかれた街へと紛れていく。そこでは誰もが振り返えることをしない。顧み
ることは流れを阻害する。だから今日も変わらずに人が溢れ、交じり合い、一つの生き物
になっていく。勢いを増し、止められない感情が一面を闇で覆うのだ。あらゆる人を飲み
込み、付随する全てを飲み込みながら。
 そんな街の中で、あの日、猫はアヒルと出会った。
258 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:36



259 名前:猫とアヒルのタペストリー 投稿日:2006/01/04(水) 23:37
――― 猫とアヒルのタペストリー 完 ―――
260 名前:  投稿日:2006/01/04(水) 23:42
>>1-9    クッション (いししば)
>>16-30   卒業アルバム (ののあい?)
>>34-50   不思議 (いちごま)
>>54-89   HONEY (ののかお)
>>96-117  猫とアヒルのタペストリー 1
>>119-134 猫とアヒルのタペストリー 2
>>138-151 猫とアヒルのタペストリー 3
>>160-193 猫とアヒルのタペストリー 4
>>199-215 猫とアヒルのタペストリー 5
>>222-259 猫とアヒルのタペストリー 6(田亀)
261 名前:ピアス 投稿日:2006/01/04(水) 23:52
>>219 通りすがりの者さん

ありがとうございます。本当に遅くなりました。
読んでくださって、嬉しかったです。

>>221 名無飼育さん

面白そうなことしますね。
一読者として、楽しみにしていますし、成功を祈ってます。

>> 顎オールスターズさん

削除依頼、手間をかけさせてしまってすみませんでした。
ありがとうございました。お世話になってます。楽しませてもらっています。
262 名前:通りすがりの者 投稿日:2006/01/05(木) 02:41
更新お疲れ様です。
ついに完結ですか、凄く考えさせられるお話でしたね。
また新作があるのでしたら喜んで拝見させていただきます。
お待ちしております。
263 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/18(水) 00:46
完結お疲れ様です。
スッキリとした気分で読み終えることが出来ました。
また作者様の作品が読めることを楽しみにしています。
264 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:33



265 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:34
これだから雪は嫌なんだ。バカヤロウ。死んじまえ。

その言葉を声にしないだけの分別は、藤本美貴にもあった。
走りながらそんなことを口にするやつは、もしかしたらとても不審人物だし、第一、無生物である雪は死なない。
同じくバカヤロウがおかしいことだってわかっていた。どうでもよかったのだ。
何しろそれらをぶつけたい相手にしたって、実際は雪の結晶の塊なんかではないのだから。

ただ、雪が嫌いなことは本当だった。
嫌いな雪が散らつき始めたのは昨日の深夜のことで、
増すばかりの勢いは、一夜にして街を白銀の世界に変えてしまった。
それは誰かを驚かせようとする努力に似ていた。藤本にとって、唐突の出来事として現れた。
面倒臭いことは大嫌いで、だから翌日の天気予報をチェックする習慣なんて、備わっていようはずがない。
朝起きて、やけに寒くて外が静かだなとカーテンを開いたなら、目の前にそんな光景が広がっていたのである。
空高くに置かれたベビーベッドのような空間、ベランダ。
藤本はそこで一人、静かに眉根を寄せたのだった。
266 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:36
都内である限り、何処も突然に雪化粧を施されたはずである。
藤本が今息を切らせているこの辺りも、普段の光景を見たことがないながら、そのはずだった。
雪はこのまま永遠にしてやまないのではないかという勢力でもって、白の道路に白を吹きつけて重ねる。
道路ばかりではなかった。少しでも積もることができそうなところには、例外なく層をなさんとしているらしい。
車外へ飛び出してまだ二十分ほどしか経っていなかったけれど、
藤本の衣服や髪の毛は、すでに白く染め上げられようとしていた。

これだから雪は嫌なんだ。バカヤロウ。死んじまえ。
267 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:36
何度目になるかわからない、文句の反復。今度はほんの少し、つぶやき程度に声になった。
それは誰一人としてすれ違わないことと関係したかもしれない。
目的地は高台にあり、どんなコンディションであろうとそこ目がけて一直線だったので、
自然と裏道めいたところばかりを選んだ具合になっていた。今現在も道幅は狭い。
そんなことも理由になりそうなこの人気のなさは、そして、ぽっかりとしたタイムゾーンでもなさそうだった。
最近では子供も雪の日には外出を控えるのか、足跡のない新雪がそれを証明していた。
その代わり、タイヤの跡だけはどんなところにも平行線を引いている。どんなところであっても、だ。
それで藤本は、天敵をかえって見ないようにするみたいに顔を持ち上げて、高台の建物を睨み続けるのだった。

普段、あたしの目つきが悪いと言ってるやつらは、今のあたしを見てどう思うだろう。
不意に愉快でもないことを考えた。
いつもは決して怒っているわけではないのだ。それどころかアイドルという仕事をしている以上、
直さないといけないなと思うし、直そうと努力したりもしていた。
それは要するに、気を張っていられるかどうかである。
それだけのことなのだ。それだけのことだとわかっているのに、どうしてもそれができない。
番組収録の中でVTRが流れると、魔法が解けたように自分の顔からは笑みが消え、
明けるとモニターにはつまらなそうな怒っているような表情が映し出されるのだった。
十二時過ぎのシンデレラ。まこと無意識とは恐ろしい。
268 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:37
平時でそうなのだから、現状は推して知るべし。今、彼女ははっきりと憤っていた。
しかしその矛先は対象を貫かずに、ずっと、その周りをグルグルと回っている。
決して核心を離れることはなく、しかしながらそれ以上近づくこともない。
地球が太陽の重力に影響されているように、どこへもたどり着かない腹立ちは巡り続けた。

たとえば、うるさいと思っているものなんかが、さっきからある。
音を吸う雪が、唯一吸収しないもの。
藤本はその存在を数年ぶりに――少なくとも東京に出てきてから初めてだ――思い出していた。
それはハッハッハッハッとかなり耳障りで、けれど苦情を言うことも適わない。
実行に移したなら、今度はもしかしなくても不審人物だし、
騒音はもっと悲惨なゼェーゼェーへと見事、変貌を遂げてしまうに違いなかったから。
269 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:38
この状況を打開する策はたった一つだ。もっとも藤本は、とっくにそれを実行に移していたけれど。
数多く存在する生物の中で、人間にだけ許された特権がある。
理性。本心は表に出る感情と、必ずしも一致しなくていい。
つまりは、心の中で好きなだけ毒づくのである。

呼吸がうるさいし、顔が冷たくて痛い。
耳なんか千切れそうで、もっと嫌なのは、鼻が赤くなっているのが自分でもわかること。
あたしはトナカイじゃないんだから夜道を照らす必要なんてないし、だったらじゃあ、笑われるだけだ。
ああもう、こんなふうでも嫁入り前の乙女であるあたしが、どうしてこんな顔で全力疾走しないといけないわけ。
これでさらに鼻水とか出たら、本当最悪。うん、出るよ。ああ、出ますとも、あたしだって。
元々鼻が強くないし、寒さにだって強くない。
日本に住む他の地方の出身者よ、北海道の二重窓と暖房をなめちゃいけない。
道産子が寒さに動じないなんて、そんなの幻想だ。異論対論なんて認めません。
そんなもん、みんなまとめてこの雪の中にでも捨てちまえ。
少なくとも現代、少なくともハタチの藤本美貴さんにとって今は、
耐えられない姿と気温であることに間違いないんだ、この――。
「バカヤロー!」
270 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:38
抑えられていたはずの声が飛び出して、それはちょうど、角を曲がって来た少年に投げつけられた形になった。
走り出してから、初めて出くわした人間だった。

突然の出来事に目を丸くしている男の子。
そして、タイミングのイタズラによって、すっかり不審人物の仲間入りを果たした藤本美貴。
二人は互いのあいだに数秒間、気まずい空気を漂わせて、しかしそれを各々の進む方向へと少しずつ持ち去り、
記憶のどこかへ消してしまうばかりの関係のはずだった。
今ならそれで済んだし、藤本のいつもの行動パターンからすれば、そのはずだった。
271 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:39
しかし彼女は舌を突き出して、アカンべーをする。
突如として現れた女性に、突如として怒鳴られ、突如としてそんな目に遭わされた少年。
彼にトラウマが残らないことを願うばかりである。
それでも今の藤本にとって、相手の気持ちなんて知ったことではなかった。
こうなったら開き直りが肝心。あたしが最高潮にご機嫌斜めの時に行き合った、そっちが悪い。

もしそれが気の毒だというなら、もう一人だけ責任を押しつけられそうな人物がいた。
272 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:39
藤本は再び高台の、元から白い建物に戻した視線を、今度はさらに上へと持ち上げる。
相変わらずの空模様。そこには無数に落ちてくる雪だけがあった。
しかし、どの一欠片にだって照準を定めることはできやしない。
ならばいっそのこと、と彼女は今目に映っている全てにあたりをつける。

これだから雪は嫌なんだ。バカヤロウ。死んじまえ。

何度くり返してみても、やはりそれだけでは収まりがつきそうになかった。
太陽の重力がジリジリ強まっているのを感じた。
地球規模のピンチ。本当は雪も呼吸も鼻も鼻水もどうでもいいのだ。
どうでもよくはないけど、どうでもいい。

だから藤本は、今心に映っている全てなんかにも、ついでにやってみることにする。

全部、ごっちん。後藤真希のせいだっていうなら、それには異論がない。
273 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:40



274 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:41
なるほど、どうやらこの世の中には、本当に才能ってやつが存在するらしい。
藤本がそう考えたのは、初めて後藤のダンスを目の当たりにした時だった。

慌てて周りを見渡したのは、信じたくない気持ちがあったからだろうか。
しかしそこはある一面全部が鏡張りで、残りの壁には手すりのようなポールが付属しているという、
いわゆる普通のダンスレッスン場だった。
とはいえ、その場所に何の変哲がなくともそれは問題ではない。
いつもと違ってほしかったのは、そこにいる女の子たちの表情や動作だった。
しかし彼女たちを取り巻く雰囲気に変化はなく、それならばやっぱりこれは別段今日の彼女の調子が凄まじいとかではなく、
いつも通りの、日常の一部であるらしかった。
275 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:41
それまでストレッチをしていた後藤は、はじめ何気なくリズムを刻み始め、
それが発展して本格的に身体を動かすこととなっていった。
彼女の一番の特徴は、緩急のつけ方にあるようだ。
本人もそれを気に入っているらしく、ストップとゴーを幾度か重ね、そして流れるような動作に移る。
まるで、人間の感情を知り尽くしているようだった。
どう表情をつければ人の心を惹きつけることができるのか、体得しているようだった。
彼女は力むでもない力強さで、それ以上数センチでも行き過ぎてはいけないポイントで動きを止める。
たとえば腕を肩の上で曲げるなんて単純な仕草一つを取っても、彼女は人とは違っていた。
そんなところ、工夫のしようもなさそうなものなのに。
276 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:41
後藤に対する複雑な感情は、元々藤本にあった。
藤本がアイドルになりたいという気持ちを抱えながら学生生活を送っていた頃、その場所には後藤が立っていた。
それもメンバーの一員なんて生易しいものではなく、はっきりと中心で輝きを放っていたのだ。
同年代として、何かを思わないわけがない。

しかし、それも昔の話だ。
彼女を見るのにブラウン管を挟んでいたような時期は過ぎ、直に接するようになってからは、
妙な思いというのはすっかり影を潜めていた。
彼女も普通の女の子だと気づいたからかもしれない。
スポットライトから外れ、メイクを薄くしたならば、少し目の離れた普通のキレイな少女の出来上がり。
その程度のものなのだと思った。
ガッカリもしなければ、その他のどんな感情がよぎることもなかった。
ただそれは、そんな程度のものだったのだと、それだけ思った。
277 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:42
だというのに、何を隠そう彼女は「そんな程度のもの」なんかじゃなかった。

覆ったものを覆されて、藤本の気分はあまりよろしくない。
ラジオ出演時に偶然、話がそこに向かった時もそうだった。
一緒に出ていた娘たちが手放しで後藤の踊りを絶賛する中、彼女は奇妙な葛藤をしていた。
持ち前の批判精神が沈黙するくらいに心惹かれた不覚と、それを認めたくない意地。
さらには嘘を吐きたくないというギザギザのプライドまで参入してきていて、心中は騒然とした戦場と化していた。
結果、何も知らない彼女たちにコメントを求められ、追いつめられた藤本の口をついたのは、こんなふうなものだった。
「……あれは人間じゃない」
278 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:42



