燃え立ちて男 〜俺と保田の本能寺〜(仮題)
- 1 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:05
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〜背表紙より〜
織田信長が生きていた! 保田から突拍子もない与太話を聞かされた《俺》は、
そのせいで突然のトラブルに巻き込まれる。狙われたのは《俺》の命か、保田の美貌か。
逃亡を始めた矢先、《俺》は飯田のSOSを受けて向った先で真弓という子と出会い、
二人で真相を探り始める。敵の目的は何か、そして敵が隠そうとしている秘密とは。
稚拙な描写と未熟な構想、筆力に乏しい駄文家が飼育初上陸。乞わないご期待!
- 2 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:05
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A-1
電話の呼び出し音が二回、三回と頭の中を走った。天井には闇だけがある。まだ夜だ。窓
のカーテンがぼんやりと明るいが、これは街路灯から漏れたものだろう。人類や生命を育む
太陽のものにしてはどこか白々しく無機質。夜の街はいつも偽りに溢れている。
呼び出し音がさらに続く。八回も鳴ればたとえ叩き起こされなくても目は覚める。頭が通常
モードに切り替わる。同時に腹立たしさを覚える。枕元の時計を見ると深夜の二時、それを
軽く回ったところ。間違い電話でないとすれば、相手がどういうつもりであろうと、確実に安眠
という領域への嫌がらせだ。
布団を出て電話に向う。受話器を取り、二秒、三秒と、手に持ったまま、ようやく耳に受話
器を持って行く。
もしもし、もしもし、と確認するような女の声。名乗らなくても声の主はわかる。保田圭だ。
「何の用だ」
「あ、ホムちゃん? あたし、わかる?」
その呼び名はやめろと何度もいっているが、ここでそれをいっても仕方がない。いうことは
他に山ほどある。
「深夜に電話をかけてくるような非常識な知り合いは一人しかいない」
「あははは。あたしも寝てるとは思ったんだけどさあ、でもこれは今すぐにでも耳に入れてお
くべきだと思って。朝まで絶対待てないもん。もうすんごいびっくりするから」
「たしかにおまえが深夜に電話してきただけじゃ、今や驚くには価しない」
「だから本当にびっくりするんだってば。あのね、あのね、何だと思う?」
今すぐにでも耳に入れておくべきといいながら、じらすところはさすがに保田だ。こいつには
普通の女には真似できないような特技が山ほどある。履歴書はさぞかし文字でいっぱいだろ
う。
- 3 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:06
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「おまえが結婚するとかいう話なら驚いてもいい」
「そうじゃなくて」
「カレシでもできたか。それも一応驚くに価する」
「もう、だからなんであたしのことなのよ。そうじゃなくて、びっくりするような新事実なのよ。も
のすごい大発見なんだから。歴史が一気に塗り変わるくらいの新事実よ!」
保田が俺に電話をかけてきたくらいだから、それが歴史談義に関係するということは声を
聞いた瞬間からわかっている。
保田と出会ったのは半年ほど前、出版会社が企画した郷土史ツアーのバスの中だった。
社会科の教員らしい三十代の男性もいたが、ほとんど老人ばかりの参加者の中で、若者は
俺と保田の二人だけ。そのせいで隣同士になった。それ以来、バスツアーやらウォーキング
ツアーなどがあるたびに保田が付きまとう。藝能人のくせにそんな地味な趣味を持っている
というのもかなり変な話だが、保田はそれ以上に変な奴だった。歴史に興味を持ったきっか
けが漫画『山中鹿之介』だというくらいだから、普通ではない。
「どんな事実だ」うんざりした口調で尋ねる。深夜に下手な珍説を聞かされて喜ぶほど、俺は
人間ができていない。
「絶対に驚くよ。間違いなく驚くから。賭けてもいいよ」
「賭け金なら銀行口座に振り込んでくれ」
「あのね、あのね、織田信長がね……」
織田信長か。だとするとやはり珍説・奇説の類だろう。保田はこの前も歴史小説を事実だ
と思い込んで興奮していたし、そもそも知識の大半はフィクション、それも漫画だ。
- 4 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:06
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「信長がどうした」
「あのね、織田信長が生きていたの!」
やっぱりか。呆れるというよりかは哀れみを覚える。それと同時にここまで電話を切ろうと
しなかった自分に乾杯したい気分になる。
「そんな小説なら腐るほどある。新事実でも何でもない」
「違うんだって。そうじゃなくて」
「ならなんだ」
「織田信長が生きていたのよ! わからない?」
ふとその言葉の不可解さに気づく。単に言葉の選択の問題だとは思うが、保田の語気から
すると、そこにこそ意味があるとも受け取れる。保田がこの深夜に歴史小説でも読んで新事
実を発見し、興奮のあまり電話をかけてきたのであれば、『織田信長が生きていた』という表
現も間違いではないが、そうでないとすれば病院を紹介した方がいい。
「わからないな。織田信長が生きていたとして、どうせ小説か漫画の話だろ。深夜に電話をか
けてまで御教授してもらうほどのことでもない」
「そうじゃないのよ。だから、織田信長が生きていたの! 今のこの時代によ!」
手元にタウンページがあれば、すぐにでも檻(おり)のある施設を調べてやる。
- 5 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:06
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「おまえ、頭、大丈夫か」
「疑って当然だけど本当なのよ! あたし、実際に見たんだから!」
「あのなあ、見たって、どうせ渡哲也とか舘ひろしとか緒方直人とか、あと何だ、伊藤英明と
かだろ?」
前者三人は大河ドラマの信長役、最後のはテレ東の新春時代劇だったはずだ。
「だから違うんだってば! 本当に本当に織田信長なのよ! 織田信長が生きてて、それで
この平成の日本に暮らしてたのよ! そりゃあたしも最初は疑ったわよ。だってスーツ姿で
名刺までくれるんだから。その名刺の名前だってちょっと違ってたし。でも話してて本物だっ
て確信したの。直感よ! あたし直感は鋭いんだから!」
スーツを着た織田信長に名刺をもらって本物だと確信するような人間がこの世の中にいる
とは驚きだ。その点では賭けは俺の負けだ。
「そんなんで俺を起こしたのか」
「ホムちゃんにしか話す相手がいないのよ。わかるでしょ?」
「おまえ、俺と違って友達多いんじゃなかったのか。歴史が好きな友達の一人くらいいるだろ」
「こんな大発見、ホムちゃん以外にはもったいなくて話せないわよ」
「あいにく、俺の感想じゃ、おまえ一人の胸にしまっておくのがベストだと思うがな。あまり本気
で話したりしたら、マジで頭のネジがいかれたのかと思われるぞ」
「なんで信じてくれないのよ! あたし見たのよ! 会ったのよ! 話したのよ! 正真正銘、
あれは信長だった。本当は誰にもいっちゃいけないんだって。国家機密とか何とか。でもあた
しのこと、お市(いち)に似てるからって、特別に話してくれたの」
そもそも頭のネジ自体がないのかもしれない。保田の思考回路はこんにゃくでできていそう
だ。柔軟だがそれだけだ。
- 6 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:06
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「そんな奴が名刺を持ってるはずがないだろ。それに、おまえがお市に似てるというのが大問
題だ。よくそんなんで信じたな。新手のオダオダ詐欺とかじゃないのか?」
「だから本当なんだってば。なんだったらホムちゃんも会ってみればいいのよ! そうよ!」
「そんな簡単に会える人なのか。もしかしてファミレスのウェイターでもしてるってか」
「職業までは聞いてないわ。でも、いってみるから。会ってほしい人がいるって」
「わかったわかった。とりあえず、それでいいから、今日は寝かせてくれ。でもって、もしおまえ
が明日からもそんなこといい続けてるようだったら、調べてやるよ。いい病院を」
「あー、だからなんで――」
受話器を耳から外し、二秒、三秒、保田の声がまだ続いていることをたしかめてから、電話
を切る。変な奴だとは思っていたが、まさかそこまで変な奴だったとは。どうやら俺は変な女
に惚れるくせがあるらしい。あるいは、変な女に惚れられる運命にあるか、だ。
布団に戻り、五分進んだ時計の針を見つめる。
頭の中にはスーツ姿の織田信長と、お市を演じる保田圭。たまには奇妙な夢を見るのも悪
くない。
- 7 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:06
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A-2
薄曇りの空。開け放った窓から排気ガスとともに春の風が吹き込んでくる。
バイトまでの時間、俺はこの一週間で本棚から引っ張り出していた本を整理した。保田との
歴史談義に必要だと思って出しておいたが、あの野郎、あれからすっかり音信不通だ。
寝ぼけていた感じも酔っていた感じもしなかったから、織田信長に会ったと思い込んでいた
のは事実だろうが、あくまでも一時的な興奮だったのだろう。興奮を持続させるにも冷静さが
必要で、その冷静さを保田は持ち合わせていない。
帯に『織田信長は生きていた!』とキャッチコピーのついた文庫を手に取る。
歴史小説ではなく、パロディ小説家の空想短編集。大阪城の秘密の間に謎の人物が監禁
されていることを知った盗賊が、その謎を探るという趣向だ。その人物こそが信長で、本能
寺の変を生き延びていたものの、潜伏中に山崎の合戦から清洲会議と天下の情勢が一気
に進み、発見された時には秀吉の時代になっていた、という話なのだが、そこまでの謎でな
いことは帯を見ればわかる。あくまでも娯楽小説だ。
ただし、信長が生きていたという小説を俺はそれしか知らなかった。保田には腐るほどある
といったが、それは別の武将の話だ。
たとえば、明智光秀が生きていて家康のブレインになったというものや、島左近が生きてい
たというものなどは、歴史小説としては比較的よく読まれている。
- 8 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:07
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この二つの小説は多分、日本人特有の敗者へのオマージュ観から生まれた作品なのだろ
う。古くは源義経が蝦夷地へ落ち延びたという北行伝説が知られる。これが江戸期になると
大陸に渡って金国の将軍になったという偽書などが人気を集め、明治期になるとモンゴル帝
国のチンギス・ハーンになったという有名な妄想が生まれた。
大阪夏の陣でも真田大助が豊臣秀頼を連れて薩摩に逃げたという話があり、薩摩にはそ
の子孫と称する一族が存在する。これは平家の落ち武者伝説と同じ構図だ。
ただし、それらはあくまでもその時代時代に生き延びたというものにすぎない。保田がいっ
ている現代まで生きていたというのは、歴史学以前の問題だ。
本棚の整理を終え、俺はバイト先に向った。
まさか厨房やスタッフや客の中に織田信長がいるということはないだろうが、頭の中にはま
だ信長が残っていて、普段見かけない客や時間帯にふさわしくない男性客などをついつい観
察し、有名な肖像画と較べてしまう。
それにしても、保田はどういうつもりでその織田信長を本物だと思うにいたったのだろうか。
直感というが、直感で判断できるほど信長に精通している人間はこの世にはいない。
- 9 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:07
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忙しい時間が三割、暇な時間が七割という楽な仕事を無難に終える。
レストランは深夜までやっているが、俺のシフトは午後六時までだ。高校生のバイトが揃う
のが少し遅れたが、引き継ぎを終えて六時半には店を出て、寄り道もせずに家路に向う。
この歳でアルバイト、それも時給の一番安い朝九時から休憩を挟んで八時間というのは、
我ながら情けない。しかし経済社会に貢献するだけが人生ではないという信念を曲げること
もない。
人間は教養に触れることで成長し、教養のない人間はただの肩書きだ。その非生産的な
生き方を道楽だというのならいえばいい。文化や社会は道楽なしでは決して発展しない。金
で発展するのは経済だけ、そして強欲で傲慢な見てくれ人間だけが得をする。
だからこそ俺は仕事よりも自分の時間を優先しているのだが、経済社会の大軍に城を包
囲され続けていると、やはり屈服も時間の問題という気がしてくる。俺は兵糧攻めには弱い。
二車線の道路に面した木造モルタルの二階建てアパートが、普段と変わらず宵闇にぽっ
かりと浮かんでいた。間近に街路灯があるせいで、嫌でもその古さが目につく。引っ越して
きた当時はさすがに不安だったが、慣れればどうってことはなかった。むしろその古い時代
の規格的な外観に趣きを感じるほどだ。周辺には七十年代を想わせる建物がまだいくらも
残っている。
- 10 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:07
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奥に行けば車さえ通れない狭い路地に長屋が密集し、その長屋の前には大量の鉢植えや
プランターが並ぶ。一年を通して緑が目に鮮やかで、名も知らぬ花々が目を楽しませる。夏
にはそこかしこで紺や赤の朝顔が競い咲き、日当たりのいい場所では向日葵が背を競い合
う。草花に水をやるいか、路地には爽やかな水気が漂い、夏でもひんやりと涼しい。ただし、
その夏にはまだ季節が早い。
鉄製の階段をトトトンとリズミカルに蹴りながら二階へ上る。
廊下には部屋の数だけ洗濯機が置いてあり、その一番奥、俺の洗濯機の物陰にしゃがみ
込むような人影。グリーンのシャツに黒っぽいジーンズ。髪型だけが女だと主張している。
「何してんだ」
保田が振り向く。目は笑っているが、表情はどこか怯えているように見える。
「ホムちゃん……。あたし、狙われてるかもしれない……」
「ストーカーにって話なら勘違いだ」
「違うの。わからないけど、何かの組織に狙われてるの。多分、秘密を知ったから……」
今にも泣き出しそうな弱々しい声に、若干の緊迫感があった。洗濯機の隣に背中を丸めて
いたくらいだから、冗談のつもりではないらしい。一応女優らしいが、演技だとも思えない。
- 11 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:07
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「組織は光秀か秀吉か、あるいは家康か。それはそれでおもしろい」
「わからないわ。でも本当なの。あれから郵便受けが荒らされたり、電話に変な信号音みた
いなのが混じったり。それに、一人、行方不明になったの……」
「プチ家出とかじゃないのか」
保田はその言葉を聞き流した。屈みながら廊下の手すりの外へ視線を向けている。
「とりあえず、入れ。てか、どうやってここがわかった」
「住所くらい知ってるわよ。セキュリティが最悪だってことは知らなかったけど」
まだ軽口くらいはいえるらしい。入院させるにはまだ正常ということか。
鍵を開け、保田を家に入れる。他人を連れてくると必ずといっていいほどその部屋の模様
に驚かれるが、保田はほっと一安心したのか、座卓の前にどっと座り込む。
「女を入れたのは久しぶりだな。昔はとっかえひっかえだったが」
保田は曖昧な表情を浮かべたまま、部屋の様子を見ていた。
背を合わせた本棚がドミノ倒しのように三列並ぶ。列と列の間は人が一人入れるくらいの
スペースしかなく、薄暗い。そのせいで部屋の半分を占拠しているように見えるが、実際は
三分の一ほどだろうか。照明が届き渡らないのが難点だが、空間の有効利用としてはかな
りのできだと自負している。布団を敷くスペースも十分にあり、当然女も抱ける。
- 12 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:07
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「これ全部、本?」
「歴史の本だけじゃないけどな。小説も多いし新書も多い。あいにく漫画はほとんどない」
「織田信長は?」
「おまえがそんなに信長好きだとは知らなかった。それとも実際に会って惚れたか?」
「そんなんじゃないけど、でも結構いい男だった」
ようやく保田が笑顔を見せた。仕事で嫌なことでもあったか、あるいは人生に行き詰まった
のか。しかし俺の知っているかぎり、そう簡単に現実逃避するような女ではない。
インスタントのコーヒーをカップに入れ、電気ポットのお湯を注いでスプーンでかき回す。保
田がサンキュッといって受け取り、俺はその向いに座る。
「どういうことなのか、最初から話してみろ。女に頼られた以上、それを無視するわけにはい
かないからな」
コクリとうなづいて保田が話を始める。目は壁のカレンダーに向いている。
「織田信長に会ったって、先週、いったでしょ。それからなの。誰かに尾(つ)けられてるよう
な気がしたりして。それで変だと思ってたら、あたしだけじゃなかったの」
「他にも信長に会った奴がいたのか」
「真弓ちゃんって子と、飯田圭織。知ってるよね?」
「飯田圭織は知ってる。そこそこの美人だろ」
「ホムちゃんまで美人とかいう。なぜかホムちゃんみたいな子に人気なのよね。カオリン」
誰のことをいっているのか、気にならなくもない。
- 13 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:07
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「その真弓って子は知らないな」
「ううん、その子は一般人。圭織の友達で、あたしとも友達なわけ」
「人の友達を勝手に友達にするの、おまえうまそうだもんな」
保田がコーヒーをすすり、口先をすぼめる。
「その真弓ちゃんのね、友達なのかな、カレシなのかな、そういう男友達がいて、その日はそ
の四人で飲んでたの。その人とはお店で偶然会ったんだけど。で、それからその人の家に行
こうってことになって」
「ずいぶん尻が軽いんだな。実際の尻とは違って」
「そんなんじゃないわよ。でもすごいお金持ちらしいの。それで、どんなお金持ちなのかって興
味持って、別にお金持ちに近づこうとか、そんなんじゃないのよ」俺の尻批評を無視して保田
がいった。
「ああ、わかったわかった」
「そしたら、本当にお金持ちだったの。それも御坊茶魔(おぼうちゃま)みたいな大豪邸」
「世代がわかるたとえだな」
「その豪邸に、蔵があったの。土蔵だけど最新式のセキュリティで、冷暖房も完備。その中に
色んなコレクションがあったの。鎧とか刀とかもだけど、茶碗とか掛け軸とか。あと縄文土器
とかもあって、博物館みたいな」
「理想的な道楽だな。そこに信長の蝋人形でもあったか」
- 14 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:07
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「ううん。信長はそこじゃなくて。そこを見た後で、もっとすごいもの見せてやるって。それで着
いて行ったら、ちょっとした離れみたいなのがあって。そこに信長がいたの。本物よ」
「本物かどうかは知らんが、おまえがそう信じたということで理解しとく」
「それで三十分くらい話したの。十二時前だったかな。ほとんどあたし一人で、他は信長には
興味を持たなかったみたいだけど。なんか金ぴかの宝石みたいなの見てたかな」
「他の奴らは正常だったか」
「あたしがお市に似てたからじゃないかな。なんか南野陽子とかエビちゃんにも似てるんだけ
ど、顔はあたしが一番似てるんだって」
「信長は意外にテレビッ子らしいな。それと、視力が悪い」
保田が壁のカレンダーに視線を向ける。そこにエビちゃんカレンダーがあることを最初から
意識していたのだろう。何かいいたそうに俺に視線を合わせ、言葉を待っている。
「それはあれだ。二月に処分セールで買ったやつだ。別にファンとかそんなんじゃない」
「あたしの写真でカレンダー作ってもいいわよ。プリンターくらいはあるでしょ?」
「前向きに検討するよ。検討するだけなら」
保田がわざとらしく音を立ててコーヒーをすする。だいぶ落ち着いたらしく、窓の外を警戒す
るようなことはない。
「それで帰ってからホムちゃんに電話したの。その時よ」
「次に秀吉か家康に会った時は、悪いが朝になってから電話してくれ」
「そうする」
「素直だな」
保田が苦笑いを浮かべ、それから大きく息を吸って、一気に本題に入った。
- 15 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:08
-
「でもね、その次の日か次の次の日か、何か変な感じになって。それでもしかしたらと思って
圭織に聞いてみたら、圭織もやっぱり何かがおかしいって。それで真弓ちゃんにも聞いてみ
ようと思ったんだけど、そしたら電話が通じないし、二日くらいして部屋にも行ってみたんだけ
ど、やっぱりいないの。最初は偶然だって思ったんだけど、仕事中に楽屋に置いてたバッグ
がいじられてたり。それに、圭織は仕事先で携帯をなくしたって。別の場所なんだけど、そん
なことって普通じゃないでしょ? それにあたしの部屋だって監視されてるの。窓からこっそり
外覗いたんだけど、怪しい車が停まってるの。そんなの組織以外に考えられないでしょ?」
真剣な話し方に、何らかのトラブルに巻き込まれた可能性を考える。
まさか本当に信長が生きていて、それを知ったために襲われたとは考えられないが、信長
以外が要因である可能性は排除できない。金持ちの秘密を知ってしまった、というようなこと
か。
「その金持ちのボンボン、名前は?」
「名字はセンゴクだったと思う。真弓ちゃんはセンちゃんって呼んでた」
「明治まで残った大名家に仙石ってのがいるが、多分違うだろうな。それほどの大豪邸の貴
族なら相続税ですぐに没落するし、戦後のどさくさで富を稼いだタイプか」
「そこが関係してると思うの?」
「だろうな。ただ、もしそうだとしても、その真弓って子は大丈夫だろ。そこのボンボンと交際し
ていたならなおさら。信長を囲ってるくらいだから、女の子一人くらい囲うには不自由しない」
- 16 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:08
-
「女の子?」
「その屋敷に軟禁されてるか、あるいは普通にそこで暮らしてんじゃないのか?」
「違うわよ。真弓ちゃん、男の子よ」
「男? だってカレシって……」
「ホムちゃんってあれね。結構古い価値観で考えるタイプ?」
「いや、じゃあ真弓ってのは名字か?」
「残念、名前よ。でも男の子。ニューハーフとかじゃないけど、おねえ系の子なのかな」
「最初からそういえよ。真弓って聞いたら普通は女だと思うだろ」
「ホムちゃんだって、女の子みたいな名前じゃない」
俺はそれをいわれるのが一番嫌いだ。一時期両親を恨んでいたのもそれが大きい。筒川
歩夢。あゆむというのが名前だが、今でもよく女と間違われる。一度開き直って女装でもして
やろうかと思うが、その時は遊園地のオバケ屋敷でバイトでもすることにしよう。
「じゃあ、その真弓って男とそのボンボンは、ホモのカップルなわけか」
「やらしい感じじゃないわよ。爽やかな感じだった。それにボンボンっていうけど、礼儀正しくて
そこまで遊んでるって印象じゃなかった」
深夜に女性を連れ回している時点で遊んでいるとしか思えないが、保田の交友関係におい
ては礼儀正しい部類に入るのだろう。保田は一般人ではないし、俺の価値観とは真逆にいる。
「それで、その真弓ってのと連絡が取れないんだな?」
「うん。今日の昼にね、もう一度部屋に行ってみたの。やっぱりいなかったんだけど、でもそ
の時に変な人たちを見たの。三人くらい。電気工事の作業服みたいなの着てて。それで恐く
なって走って逃げたの。一度家に戻ったんだけど、そしたらうちにも同じようなのがいて。そ
れでここに逃げてきた」
- 17 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:08
-
たしか写真を送るからといわれて保田に住所を教えたことがあった。送られてきたのは全
部保田の写真で閉口したが、それで住所は割れた。部屋の電話の番号は最初に会った時
に一方的に聞かれている。俺はここ二年、携帯を利用していない。
「そのまままっすぐきたのか?」
少し不安になる。もし何かのトラブルが実際に起きているのであれば、俺もすでに巻き込ま
れている可能性が高い。
「それは大丈夫。デパ地下とか寝具売り場とか走り回ったし、地下鉄もやたら乗り継いできた
から。並んでたのとは逆側の電車にぎりぎりで飛び乗ったり」
ドラマの見すぎかミステリ小説の影響か、しかしそこまでやればたしかに安心はできる。
「意外とやるんだな。それで組織に勝てるかどうかは知らんが」
「ここは多分知られてないと思うし。もしあたしの部屋を粗探ししても、ここにくるなんてわかる
はずないでしょ」
いわれて、そこまで警戒する必要があるのかと思う半面、それがまったくの無用心だったと
も思える。保田は信長に会った晩に俺に電話をかけている。組織にとってはそれだけで十分、
むしろ最も警戒すべき人物としてマークされているかもしれない。そういえばレストランにも普
段見かけない客が何人かいた。
俺がそのことをいおうとした瞬間、部屋のブザー音が鳴った。
保田が俺の顔を見る。声はない。沈黙が伸びる前にはーい、と声を出し、保田に本棚の間
に隠れるように手振りで示す。
- 18 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:08
-
「どなたですか」
いいながらドアの覗きレンズを見る。独特の制服が見える。一人。宅配便の業者らしいが、
油断はできない。
ドアを開ける。三十半ばの男が顔を覗かせる。頭を軽く下げ、手にした荷物を差し出す。
「印鑑かサイン、お願いできますか」
「あ、はい」
ボールペンを受け取ってサインする。普段は三文判を使うが、背中を向けるのを回避する
ための措置だ。男が頭を下げ、どうもーといってドアを離れる。その間、部屋の内部を探るよ
うな様子はなかった。だからといって、生粋の宅配業者だともかぎらない。
ドアを閉め、鍵とチェーンをかける。保田が本棚の間から顔を出す。俺は人差し指を唇に当
て、まだ声を出さないように伝える。箱の中に盗聴器が入っていないともかぎらない。
「誰からだ」警戒して独りごち、表面に貼られている差出人を見る。一応親の名前と住所。筆
跡はわからないが、見たことはあるような気がする。「なんだ、うちの親からか」
保田が何かいいかけようとして、俺はあわてて首を振り、もう一度指を唇に当てる。保田が
コクリとうなづく。
箱を開ける。
中にはインスタントコーヒーの瓶やらそうめんつゆの罐やらクッキーの罐やら、どこでも手に
入れられるようなものがわんさか詰め込まれていた。それ自体におかしなことはない。いまだ
に子離れができていないのがうちの親の甘いところで、だからこんな子が育つ。
- 19 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:08
-
一応、瓶や罐を一つ一つ箱から取り出し、何か仕掛けがされていないかどうかを確認する。
何もない。だからといって疑いを捨てるわけにはいかない。電話の短縮番号を押し、実家に
電話をかける。呼び出し音が四回鳴り、母親が出た。
「あ、俺だけど、俺ってってもオレオレ詐欺じゃなくて、歩夢。そう。あのさ、荷物が届いたんだ
けど、送った?」
返事はイエスだった。どっと肩の荷が降りる。どうやら俺は保田の危惧を本気で心配してい
たらしい。もともとビビリ症なのだ。
「ああ、ならいい。でもこんなんこっちでも買えるもんばっかだろ。コーヒーとかつゆ罐とか、そ
れにクッキーとか」
不思議そうな声。その一秒ほどの時間に、首をひねるようなしぐさが見えたような気がした。
「クッキーだよ。送ってないのか?」
嫌な予感。受話器を持つ手にじっとりと汗。電話を切り、恐る恐る慎重に、それでいて慌て
てクッキーの罐のふたを開ける。
先ほどからそのかすかな音には気づいていた。部屋の時計の秒針や、階下のテレビの音、
それに外からの騒音なんかがあって、どこからの音なのかがわからなかっただけだ。
上部に透明のプチプチ君こそ入っていたが、四角い罐の中にクッキーはなかった。
封筒色の包み紙やら数本のコードやら小さな時計。保田の名前を叫び、立ち上がるや本
棚から顔を覗かせた保田の手を取って引っ張り出す。逃げろ。自分にいい聞かせ、靴を足
に突っかけただけでドアを開ける。チェーンがかかっていてドアは開かず、ドアを一度閉めて
チェーンを外し、その間に保田が靴を履き、俺は靴の踵を踏んだまま外へ飛び出す。
- 20 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:08
-
廊下が道路側ではないため、宅配業者の車は見えない。だが車はすでに発進しているは
ずだ。爆発するとすれば、車が現場を離れ、俺がそのクッキーに気づくまでの時間。時計が
入っていたから、リモコン操作ではなく時限式だろう。だとすると目安は三分。五分はない。
しかし確認の電話のせいで、今の時点でぎりぎり五分といったところか。
保田の手を取り、部屋のドアの前から通路へ向き、洗濯機の横を越えたところで、突然の
轟音。台所の窓ガラスが割れて飛び散り、爆風。まばゆい閃光。俺の後ろにいた保田が爆
風に吹き飛ばされ、廊下の手すりにぶつかる。
それらがほとんど同時だった。俺は倒れてきた洗濯機の下敷きになりながらも、保田との
手を離さない。もう一度轟音がして爆風、閃光、地鳴り。意外に丈夫だったドア枠から見る間
に黒煙が噴き出し、すでに日が沈んでいた宵闇に赤い光が揺らめく。
「大丈夫か!」
「う、うん」
黒いこげのようなものが保田の顔と服についているが、表面的なものだろう。肩を手すりに
ぶつけ、膝を床に打ちつけたらしいが、怪我というほどのこともない。俺は肘で洗濯機をどか
し、立ち上がって保田の手を引っ張った。
「逃げるぞ」
隣近所から、なんだ、どうした、という声が飛ぶ。廊下側の向いに並んで建っている同じ造
りのアパートの窓がいっせいに開く。知った顔もあるが話したことはない。俺は消防車、と叫
んだだけで廊下を進み、保田とともに階段を下りる。
道路側からチラリと見ると、窓側の壁が吹き飛んでいて、本のページが千切れて風に舞っ
ていた。幸いなことに一階の部屋には被害はなかったらしいが、火が出ている以上、それも
時間の問題だろう。
- 21 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:09
-
「保田、この道まっすぐ行って突き当りを左、その次は右、それを繰り返したら神社がある。
そこで待ってろ!」
「ホムちゃんは?」
「火を消さないとな。下の住人にゃ、夜が激しいって苦情いわれたこともあるからな。ご近所
トラブルは二度とごめんだ」
アパートは二車線の道路から狭い庭のスペースを挟んで建っている。アパートの端、階段
を降りたところの角が丁字路になっていて、その小さな路地を奥に進むと長屋群に出る。
俺は保田をその長屋群の方に向わせると、一階に置いてあった消火器を持ってまた階段
を上った。幸いなことに二階の住人は誰もいなかったらしい。一階の住人が俺に駆け寄って
きた。手に水の入ったバケツを持っている。
何が起きた。宅配便が爆発した。何だって。あやしげな業者が荷物を置いてった、中に爆
弾が入ってた、爆発した、何とか命拾いした。おまえもしかして過激派か。違う。じゃあ何だ。
わからん。わからんで爆発するか。わからんけど爆発した。とりあえず火を消せ。今消してい
る。水が足りん、消防車はまだか。サイレンが聞こえる、くれば火は消える。おまえ、何者だ。
普通のアルバイトだ。やり取りが続く。
消火器を丸々一本使い果たし、サイレンと鐘の音が間近に迫ったのを見ておじさんを連れ
て一階に下りる。俺は何もやってない。宅配便を装った爆弾テロだ。警察にそう話してくれ。
クッキーの罐に爆弾が入っていた。調べればわかる。いい残し、集まり始めていた野次馬の
中に消える。すれ違いに消防士がホースを伸ばして庭へ、もう一つのホースが階段を上る。
火はじきに消えるだろう。だが、事件はそれだけで終わらない。本能寺は今、燃え始めた
ばかりなのだ。
- 22 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/17(日) 18:09
-
更新は不定期です。
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/18(月) 23:04
- 面白い
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/19(火) 04:15
- す、凄い!!
久しぶりに心拍指数が向上してる。
- 25 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/22(金) 19:56
- なんか完成度高そうですやん
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/23(土) 04:39
- ムムム…これは面白そうだぞ!
- 27 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:02
-
A-3
長屋の路地を駆け抜ける時も、周囲には気を配った。黒煙が見え、消防車がかなりうるさ
いせいで、戸や窓から顔を出している人が多い。当然、野次馬根性で走り出す人もいる。
俺はそれとは反対の方角に走った。どれも地域の住民の顔で、あやしげな組織の人間に
は出遭わなかった。もちろん、それは俺の勝手な推測と認識で、明智軍や徳川軍が甲冑を
着て歩いているのでないかぎり、俺にわかるはずもない。
神社に保田の姿はなかった。すわ連れ去られたか、と全身に緊張を走らせながら探し回る
と、神社の裏手の方の道路脇で保田がうずくまっていた。
「どうした」
「ちょっと足くじいちゃったみたいで。それに、道も間違えちゃったみたい」
「どうやったら神社の裏側に出るんだよ。地図が読めない女ってのは本当だな」
「だって迷路みたいじゃない。それに無我夢中で走ったんだからね」
無我夢中だろうと五里霧中だろうと竹脇無我だろうと、たしかにこの辺は迷路に違いない。
俺でさえいまだに全容を把握しているわけではない。
「足は大丈夫か」
「うん、走れる靴じゃなかっただけ」
保田は靴を脱いで裸足になっていた。それでそこまで走ったとなると、俺のこれまでの保田
観は正しかったことになる。顔の形も性格も酒の飲み方も、こいつはどれもが豪快だ。ただし、
ベッドの上でどうなのかは知る由もない。
- 28 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:02
-
「ねえ、どうなってんのよ」
保田の手を取り、神社の森の中に隠れる。境内に木製のベンチがあり、常緑樹で外からは
見えないようになっている。俺の憩いの場で、禁煙中はそこでなら喫煙を許される。俺が決め
た勝手なルール、しばらく改正の予定はない。
「どうなってるも、爆弾だ。俺が狙われたのか、おまえが狙われたのかは知らんが」
「あたしを殺そうとしたの? だって、あの爆弾、絶対死んでたよね?」
「ああ。木っ端微塵。壁が吹き飛んでた。まず間違いなく、部屋にいたら死んでた」
「やっぱり、信長に会ったことが?」
「漫画みたいだが、そうとしか考えられん。あるいは金持ちの秘密か。でも信長が生きていた
って知ったところでどうなるもんでもない。誰も信じちゃくれないし、俺だってまだ信じちゃいな
い。金持ちのコレクションにしても、俺たちには関係ない。特に俺にはな」
保田が座った体勢で俺の肘にしがみついた。実際に殺されそうになったのだから、その恐
怖は半端ではない。俺だってまだ恐怖に支配されていて、心臓がどこにあるのかもわからな
い状態だ。決して肘が保田の胸に当たっているからではない。
「どうすればいいの? これから、どこに行けば?」
「とりあえず、組織が本気だとすると、知り合いに頼るのは得策じゃないな。俺の部屋を爆破
したくらいだ。おまえらだって監視されてたんだろ。交友関係だって調べられてる。どこにでも
兵隊がいると考えた方がいい。明智軍だか徳川軍だかは知らんが」
俺の冗談に保田が無理に笑ってみせる。かなり弱っているのがわかる。
- 29 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:02
-
「ねえ、信長に、会ってみる?」保田が唐突に、それでいてずっと思案していたかのようにいっ
た。
「信長に? その仙石って奴の豪邸に行くってことか?」
「名刺もらったっていったでしょ? そこに携帯の番号があったはずなの」
「携帯持ってるのか。さすがは稀代の革命児だな」
「家に戻れば連絡が取れると思う。なんたってあたしはお市だもん。信長だってきっと協力し
てくれる」
「それはやめた方がいいな。その信長ってのも組織の身内だと考えるべきだろ。たとえゲスト
でも素性は謎だ。それに、敵が見張ってるところにわざわざ名刺取りに行ってどうする」
保田がおもちゃを取られた子供のようないじけた顔をした。しかし、なぐさめているような時
間はないし、そもそも四百歳以上の人間がいるはずがない。
俺は立ち上がって座っている保田の両肩に両手をかけた。今日はよく保田に触る日だ。か
ぶれないように祈っておこう。
「信長のことは忘れろ。今は自分のことだけを考えろ。いいな」
保田は俺に目線を合わせずにしばらく下を見て、それからふっと顔を上げた。
「でも、カオリンには電話した方がいいよね? だって次狙われるの、カオリンかもしれないん
だよ?」
そこにまでは考えが及ばなかった。真弓という子がいなくなり保田が狙われたとすれば、次
はたしかに飯田圭織ということになる。
保田がハンドバッグから携帯を取り出し、俺がそれを手で制止する。
- 30 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:02
-
「携帯はまずい。電話するなら公衆電話だ。それとその携帯、GPSついてないだろうな?」
「GPS?」
「カーナビみたいな位置を特定するやつだ。それがついてたら、その携帯自体が危険だ」
俺が携帯を使用していた頃にもそんな機能がついた携帯が出回っていた。それから二年が
経っている。かなり普及していると考えていい。
「大丈夫。そういうのはついてなかったと思う」
「推量ではなく断定してくれ。じゃないと命は保証できない」少しきつい口調に保田が泣きそう
になる。「どっちだ。ついてんのかついてないのか」
「わからない」保田がブルブルと首を左右に振った。
「じゃあ捨てる。その前に必要な番号やアドレス、メモっとけ。手帳くらいは持ってるだろ」
「う、うん。でもここ暗いし」
鳥居の前に自動販売機があり、そこには街路灯もある。普段は人通りは少ないが、サイレ
ンの音がいまだに鳴り響いているせいで、音の方へ向う人影がちらほらと見える。場所的に
黒煙も火も見えなかったが、まだ鎮火はしていないだろう。
少年の一団があっちだあっちだといいながら走っていく。地味なおじさん連中も同じくらいに
興奮している。どうやら男は本能的に火に反応するようにできているらしい。少し前に馬鹿女
がマスコミを騒がせたこともあったが、統計的には放火犯の九割が男だ。きっと本能寺に火
を放ったのも男だろう。寺の名前がそれを暗示している。
- 31 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:03
-
保田が電話番号をいくつか手帳にメモる。その携帯を受け取り、近くのドブに捨てようとし
たが、あいにく空濠(からぼり)で、水は溜まっていなかった。
「持ってるだけでも駄目なの?」
「携帯使えば中継局がわかるからな。これから電話する時は必ず公衆電話だ。自宅の電話
も危ない。とりあえず携帯はどっか川にでも捨てる」
財布から五年以上使っていないテレホンカードを取り出し、新品の方を保田に渡す。その
日幸運なことがあったとすれば、俺がポケットに財布を入れたままだったことだろう。もし保
田が俺の帰宅より一分でも遅くきていたら、財布は灰になっていた。
「ねえ、これからどうするの。ここにいて、大丈夫かな?」
「足は大丈夫か?」
「うん。歩くくらいなら」
「それじゃ迷路でも探検するか。俺もこの先はほとんど知らないからな」
保田と寄り添うようにして路地を歩く。この先、そうやって保田と逃亡を続けることになるの
だろうか。それを考えると、どうしても不安になる。俺だけならいい。だが、保田は藝能人だ。
それもかなり顔に特徴がある。人気はないが、ブサイクなせいで知名度が高い。それが男と
歩いていれば、すぐに噂になるだろう。日常であればそれでもいいが、保田は明日から仕事
を休むことになる。いきなり行方不明とは報道されないだろうが、そのうちワイドショーが取り
上げることになるかもしれない。そうなると、どこかに潜伏するしか方法はない。ホテルや宿
泊施設は無理。知り合いの家も無理だ。しかし、保田を連れて代々木公園のホームレスに
混じるわけにもいかない。それはパンダをカピバラの檻に入れるくらいに目立つ行為だ。
- 32 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:03
-
五分か十分か、歩き進んだ時、「公衆電話……」保田が前方を指差した。
車が楽に通れる幅の一方通行の道路があり、商店の軒先に緑色の電話が見えた。店は
すでにシャッターを下ろしている。近くに小学校があるから文房具店だろう。
「飯田圭織にか?」
「うん」
「携帯は盗まれたんだろ? 自宅にかけるのか?」
「まずいかな?」
「わからん。ただ、飯田がすでにマークされてるなら、この公衆電話からかけたことはすぐに
わかるだろうな」
「じゃあどうすれば?」
「わからんが、電話するしかないだろ。ここからはすぐに逃げればいい。足が痛くなったらオン
ブでもしてやるよ」
「あたし、結構重いよ?」
「女が重いってことくらい俺だって知ってる。おまえくらいの体型の女なら、五キロは鯖読むだ
ろうし、ウェストは十センチはごまかす。違うか?」
「残念、体重は未公表だよ。ウェストはたしかにごまかしてるけど」
「やっぱりか。アイドルがみんなウェスト五十八センチだなんてありえないもんな」
「あたしは正直に六十三っていってるわよ」
「なら実際は七十三ってとこか」
「そんなにないわよ! 普段から運動だってしてるんだから、六十八くらいよ!」
「ま、その辺で妥協だな」
- 33 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:03
-
保田が納得いかなさそうに目を細めたが、納得いかないのは俺も同じだ。
ただ、事態の緊迫感におろおろするよりかは、そうやって馬鹿をいい合っている方がいい。
現実逃避ではないが、この先の人生に確実なものは何一つない。山崎の合戦も、清洲会議
も、本能寺の変の直後には誰一人として想像できた者はいなかった。そしてその結末を見る
ためには、まずは山狩りから逃れなくてはならない。
ピピーピピーピピーと、夜の路地にけたたましい音が響く。保田がテレホンカードを抜き取
り、俺の方を向く。「話し中だった」
「家にいるということか」
「だと思う。でもわからないよ。電話線切られてるのかも」
「とりあえず、彼女は諦めた方がいいかもしれない」
「見捨てるの?」
「今は自分のことを考えろ。おまえは殺されかけた。あるいは俺かもしれんが、とにかく俺た
ちは殺されかけた。それも爆弾。しかもわざわざ実家から届いた荷物の中にだ。さっきから
ずっとそれが引っかかってるんだ。もし俺たちを殺すならそんな細工はいらなかったはずな
んだ。ただ爆弾を配達すればいいし、爆弾じゃなくて火をつけるだけでもいい。それなのに、
わざわざ本当の荷物を細工した」
「疑われないようにじゃないの?」
「どのみち爆発するのに、変な話だろ。爆弾が作れるくらいならリモコン式だって作れる。無
線を飛ばせばいいだけで、テレビのリモコン改造すれば済む。なのに、わざわざ時限式の爆
弾で、届けてから五分後に、バーン」
- 34 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:03
-
いいながら、やはりおかしいことに気づく。爆弾は実家からの荷物の中にあった。
「細工する時間……」思わずつぶやく。「細工の時間だ。保田、おまえがうちにきたのは何時
頃だ?」
「六時はすぎてた。六時半よりはちょっと前だと思う」
俺が帰宅する直前だ。その間に荷物を細工したとは考えられない。
「でもおまえは、俺んちにきたのは初めてだ。それに、事前に予定してあったことでもない」
「うん」
「そっか。なら爆弾は、俺だ! おまえじゃない!」安堵と緊張が同時に走る。自分が自分で
なくなるほど興奮しているのがわかる。「あの爆弾は、俺を殺すためだった。おまえは偶然う
ちにきて、偶然巻き込まれた。おまえを殺すためなら、わざわざ俺の荷物を細工する必要は
ないし、その時間もない。あの荷物は俺を殺すために最初から用意されていた。宅配便は六
時五十分くらいだったろ。俺がバイトを終えて帰宅する時間だ。今日は遅れたけど、普段なら
六時に終わって本屋に寄ったりスーパーで買い物したりして、帰るのは六時半すぎ。俺が確
実に受け取れる時間を狙ってる」
「じゃ、じゃあ、ホムちゃんが狙われたの?」
「向うもまさか俺の部屋におまえがいるとは思ってなかったはずだ。あの宅配便の男だって、
部屋の中には興味を持ってなかった。思い出せばあの男は俺の方に注目してた」
男は俺の顔は見ても俺の目は見なかった。その場から離れることしか考えていなかったの
だろう。
「で、でもどうして?」
「おまえが俺に電話をかけたからだ。信長に会った晩に。それで当然、俺が信長のことを聞
かされたと思ったんだろう。それで俺の口を封じようとした。それ以外に考えられん」
- 35 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:03
-
「それならあたしはどうなんのよ」
「おまえは藝能人だろ。そう簡単に殺すわけにはいかない。もし事件ってことになれば、マス
コミだって騒ぐ。いくら圧力がかかってもワイドショーの格好のネタだ。おまえが信長に会った
ということだってどっかから出てくるし、真弓ちゃんって子も失踪してたとなると、その仙石って
奴にも繋がる。それが得策だとは思えん。爆弾は警告だったんじゃないか。誰にも秘密を漏
らすなっていう。漏らせばそいつは死ぬっていう」
「ね、ねえ、じゃあ、ホムちゃん、もう安全なの? それともまだ狙われる可能性ある?」
「狙われて、狙われた理由を考えるようになれば、余計狙われるわな。でもおまえは大丈夫
だ。おまえは家に帰って、普通に暮らせばいい。黙ってるかぎり危害が及ぶことは多分ない。
おまえへの監視は続くだろうが、それも警告みたいなものだろうよ。大体、敵が本気でおまえ
を狙ってたのなら、ばれるはずがない。わざと姿を見せておまえを警戒させ、無言の圧力で
口を封じようとしたんじゃないか。そしてそれに気づかせるために俺に爆弾を送った」
「で、でも……」
保田は俺のことを本気で心配している。命が関わっているから当然だが、その心配そうな
面持ちは、いつもの保田と違って皮膚に硬さがない。生身の保田圭を初めて見た気がする。
付き合うのならその保田圭さんにお願いしたいものだ。
「確証はないけどな。でも、俺と一緒にいるより藝能人をやってる方が安全だ。俺なら心配す
るな。木を隠すには森の中。東京ほど人の多い街はないからな。潜伏する場所はどこにでも
ある。心配するな。ファミレスだけでも何軒あるんだ。その全部の客をチェックして回るなんて、
どんな組織でも無理だろ。ホテルだけでも五万とある。カラオケでもネット喫茶でもいい。公園
のホームレスまで含めたら絶対に見つからない。富士の樹海より大都会の方が安全だ」
- 36 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:04
-
「もう会えないの?」
「わからん。でも、会わない方がいいだろな。おまえにも今以上に監視がつくだろうし、わざわ
ざ敵に居場所を教えてやる必要もない」
「あたし、やだよそんなの」
「俺を殺したくないなら、もう会うな。いくらデパ地下回っても、プロには勝てん。デパ地下行く
んなら試食だけにしとけ。ウエスト増やさない程度にな」
「じゃあどうすればいいのよ」
「どうもすんな。ここの路地出たら、タクシーに乗って帰れ。俺も一人でどっか行く」
保田が俺の腕にしがみついた。文房具店の前から坂を上り、その頂上の辺りまで歩いてき
ていた。道は右に湾曲しながら下り、その先に二車線の道路、流れる車が見えた。多分、そ
こが俺たちの分岐点だ。
「ねえ、本当に死なない?」
「ああ。死なない。死ぬとすれば、せめて信長が本物かどうかを確認してからだな」
「本物だよ」
「おまえ、俺を死なせたいのか」
「死なせたくないよ。決まってるじゃんか。あたし、だって、ホムちゃんのこと……」
「いうな。それはいつか俺の口からいうって、決めてたから」
向き合って保田の顔を見つめる。保田が目を閉じれば実行、閉じなければそのまま。
だが保田の野郎は目を閉じなかった。それに、どことなく目が笑っていた。
- 37 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:04
-
「決めてたんだ。でもいわなくても知ってるよ。ホムちゃんが変わってるってことくらい」
「は?」
「だから、ホムちゃんのこと、変わった人だなって。そういいたかっただけ」
「何だそれ」
「ごめんね。自分の口からいいたかったんだね。俺変わってるだろって」
「おまえなあ、俺死ぬかもしれないんだぞ。そんな時に――」
「でも、あたし変わった人、好きだよ。それでいい?」
一応それも告白になるのだろう。告白する側としては保田らしいし、告白される側としても俺
らしい。初めて会った時から俺たちは奇妙な間柄だった。
なんせ保田の第一声が、『山中鹿之介、好きですか?』で、俺の答えが、『会ったこともない
のに好きかどうかはいえない。それほど知っているわけでもないし、知ったところでそれが全
てでもない』だったくらいだ。
そんなやり取りを思い出しながら答える。「あ、ああ。おまえもあれだな。だいぶ変わってる
けどな。多分、俺が会った女の中では一番変わってる」
「ホムちゃんはどう? 変わってる女、好き?」
「それはどうかな」
「あ、そういうのずるいな。人にだけいわせといて」
「まだおまえのことそんなに知らないからな。どれだけ変わってるかとか。それがわからない
うちに好きかどうかはいえない」俺は山中鹿之介と同じ評価を保田圭に下した。
「じゃあいいよ。保留にしといてあげるから」
「生きてたら、いつか返事できるかもな」
「うん」
- 38 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:04
-
「それじゃ、そろそろ行け。なるべく人通りのあるとこ歩けよ。それと、事務所にストーカーに
狙われてるとか何とか、いっといた方がいいかもな。普段もガードしてもらえ。直接手を出し
てきたりはしないだろうけど、一応な」
「うん。わかった」
道路まで出て、進みながらタクシーが通るのを待つ。その道路はアパートの前の二車線の
道路とはまったく違う道で、すでに一キロ以上は離れていた。住宅密集地を囲むようにして外
側にいくつかの道路があることは俺も知っていて、その道路も通ったことがある。
その道路を先に先にと進みながら、保田がちらちらと俺の顔を見てくる。
俺は道路の前後に顔を往復させ、タクシーが通りすぎてしまわないように注意する。たとえ
そこに組織の人間がいたとしても、別れくらいは普通にしたい。
流しのタクシーが停まり、保田が乗り込む。ドアが閉まり、保田が手を振る。俺も手を振る。
タクシーが発進し、保田の笑顔がすっと後方に流れ、嘘のようにあっさりと消える。
「問題は、これからだな」
軽く独りごちて、ふたたび一方通行の道を住宅密集地の方へと戻る。
ポケットには保田の携帯があり、手には一枚の紙切れ。保田が手帳を破ったもので、その
道路に出てから保田が緊急連絡先を書いたものだ。保田のかつての知り合いらしい。連絡
を取る時は、お互い公衆電話からそこに電話をかけて相手の伝言を聞く。
細い線だが、俺と保田はまだ繋がっている。
- 39 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:04
-
A-4
まぶたに宙を舞う白い紙切れの残像が浮かんでいた。雪のようではなく、白い海鳥が上空
を旋回しているようだった。噴き出す黒煙。燃える炎。それは何かの儀式のように俺の目に
焼き付いていた。
蔵書は二千冊を超えていただろうか。専門書以外はハードカバーを買わず、文庫や新書で
しのいでいたが、それでも学生時代からのものも含めれば、かなりの金額を費やしている。
いつか狭いながらも書斎のある部屋に住むのが俺のささやかな夢だった。それが潰えた。
それどころか命の保証さえなくなった。いつかを夢見ることもできない。俺の部屋は吹っ飛び、
俺は逃げた。
保田と別れてから、俺は狭い路地を反対側に抜け、そこからバスに乗って見知らぬ夜を目
指した。途中までタクシーに同乗すればよかったと気づいたのは後の話だ。
今頃はものすごい騒ぎになっていることだろうと思う。部屋が爆発して住人がいなくなったの
では、あまりにも怪しすぎる。警察も俺の行方を捜すことになるだろう。組織よりは警察の方
がマシだが、その警察が組織と通じていれば意味はない。信長の存在にせよ金持ちの秘密
にせよ、国家機関がどちらの味方をしてくれるかは考えるまでもない。社会は地位と権力の
下に存在するのであって、俺には一つの肩書きもない。
バスの乗客に怪しい人物はいなかった。通りを歩く人たちにも目を通した。バスの右や後ろ
を走る車の中も覗いた。俺以上に怪しい人物はいない。
- 40 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:04
-
それもそのはずだ。組織がそれほどまでに包囲していたのならば、俺はすぐに見つかって
いたはずで、バスに乗ることすらできなかった。あの一帯は都会の鳥籠、周囲の道路網さえ
封鎖していれば、羽ばたくことはできない。あの辺の住民なら皆知っている。つまり俺がバス
に乗っている時点で、包囲網があったとは考えられないことになる。
疑問だったが、それ以前の疑問もある。敵が爆弾という手段を用いたこと。殺害方法として
はあまりにも不確実だし、その注目度は火事の比ではない。それに届いて五分以上経ってか
ら爆発したというのが、あまりにも遅い。遅すぎる。
だとすると、敵の狙いは殺害ではなくやはり警告だったということか。それとも、それ以外に
別の目的でもあったのだろうか。俺は逃げたのではなく、逃がされたのではないか。ふとそん
な考えが頭に浮かび、俺を疑心暗鬼に陥れる。
車内に音楽が鳴り、俺は数秒間、それを聞いていた。最近の流行歌らしいが、半年や一年
で誰もが忘れてしまうような期間限定の曲に興味を持つほど、俺は自分自身の感性を疑って
はいない。だが、人類に普遍の名曲が存在すると信じているわけでもない。音楽でも小説でも
何でも、俺は自分自身の感性を信じ、自分勝手に取捨選択する。流行など糞喰らえだ。
俺への当てつけのように音楽は鳴りやまなかった。音は次第に大きくなり、ようやくそれが自
分のポケットから聞こえていることに気づく。あまりの鈍感さに赤面する。乗客が文句をいうで
もなく俺の方を見ていた。
保田の携帯――二つ折りを伸ばすと、画面に『飯田圭織(家)』の文字。
さきほどまで混乱していたせいで、俺は携帯を保田に返すことをすっかり忘れていた。組織
の狙いが俺だけならば、この携帯を捨てる必要はなかった。例の緊急連絡先にかけさえしな
ければ、これで飯田に連絡してもよかったし、保田が持ち続けてもよかった。
- 41 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:04
-
どうしていいかわからなかったが、車内にBGMを流し続けるわけにもいかない。俺は通話ボ
タンを押した。「はい」
あれ? 圭ちゃんじゃない? と疑問口調の声。テレビで聞く声とは少し感じが違う。
「あの、後でかけ直します。すいません」
電話を切る。乗客の視線が散って、車内はふたたび無言に戻る。こういう時こそ女子高生
に騒いでほしいものだが、あいつらはTPOを逆さまに選ぶ。より性質(たち)が悪い。
停留所のアナウンスが流れ、俺は壁のボタンを押して降車口に移動した。
バスを降り、風が俺の前後を吹き抜ける。そう遠い街でもなく近い街でもないが、普段なら
自転車で間に合わせる距離だろう。ただ、逃亡者にはそれくらいがいいかもしれない。
降りたのは俺一人。通りに人の姿はそれほどなかった。数人、仕事帰りの背広人間が通る
くらいで、車の流れも渋滞とは無縁。俺のアパートと同じで、鉄道沿線から離れた空白域とい
うことなのだろう。東京の渋滞の大半は駅が原因だというのが俺の推測だ。まあ駅の周辺が
繁華街になるのだから当然といえば当然なのだが。
道路脇に五階建てのマンション。俺はその一階部分の半分を占める駐車場の陰に隠れた。
地震がきたら一たまりもない構造に思えるが、それほど重量はないのだろう。
着信履歴からリダイヤルする。「もしもし」
声と息との中間のような飯田の返事が聞こえた。俺の声を聞いて、やはり戸惑っている。
俺は名前を名乗り、保田の友達で、信長のことを知ったせいで部屋が爆破され、保田とは
さっき別れたばかりだと告げたが、飯田はやはり戸惑っていた。というより、俺を疑っている。
当然だ。保田の携帯に男が出たのだ。保田が組織に捕まり、携帯を剥奪されたと考えても
少しもおかしくはないし、そもそも保田の携帯に男は不釣合い。男友達は多そうだが、携帯
に代わりに出るようなオトコはいないだろう。
- 42 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:05
-
俺は頭を落ち着け、保田とは歴史仲間で、出版社のバスツアーで知り合ったのだというとこ
ろから話した――。俺の方もテンパッていて、話を焦りすぎていたと反省したのだ。いきなり部
屋が爆破されたなどと聞かされて誰が信じるものか。俺だったら電話を切っている。
それが効いた。飯田がもしかしてホムちゃん? と俺の嫌いな方のニックネームを口にした。
保田から聞いていたらしい。それが嬉しくもあり不安でもある。
俺はツッツーというもう一つの呼称を飯田に教えた。筒川だからツッツー。美人とお近づきに
なれるチャンスは滅多にあるもんじゃない。たとえ本能寺が燃えている最中でも、最初が肝心
だ。死の危険に直面したせいで、俺は知らず知らずに興奮していた。
飯田がツッツーね、と了解し、それからようやくの本題。声のトーンを戻して現在の状況を俺
に語る。
驚きの連続だった――。状況はかなり切迫している。本人に危害が及んでいないとはいえ、
それは間違いなく俺が巻き込まれたのと同種のトラブルだった。やはり何かが起きている。そ
して、彼女たちは安全だという俺の想像は再考を余儀なくされた。
「荒らされたのか、部屋が」と、俺はいった。
飯田は昨夜は地方泊まりで夕方になって帰宅したらしいが、部屋が荒らされていたらしい。
その件でマネージャーに連絡したというから、保田が電話をかけて話し中だったのはその時
のことだろう。
しかし、飯田の話はそれだけではなかった。飯田は帰宅直前、スーパーに向う途中で真弓
という例の子を見つけ、路地裏のもんじゃ屋にその子を隠してから、怪しまれないように振る
舞いつつ一人で家に戻ったのだという。電話は保田に助けを求めるためのものだった。
- 43 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:05
-
「保田はまだタクシーの中だと思う。あいつの家がどこにあるかは知らないけど。ただ、状況
が急ぐんなら、俺がそっちに様子を見に行ってもいい。どうせ俺も追われてる身だし、それに
詳しい事情を聞きたい。わからんことだらけだ」
飯田がわかったと答え、ホムちゃんなら信用できるといい足した。どうやらツッツーという呼
称は拒否されたらしい。
飯田は自分が月島に住んでいることをいい、簡単な住所とマンションの名前を告げた。そ
れからもんじゃ屋の位置と名前を口にした。
もしかするとその真弓という男と合流することになるかもしれない。だとすると一人で逃亡す
るよりも目立つことになるが、これも話の流れだ。
それに俺は一度飯田圭織に会ってみたいと思っていた。半年ほど前にテレビで久しぶりに
見て、かなりの美人になっていて驚いたものだ。それまでの印象はまだ飯田も保田もモーニ
ング娘。に在籍していた頃のものだ。
携帯電話をどうするか迷ったが、捨てる必要もないし、月島までの連絡用として持って行く
ことにした。飯田だけに、これは飯田に渡しておけば“いいだ”ろう。なんていってる場合じゃ
ないが、こういう時にこそ余裕が必要で、俺はやはりハイになっている。
俺はどこからどう行けば月島に行けるのかを頭の中で検索した。だが、築地の奥だという
ことを知っているだけで、路線名などは何も浮かばない。俺は東京の人間ではなく、単に東
京に居候している人間にすぎない。
- 44 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:05
-
バスの停留所に戻り、その路線図を見て駅名を探す。六つ先で地下鉄と接続している。
バスがこないのを見て、俺は走った。中学時代に陸上部でもないのにスプリンターとして県
大会の準決勝まで進んだことがある。ただし、あくまでも短距離、それに過去の栄光というこ
とであれば、息が持つはずもない。大学を卒業してから運動と呼べるものを何度したことか。
セックスを運動に含めないとすると、その日を除けば多分ゼロに近い。
それでも俺は駅まで走りきった。自分で自分を誉めたいといったメダリストが昔いたが、外
人の亭主がゲイだったことは思い出せても、肝心の名前が出てこない。まあいい。俺はそこ
そこの人込みの中で深呼吸をし、息を整えた。
階段を地下に下り、路線図を見る。丸の内や銀座周辺にこれほど多くの路線を通らせる必
要があるのだろうかといつものように思うが、それが東京。他所者が都市計画に口を挟むべ
きではないし、そもそも都市計画は庶民ではなく役所や企業のために立てられる。
俺は有楽町線と大江戸線が月島に通っていることを確認し、切符を買った。乗換えはどち
らへも可能だが、月島に上陸するのは得策ではない。
だとすると大江戸線。一つ手前の勝どき。そこで降り、徒歩でもんじゃ屋を攻める。
勝鬨(かちどき)とは縁起がいいが、その勝鬨が敵のものにならないという保証はない。む
しろそっちの方が確率は高い。
正直、俺は迷いの中にいた。飯田に会いに行くことが得策であるのかどうか。会いに行くの
であれば、なぜ保田と別れたのか。俺自身、自ら死地に赴くことになるし、飯田たちにも危険
をもたらしかねない。
車両が駅に停まるたびに、俺は降りたい衝動に駆られていた。都会が俺を囲んでいた。
- 45 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:05
-
どれくらいの時間がすぎたか。大江戸線の車両から吐き出された時、時刻はすでに八時半
をすぎていた。そのせいで乗客が多かったのだと気づく。人に揉まれるのが苦手にしては、よ
く我慢したものだ。俺はその日、一月分の忍耐をたったの一、二時間で味わっている。
地上に出て、一つ大きく息を吸う。
地下の閉所的な空気からは解放されたが、地上も似たようなものだ。若干潮の香りがする
ような気がしないでもないが、それがドブ川の臭いとどう違うのかは鼻の悪い俺にはわからな
い。俺を殺すなら爆弾よりガス漏れの方が簡単。敵は明らかにリサーチ不足だ。
電話ボックスを見つけ、携帯電話の着信履歴を見ながら番号を押す。その動作を自然にし
ながら、俺はふと自分がとんでもない失敗をしでかしていたかもしれないことに気づいた。
俺は保田の携帯を使った。それだけならまだいい。場所を特定できたとしても、俺はもうそ
の場所にはいない。しかし、飯田の電話は違う。その電話がもし安全ではなかったとしたら、
俺は取り返しのつかないことをした可能性がある。俺がどこにいるのかではなく、どこに行く
のか。そして真弓がどこにいて、飯田がどこに向うのか。
不安を助長するかのように呼び出し音だけが鳴り続けた。飯田は出なかった。すでに部屋
を出てもんじゃ屋に向ったのかもしれない。だとするとかなり危険だ。いくら路地裏のもんじゃ
屋でも、飯田が向えば敵に居場所を教えることになるし、そもそも敵はそれを事前にキャッチ
していたかもしれないのだ。今さら遅いが、連絡するまで待機しておくようにいうべきだった。
俺は数人の通行人に紛れて通りを進み、周囲を警戒しながら月島方面に向った。いくつか
の路地をジグザグに曲りながら進んだのは尾行を察するためだ。すでにすれ違った人間や
路上駐車している人間の顔などは頭に入れてある。同じ顔が出てきたらアウト。ただし、出て
こなかったとしてもセーフにはならない。俺は自分の記憶力をそこまで信用していない。
- 46 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:05
-
商店街に近づくにつれて、道路沿いに食べ物屋が増えてくる。月島には五十軒以上のもん
じゃ屋があると聞いたことがある。そのどこに真弓という子がいるのか。飯田から聞いてはい
るが、その説明でわかるほど会話に時間を費やしてはいない。
俺は思いきってコンビニに入った。これ以上時間をロスできない。
店名を尋ねると、店員は月島もんじゃマップというものをくれ、その店は知らないといいなが
らも、マップでその所在地を見つけてくれた。意外に親切な対応だった。今後コンビニを利用
する時はその店と同じ色の看板を探すことにしよう。
コンビニを出てからは裏に裏にと回り、狭い路地を通り抜けながら店を目指した。
ふっと視界が開け、二車線の道路。商店街ではないが店が建ち並んでいる。その中にもん
じゃと書かれた旗が見え、店の名前が見えた。飯田は路地裏だといっていたが、全然裏では
なかった。ただし、交通量の多い表通りというわけでもない。
俺はその角で息を潜め、一分ほど通りを観察した。敵が待ち受けているかもしれない。
通行人に怪しいところはなかった。怪しげな車が通ったりもしない。普段の月島がどういう街
だかは知らないが、そこには平穏だけがあった。
杞憂だったかと、俺が店に向おうと足を踏み出した、その時だった――。
俺は背後からの声を聞いた。完全な油断に心臓が凍てつく。ゆっくりと、躰を後ろへと回して
敵の姿を見る。
男が一人。年齢は俺と同じくらいか、カジュアルな服装にいくつかの金属アクセサリー。
組織の人間にも、凍てつく波動を連発するドラクエのボスにも見えなかった。だが、俺も逃亡
者には見えず、勇者にも見えない。
「筒川歩夢さんですね」
男の声に、俺は絶望を感じた。そして東京の狭さを呪った。
- 47 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/06/24(日) 15:06
-
更新は週一の予定ですが、気分にもよります。
- 48 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/25(月) 00:36
- 名作の予感。
- 49 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/25(月) 03:17
-
読んでてドキドキしました。凄い!好き。
- 50 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/25(月) 12:28
- 惹きこまれます。
- 51 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/26(火) 23:11
- 鹿之介からかよw
- 52 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:28
-
A-5
長屋群の裏路地とは違い、背の低いビルとコンクリートブロックの塀とに挟まれたその通路
は、俺の精神を追い詰めてあまりある空間だった。緑はなく、ただ人工的なアスファルトと無
機質なコンクリートだけが視界を占拠する。漏れてくる街路灯の白光の下、通路の両端に辛
うじて雑草が見えるが、すでに色素を失っていて抜け殻になっている。こんなところに種子を
落とした風は、よっぽどひねくれているに違いない。
その息苦しさに俺はもはや観念し、声をかけてきた男の顔を正面から見た。
男は俺の表情に気づき、そしてニッと笑ってみせた。
何のことはない。俺は勘違いしていた――。
「筒川さん、僕、真弓です」あっけなく男が名乗った。
全身を覆っていた鉛がどっと鎔け落ちたかのようで、急激に軽くなった躰がふらふらっと揺
れる。どうやら重力というのは気分の問題らしい。学校ではそんなことは習わなかった。
俺は一歩、二歩とゆっくり前進し、真弓に近づいた。
ニューハーフでもお姉系でもなく、見た目は完全に普通。話で聞いていた女性らしさは微塵
もなかった。どこからどう見ても男。だとすると方面としてはホモ、ということなのだろうか。
- 53 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:28
-
「君が、真弓ちゃん?」
「うん。店で飯田さんを待ってたんだけど。なかなかこないから。心配になっちゃって」
話し方などは『兄貴!』『アーッ!』というようなガチホモのものではなかったが、俺はホモの
世界については何も知らない。そういうライトホモがいてもおかしくはない。
「君も敵から逃げてるって聞いたけど、それは本当なのか?」
「うん。先週から。変な人たちに追われてて。それからはもう毎日毎日が恐くて」
「どうも俺もその仲間に入ったらしい。さっきというか、二時間くらい前か、部屋が爆破された」
「爆破?」真弓が驚きを見せた。
「その場に偶然保田もいたんだ。だから最初は保田が狙われたのかと思った。でも違った。
狙われたのは俺で、俺が狙われたのは保田から信長の話を聞いていたからだと思う。その
晩に俺は電話を受けたんだ。君も先週、信長に?」
真弓がコクリとうなづく。「うん。話を聞いたから。だから狙われたんだと思う。知っちゃいけ
ないことだったみたい」
「センちゃんっていう子とは、友達なのか?」いいながら、俺は真弓のいった言葉を頭の中で
繰り返していた。
間違ってはいない。だが、間違っている。話を聞いたのは電話だった俺だけだ。保田たち
は話を聞いたのではなく実際に信長に会っている。それとも、保田は信長と話し込んでいた
らしいから、その話の中に狙われる要因があったという意味だろうか。
- 54 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:28
-
「うん。友達」
その答えを俺はもう聞いてはいなかった。
何かが違うような気がしていた。そしてそう思った転瞬、俺は真弓の後ろに白い動くものを
見た。それはこちらに気づいてすぐに物陰に隠れた。エアコンの室外機、そのやや大型のも
のだろうか。だが、その陰からは白い衣装が半分ほど姿を覗かせていた。
敵ではない。直感で理解した。追手の尾行にしてはお粗末すぎる。
俺は真弓に気づかれないように視線を周囲に順番に廻らしながら会話を続けた。
「そのセンちゃんってのと、えーと、真弓ちゃん、君は、連絡は取ったのか?」
真弓は首を横に振った。俺の意図に気づいている様子はない。
俺はかまわずに続けた。気づかれない程度に声を徐々に大きくしている。
「じゃあ真弓ちゃん、君も、そのセンちゃんってのとは連絡を取れてないんだね? 君が追わ
れて逃げるようになってから? 一度も? 向うからも?」
「うん。それどころじゃなかったから」
路地の奥を見る。白い衣装が室外機の陰からこちらに上半身を覗かせていた。首を横に振
り、首の前では両手をクロスさせてバツ印を作っていた。暗くて顔が見えないのが残念だ。
「そうか」
独り言のような感じでいい、その路地の幅の狭さを確認するかのように前後左右にゆっくり
と動きながら、躰の向きを変える。幅は二メートルもない。ポリバケツが置いてあったところな
どは、ピザなら通り抜けられなかったはずだ。
- 55 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:28
-
真弓と名乗った男が俺の横に並ぶ。俺はもはや会話を考えることなく、どうすればいいのか
だけを頭の中で考えた。逃亡か、格闘か、それとも別に最善の方法でもあるのか。
「飯田さん、遅いですね」と、沈黙を嫌ったのか男がいった。
俺は何の気なしに男の斜め前、二歩ほどのところに立ち、男の方へ振り返った。「ああ」
答えるや、自分の持つ瞬発力を全てそこに詰め込んだ。俺は唐突に男の股間を右足で蹴
り上げた。足は両股の隙間を撥ね上げるようにして絶妙な角度で急所に直撃した。
「ぐあっ」
男は不意をつかれて前のめりになった。そのがら空きの鳩尾(みぞおち)をさらに一度、二
度と蹴り上げ、三度目は思いきり奥へと蹴り込む。
後ろへ吹っ飛んで尻餅をついたその男は真弓ではない。飯田が奥からサインを送らなくて
も俺はそれに気づいていた。男は『真弓ちゃん』と呼ばれるには違和感がありすぎた。俺も親
しい奴から『歩夢ちゃん』とわざと呼ばれることがあるが、それはそいつが俺と面と向う時だけ
で、汎用(はんよう)性のある呼称ではない。
ゴホッとむせている男の顔面を、今度は思いっきり拳(こぶし)で強打してやり、俺は叫んだ。
「今のうち!」
遠くからうん、という声が聞こえ、飯田がこちらへ向って走ってきた。
偽の真弓をどうするか迷ったが、縛りつけておくようなものは持っていない。腰にベルトはあ
るがそこまで柔らかくない。ビル壁のパイプ樋の下にレンガブロックが置かれているのに気づ
いたが、どの程度の力で叩けば気絶するのか。殺してしまっては本当に追われることになる。
- 56 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:29
-
飯田が俺の横にきた。じっくり観察できないのが残念だが、仕方がない。
「筒川歩夢。飯田さんだね?」
名乗りと確認。わかりきったことをいいながら、俺はそこでもんどりうっている男の股間にさ
らに水平気味の蹴りを入れた。男は悲鳴ではなく内臓器官から発したと思えるような痛声を
上げ、防衛本能なのか寝技を警戒したのか、亀の甲のように背中を向けて躰を縮めた。
俺は荒々しい手つきで男の躰を地面に伸ばし、突っ伏させて馬乗りになった。相手の左腕
はしっかりと極(き)めてある。これでしばらくは時間が稼げる。
「真弓ちゃんは? 偽者じゃなくて、本物の方」
「まだお店だと思う」飯田が答えた。
いい声だ。美人の声は男を奮い立たせる。それだけで御飯三杯はいける。
「今のうちに連れてくるんだ。俺はこいつを抑えとく」
飯田が小走りに通りに出ていく。ふっといい香りがした。さすが『かおり』という名前だけのこ
とはある。御飯三杯では完全に足りない。
俺はその後ろ姿を見送り、周囲に目を光らせた。男は完全に弱っていて、立ち上がることも
呻(うめ)くこともできずにいる。立ち上がってから男の顔の横にしゃがみ直し、髪を掴んで顔
を上げさせる。
- 57 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:29
-
興奮からか、自分でも信じられないくらい拳に力が入った。自分の骨が折れるかと思うくら
いの力。子供時分に喧嘩くらいはしたことがあるが、こんなタイマンは学生時代以来二度目
で、完勝したのは初めてだ。一応高校時代にインチキ拳法部に入り、三年間で初段を取って
はいるが、インチキ拳法の初段は空手の茶帯にも及ばないお遊戯だ。それに十年間のブラ
ンク。しかし最初から敵の金的に狙いをつけていたのは、その経験が役立ったということか。
目打ちと金的蹴りが基本中の基本だ。
俺は意識して手の力をわずかに緩めた。
疑いようのない完全な男性。真弓に成りすまそうとしたのは時間がなかったからだろう。男
は俺の名前を知っていた。そして店の場所も店に飯田がくることも知っていた。
考えられることは一つ。やはり――盗聴だ。
しかしまさかその男が単独で盗聴し、単独で行動し、単独で真弓に成りすまそうと考えたわ
けではないだろう。裏には組織がいる。そして緊急に俺との接触を命じたに違いない。真弓と
俺と、その両方を一気に捕獲するつもりだったのか、情報を訊き出そうとでもしたのか。
今さらながら組織の巨大さを知り、そして自分の詰めの甘さを知る。あれほど盗聴を警戒し
ていたのに、俺は飯田の部屋の電話とやり取りをして店名までもいわせていた。公衆電話か
らかけ直せ。その一言が足りなかった。目の前の非現実に興奮し、美人との通話に浮かれ
ていた。
- 58 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:29
-
「おい、おまえは何者だ」地獄の底の空気を腹に吸い込むように、小さいながらも力強い低
い声を演出する。
男は答えなかった。
俺はもう一度尋ねた。「誰に頼まれてやった。何の目的で俺たちを狙っている。どうして俺
の部屋を爆破した。信長の存在を知ったからか。それとも別に秘密でもあったか」
男はやはり答えなかったが、黙秘を貫いたというわけでもなかった。股間と内蔵への衝撃
が質問に答えるだけの余裕を奪っていたのだ。俺の脚技もそこまでお遊戯ではないらしい。
男は吐瀉するかのように苦しんでいた。
「お仲間に会ったらいっとけ。俺たちは何も知らない。おまえたちが何を心配してるのかも知
らない。だがな、おまえたちがこれからも俺たちに付きまとうなら、俺はおまえたちの秘密が
何なのか、絶対に暴いてやる。わかったな!」
男がコクリとうなづいたように見えた。だが、それは返事ではなく脱力だった。男は苦痛に
顔を歪ませたまま、コンクリートの上の砂に唾液を垂らしていた。
俺は男から離れ、その角から十メートルの距離にあったもんじゃ屋に向った。
ちょうど飯田が出てきたところだった。その横に少女らしき子がいた。
すぐに真弓だとわかった。お姉系でもオカマでもなかった。幼い童顔で、そのせいで少女の
ように見える。服装も女性的。よく観察しないと男だとはわからない。いや、観察してもわから
ない。偽者とは明らかに違っていた。そして『ちゃん』の理由に納得がいった。
- 59 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:29
-
「どっちに行く?」
真弓に挨拶する間もなく、飯田に尋ねた。明かりに照らされて、俺ははじめて飯田の顔を
はっきりと見た。色の白い美人。炊き立ての白米のような輝きがある。
そのきらら397な飯田が答える。「わからない。でも逃げなきゃ。あ、ねえ、さっきの人?」
「まだダウンしてる。大丈夫だ」
「何か話さなかった? 何か持ってたり?」
「すまん。その時間がなかった。財布くらい抜いてくりゃよかった」
「まだ間に合うんじゃない? 免許証とか名刺とか、あるかもしれない」
「でも敵は組織だ。そんなミスはしないはずだ。もしあっても偽造だと思う」
道路の前後を見ていた真弓が、俺の顔を見て、次に飯田の顔を見て尋ねた。「ねえ、この
人は?」
声も女性っぽかった。女にしては低いが、最近ではそれほど珍しいことでもない。
「筒川さん、でいいんだっけ? ホムちゃんでしょ?」
「ああ、筒川歩夢。保田のせいで俺もトラブルに巻き込まれちまったらしい。君と同類だ」
「圭ちゃんの友達、でいいのよね?」
含みのあるいい方に、俺も含みのあるいい方で返す。「ああ。今んところは」
飯田がふふっと笑い息を漏らしたが、それは真弓の声にさえぎられた。
「あ、タクシー!」
- 60 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:29
-
ちょうど道路をタクシーが通りかかったところだった。タクシーは俺たちを無視してそのまま
通りすぎたが、それは俺が走って追いかけた。スプリンターはこういう時に役に立つ。
タクシーがカール・ルイスに気づき、二十メートルほど先の道路脇に停まってドアを開けた。
飯田と真弓が走り寄ってくる。急いで乗り込む。二人が後ろ。俺が前だ。
「どちらまで?」
「とりあえず深川の方にお願いします」後部座席から飯田が答えた。
タクシーが発進し、交叉点を直進し、次の赤信号で停止した後、大通りへと曲る。
「ここを出れば大丈夫と思う。月島って島だから、六本くらいの橋しか出口がないの。それと
地下鉄。だから封鎖しようと思えばできるのよ。踊る大捜査線じゃないけど」
「俺の住んでるところも似たようなもんだ。車が入れないような狭い路地に、住宅が密集して
て、外側の道路を封鎖したら中からは出られない。ま、そこから出てきたんだけど」
後ろを見ながらいう。飯田と目が合い、少しドキッとする。真弓は後ろを向いて、背もたれか
ら顔の上半分を出していた。
「どう? 怪しい車とかきてない?」
「今のところは大丈夫だよ」と、真弓が平然と答えた。
「あ、真弓ちゃんの記憶力は完璧なの。すっごい頭がいいから」飯田が付け足す。
見た目、そんな感じには見えないが、疑うようなことでもない。まだ俺は何も知らない。
後ろを全て把握したのか、真弓が今度は前を向いて前方を確認する。
- 61 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:29
-
俺は真弓に尋ねた。運転手が気になったので、やや小声になっている。
「君も、信長に会ったんだよね? そのせいで狙われた、で合ってる?」
真弓は前方を注視しながら、ほんの少し首を傾けた。
「違うのか? 保田は信長に会ったせいだって」いいながら俺は飯田の顔を見た。
「わたしもそうだと思ってた。圭ちゃんがそういってたし。真弓ちゃんは、違う?」
「うん、ボクは違うと思う」
一人称は『ボク』らしい。わざとらしかった偽者と違い、幼い感じがそのいい方に似合ってい
た。少女っぽい少年というよりかは少年っぽい少女と表現した方が妥当かもしれない。犬歯
が目立つせいか、雰囲気が谷村美月という子に似ている。最近はいろんなドラマに出ている
ようだが、俺が知っているのは深夜のNHKでやっていた意味不明な特撮ドラマの主演だ。そ
の子もドラマの中では逃亡をしており、組織から狙われていた。
その真弓が俺にいった。期待を裏切らないようにと努めているような口調だろうか。「あれ、
信長じゃないと思いますよ。多分、似た名前だったんで調子を合わせたんじゃないかな。そ
んな感じでした」
「まあそんなことだろうと思った。だとすると俺が狙われたのは何だったのかって気がしない
でもないけど」
真弓が何かいいたそうにしていたが、前方に集中するためか、開きかけた口を閉じた。
- 62 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:30
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「部屋が爆発したってのは本当なの?」代わって飯田が尋ねた。
「ああ。実家からの荷物に時限式の爆弾が入ってて。あと五秒遅かったら俺も保田も死んで
たと思う。保田も運の悪い時にきたらしいが、あいつがこなかったら俺は死んでた」
「保田さんもいたんですか?」今度は真弓が尋ねた。
「うちにきたのは初めてだけどね。突然思い立ったらしいから、あいつが狙われたんじゃない
んだと思う。俺が帰ってすぐに宅配便がきたから。だからあいつが爆発に遭遇したのは偶然。
敵は俺を狙っただけで、保田を狙ったわけじゃない」
「でも爆弾なんでしょ? それって命を狙われたってことでしょ?」
飯田が心配するような目つきでいった。美人に心配されるとは、俺も運がいい。
「そうらしいけど、俺にもわからん。俺なんかを殺したところで、どうにもならんと思うんだけど
な。だからある意味生贄で、保田や飯田さんに対しての警告だったんじゃないかなって。秘
密を誰にも漏らすなっていう」
飯田が黙りこくった。俺の言葉が組織以上の脅迫に聞こえたのかもしれない。反省するよ
うな表情だ。
「もちろん飯田さんたちは何も悪くないよ。当然だけど。でも、あの晩に電話を受けただけの
俺がこんな被害にあったら、保田も飯田さんも、何もいえなくなる。口封じにしては絶大な効
果だと思う」
気休めのつもりが、やはり脅迫になってしまっていた。タクシーは橋を渡って月島を脱出し、
車の一団、軽めの渋滞に突っ込む――その間、車内は無音に包まれていた。
- 63 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:30
-
その沈黙を破ったのは真弓の一声だった。
「あの斜め前の車、隣の車線の四台前だけど。あの車、ボクが月島にきて見つかった時に
変な動きをしてた車だと思う。品川ナンバーの、4183」
「覚えてるの?」
それには飯田が答えた。「真弓ちゃんは一度見たものは忘れないの。特技っていうか才能
ね。瞬間記憶術みたいな。何ていうんだっけ?」
「うん、直感像素質。記憶術じゃなくて、景色をそのまま記憶に焼き付けて、後から写真を引
き出すような。多分、右脳が発達してるんです。それか左脳が不完全だったか」
理論的にそういうこともあるのかもしれないが、俺は最後の部分をユーモアと解した。
「そんな能力があるのか。そりゃ便利だな」
「それより、どうします? 偶然かもしれませんけど、そうじゃないかもしれません。前と後ろ
で囲んでるのかも」
「どっか曲った方がいいか?」後ろを振り返って同意を求める。
「そうね――。運転手さん、次の大通り、右に曲ってもらえますか?」
飯田が運転手にいった。前方に門前仲町という表示が見える。
タクシーはすぐに右の車線に入り、じわじわと前に進んだ。前方の車はその交叉点を直進
した様子だった。信号が赤になり、右折待ちの車が一気に流れる。タクシーが曲ってすぐに
完全赤信号になったため、後ろから尾いてくるような車はなかった。ただし、それは今のとこ
ろ、ということにすぎない。
- 64 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:30
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「一安心ね」
飯田がほっとするような声を出した。それで俺はようやく一つのことを思い出した。
「そういえば飯田さん、部屋が荒らされてたって」
「あ、そうだった」
「警察には?」
「ううん。でも事務所の人がくるって。今頃きてるかもしれない。それまで待機しろって」
「どうする?」
「どうしよう。でももう戻れないし」
「俺が思うに、飯田さんや保田は大丈夫だと思う。こんな状況だから断言はできないけど。で
も飯田さんたちは藝能人だし、何かあって騒ぎになれば困るのは相手の方だと思う。それに
較べて俺はただの一般人だし、真弓ちゃんも、一般人なんだよね?」
「うん」
「真弓ちゃんはどう思う? 多分、俺なんかよりも勘が鋭いと思うんだけど。まあ俺が鈍感な
だけってのもあるけど」
後ろを振り向く。自虐が嫌いなのか飯田は渋い顔をしていたが、真弓は素直に笑っていた。
その笑顔を見るかぎり、やはり男だとは到底思えない。それまで目元にかすかに男の鋭さ
のようなものが残っているように見えていたが、目尻が垂れればそれもすっかり消え、女の子
が頬笑(ほほえ)んでいるようにしか見えなくなる。そしてやはり谷村美月に似ている。その辺
にヘンテコな宇宙生物がいるような気さえしてくる。
- 65 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:30
-
「カオは大丈夫だと思う。だってボクはずっと追われてたけど、カオは監視だけで、狙われた
わけじゃないから。部屋は荒らされたみたいだけど、もし狙うつもりだったら、もう今頃は狙わ
れててもおかしくないと思う。さっき筒川さんがいったけど、ボクが追われてるのも警告なんだ
と思う。だからといって油断はできないけど」
飯田のことを『カオ』と呼んでいるらしい。ただしイントネーションは『顔』の逆だ。
さきほど保田のことは『保田さん』といっていたから、保田とはそこまでの友達ではないのだ
ろう。例の緊急連絡先に伝言をする時は、最初にそのことを指摘してやる。
「俺と同意見だな。俺もそんなんで保田を帰した。あいつには仕事するようにいってある。事
務所にはストーカーに狙われてるっていえって、いっといたけど。でもあいつは大丈夫だと思
う。大体、あいつから聞いたのは信長のことだけだし」
「保田さんは本当に信長のことだけしかいわなかったんですか?」
「ああ。土蔵が博物館みたいだったとはいってたけど、後は信長と会ったってこと。あいつと
はよく歴史談義するけど、さすがに深夜は勘弁してほしい」
「歴史、好きなんですか? 筒川さんも? 保田さんも?」
意外そうな顔で真弓が尋ねた。
「俺は趣味。というか一応歴史学科出身だから。保田は暇つぶしらしい。マンガ読んで興味
持ったとかで。最初に歴史のバスツアーで会って、それから二ヶ月に一度くらいかな。でもそ
れだけの仲だよ。一度だけプライベートで呼ばれて酒飲んだことがあるけど」
後半は餘分(よぶん)だったらしい。真弓は俺がいい終らないうちに口を開いた。「それなら、
狙われた理由が何となくわかったような気がします」
- 66 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:30
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やはり信長が関係しているということなのだろうか。俺はその真意を尋ねようとしたが、真
弓が真剣な表情で車外に神経を注いでいるのを見て、先送りにした。直感像素質が具体的
にどういうものかはわからないが、風景を見ながら別のものをも見ているような感じなのだと
思う。会話で気を散らすべきではない。見るべきものは山ほどある。
真弓がちらっと後ろを向き、また前へ向き直り、息を一つ吐いてから口を開いた。交通量は
多いが、赤信号で車が溜まる程度で、道路自体はそれほど渋滞していなかった。
「さっきすれ違った対向車線の車。二台とも、四日前にボクを追ってた車です」
「間違いない?」と、飯田が尋ねた。かなり険しい表情になっている。
「うん。前後に二台いたけど、二台ともナンバーが一致したから」
「でもなんで前からなんだ? さっき直進した車が先回りしたってんじゃないのに」
真弓がふっと何かに気づいたような顔になった。
「カオ、携帯は?」
「ううん、持ってない。三日前に盗まれたの。だから」
「筒川さんは?」
「俺は持ってない。ただ、保田の携帯なら持ってる」
瞬時、声が飛んだ。「今すぐ電源を切ってください!」
大きな声ではなかったが、その勢いに圧迫されるように沈黙が広がる。
「あ、ああ、切る」保田の携帯の電源を切る。またもや自分の甘さを痛感する。「すまん。か
けなければ大丈夫だと思ってたから。GPSもついてないし」
- 67 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:30
-
「GPSじゃなくても、電源が入ってるだけで場所を特定することは可能です。もちろん理論上
のことだから、通信会社でも半径何キロっていうのが限界だと思うけど」
そういわれれば誘拐事件のニュースで聞いたことがあった。二、三の中継局の電波が重な
るような場所だと、その具合によって一つの中継局の場合以上に位置を特定できる。各地の
地震計のデータから震源地を割り出す方法と同じ、コンパスがあれば誰でも描ける。
「すまん。油断してた。保田には携帯を捨てろっていってたのに。あいつが狙われたんじゃな
いってわかって、つい油断してた」
「その携帯かどうかはわかりません。でも、どんな疑いでも潰していかないと」
外見は少女のようだが、真弓は冷静で俺よりも理知的だった。すでに四、五日は逃げ続け
ているのだろうが、それを逃げ続けているのだから大したものだ。
「真弓ちゃんは、歳はいくつ? 俺なんかよりよっぽど大人に思える」
「女の子に年齢訊くなんて野暮よ」
飯田が真顔でいい、真弓はクスッと笑った。怒ってはいなかったらしい。
「二十四です。見えませんよね?」
一瞬冗談かと思った。真弓は驚かれるのを楽しんでいるかのようにニコニコしていた。
「てっきり二十歳前だと思ってた。というか高校生か、あるいは中学生か」
飯田も俺の驚きが楽しかったのか、俺に質問してきた。「ねえ、わたしはいくつに見える?」
難しい質問だ。俺よりいくつか歳下だということは知っている。
「感じ的に保田と同じくらいかな。保田の歳は知らないけど」
「わたし二十五よ。で、圭ちゃんは一つ上」
- 68 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:31
-
「へえ。奇麗なお姉さんって感じなのに、俺より三つも下か」
「あ、ホムちゃんって結構おじさんなんだ」
飯田がからかうように笑った。
俺もその笑いを受ける。ただし、近頃自分の老いを感じることが多くなってきたせいか、た
とえ冗談でも、美人におじさんといわれたのはショックだった。二、三日は立ち直ることができ
ないかもしれない。せっかくの御飯も喉を通らないことだろう。
会話が途切れ、運転手が道を尋ねた。
俺たちの怪しげな言動や雰囲気などに、いい出すタイミングを逸していたのだろう。深川方
面といいながら、右折させてからは指示は一度も出していない。車は深川不動尊と富岡八幡
宮の付近を通過し、首都高速の高架をくぐってさらに東へと進んでいる。
「亀戸の方に向ってもらえますか?」
運転手がわかりましたといって、しかし直進のまま左折する気配はない。
ふと運転手に疑念を抱いたが、まさか組織の手先ということはないだろう。このタクシーは
俺が全速力で追いかけなければそのまま通りすぎていたはずで、乗車してからも無線を使う
などの不審な行為はしていない。俺の目の前にある顔写真も名前も、どこにでもいる普通の
おじさんで、ハンドルを握る姿には人生の哀愁さえ漂っている。それがもし罠で、発信機でも
ついているのならば、俺たちは潔く降伏すべきだろう。勝てる敵ではない。
青色の案内板に亀戸の文字が見え、そこでようやく左折する。道はそこまで混んではおら
ず、対向車の白いヘッドライトと前を進む車の赤いテールランプとが心地よいリズムですれ
違っていく。
- 69 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:31
-
「ねえ、わたしは、どうすればいいの?」
飯田が尋ね、俺は後ろを向いた。飯田は神妙な面持ち。真弓はやはり前後左右の車のナ
ンバープレートに目を見張っている。
「俺にもわからん。でも、飯田さんは逃亡する必要はないと思う。真弓ちゃんは追われてるし、
俺も狙われてる。だから、俺たちはこれから逃げることになるだろうな。二人だと目立つけど、
一人よりは心強い。それにどのみち見つかる時は見つかる」
「ボクも賛成です。ボク一人じゃ謎は解けないだろうけど、筒川さんがいれば、きっと謎を解く
ことができると思う。ボク、歴史は苦手なんです。いいですよね?」
「ああ。本当は美人とも逃亡したいんだが、わがままはいってられないからね」
飯田が苦笑を見せた。こんな出会いじゃなければと思う半面、こんな出会いだからこそ、と
も思う。格闘もしたし、飯田の目には結構格好いい男として映っているはずだ。保田から乗り
換えるなら今がチャンスだろう。
「二人で、大丈夫?」
「真弓ちゃんの能力があれば、こっちも心強い。それに、保田とも連絡を取り合うことになって
る。もちろん直接じゃなくて、間接的に伝言をするっていう形だけどね。保田には公衆電話か
らそこにかけるようにいってある。だからそれは漏れないと思う。さっきは油断してた」
自分が馬鹿ではないということを伝えるかのように俺がいった。しかし、それはいいわけが
ましく、俺自身をさらに陰鬱にさせた。
「圭ちゃんは、今頃家に帰ってるかな?」
「あいつの部屋も荒らされてるかもしれんが、それ以上はないと思う」
「保田さんは大丈夫だと思います。カオの部屋が荒らされたのは、多分カオの携帯と同じこと
だと思うから」と、真弓が何かに気づいたかのようにいった。飯田の携帯が盗まれたというこ
とは会話の中に出ていた。
- 70 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:31
-
「携帯?」
「カオ、あの晩、写メ撮ったよね? だから多分、それが狙いだったんだと思う」
あっ!――飯田が驚きの声を出した。思い出したことと現状とが一致したらしい。
「信長と記念写真でも撮ったのか?」
「ううん。そうじゃなくて。いくつか撮ったの。水墨画とか油絵とか。美術品がいっぱいあったか
ら」
「多分、その中に見ちゃいけないものがあったんだと思う」
すでに見当がついているというような口調だった。もしかすると、最初からそのことに気づい
ていて、あえていわなかったのかもしれない。飯田を守るために。
「でもその美術品って、真弓ちゃんの友達の、なんだよね? 仙石だっけ?」
「うん。学生の時のね、友達。でも、あそこはセンちゃんの家じゃないよ。多分、母方のおじい
さんのお屋敷だと思う。ボクも初めて行ったから。有名人がいたから張り切ったんじゃないか
な。普段は家のこととかいわないし、自慢したりもしない。それにナンパもしたことないくらいだ
から」
俺が飯田の前で格好いいところを見せようとしたのと同じ、だったのだろう。そこまで遊んで
る感じじゃないといった保田の観察は正しかったらしい。だとすると保田はプロの遊び人だ。
「その仙石ってのはどうなの? 連絡は?」
「会社にかけてみたけど、出張でロスに行ってるって。多分避難させられたんだと」
その答えではなく、真弓のあまりに普通然とした答え方に、俺は一瞬、意味がわからなかっ
た。俺はその仙石という金持ちが組織の源だと考えていたのだ。
「その仙石ってのが俺たちを狙ってるんじゃないのか? その……本人じゃないにしろ」
- 71 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:31
-
「失策だったとは思う。多分、他人に見せてはいけないものが中に含まれてたから。でも、ボ
クはそうじゃないんだと思う。ボクたちがそれを見ちゃったということが知れて、彼じゃなくて、
その先、何か秘密を共有しているような上級の組織が動いたんだと思う。いくらお金持ちでも、
ボクを追ったり、電話を受けただけの筒川さんを殺そうとしたりはしない。そこまでやるってこ
とは、いいたくはないけど、裏社会だとか裏の権力だとか、そういうものじゃないと説明がつか
ない。そこには多分、そこにあるはずのないものがあった。ボクはそう思ってる」
あるはずのないもの……。それが俺たちを追い詰めているのだろう。
「なるほどな。大坂城に監禁されてた信長の存在を知ってしまって、石川五右衛門が秀吉の
秘密部隊に狙われたようなもんか」と、俺は例の空想短編集の筋書きを呟いた。「だとすると
敵は秀吉、追手は細川幽斎(ゆうさい)の手勢か」
「えっ?」
「いや、こっちの話」
真弓と飯田が不思議そうに見合い、俺は一人で笑みを浮かべた。脳裏には釜茹での刑に
処せられる自分の姿。白いタオルを頭の上に乗せ、絶景かな絶景かなと強がりからの場違
いな文句を口にする。顔や躰が見る見る間に赤く染まり、それでも煮えたぎる釜の中から景
色を眺める。
できれば勘辨(かんべん)願いたいが、しかし隣に美女がいるのであれば、それも悪くない。
飯田なら文句なし。そういう趣味はないが真弓でもいい。保田も、まあありだろう。
組織から逃げおおせた暁(あかつき)には、四人で露天風呂にでも行くことにしよう。何だっ
たら水着着用でもかまわない。俺たちが生き延びられる可能性はそんなに高くはない。
- 72 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/01(日) 16:32
-
なんとかこのペースで更新します
- 73 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/02(月) 01:42
- うぅ〜!先が楽しみ、久々に読み応えあるぞ。
- 74 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/02(月) 13:20
- 続きが楽しみです。
- 75 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/03(火) 11:56
- この小説読んで圭ちゃんが可愛くて。好きになっちゃった。
- 76 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/08(日) 18:18
-
状況把握のため、今週お休みします
- 77 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/09(月) 02:10
- どうぞ、納得のいく状態で更新して下さい。
- 78 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/09(月) 04:34
- 今週だけですよ!。
来週には必ず戻ってきてくださいね。
- 79 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:07
-
B-1
仙石からの電話を受け、尾藤真弓は半信半疑のまま、外の様子を窺った。
レースのカーテン越しにマンション裏の路地が見える。会社名がプリントされた白い車が一
台、路肩に停まっているが、いつも見かける車だ。それ以外に車はなく、人の姿も見えない。
車の陰や電信柱の陰にも目を向けたが、怪しいところはどこにもなかった。白い雲がぽっか
りと浮かんだまま、青々とした空を動こうともしない。
「何もないよ。いつもと変わらない」
携帯を左頬に戻して言葉を返したが、すでに電話は切れていた。
真弓は携帯を折りたたみ、もう一度窓の外を見た。
都心部とは違い、そこかしこに隙間がある。道路も広く、並んでいる住宅は小さいながらも
庭があり、マイホームという言葉がよく似合う。足を伸ばせば緑の公園もあり、畑の地区もあ
る。スーパーには地元産のブロッコリーやカリフラワーが並ぶほどだが、それでも快速なら新
宿駅まで二十分もかからない。環境もよく、利便性もあり、東京のベッドタウンとしては申し分
のない土地だ。真弓が大学に入り、この叔父の部屋に同居するようになってからも、新しいマ
ンションが次々と建っている。
- 80 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:08
-
手に持ったままの携帯を開き、真弓は着信履歴から仙石にかけ直した。
呼び出し音が一回、二回。すぐに仙石が出たが、珍しく厳しい口調だった。
「早く逃げるんだ! これは冗談じゃない! 本当に本当だ!」
「ねえ、ちょ、ちょっと待ってよ。話が全然わからないよ。ボクたちが見てはいけないものを見
てしまったっていったけど、でもどうしてそれが追われることになるの?」
「俺にもよくわからん。でもそうなんだ。どこからか話が漏れて、大変なことになってしまったら
しい」
几帳面な仙石にしては、話の要所要所が全て曖昧だった。想像や思い込みだけで追い立
てられているように思えた。
「センちゃんはどうなの?」
「じーちゃんがいるから、こっちは大丈夫だ。しばらく東京を離れて様子を見ることになると思
うけど。実はもう、家を出たんだ。今、成田にいる。どこに行くかはまだこれからだけど」
「ねえ、ボクは?」
「すまん。逃げてくれとしかいえない。君は大丈夫だと思ってたんだが、どうも君たちにも手が