279 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:44
今、そこからも時間が流れている。
もう藤本は、後藤を遠くには思っていない。
同時に何処にでも転がってるとも思わなければ、もちろん彼女は化け物ではなく人間である。
普段ぼんやりしたような顔をしていて、だけど突然鋭いっぽいことを言ったりして、
されども考えなしが浮き彫りになったりして、そして舞台では人が変わる。

つまり、後藤真希だった。そうとだけ認識していた。だからこそ、藤本はこうして走っているのだ。

履いてくる靴を間違えたな、とは家を出てすぐに後悔した。
さすがにヒールではないが、底にいくらかの厚みがある。きっとその厚みの分だけ、心に余裕がなかった。
踏みしめる度にそれを眼前に差し出されているようで気に喰わなかったけれど、
藤本は攻撃された格闘家が余裕をアピールするみたいに、あえて鼻で笑ってみせる。
大丈夫。問題ない。この条件下であっても、あたしは転ばずに歩く技術で、平べったい靴の東京モンに負けない自信がある。
だったら問題なんて、何もないんだ。
280 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:45
実態がないので、いくつか思い浮かぶ競争相手の顔。
その「東京モン」の中にはもちろん、後藤も含まれていた。
もしもそんな言葉が生きているとしたなら、彼女は生粋の江戸っ子である。
彼女は藤本と違い、雪が好きだった。ずっと、雪を見つめていた。
それこそ雪ダルマか何かのように、視軸を空に定めたまま動かないことがよくあるみたいだった。
その様子は睨みつける藤本と似てはいたが、意味することに天と地ほどの差が存在した。

彼女がそこまで雪を好きだと知ったのは一年前のことだ。
一度だけ降雪とオフが重なった時、渋る藤本は無理やり街へと連れ出されたことがあった。
理不尽さに文句を言ったけれど、彼女は動物でもなだめるように、自らの意思をなあなあに突き通した。
あの時もこんなふうに一面、雪が積もっていて、そして東京モンである歩き方の下手くそな彼女は、
何度も足を滑らせては転びそうになった。
281 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:46
「ね、だから言ったでしょ。あんまりいいもんじゃないって」
口調が少々得意気になったのはご愛嬌。それくらいの権利はあると、藤本は思う。
「んー、そんなことない」
後藤は自論を曲げることなく、いっそう喜ばしそうだった。
転びそうになったところを支えてもらったにも関わらず、藤本の腕の中で。
「これも楽しみの一つなんだよ、きっと」
楽しみの一つ? 何を言ってんの。そんなわけないじゃん。雪は人間のために降るんじゃないんだから。
今のだって危なかったし、それにそれに。
「……そんなもんかな」
反論は極めて即座に、それにいくつも浮かんだ。
だけど藤本の口からは、恐らくは共感の形をした言葉が漏れるのだった。
「そんなもん、そんなもん」対して後藤の気軽な断言は、歌うようですらある。
「だけどさあ、それで怪我する人もいると思うんだけど」
「それで?」
「雪に滑って転んで、怪我する人」
「ああ、そっちか。そういう人は……あは、まあ、運がなかったんだろうねえ」
「話、違うじゃん」
282 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:46
後藤の話していたことはこの上なく適当だったと、明らかになった。
もしかしたらちゃんと人の話を聞いていなかったんじゃないかという疑惑まで浮上する。
今の会話の中で、そっち以外にどっちがあったのか、誰にだってわかりはしないのだ。

藤本は少しガッカリして、ガッカリしたということは彼女に何かを期待していたのだと、自らのことながら知る。
それはたとえば、嫌悪を引っくり返してくれるような何かかもしれなかった。
かつて自分の思い込みをことごとくはね退けた彼女に、それが不愉快だったくせに、今では。
283 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:48
そのことが何だか恥ずかしいような口惜しいような気持ちになった。だから、だろうか。
「でもさあ、運が悪かったって、それじゃあ済まないことも、ひょっとしたらあるんじゃないの」
何だか無性にイジワルをしてみたくなった。
「たとえば、打ちどころが悪くて、そのまま死んじゃったりとかさ」
後藤は相変わらず雪を見つめている。不可解そうだった。
こんなものが何処から降り始め、そしてどうして白くて柔らかいまま積もるのか。
見極めようとしているような視線だった。いや、それは違った。
「解明しよう」といった、理性的な含みは微塵もない。
ただ動物や子供が初めて見るものを不思議がり、目を丸くしているのとどこか似ている瞳。
その眼差しで雪を見つめていた。

沈黙が長く続き、敬愛なる雪のせいか他に原因があるのか、その沈黙はいつもより静かで緊張を孕んでいたので、
バカなことを言ったなと藤本は後悔する。
そして再び知った。あたしはごっちんがイジワルに困る顔が見たかったんじゃない。
その適当な世界にもう少し触れていたかっただけらしいのだ、と。
ガッカリさせられたはずなのに、それは本当のことらしかった。
何度も同じことをくり返している。
284 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:49
その時だった。ぼやけた声が、不意に隣からした。
「でもさぁ、わっかんないけどさ」
「うん」
「……それって結構、もしかしたら幸せなのかも」
二人して見上げていた空から一人、目を切り、藤本は後藤の横顔を眺める。
いつの間にか彼女は、両手を口元に当てていた。声がくぐもっていたのは、そのせいなのだとわかった。
吐息で手のひらを暖める彼女は、表情の変化に乏しくて、だから言葉が彼女のものであるということは、
指の隙間から漏れた白い息でのみ裏づけられていた。
285 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:49
それ以上聞きたくないと思った。充分だった。何がとかでなく、充分だ。
後藤のその手が赤くて、冷たそうで、小さく見えて、藤本は人前だけれども手を繋ぎたいなと思った。
できることなら手だけではなく、抱きしめて離したくない。

そんなことを考えていると、手は後藤のほうから握られた。
普段ならお互い、人の目があるところでこういうことをするのを嫌うのに、そういう二人なのに、
何故かこの時ばかりはどちらともが逆転したうえで、同じ気持ちになっているようだった。
「きっと、こういうこともあるんだよ」充分だったのに、後藤は言を重ねた。「何が起こるかわかんない。
もしかしたら、いつの日かミキティが雪を好きになる可能性だって、あるかもしれないわけだしさ」
何か言おうとしたけれど、結局藤本の口から声が出ることはなかった。
後藤はといえば、不思議がった目で空を愛でたまま、仮定をいつの間にか断定に切り替えるのだった。
耳馴染んだ、気軽な断言。
「ミキティは絶対にいつか、雪がだーい好きになる」
286 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:50
それからだって、後藤は別に、むやみやたらと転んだりはしなかった。
転んだのは、後藤を乗せた車のほうである。

彼女のマネージャーはきっと、いつものようにカーブに入り、
いつものようにブレーキを踏み、いつものようにハンドルを切った。
それだけで鋼鉄の車体は路上に横たわったのだ。
後部座席に座っていた後藤はどうなったかというと、大好きな雪を見るためにと窓を開けていて、
そこから地面に身体を投げ出されたという話だった。
彼女がその時も不思議そうな目をしていたかどうか、それは定かではない。
287 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:51
以上が藤本にわかっている全てで、知らせる電話をかけてきた事務所も、それは同じことらしい。
後藤が運ばれる救急車から連絡を入れてきたのは、ほぼ無傷だったマネージャーその人だった。
意識を取り戻さない後藤に、満足に会話のキャッチボールもできないくらい狼狽していたそうだ。
要領を得ない語らいから知れたのは、事故が起こったことと向かっている搬送先のみ。
会社や藤本が何より知りたいと思っている、後藤の容体などについては一切の情報を得られず、
つまり結局、何もわからなかった。
288 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:51
是も非も、他のどんなものだってありはしない。
知らせを伝言ゲームみたいに受け、電話を切った藤本の行動は迅速だった。
無言でコートをつかみ、財布を確認してソールの厚い靴を履いたなら、
タクシーに乗り込んで行き先である病院名を告げた。
やがてそのタクシーも、雪による交通網のマヒで動かなくなると、するべきことはただの一つ。
運転手が忠告したように、建物が見えているとはいえ、確かに距離は残っていた。
だけど、時々思い出したように進む車に乗っているより早く着けるところまでは、もう来ているはずだった。
つけ加えて、バカみたいに座っていることは精神衛生上もっとも悪い行為っぽくて、
胃を壊すか、そうでなければ何か、もしくは誰かを壊すかしてしまいそうだった。
そうなる前に駆け出すことにした。病院と空とを、交互に睨みつけながら。

これだから雪は嫌なんだ。バカヤロウ。死んじまえ。
289 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:52



290 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:52
この気候で汗だくの人間を見て、受付の女性は何を思っただろう。
わからないけれどただ、藤本の顔を知っていて、
後藤真希が院内に運び込まれたことを認識していることだけは確かだった。
彼女は余計な言葉を挟まず、ある病室の番号を告げた。
そのことに頭を下げたかどうか、定かではない。
ピンボールが弾かれるようにそこを後にしたからだ。
仮に礼儀を欠いてしまっていて、それが悪印象を残していて、そのことで悪評が立つとするならば、
どうぞ立てばいいと思った。
すでに今日、何人もにそうなっておかしくない対応をとっていた。
今さら一つ増えても、もはやどうってことはない。むしろそうなれ。
天罰をくだせるものなら、くだしてみればいいんだ。くだしてみやがれ。

そして、天罰はいつも、こんなふうにしてくだされる。
藤本はとある一つの事実を忘れていた。雪道よりも危険なものがこの世にはある。
思い出した時には自分がこの先、どんな悲劇的な運命をたどるのか、察知していた。
察知しているなら防げばいいと思うかもしれないが、防げないからこそ天罰であり運命なのである。
数ある危険な路面状態。その中の一つが濡れた靴でいく磨かれた床だった。
ちょうど、病院の廊下のような。
291 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:53
勢いをもっていた身体はバランスを崩すに留まらず、あえなく藤本は、そのまま壁に激突することとなった。
運命。背中を打ったことで一瞬、息が止まった。
視界にちらつくのは星なんて可愛いものではなく、赤い色をした衝撃だ。
痛みは何故か、いつも血の色をしている。
ただし、流血そのものは実際ではないようだった。
打った箇所が切れるようなところじゃないんだから、正常な反応である。どうやら、正常じゃないのは脳だけだった。
意思とは関係なく、冗談みたいにポロポロと落ちていく涙。
何を勘違いしたのか、おかしくなった命令系統は瞳に、涙を流すようにとの電気信号を送ったようだった。
急激に戻った呼吸にその場で咳き込み、うずくまり、知らせを聞いてから初めて――藤本は、少しのあいだ泣いた。
292 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:54
悪評なんて蔓延しても、ちっとも構わなかった。天罰だって甘んじて受けよう。
ちょっとくらいの不幸なら、あたしの身に降りかかったとして、それはそれでよしとしよう。
だって、どうなるわけでもないじゃん。笑っちゃうよ。笑っちゃいますよ。
転んだところで窓を突き破ることもなければ、そのまま投げ出されて、意識を失うこともないんだから。
こんなところに運ばれなくちゃいけない事態になんて全然、陥らないんだから。

藤本はゆっくりと立ち上がると、階段を見つけて病室を目指す。
おのずと視線は彼女に集まったけれど、どうでもいいことだった。
どうでもよくない、許せないことは、もっと別のところにあった。
事故が降りかかった人物についてだった。雪が好きだと言った人にそれが起こったことだった。
なのにどうして、嫌いだと言った自分が、こんなところでのんきに痛がってられるんだ。
やっぱり、やっぱり雪なんて碌なもんじゃないじゃんか。

これだから雪は嫌なんだ。バカヤロウ。死んじまえ。

――死なないで。
293 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:55
病室にネームプレートは出ていなかった。
荒い呼吸に任せてドアを開くと、そこは薄い暗闇だった。
電気が点いていないと白い壁は藍色がかり、室内にある数少ない家具は息を潜め、空気は少しも動かない。
まるで決められたことのようだった。
全てがその場所にそうあることをずっと前から決められていて、
その摂理を誰も侵していないような、そんな静寂がそこに存在していた。
「……ごっちん?」
声はすぐに吸われて、響きをなくす。
開いたドアから差し込む廊下の明かり同様、場に少しの変化も及ぼさなかった。
藤本は震え出しそうになる手や足に気づかないふりをする。
進むしかなさそうだった。息を吸い込んで踏み出せば、自分の立てる物音がやけに大きく感じられた。
人間が普段、こんなにもたくさんの音を撒き散らしていようとは。
唾を飲み込めばのどが鳴るし、足を持ち上げれば筋肉が軋んだ。呼吸や足音は言うまでもない。
いくつもの音を吸い込ませながら、結局静かに張り詰めたままの室内を、藤本は一歩ずつ進んだ。