伸びているらしいんだ。今日中にもマークされるかもしれん。とにかく逃げてくれ。連絡はしば
らくやめた方がいいかもしれない。俺はこっちで様子を見る。だから――」
- 81 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:08
-
電話が唐突に切れた。
真弓はもう一度かけ直したが、今度は通じなかった。お馴染みの女性の声が、電波の届か
ないところにおられるか、電源が入っていないため……と、事務的に告げていた。
「なんでそんなとこにいるんだよ……」
苛立たしげな言葉が口から出た。いい気分ではなかった。自分だけ先に逃げていたという
ことへの怒りもあるが、状況のわからない焦りが雨を降らせない雨雲のように真弓を覆って
いた。
真弓は窓を開けた。その日の最高気温は三十二度。梅雨入り前の五月とは思えない気温
だ。太陽はこれでもかと地上を暖め続け、雲は太陽に恐れをなしたのか、それとも太陽と裏
で手を結んだのか、それを阻碍(そがい)しようともしない。唯一救いなのは、カラッと晴れ上
がっているせいで日陰に入れば涼しいということくらいだ。
道路に動きはなかった。一分ほど見続けたが、自転車の女性が通っただけで、戒厳令でも
敷かれているかのように静かだった。世界征服を目指す悪の組織も、きっと冷房の効いた場
所で涼んでいることだろう。五月の暑さは八月の猛暑よりも人を億劫(おっくう)にさせる。
真弓はそんなことを思いながらも、窓を閉め、念のために準備を始めた。仙石は嘘をつくよ
うな人間ではない。何か異変が起きようとしている、いや、起きているのは事実だろう。
- 82 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:08
-
普段のリュックサックではなく、以前に房総半島を徒歩で一周した時に使ったリュックサック
を押入れから取り出し、荷物を詰め込んだ。五分もかからなかった。準備を済ませ、真弓はま
たもや携帯をかけた。予想通り、電話は繋がった。
「準備したよ。よくわからないけど、センちゃんがいうのなら、本当だと思うから」
「ああ、すまん。さっきはちょっと、あんまりにも信用してなかったみたいだったから」
「どれくらい逃げてればいいの?」
「わからんが、とりあえず一ヶ月。何もなければ、大丈夫だと思う。できるか?」
「それくらいならね。旅行は好きだし、どこ行っても暮らしていけるから」
一分ほどで会話は終わり、電話を切った。今度は真弓からだ。もちろん、話の途中でわざと
切ったりはしない。そんなことをしてまで危険を知らせる必要があったのは、仙石の方だけだ。
真弓は徒歩で家を出た。中央線の駅までは二十分。普段は自転車を使うが、一ヶ月も離れ
ていれば当然撤去される。お気に入りの自転車を失いたくはない。
周囲を観察しながら、真弓は駅への道を進んだ。怪しい人物などはどこにもいない。自分に
本当に危険が迫っているのか、にわかには信じられなかった。急に思いついて旅行に出るよ
うな気分だった。
それでふと立ち止まり、きた道を引き返した。本格的な画材道具は荷物になるとしても、色
鉛筆や画用紙大のスケッチブックくらいなら大丈夫だろう。それに、今取り組んでいる気象予
報士の問題集もありかもしれない。受験は未定だが、一ヶ月間、何もしないでいるというのも
無駄だ。
真弓はなるべく日陰を歩くようにしながらマンションへと戻った。
- 83 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:08
-
B-2
本当に何かが起きていた。仙石の電話があと少し遅かったら、捕まっていた。
真弓は大学の図書館に身を潜めていた。自転車で住宅街の小道をジグザグに走り、裏道、
裏道を通って追手を巻いた。着いたところが大学だった。大学に入りたての頃は、天気のい
い日は自転車で四十分かけて通ったこともあったが、まさか卒業してからそんなことをすると
は夢にも思っていなかった。それも、正体不明の敵に追われて、だ。
真弓がマンションに戻った時、裏の路地ではなく表の路地に、部屋を出た時にはなかった
車が三台、マンションを遠巻きに囲むように停まっていた。窓にはスモークフィルムが張られ
ていたが、真弓はその中から自分が注視されているのに気づいた。
勘だった。真弓の脳は普段とは違う光景に対して過敏に反応する。それは能力がフル稼働
していた頃の名残だ。
真弓は平静を装ってマンションの玄関に入った。部屋の中がすでに犯されている危険もあっ
たが、それを確認する必要もあった。真弓は携帯電話のボタンを三つ押し、通話ボタンの上
に指を置いた状態でエレベーターに乗り、さらに通路を進んだ。
部屋の中はまだ無事だった。すぐに窓際へ行き、裏手を確認した。あいかわらず会社名の
プリントされた車だけが停まっていた。裏口からなら逃げられる。
- 84 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:08
-
真弓は二、三度深呼吸をし、自転車の鍵を持って部屋を出た。色鉛筆や問題集はパスだ。
逆に餘分(よぶん)なものを外した。着替えも半分に減らした。そんなものはどこでも買える。
それから念のため、机の上に叔父に宛てたメモを残しておいた。
叔父は真弓が大学を卒業すると同時に転勤になったが、それでも二ヶ月に一度くらいは顔
を出す。留守番が勝手に旅行に出たのでは、心配するだろう。それに、もしも誰かが部屋に
侵入した際、そのメモが効果を発揮することも期待した。
真弓はメモに、伊豆半島へスケッチ旅行に行くと書いた。おまけとしてかわいらしい顔文字
を付け足しておいた。危険が迫っていることに気づいているとは思わせない方がいい。叔父
にも、敵にも……。しかし、その楽観論はすぐに潰えた。
非常階段から直接自転車置場に下り、真弓はお気に入りの水色のシティサイクルに乗って
裏の路地に出た。そこに人の姿はなかった。そのはずだった。だが、角を曲ったところに車
が停まっていた。スモークは張られておらず、運転席に一人。そして車の脇に一人、白のワイ
シャツに黒ネクタイを締めた男が立っていた。
まずいと思ったが、そのまま気づかない振りをして通りすぎた。ブロック二つ分進んで角を
曲る際に横目で確認してみた。その車は停まったままだったが、無関係と断定するには怪し
すぎた。
- 85 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:08
-
角を曲った瞬間から、全力で自転車をこいだ。案の定、しばらく進んだところで、表の路地に
いた車が後ろに張りついた。五十メートルほどの間隔を空けて尾行しているのだとわかった。
汗が一気に冷水に変わった。
それからは必死だった。違法ながら自転車の特権を利用し、赤信号を突破しまくった。住宅
街の小道へ分け入り、車の通行できない駅前商店街のアーケードを通った。十五分ほどして
また一台の車に見つかったが、それも巻いた。敵は駅を見張っていると考え、あえて駅を迂回
した。それで目的地を大学に変更した。そこならよそ者は入れない場所だ。真弓もよそ者だが、
恩師に顔を見せるという大義名分が通る。
二十八度の冷房の中、真弓は警察に電話をするべきかどうか迷っていた。
危険が迫っているのは間違いない。しかしまだ実害は被(こうむ)っていない。それに、何と
説明すればいいのか、それがわからなかった。仙石がそのような手段をまったく口に出さず、
逃げるようにといっただけだったのも気になった。
それがどういうことなのか、真弓は考え、すぐにやめた。考えられることは無限にある。そし
てそのどれもが、マイナスのものだった。警察などあてにできないほどの大きな問題なのかも
しれない。敵が警察以上の存在であるのかもしれない。警察が敵なのかもしれない。警察に
はいえないような事情があるのかもしれない。それが一番、可能性が高そうだった。
本当に無限だ。そして救いがない。無音の図書館の中、真弓の周りだけ冷房の温度がどん
どんと低下していった。
- 86 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:09
-
真弓は額を机につけ、両腕を机の上に伸ばした。しかし泣くほど事情を把握しているわけで
もなく、ただやり切れない気持ちだけがあった。そしてふと、そこに飯田の顔が浮かんだ。
飯田と初めて出会ったのは二年前の三月だった。週末に井の頭公園でスケッチを始めた頃
で、まだ路上で似顔絵を描いたりはしていなかった。アルバイトをしながら、いろんな資格を取
得していた頃だ。真弓は学生時代から、二十以上もの資格を取得している。半分は外見には
似合わないといわれるような現場系の資格で、測量もできるしタクシーの運転手にもなれる。
公園の濃緑の森林。ぼやけた色の湖面。水色の空。奥に見える白堊(はくあ)のマンション。
構図は適当だった。正式にデッサンを習ったことはない。ただ、NHK教育で放映していた趣味
の番組を見て、いくつかの技法や手法は頭の中に入れてあった。
しばらくスケッチを続けていると、後ろに人の気配がした。それが飯田圭織だった。すぐに飯
田だとわかったのは、その少し前に飯田がモーニング娘。を卒業したというニュースをやって
いたからか、あるいは何かの番組で見たのか、そのショートカットを覚えていたからだった。
飯田は男と二人だった。正直、あまり格好のいい男ではなかった。はみ出してはいるが、小
ぢんまりとまとまっている、どこにでもいるような男だ。
真弓が振り向くと、上手ですね、と飯田が声をかけた。わたしも絵が趣味なんです、といい
わけのように続けた。それから絵の話をした。五分ほどだったと思う。
- 87 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:09
-
カレシらしい男の方は真弓にも絵にも興味を示さず、待ちぼうけを喰わされたとでもいわん
ばかりにタバコを吸い始めた。それで喧嘩になった。テレビでは絶対に見られないような声で
飯田が吠え、カレシもまたそれに対抗するように吠えた。喧嘩は飯田が勝った。カレシはせっ
かくの休日がどうのこうのといいながら、今日はもう気分じゃない、と告げて去って行った。
真弓はその光景をただただ唖然と見ていた。自分のせいで、ごめんなさい、と告げると、飯
田もまた、ごめんなさいと返した。
それが最初で、次はその一年後だった。場所は同じ。今度は飯田がスケッチをしていた。真
弓は資格の試験が終わり、リフレッシュのためのジョギングをしていた。真弓が声をかけると、
飯田も真弓を覚えていた。それで絵の話をし、場所を真弓の部屋に移した。真弓の作品を見
るためだった。
真弓が男だということに飯田は気づかず、それを告げた時はかなり驚いていたが、飯田の
対応が変わることはなかった。それからメールや電話のやり取りをするようになった。すっか
り打ち解け、たまに一緒に食事やショッピングをするようにもなった。悩み相談を受けたことも
ある。真弓にとっても、飯田はよき理解者だった。
真弓が大きく一つ、溜め息をつく。幸せが逃げていくことがわかっていても、溜め息は自然
に出た。予期できることでもなく、責任があるわけでもないが、もしかしたら飯田を厄介なこと
に巻き込んでしまったかもしれない。飯田だけではない。その場合は保田圭も一緒だ。
- 88 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:09
-
保田と会ったのはあの晩が二度目だった。一度目は飯田に誘われた日帰りドライブで、そ
の帰り道に二人は真弓の部屋に立ち寄った。酒の飲めない飯田と違い、保田は豪快に酒を
飲み、一人で女優論を語り続け、そのまま泊まっていったほどだ。そして帰り際に、また一緒
に飲もうと約束させられた。
それがあの晩だった。三人で、保田の行きつけらしいバーに行った。飯田は軽いカクテルを
一杯だけ。保田はシャンディ・ガフを立て続けに二杯も飲んだ。なんでも、付き合っている男性
とは別に気になる男性がいて、まず最初にシャンディ・ガフを頼むらしく、それを真似してみた
らしい。
その男はそれ以外は、ソルティ・ドッグとブラッディ・マリーくらいしか知らないらしく、カクテル
も知らないような男なのよ、と保田はなぜだか嬉しそうに語っていた。真弓もカクテルはあり
きたりのものしか知らないが、その統一性のない三品だけしか知らない男というのが、保田
以上に変人に思えた。シャンディ・ガフという名前も、それがビールとジンジャーエールを半々
に混ぜたものということも、真弓はその時に初めて知ったくらいだ。
そんな話を聞いている時、偶然にも仙石が現れた。一人だった。仙石は真弓に気づき、声
をかけてきた。そして有名人二人を見て一気にのぼせ上がった。もし二人が有名人でなかっ
たら、仙石はおじいさんの豪邸に案内したりはしなかったことだろう。真弓でさえ、御曹司であ
ることは知っていても、それを目の当たりにしたことは一度もなかったのだから。
- 89 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:09
-
夕方の六時になった。空はまだ明るかったが、いつまでも図書館に居続けるわけにはいか
ない。真弓は外に出て、ゼミだか研究室だかサークルだかの帰りの集団に紛れた。中央線の
国立駅はすぐだったが、南の南武線谷保駅まで歩くことにした。自転車は学内の自転車置場
に置いておいた。ここなら、そう簡単に撤去されることはない。
さすがに追手の姿はなかった。自転車で西へ逃げたことがわかっていたとしても、そこから
先の経路は無限にある。それに、もし近隣の全ての駅をマークしていたとしても、夕方のこの
時間だ。何千人、何万人という人間の中から一人の人間を見つけ出すことは不可能に近い。
真弓は南武線に乗り、川崎に出て、カプセルホテルに宿泊した。
そこで三日間ほど様子を見た。長逗留の客のためにコインランドリーもあったから、下着も
洗濯できた。浴場は恐くて入れなかったが、個別のシャワールームがあり、それを利用した。
外出は必要最低限にした。情報が欲しかったが、街を出歩いて得られるものは何もない。
真弓はただただ時がすぎるのを待った。だが、不安は募るばかりだった。その理由は、飯田
の携帯に電話がまったく繋がらないことだった。大学の図書館辺りで様子見のメールでも送っ
ておくべきだったと後悔した。普段も繋がらないことはあるが、留守電にはなる。そうならない
ということは、飯田にも何かが起きているということになる。たとえ別の理由があるにせよ、真
弓にはそうとしか思えなかった。
仙石の携帯にもかけたが、こちらも繋がらなかった。それで諦めた。というよりも、携帯の
電源を入れておくというのが危険かもしれないと思い、真弓も電源を切った。
それから念のため、公衆電話から仙石の会社にかけてみた。ロスに出張という話だった。
以前にも研修とかで一年間アメリカに行っていたから、避難するにはもってこいだろう。ただ、
カプセルホテルに身を隠すのと、どちらが安全かはわからなかった。
- 90 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:09
-
三日が経った。
一応、普段は見ないテレビのワイドショーを見て、何か事件や事故が起きていないかどうか
を確認していた。ロビーにあるスポーツ新聞にも目を通した。特に何もなかった。だが、何も
ないということが、何かあることよりも不安にさせた。
真弓は飯田に会いに行くことを思いついた。以前、飯田の部屋に遊びに行った時に、月島
のもんじゃ屋に連れて行ってもらった。飯田は月に二度ほど、その店にくるのだといっていた。
常連で、店のおばさんのことを東京のお母さんといっていたほどだ。田舎から上京してきた有
名人の常套句(じょうとうく)だから、本心かどうかはわからないが、それでも特別な店の一つ
には違いない。
真弓は月島を目指した。飯田の無事を確認するために。そしてそれは、自分自身が安心す
るためでもあった。しかし、そこで真弓は失敗を犯した。
地下鉄の駅を上がったのが……迂闊だった。地下鉄の出口に知った顔があったのだ。自
転車で逃げた時、最初の角に停まっていた車の、運転席にいた男だ。真弓はその男の顔に
ふっと視線を留めてしまった。気づいた時には遅かった。男は当然、真弓の顔を覚えていた。
真弓は逃げた。男は追ってこなかった。でも安心はできなかった。追ってこない理由は考え
るまでもなかった。周りにまだ仲間がいるのだ。そしてすでに包囲網が整っている。
戦慄した。籠の中の小鳥のように、真弓は月島に囚われていた。
- 91 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:09
-
B-3
もんじゃ焼き屋の二階。尾藤真弓はサイダーを飲みながら、階下の気配を息を殺しながら
静かに窺っていた。
店内の様子ははっきりと覚えている。客の顔や配置も覚えている。もんじゃ屋にしては小奇
麗で女性受けする内装。壁に貼られたメニューと備え付けの鉄板だけが独特の空気を醸して
いる。
入口にはテーブル席が二つ。OLらしき女性客が三人、もんじゃの食べ方で盛り上がってい
る。その奥にはL字型のカウンター席があり、二十代くらいの若いサラリーマンが二人、炒め
物らしきものを食べながらビールを飲んでいる。怪しいとすればその二人だが、カウンターの
中のおばさんが親しげに名前を呼んでいたから、常連客なのだろう。
店の右半分がそれで、左半分は靴を脱いで上がる座敷席になっている。鉄板のついたテー
ブルが四つ。一組の家族がいる他は空いている。客の合計は九人。それに店員が二人。怪
しいところはない。
真弓は繋ぎ合わせるように思い起こした数枚の直感像の光景を頭から振り払った。ここ数
日の間に溜まった情報で、頭の中はパンク寸前になっていた。特に月島に来てからは、見か
ける顔という顔、車という車、それら全てを頭の中に記憶していた。いつヒューズが飛んでもお
かしくはない。そんな状態になったのは小学校の時以来のことだ。
- 92 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:10
-
直感像素質。真弓は物心がついた時にはすでにそれを身に付けていた。見た景色が見た
ままの状態で記憶に留まる。瞬間、瞬間が全て蓄積される。普通のことだと思っていた。
両親がその能力に気づいたのは、真弓のパーフェクトな神経衰弱が理由だった。天才だと
か神童だとか、両親が喜びと困惑とを表情に混ぜながら話していた。真弓はその意味がわか
らなかったが、それでもその表情を今でも一枚の光景として覚えている。
それが、ある時いきなりパンクした。真弓の目に映る全ての光景は、たとえそれが同じもの
であっても、どれも違ったものに映る。通学路も、人の顔も、どれ一つとして同じものはない。
真弓はその全ての瞬間を見、その全ての瞬間を覚えていた。たとえていうならばテレビの映
像を秒間何十枚もの静止画像として見ているようなものだった。パンクして当然だった。
一年前の神経衰弱の並び、カードをめくった順番、伸びていく自分の腕、両親の顔の表情
の変化、その時の部屋の模様、家具の配置、壁のしみ、蛍光灯の光とそれによって生じる影、
そういった不必要な情報がぎっしりと詰まったままの真弓の脳は、生活するにも成長するにも
あまりにも無駄にできていた。その結末が突然の全身痙攣。泡を噴いて倒れた。
- 93 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:10
-
病名のわからないまま病院に入院し、専門医のテストやチェックを受けた。その過程で直感
像素質と判断され、それが原因ではないかという話になった。それを特定できないまま、必要
な時以外に能力を活用しないようにとの訓練が開始された。地獄のような訓練だった。それま
での物の見方や考え方を全て捨て、一から構築し直さなければならなかった。普通の素質者
とはそこが大きく異なっていた。真弓のように、見たもの全てを取捨選択することなく記憶領域
に溜め込んでいるような症例は、海外でたった十数例が報告されているだけ。そしてその両手
の指の数ほどの中で、普通の社会生活を送れていた者は一人もいなかった。
その改善、いや、改造に一年かかった。一年かけて真弓は、瞬間瞬間の光景を忘れるとい
う普通のことを覚えた。ただし、それで普通の生活が営めるようになったかというと、真弓にも
よくわからない。真弓には能力とともに容姿という問題も付きまとうのだ。
一階から漂ってくる香ばしいソースの匂いが真弓の嗅覚を刺戟する。お腹はそれほど減っ
ていないが、こうも嗅がされ続けると、目の前の冷たい鉄板に熱を入れたくなる。ただし、もん
じゃを作っているような余裕はない。
真弓は飯田を待ち続けていた。その店に逃げ込んでからかなりの時間が経っている。そろ
そろきてもいい頃だと思うたびに、何かトラブルが起きているんじゃないかと不安になってくる。
一度部屋に返してしまったのが大間違いだったと、何度となく思っては深く息を吐く。そのうち
酸素欠乏症に陥るかもしれない。
- 94 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:10
-
真弓が逃げた時、男は追ってこなかった。そして、すぐ近くの路地で偶然にも飯田に出会っ
た。それで一つのことを理解した。男は真弓ではなく飯田を待っていたのだ。地下鉄に乗るか
どうかを監視していたのだろう。
飯田は三十メートルほど手前から真弓に気づき、驚いた表情を浮かべた。だが、真弓は東
京カステラのように人差し指を唇に当てて、平静を装うように促し、周囲を確認してから付近の
雑居ビルの中に逃げ込んだ。真弓は昔、東京カステラに似ているといわれていたことがあった。
一分ほどして飯田もその中に入ってきた。すぐに東京カステラに気づく。
ほとんど磨かれていない重いガラスドアがあり、エントランスというよりかは古ぼけた洋風下
宿の玄関という感じの共用スペース。年代物のエレベーター脇に人の背丈ほどの植物が立っ
ていて、真弓はその後ろに隠れていた。
飯田は、その数日間心配していたのだといった。それが辛くもあり、嬉しくもあった。真弓は
追われていたことを簡単に話した。飯田は表情に困惑の色合いをさらに深めた。何かあると
は思っていたが、やはりだった。飯田の方も監視されているという話だった。ただし、追いかけ
られたりはしていないという。
真弓は飯田が有名人であることを思い出した。そして、飯田はもしかしたら安全かもしれな
いと思った。一般人とは違い、飯田が事件に巻き込まれでもしたら世間は大騒ぎになる。見て
はいけないものが何であれ、そのことが漏れるのは敵にとっても好ましくないことだろう。
百パーセント納得のいく予想ではなかったが、真弓はそう考えた。
- 95 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:10
-
飯田は仕事が終わってマンション前まで送ってもらい、そこからそのままスーパーに買い物
に行こうとしていた途中だった。その話を聞き、真弓はそのままスーパーへ行き、何ごともな
かったように買い物をして一度帰宅し、それからもんじゃ屋で落ち合うことを約束した。
そして飯田が出ようとした時、飯田を探しているのか、真弓を探しているのか、それとも両方
を探しているのか、ビルの前の道路を自転車よりも遅く、ゆっくりと進んでいく車が見えた。や
はり包囲網があるのだろう。真弓は車が通りすぎてから通りの様子を窺い、斜めの角度から
ナンバーを記憶した。品川ナンバーの4183。確認してすぐに飯田の横に戻った。
心臓がやけに高鳴り、自分が男だということをいつも以上に意識させられた。飯田は真弓
以上に何がどうなっているのかわからないといった戸惑いの表情を見せていた。
真弓は何度も何度も大丈夫だといい、いや、自分にいい聞かせた。飯田は真弓の提案を
受け入れた。
飯田がビルを出て、二十分ほどして真弓も外に出た。ビルとビルの隙間の道を通り抜けな
がら、もんじゃ屋を目指した。
それから一時間半が経っている。部屋を抜け出せないのか尾行がいて辿り着けないのか。
真弓は飯田に危険を冒させたことを一分ごとに後悔していた。不安が不安を呼び、膝頭が
局地的な群発地震のようにぶるぶると震えていた。
- 96 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:10
-
そんな時、入口の戸が勢いよく開く音が聞こえた。
「真弓ちゃん! 早く!」
飯田の声。
鞄を背負い、階段を駆け下りて急いで靴を履く。テーブルの上にはすでに百五十円を置い
てある。無銭飲食にはならない。
真弓は飯田に手を引かれるように店を出た。意外に力が強く、目が少し恐かった。
通りに出ると、そこに一人の男がいた。さも当然のように飯田と合流する。
年齢は二十五から三十の間だろうか。顔は濃いが、彫りが深いというわけではなく、整って
はいるがどこか個性的という、表現のしにくい顔つきをしていた。髪は短髪で、中央がやや盛
り上がっているからモヒカン風カットか。それをしばらく放置しているといった感じだったが、顔
つきにその髪型はよく似合っていた。
その奇妙な男も、真弓と同じように追われているという話だった。
名前は筒川歩夢。彼はカール・ルイスのように足が速かった。
そして、真弓はタクシーの中での会話で、その筒川がどういう人物なのか、一つだけ見当を
つけていた。
彼の知っているカクテルは三品。そして多分、バーでは最初にシャンディ・ガフを注文する。
- 97 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/14(土) 21:11
-
なんとか続けられそうです。
- 98 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/15(日) 03:16
- お待ちしておりました。
- 99 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:21
-
C-1
車は月島へ向っていた。空は薄曇りだが遠くの方は晴れていて、ユリカモメのようなそうで
ないような白い海鳥が鉄橋の欄干にオブジェのように留まっていた。太陽はまだ天頂には届
かず、寒くもなく熱くもなく、すごすには快適な時間帯だ。
運転席の伊勢崎が椎葉(しいば)の方を向いた。椎葉は外から視線を戻し、伊勢崎の顔を
見やった。
あいかわらず素性不詳の怪しい顔をしている。やり手の営業マンにしか見えないが、椎葉
が知るかぎり、やり手の営業マンにしか見えないようなやり手の営業マンは存在しない。
「ターゲットは女性。一人暮らし。十二階建てマンションの九階、七号室だ。間取りはリビング
とダイニングの一体型で3LDK。全戸ファミリータイプ。元々は分譲だったらしいが、半分は賃
貸だ。もちろんセキュリティ完備でオートロック。入口には管理人室もあるが、これは通(かよ)
いだ」
「女の一人暮らしでファミリータイプか」と、椎葉が尋ねる。
「そう珍しいもんでもないだろ。女でも稼ぐ奴は稼ぐからな。むしろ女の方が稼ごうと思えばい
くらでも稼げる。世の中は不公平にできている」
「ああ」曖昧にうなづきながら、椎葉は胸ポケットから出したタバコにジッポで火をつける。
「おいおい、俺は禁煙中なんだぞ」
「あ、そうだったか。そりゃすまん」
「まあ消さんでもいいがな」
窓を開け、外に向って煙を吐き出してから、椎葉が切り込んだ。「で、仕事ってのは」
- 100 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:21
-
「ああ、その女性の部屋に忍び込んでもらいたい。すでに部屋を出たと報告があった。今日
は地方泊まりで、明日の夕方にならんと帰ってこないらしい。余裕のある仕事だな」
「ガサ入れなら他の業種に当たるべきじゃないのか」
「ピッキング痕を残したくないらしい。それに、防犯カメラは出入り口だけじゃなく各階の廊下
にもついている。誰にも気づかれずにやってもらいたいらしい。そのためにはスパイダーが
適任というわけだ」
「防犯カメラを切ればいい」
「そういうアクシデントもなるべく回避したいってことだろう」
「部屋の窓は?」
「二、三階なら閉めるだろうが、九階だ。それに各階の七号室と八号室のベランダは独立構
造で、隣室とは接していない。報告じゃカーテンこそ閉めるが施錠はしないらしい。まさか上
から下りてくる奴がいるとは思わないだろうよ」
「よくわかったな。九階なのに」
紫煙を吐き出しながら椎葉が尋ねた。ただし、その答えは聞かなくてもわかっている。
「双眼鏡で確認したんだろ。ターゲットはすでに監視下にあるからな。だから向うさんも自分の
周りに何が起きているのか、警戒しているらしい。携帯も電源を切っているという話だからな。
ただ、監視がばれるのは別にいいとしても、それ以上になると厄介だ。ピッキングなんかで強
引に侵入すれば、大事になるのは間違いない」
- 101 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:22
-
聞きながら、椎葉は窓の外を眺めた。
いくつかマンションが見える。レンガ模様の外装のファミリー向けマンションもあれば、手抜
き工法で作られた華奢(きゃしゃ)なマンションもあり、いかにも高級そうな高層マンションもあ
る。覗こうと思えばどこからでも覗ける。たとえ最上階であっても、プライバシーが完全ではな
いのが都会の弱点だ。
「それで、すでに監視下にあるターゲットとやらに、さらに何をしかけるんだ。わざわざ」
「おいおい、そういういい方はないだろう。君にとっても悪い話じゃない。報酬だって普通の仕
事の倍だ。まあ、君が本気で泥棒稼業をやるんなら3LDKのマンションを別荘にするくらいは
軽く稼げるんだろうが。椎葉、君はなんで泥棒をやらんのだ」
「やってるさ。ただ、金銭泥棒は趣味じゃないんでね。他人の金を盗んでも全然、ありがたくも
何ともない。それよりは依頼を受けて報酬を貰う方がいい。不倫相手に取られた写真のネガ
だとか美人の下着だとか、つまらんものでも依頼者の人間性ってものが透けて見える。それ
に、その方が働いてるって気分がする。それが本職ではないにしろ」
「俺にはわからん。だが、君が一流のスパイダーだということに疑いの餘地(よち)はない」
「別に英語使わなくても『蜘蛛』でも『八本足』でもいい。隠語であっても差別用語ってわけじゃ
ない」椎葉は笑ってみせた。
- 102 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:22
-
「乗り気になったみたいだな。実は今回の依頼、受けてくれないんじゃないかと思って心配し
ていたんだ。君は一匹狼というか、フリーランスだから」
「まだ受けたわけじゃない。第一、一番重要なことを聞いていない」
「何を盗むのかってことか」
「ああ」
「それなんだがな、依頼を受けてくれなければいえないことになってる。ある意味ではそれは
君のためでもあるんだが」
「厄介な仕事っぽいな。その女は一体、何をしたんだ? 政治家の大先生の痴態でも撮影し
たか、高級売春業者の門外不出の名簿でも盗み持ってるか。どちらにしろ億単位のことをし
でかしたってことになるが」
「それもいえないが、まあそんなところだ」
車が交叉点を曲り、さらに路地へと曲る。左前方にほっそりとした高層マンション。ただし十
二階建てではなく、二十階くらいはありそうだ。昔は下町と倉庫街を同居させたようなイメージ
だった月島も、今ではオフィス街に近い一等地だ。
「本当のことをいうとな、俺も今回の仕事はやりたくないんだ」
「ほお。ザキさんにしては珍しい」
椎葉があえて驚いてみせた。やっかいな仕事の理由、それを訊き出さなくてはならない。
- 103 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:22
-
伊勢崎がニッと横目で笑い、口を開いた。「俺はすでに何をすればいいのか、そのことを聞
いてしまっているんだ。つまりだ、その時点で俺はその女と同類になる。もちろん監視下に置
かれるってことはないが」暗にトップシークレット級の極秘任務だと告げている。
「オレもその仲間入りってわけか」
「下っ端は何も聞かされちゃいない。幹部クラスでも知ってる奴が何人いることか。もしかする
と一人もいないかもしれん。それくらいの秘密だ」
「ザキさんが幹部以上だったとは知らなかった」
「馬鹿いえ。こればっかりは教えられんことには何も動けん。ただ監視すりゃいいだけってん
じゃないからな。ブツの奪還が俺の任務。それで君に話を持ちかけているわけだ」
「それで、何を盗めば? もちろん、訊くからには引き受けるつもりだが」
「ちゃんと考えたんだろうな?」
人生を、という意味なのだろうと椎葉は思った。しかし人生を考えるほど椎葉は人生に甘く
はない。
「ザキさんと一蓮托生ってのも悪くない。それに、消されるにしても、そんな簡単には消されな
い。裏社会だろうが表社会だろうが、蜘蛛はどこにでも棲息できるからな」
「さすがは椎葉公康だな。日本にスパイ組織があれば、今すぐにでも推薦したいくらいだ」
伊勢崎が獲物を見定めるような笑みを浮かべ、椎葉は吸い終えたタバコを灰皿にくねらせ
た。笑えない冗談だったが、椎葉は本気で笑ってみせた。スパイなら今まさに車を運転してい
る。
- 104 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:22
-
C-2
決行は01:00ジャスト。まだ起きている人間もいる時間帯だが、それより遅くなると一つ一つ
の物音が静寂を敵に回すことになる。完全に寝静まってもらっても困る。
椎葉公康はすでにターゲットのマンションに侵入していた。八時すぎに仕事帰りの男の後ろ
につき、あっさりとオートロックをくぐった。宅配便や工事の業者などの場合、管理人室に来訪
の意を告げなければならないというほどガードは堅かったが、普通の来客であればその必要
もなく、その時間帯であれば管理人から怪しまれることもない。
椎葉はエレベーターに乗って八階で降り、そこから階段を使った。内廊下には話で聞いた通
り、防犯カメラがついていたが、階段は無防備だった。エレベーターから階段に向う三メートル
の距離も、カメラの死角になっていた。
階段で十二階。ただし階段はそこで終わり、屋上へは通じていない。その代わり、それまで
上部へ延びていたところに扉があり、その先が一段低い屋上スペースになっている。十二階
だけ部屋数が四つほど少なく、その分だけ端が一段低い形になっている。
椎葉は物置やら機材室やらのある殺風景なテラスで四時間以上も身を潜めた。仕事中に
はタバコは吸わない。たった一点の光といえども、暗闇の蛍は印象に残る。そのせいで椎葉
は普通以上に時間と闘わなくてはならない。本気で禁煙に取り組むべきかもしれないと考え
るのは、いつものことだった。
- 105 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:23
-
気を紛らわせるために、椎葉はマンションの構造に思考を移した。
実感として、中級クラスのマンション。ただし、築十五年から二十年は経っているだろうか。
外装は奇麗だが、それより新しいマンションであれば、屋上に貯水槽があるはずがない。昔
は屋上にくみ上げて貯めた水を階下に流し落とすのが普通だったが、最近では下層から水
圧を加えて直接上階の各戸に送るのが主流になっている。停電になって水が出なくなるのは
そのタイプだが、衛生的には格段に優れている。貯水槽の中は真緑で、ネズミがいることさ
えある。もっとも、それは管理が最悪な例であって、全部が全部というわけではない。
夜の冷え込みに椎葉は黒色のジャンパーのファスナーを閉めた。五月も中旬をすぎたが、
たまに夜が春先のように冷え込むことがある。その日の最低気温もたしか十四度だったか。
二週間前にすでに今年最初の夏日を記録しているとは思えない気温だが、雨よりはマシだ。
日付が変わった。椎葉はすでに侵入する時の服装に着替えている。必要な荷物は紙袋に
入れて持ってきた。そのままの服装であれば命はない。屋上から、つまり十三階の高さから
九階までロープで降りるのだ。下手をすれば死ぬし、手を滑らせて道具を落としてしまうよう
なことになれば、それだけでジ・エンド。小さなペンライト一本でも落下音は小さくない。
十分前になった。椎葉は道具を持ち、その十二階部分から鉄製の階段を上って本当の屋
上部分に向った。
- 106 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:23
-
頭には目の部分が横長に開いた黒い頭巾。ただし、顔を見られないためではなく、髪の毛
を落とさないためのものだ。手には指先と掌(しょう)の真ん中だけを隠すタイプの特殊手袋。
これだとザイルが滑ることもなく、指紋が残ることもない。
屋上は平らで、下の部分とは違って落下防止の手すりなどはない。階段を上ったところに
侵入防止柵だけがあるが、高さは二メートルもない。
椎葉は一度その柵の強度を念入りに確認していたが、もう一度その確認をし、柵を飛び越
えてからザイルを結んだ。すでにザイルの長さなどは経験上から調節してあった。ザイルを
結び終えると、ジャンパーの下、腰を締めつける特殊ベルトの金具にザイルを通し、後は降
下するだけ。風は無風とはいえないが、躰が大きくぶれるほどでもない。
暗闇の中、ゆっくりと慎重に壁面を蹴るようにして下りていく。手の力を緩め、強め、それを
繰り返す。十二階の部屋には明かりはついておらず、遮光カーテンが閉まっている。そのベ
ランダを横目に見ながら、すすっと下りて十一階。さらに下りていく。
だが十階の部屋はやっかいだった。カーテンは閉まっているものの、その上端や下端から
室内の光が漏れていた。おまけにガラス戸を開けて網戸にしているらしい。冬の十四度であ
れば暖房をつけるのだろうが、五月の十四度は天然の冷房として歓迎されるのだろう。
音を立てないよう一気に降下する。その瞬間に誰かがベランダに出てくれば終わりだ。ベラ
ンダの最端の壁面を降下してるとはいえ、黒い影には厚みがある。垂れ下がったロープこそ
見えないが、気配をゼロにすることはできない。
- 107 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:23
-
九階。腰のベルトを調節して、ザイルを左手の掌に巻きつけるようにして握る。それから壁
面を蹴って左に飛び、反動で右に寄る。右足を白い手すりに乗せる。しゃがみ込むようにし
て膝をベランダの内側に突き出し、一気に重心をかける。躰全体を右に傾け、バランスが取
れたところで右手を手すりにかけ、左手に巻きつけたザイルを緩めてずらす。左足を手すり
に乗せて、体勢が整う。ふーっと息を吐き出し、すーっと吸い込み、ふわっと躰を浮かすよう
な感じでベランダに着地する。
その瞬間、バキッと音がして心臓が凍りつく。汗が一気に体温を奪った。
ベランダにプラスチック製のチリトリがあった。立てかけられていたものが着地の際に触れ
て倒れ、その上にもう片方の足を乗せてしまったらしい。足音を立てないように両足の着地を
ずらし、膝のバネで衝撃を吸収しようとしたのがミスに繋がった。
椎葉はチリトリを踏んだまま、十秒、二十秒と沈黙を待った。
音はしない。上階や下階のベランダの開閉音もない。深夜の一時ではあるが、チリトリを踏
んだ音程度で泥棒を疑うような人間はいないし、その部屋が今夜無人のはずだと知っている
ような人間もいない。十階の部屋からかすかに深夜テレビの音が漏れていた。
ザイルを通した腰のベルトの金具を外し、両手の手袋を外して薄い透明のゴム手袋に替え
る。手術用に使われるもので、指紋を残さないためではなく医学界にも認められた機能性を
買ったものだ。昨今の泥棒は透明のマニキュアを塗って指紋を消すらしいが、ザイルを昇降
する椎葉はその方法を用いず、二種類の手袋を使い分ける。
- 108 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:23
-
月明かり、というよりも都市全体が放出するぼんやりとした人工照明の中、腰を落としてベ
ランダを横に移動し、ガラス戸の開閉口に向う。侵入の痕跡を残さないという条件なので、そ
の日はガラスをくり抜く道具などは持ってきていない。閉まっていれば仕事は終了だ。
ペンライトを取り出して照らすと、事前に聞いていた通り、クレセント錠のレバーは下りてい
た。つまり鍵は開いている。
ふと、気になって後ろを振り返り、ベランダの手すりから頭を軽く出す。この鍵が開いている
かどうかの確認をどこからしたのか。近くにマンションがあったが、そこの最上階はそのベラ
ンダより低い位置にあった。それ以外だとすると二百メートルほど離れたところのマンション。
非常用の螺旋階段が白く輝いていた。青と赤の照明が混じれば、きっと巨大な理髪店のよう
に見えることだろう。だが、かなり遠い。普通の双眼鏡ならまず無理だ。
たかが女の一人暮らしに、ごたいそうな監視だ。
心の中でつぶやき、椎葉は前へ向き直ってガラス戸を開けた。カラカラという音ではなく、ス
スススという音がした。人幅だけ開け、また二十秒待機し、靴を脱いで入り、また待機する。
部屋の中は無音。人はいない。ペンライトはつけず、カーテンによって演出された真の暗闇
にまずは目を慣らす。ダイニングのカウンターの上で赤い光が点滅していた。ファクシミリ付
きの留守番電話。点滅しているところを見ると、やはり留守ということになる。
- 109 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:23
-
入ったのは事前に見た間取り図ではリビングになっていたが、ベッドもそこにあった。女性
の一人暮らしにしては広く、そのせいでやけにすっきりしている。
椎葉はペンライトをつけ、行動を開始した。まず最初に逃げ口を確認する。契約では入った
時と同じ状態のまま、目的のブツ以外には手をつけないことになっているが、いざ見つかった
時はそうもいっていられない。ザイルなどはそのまま放置し、逃げることになる。
リビングを通り、廊下を通って玄関。サンダルが一足とスニーカーが一足、奇麗に並んでい
る。近場への外出用だろう。
そこから向き直ろうとした時、椎葉はふと奇妙な感覚に囚われた。一瞬、目を疑った。
「開いてる……」思わず口から言葉が漏れた。ドアの鍵が開いていたのだ。
五時間も待機し、危険な垂直降下を行ったのは何だったのか――。
もちろん防犯カメラがあるから、いくら鍵が開いていてもドアから侵入するという手口を使う
わけにはいかなかっただろう。それはわかっていても、無駄なことをしていたような気がして、
椎葉は誰に向けるでもない恨めしい気分を捨てることができなかった。
契約を頭に浮かべたが、椎葉はゆっくりとドアの鍵をかけた。カチャッと音がした。そのまま
開けておけば、夕方にターゲットが帰宅した時に怪しむ。たとえ本人が鍵をかけ忘れていても
だ。
- 110 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:23
-
深く一つ息を吐く。椎葉はリビングには戻らず、廊下に隣接する部屋のドアを開けた。まず
最初に全ての部屋を確認しておくのが基本中の基本だ。
一つ目は衣裳部屋。もう一つは小物部屋だろうか。それだけを確認し、次に廊下の逆側。
トイレがあり、次が脱衣所。目当てが薬物なんかであれば、この辺を重点的に調べるのだろ
うが、今回はパスしていい。そもそも隠すようなものではないのだ。
廊下からリビングに戻り、リビングから通じる最奥の部屋を覗く。
ペンライトを向ける。声を失った。全身の血が抜けたのか、それとも全身に血がこみ上げた
のかがわからなかった。
部屋はものの見事に荒らされていた。タンスも棚も、全てが開けられ、中のものが床に散ら
ばっていた。観音開きの収納も開いたまま、中が荒らされていた。先客がいたのだ。
「ど、どうなってんだ……」
やっと声が出た。だが、声が出たところで状況が好転するはずもない。
椎葉はリビングの様子を思い浮かべた。部屋は奇麗にかたづいていた。雑な性格ではない。
一昔前に流行ったかたづけられない女というわけではない。だとすると、やはり先客がいたと
いうことになる。
くそっと悪態をつき、椎葉はその部屋を出た。すぐに予定を中止して引き上げるか、それと
もそのまま家捜(やさが)しを続けるか。
後者を選んだ。不可解なことを不可解なまま終わらせたくはなかった。
そうと決めると行動は早かった。椎葉はまずリビングから攻めることにした。荒れた部屋は
最後でいい。
- 111 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:24
-
ダイニングテーブルに雑誌やら手紙やらが置かれていた。とりあえず写真のようなものは
なかった。電話の横に五段の小棚があり、それも下から順に開けていった。そこにもブツは
なかった。
時間がかかるかもしれないと椎葉は思った。そもそもブツがあるのかどうかもわからないと
いう話なのだ。部屋をしらみ潰しに捜したところで、何も出てこないかもしれないし、ざっと捜
してみたところで、どこかに残されているかもしれない。その判断はかなり難しい。ある意味、
『悪魔の証明』を朝までにやり通さなくてはならない。三時半になれば最も早い新聞が配達さ
れる。タイムリミットは03:00。決行を01:00に決めたのにはそういう理由もある。
椎葉は気合を入れ直し、ベッドに向った。枕元に時計やら人形やらが置いてある。メモ帳ら
しきものがあり、ペンライトを当ててそれも見た。ポエムのようなものが書かれてあった。椎葉
はメモ帳を戻した。
視界にデジタルカメラが映った。二冊ほどハードカバーの本が立てかけられていて、倒れる
のを防止する形で置かれていた。これか、と椎葉は頭の中でつぶやき、カメラのスイッチを入
れた。
初めての機種で戸惑ったが、操作はすぐにわかった。ピッピッと電子音がするのは仕方が
ない。それほど大きな音でもない。一枚一枚、音とともに保存された画像を見ていく。見てい
くうちに、椎葉は自分が何も知らされていなかったことを知った。
- 112 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:24
-
その部屋の主は有名人だった。椎葉も知っていた。飯田という女性。最近は見かけないが、
国民的アイドルといわれ一大ムーブメントを巻き起こしたモーニング娘。のメンバー。その飯
田が、そのデジタルカメラの主で、つまりはその部屋の主ということになる。
だとすると、やはり依頼はスキャンダルに関係していることになる。政治家の先生か、財界
の大物か。愛人にでもしているのか、一晩の伴でもさせたか。
しかし、そうなるとブツとの整合性が取れない。椎葉が奪取を命じられたのは、情事の写真
などではなく、金色の工芸品の写真だった。よくわからない。これが金の延べ棒の写真という
ことであれば、サンズイ、つまり汚職絡みの品ということになり、理解はできる。昔、与党副総
裁の自宅の床下から六十億円相当の金塊が見つかって大騒ぎになったことがあった。その
金塊は後になって北朝鮮からの贈答品だったということが判明したが、金色の工芸品もその
類なのだろうか。
任務の不可解さが増した。高い報酬。工芸品の写真という依頼。ターゲットの有名人。そし
て先客の存在……。どれもが繋がらないが、先客がいたということで、辛うじてそれが繋がる
ような気がした。
その写真は外部に漏れてはいけないものだった。そして、それを狙っている何者かが別に
いた……。
- 113 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:24
-
頭で様々なことを考えながら椎葉はカメラのボタンを押し続けた。
カメラの画面の中に金色に輝くような画像はなかった。笑顔の画像に風景の画像。料理の
画像にレストランのメニュー表。派手な衣装を着た名も知らぬ歌手らしき面々……。
椎葉はスイッチを切り、カメラを元通りの位置に戻した。一応、別にメモリーチップがある可
能性は頭に入れておいた。
廊下に出て、衣裳部屋と小物部屋を捜す。二つとも、写真を置いたり飾ったりするような雰
囲気ではなかった。クローゼットも含め、二十分で二つの部屋を切り上げた。
残るは問題の部屋だ。
椎葉は荒れた部屋の中に足を踏み入れた。足の踏み場もないほど多くのものが散乱して
いた。現状維持が鉄則であるが、現状がそうであれば維持もくそもない。落ちているものを
手当たり次第に拾い上げ、写真を捜す。まるで自分が泥棒をしているような気分になり、椎
葉は居心地の悪さを感じた。泥棒には違いないが、他人の行為まで責任を負わされたくは
ない。冤罪(えんざい)だ、と椎葉はつぶやいた。
その部屋に十五分を費やした。収穫はなかったが、あったとすれば一つだけ。それは今時
の若者の部屋に絶対にあるはずのものが、どこにも見当たらなかったことだ。部屋のどこに
もパソコンの類がなかった。そのくせ、マウスとマウスパッドだけが落ちていた。先客はノート
パソコンを持ち去ったらしい。デスクトップなら、ディスプレイやキーボードが残る。
- 114 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:24
-
椎葉は悪魔はいないと判断した。もしかしたらいたのかもしれないが、すでに連れ去られた
可能性が高い。どこに向けるでもない苛立ちを覚えながら、椎葉はリビングに戻り、ベランダ
へ向おうとした。
その時、またもや何か奇妙な感じを受けた。
点滅していた赤いランプの向こうに、絵葉書が見えた。
椎葉は電話に向った。電話の横にコルクボードが立てかけられている。しまっていたペンラ
イトをつける。数枚の絵葉書が押しピンで刺されている。どれも売られている絵葉書ではなく、
葉書に絵を書いたもの。先ほども一枚一枚それを見ているが、そういう趣味があるのだとし
か思わなかった。りんごのような静物画もあれば、風景画もあり、アニメチックなキャラクター
画もある。
「立派なご趣味だ」
皮肉るようにいって戻ろうとした時、椎葉はそのりんごの横の葉書に目を留めた。すでに確
認しているが、その時はただのイラストとして見落としていた。金色ではなく、鉛筆デッサンだ。
だが、工芸品といわれると、たしかに工芸品という気がする。
今度はじっくりと見た。奇妙な感じを受けた理由がわかった。それだけが何の絵なのかわか
らなかったのだ。
- 115 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:24
-
底辺が正方形の直方体が斜めの角度から描かれている。直方体の上には歪(ゆが)んだ
取っ手のようなものがついていて、分銅のようにも、レトロな電話機のようにも、爆破スイッチ
のようにも見える。デッサン用のオブジェにしては、なんとも意味不明な形状だ。
椎葉は押しピンを抜き、その葉書を手に取った。下にもう一枚の葉書があった。ペンライト
の光を当てる。黒色の大きな枠の中にデザイン的な模様が描かれていた。それも金色では
なかったが、椎葉は瞬時にそれを直方体の底面だと判断した。
二枚の葉書をポケットに入れ、捜索を終了する。
ガラス戸からベランダに出て、靴を履き、ベルトを装着し、ゴム手袋を脱いでまた両手に手
袋をはめ、そして忘れ物がないことを確認してから、一気に壁面をよじ登る。十階の住人は
ようやく寝たらしく、明かりは消えていた。十一階、十二階は変わらず。
屋上へ出た椎葉はザイルを回収し、下の屋上スペースに戻り、着替えをしてジャンパーなど
を紙袋に戻してから、扉を開けて階段を下りた。
九階にきて、こっそり廊下を覗く。またもや目を疑った。エレベーターの表示が動いていた。
それは一階に向って下りている途中だった。
- 116 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:24
-
嫌な予感がした。もしその予感が当たっていれば、椎葉はかなり鈍感だったということにな
る。いや、鈍感だっただけではない。危険と隣り合わせにいたということにもなる。
部屋に侵入した時、もし先客がまだ部屋の中に残っていたとしたら――。
椎葉はベランダでチリトリを踏んだことを思い出した。脱衣所は見たが、バスルームの中ま
では確認していなかった。隠れることはできた。たったの二時間、プロなら物音はさせない。
椎葉は一階に駆け下りるべきか、そこでじっと息を潜めているべきかを考えた。
瞬時に前者を選んだ。選んだ時にはもう階段を駆け下りていた。足音を立てずに階段を下
りることくらい朝飯前だが、やはり音はした。それでも椎葉は駆け下りた。