驚くべきことだった。ベッドには誰もいなかった。
294 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:55
もぬけの殻であるシーツを見下ろしながら、いくつもの事柄が電波障害のように点滅するのを感じた。
思えば、部屋自体がおかしい。個室だとはいえ、見舞い客さえいないのは変なんじゃないだろうか。
藤本は身動き一つできないまま途方に暮れ、その中で、後のほうの疑問には、
もしかしたら自分が一番乗りであるかもしれないという見当をつけた。
一緒に運ばれたらしいマネージャーがいないのは不可解だけれど、知らされた人は普通、自分みたいな行動を取らない。
途中で車が動かなくなったとしても、乗り込んだなら乗り込んだままでいるだろう。
呆れるとまではいかないが、おかしな気分だった。
頭が飽和した時間が続いて、自分がここまでの道のりの結構な距離、走ってきたことすら考えから抜け落ちていたのだ。
部屋の停滞と自分が、一体となっているような錯覚に陥った。
295 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:56
その時ふと、視界に入るものがあった。

全ての思考がシャットダウンしている状況下で、それは唯一動いている。不可思議な光景だった。
一切が時間を止めているのに、白いカーテンだけが風を受けて揺れていた。
けれど、風はそこから吹き込んだりはしていないのだ。
不文律を破らずに、それどころか、その中にはきっと、白い布がはためくことさえ含まれているのだ。
矛盾した情景。それに藤本は、ようやく気がついた。
「……ごっちん?」
もう一度呟くと、その窓に近寄る。のどの渇きのような予感があった。
近づくごとに中庭の様子が明らかになり、欲しがっていたものが明らかになる。
雪ダルマみたいなものがそこにあった。
窓枠に手をかけて外を見渡した時には、もう、はっきり確認できた。
296 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:56



297 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:57
「何してんだよ、こんなところで」
一階まで降りて、声をかけるまで後藤は藤本に気がつかなかった。
そして気がついたら気がついたで、普段と変わらない笑顔を見せるだけだ。
「雪、見てた」
「そんなの、知ってる。さっきごっちんの病室から見えたもん」
「あは、見てるのを見てたの」
「悪いけど今、そんなこと言ってる気分じゃない」
「……心配、かけちゃった?」
 心配かけられましたとも、心配したよとも、藤本には言えない。だからその質問は無視することにした。
「意識不明って聞いたんだけど」
「そうだったみたいだねえ。覚えてないんだけどさ。知ってた? 
普通に寝て起きたみたいな感覚なんだよ、意識失って取り戻すって」
「知らないよ」藤本は言った。「知らない、そんなこと。知ったこっちゃない」
298 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:58
後藤が困ったように笑うので、途端に藤本はまた、怒りのぶつけどころを失う。
実際、それはあらゆる感情がうごめいている中の一つで、突発的に強くなっていただけなのだ。
パニックというのが、一番近かったかもしれない。平静を表面に塗ったパニック。
「マネージャーは?」
訊きたいことが少し的を外れたのは、たぶんそのせいだった。
「電話かけに行ってる。携帯使えないから、たぶんロビーじゃないかな。会わなかった?」
すれ違う人を確認してる余裕なんてありませんでしたとも、藤本には言えない。
黙って視線を外すと、案外広い中庭が、こんもりした新雪に覆われているのが目についた。
ところどころ巨大なキノコみたいになっているのは、植木がしてあったのだろうか。
人間の背丈か、大きくても倍はない程度に見えた。

黙っていると、後藤は初めて申し訳なさそうにした。
「もうちょっとミキティに連絡いくの遅れたら、ビックリさせずに済んだね」
ごめんね、と語尾につけ加えた。驚かせてごめんね。いらない謝罪だった。
謝るなら謝るで、頭を下げてもらわないといけないことは、他にもっとたくさんあるような気がした。
けれど同時に、そのどれをとってみても詫びる必要のないことに思えた。
本当は彼女に、謝らないといけないことなんて、たぶん一つもない。
299 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:59
「正直、何がどうなってるか全然わからない。こうやって話してるのだって不思議なんだよ。
ごっちん、車が倒れて地面に投げ出されたんだよね?」
「ああ、うん、そうらしいね」
そっか、と藤本は思う。当たり前だけど、彼女にその瞬間の記憶はないのだ。
「それで、怪我は」
「この通り」
後藤は、外国人が理解不能の時にするようなジェスチャーをした。
それはどこか、雪が降っていることを確かめる仕草にも似ていた。光景に似合ってなくもなかった。
しかしいくら光景に相応しくとも、それがどうして「大丈夫」を示すのかが、藤本にはわからない。
どちらかといったなら「ダメ」に近い気すら、する。
指摘しようとして、そんなことをしている場合ではないなと逡巡するうちに、後藤は広げた手を腰に戻した。
証明完了と言わんばかりだった。彼女の誇らしげなQ.E.D.。
300 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 22:59
「脳波のチェックとかは、これからしないといけないらしんだけど、どうやら問題ないね。あたしの睨んだところ」
「ごっちんが睨んでも仕方ないし」
「そっかそっか。睨むのはミキティの仕事だもんねえ」
 イタズラに言うので、要望に応え、藤本が目つきを鋭くすると、後藤は「ううう」と怯んだフリをした。
叩かれそうになっている子供みたいに、頭を押さえる。そのくせ、表情は楽し気であるのだ。

その様子を見ていたら、何かが溶けていくのを感じた。今日、ここまでの藤本を突き動かしていたものだ。
本当なら、病人というか怪我人である彼女に忠告しないといけないことは、いっぱいあるはずだった。たとえば。
「そんな人が、病室抜け出していいの?」
 こんなのも、本気で口にしないといけないことだろう。
「えへ。マネージャーは『連絡してくるから寝てろ』って言ってたけどねー」
「ダメじゃん」
「うん、でも、雪が降ってたから」
後藤は空を見つめ、藤本はため息を吐く。こんな時にさえ雪か。理由になってないし、こんな時にさえ。
301 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 23:00
選手宣誓のような気持ちだった。それが不適当なら、大統領演説。
敵にお前は敵だこれからは容赦しないからそのつもりでいろ、と告げる迷いのない敵対宣言。
カメラのフラッシュや群集のどよめきや歓声はなくとも、高らかに発することができる。
「あたしは雪なんて嫌い。大嫌いだよ。今度のことで見たくもなくなった」
何かに対するきっぱりとした決別のようでもあって、その響きを聴き取ったらしい後藤は、
やっぱり困ったように笑う。
それでも迷いは湧き上がらなかった。
間違っていないと、無責任に思えた。

降雪の中での基本姿勢であるように、藤本は空を睨み、後藤は空を見つめていた。
二人して世界から切り離されたみたいだった。現実感が奪われる。
音もなく色彩もなく、あるのはお互いだけ。
その二人も段々と景色に溶けていきそうに立ち尽くしていた。
302 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 23:01
あたしは好きだよ。そう後藤が呟いたのはしばらく経ってからだった。

「寒いとミキティの鼻が赤くなって面白いし、鼻水がだーって出るしね」
「それ、そのまま嫌いなとこ」
藤本の素早い反応がツボに入ったのか、後藤は笑い始め、笑い続け、笑いが止まらなくなる。
いつもながら、彼女は妙なところにツボのある女の子なのだ。
呆れて果てた藤本の目には、笑い転げる彼女とそれを縁取るような白い背景が映っていた。
お腹を抱えたり、足をジタバタさせたり、それでも彼女は常に浮き上がって見えた。
見慣れた光景だ。ともかくとして、そのことだけは悪くない気がしないでもなかった。
下手な茶々を入れたりせず、しばしのあいだ、させたいようにさせとくことにした。
303 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 23:01
笑い終えたのかどうか、曖昧だった。後藤の引きずるような嗚咽は続いていた。
涙目の彼女は、だからそれを、面白い話の続きみたいに口にしたのだ。

「それにね、あたしが無傷でいられたのだって、雪がクッションになったからなんだよ。
目ぇ覚ました時に先生が言ってたんだけどさあ、普通だったらこんなにピンピンしてられないらしいんだ。
それってすごくない? 雪が助けてくれたんだよ」

一つ、藤本の頭に浮かんだことがあった。彼女はもしかして。もしかしたら、もしかして。

「だから、ミキティも嫌いだなんて言わずに、ね? ……そうだ! ほら、いつか言ったじゃん。
ミキティはいつか雪が好きになるって。たぶん、今がその時なんだよ。
うん、そうだそうだ、わかんないけどさ、そうなんだよ」
304 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 23:03
今思いついたことを隠そうともしない口調にわかる。やっぱりそうだ。彼女は何も考えてなんてない。
事故の知らせを聞いて、周りの人間がどんなことを思うのか。あたしがどんな心境でいたのか。
彼女は自分のことなら、自分が平気だったのだからそれでいいと思っているのだ。
ことが無事に済んだのなら、そんなもので誰かや何かを憎んだりしないし、
近くの人にもギスギス憎んでいてほしくない。
勝手で、視野が広いのか狭いのか判断できない、全くもっていつもの後藤真希だった。

だからと言ってはあれだけど、論理が破綻しているところなんか、非常にらしかった。
藤本は唖然としながら当然の道筋をなぞる。
雪に助けられたというけれど、原因を作ったのだって雪だ。
危険に晒しておいて、それを助けたところで、そんなのはじめからないほうがどんなにありがたいことだろう。
だとしたら普通、道理を考えれば、雪はごっちんをひどい目に遭わせたってことになる。
当然、あたしだってそう考える。だけど。
「ね?」
念を押す彼女が、笑ってしまうくらい後藤真希だったので、藤本は頷いた。
305 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 23:04
人間は心変わりをする生き物だというけれど、この気持ちだけは生涯変わらない確信がある。
雪は嫌い。これからだって大嫌い。なくなればいいと、ずっと心の奥底で毒づいていくことだろうと思う。
しかれども。

……でも、最後のところで彼女を救ってくれてありがとう。
雪を好きだと言い、言い続ける彼女をあたしから奪い去らないでくれて、それだけは、本当にありがとう。

こんな嘘くらいで許されることがあるなら、何でもないと思った。
彼女が何度も問うならば、あたしはその数だけ答えよう。嘘を吐こう。
この嘘だけは、一生吐き通したって構わない。見事、吐き通してやる。

頭をなでてくる後藤の手を感じた。その温もりと重さは、安心という言葉に似ていた。
それなのに何故か、また泣きたくなって藤本は子供みたいに、もう一度深く、頷いた。
306 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 23:04



307 名前:フィクション 投稿日:2006/07/19(水) 23:05
――― フィクション 完 ―――
308 名前:  投稿日:2006/07/19(水) 23:09
>>1-9    クッション (いししば)
>>16-30   卒業アルバム (ののあい?)
>>34-50   不思議 (いちごま)
>>54-89   HONEY (ののかお)
>>96-117  猫とアヒルのタペストリー 1
>>119-134 猫とアヒルのタペストリー 2
>>138-151 猫とアヒルのタペストリー 3
>>160-193 猫とアヒルのタペストリー 4
>>199-215 猫とアヒルのタペストリー 5
>>222-259 猫とアヒルのタペストリー 6(田亀)
>>265-307 フィクション(みきごま)
309 名前:ピアス 投稿日:2006/07/19(水) 23:17
>>262 通りすがりの者さん

ありがとうございます。
完結できたことと通りすがりの者さんがレスしてくれていたことは、
無関係ではなかったと思います。
それなのに半年遅れの返事ってどうなの、とは自分でも思います。ごめんなさい。

>>263 名無飼育さん

また書きました。さすがに待っていないでしょうけど(笑
しかも思いっ切り季節ハズレです。
レス嬉しかったです。ありがとうございました。
310 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:08