エレベーターはすでに一階に止まっていた。
くそったれめ。椎葉は自分にいい、階段で十分ほどをすごし、それからオートロックの自動ド
アを通って外に出た。
尾行があるかもしれないと思ったが、それは相手の方だろうとも思った。
街を歩き、夜風に吹かれた。椎葉は月島から勝鬨方面へと進んだ。
自分は愚かだったのだろうか。それとも愚かゆえに危険を回避したのだろうか。
やり切れぬ何かがあった。その何かは椎葉の頭の中を渦巻いては、何度も何度も椎葉に
後ろを振り返らせた。
- 117 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:25
-
C-3
月島から勝鬨に向う途中にあるコインパーキング。椎葉公康はその手前、ビルの陰で十分
ほど身を隠してから、車に乗り込んだ。
品川ナンバーの4183。『椎葉さん』と読めるのは単なる偶然、別に数字を選んだわけではな
い。ただ、その偶然のせいでなかなか手放せないでいる。もうかれこれ六年だ。
首都高速九号線から都心に向うか、気晴らしに湾岸線のレインボーブリッジでも通ってみる
か、いくつかのルートが頭に浮かんだが、結局地上を通ることにした。どのみち伊勢崎と連絡
を取らなくてはならない。先客がいたと聞いたらどんな反応をするだろうか。驚くか、それとも
平然としているか。それ次第で伊勢崎がどれだけ任務に通じているかを判断することができ
る。
五分ほど走ったところで椎葉は車を大通りから一本外れた道路へと向けた。すぐに公園に
出た。その入口に軟弱な避難カプセルのような電話ボックスが見える。
椎葉は車を停め、しばらく前後の様子を窺った。尾行はなかった。そこにくるまで怪しい車と
も出遭っていない。時刻は二時半をすぎたところで、見かけるのは深夜のタクシーとトラックく
らいだ。
ボックスに入り、手帳をめくる。カードを差し込み、八桁のボタンを押す。何かあった時のた
めに起きているはずだった。コール音が五回、六回と続く。反応はない。
八回、十回、十二回……。諦めて切ろうとした時、ようやく電話が通じた。
- 118 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:25
-
「あ、もしもし、夜分遅くすいません。山野ですけど」
「ああ、君か。大丈夫だ」と、椎葉の符牒(ふちょう)に対して普通に伊勢崎が答えた。
「出るのがずいぶん遅かった」
「すまん。少しうとうとしてしまってな。今は――二時半か。なら十分ほどだな。映画を見てたん
だが、ちょうど退屈なシーンでな。そのくせCMが多い。で、どうだった? ブツはあったか?」
「先客がいた」
一秒、二秒、三秒……。沈黙が続く。
反応を窺いながら、もう一度繰り返す。「先客がいた。先を越されたんだ」
「それは本当か?」
「ああ。南側の部屋。見事に荒らされていた。狙いは多分同じだろう。ノートパソコンが持ち去
られた可能性がある。マウスだけが残ってた。おかげでパソコンの中を調べる手間がはぶけ
たがな」
「その部屋だけか?」
「他は普通だった。ただ、玄関の鍵が開いてた」
「先客はそこから逃げたわけだな?」
「それが、もしかしたらオレがいた間も潜んでた可能性がある」
- 119 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:25
-
「何?」伊勢崎の声が裏返った。
「すまん。バスルームの確認を怠った。オレが階段を下りてる時、引き上げる時だ。エレベー
ターが一階に向っていた。住人の可能性もあるが、そうじゃない可能性もある。まだ新聞がく
る時間でもない」
「姿は見たか?」
「いや、すでに出た後だった」いって、伊勢崎が次に尋ねることを先に答える。「こっちは待機
してから出た。尾行はなかった」
「追いかけろといいたいところだが、それは仕方ないか。君は雇われてるにすぎんからな」
「何か心当たりでもあるのか? 今回の依頼、わからんことばかりだ」
「俺にもわからん。ただ、近くで別のエージェントの動きが確認されてる。中国系らしいが、そ
れ以上のことは聞いていない。狙いが同じなのかどうかも俺にはいえん」
「ターゲットが有名人だということは、聞かされてなかったのか?」
爆弾のつもりだったが、水風船くらいにしかならないことはわかっている。
「もちろん聞いている。君に伝えなかったのはそれが何の意味もないことだからだ。ターゲッ
トが偶然有名人だったにすぎん。有名人だからターゲットになったわけじゃない」
「知ってることを全て話してくれ。じゃなきゃオレも納得できん。スパイが絡んでいるならなおさ
らだ。身を守るにも情報がいる」
- 120 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:25
-
「これまで話した通りだ。ターゲットのこと以外は、だが。目的はブツの写真を流出させないこ
と。そのために君を雇った。雇ったのは俺個人の裁量だ。依頼主が誰かはもちろん知らない。
依頼主も君のことは知らないし、俺以外の人間も知らないはずだ。報告の義務はないからな。
普通の組織とはそこが違う。それぞれが独立した班として動く。そして横の繋がりはない。た
だし監視班がいるというようなことは上から聞かされている。しかしそいつらはブツのことは何
も聞かされちゃいない。おおかた政財界のスキャンダル阻止だとでも思ってるんじゃないか」
一方的な長い話に椎葉が口を挟む。訊きたいことはすぐに訊くべし。
「オレもそう思いましたよ。でも、そうなるとブツの理由がわからない。刻印のない金塊なんか
だったら、オレも見当がつく。だが、何なんだ、金でできた工芸品ってのは」
「個人的な意見を挟むべきじゃないだろうが、こっちはブラックマーケット絡みだと思っている。
つまり美術品の闇取引だ。ターゲットがその写真を所持している理由は知らんが、特に難しい
理由じゃないだろうな。欲ぼけ爺さんが若い女の気を惹こうとした、そんなところだろう」
「同意見だ」いって、続ける。「監視班とやらのことはどこまで? そいつらは俺の侵入を知って
いたのか?」
- 121 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:25
-
「詳しいことはいえんが、監視にもいくつか種類がある。ただ、今回の監視は行動確認の意味
合いが強い。つまり接触する人間の確認が目的だ。今回の場合、一番恐れているのは情報
の漏洩(ろうえい)だからな。だから留守の部屋を監視するようなことはなかったはずだ――」
伊勢崎はそこで一度区切った。その次が本題なのだろうと椎葉は察した。「ただし、監視班が
そいつらだけとはかぎらん。独自に動いているチームや特命を受けたチームがいないとも断
言できん。その点、君の侵入を眺めていた奴がいてもおかしくはない。それと、俺以外に同じ
命令を受けた者がいた可能性も、ゼロじゃない。かぎりなくゼロに近いが」
「ブッキングってことか?」
「俺個人はそれはないと思う。上からは痕跡をいっさい残すなといわれているんだ。君の話を
聞くかぎり、現場はそれとは正反対。最悪な展開だが、別のエージェントが割り込んだ可能性
が高い。だとするとこっちも大忙しってことになるが」
椎葉は十秒ほど無言で頭の中を整理した。何かが引っかかっていた。
「オレに危険が迫ることはない、そういい切れるか?」
「わからん。それより、ブツはどうなった? 答えはそれ次第だ」
「部屋には何もなかった。デジカメも確認したがそれらしいものは映ってなかった。パソコンに
あったのかもしれんが、それは先客に盗られた。その点ではオレは安全だと思う。ただ、部屋
に侵入した人間をそのままにしておくとも思えん」
葉書のことは伏せておいた。現状維持という約束こそ破ったことになるが、依頼では写真を
見つけるという話だった。イラストは契約に含まれていない。
- 122 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:26
-
「相手は君に姿を見られてはいない。君も相手に見られてはいない。それはいいか?」
「ああ。壁をよじ登ってるところなんかは外から見られてたかもしれんがな。相手が二人以上
でコンビを組んでた場合、それと別のチームとやらが監視してた場合だが」
「いくら何でもそれだけで君にたどり着けはしないだろう。君は今、どこにいる?」
「公園ですよ。車でぶっ飛ばしたし、尾行はされてない」
「なら大丈夫だろう。君の素性を知ってるのは俺だけだ。君はまた日常に戻ればいい。こっち
は大騒ぎだが、君に火の粉が降りかかるようにはしない。上には誰を雇ったかはいわないで
もいい話だからな。雇った人間が着いた時にはすでに荒らされていた。その事実だけを報告
する」
「そう願いたいね」
「ご苦労だった。口座への入金は来週までにはするつもりだ。もちろん、これまでと同様、誰に
もばれないようにするつもりだがな。もし何かあったらすぐに連絡してくれ。何もないとは思うが、
念には念をだ。尾行、監視、脅迫。どんなことでもいい。こっちも先が見えない」
「ああ、わかった」
電話を切り、椎葉は吐き出されたテレホンカードを手に取った。
狐(きつね)と狸(たぬき)の化かし合い。そんな言葉が頭をよぎる。
椎葉はこれまでの伊勢崎の様子を思い返した。信頼はできる男だ。だが、組織の一員であ
る以上、信用してはならない。可能性はいくらでも考えられる。
車に戻りながら、椎葉は朝見た新聞のテレビ欄を記憶に呼び戻していた。その日、どこの民
放局でも深夜映画はやっていなかった。CMは餘分(よぶん)だった。
- 123 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:26
-
A-6
タクシーの車窓から見える普通の夜の街が、恐ろしく遠くにあるように見えた。
手を伸ばせば届きそうな日常。それが自分の周りだけすっぽりと抜け落ち、闇に包まれて
いるかのように感じられる。それはアルバイトの生活に疑問を抱く時の気分に似ていた。
自分だけが取り残されているのではないかという不安や焦燥感。孤独やら社会やら安定や
ら、そんなどうでもいい言葉が頭の中をよぎっては消える。強がりでも諦めでもなく、なかば無
視するような形で俺は自分だけに向き合ってきたつもりだった。なのに、敵に追われるという
切迫した状況にいる俺は、その自分が無視してきた一般の日常というものにはっきりと憧れ
を感じている。
逃げたい。今すぐにでも、通りを歩く普通の人たちの中に紛れ込みたい――。
それは弱さなのだろう。だが、俺にはそれができそうにない。俺にとっては、その普通の人
が営む日常生活に戻ることにこそ、最大の強さを必要とする。
それに、俺は今、一人ではない。後部座席、隣には真弓の姿がある。
大学を卒業しながら路上で似顔絵を書いているというから、一般人よりかは俺の境遇に近
い。しかし一橋大学を卒業して国家公務員のT種試験に合格していながら、官公庁廻りをせ
ずに路傍を選んだところなどは、Fランクの無名私大を卒業した受験音痴な俺とは完全に異
なり、純然たるエリート、そして俺以上に肝の据わった変人ということになる。
その真弓となら、俺も敵に立ち向えるかもしれない。俺はそうも思っていた。
- 124 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:26
-
飯田とは亀戸の手前、地下鉄新宿線の駅で別れていた。タクシーの列の最後尾に停まり、
飯田はそこで降りて、最前列に並んでいたタクシーに乗り直して自宅に向った。最後に何か
重要なことをいいたそうにしていたのが気になったが、結局飯田は何もいわなかった。
俺と真弓はそのタクシーのまま亀戸の駅まで行き、そこで降りた。そして人込みを抜けて駅
の反対側に出て、そこで別のタクシーに乗り換えた。真弓の話はその前後に聞いたものだ。
最初は冗談と思い、次に真弓が俺をはめようとしているのではないかと疑った。しかし、人
を外見で判断してはいけないというのは、真弓の容姿がすでに証明している。真弓を見て二
十四歳の男性だと思う人間はいない。学歴や境遇も同じことだ。
「どうだ、何かきてるか?」
「わかりません。こうも渋滞してると、見えるのは同じ車ばかりだし、対向車線もほとんど見え
ないし」
「俺はこの辺の地理にゃ詳しくない。まあ東京全体にいえることだけど、行き先は真弓ちゃん
に任せるから」
真弓がこくりと大きくうなづいた。
俺と違って絶望の色は欠片(かけら)もなかった。頭を前や後ろや横に向けてはいるが、目
は必ず前だけを向いていた。直感像素質という天賦(てんぷ)の能力とは関係なく、力強さが
あった。多分、俺が受験敗者で真弓が受験勝者であるのは、俺が成績は上位ながら受験必
須の英語だけが大の苦手であったということ以前に、その何かに向おうとする意志にこそ大
きな違いがあったのだろう。精神論でかたづけたくはないが、真弓は俺が頼ってあまりあるも
のを有していた。
- 125 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:26
-
車は鉄道沿線を東に進み、渋滞を抜けて荒川を越えた。ただ、真弓の運転手への指示は
その場その場のもので、目的地があるわけではないらしかった。
信号で車が停まり、真弓が財布から一万円札を取り出して運転手に渡す。
「これから、少しお願いしたいことがあるんですけど」
運転手は明らかに困惑した声で、どういうことでしょうか、と尋ねた。
「特に難しいことじゃありません。実はアタシたち、ちょっとした喧嘩に巻き込まれて、追われ
ているかもしれないんです」
警戒されるんじゃないかと心配になったが、真弓が『ボク』ではなく『アタシ』といったのも作
戦の一つなのだろう。どこから見ても罪のない少女にしか見えない。ただし、門限の八時は
とっくにすぎている。
「カーチェイスですか?」
運転手が早とちりをしていった。先ほどの困惑とは違い、どこかウキウキした感じに聞こえ
た。プロフェッショナルの琴線に触れたのかもしれない。
「いえ、そこまでは。ただ、途中のある場所で、アタシたちを降ろしたように偽装してもらえれ
ば、それでいいんですけど」
お安い御用です、と運転手がいった。一万円が効いたのだろう。
タクシーは真弓の指示通り、淡いネオンに輝く西洋風の城のような建物の方へ向った。そ
の建物の一階部分に、いくつもの切れ目を入れた布の幕のようなものが垂れ下がった通行
口が見えた。タクシーはそのホテルの中に入った。
- 126 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:26
-
「ここで降りたことにしてくれますか?」
「わかりました」
運転手は答えながら、すでにタクシーメーターのボタンを押していた。ピピッと音が鳴り、金
額表示が確定する。それと連動して前部にある乗車表示機が自動的に『賃走』から『空車』
に切り替わる。
「ドアも開けますね」運転手は俺たち以上にその奇妙な行動が面白いらしい。ドアが開き、す
ぐにドアが閉まる。「行燈(あんどん)の方も自動的につきますから」
「屋根についてるやつですか?」俺が尋ねた。
「ええ。お客さんを乗せてる時は自動的に消灯するんですよ。会社にもよるんですけどね」
それは知らなかった。普段タクシーにお世話になることがないせいだろう。そういわれれば、
行燈の消えたタクシーが走っているのを普段、普通に見かけているような気がする。
「それで、これからどちらへ向いましょう」
「京葉線の駅にお願いできますか。一番近いところで結構です。客を降ろして次のお客を探し
に行くような、普通の感じで」
「はい。わかりました」と、運転手は引き締まった笑顔で答えた。
「それじゃ筒川さん、隠れますよ」
真弓が少女のような小さな体躯を狭いシート間に沈み込ませる。俺も躰を丸め、両腕を胸
につけるように折り曲げて、通常は二本の足がどっかと占拠するその空間に、何とか入り込
んだ。
真弓ほどではないが、俺も成人男性としては小さな部類に入る。身長167cm、体重57kg。
- 127 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:26
-
運転手が運転席と助手席を前にずらそうかと提案したが、それは真弓が断った。なるべく
普通の状態で脱出したいということだった。運転手は納得し、車を発進させた。
低い位置にいるせいか、横向きの体勢でいるせいか、乗り心地は悪かった。右に左に曲る
たびに慣性に揺られる。しかし楽しい気分でもある。かくれんぼをしているようでもあり、悪さ
をして押し入れに閉じ込められたようでもある。
しかし一人ぼっちではない。目の前には真弓の顔がある。俺に向って頬笑(ほほえ)んでい
る。少女のようなその顔は、隣近所に住んでいたら絶対に放っておけないであろう、そんな幼
馴染(おさななじみ)属性を秘めていた。
男だということを微塵も感じさせない。そればかりか、見れば見るほど少女にしか思えなくな
る。それが一橋卒で官僚になることさえできた男だというのだから、驚きは倍増。人生に規格
などないということが俺を安心させもし、よりいっそうみじめにもさせる。
俺が真弓の顔をまじまじと見ていたせいか、真弓は照れた表情を浮かべたり、にこっと笑っ
たり、恥ずかしそうに顔を歪ませたりした。俺はすまん、やっぱ女にしか見えないな、と小さな
声でいった。真弓は慣れてるから、仕方ないですもんね、と二つ答えを並べた。
タクシーが駅に近づき、運転手が独り言のように尋ねてきた。
「さーて、これからどうしましょうかね」
「どこか適当な場所で停まってもらって結構です。料金はどうしたらいいですか?」
「さっきので十分足りてますよ。五千円もいってませんから。お釣りを出さなきゃいけないんだ
けど、メーター止めてるからそれは勘になりますよ」
「それはいいです。チップっていうか、協力してもらったお礼です」
運転手は頭を下げずにありがとうございます、と礼を述べ、その先で停まりますねといって、
タクシーの速度を落とした。
- 128 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:27
-
車を降り、二人で改めて運転手に礼をいって、そのタクシーを見送る。それから駅の構内に
入り、南船橋までの切符を買う。
そろそろ今夜の宿を決めなくてはならない。その辺に見えるホテルでもよかったのだが、そ
のすぐ近くにはあの有名な鼠遊園があるとかで、何となく敬遠した。予約なしでも怪しまれるこ
とはないが、空室の有無やら料金やらが気になったのだ。
すぐに電車がきて、俺たちはその電車に乗った。
「こんなとこにあるんだな。俺てっきりもっと向うにあるのかと思ってた。東京って名前だけど千
葉にあるっての、有名だし。それが江戸川の手前だったとはな」
「行ったことない?」
「いや、小学生の頃に一度だけ。東京にきてからは彼女にせがまれたこともあったけど、断っ
た。俺さ、あの鼠がどうも好きになれないんだな。どこがかわいいのやら、むしろ恐怖を感じる
くらいで」
「気が合いますね。ボクも同じです。あれ、恐いですよ」
真弓が吹き出すようにいった。思わず俺も吹き出した。これまでの人生で、あの鼠を恐怖だ
と感じる人間とはまだ片手の指の数ほどしか会ったことがなかったのだ。
ただし、笑ったのは何もそれだけが理由ではなかった。俺も真弓も、その日にあった出来事
でくたくたに疲れていた。飯田や保田の心配もあった。今のところ気配はないが、尾行の不安
もあった。そんなこんなで、俺たちには笑うくらいしかなかったのだと思う。傍(はた)から見れ
ばきっとカップルにしか見えないだろうそんな雰囲気のまま、俺と真弓は南船橋に着くまで、た
わいのない雑談で気分を紛らせていた。
- 129 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:27
-
ところが、だ。南船橋駅を出た俺たちを待っていたのは、平穏ではなく敵だった。これがもし
ゲームであれば、すでにバトルの音楽が鳴っているであろうほどで、改札口を出た途端、俺た
ちは出口にいた男にいきなり声をかけられた。男は俺たちのように電車から降りたのではなく、
最初からそこに待ちかまえていた。
「君たちに訊きたいことがある」
その精悍な顔つきと躰つき、男らしい低い声に、心臓が縮み上がる。そして次の瞬間には
反動で大きく膨らむ。恐怖と興奮。先ほどとは違い、なぜか足が少しだけ震えている。武者震
いではない。闘って勝てる相手ではないことを本能が感じ取っていた。
俺は青ざめた顔の真弓をかばうように立った。貧弱な弁慶のような気分だ。真弓は小さく首
を左右に振っていた。直感像の中にその男の顔はなかったという意味なのだろうと理解したが、
あったという意味にも受け取れる。どのみち敵は敵だ。
「何者だ!」
「まあ待て。オレも君たちが何者なのかを知りたい」
口調は穏やかだったが、そんなはったりは通用しない。すでに偽の真弓で経験済みだ。
対峙する俺たちを喧嘩だとでも思ったのか、通行人が遠巻きに通りすぎていく。この状況な
ら拉致されるということはないだろう。喧嘩にして警察を介入させるという手段もある。ただし、
そうなると警察がどちらの味方になるかという問題が再燃する。特に俺は行方不明の住人と
して興味を持たれているはずだ。爆弾製造魔として指名手配される可能性だってなくはない。
「何者だ!」
俺はもう一度強くいった。いいながら、どちらに逃げればいいか、視界の隅で確認する。
- 130 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:27
-
男は強攻手段には出なかった。それどころか俺のあまりの警戒心に逆に戸惑っているよう
にさえ感じられた。だが、油断するわけにはいかない。敵は俺の部屋を爆破し、飯田や保田
の電話を盗聴し、真弓を尾行し、偽の真弓で俺を騙そうとし、それからも数台の車で俺たちを
追いかけていた。手段を選ばない、殺人さえいとわないグループなのだ。
「落ち着け。オレが何者か、それをいえば話をしてくれるのか? それなら……」
いいながら、男は胸の内ポケットから名刺を取り出した。一瞬拳銃かと思って背筋に冷たい
ものが走ったが、白い紙片だった。
だがそんな偽者に騙されるわけにはいかない。たとえ警察官だろうが弁護士だろうが国会
議員だろうが、しょせんは肩書き。人間として何者かを証明することはできない。名刺だけな
ら俺だってアメリカ合衆国大統領になれるし、モーニング娘。にもなれる。
俺はその名刺を撥ね飛ばした。白い紙片が歪(いびつ)な軌跡を描きながら地面に落ちた。
男は一瞬、むっとした表情を浮かべ、しかしすぐに冷静な表情に戻り、ゆっくりと名刺を拾い
上げた。
その瞬間、俺は真弓の手を取って後ろへと駆け出した。
「お、おい! 待てっ!」
男の声が聞こえた。だが俺は当然それを無視した。真弓がいることを考慮し、全速力という
わけにはいかなかったが、その日はまるでオリンピックと世界陸上とが同時に開幕したかの
ようによく走る日だった。足の筋肉がパンパンに張っているのが自分でもわかった。きっと二
日後は筋肉痛で大変なことになるだろうと思った。翌日に筋肉痛になるのが許されているの
は二十二、三歳まで。俺はとっくにおじさんの仲間入りを果たしている。
- 131 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:27
-
途中、真弓が後ろを振り返り、男が尾(つ)いてきていないことを告げた。
しかし、だからといって止まるわけにもいかない。駅のすぐそばにおしゃれなラブホテルが
あったが、俺たちはそこを通過し、かなりの距離を走り抜け、その先にあったもう一つのラブ
ホテルに逃げ込んだ。
ラブホテルに一日に二度も逃げ込むなど、多分人生で初めての快挙だろう。それも相手が
男だというからどうかしている。こんなことなら保田と二人で近所の古ぼけたホテルにでもしけ
込み、そこで情事の最中に暗殺されるという結末をセレクトしてもよかったかもしれない。
なんだかんだいって俺は保田のことが好きで、保田を抱きたいと思っていたのだ。俺がエビ
ちゃんカレンダーを買ったのも、無意識のうちに保田と似ていると感じたからなのかもしれな
い。ただし、それはあくまでも無意識、それも仮説にすぎない。俺は一度もエビちゃんが保田
に似ていると思ったことはなく、保田がエビちゃんに似ていると思ったこともない。もし二人が
似ているという奴がいるのならば、そいつには即、眼科を紹介してやる。それがたとえ織田信
長であってもだ。
ホテルの部屋に入った俺は、その日の全ての疲れが一気に噴き出したかのように、ベッド
の上にどっと倒れ込んだ。ベッドのスプリングが大きく撥ね、波のように二度、三度と躰が浮
いた。しかし、その揺れに身を任せている場合ではなかった。
- 132 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/21(土) 22:27
-
真弓は俺以上に消耗していた。消耗しきっていた。
気力がそのベッドまでも持たなかったのだろう、真弓はへなへなと崩れた格好のまま、床の
上に座り込んでいた。目はどこを見ているのかわからず、完全に放心状態だった。
俺も疲れきっていたが、俺はまだ四時間程度の間の疲れでしかない。しかし真弓はそれま
での数日間を逃げ続け、そしてその日も月島に行くことでその疲れを倍増させていた。特に
能力をフルに使った疲れが真弓を追い込んでいたのだろう。
「大丈夫か?」
俺の問いかけに真弓はようやく意識を取り戻し、うん、と子供のような返事をした。これなら
たしかに官僚には不向きかもしれない。その容姿も含め、面接で落とされたことだろう。路上
で絵を描いている方が断然似合う。
ただし、官僚になる以上に逃亡者は似合わない。それはいうまでもない。真弓を基準にする
ならば、俺なんかは逃亡者でも犯罪者でも、何だって似合う。
俺は力の抜けた真弓の躰を抱え上げ、ベッドへと運んだ。まるでお姫様抱っこのようなその
行為に、俺は何も感じるな何も感じるなと、不必要な命令を頭の中で繰り返していた。
真弓はそのまま眠り、俺はシャワーを浴びてから、ベッドの隣のソファに横になった。
その数時間が嘘であったかのように、眠りはすぐに訪れた。
- 133 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:04
-
A-7
午前五時半。ふっと躰が自然に起き上がるような感じで、俺は目を覚ました。意識がいきな
りはっきりしていたのは、睡眠中も脳が緊張を忘れていなかったからだろう。部屋が爆破され
たことも、保田と逃げたことも、真弓と会ったことも、敵と遭遇したことも、順を追って思い出す
までもなく頭の中にあった。あまりはっきりとしないのは、飯田のきらら397な顔だけだろうか。
状況が状況だっただけに、俺ははっきりと飯田の顔を見てはいない。いや、見てはいるが、美
人の顔をまじまじと見つめられるだけの度胸を、俺は持ち合わせていなかった。小心者はこう
いう時にも損をする。俺の人生は損ばかりだ。
立ち上がり、伸びをする。全身がギクシャクしていた。疲労というよりは、ソファなんかで寝て
しまったせいだろう。若さなんてドライアイスみたいなもので、どこでどのように寝ても同じ睡眠
だと当然のように思えていた時代は、とっくに俺の前から姿を消している。
部屋を見渡す。部屋全体が暖色系で統一されている。壁紙はクリーム色。ソファとクッション
は薄いオレンジ色。カーテンはオレンジ地に赤の四角模様がまるで子供部屋のように並ぶ。
ベッドカバーも薄いオレンジ色。白いシーツだけが仲間はずれで業務的だったが、抜け殻状
態になっていてベッドの上に真弓の姿はなかった。
すでに起きているらしい。気づいた時には逆方向からチャポチャポという水音が聞こえてき
ていた。風呂に入っているらしい。一瞬、変に緊張してしまったが、それは場所柄ゆえの反応
だろう。戦国時代や江戸時代に衆道(しゅどう)文化が栄えたことは知っているが、俺にその
ような趣味はない。たぶん。
- 134 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:04
-
窓ぎわに歩いてカーテンを半分だけ開ける。五階くらいの高さだろうか。緑が見えた。昨日
は公園だと思っていたが、どうやら競馬場があるらしく、それらしい建物の輪郭が見えた。空
はすでに白んでいたが、しかし灰色の雲が空を覆っていて、今にも雨が降り出しそうだ。そろ
そろ梅雨の“走り”がきてもいい頃だろう。走るのは何も競走馬だけではない。
ベッドに座り、真弓が出てくるのを待つ。装着したままのコンタクトレンズをどうにかしたかっ
たが、洗面所は脱衣所兼用で、そことバスルームの間は一面のガラス張りになっている。男
同士であるから別に覗いてもいいのだが、真弓の容姿を思い出すと、なんとなく遠慮してしま
う。
五分ほどしてドライヤーの音が聞こえてきた。それで安心して洗面所に向った。「おはよっ。
早いね」
真弓はドライヤーを止めてから、挨拶を返した。「あ、うん。おはよう」
その頬笑(ほほえ)みに少しどきっとしてしまったのは、何というか、真弓が男であるというこ
とを過剰に意識してしまったせいだろう。これが最初から女であれば何とも思わなかったはず
で、そういう点ではかなりややこしい存在になる。ただし、保田ほど俺を振り回したりはしない。
「どう? ぐっすり休めた?」
「うん。筒川さん、ベッド譲ってくれたんですね。別に一緒でもよかったんだけど。ありがとうご
ざいました」
「あ、いや、迷ったんだけど、ずっとカプセルホテルに泊ってたっていってたから」
本当は寝ぼけて変な気分にならないためだったが、そんなこと、いえるはずもない。
- 135 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:04
-
「お風呂、入ります? ここすごいんですよ。ボタン押すとジェットが噴いて、天井にプラネタリ
ウムが映るんです」
真弓がおもちゃを与えられた子供のようにいった。思わずそれを体験してみたくなるが、こ
の歳でラブホテルではしゃぐというのも情けない話だ。同級生の中にはすでに子供が小学生
というやつもいるくらいだ。そういえばモーニング娘。にも昔、俺と同い歳のメンバーがいたは
ずだが、そいつはすでに子供が二人か三人かいるという話だった。
「いや、昨日シャワー浴びたから」
至極冷静な大人の態度を装ってみたが、逆にそれが怪しかったかもしれない。
俺は微妙な空気の中、髪型を整えている真弓の隣で顔を洗った。それからハードレンズを
一度外し、念入りに洗ってから目にはめる。
コンタクトにしてから十年以上。外見を気にするタイプじゃないが、メガネがまったく似合わ
ないという周りの評判を思春期だった俺は無視できなかった。ただし、コンタクトにしたからっ
てそれで高校生活が薔薇色になったかというと、けっしてそんなことはない。俺がモテ期を迎
えたのは大学も二年になってからのこと。その前後だけ、時代は俺という男を認め、俺も時代
を受け入れていた。
真弓が立ち去り、鏡の中の自分を見る。
そう悪い顔ではないが、やはり老いが見える。ほんの二年くらい前までは、床屋なんかで学
生さん? と訊かれたものだが、今はどこから見ても歳相応、それも髪型に大いに助けられ
ている感がありありしている。ただし、部屋が爆破されてからのたった半日で、どことなく顔の
筋肉が引き締まったようにも感じられる。
- 136 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:04
-
悪くない。もともと平穏な日常を嫌いながら平穏な日常に溶け込んでいたような男だ。部屋
が爆破され、組織に追われ、ようやく男として波乱の道を歩める時がきたのかもしれない。本
能寺の変の直後の武将たちも、きっとそんな気持ちを秘めていたに違いない。俺は鏡の向こ
うに、鎧兜(よろいかぶと)を身に付けた武者姿の自分を見ていた。
が、祖先がれっきとした水呑み百姓だということがばれたのか、そのささやかな妄想は真弓
の悲鳴のような声によって一瞬にしてかき消された。
「どうした!」
洗面所から廊下に出た。そこに真弓がいた。しゃがみ込んで、手に何かを持っている。
「コ、コレッ!」
真弓が声を裏返しながら俺に白い紙片を差し出した。見覚えがあった。名刺だ。
俺はその名刺に目を通した。声に出して書かれている文字を読む。「横浜ベイサイドスポー
ツセンター、インストラクター。クライミングガイド。シイバ・キミヤス……」
「どう思います?」声は元に戻っていたが、はっきりと焦りの色が見えた。
「どうって、昨日の男に間違いないだろうな。そこまで日焼けはしてなかったけど、山男なら納
得がいく。“がたい”がよかったし、そういうオーラみたいなものがあった」
しかし、だ。俺は続く言葉を呑み込んだ。
絶対に尾行されていない自信があった。あの距離、それも車の通れない道を通った。何度
も周りの様子を確認した。それに、ホテルに入ってからどの部屋に入るのか、外から窺い知
ることはできない。ではその名刺はいったい、どういうことなのか――。
- 137 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:05
-
「本物、ですかね」
「これ、どこにあったんだ? ドアの下か?」
真弓がコクリとうなづく。
だとすると、昨日の男はこのドアの前まできたことになる。ぐっすり寝ている場合ではなかっ
た。寝首を掻(か)かれていてもおかしくはなかったのだ。
俺は自分の首が頭と胴体とを接合していることを手で確認してから、その首を横に振った。
「わからん。罠の可能性もある。ただ、本物でも偽物でも、この部屋がばれたってのがわから
ん。保田の携帯は飯田に渡したし、後は財布くらいしか持ってない」
「ボクも携帯切ってます」真弓がたしかめるようにいって、ふと何かに気づいたような表情を浮
かべた。一言でいえば衝撃、だろう。
「どうした?」
「椎葉って、昨日の車。品川ナンバーの4183。あれ、『椎葉さん』って読めますよね?」
俺にも衝撃が走った。最近の自動車のナンバーは自分で選べる。車を所有することなど夢
のまた夢の俺には縁のない話だが、そういう話なら聞いたことはある。友人の中に彼女の誕
生日の数字を選んですぐに破局したという奴がいたくらいだ。
「偶然かもしれんが、そうじゃないだろうな。でも、だとすると、その椎葉ってのは、プロとは考
えられないかもしれない」
何となくそういってみた。確たる証拠があったわけではない。そもそもプロが何のプロなのか
もよくわからないのだ。『敵を知り己を知れば百戦危うからず』ならば、今の俺は百戦全敗、敵
も己もまったくわかっていない。
- 138 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:05
-
ただし、真弓も俺と同じ感想を持ったらしい。
「たしかに変ですね。そんな身元がわかるようなナンバーにするなんて」
俺はうなづき、男が南船橋駅で待っていたことの意味を考えてみた。
「だけど、あの車は最初のとこで直進して、それっきりだったはず。それが尾(つ)いてきてて、
しかもタクシー乗り換えたり、ホテルに入ったりしたのに見失わず、それでいて南船橋まで先
回りしてたとなると、プロというか、やっぱり組織的な尾行があったというか」いいながら、今度
は別の意味を考える。「でも、それならなぜわざわざ駅で待ってたり名刺を置いたりしたのか。
部屋を爆破するような連中にしては、どうもちぐはぐな感じがする」
真弓が大きくうなづいた。
「そうですよね。この場所がわかってるなら、普通に捕まえたっていいんだし」
「そうじゃないってことは、どういうことなのか……。昨日の偽者は、多分時間稼ぎみたいなも
のだったと思う。でも、ここにきてからは、こっちが寝てる間、時間はたっぷりあった」
考えれば考えるだけ理解が遠のいていく。
真弓も同じらしく、あっさりと結論を出した。「どちらにしても、ここは危険ですね」
俺はああ、と答えたものの、ここが危険なのか、外の方が危険なのか、よくわからなかった。
敵が侵入してこなかったということは、ここの方が安全なのかもしれない。そういう可能性だっ
て考えられるのだ。
- 139 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:05
-
「どうします? まだ六時前だから、逃げるなら早い方が」
「でも、人の少ない時間帯はまずいかもしれない。通勤ラッシュの時間になれば、敵だって簡
単には尾行できないと思う」
「あ、そっか」
「どうしたらいいと思う?」
それを訊かれたから答えたのだが、俺はやはり優柔不断だ。他人の意見を尊重するタイプ
ともいえるが、自分の意見に絶対の自信を持っていれば、そんなことは訊かない。保田と逃げ
ていた時の行動がいい例だ。あの時の俺は瞬発的な思考と判断で保田をリードし続けた。ま
だ半日も経っていないのに、今の俺にその面影はない。もっとも、それは保田の思考と判断に
信頼を置いていなかったというだけのことかもしれない。
「七時半か八時くらいまで待機した方がいいかもしれませんね」
真弓が俺を後押しするようにいい、軍議がまとまる。しばらくは本陣待機。ただし、その間に
やらなくてはならないことがある。真弓が知っていること、俺が知っていること、その二つをすり
合わせる必要がある。もんじゃ屋を出た後、タクシーの中で話はしているが、それは現状報告
のようなものにすぎなかった。仙石という男の豪邸で何を見たのか、狙われる原因が何であっ
たのか、真弓だけがそのヒントを知っている。
真弓がベッドに戻り、俺もソファに戻った。そして俺がそのことを尋ねようとした矢先に真弓が
声をかけた。「モーニング、頼めるみたいですよ。どうします?」
真弓は手にプラスチックだか樹脂だかでコーティングされたボードを持っていた。電話脇に置
いてあったルームサービスの一覧表だ。拍子抜けしたが、『腹が減っては戦はできぬ』という言
葉もある。たとえ敗残兵でも、戦はまだ終わったわけではない。むしろこれからだ。
- 140 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:05
-
「ここが一流ホテルだとは知らなかった。ま、そんなに利用したことがあるわけじゃないけど」
「ボクもですよ」真顔で真弓がいった。
一瞬、どういう意味なのか考えてしまったのは、真弓の容姿のせいだろう。二十四歳の男で
あれば、それくらいはあっても普通だが、真弓はそうは見えない。
「真弓ちゃんは、変ないいかただけど、ノーマルなんだよね?」
思いきって尋ねてみた。真弓は尋ね慣れてでもいるのか、クスクスと笑っていた。
「今はカノジョいないですけど、好きな人はいますよ。もちろん、女性ですけど」
「ああ、だよね。ごめん、変なこと訊いちゃって。どこぞの誰かさんが変なこといってたもんで」
もちろん保田のことだ。保田は真弓のことをおねえ系だと説明し、さらに仙石のことをカレシ
だともいっていたが、その両方ともが間違いだったことになる。迷惑なやつだ。顔や常識だけ
ではなく、観察力にも欠陥があるらしい。
「保田さん、ですか?」
「あいつのいうことは九割がた、疑うようにはしてるんだがな。思い込みで話するようなやつだ
から」と、俺は保田のことをまるで東スポのように評した。
しかし、真弓はガセネタの原因が自分にもあるとでもいうかのように保田をかばった。「でも、
男から告白されたこととかもありますよ。保田さんにそのこと話したからかな? あと、女の人
でもレズの人とか。もちろん断ったけど。でも仕方ないですよね。ボクも自分のこと、女の子み
たいって思いますもん」
いろいろ大変らしい。後者はまあ、楽しめるかもしれないが。
- 141 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:05
-
話を戻す。「とりあえず、腹ごしらえだな。何時からオッケー?」
「七時から十時です。モーニングは」
「じゃあ頼もっか。ラブホテルの朝食がどんなものなのか、気になるし。柿がなきゃいいんだけ
どな。ま、この季節にそれはないだろうけど」
「柿?」
「いや、ただの迷信みたいなもん」
自己本位な戦国ジョーク。真弓がヘンテコな顔を浮かべるのも無理はない。それに本能寺
の変からいきなり関ヶ原の合戦というのも、あまりにも飛びすぎだ。
「どんな迷信ですか?」
真弓が尋ねて、俺が答える。
柿というのは関ヶ原の合戦で負けた西軍の事実上の大将、石田三成の逸話だ。三成が斬
首される直前、誰かが柿を差し入れた。ところが三成は、柿を食うと躰に障る、そういったと
される。死を目前にしてまでも生を大切にしたと誉められることもあれば、死を目前にしてま
でも融通が利かない頑固者と馬鹿にされることもある。
ただし、俺の評価はそのどちらでもない。渋柿アレルギーで苦しんだ経験でもあったのかも
しれないからだ。俺は自分が高校時代にビワの葉のフリカケで中毒症状に陥り、それ以来、
ビワを敬遠し続けているというどうでもいい話をした。飽きるかと思っていたが、真弓はそれ
をおもしろそうに聞いていた。
- 142 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:06
-
一流ホテルのモーニングを食べ終え、俺たちはホテルを出た。昨日の駅ではなく、北にある
私鉄の駅まで歩き、堂々と切符を買う。通勤・通学に向う人の姿はそれほど多くはなく、逆に
改札を出てくる数の方が多かったが、作戦にはそれが好都合だった。昨日の男が先回りでき
た理由は勘ではなく、たぶん目視によるもの。俺たちが切符を購入するところをどこからか眺
めていたに違いない。
俺たちはそれを逆手に取って、あえて遠くへ行くと見せかけた。改札を通ってホームに向い、
きた電車に乗る。だが、数駅で降りて反対側のホームに回り、最初の駅に舞い戻る。危険な
賭けだが、こちらには真弓という武将がいる。同じ顔を見れば敵の存在はすぐにわかる。
払い戻しをして俺たちは駅を出た。入場料分の金額が引かれていたのに腹が立ったが、本
来ならば往復分の金額を払わなくてはいけないところで、それは京成電鉄と痛み分けか。
俺たちは競馬場に隣接する公園スペースに本陣を構えた。レースはなく、人はほとんどいな
い。
「ばれてませんかね?」
「君がいれば大丈夫だ。それより、情報収集だな」
駅のホームで俺は新聞二紙とスポーツ新聞一紙とを購入していた。もちろん、部屋の爆破
がどのように報じられているか、それを確認するためだ。
テレビ欄から一枚めくり、四コマ漫画の横から確認を始める。夕方の火事で子供二人が犠
牲になったという事故のニュースが写真入りで載っていたが、古ぼけたアパートではなくマン
ションの一室だった。爆破や爆発という文字もどこにもない。どうやら大きな扱いは受けてい
ないらしい。
- 143 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:06
-
俺はより小さな事件事故を報じる部分に目を移した。三十一面ではなく三十面に、報道機
関の職員が痴漢で逮捕されたという数行の記事。その下には部屋に血痕という小見出しで、
失踪した元ピアニストの女性が事件に巻き込まれた可能性が高まったと伝える記事。しかし
どこにも爆破の記事はなかった。
ないな、と俺がいったのとほぼ同時に、真弓が声を上げた。「ありましたよ。ほら、アパート
火災。かすみ荘でいいんですよね?」
真弓が指差した部分に、たしかにその文字が見えた。三十一面。なぜだか訃報欄の隣だ。
アパートの一室から爆発音がして出火、すぐに鎮火したとある。ただし、ただそれだけだった。
俺の名前もなければ火災の原因にも触れておらず、事故とも事件とも書かれていなかった。
何か圧力でもかかったのかと疑いたくなるほどの非常に短い記事。どこぞの企業の社長や
ら大学教授やらがあと一人多く亡くなっていたら、多分その記事はカットされていたことだろ
う。俺が死にかけたというようなことは、世間ではどうでもいいことらしい。
「変な記事だな。たしかに怪我人も死者もいなかったけど、あれほど奇麗に部屋が爆発して、
しかも肝心の住人が行方不明ってのに……」
「逆に怪しいってことですか?」
「千葉版ってのもあるのかもしれんが」
俺の中で安心が倍増し、同時に不安も倍増する。それはもう一つの新聞の地方面に壁が
吹っ飛んだ俺の部屋の写真が掲載されていたのを見ても同じことだった。そちらにも爆発音
がして出火したということが書かれてはいたが、やはりそれだけだった。貧乏そうなアパート
でテロ事件が起きるなどとは、誰一人として想像できなかったのだろう。
- 144 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:06
-
「どうなってんだ……」
俺は自分がなぜ逃げているのか、その根本がわからなくなっていた。警察に何もかも話せ
ばそれで済むのではないか。その方が保田や飯田たちも安全なのではないか。そういった考
えが頭をよぎる。
だが、そうではないという考えの方が今は強かった。真弓は見てはいけないものが何だった
のか、それに薄々気づいている。言葉を濁しているのは、これ以上俺を巻き込みたくないから
なのだろう。俺は真弓を守っているつもりで、どうやら真弓に守られているらしい――しかしだ。
俺には保田を守らなくてはならないという男としての意志と意地とがある。そして、そのために
は俺自身が謎を解かなくてはならない。全ての真相が明らかになるまで、俺が男を放棄するこ
とはできない。
何の成果もないまま情報収集を終え、俺は近くにあった電話ボックスに入った。メモを片手
にボタンを押す。携帯の番号。だが、コール音は十回ほどで消えた。どうやら公衆電話からの
着信は受けつけない相手のようだ。
受話器を戻し、ピピーピピーピピーという電子音とともに吐き出されたカードを入れ直し、もう
一度番号を押す。間違いでないと思ったのか、今度は繋がった。
「あの、えーと……」いいながら、どう切り出せばいいか考えていなかったことに気づく。電話で
も何でも、俺は初対面の人間とはうまく話せない性質(たち)だ。「あの、筒川といいますけど、
保田さんから、伝言、聞いてませんか?」
昨日の飯田との通話と同じく少し言葉足らずのような気もしたが、携帯を解約して二年の原
始的生活を送る俺にしてみれば頑張った方だろう。だが、相手は沈黙を続け、俺の努力を無
にするかのごとく五秒後に電話は切れた。
- 145 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:06
-
緑色の箱が好物ではないと主張するかのようにまたもやカードを吐き出した。それを見て真
弓がドアをノックする。「繋がらない?」
「いや、繋がったことは繋がったけど、どうも保田のやつがさぼったらしい。もう一度かけては
みるけど」
無性に腹が立ったのは、しかし何も保田が義務を怠ったからではなかった。もしかしたら保
田に何かあったのではないかという危惧が、俺自身に重くのしかかっていたのだ。
三度目のコンタクト。俺は頭の中で言葉を慎重に吟味していたが、口を開いたのは今度は
相手の方だった。女性の声だ。
「何度も何なんですか? おたく、誰ですか?」
やはり保田はまだ伝言のことを知らせていなかったらしい。ただの怠慢であればいいが、そ
れならそれでやはり保田は困った存在ということにもなる。
俺は自分が何者で、保田とどういう関係で、事情があってその番号に伝言をするようにいわ
れたことを伝えた。相手はようやく理解した様子だったが、それでも納得がいかないのか、言
葉遣いはかなり好戦的だった。
「えーと、それで、こっちが無事だということを伝えてもらいたいんですけど。あの、もちろん保
田がそっちに電話をかけてきた時ってことになるんですけど。たぶんあいつも公衆電話からか
けると思うんですけど」
「私は便利屋じゃないですよ。私のこと、何だと思ってるんですか」
保田の友達だと思っていたのだが、そうではなかったということか。とりあえず次に保田と対
面した時は、勝手に友達だと思い込む癖を直すようにいうべきだろう。
- 146 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:06
-
「ほんとすいません。でも、こっちも他に頼るところがなくて……」
「いい迷惑ですよ。普段は私のことなんか忘れてるくせに、そういう時だけ私に頼ろうなんて」
俺にではなく保田に向けた言葉なのだろう。ある意味、俺が深夜に織田信長の生存を聞か
された時の反応に似ているかもしれない。そうであれば俺もこの女性も同じ保田被害者の会
の一員ということになる。
「すいません。ほんっとごめんなさい」
「謝るのはあなたじゃなくて圭ちゃんです。私は圭ちゃんに怒ってるんです」
かなりやっかいな相手らしい。怒りながらも冷静さを失っていない。ただし、圭ちゃんと呼ん
だところを見ると、保田と友達だというのは本当だったらしい。
相手の愚痴が続かないように、俺は切り込むように保田との関係を尋ねた。「あの、保田さ
んとは、どういう関係なんですか? 古い友人だって聞いてたんですけど」
「えぇえぇ。たしかに古い友人ですよ。新しい友人ではないことだけはたしかですから」
ひがみっぽい性格らしいが、保田と接していれば誰だって性格に異常をきたす。朱に交わ
れば何とやら、だ。
「幼馴染(おさななじみ)とかですか?」
「そこまで古ぼけてはないです。圭ちゃんから、何も聞いてないんですか?」
「ええ。何も。ただ古い友人とだけ」
「昔、圭ちゃんと一緒に仕事してました。でもそれだけです」
「仕事?」
- 147 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:06
-
ふと保田がデビュー前にマクドナルドでバイトしていたという話を思い出した。俺がアルバイ
トだといった時に、保田がそんなことを話したのだ。たしか初対面の日だったと思う。嘘か本
当か、オーディションに合格してバイトを辞める時に本部の人が直々に慰留(いりゅう)しにき
たというような話も聞かされている。もちろん作り話だとは思うが。
「もういいですか? 圭ちゃんから電話がきたら、ちゃんと伝言は伝えますから。もちろん文句
もいいますけど」
女性が急(せ)かすようにいい、俺は重要なことをまだ伝えていないことに気づいた。飯田の
ことも真弓のことも、俺はまだ何一つ話していなかったのだ。
「あの、伝言がもう一つあるんですけど。えーと、メモいいですか?」
女性が返事をし、俺はそのことを話した。保田の携帯に飯田から電話がかかってきたこと。
飯田の部屋が荒らされていたこと。月島に行き、真弓と合流したこと。ただし、真弓がそれほ
ど保田と親しくはないということや、保田の観察力に欠陥があるというようなことはいわないで
おいた。餘分(よぶん)を伝えられるような相手ではない。
だが、女性は予想に反し、その伝言に喰いついていた。「カオリも関係してるんですか?」
へっと声が出たのは、違和感を覚えたからだ。俺は飯田のことを飯田としかいわなかった
のに、その女性は飯田のことを名前で呼んだ。感じからして、飯田とも知り合いということに
なる。
「飯田さんとも、知り合いなの?」
俺の質問に、女性は声を二倍にした。
「古い友人ですから。知りませんか? 福田明日香って」
- 148 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:07
-
俺は目ばたきを七回した。両目で十四回。はっきり数を数えたのは、何も俺がドライアイだ
からではない。俺はその名前を知っていたのだ。そしてその名前が記憶領域のどのディレク
トリのどのフォルダに保存されているのか、検索して一致するまでに七回分かかったのだ。
「もしかして、あの福田明日香? あの?」
「どの福田明日香を思い浮かべたのかは知りませんけど、たぶん、その福田明日香です」
うひゃあ、と、俺は思わずすっとんきょうな声を出した。
俺はモーニング娘。についてはほとんど何も知らないといっていい。メンバーも有名な子し
か知らない。結成から全盛期にかけての時期がちょうど俺の学生生活と重なっていたせいだ
ろうと思う。あの頃は四年間で四人の女性と付き合っていたから、ブラウン管の中のアイドル
に興味を持つような餘裕(よゆう)はなかった。もちろんゴマキやナッチやヤグチといったメン
バーは知っていたし、カラオケでは誰かがかならずモームス関係の曲を歌ったものだ。しかし
俺の知識はその程度で、それはたぶん、世間一般の認識とそう大差はない。
ただ、そんな中で、俺は福田明日香に関してだけは、その名前と顔と態度とブラウン管から
推測できる性格とをちゃんと、それもいち早く覚えていた。なぜなら、福田明日香は俺がびっく
りするくらいに、マイマザーに似ていたからだ!