311 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:09
本日最後の講義が終わるのを見計らったように、美貴からの着信があった。
いつものようにあたしの手が空く頃合いに正確無比で、いつものようにあたしはそれに感心する。
少し早目に切り上げた教授の、その行動すら読んでいたのだろうか。授業時間はまだ残っていた。
「よっちゃん、今日ヒマでしょ」
疑問系を用いらない美貴の物言い。
これは彼女があたしのスケジュールを大方把握しているという事実からではない。
それが事実であることは紛れもないが、初めて会った時、彼女はすでにそうだった。
「ヒマじゃないっすよー、別に」
「はは、そこ、見栄張んなくていいから」
312 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:10
当初、あたしは彼女のこのマメさを意外に感じたものだ。
もっと、全てにおいて時代劇のシナリオのようにサバサバしている印象をもっていた。
お金を貯め込む悪人。虐げられる真っ当に生きる者たち。
そこに主人公が現れ、明らかとなる実態。少しばかり暴力的に懲らしめたなら印籠を。
そんな理路整然が彼女の中に息づいてる気がした。

しかし、いつからか。意外は形を変えた。
どういうカラクリかはわからないけれど、今では電話がかかってこないことのほうが、よっぽど意外だ。
「見栄じゃありませーん。でも、色気もないけどね。バイトで来れなくなった人がいるら
しくてさ、シフトじゃないけど急に行かなくちゃいけなくなった」
「ああ、ビデオ屋?」
「レンタルショップ。その言い方やめてくれる? このご時世、今やDVDが主流だし、何た
って全国チェーンなんだから、全国チェイン」
313 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:11
「どうして全国チェーンが関係あるのかわかんないけどさ」
巻き舌の甲斐なく、美貴は少しだけ不愉快そうな声になった。電波で歪められているはずな
のに、あたしの耳にそれは、割とはっきり届く。
人間、やはり注意しているものには敏感であるようだ。
あたしは今、美貴の機嫌を損ねたくなかった。
「レコード店はレコード店だし、ファミコンはファミコン。とにかく、本当にバイトなんだよね?」
「うん、本当」
嘘だった。
「……あの娘に会うんじゃないよね?」
「違うよ。もう、そんなことあり得ないって」
嘘で、本当だった。美貴もまた、あたしの対応に敏感でいるんだろうか。
だとしたら効果は期待できそうにない。
「向こうからさ、もう会いたくないって言われちゃったんだからさ、あたしがどうするって
こともないんだよね。終わったことだし」
だけど、なるべく軽く聞こえるように気をつけながら、あたしは小さな機械に向けて、言い
訳めいたことを口にする。
314 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:12
そっか、と案の定あんまり信じてなさそうな返事を受けて、じゃあそういうことだから、と電話を切った。
敷地の広い大学なので、こうしてこまめに連絡を取り合わなければ、予定のイレギュラーに対応が利かないのだ。
もっとも今日みたいなことはめったになく、それならばやっぱり所在確認は頻繁でなくても
いいのではなかろうかと思うのだけど、どうやらあたしはグループで少数派だった。
でも、まあ、別段苦じゃないからどうでもいい。そう考えていた。
人に合わせる行い自体は悪いことじゃない。
それが普段のあたしの心の持ちようだったはずだ。普段の。

少しばかり普段から外れたあたしに、美貴からの電話は、ほんのりとした苦だった。
315 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:12



316 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:13
一言でいって、好きじゃないデザインだな、と思った。
黒い縁取りの中はオレンジ懸かった赤で、それは炎の色に似ていた。
そこに四人のシルエットが並ぶ。
ヘルメットのようなものを被り、一様のジャケットを羽織り、まるでどこかの地下組織の
構成員みたいだった。
「どうこれ、格好いいでしょ?」
梨華ちゃんは、まじまじと眺めていたあたしの手からCDアルバムを引き上げ、指先で自分
のほうへ表を向けて笑った。
「イギリスですっごい売れたバンドの、すっごい売れたデビュー作なのよね、これ」
「ふうん」
「……あ、何か気のない返事。いいもん、聴けばわかるもん」
317 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:14
そして、CDを取り出して、プレイヤーにセットした。
円盤がのみ込まれていくのを目にしながら、ジャケットの評価と聴けばわかるは別問題な
んじゃないのと思ったけど、それは黙っておいた。
デジタル表示がREADINGからアルバムの曲数と収録時間に変わり、梨華ちゃんが再生ボタン
を押すと、一瞬の沈黙の後、音が流れ始める。
二度手間だから、はじめから再生ボタンを押せばよかったんじゃないのと思ったけど、やっぱりそれも黙っておいた。
「どう、すごいでしょ?」
「まだ歌が始まったばっかりなんだけど」
「あは、だけどイントロからもう、踊り出したくなるような感じじゃない?」
318 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:15
あいにく、あたしはそこまで音楽に詳しくない。
だけどそれは、梨華ちゃんも同じはずだった。
リズムに合わせて、ほんの気持ち程度に身体を揺らす彼女を、少々不思議な気分で見つめていた。
お互いにフローリングに座っている状態で、音楽だけが流れていた。
さっきまで存在していた隣の部屋の住人の生活音や自動車のエンジン音は今、この空間にひ
とかけらもない。
乾いたようなギターと、明るさを隠しきれないボーカル。
そして、それを嬉しそうに聴いてる愛しい人の、無邪気な姿しかなかった。それを眺めていた。

視線に気づいた彼女は、何よおと、ほんの少しばかり気色悪い照れ隠しを口にして、途中で
力が抜けていくように人の肩を押すという、ほんの少しばかり気色悪い照れ隠しを行動に移した。

あたしはいつの間にか、この曲が嫌いじゃないかもと思い始めていた。
319 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:15



320 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:16
嘘だったにも関わらず、気がつくと足はバイト先のレンタルショップへ。
そして手の中には、ジャケットが好きじゃないと思った、あのアルバムがあった。

そこで我に返った。道に迷ったことに気がついたような唐突さだった。
あれあれ、どうしてあたしはこんなところにいるんだろう。
あたしは今日、何がしたかったんだっけ。
何百ものCDが背中を見せて並んでいる。
その棚と棚のあいだでこれを見つけ出し、手に取ったはずだ。
なかなか複雑な行動に成功しているというのに、一連の行動が夢であったように意識の色彩が薄かった。
頭の中に再び同じ疑問が浮かぶ。どうなっちゃってんの。
321 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:18
とっかかりのない反芻だったので、いつまでもぼんやりした時間を漂うような気がした。
その想像は思考の味覚に麻痺的に甘くて、でも、すぐ裏切られてしまうのだった。
あたしは首を捻り、数秒間の思案の後、行き当たってしまう。
そこはとっても怠惰な終着点。

そうだ、あたしはただ、何もしたくなかったんだ。

何かを考えたり、誰かと話したりといったことを、ただしたくなかった。
だから嘘をついてまで誘いを断ったのだ。
そんな目的だったというのに、ただ頭を空っぽにするなんて単純なことが、今のあたしには難しいらしかった。
322 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:18
ほんの小さなことなのだ。
誰かがマナーを怠り、携帯をサイレントにしてなかった。
それだけのことなのである。そんなことであたしは、何も手につかなくなっている。

仕方なくCDを一枚だけ摘み上げてレジへ行くと、気がついた社員さんに声をかけられた。
あれ吉澤さんどうしたの。いえいえどうもしませんけど。そっか家が近いんだ。ええだか
ら普通に借りに。学校帰りかあ。そうなんですよ直帰です。あはは直帰の意味違うから。
えええ本当ですか。

感情の二重写しのような会話。
やっぱり今日のあたしは、ここ最近のあたしは、本格的におかしい。
323 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:19
そのアルバムを聴きたくなくなって、どのくらい経つだろう。
ニ、三ヶ月くらい。正確な数字は、意識して考えないようにしてた。
縛られて生きるなんて冗談じゃない。
あたしはあたしらしく、後ろを振り返ったりせず、ただ未来に目を向けて進むのだ。
美貴にも言った。もう終わったこと。だったらもう、関係のないことなのだ。

自己矛盾のようなものを感じて、ため息をつく。
だったら、家に着くなりCDをかけるこの行動は何。
聴きたくなかったはずなのに、ふとしたきっかけで、今度は聴かずにいられなくなってるのはどうして。
思い悩むことが嫌いなあたしは、そうだそうだ、と即座にそれらしい回答をでっち上げる。
そもそも聴きたい聴きたくないは気分の問題で、このCDをあたしは気に入ってたんだ。
これは紛れもない事実で、だから、関係ないのだ。
梨華ちゃんがどうとかと、これは全く関係のない行動なのだ。
324 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:20
きっと今日、文明の利器はあたしの敵だった。
着メロなんて生やさしいものじゃない。着うた。
あの時あの部屋で初めて聴いた、そのものが教室に鳴り響いた。
瞬間、心拍数が上がるのを自覚できた。耳と心臓が直接に繋がっているような、感覚の粟立ち。
しかも悪いことに持ち主である男の子はうたた寝していたようで、カバンの中の携帯を止
めるまで、しばらくそれは続いたのだった。

関係なくともきっと、とあたしは思う。きっと今日、文明の利器はあたしの敵だった。
325 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:20



326 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:21
講義が終わると電話が鳴り、それはやはり美貴からで、中庭の時計の下、そこにあるベンチ
に来るようにとの指令が下された。
行動を把握されているあたしに、つける嘘の数はそう多くない。
了解を告げて校舎から出ると、空は笑えるくらい青かった。

ジョークのような光景の中、ベンチにはいつもの面子が顔を揃えているのが見えた。
一年の時、やたら人気のない講義を取ってしまった、いわゆる変わり者の集団だ。
アメリカ帰りのアヤカに、おやじくさい里田まい、そしてサバサバしているようでマメな藤本美貴。
サークルでもないのにあたしたちは、ヒマな時はこうして集まった。
シーソーみたいな単純な形でなく、あちこち足りなかったり長すぎたりしながら、気が合った。
「悪いねー、待たせちゃったみたいで」
主役の登場。そんなニュアンスを含ませて手を上げると、多様な反応が返ってくる。
中で一番冷たかったのは、美貴の物言いだ。
「別に、よっちゃんだから待ってたわけじゃないし」
「嘘だあ。あたしだからでしょ? わかってるわかってる、照れてるんだよね、ミキティは。
本当ごめんね、こんなにステキなレディたちを待たしてしまうなんて」
327 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:21
この芝居がかった言動にまいとアヤカは好意的で、何それー、と手を叩きながら笑った。
これを、あたしは場を盛り上げようとたまにやる。
評判はいつもなかなか上々で、美貴に対してもそれは例外ではなかった。そのはずだ。
だけど、経験はあくまで過去の積み重ねであって、未来を表すとは限らないことを、あたしは
学習するはめになる。
「何か変だよ、よっちゃん」
「何か? えっ、何かって何?」
「いや、わかんないけどさぁ、今、何かがおかしいなって思った」
「それ、わっけわかんねえ。どっちかといったら、たぶんミキティの言ってることのほうが変だから」
328 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:22
確かに、と端で聞いてる二人は頷く。
あたしは「ねえ、そうだよねえ」と笑いを大きくすることでより一層観客を味方につけようとし
て、美貴はまいっかと視線をあたしから切った。全然どうでもよくなさそうに。
その表情に気づかないふりをするあたしは、この気づかないふりを完遂すべく、言葉が滞らない
ことに気をつけながら二人に笑みを投げて、いつものように立ち振る舞う。
美貴の顔を見ないようにするのが普段通りかどうかは、わからなかった。
「……で、今日はどうするって?」
「久しぶりにあそこ行こっか、って話になって」
まいがぶっきらぼうな調子で、勝手に色んなものを省略すると、アヤカがそれがどういう意味で
あるのか、日本語に翻訳してくれる。
本来は立場が逆であるべき関係。
日本語よりも英語のほうが得意であるらしいアヤカの負担は、不当に重い。
「ほら、あの、"花花緑緑"ってお店。前までよく行ってたけど、最近行かなかったでしょ。久し
ぶりにあそこのマンゴープリンが食べたいなあって、ね?」
329 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:23
同意を求められたまいは、自分が説明したように、そうそうその通りと威勢がいい。
「よっちゃんが嫌なら、やめるけどさ」
美貴が言い、あたしがその瞳を見つめる。
事情の知らないあとの二人は、これを単なる親しき仲の礼儀だと捉えているみたいで、店にある
他のメニューの見当に入った。
反対意見が出るとは、露ほどにも思っていないのだ。だからあたしも。
「もちろんいいっすよー。甘いもの苦手だけどさぁ、あそこのはおいしいもん」
その空気を壊さないように口にした。

美貴は窺うみたいにして、だけど無表情のままにあたしの顔に視軸を定めて、あたしは、んっ? 
と眉を上げ、目を見開く。
どうかしたの。そんなところに傷跡なんて、かけらもないよ。そういうふうに。
330 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:24
やがて美貴は大きく息を吐き、同時に顎を上下に細かく、動かした。
「……まあ、よっちゃんがそう言うんならいいんだけどさ」
「そういえばあそこにさあ」
美貴が言い終わると、というより、少しかぶさるようにアヤカの声が割り込んだ。
おそらくまいとの会話の延長線上で、誰ともつかないみんなに言ったのだった。
「すっごい可愛い店員さんいたよね。きれいなんだけど、しゃべり出すとアニメみたいな高い声しててさぁ」
「いたいた!」と返すのはやっぱりまいだった。「表参道とか行くときれいな娘多いけど、あれは
ちょっと際立ってたね。その気になればタレントとかになれそうなくらい」
「何か、プロっぽかったよね。ミスしないとかそういうことじゃなくて、心からこの仕事に誇りも
ってます、みたいな。ああ、この人、このお店と仕事が大好きなんだなあって思った」
「そんな感じあったね。まだいるかな、あの人。いるよね。あの雰囲気じゃ」
「いないよ」
口を挟んだのは美貴だった。そのことに、あたしは失敗した、と思った。
「もういない、あの人。辞めちゃったみたい」
「へえ、ミキティあれからあのお店、行ったんだ」
331 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:24
まいの疑問に、美貴は頷いた。それはたぶん、嘘のはずだった。
「まあね。その時にはもう、いなくなってた」
美貴に、あたし自身に、何でもないと示すなら、その言葉はあたしが言わないといけなかったのだ。
いや、実際はもっと、具体的な本当のことを話すべきだった。気軽に。世間話の一つとして。
いやー、実はあたし、あの店員さんと付き合ってたんだ、短いあいだ。
でも、もう終わっちゃっててえ、いや、笑っちゃうんだけどもう終わっちゃってんだよね。あはは。
何なら笑いのためにありもしないオチでも作って、そう言うべきだったのだ。

だけどどうやら、あたしにはまだ、その話を気軽にも世間話の一つとしても話せないみたいだった。
どうやら、そういうことらしかった。
332 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:25



333 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:25
梨華ちゃんとあたしが、単なる店員とお客の関係でなくなったのは、渋谷の駅前でのことだった。
地元の友達と待ち合わせをしていたあたしは、その時、退屈をしていた。
友達はバイト先から直接来ることになっていて、あたしの大学の時間割と、それは折り合いが悪かったのだ。
一時間も早く着いてしまって、この時間をどうしたものかと花壇の縁に腰掛けていた。
「あの、もしかして……」
降ってきた甲高い声に顔を上げると、不安気な笑顔があった。
「あぁ、あの、"ハナハナミドリミドリ"の」
あたしが言うと、不安は弾けて、彼女はただの笑顔となる。
「一応、"ファーファーリューリュー"って読みます。よく言われますけど」
「あー、そんな感じでした」
「そんな感じなんです」
334 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:26
お店の仕事に愛情はもっていても、それを相手に強制しない人なんだと思った。
少なくとも、深く立ち入っていない人間には、合わせてくれる。ちょっと意外だった。
プリンを運んできてくれる時に数度、軽く言葉を交わしたことはあったけれど、制服を着
ていない彼女はいつもと雰囲気が違う。
もっと真面目さに一辺倒な人かと思っていた。
「でも、あたしと違って、店員さんは記憶力がいいんですね」
「……?」
「お客さんの顔、一人一人まで覚えてるなんて」
何となしに言ったことだったので、その後の反応には虚を突かれたような心地がした。
「え、ええ、そうです。そうなんです。記憶力だけはよくって。だから学生の時も暗記も
のだけは得意で……あ、でも、そうでもなかったような」
顔こそ赤らめなかったものの、彼女は明らかにシドロモドロになった。
335 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:27
「あはは、あの、どっちなんですかぁ」
「あの得意なんですけど、それが勉強に活きなかったというか、本当はそう得意でもない
というか、いつもそれで失敗してるというか……」
聞けば聞くほどシドロモドロだ。これは面白い。
声はあんなふうでも、容姿からして、もっと何というか、取り乱すことなんてめったにし
なくなった人だという印象をもっていた。特に、こういった面では。
「あの、もし時間があったらでいいんですけど」それに嘘が苦手そうなのも好感だ。「あた
し今、時間空いて困っちゃってるんですよね、実は。だから本当にもしよかったらなんです
けど、友達が来るまで、そのへんで話し相手になってもらえないですか」
336 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:27
自分でも思う。ずいぶん図々しい提案だ。
だけど妙な予感があった。この人ならこの無茶な要求を快諾してくれるんじゃないかということ。
わかってくれてるのではないか。あたしが今、結構本気で一緒に話をしたいと思ってこれを告げていること。
そしてあたしは、さらに身勝手にも考える。
もしかしたら。もしかしたらこの人も、あたしと同じように不思議な気持ちでこの瞬間を送
っていてくれたり、するんじゃないだろうか。

とりあえず一つ、あたしのデタラメが正しかったことははっきりとする。
彼女は本当にゆっくりした速度で頷き、はい大丈夫です、と言った。
あたしは立ち上がり、埃を払った。残りの予感も当たってるといいなと思った。
でも今はまず、ゆっくりと話をしたい。限られた時間だけど、その許す限り。
337 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:28
「じゃあ、石川さん、行きましょうか」
意識もしないような、軽く発した言葉だった。だからこそ、こぼれてしまったのだ。

彼女は何故か恥ずかしそうに、嬉しそうに笑った。今度は、目に見えて赤面していた。
「……知ってたんですね」
「え?」
「名前、知っててくれたんですね」
それっきりうつむくので、今度はこっちがシドロモドロになりそうになる。
338 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:28



339 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:29
最初に「おかしいね」と言ったのはアヤカで、「そう?」なんて笑っていたまいもやがて、
「やっぱりおかしい」と声をひそめた。二人は空になったプリンのガラスのカップに、他
人には言えない秘密を漏らすように口にする。
よっちゃんがどこかおかしい。
「おかしくなんて、ずえんずえんないですけどー?」
酔っ払ってんのか、あんたは。美貴が一蹴して、あたしも自分で同じ気持ちだった。
お茶で酔うなんて話、聞いたことがないけども。
「つれないなぁ、藤本さんちの美貴ちゃんは」
「そんな変なテンションについていけるわけないじゃん。あたしじゃなくても無理」
「でも、そんなよっちゃんさんも素敵でしょ」
「イタいよ」
「とかいって、本当はドキミキしちゃってるんじゃないの」
「イタい」
340 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:30
ちぇ、と普段声に出す人を見たことのない言葉で、スネたふりをしてみる。
そのことで、もう一つイタいという評価を頂戴した。これで三つ目だ。

この店の中で、梨華ちゃんとそれらしい会話をしたことはなかった。
仕事中は仕事のことだけを考えていたい。
そう口にする彼女にはやっぱり、妙に生真面目なところがあった。
そんなところも変わっていて面白かったし、異論はなかった。梨華ちゃんがそうしたいなら
それに合わせるのは、嫌なことではなかった。
「ねえ、よっちゃん」
だから、人のことをイタいイタいと、好きなように言ってくれる彼女があたしたちの関係を
知ったのは、しばらく経ってからのことだった。
「そんなふうに無理してテンション上げて、疲れないの」
341 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:31
訊かれたから答えた。そんな単純な理屈があたしの中にあって、そう告げると美貴は笑った。
普通は、誰かと付き合ったら、友達には自分から言うもんだよ。
さらに変わってると断定されて、不本意ながら、誰かさんと同じようにあたしにも変人のレ
ッテルが貼られたのだった。
どうしてかあたしに恋人ができたことを見抜いた彼女は、どうしてかそのあとに涙をこぼした。
別に変な意味はないからねと彼女はあたしの胸に顔をうずめ、あたしはそうだよねと間抜け
なことを返す。
例の大学のベンチでのことだ。
実際、次の日から美貴はいつも通りの雰囲気を漂わせていた。
「無理なんて、してないけど」
「やっぱりここに来るべきじゃなかったんだよ、よっちゃんは」
342 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:32
だけどさっき、あたしの単純な理屈は崩れた。
わざわざ言わなかっただけだと主張するならば、美貴に助け舟を出してもらった場面は、流れ
として説明しなきゃいけないところだった。
だけど、あたしは言わなかった。言えなかった。

自分のせいで、彼女は大好きだったこの店を辞めたのだと。
343 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:32
「……そうかもね」
認めるのは怖くて、だけど不思議と心地よかった。
それまで対戦相手だと身構えていたものが、本当は自分には手も足も出ない大きな存在だった
んだと、気づくことに似ていた。
あたしの負け。失敗。認めながら、ため息をつく。
「ちょっと、やりすぎた?」
「完全に」
美貴の言葉は冷たくて温かい。
ブレないでいてくれることが、あたしにはありがたかった。
それはもしかしたら、とんでもなく身勝手な感情なのかもしれない。
けれどとにかく。ありがたかった。
「もっとうまくやれるつもりだったんだけどな」
「空元気を?」
「ううん、それだけじゃなくて、全部」
344 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:33
美貴はわかったふりもわからないという素振りもしなかった。
ただ無表情のまま、あたしの言葉を見つめていた。
「もっと、立ち振る舞いも楽しませるのも楽しむのも、全部。生活ってやつがさ、梨華ちゃんが
いなくなったって、もっとうまくできるっていうか、やってやるって思ってた」
「…………」
みんなが沈黙していた。
いきなりの展開でとまどい、訊きたいことが山積みであろうまいやアヤカも、口を挟まないでいてくれた。
他のテーブルの話し声が、店内に流れるストリングスと溶け合っている。
不思議なほど心穏やかで、不思議なほど決意が固まっていく思いの中に、あたしはいた。
「……だけど、ダメだったみたい」
「めずらしいね、よっちゃんがそういうこと言うなんて」
345 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:34
「ダメ」という言葉を遣ったのは、梨華ちゃんだった。
梨華ちゃんがダメになったのは、付き合い出してしばらくしてのことだ。
生真面目なところのある彼女は、自分に厳しく、そして自分一人で結論づけてしまった。
梨華ちゃんは前日まで全くそういう様子を見せず、別れはある日突然、告げられた。
そういう時、あたしはいつも同じ行動をとる。
「めずらしいことばっかりだよ」
後悔なんか、したことなかった。
欲しいものが手に入らないなら、それはこれまで、仕方のないことだった。
自分の意見を押し留めることを、できないなんてことはなかった。
「何か変だね、よっちゃん」
人をいつかのように変人呼ばわりして、美貴は寂しそうに笑う。
「さっきまで、元気そうなふりして元気なかったくせして、今度はネガティブなこと言いながら、
何ていうかすごい、迫力感じる」
「あたし、ウジウジしてた?」
「ウジウジはしてなかったけど、ウジウジしてた」
346 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:34
あたしと美貴はにらめっこで引き分けたみたいになって、「じゃあ、あたし、行くね」と美貴に
告げると、「頑張ってこいよ」と彼女は返した。
それを見ながらあたしは思う。やっぱりきっと、美貴の中には時代劇が存在する。
視線を移し、まいとアヤカにはごめんと言った。色々、本当に色々ごめん。
すると二人は、「よっちゃんなら大丈夫」「あたしたちがついてるから」と無責任な応援をする。
事情なんて何もわかってないのに、あたしは知らせる勇気もなかったのに。
無責任で、無条件だ。
347 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:35
席を立つと、背中に羽根が生えた気分だった。
こんな感覚、最近はずっとなかった。空気のかたまりを引きずっているように過ごしていた。
今、それは完全に元から店内にあるものと溶け合い、何処かに消え失せた。
軽くなった身体でテーブルのあいだをすり抜け、扉を開けて店を出る。
その瞬間、もう一度自分が座っていた席を振り返った。
親友たちは手を振って応えてくれる。
結果がどうあったとして、彼女たちには知らせることになるだろうなと思った。
もしかしたらあたしはこれから、グチを人に聞かせる人間なんかに、なるかもしれない。
格好悪くても、そうなっちゃうかもしれなかった。