「えーと、あの、本当に、福田明日香さん?」
「嘘いってどうすんですか。何のメリットもないような嘘、私はつきませんよ」
本当に福田明日香らしい。その言葉がなぜだか俺に確信を抱かせていた。
- 149 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:07
-
電話ボックスを出て、ボリボリと頭をかく。まさか福田明日香と会話をするなどとは、この電
話ボックスに入るまでは一度たりとも考えたことがなく、なんだか気恥ずかしいやら、もどかし
いやら、とにかく変な気分だった。
「繋がりましたか?」
「福田明日香だった」
「福田明日香?」
「知らないか? 昔モーニング娘。にいた子。最初にやめた子だったはず」
真弓は首をかしげたまま元に戻さなかった。その感じからして、真弓の御母堂は福田明日
香に似ていたりはしないのだろう。
俺はククッと思い出し笑いをして、そのことを話した。「うちの母親がね、福田明日香にクリ
ソツだったりする。でもって、話しててちょっと笑えてきた」
口に出したらさらに笑いが込み上げてきて、俺は悪いものでも食ったかのように腹をかか
えて一人でゲラゲラと笑い出した。たぶん、俺以外の人間にはこの笑いは理解できないこと
だろうが、それは実際に見たことがないからだ。笑えるほどそっくりなのだ。
保田と知り合ってまだ半年にも満たないのに、飯田と対面したり福田と電話で会話したりと、
思ってもみなかったことだらけだ。もちろん一番予想してなかったのは、俺がテロに遭遇した
ということで、全ては昨日から始まったことだ。しかし、そんなことがこれから次々に起きるの
かと思うと、やはりどうしても笑わずにはいられない。
俺にとって、それは武者震いならぬ、武者笑いだったのかもしれない。
- 150 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/07/28(土) 06:08
-
つづく
- 151 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:47
-
A-8
小雨が降ってきて、俺たちは逃げるように近くのショッピングモールに駆け込み、どうせする
はずだった買い物をそこで済ませた。内も外も小奇麗で清潔感に溢れた郊外型の商業施設
など、雨さえなければ普段の俺には無縁な場所のはずで、店員はさぞかし雨に感謝している
ことだろう。俺は小さい頃からデパートだの大型の総合スーパーだのという場所が大の苦手
で、変に緊張してしまう癖がある。自分には場違いなような気がして、遠慮してしまうという感
じだろうか。早く外に出て新鮮な空気を吸わないと死んでしまうような錯覚に囚われることさえ
あるのだ。
そんな俺とは違い、真弓は女がショッピングでウキウキするような感じで楽しんでいた。とり
あえず変装ですね、といい、セーラー服でも買ってみますか、なんて冗談をいったりした。俺
がその方が餘計(よけい)に目立つというと、じゃあ迷彩服なんかも駄目ですね、と、なぜだ
か残念そうに答えたりもした。意外にそういう人間の方が軍事マニアだったりするのかもしれ
ない。
俺たちは相談してなるべく地味な服を買うことにしたが、俺に関していえばほとんどいつもと
変わらなかった。俺にとってはユニクロすらブランド品。普段はスーパーの二階の衣料品コー
ナーで激安の服を買っているほどで、通常が地味すぎるほどに地味なのだ。ショップで服を買
うなんてのは二年前に黒地に花火模様の五千円のアロハシャツを思いきって買って以来。い
うまでもなく、俺の服装のセンスはかなりイカしている。
買った服に着替え、俺たちはモールを出た。小型の背負い鞄も買い、餘分(よぶん)な荷物
はそこに詰め込んだ。真弓は最初から自分のリュックサックを背負っている。
- 152 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:48
-
「さーて、これからどうするかだよなあ」必要なものは買い込んだが、いざ出陣となると何をし
ていいのか、それがさっぱりわからない。「まずは逃げるってことだけど。どこに逃げればい
いのやら」
「ずっとホテルってわけにもいきませんからね。カプセルホテルだって、三日も泊まれば馬鹿
になりませんよ。民宿だってそう」
ホテルの宿泊料金も買い物の費用も真弓が払っていた。昨日、飯田が別れぎわに真弓に
三十万円を渡していた。もんじゃ屋に向う前にコンビニのATMで下ろしたらしい。持つべきも
のは友、というやつだろう。俺の友達にはそんな奇特なやつはまずいない。保田がくれるとし
ても、せいぜい煎餅がいいとこだろう。
躰に触れても感じない程度だった小雨の雨粒が大きくなったりまた小さくなったりと、不安
定な状況の中、俺は真弓に連れられるように道を進んだ。先ほどとは別のモールがあり、そ
ちらは俺でも名前を知っていたくらいだから、たぶん有名なところなのだろう。その先に進む
と海。海に沿って人工的な公園が整備されていて、俺たちはそこの東屋(あずまや)に腰を
据えた。
「ボク、一度ここにきたことありますよ」
「へえ、そうなのか」
「カオとデート。というか、ショッピングで」試すように真弓がいった。冗談を楽しんでいるらし
い。「カオも撮影できたことがあるんだって」
「仲いいんだ。飯田さんと」
「趣味が一緒だからね。でも筒川さんも、そうなんでしょう?」
そうなんでしょうと訊かれても、どうなんでしょうとしか答えようがない。
- 153 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:48
-
「保田とか? そんなに仲よくもないけどな。会ったのだってまだ数回だ。あいつが一方的に
しゃべりまくるのをただ聞いてるだけで。だいたいあいつの趣味が歴史だってのも怪しいもん
だ。むしろ趣味は漫画で、それでちょっと歴史に興味を持ったって程度だし。まあバスツアー
なんか参加してるくらいだから、趣味の新規開拓には違いないんだろうけど」
俺はいやいやというか、しぶしぶというか、至極否定的に答えた。フロイトやユングに分析し
てもらわなくとも、それが本音の裏返しだということは誰にでもわかる。俺は第三者に対して
保田のことを好きだと明かせるほど堂々とした恋をしているわけではなく、それに俺にだって
理性というものはある。
「バスツアーか。でもそういう出会いっていいですよね」
からかうでもなく、真弓は素直にそう思っている様子だった。
たしかにドラマにありそうな安直な出会いではあったが、そうだとしてもそれはけっして恋愛
ドラマなどではない。あってもホラー風味の異色コメディだ。
保田が誰も知らないようなバスツアーに参加した理由は謎だ。歴史に興味があったという
よりは、単なる暇つぶしだろう。なんせその時の保田は山中鹿之介に関する知識くらいしか
持っていなかったほどで、当然そのバスツアーとは何の関係もない。ただし、それ以降に関
しては別の目的があったのではないかと思っている。俺は別に自信過剰な人間ではないし、
自分でそういうことをいうのにも抵抗があるのだが、あえていえば、やつの目的は俺だ。
- 154 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:48
-
最初のツアーで会って以来、保田はやたらと俺に電話をかけてくるようになった。最初はお
薦めの歴史漫画を教えてくれという話で、俺はいくつかの歴史小説を教えた。すると保田は
読んだ本の感想を伝えてくるようになり、それから次のツアーはいつかというようなことを催
促するようにもなった。俺は別にバスツアーの常連でもなく、それまでだって一般旅行会社の
小田原・鎌倉日帰りツアーと出版社主催の江戸の町ツアーとに参加したことがあった程度だ
ったのだが、保田の要望というか強制というか、それからは保田の日程に合わせて無理やり
付き合わされるようになったほどだ。一人で参加するのが心細いというのが保田の理由だっ
たが、保田ほど心細いという言葉が似合わないようなやつはいない。そんなこんなで俺は保
田が俺に気があるのではないかと疑い、そしてよくある話だが、その疑いから俺もやつに興
味を持ち始めたということになる。
どこまで正しいのかはわからないが、保田と別れた時の会話からして、俺の推測はそこま
で的外れではなかったはずだ。俺の多くはないが少なからぬ経験がそう告げていた。
俺がそんなことを思い起こしているうちに雨が本降りになり、学校帰りらしき自転車の高校
生が五人、六人と俺たちの隣の東屋に避難してきた。中間テストでもあったのかと思ったが、
それにしては時間が早すぎる。学校をさぼったか抜け出したかしてその辺で遊んでいたのだ
ろう。塗れたブレザーを肩にかけるように持ち、雨むかつくだの雨ざけんなだのと罵詈雑言を
大声でわめき散らしていた。
- 155 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:48
-
「雨に文句いっても仕方ないのにね」
真弓が俺の耳元に小声でささやき、俺も笑いながら答えた。「だな」
高校生集団は観察に価するだけの奇異な行動をそれぞれが取っていた。携帯の小さなス
ピーカーで音楽を鳴らすやつ、その音楽に合わせてスクラッチというのだったかDJの真似事
をするやつ、女の話をわざと大声でするやつ、雨に向ってむかつくーと叫び続けているやつ。
とにかく俺の周辺にはいなかったような連中だが、見かけないこともない。こういう馬鹿はど
こにでも生息している。日本は豊かな国だ。
俺が横目で観察していると、そのうちの一人、シャツのボタンをほとんど外して小麦色の肌
を露出しているやつが睨みつけるような視線を向けてきた。俺は何でもないふうを装って視
線を戻したが、馬鹿にとってはそれだけで敵対行為であったらしい。
「何見てんだよ!」
怒声に、俺はあえて真弓と顔を見合わせてからそちらを向いた。そして寝耳に水とばかり
にあごを突き出して見せた。俺のことか?
「おやじぃ、おめえだよ!」
どうやら俺はいつのまにか父親になっていたらしい。たぶんどこぞの女が俺に内緒で子供
を産んでいたのだろう。心当たりがないこともないが、高校生の息子がいるほど俺の初体験
は早くはなかったはずだ。
- 156 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:48
-
因縁をつけてきた男が立ち上がると、周りの連中がひゅーひゅーだのやれやれーだのやっ
ちまえーだのと弱いおつむでわめき出す。慣れているのか珍しいのかはわからない。
「逃げます?」
真弓が小声でささやき、俺は首を横に振った。自信があるわけではなかったが、たかが高
校生ごときに喧嘩で負けるはずもない。それに、そんな素人に負けていたくらいでは、これか
ら先、組織と戦っていくことなんてできやしない。ある意味では貴重な練習台だ。昨日の偽の
真弓はいかにも弱そうなやつだったが、そうでなければ勝てていたかどうか。急所に命中した
からいいようなものの、俺の蹴りの威力は感覚として高校時代の半分にも達していなかった。
あの場にきらら397な飯田がいなければ、さらに半減していたことだろう。
「なんだこら、やんのかよ!」
やらないといっても同じことなのだろうが、だからこそそんな理屈が通じる相手ではない。
「いいがかりだ。やめてくれよ」
喧嘩の必勝法はまず相手を油断させること。特に俺のように外見がそれほど強くなさそう
な場合はこれで決まる。高校時代からそれだけは頭の中で何度も無駄にシミュレートしてい
る。
「やめてくれよじゃねえよ! うぜえんだよ!」
意味不明だが、意味がわからないからこそこうしてからまれている。
俺は立ち上がり、おびえた表情で相手が近づいてくるのを待った。
間合いに入れば先制攻撃でもいい。向こうからきてもどうせ単発のパンチかキック。パンチ
ならかわして突きか蹴り。キックなら足を取って掬(すく)い投げ。これは俺のもっとも得意とす
る防禦(ぼうぎょ)技で、足さえ取ればどんなやつだって転がす自信がある。
- 157 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:49
-
俺は数センチずつ、じりじりと下がりながら、近づいてくる相手との間合いを取った。相手は
そこで急に止まり、にやっと笑った。
「おっさん、自信があるみてえじゃねえか」
親父の次はおじさんらしいが、もちろんそんな甥(おい)がいるとは聞いていない。
「何なんだよ。喧嘩とかやめろよ」
相手はコキコキと首を鳴らし、はだけた胸元に金色のネックレスを光らせながらシャドーボ
クシングを始めた。シュッシュシュッ。どうやら素人ではなく経験者らしい。だとすると、パンチ
の連打をかわし続けながら蹴りのタイミングを計るしかない。それと場合によっては体当たり
や頭突きの必要もあるかもしれない。
そんなことを頭に浮かべていた俺に向って、相手はいきなり攻撃をしかけてきた。とっさに
かわし、後ろに飛びしさって間合いを保つ。どうやら俺の反応を確認したらしい。
後ろの連中があいかわらず馬鹿みたいに吠えていた。一番冷静なのはこの俺の前にいる
男。馬鹿には違いないがどうもやっかいな相手らしい。油断がなければ五分と五分といった
ところか。
相手はふーっと息を吐き出し、吸って、律儀にいくぜっと声をかけてから俺に迫ってきた。
俺は相手のパンチと同時に蹴りを出した。重い蹴りではなく、針で刺すような速い蹴り。胸に
当たり、相手は若干後ろに下がった。しかしすぐにパンチを連打しながら迫ってくる。ボクサ
ーの腹筋は尋常ではない強度がある。ボクシング部との交流練習でそれは周知だ。
- 158 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:49
-
相手はもぐり込んで浮かび上がるようにして俺の目の前に現れ、俺の顔面にパンチを叩き
込んだ。俺は顔をガードする両腕でそれを受け、同時にまた蹴りを出したが、間合いが近す
ぎた。思いきって相手の面前に突っ込み、こちらからも突きを出す。上段・上段・中段の三連。
だがボクサーにとっては何の脅威にもならない。相手は最初の二発を餘裕(よゆう)でかわし、
最後の一発は腹筋で受け止めた。上段は目くらまし程度で右手の中段に威力を込めたので、
効いていないはずはないのだが、やはり打たれ慣れているということか。
正面からやり合っても効果は薄いと見て、俺は素早く横に移動した。途端に雨が髪に触れ
る。屋根の下からはみ出した場所だ。真弓は立ち上がって柱の後ろから様子を見ていて、馬
鹿連中はいまだにわいわいと騒ぎながらも、俺が普通ではないということにようやく気づき始
めた様子だった。
相手も雨に当たるところまで出てきて、そこからは猛打。蹴りで間合いを牽制し、それでも
近づいてくるや、こちらからも突進して攻撃をしかける。俺は二発のパンチをもろに喰らって
後ろへと下がったが、やはり五分と五分。俺の蹴りも相手のあごに見事に当たっていた。こ
の十年間、ほとんど柔軟体操などしていなかったが、それでも足は上がるものらしい。
ただし、俺が繰り出したのはかかと落としで、狙ったのは脳天だった。俺は現役時代、部員
の中で足が一番高く上がることで誉められていて、道場の先生から教範にはないかかと落と
しを教えてもらっていた。どこを狙ったにしろ、それが初めて役に立ったことになる。
- 159 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:49
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相手があごを押さえてうずくまったことで、ようやく馬鹿連中にも火がついたらしい。うおーと
叫びながらてんでばらばらに駆けつけてくる。だが、ボクシングの経験者でもなければ武道の
経験者でもない雑兵だ。最初の一人は蹴りで吹っ飛び、次のやつには顔面に二発の突きを
喰らわせる。だいぶ動きもよくなってきた。横からきたやつには蹴りを入れ、前から突っ込ん
でくる金髪にはシャドーボクシングのような突きの連打で立ち止まらせる。
爽快だった。まさか自分がここまでやれるとは思ってもいなかった。高校時代、俺は打撃系
が大嫌いで、グローブとヘッドギアをしての練習ではいつも逃げ回っていたほどだ。自分が強
いと思ったことはなく、むしろ部員の中では最弱の部類だと自覚していた。だが、それでも素
人とは経験が違う。
床に転んでびしょ濡れになった連中が死ねよだとかうぜえだとかむかつくだのと吠えていた
ところで、ようやく最初の男が立ち上がった。シャツを脱ぎ捨てて上半身裸になっているのは、
肉体美に酔っているだけではなく、本気を出すという意思表示なのだろう。
俺はそれを受けた。だが、あっさりと吹っ飛ばされた。顔へのジャブの連打はフェイントで、
メインはボディへの一撃。腹部を狙いながらも昇龍拳のようなアッパー気味の一撃だった。
俺は後ろへ転び、そこにすかさず馬鹿連中が飛び込んできた。体勢を立て直すより早く蹴
りがくる。鳩尾(みぞおち)の痛みをこらえつつ、その蹴りを受けてバランスを崩させ、まず一
人を地面に転がす。だが、その次の飛び蹴りというか、両足アタックのようなものはかわす方
法がなかった。立ち上がることができない俺に、次々と足が攻めてくる。両腕で顔面を防禦す
るのが精一杯で、俺はあっけなくリンチ状態に陥っていた。
だが、向こうが複数なら、俺も一人きりというわけではなかった。
- 160 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:49
-
馬鹿連中がうわっと声を上げ、俺の周りからいっせいに離れた。見ると、真弓がどこで見つ
けたのか、竹箒(たけぼうき)を振り回していた。ただし、馬鹿連中が逃げたのはその棒で叩
かれたからではなく、そのしゃわしゃわした箒の部分で顔を引っかかれたからだった。
「なにすんだ、このアマァ!」
たぶん女(あま)なんて言葉を口にしたのは初めてだったのだろう。アマというところがママ
に聞こえ、俺は自分の痛みを忘れて思わず笑ってしまった。
馬鹿連中は今度は真弓を取り囲んだ。だが、驚くことに真弓は強かった。竹箒を振り回して
相手を一歩も近づけず、それでいて相手をどんどんと追い詰めていく。剣道ではない。どうや
ら薙刀(なぎなた)の経験があるらしい。柄(え)の部分を両手で広く持ち、振り上げては振り下
ろし、まるで地面を掃くように相手の足元を薙ぎ払う。
これは意外だった。相撲取りと剣道家とは絶対に喧嘩をするなと教わっていたが、薙刀も剣
道に準じるほど実戦向けだったらしい。それも竹箒でこの威力だ。さすがのボクサーもしゃわ
しゃわの部分で顔を狙われて真弓に近づけないでいる。真弓もどうやらそのボクサー一人だ
けに標的を合わせているらしい。となると、その場にいる人間の中で素人ではないのは三人。
どちらも貧弱ながら、うち二人がこちらにいることになる。
そうとわかれば後は楽勝だった。
「おい、まだやんのか?」特に大きな声ではなく、むしろ小さな声で恫喝する。「やってやっても
いいが、どうなっても知らんぞ。俺は黒帯、こっちのお嬢さんも有段者だ」
ボクサーがチッと舌打ちをし、首で馬鹿連中に引き上げるように合図した。それを見て馬鹿
連中がすごすごと退散していく。帰りぎわにうぜえだの死ねだの消えろだのと捨て台詞を吐く
ことだけは忘れていなかったが、もちろん消えたのはそいつらの方だった。ただし、ナイフを
取り出したりしなかったところを見ると、連中も一応は善良な高校生だったのだろう。
- 161 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:49
-
馬鹿連中のいなくなった東屋に戻り、石製の椅子ではなく地面にぺたんと腰を下ろす。ボク
サーにやられた顔や腹部の痛みもあったが、一番の痛みは集団で蹴られた時の耳で、それ
がまだジンジンしていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫に見える?」
「見えませんね。でも、勝ってましたよ。うん。保田さんに見せたかったくらい」
なぜそこで保田の名前が出てきたのかわからなかったが、俺も同じことを考えていないで
もなかった。俺は喧嘩の最中、守るべき存在として保田の姿を頭の中でイメージしていた。そ
れに、俺にとっては中学時代の陸上の県大会準決勝の時以来の、人生で二度目の華々しい
活躍だ。優勝でも完勝でもないというのが俺らしいところではあったが、もし保田がいたら俺
に惚れ直していたに違いない。保田は単細胞、そして俺は単純な妄想家だ。
「くそっ、耳蹴りやがった。どこのドイツ人だか知らんが」
真弓が俺の全身をまじまじと眺める。「耳は、大丈夫みたいですけど、唇から血が出てます
よ。それと右目のところが、ちょっと変色しかかってるかも」
俺は舌で血を舐め取った。鉄分を補給したいと思っていたところだ。
「それより、真弓ちゃんは? 怪我はない?」
「うん。虫歯がちょっと痛むけど」
たぶん照れ隠しなのだろう。真弓を侮っていたのは馬鹿連中だけではなく俺もだった。
「真弓ちゃん、薙刀とかやってた?」
「親戚が家元なんです。長刀(なぎなた)の。それで一応、段位でいえば初段です」
有段者といった俺の言葉は事実だったらしい。どうりで竹箒を自在に操るわけだ。
- 162 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:49
-
それにしても、真弓ほど外見から判断できない人間は、やはり日本のどこにもいないこと
だろう。少女のような外見ながら二十四歳の男性で、直感像素質の持ち主。高学歴で官僚
にもなれながら、職業は路上の似顔絵描き。そのくせ薙刀の家元の親戚で初段だ。その次
に何が飛び出してくるのやら想像もできないが、将来日本の総理大臣になっていたとしても、
俺はもう驚きはしないだろう。まさか“女優”になるということはないだろうが。
「薙刀なんて初めて見たよ。竹箒だったけど」
「ボクも竹箒使ったの初めてですよ。重かったけど、でも反りの角度とか結構似てたりして」
レレレのおじさんももしかしたら薙刀の達人かもしれない。そう思えばそう見えてくる。
「剣道とかとは違うんだよね?」
「違いますね。似てるのは槍とかかな。ボク、剣術もやってたんですけど」
もう驚かないと決めていたので、俺は驚かずに尋ねた。「剣術? 剣道じゃなくて?」
「大学に剣術同好会があって。一年間だけですぐ潰れちゃったけど」
「剣術かあ。実は俺も興味はあるんだけどね。時代小説とか読んでて」
一時期、池波正太郎にはまり、そこから様々な剣豪小説を買い漁っていたことがあった。
保田にも池波正太郎の本は薦めているし、群像三部作は保田に貸し出し中だ。部屋を爆破
された俺だが、その『剣客群像』『仇討群像』『忍者群像』の三冊だけは失わずに済んだとい
うことになる。俺の唯一の財産だ。
- 163 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:49
-
空気中の埃を完全に洗い流したいのか、雨は本降りのままで、俺たちは本陣に待機し続
けた。謎を解くとは決めたものの、やることは何もなかった。感情としてやりたいことがないで
もなかったが、そのどれにも危険が伴う。
まず、福田明日香と会話したことで親元に連絡を取る必要があることに気づいたが、敵の
手がそこにまで伸びている可能性もある。人質を取るのは古来の常道、むしろ連絡すること
で親に迷惑をかけることにもなりかねない。
次に爆破された部屋を再確認するということ。警察や消防がそれをどのように認識し、そし
てどのような処理をしているのか、それ次第によっては今後の方向性が変わってくる。新聞
からはわからないことも現場に行けばわかる。だが、現場には敵がいるはずだ。
三つ目は、保田の無事を確認するということ。俺にとってはこれが一番重要だった。
「横浜ベイサイドスポーツセンターか……」真弓が石製の円形テーブルの上に置いた例の名
刺を見ながらつぶやいた。「ここも、気になりますよね」
それを四つ目に追加する。「俺もその男は引っかかってる。もしかしたらあの男も俺たちと
同じように追われてたのかもって。でもそうだとすると、どうやって尾行したのかがわからん」
「カオのジムは港区だから、たぶん関係ないと思うけど、でも仕事でいろんな人と会ってるか
ら、カオの知り合いだとしても不思議ではないと思う。あ、カオに訊いてみる?」
「飯田に?」
「うん。筒川さんが福田さんに伝言して、保田さんに伝えてもらって、それでカオに」
「伝言ゲームか。悪くないな。どのみち疑問は潰していかなきゃいけないからな」
- 164 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:50
-
タオルを頭にかぶせ、百メートルも走って電話ボックスを見つける。先ほどの電話からまだ
三時間も経っていない。しかし、保田の安否が気になる俺にとって、その三時間は三週間と
いってもいいくらいの長さだった。椎葉という男のことはついでだ。俺の心中はスーパーマリ
オブラザーズの3-1面のように増殖した保田で埋まっている。いや、梅雨時の食パンの青カ
ビといった方が適切か。
電話はすぐに繋がった。俺が名乗ると、福田は保田から連絡があったばかりだと告げた。
「保田は大丈夫なのか?」
「ええ。無事に家に帰ったみたいです。尾行みたいなものもなかったって。家の近所にも明智
軍の姿はなかったって。どういう意味ですか?」
俺はさあな、とつぶやきながら、胸のつかえがすっと下りていくのを現在進行形で感じた。
たったの半日で、保田は俺にとってかなり大きな存在になってしまったらしい。救いなのは保
田の顔を夢で見なかったことくらいだろう。ホラーを見るにはまだ季節が早い。
それから福田は、こちらからの伝言を受けての保田の反応を伝えた。急激な展開に驚いて
いたらしいが、『真弓ちゃんがいるならホムちゃんでも大丈夫かもしれない』だそうだ。俺の活
躍を見れば評価も変わるのだろうが、今はそのままでいいだろう。女はギャップに弱い。まさ
か俺が喧嘩に勝つなどとは想像もできないに違いない。そうであれば、それを溜めに溜めて
最後の最後で一発逆転だ。保田が驚いて失神する姿が目に浮かび、俺はにやっと笑った。
- 165 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:50
-
俺は高校生の馬鹿連中にからまれたことはいわず、真弓が提案した伝言ゲームをスター
トさせた。名刺に書いてあった肩書きと名前とを読み、飯田の知り合いかどうかを尋ねてほ
しいと伝える。それから考えて、一日に二度、朝と晩に必ず伝言をし合うようにとも伝えた。
不定期な連絡では何か起きた時に困る。というよりも、何も起きていないことを確認する必
要がある。朝と晩の二度にしたのは、伝言に対するタイムラグを少なくするためだ。
全ての連絡を伝え終え、俺はマイマザー似の福田との会話を終えた。福田はいい迷惑で
すけど事情があるみたいですから許します、とか何とかいっていた。俺たちの非日常を羨ま
しがっているのかもしれない。
「無事だったみたいですね」俺の表情に書いてあったといわんばかりに真弓がいった。
「ああ。今のところはね。ただ、飯田とは来週まで一緒の仕事はないらしい。そういや俺、あ
いつの仕事とか、何してるのかとか全然知らないんだよな。テレビでも見ないし、女優とかい
ってたけど、そんな話とか聞いたことないし」
「舞台に出てるらしいですよ。実力派の女優になるんだっていってました」
「実力派ねえ。どう見ても個性派だけど。まあそれはそれで素質ってやつかもしれないけど」
伝言を済ませると、俺たちのやることは本当に何もなくなった。会話もそこで止まった。じっ
としていられないほどの焦燥感があるにも関わらず、実行しなくてはならないようなことは何
一つない。まだ何も見つけていないだけかもしれないが、正直なところ、俺に何ができるかも
よくわからなかった。暗中模索どころか、自分がいるところが暗闇なのかさえわからない。カ
プセルホテルで三日間待機しながら、我慢できずに飯田に会いに出向いた真弓の気持ちが
ようやく理解できる気がした。ひょっとすると真弓もそういうことなのだろうかと、餘分(よぶん)
な考えが頭をよぎる。
- 166 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:50
-
一時間ほどで雨は止んだ。その間、真弓は手帳に向い続け、俺は蹴られた箇所を確認す
るかのようにストレッチをし、躰をほぐした。筋トレや柔軟体操はいつも一週間で挫折するが、
今回ばかりは続くかもしれない。切実な要求だ。
そのストレッチを終えて、真弓に声をかける。「さっきから、何書いてんの?」
「やっぱり筒川さんにも知ってもらった方がいいと思って。リストです。あの晩、お屋敷で見た
美術品とかの」
やっと俺のことを認めてくれたらしい。これも馬鹿連中のおかげだろう。
俺は感謝をユーモアに変換して応じた。「織田信長も入ってる?」
「入ってませんけど、加えてもいいですよ」
いいながら真弓が名前を書き足す。俺は真弓の後ろに回って、その手帳を覗いた。
一番下にその名前があった。信長ではなかった。だが、赤の他人というわけでもない。
「織田ノブタダ? 本当に?」
「ええ。名刺は見なかったけど、たしかノブタダって名乗ってました」
真弓が不思議そうな表情で答えた。俺がその名前に喰いついた理由がわからないといった
表情だ。
「まさかなあ。どのみちありえない話だけど」
「知ってるんですか?」
「信長の嫡男(ちゃくなん)の名前だよ。保田は知らなくて当然だけど、そこそこ有名」
「あ、そうなんだ。保田さんはノブタダがノブナガに似てるって。それで喜んでました」
たしかに語感は似ているが、明らかに別人だ。信長の関係者と同姓同名であるというのは
認めてもいいが、その語感だけから信長だと確信し、同時にその生存をも確信したというの
だから、やはり保田はかなりの大うつけ者だろう。
- 167 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:50
-
「ま、信長にしろ信忠にしろ、本能寺の変で死んでるし、たとえ死んでなかったとしても、そん
な不老不死みたいなことは百パーセントありえないんだけどなあ。何でそんなこと確信したん
だか」
「結構話が弾んでましたからね。本人しか知らないことを知ってたとかって」
「本人しか知らないこと?」
「ええ。何かマニアックな質問をぶつけたみたいですよ」
おそらく山中鹿之介のことだろう。たしかに、信長に興味があってそこそこの知識を持って
いる人は多いが、山中鹿之介となると普通の人は答えられないだろう。実のところ、俺だって
詳しくは知らない。山陰の雄(ゆう)、尼子氏の家臣で、毛利に滅ぼされた主家を再興するた
めに奔走した忠臣ということくらいだ。それ以外だとひらがな四文字のファミコンのゲームで
は名前が『ゆきもり』になっていたことくらいで、歴史小説を読んで山中鹿之介の名前に出く
わしたことも、たぶん一度もなかったはずだ。その話題に関してだけは、漫画で知識を得た
とはいえ、保田の方が俺よりも専門家だ。
「その質問にちゃんと答えられたってことか。ま、そうだとしても本人しか知らないことを保田
がどうやって判断できたんだって話にはなるけど」
「それもそうですね。でもたしか、甘党がどうのって。信長って甘党だったんですか?」
真弓が大真面目な表情で尋ねて、俺はズッコケかけた。
「甘党じゃなくて、たぶん尼子党じゃないかな。それが保田の唯一の歴史知識だから。ただ、
尼子党を知ってたとなると、適当に話を合わせたんじゃなくて、偶然歴史マニアだったってこ
とになるか。でも、保田がそう素直に信じるとも思えん」
織田信忠という人物がますますわからなくなってくる。なぜ保田はその人物を、信長にせよ
信忠にせよ、本物だと思い込んだのか。不老不死を信じる宗教にでもはまっていないかぎり、
保田にだって最低限の常識くらいはあるはずだ。
- 168 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:50
-
「その信忠っていう人は、どういう人だったんですか? あの、歴史上は」
「専門家の意見なんかだと有能な息子だったらしいよ。信長が死んでも信忠が生きていたら
織田家は安泰だったとかって。嘘か本当か、信長は信忠を将軍にするつもりだったとかって
説もあったかな」
織田信忠も歴史小説にはあまり登場しないが、新書などで読むかぎりでは評価は高かった
はずだ。ただし、俺自身はそれを判断するだけの知識を持ち合わせてはいない。保田が漫
画を鵜呑みするほどではないが、俺だって取捨選択しているとはいえ、専門家の意見をその
まま吸収するだけで、それを自分の知識だと勘違いしている点は同じだ。
真弓が初耳とばかりに感心した声を出し、それから質問をぶつけてきた。「その人も本能寺
で殺されたんですか?」
「いや。京都にはいたんだけど、本能寺に駆けつけてやられたんだったか、別働隊に囲まれ
たんだったか、とにかく翌日くらいには死んでるはず」
「じゃあ、その後が秀吉ですか?」
「後って?」
「跡継ぎ?」真弓が疑問口調でいった。
日本史を専攻していないとはいえ、中学でも習うことなのだが、しかし信長→秀吉→家康と
いう天下人リレーを頭に浮かべれば、そういう勘違いをする人もいるかもしれない。
「いや、そうじゃなくて。秀吉が光秀に勝った後、清洲会議っていうのがあって。誰が織田家
の跡目を継ぐのかっていう。それで信忠の弟で信雄(のぶかつ)、信孝(のぶたか)っていう
のもいたんだけど、信忠の子供の三法師(さんぽうし)ってのが跡継ぎになったわけ。で、そ
の三法師を推したのが秀吉。つまり赤子をダシにして実権を握ったわけ」
- 169 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:50
-
「その三法師はどうなったんですか?」
「元服した頃には秀吉の家来になってたんじゃないかな」
「うわっ、ひどいですね」真弓が驚きの声を上げた。
「まあでも、そういうのが許されてた時代だからね。いわゆる下克上(げこくじょう)ってやつ」
「そういうのも下克上っていうんですか? 謀叛(むほん)とかじゃなくても?」
「下が上よりものし上がるって意味だから」
いつのまにか歴史の講義になっていたが、そのついでで俺は清洲会議の後、賤ヶ嶽(しず
がたけ)の戦いから小牧・長久手の戦いまでを手短に説明した。真弓も一応、柴田勝家あた
りは知っているらしいが、信孝が勝家に組して秀吉に敗れたことは知らない。後者の戦いも
同じだ。家康と戦ったことは知っていても、それが家康・信雄の連合軍だったことは知らない。
そのように説明しながら改めて考えてみると、それらは秀吉によるライバル打倒の戦いとい
うよりかは、織田家を没落させるための戦いのように思えてくる。たしかに下克上には違いな
い。
講義が終わり、話題は現実の織田信忠に移った。
「その人、どんな感じだった?」
「男前でしたよ。年齢は四十くらいかな? でもちょっと年齢不詳っぽかったかも。ボクと同じ
ですね」
戦前の教育を受けていれば、山中鹿之介の逸話くらいは知っているかもしれないが、四十
ならそれはない。
「男前か。それで保田のセンサーが反応したわけだ」
いった後でそれが別の意味も含むということに気づき、慌てていい直そうともしたが、やめ
ておいた。俺が男前でないことくらい、いわなくたってわかる。
- 170 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:51
-
「凛凛(りり)しい感じでしたよ。信長の肖像画とは似てなかったけど、戦国武将だっていわれ
たら納得しちゃいそうな感じ」
「男前は徳だな。ま、俺もうちの両親から生まれたにしては奇跡の出来とはいわれてるけど」
「でもお母さん、福田明日香なんでしょ?」
「その福田明日香をそのままおばちゃんにしたような、完全なおばちゃん顔だから。しかも小
さい頃の白黒の写真とか見ると、最初っから今のまんま。若くすれば福田明日香になるんじゃ
なくて、若い頃から福田をおばちゃんにしたような顔のまんま。だから笑える」
「ごめんなさい。実は福田さんって、よく思い出せなくて」
なぜ謝ったのかがわからないが、とりあえず謝っておいた方がいいと考えたらしい。正解だ。
「瞬間記憶術じゃなくて、直感像素質だっけ。それで覚えてたりは?」
「誰が誰とかはちゃんと覚えとかないと。映像見ればわかるんだろうけど」
無条件というわけではないらしい。その辺のことはまだよくわからない。
話が信忠に戻り、真弓は唐突に思いついたかのように似顔絵を描くといい出し、手帳にペ
ンを走らせ始めた。輪郭やパーツを大まかに描き、それから特徴を二倍にするような感じで
線を決めていく。できあがった似顔絵はたしかに男前だったが、知らない人にはわからない
ような感じでもあった。
俺が見ずに描けるのはやっぱり能力のおかげかと尋ねると、真弓はそれはそうだけど、絵
の描き方自体にはまったく関係ないのだと、いいわけするようにいった。どうもそのことで誤
解されることが多いらしく、あまり好きな質問ではないといいたげだった。
- 171 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:51
-
「この男が何者なのか、それも調べないといけないな……」
真弓の描いた似顔絵を眺めながら、俺は保田がいっていたことを思い出していた。部屋を
爆破された直後、保田は真っ先にその男と会うことを提案した。俺は馬鹿にしたが、その男
が事件の鍵を握っている可能性は高い。ただし、その男と会うには、保田の協力がいる。保
田との合流。しかし、それにはまだ早すぎる。敵の動きが見えない今、俺たちにできることは
敵の手から逃れ、身を隠し続けることくらいしかない。
ショッピングモールにある和食の店で蕎麦を食べ、それからタクシーに乗り、電車に乗り、
地下鉄を乗り継いで、俺たちはとある街に移動した。連日ホテルに泊まるなどという贅沢は
俺だってしたくはない。そのためにはアジトが必要だ。そして、真弓にはそのアジトに心当た
りがあった。
手帳を取り出すまでもなく、真弓は緑色の電話の受話器を取り、ボタンを押した。電話番号
は全て暗記しているとのことで、特に親交が深い相手というわけではないらしい。最後に会っ
たのが三年前だというから、むしろ浅い関係だろう。ただし、親しい友人や親戚などの存在は
敵にも知られている危険性が高い。真弓いわく、自分でも忘れてたくらいだから敵がマークす
るようなことはありえない、だそうだ。それもどうかと思うが、しかし、真弓が自信を持って断言
するくらいだから、信頼できる人物には違いないのだろう。
会話を続けながら、真弓が俺に向って右手で輪を作って見せた。俺も真弓に向って右手で
作った輪を見せる。友達の友達を皆友達にしてしまう保田と異なり、俺は人見知りで非社交
的だが、真弓だって友達の友達だ。俺はそのオーケーサインをメガネのようにして覗き込み、
その向う側に富士山の上でおにぎりを食べている百人の集団を想起した。
真弓がいて保田がいて飯田がいてマイマザー似の福田がいる。たまには友達の輪を世界
に広げるのも悪くないかもしれない。それは数日前にはまったく考えられなかった奇妙で笑え
る光景だった。
- 172 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/07(火) 00:51
-
つづく
- 173 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/15(水) 23:30
-
A-9
朝の五時には目が覚めるものの、自分がどれだけ眠ったのかという実感はあいかわらず
薄く、起床と睡眠の境界も曖昧だった。カーテンの隙間からはすでに朝が入り込んできてい
る。俺はいつものように頭の中で現状を再確認してから、ベッドを抜けて洗面所へ向った。
本能寺が燃えてから十日。その間、危機を共有した真弓の人柄や性格などは十分に把握
し、俺とのコンビも板についてきた。ベッドの使用も一日交替で、そうした日常的な点にも問
題はない。それに比べて、その部屋の主、加藤雅子のことは、すでに八日目だというのにほ
とんど把握しきれていない。わかったことは、性格に難があるということ、そして真弓に対して
学歴以外にも何らかのコンプレックスを抱いているということだけだ。
洗面所で顔を洗っていると、俺の気配に目を覚ましてしまったのか、それとも俺と同じよう
に習慣になってしまったのか、真弓が顔を覗かせた。
「おはよう。今日も早いですね」
「歳取ると朝が早くなるっていうからね」
「二十代のセリフじゃないですよ、それ」
「真弓ちゃんもおっさんになればわかるよ」
問題発言のような気もしたが、賢い真弓のことだ、ちゃんと俺の自虐的な言葉だと受け取っ
てくれることだろう。
洗面台を明け渡し、歯ブラシを咥える。歯磨き粉さえつけなければ、俺だって欧米人のよう
に歯ブラシを咥えたままリビングを歩くこともできる。昨日知った事実だ。ただし、歯磨き粉を
つけると、やはり白い粘性の液体が口からどろどろと垂れてしまう。日本人の限界だ。
- 174 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/15(水) 23:30
-
口の中がすっきりしないまでも落ち着いたところで居間に戻り、椅子に座る。間取りは2DK。
寝室が一つと、ダイニングとリビングを兼ねたような居間があり、壁に向いて台所がある。た
だし、そのどこにも加藤の姿はない。加藤はその建物内に二部屋を借りていて、隣室を仕事
場として使っていた。俺と真弓が転がり込んでからはもっぱらそちらにいるが、どうも元から
そういう生活形態であるらしい。
真弓から高校時代の同級生の女子だと聞かされた時は少し緊張したのだが、加藤は別の
意味で緊張させられるような女性だった。顔立ちははっきりしていて保田なんかよりも美人な
のに、肌は荒れ放題でほくろが多い。髪は黒のロングヘアーながら、二週間は洗っていない
と思えるような不潔な艶があった。風呂にも一週間は入っていないだろう、躰からも汗と垢の
混ざったような臭いがし、それでいて他人のタバコ臭を嫌う。
加藤は社長だった。私立大学を半年で中退し、専門学校に入ると同時にウェブサイト制作
の仕事を始めたらしい。ウェブデザイナーという職業は都市伝説の類だとばかり思っていた
ので、現実に存在すると聞いた時には驚いたものだ。しかし、六、七年前ならいざ知らず、今
では業者も飽和状態で仕事などほとんどないに等しい。二人いた社員もいなくなり、フラッシュ
制作に特化して何とか食い繋いでいるらしい。ただし、俺が思うに社員がやめたのは加藤の
性格やら言動やらによるものだろう。俺だって他に行くところがあれば、こんなところにいたく
はない。
- 175 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/15(水) 23:31
-
真弓が冷蔵庫から食材を取り出し、朝食の準備をする。俺も料理は嫌いではないが、自己
流であるから味は保証できない。その点、真弓は基本がしっかりしていて手際もいい。男にし
ておくにはもったいない逸材だが、そんなことは口が裂けてもいえない。真弓は自分の容姿
を諦め、受け入れつつも、男らしい男になることに憧れている。この数日でわかったのは、真
弓も俺と同じくらいにコンプレックスを抱いているということだ。しょせんは人間だ。
「一応、加藤さんとこ行ってきてくれますか? まだ起きてると思うから」
なるべく顔を合わせたくないということなのだろう。
ああ、と答え、俺は靴を履いて一度廊下に出て、隣室に回った。表札には名前がないが、ド
アの上部には『G.K WEBデザイン』と書かれたプレートが貼られている。文字の背景には薄い
肌色でGのマーク。素人の手作りではなく、六本木ヒルズのオフィスにあってもおかしくないよ
うな洗練されたデザインだが、この工業団地風のマンションにはまるで合っていない。
ブザーを鳴らしてドアを開け、勝手に入る。どうせ待っていても反応はない。
間取りは隣室と同様に2DKだが、部屋の配置が左右反対になっている。室内は五月下旬
だというのに冷房が効いていて涼しいが、早朝であれば外とほとんど変わらない。その冷気
の中、簡素な応接室風の居間を通過し、引き戸をノックしてから加藤のいる部屋に入る。
「あら、尾藤君じゃないのね」
いかにも恨めしげに加藤がいった。名前は雅子だが、あだ名はガコ。自分ではそれが気に
入っているらしく、会社の名前もG.Kになっている。ただし、真弓にいわせれば、ガコというより
はガンコ、あるいはガサツがいいとこらしい。俺もそれには同意する。
- 176 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/15(水) 23:31
-
「朝御飯できたんだけど」
「まだ朝って感じじゃないんだけど」
素直にありがとうといえない性格なのはわかっている。いや、むしろ他人の親切を何らかの
下心と見なす性格だ。ごやっかいになっている身分として文句はいえないが、相手はそのこと
をちゃんと承知した上でそれを腹黒く楽しんでいるような雰囲気を持っている。美人なのに外
見も内面も不潔で、これに比べたら保田でさえ格段いい女に思える。心配なのに会えないで
いるせいで、俺の中の保田は実際の二十三倍くらいはいい女になっている。恋は盲目だ。
俺は丁寧に、そうですか、それならいいですけど、とか何とか空虚な言葉を続けて、その電
子作戦室のような部屋を出た。四台のパソコンがある中、電源がついていたのは二台。画面
には今頼まれているという新人歌手のフラッシュファイルの作成画面が映っていた。
部屋に戻り、真弓と二人で早朝の食事を取る。朝の五時半。特にやることもない一日だが、
それでもこの数日間は忙しい。俺は色んな図書館をはしごし、朝から夕方まで資料に当たっ
ている。真弓も真弓で調べものをしている。
「筒川さんの方はどうです? 何か新しいことわかりましたか?」
「いや、あいかわらずだよ。金印についてはかなりわかったけど、それでなんで狙われるのか、
それがさっぱり。誰かが盗掘したんだろうけど、盗掘ったって、そんなのは昔からよくあること
で、歴史的大発見には変わりないし」考古学は専門外なのだが、古代史が好きな俺は、盗掘
が果たした学術的役割に関しては理解しているつもりだ。現代でも、立ち入り禁止の古墳石
室内部を一般人が撮影し、それによって学説が大いに進むこともある。
- 177 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/15(水) 23:31
-
「やっぱり大発見なんですか?」
「信長が生きていたっていうのよりは劣るけどね。でも大発見だよ。なんたって金印だからね。
歴史の教科書に載るどころじゃない。確実に国宝になるだろうし、学界じゃなくても大騒ぎに
なる。ただし、それが本物だったらの話だけど」
「偽物の可能性もあるんですか?」
「高いんじゃないかな。あの志賀島の金印だって、国宝にはなってるけど、いまだに偽造説が
あるからね。というかあの金印自体、かなり怪しいところがあるし。いつ定説が覆(くつがえ)っ
てもおかしくないくらい。そもそも今知られている説が定説なのかどうかも、調べていくと本当
のところ、よくわからなくなる。それくらいあやふやな代物なわけ」
志賀島の金印というのは、古代の倭(わ)の奴(な)の国が漢から授かったとされる「漢委奴
国王」と刻まれた金印のことで、俺はこれに関しては一般人よりはるかに詳しい知識を持って
いる。学生時代に古代史の概論でレポートを書いたことがあるのだ。五冊ほどの参考文献を
寄せ集めただけとはいえ、その五冊は大学図書館の書庫にあった専門書で、俺が初めて自
分が学生だと思えた瞬間でもあった。ただし、俺が勤勉な学生だったのは後にも先にもその
瞬間だけだ。
「偽物だからこそ狙われたってことは?」
「それは考えられないな。偽物の骨董品なんて腐るほどあるし。それに本物でも偽物でも、金
印を見たから狙われるなんて、普通はありえないよ。金印を発表もせずに独り占めしてるっ
てのも変な話だけど」
- 178 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/15(水) 23:31
-
真弓たちが仙石の祖父の屋敷で金印を見たのは間違いない。ただし、その金印が原因だ
と断定するだけの材料もない。たとえば、もしそれが日本国璽(こくじ)や天皇御璽(ぎょじ)で
あれば、それはそれで国家が転覆するくらいの大問題となるが、そんなことはありえないし、
第一、真弓たちが見たという金印とは大きさがまったく異なる。
さしずめ真弓たちが見たのは奴国金印のレプリカか何かだろう。あるいは盗掘された親魏
倭王の金印の可能性もあるが、後者にしても、ただの考古学的遺物としての意味しか持たな
い。その金印を見た人物から電話を受けただけの無関係な人物の部屋をわざわざ爆破する
ほどの意味はどこにも見出せない。それがどういう金印であったにせよ、それが原因だとする
真弓の考えは、たぶん間違っている。答えはそれ以外にあるはずだ。
「真弓ちゃん、俺はやっぱり金印は違うと思う。話聞いてると、金印だけ土蔵じゃなくて離れに
あったっていうし。普通に土蔵の中にあった美術品の方じゃないかな。たとえばピカソとかの
盗まれた絵があったとか。美術品の盗難事件とか、たまにニュースでやってるし。それも命を
狙うくらいだから、何十億もするような絵だろうね」
「でもあの金印が一番特別な感じでしたよ。一応、今日も美術館とか行って似たようなものが
ないかどうか調べてみるけど」
真弓がここ数日やっているのは美術館めぐりだった。あの晩に見た美術品を把握するため
に、似たような作品群を見て回っているのだ。それと、真弓は仙石の母方の祖父のことにつ
いて経済雑誌や企業年鑑などで調べていた。俺は経済や社会にはとんと疎い。
- 179 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/15(水) 23:31
-
話をしながら朝のカロリー摂取を終える。食事は最初から二人分で、そこに真弓の意思が
あることは考えるまでもない。後片付けを済ませ、六時台のニュースに見入る。どの番組も
順番こそ違えどやっていることに変わりはない。その日もミリオン歌手の事故死と現職大臣
の自殺という二つのショッキングなニュースが大々的に報じられていた。
「まさかとは思うけど、これ、関係ないよなあ」後者のニュースを見ながらつぶやく。
仙石の祖父はたぶん政界にも通じている。信長や信忠や金印が原因と考えるよりは、汚
職やスキャンダルが関係していると考える方がよっぽど納得がいく。真弓たちが見たのが政