歩道を真剣なスピードで走る。背中にはまだ羽根があった。
348 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:35



349 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:36
梨華ちゃんはあの日、あたしを思い出すものを捨てると言った。
やらないといけないことができなくなったから。それはもう失格だから。ダメになっちゃったから。
彼女はどうしようもないくらい泣いた。
きっと、自分の意思ではどうしようもないくらい。
そして、こんなはずじゃなかったんだけど、と口にした。
その言葉の意味するところは、おそらく二つあって、一つは彼女と別れてからのあたしと同じよう
なことで、二つ目は別れ際の態度についてだった。
実際、梨華ちゃんはその話を切り出した時、涙だけは避けようとしてのか、妙にこわばった顔をしていた。
それが失敗に終わったことも、あたしと一緒にいることと無関係ではないと考えている節があった。
どうしたんだろう、よっすぃといるといつもこう。
そんなことをしても焼け石に水だろうに、涙を拭いながら謝られた。
ごめんね、こんなはずじゃなかったんだけど。
350 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:38
あの時のままの表情だった。血相を変えた梨華ちゃんがあたしを見下ろす。
あたしはあたしで、膝に手を突き、肩で息をしている有様だった。
だから目を合わせていることもままならず、むしろ彼女の足元や影を主体に眺めているような状態。
背中に見えない羽根があろうと、人力であることは変わらない。
ここまで走ってきて、階段を駆け上がり、そのまま呼び鈴を押したのだ。
これで平然としてたら、たぶん本当の天使だ。

言うべきいくつもの事柄が浮かんだ。
どれもこれも、一刻も早く彼女に告げたい。
覚えたての子供のように、その行動を急き立てる感情の弾みがあった。
裏腹に子供がもち得ない緊張感も存在する。
だけどとにかく、酸素が足りなかった。疲れは感じない。けれどまともな呼吸ができない。
もどかしいことに満足な言葉を話せるようになるまで、もう少し時間が必要みたいだった。
351 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:38
内心にそのことを確認すると、気持ちが少し落ち着きをみせる。
似ていた。バレーボールのサーブを打つ時。
中学時代、本気でそれに取り組んでいた時期が、あたしにはあった。
集中の連続の中で、連続させるために、瞬間的にインターバルを入れる。
それは"判断"の言葉そのものだった。
力を入れても仕方のない時は、入れない。譲れないものがあるなら、やれることをやるんだ。
そうすることで周りに目がいくようになる。
指示に立ち上がる監督、チームメイトの疲労と気迫、手元でバウンドさせたボールのメーカ、その印刷の色。
次の集中の前に、視野が広がることがあった。
352 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:38
それは音の形をしていた。
あたしはその時になって彼女の後ろの音に気がついた。
耳なじんだ音だ。このドアの向こうのあの部屋で初めて聴いて、あたしがここ最近、聴き返さずには
いられなくなっている音だ。
乾いたギター。陽気な歌声。それがこのドアの向こうのあの部屋で鳴っている。
353 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:39
思わず顔を持ち上げ、緩んだあたしの口角に気づいた梨華ちゃんが、何かを言おうとする気配があった。
あたしは古くなった二酸化炭素の塊を吐き出し、その口唇を見つめる。
愛しい人の口から、あの日途切れてしまって以来の、新しい声が生まれるのを待った。
「どうして……。もう会わないようにしようって言ったじゃない」
伝えたいことが、たくさんあった。
でも何よりも先にまず、あたしはこの娘に謝らないといけない。
「ごめん」
354 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:40
ねえ、梨華ちゃん。
あたしは今にも泣き出しそうな彼女を見つめながら思う。思い続ける。
梨華ちゃんはもしかしたら知らないのかな。
想いって、片一方に偏ってるとは限らないって。
自分と同じくらい、相手が抑えられない気持ちを抱えてるかもしれないって。
「もう、ダメなの。わたし、よっすぃといたら嫉妬ばかりしてる。みきてぃとか、他の誰かと楽しそう
に話してるの見るだけで、つらいくらい悲しくなっちゃうの。こんな自分が嫌だし、だけどどうしよう
もなくなっちゃうの」
「……ごめんね、梨華ちゃん」
「こんなんじゃみんなダメになっちゃう。わたしも、よっすぃも。だからもう会わないようにしようっ
て話し合って、よっすぃも納得してくれたじゃない。なのに、どうして来るのよぉ……」
355 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:41
梨華ちゃんだけじゃない。あたしも気づいてなかった。
あの時はそれが梨華ちゃんのためになるならって思ったんだ。
だけど、ごめん。あたしはそこまで大人じゃなかった。
そんなことに気がついちゃったんだよ、ごめんね。
「うん、言ったね。確かにそう言った」
ねえ、梨華ちゃん。
この三ヶ月間、あたしは今までの経験にないことばかりしてたんだ。
知らないことだらけで、それがこんなにも怖いことだって、今までかけらも想像しなかった。
梨華ちゃんはあたしよりも先にそれを知って、あたしも結局それから逃れることができなかったんだ。
やろうとしたけど、無理だったんだよ。
どうやらあたしたちはまだ、あたしたちでいることに不慣れで、もしかしたら同じことをくり返すかもしれない。
それどころか、ますます傷つけ合うことになる可能性もある。
だけど梨華ちゃん、それでも。
限られているかもしれない時間を、みっともなく押し広げていることができないかな。
お互いが落ち着きをみせるまで、もう少しだけ、一緒に揺らいでいられないかな。

譲れないものを譲らないことは、あたしにとって少し傲慢に感じて、勇気のいることだった。
でも、このことで謝るのはこれで終わりにしようと、そう思った。そう、決めた。
「……ごめん、だけどそんな約束、破りに来たんだよ」
356 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:41



357 名前:鍵メロディー 投稿日:2006/11/24(金) 22:42
――― 鍵メロディー 完 ―――
358 名前: 投稿日:2006/11/24(金) 22:54
>>1-9    クッション (いししば)       >>96-117  猫とアヒルのタペストリー 1
>>16-30   卒業アルバム (ののあい?)  >>119-134 猫とアヒルのタペストリー 2
>>34-50   不思議 (いちごま)        >>138-151 猫とアヒルのタペストリー 3
>>54-89   HONEY (ののかお)      >>160-193 猫とアヒルのタペストリー 4
>>265-307 フィクション(みきごま)      >>199-215 猫とアヒルのタペストリー 5
>>311-357 鍵メロディー(いしよしみき)   >>222-259 猫とアヒルのタペストリー 6(田亀)
359 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/01/12(金) 08:26
ラストすごく良かった
360 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/02/13(火) 20:03
>>359同意。なんてかっこいい女なんだ。
361 名前:ピアス 投稿日:2007/04/19(木) 21:53
>>359 名無飼育さん

ありがとうございます。「すごく」が嬉しかったです(笑
もしかしたらなんとなく誉めてくれただけじゃないのかも、って思えて。
これ、企画のテーマが「約束」だった時に出そうかと思ったものでした。

>>360 名無飼育さん

吉澤さんにそのセリフを言わせたいと思ったことから書いた話だったので、
気に入ってもらえて嬉しいです。吉澤さんはこの話と関係なしに格好いいです(笑
次の、企画のテーマが「光」だった時に出そうと思ったものでした。
362 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 21:54



363 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 21:56
校門によりかかっているあたしに気づいた絵里は、手を振りながら足を速めた。
一年くらい前、街で偶然、一方的に見かけた時は茶色く短かった髪が、
昔のような黒髪に変わっている。長さもあの頃に近い。
「久しぶりっちゃね、絵里」
笑顔を作ってそう言った。記憶が甦るのは嬉しいことじゃない。
「れいなこそ、久しぶり」
絵里の笑顔は本当らしかった。らしいだけで本当かどうかはわからない。
わかるのは、久しぶりっていうのが事実ということだけ。
絵里の表情までよめるくらいなら、あたしたちはたぶん、親友になんかならなかっただろう。
364 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 21:57
「ごめん、いきなりあんな電話かけて」
あたしが形式的に謝ると、絵里はふるふると首を横に振る。
「全然。驚いたけど、嬉しかった」
「嬉しい?」
「うん、久しぶりに会えるんだと思ってぇ……嬉しかった」
絵里はいつも笑顔。人から緊張感を奪うような笑顔。どんな時でも。
三年前の今日、友達として最後に会ったその時でさえそうだった。
365 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 21:57
「電話でも言ったけん、ここが取り壊されるって聞いて」
「うん」
「その前に絵里と、ここで話そうと思って」
「エイプリルフールを選んで?」
絵里の言葉に、絵里もあたしも苦笑する。
わざと遠回りしないと、とても触れられることのできない話題というものが、この世の中には存在するのだ。
「そうっちゃね。絵里の日」
ひっどーいと絵里はだらしのない顔のまま苦情を訴え、スネるような真似をしてみせた。
時間が一瞬、戻ったような感覚に襲われる。その仕草でさえ絵里は、本当に変わらない。
「じゃあ、行こっか」
あたしは身長より少し高い門のてっぺんに手をかけ、腕の力でよじ登る。絵里もジャンプして飛びついた。
黒いスライド式の校門。その上で脚を校内側に投げ出して座り、顔を見合わせて合図すると、一緒になって飛び降りた。
あたしたちの卒業と同時に廃校になった中学校。失くした時間を取り戻すために。
366 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 21:58



367 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 21:58
絵里には一つ、圧倒的な個性があった。それを才能と呼んでいいのか知らない。
社会的に望まれない場合、それに誉めるような言葉を与えちゃいけないことになっている。
ただ、あの頃のあたしたちにとって、それは紛れもなく才能だった。
そしてその才能がある限り、どんなことだってできるんじゃないかと、あたしたちは信じていた。
「田中さん、あなた」
担任の飯田先生は、今思えば熱心な人だった。
「この前、わざわざ自宅にまで伺って忠告したわよね? 約束してくれたわよね?」
でもあたしときたら、そういう人を裏切ることをなんとも感じてなかった。
どちらかといえば、うちまで来るなんてウザイ先生だなと思った。
早く帰ってくれればいいのにな、なんて思ったりした。
だから適当な口約束をして、それをいとも簡単に破ったのだ。
飯田先生が怒るのも、当然といえばあまりに当然。
「遅刻、これ以上したら出席日数が足りないって言ったじゃない! 
もうあと二週間で終わりだから、みんなと一緒に進級できるようにって!」

大人が怒ったら黙らないといけない。沈黙が教室に巣を張った。
何しろ飯田先生は本気で怒っているのがありありと窺えるのだ。
そのことをみっともないと、どうやら思わない人だった。
その緊迫した沈黙が、数秒続いてから。
368 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 21:59
「……ごめんなさい」
謝ったのはあたしではなかった。

その日は偶然、同じタイミングで遅刻してきた娘がいた。
特に会話したこともなく、だからといって別々に教室に入るのも変なので、
それであたしへの説教を共に受けなくてはいけなくなってしまった、不運な娘だ。
「わたし今日、たまたま田中さんと一緒だったんです。
そうしたら、途中で苦しそうにしてるおばあさんがいて、病院まで付き添ってたんです。だから……」

あたしは呆気にとられて彼女を見る。圧倒的だった。
何を言っているんだろうという感情じゃない。人を信じさせる何かがそこにはあった。
魔法というより、どこか魔力みたいなもの。
本当はなんの関係もないと知っているあたしにさえ、
そんなことをしたんじゃないかと思わせるような真実の響きがそこにはあり、真剣な表情がそこには存在した。
369 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:00
あたしがそんな状態なのだ。
黒板の前に立たされているあたしたちはクラスメートの視線にも耐えなければならなかったのだけど、
その中の誰だって彼女を疑えるわけがなかった。それは当然、先生だって。
「……ごめんなさい。疑って悪かったわ」
「あの」
口を挟もうとしたあたしを、飯田先生は遮った。
「もう何も言わなくていいの。不当に問いつめられてもそれを言い訳にしないなんて、ダメなのは私のほうね。
色メガネであなたのことを見てたのかもしれない。本当にごめんなさい。もう席に着いていいわよ」

話を切り上げたいのが口調からわかった。
生徒の前だから威厳を保とうとしていたけれど、先生は今にも泣き出しそうだった。
手にとるように窺えた。心から感動しているし、自分を責めている。
あたしは席に座る瞬間にそれを引き起こした少女を一瞥し、彼女はあたしに向かい、
バレないようにウインクを投げてきた。両目つむってしまう、下手クソなウインク。
ヘラヘラしたいつもの表情に、戻っていた。
370 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:01
あたしは結局その後、補習を受けることになった。
それで一回の遅刻分の出席日数は不問とされた。
不登校児が出席しなくても学年を上がれるみたいに、なんらかの配慮を飯田先生が施してくれた結果だと、今は思う。
でも、その時はそれよりも、もう。

あたしは天才的なウソツキに出会ったのだという、その興奮にばかり胸を高鳴らせていた。
なんなん、こいつ。そんなことってあると。だけど、絶対。完全に。

亀井絵里は、嘘をつく才能をもっていた。
371 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:01



372 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:02
「ねえ、ここなつかしいね」
絵里は特徴ある八重歯を覗かせた。
「中二の、あいだかあ。一年間、ほとんどここで過ごしよったもんね」
あたしが応えると、絵里は一年間かあと口の中でつぶやいた。
きっとあたしと同じような感想をもっているのだと、なんとなくわかる。
あたしたちは親友として、中学二年生からの二年間、同じ時間を生きたのだ。
たとえ、それが誰かにとって茶番に付き合う程度の気持ちだったとしても、その時間の共有は本当にあった。

プールと体育館のあいだにある1、5メートルほどの細い通路。
夏になってもほとんど使われないし、夏以外はなおさら人の気配がなかったここで、あたしたちはよく集まった。
何をしていたか、今は思い出せないたくさんのことをした。
授業をサボったり、あたしは生まれて初めてタバコを吸ってみたりした。
そういう、くだらなくてかけがえのないことを、ここでしていたはずだ。
373 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:02
「楽しいことばっかりだったね」
絵里は急に強くなった風に、髪を押さえた。
「へえ、絵里もそうだったんだ」
「ちょっとそれ、どういう意味ぃ〜」
絵里は怒ったふりを、怒ってないことを示す笑顔を振りまきながらする。
「深い意味はないっちゃけどね。もしかしたら、つまんなかったのかと思ってた」
「……そんなことないよ」
あたしは絵里の瞳を見つめる。瞳に変化はない。
「そんなことない。れいなと友達になって、それまで知らなかったこといっぱいして、楽しかった。
わたしほら、あれだったじゃん」
「真面目?」
「っていうか、暗かったっていうかぁ。つまんなかったんだ、本当は。そういう生活」
そう言って、なつかし気な顔であたしたちが過ごした一年間の影をなぞる。
あたしは絵里に色々なことを教えた。その度に絵里は驚きの表情を浮かべた。
それから決まって、嬉しそうに憶えたての行動を実践してみせた。

だけど、それもどこまで本気だったかわからない。

あとになって突きつけられたこと。親友だと思っていたのはあたしたち「二人」だけだった。
なんといってもその頃、絵里の嘘は誰にも見破ることができなかったのだ。
374 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:03



375 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:04
さゆは、この場所で、その鍵をあたしたちにかざした。
それはもう、誉めてほしくて仕方ないというこれ以上ない得意顔で。
「え、じゃあ……」
「そう、これでわたしたちだけが行けるの!」
あたしが言いよどむと、さゆは自分で勝手にあとを引き継いだ。
だけど、確かにそれくらいの価値はある発想と行動力だった。
「本当? 今からでも?」
絵里もその興奮に引き上げられて、感情が昂ぶっているように言った。
「もちろんもちろん、もちのろーん! だからさ、すぐにでも移動しない?」
「いいね! それいい! ね、れいなもそう思うでしょ?」

異論なんて、あろうはずがない。無言で立ち上がって走り出す。
それを合図に競争でもするように速くなる脚を、誰も止められなかった。
運動の苦手なさゆが、一番の功績者なのに遅れた。
待ってよーと息切れした声を出すさゆのため、ほんの少し速度を緩めるけど、追いつくとまた引き離しにかかる。
さゆも諦めかけたような笑い顔で、あたしと絵里は絶妙なコンビネーションを駆使してスピードを上げ下げした。
それは、いつもそこに集まっていた三人が、そこに集まった最後となった瞬間でもあった。
376 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:04
手柄を立てたさゆが鍵を挿し込み、屋上の扉が開いた。
立ち入り禁止。だけどその鍵を見つけてきて、さゆはこっそりスペアキーを作ったのである。
そのおかげで、屋上はあたしたち三人だけのものとなった。
「さあ、遠慮せずにどんどん誉めて誉めて」
さゆが言うので、あたしたちはこの時ばかりはその要求に応える。
「さすがさゆっちゃね。可愛いだけじゃなかと」
「絵里、こんなこと全然思いつかなかったよー。さゆ頭いいー。可愛いー」
とってつけたような「可愛い」には理由があって、さゆは自分が世界で一番可愛いと信じて疑わない女の子だったのだ。
それこそ、誰からも愛される自信に満ちているような。
それは大概の場合、大ボラでもなかった。
さゆはあっけらかんとしているし、人から憎まれることなんて、ほとんどなかったに違いない。
傷を負ったことのない子供のような心をもっていた。
ならば。喜ばすために語尾に「可愛い」ととってつけるくらいの労力、
さゆのために費やすことはなんでもないことなのだ。

「だよねだよねー」
さゆは柵をむんずとつかんで、下界に目を落とした。
嬉しそうだし、風が心地よさそうだった。新しい秘密基地の旗揚げ式のように、三人並んだ。
どういう気持ちだったのだろう。あたしは事件の直後、考えたものだ。
それから約一年後、同じ屋上の給水塔で首を吊った時、どんな気持ちの変化がさゆの心を襲ったのだろう。
そもそもさゆは、本当に自分で死ぬことを選んだんだろうか。

初めて立った時誇らし気にしたその場所に、さゆはどんな気持ちでいたんだろう。
377 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:05



378 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:06
階段を昇る。あの日とは違いゆっくりと、あの日とは違い二人で。
「そういえば、れいなあ」
「ん?」
「あの男の子とどうなった?」
二段先のペースで歩いていた絵里が、それを維持してあたしを振り返った。
「あの男の子……」
あたしはしばらく、本当に心当たりがなく、それから卒業の時期に付き合ってた相手のことだと思い至る。
「ああ、あんなのとっくに別れとー。もう、高校入ってすぐ」
「…………」
「性格の不一致ってやつ? 意外と細かいこと言うんやもん」
絵里はヘラヘラとしたままで、だけど妙に寂しそうな顔をした。
「……そっか。そんなもんだよね。でもできれば、
二人が将来結婚するまで続いてくれたりしたらいいな、なんて考えてたんだよね」
絵里の瞳を見つめる。どうやらこの意見は嘘ではないらしい。
やっぱりこの娘は、何を思い巡らせているかわからない。
「だって、あの時、あたしたちまだ中学生だよ?」
「うん。でも、まあ本人たちの勝手だけど、他人の勝手としてはそう思ってた」
これも本音。あたしはちょっと不安になる。
会っていなかったこの年月のあいだに、絵里のクセは変わってしまったのではないか。
379 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:07
そんな会話を交わしながら、あたしたちはあたしたちの使っていた教室に足を踏み入れた。
書いた憶えのある落書きが黒板にそのまま残っている。もちろん、さゆが書いたものも。
今日より一日前の日付け。日直の欄に並ぶ三人の名前。
もしかしたらこの落書きの中の一つは、さゆが生涯最期にこの世に記したものかもしれない。
「絵里、あれから嘘、バレたことある?」
おそるおそる、でもそうとは気取られないように尋ねた。うまくできたと思った。
絵里は口唇を尖らせて、首を横に振る。っていうかぁ、と口にした。
「高校に入ってから、そんなに嘘つかなくなった。れいなもさゆもいないしね」
これも本当。クセを修正していなければ。
だけどもはや、どれを信じていいのかわからなくなってくる。
絵里の浮かべている笑顔はだらしなくて、それが恐ろしい。無邪気に見えることが、何より残酷だ。
いつか、それを嫌というほど味わった。
380 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:07
「そうっちゃね。絵里の嘘はほとんど、れいなのためにあったから」
あたしが万引きをして店を出たところで店員に捕まった時、絵里は嘘をつく。
必ず口にする。あたしの友達は絶対にそんなことしません。
絵里の嘘に触れた相手は、次第に自信を失っていく。
確かにその目で現場を押さえたにも関わらず、
もしかしたら自分が間違っていたのではないかと、そっちを疑うようになる。
天性。絵里と一緒に行動していて、カバンの中まで調べられたことは一度だってなかった。
他のどんな軽犯罪でも同じだ。大小含めれば、何十回と似たような場面を体験した。

――だから、わかる。

初めて対面する相手が見破れるはずはないけれど、
ある時あたしはたった一つだけ、絵里の嘘のクセを見つけた。
嘘を吐き出す瞬間。嘘をつくのだと決意したその刹那、
絵里の瞳は覚醒したようにキラリと光を湛える。言葉それから現れるのだ。
何度となく隣で、一つの才能を見続けたから見つけられたことだ。

「卒業まで、楽しいことばっかりだったね」あたしは万感の念をこめて息を吐き出す。「卒業までは、本当に……」
381 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:08



382 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:08
さゆから電話が入ったのは、卒業して一、二週間した頃だった。
あたしたちの卒業式は同時に廃校式でもあって、
使われなくなった校舎に入り込んでみないか、というのがその誘いの趣旨だった。
あたしは軽いノリで承諾して、それはこれまでと変わらない気がしていた。
卒業して学校が別々になったって、親友たちとはこうして会うことになるんだろうと考えていた。

集まると、手始めに落書きをした。
黒板にはクラスで書いたものが元々あって、それを乱暴に消して三人だけで書き直した。
3月31日。日直、田中れいな、道重さゆみ、亀井絵里。
敷地の何処でも自由に使えるっていうのに、あたしたちは教室の中で過ごした。
あれほど抜け出したがった正方形の部屋に、制約がなくなればいるのもいいと感じた。
それが不思議だと、あたしたちは笑った。
383 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:09
妙だなと思ったのが10分経ったくらいで、それが探そうに変わったのは約30分が経過した頃だった。
さゆがお手洗いに行ってくると言って教室を出てから、それだけの時間が流れた。
さゆへの電話は繋がらない。あたしと絵里は同じ階にある女子トイレを覗いてみて、
いないとわかると手分けして探すことにした。
見つけたら携帯を鳴らすと決めて。

あたしは半分より下の階を、さゆの名前を呼びながら回った。
お手洗いに行くといって消えたこともあって、まずトイレへ。それから一つ一つ教室を。
そんなふうに持ち場を全て点検し終えてなお、さゆは何処からも姿を現さなかった。
「全然おらんちゃけど、そっちは?」
絵里と顔を合わせると、あたしはそう尋ねた。
その前に携帯で連絡をとって、見つかってないと知っていたので、なんの期待もこめずに。
意外なことが起こったのは、その時だった。
絵里の返答が意外だったのではない。それはやっぱり予想通りのものだった。

「ううん、見つからなかった」
意外なのは、そう口にする絵里の瞳が一瞬光ったこと。
384 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:09
「本当に? ……よく探さなかったとか」
「そんなことない。全部見て回ったけど、何処にもいない。
だからたぶんさゆ、帰っちゃったんだよ。それしか考えられない」
「え、でも……」
「だから、わたしたちも帰ろう? ね、れいな」
そう言い切られると、あたしには返す言葉がなかった。
絵里の嘘にクセがあるなんてことは本人にも他の誰にもしゃべったことがなかったし、
この場でそれをもち出して問いつめるのも違うと思った。
何かあったのかもしれない。あったのだろう。
でも、その何かが取り返しのつかないものだとは、これっぽっちも想像しなかった。
その夜、さゆのママからさゆがまだ帰って来てないと電話がかかってきた時も、それほど心配しなかった。
大きな出来事はテレビの中でしか起こらないものなのだと、あたしはなんとなく思っていたのかもしれない。
385 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:10
その知らせは、翌日。4月1日の朝早く、そんなあたしに届いた。

エイプリルフールの嘘かと思いたかった。
だけど、実際の生活はそんなことを許してはくれない。疑いもないほどさゆの死は片づけられていく。
あたしたちはその直前まで一緒に遊んでいた友達として、現場検証に立ち会わされた。
もちろん屋上にはもう、さゆの遺体はなかった。