治家の賄賂の現物であれば、アルバイトの一人くらい簡単に消すことだろう。
「違法な政治献金とかならわかりますけど、これは関係ないと思いますよ」
「じゃあZARDは?」
「むしろそっちですね。そんな話は聞いたことないけど、カオと知り合いでもおかしくはないだ
ろうし」
「さすが藝能人だな。俺も保田と親しくしてれば、女優と知り合うことも夢じゃないか」
「保田さんも女優ですよ」
「まあ飯田さんと会えただけで満足か。保田がいなけりゃ知り合うこともできなかったし。いい
匂いがしたんだよなあ。線香臭い保田とは違って」
「線香? 匂います?」
俺の冗談を本気で受け取ったらしく、真弓が問いかけた。たぶん保田のイメージが冗談を
打ち消してしまったのだろう。保田なら線香臭くてもおかしくはない。
- 180 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/15(水) 23:31
-
「ま、もしZARDや大臣が関係してるんなら、そのうち情報も出てくるだろうな。たぶんないとは
思うけどね」
いいながら、俺はそれは絶対にないと確信していた。もしそれらが関係しているのなら、保
田も飯田もまさに命を狙われる危険があることになってしまう。それだけはどうあっても考え
たくなかった。
「ちょっとタバコ吸ってくる」と、邪念を振り払うように俺がいった。
「あ、ボクも同行します」
二人で部屋を出る。部屋の中でタバコを吸おうものなら、加藤から何をいわれるかわかっ
たものではない。ベランダでの喫煙さえ、軽蔑の眼差しを受けたのだから。
カンカンと音を立てながら鉄製の螺旋階段を六階から一階まで下りる。エレベーターはある
ことはあるが、そこまでは遠い。十階建ての建物が三棟、コの字型というよりはケの字型とい
うような歪(いびつ)な位置関係で立っており、後で造り足したらしい渡り廊下は三階に一階し
かなく、エレベーターも中央の棟にしかない。螺旋階段のある内側は日当たりも悪く陰気で、
外観やら階段やら手すりやらの金属的な錆びた色によって、どことなく工業団地っぽく見える。
居住空間というよりかは非計画的な工場のような印象で、戦隊物の戦闘シーンに使用された
としても驚かないだろう。それでもその建物群は一応、マンションと呼ばれており、ご丁寧にそ
れぞれにA・B・Cが付加されていた。加藤の部屋はC棟にあった。
当然オートロックなどあるはずもなく、内と外との区別もない入口を通って外に出る。外もブ
ルーカラーの街といった雰囲気をこれでもかと醸していて、狭い路地に競うように古ぼけた民
家群が並んでいる。俺の住む地区と大差ないように思えるが、ただ一つ、風情が大幅に欠け
ている。
- 181 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/15(水) 23:31
-
近所には公園も神社もなく、タバコをゆっくり吸えるスペースは五百メートルほど離れたとこ
ろにある小学校脇の公園くらいしかない。俺たちは十分ほど歩いてその公園に行き、ベンチ
に座ってタバコに火をつけた。
真弓には喫煙の習慣はなかったが、吸ったことがないわけではなく、この数日の極度の緊
張状態からか、たまに吸うようになっていた。とはいっても、俺の吸う赤ラークはタール十二ミ
リグラム、真弓のメンソールは一ミリグラムで、俺は一日一箱、真弓は一日一本という違いが
ある。年齢差もあるが、死ぬのは俺の方が圧倒的に早いだろう。
「このまま、何もなければいいんだけどな」
「仇(あだ)は討たないんですか?」
「そりゃ家賃三万円の豪華マンションを爆破されたのは、許せないけど」
「修理費用なんかもいりますよ。たぶん」
「それは深刻な問題だな。犯人を絶対に突き止めないと」
「宅配便の会社、わかりますか?」
「どうだったかな。見覚えのある制服ではなかったからな。クロネコでも佐川でもないことはた
しか」
「それがわかればそこから調べられるんですけどね」
荷物を疑いながらも、俺は業者に関してはまったく注意を払っていなかった。たぶん保田も
覚えていないことだろう。俺の記憶力といちいち比べるまでもない。
- 182 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/15(水) 23:32
-
今日は暑くなりそうだなあと、空を見上げながら紫煙を吐き出す。すでに昼と変わらない明
るさの水色の空に、こぼしたビールの泡のような白い雲がなびいている。風が吹いて、少な
い樹々が喜びの音を立てる。きっと非日常も日常の一部でしかないのだろう。何となくそう思
う。
部屋に戻り、部屋にあった古いパソコンでインターネットに接続する。古いといっても、俺の
使っていたWindows98よりは新しく、不自由はない。織田信長や信忠や本能寺の変について
はそのパソコンですでに調べてあった。ただし、それは遊びに過ぎない。真弓たちが会ったと
いう織田信忠を本物だと信じる馬鹿はどこにもいない。いるのは、それを織田信長だと信じた
大馬鹿者だけだ。
前日に調べていた文献名や研究者名などを検索し、図書館の目録リストなどで照合する。
俺が大学に入った頃はまだそういった情報はパソコン通信でしか見れず、利用することがで
きなかったが、時代は変わったものだ。信長の時代は人間五十年だったかもしれないが、今
では人間十年だ。世間は十年もすればすっかり様変わりする。
この『敦盛(あつもり)』の「人間」という語句は一般に人間の寿命だとか人生だとかと解され
ているが、当時の「人間」という言葉に「ヒューマン」の意味はない。仏教用語における「人間
界」のことであり、「世間」だとか「世の中」という意味だ。信長は天上界の一日である人間界
の五十年で、社会を見事に変革せしめた。戦の方法を変え、街の有様を変え、天下の情勢
を変えた。自身が愛唱する『敦盛』の一節を、信長は現実に実行し、本能寺で夢破れたもの
の、それを成し遂げたといえる。
恐ろしいほどの有言実行だ。高望みしないことだけを目標に生きてきた俺とは土台からし
て異なる。だが、俺だって男だ。男に生まれたからには、一度や二度は立ち上がる必要があ
る。俺はパンパンと両手で頬を叩いて気合を入れてから、部屋を出た。外は戦場。空には槍
や矢の雨。地には横たわる累累(るいるい)たる屍(しかばね)。俺の目は見えない何かを見
ていた。今日も俺は出陣する。遠くで法螺貝(ほらがい)のようなサイレンが鳴っていた。
- 183 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/15(水) 23:32
-
つづく
- 184 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/16(木) 01:23
- 更新お疲れさまです、毎回楽しみにしています。
- 185 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:48
-
A-10
時間が餘(あま)っているのか足りないのか、その答えなら俺は以前から知っている。アル
バイトの生活同様、時間はたっぷりとある。だが、餘裕(よゆう)はない。経済的な面でもそう
だが、精神的な面でも結局は同じだ。いくら読書や学術探究に時間を費やし教養を育(はぐ
く)んでも、社会的な立場や身分がなければ人は生きてはいられないのだから。その点で俺
には何もない。その上、今の俺は命を狙われている。そんなところに餘裕など生じるはずも
ない。あるのは停滞からの不安と焦燥だけだ。性欲すらしばらく忘れている。
図書館での地道な作業が手につかなくなっていた。頭に浮かぶのは金印でも信長でもなく、
保田のことばかりだった。バスの隣の座席にいたり、アパートの洗濯機の陰にしゃがんでい
たり、部屋の中にいたりし、表情も笑っていたり、怯えていたり、安心していたりする。
俺は福田からの伝言の中にあった言葉を頭に浮かべ、地図を調べた。そこにないとわかる
と、今度は図書館の司書の人に尋ねた。その日、保田はテレビ東京で仕事があるといってい
た。飯田も同じだ。飯田はすでに新しい携帯を手に入れているらしいが、保田との連絡はま
だで、その日が事件以来初接触になるということだった。
- 186 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:48
-
俺はそれが待てなかった。敵も保田と飯田の沈黙には興味を抱いているはずで、そうだと
するとその接触に監視の目がつく危険性は高かったが、それでも俺は我慢できなかった。た
とえ死んでも、最期に一目、保田の姿を見てから死にたいと柄にでもなく考え、そんな自分が
まるで普通の人間のように思えた。保田を心配こそすれ、恨みはしなかった。保田のせいで
事件に巻き込まれたが、そのおかげで俺は保田への思いを自己確認したのだし、きっと保
田も俺のことを考えている。絶対に会える、そんな気がしていた。
テレビ東京の所在地は港区虎ノ門。霞ヶ関の官庁街から南に行ったところで、近くには六
本木があり、麻布があり、東京タワーがある。ただし、事前に最寄駅を調べていたものの、地
下鉄で迷ったせいで、結局俺が似つかわしくない街ベストテンに入る六本木から歩いた。
普段なら虎ノ門という地名の由来を頭の中で想像したりするのだが、それもなく、居並ぶ白
堊(はくあ)の大使館やらホテルオークラやら、現代の東京を見上げながら進み、すぐにテレ
ビ東京の本社ビルに到着した。もちろん中に入ることはできないから、送迎車でくるであろう
保田を物陰から見張る。同時に敵も見張る。むしろ神経を注いだのはそちらの方かもしれな
い。
しかし、二時間、三時間と待ってみたが、保田どころか藝能人一人さえ見かけることはなか
った。敵の姿もない。予感は外れた。日が暮れてから、俺はむなしくアジトへと戻った。
- 187 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:48
-
部屋に入ると、電気もつけずに真弓がベッドに腰かけていた。いつもと様子が違う。瞬時に
何かあったのだと気づき、声をかける。
「真弓ちゃん、何か、あった?」
真弓はやっと俺の存在に気づき、顔を上げた。泣いてはいなかったが、それよりも沈痛な
表情をしていた。
「筒川さん……。ボク……、今日……」ぼそぼそっと、遅いのか早いのかよくわからないほど
の口調で真弓が切り出す。「カオに会ってきました……」
保田が夕方四時に局入りして飯田と接触することは、昨晩に真弓にも伝えてあった。真弓
も俺と同じことを考え、俺と同じことをしていたのだ。
「テレ東?」
真弓がこくりとうなづく。ただし、言葉は出てこない。
俺はいうべきかどうか迷ったが、自分も保田に会いに行ったことを打ち明けた。「俺も行っ
たんだよ、今日。でも、保田とも飯田とも会わなかった」
「どこですか?」
「どこってテレ東だよ。虎ノ門」
「筒川さん、スタジオは天王洲です。最近は少ないけど、カオたち、いつもそこだから。収録と
かレッスンとか」
敗北感ではないが、何ともいえない脱力感があった。躰が紙切れのように揺れる。俺は何
の下調べもせずに無駄なことをしていた。そして、俺はやはり保田のことを何も知らなかった。
これだけ思っていても、まだたった数回しか会ったことがなく、細い線でしか繋がっていない
ただの知り合いでしかないのかもしれない。保田の方だって、俺のことはほとんど知らないの
だから。
- 188 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:48
-
「そうだったか。でも、いいや。真弓ちゃんは飯田さんに会えたんだろ? どうやって?」
「中には入れなかったけど、駐車場に忍び込んで。監視カメラなんて、あてにならないんです
ね。誰もきませんでした」
まさか谷村美月や相武紗季なんかに間違われたわけではないだろう。俺は違うと思うのだ
が、加藤は真弓のことを男のくせに相武紗季に似ているといって馬鹿にしていた。
「それで、飯田さんは何て?」
マウンド上のピッチャーのように真弓は首を横に振った。表情がいいたくないと告げていた。
だが、キャッチャーのサインを無視するわけにもいかないと考えているふうでもあった。
「飯田さんは?」俺はもう一度尋ねた。
「遠くから、ボクの顔を見て、でも、カオは目をそらして、目が泳いでて、ボクに会いたくないっ
て、そう告げてるような感じで、そのまま――」
「一言も?」
真弓が今度は縦に首を振った。
「ボク、わかりません。カオがなんで、ボクに会いたくなかったのか……」
「監視されてたとか、そういうことがあったんじゃないかな?」
「そんな感じじゃなかったから。ボクのことを避けてた。あんなカオの顔、見たの初めてだった
し」
飯田に何かがあったのかもしれない。だが、俺はそうではないような気がした。飯田は真弓
をこれ以上巻き込みたくなかったのだ。苦汁の決断、だったのだろう。ふと頭の中にまったく
逆のことが浮かんだが、それは考えないでおいた。真弓はたぶん、そんなふうに考え、そして
沈んでいる。“カオの顔”という偶然のダジャレにも触れないでおいた方がいい。
- 189 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:48
-
俺は窓を開けて空気を入れ替えるように話題を変えた。ただし、外の空気といっても新鮮で
も自然の香りがするわけでもない。二酸化窒素と粉塵の混じった排気ガスだらけの空気だ。
「保田の姿は? 見てない?」
「保田さんは……、ごめんなさい、もうそれどころじゃなくて……」
「ああ、まあそうだよね。世の中で俺くらいなもんだろうな。保田に興味があるような変人は」
「そんなことないですよ。保田さん、人気者です。むしろカオの方が……」
「保田の倍率がそんなに高いなんて知らなかったな。事実は小説より木梨(きなし)憲武って
やつか」
寒いダジャレに対する同情なのか、真弓がふっと鼻から息をこぼし、ようやく笑顔を浮かべ
た。「筒川さん、保田さんのこと、やっぱり好きなんですね」
衝撃はゼロだった。真弓に隠す必要はない。俺は返事の代わりに質問で返した。
「真弓ちゃんも、飯田さんのこと、好き、なんだよね?」
ずっと訊きたかったことだ。二人の間には何かがある。事件が起きた晩の二人の様子やそ
れからの真弓の様子を見ていれば、誰もが気づくことだ。保田が真弓を仙石のカレシだとか
おねえ系だとか説明したのも、もしかすると二人の関係をごまかすためだったのかもしれな
い。ただし、二人が相思相愛の関係でないことも、何となく察することができる。真弓の片思
いなのだろうが、そうではないような気もする。真弓の容姿に飯田が戸惑い、男として見るこ
とができずにいるといったところか。飯田の性格や人柄を知らない以上、俺が想像できるの
はそこまでだ。外見で人を判断してはいけないことは俺自身が生まれつき証明している。
真弓は質問には答えなかった。ただ、かくれんぼで見つけられた時のような、そんな表情を
浮かべていた。俺はそれを答えだと受け取り、話を終えた。
- 190 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:49
-
隣の部屋に行き、電話を借りる。最初のうちは公衆電話からかけていたが、敵がマークし
ているわけでもない福田にかけるのにそれほどの用心は不要だと気づいてからは、加藤の
仕事部屋の電話を借りていた。
コール三回で電話は繋がった。「あ、筒川ですけど」
「圭ちゃんからはまだですよ。今日も遅くなるんじゃないですか」
保田から福田への電話はいつも十時以降だった。どんな仕事をしているのか知らないが、
深夜二時に帰宅するなんて時もあるらしく、そういう時はさらに翌朝の午前中になる。そんな
不規則な生活のせいか、一日二度の伝言という提案もいつの間にか忘れられている。
「保田に訊いといてほしいことがあるんだけど。飯田さんのことで……」
俺は真弓が飯田に会いに行ったものの、飯田がなぜか真弓を避けようとしていたことを告
げ、その理由を尋ねるようにと伝言を頼んだ。飯田に変わったことがあればその晩の保田の
伝言でわかることなのだが、それをもっと詳しく知りたかったのだ。
俺たちの知らないところで何かが起きているとすれば、俺たちにはそれを止める義務という
か責任というか、意志のようなものがある。俺は保田を守り、真弓もまた飯田を守る。俺たち
は運命共同体なのだと、そんな思いを俺は強くしていた。
と、そんな似合わない勇ましさに勝手に興奮している俺に、福田が一つの提案を持ちかけ
てきた。「圭ちゃんから電話がきたら、繋げてあげましょうか?」
「繋げるって?」
「電話二台で、こう、上の部分と下の部分を、何ていうか、ほら、あの、あれみたいに」
何となくいいたいことは理解できたが、まさか福田明日香がシモネタ好きということはない
だろう。福田が人形遊びをするように二台の携帯を合体させている姿を想像し、俺はそんな
想像をした自分を恥じた。
- 191 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:49
-
「二台あるの?」と、俺はそれがさも凄いことのように尋ねた。俺の中の携帯文化は数年前
で停止している。ワンセグもなければ着うたもない。俺が最後に持っていた携帯はカラー画
面の四和音だったが、そこから先は未知の領域だ。二台保有する必然性など、当然理解で
きない。
「私、携帯二つ持ってますから。圭ちゃんからかかってきたら、もう一台でそっちに電話すれ
ば、可能ですよね?」
「ああ、でも、面倒臭くないかな?」
福田には保田との関係は触れてもらいたくなかった。福田がマイマザー似だというだけで他
の人の百倍は恥ずかしくなる。
「大丈夫ですよ。任せてください。私、やる時はやる女ですから」
やはり、福田は俺たちの波乱を羨ましく思い、そこに参加したいと思っている。この数日の
電話での会話で、俺はそれだけは理解していた。
たとえるならば、福田は信長家臣団の中の森可成(よしなり)や坂井政尚(まさひさ)に当て
はまるだろうか。森も坂井も信長に信頼された重要な武将であるが、早くに戦死したために
歴史から忘れ去られた。光秀や秀吉と同格の武将であったのに、大河ドラマでも二人を見か
けることはない。近江国分封(ぶんぽう)体制で一郡を任されたものの失脚した中川重政や、
官僚として出世したものの武功に焦って戦死した塙(ばん)直正、堅実に仕えた蜂屋頼隆(は
ちやよりたか)なども同様だ。ドラマや小説は結果論でしかなく、最後まで生き残った連中だ
けが最初から顔を揃える権利を有する。
福田もまた、早くに引退したために歴史から忘れ去られた。だが、福田がいなければ今の
モーニング娘。は存在しない。さぞかし無念だろう。社会から忘れ去られた存在として、俺は
福田にシンパシーを禁じえない。何といっても、俺が最初に顔と名前を覚えたメンバーで、あ
る意味では身内のようなものなのだから。
- 192 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:49
-
電話を切り、部屋主の加藤には特に挨拶をせずに隣室に戻る。真弓はベッドに横たわって
天井を見ていた。かなり堪えているらしい。
俺はかける言葉も見つからず、ベランダに出て、タバコに火をつけた。少し早い時間ながら
蛍族の仲間入りだ。加藤には文句をいわれるだろうが、こちらの部屋にくることはまずない。
真弓がいればなおさらだ。部屋を貸している時点で嫌いというわけではないのだろうが、二人
の間には好き嫌いを超越した観念が存在している。俺の予想では、たぶん加藤という女は高
校時代に真弓に告白している。そして、加藤はレズビアンだ。男好きの女と違い、女好きの
女はあまり化粧をしたり女を磨いたりしないと以前に聞いたことがある。加藤の姿はまさにそ
れに当てはまる。しかし、真弓は男だ。加藤はそれが許せないでいるに違いない。飯田と真
弓の関係とはまったく別種だが、加藤と真弓の関係にもそうした単純なのか複雑なのかわか
らないようなわだかまりがある。一方的な好意とその裏返しの敵意――よくある話だ。
その夜は、真弓が落ち着いてから近所の中華料理屋に行った。メニューに漢方ビワ茶なる
ものがあって驚いたが、もちろんビワの葉アレルギーの俺がそれを頼むことはなかった。
日が明けて、また午前五時に目を覚ます。真弓は精神的な疲れのせいか、ぐっすりと寝込
んでいた。悪夢でも見ているのか、それとも以前からの歯痛のせいか、時おり顔が歪(ゆが)
み、唸(うな)るような声が漏れる。熱でもあるのかと額に手を当ててみたが、よくわからなか
った。寝顔は女のものだが、きっと夢の中では男として戦っているのだろう。だからこそそれ
は悪夢に違いない。
- 193 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:49
-
真弓は一日休養するとのことで、俺は一人で部屋を出た。保田からの伝言はすでに聞いて
いるが、俺はそれを真弓には告げなかった。告げても何の問題もないのだが、告げれば真
弓は動き出す。俺だって何もしないではいられない話だったのだから。
福田を介して受け取った伝言は、保田も真弓と同じことを飯田から感じたということだった。
飯田は青白い顔をしており、目の焦点がまるで合っていなかったらしい。何があったのかと
尋ねる保田に、飯田はただただ首を横に振るばかりで、保田がしつこく喰らいついてようやく
話を聞き出すことができたという。その話は――俺と同じ境遇の人物の存在。
俺はタクシーの中で聞いた会話を思い出した。飯田は例の晩、屋敷で美術品を写真に撮っ
た。携帯でだ。そして、写メールを送っている。その相手が、どうやら失踪していたらしい。飯
田が青ざめ、真弓を遠ざけようとしたのもそれならうなづける。タクシーの中で俺たちにいお
うとしていたことも、そのことだったのかもしれない。事件は見えないところで拡大していたの
だ。
ただし、保田いわく、飯田にはそれ以外にも人にいえない悩みがあるのではないか、という
ことだった。どういうことかと俺が福田に尋ねると、福田は女の勘らしいですよ、と答えた。福
田が発案した携帯二台での間接的通話ができればもっと聞き出せたのだろうが、あいにくと
保田が伝言したのが深夜の一時で、俺がその伝言を聞けたのは朝の七時だった。このタイ
ムラグをなくすには、保田に秘密の携帯電話を持たせるしかないが、その電話をどうやって
調達し、どうやって渡すか、それが問題になる。福田に頼んで契約してもらえば早いが、保田
との接触を試みさせるわけにはいかない。それに、ヴォイストレーナーだとか劇団だとか実家
の手伝いとかをしている福田に、これ以上手間を取らせるのも考えものだ。
- 194 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:49
-
その日は図書館には行かなかった。山手線で原宿駅に行き、代々木公園へ向う。ここには
一人だけだが、俺の知り合いがいる。知り合いといっても実はフルネームも知らないのだが、
不思議な縁がある奴で、なぜだか俺のことを慕ってくれていた。
最初に会ったのは自動車学校で、俺が大学一年の時だった。何度か見かけるうちに向うか
ら声をかけてきて、ほとんど話は噛み合わなかったものの、勝手に意気投合したものと勘違
いし、免許を取ってからも何度か会った。どうも俺のことを尊敬しているらしかったが、それは
彼が従順すぎるほどに馬鹿だったからだ。仮免も卒免も一発合格だった俺と違い、彼は二十
回以上も筆記試験に落ちていた。
俺は彼ほどの馬鹿を見たことがない。学歴云々はいいたくはないが、やはり義務教育は最
低限必要だろう。彼は中卒ですらない中学退学者だった。それも中学三年の時に一年の女
子生徒と駆け落ちをしたほどの奴だ。その女子とも一年で別れたとかで、それからは地方都
市を転転としながら、年齢をごまかしてバイトで生計を立てていたらしい。よくもチンピラにな
らなかったものだとある意味では感心してしまう。
そんな彼と東京で再会したのは、俺が引越し屋のバイトを辞めて居酒屋チェーン店で働き
始めた時で、レストランはその次、三つ目になる。彼はその居酒屋でバーテンをしていた。以
前からバーテンになりたいのだと語っていたから、一応は夢をかなえたことになる。彼は俺と
の再会に運命っすね、と本気でいっていた。常識や知識にはかなりの欠陥があるが、根はい
い奴なのだ。ただ、根がいい奴というのは人に利用されやすい。彼がホームレスに転落した
のも、根がいい奴だったからに他ならない。
- 195 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:49
-
代々木公園にはいくつかの集落がある。彼が住んでいるのはNHK側の道路沿いのはずだ
ったが、俺が訪れたのは初めてで、捜索は難航した。彼は自分のことをZ(ゼット)と名乗って
いたから、俺はその名前で捜したのだが、どうも違う名前を名乗っているらしい。俺はとにか
く若い男と元バーテンということを強調してようやく彼を見つけた。
「歩夢さんじゃないですか! どうしたんすか!」周りを気にすることなく大声で叫び、Zが駆け
寄ってきた。外見は小奇麗で、ホームレスにはまだ染まっていないらしい。ここを無料の宿泊
所だとかキャンプ場だとか思っているのかもしれない。
「よう、元気そうじゃんか」
「元気っすよ! 元気だけがトレイっすから!」
たぶん取り得といいたかったのだろうが、訂正することもない。訂正すれば俺のことをさら
に勝手に尊敬するだけだ。
「安心したよ。ほら、例のことがあって、気落ちしてるんじゃないかって。せっかくバーテンにな
れたのにさ」
「いや、いいんすよ。それに実はここでバーテンやってんすよ。ホームレス相手に。若いホー
ムレスなんか毎晩のように飲みにくるんすよ。だから結構もうかってるんすよね」
さすが、たくましさだけは人一倍だ。高度経済成長時代の匂いがする。
「金の計算できるのか? たしか二つまでだったろ?」
Zは足し算も引き算も掛け算もできるが、それは二つの数字までだ。百円のジュースと四百
円の弁当は合計五百円と答えられるし、その五百円に二百円のサラダを加えると七百円だ
とも答えられるが、同時にジュースと弁当とサラダを並べると、もう答えられない。女子生徒と
駆け落ちしたということよりも、俺はそのことの方に驚いたものだ。
- 196 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:50
-
「大丈夫っすよ。一杯ずつお金もらってますから。最近は頭も使うんすよ」
「らしいな」
Zに寝床に案内される。周りにはベニヤ造りの家などもあるが、Zの家はダンボール製で、
ダンボールには黒のポリ袋が張られていた。なんでもブルーシートはかなりの高値で取引さ
れていて、とてもじゃないが“素人”には手が出せないらしい。その黒い巣の前に丸太の椅子
が四つと拾ってきたらしい文机(ふづくえ)とが置かれていた。
「ここが店っすよ。名前はないんすけどね。なんかいい名前とかあります?」
「『ゼットの店』とかでいいんじゃないか?」
「あ、Zは辞めたんすよ。今はW(ダブリュー)っす。カックイイっしょ?」
名字がワタベだから、たぶんイニシャルなのだろう。以前のドラゴンボールZよりはマシだ。
「じゃあ『バー・ダブリュー』だな」と、俺はZ改めWにいった。
「気に入ったっす。今日からは『バー・ダブリュー』っす!」
それからWは俺に酒を振る舞いたいといい出したが、俺はもちろん断った。衛生的な問題
もあるが、酒を飲む気分でもなく、その時間でもなかった。それに最近では昔が嘘のようにビ
ール一杯で気分が悪くなることもあり、俺はほとんど酒を口にしていない。罐ビール以上とな
ると、保田に呼ばれて酒を飲んだ二ヶ月ほど前が最後だろう。それが人生最期の酒になる
可能性だってあるかもしれない。
- 197 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:50
-
「それで、今日はどうしたんすか? わざわざ会いにきてくれたんすか?」
「それもある」
「それもってことは、他にもあるんすか?」
微妙に読解力を身につけたらしい。なかなかの成長ぶりだ。
「実は頼みたいことがあってな」
「おれにっすか?」
「他に誰がいる?」
Wが左右を見回した。「いないっすね」
そんな単純馬鹿な仕草に、俺は計画が正しいのかどうか、自信が持てなくなっていた――。
これ以上無関係な人間を事件に巻き込むわけにはいかない。特に悪人に利用された経験の
あるWならなおさらだ。
俺は言葉を呑み込み、別のことを口にした。
「いや、まあ頼みっていうか、実は俺も住むところがなくなってな。そんで、今は知り合いのと
ころに居候してるんだけど、そこを追い出されたら、俺も仲間に入れてもらおうかなって」
それも元々考えていたことの一つだった。真弓と合流していなければ、俺は真っ先にこの
公園を訪れていた。
だが、俺の考えは甘かった。
「それは駄目っすよ! 筒川さんはおれなんかと違って、大学出てるじゃないっすか! ここ
にも大卒のサラリーマンとか先生とかいるけど、ここにきたらお終いなんすよ。一度はまった
らもう抜け出せないんす。ここ、苦労は多いけど快適だから。みんなそこで止まっちゃうんす。
何つーんすか、シコーテーシっすか。そのシコーテーシになるんす。向うに住んでるブンゴー
の先生がよくそんなこといってたっす。でも筒川さんは将来日本の総理大臣になる人っすよ。
俺、今もそれだけが楽しみなんすから」
- 198 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:50
-
俺なんかが総理大臣になったら、日本は一億総ホームレスの時代になることだろう。だが、
Wのいいたいこともわかる。たぶん作家志望だか作家崩れだかのホームレスの話にでも感
化されたのだろうが、間違ってはいない。特に俺のような現状維持に満足するような欲のな
い男は、きっとそこから抜け出せなくなることだろう。たとえ事件に巻き込まれ、緊急避難的
に身を寄せたとしても。
俺は思いもよらぬWの激励を受け、泣きたい気分になっていた。こんなところにも希望は転
がっているのだ。
「おまえも、いつかちゃんとした店を持たなきゃな。俺の新しい部屋が見つかったら、呼んで
やってもいいぞ。そこでまたバーテンのバイトでもして、そんでいつかはマスターだ。おまえな
らなれるよ。レジのバイトとか税理士とかは雇わなきゃいけないけどな」
Wに見送られて都心の集落を後にし、電車に乗る。部屋を爆破された俺も、Wも、自分の意
思とは別のところで突発的に流されてしまったのは同じだった。
Wは以前、夜は居酒屋、昼は雑貨屋で働いていた。その雑貨屋の店長が悪人だった。そこ
は女子高生向けのファンシーグッズショップだったが、店長は万引きを撮影して少女を脅迫
するということを日常的にしていた。Wはそういった背景を知らず、ただいわれるがままにホ
テルでの撮影に駆り出されていた。しかし、店長は逮捕され、Wも逮捕された。被害者は十六
歳未満だったが、事情を知らなかったこともあって、Wには執行猶予がついた。ただし、バー
テンのバイトを続けることはできなくなり、住んでいた部屋も追い出された。俺がそのことを知
ったのはだいぶ後になってからのことだ。
- 199 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:50
-
どうしていいかわからず、山手線を一周した。初めて東京にきた時にして以来だから、何年
ぶりになるだろうか。東京というのは不思議な街で、自分が何年住んでいるのか、何度の季
節がめぐったのか、それをすぐに曖昧にさせる。人や車や建物に埋もれるだけではなく時間
にも埋もれる。無駄にあふれた雑多な街だ。やはり俺にはふさわしくない街なのだろう。
空腹も感じず、俺は昼飯も食べずに部屋に戻った。時計の針はすでに三時を回っていて、
部屋には真弓の姿はなかった。テーブルの上には正露丸の瓶が置かれていた。虫歯が我
慢できなくなり、歯医者にでも行ったのかもしれない。
正露丸が歯痛にも効くという話は俺も知っている。ただし、もう二十年以上虫歯になったこ
とがない俺は一度もそれを試したことはない。人が試しているのを見たのも初めてだ。ただ
し、それは真弓も同じだった。正露丸を真弓に薦めたのは加藤で、加藤は正露丸マニアとい
うか、世界でただ一人のクレオソート中毒者(ジャンキー)だった。
俺はそのクレオソート臭の漂う隣の部屋に向った。真弓がそこにいれば問題はないが、出
かけたとなるとやはり心配だ。歯医者ならまだいい。いくら保険証で身分を明かしたところで、
敵にアジトを発見されることはない。しかし、そうではないとなると危険だ。真弓は飯田の対応
にかなりのショックを受けていた。月島のマンションやもんじゃ屋に向った可能性が頭に浮か
ぶ。
真弓の姿はなかった。俺は仕事部屋の引き戸を開けた。冷気の中、体臭とクレオソート臭
とがコラボレートしたような空気が俺を襲う。変な宗教にでも入っているんじゃないかと疑いた
くなってくるが、正露丸を嗅いで陶酔(トリップ)する加藤の姿はすでに立派な宗教者だろう。
その加藤は徹夜明けのせいか元々の生活リズムなのか、簡易ベッドで屍体のように眠り込
んでいた。寝顔だけなら涼しげな美人だ。世の中には許せないことが多い。
- 200 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:50
-
起こすかどうか迷ったが、相手が加藤であれば睡眠を妨害したところで俺の良心が痛むこ
とはない。俺は加藤の肩を揺すり、一分かかって加藤を起こした。
「真弓ちゃんは?」
「さあ。尾藤君いないの?」
「ああ。何かいってなかった?」
「さあ。あ、そういえば電話があった。福田とかいう人から」
福田にはこの部屋の番号を伝えてあった。緊急時用だ。嫌な予感に声を震わせる。「福田
から?」
「なんか伝言があるって。そこの画面にメモっといたから。感謝してよ。それと、電気消して」
ああ感謝する、と心にもないことをいいながら、俺はつけっぱなしになっていたパソコンの画
面に目を向けた。
が、すぐに怒声が飛んできた。「電気消してって」
しつこい女だ、と頭の中だけでつぶやき、俺は明かりを消した。そしてやや暗くなった部屋
に浮かび上がったディスプレイに目を戻した。
目が止まった。息も一瞬だが止まった。そこには『安田』が病院に運ばれたと書いてあった。
茫然となった。どういうことだか理解できなかった。全身の血が沸騰したのか凍結したのか、
それとも逆流でもしてしまったのか、俺は呼吸とまばたきくらいしかできずにいた。躰の半分
が硬直し、半分は震えていた。込み上げてきた唾を呑み込めず、その不快さにうおっと嘔吐
(おうと)しかけて、ようやく全身のコントロールを取り戻す。
- 201 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:50
-
俺は早くも眠りの世界に戻っていた加藤を叩き起こした。両手でシャツを掴み、上下に揺す
る。乱暴な手つきだったせいで手のひらが胸を触っていたが、興奮はそれとは別のところに
ある。
加藤が目をまん丸にしたまま固まっていた。俺にレイプされるとでも思ったのか、あ、あ、と
何かを叫ぼうとし、それでいて抵抗は何もなかった。俺はシャツを引っ張って加藤の上半身
を強引に起こした。シャツの首の部分が伸びて加藤がノーブラだということがわかったが、そ
んな情報を今の俺は求めてはいない。
「どういうことだ!」
「その前に……、手、離してよっ!」
「ああ、悪い」手を離し、一応謝る。もし手を離さなければ、俺の方が加藤に襲われる危険性
もある。まだレズビアンと確定したわけではないし、両刀という可能性もある。俺は落ち着い
た態度を見せてから、もう一度、今度は紳士的に尋ねた。「これは、どういう? 他に何かい
ってなかった?」
「そこにあるだけ。何か『安田』とかいう人が病院に運ばれて、様子を見てくるとか何とか。病
院の名前なら画面にあるでしょ」
「いつ? いつの電話?」
「三時ちょっと前じゃないかな。今何時?」
「今は、三時二十分かな」
「あ、じゃあさっきじゃん。何か最悪。疲れてんのに」
「悪い。でも感謝する。それで、真弓ちゃんはこのことは?」
「さあ。何かすぐにどうこうって話じゃないっていってたから、別に伝えに行ったりはしてない。
ま、いなかったんじゃ同じだけど」
怠慢だが、これが真弓が出かけた理由ではないことはわかった。真弓が加藤のいるこの
仕事部屋に入ってくることはまずない。
- 202 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:51
-
「わかった。とりあえず、真弓ちゃんが帰ってきたら、待機しとくようにいっといて。それと、病
院の名前なんかは教えたりしないで」
「ねえ、何なの? 何があったわけ?」
「いや、こっちのことだから。知らない方がいい」
加藤が遠足の班決めで最後まで残ってしまった哀れな児童のような表情を浮かべた。いう
べきかもしれないとも思ったが、一秒考え、やはりいわないでおくことにした。ただし、同情の
言葉をかけるのは忘れない。
「加藤さんさ、ちゃんと風呂入って清潔にして、あと正露丸の臭い嗅いだりしなければ、結構
モテると思うよ。美人なのに、もったいないよ」
俺の言葉が意外だったのか、加藤は理解できないといったふうに目をパチクリさせていた。
ややチック気味かもしれない。三日に一度は外出するようにすれば、それも治るだろう。
戸惑う加藤をよそに、俺は仕事部屋を出て引き戸を閉めた。応接室風のガラステーブの上
に置いてあった室内電話の子機を手に取り、番号を思い出しながら福田の携帯にかける。し
かしお客様の都合で……とアナウンスが流れたので、たぶん間違ったのだろう。
隣室に戻り、一分で準備を済ませる。地図で病院の位置を確認するも、見つからず、俺は
そのまま部屋を出た。その部屋のパソコンで無線LANを使って調べることもできたが、起動
には時間がかかるし、また加藤の仕事部屋に戻る気にもならなかった。
俺は一番近くの道路まで走り、さらに大通りまで走って、五分後にタクシーを拾った。すぐに
病院の名前を告げる。行き先が病院ということと俺の慌てた様子とで事情を了解したらしく、
運転手が飛ばしますね、といってスピードを一気に上げた。しかし、俺の焦りには到底追いつ
きはしない。俺はタクシーの中、駆け出したい衝動を全て貧乏揺すりに変換していた。地が震
え、俺も奮えていた。
- 203 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/19(日) 06:51
-
つづく
- 204 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/20(月) 05:53
- 更新お疲れさま
とても面白いです頑張ってください。
- 205 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:47
-
A-11
藝能人が運び込まれる病院というから、さぞ立派な総合病院なのだろうと想像したのだが、
タクシーが停まったのは十階建てほどのひょろ長いビルの前だった。道路に直接面していて
敷地などはないに等しい。全体的に煤(すす)けていて、二階の窓の部分に一文字ずつ病院
の名前の書かれたプレートが貼られてはいるが、一見しただけでは病院だとわからない。地
価の高い場所に無理に出張(でば)った弱小の予備校のような印象だ。
出入り口には裏側に新館があるという案内図と、喫煙は喫煙所でという注意書き。入院患
者と思しきレンタル着の男性が二人、そこで平然とタバコを吸っている。たぶん、その二人は
長生きする。
俺は五段の石段を上り、自動ドアを通って中に入った。案内所のようなところがあり、その
前に背もたれのない長椅子の並んだ待合コーナーがあったが、外来の診療時間をすぎたの
か、人の姿はまばらだった。
階数と部屋番号を訊いておくべきだったと後悔しながら、受付に歩を進める。何と説明すれ
ばいいかわからなかったが、とにかく直球で勝負だ。
「あの、保田圭という名前の女性がこちらに運ばれたと聞いたんですけど」
対応した女性は白衣風の衣服こそまとっていたが、看護士ではなく事務員だろう。対外的
な笑顔を浮かべてはいたが、俺の顔を不審者を分別するかのように、あるいは珍しいものを
見るかのように観察していた。もしかすると値踏みしているのかもしれない。
- 206 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:47
-
やはり、事前に福田に訊いておくべきだった。対象が藝能人でなくとも、個人情報保護法が
施行されてからの病院はガードが固い。マイマザーが倒れて救急車で運ばれた時もそうだっ
た。俺は半日かけて岐阜の病院に駆けつけたが、息子だと名乗っているのに身分証の提示
を求められ、さらに確認ができるまで病室を教えてもらえなかった。
俺は苛立ちを強調的に顔に出した。「電話もらって、急いで駆けつけたんですけど。どこで
すか? 無事なんですか?」
彼氏だと思われたかもしれないが、あながち間違いでもない。保田はどうか知らないが、今
の俺は自分を保田の彼氏以上の存在だと思っている。俺以上に保田のことを心配している
人間は保田の家族以外にはこの世にはいないはずだ。もしそんな奴がいたら宇宙のアルゴ
リズムはとっくに崩壊している。
事務員が俺の迫力に負けたのか、身分証の提示も求めずに階数と病室を告げた。法律施
行直後と違い、医療現場の混乱も収まっていたのかもしれない。俺はどうもとだけいって、そ
のままエレベーターまで走った。
久しぶりの病院だったが、看護士の白衣に興奮するのもすっかり忘れ、病室へ急ぐ。教え
られた部屋番号を見つけ、開けっ放しの引き戸から中に入る。病室は四人部屋や六人部屋
ではなく三人部屋だった。四という数字を避けたのだとしたら、そんな迷信を信じる病院から
はとっとと退院した方がいい。俺が祈祷(きとう)した方がまだましだ。
- 207 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:47
-
病室に入ると、右側の奥のカーテンが半分ほど閉まっていた。一つのベッドは空き、もう一
つはどこか出かけているらしく誰もいなかったから、保田がいるのはそこだろう。俺は緊張し
ながらそこにゆっくりと進んだ。
カーテンが途切れ、視界に女性の顔が見えた。眠っているらしく、目は閉じていた。ただし、
白い布をかけられていたりはしない。俺は安堵を覚え、ベッドの脇に入り込んだ。眠ってはい
なかったのか、すぐに女性が目を開いた。
思わずゾンビの蘇生を想起するも、そのゾンビこそが愛しの女性だ。「保田、大丈夫か?」
「もしかして、ホムちゃん?」いいながら、保田が脇の棚の上からメガネを取る。
保田のメガネ姿を見るのは初めてだった。だが、保田の方も、俺のメガネ姿を見るのは初
めてだ。数日前に俺は十数年ぶりにコンタクトからメガネにチェンジしていた。変装用にと近
所にあったフレーム三千円、レンズ千五百円、サービス料五百円の店で作ったのだ。物が小
さく感じるという難点はあったが、慣れればどうってことはない。イッツオートマティック。うたた
寝だってできる。
「何があったんだ? 敵にやられたのか?」
保田は腕に点滴の針を刺していたものの、それ以外は普段と変わらなかった。殴られたよ
うな痕もない。顔のパーツの配置がおかしいのは以前から、たぶん生まれつきだ。
「違うよ。エビちゃんにやられちゃったの」俺へのあてつけか、保田が面白そうにいった。
「エビちゃん?」
「うん。エビ食べちゃったの。シューマイに練り込んであったみたいでさあ。そんでバカスカ食
べちゃったもんだから、泡吹いちゃって、気絶までしちゃった」
「なんで?」状況もだが、保田の楽しそうな感じも俺は理解できずにいた。
- 208 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:47
-
「いつもは気をつけるんだけど。お腹が減ってたからかなあ」
「そうじゃなくて、なんでエビで?」
「あ、知らなかったっけ? あたし甲殻類(こうかくるい)アレルギーなの。そんで昔もそれでぶ
っ倒れてコンサ休んだことあったんだよ。ほんっと最悪」
どうやら心配は全て杞憂(きゆう)だったらしい。膝がガクッときて、俺は壁に立てかけてあ
ったパイプ椅子を広げて腰を下ろした。疲れがどっと押し寄せる。俺を疲れさせることに関し
てなら、保田が世界一だ。
「そんなアレルギーがあるとはな。ま、俺もビワの葉アレルギーだから負けてないけど」
「かっぱえびせんなんか食べたら死ぬよ、たぶん」
「試してみたくなるな」
「やめてよ。苦しいんだよ。本当に泡吹いて痙攣(けいれん)するんだから」
「俺もビワの葉のフリカケ食べたらそうなる。ビワの実は大丈夫なんだが、もう何年も食べて
ないな」
「そうなんだ。でも、わざわざ来てくれたんだ。あ、明日香から聞いたってこと?」
「おう。伝言がきてな。敵にやられたと思って心配した。安心したけど」
保田はふふふふふっと笑って、それから俺のメガネに興味を向けた。
「メガネ、似合わないね」
「おまえも似合わないな」
「でもかっこいいかも」
「どっちなんだ」
「見慣れたらかっこいいかも」
- 209 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:47
-
真弓は俺のメガネを見て哀川翔みたいだといっていたが、それはメガネの話であって顔が
似ているわけではない。それに俺は自分をもっと個性的で他にはない特殊な顔だと自負して
いる。今は多少ぼやけてしまっているし、俺自身納得しているわけではないが、輪郭はトキオ
国分だがパーツはトキオ松岡をネプチューン名倉にスライドさせた感じで、ただしシャンプー
ハット小出水(こいでみず)ほど濃くはないというのが以前の友人たちの結論だった。真弓と
谷村美月、マイマザーと福田、保田とお市の方というような一対一の対象にならないところが
俺の顔の複雑なところだ。時代はまだ俺の顔に追いついていない。そしてたぶん、追いつくこ
とはない。
「福田はきたのか?」と、個性派の保田に個性派の俺が尋ねた。
「ううん、まだ。もうすぐくるんじゃないかな。お母さんも夕方にはくると思う」
「事務所の人とかは?」
「さっきまでいたけど、帰った。またくるって」
「仕事は?」
「それが特にないのよねえ。舞台は決まってるんだけど、まだまだ先だし。秋に向けていろい
ろオーディション受けに行ったり、ダンスのレッスンしたり、劇団の稽古に参加させてもらった
り、ジム行って体力つけたり。やることはいっぱいあるんだけどねえ」
仕事というよりかは仕事のための準備を普段、しているらしい。どんな華やかな世界にも裏
側はある。
「じゃあしばらくは安静にしとくべきだな。いろいろあって疲れてたろ」
「あ、真弓ちゃんは? 元気?」
「昨日のことでかなりショック受けたみたいだ。なあ、真弓ちゃんって、飯田のこと好きなんだ
ろ? おまえ、そのこと知ってたろ」
- 210 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:48
-
保田がまたもふふふっと笑った。「あ、やっぱり気づいたんだ」
「気づかない方がおかしい」
俺が保田を好きなことも、気づかない方がおかしい。好きでなければわざわざ病院に駆け
つけたりはしないし、こんなに顔が火照(ほて)っていたりもしない。保田だってモテたことがな
いわけじゃないから、そんな俺の気持ちにはとっくに気がついているはずだ。
それから俺たちは、久しぶりの対面に近況を報告し合った。伝言ではなく直接の会話であ
れば、それまでの情報よりも密度は濃い。保田は狙われるようなことはないものの、まだ尾
行と監視らしきものがついているらしかった。ただし、敵の姿を見たわけではなく勘だというか
ら、どこまで信じていいのかは不明だ。
「ここにもいるのか?」
「わからない。だって救急車で運ばれて、ここに着いてから目を覚ましたし。あ、アレルギーの
方は何ともないって。ちょっと躰が驚いただけ。今日は無理だけど明日には退院かも」
「そりゃよかった。病院の人もさぞかし喜ぶことだろうな」
「何よそれ、まるでやっかい払いみたいじゃない」
「冗談だ、冗談」
地の震えはすっかり止まり、代わりに心が弾んでいた。だが、そう浮かれてばかりはいられ
ない。状況は保田と別れた時よりも悪化している。
「なあ、飯田さんのことなんだけど……」と、俺は本題を切り出した。
- 211 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:48
-
保田がゆっくりと首を横に振る。「あたしにもよくわかんない。でも、精神的にかなりまいって
るよ。顔が青ざめるっていうけど、あれって本当に青くなるんだね。あたしびっくりしたもん。か
ぎりなく肌色に近いブルーって感じで」
どっちの村上だかは知らないが、ベストセラー作家の作品名をもじって保田が形容した。そ
んな肌色があるとは思えないが、アンドリアン(アンドリア星人)よりは肌色なのだろう。
「何があったかわかんないか? それと、失踪したっていう友達についての情報とか」
保田がまたも首を振って否定を表した。「今は何も。次に会うのもいつだかわからないよ。
あたしもこんなんだし、カオリもあれじゃ仕事どころじゃないし。カオリはあたしよりも仕事ない
んだけどね」
「世の中は不条理だな」と、美人な飯田の顔を思い出しながらつぶやく。とたんに保田からど
ういう意味よ、と声が飛ぶ。「哲学的な意味だ。気にすんな」
保田が笑い、俺も笑った。久しぶりに平穏というものを味わった気がする。波乱に対する平
穏ではなく、俺の薄っぺらい日常に対する有意義な平穏という意味だ。東京にきてから、俺は
彼女という確たる存在を作ったことはない。その寸前までや肉体だけの関係であれば何人か
いたが、それ以上に心を開いたり、己を費やしたりはしていない。女は疲れるからだ。ろくな
女と付き合った経験がないというのもあるが、俺は女を冷めた目で見ている。
だが、保田と話していると、そんなことは忘れる。付き合えば極度の甘えやら求めやらも出
てくるだろうし、今でさえ深夜の電話に迷惑することもあるが、それも受け入れられると思う。
しょせん幸せなんてちっぽけなもので、そんなものを恐れる必要なんてないのだから。
- 212 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:48
-
こんな関係が長く続けばいいのにと思いながら、俺はふと、保田との直接会話なんていつ
だってできたのだということに気づいた。これまでそのことに気づかなかった方がおかしかっ
たのだ。コロンブスの卵よりも簡単なことだった。携帯を合体する必要もない。保田に加藤雅