遺書が見つからなかったにも関わらずあたしたちが疑われなかったのは、
争った形跡がなかったのと、屋上の鍵が閉まっていたことも大きい。
状況からしてさゆは前もって作っていたスペアキーを使って屋上へ出て、
外側から施錠して首を吊ったのだと判断された。
さゆは自らいなくなり、そして、絵里とあたしが一緒にいる時に連絡がとれなくなった。
さゆにどんな思惑があったのかは謎だけれど、そうやって命を捨てたのだと結論づけられていった。
386 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:11
「ねえ、れいな」
絵里が突然、ぽつりとつぶやいたのは、その確認作業から解放されてすぐ。
校門へ向かうゲタ箱の脇でのことだった。
「もうそろそろいいよね、この遊び」
「えっ、なんが?」
「こうやってバカみたいなことに付き合うの、わたしもうやめにするね」
思わず絵里の顔を見つめる。いつもと変わらない表情のままだった。
ニヘラとした、真剣さなんかどこにもないんじゃないかというような顔つき。

「……それって、どういう意味なん?」
口にしながら、恐怖と怒りが少しずつ背中から忍び寄ってくるのを感じた。
いつもそこでそういう形をしていたものが、本当は全然違ったものだった。
自分が錯覚していただけで、それは心に入り込むための、ただの仮面だった。
心のどこかで誰でもダマせる才能に対してその可能性を感じていたのか、一瞬で覚ったのだった。
絵里にはそれができる。それも笑顔で。
幽霊なんかとは質の違う、より具体的で、より得体の知れない恐ろしさだった。
そういう思いが入り込んで、恐怖と怒りは混ぜこぜになる。
それはやがて心の中で屈辱となり、あたしは顔を上げることができなくなった。
387 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:11
「ごめんね、もう飽きちゃった。れいなからいろんなこと教わって楽しかったけど、
今は全部手に入れたし、もうさ、いらないかなって。だから、会うのはこれで最後にしよ?」
疑問形をしながら、それは断定だった。普段のように媚びを含んだ、一切の感情の昂ぶりもない声色。
切り捨てられたのだとわかった。天才的なウソツキに相応しい、鮮やかなまでの幕の引き方だ。

顔を上げられないままのあたしを振り返ることなく、絵里は校門を出ていった。
それでもあたしはいつまでもそうしていた。顔を上げられないまま、立ち尽くしていた。
その時からずっとずっと、今でもまだ。
388 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:11



389 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:12
あの事件以来、当然のことながら屋上は特に念入りに閉鎖された。
鍵がかけられ、その鍵は誰が保管しているのかわからない。
知っている限り唯一のスペアキーはさゆが身に着けたまま持っていってしまった。
現実的にいえば、警察か学校関係者かさゆの家族の手元に、遺品としてあるに違いない。

あたしは教室から持ち出した、壊れた椅子の短いパイプでガラスを割った。
スライド式のアルミのドアで、上半分が透明なガラスになっている。
その鍵が設置されているあたりに小さな穴を開け、手を突っ込んで外側から鍵を解いた。
390 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:12
「ここに来るの、あの時以来だね」
絵里が国境なんかでするように、ジャンプして屋上への境を越えた。
まだ肌寒い春の風が自由に行き交っていた。
捜査のために置かれていたいくつもの道具が、きれいさっぱりなくなっている。
まるで、何事もなかったように。

本当になんにもなかったらよかったのに。あたしはあれからの日々を考える。
どうしようもなく、胸が不快な熱を帯びてくる。
391 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:13
親友に裏切られたあたしは、それどころか親友だと思っていたものがそうではなかったのだと突きつけられた
それからのあたしは、散々な生活を送くることになった。
誰も信用できなかったし、だから誰からも信用されなかった。
人と関係が築けそうになると、絵里のあの笑顔が甦るのだ。
嘘しかないあの笑顔。それを厭わない笑顔。
脳裡に焼きついて人と深く関われなくなったあたしは高校を中退し、
そのうち人生なんかどうなってもいいと思うようになった。どうなっても構わない。
「ねえ、絵里」
でも、絶対に許せない。あたしをそうさせた絵里が楽しそうにしてるなんて。
「さゆは本当に、ここで自殺したのかな」
392 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:13



393 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:13
あれから、何度も考えた。
もしかしたら。さゆと携帯が繋がらなくなったのは、
絵里がなんらかの嘘をついてさゆとそういう約束をいただけなんじゃないか。
あたしが下の階を探してるあいだ、絵里は職員室で本当の鍵を手にして、
それからさゆと待ち合わせた屋上に出向き、それで……。

どういう意図でそれがなされたのかわからない。
でも、あたしに絵里の意図が読めたことなんてないのだ。
そのあとにあたしを突如切ったことだって、どういうつもりなのか想像もつかない。
だけど、もし絵里がさゆを手にかけたとして、その二つは似ている気がする。
動機がないのだとしたら、なおさら。
394 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:14
「絵里はさゆが何処にもいなかったって言ったっちゃけど、本当にそうだった? 
もしさゆが給水塔で首を吊ってたんなら、ドアの前から見えんかった? 
あそこからじゃ見にくいかもしれんけど、普段なら気づかんのもわかるけど、
さゆがいないって探してる時に、本当にそれがわからんかった?」

絵里はしばらく黙り込んだあと。
「そういう……話だと思ってた」特に力んだ様子もなくそう答えた。
「れいなから電話がきた時、校舎の取り壊しが決まったからそこで話そうって言われた時、
ああそういう話をしないといけないんだなって、覚悟してた」
「覚悟? 覚悟しないといけんことがあるってことっちゃよね、それ」
思わず詰問口調になったあたしに、絵里は口元だけで笑った。
「何から話したらいいんだろ」
395 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:14
「さゆがいなかったって言ったこと」あたしは確信をもって言葉を吐き出す。「あれ、嘘っちゃやろ?」
「鋭いね、れいな」
「長い付き合いだったからね」
 絵里は少し照れたように、落ち着かない様子をみせた。
「そうだね。長い時間、一緒にいたもんね。でも、初めて嘘、見破られたぁ」
「どうしてそんな嘘ついたと? 絵里はあの時、さゆと何を話したと? 
さゆは……さゆは本当は自殺じゃなくて、本当は」

絵里が。そう言おうとしたら、絵里はスタスタと歩き始めて、そのまま景色を見下ろせる柵まで止まらなかった。
腰ぐらいの高さ。追いかけると絵里は、そこから上半身をのり出して校庭を眺めた。
396 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:15
「初めてここに来た時、さゆもこんなふうにしてたよね」
「しとったね」
「あの時のさゆ、楽しそうだった。ここで死のうって決めた時、そんなこと思い出したりしたのかな」
いつか自分もそんなことを考えたことが甦った。思っていたので返事が遅れた。
あたしの返答を待たず、絵里はあたしに向き直って言った。
「わたしはあの時、さゆに会えなかった。たぶん、わたしたちから離れてからすぐ、さゆは死んだんだと思う。
確かにあそこからさゆが首を吊ってるのは見えたんだ」

絵里は肩に下げていたカバンをあさって手紙を二通、取り出した。
「これ読んで。あれかられいなに出そうと思って書いたんだけど、そうしないほうがいいと思ってやめといた。
でも、今ならきっと、読んでもいいと思うんだ」
397 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:15
決断と行動は同時だった。手紙を持った絵里の手があたしに近づいてきた。
あたしは受け取った瞬間、その手首をつかむ。
驚いた表情の絵里。それも一秒にも満たない時間だった。
あたしは絵里の身体を引き寄せると、力を込めて柵の向こうへ押し出した。
背中が地面と水平になり、頭の角度がそれより下がると、引っ張られるように絵里の身体は滑り始めた。
バク宙でもするように絵里は視界から消え、さゆがあの時眺めていた校庭へと落ちていった。

――残念だったね、絵里。

あたしは興奮から荒くなった呼吸を吐き出し、誰もいない空間に座り込んだ。
あの時みたいにあたしのことなんか、簡単にダマせると思った? だけどね、光ってたよ。
あの日のさゆのことしゃべり始めた絵里の瞳、光ってたんだよ。
398 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:16
笑い出したい気分だった。ついにあたしは絵里を出し抜いたのだ。さゆの仇もとることができた。
最後の最後で勝ったのだと思った。もうこれ以上、望むことはない。警察に捕まるならそれでもいい。
そうなって悲しむ人なんていない。そういう人生に追い込んだ元凶をやっつけたのだ。
これでようやく。思った。これでようやく、あの日から上げることもできなくなった顔を上げて生きていくことができる。

絵里がどんな嘘をつこうとたくらんでいたのか、確かめようと思った。
もう揺るがない。そこにあるのは嘘の抜け殻にすぎない。
もうそれを真実であるかのように変えてみせる天才はいないのだ。読んでも、笑えさえする気がした。
だけど、その想像は当たらない。
二通の手紙のうち、どちらから読もうかと品定めを始めた瞬間。

――れいなと絵里へ。

手が止まった。
399 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:17
さゆの字だった。急激に上がる心拍数の勢いのまま、封筒から便箋を抜く。
そこにはごく短い文章が申し訳程度に書かれているだけだった。

――れいなとあの人が付き合ってるって知って、どうしても悲しくて仕方ありません。ごめんね、二人とも。さゆみ

さゆの遺書。疑いようもなかった。さゆは自殺だった。自らの意思で命を絶ったのだ。
どういうことなのか理解できなかった。耳鳴りがした。めまいがした。
混乱した頭のまま、もう一通のほうの手紙を手に取った。
今度は間違いなく絵里の文字。絵里があたしへ向けたものだった。

――さゆの遺書、あのドアの前に置かれてたの。わたしとれいな宛てになってたんだけど、誰にも見せなかった。
そうしたほうがいいと思って。でもね、勘違いしないでね。さゆは誰のことも憎んでなんかなかったんだよ。
悲しかっただけなんだよ。だから、鍵を屋上側から閉めて、それから首を吊ったんだと思う。

そして、その手紙の最後はこう結ばれていた。

――できれば、れいなと友達に戻りたいです。だからこの手紙を書きました。
400 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:18
読み終えた瞬間、どうしてこの手紙が投函されなかったのかを悟った。
どうして絵里がさゆの遺書を持ち去ったか。それを警察にさえ見せなかったか。全てわかった。
絵里があの日、嘘をついてまで守ろうとしていたものは、絵里自身ではなかった。

身体が震えた。座ってさえいられないほどに身体がフラついてくる。
この感覚は前にも経験がある。絵里に切り捨てられた三年前の今日。嘘をついても許される日。
だけど、あの時とは比べものにならない絶望感があたしに襲いかかる。

絵里は天才的なウソツキだった。けれど、あたしやさゆにそれを使ったことはきっと、一度だってなかったのだ。
あたしを守るため、さゆの死後に二度、初めてあたしに対して嘘をついた。それは、親友だから。
ダマそうと思えばダマせる才能をもっていながら、あたしたちにそれを向けなかった。
それどころかさゆが死を選んだ理由があたしにあると知ると、そのことからあたしを遠ざけるために、
そのただ一人残った親友との関係を断絶さえ、した。

この三年間絵里は、全てを呑み込むことで、あたしを守り続けてくれていたのだ。

その場にうずくまったあたしは、独りではなかったこと、
本当に独りになってしまったことを悟った。自らの手で失くしてしまったものを思った。
同時にさっき、絵里の瞳に光ったものの正体を思い、それが頬を伝うのを感じていた。
401 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:19



402 名前:君はあの瞳で嘘をつく 投稿日:2007/04/19(木) 22:20
――― 君はあの瞳で嘘をつく 完 ―――
403 名前: 投稿日:2007/04/19(木) 22:26
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404 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/20(金) 00:41
や、マジで悲しくなっちゃたな
405 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/20(金) 19:23
>404 …本当に。真面目にズシンときた。
406 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/20(金) 20:44
更新お疲れ様です
思わず泣きました…
407 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/25(水) 22:48
これが小説で良かった
完全に入り込んで読んでて最後にそう思った

>>359はなんとなく誉めたわけじゃなく、本気ですごくと付けました
408 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/06(日) 15:14
自己保全
409 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/01/19(土) 08:30
待ってます
410 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/05/06(火) 14:46
まだまだ待ちます
411 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/10/10(金) 16:42
作者さんが自己保全してくれてるし、
自分はまだ待ちますよ
412 名前:名無飼育さん 投稿日:2009/03/29(日) 23:27
待ってる

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