子の室内電話の番号を伝えるだけでよかったのだ。
俺は保田にその番号を告げた。「今、真弓ちゃんの友達のところにいる。そこの番号。だか
らわざわざ福田に伝言を頼まなくてもいい」
「あ、なんかいってたね。居候(いそうろう)してるって」
「最初からそうすりゃよかったんだけど、まったく気づかなかった」
「あ、そっか。あたしも全然思いつかなかったよ」
二人とも暖気(のんき)だった。だが、それもここまでだ。これから直接通話ができるように
なれば、俺も保田も、悪化した状況を今以上に共有することになる。これまではどこかで何か
が起きているということを知らないだけだった。しかし今は、知らないだけだったことを知って
いる。何も知らないということは何も起きていないということとイコールではない。それは未知
というものの恐怖であり、俺たちにとっては未知の脅威となる。
俺は三十分間、病室にいた。それが長いのか短いのかはわからない。いつ死んでもいいよ
うに保田に触れておきたかったが、いきなり手を握るのも変だし、キスはそれ以上だ。それに
途中からは隣のベッドの患者が戻ってきていて、小姑(こじゅうとめ)のようにこちらに注目し
ていた。そろそろお母さんがくるかもという保田の言葉で、俺はそれを諦めて立ち去ることに
した。
- 213 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:48
-
「退院したら、電話するね」
「ああ。もしあれだったら、こっちで専用の携帯調達してもいいぞ。それならわざわざ公衆電
話使う必要もないし。どのみちこっちにも携帯がいるしな」
「ホムちゃん携帯嫌いだったんじゃないの?」
「必要性がなかっただけだ。料金に見合うだけの」
「そっか。ホムちゃん貧乏だもんね」
「貧乏だけど生きていける。それが日本の豊かなところだ」
病室を出て、エレベーターで一階に下りる。ドアが開くと、三人の人が並ぶでもなく溜まるよ
うにエレベーターを待っていた。その隙間から出て、五歩ほど進んだ時に、ようやくその一つ
の顔に思い当たる。あわてて振り返る。だがドアは閉まり、その顔はすぐに消えた。
何ともいえない疑問があった。きっと、そうだったのだろう。直接通話は危険だと思い込ん
でいた俺とは違い、その人物であれば普通に気づけたはずのことなのだ。二台の携帯を合
体させるなんて、そもそもがナンセンス。こちらが加藤の番号を教えた時に、ならその番号を
保田に伝えればいいと、普通なら思いつくはずで、その人物にはその普通が当てはまる。
福田明日香は笑顔だった。記憶の中にある顔ともマイマザーともかなり違っていたが、その
人物は間違いなく大人になった福田。そしてその笑顔には波乱に参加したいのだという戦国
武将のような意志が感じられた。どうやら保田以外にもやっかいな存在はいるものらしい。
俺はふっと鼻から笑いの息をこぼし、出口に歩いた。だが、そこに油断が生じていた。
- 214 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:48
-
自動ドアを出た俺の前に現れたのは、夕方特有の横から射す太陽の光と、そして久しぶり
の敵だった。高校生の馬鹿連中などではなく、本物の敵だ。
玄関前に黒塗りの車が停まっていた。車種はわからない。前後のドアが同時に開き、二人
の男が飛び出してきて、石段の上にいる俺を左右から挟むように立った。二人ともビジネス
スーツではなくカジュアルスーツ姿だ。
まさしく油断だった。エレベーターで下りたのも油断だし、目につく人たちをまったく観察して
いなかったのも油断だった。福田の顔を見たことで、新館の方から脱け出るということも頭か
ら消えていた。頭の中に保田のことばかりがあったというのもある。どのみち、俺は油断して
いた。
「筒川歩夢サンですね? ゴ同行願えますか?」
俺は迷っていた。目の前には片側二車線の大通りがあり、歩道にも通行人がいる。玄関前
でタバコを吸っていた人間はいなくなっていたが、それでも白昼の往来だ。叫ぶこともできる
し抵抗することもできる。ヤクザに白昼堂堂、拉致(らち)されたという事件が数年前にあった
ことは知っているが、もっと人けのない場所だったはずだ。
俺は左右の男を観察し、瞬時に抵抗を選んだ。が、すぐにそれを捨てざるをえなかった。俺
は人質を取られていたのだ。
「素直に従ッていただければ、保田圭サンには危害は加えません。ですが、ソウでない場合
は、おわかりですね?」
言葉が出てこなかった。そのくせ、屈辱だけが罰ゲームの風船のように膨らんでいた。
全身の力が抜け、俺は何の抵抗もできないまま哀れにも後部座席に乗せられていた。
- 215 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:48
-
車の中には三人の男がいた。俺の左側に一人。細身ながら俺の腕を掴んでいる力は強い。
助手席にも一人。カマキリを連想させるような顔と体躯をしており、先ほど見た時の目は冷や
やかだった。口調も冷徹だ。たぶん三人の内ではリーダー格だろう。そして運転席には二人
に比べると少年のような印象の若い男。サングラスをしているのは、チンピラの原理と同じで
自分の欠点を隠すためのものだろう。欠点イコール弱さだ。
その男は俺が車に乗り込んだ瞬間、聞こえないくらいの音でふふんと鼻息を鳴らしていた。
何となくそのことが気になっていたのだが、俺は二つほど信号を進んだところで、ようやくバッ
クミラー越しに見えるその顔を以前に見たことがあることに気づいた。偽の真弓だ。
俺は顔色が変わらないように心を強く持ち、男たちに尋ねた。「何が目的だ。どうして俺たち
を付け狙う。織田信長のことを知ったからか。それで俺の部屋を爆破したのか」
金印のことも飯田の知り合いのこともいわないでおいたが、別に意図的に隠したわけでは
ない。俺がもともと知っていたのはそれだけなのだ。それだけで俺の部屋は爆破された。
「話はアトでタップリ伺いますよ」
助手席の男がまるで鎌の刃を舐めるようなひんやりと響く声でいった。流暢(りゅちょう)な
日本語だったが、二十八年間も日本オンリーで暮らしている俺は、かすかに外国人の訛(な
ま)りがあることを聞き逃さなかった。三人それぞれは日本人と見分けがつかないが、その三
人を一組と見なすと、やはりどこかに違和感がある。民族の違いには個個ではなく集団の比
較が有効なのだと、人類学の教授もいっていた。
- 216 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:48
-
日本以外のアジア系の黄色人種。中国か韓国、あるいは北朝鮮か。フィリピンやインドシナ
諸国ではない。どちらかといえば俺の顔の方が東南アジアには近い。何せトキオ松岡をネプ
チューン名倉にスライドさせた感じだ。俺本人はそれを否定するが、たしかに俺は人類学的
に新モンゴロイド的形質と旧モンゴロイド的形質とを兼ね備えている。大学に入ってすぐ、沖
縄県人会の女性にいきなり「沖縄?」と声をかけられたほどで、その一つ歳上の先輩とはそ
れから三年間、学内で会えば挨拶や会話を交わすという不思議な関係になった。同じ講義を
受講してノートを貸してもらったこともあった。学科やサークルや研究室やバイトが同じではな
い唯一の知り合いで、俺の人生における数少ない美人の知り合いの一人でもある。
緊張からか、現実を逃避するようにそんなどうでもいい過去が頭に浮かぶ。できればそれ
が走馬灯(そうまとう)の一種でないことを願いたい。
美人繋がりで、飯田のことも頭に浮かんだ。そして、飯田がこの連中に何かをされたので
はないかという危惧も、頭の中にあった。
「保田には、保田には手を出すなよ。もし保田に何かあったら、俺の知ってることは全部暴
露する。俺が死ぬようなことになっても同じだ。すでに手は打ってあるからな」
「あなたが第三者だというコトは了解しています。コチらとしても、話し合いで解決したい。ナ
に、ドロボウをいぶり出すダケです」助手席の男が答えた。
俺は男の言葉の意味を考えた。
キーワードはたぶん『泥棒』だろう。保田や飯田や真弓が金印を覗き見たことを指している
のだろうが、もしそれが文字通りの意味であればどうか――。
- 217 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:49
-
謎にほんの少し近づけた気がした。
仙石を加えた四人が金印を見て、その後、その金印が紛失していたとしたら。敵はその四
人をマークする。仙石は所有者側の人間だから無事だと思うが、ペナルティはあるかもしれ
ない。残りの三人は家捜(やさが)しをされる。実際に飯田は部屋を荒らされた。保田だって
郵便受けが勝手に見られていたというようなことをいっていた。痕跡はないが、部屋の中に
侵入されていた可能性もある。真弓も同様だ。ただし、俺の場合は三人とは違う。敵も俺を
第三者だと知っている。だとすれば、部屋が爆破されたのはやはり三人への脅迫だ。飯田
の知り合いが失踪したというのも同じ意味を持つ。ただし、もう一つの意味もあるかもしれな
い。その晩に連絡を取った相手は共犯者とも見なせる。特に俺は歴史学科卒業で、大学時
代には金印のレポートも提出している。まさかそんなものが現存していることはないが、敵
にとっては灰色の存在だ。
しかし、だ。いくら何でも、俺たちが金印を盗んだなんて、どうやったら信じられるのか。保
田と飯田は藝能人で、そんなことに手を貸すはずがないではないか。俺も冴えないアルバイ
トだし、真弓はあの容姿だ。それを窃盗グループと見なすとは、常識では到底考えられない。
そう、常識では、だ。しかし、事態が常識とは別のところで動いているのも事実だ。それに、
外国系の組織であれば常識は通用しない。連中は金印の実物を捜している。そしてそこに
は、たぶん俺が想像するよりもはるかに高額な金銭的価値があるのだろう。俺の命も、俺の
アパートの部屋の修繕費用も、どちらもゴミに思えるほどの金額だ。
- 218 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:49
-
車はどんどん進んでいた。病院からは一キロ以上、いや、三キロは離れただろうか。俺は
そこでようやく、自分が抵抗を試みなかったことを後悔し始めていた。
考えればそうなのだ。保田を人質に取られたとはいえ、保田がいるのは人のいる病院内で、
しかも保田は一般人ではない。何かが起きるとは考えられない。点滴で劇薬を挿入されるこ
とはあるかもしれないが、敵がそんなものを都合よく所持しているだろうか。それに人の目も
ある。あの場で俺が抵抗し、仮に保田が狙われるようなことになっても、保田と二人で逃げる
という選択肢もあった。あの場には福田という予期せぬ協力者だっていた。新館の方にも敵
が待っていたとしても、タクシーで逃げて警察に駆け込むなり、真弓がしたように敵を巻くとい
うことだって可能だった。カマキリ男の冷徹な口調に、俺は戦わずして怖気(おじけ)づいてい
たのだ。
だが、そのことに気づけば、もうその考えを無視するわけにはいかない。道路は渋滞こそし
ていないが、都心には信号というシステムがある。信号のある間隔は一定ではないが、長く
はない。それにうまく青信号の流れに乗ったとしても、いつかは赤信号にたどり着く。実際、こ
の車も病院を後にしてから何度となく減速や停止を繰り返している。脱出のチャンスはいくら
でも転がっている。
俺は男たちに悟られないようにドアをチェックした。ロックはされているが、ボタンは運転席
だけではなく各ドアにある。そのボタンを押してロックを解除し、腕を掴んでいる男の手を振り
切って飛び出す。一気に飛び出すことはできないとしても、顔を出すだけ、手を出すだけで、
前後の車にアピールすることはできる。問題は男の手をどうやって振りほどくかだ。
- 219 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:49
-
俺は弱々しく、痛いといって男の握力を緩めさせようとした。だが、同じ血が通った人間とは
思えないほど男はまったく動じなかった。効果はなかった。むしろ力は強まっていた。
この状態では脱出は無理だ。そう判断するも、それでも考えは曲げない。男の顔面に頭突
きを喰らわせれば、ひるんだ隙に脱出できるかもしれない。赤信号で停止した時だ。いや、そ
れよりも、右折しようと交叉点の中央にいる時にドアを開ける方が注目を集めるかもしれない。
そうだ。かなり危険ではあるが、その方が男たちも驚く。
俺は右折の瞬間を待った。だが、せっかく右折したものの、対向車線に車はなく、車は減速
せずに交叉点を右折した。
それで俺は計画を変えた。やはり赤信号だ。ただし、完全に停止してからではなく減速して
停止する直前がいい。走っている車のドアが開けば、たとえ逃げ出せなくとも注目は高まる。
俺は覚悟を決めた。次の赤信号だ。そこに近づいたら頭突きをし、ロックを解除し、ドアを
開けて飛び出す。一動作でできないのが面倒だが、社会に出れば面倒なことだらけだ。こん
な時にぐうたらなことをいってはいられない。
その時が来る。俺は男の顔を観察するように顔を左に向け、転瞬、男に向って自分の頭を
突っ込んだ。が、頭にそれらしい感触はなかった。俺の頭突きは届いていなかった。スカった
のだ。だが、なぜだか俺の腕に男の手はなかった。突然の抵抗は男に驚きを与えていた。
俺はロックを解除してドアを開けそのまま飛び込むように外に転がり出た。何やら怒声が飛
んできたが俺の躰の方が早かった。眼前にアスファルトが迫り手が伸び手が触れ衝撃を感じ
躰が回転し肩を打ち背中を打ち頭を打ち足が出ると同時に躰がくるくると回転した。
- 220 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:49
-
だが、予想していなかったことがあった。減速していたとはいえ、スピードはそれほど落ちて
はいなかったのだ。衝撃はかなりのものだった。俺は立ち上がることもできず、肘をついて上
半身を何とか起こそうとするだけで精一杯だった。逃げることはできない。なら、後は異常を
周りに知らせるだけ――。
しかし、それも甘かった。俺が道路に飛び出してすぐ、車は急ブレーキをかけていた。そし
ていっせいにドアが開いた。後続車もいたが、男たちはそれを無視して俺を拾うと、そのまま
引きずるようにして後部座席に押し込んだのだ。そして全員が車に乗り込むと、猛スピードと
いう言葉でしか表現できないような猛烈な速度で急発進した。たとえ誰かが警察に通報した
としても、その時にはもう俺は生きてはいない。俺は見事に失敗したのだ。
それからの俺はみじめだった。荷造り用のナイロン製ロープで両手首を縛られ、両足首も
縛られた。男たちの中国語らしき怒声の中、頭には紙袋をかぶせられる。
身も心も敗者だった。石田三成のように柿を差し出されれば、死刑宣告は完了する。俺の
場合は柿ではなくビワだ。そういえばそろそろビワの季節かもしれない。悪い時期に捕まって
しまったものだ。保田に惚れるくらいだから、俺はもともと運が悪いのだろう。
俺は天を呪い、そばにあるはずの地をはるか遠くに感じていた……。
- 221 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/08/26(日) 17:49
-
つづく
- 222 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:11
-
A-12
意識を取り戻した時、目の前にはぼんやりとした暗闇が広がっていた。非科学的なことを
信じない俺は、たとえ自分が百パーセントの漆黒の闇の中にいようとお花畑の中にいようと、
それを死後の世界だと考えたりはしない。俺は生きている。人生と同様、ただ部屋が暗いだ
けだ。
意識を失う前のことを思い起こす。両手足を縛られて身動きが取れなかったものの、俺は
全身をうごめかせて抵抗を試み続けた。それがしつこかったのだろう、頭にかぶせられた紙
袋が消えて視界が戻ったと思ったら、目の前にスプレー罐のようなものが見えた。タレントが
参加するスポーツバラエティ番組などで見かけるやつだったが、それがサービスの酸素でな
いことは考えるまでもなかった。シューッという音がして、俺の意識は競泳選手に襲われたか
のように遠のいていった。
それからどれくらい眠っていたのかはわからない。丸一日は経っていない。半日だとすると
深夜ということになるが、そんな感じでもない。躰の疲労度からして二、三時間ほどかもしれ
ない。
- 223 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:11
-
薄闇にはすぐに慣れた。目の前に四角い光の枠があり、それがドアだとわかった。鋼鉄製
のかなり錆びたドアらしい。部屋は十畳以上の広さがある。床も壁もコンクリートの打ちっ放
しで、砂ぼこりでざらざらしていた。何かの倉庫だろう。二メートルほどの高さのところには小
さな窓があり、よく見るとそこからも灰色の光が射し込んでいた。
だとすると、やはり夜ということになる。病院を出たのが五時前だとすると、八時くらいには
なっているだろうか。七時ならもう少し明るくてもいいはずだ。
耳を澄ませるも、物音や話し声は聞こえなかった。隣の部屋にも監視はいないらしい。両手
両足を縛ってあれば脱出の可能性はないと判断したか、あるいはドアに鍵をかけたか。
だが、両手両足の自由を奪っただけで俺の躰を柱にくくりつけなかったのは失敗だ。俺は
縛られることには慣れている。そういう趣味があるというのではないが――いや、そういう性
癖がゼロであるかと訊かれれば答えに窮するが――俺は以前、彼女によく縛られていた。
就職先だった社会科教材販売の会社が入社直前になって倒産し、焼肉屋でバイトを始め
た、俺が人生をもっとも悲観していた頃の話だ……。彼女はその焼肉屋の常連で、週に二日
は一人できていた。やけに人懐っこく、店員や客の区別なく誰にでも話しかけるという特技を
持っていた。その点は保田に似ている。顔は普通だったが、背は俺なんかよりも高くスタイル
だけは抜群だった。
- 224 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:11
-
彼女はプロ野球のスタジアムでボールガールをしていた。審判にボールを渡しに行ったり、
リリーフカーを運転してピッチャーをマウンドまで運んだりするあれで、俺もテレビで彼女を見
たことがある。プロ野球選手の合コン秘話なんかもいくつか聞いて知っている。
ただし、付き合うようになった俺に、彼女はもう一つのバイトをしていることを打ち明けた。そ
れがSMクラブでの風俗嬢だった。
その話を聞いた時には衝撃と後悔だけがあったが、彼女は頭からっぽの風俗嬢というわけ
ではなかった。実家に借金があり、どうしてもお金が必要だったらしい。それにSMクラブで働
いていたのは、Sであれば相手と交わる必要がないからだった。もちろんコスチュームは身に
つけるが、裸を見せる必要もなく比較的楽なのだそうだ。MだとSの五倍以上は楽に稼げるら
しいが、考えるまでもなくかなり悲惨だ。全身痣(あざ)だらけになるのは基本で、前歯を折ら
れたり糞尿を飲食させられたりした子もいたらしい。
俺には想像できない世界だが、世の中で想像できる世界なんてしょせんはちっぽけな範囲
のものでしかない。その証拠に俺は今、悪の組織にこうして監禁され、縛られている。
しかしながら、練習台として彼女によく縛られていた俺には、こんなナイロン製のロープなど
屁でもない。彼女は本格的なSMのマニュアル本を見て真剣に勉強していたのだ。
- 225 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:11
-
俺は躰を横にし、両足を折り込んで海老ぞりになった。後ろで縛られている両手で足首のロ
ープを確認する。筋肉痛を気にしさえしなければ餘裕(よゆう)だ。固結びだったが、三分ほど
で結び目を広げると、五分で完全にほどける。これで自由に動き回れる。残るは手首だ。
部屋の中を見回す。すぐにコンクリート製ブロックを見つけた。だが、しゃくとり虫のようにブ
ロックの横に移動する途中で、予期せぬ敵が俺を待ち受けていた。
俺を襲ったのは突然の、そして猛烈な便意だった……。
早くロープをほどかなくては漏らしてしまう。だが、焦りは便意を五倍に加速させる。俺が人
生で何度となく遭遇し、そして失敗して得た教訓だ。焦りさえなければ便意は自然に収まるが、
一度焦りを意識するともう元には戻らない。やばい。これはまじでやばい。
ぐおおおっと唸りながら、両手首を左右に最大限に開き、その間に伸びたロープをブロック
の角にこすりつける。早く。早く。しかしブロックの角はむかつくことに丸まっていて、思うよう
には削れなかった。そして俺は沈黙した……。
屈辱だった。二十八歳にもなって俺はウンチを漏らしたのだ。学生時代に牛乳を飲んだ翌
日は突発的な便意に襲われるという法則に気づいて以来、俺は牛乳を飲まず、下痢に悩ま
されることもなくなった。だが、敵は必ずしも牛乳だけではなかったのだ。
- 226 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:11
-
悔しくて涙が出た。馬鹿馬鹿しいが、本当に涙が出た。
ジーンズの中にもっちゃりとした感触。おまけに排便には同時に排尿も附随する。この不快
さは経験した者にしかわからない。
俺は自分が監禁されていることも忘れ、自分の惨めさに嘆(なげ)き続けた。世の中にこん
な悲惨なことが他にあるだろうか。たとえドMの性癖を持っていたとしても、縛られてズボンを
はいたまま排便を強要されるなんてまっぴらごめん、プレイでなければなおさらだ。俺だって
美人に命令されたのであれば、まだ少しは耐えられたかもしれないし、ズボンではなくオマル
にであれば喜んで、歓喜の涙を流しながら排泄しただろう。
舌を噛み切って死んでやろうかとまで思ったが、こんな糞尿まみれの状態で死にたくはない。
誰だってそうだ。関ヶ原の合戦で敗れた石田三成だって、きっとそうだったに違いない。三成
は逃亡中に下痢を患(わずら)い、当時は高級品だった紙で尻を拭き、その紙を残したせい
で発見されてしまったといわれている。それが歴史的事実かどうかは不明だが、よく耳にする
逸話だ。だが、今の俺なら三成の気持ちは痛いほどわかる。三成は奇麗に死にたかったの
だ。柿の差し入れを断ったのも、それと同じことと考えれば辻褄(つじつま)が合う。よし、無事
に脱出できた暁(あかつき)には、それを論文にして学会に発表してやる。
俺は気力を快復させ、ふたたび両手首のロープをブロックの角でこすり始めた。少しずつだ
がナイロンの繊維が断裂する感触が伝わってきて、そして一気にぶちっと切れる。
ふーっと溜め息がこぼれる。
後一分早ければ、俺がこんなに苦しむことはなかった。しかし何をどう恨めばいいのか、俺
にはそれがわからなかった。
- 227 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:11
-
手足に自由が戻り、早速靴を脱ぎ、ジーンズとトランクスを脱ぐ。まさかこんな時に敵が現
れたりはしないだろうが、もし現れたとしてもこの始末だけは絶対にする必要がある。他人に
糞尿の始末を任せて許されるのは乳幼児と老人だけ。寝たきりの状態にでもならないかぎり、
二十八歳のアルバイト店員がそこに含まれることはない。同じ社会的弱者でも、フリーターに
対する世間の風は冷たい。
目はもう完全に闇に慣れており、窓から射し込む光でそれほど暗くないということにも気づ
いていた。だからジーンズの様子は触るまでもなくわかった。トランクスからこぼれた糞便が
ジーンズの内側、太腿(ふともも)の部分に附着していた。そしてそれ以上に尿によって濡れ
ていた。トランクスの方は尻の部分から下端にかけて、インスタント味噌汁に似たどろどろの
糞便が広がっていた。それを叩(はた)き落とし、布地を床に擦(こす)りつける。
保田もまさか俺が今そんなことをしているとは想像できないことだろう。俺の帰りが遅いこと
を心配しているであろう真弓も同じだ。仮に無事に逃げ出せたとしても、これは報告せず、胸
の中に閉まっておこう。こんなことで同情されるなんて喜劇以上の悲劇でしかない。
俺は五分だか十分だかかけてトランクスの糞便を除去し、ジーンズの汚れも落とし、叩いて
叩いて叩いて乾かし、それを元通りに装着した。水分が残っていて快適とはいいがたかった
が、フルチンで敵と対峙するよりは格段にましだ。これで俺の人生ほどには奇麗に死ねる。
- 228 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:12
-
と、遠くから――壁をいくつか隔てて――足音が聞こえてきた。徐徐に近づき、ドアの開く音
がし、そしてさらに足音。鋼鉄製のドアの向うだ。
俺はとっさに壁ぎわまで下がり、横になって縛られたままの格好を装った。
鍵を挿し込む音、ドアノブを回す音、蝶番(ちょうつがい)のきしむ音、そしてそれほどまぶし
くはない光……。
男の影が俺の姿を確認していた。そして確認を終えて、室内に一歩、二歩、三歩と足を踏
み入れる。俺の腕を掴んでいた男だった。強そうには見えるが、突然の攻撃には弱いタイプ
だ。俺は車中の出来事を思い出してそのように判断すると、刹那(せつな)に立ち上がり、男
に向って一目散に突進した。
男はアイヤーと叫び、一歩退いた。だが、何がどうなったのか、俺が体当たりを喰らわせる
前に男は後ろに転び、床で頭を打ちつけていた。ぐうう……と声が漏れ、そのまま動かなくな
る。何かの罠か作戦か、と、俺は身構えたまま男を見据え続けた。だが、男は動かない。気
絶したらしいが、もしかすると打ち所が悪くて死んだのかもしれない。
男の足元を見る。それでわかった。男は床にあった俺の糞便で滑って転んでいた。軟便だ
ったことと尿が混じっていたこととで滑りやすくなっていたのだ。
俺は突発的な便意に感謝した。もし俺がウンチを漏らしていなければ、俺はここで死んでい
たかもしれない。便意は天からの贈り物だった。尻を拭く紙こそなかったが、神は俺を見捨て
てはいなかったのだ!
- 229 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:12
-
なんて喜んでいる場合ではない。男が倒れたまま戻らなければ、すぐに別の人間が様子を
見にやってくる。それまでにこちらの態勢を整えておかなくてはならない。
蘇生やら奇襲やらを警戒しながら男の全身を調べる。気分は羅生門の鬼だが、鬼にも鬼
になるだけの事情がある。ジャケットのポケットからは鎖のついたナイフが見つかった。内ポ
ケットからはセブンスターとマッチ。
ナイフは折りたたみ式になっていて、刃の部分は十センチくらい。両刃で、槍の穂先に似て
いる。ステンレスの柄(え)の根本に鎖がついていて、その長さは一メートルはあるだろうか。
先端には重石(おもし)となる分銅がついており、印象としては鎖鎌をナイフにしたような感じ
だ。
俺はそれを試してみた。だが、鎖をぶるんぶるんと振り回すのはいいとして、ヌンチャクの
ように縦横無尽に軌跡を描くことはできなかった。自分の躰にナイフが突き刺さったら意味は
ない。かなり危険な武器だ。俺はナイフとマッチとをジーンズの湿ったポケットにしまった。
何度か深呼吸をし、明かりの方へ向う。そこも同じくらいの広さで、物置になっていた。人の
姿はない。セメントの袋のようなものが床から天井付近まで積み上げてあり、車一台分ほど
もある大きな鉄枠のような機械が置いてあった。壁にはベニヤ板や鉄パイプやスコップが立
てかけられてあり、横にはドラム缶やら三角コーンやら道路工事で見かけるオレンジと黒の
縞模様の車止めやらがあった。
いったい、ここはどういうところなのだろうか。さっぱりわからない。
- 230 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:12
-
俺はその中から鉄パイプを取った。かなり重かった。これをバイクに乗ったまま片手で振り
回す珍走団は、そのエネルギーをもっと別のことに費やすべきだろう。しかしながら、たしか
に武器にはなる。俺はそれを金属バットのように振ってみた。ボールに当たってもバントにし
かならないほど頼りないが、ボールでなく人間の躰であればダメージは大きいはずだ。
またも深呼吸をし、いよいよ部屋の外へ出る。先ほどの部屋と同じ鋼鉄製のドアがあり、俺
はそのドアノブをゆっくりと回した。
ワット数の小さい薄暗い蛍光灯に照らし出され、廊下が見えた。長さは十メートルか、十五
メートルくらいか。しかし廊下は一本の直線であるにも関わらず、その先に階段があったりエ
レベーターがあったりはしなかった。ただそのドアと同じく二、三のドアがあるだけだ。
どんな造りだと思いながら、廊下を挟んで目の前にあったドアに耳をつける。奥の方で物音
と話し声のようなものが聞こえたが、その部屋ではないらしい。ノブを回してみたが鍵がかか
っていた。
右側が行き止まりだということを確認し、逆側の一番奥に向う。
左右にドアがあり、左のドアには危険物がどうこうという注意書きがあった。英語で書かれ
ていたが、炎のイラストやバツ印があれば俺にだって理解できるし、『WARNING』くらいは俺
にも読める。
そのドアも開かなかった。だとすると、男が通ってきたのは残ったドアからだろう。
耳を済ませ、ゆっくりとノブを回す。ギイイッと音がし、思わず耳をふさぎたくなる。内部には
明かりがついていて、それだけで血圧が一気に上昇したが、そこにも人の姿はなかった。
- 231 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:12
-
細長い部屋だ。俺がいた部屋とその隣の部屋とを足したほどの広さがあった。壁に沿って
スチール棚が延延と続き、そこをダンボールや発泡スチロールが占拠していた。入りきらな
いぶんは床に積んである。袋もあった。
見かけるのは中国の簡体字というのか、手抜きの略字みたいな漢字ばかりで、どうも食材
らしいことがわかった。こちらの袋の中身はセメントではなく小麦粉だ。ただし、俺がそれを理
解したのは何も大学で中国語を四単位も取得していたからではない。中国語なんてシェンマ
とナーリーとニーシーチョングォレンマくらいしか覚えておらず、後は子供時分から知っている
ニーハオやシェイシェイやポコペンという言葉くらいだ。その程度でも漢字さえ読めればそこ
そこわかるものだ。
俺はその部屋を素通りし、さらに奥のドアに向った。すでにその不便きわまりない造りから、
そこが普通の建物でないことくらいは察している。食材輸入業を装った怪しげな組織といった
ところだろう。中国政府のスパイ組織かもしれないが、それにしてはやや大雑把すぎる。チャ
イニーズマフィアという言葉が頭をよぎる。だとすると鎖鎌どころか拳銃と戦うことになるかも
しれない。ファミコンのスパルタンXすらいまだにクリアできない俺には過酷すぎる挑戦になる
ことだろう。
ドアの前に立ち、ゆっくりとノブを回す。やはりギイイッと音がし、そして人影。男がこちらを
振り向いた。ドアの横に警備するかのように立っていたのは偽の真弓だった。
俺は三歩飛び退(すさ)った。男が「貴様っ!」と日本語で声を上げ、中に入ってくる。その
瞬間を見逃さず鉄パイプをスイングする。
- 232 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:12
-
手がじーんと痺れ、それは腕全体に伝わり、俺はパイプを手から落とした。床に当たってカ
ランカランという甲高い音が部屋に響き渡った。
パイプは男に当たってはいなかった。斜め四十五度、中途半端に開いたままのドアの端に
垂直にミートしていたのだ。痺れるのも当然だった。いや、当然どころではない。その痺れは
パイプを放してからが本番とでもいうかのように、一気に右腕全体を覆いつくした。
右腕の血流が完全に滞(とどこお)ってしまったか、あるいは逆流したかのようで、思わずう
ずくまる。そうせずにはいられなかった。皮膚の痛覚ではなく、もっと内部の細胞という細胞
がまるで常温沸騰したかのように悲鳴を上げていた。正座で痺れるのとは種類が違う。高圧
電流に触れたかのような持続性のある苦痛であり、痲痺(まひ)だった。
俺は無意味だとわかりながら、左手で右腕を掴むことしかできなかった。当然、男と闘うど
ころではない。キラービーに全員が刺されただけで全滅するドラクエ3の理不尽なシステムも、
今であれば納得がいく。勇者の一人旅で一番の強敵はボスなんかではなく、やはりカザーブ
付近のキラービーの集団だ。それは断言していい。
苦痛に顔が歪み、首筋からは変な汗が噴き出す。そのくせ全身の皮膚という皮膚から水分
が失われたかのようで、急激な体温の変化を感じる。躰の部位という部位が独立して生存を
求めているのかもしれない。
- 233 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:12
-
その結果、俺は何の抵抗もできずにコテンパンにやられた。男はパイプを拾い、俺の背中
を打ち据えた。激痛。片膝をついた状態が両膝をついた状態となり、左肩と左頬が滑るよう
に一気に床に落ちた。保田が気に入りかけていたせっかくのメガネは慣性という科学的法則
によって吹っ飛び、視界が十分の一になる。それから蹴りという蹴りが俺のねじった形の脇
腹やら顔面やら、とにかくやみくもに襲いかかってくる。
そんな危機的状況であるのに右腕は痺れたままで、左手もそこから離せずにいる。顔面は
ノーガードだ。そのせいで蹴りが終わると空いた顔の右半分に向けてパンチの連打。男は極
度に興奮して何やら叫んでいたが、それは中国語ではなく聞き取れた部分の全てが日本語
だった。
借りを返すとか返さないとか、まあそのようなことだろう。俺にやられたのがよっぽど悔しか
ったに違いない。男のパンチに躰を左に右にと振られながらも、俺は両膝を揃えて亀のよう
に背中を丸めて耐えた。金的だけはどうしても守らなくてはならない。復讐の炎がそこに向け
ば、俺の人生のささやかな楽しみが失われてしまう危険性がある。愛らしい子供のいる幸せ
な家庭像なんて望んではいないが、好きな女を抱けなくなったら男として終わりだ。俺はまだ
保田を抱いていない。
男はハアハアと荒い息を吐くほどに俺を叩き、そして蹴った。しかしカンフーの達人である
とか軍隊経験者であるという感じでは全然なかった。パンチにもキックにも流れというものが
なく、狙いもめちゃくちゃだった。ある意味では以前の高校生の馬鹿連中に近い。運転手だ
とか連絡係だとか、そういった非実戦的な役割を任されているのかもしれない。腕の痺れさ
えなければ、奇襲しなくても楽に勝てる相手だった。
- 234 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:13
-
しかし、そんな負け惜しみをいったところで打ちのめされたのは事実だ。腕の痺れ以外にも、
俺は顔やら背中やら脇腹やら、いたるところに痛みを感じていた。腕の痺れが止まるまでは
と思って耐えに耐えていたが、それも戦時中の国民の心境のようで、いつになるかわからな
い。目からは涙がこぼれ、口には濃い血の味がした。
「まいった。これ以上は、勘辨(かんべん)してくれ……」
ゴホッゴホッと咳き込みながら、俺は男の顔を見上げた。
吊り上がった目はまだ怒りを内包しており、その怒りを消化したいと燃えていた。だが俺は
それに逆に安心していた――。こういう時に一番恐ろしいのは、あのカマキリ男のような冷徹
な表情や氷のように冷ややかな笑みだ。何をされるかわからないという、毒毒しく冷え冷えと
した恐怖に苛(さいな)まれる。しかし怒りは理知的ではなく感情的でしかない。特にその男の
場合は肉体的な復讐に燃えていた。俺の顔面が腫れ上がり、口から血がこぼれ、全身がず
たぼろになれば、それ以上には進まないはずだ。優越感が生じれば怒りも自然に収まるに
違いない。
だが――それは束の間の楽観論でしかなかった。男の執拗な暴行が止み、様子を見ようと
した俺の目に映ったのは、床に落ちていた鉄パイプを拾う男の姿だった。
目と目が合った。とっさに死が頭に浮かんだ。男はそれを実行するつもりなのだ。俺がぐっ
たりして微動だにしなくなるまで打ちのめすか、頭部に振り下ろして一撃でとどめを刺すか。
どちらであろうと、男は俺を殺害するつもりだ。五分後に俺は生きているのか、それとも死ん
でいるのか……。
そう思った時、俺の頭には前者のイメージが浮かんでいた。
- 235 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:13
-
俺は生きる。いや、生きなければならないのだ! 真弓や保田や飯田を同じ目に遭わせな
いためにも、俺は生き抜いてみんなを守らなくてはならない!
社会の役に立たないどうしようもない連中だとメディアから公然と批判され、貶(けな)され、
笑われ、哀(あわ)れまれる存在であろうと、スーツを着込んでバリバリに働いて俺の月収の
三倍四倍を稼いでいる世間一般の連中であろうと、自分の周りにいる人たちを守れなくて、
それで男といえるか! それで生きているといえるか!
答えは否(いな)だ!
俺はそう叫ぶなり、立ち上がって男に突進し、自分がこれまで培(つちか)ってきた全ての
力と技と経験とをそこにぶち込んだ。もはや痺れた腕などは関係ない。顔面には左右から突
きの連打を浴びせ、腹部へは膝蹴り、脇腹へは廻し蹴り、さらに後頭部めがけて固めた両拳
(りょうけん)を打ち下ろす。
男は両膝を同時につき、先ほどの俺自身の姿を見るかのようにそのまま床に崩れ落ちた。
この男にも、きっと俺と同じように守るべきものがあることだろう。しかし、それは俺の方が
はるかに大きかった。だからこそ俺は勝った――いや、負けなかったのだ。
時が止まり、俺はふたたび腕の痺れを感じた。だが、そんな痺れは俺にとってもう何の障
碍(しょうがい)でもなかった。俺はメガネを拾うと、ううううと唸る男をそのままに、ドアの外に
出た。
- 236 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:13
-
またもや廊下だった。だが、こちらの廊下には窓が並んでいて、藍色がかった闇夜が見え
ていた。深夜ではなく、まだ宵(よい)の口の範疇らしい。
地上何メートルくらいかはわからないが、階にすれば五階ほどの高さだろう。下の方に街路
灯の明かりが見えていた。車線の区別のない広い道路があり、数台の車が停まっていた。そ
の向うには少しだけ窓に明かりのついた灰色のビル。さらに奥に目を向けると、遠くに大型の
クレーンのような影があり、巨大な倉庫のような建物。どうやら港の近くらしい。
目を廊下に戻す。すぐ左手に階段があり、古ぼけたエレベーターもあった。逃走経路として
は当然前者を選ぶべきだろう。
俺は階段に足を向けた。だが、そこで一瞬、奇妙な感覚に襲われた。
頭に加藤雅子の部屋が浮かんだ。なぜだかはわからないが、俺の五官から発せられる五
感が何かを告げようとしていた。
立ち止まり、後ろを見る。一直線に伸びた廊下。異常はない。
また前を見る。そして、それに気づいた。いや、気づいたのではない。ただ視界に異物が入
り込んだだけのことで、それは俺を危機に陥れるようなものではなかった。
だが、俺はしゃがんでそれを見た。エレベーターの前に、踏まれた鹿の糞のような黒っぽい
小さな粒が落ちていた。それを手に取り、予感のままに臭いを嗅ぐ。
俺は立ち上がった。そして躰を後ろへ向けた。全身が燃えていた。それがもし中華料理に
用いられる食材であろうと漢方の薬であろうと、そのまま逃げるわけにはいかない。
それは潰れた正露丸の欠片(かけら)だった。鼻の悪い俺でも、クレオソート臭くらい嗅ぎ分
けることはできる。それに、今の俺は生死の狭間にいるせいで五官がフルに稼働している。
- 237 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:13
-
俺は廊下の奥へと向った。ドアは一つだけ。そこに真弓がいるはずだ。真弓は歯痛で正露
丸を歯に詰めていた。それ以外、そんなところに正露丸が落ちている理由は考えられない。
ドアの近くでコンクリートの壁に耳をつける。くぐもった雑音が聞こえた。女性が泣き叫んで
いるような声に、犬が吠える声。そしてその次にはやや高めの男の声が聞こえた。
真弓の声だ!
真弓がやめろと叫んでいた。最初に聞こえた雑音とは違い、それははっきりとした音として
伝わってきていた。その部屋に真弓がいる。間違いない。
俺は鉄パイプを取りに戻るべきかどうかを数秒考え、不用と判断した。ポケットの中に手を
入れ、鎖のついたナイフを確認する。慣れない武器は使うべきではないが、それも敵の反応
次第だ。これから先も素手で勝てる相手ばかりだとはかぎらない。むしろその可能性はかな
り低い。
俺は気合を充填(じゅうてん)し、ドアの前に立った。そして一気にドアを開けた。
目に飛び込んできたのは椅子に縛られた真弓と、その奥に立っている黒服の男、そして俺
を連れてきた件(くだん)のカマキリ男だった。
だが、目よりも早く耳の方がその異常を感知していた。女の泣き叫ぶ声に犬の甘えるよう
な鳴き声。しかし、室内には女もいなければ犬もいない。
真弓が顔を上げて俺の方を見る。男たちも同時に俺を見る。俺はそれらとは正反対に、真
弓の座った椅子の正面に置かれているテレビに目を向けた。その部屋の蛍光灯よりも格段
に眩しい光が画面の中にあり、その中央に裸の女性が映っていた。その手前におそらく大型
犬の範疇に入るであろう犬。斜めの角度ではっきりとは見えなかったが、俺はそれで一つの
事態を悟った。
飯田はやはり敵に捕まっていた。そして、自らを人質に取られていた。
- 238 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:13
-
「筒川さん!」真弓が叫び、椅子ごと立ち上がろうとして身を悶(もだ)えさせた。
「おまえら……何をした! 真弓ちゃんに、飯田さんに、何をしたんだ!」
激昂(げっこう)する俺に、奥にいた男がゆっくりと、身構えながら近づいてくる。カマキリ男
は微動だにせず、まるでショータイムを見るかのように目に薄っすらと笑みを浮かべていた。
黒服男の強さによほど自信があるらしい。たしかに体格もよく、動きにもどっしりとした安定
感がある。だが、俺も昨日までの俺ではなく、十分前までの俺でもない。
男に対して身を構える。拳(こぶし)を握り締め、足幅を肩幅より広く、しっかりと取って重心
を低くする。本能が防禦(ぼうぎょ)を選んでいた。まるでK1ファイターと対峙しているかのよう
に巨大な空気が俺の頭上に圧(の)しかかっていたが、不思議と悲壮感はなかった。
そして音のないゴングが鳴った。
男が俺の二メートル前で止まり、俺以上に腰を低くした。前方に這うかのように左足を低く
出し、それに添わせるかのように左手を前方に差し出し、右手は頭部の後ろで天を支えるか
のように上を向いていた。それが何かということなら考えるまでもない。実際に見たことはな
いが、映画でなら何度もある。カンフー、あるいは中国拳法と呼んでもいい。
「シャオウウウウウ!」
奇声を上げて男が飛び跳ねた。俺の目の前で着地すると、いきなり後ろを向いて後ろ蹴り
を放つ。
- 239 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:13
-
俺は両腕を交叉させて防ごうとしたが、意外な攻撃に反応が遅れた。男の足は俺の腹部を
押すように命中し、俺は半歩後ろに下がった。後ろ廻し蹴りではなく単なる後ろ蹴りというとこ
ろはいかにも本場だ。だが、中国武術の基本は一撃必殺ではなく、一連の流れにこそ特徴
がある。男は正面に向き戻ると、すかさずに手拳を繰り出した。
一直線に伸ばした腕が肩を支点にして弧を描くように左右から交互に迫りくる。まるでコン
パスのような中国拳法独特の動きだ。最初の左は立てた腕で防いだが、右は俺の顔の寸前
を紙一重で勢いよく通っていった。風圧が睫毛(まつげ)を撥(は)ね上げ、無意識に手で目を
押さえる。その瞬間、男の躰が一気に沈んだかと思うと、次にはふっと跳躍した。
俺は天井を見ていた。見たくて見たのではなく、気づいた時には顔が上を向いており、その
まま後ろに倒れ、置いてあった平均台のような物体に後ろ向きにしなだれかかっていた。そ
の直後に衝撃が遅れて伝わった。顎、首、頭、そして舌。
何が起きたのかわからなかった。男は真上に飛んだ。あの間合いで蹴り――それも飛び
蹴りではなく跳ね上げだ――を出して、どうやったら顎にヒットするというのか。だが、男の蹴
り以外には考えられなかった。たぶん二段蹴りだろう。かろうじて見えたのは一段目の蹴り
だったが、その蹴りに隠れるように二段目の蹴りが続いたのだ。そして見えない二段目の蹴
りが俺の顎にヒットした。顎に痛みが疾(はし)り、突然の衝撃で首の筋が伸び、さらに後ろに
倒れて頭を打ち、その時に舌を噛んだのだ。
先ほどまでの戦闘意欲はすっかり消え失せていた。男は餘裕(よゆう)を示すためか、独特
の構えのまま重心を前の足、後ろの足というように交互に移し、躰を揺らしていた。ステテコ
パンツをはいていたら、きっとヤンガスにしか見えなかったことだろう。
- 240 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:14
-
椅子に縛られている真弓が何かをいおうとして口をモグモグさせていた。衰勢が明らかすぎ
てかける言葉が見つからなかったのだろう。その間にもテレビからは股間を刺戟(しげき)す
るような強烈な抵抗の声が聞こえてきていた。飯田は犬に犯されていた。
「ナニだかわかりますか?」
弱者を軽蔑するような目をカマキリ男が俺の方へ向けた。
「何のことだ」
「その犬です。イイ犬でしょう。特別な犬なのですよ」
「ふざけんな」
「お気に召しませんか? アンドロズーン。聞いたことはないでしょうね。人間との性行為を調
教されたアニマルのことをソウ呼ぶのです。レンタル料は高額ですが、ソレでも有閑マダムに
人気でしてね」
そんな世界があるということくらいは俺だって知っている。だが、そんな呼称を知りたいと思
ったことなんて一度もないし、それを拷問に用いるような連中の言葉なんて聞きたくもない。
俺は平均台に手をかけて立とうとしたが、肘を置くだけですでに全ての力を失っていた。カ
マキリ男はそんな俺を見て、黒服の男に戦闘が終結したことを手振りで示し、何やら中国語
で命令を下して部屋の外に出した。たぶん、俺がどうやって監禁を逃れたのか、それを確認
させに行かせたのだろう。俺が脱糞したこともそれでばれるが、もはや恥も外聞もなかった。
俺が生きて外の空気を吸うことはなく、その意思もほとんど残っていなかった。
- 241 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:14
-
カマキリ男は機嫌がいいのか、俺を無視してその倫理に反した犬のことについて流暢な日
本語で説明を続けた。俺はその言葉を何も聞かないことにした。だが、そうすればするほど、
俺の股間は最期の生を楽しませてくれといわんばかりに膨らんでいた。倒れている場所的に
テレビの画面こそ見えなかったが、飯田のしくしくと泣く声と、たまに漏れる意志とは別の声、
そして犬のくーんという甘えた鳴き声が、俺を江戸川乱歩のエロチック譚(たん)を初めて読
んだ小学生のような気分にさせていた。たぶん真弓も俺と同じなのだろう。真弓はじっと下を
向いたまま目を閉じていた。
一分か三分か五分か、時間が経っても黒服の男は戻ってこなかった。早く戻ってきて俺を
始末してほしかったが、確認ではなく階下にでも向ったのか、倒れているであろう男の救護で
もしているのか、待つだけの時間と乱歩調の卑猥な声だけが流れていた。
ふと真弓が顔を上げた。それと同時にテレビの声が止まった。しくしくという泣き声が聞こえ
なくなり、犬の声だけが残った。そして突然の大声。飯田がやだ、やだ、いやだ、と震える声
で叫んでいた。真弓が目をどんぐりのように大きく開けたまま、石化したかのようにまばたき
をしなくなった。
「本番ですよ。もちろん、コレまでも本番でしたが」と、カマキリ男が冗談を口にする。
飯田がきゃーーーー、と叫んだ。お願い、お願い、と懇願した。最後の最後まで飯田は抵抗
をやめなかった。
- 242 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:14
-
俺は動いた。興味ではない。真弓が目をそらさずにそれを見ているように、俺にもそれを見
守る責任がある。タクシーに乗って逃げた晩、俺が飯田を帰さずに三人で逃げていたら、飯
田はそんな悲惨な目に遭うことはなかった。俺は事態を甘く見すぎていた。部屋を爆破され、
誰よりもそれが深刻なのだとわかっていたのに、俺は自分以外を見捨てたのだ。そして自分
だけが巻き添えを喰ったのだと、怒りにも似た心境を心に隠し持っていた。
ハイハイのような格好でテレビの横まで進み、さらに前に進む。学生の一人暮らしの部屋に
あるような18インチほどのテレビデオの画面が斜めに見え、俺はさらに進んで真弓の横まで
きた。
飯田はでっかいベッドの上にいた。両手両足に黒皮の手錠のような器具がつけられ、チェ
ーンが四隅の手すりのポールに伸びていた。全裸で、小ぶりだが形のいい乳房や薄い陰毛
に隠れたやや黒ずんだ性器がはっきりと映っていた。ベッドの右脇に舌を出してハアハアと
荒い息を吐く大型犬が座り、ベッドの奥側に蝶のマスクで目を隠した男の姿があった。男は
片手に注射針を持ち、飯田の腕に打とうとしていた。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
突然、真弓が叫び、立ち上がろうとした。だが、両手は椅子の後ろ側にしっかりと結びつけ
られており、中腰くらいまでは立ち上がったものの、すぐにバランスを崩して横に倒れ込んだ。
「ビデオに向って叫んでも、意味はありませんよ」
カマキリ男が呆れた口調でいった。たしかに、冷静に見ればそうかもしれない。だが、この
状況下で冷静でいられるような人間に、俺はけっしてなりたいとは思わない!
- 243 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:14
-
その瞬間、俺の頭の中でも何かがブチンと切れた。はっきりと音がした。
「うおおおおおおおおおお!!!」
俺も叫んでいた。そしてテレビに向って突進していた。電源を切るんじゃない。そのテレビを
まるごとぶっ壊してやるのだ! そうする以外に俺たちに救いはない!
俺はまるで内野安打を執念で獲得しようと一塁ベースにヘッドスライディングをする打者走
者のようにテレビに向って飛び込んだ。
だが、俺は前にではなく真横に吹っ飛んでいた。俺の動きを察したカマキリ男が、矢のよう
な速さで駆け寄り、横から蹴り飛ばしたのだ。俺はくるくると回転してドアに頭を打ちつけた。
だが、すぐに立ち上がると、またもやテレビに突進した。
男の蹴りがくる。それを掬(すく)い取った。そのままの流れで転がす。が、手にその感触が
なかった。カマキリ男は取られたと察した瞬間に足を引っ込め、後ろを向いて逆側の足の踵
(かかと)を俺の横っ面に叩き込んでいた。視界が点滅し、俺はまたもや吹っ飛んでいた。鼻
血が垂れているのがわかったが、血の臭いにも味にも、もはや新鮮な驚きはなかった。
カマキリ男は黒服の男よりも格段に強かった。軍隊経験者かもしれないと思った。だが、そ
んなことは思うだけ無駄なことだった。飯田の声は聞こえなくなっていた。息遣いだけが聞こ
えてきていた。そして、その息遣いはこれまで聞いたどんな女性の声よりも甘美に溢れてい
た。
どれだけ抵抗したのか自分でもわからなかった。真弓も椅子を引きずりながら懸命にテレ
ビに近づこうとしていた。しかし、俺たちはテレビを壊すことも電源を切ることもできなかった。
俺は沈黙した。そして、俺は自分がいつのまにか射精していたことにようやく気づいた。
- 244 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/10(月) 19:14
-
つづく
- 245 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/11(火) 01:25
- すっ凄い事になってきたな!
- 246 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:20
-
A-13
視界がぼんやりとしていた。メガネのレンズにひびや傷はなかったが、ところどころに茶色
い染みがあった。雫(しずく)が垂れた跡のようであったり、しぶきのまま円形に固まっていた
りしたが、どれも乾いた血だった。フレームは歪(いびつ)に曲っていて、レンズの位置や角度
や向きなどが狂い、左右のバランスや遠近感が乱れていた。ただし、はっきりとした像が結
べないのは、レンズのせいだけではなく脳にかなりのダメージがあったせいだ。目はテレビを
睨んでいるはずなのに、揺れる金魚鉢を通して見ているかのようにぐにゃぐにゃと曲がりくね
って見え、その箱の中で何が行われているのか、視覚だけでは感知できなかった。
だが、それによって俺の重責感が軽くなるかといえば、けっしてそんなことはなかった。目は
正常でなくとも、聴覚だけははっきりとしていて、聞き取った音を脳内で絶えずイメージに変換
していた。たぶん覚醒剤でも打たれたのだろう、飯田は気が狂ったような声を出していた。変
態犬を受け入れたのみならず、それを喜んでいるかのような狂人の声で、さらに自分からお
ねだりの言葉さえ口にしていた。
鎖のジャラジャラという音がして、飯田の手錠が外されたのだとわかった。それからうふふ
だかえへへだか、よだれの垂れていそうな声が聞こえ、その声がくぐもる。水の撥(は)ねるよ
うな音や何かを口内でもてあそんでいるような音がそれに続く。飯田が何をしているのか考え
たくもないが、愚かなことに頭にはその光景が浮かんで、まぶたの裏に焼きついたかのよう
に消えようとしない。
- 247 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:21
-
覚醒剤ごときでそこまで豹変することはないはずだと思った。性交時の覚醒剤は単に快感
を増幅させるだけで、突然別人になったり積極的になったりはしない。だとすると、飯田は現
実逃避によって自分の土台となる精神を守ろうとしたのだろう。虐待や強姦被害などではよく
ある話だと聞いたことがある。無理やりやられているのではなく、望んでやられているのだと
思い込むことで、そのショックはいくぶん和らぐ。ただし、それはその時だけのことであり、より
深い傷を被害者にもたらすことにもなる。真弓も保田も、飯田が別人のように青ざめていたと
いっていた。
俺はもうやることもなく、立ち上がる気力さえ失せ、うつ伏せで壁を向いたままショーの音を
ただただ聞いていた。俺でさえ絶望しか感じないのだから、飯田のことを想っている真弓はな
おさらだろう。真弓ももう、倒れたまま立ち上がろうとはしなくなっていた。
いっそのことテレビにかじりつき、率先して飯田の情事を眺めてやろうか、なんてことを思う。
この場でチンコを出し、狂った飯田のようにこちらもしごけば、絶望気分も少しは楽になること
だろう。真弓にもそうさせることができれば、俺たちはもっと楽に死ねる。
しかし、二人の男が揃いも揃って現実逃避をするわけにはいかない。たとえ死の寸前まで
打ちのめされていたとしても、男は一人きりにならないかぎり、最期まで強がるものだ。それ
に、俺はどのみちすでに射精を済ませている。
- 248 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:21
-
唐突にガラスの割れる音がした。しかし飯田の狂ったような声はあいかわらずだ。足音が
し、鋼鉄のドアが開いたような音がし、また足音がし、怒鳴る声がし、その間もやはり飯田は
狂い続けている。
いや、待て――。脳に命令を出す。酸素を吸え。そしてよく考えろ。
深呼吸をし、ゆっくりとまばたきを繰り返す。
違う――。テレビから聞こえる音じゃない。現実だ!
俺は躰を回転させた。カマキリ男の姿はなかった。ただ卑猥な光景を流し続けるテレビが
あり、椅子ごと倒れた真弓の背中が見える。動きを止めていた真弓の背中と手首がかすか
に揺れ動いていた。何かの異変を真弓も感じたらしい。
何が起きているのかはわからないが、部屋に誰もいないことは確認できた。急に気力が戻
ってくる。ゆらゆらと揺れてはいるが、視界も元に戻ろうとし始めている。俺はポケットの中を
探り、ナイフを取り出した。床を這いずって真弓に近づき、真弓の手首を縛っているロープを
切る。
次の瞬間、真弓はよろよろと立ち上がると、テレビに向って突進した。自身の躰ごと体当た
りを喰らわそうとし、垣添(かきぞえ)関のごとく、闘牛のように頭から突っ込んだのだ。台の
上に載っていたテレビは奥の壁にぶつかり、反動で手前に倒れた。しかし画面は下を向きな
がらも、なお飯田の声を止めようとはしない。
顎(あご)を打ちつけたらしく、真弓がうううっと唸(うな)った。その声がどこか色っぽく感じら
れたのは、俺が飯田の痴態を見て聞いて、頭の中がアブノーマル色に染まっていたせいだろ
う。あるいは真弓も自然な反応として、俺と同じような心境になっていたのかもしれない。
- 249 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:21
-
その真弓が両手でテレビを薙(な)ぎ払う。テレビは横向きに床に落ち、その衝撃であっさり
と壊れた。プチンプチンという奇妙な音がして、それと連動するかのように飯田の声が途切れ
てはつき、ついては途切れ、最後にはザーッという砂嵐の音に変わった。その砂嵐も、プチン
プチンという音とともについたり消えたりする。
真弓は俺には目もくれずにテレビをいじっていた。たぶん中のビデオテープを取り出そうと
しているのだろうが、壊れたせいでうまく取り出せないでいるようだった。
息を整えて立ち上がり、ふらふらになりながら真弓の横に向う。気配に気づいたのか、真弓
がこちらを振り向く。だが、俺のことを認識できなかったのか、真弓は俺に対しても体当たり
を喰らわせた。
飯田の秘密を知った俺も敵だということなのだろうか。偽の真弓や黒服の男やカマキリ男
にやられたことよりも、その体当たりの方が俺には衝撃だった。どうすればいい。こういう時
にはどうすればいいのだ。
ふたたび立ち上がり、真弓に声をかける。真弓は俺の方を見もせず、取り出しボタンを押
してはテレビを叩くということを一心不乱に繰り返していた。
まるで子供のようだった。いや、よく考えれば、真弓はそれ以前から子供のようだった。容
姿のことではない。真弓は俺以上に人間関係が苦手っぽく、加藤との間柄だってどこか子供
じみていた。俺との会話も表面上は普通にできていたが、どこかに普通の会話風に会話して
いるという演出じみた感触があった。自閉症だとかそういうことではないが、何か欠陥があり、
それが今、俺の目の前で露出しているのかもしれないと思えた。特殊な能力を持つ人間は通
常の能力に異常を持っている場合が多い。よく知られている話だ。
- 250 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:21
-
俺は真弓の横を避けるように移動し、壁ぎわからテレビを挟んで真弓に向き合った。手を
掴んで叩くのを止めさせる。だが、どこにそんな力があるのか、真弓は俺の手を振り払い、ま
たもテレビをがむしゃらに叩き出した。
気が狂っている。真弓もやはり、現実逃避しなければ耐えられなかったのだ。
俺はふーっと息を一つ吐いてから、おもむろに真弓の頬に平手をかました。一瞬で真弓の
動きが止まり、まるで斜視のような焦点の合っていない目が俺を向く。
「落ち着け。冷静になれ。叩いたってどうにもならん」
「筒、川、さん……」
真弓が小声でつぶやき、力の入っていた両肩をすっと下ろした。どうやら正気に戻ったらし
い。
俺は真弓の手を両手で包み込むように握り、目を見ながら話しかけた。「逃げるのが先だ。
どうせビデオはダビングしてある」
それに対し真弓は首を横に振った。「後でダビングするって。そういってた。知ってること全
部いわないと、ダビングして流すって」
「ほんとか?」俺が訊き返すと、真弓は仔犬のような声で、うん、と返事をした。
飯田が敵に捕まったのは昨日以前だ。昨日の午前中だったとしても、ダビングする時間は
充分にあった。しかし、女性タレントをレイプし、覚醒剤まで打つシーンがあるようなビデオを
販売目的にすることはないはずで、脅迫目的なら一つあれば――いや、撮影したとわからせ
るだけでも――事足りる。それに誤って流通して事件が発覚するようなことになれば、困るの
は敵の方だ。
- 251 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:21
-
俺はその是非を考えながら、テレビデオの取り出しボタンを押した。真弓がやった時と同様
に反応はなかった。
「あきらめて逃げるべきだ」
俺は答えを出した。だが、真弓は首を横に大きく振り、泣いているのか怒っているのかわか
らないような表情で俺を見た。
思いつめた女がよくそういう顔をする。ただし、それは真弓が少女のようだからということで
はない。男とそういう状況にはなりえないだけの話だ。女から別れを切り出された時の俺も、
もしかするとそういう顔をするのかもしれない。俺には思い出したくない過去がいくらでもある。
「敵がくる! 何があったか知らんが、今なら逃げれる! 死んだら意味がない!」
「やだっ! やだっ!」
髪を振り乱し、首を振りつつ真弓が大声で叫んだ。生きるよりも、そのビデオテープを抹殺
することの方を選びたいと、全身で強く主張していた。
「大人になれ! もう俺たちがどうこうしてもどうにもならんことだ! 警察に行って全てを話す
しかない! 死んだら飯田さんだって悲しむ!」
真弓はそれでも首を横に振り続けていたが、最後の言葉で動きを止めた。だが、その目は
俺に殺意を向けていた。俺を殺してでもビデオテープを消滅させるつもりかもしれない。
その狂人的な意志に俺は折れた。好きな女を守れなくて、男とは呼べないのだ。
「わかった。でも、叩いたところでどうにもならん。テレビごと持って逃げるか、燃やすか」
- 252 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:22
-
瞬時にハッとした。俺は自分の言葉の中に道を見つけていた。燃やすものなら持っている。
勝手に滑って転んで頭を打った男が持っていたマッチだ。ズボンの後ろのポケットにある。
俺はそれを取り出し、真弓に示した。「これで燃やす」
真弓が無言でうなづき、俺はマッチを擦った。ビデオの挿入口を開き、その中に火のついた
マッチ棒を入れる。だが、火は燃え広がることなくすぐに消えた。冷静であれば予想できたこ
とだ。
「くそっ、どうすれば」
「わからない。新聞紙か何か、燃えるもの――」
周りを見たが何もなかった。目をつぶって考える。隣の部屋に小麦粉があった。食材もあっ
た。だが、そんなものは燃えない。ダンボール箱があった。それなら燃える。だが、隣の部屋
に行って無事に戻ってこれるかどうかがわからない。そういえば偽の真弓はどうしているのか。
周りの状況がまったくわからない以上、隣の部屋に行くのは危険な賭けになる。どうすればい
い。どうすれば……。
考えれば考えるだけ頭が混乱してくる。危険物のある部屋が頭に浮かんだが、それは隣の
部屋に行く以上に危険で、おまけに鍵がかかっていたはずだ。その次には昔読んだ漫画に
あった方法が頭に浮かんだ。ザーッという砂嵐の音と、プチンプチンというテレビの故障音の
せいだ。小麦粉を空中に舞い上がらせ、火花を与えることで爆発を起こす。だが、そんなこと
をすればこちらも死ぬだろうし、うまく爆発するともかぎらないし、どのみち小麦粉は隣の部屋
だ。
- 253 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:22
-
真弓は部屋の中を歩き回っていた。自分の手首を縛っていたナイロンロープを俺に見せ、
次にパイプ椅子のクッションを示した。どちらも融(と)けるだけで燃えはしない。
俺もポケットの中にハンカチがあることを思い出したが、マッチの火程度であればせいぜい
焦げるくらいだろう。火のついたタバコの灰を絨毯に落としたところで、そう簡単には燃えない
のと同じだ。メガネのフレームを直し、レンズを拭いてからハンカチをしまう。
立ち上がって部屋を見回す。燃えるものでなくてもいい。ドライバーでもいいし、鉄パイプで
もいい。とにかくビデオをどうにかして取り出したいのだ。
しかし何もなかった。部屋は殺風景で、木の棚には旧型の電熱器のような器具や使い古し
らしき電池の山や殺虫剤などが置いてあるだけだった。
「あっ!」
俺は無意識に声を出していた。目の前にゴキジェットプロがあった。一人暮らしをするように
なって以来、お世話になっている生活必需品だ。噴射の威力は抜群で、生命力の強いゴキブ
リも一撃で殺す。だが、そんなことはいい。問題はそれが可燃性だということだ!
「これだっ!」
俺はそのスプレー罐を手に取り、真弓に示した。
「殺虫剤?」
「火炎放射器だ!」
高校時代、合宿で山奥のキャンプ場に行ったことがある。そこの炊事場に大量発生してい
た蝿に対して、もっとも効果があったのが殺虫剤ではなく、その殺虫剤を使った火炎放射器
もどきだった。俺はただ見ていただけだったが、その威力ならはっきりと覚えている。
俺はテレビに向かい、持っていたナイフを挿入口に挿し込み、口が開いた状態にした。そこ
に火をつけたマッチ棒を入れ、ゴキジェットプロを噴射する。
- 254 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:22
-
ぶおうっと炎が上がった。が、炎は一瞬立ち昇っただけですぐに消えた。
「駄目か……」
合宿の時はライターを噴射口に当てていて、それで火を吐き続けていたんだったか。マッチ
だと火を持続させることは難しい。しかし、これくらいであきらめるわけにもいかない。今度は
火のついたマッチ棒を噴射口のそばに持ち、そこにゴキジェットプロを噴射する。炎が火炎放
射器のように前方に噴き出したが、予想した通り、持続はしなかった。
後少しなのに、それができない。燃やさなくてもテープを融(と)かせばいいのだが、テープ
にはプラスチックの殻があり、中身を大切に守っている。マッチの火ではその殻を突破できな
い。
「駄目だっ」
同じ言葉だったが、今度は断定形になっていた。何度やっても同じことだ。マッチを最後ま
で使い切っても効果は薄いだろう。そんな時間があるとも思えない。カマキリ男がいつ戻って
くるかわからないのだ。そういえばマッチ売りの少女も、結末は凍死だったか……。
焦りだけがつのり、俺は無意識のうちにナイフで挿入口をこじ開けようとしていた。むちゃく
ちゃだが、中に直接炎を当てることができれば、持続はそれほど必要ない。しかし、てこの原
理を用いたものの、プラスチックが少し割れた程度で、特に意味はなかった。
「無理だ……」断念するようにつぶやいた俺に、真弓が小さな錆びた金属を差し出した。
「罐切り?」
「棚にありました」ものすごい早口で真弓が答えた。
「ごめん。せっかくだけど、あまり意味は――」
「そうじゃなくて。これで中身をこぼせば」
- 255 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:22
-
早口の理由がわかった。それは最後の手段であり、確実な手段でもあったのだ。
罐の中は気体ではなく液体だ。それをこぼし、その液体に引火させれば炎は持続する。中
のテープも融(と)ける。
俺は早速、罐切りでゴキジェットプロの底に穴を開けた。缶詰のようにはいかなかったが、
二箇所に開ければ充分だ。砂嵐の画面を上向きにし、挿入口に殺虫剤の液体をこぼし入れ
る。床に滴り落ちてくるほどにこぼしたところで、目で真弓に尋ねる。
真弓がうなづき、俺もうなづいた。
マッチを擦り、挿入口に落とす。ぼわっと炎が上がり、危うく顔を焦がすところだったが、作
戦は成功だ。
しかし、喜んでいる餘裕(よゆう)はなかった。俺は最初、それを炎の音だと思った。ところ
が、真弓の顔はそちらではなくドアの方を向いていた。音はそちらからしたのだ。そして、二
度目の音で俺はようやくそれが銃声だと気づいた
唖然(あぜん)とした。どう対応すればいいのかがわからず、それ以上に状況が理解できな
い。不思議だったのは、その音がこの部屋とは別のところで響いたということだ。いったい何
が起きているんだ。何が。
男の怒鳴り声がして、またもや発砲音が響く。
俺はようやくガラスが割れる音がしたことを思い出した。それでカマキリ男は部屋を出て行
った。考えられるのは侵入者だ。警察か、あるいは別の何者かか、とにかく俺たちを助けに
きた人間がいる――希望的観測だ!
- 256 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:22
-
俺は真弓を下がらせ、恐る恐る開いたドアから廊下を覗き見た。廊下に人はいなかったが、
階段のところに人がいるらしく、数人の声が聞こえた。銃声はそこではなく、隣の部屋の中か
ら発せられている様子だった。
「筒川さん、いったい何が?」
「わからんが、隣で銃撃戦だ」振り向いて答える。
「どうすれば?」
「相手が拳銃じゃどうしようもない。見守るしかない」
そう。見守るしか方法はない。だが侵入者が何者なのか、それすらわからないのでは希望
以上に不安が大きくなる。
「そのドアは?」と、俺は部屋の奥にあったドアを指差した。
「わかりません」
建物の構造を頭に浮かべる。廊下の長さやこれまで通ってきた部屋の位置や広さを考える
と、向う側の廊下にあった鍵がかかっていた部屋に通じているはずだ。
俺はそのドアを開けた。中は会議室らしかったが、簡素なテーブルと椅子とがあるだけで他
には何もなかった。照明のスイッチがどこにあるかわからず暗かったが、奥にドアがあるのが
見えた。
「様子を見てくる。真弓ちゃんは――」
「ボクも行きます」俺の言葉を待たずに真弓が答えた。勢いに負けてうなづく。
真弓を連れて暗い部屋を通り、ドアの前まで進む。鍵はドアノブについているタイプではな
く、頑丈な鉄の棒を横に通すタイプだった。その棒を外し、ドアを開ける。部屋から見て内開
きだ。
- 257 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:23
-
頭を出して廊下を覗く。二人ほど男が倒れていた。そして奥に鉄パイプを持ってしゃがんで
いる男が一人。俺が偽の真弓と闘った部屋を窺っている。
その男の顔に見覚えがあった。いや、それに気づいたのは真弓の方が先だった。真弓も
俺と同じように顔半分を出して廊下を覗いていた。「あれ、シイバっていう人です!」
その声に椎葉がこちらを向いた。思わず顔を引っ込める。だが、その必要はなかったかも
しれない。椎葉と名乗った男が敵か味方かはわからないが、そこにいる中国人たちと対峙し
ていることは間違いない。共通の敵ということであれば、椎葉は俺たちの味方になる。
「あの男に頼るしかなさそうだな」
「味方ですよね?」真弓がすがるようにいった。
ああ、と答えると、真弓はようやく緊張の解けた表情を浮かべ、俺の顔を見た。「筒川さん、
すごい顔してますよ。目の回りとか。鼻血も出てるし」
「自分の顔が変だってことくらい、いわれなくても知ってる」
ようやく真弓が笑顔を見せた。飯田のビデオも燃えて、いつ死んでもいいのかもしれない。
「どうする? 掩護(えんご)するか?」
「武器は?」
「鉄パイプくらいしかない。後は小麦粉くらいだ」
「粉塵爆発……」
「知ってるのか」
「うん。でも、やり方は知らない」
- 258 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:23
-
小麦粉で粉塵爆発を起こすのはたぶん無理だろう。だとすると、やはり鉄パイプか。
俺はふたたび廊下に顔を出し、男に声をかけた。
「あんた、何者だ」
椎葉がこちらを向き、にっと笑った。「助けにきた。といっても、様子を見にきて失敗したって
感じだがな」
「どうしてここがわかった」
「あいつらを尾(つ)けただけだ。そしたら君が運ばれてきた。苦労したぜ。下には見張りがい
るし、この歳で壁をよじ登ることになるとはな。隣のビルとの隙間が狭かったからまだましだっ
たが」
南船橋のラブホテルで拾った名刺にはたしか、インストラクター、クライミングガイドとあった。
それが本当なら、それくらいの藝当(げいとう)はできて当然かもしれない。
「信じていいのか」
「ああ。かまわん。ただし、生きて外に出られるかどうかは別の問題だ。こいつら、正真正銘
のエージェントらしいからな」
「指示を出してくれ。俺たちはどうすればいい」
「じっとしてろ。相手が銃じゃ、オレだって太刀打ちできん。そこに転がってる連中は丸腰だっ
たが。何だったらそいつらの懐(ふところ)見てくれ。銃が入ってるかもしれんぞ」
冗談なのか本気なのかがわからないような話し方だ。見たところ四十前後らしいが、そのせ
いで俺たちのことを子供と見なしているのかもしれない。たしかに真弓は外見が子供だし、俺
も内面は子供のまま大人になりきれていない。
- 259 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:23
-
いわれたことを依頼と判断し、倒れている二人の男の所持品を探る。どちらにも拳銃はな
かった。だとすると、やはり鉄パイプが必要だ。
俺は目の前の部屋――監禁されていた部屋の隣の部屋だ――に入り、鉄パイプを手に取
った。ほんの一時間前にもこうやってここで鉄パイプを手にした。だが、それから半日は経っ
ているような気がするし、二十分くらいのような気もする。危機に直面した時、人は時間の流
れとは無縁の空間に放り出されるものらしい。
「真弓ちゃん、持てる?」
「重いから無理だと思う。こっちの水道管の方なら大丈夫かな」
そういって真弓が水道管らしき細目のパイプを手に取った。そんなものがあることに俺はま
ったく気づいていなかった。
「これか。これなら、たしかに使えるかな」
そのパイプは軽かった。それでいて硬い。装備するにはもってこいだ。
真弓が一本、俺は二本のパイプを左右の手に持ち、部屋を出て椎葉のそばに進んだ。
「闘うつもりか」
「一応、ここで二人ほど倒してますよ。素手で」
水道管を手にした時、俺は自分が監禁されていた部屋も覗いている。ガラスが飛び散って
いたのは、たぶん椎葉が窓を割って侵入したということなのだろう。糞便で滑った男はまだ気
絶したままだった。死んでいるとすれば気分は悪いが、俺が殺したわけではなく、過失でもな
い。男は勝手に死んだのだ。そう思うより他にない。
- 260 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:23
-
「そっちの部屋はどうなってる。奥に通じてるのか」
「奥に廊下があります。階段に何人か敵がいるみたいでした」
「部屋の中は二人だ。銃を持ってるのが一人、頭を抱えてうずくまってるのが一人だ」
銃を持っているのはカマキリ男、うずくまっているのは偽の真弓だろう。
俺をぶちのめした中国拳法使いはどこにいるのかと思ったが、その廊下で倒れている一人
がそれなのだと気づく。思い出して身震いする。足先で蹴り上げられた顎には今でも自分の
顎ではないような違和感があった。目の前を空振りしたその直前の拳も、風圧がメガネの下
から上へと新幹線のように吹き流れるほど凄かった。その男を倒したのであれば、椎葉とい
う男はかなりの猛者(もさ)だ。
「裏から挟み撃ちと行きたいところだが、そういうわけにもいかんな。階段にいるって連中を
何とかできるか」
「わからないけど、やってみます」答えたのは真弓だった。
椎葉が困ったような表情を浮かべ、しかし真弓はもう廊下からそちらの部屋に向っていると
ころだった。俺もそれを追う。
暗い部屋から明るい部屋へ。ゴキジェットプロの液体はまだ燃えていて、プラスチックの焼
けた臭いと黒っぽい煙とが部屋の空気を汚していた。火災報知器が鳴れば外部にも異変を
知らせることができるが、建物のどこにもそんな設備はなかった。警察とともに消防署にも通
報すべきかもしれない。
「うまくいったみたいだな。中のテープはどろどろだ」
真弓がこくりとうなづき、それから奥の廊下に顔を向けた。真弓の前に立ち、ふたたび廊下
に顔を出す。誰もいない。
- 261 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:23
-
ゆっくりと出て、慎重に廊下を進む。水道管のパイプは両手にぶら下げている。真弓には
待っているように手振りで伝えたのだが、やはりついて来ていた。薙刀(なぎなた)のようにで
はなく、竹刀(しない)のように水道管を両手で正面に構えていた。そういえば短期間だが剣
術サークルにいたといっていた。巻き込みたくはないが、心強いのもたしかだ。
ドアのところまできて、中の様子を窺う前に階段に神経を向ける。先ほどまでいた人間たち
は階下に退いたのか、気配は感じられなかった。持久戦と予想してそのための準備をしてい
るのかもしれない。銃声も最初の三、四発だけで、それからは一度も聞こえていない。ただ、
銃弾がなくなったというわけではないだろう。侵入者が何者なのかを窺っているのだ。
部屋の中を覗く。積んである小麦粉の袋の山の手前に、こちらに背を向けたカマキリ男が
いた。向うのドアの方に銃を向けている。偽の真弓はどこにいるのかよくわからない。どこか
の陰にいるらしい。
隙だらけだ、と思った。カマキリ男は侵入者にばかり注意を向けている。こちらに敵がいる
とは思ってもいないらしい。味方の振りをして堂堂と近づき、パイプで強打する。簡単にでき
そうな気がした。
だが、敵は拳銃を持っている。こちらに気づけば胴体に穴が開く。さっきまでいつ死んでも
おかしくない状態にいたが、思わぬ味方が登場したせいで、生への未練は二倍、三倍に膨ら
んでいた。何とかして生き延びたい。そのためにはどうすべきか。
突如、階段を上ってくる足音が聞こえた。一人ではなく二人か、三人か。ジャラジャラという
音がして、思わず全身が戦慄する。それは昔、家の台所の入口にあったすだれの音に似て
いた。穴の開いた丸い木の玉が紐に通され、その紐が何本も上から吊り下がっていて、くぐ
るたびに木の玉が音を立てた。だが、戦慄したのは実家を思い出したからではない。実際に
聞いたことなどあるはずがないのに、頭に浮かんだのは真っ黒い機関銃、マシンガンだった。
ジャラジャラという音は、肩にぶら下げた連なった弾丸の帯。敵はスタローンだ。
- 262 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:23
-
後ろを振り向き、真弓に向って叫んだ。「逃げろ! マシンガンだ!」
いいながら、俺は後ろではなく前に進んだ。横目に部屋の中のカマキリ男がこちらを振り向
こうとしているのが見えたが、その顔が見える時には俺はもうドアの前を通過していた。その
まま走って階段の枠をくぐり、踊り場で向きを変えてこちらに向って登ってきていた三人の男
の姿を捉える。先頭の男はやはり胸の前にマシンガンを抱えていた。
恐怖。だが、それ以上に勇気があった。
俺は走った勢いのまま、走り幅跳びの選手のように床を踏み切り、前方に飛んだ。そして、
一度はやってみたいと思っていた飛び蹴りの体勢を取った。右足を前に突き出し、左足は膝
を曲げて胸の方へ寄せる。
右足が何かを押した。何かを突き押し、止まることなく奥へ、下へ。慣性と重力とに乗り、障
碍物(しょうがいぶつ)を押し込みながら躰が落下していく。着地はできず、何がどうなったの
か、目がくるくると回って天地が逆さまになり、気づいた時には躰の下や横に人間のぶよっと
した感触や服の繊維の感触やプラスチック製なのか、マシンガンの硬い感触などがあった。
両手に持っていた水道管のパイプは右手の方がどこかに消え、左手だけに握っていた。
俺は自分の位置と天地の向きをとっさに確認し、上半身を起こしただけで次の行動に出た。
狭い踊り場で、突然の奇襲に混乱している三人に向って両手でパイプを振り回したのだ。
一度目は一人の顔面に当たり、二度目はもう一人のマシンガンに当たった。三度目は縦に
振り下ろし、マシンガンを抱えた男の脳天を打った。残った一人は最初の一人の下敷きにな
ったまま、立てずにいる。
- 263 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:23
-
「うおおおおおおおおおお!」
跳躍するかのように立ち上がり、パイプをさらに振り回す。一人、二人、そして三人目。
パン。
銃声。
何かが目の前を飛んだのが見えた。見えるのと聞こえるのとは同時のはずだが、俺には音
が先で、それに続いて何かが飛んだように見えた。俺の目の前を銃弾が通りすぎたのだ。
誰だ!
そこにいる三人を見るも、どれも虫の息で拳銃を構えていたりはしない。踊り場から階下を
窺うも、援軍の姿などはない。
俺は振り向いて上階を見上げた。カマキリ男がこちらに銃口を向けていた。だが、それでわ
かった。銃声は威嚇(いかく)だ。こちらに向けて銃弾を撃てば、味方に当たる危険性がある。
だから俺を狙ったわけではない。だが、銃弾は壁に当たって反射する。俺が見たのはきっと
それだったのだろう。俺は一瞬で状況を整理し、すっとしゃがみ込んだ。敵の中にいれば撃
たれることはない。
カマキリ男の表情は逆光で窺い知れなかったが、冷徹な表情でいられるはずはないだろう。
きっと怒りに燃えている。だとすると、次には味方にかまわず俺を狙うかもしれない。
恐怖が最大限にまで膨れ上がった。勇気もまだ残っているが、自分の心境を判断するよう
な餘裕(よゆう)はなくなっていた。
- 264 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:24
-
足元に液体を感じ、床についた手にも何かが触れていた。それは血だった。いつのまにか、
その床の一部に血溜まりができていた。いや、できようとしていた。思わず自分の躰を見る。
俺は撃たれ、もう死んでいるのではないかと、そんなことを思ったりもした。だが違った。血は
倒れている男の胸からこぼれていた。三人目の男だった。銃声が聞こえた時、俺はこの男の
頭に鉄パイプを叩きつける途中で、銃声によってその動きを止めた。だが、壁に当たって跳
ね返った兆弾(ちょうだん)が男に命中していたらしい。
死というものが初めて近くに見えた。それはたぶん、血という目に見える形で俺の前に提示
されたからだろう。吐き気が込み上げ、足が震え、股間は小水を漏らしていた。大便を漏らし
無意識に射精をし小便をも漏らした俺は、もはや人間ではなく動物なのかもしれない。この建
物にいる連中は全員が動物だ。
カマキリ男が拳銃を片手から両手に持ち直し、銃口をふたたび俺に向けた。味方に当てる
ことなく、確実に狙うということなのだろう。
俺は死を意識した。だが、その次の瞬間、カマキリ男は銃弾ではなく、自らの躰を俺に向っ
て飛ばしていた。男の後ろに真弓の姿が見えた。水道管を握り、正眼(せいがん)に構えてい
た。叩いたか突いたかしたのだろう。カマキリ男は鳥人間コンテストに以前あった仮装部門の
参加者のようなしぐさで階段を転げ落ち、俺のいる踊り場の手前で止まった。拳銃を放してし
まったらしく、左右の手に武器はなかった。
俺は男を突き飛ばし、階段を一気に上った。真弓の手を取り、廊下に戻る。椎葉が突き出
したらしく、部屋の前の廊下に偽の真弓が倒れていた。それをまたぎ、部屋に入る。
- 265 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:24
-
「何があった」銃声のことだろう、椎葉が尋ねた。
「階段にいた三人はやっつけた。もう一人も倒れてる。逃げるなら今だと思う」
椎葉が目を見開いて驚きを示した。「君がやったのか?」
俺はどう答えていいかわからなかった。この建物の中には死んでいる男もいる。倒れてい
る男なら何人もいる。俺はそれらに対していっさい責任を取りたくなかった。倒れている連中
のどれだけに俺が関与したのかは関係ない。どいつも俺の糞便で滑って転んで頭を打った
奴と同じだ。勝手に倒れたのだ。それ以外に、俺が今の今までこうして息をしていることを納
得することはできない。
椎葉が廊下に出て階段の様子を窺った。それと同時に遠くの方からサイレンの吹鳴(すい
めい)が聞こえた。誰かが警察に通報したらしい。
椎葉が戻ってくる。だが、それはパトカーのサイレンを聞いたからではなかった。チッと舌打
ち。「くそっ、部屋に入れっ! マシンガン持ってやがる!」
椎葉が部屋に駆け込み、鋼鉄製のドアを閉めた。俺の腕を痺れさせた憎きドアだ。会議室
のドアとは違い、内側から鍵をかけるようにはなっていなかった。椎葉が自分の躰を使ってド
アを押さえ込む。
俺はいわれる前に十キロの米袋ほどの小麦粉の袋をドアの前に運んだ。一つ、二つと運び
始め、五つ、六つとなる頃にはその日の疲労でふらふらになっていた。真弓も袋を運び、ドア
の前に積み上げていく。
それから逆側のドアに向かい、そこには鉄の棒で鍵をかける。これで自ら退路を絶ったこと
になるが、マシンガンとパトカーとを考え合わせると、時間を稼ぐしか方法はない。
- 266 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:24
-
「木登りは得意か?」
ドアを押さえながら唐突に椎葉が尋ねた。向こうからドアを叩くような音が聞こえていた。体
当たりしているらしいが、だとすればカマキリ男ではないだろう。階下から援軍がきたのかも
しれない。
「一応、それなりには」動揺を見せずに答える。
「そっちのお嬢さんは?」
真弓は訂正せず、首を横に振った。
俺も訂正はしなかった。椎葉に尋ね返す。「窓から逃げるってことですか? あっちの部屋
の」
「隣のビルとの隙間は八十センチか、あるいは一メートルか。両手両足を広げてな、こう、少
しずつずらすようにすれば……。もちろん、落ちたらただじゃ済まん」
監禁されていた部屋の窓からは灰色の明かりが射し込んでいた。窓のすぐそこに壁があっ
たとすれば納得がいく。だが、五階だか六階だかの高さだ。全身がぼろぼろでほとんど体力
の残っていない俺にはきつい試練になる。
「警察がくるまでもちませんか?」小麦粉の袋をさらに積みながら尋ねる。
「さっきのサイレンか。ここに向ってるとはかぎらん。オレは通報してないし、君たちも、だろ」
その可能性があることはわかっていた。だが、聞きたい言葉ではなかった。
「ボクの携帯、どこかにあるはずです」と、真弓がいった。「ここにきた時に奪(と)られて。でも
どこにあるかは」
「室内電話は? 会議室ならあったんじゃないか?」
「どこにもなかったです」
- 267 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:24
-
真弓がいうのならどこにもないのだろう。警察への通報は、残念だがあきらめるしかない。
こうしている間にも、敵の数は増えている。この建物にいる敵という敵が集まっているだろう
し、外部から応援を呼んでいるとも考えられる。
と、真弓が思い出したかのように声を上げた。「粉塵爆発!」
ドアの前には大量の小麦粉があった。それを空気中に拡散させ、蛍光灯を割るなりすれば
粉塵爆発を起こすことができる。部屋の明かりを消し、蛍光灯を割って起爆装置とし、敵に照
明をつけさせる。もちろんこちらは奥の廊下に退避する。そうすればこちらに被害が出ること
はない。だが、それには部屋が広すぎる。他の部屋であれば可能だったかもしれない。
「無理だ。広すぎる」
「ちょっと待て。それ、どうやるんだ?」
椎葉が尋ね、俺は簡単に答えた。椎葉は何か思案するような顔つきでそれを黙って聞いて
いた。そして、会議室で部下の企画に助言をするような口調で感想を述べた。
「爆発を起こせなくても、相手にそれとわからせればいい。マシンガンも銃も使えなくなる」
最後の手段が決まった。俺はうなづいた。それによって俺たちが逃げられるかというと、そ
うはいかないだろうが、新たに逃げるチャンスは出てくるかもしれない。どのみち俺たちの脱
出の可能性はそう大きくはないのだ。とにかくやるしかない。やってだめだったら、それはそ
の時にまた考えればいい。少なくとも、今日の俺はそうやって生き延びてきている。
俺たちは残っていた小麦粉の袋を破り、部屋中にばらまき、蹴り上げ、袋で叩いて舞い上
がらせた。メガネがコントのように白くなり、喉も粉っぽくなる。だが、まだ足りない。俺たちが
生き残るにはもっと大量の小麦粉が必要だ。
- 268 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/09/17(月) 23:24
-
つづく
- 269 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/11/07(水) 22:13
- 圧倒的じゃないか
- 270 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2007/11/30(金) 20:55
- 時間が取れるまでしばしお待ちを。。。
- 271 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/01(土) 09:38
- うん。大丈夫だよー待ってる
さてコーヒーでも飲もうかなー
- 272 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2010/07/13(火) 16:18
-
そろそろコーヒー飲み終えたかな。。。
- 273 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2010/07/13(火) 16:18
-
あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
あのビル内で起きたすべての出来事、そしてその前後に起きた数々の出来事が、つい先週のこ
とのようにも、もう半年も前のことのようにもおもえる。
人は生死を賭けて死に物狂いで行動すると、どうやら時間の感覚を喪失するものらしい。
それも当然かもしれない。
自分でもいまだに自分が信じられない。
拳銃、マシンガン、謎の組織、拉致監禁、覚醒剤、犬による凌辱、カンフー遣い、助っ人の乱入、
高所からの脱出、逃走、そして血と、屍と、死……。
まるで素人が書いた滅茶苦茶な筋書きの小説を読まされたかのようだ。そこには「現実」という
一語がどこにもない。
なのに、俺はそれが現実であるということを知っている。おもい出すだけで全身の体温が一気に
十度以上も失われるような感覚に陥る。全身の毛穴という毛穴に鳥肌が立ち、胃が重くなって消化
物も未消化物もまとめて吐き出したくなり、瞬時に尿意と便意をもよおし、そして勃起する。
よく生きていたものだとおもう。
それと同時に、自分はもう死んでいて今は死後の世界をさまよっているのではないか、というよう
な無気力な感慨も浮かんでくる。
生きているのか、死んでいるのか……。
もし死んでいるのなら、俺はそのことに感謝する。
だが、もし生きているのなら、俺にはまだやらなければならないことが残っている。
それは、俺が生きているということをたしかめることだ。
- 274 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/07/13(火) 16:19
-
俺はまず、ブラックのコーヒーを飲んだ。常飲していたタバコが切れ、それをごまかすための措置
だが、悪くはない。そしてまた、真弓もコーヒーの匂いにだけはなんとなく反応を示す。
真弓はソファに座っていた。
一応、普通に動き、普通に食事をし、普通にトイレに行き、普通に寝ることくらいはできたが、そ
れでも俺から見れば、真弓は生死の境をさまよっていた。もちろん、精神的な意味でだ。
今もただソファにもたれ、動くでもなく固まるでもなく、ぼんやりと前を見ている。目の前には部屋
の壁があるだけだから、壁フェチでなければ、おそらく虚脱状態ということになる。
真弓がそうなってしまった原因はかんがえるまでもない。
真弓はあのビデオにショックを受け、ビデオの映像に自分が反応してしまったという事実にもショ
ックを受け、そしてまた、飯田のその後にもショックを受けた。真弓が飯田に想いを寄せていたこと
は、恋愛事情に疎い俺にだってわかるくらいで、そうだとすれば、真弓はかなり厄介な傷を負って
いる。抜け殻になってしまうのも無理はない。
真弓がテーブルに置いたコーヒーになんとなく手を伸ばし、カップになんとなく口をつける。
ブラックが苦手なせいか、飲むときにだけ眉間にしわが寄る。俺がコーヒーで気力を保てている
ように、真弓にも効果があることを期待しているのだが、それ以上にはならない。
俺は別の反応をためしてみることにした。
キッチンの棚にクリーミングパウダーがあったことをおもい出し、それを取りに戻る。
椎葉は潰れかけの山小屋だといっていたが、バンガロー造りの別荘と表現できるような建物で、
調味料なんかも揃っているから、隠れ家にしては快適だ。不便な点があるとすれば、それは買い
物に行くのに数時間かかるということで、俺が大家なら真っ先にタバコと酒の自販機を設置する。
- 275 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/07/13(火) 16:19
-
パウダーを持って戻り、スプーンで粉をすくう。
「入れるよ」
いって、返事を待たずに真弓のカップに落とし入れる。
サラサラと粉が滑り落ちるのを見て、ふと、俺の脳裏にあの言葉が浮かぶ。
「粉塵爆発……」
俺は目を見開いた。
たしかに俺がかんがえたのはその言葉だった。だが、口に出したのは俺ではなく、真弓だった。
「俺も今、同じことをいおうとしてた」
「うまく、いきませんでしたね……」
どこか懐かしむような口調で、俺もその話に同じような口調で乗る。「ああ、だな……」
「もし成功してたら、たぶん、なんとなくだけど、もっと違う道に行ってたんじゃないかって、ほんとに
なんとなくだけど、そんな気がします……」
壁フェチからコーヒーに浮かぶクリーム模様フェチに乗り換えたのか、真弓が視線をカップに落
としたまま、かなり抽象的な文章を呟く。回復の兆しなのか、それとも悪化の兆しか……。
俺はゆっくりとした口調で尋ねた。「その、違う道ってのは、どういう?」
「その、なんていうか、たとえば、自分たちで火山を噴火させたりしたら、それって、すごい自信に
なりませんか?」
急に話が変わり、俺はカップを手にしたまま、足りない脳を回転させる。
「それはつまり、もし成功してたら、あの組織を壊滅させるとか、真正面から決闘を挑むとか、そう
いうことになってたかもってこと?」
- 276 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/07/13(火) 16:19
-
真弓が首を横に振ってから、ようやく俺の顔を見る。「そうじゃなくて……ボクのことです……」
「真弓ちゃんの?」
「だから、ボクがもっと、自分のやりたいことを、やりたいように、もっと衝動的に、自分でもありえな
いっておもえるような、そんな行動を、もし成功してたら、ボクが、取れたかもしれないって」
どこにも話の要点はなかった。だが、なんとなく、いいたいことはわかった。
真弓にとって重要なのは、敵から逃げることでも、敵の組織を壊滅させることでもなく、なぜ自分
たちがこんな騒動に巻き込まれたのか、その理由を知ることでもない。
「飯田さんのことか」
俺の言葉に真弓が頸突く。そしてコーヒーを一口、また一口、さらに一口、合計三回もすすってか
ら、ようやく眠気から解放されたかのように口を開く。
「カオのところに行ってたとおもいます。それで、ボクがカオを護るからって、これからずっと護るか
らって……。つまりは、その……、プロポーズです……」
少女のような顔からプロポーズという言葉が飛び出したことに、俺はかなり面喰っていた。
突拍子もない、というしかない。
だが――たしかに、もし粉塵爆発が成功していたとすれば、俺だって似たような衝動に突き動か
されたかもしれない。あのビル内での恐怖は尋常なものではなかったが、興奮もまた尋常ではな
かった。全身を廻る脈という脈が鳴動し、細胞という細胞が燃え立っていた。小心者の自分が、あ
のときだけは紛れもない男になっていた。もちろん、恐怖に震え、死に怯え、ズボンの中は最低最
悪な状態になってはいたが、それでも、俺は男として敵と闘った。そこでさらに狙い通りに大爆発な
んかが起きようものなら、おそらく俺は、天下布武の旗印を挙げたことだろう。
- 277 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/07/13(火) 16:19
-
俺はコーヒーをすすった。真弓と同じように何度もすすり、カップが空になると、二つのカップを持
ってキッチンに向い、残っていたコーヒーを並並とすべて注ぎ入れ、そうして戻ってからも、やはり
コーヒーをすすった。
真弓もまた、その間なにかを口にするでもなく黙ったままで、やはりコーヒーをすすった。眉間に
しわが寄っているのは、クリーミングパウダーを入れなかったせいだ。
俺はカフェインを摂取する間に仮想の興奮を抑え、天下布武の旗印を降ろした。
「でも、もしあれが成功してたら、おそらく俺たちだって死んでたはずだ」そこで真弓の反応を見て、
なにもないとわかってから続ける。「だから、俺は失敗してよかったとおもってる。失敗はしたけど、
あれで連中は慎重になった。あの部屋の蛍光灯は全部割ってあったし、部屋中が小麦粉だらけ。
その足止めのおかげで逃げられたわけで、成功してたらおそらく逃げ道を失ってた」
真弓が声を出さずに小さく頸突く。さきほどまでと比べて、どことなく全身が小さくなったような気
がする。いつもの抜け殻に戻ってしまったのだとすると、俺の言葉は正しかったのか間違っていた
のか、よくわからなくなる。
俺はさらに続けた。「俺だって本音をいえば、保田のことが心配でたまらないよ。一緒に逃げて
いたらって、何度もそうおもった。でも、現実はもう俺たちではどうにもならないことになってる。飯
田さんだってそうだ。飯田さんはおそらく自分で決めたんだとおもう。だから、結婚を発表した。妊
娠が本当かどうかは知らないけど、本当だとしたら、飯田さんにとってはいい降りどきだったって
ことになるし、嘘だとしても、それも飯田さんの決断したことだ。ニュースで話題になれば、しばらく
は注目が集まる。正体不明の組織がそんな彼女を狙うとはおもえないし、私は降りましたっていう
意思表示にもなってるはずで、逃げるよりも降りる方が何倍も賢明だとおもう」
- 278 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/07/13(火) 16:19
-
飯田の結婚や妊娠の話題は避けたかったが、いつのまにか勝手に言葉が出ていた。
真弓にとっては直視したくない現実に違いなく、抜け殻の理由もそこにある。
俺は大きくため息をついた。真弓は両手でカップを抱えて、そのカップをゆっくりと回し、中の液
体の揺れるさまを見つめている。どうやら新たなフェチに目覚めたらしい。
真弓はなにも答えなかった。しばらくカップを眺めていたが、やがてカップを置き、そのまま立ち
上がると、ふらふらと左右に揺れながら部屋から出て行った。すぐにドアの開閉音がしたから、お
そらく寝室として使っている隣の部屋に向ったのだろう。時刻はまだ昼の三時だが、どうせ俺たち
にできることは寝ることくらいしかなく、しかし寝たところで果報が待っているはずもなく、椎葉もど
うせ数日は帰ってこない。
俺は残りのコーヒーを少量ずつ口に含みながら、自分にできることをかんがえてみた。
しかし、タバコを買いに出ること以外にやれそうなことはなかった。
飯田や保田の安否を確認したいというおもいは強いが、逃亡中の身としてはこれ以上の接触は
避けるのが常道で、こちらの生存は向うにも伝えてある。敵の組織のことは半分プロのような椎葉
が調べていて、俺たちの出る幕ではない。すべての発端となった金印のことにしても、いかに歴史
学科卒とはいえ、俺の研究範囲ではなく手も足も出ない状態だ。
結局、俺は買い物に出ることにした。
食料はまだ二、三日はもちそうだったが、俺の肺はもう新鮮な自然の空気に飽き飽きしていた。
椎葉はかなりの軍資金を置いていったから、一気に十カートンまとめ買いなんてのもありかもしれ
ない。肺癌や肺気腫のリスクなど、間近で銃口を向けられたことに較べたら屁でもなく、そもそも俺
は長生きが許されるほど役に立つ人間ではない。そんなことは大昔から知っている。
- 279 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/07/13(火) 16:20
-
それでは再びコーヒーをどうぞ。。。
- 280 名前:名無飼育さん 投稿日:2011/12/21(水) 19:34
- ショックもありつつすごく面白いです
できたらまた続き読みたいなあ・・・
コーヒー飲みながら待ってます
- 281 名前:リッチワン ◆Rich1NDNCw 投稿日:2012/01/24(火) 02:48
- もう半分近く設定や構想を忘れたけど、
でも初回からすでに最終回だけはがっちり出来てるので、
そこに向けてなんとか続けたいなあという気持ちもなくはないんだけど、
でも小説を年百冊近く読んでた当時と違って、
今じゃせいぜい年三冊ペースなので、
書こうと思い立っても書けないんだよねえ。
前回追加した分がまったく面白くないように。。。
玉乃島が引退しちゃったように。。。
垣添が幕下に陥落してなお負け越しを続けてるように。。。
でもまあ、未だに読んでくれる人がいるというのは嬉しいもので、
検討するだけなら検討してみようかなあと。
ということで、さめたコーヒーでよければ。。。
- 282 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/01/24(火) 07:17
- 続き読みたいです
- 283 名前:名無飼育さん 投稿日:2012/01/24(火) 23:26
- さめたコーヒーじゃなくて冷えたビールが飲みたいです
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